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4 史料に表紙はなく 宮崎県史史料編近世5 において 勝かつ岡おか郷ごう蓼たで池いけ村むら南みなみやしきみょうずにっし屋敷名頭日誌 (以下 日誌)という表題が付けられている ただ 同書の解かい題だいでは 勝岡郷蓼池村年ねん代だい記き とも仮称され 日々の出来事を記した 日誌 より 各年の主要事項を記

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Academic year: 2021

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(1)

史料に表紙はなく、 『宮崎県史 史料 編 近 世 5』 に お い て「 勝 かつ 岡 おか 郷 ごう 蓼 た で 池 い け 村 む ら 南 み な み や し き み ょ う ず に っ し 屋 敷 名 頭 日 誌 」 ( 以 下、 日 誌 ) と い う表題が付けられている。ただ、同書 の 解 かい 題 だ い では「勝岡郷蓼池村 年 ね ん 代 だ い 記 」と も仮称され、 日々の出来事を記した 「日 誌」 より、 各年の主要事項を記した 「年 代記」の方が史料の性格に合った表題 と い え る。 「 重 久 文 書 」 は『 県 史 』 に おいて「記事は、勝岡郷の農村生活全 般に 渉 わ た っており、農民の眼からみた藩 政期の記録として、非常に貴重なもの である」と高く評価されている。 日誌は 和 から始まり、 盆 ぼ ん ・ 蕣 あさ が お は和 歌の題か。 「 俤 お も か げ ハ」から始まる和歌は、 天 て ん 保 ぽ う 十年(一八三九)四月二十八日に 亡くなった妻を 偲 しの んでのものであろう (本書一三~一四頁参照) 。作者は記録 者 一 人 目 の 直 助 で あ る。 日 誌 は 直 助、 十右衛門、宇之助と書き継がれたと推 察されるが不明。

重久文書

勝岡郷蓼池村南屋敷名頭日誌

    

(文政十三年八月二十二日~明治二十八年八月二十四日)

俤ハ見へねとも世のいとなミに

   

なき玉祭るこゝろ淋しさ

かくまての深き色ある花なるを

   

浅かほとしハ誰か名つけけり

 

  

南屋鋪直助家

助兵衛

餅原村友房門

二男

蓼池村前目方限下村門

三男

右同南屋敷

 

右三人桜嶋郷士

ニ 而

候処、百姓

召被成勝岡

移り

 

為被仰付由候、本

名字不相知候

名主役相勤候

與右衛門

菱刈湯尾郷士

ニ 而

百姓

召被成、当村橋之口門

移り

為被仰付人之娘、本

名字山崎

ニ 而

後目方限堂屋敷與平次母

都城高木村橋口門甚八妻

(2)

廿

 

 

 

ニ 而

ニ 而

ニ 者

ニ 而

鹿

廿

廿

ニ 而

廿

ニ 而

ニ 而

(洪)

(洪)

ニ 而

廿

ニ 而

文 ぶ ん 政 せ い 十三年(一八三〇)の 干 かん 支 は 庚 かの え 寅 と ら 。 葉 はづ 月 は 陰 いん 暦 れ き 八月の異称で、新暦で は八月下旬から十月上旬頃。 天 て ん 保 ぽ う 三年(一八三二) 壬 み ず の え たつ 辰 の年、 大 だ い 旱 かん 魃 ば つ の記録。五〇日間雨が降らず、 白 は く 雨 ( に わ か 雨 ) も な く、 「 田 畑 共 に 都 す べ 而 て 干 れ に 相 あ い 成 り 」 藁 わ ら や 竹 葉 抔 な ど に て 牛馬を養う有様であった。水が枯れて しまい、 地 じ かたかかり 方掛 役人等で六田( 牟 か、 蓼 池 に は 山 さん 野 牟 田、 千 せ ん 町 ち ょ う 牟 田 の 小 字 あ ざ がある)より上は一日一夜、下は二日 二夜かけて 水 み ず 廻 ま わ しを行った。水廻しと は、田地用の水を管理するために河川 の見回りを行ったのであろう。 琉 り ゅ う き ゅ う に ん え ど ご さ ん き ん 球人江戸御参勤 とは、琉球国から 江戸幕府へ派遣された琉球使節のこと。 将軍 襲 し ゅ う しょく 職 の際に派遣された 慶 け い 賀 使 と、 琉球国王即位の際に派遣された 謝 し ゃ お ん し 恩使 があり、この時は謝恩使。 勝 かつ 岡 おか 三ヶ村は、蓼池村・ 餅 も ち 原 ば る 村・ 樺 か ば 山 や ま 村を指す。

(3)

ニ 而

(米)

(米)

殿

、同

ニ 而

廿

(ママ)

(島 津 斉興)

( 褒 美 )

ニ 而

( 樺 )

未 閏

廿

廿

廿

天保五年(一八三四)の干支は 甲 き の え う ま 午 。 勝岡郷士の佐沢が 高 たか 畑 は た 金山を発掘し たが、金は出なかった。大体二百 貫 かん 文 も ん 位の出費であったとの伝聞記録。 十月二十九日の夜十二時頃に都城の 新町が全焼した。勝岡より七百人余り が都城へ 差 さし 越 したお礼として、都城島 津 播 は り 磨 様(都城島津家二四代 久 ひ さ 本 も と )よ り 白 は く 銀 ぎ ん 五両を 御 遣 つか い 下 く だ された。 文 ぶ ん 政 せ い 年号は十三年まで。十五年 寅 と ら と あるが、文政十三年(一八三〇年、 庚 かの え 寅 と ら )の誤記であろう。太守様と御言葉 の前が一字空けてあるのは、敬意を表 す 欠 け つ 字 。太守様は鹿児島 藩 は ん 主 し ゅ 。 地 頭 と う 仮 かり 屋 は勝岡城跡の西側にあった。 天保六年三月から 一 いっ こ う し ゅ う た だ しかた 向宗糺方 (取締 り)が始まり、勝岡郷では八九四人の 信者が摘発されたが、七月十六日まで に 改 宗 を 誓 わ せ、 さ ら に 御 本 ほん 尊 ぞ ん ( 掛 か け 軸 じ く ) の提出、 宗 し ゅ う し が 旨替 えの 誓 せ い 紙 提出によっ て 御 咎 と が 目 なしとなった。

(4)

 

 

 

 

 

 

 

  (

( 内 表 紙 )

廿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廿

ニ て

廿

宿

ニ て

ニ 而

(云脱)

宿

ニ 而

宿

ニ 而

( 葡 萄 )

宿

ニ 而

宿

ヨ リ

ニ 而

( 中 継 )

宿

ニ 而

ヨ リ

ニ て

(中継)

慶 け い 応 お う 四 年( 一 八 六 八 ) の 干 かん 支 は 戊 つ ち の え たつ 辰 。 こ の 干 支 が そ の ま ま 戦 争 の 名 称となり、翌明治二年(一八六九)ま での新政府軍(明治政府)と旧幕府軍 との一連の戦争を 戊 辰 しん 戦争という。 慶応から明治へ改元されたのは、慶 応四年九月八日。 二宮家文書は軸物で、内表紙がもう 一枚続いているが、 ここでは割愛した。 「 此 こ の 節 せ つ 越 え ち 後 口 ぐ ち へ 出 し ゅ つぐんあさつ 軍朝付 け 候 そ う ろ う にっ き お ぼ え 日 記 覚 留 と め ち ょ う 帳 」という表題が付いており、行軍 翌日の朝に書き付けたものを後日まと めたものであろうか。 前之浜は鹿児島市 喜 き い れ ま え の は ま ち ょ う 入前之浜町 。 羽 う し ゅ う 州 は 出 羽 わ の 国 くに の別名で、現在の山形 県と秋田県に当たる。 庄 しょ うな い 内 は現在の山 形県 鶴 つる 岡 おか 市 を本拠地とした庄内藩方面 のことであろう。

(5)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  内

 

 

 

 

 

 

 

田上川内 布別府門村山 仮屋 轟木 轟木 平山 内之木場 仮屋 正矢谷(政矢谷) 牧野 仮屋薗門屋敷内 長谷寺内 山田 細目川内 大村門 石 いし 寺 で ら 村 は、 現 在 の 行 政 区 画 で は 梶 か じ 山 や ま ・ 田 上 が み 地 区 に 該 当 す る。 目 録 で は、 一 一 の 神 社 が 確 認 で き る。 石 寺 村 の 宗 そ うび ょ う 廟 は、 新 にい 磯 神社(大正三年に 御 崎 さ き 神 社に 合 ごう 祀 )であった。田の神は石像四 体が記載されている。 石 いし 寺 で ら 浦 う ら 村は、現在の行政区画では 長 なが 田 地区に該当する。 大字長田としては、 梶山 ・ 田上 ・ 長田の各地区が含まれる。 目録では一一の神社が確認でき、石寺 浦村の宗廟は御崎神社で、現在の長田 地区仮屋の 御 幸 さ き 神社に該当する。 江戸時代に 飫 藩 は ん との藩境争いにお いて 誓 せ い 紙 を取り交わした神社は、都城 領側が仮屋の御崎(御幸)神社、飫肥 藩側は 加 大 だ いみょ うじ ん 明神 (日南市北郷町)で あった。現在の御崎神社は、大正三年 に移転されたものである。

(6)

 

 

 

鹿

( 表 紙 )

( リ )

鹿

 

 

 

 

 

 

 

新ニ テ ハ

 

旧ニ テ ハ

宿

(切)

(タテ 16 ㎝×ヨコ 13 ㎝) 明治十年(一八七七)の干支は、 丁 ひ の と 丑 う し 。 奴 は、 主 ぬし (書き手)の意味であ ろうか。内表紙は表紙と同様であるた め、割愛した。 薩 さつ 軍 ぐん として西南戦争に従軍した 早 わ さ 田 は、 軍 記 の 中 で そ の 心 情 を ほ と ん ど 語っていない。 一七歳の少年にとって、 この戦争の意義とは何だったのか。 新ニテハとは新暦、旧ニテハとは旧 暦という意味であろう。薩軍が五〇年 ぶ り の 大 雪 の 中 を 進 軍 し た の は 二 月 十五日であり、旧暦に直すと一月三日 に当たる。この日は、奇しくも一〇年 前に 鳥 ・ 伏 ふ し 見 の戦いが開始された日 と同日であった。 早田は三月六日に地元を出発し、 天 て ん 神 じ ん 川 が わ ら 原 (都城市山之口町 青 あお 井 岳 だ け 付近か) から宮崎中村町(宮崎市中村、橘橋の 南側)に向かい、そこで一泊した。 なお、午前・午後の表記は、誤りと される箇所があるが、 そのままとした。

(7)

図3 宮崎から熊本における早田進の進路概略   【三股-天神川原-宮崎(中村・上野・高岡)-小林-飯野-人吉-八代-熊本-田原坂-長嶺-浜町-道の上-椎葉-江代-人吉】

熊本県熊本県

大分県大分県

宮崎県宮崎県

鹿児島県鹿児島県

中村中村 上野上野 高岡高岡 紙屋紙屋 天神川原天神川原 野尻野尻 小林小林 飯野飯野 吉田吉田 大畑大畑 人吉城人吉城 江代江代 椎葉椎葉 道の上道の上 浜町浜町 木山木山 長嶺長嶺 下南部下南部 向坂向坂 山鹿山鹿 田原坂田原坂 木留木留 出町出町 熊本城熊本城 御船御船 小川小川 八代八代 川尻川尻 三股三股

参照

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