[特別寄稿] 中国南朝士大夫に於ける仏教思想の受 容
その他のタイトル On the Reception of Buddhism by the Scholar Gentry in the Southern Dynasties of China
著者 ウィリ ヴァンデワラ
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 21
ページ 1‑13
発行年 1988‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16012
中国南斉武帝の第二子︑文宜王蒲子良︵四六
O
四九四︶は中国
仏教史の中で士大夫奉仏者として著名であり︑梁の武帝の人格形成
に多大の影響を与えたことも︑中国仏教史を取扱う各書に記してあ
る通りである︒薫子良は仏教の有力な保護者であったばかりでなく︑
さらに仏教の戒律による在家としての生活を営んでいたのも史料の
到る所から読み取れる史実である︒単なる知識・観念的世界の空論
に止まらず︑実践を伴った信念として彼の行動を律するのが︑仏教
であった︒王子としての立場が︑その周辺への影響力に大きくプラ
スしたことは想像するに難くないが︑それだけに南朝士大夫階層に
於ける仏教信仰の内容を検討する上で極めて重要な意味をもつので
ある︒更に︑雛籠山の西邸を中心に多くの学士を集めて︑五経︑百
家を抄し︑﹃四部要略﹄千巻を撰し︑学術方面に於いても不朽の業
績をあげたのであった︒その西邸には︑後に梁の武帝として帝位に
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
つく薫術を始め︑沈約︑謝眺︑王融︑蒲深︑箔婁︑任防︑陸錘等の
所謂八友が集まり︑当時の文壇に於いて永明体と呼ばれる︑詩歌の
新しい風体を形成したことには︑仏教と文学の結び付きを目指す薫
子良の一側面を窺うことができる︒
南朝最初の王朝である劉宋の建国者劉裕は天下の纂奪に当って仏
教的瑞祥と予言を利用した︒また政権を受け継いだ後も仏教に対し
て好意を持ち続けた事実からも推測できるように︑南朝の仏教が教
理的にも社会的にも急速に爛熟する時代を迎えつつあった︒けれど
も︑一方では︑仏教を夷狭の宗教であり︑中華文化の恩恵を享楽す
る漢民族にふさわしくないとする排他的な態度もまだ上流社会の一
部には有力であった為に︑自分の立場を弁護しなければならない仏
教界にとっては︑薫子良のような一流の士大夫は貴重な存在であっ
た︒彼は学者及び文学者として相当な学識及び才能の持ち主であっ
たには違いないが︑むしろ彼の高い地位を利用して一流の学者及び
文学者を引含付けて学問と文学が栄える土壊を作ったことに︑より
中国南朝士大夫に於ける仏教思想の受容
ウ ィ リ ー
・ ヴ ァ ン デ ワ ︳ フ
I
大きな貢献を見出すことができる︒かくして蓋子良ほ士大夫社会の
絢爛たる文化の絶頂とも云うべき梁武帝治世への序曲をかなでた人
物と
言え
る︒
南朝の都建康をその活躍の舞台としていた士大夫は︑全て奉仏者
では勿論なかったが︑殆んど皆が仏教思想に関心を示しており︑た
とえ無関心でも︑あれだけの生命力を備えつつあった思想や宗教を
無視することほ︑とうてい不可能であった︒元嘉の治の中心的な人
物であった文帝が四学を並列し︑儒学中心の時代に一段落をつけ︑
諸学を自由に討究する風潮を開いてから︑仏教思想も士大夫の理想
とする教養像にとって不可欠な部分になった観がある︒
﹃高倫博﹄巻八︑釈法安伝には次のように記してある⁝⁝
永明中還レ都止1一
中寺
↓講
=
l涅槃維摩十地成賓論↓相織不レ絶︒司
① 徒文宜王及張融何胤劉綸劉嗽等︒並稟1一
服文
義
f共為‑I法
友↓
とある︒要するに︑永明時代になってから法安は都の建康に帰り︑
中︵興︶寺に住し︑そこで﹃涅槃経﹄︑﹃維摩経﹄︑﹃+地論﹄︑﹃成
寅論﹄等をあいついで講義した︒司徒文宜王︑張融等が経典の意味
② を受けて法友となった︒更にそれらに加えて仏法に深い関心を寄せR ていた︑蒲子良と親交の間柄であったものとして周順︵四八五没︶︑
④
⑤ R
沈約︵四四一!五ニ︱‑︶︑王融︵四六七!四九一︱‑︶及び徐孝嗣を挙
げなければならない︒これらの士大夫が数多くの学僧又は高僧と親 しく交際していた事実は﹃高僧偉﹄や﹃績高僧偲﹄に散見する︒幾つかの例を挙げるのにとどめる︒
後周顛租レ剣請レ基講説︒順既素有=學功ー特深1一佛理↓及言炉基
訪票一日有=新異↓劉嗽張融並申以二師證1崇=其義訓↓司徒文宜
王欽
レ風
慕レ
徳︒
致レ
書慇
懃︒
訪以
1一
法華
宗旨
↓基
乃著
︱ー
法華
義疏
↓
⑦ 凡有
︱1 1
︱一
巻↓
云云
゜
それに依れば︑特に仏法に造詣の深い周顧でさえ毎日のように今ま
で思い至りもしない耳新しい説明を聞かせて貰う釈慧基だが︑更に
劉嗽︑張融と文宜王もまたこの高僧を師と崇めていた︒慧基が没し
た時︑何胤ほ宝林寺に於いてその碑文を造ったとも﹃高僧博﹄に記
され
てい
る︒
釈僧遠に就いて︑﹃高僧偲﹄の撰者慧咬はこう言っている︒
廠山何貼︑汝南周順︑齊郡明僧紹︑撲陽呉葱︑呉國張融︑R
投レ
身接
レ足
︑諮
1一
其戒
範
f
とある︒これによって何貼︑周順や張融が戒律についてその示教を
請うたことが分る︒
釈曇斐とは張融︑周顆とその子捨が﹁知音之押﹂を結んでいたの
⑨ に加えて︑何胤は彼を招いて講義をさせた︒
一代
名貴
︒
齊中書周顧゜瑯瑯王融︒彩城劉綸︒東莞徐孝嗣等︒
⑩ 並投
莫逆之交↓云云゜1 1
とあるように︑法雲と当時一流の貴族であった周顆︑王融︑劉繕と 有名な釈法雲に就いて︑ 皆
徐孝嗣等とは莫逆の友であった︒
以上引用した例から推測できるように︑此等の士大夫ほ仏法に深
い関心を持っており︑学僧と師弟又は親友の関係を持っていたが︑
自分が出家して僧侶になる意志は全くないようで︑社会的にも困難
であったかも知れない︒彼等ほ飽くまでも檀越
(d
an
ap
at
i)
であ
った
︒
劉嗽ほ﹁博く五紐に通じ︑儒學嘗時に冠たり︑京師の士子貴遊︑
席を下りて業を受けざる莫し﹂と称され︑易︑詩︑礼に著述を遣し︑
⑪ ﹁著す所の文集は皆是膿義なり﹂と言われている人物であった︒そ
の講義を受ける徒は常に数十人を数えた︒一生涯を研鑽に投じ︑隠
居の生活を送り︑高邁なる理想を貫いた高士で︑何回か出仕を促さ
れたが︑その都度断った︒薫子良の信用が厚く︑劉嗽の隠居してい
た庵を訪れることもあった︒彼の仏教に関する識見又は理解がどれ
だけ深かったかは︑仏教に関する著作を遣さなかったため︑知る由
もないが︑先に一部引用した釈慧基伝に依れば︑﹃法華鰹﹄︑﹃維摩
唇︑﹃金剛般若経﹄及び﹃勝霊鰹﹄の専門家として有名な慧基に
師事していたと記されているので︑上記仏典に相当詳しい識見を持
っていたと言っても過言ではないだろう︒
永明末︑京邑人士盛為[‑文章談義f皆湊1一
党陵
王西
邸↓
綸為
=後
⑫ 進領袖f
機悟
多能
︒
とあ
るよ
うに
︑永
明︵
四八
一︱
‑ l
四九
一︱
‑︶
.の
末期
頃に
は︑
士大
夫階
級
の間に文章及び清談の伝統を受け継ぐと思われる談義が大流行で︑
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
劉綸︵四五八ー五
0
二︶は劉嗽の弟子である︒史書に依れば 西邸は文オの出入りで賑っており︑劉綸は若手の中で一番優秀であったことが分る︒直接に仏教と関係する著作を遣さなかったのほ恩師と同様であるが︑﹃成賓論﹄の分野に於いて梁時代の最高の権威者であった法雲と交際があったことから︑特に仏教の観念世界に強い関心を持っていたことが推測される︒何胤
︵四
四六
!五
一︱
︱‑
︶も
また
劉嗽
に師
事し
て﹃
易﹄
︑
﹃證
記﹄
及び﹃毛詩﹄について業を受けたのみならず︑又鍾山の定林寺に入
り内典を聴くとあるように極めて博学の処士であった︒著作には
﹃注百法論﹄︑﹃十二門論﹄各一巻︑﹃注周易﹄十巻︑﹃毛詩線集﹄
六巻︑﹃毛詩隠義﹄+巻︑﹃膿記隠義﹄二十巻︑﹃證答問﹄五十五
船かあった︒仏書については﹃百法恥﹄と﹃十二門論﹄に注解をつ
けたことから判断するには︑やはり特に三論に関心が深かった様で
⑮ ある︒建武年代︵四九四
l
四九七︶の間︑その恩師の模範に倣って︑兄弟の何貼と何求と同様に︑隠居の身となり︑若耶山の雲門寺に入
った︒何氏一族が前代から仏教に好意を持っていたから︑何胤は幼
い時分より仏教と接触していたに違いない︒特に何胤の祖父に当る
何尚之が仏教の信奉者として世に知られている︒元嘉十六年︵四一︱︱
九︶劉宋の文帝が儒学︑玄学︑史学及び文学の四学を建てた時︑文
学の責任者として指命されたのは何尚之に外ならない︒当時︑慧琳
は仏法を誹謗して﹃白黒論﹄を著し︑慧琳と気脈を通じた何承天は
﹃逹性論﹄を執筆して︑共に仏教に攻撃の矢を向けていた︒此に対
して顔延之と宗柄は仏教を弁護する立場から慧琳と何承天に反論し
た︒賛否両論の葛藤が解けない状況を踏えて文帝は自分の考えを明
らかにした︒自分は仏典の教えに精通していないから三世因果に就
いては断定し兼ねるが︑勝れた先輩や現在の俊秀たちが仏法を奉じ
ているから仏教に対する誹謗は不当だとの主旨の詔書を下した︒そ
れに対して何尚之ほ答えた︒政治を行うに当って仏教を弘めること
はよいことであり︑五戒十善を十人から百人と︑次第に天下に弘め
て行けぽ悪がなくなり︑刑罰も必要としなくなるので太平をもたら
すことができると言う︒具体的な例としては︑西域では仏法を奉じ
たため︑大国が小国を併合するようなことはなかった︒五胡が中原
に入ってからは人民ほ塗炭の苦しみに喘ぎ︑残虐な支配によって非
業の死をとげた者が多かったが︑佛繭澄の教化によって石虎の殺識
ほ半減し︑荷堅や涅渠蒙遜も仏法を奉じてから︑ついに善人となっ
⑯ たと言う︒さらに何尚之は寺塔の造営等を行い︑仏教が栄える土壌
作りに大いに貢献した人物である︒
そういった奉仏的な環境に育った何胤が仏法に並々ならぬ関心を
寄せたのも無理のないことである︒慧基︑法安︑曇斐等名僧と交
際していたのみならず︑東土僧正の初めと言われる慧基が建武︱︱一年
︵四九六年︶十一月︑城傍寺で没すると︑その遺徳を偲んで︑碑文
を撰し︑宝林寺を建立したのも何胤である︒実践の面でも︑仏教信
仰による生活を送り︑殺生を禁じ︑鳥獣を愛したと言われる︒儒学
いた︒武岳山の西寺に於いて経論を講じ学僧も此れに従ったと言わ の経典に通じていたのみならず︑仏教の般若︑空の思想に通暁して
てい
る︒
﹁寂然として動かず︑その根本をつきつめれば同じです︒ うに︑仏法の信奉者であったと同時に︑仏教と道教の究極の教えは れる位であった︒東晋時代の士大夫の奉仏者には︑このように深く仏典に通暁した人物があまり見受けられないが︑劉宋から梁代にかけて本格的に仏教思想を理解する士大夫が現れると言えるだろう︒何胤による﹃百論﹄及び﹃十二門論﹄の注釈書は散侠したが︑両論が羅什によって中国に伝道された三論宗の基礎経典に属するものだから︑中国三論初期の思想家として注目するに値すると思われる︒
何胤でさえ不殺生の戒律を甘い解釈で回避しようとした事実が示
⑰︑
すように仏教の戒律に貫徹した生活を送る士大夫は極めて少なか
ったようである︒彼等にとっては︑仏教思想と儒教と老荘思想がそ
の基本的発想に於いて果して帰一するかどうかが最高の関心事項で
あった︒儒仏道三教思想が最終的には同じ真理に帰一することを論
証しようとする論者は少なくない︒こういう儘仏道交渉史の上で重
要な位置を占める論者の一人として張融︵四四四
l
四九七︶を挙げなければならない︒張融の現存する著作の中では仏道交渉史の立場
から見て特に重要なのは﹃門律﹄である︒その書き出しに﹁私の一
門は代々佛敦を崇拝し︑母方の一家は道数を信奉してきました︒道
⑱ 赦と佛敦と︑おちつくさきに違いはありません︒﹂と言っているよ
同じであるが︑その解き方が異なっているだけだという見解を抱い
四
‑ ! I
る ︒
⑲ 働きかけて四方に通ずる︑その跡を見れば異なっています︒﹂張融
病気でまさに世を去ろうとした時︑弟
姪たちに生きる指標を残して行くためであった︒したがって結論に
おしえ﹁汝ほ専心佛数の跡に遵えばよろしいが︑道︵数︶の根本を軽蔑して
⑳ はなりません︒﹂と念を押している訳である︒
更に何貼︑何胤︑孔稚珪︑孔仲智及ぴ周順に宛てた書簡の中でも
同じ見解を述べている︒周顛は納得できず︑張融との間に往復問答
を開始した︒ある解釈に依れば︑﹃門律﹄は道教を仏法と同一視するこ
とによって道教思想を弁護する試みだと言うむきもあるが︑確かに
僧祐がそれを﹃弘明集﹄に収録したことからして道仏論争の一環と位
置づけしなくてはならない︒しかし一方︑﹃門律﹄は先づ何よりも弟姪
に対する生活の指標を残す︑所謂家訓のジャンルに属しているのも
考慮に入れなければならない︒家訓のジャンルで一番先に念頭に浮かんで来るのほ顔之推(五一――マ~五九一)による『顔氏家訓』である。
済世成俗の要である学問を志向する顔之推の基本的立場が儒家思想
本位であることは論を侯たない︒顔氏一家は﹃周證﹄と﹃左偲﹄の学
問を家業として伝え︑また﹃家訓﹄の随所に儒家の古典からの引用を
見つけることが出来るということはそれを充分裏づけるものがある
一方日々の生活に於いて熱心な仏教信者であったのも事実であ
る︒それは一見矛盾する感があるが︑顔之推としてはそれをあまり
意識していないようである︒彼は子供達に次のように語りかけてい
﹁おまえたちがもし世俗の生活を考慮して一家をかまえてゆく
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
中 ︑ ︑
ヵ が﹃門律﹄を認めたのは︑ というのなら︑妻子をそっくり棄てて︑いちがいに出家する繹にはまいらぬわけだ︒ひとえに戒律行を兼習し︑佛典の讀誦に心をとどめ
@ て来世への架け橋︵津梁︶とすべきである﹂︒又︑自分は仏教の三世
報応のことを信ずるばかりでなく︑仏教は発・舜・周・孔の及び得
るものではないとまで断定している︒そして内外両教すなわち仏儒
両教はもと一体で︑
引用してみる︒
五
五戒は五倫であるから︑周・孔に帰して釈宗に
背くということは迷いであるとも言っている︒顔之推の仏教に対す
る理解は必ずしも深かったとはいえないが︑多くの応報談を例挙し
ていることが示唆するように︑仏教の説く因果報応説に強く心をと
らえられたことに南朝士大夫に於ける一特徴を見出すことができる︒
そして︑仏が孔子より優れていると言う発言は文字通り解釈すべき
なのかどうかは疑問の余地がある︒家訓の文章は演繹や帰納に基づ
いた︑終始一貫した体系的思想を述べるものではなく︑士大夫とし
て現実の社会に処し︑家門を維持する面に於いて価値のあるものを
できるだけ網羅して︑子孫に遣す目的で書き記されるものであるか
ら︑相反する発言が至る所で発見できるのも驚くに値しない︒
張融の﹃門律﹄も本質的に同じ性格のものと見てよいだろう︒
﹃南齊書﹄巻四十一に﹁門律自序﹂が載っているので︑その一部を
吾が文章の骰は︑多く世人の驚く所となる︒汝︑耳に師とする
に心を以てす可く︑耳をして心の師と為さしむ可からず︒夫れ
た文に卑豆に常の證あらんや︒但だ骰あるを以て常と為し︑政だ嘗
に常に其の骰あらしむべし︒丈夫ほ嘗に詩書を剛し︑膿榮を制
すべし︒何ぞ因循して人の籠下に寄るに至らんや︒
ょ且つ中代の文は︑逍證闊髪し︑尺寸相資り︑奮物を禰縫す︒吾
かの文章は︑鶴亦た何ぞ異ならん︒何ぞ嘗て温と涼とを顕え︑寒
み だ ま じ ほ し い 宣 ま た
と暑とを錯し︑哀と榮とを綜え︑歌と哭とを横にせんや︒政
つ づ な ら
だ辟を屡ること多出︑事を比ぶること不禰なるを以て︑肝なら@ ず阻ならず︑途に非ず路に非ざるのみ︒
この一節は明らかに文学観を述べるもので︑現存﹃門律﹄の本文
とは直接に関係がないように見える︒序文の内容とその長さから判
断するには︑﹃門律﹄の本来の内容はただ道仏論争に終始する現存
の一節よりずっと長文で︑﹃顔氏家訓﹄のように文学を含めて︑諸般
にわたって忠告を与えるものであったと思われるので︑僧祐ほ論旨
に直接にかかわる道仏論争にふれる一節だけを抜幸して﹃弘明集﹄
に収録したとも考えられる︒しかし序文が全く仏教にふれていない
ほしいまま吾は昔借言を嗜み︑多く法辮を難にす︒此れ壷く言笑に遊ぶ︑R 而も汝等に幸無し︒
とあるから︑一見仏法は無益であると否定的な態度を取っているよ
うだが︑前後文脈に照してみれば此れは仏教の本質を否定したもの
では
なく
︑
人生の口ほ︑正に道を論じ︑義を説くぺきも︑惟だ飲及び食な
こ れ
⑳
り︒此の外は焉に網を樹つ︒
訳で
はな
い︒
﹃門律﹄そのものを指すと理解してよい︒したがって︑
﹃門
律﹄
と
少子致ー一書諸遊生一者︑曰︑張融白鳥哀=鳴於賂ブ死︑人善
1
言1
於就
>暮
︒︵
中略
︶欲
レ使
=
1塊後餘意︑縄1一
墨弟
姪↓
故為
1一門
律
f敷
⑳
感
1其一章f通1源二道↓今奏ー I I
諸賢
f以為
何I I
若↓
ここでいう少子とは︑論者の張融を指すのか︑または太田悌蔵氏がR 提起するように論文そのものを指すのか断定し難い︒﹃弘明集﹄巻
十一所収﹁文宜王書興中丞孔稚珪繹疑惑井賤答﹂の中の賤答にあた
る﹁孔稚珪書井答﹂にはこう言っている︒
民門昔嘗明
︱1 1
同之
義
f
経以
レ此
訓
1一
張融
f
融乃
著ー
ー通
源之
論
f其
名=
少子
f少子所レ明︑會1一
同道
佛
1融之此悟出
於民家↓民家既1 1
⑳
爾︒
民復
何凝
゜
とある︒此れに依ると︑少子は通源之論を指すことが分かる︒通源
とは周順が張融に与えた書二首の中に張融の立場を示す表現であり︑
同書簡は通源という二字の下に﹃門律﹄の文句を引用しているので︑ 述︶はこう言っている︒ と
反省
して
いる
︒
とあるように︑議論にあまり耽らないよう戒めるものだ︒だから
吾は毎に爾らざるを以て恨みと為し︑爾曹は嘗に振綱すべきR
なり
︒
一 方 ︑
﹃弘明集﹄に﹃門律﹄の附録として輯摂された︑張融と周
顆との往復問答を書留めた四通の書簡の最初の一通﹁書輿1一
何雨
孔
周刻山茨1﹂︵何貼︑何胤︑孔稚珪︑孔仲智︑周顆に輿える書︶︵前
. . . . . . , , ,
一
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
明僧紹等の較論を挙げ︑続いて﹃夷夏論﹄と同一主旨のものとして 少子と通源とは同義語として使われている︒
一方︑上に引用した︑﹁書興二何雨孔周刻山茨﹂の一節には﹁故
為門律︑敷感其一章云云﹂と記されているが︑それによれば﹃門律﹄
試論も典拠を奪われるのみならず︑ 一旦上に述べた
不明瞭になる︒更に語しいことにほ︑﹁門律自序﹂が﹃南齊書﹄及
び﹃南史﹄の張融伝に載せられているのに本文は見えず︑却って同
じく﹃南齊書﹄顧歓伝中に撰者梁爾子顕は﹃夷夏論﹄を叙し︑衰簗︑
﹃門律﹄の要略を掲げている︒爾子顕が本文と自序とを切り離して
載せた理由は︑どこに求めるべきか今断定する由もないが︑両文章
がもともと関係のないものであったからかも知れないし︑又は︑張
融伝は長文の文学作品﹃海賦﹄が載せられているだけに︑張融の文
学活動が主要な内容をなしている関係上︑張融の文学観を述べる自
序を故意に切り離して本伝に入れ︑顧歓伝には﹃夷夏論﹄を中心に
道仏論争の一端を叙している所に﹃門律﹄の一部を引用するのが最
も適切な撰録のすすめ方であるという目論見が撰者にあったからだ
とも考えられる︒後者の可能性が高いと思われる︒すると︑以上指
摘したように︑通源と﹃門律﹄とが︑同意義に使われていることと︑
そして張融と周顧との往復問答を認めた書簡が数巻を占めていたが︑R 両者の見解の本筋は最初の往復にあり︑それで後文を省略したと
﹃弘明集﹄の撰者僧祐が断っており︑﹃南齊書﹄の撰者爾子顕も﹁往
七
復文多不レ載﹂と明記していることを考え合わせると︑上記示唆した
通り︑﹃門律﹄と題する文章は本来多数の書簡をも集録した長文の
家訓的な文章であったと言う試論も︑全く空論とは言えなくなるだ
⑬ ろう︒張融は談義の士と目されるだけに︑その本音を必ずしもはっ
きりと吐いていない所があるが︑その死に臨んで左手に
﹃孝経﹄・﹃老子﹄を︑右手に﹃小品般若﹄・﹃法華経﹄を執っていたR と﹃南齊書﹄に記されているように︑最後まで儒仏道一ー一教を併せ修
する立場を貫いたと言っても間違いではなかろう︒
張融と周順とが甚だ親しかったことは︑高僧諸伝に散見する事実
だが︑両氏の往復問答が南斉に於ける儒道仏交渉史上極めて重要な
位置を占めているので︑それらの書簡の内容をさらに詳しく分析す
ることによって︑周順の思想家としての位置づけを明らかにしてい
きたいと思う︒周顆が張融に与えた第一書に︑反駁の対象となる﹃門
律﹄の文句を合わせ引用されているので︑便宜上取り敢えずその﹁答
1 1
張書石盆炉張﹂︵張融の書に答え︑井せて問う︶から引用してみる︒
通源日︒道也興レ佛逗レ極無二︒寂然不レ動致レ本則同︒感而遂通
逢レ
迩成
レ異
︒
周之
問日
︒
論云︒致レ本則同︒請問︒何義是其所レ謂謂レ本乎゜
言
‑ l
道家︳者︒堡不応笞二篇云伊主3言一
︳佛
数
1者
亦應
下以
ー一
般若
1
為レ
宗竺
一篇
所レ
貴義
極
1一
虚無
↓般
若所
レ観
︑照
窮
1一
法性
↓虚
無法
性︑
四
﹁門律自序﹂との関連も極めて
結局
は︑
ほもともと一章に過ぎないものだったようなので︑
其寂雖レ同︑位レ寂之方︒其旨則別︒論所レ謂逗極無1
一者
︒為
己逗
極於虚無↓営=無二於法性1耶゜賂二塗之外︑更有1一
異本
↓償
虚
R
無法
性︑
其趣
不レ
殊乎
゜
要約するに︑道教と仏教と︑おちつくさきは基本的に同じであると
いうのに対して周顕は問う︒﹁あなたの言う本とはどういう意味な
のだ︒道家を唱えるものは︑︵﹃老子道徳鰹﹄上下︶二篇を基本にす
るだろうし︑佛数を口にするものはまた般若を宗とすべきだろう︒
二篇の貴ぶところ︑その趣意ほ虚無に窮り︑般若の中心とするとこ
はたらさろ︑照は法性にきわまる︒虚無と法性とは︑寂という貼では同じで
あっても︑寂にとどまる方法では︑その主旨は別れる︒貴論に言う
︵道赦と佛赦と︶おちつくさきに違いはないと言われるのは︑いっ
たい虚無におちつくのか︑あるいは法性とちがいがないのか︑それ
ともまた︑この二つのほかにさらに異なった本があるのか︒あるいR は︑虚無と法性とは︑主旨がことならないものなのだろうか︒﹂
以上基本的問題を設問して後︑張融が比喩を用いて述べる主観論
的色彩を帯びた見解を︑周顕は論破する︒
通源曰︒︵中略︶昔有レ鴻飛=天首↓積遠難レ晃︒越人以為レ烏゜
楚人以為レ乙︒人自楚越耳︒鴻常一鴻乎︒夫澄本雖こ︑吾自倶
宗
1
1其本f鴻跡既分︒吾已翔一 1
其所
乙集
︒
周之問日︒論云︒時殊故不レ同︳一其風↓是佛赦之異
‑
l 1於道也︒世
異故不レご其義↓是道言之乖=於佛一也︒
唯足
下所
レ宗
之本
︒
道佛
雨殊
非レ
臭則
乙゜
一物為レ鴻耳︒謳n馳佛道1無レ免三失↓未レ 知=高察終何愚本軽而宗>之︒其有し旨乎︒若猶レ取
1
一 赦 1
1以
位ニ
其本f恐戦獄方興未レ能1一
聴訟
一也
︒若
雖レ
因三
一数
︳同
測孟
叙源
一者
︒
則此敦之源︑毎沿レ敦而見突︒自應二鹿巾環杖︑悠然目撃↓儒墨
闇間︒従来何諄゜荀合源共是︑分跡雙非︑則二跡之用︒宜=均R
去取
↓笑
為下
翔集
所レ
向勤
務唯
佛︒
専レ
氣抱
レ一
無レ
謹中
於道
品乎
゜
張融は言う︒﹁昔二初の鴻が天の一方を飛んでいた︒はるか遠方で
見分けがつかない︒越の人は晃と言い︑楚の人は乙だと言った︒人
間の方に楚と越︵のちがい︶があるだけだ︒鴻は常に一弱の鴻では
ないか︒そもそも純粋な根本は︱つではあるが︑われわれはいずれ
もその根本を宗とする︒鴻の行跡が分れてしまっているので︑吾々
じ ぷ ん と
は已に其の集った所に翔けていったのだ︒﹂
周顕は問い質す︒﹁貴論において︑時代が異なるので︑其の風を同
じくしないと言われるのは︑それこそ佛数が道数と異なっているこ
とを意味する︒世代が異なるので︑その義を一つにしないとは︑そ
おしえれこそ道家の言が︑佛数とことなっていることだ︒道数と佛数とは
それぞれ異なっていて︑鹿でなければ乙だ︒ただあなたの宗とする
根本はただ︱つ鴻だ︒佛数と道数の雨方に駈け馳せるなら︑どちら
もとらなくなるにきまっている︒あなたはどのように根本を認識し
て軽々しくそれを宗としていられるのか︑お考えがあってのことだ
ろうか︒もし道佛二数を肯定しながら︑その根本を位置づけるなら︑
おそらく︵雨数の︶論戦がまさにおこり︑決着をつけるのが困難に
なる︒もし︑二数によりながらも︑ひとしく数の根源を測るなら︑
/¥
I I
̲ J
源 ﹂ ︑ れた跡ほどちらもまちがっているなら︑︵道佛︶二跡のほたらきは︑ 争したかと言うだろう︒かりに合致する根源はどちらも正しく︑分 儒墨︵道佛︶論争もなごやかになってくるだろうし︑今まで何を論 巾をつけ︑環杖をついて︑悠然とながめておればよい︒そうすれば 此の教の根源は︑常に敦とともにあらわれる︒︵隠者のごとく︶鹿
とど
ま
ひとしく取り去るべきだ︒なぜ︑翔けて集ったさきに唯だ佛数に務
漫゜
め︑氣を専らにし一を抱いて道教に謹めないことだろう力﹂
以上の論争を要約して換言すれば︑﹁本﹂と﹁跡﹂との対立をめ
ぐって見解が随分食い違っているようだ︒張融に依れば︑﹁本﹂と
言うのは︑精神を静たらしめさえすれぼ︑自動的にその﹁本﹂にと
どまってしまう︒そして﹁本﹂は即ち﹁道﹂である︒そして﹁能知
必赴
I
於道↓可知必知所レ赴﹂と断言している所はまた張氏の主観論I
的立場を浮彫りにしている︒能知︵知の作用をもつもの︶は必ず道に
赴き︑可知︵知の対象となるもの︶は必ず知の赴く所となる︒更にR ﹁今既静而雨紳︒紳静而道二︒吾未
之前聞一也︒﹂いま︑静であってI I
しかも神が二つにわかれ︑神が静であって︑道が1
︱つ
ある
など
とは
︑
私はこれまで聞いたことがない︒したがって静にとどまった統一さ
れた精神が根本即ち道にとどまっているという結論になる︒ただ︑
張融の使っている﹁道﹂には二つの意味(‑っは﹁根本﹂又は﹁根
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
それらを同もう一っは道教と言う意味︶が含まれているし︑
一視しているところに張融の義論の弱点が指摘されると言えよう︒
張融は二つの﹁跡﹂を一っの﹁本﹂に帰納することができる以上︑
九
いずれの﹁跡﹂もその基本に於いて一致している筈だと言うのに対
して︑周顕は︑教えの根源は常に教えと共に現われると言っている
ない︒仮に同じ根源でありながら二つの異なった﹁跡﹂に枝分れす
るの
なら
︑
たがいにあれだけ相反している以上どちらも根源から遊
離してしまったものに違いないということになるし︑両方とも取り
去るべきものとなる︒ただ︑﹁貴論に言うそもそも純粋な根本は一
つではあるが︑われわれはいずれもその根本を宗とする︒鴻の行跡
じ ぷ ん と つ
が分れているので︑吾々は已に其の集た所に翔けていったのだ﹂と
という一節によると︑翔けて集ったのは仏だけで︑道については︑た
だ気を専らにして一を抱けば︑何も道に務めなくてもよいというよ
うである︒それはどういう訳だというのが︑周顆の反論の主眼なの
である︒それに対して張融は答える︒
吾不
レ翔
n翻於四果↓卿尚無レ疑
其1 1
集砿
佛゜
R
而於
レ集
レ道
︑復
何悔
゜
きみ﹁私が四果にむかって弱ばたかないでも︑卿ほ佛数を集っているこ
とを疑わないし︑私が五通にむかって弱ばたかないでも︑道数を集
ることに於いて︑何の悔いがあろうか︒﹂
最後の﹁周重答書井周重問﹂には周顧は先の反論を次のように受
け止
めて
いる
︒
足下
不レ
翔孟
血於
四果
↓猶
勤レ
集
1
1於佛数↓翻不レ翔一1
於五
通↓
何獨
棄
1於道跡一乎︒理例不レ通方為彼1 1
訴↓
よう
に︑
吾不
レ翔
n翻於五通f ﹁跡﹂が異なっている以上︑その﹁本﹂も︱つではあり得
と﹁貴方は四果にむかって弱ばたかないといいながら︑なお佛数を集
ろうとしている︒五通にむかって弱ばたかずといいながら︑どうし
て道跡だけを棄てるのか︒理論的に通じないので︑あのように訴え
たの
だ﹂
と︒
周顆の此の最後の一節は若干難解に思われるが︑﹁根
源だけを宗とすると云って道教の﹁跡﹂に拘わらないけれども︑佛
赦の﹁跡﹂には務めているのではないか﹂という含蓄だと思う︒従
って貴方︵張氏︶の議論は﹁跡﹂のレベルと﹁本﹂のレベルがこん
がらがっているという趣意である︒
以上に主として周順の仏教と道教との相対関係及びその優劣に関
する立場を分析して来たが︑儒教の位置づけにも又触れているので︑
簡単に紹介したい︒第一通の書簡﹁答張書井問張﹂にはこう述べて
いる
雖 ︒
︳=
稗道
所レ
蹄︒
吾知
其1 1
主↓
然自
レ繹
之外
儒網
為レ
弘︒
過レ
此而
能
R 恩仲星相若者︒黄老寅雄也︒
﹁超越的な員理︵紳道︶の蹄着するその第一のものを︑私は承知し
愴しえているが︑佛数の外では︑儒の綱が弘大だ︒これ以外で孔子と匹敵
するものとしては︑黄帝・老子が寅にすぐれている﹂︒これによれ
ば︑精神の玄奥なる在り方について根本的真理を説き明かしている
のは︑釈迦の教えに外ならないが︑更にそれには及ばないながらも
弘大なものとして挙げなければならないのは儒教で︑そして儒教に
迫るものとして黄老の教えをとり挙げている︒ここで周順は三教を はない︒従って︑本来︑偉大なる仏教を説くべきところを︑世の情 であるが︑その説き方は︑臨機応変で︑ 仏・儒・道と言う順でランクづけを行なっていると言えよう︒更に第1
一の
書簡
では
こう
言っ
てい
る︒
夫大
士應
レ世
其證
無レ
方︒
或為
儒林之宗↓或為=國師道士↓斯鰹I I
数之成説也︒乃至=宰官長者f威託‑1身相↓何為老生獨非
1
1一
跡 ↓
但未
レ知
1一
渉観
洩深
品位
高下
1耳︒此皆大明未レ啓櫂接‑1一方↓日
月出突︑燿火宜レ酸︒無餘既説︑衆櫂自寝︒足下猶欲レ抗=遣燎R 於日月之下↓明下此火輿
日I I
月一
通︐
源︒
ぼ さ つ
﹁かの大士が世に應現するや︑そのやり方はさまざまであって︑あ
るいは儒林の宗となり︑あるいほ國師や道士となるのであり︑この
ことは経典に明らかに説かれている︒あるいは宰臣・長者に至るま
でみな身相を託す︒どうして老子だけが一跡でないことがあろうか︒
但だその洞察力の深い浅い︑位階の低いが分からないだけだ︒これ
らはみな大いな光明が未だ啓かれないので︑かりに一方だけに接し
ているのだ︒日・月が出れば︑燿の火は消さるべきであり︑無餘
かり
︵の大道︶が説かれた以上は︑もろもろの櫂の道は自らきえる︒そ
れなのに︑足下は︵熾火の︶残り火を日・月のもとであげ︑此の火@ が日・月と源を通じているのだと脱き明かそうとしている︒﹂と︒
換言すれば︑菩薩は無比の教えを説いて世の人々を導いているもの
一定の形態に拘わるもので
況に対応してひとまず権宜の説として開陳したのが︑他ならぬ儒教
ぼ さ つ
であり︑道教なのである︒備教も道教も大士の教説の一種である以
1 0
上︑根本に於いて︱つである筈だが︑反面︑世俗の求めに応じた権
一方に偏った内容のものであって︑完全具足な
ものではあり得ない︒偉大な仏教が説き出された現在では︑それら
﹁植﹂則ち方便の観念を踏えた体系づけは、天台智顕判教の序曲とも言うべき、僧柔(四一――で~四九
慧次︵四三四
i
四九
0 )
︑法雲︵四六七
i
五二九︶及び劉軋︵四三八!四九五︶等を代表とする︑当時の南朝仏教界に拾頭しつ
つあった判教思想に通ずるところがある︒
一方︑儒道二教は︑日月の大明の下に﹁宜しく陵すべく﹂自ら寝
むべきものとは言え︑無意味なものに化してしまうわけではない︒@ 第一書簡では︑﹁吾則心持
繹訓一業愛二儒言こと述べて︑儒家的1 1
倫理の実践を強調する一方︑第二書簡では︑
但粉紛横沸︑皆由レ著レ有︒迂レ道涌レ俗︑弦焉是患︒既息由‑1有
滞1而有性未レ明︒矯レ有之家因崇
f無術↓有性不レ明雖=則巨蔽1 1
⑭
然違
レ誰
尚レ
静︑
渉レ
累賓
微︑
是道
家之
所日
以有
"神
弘レ
数↓
﹁およそ︑ごたごたとおちつかないのほ︑みな有に執着するからで
あり︑道に迂り︑世俗に沈涌するのも︑ここにその欠陥があるのだ︒
欠陥は有に滞ることによるものであるか︑有の性が不分明である︒
有を矯めるものは︑そのために無の術を崇ぶのだ︒有の性が不分明
であることは︑大きな欠点ではあるが︑不純なものから遠ざかって︑
静を尚び︑累に渉ること︵煩悩︶は寅に少なく︑これは道家が︵佛
数︶の数化を弘める上に役だっ理由である︒﹂と述べている︒ 四 ︶ ︑
中国
南朝
士大
夫に
於け
る仏
教思
想の
受容
の役目が終った︒此のような︑ 宜の説であるから︑
周顕は中国三論宗初期の歴史に於いて重要な位置を占めている︒
その著書﹃︱︱一宗論﹄は高僧に高く評価された︒吉蔵によれば︑周顕
は︑僧朗が鍾山にある自分の草堂に住した時︑僧朗について一ー一論を
学んだと言うが︑僧朗が江南に着いたのほ四九四年で︑周顆が其の
⑮ ﹃三宗論﹄を著したのほ四八七年だから︑吉蔵の記述は誤っている︒
それはともかくとして︑周顆は︑三論の専門家であった智林と玄暢
と交遊関係を持っていたことは事実である︒﹃高僧偲﹄によれば︑R 智林は二諦義に三宗不同ありと申明した学匠であったが︑周顕とい
う一介の在俗信徒による﹃三宗論﹄を絶賛したことは︑同書の内容
が如何に当時において卓越したものであったかを物語っている︒
﹃三宗論﹄は世諦と真諦との関係を解明しているが︑おおよそ︑@ 一不空仮名︑二空仮名︑三仮名空という三段階を以て絶体的真諦に
到達するとしている︒第三の宗︵空仮名︶にあたる周顕自身の説は︑
当時の成寅学派の二諦観を破して︑般若之論の立場から二諦の正義
を立てたものである︒当時︑多くの学僧は﹃成賀論﹄の研鐵に終始
する傾向が強かった︒爾子良は︑その弊害を慨き︑僧柔.慧次等に
命じ﹃成寅論﹄を抄略して九巻本を撰せしめたと﹁新撰略成寅論
⑱ 記﹂に記されている︒
宋の明帝︵四六五
l
四七二︶は︑論議を好み︑周顆を宮殿内に引き入れて︑親しく宿直させた︒明帝の残虐な行為について︑周顆は︑
む す
び
はっきりと諫言ほしなかったが︑仏典中に説かれる因縁罪福のこと を誦したため︑明帝は暫くその残虐な行為を中止した︒此のように︑
周顕が因果応報の道理を説くことによって天子に反省を迫ったこと は︑仏教の教えが宮中にも足場を固めつつあったことを物語る︒
注①﹃高僧偲﹄八巻︑大正大蔵継五
0
巻 ︑
1 11
八
0
頁上
︒
②張融伝は﹃南齊書﹄巻四一に︑劉綸伝は﹃南史﹄巻一=二に見える︒何
胤ほ慮士何貼の弟で︑その伝記が﹃梁書﹄巻五一に見える︒劉蠍伝ほ
﹃南
齊書
﹄巻
三九
参照
︒
③﹃南齊書﹄巻四一及び﹃南史﹄巻三四参照︒④﹃梁書﹄巻十三及び﹃南史﹄巻五七参照︒
⑤﹃南齊書﹄巻四七及び﹃南史﹄巻ニー参照︒⑥﹃南齊書﹄巻四四及び﹃南史﹄巻十五参照︒
⑦﹃高僧博﹄巻八︵大正大蔵経五
0
巻三
七九
頁上
中︶
︒
⑧﹃
高僧
博﹄
巻八
︵同
一︱
︱七
八頁
上︶
︒
⑨﹃
高僧
偲﹄
巻八
︵同
一︱
︱八
二頁
下︶
︒
⑩﹃績高憎偲﹄巻五︵同四六四頁上︶︒
⑪﹃南齊書﹄巻三十九゜⑫﹃南齊害﹄巻四十八゜⑬﹃梁書﹄巻五十一︒
⑭﹃梁書﹄巻五十一に云う百法論を﹃廣弘朋集﹄巻二十六︵大正大蔵鯉五十二巻二九三頁中︶で百論とする︒唯識には﹃大乗百法明門論﹄があるが︑ここでは百法論を百論と同一視する︒⑮
R .
R o b i
n s o n
, E a
r l y Mad
hy
am
ik
a i
n I n
d i a and
C h i
n a ,
M a d i
s o n ,
Mi
lw
au
ke
e and
L o n
d o n ,
1
96
7,
p .
28
参照
︒
⑯京都大学人文科学研究所中世思想史研究班・弘明集研究班研究報告﹃弘朋集研究﹄巻下五六七頁
l
五七
0
頁︒原文は﹃弘明集﹄巻十一︵大 正大蔵紐五十二巻六九頁上︶所収︒⑰﹃南齊書﹄巻四十一︑周顧伝に﹁後何胤言断食生︑猶欲食白魚︑組膊︑
糖 蟹
︑ 以 為 非 見 生 物
﹂ と あ る
︒
・
⑱右記﹃弘明集研究﹄巻下三五八頁︒原文は﹃弘朋集﹄巻六︵大正大蔵継五二巻三八頁下︶所収︒
⑳同右︒ ⑲同右︒
⑳吉川忠夫著﹃六朝精神史研究﹄二八八ーニ八九頁参照︒
@森野繁夫著﹃六朝詩の研究﹄五三七頁参照︒
⑳﹃南齊書﹄巻四十一︑張融伝︒
⑳同前︒
⑮同前︒
⑳﹃弘明集﹄巻六︵大正大蔵経五十二巻三十八頁下︶︒
@太田悌蔵﹁支那宋齊時代の道佛論争﹂︵宗教研究編輯部編﹃宗教研究﹄
新十
巻二
号︶
六七
五頁
︒
⑳大正大蔵経五十二巻七十三頁中︒﹁民﹂は張融を指す︒
⑳﹃弘明集﹄巻六︵大正大蔵継五十二巻四十一頁中︶には﹁餘尋周張難問︒雖往復積巻︒然雨家位意理在初番︒故略其後文旨存義本﹂とある︒⑳﹃南齊書﹄巻五十四︑顧徽伝︒
R網祐次﹁南齊覚陵王薫子良の文學活動について﹂︵﹃東方學論集﹄
1 1 )
︱一
八頁
︒
⑫﹃南齊書﹄巻四十一︑本伝︒
R﹃弘明集﹄巻六︵大正大蔵経五十二巻三十九頁上︶︒⑭前掲﹃弘明集研究﹄巻下三五六頁以下見よ︒
R大
正大
蔵継
五十
二巻
ー︱
︱十
九頁
上中
︒
R前
掲﹃
弘明
集研
究﹄
巻下
︳︱
‑六
五頁
以下
︒
⑰大正大蔵継五十二巻三十九頁下︒R同四十頁中︒
⑲同四十一頁中︒
R同
一二
十九
頁上
︒
@同四十頁下︒
⑫前掲﹃弘明集研究﹄巻下三七
0
頁以下及び中嶋隆蔵著﹃六朝思想の研究士大夫と仏教思想﹄三0
九頁
以下
参照
︒
⑬大正大蔵艇五十二巻三十九頁中︒
⑭同四十頁下︒
⑮ 前 掲
R . R o
b i n s
o n 著
一 七 二
頁
i
一七
五頁
︒
⑯﹃高僧偲﹄巻八︵大正大蔵鰹五十巻三七六頁上︶︒
⑰乎井俊栄著﹃中国般若思想史研究﹄二
00
頁以
下︒
⑱横超慧日著﹃中国佛教の研究﹄第一︑二九八頁︒
中国南朝士大夫に於ける仏教思想の受容