九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
初期ウェッブの社会改革構想 : 進歩・効率・自由と
「コレクティヴィズム」
江里口, 拓
九州大学経済学研究科経済学専攻
https://doi.org/10.11501/3163925
出版情報:Kyushu University, 1999, 博士(経済学), 課程博士 バージョン:
権利関係:
学位請求論文
初期ウェッブの社会改革構想 一進歩・効率'自由と「コレクティヴイズムJ-
付加 門川門田剛主 }判仏
1999年3月
、みミL
兵 問題の所在-先行研究をふまえて-
第1章
1
9世紀後半のイギリス社会一個人主義からコレクティヴイズムへ一.• • • • • . • • • • • •17
第2章 「産業進歩jの理論的把握から「社会学jへ .• • • • • . • • • • • • • • • • • . . • . • • • • • • . • • • • . • • . •26
1節F.
A.ウォーカーの企業者論 .• • . • • • • • • • . • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • •.26
2節 シドニーの「産業進歩J論-シドニー初期論文(1888-1889年)ー.• . • • • . • • • • • • • • • •28
3節 「社会学」への転換 .• • • • • • • • • • . • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• 31 第3章 消費者のコレクティヴイズム-協同組合論, 都市改革論-•. . • •• •• • ••• •• ••• .. •.• •36
1節 ビアトリスの消費者組合運動論- wイギリスにおける協同組合運動� (1891年)一一 361
歴史的背景 .. • • • • • • • . • • • . • • . • . . • . . • • • • • . • • . • . • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . ••36 2
生産者組合と「個人主義J.. .. .. .... .... . .... .. .. .... . .... .. .. ... ... .. ... ... ... "03
消費者組合における「非営不IJJと「効率J... 464
消費者組合運動の意義と限界 .• • • • • . • . • • • • • • • • • • • • • • . . • • • • • . • • • . • • • • • • • • • • • . • • •50
2節 シドニーの都市改革論-wロンドン ・ プログラム� (1891年)-... 531
歴史的背景 .• • • • • . . • • • . • . . • • . • • • . • • • • . . . . • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • . • • • . • . • • . • • • • • •53 2
公共サービスの市営化 .• • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • . . • • • • • • • • • • • • • . • • . • • • • • • • • ••55
( 1
) 消費生活の質的向上-水道・ガスの市営化を例に-...... 55
(2
)公共サービスと新しい労使関係-市街鉄道・ドックの市営化を例に-... 59 3
地方税改革と中央政界 .• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •64
小括 . • . • • • • . . . . • • • • • • . • • . . . • • • • • • • • • • • • . . . • • • • • • • • . • • • • • • • . • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • ••
67
第4章 労働者のコレクティヴイズムー労働組合運動論 .• . • • • • • • • • • • . • • • • • • . • • . • • • • • • •
76
l節 労働組合運動の歴史的分析-w労働組合運動の歴史� (1894年)一.• • • • • • • . • • • • • • • • 761
歴史的背景 .• • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •77
2 労働組合運動の変容 .• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • •80
(1
)クラフト・ユニオンと法改正 .• • . . . • • • • • • . • • • • • • . • • . • • • • • • • • • • • • • • . • • • • . • • • ••80
(2 )労働組合運動の二重化 .. . • . . • • . . . . • • . • . . • . . • • . • . • • • • • . • . • . . • • • • • • • • . • • • • . • • •83
3 rレッセ・ フェールJから「労働条件の立法的規制」ヘ .• • • • • • . • • • • • • • • • . • • • • • • • •89
2節 労働組合運動の理論的分析-w産業民主制論� (1897年)ー.• • . • • • • • • • • • • • • . • . • • . •92 1
旧組合主義一人員制限の方策一.. • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •93 2
新組合主義一コモン・ルールの方策一.
• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •95
小括 .• . • • • • • . • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • . • • • • • • • • . • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • ••102
第5章 「新自由主義j的社会立法-ナショナル・ ミニマム-...113
1節 マーシャルのシドニー批判-r労働に関する王立委員会J (1892年)一... 113 2節 「モラル・ミニマムJ-rL C Cの業績J (1895年)一.• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • .• 114 3節1
9世紀後半における労働政策 .. • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• 116 4節 ナショナル・ミニマム .• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• • •• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• 118小括. • . • • • . • • • • • • . • • . • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • . • • • . . • •• 124
結語
.
• • . • . • • . . . . . . . . • . . . • • • . . • • . • . • • • • . . • . . . . • • . • . . • • • . . • • • • . • • • • • • • . • • • • . • • • • • • . • • .•127
参照文献.
• • • • • . . . • . • • • . • • • • • • • • • • . • • • • • • • . • • • • • • . . • • • . • • . . • . . • • • • • • • • • • . . • • • • . • • • • • ••133
問題の所在ー先行研究をふまえて-
シドニー・ウエツブ(Sidney Webb, 1859-1947)とビアトリス・ ウエツブ(Be
atrice Webb旧姓ボツターPotter,1858-1943)
l)
は, 19世紀末から20世紀初 頭にかけてのイギリスで活躍した社会改革者として知られている。 彼ら が生きた 時代は, 労働者階級が飛躍的な社会進出をなしとげ, 後 に福祉国家と呼ばれる傑 々な社会制度の形成を推進していく一方で, 世紀末大不況, 第l次世界大戦, ロ シア革命, 世界大恐慌といった事件がそれを取り巻いていた激動期であった。 彼 らは, フェビアン協会の中心人物として, ロンドン市政改革,L S
Eの設立, 救 貧法改正, 労働党の政策形成などをめぐって実践的な活動を繰り広げると同時 に,地方自治制度 , 協同組合運動 , 労働組合運動 , 社会 主義に関する膨大な歴史研究 と理論的著作を残した。 その生涯を通じて, 近代産業社会における豊かな人間生 活を実現すべく, 様々な社会制度の改革と創造に尽力した彼らの業績には, 今日 においてもなお振り返って学ぶべき意義があろう。
極めて実践的な性格を有していた彼らの主張は, 後のイギリス社会改革運動の 歩みの中でしばしば取り上げられ, 議論されてきた。 だが, 彼らは経済学史・思 想史研究の対象として本格的に取り上げられるこ とは少なく, その思想的核心を 明らかにしようとする問題意識は希薄であった。 つまり, 多岐にわたる業績のう ち, 時代関心に照応した論点だけが個別的に取り上げられ, 特定の思想・制度を 擁護する立場から一面的な理解と評価が下されがちであった, と言える。
例えば, 彼らはイギリス福祉国家・社会 運動の先駆者2
)
と評価される一方で,労働運動の異端的人物3) として批判されてきた。 また, 彼らの構想を「社会三
義Jと理解する論者もあれば, r市場 経済」を重視した「混合経済」とみなす研 究もある4
)
。 いずれも重要な論点について問題を提起しているが, それぞれが 自 らの時代・政治的立場に規定された問題関心を前面に掲げているために, その 研究成果もウエツブの思想的核心の究明に向けて十分に積み上げられることなく,相互に平行線をたどってきたように思われる。
本論文では, ウエツブの社会改革への取り組みを貫く思想的核心を明らかする ために, ひとまず初期の社会改革構想、 に着目した。 彼らの具体的な構想は, イギ リス社会の激動の中で絶えず練り直され, 変化していったからである。 もちろん,
この限りではどの時期を取り上げても大差はない。 むしろ後期に着目したほうが,
彼らの構想の変遷過程については容易に理解できるという見方 もありえよう。 こ こであえて初期に着目する理由は, 表面的・具体的な構想、の変化に隠された彼ら
の一貫した思考が, より鮮明な形で摘出できると恩われるからである。
したがって本論文の課題はこうなろう。 すなわち19世紀末という時代の課題と それに対する彼らの具体的な社会改革提案との緊張関係を解きほぐし, そこに隠 された彼らの一貫した思考を摘出することである。 この作業を経てはじめて, そ れ以降の彼らの構想、の変遷と, その理由についての理解を深める手がかりが得ら れる, という問題提起でもあるが, このような問題が成立しうる理由をより明確 にするため, あらかじめ研究史を簡単に振り返っておこう。
ウェッブの社会改革構想の変遷過程は, 大きく分けて, 初期, 中期, 後期に分 類できる。 ここでいう各期の特徴を概観するには, 岡[1978-a, blが 有益である。
岡[1978-alは, 中期, すなわち第1次世界大戦から1920年代にかけての時期を,
彼らの「社会主義像の確立期J
5)
として重視した上で, その特徴を, 中央政府を通じた生産手段の公有化とその具体的構想が前面に押し出された「混合経済J 志向にある, と見ている。 岡がこの時期に段階を画す理由は, 次のようなもので あった。 すなわち, 彼らの「社会主義の構想Jたる『大英社会主義国の政体』
(1920年), および「資本主義批判の書Jである『資本主義文明の凋落� (1923 年)が発表されたのがこの時期であったこと。 また, 大戦前の救貧法廃止運動 (ナショナル・ ミニマムの主張 )の控折, フェビアン内部のギルド社会主義者か らの批判, 自由党への「浸透作戦Jの失敗と労働党への接近(シドニーによる
「労働党と新社会秩序J1918年6) の執筆)などの政治戦略上の状削変化, およ び第l次世界大戦中・戦後におけ る「産業コントロールJへの着目を促した経済 状況の変化などがあったためである, と(岡[1978-alI39-140頁)。 さらに, こ こでいう後期すなわち1930年代以降を, 岡は「晩年期Jと呼び" �ソビエト共産
義� ( 1935年)におけるソ連社会主義への傾倒に着目してい る。 ただし岡[197 8-blによれば, 中期から後期にかけてのウェッブの「社会主義像」に変化はなく,
彼らのソ連礼賛も, みずからの主張をソ連社会に一面的に投影させたものであり,
しかも, 大恐慌以降のイギリス経済の混乱と, ソ連経済の躍進という情勢が大き く作用していた, とされている。
中期以降の改革構想の基本的特徴について, 岡は次のように整理している。
「自由放任・競争経済Jの「非効率」を克服するために, 中央政府による生産手 段の公有化を柱とし, その周辺に, 地方自治体, 消費者協同組合, 労働組合など の多元的諸制度の役割を認めることで, í効率と民主主義の統一的実現」を企図 したものである, と。 しかも, そ れを支える個人には, í科学的知識Jに基づく
「公共奉仕の精神J
1)
が求められ, 特に「知的プロレタリアートJに高い期待 が寄せられていた。 後期のウェッフがロシア社会主義を高く評価したのも, ソ連4
の労働組合, 消費者組合, I重層的民主主義」の発展に注目し, 公共奉仕と科品 的精神とを結合した「科学的ヒューマニズム」が共産党に浸透していると理解し たためである, と。
このように, 中期以降のウエツブの主張とその背景が独自に解明された結果,
初期 を取り上げるにあたっての具体的問題もある程度明確になってくる。 つまり,
初期の彼らが自由党への「浸透jを選択した経緯は何か, あるいは「産業コント ロール」ではなく「市場経済」に対してどのような見解を有していたか, という 疑問が浮び上がってくる。 しかも, 彼らの社会改革構想、の重要な構成要素であっ た労働組合, 協同組合, 都市政府についての主要著作は, 周知の通り, そのほと んどが初期に集中していた。 だとすれば, これら全ての論点を一つーっとりあげ た上で, そこに隠された彼らの一貫した思考が明らかにされる必要があるのでは ないか。
もちろんこれまでも, 初期の著作をめぐってそれなりの研究蓄積がある。 だが,
ここでも, 彼らの構想、の全体像を究明しようとする視座は希薄であり, 個々の論 点が それと切り離されて取り上げられてきた。
高橋[1984]は, w産業民主制論� (1897年)における, 彼らの労働組合の「経 済理論Jに着目し, それがA.マーシャルの影響を強く受け, きわめて能率主義的 な一面を有していたと指摘している。 高橋によれば, その内容は高賃金の経済学 あるいは労働力保全の理論と特徴付けられている。 ただし, 高橋は, このことが
「本来非経済的・非体制的要因 として生成した労働組合運動Jを, I函民的能率 の向上Jに表現される「資本の利益と論理」へ包摂させてしまうことに なった と厳しく批判している(高橋[1984]19, 261頁)。
他方, トーニー(Tawney [1952] )も, ウエツブの労働組合論における「効率」
に着目しているが, その内容理解については高橋とは異なる。 ト一二ーは, ウエ ツブの労働組合論に「経営者を刺激し, 機械設備・組織の進取的な改良による 産費削減方法の発見を促すJという形での「効率J理解がある, と指摘していた。
労働組合運動による生活向上の追求が, 雇主側での「効率」を増大させるという 理解である。 労働組合運動はそれまで「産業効率化の敵Jである, と批判されて いたが, こうしたウエツブの新しい考え方が 労働組合運動の積極的意義を当時の イギリス社会に広く知らしめた意味は大きい, というのがトーニーの評価であっ た(Tawney [1952]
p.
351, 訳17ト172頁, 訳文は必ずしも訳書に従ってい ない, 以 下同じ)両者の最終的な評価の違いの原因は, ここでの直接の問題ではない。 ともかく も両者の見解は, ウエツブの労働組合論の主眼が 「産業の効率イヒJにあったとい
う点では一致しているが, その評価に関しては, 明らかに対立している。 すなわ
ち, 両者の問では, 効率達成の具体的なメカニズムについて, 労働者, 雇主のど ちらに注目して評価 するかで理解が異なっているからである。 残された課題は,
このように相異なる理解を生み出しうるウエツブの労働組合論の内容を, 彼らの 張に即して, 論理整合的に理解することであると思われる。
方, 彼らの労働組合論を, I社会主義」論に結びつけようとする試みもある。
大前[1975]は, ウェッブのナショナル・ ミニマムを取り上げ, そこに「労働者の 維持保全Jを通じた 「産業能率J向上という視座があることに着目していた。 こ の限りでは高橋に近い理解だが, 大前は, それを「反体制のための生産力理論」
として独自に解釈していた。 というのも 「社会主義への移行の段階 においては・
・ ・
生産力の増大が問題」となるからである, と(以上, 大前[1975]136, 152, 15 9頁)。 ウェッブにおける 「能率J重視を, 社会主義への移行と関連させて理解 していることが特徴であるが, 大前の整理は, 社会主義の前段階に生産力の高度 な発展を不可欠とみなす既存の論理をウエツブに投影させたものであり, 彼らの張に即した理解であるか大いに疑問が残る。 このような一面的な理解が生まれ て来たのは, シドニー初期論文をめぐる従来の研究にも, その原因があったと思 われる。
これまで, シドニー初期論文, I利子率と分配法則J(1888年), I利子率」
(1888年) > I賃金と残余生産物との関係J(1889年)は, 特に「 レント論Jと
呼ばれ, Iフエビアン社会主義の基礎理論」として理解されてきた。 欧米では,
ベア(Beer[1929])にはじまり, フォックス&ゴードン(Fox
&
Gordon [1951]) , リッチ(Ricci[1969]) , タムソン[1988]が, わが国でも, 河合[1931] , 関[1969], 大前[1975]> 木村[1978], 岡[1978-a]などがこれにあたる。 例えば, 河合[193 1 ]は> I生産手段の共有を主張する社会主義Jは「生産手段の所有者が何らかの 意味で搾取を為すと云う搾取説に依拠せねばならないjとし> IレントJの源泉 は生産要素の所有者による商品の供給独占によって生じる高価格であるから,
「消費者からの搾取J理論である, と述べている(河合[1931]330,365頁)。 ま た大前[ 1975]は, I人口の増大が耕作限界を拡張し, そのことによって, 社会が 進歩し, 同時に差額地代を増加させる。 そうであるから搾取=差額地代は社会か らの収奪を意味するのであり, 直接に労働者からの搾取を意味するものではない。
この論理は産業資本にも適用されるJ(大前[1975]191頁)と述べていた。 これ らの研究は全て, 社会全体に「レントJを再配分する手段として生産手段の公有 化が導き出された, と結論付けているU
だが, シドニー初期論文= I搾取論jという理解の構図には, マクプライアカ
らの批判がある。 彼は, 資本に帰属する「レントJの場合には, すべてが不労所 得であるとは断定でき ない, つまり優れた資本設備の導入が資本所有者の経営努 力に基づく場合がある, と指摘していた。 マクブライアの結論は, íレント論J が「社会主義の基礎理論」としては破綻9) していること, したがってフエビア ン社会主義における「その 意義は無視できるJというものであった。 結論は別に しても, シドニー初期論文は, í社会主義の基礎理論Jという単純な整理を許さ ず, 新たな視座から再解釈される余地を残しているように思われる。
シドニー 初期論文は, アメリカの経済学者F. A.ウォーカー による「営業利潤の 源泉J (Wa
Iker
[1887])への批判を意図して書かれたものであるが, この点 に関 してホブズボームは「ウエツブ夫妻, ショーは, アメリカ人F.A.ウォーカーの経 済学から 学んだせいもあって, 効率, 長期的視野, 高賃金支払い能力などに優れ,レッセ・ フェールとの結び付きが少ないという理由から, 中小企業より も, 大企 業ひいては独占企業にさえ, 明確な選好を示していたJ(Hobsbawm [1964]
p.
310,訳23 9頁)と述べていた。 この指摘に学ぶ な ら ば, シドニー初期論文の再検討に あたって, í効率J1 0) あるいは ウォーカーとの連続性などが, 重要な手がかり になると 思われる。 近年, ウォーカーの経済理論についての研究の深まり11) に よって, í市場経済J認識をめぐるウォーカーとA.マーシャルとの理論的連続性 が明らかにされつつ あり, この点 も参考になろう。
ウエツブの「市場経済J認識が明らかになれば, おのずと非市場的諸制度, す なわち協同組合, 都市政府に与え られた役割りも明確になってこよう。 ウエツブ の都市改革論の 特徴については, 岡[1975]が考察している。 岡は, シドニー『ロ ンドン ・ プログラム� (1891年)における都市改革構想の主眼が, 地方公営事業 を通じた貧困問題の解決にある, と述べている。 すでに指摘したように, 岡[197 8-a]は, 中期ウエツブにおける地方自治体の重視に着眼していたが, これを初期 に遡って根拠付けようとする試みであったと推察できる。 だが, シドニーの都市 改革構想が「都市社会主義」と理解され, その狙いが地方政府による「レントJ の徴収・ 再配分にある, と解釈されて おり, 研究史の上では「社会主義の基礎理 論Jとしての「レント論J理解の延長にあると言ってよかろう。 また岡は, ウエ ツブにおける都市改革の主体が, あくまで有権者大衆= í市民Jと され, 労働組 合が「特殊利益擁護のための組織Jとして棄却されていること に着目している。
ウエツブにおける社会諸制度の構造連関に関する問題提起として学ぶべき点は多 いが, wロンドン・ プログラム� = í社会主義Jと見る岡にあっては, ウエツブ のこうした点は, むしろ「改革主体の把握についてのあいまいさJとして退け ら れていることを指摘して おかねば なるまい(岡[1975] 527-528頁)。
7
協同組合論に関しては, ビアトリスによる 『イギリスにおける協同組合運動』
(1891年)がある。 ただし, そ の内容については, これまで, 19世紀イギリスの
「生産者組合」研究に関連して付随的に紹介されるか12) , または概説的にのみ 取り上げられてきた。 それらによって, ビアトリスが, 1生産者組合Jを批判し,
「消費者組合」を高く評価していたという概要は明らかになっているが, こうし た結論を促した思考を, 彼女の主張に即して明らかにするとい う作業が残されて いるように思われる。
『イギリスにおける協同組合運動� (1891年), �ロンドン・ プログラム』
(1891年)の両著は, 1892年における 結婚を通じた本格的な共同研究の開始に先 1.Lって執筆されたものであ り, シドニー, ビアトリスそれぞれの社会改革構想の 原像を端緒的に表しているものと理解してよかろう。 しかも, ビアトリスは,
らが高く評価する「消費者組合Jとの関連で, 地方公営企業を「強制的消費者組 合」と呼んでいたことは, あまり知られていないように思われる。 マッケンジー
(Mackenz i e (ed. ) [1978] )によって編集された書簡集によれば, シドニーとビア トリスが, それぞれの著作を発表した1891年以前から, 緊密な知的交流をしてい たことが明らかになっているから, こうした資料も手がかりになろう。
なお, 社会諸制度の構造連関に着目した新しい研究も徐々に進んできている。
例えば, 藤井[1995]はウエツブのナショナル・ ミニマム論の形成過程を吟味し,
それが『産業民主制論� (1897年)で一気に案出されたのではなく, 19世紀末の ロンドン州議会における公共的労使関係の模索から生まれた「モラル・ ミニマム」
概念を一つの起源としている, と指摘している。 このことは, 初期のウエツブが,
様々な社会諸制度の意義についての知見を深めつつ, それらを有機的に関連させ ながら自らの構想を形成していったことを示唆していよう。
また, 初期ウエツブによる自由党への「浸透作戦Jの経緯についても次第に明 らかになってきている。 そ の際, B.ショーによる11892年の総選挙に掲げられ,
それを勝利に導いた最初のフエビアン社会主義綱領は, シドニー・ ウエツプによ って起草されたものであったが, それはニューカッスル綱領と 呼ばれ自由党の政 策綱領として提出されたJ(Shaw [1948]
p.
296)という言葉が焦点となってきた。ただし, マクブライア, 若松[1991]ら の詳細な研究によって, このショーの言葉 が「誇張Jであり, ウエツブから自由党への「浸透作戦Jは「失敗」であったと いう評価が定着している。 だがこのことは, 少なくともウエツブ本人の主観的意 図のうちに, 自由党との連携を模索しうる共鳴板が用意されていた ことを否定す るものではなかろう。
この点をめぐっては, まず, センメル(Sernme
I
[1960] )による「社会帝国主義者」としてのウェッブ像がある。 r国民的効率J (Nalìonal Effìcìency)とし
う理念をもとに「効率懇談会」を結成し, íイギリス帝国Jの問題をめぐって,
ローズベリ, ホールディンら自由党「リベラル・ インペリアリストJと接近して いったウエツブのことである。 クート(Kool [1987])も, r帝国J問題に対する ウエツブとヒューインズらイギリス歴史学派との類似性を指摘している13) 。 ウ エツブにおける自由党との共鳴板の一つが, r帝国問題Jにあったという理解で
ある。
他方で, それを国内の社会改良との関連で理解しようとする視座がある。 ノー ラン(Nolan [1988]) は, ウエツブと「新自由主義者Jとの緊密性を重視し, rホ
ブハウスやグリーンの集団主義的自由主義(c
0 1 1
e c1 ì v
ì st j ì b e r
aI i
sm)と, フ エビアン社会主義の差異は, その目標というよりも, 強調や程度の違いである」と述べていた(No] an [1988]
p.
129) 14) 。 その際, ウェッブと親密であったホー ルディンらは, オックスフォードにおける「新自由主義者JT.
H. グリーンの弟子 であったという事実も無視できないだ ろう。 初期ウェッブにおける自由党との共 鳴板は, いわゆる「新自由主義」に極めて類似した, その改革構想、自体に求めら れるべきだ, という示唆である。 このことは, 初期ウエツブの社会改革構想、の特 徴を, 同時代の諸思想との関連で明らかにする際の大きな手がかりにな ると思わ れる。以上, 初期ウエツブの社会改革構想、をめぐるこれまでの諸研究の要点とその問 題点を列挙してきた。 それぞれの研究が, ウエツブの社会改革構想の特徴を一面 において正しく指摘しているとすればなおのこと, 残された課題は, これらの各 論点を貫いていたであろう彼らの思考がどのようなものであったかを解明し, 従 来ばらばらに評価されてきた論点を統一的に再構成する以外にないであろう。
以下, 本論文では, こうした課題を正面に据えながら, ひとまず個々の論点を 形成史的に並べなおし, 初期ウエツブが直面していた具体的歴史課題をふまえた 上で, 彼らの思考の発展過程をたと、ってみたい。 第1章においては, 19世紀末イ ギリスの経済社会情勢と, それを取り巻く諸思想、を概観することで, ウエツプが 直面していた歴史課題の基本的特徴を明らかにする。 その際, ノーランの指摘に あるよう に, グリーンらの「新自由主義Jとウエツブの位置関係が論点になろう。
第2章では, シドニー初期経済学論文(1888-89年)の内容をウォーカーの経済 理論との関連で吟味し, r効率Jおよび「市場経済」に対する彼らの基本的な経 済社会認識を解明する。 続く第3章以降では, 第2章で明らかにされたウエツブ の経済社会認識をもとに, 個々の社会制度に託された役割とそれらの相互連関に ついて考察する。 まず第3章では, シドニー, ビアトリスの『ロンドン
・
プログラム� (1891年), wイギリスにおける協同組合運動� (1891年)をとりあげ,
その改革構想の内容および両者の関連を明らかにする。 第4章では, w労働組合 運動の歴史� (1894年), w産業民主制論� (1897年)で展開される彼らの労働 組合論を取り上げる。 特に, 労働組合の「経済理論」における彼らの「効率」理 解の内容が焦点となろう。 第5章では, 初期ウエツブの改革構想の到達点であっ たナショナル・ ミニマムを素材に, その形成過程を吟味し, それが当時の経済社 会情勢および諸思想潮流の中で有した意義を明らかにしたい
ハU-EEEA
注(問題の所在)
υ
以下, 本論文では, 夫妻をあらわす時は “ウェッブ'\ いずれかを特定する場合は,それぞれ, “シドニー'\ “ビアトリス" と表記する。
2)
シドニーとビアトリス がその生涯を閉じたのと同じ頃, 1945年には, アトリーを一 班とする労働党内閣が成立する。 以降, 労働党主導による福祉国家の建設が急速に進め られていくが, こうした潮流の中で, ウエツブを現代福祉国家論の先駆者とみなす視仰 が生み出された。 その際, ベヴァリッジ『社会保険および関連サービス� (1942年)に おける「最低生活費保障原則」と, ウェッブの「ナショナル・ ミニマムJとの連続性が 注目されてきた。例えばブルースは次のように述べている。 í194 2年におけるベヴァリッジの基本的な ねらいは, 個人の稼得が中断されたり, あるいは家族を扶養するに足りない場合 には,
いつでも国家 に “生存の維持に必要な最低所得" を, 保険を通して保障させるという ことであった。 ・・・ それはまた, 第1次大戦前におけるベヴァリッジ自身の経験と,
彼が聡明 な青年門下生のひとりとしてウエツブ夫妻 と交流した事実, そして彼らの “国 民の文明生活のための最低限度" という信条に帰してもよいだろうJ (Bruce[1961]p.2 6,訳22貞)。
また, 毛利[1990]は次のように述べていた。 í この最低生活費保障原則は, 早くから
“ベヴァリッジ・プランの中心思想" とみなされてきた。 それは40年もまえにウエツブ 夫妻が唱えてお り, ベヴァリッジの独創力の所産たることを意味しないJ (毛利[1990]
216頁)。
ベヴァリッジ自身, í思想の領域における彼らの最も重要な貢献は, 所得・健康・イ
・余暇・教育 などのナショナル・ ミニマムという概念にあるJ (Bever
i
dge [19 52] p.V)
と述べていた。また,
R.
H.トーニーのように , ナショナル・ ミニマムに限らず, より包括的な視座カ らウエツブの業績を取り上げている論者もある。 トーニーは次のように述べていた。「もし, 1880年代から1930年代にわたるイギリス社会史の一連の諸章を思い起してみ るならば, ーすなわち労働組合, 協同組合, 労働党の興隆といった社会運動, 産業・
金融政策, 学校教育, 公衆衛生, 失業, 救貧法, 地方自治体事業そして地方自治一般の 発達, さら には これらの諸問題をめぐる公衆の態度の変化にあらわれた文明の進歩に を向けてみるならば一この粘り強い勤勉家の努力が無駄であったとは誰も言えないだ ろう。 ・ ・ ・個人的利害や思想 信条にかかわらず, 我々は皆彼らの生徒なのである」と
(Tawney [1952] pp. 343
-344, 訳157-158頁, 訳文は必ずしも訳書に従っていない以下同じ)。
多岐にわたるウエツブの業績全体が, 同時 代のイギリス社会という具体的背景に位置 付けられ, 理解されなければなら ないという指摘であり, 学ぶべき点が多い。 だが, ウ
11
エツブをイギリス社会改革運動 の主流に位置付けようとするトーニーに対し, 異論もあ る。
3)
彼らをイギリス労働運動の異端とみなす論者としては, マクブライア(Mc B r i
ar
[1 9 62]) , ホブズボー ム(Hobsbawm [1964] )がその代表であろう。マクブライアは, 1880年代から第1次大戦前までの政治動向とからめてウエツブの実 践活動を検討し, ロンドン改革, 自由党への浸透作戦, 独立労働党への影響, 労働党の 結成などの諸点にわたって, 彼らが独自の影響力を発揮できなかった, と結論している。
彼らの イギリス社会への「影響Jをめぐるトー ニーらの高い評価に対し, 一定の限定が 付され るべきだ, とい う主張である。
ホブズボームは, マクブライアの結論を引き継ぎ, 彼らの活動は「失敗の連続Jであ り, 現実 のイギリス社会を突き動かして行った政治 的諸潮流の中ではあくまで孤立した ものであったと述べている。 こうした孤立の原因は, 彼らの社会改革構想の「ミドル・
クラス」的性格にあった。 しかし, 晩年にロシア社会主義へと傾倒した彼らは, íフエ ビアンが間違っていてマルクスが正しかった」と悟ったのだ, と(Hobsbawm [1964] p. 30 0, 訳231頁)。
こうしたマクブライア, ホブズボームによるウエツプ批判は, 1960・70年代にかけて,
時の労働党政府とさえ も対立していったイギリス労働運動, およびそれを背後から支援 したマルクス主義の文脈の中で一定の支持を集めてきたように思わ れる。 我が国でも,
高橋[1984]のように, 労働組合運動をめぐる彼らの主張を「体制擁護的Jとみなす見解 もある。
4)
1980年代以降の福祉国家の見直し(サッチャリズム)と旧東側諸国の崩壊による新 しい政治状況の到来を経て, í市場経済Jの再評価が進む中で, ウエツプ研究にもこう した問題関心が導入された。例えば, タムソンは, íフエビアン主義と市場」というテーマを取り上げ, íフエビ アンは事実 上の市場社会主義者に分類されるかもし れないが, もし彼らに市場を採用す る用意があったとしても, それ はあくまで一時的な措置としてのことであったJと述べ ている。 なぜなら「ほとんどのフエビアンの最終目標は, 経済活動を意識的, 合理的,
社会的なコントロール・ ・ に従属させることであったJからであると(以上, Thomps on [1988] p. 263, 266)。 ウエツブの「漸進主義的社会主義Jの究極の狙いはあらゆる生産 手段の公的所有にあり, í市場経済Jに独自の意義を認めることはなかった, という理 解である。
í市場経済」をめぐる洞察とい う点では, むしろ同時代 のJ. A.ホプソンに注
目すべき点が多い, とタムソン(Thompson [1994] )は述べていた。
他方, タムソンとは異なる理解もある。 ノーランは, ウェッブとグリーンら「新自由 主義J者との関連に着目し , í両方の学派ともに, 基礎的な産業の固有化と生産・分配 の統制を提案している。 その点でウエツブはグリーンよりも徹底していることは事実で あるが, 彼らは全ての産業が国有化されている社会は, 実行可能でもないし, 望ましく もないと考えていたことは確実である。 将来 の国家では, 市営化・ 国有化された産業の
12
要なブロックの周辺に, 私企業が存在することを示唆しているJ(Norlan[1988]p.13 1 )と述べていた。 ウエツプはその「混合経済」構想において, r市場経済Jが果たす べき役割を積極的に評価し, それに一定の意義を認めていた, という指摘である。
5)
なお, 本論文での時期区分と, 岡[1978-a]によるそれとは異なることをあらかじめ 断っておく。岡は, ウエツブの生涯を次のように区分している。 r
1
;萌芽期(1880年代中葉'"'-' 189 2年[結婚])J, rII;発展期(1892年"-'1911年頃)J, r凹;反省期(1912年頃'"'-'J
91 7年頃)J, rw;確立期(1918年頃'"'-' 1923年頃)J, rv;晩年期(1932年~死去)J (岡[1978-a]137-138頁)。 岡の整理は, íW, 確立期Jを中心に, 彼らの構想、の基本 的性格を「社会主義Jと理解していることが特徴であろう。本論文では, 岡によるこうした時期区分に学びながら, ウエツブにおける「市場Jと
「計画」をめぐる基本的な構想の変化に着目し, 初期(1880年代~第1次大戦開戦),
中期(第l次大戦'"'-' 19 20年代) , 後期(1930年代以降)に分類した。 なお, 本論文では,
初期の彼らの理論的到達点が, w産業民主制論� ( 1897年)における「ナショナル・ ミ ニマムJにあると考える。 20世紀初頭における彼らの『救貧法小数派報告� (Webb [190 9] )については, 十分に取り上げることができなかったが, 基本的視座においては「ナ ショナル・ ミニマムJの延長にあると見なしてよい。 w小数派報告』の具体的 内容につ いては, さしあたり大沢[ 1986]を参照。
6)
シドニーが執筆した「労働党と新社会秩序Jの内容をめぐっては, さしあたりブー ス&パックを参照。 その内容は大きく4つに分かれる。 (1
) íナショナル・ ミニマム の普遍的施行J( 2)
í産業の民主的統制J( 3
) í国家財政の変革J( 4)
í余剰な 富(surp!us weal th)の公共善のための活用J(Booth&
Pack [1985] p. 9)。7)
ウエツブにおける「公共奉仕の精神Jをその「社会主義Jの中心概念として理解する研究としては, 名古[1987], 尾崎[1995]がある。 名古は, シドニー, ビアトリスが,
思想形成期およびそれ以降も, 一貫して, í公共奉仕の精神Jの体現者であったことを 重視している。
また, 尾崎は, ウエツブにおける社会主義社会を担う主体がそなえるべき資質は, こ の「社会的奉仕の精神Jであり, 彼らの社会改革構想、は, それに向けての「人間形成と 教育プログラムの実践化の試み」であった, と整理している(尾崎[1995]79頁)。
8)
各論者の該当箇所を引用すればこうなる。「格差的レントすなわち不労所得は, 社会的労働と社会発展との 結果であるから, そ れは社会全体の善のために利用されるべきであるJ (Beer [1929] p. 283,訳134頁)。
「フエビアンたちは, 現代社会においては地代と利子とが実際には同じものであ り,
両者の本質的な特徴は以下の事実にあると主張した。 すなわち, その事実とは, 自ら額 に汗して稼いだのではなく, 社会の進歩つまり他者の労働によって生みだされた所得
(それぞれ “ 地代" と “利子" と呼ばれる)が地主と資本家とに与えられると いうこと である。 したがってそれらは, 土地と資本の社会化によって社会に戻されなければなら
13
ない, と主張したJ(Fox
&
Gordon [1951] p. 310)。「明確に述べられてはいないが, ウエツプはレントを倫理的に不労所得であるとみな していたJ (Ri
cc
i [1969] p. 109)。「フエビアンにとっては, 生産手段の私的所有を意味するようないかなるシステムも,
独占力の行使あるいは独占利潤, 超過利潤の搾取を意味するのである。 という のも, あ らゆる生産要素の供給は経済学的に見て有限であるとみなされるからであり, たとえ所 有が分散し, 市場諸力が真に自由で, 資本主義が本来的に競争的であったとしても, 独 的な性格の支払いや所得が存在するからである。 フェビアンは, そうした見解を理論 的に支持するにあ たって, リカード的なあるいはヘンリー・ジョージ的な レント理論を 土地から資本・労働に適用したJ (Thompson [1988] p. 251)。
「フエビアンの人々は, ・・・“地代" が取得者の道徳的頒廃とそれと労働者との不 平等の原因であり, 更に“地代" が社会からの搾取であるとみ た。 而して“地代" の取 得は土地, 資本, 能力の私有制度に基づくとみ た。 ・・・ここに於いて解決の路は明ら かである。 生産手段の公共所有と, 之に伴う産業の公共の 経営である。 ここに社会主義 が建設されることとなったJ (河合[1931]370-371頁)。
「賃料すなわち剰余はど の社会でも生ずるが , それは生産手段の私有者の手に帰属す べきでなく, 社会 全体に帰属すべきであるのみならず\そのような剰余の生産手段私有 者による搾取の廃止は, 全消費者の利益になるから, 社会主義は, 所属階級の如何を問 わず, 全市民の支持を受けるはずである, ということであるJ (関[1969]39頁)。
「総じてフエビアン たちは, 当面, 資本主義的産業化を前提する限りでは, 巨大な独 占と過大な富裕とが国家権力に結びつく傾向は不可避であり, それを独占禁止法だけで 直接押させつけようとしても到底不可能だと , 実際的 ・諦観的に観察したうえで, それ に対抗する方策 として“国民" の名における産業固有化を , 政策論的に展望したわけで あった。 しかし, 産業国有化の理論的力点は, けっして生産手段の国有化ではなく, 私 的産業の収取するレントの国有化と再配分にあったとみるべきであろうJ (木村[1978]
36頁)。
「“レント理論" とは, 人口増加に伴う社会の経済発展が耕作限界の低下を 必然化し,
限界耕作点以上の生産手段所有者に不労所得(re nt)をもたらす, という ことを骨子と する。 その特色は, ヘンリー・ジョージ化され たリカードウの地代理論を , 土地以外の 生産要素に拡大した点にあるJ (岡[1978-a]145頁)。
9)
Iレント論 Jを「フエビアン社会主義の基礎理論」としていったん位置付けな がら,その理論的破綻を指摘した同様の研究としては, スティグラー(Stig]er[1965]), タ ムソン(Thornpson [19 88]) , スウイージーCSweezy[1949] )がある。
「こうした供給量が固定的であるという仮定があ てはまらない以上, 土地と資本との 聞には実質的な類似性はほとんどない。 競争のもとでは, 平均的収益率以上の謝専をも たらしている投資は全て必ず\追加投資を引きつけ , 収益率は限界単位だけでなくあら ゆる単位の投資におい て均等化するJ (Stigler [1965] p. 278)。
14
「フェビアンによって定式化された種類のレント理論は, 不労・稼得所得の問の明確 朴Iマ別を許すものではないJ
(Thompson [1988J p.
25�)。ただし3 スウイージー(S\\eezy[1949J)は, �フエビアン・エッセイ』におけるB.シ ョーω「レント論」のみを扱っている。
シドニー初期論文を,
r効率Jとの関連で再解釈しようとする研究としては, すで [
1996Jがある。十 頭脳労働者に帰属する「能力のレントJに課された独自の意義に着目し, そ れがきた るべき産業社会を担う 「職業上の専門家」に帰属する所得範鴎であると指摘し
"(L
\た。 すなわちウエツブにあって,r能力のレントjは「搾取」に基づいた
再配分さ才てるべき所得としてではなく, むしろ積極的に是認される所得範鴎と捉らえら れている,
、一ー・ 0
J..
西岡{1997J第9章参照。
産者組合ー をめぐる研究に付随してビア入jスの協同組合論に触れている研究
レ
I ー は . ジ
ョーンズ(J on
es [1975J) , 中川i19 S
7�がある。 ジョーンズは, ビアトリ スによるf生産者組合 J批判に関連して次のように述べていた。f玄論すの主張は, ウエツプ夫妻のイデオロギー的な立場のために, (生産者組合に 叫する:評価の客観性が損なわれ, データもあいまいで不適切なものであったというこ とであるz 結論でi二 彼らの見解が, 少なくとも一部分て\様々な政治団体に支援され た労働者自主管理企業に対する商婚と関連していたということを示したいJ
(Jones[19
75J pp. 23-24, (J内は引用者, 以下同じ)と。
ビアトリスによる「生産者組合」批判には, 自らの主張を正当化するための恋意性が 含まれていたという 指摘である が, 残念ながら, ジョーンズは「生産者組合jの弁護に 終始しており, ビアトリスの主張の背後にあった論理についての立ち入った検討には致 っていない。
基本的視座において, 中川も同様。 rウエッブの見解とは反対に, キリスト教社会ー』
義者た ちはイギリス協同組合運動の歴史におい て彼らの正当な地位を与えられる権利を 有することをわれわれは明言しなければな らないJ (中川[1987]56頁)。
13)
クートは次のように述べていた。 rウエツブ夫妻の歴史・経済学の両者をめぐる業 績は, 特に1890年代のそれは, 歴史派経済学のトレードマークを有している。 すなわち,それは正統派経済学の方法および多くの結論への勢力的な 反抗, 産業革命がもたらした 社会的影響への悲観的な解釈, トラストや労働組合 をめぐる国家規制への支持, 彼らが
進化論的社会主義と呼んだ国内の社会改革手段への呼びかけ, イギリス帝国の使命に対 する健全な配慮などであった。 J
(Koo t [1987] p.
179)14 )
ノーランは次のように述べていた。 r双方とも “個人によって構成される社会" において “人間の品性や能力の最大の発展" を支持する。 (ウエツブらは “社会" を重視 し, グリーンはそのような社会における “個人" に重点を置く。 両者の個人観において,
社会生活における道徳的な参加こそは自己発展 の最高形態、であり, そのような参加を可
15
能にするのがグリーンの自由社会の目標であり, ウェッブの社会主義社会の目標でもあ った。 J
(Nolan[1988]PP.129-130)
16
第i章 1 9世紀後半のイギリス社会 一個人主義からコレクティヴイズムヘ-
世界に先駆けて産業革命を達成したイギリスは) 19世紀第3四半世紀の「ピク
トリアの黄金時代Jにいたると, 国際競争場裡における先発性を保持しつつ「世 界の工場」へと躍進していった。 産業の主力は綿業から石炭, 鉄鋼, 機械業など 資本財産業へと転換していった。 後進諸国の鉄道建設による膨大な需要にも助け られ, イギリスはその圧倒的な工業力を背景に世界市場独占を確立していった。
産業化の先発的地位に保護されたヴィクトリア中期のイギリスにおいては, 特 有の産業組織が確立された。 企業形態は, 家族経営中心の小規模なパートナーシ ツフ0・個人企業が支配的であり, 登記法(1844年)) 有限責任法(
1855年)など
株式会社設立の法的条件が徐々に整備されはしたが, その普及はあくまで限られ たものであった1) 。 生産過程においては職人の手熟練が依然大きな役割を果た していたことから, 熟練の修得・労務管理において熟練職人を中心とした職階制 が形成された。 雇用形態においても, 雇主が熟練労働者を直接に雇用し, この熟 練労働者が再び不熟練労働者を 雇用するという「二重雇用制度」が支配的となった。
ところが1873年以降のいわゆる「大不況期」に, ドイツ, アメリカなど新興 業諸国が高率の保護関税を武器に台頭し始めると, 世界市場におけるイギリス製 造業のシェアは低下していくことになった。 rメイド・イン ・ ジャーマニーJ)
「アメリカの侵入Jなどが叫ばれ) 1886年に設立された「商工業の不況に対する }L委員会J小数派報告は, 不況の原因をイギリス産業の競争力低下に見出した。
こうした新しい競争条件の中で, イギリスの産業組織は一定の「合理化Jを迫 られていった。 特に機械業の発展は目覚ましく, あらゆる部門で機械化が進展す ると同時に) 19世紀中葉に確立されていた大量生産技術の普及もみられた。 なか でも綿業などの先発部門では, 熟練の解体および「二重雇用制度」の崩壊がいち はやく進行した。 とはいえ, 企業組織の面では, ドイツ, アメリカにおいて株E 会社が普及し大規模化・垂直的企業合同が進行していたのに対し, イギリスでは 流通組織の高度な発展による割安な取引費用のもと, かえって小規模な個人企業 が温存されてしまうことになった。 特に後発の機械業にいたっては, 生産過程は いまだ旧来の熟練を基礎としており, 熟練職人と経営者との問で衝突が繰り返さ れている状態であった2) 。 総合的に見れば, イギリス製造業の「合理化」のた
17
ち遅れは明らかであり, このことは貿易収支赤字の増大という帰結をもた らした。
だが, 海外からの利子・配当収入, 海運・保険サービスによる機尋など, 貿易外 収支は一貫して増大し, 結果的に経常収支は黒字基調であった。 このように 19 世紀末イギリスにおいて産業衰退が着実に進行しつつも, í不況に関する王立委 員会 」小数派報告など一部の例外を除けば, この問題がさほどの衆目を集めるこ ともなく, むしろ, イギリス経済の金利生活者的体質はますます強化されていく ことになった3) 。
だが, 絶対的なレベルでみれば, 19世紀後半を通じてイギリス経済は順調に発 展し4) , 労働者階級の経済的地位も大きく向上した。 íヴィクトリアの黄金時 代」には「労働貴族」と呼ばれる富裕な熟練労働者層が形成され, いわゆる「大 不況期」にはいってからも物価下落による実質的な生活水準の向上が見られた。
このことにも与って, 労働者階級の政治進出が促された。 1867年には第2次選挙 法改正が行なわれ, 都市部(バラ)の労働者階級に普通選挙権が与えられた。 18 84年の第3次選挙法改正 では農村部(カウンティ)へも普通選挙権が付与され,
また 小選挙区制が導入されるなど, 本格的な大衆民主主義が到来することになっ た。 だが, これら労働者階級の社会進出には, 労働者階級内部からの自発的な社 会運動の台頭が大きく寄与していたことを忘れてはならない。
周知のように, 19世紀中葉にお けるイギリス労働政策体系の根幹は1834年「新 救貧法」であった。 同法は「ワークハウス原則J, í劣等処遇の原則」によって 労働可能 者貧民への求丈済を拒否したものである。 労働可能貧民は, ワークハウス 内での処遇を忌避し労働市場の自由競争に参加することで, 自由で独立した労働 者へと発展することが期待されたからであった。 ここに, 労働市場に対するレッ セ・ フェール= í自助Jの原則が確立された。 サミュエル・スマイルズの『自助 論』に代 表されるように, 自助自存を旨とした「レスベクタプル」な生活態度が ヴ、イクトリア中期の生活規範となった。 しかも, この「 レスベクタビリティJと いう生活規範は, 躍進を続けていた新興中産階級のみならず労働者階級にまで徐 々に浸透し始めていた。 ただ し, 中産階級にとっての「レクベクタビリティ」が あくまで「個人主義」と表裏一体であったのに対 し, 労働者階級におけるその実 践は全く異なった行動原理を生み出した。 彼らにとって, íレスベクタブルJな 生活を維持する手段とは, 友愛組合, 労働組合, 協同組合などの自発的な運動す なわち「団体的自助Jであったのだ。
18世紀末頃から徐々に結成され始めた友愛組合は, 当初, 農業労働者を主力と した地方的なものであり, 組織的にも労働組合と未分化の状態にあった。 イギリ スの支配層は, 団結禁止法(1799年) を制定し, 労働組合運動を弾圧する一方,
18
「友愛組合法J(1793年)によって, 友愛組合に登録を義務付けこれを促進して
いった。 1834年には, r友愛組合法」が改正され, その設立に大幅な自由が認め られた。 rヴィクトリアの黄金時代」における鮒廉階層の台頭に後 押しされ, 組 合員の中心は, 都市部の工場労働者へと推移し, 大規模な全国的連合組織も多数 生まれた。 それにともない保険数理上の技術・会計検査制度などが整備され, 磐 石な経営基盤を得た 友愛組合は, 19世紀末の時点で , 成人男子労働者の3人に 1 人を包摂していたと言われている5)
労働組合運動については, 1825年における「団結禁止法」の 撤廃の後も「取引 制限の共謀罪J, r主従法Jなどの様々な制約があった。 こうしたなか, 19世紀 中葉の労働組合はクラフト・ユニオンとして発展をとげる。 クラフト・ユニオン は,黙日夜労働者を主体に, 組合員資格の制限・共済制度などを通じて労働力の供 給独占を旨とした運動を繰り広げた。 いわゆる「労働貴族」と呼ばれる富裕な熟 練階層の出現にもクラフト・ユニオンの成功が大きく貢献していた。 だが, 労働 組合運動の躍進はこれだけに留らなかった。 1867年における第2次選挙法の改正 にも後押しされて, 1871年には「労働組合法J, 1875年には「共謀罪および財産 保護法J, r雇主・労働者法」が成立し, 従来の労働組合運動に対する法的制約 は撤廃され「団結の 自由」が確保された。 これによって労働組合運動はストライ キを武器とした労働条件の直接交渉へとその政策を転換し始めた。 その際, 綿菓,
石炭業など, r二重雇用制度Jが解体しクラフト・ユニオンに類した行動が不可 能となっていた部門が新たに運動の主力となっていった。 これ らの新しい労働組 合運動は, 雇主との直接交渉による全国一律の標準賃率表の獲得を目指す一方で,
国家に対しては労働時間の法的規制をめぐる政治運動をくりひろげた。 1889年の ロンドン・ドック・ストライキに触発された「新組合主義J運動は, こうした
「労働条件の立法的規制Jの方向を明確に推し進める ことにもなった。 とはいえ,
機械業を中心に旧来のクラフト・ユニオン的な活動への固執も根強く, 新・旧労 働組合運動は互いに対立を繰り返している状況であった。
18 世紀後半に, 製粉工場の設立 から 始 った協同組合運動は, オーウェン主義 (1820年代後半----3 0年代前半), チャーテイズム(30年代後半----40年代初頭)な
どの影響を経た1840年代後半に新たな展開をみせた。 rロッチデール先駆者組合」
(1844年)の成功によって消費者組合運動が台頭すると同時に, 他方で1850年に は, キリスト教社会主義者によってフランスから生産者組合運動が導入された。
1852年の「産業および貯蓄組合法Jなどに代表される関連諸法の整備も, 両者の 運動を後押しした。 だが, 19世紀後半 を通じて消費者組合運動がその加入者を9 万人(62年) , 34万人(72年), 110万人( 92年)へと増大させるなど, 着実な
19
成長をみせたのに対し, 生産者組合への加入者は1891年の時点で2万5千人と少な
く, 登録と解散を繰り返していた。 ヴィクトリア末期における協同組合運動の士 力は, 消費者組合になりつつあったのだ。 だが, 両者の問では「不IJì問 分配論争J という形で, その運動方針をめくやった対立が繰り返されている状況であった。
ヴィクトリア時代は, 労働者階級の生活における地方政府の役割が増大してい った時期でもあった。 産業革命以来, イギリスの総人口は爆発的に増加していく が, それは特に北・中部の工業都市および首都ロンドンにおいて顕著であった。
急速な都市化は公共財の供給不備やスラムなど様々な都市問題を生み出した。 18 35年の「都市自治体法」により, すでに各都市では代表制の都市議会が設置され 様々な改革が実行されていた。 1870年代半ばには, ジョセフ・チェンバレンに率 いられたバーミンガムで大胆な改革が実施され, マンチェスター, リバプールで も同様の改革が進んだ。 だが, ロンドンは「都市自治体法」から除外され, この 流れ に取り残されていった。 こうした状況に対し, 1888年に「地方政府法」が成 立し, ロンドンを含めたカウンティにもようやく代表制の地方政府が設置された。
ヴィクトリア朝末期のロンドンは, 都市問題をめぐって一つの 大きな転換点にさ しかかっていたのである。
他方, 国家を主体とした労働政策も着実に進展していった。 はやくも 1802年に は先駆的に工場法が制定されるが, 以降, 工場法は, その対象の拡張, 工場監官 官の任命, 児童・婦人への10時間労働日(1847年) , 衛生・安全規則などの点で,
ヴィクトリア中期にわたって, かなり充実したものとなっていった。 さらにヴィ クトリア後期にかけて, 工場法は, その 政策目的を多数の関連立法によって補完 されていき, 労働政策の体系はより包括的なものとなっていった。 児童に対する 労働時間規制は初等教育の進展とも歩調を合せて進んだ。 1870年の初等教育法の 成立により, 公立学校の設置が進み, 1876年には義務教育の規定が明示された。
さらに1891年には, 公立学校の無償制が法制化されるなど, 19世紀末にかけてイ ギリスの初等教育は着実に整備されていった。 衛生・安全問題をめぐって は, 18 91年法により監督権が「地方衛生局Jへ委譲され, r公衆衛生法」によって専門 的に所轄されるようになった。 また1880年には「雇主責任法」が制定され, 1897
年には, 無過失責任における雇主の賠償義務も規定された。
このように, 19世紀後半を通じて, 労働市場へのレッセ・フェール(=自助) のもと, 労働者階級の問では, 友愛組合, 労働組合, 協同組合などによる「団体 的自助」の動きが活発化してきていた。 しかもこうした動きは, 比較的富裕な階 層から始ったが, 徐々に下層にも浸透していった。 こうした「団体的自助jの着 実な進展の背後には, 友愛組合, 協同組合, 労働組合関連諸法の度重なる改正と