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英国の現代詩人トウニー・ハリスンは,1985年に発表した長編詩「V」で,詩に興味の 薄い人の間でもその名が知られるようになった。「V」は今日では珍しく韻文で書かれた,
しかも,政治詩で,サッチャー政権時代に激化した社会対立や社会分断に鋭く切りこんで 注目を集めた。冒頭引用されるアーサー・スカーギルの新聞インタビュー記事はこう述べ ている。 My father still reads the dictionary every day. He says your life depends on your power
to master words. この一節自体驚きに値するわけではない。しかし,こう述べるスカーギ
ルについて知る者は,その予想外の発言に驚いただろう。彼は中学卒業と同時に,僅か十 五歳で父親同様,地元の炭鉱で採炭工として働き始め,後に全国鉱山労働者組合幹部と なった後,1984年からはその委員長として二年にも及んだ炭鉱夫ストを指揮し,一時は サッチャー政権と激しく対立する一方,その独善的言動で首相とともに英国でもっとも激 しく嫌悪された人物であった。生まれ故郷のヨークシャー訛りを隠さず,また,発言は 教条主義的内容のものばかりであったが,立て板に水の弁舌,舌端火を吐く言説は圧倒的 で,少なくとも彼の信奉者の間では感銘極まりないものだった。我々は外国語については
「マスターする」などと,能動態述語を使用するが,あのスカーギルにとっては母語もま た,所与のものではなく,努力し獲得されるべきものだった。作者のハリスンもまた,ス カーギル同様ヨークシャーの労働者階級家庭の出身で,地元のグラマー・スクールから奨 学金を得てリーズ大学で古典文学を学び,ギリシャ・ラテン語とともに,詩人となるべき ほどの母語能力を獲得した人物であった。
いわゆる「言語論的転回(Linguistic Turn)」の立場に分類される哲学・言語学は,人間 の知覚,認知,理解は言語によって決定されると考える。「言語の使い手の意識」が言語 を操るのでなく,逆に,言語自体が意識を構成すると捉えるからだ。たとえば,ソシュー ル言語学の代表的概念の一つである「差異」に関して,彼が述べるところによれば,英
語で River, Stream,Brook の違いは川の大小に依拠するが,フランス語の fleuve,
rivière の相違は必ずしもその大小によらず,fleuve は海に流れ込み, rivière は流れ込
まないという差異から生起するという。人間の意識が言語によって一方的に構成されてい るかどうかは疑わしいとしても,それぞれの知覚,認知,理解が言語と密接に関連してい ることは間違いない。一方で,多くの認知科学者は異なる言語の話者は,異なるマインド を持つと指摘し,その中の一部の認知科学者はバイリンガル,トライリンガルは,自らの
早稲田日本語教育実践研究 第 6 号 【巻頭エッセイ】
言葉のすゝめ
国際担当理事
森田 典正
早稲田日本語教育実践研究 第 6 号/ 2018 / 1―3
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内部に異なる複数のマインドを持つとも主張する。第二言語,第三言語の習得によって,
世界を別の見方で見ることができるようになるのであれば,母語以外の言語を獲得する意 義はこうしたところにもあるはずである。
現在,比較文学の一つの潮流となっている世界文学研究の端緒は,中国小説を独訳で読 んだゲーテが,これからは国文学(Nationalliteratur)の時代でなく,世界文学(Weltliteratur) の時代だとエッカーマンに語った時にまで遡るが,近くは
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年のイタリアの英文学・欧州文学者であるフランコ・モレッティによる,ゲーテ,マルクス,エンゲルスの世界文 学概念の再発見を一つの理論的原点とする。世界文学は言語の境界を超え,他言語・多 言語で読まれるようになった翻訳文学のことで,比較文学の一形態となった世界文学研究 は,文学が翻訳され,伝播し,受容される一連の過程を考察する。世界文学研究の方法 論は必ずしも一様ではないが,モレッティはテクストの「精読(close reading)」に対し,
「遠読(distant reading)」という新語を拵え,「翻訳を介して」文学を読み・分析すること
を,遠読の中に組み込んだ。こうした世界文学の思考法・方法論に対しては,当然のこと ながら反発があり,比較文学者のエミリー・アプターは世界文学批判の急先鋒となってい る。アプターは世界文学批判の最大の根拠を翻訳不可能性に求める。翻訳と本の流通の発 展により,世界が文学をより広く共有するようになったことを評価しつつも,いかなる言 語も他言語への等価での置き換え,交換は不可能であるというデリダやジュディス・バト ラーやアラン・バデューらの思想を拠り所に,彼女は「翻訳を介した」世界文学に学問的 正当性や意義を認めようとしない。しかし,世界文学研究者も原文の『源氏物語』とアー サー・ウェイリーによる英訳Tale of Genjiを読む経験が,あるいは,原文のÀ la recherche
du temps perduと井上究一郎訳の『失われた時を求めて』の読書体験が同じものだと考え
ている訳ではない。むしろ,文学の翻訳と伝播と受容の過程であらわれる妥協,誤解,ズ レ,揺れの同定にこそ,世界文学の研究法の中心はある。世界文学研究は言語を一つしか 獲得していない(monolingual)状態を前提としないのである。
努力により高い言語能力を獲得できた人間は幸運であり,逆に,言語能力の獲得を怠っ た,あるいは,なんらかの理由により,その機会を奪われた人間は,例外はあるにせよ,
様々なハンデを背負わされる。トウニー・ハリスンの「V」はまさに後者の現実を,若い 失業者やフーリガンの言語の貧困と彼らの蛮行の連動として描き出した。他方で,母語の 能力に似て,外国語の習得は他者にたいする理解と尊重と思いやりを育み,逆に,モノ リンガルは,時として,無知や誤解や不寛容を増長する。自民族中心主義者の中に多言語 習得者は少なく,逆に,地球市民(コスモポリタン)の中に単一言語話者(モノリンガ ル)は少ない。多言語習得者に内向きは少なく,単一言語話者にグローバルな人間はいな い。EUの言語政策である複言語主義(Plurilingualism)は,近代ヨーロッパ国民国家の言 語ナショナリズムの歴史への反省と,多文化・多言語共生の新たな価値の創出,すなわ ち,「均一性なき統合,分裂なき多様性」を意味するEUのモットー「多様性による統合
(Unity in Diversity)」に基づくものである。EU評議会言語政策部門が提案した複言語主義
は,EU市民各人が一カ国語以上の言語を,自分なりの運用レベルでコミュニケーション に使用し,間文化間のやりとりに参加することを促す。複言語主義政策で大事なのは言語 スキル獲得という能力の観点にとどまらず,EU市民一人一人が自らの第一言語だけに閉
森田典正/言葉のすゝめ
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じこもらず,他言語にも心を開くという価値観をも含んでいることにある。
近代リベラル・アーツ教育の中心が言語教育,外国語教育にあったのは,おそらく,リ ベラル・アーツの価値観と複言語主義政策がもつような価値観が不可分であったからだろ う。日本においては一時期,高等教育機関における日本語教育を含めた外国語教育がすさ まじい批判に曝されたことがあり,今でも,語学教育への偏見や無理解は見えないところ で沸々と煮えたぎっているようにみえる。確かに,戦後,日本では語学教育が停滞して機 能せず,また,これといった成果をあげることのできない時期があった。気がつけば,た とえば,日本は英語能力試験の平均値で,英語を第一言語としない他のアジア諸国からも 大きく水をあけられていた。大学は語学教育を外国語学校に外注すべきだ,というような 極端な意見さえ,かつては存在した。しかし,昨今,そうした主張が聞こえなくなったの は,大学の語学教育改革の結果でもあろうが,やはり,グローバル化という神風のなせる 技であった。経済,教育,文化の急速なグローバル化の渦中で,大学に語学教育の放棄を 求める選択肢がなくなったからである。しかし,これで語学教育に携わる教員が免責され たわけではない。言葉を鍛え上げることは全大学人の使命であり,言葉を教えることは言 語能力を伸すことだけにとどまらず,しなやかな価値観を育てあげることにも通じる。言 語の獲得はそれ自体が価値であることを誰も忘れてはなるまい。あのジャック・デリダも 言うように「言語は人を耕す」のである。
(もりた のりまさ,早稲田大学国際学術院)