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小特集「日本・朝鮮近世の文学における「医者」表 現」 : 名医伝と藪医譚との間

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小特集「日本・朝鮮近世の文学における「医者」表 現」 : 名医伝と藪医譚との間

著者 福田 安典

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 17

ページ 254(5)‑231(28)

発行年 2020‑03‑25

URL http://doi.org/10.15002/00023220

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  狂言『神鳴』は次の藪医の言葉から始まる。

藥種も持たぬ藪藥師、藥種も持たぬ藪藥師、黄蘗や頼みなるらん。これは洛中に住まい致す醫師でござる。ただいま都には典藥の頭のなんのと申して、醫師の上手があまた出来、我らごときの藪醫師は誰も脈の見せ手もござらいで、迷惑致すことでござる。それにつき承れば、東は醫師が払底なと申すほどに、ただいまより東へ下り、一かせぎ致そうと存ずる。まずそろりそろりと參ろう。

  藪医は常に「典薬頭」を羨み、人々もまた「典薬頭」を信じ、藪医は汚物のように扱われる。この『神鳴』に登場する藪医は実は名医なのである。落雷して怪我をした神鳴の治療に成功するのだから。完治した神鳴が天に戻るときにこの「藪医」に、

   神鳴  とてものことに汝をも、典藥の頭に祝うてとらしょう。 

名医伝と藪医譚との間

福   田   安   典

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   医師  それはなおなおでござる。

   神鳴  さらばこのよし謠うて天上しよう。汝もそれへ寄って聞け。    医師  畏ってござる。

という約束をする。藪医の何よりの望みが「典薬頭」であって、医療の現場に於いては肩書きが物を言うことをこの狂言は如実に語っている。

  本稿ではこの藪医/典薬頭という対立構造に視座を定めて、その視座による藪医譚と名医伝との区分を検討し、一見明確なこの二分法では解決できないゾーンがあることを明らかにしたい。

1  藪医譚の濫觴ー『竹齋』

  藪医譚の濫觴である『竹齋』(寛永版製版本)の描かれ方を確認しておく(引用は適宜、句読点や括弧、清濁を付し、用字も一部改めた。以下他文献も同之)。

天が下穩やかにして山も動ぜず、峰の松平かにして風靜かに治まり、国家慶び長き時とかや。その比山城の国に、藪醫師の竹齋とて、興がる痩法師一人あり。その身は貧にして、何事も心に任せざりければ、自ら心もまめならず。肌に淨衣を飾らねば、藪醫師とて人も呼ばず。

  藪医の特徴は、貧・「心まめならず」・汚衣であった。その特徴を持つ医師は、「世中の例として、尊きを敬ひ、賎しき

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を敬はざれば、親しき中も遠くなる」らしい。そこで追いつめられた藪医は、

睨の介とて郎等一人あり。彼を呼び出して申けるやうは、「汝存ずる如く、我藪醫師の名を得たりとはいへども、その身貧にして病者さらに近付かず。所詮諸国を廻り、いづくにも心の留まらん所に住まばや」と言ひければ、

という選択をせざるを得ない。この諸国放浪、東下りは先に見た狂言『神鳴』と同趣向である。藪医描写の一パターンが確定しつつあった。

    さて小き町に宿を借り、看板をこそ出しけれ。「天下一の藪醫師の竹齋」、側に一首の歌を書く。

    扁鵲や耆婆にも勝る竹齋を知らぬ人こそあはれなりけれかやうに書きければ、海道通る人の中に、心ある人と見えて申けるやうは、「都にも有し事なり」とて、看板の歌の返しを致しけり。

    扁鵲や耆婆にも勝る竹齋を釋迦に逢はせぬ残り多さよ   かやうに詠みて、どつと笑ひて通りけり。

ころではあるが   「下は代の流行であったこと前が田金五郎の指摘すると時と一医の〜」というフレーズを師天や職人達が競って謳うこ

((

、そこにわざわざ「藪医師」と明示した点に『竹齋』の滑稽の面目がある。藪医もまた「職人」の一つであったのである。しかし、ここで注目したいのは竹齋の名が扁鵲や耆婆といった名医と並列されていることである。本稿では名医伝と藪医譚との違いを劃然と把握したいのであるが、藪医譚の側ではその劃然を乗り越えて、名医伝のフリをす

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ることで、逆説的に藪医譚を色づけていくのである。

  藪医譚を色づけるものはその学問知識の叙述法にも見られる。竹齋が学んだ医書揃えは次のようなものである。

我等若き時、形の如く学問を致しける。読み置く医書は何々ぞ。先づ一番に大成論に脈経、能毒、運気論、序例、難経、回春、医学正傳、或問に素問、靈樞、諸本草、医林集要、源流まで、風の吹く夜も吹かぬ夜も、雨の降る夜も降らぬ夜も、燈火を挑げつゝ、眼を晒し努めたり。

  医学書が貴重であった当時、これだけの中国の医学書を読んだ医師は「藪医」ではない。はったりで書名のみを並べたとしても、その医学書の存在を知っていたとすれば「藪医」ではないであろう。しかも、中国の医学書が並ぶ中にさりげなく日本の曲直瀬道三の著書『能毒』をしのばせている。『竹齋』作者は曲直瀬道三に医学を学び、『竹齋』は曲直瀬流医学のパロデイとして楽しむものであることは以前指摘した

((

が、例えば文中の「回春」は明代の『万病回春』のことで、この『万病回春』を本邦で初めて取り入れたのが他ならぬ曲直瀬道三である。この医書揃えの笑うポイントは、荒唐無稽な医学書の羅列にあるのではなく、道三流医学のパロデイにあるのである。つまり正しく高度な医学知識領域との組み合わせもしくはそこから生じる落差が藪医譚の色づけに必要であったこととなる。そこから藪医譚の面白さの本質が抽出できそうである。

  この「落差」に藪医譚の本質を求めるのであれば、藪医の対は典薬頭であるから、改めて『神鳴』の藪医/典薬頭の対立構造が浮かび上がってくる(傍線、筆者)。

  その辺に侍の有けるが、瘧をこそはふるひけれ。知音の人の言はれけるは、「こゝに藪医師の竹齋とて、この程都

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より下りけり。藪に功の者と云事のあれば、見せさせ給へ」と言ひければ、病者申けるやうは、「こゝに歌あり。

    醫師には上手も下手も無かりけり贔屓〳〵に時の仕合せとある時は、典薬とても頼み無し。藪醫師とても捨て難し。先づ〳〵呼ばせ給へ」とて、  迎へをぞ遣りにける。

以下である。   『斎際否定して藪医の譚を立薬たせている。その結末はを典』頭に於いても藪医/典薬の竹対立を前提として、敢えて

さて御薬を与へける。誠に時の仕合せにや、瘧はそのまゝ落ちにけり。余りの事の不思議さに、「薬種は何ぞ」と問ひければ、「古疊の黒燒、十四五年の古紙子の黒燒なり」。「かやうの薬種は珍しゝ。子細はいかに」と問ひければ、「我等の坊主に懸りし時、此病を病みければ、わなゝきぶるひにて有ぞとて、古き紙子を四五帖被せ、その上に疊を四五帖被せられければ、病は其まゝ直りけり。さてその故にかくの如く仕りたる」と言ひければ、皆々どつと笑ひけり。誠に毒薬変じて薬となれば、罪の深きも仏にやなると、紫野の休文字樣の仰られしも、此事にてや有らんとて、そゞろに笑ひけり。

その対比と落差が次の局面を生む。   「薬のいう落差があってこ笑比いが重層化されていく。と対変藪じて薬となる」という医毒/典薬頭の隠喩を用いて、

とかく申内に、門より典薬衆見舞とあり。竹齋此由聞くよりも、貧なる医師のあさましさは、破れ紙子の體なれば、急ぎ慌てゝ退きにけり。粉薬・丸薬取集め、側なる頭巾に押し入れて、古足袋取つて頭巾に冠り、頬先まで横洟にじり、

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前後慌つる其暇に、肌帯外れ蹴躓き、大庭指して出る時、病者申しけるやうは、「不覚なり竹齋殿。約束の薬は」と言ひければ、「其方の薬には、繻子の小袖、繻珍の羽織を煎じして飮み給へ」と言ひ捨てゝ、大汗垂らして逃げにけるが、身を恨むるぞあはれなる。羨しやな皆人は、綾や錦や金襴にて、身を飾らせ給へども、御足無ければ竹齋は、綴紙子に紙頭巾、取りさがしたる姿にて、さながら鳶が身振ひして、風に吹かれし如くなり。

典薬衆の登場による竹齋の狼狽、藪医の哀歓はここに極まったといえよう。

  以上、藪医譚の基本は、貧・「心まめならず」・汚衣に加えて「典薬頭との対比」の要素が重要であることが確認できた。狂言『神鳴』に見えた藪医/典薬頭の対立構造は確実に『竹齋』にも踏襲されたのである。

2  藪医譚―典薬・法印との対比 典薬と併称される法印、法橋、法眼なども視座に収めた。   『齋か於いても踏襲されるのを作検証してみる。その際にに続』藪への踏襲が確認できた医竹/典薬頭の対立構造が後

  寛文延宝頃刊『けんさい物語』(内題「けんさい物かたり医針問答

((

」)は、主人公けんさいが江戸浅草の二代続く鍼師でありながら、鍼を好まず、学問や連歌、喧嘩好きな医師として設定される。それでも貧窮に耐えかねて鍼で身を立てようとするが、失敗続きで浅草を立ち退き都へと旅立つ。その出で立ちは、「破れ紙子に古頭巾、腐り帯をしかとしめ、針を油単に包みつつ、「ゑい」といふて投げかけて、物憂き竹の杖を突き」という先述の藪医の要素を具有している。そして、この物語においてもやはり典薬頭が登場する。

  

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殊に一条柳原に、典薬の頭・法印のましますか、常は立入のさばりて、法印の前ともいはず、針の自慢、養生の道、物知り顔にいひければ、法印心をかしくおぼしめし、針の次第を詳しく尋ねさせらるるに、さいく針と見へて詳しく経穴しらず、「ただわが才覚にて立」、師匠を問へば「江戸にあり」といへり。「さて其師匠には何を習ひたるぞ」といへは「ひととせほど通ふて大事まで習ひ覚へたり」といふ。

  このけんさいの返事に法印は「大事といふものは無学の上にては知るものにあらず」として以下の叱責が記される。長文ながら引用する。

まつ、御身の家の針の始まりをおぼへ給へ。黄帝内経、素問霊枢とて十八巻あり。霊枢九巻をはいにしへは針経といふ。隋書経籍志にいはく「針経九巻是を九霊といふ、王氷あらため霊枢と名付」といへり。しかる時は内経よまずんば針たつる事知るまじ。其うへに針灸聚英、十四経難経等をそらにうかめずんば経愈穴しるまし。さて補泻といふことあり。呼吸、曲直、迎 かたずいのたてやう是なり。呼吸とは、呼は出づる息なり、吸は引く息なり。同じ穴に針さす時、補の針は病人の引く息に針を抜き、其あとをよくもむうちより気を出すましきとなり。是、補なり。また、泻は病人のつく息の時、針を抜き其あとをもます、気をほかへ出す。是、泻汚なり。曲直とは同し穴に針刺す時すこし歪めて刺すは補なり、直に刺すは泻なり。迎隋とは、経にいはく「其経脉、来る気を迎へて是をいだす、実を泻するなり。補とは其経脉随去気止之」とあれば、有泻無補。内経にいはく「熇々の熱に針する事なかれ、渾々の脉に針する事なかれ、漉々汗に針さすことなかれ、大きに身労したる時刺すことなかれ、大きに乾く人に刺すことなかれ、食過きたる人に刺す事なかれ、驚たる人に刺す事なかれ」。又、内経にいはく「形気不足、病気不足、針刺すことなかれ、是を刺せは、

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其気つき、老人は絶滅し、壮人不復、老人と気虚せる人に針すべからず」。此語皆、有泻無補の語なり。かくのごとく補いはなくしてわけしらずに針刺して人の命を縮める事もつたいなき事なり。とかく針の道をやめて本の知りた細工をし給へといへり。

  まるで医学部の講義のようである。このお説教にけんさいは、

仰せのことくに針をとまりたく存じ候へども、口すぎなく候もはや十四五年も針立申ゆへ、古の細工もなり申さす、年も寄り申せば目もかすみ申、いよ〳〵針を捨てがたく覚へ申なり。また、われら一人はかり無学にてはなし。(中略)京中に針たて雲霞ほど御座候。みな我等同前にて候。学問あるものはみな医者になり申候。針の礼銀より医者は多く取るゆへにて候。

と言い訳をする。法印は容赦なく続けて鍼の立て方、薬学、脈証、養生、灸点を説いたうえで、「孫思邈」、「秦越人」、「丹溪先生(朱丹溪)」「格致余論(丹溪の著)」「局方」「千金方」「岐伯」「黄帝」といた専門用語を入れ込みながら「よくよく心得給へ」と言う。ここに繰り広げられる藪医/名医の違いは、圧倒的な学力差である。けんさいは「何にても楽なることは無く候。金銀を山ほど欲しく候」とつぶやいて惨めに退散するだけであった。藪医/典薬の対比を鮮やかに描いてみせた作品といえよう。

  藪医/典薬の対比は『杉楊枝』(延宝八年)にも描かれている、貧・「利根発明」・汚衣という藪医の竹齋に僥倖が到来した。

当帝皇御脳に依て、竹斎を内裏へ召されんため、只今勅使の渡らせ給ふぞとて門前より騒ぎたつる。竹斎登天の心

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地して急ぎ寝間の隅へかけ込、十徳取てなげかけ、表に出て畏り、かうべをかたぶけ待たりしに、勅使は内へ入給ひ、座敷のかみに褥を敷せ、その上におはしまして、「今度御門御脳、御うれへにより、竹斎を法眼になさるゝ間、急て参内仕、御薬を差上べし、是は時の拵科」とて、白銀百枚、時服十重并法眼の薄墨、各一所に給りける、ありがたくも忝く謹で、勅答申上れば、勅使は内裏へ帰らせける。扨竹斎尻もちつき、かしらを叩いて悦び、「家の面目世の聞え、是にまさらん事あらじ」と、やがて紙子をとつてなげ、頂戴の装束を着し(中略)御座包の乗物にのり、道を早めて参内す、禁裏になれば、忝くも玉躰を拝し、御脈を診する時、何とやらん身の毛たちてぶる〴〵と震ひながら、尊前を罷立、御薬を調へ…、

  竹齋が法眼となった。帝を診るその昂揚する心理描写が丁寧に描かれている。ついでそこに同座した花山院殿が「ねざし賤しからぬ身にてなどて今までは月日こゝろのまゝならずや、さぞわびしかるべき」とねぎらいの言葉をかければ、月卿雲客も一同にほめそやし、近衛殿も「竹斎法眼には器量骨がら挨拶など地下とはさらに見えざりし」と言う。

 とのかふのいふ間に、御薬めし上られ、次第に御脳さめおはしましければ、御感のあまりに、「大医院法印竹斎」と、勅命に依て名を天下に広め、医光を家門にかゝやかす事、羨まぬはなかりけり。

  「医光」という見馴れぬ言葉が生まれるほど栄耀の極まりに竹齋は登りつめた。しかしこの藪医譚は、

しかのみならす、「是より此輿に乗りて帰れ」とて、御白砂より網代の長柄をゆるされて、西の御門へかき出す、運なるかなや、先かきたりし男、石壇につまづき、づでんどうど伏したりければ、法印も中よりこぼれいてゝ、四つ

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ばいになつて、左の輔 ほうかまち車打やぶりて血をながし、目をまはしうめきけるに、是々といふを見れば、睨の介なり。「汝いづくにや有けん、此うきさま見よや」といふ。「こは何事を宣ふそや、おそはれさせ給ふか」とて、抱きあぐるに正気付て、そばあたりを見れば、内裏にてはなかりけり。石壇にて打ちたりと思えしは、木枕のはづれたるにこそ。

というオチを用意する。所謂夢オチである。藪医は常に典薬との対比で、滑稽な笑われ者になるしかないのである。

めに召され、   『竹方ある「やんごとなき御」る。に「嬲り物」にするたとあ齋齋』(貞享四年刊)は竹の新世継ぎの筍斎が主人公で なぶ

「都にはそなたに肩を並ぶる医師もなく名人にてありしと。然は官位にものぼり、乗物童僕にて綺羅をみがゝるへき身のいかに禄にもあづからず、おちこちの道を歩行につとめ、供だに一人二人に限る。いぶかし」

と悪意ある質問をされる。そこで筍斎は、

「扨は某の名人さ、夫ほど微細に早く聞へ侍る事よ。仰のごとく、とくにも医官に昇り美々敷致べき身に侍れど、私めにひとつの曲 くせあつて、唯慈愛の心ふかく人の為能き事のみと存侍る性の捨がたく、態と心やすく仕り、分際軽き者どもに薬を施さんために逼塞分に見せかけ罷在し、それさへ誰が奏し申せし禁裏仙洞より勅使を下され、筍斎が医学広く療治の発明、叡聞に達し近きに参内仕べきよし知らする者あり。さあれは我ながら身持ちむつかしく、其上下くの者どもが闇夜に一灯消したるやうに思はん事も不便に存じ、広く治を施さんため、まだ宣下なき内に江戸に下り侍る」と言へば、皆死なぬ計りに笑入て…

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と答えた。まさに死ぬほど痛快な屁理屈であり、続いてやんごとなき御方から「医者は左様に在たき物なれ」の言葉を引き出すほどにある意味では諷刺的でもある。

  また『竹齋狂歌物語』(正徳三年)には次の話が記されている。

其頃江戸には事の外、霍乱はやり侍りて、ここの典薬も仕損なひ、かしこの大医も尻 けつまくりし折節、竹齋かの尾張にて額を打ちし事をや思ひ出けん、また火に懲りぬ心にて、一人か二人か治したりけん。大きなる看板に、ものの見事に朱をもつて「藪に功の者あり。霍乱の名医・ちくさい」と彫り入れ…

  典薬や大医も逃げ出した霍乱治療にドンキホーテよろしく挑む医師が竹齋であった。しかも一人か二人は平癒させたのである。彼は本当に藪医であるのか、新進気鋭の「名医」であるのだろうか。

  以上、本章では竹齋の後続作『けんさい物語』『杉楊枝』『新竹齋』『竹齋狂歌物語』に典薬との対比が受け継がれていることを確認した。同時にその典薬や法印との対比譚の変奏(バリエーション)も通観した。藪医の物語は、典薬・法印などすなわち名医の物語の裏返しもしくは併走にあると言ってもよいであろう。

 3  名医伝ー医陰の視座から   では典薬や法印側、すなわち名医側の描かれ方を見てみたい。名医伝は『史記』の「扁鵲倉公伝」を筆頭として、『後漢書』「華陀伝」、宋版『傷寒論』「張仲景伝」などがあり

((

、本邦では近代になってから富士川游『日本医学史』(明治三七年)に代表されるが前後を含めて松尾耕三『近世名医伝』(明治一九年)、竹岡友三『医家人名辞書』(昭和六年)、杉村顯道『日

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本名医伝』(昭和二八年)、『京都の医学史』(昭和五五年)、中野操『大坂名医伝』(昭和五八年)など陸続として出され、現在も医学史研究者を中心として、各地方まで目配りがなされており、質・量ともに膨大な成果があり、拙稿で全容を扱うことは不可能である。また、名処方を編集した『名医類案』(嘉靖二十八年江瓘自序)のような編纂物も名医伝に加えるとすればそのハードルと量は絶望的に高くなる。

  その膨大な世界と情報から本稿で求める要素を抽出するためには、どの基準から何を抜き出すべきであろうか。   本稿では次の二つ立場を用意し、藪医譚と対比する名医伝を分析することとする。その一つは刊行されていて再検証可能な資料を取り上げること、いま一つは「医陰(いおん、いいん)」の視座に注目することである。医陰とは宮内庁書陵部蔵『医陰系図』に代表されるように、医学と陰陽道をセットにした把握法である。そもそも醫の異体字「毉」自体が医と巫とを同一視することから造形されているように、医学は、陰陽道や道教とは近しいとする認識があり、医陰なるカテゴリーが一定の説得力を得ていたのである。そのため「比丘衆、医陰の族も今に到りて古方を学んで、時を補ひ人民をたすけ」(正保五年『不可得物語』)といった言い回しが普通になされる。

  まず刊行された著名な名医伝という観点から、青史社『醫家傳記資料』(昭和五五年)を取り上げることが有効であろう。そこに収載される作品は以下である。

   浅田宗伯『先哲医話』(光緒四年序、慶応二年序、明治十三年刊)

   白土龍峯『今世医家人名録』(文政三年刊)

   浅田宗伯『皇国名医伝』(嘉永四年刊)

   黒川道祐『本朝医考』(寛文三年序)

  本稿ではこの四作品に名医伝を代表させ、さらに吉田意安が中国の名医を編集した『歴代名医伝略』(慶長頃刊)を加えて、随時他の名医伝にも触れながら名医伝を論じることとする。

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  名医伝編纂の困難と価値は『皇国名医伝』の序文から容易に看取できる。丹波元堅は「皇国名医輩出。世不乏人。而史籍所伝。仍不過僅僅数子」として名医伝が無いことを歎き、喜多村直寛も「史の立伝、古へより難と称するも、而して毉の伝は更に難し」(原漢文)と言う。ここで直寛がその難解さを語る文脈に注目してみたい(傍線、筆者)。

如左氏説和緩。太子伝扁倉。文雖奇古典雅。而彼固非精于醫者。則上池之秘。肓膏之訣。不能悉伝也。其後笵蔚宗之於郭玉。陳承祚之於華佗。乃列之方伎。而与日者龜卜為伍。其言不足深信焉。

  医学(上池)を知らない文人が医伝を書くためにピントが外れてしまい、傍線部のように亀卜(占い)の者と伍されてしまう恐れがあると言うのである。幕末の医師らをしてこの危機感、則ち自分たちが陰陽師と同列化される恐怖があったことを如実に語っている。

  続けて著者の浅田宗伯の言が載るが、彼は純然たる医師にして医学史への造詣が深く、行状記・墓誌・系譜などから先哲の著書を裏付けて列伝体にしてみせたのがこの『皇国名医伝』であったと語る。つまり宗伯に任せれば医陰の枠ではなく純粋な医学史が編纂できると語るのである。宗伯は「皇国医学、上世は姑く置き、二百年来斯道の盛んなるは実に一溪曲直瀬氏を以て中興嚆矢と為す」として、曲直瀬一溪(初代道三)を筆頭に百四十名余の名医伝を編んだのである。

  ところで、ここでこの科学的述作の起点が曲直瀬一溪であることに注意したい。彼は「法印」を下賜された名医であり、先の『竹齋』作者はその門人であった。先述したとおり藪医譚はこの曲直瀬周辺から生まれたのである

((

。すなわち名医伝も藪医譚もともに曲直瀬という同じルーツを有しているといってよいのである

((

。名医曲直瀬道三伝と藪医譚との関係は次章で詳しく問題としたいが、藪医譚と名医伝が同じルーツを持つことが両者の劃然作業に混乱を生じさせる因ともなっているのである。『皇国名医伝』は果たして医陰の枠組みから脱却することができたのであろうか。その問いに明確

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に答えることは簡単である。曲直瀬道三伝が陰陽道とは無関係で、きわめて「科学的」であることを証明すればよいのだから。しかし、ことはさように簡単ではない。後述するように道三説話は充分に怪しいし、陰陽道の要素が否定できないからである。

は容易に想像できるが、それでも次のような医話が挙げられている。 たいと医儒る。あでのもせ概載を」話医の「名三一合う念下学とこい強がい合色の儒がもに話医のこれ、さ成形都以松   『十凡下以生先山艮が「善棚谷医侍藩間笠は』話医哲三先其よ友山北山、艮藤後に、うる超あと」見之得獨識之邁家、

余「小心胆大」の語を称して以て医家喫緊と為す(割注)先生の術固より前賢より創出す。然れども先ず医経経方に根底す。而して復た力を思邈諸子に致す。故にその大疾沈阿において自然遊刃余り有り。

(艮山の項・原漢文)

  孫思邈は『千金方』『千金翼方』を著した医師であるが、その中に「龍宮仙方」が記され、彼の遷化が人口に膾炙するなど極めて道士の色彩が強い

((

。儒学の色合いの強い当該医話でさえ、このように道教色をぬぐいきれないのである。名医伝は医陰からいつ解放されるのであろうか。

立の四の先る。いてれさ記伝峯の龍土白者作るよに進玄士が序峯文もとっもが」伝医名の「目龍あ併せてとたかも白土 よ無のこが、るれわ思にうイのクッブド乾ガの代現めず味著燥んな下に巻各は書本る。いで鶴込忍が影の陰医もに述び 章が文いを寄せて名士軒人、たっいと翠原立は北江る。簡戸に仏しさでのるれさ記便のが門専とけ付所の医名老詩南は に別出てしに巻四し、載にロハしイれぞれそち、か分版登たがも居庵善は西人、城錦老東各のは、ある。で巻の序士、 医門(専を名二一五一師との住在戸江に、うよるあ)名科を特ミ北南西東て、し附を徴と頭門専はに時や所居し、書」   『ノ此家名ノ千数鄙都謂所編に「手例凡は』録名人家医世国ヲル一助ヲ捜窮ノ家病然瞭目テシシ載記等所居業専其テ今

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つ構成となっているのであるが、鶴下玄進による龍峯の伝は以下の通りである。

龍峯先生、名は彝、字は子乗、姓秦、俗に白土雙儀、北総人、江戸白銀街第三衢に僑居す。秦の徐福の苗裔なり。(原漢文、以下同じ)

と書き出す。龍峯は不老不死の薬を求めて日本にたどり着いた徐福の末裔だと記すのである。続いて学問の深さと人柄の磊落さで人受けが良いことが記された後に、知り合った医師の名が挙げられる。弱冠で阿州の桑山東機に会い、京師で南陵先生、中西主馬、和田恭順、萩野元凱らと出会い、筑前で亀井長斎、肥後で村井椿寿、長崎で清医胡兆新と会うといった歴々の医師と交流があり、その上、金澤侯、岡侯などの諸侯に従ったことが記されて、次の文で結ばれている。

諸名家の書画を集め装して帖となして家に蔵す。匕剤の暇に香を焼き茗を烹て佳客堂に満つ。風流灑落以てその人となりを想ふべし。

  医人にして文人でもあり、交流範囲も広い。加えて磊落な性格であったらしく、大規模な人名録を編纂する最適人物であった。当然、医業への信頼も高かったであろう。同書に於いて龍峯は自身をも掲載している(最初の「本」は本科の略)。

  本  本銀町三丁目  白土雙儀  家有神方。一子伝来。歴世相承。名曰鶴肝丸。

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  龍峯の得意は、一子相伝の神方「鶴肝丸」であると記す。この秘方は脾疳、疳労、疳眼、労瘵、肝癖、癲癇、骨蒸、労熱などに有効だと記した後に(原漢文、句読点、ルビは執筆者)、

夫れ老人これを服すれば、則ち衰眼再び明け、痿 なえまら遂に強く、諸般労憊沈痾の疾、愈へざるはなし。真に「鬼神不測良薬」なり。

とする。すでに蘭方医学が一般的であった時にこの古い伝説をまとう回春薬でいまだに名を馳せていた医師、それが龍峯であった。「鬼神不測」の謳い文句に回春の怪しい効能が相俟って一種の神秘性を醸し出している。その神秘性の由来するところは不老不死を求めた徐福の末裔を名乗ったことと無縁ではないであろう。幕末の名医伝に於いても道教色を払拭できない。「医陰」の流れは脈々と受け継がれているのである。

  このように「医陰」が名医伝に通底するのであれば、改めて医学と道教との類似性を確認する必要があろう。

  慶長二年、吉田意安『歴代名医伝略』が刊行された。序に「夫明性理者儒学而、保寿命者道教也。兼有之者医而巳。豈謂非大道也耶。(それ、性理を明らかにするものは「儒学」で、寿命を保つものは「道教」である。その両者を兼ねるものは「医学」である。どうして大道ではないと言われるのか)」とあって、医学は儒教と道教とを兼ね備えるものだと堂々と明記している。この認識は、医学を自然科学の代表と見なすか、もしくは「医は仁術」と結びつけて「儒医」なる高みを捏造する後世の医学観とは相容れない。今日的にいうところの「虚学」の儒学と道教の二要素を持つのがこの当時の「医学」観なのであった。ゆえにこの名医伝は(用字は適宜改め、傍線「  」や句読点を施した)、

  惜乎。後世其道寝衰為衆技之流。至炎漢愈繁而愈乱真。其道晻昧。故班固叙方技為四種。「医経」「経方」「神仙」

(18)

「房中」是也。古今学其道而姓名揚溢者、伝記不可勝計。而神仙者、劉向『列仙伝』、葛洪『神仙伝』、沈汾陳葆光趙道一等有著述。房中乃神仙之一術也。独於「医経」「経方」未見伝記之全書。或失繁失簡。或時世之差殊姓名之混淆。共不無其弊。

  とあって極めて道教の書物に近いことを隠さない。むしろ医陰を喧伝するかのようである。

  黒川道祐『本朝医考』は林鵞峰の漢文三年序を有する名医録である。上巻には大己貴命と少彦名命以下細川勝元まで百名以上の伝記を史書を明示しながら掲載する。中巻は和気・丹波・曲直瀬など三百以上の医家の記事を載せる。下巻はわが国の疾病史や医療史である。道祐は医を外祖父である堀杏庵に学んだこともあって林羅山・鵞峰とも交流があり、一時安芸藩医ともなった。鵞峰が序を寄せるのはその関係からであるが、典拠として史書名を明記する姿勢は近世期の儒学者の著述に適うものであろう。しかしながら、

藤原道長公記云、一日術家謂藤原道長公曰「某日、家内有怪」。到期、相国閉門謝客。晡時有叩者。問之対曰「和州之瓜使也」。開門納之。于時太史安晴明太医、重雅僧都勧修在坐。相国顧安太史曰「家裏有齋祓。不知此瓜可嘗否」。晴明曰「瓜中有毒。不可輙啖也」。相国語修曰「許多瓜子何為毒乎」。修誦咒加持。忽一瓜宛転騰躍一座驚怪。重雅乃袖出一針。針瓜其動便止。割之中有毒蛇。針中其眼。

という重雅の「怪」治療が記される。文中に安倍晴明が記されるようにこの瓜の話は陰陽師の譚でもあるのである。儒学者である道祐をしてこの記事を採録させてしまうところに医学と道教が近いとの意識が強くあったのであろう。

  そして近代黎明期に浅田宗伯『先哲医話』に光緒四(一八七八)年序を寄せた清人張斯桂は次の如く語る。

(19)

予既序『皇國名醫傳』一書。而知扶桑國里亦有杏林。若木華中豈無橘井。宜乎視祖州為仙島。而化海嶠作神山也。然祇詳其姓氏里居。師徒授受。與夫活國活人之事。而於孫思邈龍宫秘訣。未勒成篇。『抱朴子』『金匱神方』未纂入册。徒令後之人、流連往昔。景仰遺徽。有華陀不在之歎焉。

  張斯桂は『皇国名医伝』を読んで、東海の扶桑国(日本)にも名医がいたことは分かったが、実態が不明であることを論じるのだが、その際に孫思邈の「龍宮秘訣」(『千金翼方』)、『抱朴子』の名を挙げていることに注意したい。これらはいずれも道教の代表書である。続けて、

日者復携『先哲醫話』一書来。求序于予。翻閲數過。見某氏治某病。察某候、用某藥。議論精卓。剖晰詳明。醫固井井而有條。事亦鑿鑿之可據。乃知太上玉経之說、猶傳諸王君、隐仙靈宝之方。堪師夫禄里、則是書之成。

と記す。病・察・薬という治療の基本施術とともに太上、仙靈宝という道教の語句が填め込まれているのである。時代が下っても名医伝は医陰から逃れることはできなかった。

  以上、本章では名医伝に医陰の底流、すなわち道教の名残が語り継がれていることをみてきた。この現象、すなわち粗く言えば、名医伝は近代的合理的医学と、「鬼神不測」の道教世界とのアマルガム(amalgam)といってもよいであろう。

(20)

4  名医伝のと藪医譚の間  ーおわりに変えて   本稿では名医伝と藪医譚との間を考えるために、藪医譚の一特徴として典薬・法印との対比構造があることを確認した。また名医伝に目を転ずれば、そこに道教色という要素が抽出されることも指摘した。藪医譚の対立要素として名医伝が存在するのであれば、名医伝には不可測があってはならないはずである、という現代的な期待は打ち砕かれ、名医伝からも不可知な怪異性が抽出されたのである。その怪異性を藪医譚へのカテゴライズ化が可能なのか、それとも名医伝の怪異性は藪医譚はまったく交わりを持たない別世界に聳え立つものなのか。

  そもそも名医の孫思邈が藥上眞人と称されるように、医学と道教は親和性が高い。道教で言うところの「丹」と医学で言うところの「藥」の明確な線引きは困難であろう。むしろその親和性を認めてしまう方が近代以前の医学は把握しやすいであろう。

  ところがその親和性を認めてしまえば次の困難が待ち受けている、すなわち藪医譚と名医伝の境界が曖昧化してしまうのである。

  先述したように浅田宗伯の『皇国名医伝』の筆頭は曲直瀬道三であった。道三はその知名度から「道三説話」と呼ばれる話群が生まれた

((

道三用アリテ関東ヘ下向ノ折節、道中ノ今ノ新井ニ泊リ、日暮テ主ノ脈ヲトリ観玉フニ動気ノ乱打来ル。道三、下人共ヲ呼、一人ツヽ脈ヲ観玉フニ何レモ災難ニ逢脈ナリシカバ、道三不思儀ノ念ヲナシ、其儘宿ヲ立て、夜ト共ニ五六里関東ノ方ヘ下向シテ宿ヲ借、上下ノ者共迄残ラズ脈ヲ観玉フニ平脈也。扨モ不思儀ノ事哉ト思ヒ給フ。其ノ夜新井ノ山ヨリシテ螺抜出テ新井ノ諸人災難ニ逢テ死スル者数ヲ不知ラ。其日道三死ヲ逃給フモ是脈相伝ノ印也。

(21)

夫ヨリシテ道三是四ノ脈ヲ秘シテ輙ク相伝シ玉フ事無シテ終ニ秘シテ失ヌ。(『鍼道秘訣集』貞享二年刊)

  道三の診脈の「神秘」、予言を語る説話で、根岸鎮衛『耳嚢』(文化六年跋)橘南谿『西遊記』(寛政七年)にも記されている。つまり医学書にも文学書にも記される道三の「事蹟」なのだが、まずこの陰陽師とも見紛う事蹟は本当にあったことなのか、それとも後代に作成された作り話なのであろうか。また事実としてあり得ることなのか。仮に「伝」(本当にあったこと)/「譚」(作り話)という概念で両者を分けるとすれば、この道三予言説話は名医伝、藪医譚、いずれに入れるのが相応しいのだろうか。

  荻坊奥路『名槌古今説』(明和八年刊)「仁術の本懐」は次のような話を収める(適宜、句読点、濁点。原文の平仮名も漢字に改めた)。

  半井家の元祖・知苦斎道三の事跡をきくに、本朝医道の中興にして、難症・異病をすくひしに、ここに往来して名誉をあらはされしは数へつくしがたし。ある時、越前の町を通られしことありしに、(中略)夫婦言葉を揃へ、「一子難治の病ひをうけ、いろいろと養生仕り候へども、次第にさし重りて今は術に尽き、無縁に救ひを求めんため此所へ出ばり仕り、これまで御出の医師方いづれも存志これなきよしにて一人も治せんといふ人なし。病態御覧くだされ、何とぞ御療治頼み奉る」と病人を蒲団に乗せて舁き出す。其の様子を見れば十四五歳ばかりの男子、鼻の先に下がり瘤、大さこぶしほどなるもの出来て石のごとく堅く鼻の内へ根ざし続きて、食事する時、箸などのすこし触りても痛み骨を削るがごとしといふ。両眼は瘤に引づられ黒まなこ真白にかへりて痛み忍び難く、危うふしてしばらくの内に絶へ入やせんとする態なり。道三とつくりと窺ひ見られ、ややしばらく思案致されしが、ほくほくとうちうなづき、心やすかれ。われよく治さん」

(22)

と申さるれば、父母をはじめ、ありあふ者ども大きに力を得、「よろしく頼み奉る」とひれ伏して敬ふ。

  さて、病人をいたわり助け起こして、脳の後(しりへ)一寸ばかりに鍼をおろして、「此の鍼そこへ徹(こた)へるや」と問るるに、病人うなづきければ、道三「さもこそあらめ」とやがて鍼を抜かるる拍子、いかがしたりけん、瘤もろとも落ちて両眼平日の通り明らかになり、前後に少しも痛むことなく平癒しければ、家内こぞりて蘇りたる心地に喜び合ふ事、つねのまひ足の踏む所を知らざるがごとし。

   道三の治療の腕がいくらよくても出来すぎた話である。この話もまた「伝」なのか「譚」なのか。試みにこの話に藪医『竹齋』の一節を並べてみよう。

竹齋脈を考へて、「熱気は無きか」と問いければ、「熱気はある」と申けり。「さてこそ申さぬ事か」とて、手ぐすね引て飛び退る。「頭通はせぬか」と問ひければ、「小鬢の邊が痛む」と言ふ。「さてこそ申さぬ事か」とて、自慢顏にぞ見えにける。「蟲は無きか」と問ひければ、「常々蟲も有」と云。「さりやこそ左樣にあらん」と言ひ、手ぐすねしてこそ見えにけれ。さて御薬を与へける。誠に時の仕合せにや、瘧はそのまゝ落ちにけり。余りの事の不思議さに、「薬種は何ぞ」と問ひければ、「古疊の黒燒、十四五年の古紙子の黒燒なり」。「かやうの薬種は珍しゝ。子細はいかに」と問ひければ、「我等の坊主に懸りし時、此病を病みければ、わなゝきぶるひにて有ぞとて、古き紙子を四五帖被せ、その上に疊を四五帖被せられければ、病は其まゝ直りけり。さてその故にかくの如く仕りたる」と言ひければ、皆々どつと笑ひけり。誠に毒薬変じて薬となれば、罪の深きも佛にやなる

  この竹齋の藪治療と先の道三の名治療との違いはどこにあろうか。

(23)

  また、近世初期の笑話集『戯言養気集』には次の話が書き留められている。この話を名医伝と感嘆するか、藪医譚と笑い飛ばすのか、両者の境界を改めて問いたい。

医師道三一渓へ、顔色をとろへたる人来て、「御無心の事に候へとも、気根のおつる薬をたんと下され候やうに」と申ける時、道三聞給ふて、「これハさてめつらしき所望でおりやる。見かけとハちがふた義と承」と仰られしかば、「いや我等の用にてハ御座なひ、女どもにたべさせたく存候」と申たれば、「何方もさやうにあるや」とて、大笑ひになつた。

  本稿では典薬や法眼の視点から、名医伝と藪医譚を切り分けようと試みたが、そもそも医師が典薬や法印、法眼を望むこと、それ自体がコンプレックスの裏返しなのである。中国では方技、つまり一職人という扱いで、本邦でも職人歌合に組み込まれる医師たちは、人の命を救っているという自負と、世間からの蔑視とのギャップに耐えられない。そこで何か勲章を求める。その一つが朝廷から与えられる典薬の資格、しかも典薬頭というポストである。これは彼らの虚栄心を大いに満たした。しかし典薬には数の限りがある。ついで狙ったのが、仏教界のランク付けの法印や法眼の称号であった。この僧位は中世から大安売りが始まり、絵師や連歌師もこの称号を争って求める。医師側も負けずにこの称号を渇望したのである。その浅ましさから生じるドラマがじつは藪医譚の温床ではなかっただろうか。

  冒頭の狂言『神鳴』に戻る。この狂言は奈須恒徳が「録事法眼雷の療治を衍義して作りし也」と看破する如く(天保元年『本朝医談』二編)、録事「法眼」こと中野智玄の事績を敷衍したものである。この中野智玄は後鳥羽上皇の治癒をもって法眼号を下賜されたが、実の娘の生体解剖を行い、雷も治療したとするなどの怪しげな伝説をまとっている。

  『神鳴』は果たして名医伝なのか、藪医譚なのであろうか。

(24)

(1)日本古典文学大系『假名草子集』(岩波書店、1965年)補注。(2)福田『医学書のなかの「文学」』(笠間書院、2016年)(3)年代推定は『假名草子集成』第二十五巻(東京堂書店、1999年)に拠る。(4)

(2)参照

(5)坂出祥伸「古代中国における名医伝の系譜」(第一一四回日本医史学会・第四一回日本歯科医史学会演題)には、唐代の甘伯宗撰『名医伝』、明代の李濂『医史』、徐春甫『古今医統大全』、清代の『古今図書集成』「医部医術名流列伝」、本邦の望月三英『明医小史』などの書名が挙げられている。(6)

(2)に詳しい。

(7)ちなみに、近時武田科学振興財団編『曲直瀬道三と近世日本医療社会』(2015年)が出版された。(8)福田「医事説話の行方―孫思邈説話をめぐって」(『説話文學硏究』第五三号、2018年8月)。(9)

(2)に詳しい。

本論文は、

SJ

PS科研費19

H00540(代表:高野信治)の研究成果の一部である。

(25)

<ABSTRACT>

The story of the useless doctors (Yabuisya) and the biography of famous legend doctors

F

UKUDA

Yasunori

There are two stories about doctors in Japan. They are the story of the useless doctors and the biography of famous legend doctors. There should be a clear difference between the two. The purpose of this paper is to point out the difference.

The story of Yabu doctors is drawn in contrast to famous legend doctors. On the other hand, the biography of the famous legend doctors is not scientific. They have a Taoist element.

However, it was found that there are areas that cannot be classified into both. A characteristic of Japanese classics is that they cannot be clearly distinguished.

This phenomenon is remarkable in Japan among Asian countries.

参照

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