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佐 渡 文 弥 節 の 伝 承 に 関 す る 一 考 察

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(1)

佐渡文弥節の伝承に関する一考察

付・早稲田大学演劇博物館蔵 佐渡古浄瑠璃録音資料目録Ⅲ

はじめに1

、佐

渡文

弥節

の曲

二、盲人太夫による伝承

三、平曲の音楽的特徴と佐渡文弥節

四、盲人音曲における曲節と詞章

結  

はじめに び

明治四十四(一九二)年六月十七日、東京音楽学校(現東京芸術大学) にお

いて'佐渡に伝わる文弥節の演奏会が催された。地方の芸能を調査する文部省の

(‑)事業の一環で'佐渡から上京した岡本文弥こと深山静賀、その弟子である岡本文

司が、それぞれ「国性爺合戦」の浜辺貝尽‑Lt「出世景清」の牢破‑を語ってい

る。一行はしばらく東京に滞在'各所に招かれて公演を行った。このあたりの経

緯は﹃佐渡が島人形ばなし﹄(佐々木義栄著、佐渡が人形ばなし刊行会、一九九四

午) に‑わしいが、1連の公演での聴衆のひと‑として永井荷風がいたことが'

同書によ‑報告されている。荷風はその体験を、﹃短夜﹄に次のように綴ってい

る。

この間はるばる佐渡が島から渡って来た楽人が'吾々の為めに文弥節を語っ

た。幾世紀昔の哀調を。文弥という作曲家の生涯を知る者は一人もない。け

れども吾々は其の単純なる旋律に怪しげなる夢を見た。

田   芋   川   み   ず   き

この時の公演は、読売新聞等にも大き‑取‑上げられた。また'東京音楽学校で

の公演にあたって解説をつとめた高野辰之氏は、のちに﹃歌舞音曲考説﹄(六合館'

大正四年)で'「明治四十四年六月十七日東京音楽学校で文弥節の演奏会を催した

とき演奏の初ま■る前にl寸其の紹介をした梗概」として、「文弥浄瑠璃」という一

章を立てて所感を記している。島内でひっそ‑請‑継がれてきた佐渡の文弥節

は'この上京が契機となって、はじめて全国的に注目されることになるのである。

昭和五年には佐渡の人形芝居としては初めての東京公演が実現'中川閑楽太夫

によるラジオ放送'レコードの吹込みも行われた。佐々木氏は ﹃文弥節太夫 中

(2 )

川閑

楽﹄

 (

佐々

木義

栄著

'文

弥節

太夫

中川

閑楽

刊行

会'

一九

七九

年)

 で

'「

早稲

大学の小田内先生だの'いろいろ偉そうな人がいました。上手にやったと褒めて

‑れましたが'人形がすんでから何だかんだと質問があ‑ました。しかしわしら

に学があるわけじゃなし、佐渡で聞いたことややっとることしか答えられません

わ」という閑楽太夫の言葉を紹介している。

佐渡には説経と文弥節の'二種の古浄瑠璃が語‑継がれている。そのうち説経

は江戸期よ‑人形を伴い、説経人形として演じられてきた。その伝来の時期につ

いては'伝承によれば享保頃かとされているが、もっと早い段階に伝わったので

はないかという推測も多‑なされている。

佐渡の古浄瑠璃の存在が一般に知られるようになると、中央からの、その語‑

物や伝承への注目も高まっていった。佐々木義栄氏によると、現在佐渡には説

経・文弥節合わせて三百冊程度の語‑本が伝えられているという。その大部分は

写本であ‑、中でも佐渡真野町の竹田人形座元'小田三四郎家出身の小田這茂と

いう人物が古‑は文政から明治初期にかけて書写した 「三四郎書き」と言われる

(2)

本は'特に大切にされている。

佐渡に残る語り本の研究では主に説経が注目を集めてきた。信多純一氏は「山

本角

太夫

につ

いて

」(

﹃古

浄瑠

璃集

 角

太夫

正本

(一

)﹄

古典

文庫

、一

九六

三年

)に

おいて佐渡の説経に言及し、その語‑本が山本角太夫の正本に近いこと、また広

栄座に語‑継がれる﹃小栗判官歌念仏﹄が、現在題名のみが知られる角太夫正本

﹃小栗判官﹄に相当するのではないかとの指摘をされた。広栄座所蔵の語‑本の来

歴については'その後も「佐渡の説経浄瑠璃‑金平物の語‑本﹃熊野合戦﹄﹃浜松

合戦﹄を中心に1」 (松本孝三氏'﹃講座日本の伝承文学 第七巻 在地伝承の世

界︹

東日

本︺

﹄三

弥井

書店

、一

九九

九年

)'

「古

浄瑠

璃資

料と

して

の佐

渡の

説経

浄瑠

璃本」(国夕紀子氏'﹃フイロカリア﹄第十八号、大阪大学大学院文学研究科芸術学・

芸術史講座編'二〇〇1年二月)等の論考が発表されている。中でも国民は、松

本氏が佐渡の語‑本「熊野合戦」・「浜松合戦」と、それぞれに内容的に近いと思

(3 )

われる「頼義長久合戦公平生捕問答井四天王国め‑‑」(大和少操(井上播磨按)カ、

寛文

三(

一六

六三

)年

五月

刊'

板元

未詳

)・

「公

平か

ぶと

ろん

」(

大和

少揚

力'

寛文

≡(一六六三)年六月、山本九兵衛版) の本文を詳細に比較検討しているのと同

じ方法によ‑ながら、主に信多純一氏所蔵の佐渡の説経写本を用いて、さらに多

くの演目の調査を行っている。氏はその考証によって、佐渡説経「八幡太郎旗

揃」・「節分記」が、現在その正本が残されていない井上播磨按の語‑物であるこ

とを推論した。

T方文弥節についてだが、佐々木義栄氏は佐渡の文弥節が近世中期には既に語

られていたらしいことを'島内に残る手紙や歌謡などの文書資料によって考証さ

れている (﹃佐渡が島人形ばなし﹄九一〜九九頁)。文弥節は盲人の座語‑で伝承

されていたが'明治三年以降、人形と結び文弥人形が始まった。その背景には、

明治維新による盲人保護政策の廃止と'それに伴う盲人たちの生活基盤の変化が

あったと考えられている。

文弥人形ははじめ、説経人形と同じ‑人形遣いを隠す幕を張っただけの高幕人

形の形式を用いていた。しかし舞台装置の屋体を取‑入れて御殿人形となってか

ら好評を博し、次第に高幕の説経人形を凌駕していった。座語り時代の文弥節は

(4 )

主に近松の時代物などを得意としていたが'晴眼者が支える説経に比べてレパー

トリーが少なかった。文弥人形が始まった当初には'説経人形に慣れ親しんだ観

客から、説経人形の十八番である金平浄瑠璃を所望される事が多かったという。

そのため、繊細で優美な節回しを標傍する文弥節では今まであまり語られること

のなかった金平物が、文弥節のレバー‑リーに加わっていった。﹃佐渡が島人形

ばなし﹄には'文弥節の金平物摂取について'

金平物は説経の高幕人形がやったもので盲人は語らなかった。従ってうちの

兄も習わなかった。所が人形に行‑と合戦物をやれといってやかましいので

仕方な‑やったものだが、そんな時はヤクブシもろ‑にかけずにズラズラと

語ったものです。

という'初代池田宗玄を兄に持つ人形役者一度照道の言葉が紹介されている。し

かしその内に文弥節にも晴眼の太夫が増えて、語‑物の種類は豊富になった。御 一

殿人形の人気によって島内には文弥人形の座が次々と誕生しうその一方で説経人  62

形座は現在のように広栄空座となってゆ‑。秋谷治氏は、この時期の佐渡にお一

ける人形芝居の盛衰について、

明治以後、人形芝居といえば説経人形よ‑も文弥節の方が意識されていた。

明治四十四年に荻野由之氏によって東京音楽学校へ招曙された折も、又再び

は昭和二十八年日本青年会館で催された芸術祭公演第四回全国郷土芸能大会

に参加する年までも、説経人形は忘れられており、文弥人形が佐渡の人形芝

居と島内島外を問わず認識されていた。

と述

べら

れて

いる

 (

「佐

渡の

人形

芝居

」 

﹃国

文学

解釈

と鑑

賞﹄

学燈

社、

一九

九九

八月号)。佐渡の説経・文弥節は、語‑本や曲節などから'ともに角太夫系とされ

ている。さらに、説経の方が文弥節よりも古態を残していると考えられてお‑、

囲夕紀子氏の論考にもみられる如‑、その研究資料としての価値は高い。しかし

(3)

生きた芸能としては、文弥節の方がよ‑人気を集めており、事実、中川閑楽太夫

をはじめ、幾人かの優れた演奏者を生んできた。文弥節を扱う郷土研究も多い。

梶原宗楽太夫によ‑教則本﹃佐渡の文弥節﹄(l九九八年)が出版されるなど'そ

の伝承も着実に行われつつある。

昭和

四十

七 

(1

九七

二)

年に

、早

稲田

大学

芸能

研究

会(

代表

鳥越

文蔵

氏'

ほか

に内山美樹子氏'武井協三氏など十余名)が、佐渡古浄瑠璃の調査を行った際に

採集した録音資料が'今日も早稲田大学に残されている。北村宗演・浜田守太郎・

本間正巳各氏と矢柄中学校が所蔵されていたテープの複写、また、翌四十八 (1

九七三)年に説経広栄座の審問幸雄氏を早稲田大学へ招いた際の記録も合わせる

と、そのテープの数は現在第一段階の整理がついているものだけでも'三十九本

にのぼる。いずれも貴重なものであ‑、佐渡での分布状態を反映してか、文弥節

の録音が八割を占めている。本稿では、この録音資料の公開に向けて作成し本稿

(5 )

末尾に付した目録にちなみ'文弥節の音楽性についての考察を行いたい。 の出羽座系の浄瑠璃では、義太夫節の影響を強‑受けて、「スエテ」が「ウレイフシ」 にとって代わる状況が存在したのである」と記し、二代目文弥の時代と山之口文弥節の伝承時期との関連性を指摘された。

一方佐渡の文弥節及び説経においては、「はじめに」で述べた如‑、特にその語

‑本の来歴と文学的考察を中心とする高度な研究がなされてきた。節付研究の面

では

'﹃

文弥

節浄

瑠璃

集 

上・

下﹄

 (

佐々

木義

栄編

、1

九七

八〜

九年

)'

﹃佐

渡の

弥節

﹄ 

(梶

原宗

楽著

'一

九九

八年

) 

﹃佐

渡文

弥節

の伝

承源

につ

いて

﹄ 

(渡

部勇

次郎

著、

1九

八六

年)

 ﹃

佐渡

文弥

節考

﹄ 

(渡

部勇

次郎

著、

二〇

〇〇

年)

など

に'

主に

(7 )

弥節の曲節についての考察がみられる。このうち﹃文弥節浄瑠璃集﹄の下巻には'

文弥節の役節の解説と中村敏郎氏採譜の五線譜表が付され、佐々木義栄氏の ﹃佐

渡が島人形ばなし﹄ にも転載されている。そこには、

序語‑・おろし・かんおとし・は‑おとし・泣きおとし・三口返し・大三重・

れいじゅう・はずみ・いろつなぎ・愁い節・の‑・かんどめ・きよめ三重

(きおい三重とも)・送‑三重

一㌧佐渡文弥節の曲節

角太夫系の浄瑠璃を伝えているとされる浄瑠璃は'佐渡の他にも'石川県石川

郡尾口相乗二口、鹿児島県薩摩郡東郷町斧淵、宮崎県北諸県郡山之口町麓に、同

じ文弥節という名称で存続している。また'石川県石川郡鶴来町(旧尾口村) の

Q

深瀬でくまわしも角太夫系と認められる。山之口麓地区に伝承された文弥節につ

いては'平成五(一九九三)年に﹃山之口麓文弥節人形浄瑠璃調査報告書﹄(山之

口町教育委員会)という詳細な報告書が発表された。この報告書に収録された内

山美樹子氏の「文弥節の曲節」では、加賀按・義太夫系の曲節「スエテ」に対応

する角太夫系の「ウレイフシ」をめぐって考察がなされ、山之口麓の文弥節に伝

わる「すえて」が、加賀操・義太夫系の曲節名を用いながらも'記譜位置におい

て角太夫の節付により近いことが述べられている。氏はその上で、二代目岡本文

弥の正本に「ウレイプシ」と「スエテ」が両用されていることから'「即ち宝永頃 という十五種類の役節が挙げられてお‑、各々解説が加えられている。佐々木氏は同書の中で、

佐渡の文弥節には「ノリ」「キヨメ三重」「ハリオトシ」三つの強みの節に対

して「三口返し」「レイジュウ」「イロッナギ」「ウレヘブシ」「七ツユクリ」

「ナキオトシ」等六つの哀れ向きの節があり、当時八十六才だった中川閑楽太

夫の説によれば「文弥節は愁嘆が大事で人を惹きつけるようにせんならん」

と師匠から戒められているのです。

とも述べられている(二八五頁)。さらに同箇所には、佐渡の文弥節の中でも代表

的な役節は、三口返しとの‑であるということが記されている。この二つについ

ての解説を次に挙げたい。

(4)

三口返し 愁嘆にかかる節で'荒向きの 「の‑」とともに最も多‑使われ'文

弥節のなかではいちばん代表的な節といえる。一の節、二の節'三の節と、

三節で一単位になるので「三口返し」というのだが'太夫によっては「愁嘆」

という人もいる。

二 二、三と続‑のが普通だが、三、一、二となったり'二㌧ 三となったり

自在に使われるLtまた'「序語‑」めいた「地語り」の‑‑返しを避けるた

めに'その中へはさむこともある。

「三口返し」と「の‑」は度々使われ'普通は役節の中へは入れないのだが'

便宜上ここでは役節として扱った。

のり 荒向きのばあいに使う。愁嘆の 「三口返し」と共に最も多‑使われる節

である。と‑に勇みをつけるばあいの節は「大の‑」、女などの控えめな荒向

きには 「しのびのり」をかける。

「三

口返

し」

 の

解説

にあ

る'

「「

三口

返し

」と

 「

の‑

」は

度々

使わ

れ'

普通

は役

の中へは入れないのだが‑」という件‑からは、この二つの曲節が佐渡文弥節の

曲風の中核をなすものであることが推せられる。﹃佐渡文弥節考﹄ には'

三口返シとノリを深山静賀は節譜(役節) に加えなかった。節譜でな‑曲節

として取‑扱ったことかと思う。(中略)また「役節」は文、語りの山場とな

るような所'一層場面を盛‑あげる、補佐の役目で'一段中に何度も連続し

繰返し語られるものでない。

という'「三口返し」と「の‑」の'他の役節とは違った性質をよ‑伝える1文が

ある(七四頁)。中でも「≡口返し」はその構成が特徴的であ‑、こういった趣向

の曲節は、加賀操・義太夫系にも'角太夫系にも類似するものが見あたらず、佐

渡文弥節に固有の曲節といってよいであろう。この 「三口返し」が曲の中でどの

ように使われているかについてだが'既刊の全集類から転載したと思われる浄瑠

璃本文に'佐渡文弥節の役節が記譜されている﹃文弥節浄瑠璃集﹄から、「源氏烏

Q

帽子折」 二段の一部を次に引用する。降る雪の'音聞‑程に静かなる'竹よ‑奥の一つ庵猫の通路痕付けし、たゞ 肋

1

の道細‑、渦火ほのかに掻立て'女の業かしどけなき、引裂紙を結びつぎ'半あ

げたる伊予簾、嵐ぞ雪を持て来る、常盤御前は灯火の影をたよりに尋ねより、

﹃大和へ下る女なるが、幼き者を召具して雪に道を失ふた‑﹄一夜の情とありけれ

ば'十八九なる女房の紙燭かゝげて緑に出て'親子の人をつ‑くと打まも‑'

悼しの有様やお宿申たうは候へども'此頃平家の沙汰として、義朝の由縁を強‑ コトバ

詮議の候が、﹃人々の有様答めんは必定なり白は白妙とて藤九郡盛長が妹源氏譜

三 ノ 一

代の者なれども、不思議の緑にて平家の侍'弥平兵衛宗清の忍び妻にな‑候﹄今

にも夫の宗清殿来‑給はゞ'憂目をこそ見給はん情なしとな思召そな、妾が辛き

オ ト シ

はいとしさゆへ何処へな‑とも落ち給へと'いと懇の詞の色、紙燭吹消し人にけ

‑、常盤も今は頼み切れ、力も落て先へも行れず、後へとては戻られず、とても

I

 

I

'

'

.

.

,

'

'

'

'

'

.

,

'

風も寒かりし、身は習Lと身を捨て兄弟に降る雪を打払いノ(\、あはれ訪らふ小

トシ夜千鳥泣て其夜を更さるゝ

この後の部分、また他曲においても「三口返し」は随所に記譜され、曲節として

作用する詞章も長きに渡る。一から三の節が独立して用いられている例も多‑あ

‑、「三口返し」が佐渡の文弥節にとって'中心的かつ重要な曲節であることがわ

かる

ところで同書のあとがきには、佐渡人形芝居保存会長である北見角太郎氏の 。

「佐渡の文弥節は盲人によって伝承されたため'いわゆるフシハカセのついた正

本がありませんでした」という記述がある。そのため'﹃文弥節浄瑠璃集﹄は、役

節に忠実であるとされている北村宗演太夫の語りを参照して新たに記譜を行った

ものだという。早稲田大学演劇博物館には、佐渡で特に権威ある本とされている

「三四郎書き」の筆写本が、一冊納められている。近松作の「姫山姥」(所蔵番号・

(5)

ニ}

‑0

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正本

であ

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、こ

れに

もや

は‑

節付

は三

重し

か記

され

ていない。

それでは'明治初期まで盲人によって語られてきた文弥節の詞章と曲節は,ど

のように伝承されてきたのであろうか。次章からは'いかにして「≡口返し」の

ような特徴的な曲節が形成されたのかという問題も含め、盲人太夫による佐渡文

弥節の伝承について考えたい。

二、盲人太夫による伝承について

慶応三年生まれの文弥人形遣い、新田伊作著とされる﹃耳眼書集﹄には,佐渡

文弥節太夫系譜が記されている。新田伊作が古老達から情報を得て作成したもの

であろうと考えられているが、その系図によると、佐渡ではじめての晴眼の太夫

は、文久二(一八六二)年生まれの池田宗玄で、それ以前の太夫は全て盲人であっ

たとされているo実際の系譜にある人名をみると、駿河l・常盤一など'「こ

のつく名を持つ太夫が多い。これは、盲人組織たる当道産の一員であることを示

すものである。﹃日本盲人社会史研究﹄(加藤康昭著、未来社二九七四年)には、

初心(無官)ならば一方は春・了・清・弥、城方は千二二・長・慶などのT

字を頭や尾に付けた初心名を名乗る(例'春悦・清弥・三清・慶栄・徳弥な

ど)

。(

中略

)所

定の

官金

が調

えば

打掛

に昇

進し

、初

心名

を改

めて

l方

は春

1,

城方は城竹などと名乗る。 人の為に比較的覚え易い語句、覚え易い曲節といふ考の下に一流を工夫してくれたものが伝はったのであって、入門の始には烏帽子折(「源氏烏帽子折」・筆者注)二段を親し‑師匠に授けて貰ふことになって居るが,これさへしまへば、一通の曲節は伝習したものといってもよい位で、あとは文句さへ覚えれば、何でも語ることが出来る。」とまでにいって居る。

という記述がある(五lO頁)。岡本文弥が1流を工夫したという件りは伝説の域

を出ないが'「源氏烏帽子折」二段を伝授されれば、他曲にも対応できるというこ

とは、盲目の太夫に実感としてあったのではないだろうか。

実際には'文弥の盲人太夫達のレパートリーはそれ程多‑なかった。佐々木氏

は明治十九(一八八六)年生まれの盲人太夫岡本阿波野について,

声量に恵まれ、ヤクブシを正確に語‑、今にして思えば大切な太夫だったと

いえますが'盲人のため'店がせま‑、源氏烏帽子折'天神記,出世景活,

(9 )

こもち山姥のほかは佐渡鑑‑らいのものでした。

とある。実際'駿河一は天保二(一八三一)年に「半打掛」という盲官をとって

お‑、その後「打掛」、「一度の中老引」へと昇格していたことが'佐々木氏によっ

て報告されている。また'初代池田宗玄の師であった池野文慶が'城方の初心で

あったこともその名から推測される。

高野辰之氏の﹃歌舞音曲考説﹄には、佐渡文弥節の由来について、

先方のいひ伝へでは、「佐渡の文弥節といふものは、岡本文弥が貞享の初年盲 と記している。それでも、やは‑佐渡において、文弥節は盲人達を支える大切な生活手段のひとつであったと考えられる。勿論、盲人の生活と音曲との関りは全国的に強いもので、江戸期の各藩では盲人保護の立場から、晴眼者が音曲を習得するのを禁じる法令が度々出された。盲人の音曲について佐々木氏は「語り物は盲人のお家芸でした。表芸は平曲でも、実際は文弥や歌のたぐいが歌われ語られていたのでしょう。」と述べられている(﹃佐渡が島人形ばなし﹄一〇七頁)。しかし、佐渡でも表芸としての平曲は根強‑語られていたようで'﹃佐渡が島人形ばなし﹄では、盲目の文弥太夫・池野文慶が三味線箱のことをいつも「琵琶箱」と呼んでいたことや(1〇七頁)、佐渡の海府地方の老人達が'「わが身の不幸を嘆くとき、近頃まで「云わば語らば浄瑠璃平家」ということばを使」っていたことが報

告さ

れて

いる

 (

八六

頁)

0

また、佐々木氏は明治二十7 (一八八八)年に'池野阿波7という文弥語‑の

(6)

還暦祝いに措かれたと考えられる掛軸について記され'そこに書かれた次のよう

な護を紹介している (九三〜九四頁)0

昔古文弥坊と云へる者あ‑て'過去を明らめ信心堅固に一心をこらし'弁財 三、平曲の音楽的特徴と佐渡文弥節

薦田治子氏は「平曲の曲節と音楽構造」(﹃平家琵琶‑請‑と音楽﹄上参郷裕康

編、ひつじ書房、1九九三年) という論考の冒頭で、天の哀憐をうけ'琵琶の一曲手練を得 勧善懲悪を教え世のあ‑さまを感じ

て、琵琶に合せてふしづけをせLと云ふ、是を号し文弥婦Lと質して今に唄

ひ伝へぬ‑

(傍

線部

筆者

注)

平曲の音楽は'講式、能、幸若舞などの中世起源の諸芸能と同じように'類

型的な旋律の組合せによって作られている。最近の平曲研究では'この類型

的旋律のことを「曲節」と呼ぶ。高野辰之氏﹃歌舞音曲考説﹄には、佐渡文弥節について、「これを聞いた人の話に

ょれば、大序の語‑出しなどは平家其の侭だともいふ」 (五二頁)とあり、「説

経節と筑前琵琶との合の子」という田辺尚雄氏の談もあるなど(﹃島国の唄と踊﹄七

三頁。田辺尚雄著、磯部甲陽堂、一九二七年)'佐渡の文弥節と平曲の関連性は今

までも度々指摘されている。しかし、具体的にどういった点において佐渡文弥節

が平曲に類似しているのかはう文弥節の三味線が'平曲における平家琵琶の奏法

と同じ‑主に間奏に用いられているということ以外にはあまり触れられていな

い。

井野

辺潔

氏は

と記している (一六一頁)。この「曲節」について金田一春彦氏は'

平曲の一曲一曲は全て「曲節」と呼ばれる部分の集合といえる。これは中世

に起こった音楽一般の傾向で'例えば謡曲でいうと「一声」とか「名乗‑」

とか呼ばれる部分が高野氏(高野辰之氏・筆者注)が謡曲の曲節の名称とし

たものであった。平曲の譜本を見ると、本文のあいだに「口説」や「中音」

の文字が注記されている。それらは、その文字の注記から次の曲節を表す文

字の注記までが初めに記された曲節に当たる。

66

中世の語‑物、たとえば平曲などは、一句切‑語られると、琵琶が合の手と

して弾かれ、また語りつづけられて行‑、語‑つつ同時に弾‑ということは

なか

った

。(

中略

) 

その

点、

浄瑠

璃の

音楽

性は

高い

と述べてお‑(﹃日本の音楽と文楽﹄井野辺潔著、和泉書院、一九九八年)、こう

いった考え方によれば佐渡文弥節は浄瑠璃よ‑平曲に近いといえようが、この間

奏的な演奏法は佐渡の説経にも顕著であ‑'この件に関しては、義太夫節以前の、

古浄瑠璃の実態に関する問題として扱うべきであるかもしれない。

それでは、共に盲人芸であった佐渡文弥節と平曲には、その他の具体的な類似

性が存在するのであろうか。

と説

明す

る 

(﹃

平曲

考﹄

二三

頁o

金田

l春

彦著

、三

省堂

、1

九九

七年

)。

今日、曲節というテクニカルタームは平曲以外にも、主に語‑物に属する日本

音楽の研究にご‑1般的に使用されているoこのことは日本の語‑物音楽の多‑

が、薦田氏の言われる「類型的な旋律の組合せ」によって構成されていることを

端的に表している。

(1 0)

平曲の曲節は、金田一春彦氏によって四十種が報告されているが(「平曲の大旋

律型

の種

類」

 二

二〇

頁。

﹃日

本音

楽と

その

周辺

﹄'

音楽

之友

社、

一九

七三

年)

、そ

曲節の中にはさらに細かい規定がある。薦田氏は'平曲の旋律について次のよう

に述べている。

(7)

3 肝 e

平曲の旋律は'四度の関係にある二つの音を中心に動くが、下の音のほうが

より強力である。この音は、従来、「基音」「中心音」「中心核音」など様々な

用語で呼ばれていたが、ここでは「基礎音」と呼ぶことにする。(中略)曲節

により基礎音は決まっている。例えば口説なら下ノ音で終始するし、三重な

ら甲ノ音で始まり、上1甲1上‑下ノ音、と動‑。このような曲節内での基

礎音の動きを租旋律と呼ぶ。

この「租旋律」は曲節によってある程度定められているという。例えば,薦田氏

は一曲の中でも時にその中心となる曲節「拾」について、

合戦など勇壮な場面を措‑のに用いられる朗請的曲節である。この類の曲節

が多‑含まれている曲を拾物という。拾は段の中心となる独立曲節である。

呂・

下音

・上

音は

セットになって現れて、拾段を構成する。そのような拾

段は尾崎家本「平家正節」では五七カ所を数える。典型的な組合せを三種あ

げ ⁚

C ォ

' "

呂・

下音

・上

音2

7カ

呂・

下音

・上

音・

呂・

下音

・上

音7

ヶ所

下音

・上

音1

3カ

残る

1

0カ

所は

これ

らの

合成

型か

省略

型で

ある

(傍

線部

筆者

注)

それに対し近世期に成立した義太夫節は、多‑の類型的曲節を持ちつつも,中

世期の平曲や謡曲ほどの厳格さはなくドラマに沿って自在な展開を見せる。こ

れは、平曲や謡曲の作詞と作曲とが'非常に密接な関‑を持っていたのと異なり、

義太夫節がこれらの分業を行っていたことにも関係すると考えられる。

一方佐渡の文弥節については'先に記した﹃歌舞音曲考説﹄中の「入門の始に

は烏帽子折二段を親し‑師匠に授けて貰ふことになって居るが,これさへしまへ

ば、一通の曲節は伝習したものといってもよい位で、あとは文句さへ覚えれば、

何でも語ることが出来る」との言い伝えから、義太夫節よりも、むしろ平曲や謡

曲の中世的な音楽構造を用いて構成されていることが感じられる。

文弥節の芙演者である梶原宗楽太夫の著作﹃佐渡の文弥節﹄には、こういった

中世起源の平曲や謡曲に近い構成を思わせる役節解説がある。

ィロツナギ 色気と哀愁のエルク、シットリとした節O中音‑高音‑低音とな

る。一㌧二、三'四ノ節で構成。愁嘆系。

大ノリの節 ノリ節と同じ節調ながら場面や'節の変化をつける二の節、二

の節がノリ節のふた節の長さに匹敵するよう、長‑、ユックリのばして語る。

ハズミ 地落し系の節。気分、場面の展開'人物の退場仕切などに弾むように

語る。一の節'二の節、三の節となる。

と分析している(「平曲の曲節と音楽構造」一七八頁)。

以上の如く平曲の音楽的構造には厳格なる規範が存在している。つまり平曲

の各曲は'構成面からみると極めて類型的な曲節の積み重ねによって成‑立って

いるといえる。こういった類型的構成は盲人の記憶の助けともなり、多‑の曲に

対応してい‑のを可能にしたのではないだろうか。

平曲と同じ‑中世に成立した謡曲も'やは‑類型的曲節の集合によって構成さ

れている面がある。一通‑の曲節を習得すれば、他曲にもそれを活かしていくこ

とができる。そういったところがー近世期から現代に至るまで'謡曲の素人稽古

着が存続している所以でもあろう。 「三口返し」と同じく複数の節が組み合わされて成立しているこれらの役節内の構成は、平曲においてひとつの曲節が、その内部に呂1下音‑上音などの定まった租旋律を備えていることを努第とさせる。第二章で引用した﹃文弥節浄瑠璃集﹄のイロツナギ・大ノリ・ハズミの記譜には、梶原太夫が示したような節数の指定はないが、仮にこれらが書き込まれれば、そこにはかなり緊密ゑ即付様式、あるいは音楽的構成を見出すことが出来ると思われる。このような規則性をもってすれば、実際に正本の節付を日で確認することの叶わない盲人太夫達が,「源氏烏帽子祈」の二段日を習得した後、「あとは文句さへ覚えれば」他曲に対応してゆくことも、ある程度は可能であったのではないだろうか。

(8)

平曲と佐渡文弥節の直接的な影響関係の有無は不明であるが'意図的ではない

(12)にしても、盲人同士が伝承のために、それまで身近な音曲であった平曲に倣って

佐渡文弥節の構成を整え、その結果として両者が類似した音楽的性質を持つに

至った可能性を想定することはできよう。尤も'本稿で言うところの両者の類似

性は、あ‑まで音楽的な構成についてのものである。渡部勇次郎氏は、角太夫節

で多用される曲節'カン・ハルの記譜がみられる箇所に、佐渡の文弥節は概ね

「三口返し」を用いていることを指摘された(﹃佐渡文弥節考﹄二三〜七頁)。佐

渡文弥節にはウレイプシ・カントメ等'角太夫が使用したものと同名の曲節が伝

えられているが、伝来時の旋律が「三口返し」等の、より類型的な曲節に再構成

されていったと考えた場合に'盲人音曲としての平曲の音楽的構成が'改めて関

連性を帯びて‑る。また、義太夫節以前の古浄瑠璃が、平曲からの影響を含む中

世的要素を多分に残していたとされることからも、説経を含む佐渡の古浄瑠璃

(12)と、平曲との類似性についての考察は意味のあることと思われるのである。

四、盲人音曲における曲節と詞章

本稿で用いてきた「平曲」という名称は、言うまでもな‑琵琶法師による﹃平

家物語﹄の語‑を指すものである。﹃平家物語﹄には、平曲の語り本としての当道

糸、読み本としての非当道糸のテキストが存在する。このうち、非当道系には'

それが増補されてい‑傾向にあったことから、多数の本が知られている。一方音

曲と結びつき'盲人によって伝承されてきた当道糸にも、やは‑多‑の諸本が存

在する。当道系﹃平家物語﹄詞章の流動期は'鎌倉中期から長きに渡っており、

l方流を確立したと考えられている覚一検校が応安四(二二七l)年に覚1本を

成すに至って、ようや‑固定化への道を歩み始める。

﹃平家物語﹄の詞章流動について、岩波日本古典文学大系﹃平家物語﹄上(高木

市之助・小棒正夫・渥美かをる・金田一春彦校注)の解説には'

この平家物語詞章成長期において、語り手である琵琶法師が'平家物語の成

長と密着していたであろうことが注目される。換言すれば'彼らは「平家物 語」の語‑手であるという誇‑を持ち、この物語の高度の展開を希い、その完成に協力したであろうことが察しられるのである。(中略)もし彼らに「平家物語」の語‑手であるという自覚と誇‑がなかったならば、彼らの語‑はこうした詞章成長期に平家物語から離れて'例えば蘇武物語、小督物語、高倉宮物語など、独立した幾多の物語へと展開して行ったに相違なかろう。

という記述があり'平家物語の成立と展開には'語‑手としての盲人琵琶法師が

深‑関与すると考えられている。従って、平家物語研究における音楽面でのアプ

ローチは今までにも広範囲に渡って行われてきた。また、文学としての﹃平家物

語﹄よ‑も'盲人音曲としての平曲を中心に考察を行う論も、多く発表されてい

る。奥村三雄氏はその著書﹃平曲譜本の研究﹄で、「平曲の詞章と旋律」という章を

立て'平曲の詞章異同と音楽性との関連性について論じられた。氏は、覚一本以

下一方流諸本の本文異同を調査して'「ここで特に注目すべきは'平家物語諸本の

本文異同が曲節の種類と深い関係を有する事だろう。」と述べた上で'

︽自声・ハツミや口説の類など音楽性の薄い曲節は、1股に詞章異同が著し

‑、歌の類や初重・中音・三重・折声など音楽性の著しい曲節は異同が少な

い︾という傾向性を認め得る。

68

と指摘されている。さらに氏は、「音楽的旋律に支えられた詞章の保守性」という

ことに関し、

(A)音楽性の強い曲節は師資相承の際における厳格さが想定される。

(B

)音

楽性

・韻

律性

が記

憶を

助け

る。

(C)何かの事情で詞章を動かそうとした場合、音楽性・韻律性の固定してい

る部分は'その関係で余‑大き‑動かせないという様な事も考えられる。

という三つの観点を示された。

(9)

例えば謡曲の室町期写本間において、詞章の異同が目立つのは、地拍子という

定まったリズムが存在する拍子合の部分よへリズムに支配されない拍子不合や

詞の部分に格段に多い。奥村氏の挙げた(C)に相当する事例であると思われる。

また'盲人音曲の伝承において特に顕著であると考えられるのが、ォ)‑(m)で

ある。当道座の厳格な師弟制の下にあった盲人達は、ォ)(ォ)のような要素に

ょって伝授を受けた後は'やは‑(C) にある如‑その記憶を容易には改変しな

かったであろうと想像する。

佐渡文弥節の、曲節において定まった節を繰返す「三口返し」等の、義太夫節

よりも平曲などの中世的音曲に近い音楽的構成が、曲の伝承を助けたと推測され

ることは先に述べた。事実、近松の「源氏烏帽子折」や角太夫の語り物などが大

幅に語‑崩されることな‑伝えられてきたのは'こういった音楽的構成によると

ころも大きいと思われる。その強い伝承力を孝之とする前提において、説経を中

心に佐渡の古浄瑠璃語‑本を、中央の古浄瑠璃研究に活かす試みがなされ、成果

を上げてきたといえる。しかし、佐渡と中央の語‑物の比較を行う際には、助詞

や接続詞、言い回し等の細かな差異が必ず問題となる。それが本の来歴によるも

のなのか、もし‑は島内での伝承過程における変化なのかを判断するのは極めて

難しい。そういった場合、その部分の曲節上の伝承を考慮に入れて検討を行うこ

とは'少な‑とも文弥節においては'これまで述べてきた盲人音曲としての特徴

を考え合わせた時、決して無意味とは思われない。現在平曲研究では、そういっ

た研究手法がある程度確立して成果を示している。各地に残される古浄瑠璃の中

では格段に複雑な節付体制を有する佐渡文弥節研究でも、曲節と詞章異同の関連

性を視野に入れた考察を行うことが充分有効なのではないだろうか。

結 び

以上、文弥節の音楽的構造と、その研究資料としての価値について記した。主

に、規則的な音楽的構造が詞章の伝承を助けるtという方向で述べてきたのであ

るが'1万では平曲の節付と詞章の関係についての、 平曲の節付けは'原則としては詞章を第一とし、つとめてそれに添うように努力されているが、固定した旋律型の部分では逆に詞章を引寄せて、型にはめこもうとする働きが起って‑るのではなかろうか。

という指摘もある(渥美かをる「語‑本平家と文法」ー﹃講座 解釈と文法﹄第五

巻、明治書院ー一九五九年)。佐渡の文弥節でも、音韻数がある程度定型化してい

る曲節が付された詞章においては、詞章が曲節に合わせて改変されるようなこと

も起こり得るかもしれない。そういった意味でも、佐渡文弥節の役節が記譜され

た﹃文弥節浄瑠璃集﹄や'実際の語‑の録音資料は貴重であるといえる。

本稿では文弥節の曲節についてのみ述べたが、文弥節に比べてその曲節研究が

あまり進んでいない説経の音楽性も、今後の課題として興味深い。音楽性が詞章

の流動に関るのは、盲人音曲にのみみられる現象ではない。先述の如く、拍子合

と拍子不合の部分で詞章変動率が異なるという謡曲の例もあへ音楽性と詞章と

の関りは、説経にもおそら‑存在すると考えられる。

「はじめに」でも記した通‑、早稲田大学芸能研究会の調査によって'同大学文

学部演劇映像専修重にはかな‑まとまった量の録音資料が保存されることとなっ

た。今までも同専修室ではこの資料が様々に活用されてきたが'近年早稲田大学

演劇博物館へ移管され、目録の作成を含め、公開に向けての準備が進んでいるの

は喜ばしいことである。この録音資料が今後の佐渡古浄瑠璃研究のために有用さ

れること'また、今は故人となった太夫達のいにしえの語‑が、少しでも多くの

人の耳に触れることを願うものである。

本稿を成すにあた‑、早稲田大学演劇博物館には資料の閲覧等でお世話になった。厚‑御礼申し上げる。

注(‑) 深山静賀の改名について高野辰之氏は'「静賀は東京へ来る途中で、誰に勧められたのか岡本文弥といふ名を継いで来た。こんな事も後世には疑問の種となる虞があるから附記してお‑。」(﹃歌舞音曲考説﹄)と記している。(2) 同書には附録として'中川閑楽太夫の語‑を録音したカセッ‑テープが添えら

(10)

れている。演目は以下の通りである。同書一五八頁の記載順に'「源氏烏帽子折・

伏見

の里

」「

挙常

盤・

かご

の場

」「

姫山

姥・

糸萩

仇討

」「

平家

女護

島・

あづ

まや

腹」

「姫

山姥

・山

廻‑

」「

天神

記・

十六

夜最

期」

「季

常盤

・重

盛病

床」

(3

) 

﹃金

平浄

瑠璃

正本

集﹄

第二

室木

弥太

郎編

、角

川書

店、

l九

六六

年)

の解

題で

室木弥太郎氏が推定。次の「公平かぶとろん」の所属も'同じ‑宝木氏の推定(﹃金

平浄瑠璃正本集﹄第二㌧一九六八年)0

(4

) 

近松

物に

つい

ては

'﹃

歌舞

音曲

考説

﹄に

、「

近来

やは

‑近

松の

作の

天神

記、

季常

盤、国性爺合戦'酒呑童子枕言葉、平家女護島なども語るが、これは古伝ではな

いとの事である」と記されている。

(5) 古浄瑠璃研究の初心者である筆者は、まだ現地での演奏を聴く機会を得ていない。この目録の作成に当たることによって、東京にいながら佐渡の古浄瑠璃の実

際の音に触れることが出来たのであるが'是非、近々に佐渡における演奏に接し

たいと思っている。(6) ﹃佐渡島人形ばなし﹄には、昭和三十年に没した近千代吉を最後に伝承者が絶え

た、越後の文弥節も紹介されている。(7) 佐々木氏の﹃佐渡が島人形ばなし﹄をはじめ、ここに挙げた書はすべて私家版。

(8

) 

「源

氏烏

帽子

折」

本文

は、

﹃大

近松

全集

﹄第

十五

巻(

木谷

蓬吟

編著

、大

近松

全集

刊行会、一九二三年) のものが使われている。(9) 「佐渡鑑」という演目について佐々木氏は'「佐渡鑑は今の太夫はほとんど語‑ませんが上杉景勝の佐渡攻略の物語です。」(﹃佐渡が島人形ばなし﹄'二六頁)

と説明されている。薦田氏はこの金田一氏の指摘から'「金田一のとった方法を尾崎家本﹃平家正

節﹄に当てはめると、その本文には四二の曲節が認められる。」(「平曲の曲節と

音楽構造」'一六四頁)と記している。S) 西洋音楽でいうところの完全四度。(ほ) 盲人音曲と佐渡の文弥節ということを考えるにあたっては、奥浄瑠璃や、その他の盲人音曲についても言及すべきではあるが、紙数の関係上'本稿では音楽的

構成という視点で平曲との関‑を述べるに留まったことをお断りしておきたい。 早稲田大学演劇博物館蔵佐渡古浄瑠璃録音資料目録回t凡例︼本目録は'昭和四十七(1九七二)年、早稲田大学芸能研究会(代表鳥越文蔵氏'ほかに内山美樹子氏、武井協三氏など十余名)により'佐渡盲浄瑠璃の調査が行われた際に採集した録音資料の一部を整理したものである。調査時に録音したものの他'北村宗演・浜田守太郎・本間正巳各氏と矢柄中学校が所蔵されていたテープの複写'また、翌四十八(一九七三)年に説経広栄座の審問幸雄氏を早稲田大学へ招いた際の記録なども含まれている。これらの録音資料は早稲田大学文学部演劇映像専修室よ‑同大学演劇博物館へ移管され、二〇〇三年三月現在へ公開に向けての準備が進められている。ただし、今回目録化したものは、第l段階の整理がついているもののみである0三溝目名・段名は'原則として採集時の記録に基づいて記した.二種別については逐1記してはいないが'演奏者が巷間幸雄氏である場合のみ説経,それ以外が文弥節となっている。〟一、備考欄で対校本として参照した﹃古浄瑠璃正本集角太夫編﹄(大学堂書店)・﹃近70松全集﹄(岩波書店)壷瑠璃名作集﹄(日本名著全集刊行会)・冒浄瑠璃正本集﹄山(角川書店)は'それぞれ角太夫編・近松全集・浄瑠璃集・古浄瑠璃集と略記した。末尾の数字等は巻号を示す。l、備考欄中に記した対校本のページ数は'1‑0ページ川行目1dSjO'1‑0ページ中

段最終行1㈹P中終tという形に略記した。l、「小番号」は'録音の切れ日ごとに設定した。備考中に記す①・②等の囲み数字

も、原則としてこの小番号を示している。l・山本角太夫の未発見正本「小乗判官」に相当すると指摘されている(信多純一氏「山

本角太夫について」)「小栗判官歌念仏」については、対校本を設定せず、録音状

態のみ記した。一、「清原右大将」については、角太夫正本「清原右大将」(﹃古浄瑠璃正本集﹄角太

夫編、第一)よりも'所属未詳正本「清原のう大将」(﹃金平浄瑠璃正本集﹄第一㌧

角川書店)の本文に近いと考えられるため'﹃金平浄瑠璃正本集﹄を対校本に採

用している。一、「山枚太夫」の備考欄に関しては﹃文弥節浄瑠璃集﹄下巻(佐々木義栄編、私家

版二九七九年),もし‑は東京大学雪ヂ文庫蔵南本阿波太夫正本「山板太夫」を参

照されたい。

(11)

早稲田大学演劇博物館蔵 佐渡古浄瑠璃録音資料 目録(1)

番 号 小 番 号 廿 LJnnも 漬 奏 者 ■村 校本 録 音 年月 日等

1

曾 我 会稽 山

雨 乞

討 入 り

北 村 宗演

北 村宗 演

近 松 全集 10

近松 全集 10

四段 目冒頭 より P 57 2L 1 2 「有 まい かと」 〜 P 57 8L 6 「名 も高 はしの」 省 略 P 58 4L 9 「人 々嬉 しさ」 で 中断 P 58 4L 12 三 重 「名 に高 き」より P 59 1L 7 「呼 はつ て逃 出る」 〜

同 12 「兄弟 は」 省 略 P 59 4L 1 「雨 は降 」 で中 断

本間正巳氏蔵 S47 ‑9再録

1

¥Ol

曾 我 会稽 山

/I

討 入 り

祐 成長 期

北 村宗 演

北 村 宗 演

近松 全 集 10

近 松 全集 10

1■(参と同 じく「名 に高 き」 より P 59 4L 4 「あせ る所 も有 」 から 独 自文 になって終 わる

所 々重 複 録 音 あり

独 自文 「か くて十 郎 祐 成」 から始まって P 59 5L 3 「仮 屋 / (\の」 へ 繋 が り、

その後 二段 目終 わりまで

本 間正巳氏 蔵 S 47 ‑9再録

■3

¥''^

挙 常 盤

源 氏 烏 帽子 折 序 語 り

伏 見 の里

北 村 宗演

中 川 閑楽

近 松 全集 6

角 太 夫編 3

初段 目冒頭 より

P 10 4L 4 「頼 もしき」 まで問 題 なし そこより2分 程 聞 き取 り不 能 P 24 9下 11 「いとお しの子 共 やな」 〜 P 25 0上 7 「御 身 たちが 心 ざし」省 略

その後 詞章 が 前 後 すること多 L

P 25 0上 9 「三 人 一 しよに」 か らは 問題 なし

本 間正巳氏 蔵 S 47 ‑9再録

4 Q )

源 氏 烏 帽子 妨

門出八 島

伏 見 の里 (続 き) 二 段 (後 半 )

三 段 (前半 )

北 村 宗 演

北 村 宗演

北 村宗 演

角 太 夫編 3

角 太夫 編 3

聞 き取 り不 能

伏見 の里 は3 N ② で既 に完 結 P 22 5下 1 「明くれ ば三 月十 八 日」 より P 22 5下 6 「今 や/ (\と」 〜 P 22 6下 9 「どしいくさも」 省 略

三段 目途 中P 2 2 8下 13 「むれ て」 で 中断 P 22 8下 13 「むれて」 より

P 2 2 9下 14 「なきゐたり」 まで

本 間正巳氏蔵

浜 田守太郎氏 蔵 S 47‑9再録

5

門出八 島

//

三段 北 村宗 演

北 村宗 演

角 太夫 編 3

角太 夫 編3

P 2 29 下 15 「弾正 太 郎 」 より 浜 田守太郎氏蔵 (中 ■後 半 )

'/

P 2 3 1上 9 「次 信 こそ」 で中断 P 2 3 1上 9 「次侶 こそ」 より

三段 目終 りまで

S 47‑9 再録

6 lT

国性 爺 合 戦

平 家 女護 島

//

楼 門 の段

あづまや 最 期 の場 //

^

北 村 宗演

北 村宗 演

北 村宗 演

北 村宗 演

北村 宗 漬

近松 全 集 9

近松 全 集 9

近松 全 集 11

近松 全 集 11

近 松 全 集 11

P 683 L 10 「仁 ある君 も」 より P 6 90 L 11 「父 は豪 に」 で中断 (D の 最 終部 と重 複 して P 6 90L 11 「是 はもろこし」 より P 6 94L 5 「川水 赤 くなが るゝは」 で中 断 P 127L 5三 重 「春 風 も」 より P 128L 11 「指 で」 で中断 P 128L 11 「松 は千 とせ の」 より P 132L 11 「汝 らふ ぜ いが」 で 中断

④ の最 終 部 と重 複 して P 13 2L 11 「一 門 の棟 梁」 より P 134L 7 「た ぶさつか んで首提 」 で中 断

矢柄 中学校蔵 I

7 源 平 巴 粟津 原 北 村宗 演 浄瑠 璃 集 上 P 6 27 中終 「吹 雪交 りの朝 霞 」 より

平 仮 名盛 衰 記 の 合 戦 P 6 30上 1 「馬上 を莫 逆 様 」 から

対 校 本 にない挿 入 多 し 独 自文で終 わる

(12)

fs /I 北 村宗 演 浄瑠 璃集 上

P 62 6 下終 「詞 もなかりける」 まで (むの最 終 部 と重 複 して P 6 26 下終 「呆 れ果 て」 より P 6 27 中終 「雲 のあし」 から 少 々独 自文 あって終 わる

8 (∋

門出八 島

4‑

八 島の 浦 の段

義 経 陣屋 の段

‑It H ^ ifi

北 村宗 演

角 太 夫編 3

角 太 夫編 3

北 村 宗漬 氏 紹 介 の言 葉 あり 三 段 E]冒頭 より

P 2 30 上 17 「しほや のかたへ ぞ 」 で中断 P 2 30 下 1 「やはんの時 もす ぎ」 より 三 段 目終 わりまで

本間正 巳氏蔵 S 47‑9再 録

9 ¥¥ ‑

源 氏 烏 帽子 折

//

初 段

'/

北 村宗 演

北 村 宗演

角 太 夫編 3

角 太 夫編 3

演 奏 中に節 付 の解 説 あり

P 2 4 1上 1 「げうふ うゆるくふい て」 より P 2 42 下 12 「うだいL やうよりとも」 で中 断

① の最 終 部 と重 複 して

P 2 42 下 12 「うだいL やうよりとも」 か ら P 2 43 下 2 「さけぼるゝ」 で中断 、 同 1 「引 あて、」 に戻 る

P 2 43 下 3 「みへ にけれ」 で終 わる

S 43‑2‑12録音 (再録)

10 j ∴ 一谷 赦 軍 記 陣 門 北 村 宗演 浄 瑠 璃 集 下 P 3 14 中9 「楽 しみ」 より P 3 17 中 10 「落 失せ けれ」 まで

浜田守太郎氏蔵 S4 3‑1‑19録音 S4 7‑9再 録

ll

一谷 赦 軍 記

組 討

//

北 村 宗演

北 村 宗演

浄 瑠 璃 集 下

浄 瑠 璃 集 下

P 3 17 中 17 「沖 の方 へ ぞ」 より P 3 19 上 12 「か きくれ」 で中 断

① の最 終 部 と重 複 して 「か きくれ」 より P 3 20 下 11 「涙 ながらに帰 りけ り」 まで

浜田守太郎氏蔵 S43 ‑M 9録音 S47 ‑9再 録

12 Ll

義 経千 本 桜

//

渡 海 IS ‑ & 北 村 宗演

北 村 宗 演

浄 瑠 璃 集 下

浄 瑠 璃 集 下

P 1 34 上 13 「行 く空 の」より 本 間正巳氏蔵 (前 半 )

渡 海 R ‑ &

(後 半 )

P 1 37上 14 「鍛 錬 仕 れば」 で 中断 全 体 的 に音 が 不 明 瞭

① の最 終 部 と重 複 して P 1 37上 14 「只 今 の」 より

P 1 40 上 11 「お一 人 やられうぞ」 で 中断

S47 ‑9再 録

13 ,p

義 経千 本 桜

源 氏烏 帽 子 折

浜 辺 (後 半 )

(t ^

北 村 宗 演

中川 閑楽

浄 瑠 璃 集 下

角 太 夫 編3

12‑ ② の最 終部 と重複 して P 1 40上 10 「このお乳 も」 より

P 142 上9から12行 はどなし 他 にも省 略多 し 二 段 目の最 後 まで

P 2 48 下 10 「ふ る雪 のをと」 より 二 段 目終わ りまで

P 1 04L 6 「世 につれ て」 より

P 1 08L 1 0 「うらみをはれよ年 若と」 で中断 冒頚 録音 状 態 悪 し

本 間正巳氏蔵 S47 ‑9再録

S 44 ‑7 ‑29 (再録)

畢 常盤 か ごの 場 中川 閑楽 近 松 全 集 6

14 一、 天 神記 十六 夜 最期 中川 閑楽 近 松 全 集 10 P 2 08L 3 「此 たび榊 をんを」 より P 2 13L 1 「た ゞとぶ鳥 のごとく也」 まで P 1 86L 1 0 「ともしびそむけ」 より P 19 6L 1 「おことは宗 清 の娘 かや」 で 中断 P 2 50上 11 「月もやはんにふけ行 けば」 より 冒頭 に北 村 宗 演氏 の談 話

S 44 ‑7‑29 (再録) I2"'

平 家女 護 島

源 氏烏 帽子 折

朱 雀 御 所 の段 (前 半 ) 伏 見 の里 ′ (後 半 )

北 村 宗 演

北 村 宗 演

近 桧 全 集 11

角 太 夫編 3

15

平 家女 護 島

源 平 平 仮 名盛 衰 記

李 常盤

宋 雀 御 所 の段 (後 半 )

木 曽殿 鋸 の段

五 候 橋 の場

北 村 宗 演

北 村 宗 演

北 村 宗演

近 松 全 集 11

浄 瑠 璃 集上

近 松 全集 6

少 々北村 宗 演 氏の 談 話 P 19 4終 「父 の武士 を立 たく」 より 冒頭部 二 回 反復 録 音

その後 段 目終わ りまで P 62 4下 12 「九 重 の」より

P 62 5 中10 「攻上 れ ば」 で切 れ 、10 数秒 無 音 その後 P 62 5 中9 「され ば/ \ 」

に戻 って重 複 録 音

P 62 5下 6 「高 名 誉 を」 の辺 、度 々途 切 れる P 62 6下 17 「乱 れ入 ると聞けば」 で 中断 P 1 10終 「夕ぐもの」 より

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参照

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