16 世紀における寛容の問題
──「26名の殉教事件」の欧州への伝播を中心に──
De la tolérance au XVI
esiècle:
Sur le crucifiement des 26 chrétiens au Japon
相 田 淑 子
要 旨
中大人文研の研究チームで扱ってきた16世紀の「寛容」に関わる問題のひ とつとして,日本の「26名の殉教事件(1597年2月5日)」を辿る試みであ る。当時の証人たち(ルイス・フロイス,カルレッティ,ヒロン等々)の記 述を通して,400年以上前の殉教場面の再構成を試みた。同時にこの事件の情 報がどのように多言語に翻訳されて欧州へ伝播し,どのように扱われたのか を考察した。イタリア語,フランス語,ラテン語,ドイツ語の複数の翻訳が,
事件の数年後に出版されている当時の状況を通して,当時のヨーロッパ人の 日本に対する関心はどのような点に集まるのか,16世紀日本の殉教者は多様 な文献でどのように扱われたのか,を吟味した。26名の殉教者が「福者」そ して「聖人」となるのを讃美することに宗教的な意味があるとすれば,彼ら を歴史の中で客観的に捉えることには学術的な意味がある。「寛容」の問題を 考える上で「殉教」という行為を無視することはできない。
キーワード
16世紀,寛容,26聖人,フロイス,フランス語翻訳
は じ め に
中央大学人文科学研究所の研究チームで
16
世紀の「寛容」に関わる書 物を読み続けている1)。著者ルクレールは16
世紀の宗教における寛容の 問題を,ヨーロッパ中心に扱う。国境が現在とは異なるものの,スペイン(エスパーニャ),スイス,フランス,広域オランダ,イギリス,ポーラン ド等々をきめ細かく扱う。宗教を前にして寛容はいかに展開したのか,む しろ寛容とは縁遠い政策がいかに各国で取られてきたのか、という歴史を 紐解く名著である。だがルクレールはアジアに対して言及することはな い。20世紀のこの研究者が一切言及することのなかった日本で,同じ16 世紀に執行された
26
名のキリスト教徒の処刑(数名の西洋人も含まれる)に ついて本稿では考察したい。1597
年2
月5
日長崎で26名のキリスト教徒が磔刑に処せられたこの事 件は,現在の長崎市の大浦天主堂の正式名が「二十六聖殉教者天主堂」で あるように,日本における最初の大規模な殉教事件として歴史に刻まれて いる。26名が17
世紀に「福者」に,そして19世紀には「聖人」に列せら れたこともあって「二十六聖人」としてキリスト教関連の殉教者伝や讃歌 的な文献資料は多いが,事件そのものについてはそれほど多くの正確な資 料が残されているわけではない。本稿ではこの400年以上前の出来事が,
当時のヨーロッパ(特にフランスで)どのように受け取られ,どのような 反応を生み出したのかという点に関心を向け,具体的な複数の資料を通し て考察していく。
1 .1597 年の殉教事件について
1597
年1
月3
日から2
月5
日まで,26名の国籍も年齢も多様なキリス ト教徒が,主に京都で捕らえられ,大阪,広島,下関,博多,長崎まで,ほとんど900キロ近いと思われるルートを移送(徒歩と舟による)され,到 着地で磔にされた。
この事件は現場の日本におけるよりも,ヨーロッパにおいて広範に知ら れている。『日本史』で有名なポルトガルの宣教師ルイス・フロイス(Luis Fróis, 1532 1597)の記録,イタリアの商人カルレッティ(Francesco Carletti,
1594 1606)の旅行記,さらにアビラ・ヒロン(Avila Girón,1590年以前 1619)
の記録,テイヨー(Francisco Teillo 15.. 16..?)の報告等々,同時代の人々の 残した記録にこの事件が記された。中でもフロイスは日本の年次報告書を イエズス会の上層部に送る任務があったが,その年次報告とは別にこの殉 教事件に特化した報告を作成した。この報告が原著となり,ラテン語,イ タリア語,フランス語,ドイツ語,英語等々に翻訳されて今日に至ってい る2)。本稿では,フロイス自身が記述したと言われるポルトガル語あるい はスペイン語の原典(スールス)の問題について言及する野望はない3)。 当時流布したフランス語の複数の書籍を参照するのは,版の優劣を評価す るのが目的でもない。以下でフロイスの該当報告書を中心に他の報告書も 参照していく。
2 .フロイスの殉教報告の翻訳書
『日本史』や「日本年報」で有名なフロイスは
1597年に長崎で死去して
いるが,同じ1597年の初頭に起こった 26
名のキリスト教徒の処刑につい て記録した報告書は,翻訳でも150頁近い本である。それが数年間にイタ リア語,フランス語,英語,ドイツ語等に翻訳されて26名の処刑事件を 西洋世界に知らしめる中心的資料となったことには異論を待たない。フロ イスの書籍が数年間に数カ国語に翻訳され,早い勢いで欧州世界に流布し た。事件後(およそ1610年まで)に発刊された翻訳書が多いことには驚か される。電子機器など無い時代にこの翻訳の速度は尋常ならざるものであ る。加えて同じ言語で複数の翻訳が別の場所で同時進行的に進められてい る。だから翻訳の仕方は一通りではなく,複数の翻訳書が残された。原著 からの翻訳書からさらに別の言語の翻訳書が生まれる,一次翻訳そして二 次翻訳が数年間で成されたのである。2 1 フランス語の翻訳書について
ここでは具体的にフランス国立図書館が有する
2
種類のフランス語翻訳 書を取り上げる。これは殉教事件の10
年以内に出版されイタリア語の翻 訳書を介した二次翻訳書である。1点は1604年にパリで出されたもの。もう
1
点はパリとルーアンで出された1600年の本である。フランス国立図書館が原本を保管するフランス語翻訳は以下の2種類であ りその表紙部分を転記する(図1,図2参照)。
(出所)Bibliothèque Nationale Paris, 8 020 95 図1 Histoire de la glorieuse mort...1600年 表紙
(図1 転記)
Histoire de la glorieuse mort de vingt-six chrestiens qui ont esté
crucifi ez par le commandement du roy de Jappon, dont y en avoit six
Religieux de S.Francois, trois Jesuites et dix sept chrestiens natifs du Royaume de Jappon, envoyee le XV de mars, par le P. Loys Frois à R. P.
Claude de Aquaviva general des Jestuistes, traduit dʼItalien en François.
par J. de Malfillastre Viconte de Falaise. A Rouen, chez Théodore Reinsart, pres le Palais, à lʼHomme Armé. 1600
(『日本の王の命令によっ て磔にされた26名のキリスト教徒の栄光ある死の物語,そこにはフランシス 会6名,イエズス会3名と日本人17名を含む…』翻訳マルフィラストル子爵)(出所)Bibliothèque Nationale de Paris, 8 02 6(2)
図2 Luis Fróis, Reìcit veìritable de la glorieuse mort...1604年 表紙
(図2 転記)
Récit véritable de la glorieuse mort de vingt et six chrestiens mis en
croix, par commandement du roy du Japon, le 5 de février 1597 desquels les six estoyent Religieux de lʼordre S. François, les trois de la Compagnie de Jesus, les 17 autres chrestiens Japponnois, envoyé par le P. Louys Froïs, le 15 de mars, au R. Père Claude Aquaviva, et mis en françois par le P. Jean de Bordes Bordelois de la mesme Compagnie. A Paris, Claude Chappelet, rue S. Jaques à la Licorne. 1604
(『日本の王の 命令によって十字架に付けられた26名のキリスト教徒の栄光ある死の真なる 話…』翻訳ジャン・ド・ボルド)
2
点の仏語訳は表現こそ違うが,ほぼ同じ題名を有し,それに続く部分 も「1597年2
月5
日に6
名のフランシスコ会,3
名のイエズス会,17名 の日本のキリスト教徒が日本の王の命令で十字架に付けられた」という事 実が記されている。そしてこれが,「3
月15
日にルイス・フロイスによっ てクロード・アクアヴィーヴァへ」送られた報告の翻訳書であることが示 されている。Histoire……(以下H版と略記)の表題には特にイタリア語か らのフランス語訳であることが明記されているが,写真から判別できるよ うに,翻訳者名は活字印刷ではなく,そこだけが手書きで足されている。表紙に残る手書きのインクの文字からは,翻訳者の筆跡なのか,それとも 後世に誰かが書き入れたものなのかを肉眼で判別することはできない。だ が
H
版には,Récit……にはない翻訳者の序文がある。翻訳者のマルフィ ラストルの記述である。彼はその序文(1600年5月14日付)で,遠い日本 の事件を姪に語るために数日で訳したと吐露する。「私の姪,グリズー嬢 へ」と題されたその序文から,この子爵の姪へ想い,そして同時に事件を 伝えなければという使命を読み取ることができる。「私の姪であるグリズー嬢へ
我が姪よ,私の友人の
1
人がローマから送ってくれたキリスト教者た ちの手引きがあります。主,イエスの信仰のために彼らは日本で磔に なりました。イタリア語の本だったので,あなたが読めるように,キ リスト昇天祭の前に2 3
日かけてフランス語に訳しました。その国 は私たちの土地から4000リュー以上も離れているけれど,私たちと
同じカトリックの信仰の告白をしているのを知れば,彼らの苦しみに 同感し,彼らの喜びを共に分かち合って,初期の教会の殉教者たちの 歴史が再現されるに相応しいことを,さらにもっと言えば,この書物 でそれが更新されていることがお分かりになるでしょう。あなたの亡 き母のウイーユ夫人とあなたそして私たちの友情と連帯の証しとして 受け取られますように。私の姪へとして創造主があなたを守ってくださりますように。
マルタンボスより 1600年
5
月14
日あなたの守り手なるあなたの叔父(J. de)マルフィラストル
/
ファレ ーズ子爵より」4)この序文の作者つまりこの本の翻訳者はJ. de Malfillastre Viconte
(=vicomte)
de Falaise
なる人物である。当時の筆記からはマルシラトルと 読めないこともないが,とりあえずマルフィラストルと呼ぶ。パリの西 方,カルヴァドス県のファレーズの子爵が,姪にしたためる献辞である。当時の多くの書籍に見られた著名人に対する半ば形式的な献辞とは違い,
この翻訳書は母を亡くした令嬢に読ませるための話であると言う。当時の フランス男性が女性に向けて殉教(処刑の有様を含む)を物語りたいのだと 言う。こうした体裁を取ることで,一般の読者に対してもこの書籍を手に 取りやすい読みものと化しているのだろう。
だがもうひとつの翻訳書1604年のRécit……は,フロイスのイエズス会 総長クロード・アクアヴィーヴァへの献辞が,翻訳書の序となっている。
この総長への献呈の辞の代わりに,
H
版は,姪への言葉となっているのだ。原著者に成り代わって序文を付け替えた意図を問う以前に,フロイスの序 文を割愛した意図を問うべきかもしれないが。
いずれにしても上記に示した
2
点の翻訳書は,レシRécit
であれイスト ワールHistoireであれ,「話」や「物語」を意味する単語である。もちろ ん,ここでの「物語」はその架空性を強調するものではなく,現実性を重 視した記録,歴史の意味が強い。しかし遠い異国(日本)のことをリアリ ティー溢れる感動的な翻訳書として残すことは,原著者であるフロイスの 意思を十二分に汲むことにもなるのだろう。2 2 フランス語訳 Hisotire(H版と略記) とRécit(R版と略記)を辿る
H
版とR
版の出版年は,幾つかの図書館の目録で相違がある。フランス 国立図書館は前者の出版年を1606年と記載する。それゆえ最初のフラン ス語訳は,1604年に出されたジャン・ド・ボルド訳のR版であるとみなさ れてきた。しかしH版の表紙に印刷されたローマ数字(図1参照)を検証 し,そして今日に残る本を網羅するUSTC
(University of St. Andrews)によ っても,1606年ではなく1600年出版が確認できる。さらに前述したH
版 の献辞にある年月(1600年5月14日)からも,H版をフランス語版の最初 の出版とみなすのが妥当であると判断できる。R
版とH
版の構成を比較してみると,どちらも15
章から成り,各章の はじめに簡単なタイトルが付けられている。表現こそ違うが意味はほぼ同 じである。例えば第1
章についてH版を直訳すれば「日本のキリスト教徒 がこの迫害に遭う前の状態と迫害が起こった原因となる幾つかの出来事に ついて」であり,R版では「日本のキリスト教徒の状況,この迫害前と迫害の元となる出来事」である。
また
2
章においても「いつ,どのように迫害が始まったかcomment」
という文が,「いつ,どのようなやり方でen quelle façonで迫害が始まっ たか」の違いがある程度である。
(H版)
Quand et en quelle façon commença la persecution.
5)(R版)
Quand et comment la persecution commença.
6)文学作品の解釈ではないので,単語や構文の違いはあっても両版は同じ 内容を語り,文意は同じものを目指していると解釈して適当である。ただ し固有名詞,とりわけ日本の地名や人名については,表記方法が両版では かなり違っている。例えば,「長崎」は,R版では
Nangasaqui
でありH版 で はNagasachi
で あ る。 人 名 も「 半 三 郎 」 はFazambure (R版),Fazamburo
(H版)である。両版の日本語表記が微妙に異なったり大幅にズレたりする理由は元にした原文が違うことが考えられる。原文と言って もどちらもイタリア語からの翻訳書を翻訳したものであることは前述の通 りである。二つの版の翻訳者は,どちらかがどちらかを参照したのではな く,各版の翻訳者が別々に独立して翻訳作業を遂行したと考えられる。そ の場合,400年前の西洋人にとって馴染みのない日本語の固有名詞に敢え て勝手な表記を当てるとは考えられない。少なくとも原文の発音に従い翻 訳したのだろう。翻訳者ジャン・ド・ボルドとマルフィラストルのそれぞ れが参照した「イタリア語版」自体が違うものであったと考えることが妥 当だと考える。本稿はスールスの問題を扱う意図はない。二つの版を参照 することで文意をより正確に掴むことが可能になり,補完しあうことによ って,16世紀の日本の
26
名の殉教事件がさらに明らかになることを目指 したい。例えば数字は両版でどのように記述されているのだろうか。
(H版)…
pendant ce temps de dix ans sʼest tellement multiplie le nombre des fidèles, que plus de soixante cinq mil personnes ont reçu le saint Baptême, sans conter les petits enfants de Chretiens qui ont été bâtissez.
7)(R版)…
le nombre des Chrétiens sʼest tellement accru en ces dix ans, que plus de soixante cinq mille personnes ont reçu le Saint Bapteme, sans compter les petits enfants, qui naissais des Peres Chrétiens, ont ete baptises.
8)(要約 この10年で65,000名以上が洗礼を受けた,信者を親にもち既に洗礼 を受けていた幼児を別にしても。)
当時はまだ揺れがみられたアクセント記号や単語表記を別にしても,数 値については同じである。この
10
年とは執筆から遡る10
年,1587年から のキリスト教徒の増加が,65,000人を超えたということで,日本史で名高 い豊臣秀吉による「禁教令」にもかかわらず増えたと伝える。大人の人数 だけをカウントしたというのだから,実際の人数はそれを遥かに上回るの だろう。宣教師は普段の「年次報告」でもこうした数値を頻繁にやり取り しており,統計を重視する指針が読み取れる9)。また指針となる数値を増 すために払う宣教師の重圧さについても次のような言及がある。(H版)
Car il semble en fin que ce serait chose moins difficile de mourir
une fois tendant le col à lʼépée, que mourir tous le jours par tant de
dangers angoisseux, en conservant et augmentant le nombre de
Chretiens.
10)(R版)
En fin il était moins difficile offrant la gorge au couteau de mourir une fois, que mourir tous les jours avec tant travaux pour maintenir et accroitre lʼhonneur des chrétiens.
11)(要約 結局,信者数を維持しその数を増やすために,毎日,重苦で死にそう になるよりも,斬首の一回で死ぬほうが,苦労が少ないようにさえ思われた。)
イエズス会の宣教師は数字と格闘する。目標とする数値もあった。その 達成のために尽力する彼らの姿はどことなく現代人に通じる。
全体で
15
章の構成だが,H版は10
章を欠いている。翻訳者が序文で語 ったように僅か3
日で100頁を越える原著を訳したならば,訳し忘れのミ スも起こりうるだろうし,印刷上の手違いがあったのかもしれない。他の 本も参照すれば良いのだが,数百年前の書籍を閲覧するのはそう簡単では ない12)。イタリア語翻訳のひとつに同じく15章から成り立つが一章分が 欠けている翻訳書は確に存在する,ということだけを付け加える13)。一般に知られていることだが,この26名という数字は,京都で本来逮 捕される予定の24名を中心に長崎の移動までに自発的に加わった
2
名を 合計する。中には同じ名前のために数合わせで捕らえられたマティアス(6章)もいる。耳を削ぎ落とされたり(7章),沿道で称賛を集めたりして,
1
月末囚人たちは博多(Facata)に着く。日本の寒さに震える26名の一行 が小舟を使い彼杵(Sonochy)から時津の港に渡る。時間と共に変化する 彼らの意識と周囲の状況を追体験するかのように章を読み進むことは,時 間の流れをクロノロジックに辿り,また彼らと共に地理的移動をすること である。その意味では,未知の国の地理的移動を楽しむ当時流行った旅行 記さながらに,読者の興味関心を誘ったとも想像できる。こうした著作を残した原著者(フロイス)は,あたかも彼らに同伴した かのように巧みに描写するが,彼が実際に自分の眼で見たのは,迫害が始
まった京都近辺と死刑が執行された長崎での出来事であると考えられる。
当の本人は次のようにさえ言った。
Jʼecriray seulement ce que jʼay apprins de ceux qui furent presens, tant à Meaco, ou la persecution commança ; à Nagasaki, ou la sentence de
mort fut executée.
(私は,迫害が始まった都においても,死刑が執行された長崎においても,現場にいた人々から教えられたことだけを書くつもりだ。)14)
フロイスの序文付きの
R
版によれば,« informations assures (確かな情 報)»
のみを採取したと言う。そうした言葉の真偽はともかく「長舌が常 にもたらす退屈を避けるため,私はこの話を幾つもの章に分けた」と言う のは,まさに章分けされた本書を見れば明白である15)。その中でも両版 の14
章で展開される処刑の様は圧巻である。作者自身が目撃した光景だ と確信させるほどの描写が展開されている。以下で処刑の時と場を辿って みる。2 3 第 14章の処刑の描写
⑴ 場所についての記述
(H版)
il y avait droit a la vue de toute la ville de Nangasachi une
Colline avec un planiere assez grand pour y asseoir 26 croix, et leurs
avenues comme il y a au mont de Calvaire. Ce fut là donc que
Fazamburo fait porter les Croix, pour contenter les Portugais, lesquels
se promettaient dʼy faire bâtir une Eglise à lʼhonneur de ces vaillants
Champions de Christe et la nommer notre dame des martyrs.
(長崎の街 を見下ろせる場所だった。ちょっとした丘で26本の十字架を設置するには十分な広さの平らな場所だった。だから彼らが道ゆく様は,ゴルゴタの丘に向 かうかのようだった。まさにその場所に半三郎は十字架を運ばせた。ポルト ガル人たちを納得させるためだった。ポルトガル人たちは,ここに勇敢なキ リスト教の勝者たちの栄誉を讃えて教会を建て殉教者のノートル・ダムと名 付けようと誓い合った。)16)
両版が伝える処刑の場所は,ゴルゴタの丘に喩えられるような長崎の高 台の平地部分である。役人の半三郎がポルトガル人たちを納得させるため に,その場所を26名の処刑場にした理由がその前段で語られているが,
半三郎が先に示した現行の処刑場に対して,ポルトガル人の宣教師たちが 文句をつけたからなのだ。R版においては,ポルトガル人の「私たちが文 句を言ったので」と記されている。一人称の「私たち」が記されること は,フロイス自身を含んでいたと考えられる。
⑵ 「十字架」についての描写
興味深いのは処刑用の十字架の描写である。
(R版)
Les croix dont les Japonais usent a punir les malfaiteurs, ont deux travers, lʼun aux bras et lʼautre aux pied, sur le milieu dʼicelles y a un autre bout de bois, qui ayde à soutenir le poix du corps le patient étant dessus comme à cheval, de sorte que chaque croix est de quatre pieces.
17)(日本人が悪人を罰するのに使用する十字架は,2本の横材である。1本は腕そしてもう 1本は足のため。その中央にまた別の木の断片がある のだが,その上にいる受刑者が身体の重みと支えるのに役立ち,あたかも馬 に乗るかのようだ,その結果,それぞれの十字架は4個の部品から作られて いる。)
両版とも同じような描写なのだが,1600年のH版においては,「以下の 図の通り」とあり,図版が付加されている(図3参照)。
図3 Luis Fróis, Histoire de la glorieuse mort…ch. 14, Nij.
文字の間にしっかりと図が収まっているページは印象的であり,献辞の 受取人である姪に対して分かりやすく説明する意図なのか,それとも原著
に忠実でいようとしたからなのか。一方で
R
版の方は上記の引用が他と比 べて短い一段落に収まり,続く段落では,「彼ら(日本人)は釘を打つ習慣 がなく縄で足や手を結びつける。さらに鉄輪で横木に留めて,罪人をしっ かりと十字架に固定する。」18)とある。この十字架の作りや使い方が西洋での,例えば異端の罪で処刑する場合 の十字架とは異なることに,原著者もさらには翻訳者も関心を寄せて細か く描写した。そして十字架の形(らしきもの)を図版にするに至ったのか。
実際には,日本の磔用の木材を十字架風にアレンジした物だったのかもし れないが,西洋人はキリスト教の十字架に見立てたのだろう。26本の十 字架は互いに
3 4
歩離れた間隔で設置され,小児用は小さなサイズに作 られていたと語られている。⑶ 執行人の描写
罪人
26
名の内訳は,6
名のフランシスコ会の外国人会士,3
名の日本 人のイエズス会士,残る17名の日本人のキリスト教徒と書かれている。年齢も10代から60代の幅があり,職位も,フランシスコ会の外国人は神 父やそれに次ぐ位にある者,またパウロ三木のようなイエズス会のイルマ ンの地位にある者や修道士,さらに在野の信者たち,というように多様で あった。横一列に並べられた十字架を突いていく執行人の行動が描写され る。
(R版)
Puis le bourreau venant avec une lance bien affilée faiste en façon
dʼune espée à deux mains manchée, frappe celuy qui est en croix au
costé droict : tellement que le coup passat jusques au gauche, perce le
cœur. Quelquefois ils font deux bourreaux, qui transperçant en une
mesme temps, lʼun et lʼautre costé, viennent à former comme une croix
de deux lances, qui se rencontrent. Ainsi les pauvres blessez rendent le
dernier soupir en un moment, avec un grand ruisseau de sang. Que sʼils ne meurent pas soudain, le bourreau tourne à redoubler les coups, et ainsi ils trespassent.
19)(それから執行人は,研ぎ澄まされた槍を,両手で剣を握るやり方で持ちや って来て十字架に付けられた人の右側を刺すのだ,その一撃が左側まで貫通 するほどに。時に執行人は二人がかりで同時に両側から突き刺すので,出会 う2本の槍で十字架を作りに来るかのようだ。こうして哀れな負傷者は間も なく最後の吐息を吐き,夥しい血が流れる。もし負傷者が直ぐに死なないな らば,執行人は重複して刺すので,彼らは絶命する。)
上記の場面は,先立つ場面で人々の行動を描写してきた過去時制の動詞 を使わずに現在時制のみで展開するので,日本の磔についての客観的な記 述となっている。
彼らの呟く祈りや響く賛美歌あるいは力強い説教は,まるで処刑場とい う舞台の上で演じられる芝居のように記される。後世の宗教関連の書物に 頻繁に取り上げている殉教者の姿である。舞台の上で役者が紹介されるよ うに,フロイスはひとりひとりの名前を書き記した。
⑷ 26名の人々
彼らは
3 4
歩の間隔で顔を長崎の街に向けて,10名の日本人がフラン シスコ会ペトロ神父を中央にして右手に並び,左手にも他の10名の日本 人が並ぶ。左手には3
名イエズス会士も含まれる。両版とも,西側から名 があげられ,何らかの説明が全員に付けられている。とりわけパウロ三 木,ディエゴ喜斎そして五島(の)ヨハネの3
名の日本人については,フ ロイスと同じイエズス会に属するために,詳しい説明も可能のようであ る。とりわけ33歳のパウロ三木はヒーローのように描写される。またフ ランシスコ会のペトロ神父は,磔の位置も中心にあるようだが,実際に26
名のリーダー格であり,丁寧な説明が加えられる。翻訳書では慣れな い日本人の名前の列挙のためか,所々で人名の統一を欠いたり,順番を示 すローマ数字に明らかな誤記が残っていたりするが,両版で序数が使われ ているので,以下で順番通りに並べ,適宜記載内容の要約を加えた(固有 名詞について顕著な表記の違いがある場合は,その表記を両版で対照し提示した。前半がH版,後半がR版である。)20):
1
番目がフランコ(François)。バプティスタ神父の世話係のために一緒 に逮捕された。洗礼を受けてから8
ヶ月にしかならない。
2
番目がコスメたけや(Cosme Tachegia)。尾張の出身で刀の研師だとい う。神父たちの通訳をしていたので,マルチノ神父と共に大阪で捕らえら れた。
3
番目がペトロすけじろう(Pierre Suchegiro)。罪人の世話人付いてき た。
4
番目がミカエル小崎(Michel Cozachi)で弓矢職人。
5
番目がディエゴ喜斎(Jacques Ghisai/Jacques Gizai)64
歳。フロイスと 同じイエズス会の修道士であり丁寧な説明が加えられている。
6
番目パウロ三木(Pol Michi/Paul Michy)。同じくイエズス会。33歳の 気力漲る修道士の描写である。
7
番目がパウロ茨木(Pol Ibarchi/Paul Ibarchy)日本尾張(Oari/Dry 原文ママ)
の生まれ。
8
番目が五島のヨハネ(Jean natif de Goto)19
歳。イエズス会。
9
番目がルドビコ(Loys)で11 12
歳だが聡明な子でパウロ茨木の甥だ ということである。10
番目が長崎(の)アントニオ(Antonio de Nangazachi/Antoine de Nanga- zaqui)。13歳ぐらいで無垢な少年(candide)。11
番目がペトロ神父(P. F. Pierre)。48歳でアヴィラの司教職にある。博識ある説教家で26名の中では中心人物である。
12
番目がマルチノ・デ・ラ・アセンシオン神父(Martin de lʼAscension), スペイン,ギプスコアのヴベルガラ出身の30歳。1596年にフランシス・ブランコ神父と来日。
13
番目がメキシコ人のフェリペ・デ・ヘスス(Philippes de Jesus/Philippede Jesue)神父,メキシコ人,土佐に流された帆船で到着し,マニラに戻
る予定だった。
14
番目がゴンザロ・ガルシア修道士(Ganzalo Garzia)。インドのバザン の生まれ,日本からマニラに行く途中でフランシスコ会に加わる。日本語 で説教していた。15
番目がフランシスコ・ブランコ修道士 (Pr.Fr.François le blanc de Monterrey en Gallice)30
歳ぐらい。16
番目がフランシスコ・デ・サン=ミゲル神父(Fr.François de S.MichelParriglia)バラドリッド21)近郊の出身。53歳ほど。死に至るまで良き慎ま
しい宗教者と評価。
17
番目がマティアス(Mathias)。前述。18
番目がレオ烏丸(Lion Carasumaro de Oary/Leon Carainmaro de Gacy), 主にフランシスコ会神父の世話係だが慈善病院でも働く。パウロ茨木の弟 でルドビコの叔父。19
番目が都のボナベントゥラ(Bonaventure de Meaco),幼き日に洗礼を 受けたが,父母を亡くし坊主とされたが,ある日自分が洗礼を受けたこと を知り,フランシスコ会神父によって教会へ復帰し,この良きアドベンチ ャー(bonne adventure)の(名を)得る。20
番 目 が ト マ ス 小 崎。 ミ カ エ ル 小 崎 の 子(Thomas Cozachi/Thomas Cozachy),15歳。21
番目がヨアキム・榊原(Gioachino Saccachibara/Joachin Saccachi Barra)40
歳。22
番目が都のフランシスコ(François de Meaco/François Medecin)46
歳,医師。
23
番目がトマスだんぎ(Thomas dʼAnchi /Thomas dʼAnochi Danchi),フラ ンシスコ会の世話係。24
番目がヨハネ絹屋(Jean Chimoia/Jean Chimoya),唯一,名前のみの記 載。25
番 目 が 伊 勢 国 の ガ ブ リ エ ル(Gabriel du Royaume dʼIce/Gabriel du Royaume dʼIsce)19
歳。26
番目が尾張のパウロ鈴木(Pol Suzuchi/Paul Surquesi de Oary),フラン シスコ会の通訳。26
名の処刑の様は両版とも簡潔である。「
4
人の死刑執行人が鞘から槍を引き出し始めた,この様にするのが日 本の習慣なのだ。信者たちはこの恐ろしい刃物を見ながら,大きな声で「イエス,マリア」と叫んだ(……)死刑執行人は,十字架に付けられた 各人を槍で二突きし,直ぐに絶命しない者には突きを繰り返して死を早め た。」22)
周知のことだが,キリスト教には聖遺物の崇拝がある。そのためにこの 処刑を見守る沢山の信者たちが,殉教者から溢れ出た血液を布類で受け止 めようとする。ある信者は手拭いを血溜まりに付け,また別のものは着て いる物を折り返したりして血流を受け止めようとする。さらには殉教者に 触り何かを持ち帰ろうとする者もいる。最後はそれを制止するかのよう に,役人の半三郎が判決文のパネルを立てさせた場面で14章は終わる。
3 .その他の資料
前述の
2
章で取り扱った二つの版はどちらもイタリア語からの翻訳であった。その他にラテン語の翻訳(De Gloriosa morte 26 crucifixorum 1599年)が 存在する23)。16世紀末のこの翻訳書はイタリア語からラテン語へ翻訳さ れている。興味深いことに前述の十字架の図を表紙に掲げている。さらに ドイツ語の翻訳書についても,表紙にその十字架を掲載している例が見ら れる。1597年に日本で
26
名が殉教してから,たった2 3
年の間にこの事 件がカトリック世界を揺るがし,日本風の十字架と認識されて過剰なほど の関心を引いたということなのか。16世紀の書物,とりわけ人文主義者 の書物には挿絵をむしろ排除する傾向があったが,堂々と表紙にイラスト を飾る殉教記録はそれだけで人々の目を引いたことであろう。実際の読者 の受容も興味ある所だ。3 1 カルレッティの場合
イタリア・フィレンツェ出身の商人フランチェスコ・カルレッティ
(Francesco Carletti)は,1597年
6
月に長崎に到着する。既に2
月5
日の処 刑から4
ヶ月経っても処刑場を見ることができたと旅行記に記してい る24)。Mais pour revenir au sujet de notre débarquement en la ville de Nagasaki, nous allâmes tout de suite voir le spectacle de ces six pauvres
(du moins pour le monde)
frères de Saint-François, de lʼordre des déchaux dʼEspagne, qui avaient été crucifies avec vingt autres Japonais chrétiens le 5 février de cette même année 1597, parmi lesquels trois avaient pris lʼhabit des jésuites. Leurs corps étaient encore entiers sur la croix, plantées au sommet dʼune hauteur éloignée de la ville à un tir dʼ
arquebuse.
25)(抄訳 長崎の街に上陸すると,私たちは直ぐにフランシスコ会修道士,スペイン洗足会の哀れな(少なくとも常識的には哀れな)6名の光
景を見に行った。彼らは20名の日本人キリスト教徒と共にこの同じ年1597年 の2月5日に十字架にかけられたのだが,その中の3名はイエズス会の衣服 を纏っていた。彼らの身体はまだ完全な状態で,街から小銃射程圏内の高さ のある頂上に立てられた十字架に付いていた。)
カルレッティは処刑の執行場面は目撃してはいないが,彼もまた日本の 十字架(磔の木材)を興味深く描写し,槍の使い方も合わせて説明する。
前述のフロイスの翻訳と同じ意味内容であるが,カルレッティはさらに踏 み込んで日本の処刑の方法や処刑制度そのものへ批判を加え日本人の残虐 性を強調する。しかしながら,殉教者から遺物をなんとか獲得しようとす る信者の様子,つまり死体から服や身体の一部を奪う行為は処刑以上に違 和感を与える生々しい記述だが,その行為に対して彼は何ら批判を加えな い。むしろ積極的に利を得ようかという感じで処刑場を見学する様な,し たたかな意気込みが感じられる。確かに今日でも,数多の教会の内には,
聖遺物として干からびた布や身体の一部である骨や頭髪さらには髑髏,遺 体が身につけていた装飾品の類まで,その所有を誇示する様に展示されて いる教会もある。聖遺物の獲得競争が,当時は盛んに行なわれ,それが日 本のキリスト教徒にも共有されていただけの話なのだろう。フロイスもカ ルレッティもこの行為自体に大して興味を向けていない。処刑場の生臭さ よりも殉教地の栄誉を感じているのか。カルレッティ自身は,長崎に再度 立ち寄った際に殉教者の血を分けてもらって喜んでいる。血に腐敗が起こ らないことを興味深く観察し,タオルに付けて知人に配ったりしている。
おそらく彼からしてみれば,物珍しく貴重な品を屈託なく知人にあげたら 喜ばれた,というだけなのだ。フレンツェの商人の屈託ない旅のエピソー ドのひとつに収まっているところが,フロイスの真摯な記述とは異なる。
またカルレッティはキリスト教徒が
30
万人で毎年25,000人から3
万人が洗礼を受けていると記し,「この国が,磔刑にされたキリスト教徒の血 の中で洗われた現在,疑いもなくこの数字は日々増加の一途を辿るであろ うと予想できる」と書いた26)。この数字の真偽はともかくも,通り過ぎ る一介の商人でありながら世界を見た旅人のこの言葉は,さらに厳しい弾 圧が繰り返されても衰えを知らぬ日本のキリスト教徒のその後を見通して いる。
3 2 アビラ・ヒロンの場合
アビラ・ヒロンの「日本国に関する報告」の和訳で『日本王国記』とし て知られる27)。前述のポルトガル人フロイスはイエズス会宣教師でイア タリア人カルレティはフィレンツェの商人であったがアビラ・ヒロンもま たスペイン(エスパーニャ)人の商人である。先ほど取り上げた
26
名の中 心人物ペトロ・バプティスタが1594年に長崎に来た時点で,ヒロンは既 に長崎市内に5
人の朝鮮人奴隷のいる家に住み,1619年には長崎在住外 国人妻帯者の内に数えられている,という28)。20年以上の長崎滞在であ る。前述の資料と同様に十字架についての描写があり内容的には同じであ る。しかし26
名の名前の記述の仕方が異なる。フロイスの著作は,「東か ら」通し番号をつけた記述だったことは前述の通りであるが,ヒロンはリ ーダーのペトロ神父を中央に置き,その右手から順番に名前をあげ,その 後で左手に位置する人々の名をあげている。その結果,前章で順番に記載し た「1
番目」のフランシスコが1
番後の名前となる。西洋人の描写方法,とりわけエックフラシスと呼ばれる美術品等に使われる描写方法は,一方 向から描写されるのが一般的である。それに比べて日本人は真ん中,ある いは目立つ物から,飛び地的に描写する特徴がある。もちろんここでの描 写は文字による記述のことで,現代でもその傾向が指摘されることもある が,そう考えると,スペイン人ヒロンの位置関係の捉え方とその描写の仕
方は,西洋人のそれと異なるようだ。日本滞在が長いために説明の仕方も 変わったのか。ヒロンはフロイスよりも生々しく執行の場面を描く。総勢
4
人の死刑執行人が,2
人ずつ組み,ひと組はフランシスコから側から槍 で突き初め,もうひと組は反対側から突き始めたという。「左脇から槍が 入れば右肩へそれが突き出るし,また右から入った槍は左へ突き出るのだ から,つまり一人一人の胸の内部で十文字ができることなった」という描 写は,先述のフロイスからの引用でも分かるように「十文字」を「十字 架」に見立てたいという,処刑ギャラリーのキリスト教徒に共通する思い でもあったのだろう。さらに中心人物であったペトロの最期は「双の眼も 面も天に向けてそのままの姿であった」ので「検視役すらも,この惨たら しい有様を見まいとして背を向ける」とある。ヒロンの場合は見物人であ るギャラリーの人々の行動にも注意がある。カルレッティ以上に「殉教者 の血」の後日談を長々と付け加えているのも興味深い29)。4 .その後の殉教者 26 名
この
26
名の殉教事件がカトリック世界に伝わる速度には並々ならぬ早 さがあった。前述のように26名を「6
名のフランシスコ会と20名の日本 人信者そして3
名のイエズス会」と言ったように区別する著者がいる一 方で,フランソワ・テイヨーのように6
名のフランシスコ会だけを中心に 伝える報告書もある30)。これはイエズス会3
名の指摘をせず「20名の改 宗した日本の信者と共に」合計26
名が1597年に殉教したことを伝える。
スペイン語からイタリア語に訳され印刷されて
1598年にフィレンツェで
出回ったようである。同時代的な翻訳書が1610年代にはほぼ出版されな い状態になった。一方でフランシスコ会,イエズス会といったグループ内 で殉教者が尊ばれた結果,1627年にフランシスコ会側の殉教者が福者(bienheureux)に列せられ,1629年イエズス会の
3
名が列せられるという結果になった。年次を隔て彼ら26名全員が福者となった。これに合わせ るように宗教関係の多数の印刷物が発行されている。中でも宗教新聞一面 を飾るような日本の殉教者たちの挿絵は,西洋キリスト教世界の憧憬の目 を日本に向けさせる機会ともなったのだろう31)。
この列福を過ぎるとキリスト教徒向けの書籍では,「23名のフランシス
コ会と
3名のイエズス会」という分け方を使用した題名を冠する書籍が複
数出版される32)。本来は「1597年
26
名殉教」の絵画であるべき所に,23 名しか描かれていないという事態も頻繁に起こっている。おそらく注文主 の依頼に添い画家がフランシスコ会23名を描けば仕事を果たしたことに なったのであろう。写真が無い時代の絵画に,歴史的考証性を求めること 自体が誤りなのかもしれないが,いずれにしても23名だけの絵画が1597
年の「殉教」テーマで観察対象になるケースもある33)。反対にイエズス 会の3
名のみを祀る場合も多い34)。日本人3名のそれぞれの肖像や彫刻で 満ちたカンブレ(フランス)の教会も興味深い35)。福者となった日本の殉教たちは1862年にピオ
9
世によって列聖される(canonisation)。その祭典は極めて盛大で,多種の教会関係の書籍も出版さ れた36)。こうして
16
世紀日本の26
名の殉教者は福者から聖人となり20世 紀に続いていく37)。しかしながら,彼らは聖人とされたがために実証的 研究分野では(人としての)影が薄くなる傾向が無かったとは言い切れな い。結びに代えて
今日のフランスの著名な研究者レストランガンに『殉教の光,16世紀 の殉教についての試論』という著書がある38)。長崎やアジアへの言及は ないが,その序文の中で「世間の目には,殉教というのは血塗られたドラ マで,不正な抑圧の前の無力な絶望的努力と同義になった。この上ない,
抑圧の発症の徴であり,極端な状況への極端な反応ある。その状況は暴力 と同様に容認できないが,その暴力に対して自殺を奮起させるエネルギー を対抗させる」と書いている39)。「容認できない」と訳したがここには
intolérable
という形容詞が使われている。寛容を意味するtolérance から 派生し「寛容を望むべくもない」という意味になる。そのような寛容を望 むべくもない状況への抵抗手段が殉教へと化すのであろうか。今回は「寛 容」なき状況の例を日本の16
世紀の殉教事件に辿ったが,「殉教」の考察 に至る前に紙面が尽きてしまった感がある。慣れない分野に踏み込み至ら ぬ所も多いと思う。関係者のご教示をいただければ幸いである。注
1) Joseph Lecler, Histoire de la tolérance au siècle de la Réforme, A.Michel, 1994, 853p.
2) 主要文献はフランス国立図書館で実際に閲覧した書籍が中心であり,1610
年以降の翻訳書は含まない。
3) 結城了悟「解題」(ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』結城了悟
訳),聖母の騎士社,1995年,15 24頁。
4) Histoire., fo Aij. 拙訳による。
5) Récit., fo B iij.
6) Histoire., p. 10.
7) Récit., fo A iij.
8) Histoire., p. 6.
9) 既に発送された年報で,数字についての指摘した旨の記述が同所にある。
10) Récit., fo B iij.
11) Histoire., p. 10.
12) USTCによれば,フランス国内には2冊の残存が確認できる。
13) De Rebus japonicis historica relatio, eaque triplex : I. de Gloriosa morte 26 crucifixorum, Moguntiae, in latinam linguam translata , 1599. 15章立てだが,
欠けているのは9章である。
14) Récit., p. 4. A mon révérend père le P. Claude Aquaviva… 15) ibid.
16) Histoire., Chap. XIIII (sic.)
17) Récit., p. 121.
18) Ibid., p. 121.
19) Ibid., p.122.
20) 漢字表記は慣例に従ったが,あくまで両版で記載されている表記を重視し
た。筆者の判断が及ばないものは平仮名を使用。
21) スペインのこの街では1569年5月21日に大規模な殉教事件があったこと
が知られている。Pierre Civil, « Gravure et réforme luthérienne : une apologie visuelle des martyrs de Valladolid, lʼautodafé du 21 mai 1569 » dans la Journées dʼétude organisées CESR, Tours, le 27 octobre 2017.
22) H版f.Niiij ; R版 p. 129.
23) Frois L. De Rebus japonicis historica relatio, eaque triplex : I. de Gloriosa morte 26 crucifixorum, Moguntiae, in latinam linguam translata , 1599. pp.1 81.
24) Francesco Carletti (1594 1606), marchand de Florence séjourne au Japon de juin 1597 à mars 1598 » in Voyage autour du monde de Francesco Carletti (1594 1606), Chandeigne, Paris, 1999. 主に2章分(pp.143 228)を日本に割 いている。
25) ibid., p. 154.
26) ibid., p. 167.
27) アビラ・ヒロン『日本王国記』,岩波書店,1965年,佐久間正他2名訳。
28) 同上書 C26頁。
29) 殉教したフランシスコ・ブランの血を帽子に受けたイタリア人の男が,瓶
に移し替えマカオまで持参する。腐らず芳しい血液に対して司教から公認さ れた話。あるいは殉教者マルティンの爪を剥いだ後の出血の話等々。奇怪に 近い現象への記述が目立つ。
30) Teillo, Francisco, Relation envoyée par Don Francisque Teillo, Gouverneur , Capitaine general des Isles Philippines, touchant le martyre de six religieux espagnols, de l’odre de Sainct François de l’Observance / premièrement impr. à Seville en langue espagnolle (en 1597), et depuis trad. en italien par R.F.Ange Celestin de Mont-Corvin, et nouvellement mise en François par un secretaire interprete de sa Majesté, Lyon, par Jean Phillihotte, 1599.
31) 当の日本は周知の通り鎖国体制なのではあるが。
32) La Vie et mort de vingt-trois martyrs de l’Ordre de Sainct François et de trois Jésuites, tous crucifiez et transpercez de lances au Jappon, Composé par le V. P. F.
Samuel Buirette, impr. de P. Auroy (Douay), 1628. La Béatification des
premiers martyrs du Jappon, de l’ordre des FF. Mineurs réformez deschaux ou récollectz de la province S. Grégoire des isles Philippines... par N. S. P. le pape Urbain VIII... , Du Fay, Polycarpe (Le P.), A. de La Perrière (Paris), 1628.
33) Émile Mâle, L’Art religieux de la fin du XVIe siècle, du XVIIe siècle et du XVIIIe siècle, étude sur l’iconographie après le Concile de Trente. Italie, France, Espagne, Flandres. 2e édition... A. Colin (Paris), 1951, pp. 109 118.
34) Cf. Abrégé de la vie des trois Saints Paul Miki, Jean de Goto et Jacques Kisaï, martyrs Japonais, de la Compagnie de Jésus, récemment canonisés, impr. de Le Roux (Strasbourg), 1863.
35) フランスのカンブレの街にあるla Chapelle des Jésuiteのこと。
36) 目新しい所では『3人の子供の殉教者』という前述の十代の殉教者である
ルドビコ,長崎のアントニオ,トマス小崎をテーマにした本が出版されてい る:Les trois enfants martyrs du Japon : modèles et protecteurs de l’enfance chrétienne, Saint Brieuc, impr. Guyon frères, 1863, 36p.
37) 20世紀以降の変遷については別の機会に譲る。
38) Frank Lestringant, Lumières des martyrs, Essai sur le martyr au siècle des Réformes, Classique Garnier(Paris), 2015.
39) Ibid., avant-propos.