「 少年の 日の思い出 」 における語 りの構造
松 本 修
1. 教材 と しての価値 と 「 罪」
「 少年の 日の思い出 」 は、昭和 22 年の文部省教科書 『中等国語二』に掲載 されて以来、
多 くの教科書 に採録 され、長い間親 しまれて きた教材である。
I‑その教材 としての価値 に ついては、 甲斐 1 996 に次の よ うなことが言われてお り、 この教材 に対す る一般的な見方 の一つ をま とめてい る。
「 少年 の 日の思い出」 とい う題 は、一方では感傷的な響 きを与 えるけれ ども、作品そ の ものは甘美な内容ではない。す でに子 どもまで持ついい年齢の大人が少年の ころ犯 し た罪一 美の冒涜‑ を現在 まで心にかかえて生 きてきた、職業 も美 とは関係 しない ものを 選んだだ ろ うとい う厳粛 な内容である。 ( 中略)
この作品の主題 は、美 しいち ょ う‑のあこがれが強いためにかえってそれ を裏切 る行 為 を犯 したぼ くが、精神面で少年 と訣別 し、やみ をみつ める生 き方 を求 める、 とい うこ
とになる。' :
穏 当な形で この作品を教養小説 として読む立場が示 されている。一方、 この作品をよ り 道徳的 に読む読み方があるの も事実であ り、かつての教室ではむ しろこ うした道徳的な読 み方が支配的であった とも思われ る。そ こでは少年 「 僕」の犯 した罪の 「 盗み 」 としての 側 面が クローズア ップ され ることになる。最近では、綾 目 200l a の よ うな読みが提 出 さ れてい る。
‑‑ 『少年 の 日の思い出』 にはハ ッピーエ ン ドもカ タル シスもない。 それ は前非 を悔い た者 の気持 ちが相手 に伝 わ らないか らであ り、 もっ といえばその気持 ちが相手か ら 「 け いべつ的」な眼差 しで拒否 され るか らで ある。『少年 の 日の思 い出』 では、 ま さに主人 公 の少年 が 「 悟 った」 よ うな、 「 一度起 きた ことは、 も う償 いのできない ものだ 」 とい う、いわば人生の苦い真実が読者 に示 され るのだ。違 う言い方 をす るな らば、『少年 の 日の思い出』 は、読者 をカタル シスの中に甘 く取 り込むのではな く、読者 を冷た く突 き 放 し、 この苦い真実を ど う考 えれ ばいいのか、 といった問題 に向き合わせ る話 なのであ る。● 3
ヽ
綾 目は、この物語 をエー ミールの側 か ら読んでみ ることを提案 してい る。それ は、「 僕 」 のあ り方その もの を再検討 させ る ところにあ り、 「 盗み とい う罪 は本 当の意味では購罪で きない」 とい うよ うな規範的道徳 とは異なるものの、や は り道徳的な意味あいを持つ。
これ に対 して、甲斐 と同 じよ うに、「 罪」を 「 美‑の冒涜」と捉 える立場か ら、竹 内 2001a
は、道徳的 な読み を次の よ うに批判す る。
この作品が戦後一貫 して中学国語教材 であ りつづ けて きたのは、 日本の学校が 「自己反 省 」 「自己実現 」を生徒 に強要す る 「 反省 主義 」 を本質 とし、いま も してい るか らです。
この作品がその よ うな学校文脈 の中に投 げ込 まれ る とき、それ は 「 狭い 自我 ( エ ゴ)の 囲いか ら自らを解 き放 ち、 自己 ( セル フ) の真実 に直面す ること 」 ‑ と生徒 を導 くので はな く、 権力の意図 を先取 りす る反省主義 に生徒 を陥れ るもの とな るのではないですか。
だか らこそ私 は、出来事 の 「 わた し 」 に よる語 り直 しと 「 彼 」 による再意識化 を問題 に したのです。
●4少年 「 僕」の罪 の本質 を ど う見 るか とい うよ うな主題把握 にかかわ る解釈 の対立が今 も 続 いてい る ことが窺われ る。 そ してそれ は、竹 内の言 うよ うに 「 語 りの構造 をど うとらえ
るか とい う問題」◆ 5によって導かれ ている。
2. 二人の語 り手
この小説 は、 この小説 は、一行 あける形で、導入部の 「 わた し 」 と 「 客」 とのや りとり を中心 と した場 面 と、 「 客」が 「 僕」 とい う一人称 の語 り手 となって語 る、
一〇歳 か ら一 二歳 当時の出来事 との二つ に分 け られ てい る。● 6
物語全体 の ( 語 りの現在) は、 「 わた し」 と 「 客 」( ‑ 「 僕 」) との再会 と会話 か ら時間 を隔てた時間であ る と推 定 され るが、 ( 物語 の現在) は、 「 わた し 」 と 「 客」 との会話の時 間にあ り、 ( 語 りの現在) と ( 物語 の現在) の距離 を示す情報 はない。知覚 の基点 は、再 会 の書斎 に置かれ ていて安定 してい る。全体の語 り手は子 どもの成長 に伴 って蝶 の収集 を 再開 した と してい る 「 わた し」であ る。友人である 「 僕」 の話 も、 「 わた し」 の立場か ら 引用 ない し再現 され てい る形 になってい る。
回想 の物語では、 「 わた し」 「 僕」 とい う二重の語 り手の枠 は前提 され ているが、 しば し ば少年 「 僕」の知覚 ・感覚 ・思考 の直接 の提示であるかの よ うに も感 じられ るところがあ り、物語 の現在 、物語 の現場‑ の臨在性 が高まってい る。 つま り、 「 僕 」 に よる回想物語 の部分 では、 ( 語 りの現在) は物語全体の ( 語 りの現在) と物語 中での ( 僕) による語 り の場面の現在 とが二重 になってい る形 になってお り、全体の ( 語 りの現在) を意識 させ る 情報 が特 にないため、 「 僕 」 の語 りの場面の現在 が ( 語 りの現在) と して前景化 してい る と言 える。 その上で、回想 され る
一〇歳 と一二歳の少年時の ( 物語の現在)が、 しば しば かな りの臨在性 を もって提示 され ることになっている。
こ うした この物語 の語 りの構造が どの よ うに把握 され るか̲ とい うところに、読みの違 い が顕在化 してい る。 このテ クス トでは、いわゆる描 出表現 (自由間接表現) にあた るよ う な表現がそ う多 くはな く、微細な部分での解釈の分岐点が明確 ではないが、 こ うしたいわ ゆる額縁構造 を どの よ うな もの として捉 えるか とい う語 りのマ クロ構造 の把握 によって、
解釈形成 が枠取 られ る とい うことが起 きてい ると考 え られ る。
綾 目広治 200l aは、次の よ うに述べている。 ・
『少年 の 日の思 い出』 は、 「 わた し 」 とい う語 り手が 「 わた し 」 の家 に泊まってい る ら しい 「 客
」に 自分 のチ ョウの標本 を見せ る ところか ら話が始 まる。 「 客」は、 自分 も子 どもの ときにはチ ョウの 「 熱情的 な収集家 」 であった こと、 しか し、 「自分でその思い 出をけが して しまった 」 と語 り、あのヤママユガをめ ぐる出来事 を 「 わた し」に語 り始 め る。つ ま り、 「 客」の方が物語 の実質的な語 り手 となっていて、 自分 も当事者 であっ た出来事 を 「 わた し」に、そ して読者 に語 り出すのである。
これ は、物語 自体の内部 に話者 を設定す る、いわゆる ( 内部話者の方法)あるいは ( 特 定視点の方法)である。注意 したいのは、「 客」は、「 今で も美 しいチ ョウチ ョを見ると、
折 り折 りあの熱情が身 に しみて感 じられ る」 とい うふ うに、現在時の視点か ら過去 を振 り返 るとい う体裁 を一応取 って語 ってい るのであるが、物語全体 としてはほ とん ど少年 時の視点に同一化 して して しまってい ることだ。その ことは、少年の感情の起伏のまま に 「 客」の語 りは進んでい くことか ら窺われ よ う。● 7
綾 目は、小説 の末尾 に額縁 が欠 けてい ることも、 「 客」の少年時の視点に一元化 され た 構造 を示す もの として捉 えている。
一方 、竹 内常‑ 2001 b では、 「 盗み と破壊 とい う罪 と自己処罰」の物語 として 「 少年の 日の思い出」 を読んできた 「 指導書」や 「 教材研究」に異議 を唱 える立場か ら、 この点に ついて次の よ うに述べてい る。
た しかにこの物語 を最初 に語 ったのは ・ 「 彼」であるが、それ を仕上げたのは 「 わた し 」 なのである。 「 わた し」は 「 彼 」 と対話 しつつ、 「 彼」の話すの も苦 しい話 を細部 まで聞 き取 り、その話 を 「 彼 」 の 自己内対話 によって確かめ、す じみ ち立った もの として 「 彼 」 に差 し出 し、 「 彼」 と対話 を再開 しよ うとしてい るのである. 「 わた し」が 「 彼 」 の語 り を問い返 しなが ら細部 まで聞 き取 り、それ を 「 聞き書 き 」 としてま とめたのである。● 8
語 りの構造 の把握 は二人 の間で大 き く異 なってお り、それ は、いわば主た る語 り手 を
「 僕 」 とみ なす か、 「 わた し」 とみなすか とい う違 い となって顕在化 してい る。語 り手 と しての 「 僕 」 と少年 「 僕」 との重な りを どの程度 と見積 もるか とい う違い もある。 こ うし た違いは、解釈の違い、読みの違 いにつなが る。
3. エー ミール と 「 僕 」
語 りの構造 に対す る二つの把握 に対応す る形で解釈 も異なる結果 となっているが、それ は よ り鮮明にはエー ミール と 「 僕 」 の関係 を どう捉 えるか とい う点に現れている。
極 目広治 200l bは次の よ うに述べてい る。
エー ミールは本 当に怒 っていなかったのだ ろ うか。冷ややかな軽蔑的な態度 を取 る とい うのが、エー ミール の怒 りの表 し方だったか もしれ ないのではなかろ うか。それが、「 あ らゆる点で、模範少年 だった」エー ミール に相応 しい怒 り方だった とも考 えられ よ う。
「 ぼ く」の視点に同一化す る読みは、反面、いわば‑ ツセの術 中に陥 る危険性 があ りは
しないだろ うか。
●9綾 目は、少年時の 「 僕」の視点か ら物語 は語 られているとい う立場か ら、物語 を少年 「 僕 」 の一方的な語 りとして相対化 し、 エー ミールの立場か らの物語 を想像す ることを提案す る。
この、いわば 「 僕」‑の批判 は 「 同一化 して しまってい る 」 とか、 「 少年時の感情の起伏 のままに
」とか、 「 ‑ ツセの術 中に陥 る危険性」 とかい う口吻にも現れてい る。 こうした 読み は既 に指摘 した よ うに、一つの道徳的な読み を導 く可能性がある. 「 僕 」 の直面 した 苦い真実 を考 えるとい うよ うな読みない し学習は、‑たをすればす ぐに盗み とい う罪 をめ
この物語 の少年 に共感 を覚 えることな く、 「 盗みは悪い ことでいけない」 とい うよ うな徳 目的な感想 を述べ ることがあるとい う。 これは もはや小説の ことばを小説のことば として 読 まない とい うことを示 しているが、語 りの構造 を限定的に捉 え、少年時の 「 僕」の物語 に封 じ込 めることもまた同 じよ うな効果 をもた らす可能性 がある。
エー ミール の人物像 については、確 かに もっぱ ら少年 「 僕」・語 り手 「 僕」の側か ら説 明 され てお り、時に感情的である。少年 「 僕 」 と語 り手 「 僕 」 との違いはあま り示 されて お らず、一貫 してい る。 「 僕」が 「 わた し」の よ うには大人 になってか ら蝶 の収集 に再び 手 をそめるよ うな こともな く、過去の出来事 を 「 話すの も恥ずか しい」 こととして回想 し てい る ところか ら見て も、蝶 をめ ぐる出来事 について、 「 僕」の時間や認識 はは一二歳の 時点か らあま り変化 していない とい うことができる。 しか し、その よ うな回想がひ とたび 語 られ る時、その語 りの行為は何 らかの意味合いを帯び る。竹内が着 目しているのはその 点であ り、その語 りが 「 わた し」に向かっていることの意味を問 うている。
竹 内は次の よ うに述べている。
「 わた し」 は、一方で、 「 ぼ く
」の行為の背後 にエー ミール にたいす る憎 しみがあるこ とを暗示 しつつ も、他方で、エー ミールの態度が 「 ぼ く」をそのよ うな行為に追い込ん だ とし、 「 彼 」 に 百分 を許す よ うに促 しているのである。
それ以上に、当時の 「 ぼ く」にも、また今 の 「 彼」にも明確 に意識 されていない 「 微 妙な喜び 」 と 「 激 しい欲望
」との葛藤、「 美
」を追い求める 「 ぼ く 」 と、「 美 」 を 「 モ ノ」
として操作す るエー ミール との対立、 「 美
」に魅 了 されて、 「 モ ノ 」 を盗み、その うえに
「 美 」 さえも壊す ことになる激 しい変転、そのために 「 美 」 を愛す る心 さえをもお しつ ぶす しかない 自己疎外 を 「 わた し」が取 り出 していることの方が重要である。
この よ うにみて くると、 「 彼」は 自分 を告発 し、 「 わた し」は 「 彼 」 を弁明 していると い うことができる。「 彼」は 自分の行為 をいまも有罪 としているのにたい して、「 わた し」
は 「 彼」に 自分 を許 していいのではないか と暗に語 りかけているのである
. I"この よ うに して、竹内は 「 わた し」による許 しを読み取 ることができるもの としている。
これ は、「 僕」の回想物語 をも 「 わた し 」 による 「 聞き書き
」として、再話者 としての 「 わ た し」 を想定す る語 りの構造の把握 と密接 に関連 している。少年時の 「 僕 」 にのみ物語の 語 りが帰せ られれば、エー ミール との関係 は 「 僕 」 ' か ら提示 された一方的なものであ り、
その限定的な認識は相対化 され批判 に さらされ るか もしれないが、語 りが大人の 「 僕」や
聞き手そ して全体の語 り手である 「 わた し
」に帰せ られれば、すでに何 らかの相対化が行 われ、その上でエー ミール との関係 が提示 されているとい うことになるか らである.
た とえば、 「 僕」の犯 した罪 を 「 盗み」 とみなすか 「 美の冒涜 」 とみなすか とい うこと について言 えば、少年時の 「 僕」の立場か らすれば、盗み としての意味合いが強いか もし れない ( 実際に母親の視点が提示 されてお り、母親 はもっぱ ら盗み とい う罪に着 目してい ると思われ る。) .一方、大人の 「 僕 」 や 「 わた し」に とっては 「 美‑の冒涜」 とい う側面 が強調 されて把握 され ることになると思われ る。 このよ うな振幅が 「 少年の 目の思い出」
の読みには常についてまわってお り、現在 もまたそれが続いているとい うことができる。
そのよ うな読みの 「 幅」は語 りの構造があ らか じめ多様 な把握 を可能に しているか らであ り、個 々の読み手の語 りの構造の実際上の とらえ方が、解釈 に類型的な特性 を与えている もの と見 ることができる。
4. 「 僕 」 と 「 わた し 」
千田洋幸 2004 は、少年 「 僕」の欲望は、エー ミール を代表 とす るよ うな他者の欲望 と して生まれ る社会的な ものであ り、そのエー ミール との抗争 に敗れ る物語 として見るとい う読み を提示 したが、そ こでは語 りの構造について次のよ うに述べている。
ヽヽヽヽ
‑‑・ チ ョウ‑の 「 熱情」は、「 少年
」とい う時間に本質的に根 ざした、「自然」化 された 感情 として語 られ る。しかもその侠惚感 は、「 幼い 日」‑の回帰を うながす とともに、「 今 で も」、すなわち語 る現在 の時間にいたって も、語 り手 を とらえつづ けているものなの である。そ して、「 ぼ く
」の 「 熱情」は、 「 そ うした微妙 な喜び と、激 しい欲望 との入 り 交 じった気持 ちは、その後、そ うたびたび感 じた ことはなかった」とい う言説によって、
「 ぼ く 」 の内部でいわば神話化 され、チ ョウの収集 と一体 となった 「 少年 」 とい う時間 に対す る愛惜 が、 「 ぼ く」の語 りを推 し進 める原動力 とな り、物語の全体 を支配 してい るといって もいいだろ う。
だが、 じつはそ こに、 「 ぼ く」の語 りの致命的な錯誤が存在 していた。語 り手の 「 ぼ く」が、チ ョウ‑の欲望 を、 「 少年
」の時間のみが生み出す ことのできる特権的な出来 事 として囲いこみ続 けるかぎ り、チ ョウ収集の最終的な破綻は、神話化 され るべき 「 少 年 の 日」その ものの崩壊 を意味せ ざるをえない。 「 少年」の時間をひ とつの独立 した小 宇宙 と見な し、その中心または象徴 としてチ ョウ‑の欲望 を位置づけることは、その欲 望の無惨 な末路ゆえに、逆に 「 少年」であったかつての 自己を憎悪す る物語 しか生み出
しえないのである。
■I)千 田の語 りの構造の把握 は、大人の 「 僕」の回想 とい うところに重心がかかってお り、
その語 りが少年 「 僕
」を相対化 していない ことを問題 に している。それは少年 「 僕」の甘 美なまでのチ ョウ‑の情熱 を一方的に 「 美」の側 においてきた従来の読み‑の批判で もあ る。 このよ うな語 りの把握 もまた一つのバ リエーシ ョンであ り、それはやは り解釈 と対応
している。
ただ、竹内の側 か ら言 えば、そのよ うな構造 自体が 「 わた し」によって構成 されたもの
だ とい うことにもなろ う。そ もそ も、「 僕 」 の語 りは、「 わた し」 との出会いの場における 共通項 によって引き出 された ものであるとい う側面が強い。語 り ・ の構造そのものではない が、その共通項 をい くつか確認 してお きたい。
第‑ に 「 わた し」 と 「 僕」の収集 の類似 がある。 「 わた し」が子 どもに触発 されて再開 した収集 は 「 軽 い厚紙 の箱
」に入 ってお り、 「 僕 」 のかつての収集 は 「 古いつぶれたボー ル紙 の箱 」 に しまってあった。 その点で、つつ ま しさをもっている。そ してまた、「 わた
し」の子 どもの存在 によってそ もそ も少年の時間はす ぐそばに呼び出 されている。
第二に 「 わた し」 と 「 僕 」 はチ ョウの 「 美 しい形や、濃いみ ごとな色 」 を言 ってお り、
エー ミール の よ うに標本 としての完壁 さをもとめていない。美 しいチ ョウを追いっめた り、
捕 まえる瞬間の喜び、いわば美の所有 に情熱が傾 け られてい るのであ り、形 としての完壁 さを追 っていない。エー ミールがヤママユガをさなぎか ら解すのは傷がつかないか らであ り、捕 まえる喜びはそ こにはない。 この小説のヤママユガ ( クジャクヤママユ)には、 ヨ ー ロッパ ウチスズメのイメー ジ ( 特に生態 に関 して)が重ね られているとい う説があるが、
冒頭部 の ワモ ンキシタバは ヨー ロッパ ウチスズメ と見た 目の共通性 があ り、少年時の出来 事 を回想す るにふ さわ しい とい うことも言われてい る。● 1 2
第三に夕方か ら夜 にか けての時間の共通性 がある。 「 わた し 」 が 「 僕 」 に収集 を見せ る のは夕闇せ まる時間であ り、物語の終息す る少年時の場面 もまた夜である。そ こでは 自他 の区別 は闇に とけ、相手の語 りが 自分の語 りと一体化す るよ うな感覚 ともなろ う。 ちなみ に、 クジャクヤママユの ドイツ名 は Na c h t pf a u e n a u g e であ り、 ヨー ロッパ ウチスズメの ド イ ツ名 は Ab e n t pf a ue n a u g e である。それぞれ、「 夜のクジャクの 目 」 「 夕方のクジャクの 目」
とい う意味合いにな る。
「 少年の 日の思い出」の語 りの構造は三重 になってお り、 どこに力点を置 くかは事実上 読者 に任 されている。そ こに多様 な しか し類型的な解釈が積み重ね られてきた理 由がある
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