著者 衣笠 正晃
出版者 法政大学言語・文化センター
雑誌名 言語と文化
巻 8
ページ 1‑11
発行年 2011‑01‑10
URL http://doi.org/10.15002/00007094
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今日のⅡ本文学史のなかで上川敏(一八七四’一九一六)は、彼の同時代である十九世紀末から二十世紀初頭のかけての西洋文学、とりわけフランス・ベルギーの象徴詩に代表される唯美主義文学の翻訳者・紹介者として、高く評価されている。とりわけ比較文学の領域では、烏旧識二、矢野峰人といった先覚者から現在の研究者にいたるまで、くりかえしとりあげられ、論じられてきた。上川の翻訳者としての功統は、訳詩集『海潮音」(一九○㎡年刊)に収められた諸篇に見られるとおり、母語話者にとってさえ難解な象徴詩をはじめとする詩テクストを、語学的にも、背最となる文化史的知誠の点でも、爪確に理解し、文学的に完成度の高いⅢ本語に移し替えた点にある。その際には、『万葉集』『源氏物語』をはじめとする日本の古典文学に対する上田の深い造詣が存分に活かされた。しかし、上川は古語を単に引用するにとどまらず、従来なかった意味やニュアンスを与えたうえで使用し、場合によっては古語にもとづく造語をおこなうなど、むしろ古典を積極的に「利用」している。同様に、古典詩歌の七音・況音の交代のパターンをもとにして、その可能性を大きく拡大してみせた甜律とあわせて、上川は古典日本語をもととした新たな詩的一一一一口語を生み出したのであり、
幽玄・象徴・多義性
l上田敏の詩学をめぐってI
はじめに
衣笠爪晃
(2) 幽玄・象徴・多義 257
脚知のとおり、北川敏は象徴詩における「象徴」の概念とその働きを紹介するにあたり、「姻玄」という語を川いている。上川以前において、森鴎外や「文学界』の同人など明治期の文学者たちによって、現征なら普通「神秘(性)」と訳される日昌の庁の二(英語)、三]の(のH日日(ドイツ語)、日]の芯【の(フランス語)に対する訳語として「剛(1) 玄」はすでに用いられていたが、上川の新しさは、この麺、を象徴概念の説明に用いたところにあった。上田は「海潮音』のなかで、象徴派の代表的詩人ステファーヌ・マラルメ(の・三口]]日日の)の言葉を次のように翻訳・紐介し その点に上田の創作者としてのオリジナリティが認められる。さらに上川は、翻訳によって象徴詩の実例を提示するだけでなく、象徴詩の理論の解説・紹介をおこなった。上川は英文学を第一の専門領域としながら、他の西欧語文学、さらにはギリシア・ローマの古典文学、聖書学・キリスト教学の知識も備えていた。当時の文学者・文学研究者にはまれだったそのような該博な文学(史)の知識を背景に、上川は象徴詩を、同時代日本の他の論者たちとは異なって、単なる語法や修辞の問題にとどめずに論じることができた。彼は大学卒業後、来京高等師範学校教授・来京帝国大学講師の職を経て、一九○九年に京都帝国大学教授となり、死去するまでその職にあったが、その間大学という制度の内部にあって英文学や文学概論を学生に教えるとともに、同時に、大学の外の一般読粁人にむけて翻訳・評論を発表しつづけた。つまり上川は、官立のアカデミーに属しながら文学者・評論家として活動した人物として、先駆的な存在であった。その点で、同じく英文学を専門としながら、大学を去って専業の小説家となった夏目漱石(一八六七’一九一六)とは対照的である。外国文学の椛威者であり、講堀批評家の先駆者であった上川敏の評論や文学理論は、その後の文学研究に重要な影響を与えることになった。だが同時代の社会的・文化的状況を蹄まえた上川の批評や発言は、もとの文脈から切り離されて利川されるなかで、彼の意Mとのずれを生むことともなった。
幽玄と象徴l中世文学の評価と上田敏I
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つまり、対象を明示せず暗示することが「幽玄」すなわち神秘性であり、その使川が「象徴」である、ということになる。また、ほぼ同時期、一九○六年の講演「マァテルリンク」にも「幽玄不可説な心情」「幽玄で意味深長な(4) (.:)思想」という表現が見られる。さらにそのような「象徴」の効川について上川は、ヴィジェⅢルコック(回三四の‐旧の8p)による象徴詩の解説に依拠して、『海潮音』の「序」で次のように述べている。 ている。以下に原文をあわせて引く。
それ物象をⅡ示するは詩興四分の三を没却するものなり。読詩の妙は漸々遅々たる推皮の柳に存す。略示は即ちこれ幻想に非ずや。這般幽玄の運用を象徴と名づく。一の心状を示さむが為、徐に物象を喚起し、或は之と(2) 逆しまに、一の物象を採りて、剛Ⅱ数番の後、これより一の心状を脱離せしむる郭これなり。」ざミヨの「目・ワ〕のけQのの房9頁旨の二のの耳。Hのロロ日【のQの}ロ]曰のの目・のsb・の曰のPBのの重昌のQのQのぐ目のRbのppbのR]の吻屋路:急ぐ・蒜」の【のぐの○の⑦この□員臼亘の四mのQの8日]の弓のpB8口の庁言の」のの曰日ウ・」のふぐ。□口のRbの葺叫bのは【ロロ○ケ〕の(bopH日○ヨHのHppm己(9)山日の》○F曰くのHの①日の曰・so】の】Hppoご]の(の(の口忌mpmの門口ロ(3) の画(Q邸BpbpHppの①の。①Qの急○三m坤の日のロ(の.
象徴の川は、之が肋を籍りて詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必らずしも同一の概念を伝へむと勉むるにあらず。されば静に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて、詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に対する解釈は人各或は見を典にすべく、要は只麺似の心状(5) を喚起するに在りとす。
(4) 幽玄・象徴・多義性 255
そして同時に、「日本的なもの」の中心に、この象徴派理解に裏打ちされた「幽玄」がおかれることになった。襖一一一一口すれば「幽玄」に代表される中世的美学(そこには芭蕉の俳譜も含まれる)がⅡ本的性格の中心に位満づけられるようになったのである。たとえば北川杏村は一九二七年の段階で、「『幽玄』が何を意味するかを問ふことは、(8) 日本の芸術の中心精神が何であるかを問ふことと殆ど同じ」であり、それゆえに困難である、と述べている。このような一九二○年代以降の古典理解ないし中世文学理解においては、「幽玄」を「理解不可能」な「深さ」として (6) このような叫解は、一九二○年代以降、文学群や国文学研究将たちの間で一般的なものとなっていった。たとえば節二次世界大戦以前におけるもっとも包柄的な和歌史書である児山信一箸『新識和歌史』(一九一一一一年刊)では、「新古今集』の歌風を説明するにあたって、まず第一に「象徴的の性質」を指摘し、次のように、ほぼすでに引いた上川敏の言葉どおりの説明をおこなっている。 ●ようになり、よ》っになる。 ところで明治時代末の時点において、芭蕉の俳譜、さらに『新古今和歌集』に代表される中世和歌が、「幽玄」という概念を通して理解されるようになっていた。そこに上田が象徴詩の解説にあたって「幽玄」という語を用いたことで、上記のような「幽玄」とされた日本の古典文学作品が、こんどは「象徴的」なものとしてとらえられるようになり、さらには、象徴派によって代表される西洋近代文学にも劣らない、すぐれたⅢ他をもつと見なされる
余情を尊ぶが為に、説明的であり報告的であることを避けて、なるべく簡潔な語句でなるべく豊富な内容をあらはさうとし、叙述するよりも暗示するといふ手法を収らうとする。さうした手法の究極がやがて象徴である。象徴は作背の持つ気分乃至それに瀬似したものを読背に伝へる為の具体的表現である。従って象徴的の歌は読者からいへば必ずしも一定の解釈があるばかりとは限らず、ある場合には意味の暖昧なこともある。しかし具(7) 体的表現によって作背の一水さうとした気分又はそれらしいものに触れることができればいいのである。
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だが、上田による象徴理解をあらためて見直すと、f田は象徴詩が「幽玄不可説」であると説くと同時に、象徴詩の多義性、つまり読解の過程における、読者の側の多様な解釈の可能性を強調していることに気づくことになる。すでに引用した『海潮音』「序」にあるとおり、象徴は読者に「詩人の観想に類似したる一の心状」を与えるのであり、「必ずしも同一の概念を伝へむと勉むる」ものではない。その「解釈」は個々の読者の「感興」に左右され、結果として多様なものとなりうる。つまり象徴とは多義的なものであって、不可能なのは意味を解釈すること日体ではなく、意味を一律・一様なものとして決定することなのである。またすでに引いた講減「マァテルリンク」では、詩のなかでコ団の景物を叙述すれば、之に照応して、牒朧とはしてゐるが、幽玄で意味深長な他の一団の思想が浮ぶ」が、この「思想」は「Ⅲ言できないほど深遠である」ため、「読者の異るに従って、多少解釈は違ふ」(9) 結果となる、と述べ》られている。ここで上田の言う幽玄Ⅱ神秘性が、理解自体を拒否してはいないということに注意する必要がある。それは、たとえば粗筋を追って小説を読むような「浅い」理解を拒絶するのであって、言い換えれば、読者に対して、受動的な受容ではなく、能動的な「解釈」を求める。その結果、多様な解釈が生じ、その故に、単純なアレゴリー(寓意)ではない、「象徴」としての意味合いが生まれることになる。(Ⅲ) だがその一方で上田は、「要は只類似の、心状を喚起するに在り」(「海潮土日』「序」)、「皆類似した了解を得る」(「マァテルリンク」)と述べてもいる。つまり読者は、多様な解釈をおこなうものの、最終的には似通った、同質(Ⅱ) の心理状態に落ち着くのだというのである。しかしながら、いったいどうしてそのような読者の側での一致を予想・期待することができるのだろうか。 とらえる傾向が顕著である。
二多義性l上田の象徴派理解I
(6) 幽玄・象徴・多義'2 253
この点を考えるとき、読者層の質という問題に注目する必要があると思われる。そもそも象徴詩のような難解なテクストを前にして、能動的な解釈をおこなうということは、誰にでも可能なわけではないだろう。上田は一九○七年十一月の『中央公論』掲載の談話「近代の小説」のなかで、詩を理解するにあたっては「今日の詩を成す迄に、(、)幾多の蓄積せられ来れる連想の趣味を会得する」ことが不可欠だと述べている。象徴詩のようなテクストの能動的な解釈は、背景にある文化的・文学的な伝統やコノテーションに対する理解や知識をもった、教養ある読者によってはじめて可能となる。そして、一定の水準以上の、似通った教養を備えた読者層が社会のなかに形成されていれば、知識や価値観、社会経験の共通性が前提となって、たとえ解釈が多様に異なるものになったとしても、その多様性は一定の枠内におさまり、似通った心理的状態が喚起される、と考えられるだろうl上川の主張の背景には、このような論理があると推測できる。だが問題は、当時、つまり二十世紀初めの日本において、そのような成熟した、等質な読者層が存在していたかということである。止田は、過去の日本においてはそのような時代が存在したと考えていた。それが江戸時代である。『文芸論集』(一九○一年刊)に収められた論文「文芸世運の連関」(初出一八九九年)によると、江戸時代は、少数の椛力者ではなく、幅広い一般市民屑によって文学・芸術が扣われ「目山なる暢達を遂げた」点で、上川にとっては理想的な時代であった。しかし彼の生まれ育った明治時代はそうではない。上田の日に明治時代の日本は、政(旧)治的・経済的な発展は遂げたものの、文化的な成長が不十分な社会として映っていた。そのような落差を生みだした原因は教育である。上田は一九○四年の談話「文学者と読者」のなかで、明治時代においては中高年も若者も、いずれも不十分な教育しか受けていないという。上田によれば、明治日本の建設者たちの世代は、維新前後の混乱期にあって古典を学んでおらず、先行世代に比べ基礎的な教養がない。また現在の若者も、短期間での専門家養成を目指す教育の弊害として「普通教育」つまり教養教育を欠いており、「文科を志願する者の他には、学生は精神上の修養といふ事を全く怠って居る」。つまり、新旧の両世代とも、本格的な文学を(Ⅱ) 鑑賞する素質がないというのである。
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上川は象徴詩の問題にとどまらず、文学がもつ社会的ないし教育的効川について意識的であった。ここで対象を象徴詩以外にも広げて、上川の議論を押さえておきたい。まず前提として、上田は文学をどのようなものとしてとらえていたのだろうか。彼の考えでは、文学は「国民全(旧)体、社会全体共通の産物」であり、したがって社会のあり方を反映するものであった。その占扣では、実際の社会の状態を活写し、問題を提示する自然主義の小説はもちろん、象徴詩も例外ではない。近代社会が複雑に発達した結果、そこに生きる人間の心理は錯綜し、たとえばドイツ語でzのゴ・の]威((上川の訳によれば、「神経症」ないし(Ⅳ) 「不可思議」)と呼ばれる状態に至る。表現における「不可思議」ないし「幽玄」と上田が呼ぶものは、そのような社会心理のあり方の反映なのである。したがって文学作品を読み、理解することは、それを生んだ社会を理解することであり、社会に生きる自らの認識につながる行為となる。しかし問題はそこにとどまらない。上田にとってより重要なのは、読者として文学を受容することが、人間に働きかけ、人間を変化させる可能性をもっているということなのである。文学を読み、解釈するという経験が、まず では、そのように認識しながら、なぜ上田は高度な解釈行為を必要とする象徴詩を熱心に紹介したのだろうか。(旧)よく知られている通り上田は、自分は象徴派よりむしろ高踏派に辻〈感すると『海潮立曰」「序」で述べている。自らの嗜好を描いてなされた象徴詩の紹介は、ある種の使命感からの行為だったと見なせるのではないだろうか。上田は、象徴派の読者となりうる教養ある市民層を自らの同時代において成長させる、という教育的な意図から、あえて難解な象徴詩を明治時代の日本に導入し、読者に一種の知的な訓練を施そうとした。あるいは象徴詩の紹介を通して、成熟した「解釈共同体」を備えた西欧社会のあり方を提示し、日本の知識人の覚醒をうながそうとしたlこのように考えることができるのではないか。
三「文学教育」者としての上田敏
(8) 幽玄・象徴・多義12 251
個人としての読者の内面に変化をもたらし、その変化が他人へ、社会へと拡張してゆくと上川は主張している。一九一三年の講演「芸術としての文学」で上川は、前掲の「文学者と読者」におけるのと同様に、新旧の両世代がともに教育を欠き、素養を欠いているため文学に対する理解が足りないと指摘し、その現状をふまえて、文学が人間に与える感化について次のように説明している。まず、文学を読む行為を通じて「読者の精神の中にひとつの経験ができる」。その経験は、「精神上の経験」「受動的でなく能動的の経験」であり、「それが本当に文学を味ふと云ふことになる」。もちろんそれは読者の側に努力を要求するものだが、「努力が面白味であって、それに引付けら(川)れて経験を生ずる」、つまり「心が動きだす、心が活動する」経験が与》えられる。このような経験は、直接的な行動には結びつかないが、個人という枠からわれわれを瞬間的であるにせよ解放してくれる。現代社会に生きる人間にとっては、孤立した自我という制約を脱し、自然や社会と心を通わせることが必要だが、文学の体験こそが、そ(川)うした目的にふさわしいlこのように上川は一一言う。翌一九一四年の京都帝国大学での講義「文学概論」でも、文学体験が個人の内面から外部へと及ぼす影響について述べられている。このなかで上川は、文学の効川を、日常生活のなかで低下した生命の働き(ぐ言]旨ロ・は○口)を哨進(のロ冨口・の)する点に認めている。そして、文学によって仙人が感じる喜び(]&)はその外面に表出され、それを見た他人に伝わり、あるいは無意識のうちに他人によって模倣されて、個人というレベルを超えて「広く一(加)般社会の生活をも増進する」、つまり「の]日ロロ(耳の範囲を広める」ことになるという。上田によれば、教育の目的は、社会の基礎となる教養ある個人の確立にある。一九二年八月の『太陽』掲救の「専門過重の弊」では、冒頭で「日本に於ける現在の教育について最も目につき易いのは、基礎となるべき修養の教育を慨って寧ろ枝葉に渉る末技の教習を過重する弊害である」と述べたうえで、「世の中は簡人を土台として考を起さないと、永い間には社会も国家も衰微する」ことを指摘し、大学生に狭い専門に偏らない「どっしりと基礎ひとかどになる教育」を授け、「常識も円満で、|廉役に立つ有為の青年」として社会に送り出すことの重要性を説いてい(別)る。また一九一一一年の文章「教育の並曰及」のなかでは、教育の目的は中途半端な物識りを生産することではないと
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し、「知力のみならず、情意の力を養」うことで「専門特殊の学術を知らずとも、調和のとれた完全の筒人」を生(皿)み出すことが、中等教育・高等教育において重要だと主張する。この「情意を養」うことにおいて、上に述べたような文学受容の経験が役立つことになると上川は考えたに違いない。そして、そのような個人が、さらに文学や芸術を鑑賞する体験を重ねるなかで、こんどは個人の枠を超えた、相互の共感や交流が可能になるはずである。上川は「若し文学にして此の世になかったならば、世の中は実に殺風錠な利己のみに走って、愛に満ち情の髄っ(別)た腿はしい人間の社会らしい社会を結ぶことは出来ない」とも述べている。知識・感情のバランスがとれた個人を育てること。さらにその個々人が、自我の枠を超えて社会としてのつながりを深めるよう導くこと。これが、教育者としての上田敏の最大の関心事であったと思われるが、文学、とくに読者として文学を受容・経験することは、上川の教育のプログラムのなかで、きわめて大きな役剖を担っていた。はじめに論じた象徴詩とその理論の紹介も、そのような大きなプログラムのなかで行われたものとしてとらえなおす必要がある。
矢野雌人が折燗するように、『海潮音』に代表される翻訳者としての業統に対する評仙があまりにも高いがゆえ(別)に、上川敏がもつその他の側面は見過ごされがちであった。以上の私の議論のなかでは、上川の教育者としての川にポイントを撒いて考えてみた。文学の来たす機能についての上川の議論を今日の時点から振り返って、とくに興味深く思われるのは、上川が読者による文学テクスト受容の過職を、能動的・械極的なものとしてとらえた点である。そしてこのような上田の発想の源には、やはり彼自身が創作家ではなく、芸術に対する知識と熱情を備えた審美家としての読者であった、という事実があると考えられる。上川はそのような自らの資質に十分意識的でありつつ、教育者としての使命感のもとに、読者論にもとづいた文学論を組み立てていったといえるだろう。文学の効川を説く上川の姿に、ディレッタントとしてのイメージとの落差を感じ、違和感を覚える人は少なくな おわりに
(10) 幽玄・象徴・多義`11 249
いかもしれない。また上川の提示するモデルの単純さを批判することもたやすいだろう。しかし上川以後の文学研究者は、その多くが、象牙の塔のうちにあって文学研究の意義を当然視し、結果として、上田が危棋した狭院な、その実浅薄な、専門化の道をたどっていったのではないだろうか。高等教育の制度のなかにおける文学のあり方が厳しく問われている現在であるからこそ、上川敏の業紺や思想を何検討することには大きな意義があると思われる。
(3)の芯b宮口の三シ旧い少幻三回《の日忘ぐ・]具]・ロ]茸の亘Hの》.】ロB§尽めO・昌已』言い・のQ・口の鄙(日己三口『・言]》勺昌の・○口]]】日口a・8]]・《囚ワ]】oSgpのQの]四勺]凹呂の》》ご①の-mg四》ロぐ○]・・〔・ロロロ・『S・なおこの文章はジュール・ユレ(]ロ]の⑪出目の【)によるインタヴューでの発言である(初Ⅲ一八九一年)。(4)「全集』第四巻、四二七頁。(5)『全集』節一巻、二七画。(6)鈴木貞美・若井茂樹『幽玄。わび。さび』(水流社、二○○六年)を参照。(7)児山信一『新講和歌史』(大川堂、一九一一二年)一一八三頁。(8)恒藤恭ほか(編)『北川杏村全染』第二巻(日本図脊センター、一九八二年)二八四頁。(9)『全集』節四巻、四二七頁。(Ⅲ)『全集』第Ⅲ巻、四二七’四二八頁。(Ⅱ)この「心状」の同一性の強調は上川が参照したヴィジエⅡルコックの解説には見られない。佐藤前掲轡、六○頁を参照。(皿)「近代の小説」『全集』第六巻、一七一頁。(旧)「文芸世運の連関」「全集』第三巻、二○’二九頁。(M)『全集』鏑六巻、五○’五三頁。(旧)『全集』第一巻、二六頁。(旧)「文芸と社会」(初出一九○八年)『全集』第六巻、一九四頁。 一巻、一八孤頁。(、。)の(のopppの》岸 《注》(1)佐藤仲宏「Ⅱ本近代象徴詩の研究』(翰林書一腸、二○○五年)、七一’七二頁。(2)上川敏全染刊行会(編)「上川敏全染」全十巻(教育出版センター、一九七八’八一年、以下「全集』と略記する)第
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付記本稿は二○○九年十月二十四、二十五両日に中国・天津師範大学でおこなわれたシンポジウム、「〃來亜詩學與文化互讃〃國際學術研討會」での発表に加筆したものです。発表の機会を与えてくださった川本皓嗣、王暁平の両先生、発表の席でご質問やご指摘をいただいた諸先生方に、この場をかりて深謝巾し上げます。
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「現代の芸術」(一九一○年から翌一一年にかけての京大での講演)『全集』第五巻、四七五頁。「全集』第六巻、三五五’一一一六一頁。『全集』第六巻、三七一頁。「全集」第八巻、二○五’二○六頁。「全集』第七巻、三九二’一一一九五頁。「全集』第五巻、一七○頁。「我国文学の現状」(初出一九一二年)「全集』第六巻、三一一一八頁。矢野峰人「上川敏先生」、上川敏『上川敏集(明治文学全集第一一二巻)』(筑摩書一届、一九六六年)三八一一一’三九一頁。
(比較文学・国際文化学部教授)