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平城宮跡・平城京跡の発掘調査 平城宮跡発掘調査部

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平城宮跡・平城京跡の発掘調査

平城宮跡発掘調査部

平 城 宮 跡 発 掘 調 査 部 が , 1 9 8 8 年 度 に 実 施 し た 調 査 は , 平 城 宮 跡 内 で は , 推 定 第 二 次 朝 堂 院 朝 庭 域 , 推 定 第 一 次 大 極 殿 地 区 , 馬 寮 東 方 地 区 , 東 院 地 区 な ど 1 1 件 ( 宮 北 方 遺 跡 を 含 む ) , 平 城 京 域 内 で は , 左 京 三 条 二 坊 一 ・ 二 ・ 七 ・ 八 坪 , 左 京 八 条 一 坊 六 坪 な ど の 1 2 件 , そ れ に 頭 塔 , 西 大 寺 , 薬 師 寺 な ど 寺 院 4 件 計 2 7 件 で あ っ た ( 3 5 頁 表 参 照 ) 。 以 下 , 主 要 な 調 査 の 概 要 を 報 告 す る 。

1.平城宮跡の調査

第 二 次 朝 堂 院 朝 庭 域 の 調 査 ( 第 1 8 8 次 ) 第 二 次 朝 堂 院 に つ い て は , 1 9 8 4 年 度 の 第 1 6 3 次 調 査 以 来 , 継 続 的 に 調 査 を 行 っ て き た が , 今 回 は 東 第 三 堂 西 側 の 朝 庭 域 の 調 査 を 行 っ た 。 そ の 結 果 , 古 墳 時 代 か ら 平 安 時 代 に か け て の 多 岐 に わ た る 遺 構 を 検 出 し , こ の 地 域 の 平 城 宮 造 営 以 前 か ら 廃 都 後 ま で の 土 地 利 用 の 変 化 が 明 ら か に な っ た 。 以 下 , 遺 構 の 変 遷 に つ い て の く る 。

A期(古墳時代)古墳の周濠と考えられる方形にめぐる溝状遺構が多数検出されたことか ら , 方 墳 が 散 在 し て い た と 考 え ら れ る 。 古 墳 時 代 に は , 平 城 宮 北 端 の 市 庭 古 墳 , 第 二 次 大 極 殿

下層の神明野古墳をはじめとして,この一帯が葬地として利用されていたことがわかる。

B 期 ( 古 墳 時 代 〜 平 城 宮 造 営 ま で ) 北 ・ 西 ・ 東 の 三 方 を 溝 S D 1 3 3 1 7 〜 1 3 3 1 9 で 囲 ん だ 方 形 の 遺 構 S X 1 3 3 3 5 が 存 在 す る 時 期 o S D 1 3 3 1 9 の 埋 土 か ら 四 重 弧 文 の 軒 平 瓦 1 点 を 含 む 白 鳳 時 代 の 瓦 片

が多量に出土したことから,S D 1 3 3 3 5 は平城宮造営以前の寺院の伽藍に関連する遺構と考えられ る。従って,この時期にはこのあたりに寺院が建立されていたと推定できる。

C期(奈良時代)S B 1 3 3 0 0 は東西1 3 間,南北2間の掘立柱建物東西棟。柱間寸法は桁行方向 9尺,梁行方向8 . 3 〜8 . 5 尺で,西から5間目と9間目に間仕切がある。方位が東で南にやや 偏っていること,また柱掘形,柱抜取穴が小さいことから仮設建物であると考えられる。

平 城 宮 跡 発 掘 調 査 位 瞳 図

− 2 2 −

S B 1 3 3 1 0 も西1 3 間S B 1 3 3 0 0

と同じ規模を持つ掘立柱建物東西棟であ るが,間仕切が西から6間目,9間目,

1 1間目にある点及び柱抜取穴から軒瓦を 含む多量の瓦片が出土した点でS B 1 3 3 0 0 と異なるo S B 1 3 3 0 0 とS B 1 3 3 1 0 の' 性格に ついては,北側に隣接する第169次調査 区で3期の大嘗宮遺構を確認しているこ とから,これに関連するI 隆舎と考えてお きたい。また,前述したとおりの相違点 があることから,1回の大嘗祭に2棟建 て ら れ た と 考 え る よ り は 時 期 の 異 な る 大

(2)

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第 二 次 朝 堂 院 朝 庭 域 の 遺 構 変 遷 図

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(3)

嘗 祭 に そ れ ぞ れ 1 棟 ず つ 建 て ら れ た と 解 釈 す る 方 が 自 然 で あ ろ う 。 も っ と も , 2 棟 の 平 面 規 模 や 形 式 が 似 通 っ て お り , S B13310か ら 出 土 し た 軒 瓦 が 多 く 平 城 宮 Ⅲ に 属 す る こ と か ら , 両 者 と も

奈 良 時 代 後 半 期 の 大 嘗 宮 に 伴 う も の と 考 え る の が 妥 当 で あ る 。

S X 13320は , 調 査 区 北 西 隅 で 検 出 し た 4 つ の 大 型 掘 形 。 4 つ の 掘 形 は そ れ ぞ れ 国 土 方 眼 方 位 の 北 に 対 し て 約 4 5 ° 振 れ て お り , 東 北 と 西 南 , 西 北 と 東 南 に 心 心 間 約 3 m の 間 隔 で 相 対 し て 位 置 す る 。 こ の 4 つ の 掘 形 の 中 心 点 は , 第 二 次 大 極 殿 ・ 朝 堂 院 の 南 北 中 軸 線 上 に 位 置 し , か つ 第 二 次 朝 堂 院 の 南 北 長 を 9 6 0 小 尺 に 想 定 し た 場 合 , こ れ を 南 北 に 二 分 す る 位 置 に あ た る 。 従 っ て , S X 1 3 3 2 0 は 朝 堂 院 の 建 設 に 際 す る 何 ら か の 構 造 物 の 基 礎 , あ る い は 地 鎮 の よ う な 埋 納 遺 構 で あ る 可 能 性 が あ る 。 S X13320の 南 に は 南 北 に 並 ぶ 2 つ の 大 型 掘 形 S X13321が あ り , こ れ は S X13320と 一 体 の 遺 構 で あ ろ う 。 ま た , 北 約 3 m に は 東 西 方 向 に 並 ぶ 一 対 の 柱 掘 形 S B1 3 3 2 2 が あ り , こ れ も S X 1 3 3 2 0 , S X 1 3 3 2 1 と 一 連 の も の で あ る 可 能 性 が あ る 。 以 上 が 奈 良 時 代 の 遺 構 で あ る が , S B13300, S B13310の 建 物 と 大 型 掘 形 S X13320が 同 時 期 で あ る か ど う か は 不 明 で あ る 。

D 期 ( 平 安 時 代 ) S B13301以 下 計 13棟 の 小 規 模 建 物 群 と 井 戸 S E 13330, 土 坑 S K13316が 存 在 す る 時 期 。 平 安 時 代 初 期 。 建 物 は 同 程 度 の 平 面 形 式 を も つ も の が ほ ぼ 同 位 置 で 2 時 期 に わ た っ て 重 複 し て お り , 井 戸 と 広 場 を 取 り 囲 む よ う に 存 在 し て い る 。 お そ ら く 1 つ の 屋 敷 を 構 成 す る 建 物 群 で あ ろ う 。 平 城 宮 廃 絶 後 ま も な く , こ の 地 に 集 落 が 営 ま れ て い た こ と が わ か る 。

第 一 次 大 極 殿 地 区 の 調 査 ( 第 1 9 2 次 ) 第 一 次 大 極 殿 地 区 は 既 に 東 半 部 に つ い て ほ ぼ 調 査 が 完 了 し て お り , そ の 成 果 は 『 平 城 宮 発 掘 調 査 報 告 X I 』 ( 1 9 8 1 ) と し て 報 告 し て い る 。 今 回 の 調 査 で は , 第 一 次 大 極 殿 西 面 築 地 回 廊 に 調 査 区 を 設 定 し , 第 一 次 大 極 殿 地 区 の 中 軸 線 を 中 心 に し て 西

半部が東半部と左右対称に造営されていることを確認した。

前 記 報 告 に よ れ ば , こ の 地 域 の 遺 構 の 変 遷 は , 1 − 1 期 ( 和 銅 創 建 時 ) , 1 − 2 期 ( 神 亀 〜 天 平 初 年 ) , 1 − 3 期 ( 恭 仁 京 遷 都 の 時 期 ) , 1 − 4 期 ( 平 城 遷 都 後 の 天 平 1 7 年 〜 天 平 勝 宝 5 年 ) ,

Ⅱ 期 ( 天 平 勝 宝 5 年 以 降 長 岡 遷 都 ま で ) , Ⅲ − 1 期 ( 9 世 紀 初 頭 , 平 城 上 皇 の 時 代 ) , Ⅲ − 2 期

(天長2年以降)に分けられる。以下,本調査区の遺構の変遷を各期毎に述べる。

1−1.2期この時期の遺構としては,喋敷広場SH 6 6 0 3 A ,第一次大極殿西面築地回廊 S C1 3 4 0 0 ,西面築地回廊東雨落溝S D1 3 4 0 1 ,南北溝S D1 3 4 0 2 がある。

S H 6 6 0 3 A は殿舎地区と南門S B 7 8 0 1 の間に広がり,I期を通じて存続した喋敷広場である。西 面築地回廊S C 1 3 4 0 0 は,東面築地回廊S C 5 5 0 0 を第一次大極殿地区の中軸線で折り返した位置に ある。掘込地業を行っているが,S C 5 5 0 0 に見られたような中心部の掘り残しは見られなかった。 S D 1 3 4 0 1 は西面築地回廊東雨落溝で,東面築地回廊西雨落溝S D 3 7 9 0 を中軸線で折り返した位置

にある。S D 1 3 4 0 2 は,和銅創建時に掘られ,Ⅱ期まで存続した溝と見られる。

1−3期恭仁京遷都時にあたるこの時期には,築地回廊は取り除かれ,かわりにこの地域

を区画する施設として,築地回廊西側柱筋と重なる位置に掘立柱南北塀S A 1 3 4 0 4 が設けられる。 これは,東面における掘立柱南北塀S A 3 7 7 7 に対応するものである。S A 1 3 4 0 4 は1 5 . 5 尺等間であ

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(4)

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S H 6 6 0 3 A

第 一 次 大 極 殿 地 区 の 遺 椛 変 遷 図

るが,本調査区の南から3番目と4番目の柱穴の間が3柱間開いており,開口部と考えておく。

この開口部との位置関係から,SB 1 3 4 0 5 を一応この時期のものとしておく。

1−4期築地回廊S C 1 3 4 0 0 が再建され,それに伴う暗渠S D 1 3 4 0 3 がある。S D 1 3 4 0 3 は, S D 1 3 4 0 1 を東端としS C l 3 4 0 0 をくぐってS D 1 3 4 0 2 に注ぐ東西木樋暗渠で,築地回廊内の水を排水 する役割を果たす。これも,東面における東西木樋暗渠S D 3 77 0 を中軸線で折り返した位置にあ る。

Ⅱ期この時期の遺構には,東西溝S D 13407がある。この時期の西面築地回廊の状況につい ては,前記報告における東面での見解に従い築地のみが存在したという立場をとっておく。

Ⅲ−1期この時期の遺構としては,S A 3 7 4 0 ,S B 1 3 4 1 2 ,S D 3 7 6 9 ,S D 1 3 4 1 0 がある。S A 3 7 4 0 は平城上皇の時期の掘立柱東西塀で柱間は9尺ないし1 0 尺。S B 1 3 4 1 2 はこの塀に開く門。

S D 3 7 6 9 ・S D 1 3 4 1 0 は,塀の南と北に掘られた素掘りの東西溝である。なお,東半部の調査では S D 1 3 4 1 0 に対応する溝は,確認されていない。

馬寮東方地区の調査(第194 次)本調査区は馬寮地区と第一次大極殿地区の間にあって,佐 紀池の西南方に位置する。1 9 6 7 年に実施した第3 7 次調査区は本調査区の南に隣接し,そこでは 南北棟の礎石建物S B 5 300 が南妻柱列から桁行7間まで検出されていた。本調査では,この SB 5300の北妻柱列を確認するなど,その規模と構造を明らかにすることができた。以下,

S B 5 3 0 0 を中心に報告する。

S B 5 3 0 0 東西両面に庇の付く礎石建物の南北棟で,梁行4間,桁行2 1 間(今回の調査で北側 1 5 間を検出)である。建物の総長は梁行で1 2 . 0 m,桁行で8 6 . 4 m,柱間寸法の平均は梁行で10 尺(3 . 0 m) ,桁行で1 4 尺(4 . 1 m)である。礎石は残っていないが,柱位置には3 0 個以上の川原 石を敷き詰めた根石がほぼ完存している。根石,礎石を据えつけるにあたって独立した掘形を 設けず,幅4尺の布掘の溝状掘形を柱筋に沿って通しており,しかも,この掘形では版築が施

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A 期 B 期 C 期 D 期

S B 5 3 0 0 の変遷例

されていない。また,種々の状況から高さ2〜3尺の基壇を有していたものと考えられる。

S B 5 3 0 0 の存続年代については,出土した軒瓦(軒平瓦1 0 2 点,軒丸瓦9 6 点)の9 0 %が平城宮Ⅱ,

Ⅲで占められていることなどから,奈良時代前半から後半にかけての比較的長期間にわたるも のと見られ,その創建は天平年間前半頃と推定される。ところで,S B 5 3 0 0 の北妻から3列目の 柱筋に布掘を切る東西溝が流れており,出土遺物からその廃絶は平城遷都後である。また,こ の溝を覆うように2ケ所で新しい根石が見られ,さらに溝の北側では当初の布掘より新しい遺 物包含層を掘り込んで根石が配置されている。以上の点から,SB 5 3 0 0 の変遷については,次の ような結論が得られる。すなわち,当初は桁行21 間の規模であった(A期)が,恭仁京遷都前 後の時期に北端の3間が撤去されて桁行1 8 間の規模に縮小された(B期) 。しかし,平城還都後,

再び桁行2 1間の当初規模に回復され(C期) ,その後奈良時代後半のある時期に廃絶した(D 期) 。

SB 5300は桁行21間,東西二面庇付きの礎石建物という規模と格式を備えることから,一般的 な官簡と見なすことはできず,天皇が御して儀式や祝宴を催した施設の一部であったと見られ るoこの周辺についての記述のある史料は数点あるが,そのうち『続日本紀』天平10 年7月7 日条に見える「西池宮」がSB 5 3 0 0 の当初建築と年代的には一致しており,それに関係する可能

性があることを指摘しておく。

その他の遺構本調査区では,S B 5 3 0 0 のほかに1 4 条の溝と4棟の掘立柱建物,3条の掘立柱 塀を検出した。このうち,溝はほとんどS B5 3 00 に関連するもので,A期のものとしては S D1 3 4 2 8 ,S D1 3 4 5 9 ,S D1 3 4 7 5 ,S D1 3 4 3 1 ,S D1 3 4 4 5 ,S D1 3 4 4 6 ,S D1 3 4 5 6 ,

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またC期ではS D 1 3 4 5 1 ,S D 1 3 4 5 2 ,S D l 3 4 3 2 ,さらにD期では S D1 3 4 4 7 ,S D1 3 4 4 8 ,S D1 3 4 3 0 ,S D1 3 4 7 6 がある。このうち SD 13431は建物の東面に関連する渉と考えられ,C期まで存続

する。同じくC期まで存続するSD 13475は,燐ではなく池の 南岸であった可能性もある。

なお,掘立柱建物,掘立柱塀のなかには,SB 5 3 0 0 と共存す るものもあれば廃絶後のものもあると見られる。しかし,部分

的な検出であり,相互の重複関係も皆無であるため,変遷の過 程をたどることはできなかった。

東院地区の調査(第1 9 6 次)本調査区は平城宮東院地区の 東辺中央部に位置し,第1 5 4 次調査区(第二次大極殿院・内裏東 方官荷地区)の西方約20 0 mの地点にあたる。調査の結果,掘 立柱建物7棟,掘立柱塀1条,井戸1基を検出した。しかし,

柱穴の前後関係や時期を決定しうる遺物はなく,遺構の変遷を

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が判明した。 9 l q m

以下,検出遺構と遺物について簡単に述べる。 東院地区遺構図

調 査 区 北 部 で 5 間 分 検 出 し た 東 西 塀 S A 1 3 5 5 0 は 第 1 5 4 次 調 査 で 検 出 し た 官 簡 の 南 辺 を 限 る 掘 立 柱 塀 S A 1 1 5 6 0 の 延 長 線 上 に ほ ぼ 位 置 し , 同 一 の 遺 構 で あ る と す れ ば , こ の 北 に 官 術 の 施 設 が 推 定 さ れ る 。 S A 1 3 5 5 0 の 北 で は , 桁 行 2 間 以 上 梁 行 2 間 の 東 西 棟 S B 1 3 5 4 0 , 井 戸 S E 1 3 5 3 0 , 井 戸 屋 形 と 見 ら れ る S B 1 3 5 3 5 な ど を 検 出 し た 。 ま た , 調 査 区 中 央 部 は 遺 構 が 疎 ら で あ り , 第 1 5 4 次 調 査 に お け る 道 路 S F 1 1 5 8 0 の 延 長 線 上 に あ た る こ と か ら 道 路 の 存 在 が 推 定 さ れ る 。 こ の 部 分 か ら 小 さ な 柱 掘 形 を も つ 東 西 棟 S B 1 3 5 5 5 を 検 出 し た が , 道 路 と の 前 後 関 係 は 不 明 で あ る 。 調 査 区 南 部 で は , SB13560, SBl 3575, SB13584, SB13580の 4 棟 の 掘 立 柱 建 物 と 掘 立 柱 東 西 塀 SA13585を 検 出 し た 。 出 土 し た 土 器 は , 平 城 宮 土 器 Ⅳ 〜 V が 中 心 で あ っ た 。 ま た , 軒 丸 瓦 4 8 点 , 軒 平 瓦 3 1 点

が出土し,うち6 2 8 2 ‑ 6 7 2 1 の組合せが約半数を占めた。

宮 北 面 中 門 推 定 地 の 調 査 ( 第 1 9 1 ‑ 4 次 ) こ の 調 査 地 は , 北 面 大 垣 と , 朱 雀 門 ・ 推 定 第 一 次 朝 堂 院 地 区 中 軸 線 の 北 延 長 線 上 に あ た り , 平 城 宮 北 面 中 門 の 存 在 が 想 定 さ れ て い た 。 調 査 の 結 果 , 奈 良 時 代 初 め に は 掘 立 柱 東 西 塀 ( 第 2 3 次 , 第 1 6 4 ‑ 1 次 調 査 で 確 認 さ れ て い る S A 2 3 3 0 と 一 連 の も の と 考 え ら れ る ) が 想 定 位 置 に 存 在 し , 少 な く と も 宮 造 営 当 初 に は こ の 位 置 に 門 は な

か っ た こ と が 明 ら か に な っ た 。 (小野健吉)

− 2 7

(7)

2 .平城京跡の調査

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平城京発掘調査位置図

左京三条二坊一・二・七・八坪の調査この調査は,そごうデパート建設にともなう事前調 査であって,1 9 8 6 年度から調査を開始し,本年度は第3年目にあたる。敷地4 0 , 0 0 0 ㎡のうち 3 0 , 0 0 0 ㎡を調査する予定で調査を開始し,現在までの調査面積の合計は3 0 , 0 0 0 ㎡に達し,調査 はなお継続中である。

本年度の調査区は前年度の調査区の北西に,第1 8 6 次(北区・補足)・第1 9 0 次・第1 9 5 次・第 197次調査区を設定した。東二坊坊間路位置には第193次一A.B調査区を,立会調査として第 1 9 3 次一D地区を,南北坪境小路の北延長部分に第1 9 3 次一C調査区を設定し,木簡が遺棄され たと考えられる南北溝の検出と木簡取り上げを主目的として第19 3 次一E調査区を設定した。北 方では,二条大路南側溝位置に第2 0 0 次調査区を設定した。

以上,本年度の調査総面積は1 4 , 8 3 0 ㎡に及んだ。

前年度までの調査成果から,奈良時代の敷地の占地は4町,1町,4町,1町と変化し,出 土木簡から奈良時代初期の4町宅地の主が長屋王であったことが確認されている。前年度まで に検出した遺構は,長屋王邸宅のなかでは中心部分の建物群に相当すると推定され,今年度の

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・今年度の調査地点

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左京三条二坊一・二・七・八坪遺構Ⅸ」

調査区は,それらの中心区画の外にあたる。したがって,今年度の調査では家政機関に関わる 遺 構 が 検 出 さ れ る も の と 予 想 さ れ た 。 調 査 の 結 果 , 今 年 度 ま で に 検 出 さ れ た お も な 遺 構 は , 掘 立 柱 建 物 2 0 8 棟 , 門 3 棟 , 掘 立 柱 塀 3 9 条 , 井 戸 4 4 基 , 二 条 大 路 ・ 同 南 側 溝 , 東 二 坊 坊 間 路 ・ 同 東 西 側 溝 , 坪 境 小 路 2 条 ・ 同 両 側 溝 4 条 で あ り , そ の ほ か に 多 数 の 溝 , 土 坑 を 検 出 し た 。 以 下 ,

1 9 8 6 年度からの調査成果を総合して報告する。

A 期 敷 地 は 4 町 占 地 で , 敷 地 の 北 方 を 築 地 塀 で 限 り , 中 央 に 棟 門 S B 5 0 9 0 を 開 く 時 期 で あ る c 敷 地 の 東 の 東 二 坊 坊 間 路 と の 境 は 掘 立 柱 塀 で 限 る 。 敷 地 内 に は 掘 立 柱 塀 で 囲 ま れ た 三 つ の 大 き

な長方形の区画が形成される(以下東から「東区画」「中央区画」「西区画」と呼ぶ) 。

東 区 画 内 に は , 区 画 の 中 央 に , 後 殿 S B 4 3 0 1 を と も な う 四 面 庇 付 の 建 物 S B 4 3 0 0 が 建 つ 。 S B 4 3 0 0 は 桁 行 6 間 , 梁 行 2 間 の 東 西 棟 建 物 で あ る 。 そ の 北 に あ る 東 庇 付 の 南 北 棟 S B 4 4 3 0 は 西 側 柱 筋 を S B 4 3 0 1 の 西 妻 柱 筋 と 揃 え , 南 寄 り の 東 西 棟 S B 4 2 7 0 は 中 軸 線 を 区 画 の 中 心 に お く 。 中 央

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区 画 に は , 中 央 北 寄 り に , 南 北 庇 付 の 大 規 模 な 東 西 棟 S B 4 5 0 0 を お き , そ の 東 南 に は , 大 規 模 な 南 北 棟 を 2 棟 並 べ て い る 。 S B 4 5 0 0 は 桁 行 7 間 , 梁 行 3 間 の 両 庇 付 建 物 で あ る 。 そ し て , 西 区 画

では,2棟の両庇付建物がL字形に配される。

区 画 の 北 に は 長 大 な 建 物 が 建 つ o S B 4 8 0 0 は 桁 行 1 6 間 , 梁 行 2 間 の 南 庇 付 き で , 2 間 ご と に 間 仕 切 り が あ り , 内 部 を 8 部 屋 に 仕 切 っ て い た 。 ま た , 区 画 外 の 東 に は , 南 方 に 菰 川 か ら 流 れ る 流 路 が あ り , そ の 北 方 に は 小 規 模 な 建 物 と 総 柱 建 物 が 散 在 す る 。

B 期 こ の 時 期 に は , 東 区 画 が 東 に 拡 張 さ れ て , 南 北 に 並 ぶ 3 つ の 区 画 に 分 割 さ れ る と 共 に , 中 央 区 画 の 南 が 縮 小 さ れ る 。 そ し て , 敷 地 の 北 方 も 区 画 塀 で 囲 ま れ ( 以 下 , 東 北 区 画 ・ 西 北 区 画 と 呼 ぶ 。 ) 敷 地 内 に 矩 折 れ の 通 路 が で き る 。 こ れ ら 区 画 の 改 築 に と も な い , 東 区 画 で は 建 物 が

増築され,中央区画でも区画東南に南庇きの建物が新築される。

c期長屋王の死後,敷地内の区画施設は東北で若干の改修があるものの,基本的には踏襲 される。C期では,区画内の建物は,東区画内の建物ではB期の建物がそのまま踏襲され,中

央区画・西区画では全面的に,西北・東北区画でも一部の建物が建て替えられる。

中央区画では,正殿S B 4 5 0 0 が壊され,前殿をともなった両庇付建物(S B 4 6 0 0 )が建ち,長大 な2棟の南北棟も壊されて,中規模な建物が建つ。西区画でも2棟の両庇付建物が壊され,四 面庇付建物と南庇付きの東西棟になる。

なお,都が平城京から恭仁京へ遷都される直前に,二条大路の南北に一時的に溝が掘られ,

そこに大量の木簡・土器等が投棄される。

D期都が平城京に還都されると,各坪間に坪境小路が通り,4つの敷地に分割される。一 坪では,あまり大規模な建物は建たず,敷地内における中心建物は発掘区外にあったと思われ る。二坪では,小路との境が掘立柱塀で囲まれ,南北塀で挟まれた3棟の東西棟が敷地の中心 的な建物となる。S B 4 5 5 0 は桁行7間・梁行2間の両庇付東西棟で,その北に,S B 4 5 5 1 ・S B 4 5 8 1 の2棟の東西棟がS B 4550と柱筋を揃えて建つ。七坪には敷地南寄りに東西道路が通り,坪内は 二つの敷地に分けられる。北側の敷地の西南角には,溝で囲まれた方形の区画が形成されるが,

その性格は不明である。敷地内には小規模な建物と総柱建物が散在する。

以上のように,この時期は道路が通り,敷地は4分割されるものの,敷地を囲う施設は完備 しておらず,この時期はきわめて短期間で終息したと考えられる。

E期この地がふたたび4町をひとつの敷地として使用され,大規模な建物群が造営される。

この時期の中心的建物はSB 4 5 6 6 ・S B 4 5 7 5 の南に存在すると推定され,この付近の建物が敷地内 で中心的な役割を果たすと考えられる。そして,それに準じるのが,敷地東南に位置する庇付 きの大規模な建物群であろう。いつぽう,中央東寄りには,桁行3間から5間の小規模建物,

総柱建物が散在している。敷地の東北にはL字形の塀でかこまれた一郭が形成され,その区画 内には中規模建物が建つ。

F 期 こ の 時 期 に は , 再 び 坪 境 小 路 が 通 さ れ て , 大 き く 4 つ の 敷 地 に わ け ら れ る 。 一 坪 で は

− 3 0 −

(10)

己三

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左京三条二坊一・二・七・八坪遺構変遷図

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(11)

S B 5 0 0 0 を 中 心 と し て , 敷 地 の ま わ り に 細 長 い 建 物 が 配 さ れ る 。 S B 5 0 0 0 は 桁 行 3 間 , 梁 行 2 間 で , 東 ・ 南 ・ 西 側 に 庇 が 付 く 。 身 舎 の 柱 間 は 桁 行 ・ 梁 行 と も 1 0 尺 等 間 , 庇 の 出 は 東 ・ 西 庇 が 1 2 尺 , 南 庇 が 1 0 尺 で あ る 。 二 坪 の 中 心 建 物 は 中 央 東 寄 り に 位 置 す る 北 庇 付 東 西 棟 S B 4 5 7 0 で あ る 。 S B4 5 7 0 の 東 に は , S B4 5 7 0 の 身 舎 北 側 柱 筋 と 北 妻 を 揃 え て S B4 5 6 5 が 建 つ 。 七 坪 は 一 ・ 二 坪 と は 異 な り , 大 規 模 な 建 物 は な く , 小 規 模 な 建 物 と 井 戸 が 散 在 す る 。 井 戸 は , ほ ぼ 南 北 4 列 , 東 西 4 列 に 配 さ れ , 井 戸 1 基 と 小 規 模 な 建 物 が 2 〜 3 棟 で , ひ と つ の グ ル ー プ を 形 成 し て い る 。 建 物 の 多 く は , 桁 行 3 間 も し く は 4 間 , 梁 行 2 間 で , 庇 の 付 く 建 物 は 少 な く , 柱 間 は 6 尺 前 後 の も の が 多 い 。 し た が っ て こ の 坪 は 小 規 模 宅 地 と し て 細 分 さ れ て い た と 考 え ら れ る 。 八 坪 は 中 心 部 分の様相が不明であるが,小規模建物が多い点と,井戸が散在している点から,坪内は七坪と

同じく,小規模宅地と化していたと推定される。

条 坊 遺 構 調 査 区 東 端 で 東 二 坊 坊 間 路 お よ び そ の 東 西 両 側 瀞 ( S D 4 7 0 1 ・ S D 4 6 9 9 ) を 検 出 し た 。

西側溝は溝幅2 . 0 〜3 . 0 m,深さ0 . 9 〜1 . 2 mである。東側溝は西肩のみを検出しており,溝幅 4 . 0 m以上,深さ1 . 0 mである。坊間路の路面幅は5 . 5 m,両側誌の心心距離は9 . 0 mと推定されるc 西側溝は第1 9 3 次B調査区において,二条大路を南北に横断することが確認されている。なお,

東側溝は,奈良時代を通じて存続するが,西側溝は奈良時代後半に廃絶する。

二条大路南側溝(S D 5 1 0 5 )を調査区の北端で検出した。南側溝は幅1 . 3 m,深さ0 . 6 mで,南 側溝の北では,それと並行する大規模な溝S D 5 1 0 0 を検出したo S D 5 1 0 0 は,西は北門S B 5 0 9 0 の すぐ東からはじまり,東は東二坊坊間路西側溝に流れ込まずに,西側緋の西1. 2mで途切れてい る。溝幅は2 . 6 m,深さ0 . 9 mである。

一・二・七・八坪間の南北・東西の坪境小路を検出し,いずれの両側溝ともに,廃された期 間を介して2つの時期の遺構があり,いずれも側溝心心距離は6. 0mである。

出 土 遺 物 瓦 は 膨 大 な 量 が 出 土 し , と く に 二 条 大 路 に 面 し た 築 地 推 定 位 置 か ら の 出 土 量 は 群 を抜いている。出土軒瓦の年代は1期からⅢ期が大半である。1期の瓦が大量に出土したのは 京内の調査としては異例のことである。また,鬼瓦や隅軒平瓦が出土しており,瓦葺建物の存 在が考えられる。土器も膨大な量が出土しており,保存状態もよく,伴出した木簡(2頁参照)

の紀年から,平城京の土器の編年研究にとって重要な資料となろう。墨書土器では,「官厨」

と底部外面に記された土師器椀A(平城宮土器V)が注目される。木器は,溝。井戸を中心に 大量に出土し,その内容も食器,容器,祭祁具,工具,装身具,遊戯具など多岐にわたってい る。その他にも銅銭や馬具・鏡などの金属製品が出土するとともに,輔羽口.財渦.鉱津など 鋳造に関連する遺物も出土していることから,邸宅建設時に邸内に鍛冶工房を設けたと考えら

ま と め 今 年 度 の 調 査 に よ っ て , 4 町 占 地 の 時 期 に お け る 北 西 部 の 様 相 と , 1 町 占 地 の 時 期 における一坪の様相が判明した。その結果,長屋王邸宅時期には,敷地の北方でも塀による区 画 が 形 成 さ れ て い る こ と が 判 明 し た 。 現 在 , 木 簡 を は じ め 土 器 . 瓦 等 の 膨 大 な 出 土 遺 物 の 調

− 3 2 −

(12)

査・研究を進めており,その成果をふまえた総合的な検討が今後の課題である。

左京八条一坊六坪の調査(第191‑ 11次)この調査は工場建設にともなう事前調査である。

検出した奈良時代の遺構は,掘立柱建物10 棟・掘立塀1条・瀧1条である。発掘区の北端で検 出した東西溝S D 7 7 3 は八条条間路南側溝にあたり,その南の東西塀S A 3 5 3 5 は六坪の北を区画す る施設である。なお,S D 7 7 3 の南の建物の検出されない範囲に,少量ながら瓦片の散布がみられ ることから,この位置に築地塀が存在した可能性が高い。この調査で検出した建物は,いずれ も柱間寸法が6尺から7尺程度の小規模なものが多い。S B O2 ・ S B O3 ・ S B O9 の3棟の軸線は,国土 方眼方位に対して北で西に振れるという特徴をもっている。建物はおよそ5時期にわかれる。

当地は宅地と考えられるが,発掘区内では宅地の区画割に関わる遺構は検出されず,宅地規模

は 不 明 で あ る 。 ( 島 田 敏 男 )

一W$制

'10

左京八条一坊六坪遺構図

3.京内寺院の調査

西 大 寺 境 内 の 調 査 本 調 査 は 防 災 工 事 に と も な う 事 前 調 査 と し て 実 施 し た 。 調 査 区 は 本 堂 ・ 本 坊 の 北 , 本 堂 の 西 か ら 愛 染 堂 の 東 , 塔 跡 の 西 と 南 , 塔 跡 か ら 南 門 間 の 参 道 の 西 , 南 門 の 南 の 配 管 予 定 地 で あ る 。 調 査 の 結 果 , 奈 良 時 代 の 伽 藍 に と も な う 顕 著 な 遺 構 は 検 出 さ れ ず , 奈 良 時 代 以 前 に 遡 る と 考 え ら れ る 掘 立 柱 柱 穴 , 奈 良 時 代 ま で 遡 る と 考 え ら れ る 性 格 不 明 の 溝 を 数 条 検 出 し た の み で あ る 。 奈 良 時 代 以 降 の 遺 構 と し て は , 数 条 の 溝 ( 濠 ) と 石 組 遺 構 を 検 出 し た が , そ の 性 格 は 不 明 で あ る 。 遺 物 と し て は , 奈 良 時 代 か ら 近 世 に い た る 大 量 の 瓦 が 出 土 し た 。 と く に 本 堂 の 北 の 調 査 区 で は , 発 掘 区 の 東 端 か ら 中 央 部 に か け て 地 山 直 上 に 5 0 c m か ら 6 0 c m の 厚 さ の 瓦 堆 積 が み ら れ た 。 瓦 堆 積 に は 層 状 に 焼 土 が 含 ま れ て お り , 火 災 後 に 一 括 投 棄 さ れ た も の と 考 え ら れ る 。 瓦 堆 積 か ら は 奈 良 時 代 末 か ら 平 安 時 代 初 頭 の 軒 瓦 と 三 彩 垂 木 先 瓦 が 出 土 し た 。 瓦 堆 積 は 奈 良 時 代 の 西 大 寺 伽 藍 の 塔 院 の 北 辺 に 位 置 し , 延 長 5 . 6 ( 9 2 7 . 9 2 8 ) 年 の 塔 の 雁 災 後 の も

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(13)

の と 考 え ら れ る 。 西 大 寺 所 用 軒 瓦 の 様 相 は , こ こ 3 箇 年 に わ た る 調 査 に よ っ て , か な り 明 確 に な っ て き た 。 こ れ ま で は , 軒 丸 瓦 6 2 3 6 A 一 軒 平 瓦 6 7 3 2 K . M ・ Q が 知 ら れ て い た が , さ ら に , 軒 丸 瓦 で は 6236H, 軒 平 瓦 で は 6732N . R を こ れ に 加 え る こ と が で き た ほ か , 6732K . M ・ Q の 良 好

な資料を得たことも特筆される。

薬 師 寺 回 廊 の 調 査 こ の 調 査 は 薬 師 寺 回 廊 再 建 に 伴 う 事 前 調 査 で あ る 。 調 査 区 は 西 面 回 廊 の ほ ぼ 中 央 , 金 堂 の 真 西 に あ た り , 回 廊 規 模 と 金 堂 に 取 り 付 く 軒 廊 の 有 無 の 確 認 を 主 目 的 と し た 。 調 査 の 結 果 , 従 来 の 調 査 と 同 様 に , 単 廊 と 複 廊 の 遺 構 が 検 出 さ れ た 。

単 廊 は 西 面 回 廊 の 6 間 分 を 検 出 し た 。 基 壇 は 粘 土 質 の 土 を 版 築 状 に 積 み , 礎 石 を 据 え た 後 に , さ ら に 基 壇 土 を 積 ん で い る 。 単 廊 の 礎 石 は 据 え 付 け ら れ た も の の , 基 壇 外 装 ま で は 工 事 が お よ ん で お ら ず , 複 廊 へ の 基 壇 拡 張 の 状 況 を み る と 東 側 柱 心 か ら 基 壇 末 端 ま で は お よ そ 1 . 4 m と 推 定 で き る 。 礎 石 据 え 付 け 掘 形 は 一 辺 1 . 2 m 〜 1 . 8 m の 方 形 ま た は 不 整 形 で , 深 さ は 1 m あ り , 下 部 7 0 c mに 大 量 の 破 砕 し た 瓦 を 入 れ て つ き 固 め て い る 。 な お , 据 え 付 け 掘 形 に 投 入 さ れ て い た 軒 瓦 は す べ て 本 薬 師 寺 所 用 瓦 と 同 箔 で あ る 。 据 え 付 け 掘 形 の 間 隔 は , 桁 行 方 向 が 3 . 7 5 m , 梁 行 方 向

が3 . 5 m強で,計画柱間寸法は桁行1 2 . 5 尺,梁行1 2 . 5 尺となる。

複廊は6間分を検出し,基壇と回廊中央柱筋・東側柱筋を検出した。基壇は単廊基壇を拡張 し , 基 壇 外 装 は 地 覆 石 を 置 か ず に 凝 灰 岩 の 羽 目 石 を 直 接 地 面 に 立 て て い る 。 羽 目 石 は 幅 1 . 1 m ま

たは0 . 7 m,厚さは0 . 2 m,現状の高さは0 . 2 3 mである。東雨落溝は,当初は凝灰岩切石製で,東

薬 師 寺 西 面 回 廊 遺 構 図

側石は後に玉石に改修されている。当初は基壇羽目石を 西側石として,東側石・底石とも凝灰岩で,溝幅は内法 寸法で0 . 8 mである。そして,玉石に改修された後の溝 幅は0 . 6mとなる。東側柱と東雨落溝間の心心距離は約

18叩80

2 . 0 mで,計画寸法は7尺である。

基壇上では壁下地覆と暗渠を検出した。壁下地覆は中 央柱筋に2列に凝灰岩切石が並べられており,全幅は 0 . 6 m,厚さは0 . 1 mである。暗渠は発掘区の南から3間

目に東西に設置され,凝灰岩切石で構築されている。暗

1820弛

渠の内法寸法は幅0 . 4 5 m,深さ0 . 4 5 mである。

複廊の礎石はすべて抜き取られており,礎石据え付け 掘形と同抜取り穴を残す。据え付け掘形は一辺1. 6 mか

ら2mの方形で,深さは中央柱筋で0. 4m ,東側柱で i 蝿塑0. 6 mである。単廊の場合と同様に掘形内に瓦片を投入 してつき固めているが,瓦の量は単廊に比べて少量であ る。据え付け掘形の間隔は,桁行方向が4 . 1 2 m,梁行方 向が約3. 0mで,計画柱間寸法は桁行14尺,梁行10尺で

− 3 4

(14)

1988年度平城宮跡発掘調査部調査一覧

− 3 5

以上のように,このたびの発掘調査においてもこれまでの回廊における調査所見と同様に,

単廊から複廊への計画変更がみられ,単廊は礎石が据えられ,基壇化粧が完成するまえに,複 廊に改作がおこなわれていることが再確認された。今回の調査の目的のひとつであった,金堂 にとりつく軒廊の有無については,予想位置に基聴・礎石の痕跡がなく,西回廊東雨落溝が南 北 に 貫 通 し て い る こ と か ら み て , 軒 廊 は 存 在 し な か っ た も の と 考 え ら れ る 。 ( 島 田 敏 男 )

調 査 地 区 遺 跡 ・ 調 査 次 数 調査期間 面積 備 考

U R P D N N D N B A B C L C B L B L A A A A A A A A A 6 6 6 6 6 6 6 6 6

6ALC−D・E 6 A 6 AFI−S・T 6AFI−S・T 6 AFI−U

6AFI−T・U T・ 6AFI−T・U 6 B

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A P K L D S G H F H S Y A A A A B B 6 6 6 6 6 6 次 次 次 次 8 2 4 6 8 9 9 9 1 1 1 1 第 第 第 第

宮 宮 宮 宮

城 城 城 城

平 平 平 平 次 次 次 次 次 次

識 趣 鍬 灘 蛾 珍 趣 次 獅 次 次 次 次 次 次 弧 冠 毛 イ 如 弧

1 1 1 1 1 1 1 6 6 0 3 5 7 0 9 1 1 1 1 1 1 9 9 9 9 9 9 9 8 8 9 9 9 9 0 9 9 9 9 9 9 9 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 1 1 1 1 1 1 1 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 策 第 第 第 第 第 第 第 第

宮 宮 宮 宮 宮 宮 宮 京 京 京 京 京 京 京 京 京 京 京 京 京 京

城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城 城

平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平 平

西 大 寺 次 数 外

薬 師 寺 次 数 外

8 8 .1 0 .3 8 8 .1 0 .1 〜8 8 .1 0 .2 7 8 9 .3 .1 〜 8 8 . 6 .2 3 8 8 .1 1 .1 7 〜8 8 .1 1 .1 8 88. 11. 28〜 8 9

89

8 8 .9 .2 1 8 8 . 1 2 . 1 2 〜 8 8 .9 .2 0 8 8 .1 1 .3 0 〜8 9

3 0 8 0 ㎡ 1 0 1 4 ㎡ 3 8 0 0 m 5 0 0 ㎡ 2 0 ㎡ 4 0 0 m 9 0 ㎡ 9㎡

2 5 ㎡ 4 0 ㎡ 6㎡

3 8 0 0 m 1 0 5 0 ㎡ 2 7 0 0 ㎡ 2 4 6 0 ㎡ 2 1 0 0 ㎡ 3 4 6 0 ㎡ 310㎡

3 0 0 ㎡ 150㎡

161㎡

156㎡

7 5 ㎡ 5 0 ㎡ 3 0 0 ㎡ 3 3 0 ㎡ 3 5 0 ㎡

第二次朝堂院朝庭域 第一次大極殿地区西南部 馬 寮 東 方 地 区

東 院 地 区 平 城 宮 北 方 遺 跡 平城宮北面中門推定地

平城宮東而大垣 平城宮北方遺跡 平城宮東而大垣

平城宮東而大垣 馬寮東方地区

左 京 三 条 二 坊 一 ・ 二 ・ 八 坪

坪 坪 坪 坪 八 二 八 八 坪

. ・ ・ 坪 ・ 坪 坪 六 坪 坪 秤 一 一 七 一 一 八 六 十 一 一 一 八 プ

坊 坊 坊 坊 坊 坊 坊 坊 坊 坊 内 坊

二 二 一 一 二 二 一 一 一 二 二 一 境 一

条 条 条 条 条 条 条 条 条 条 旧 条

三 三 三 三 三 三 三 四 一 九 寺 八

京 京 京 京 京 京 塔 京 京 京 京 華 京

左 左 左 左 左 左 頭 左 左 右 右 法 左

西 大 寺 境 内 西而回廊

参照

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施設 平成17年 平成18年 平成19年 平成20年 平成21年 平成22年 平成23年 平成24年 平成25年 平成26年 10年比 松島海岸 㻟㻘㻠㻝㻥㻘㻜㻜㻜

シーリング材の 部分消滅 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁の漏水跡が多い.