宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶五一 一︑陪従清仲の話 陪従とは行幸に付き従う者︑あるいは賀茂祭などの祭礼に奉仕した楽人を指す︒﹃宇治拾遺物語﹄︵以下﹃宇治拾
遺﹄︶に現れる陪従は︑後者しかもそのうち滑稽な所作などを生業とする者が取り上げられる︒こうした滑稽な所作
は︑和歌を詠む陪従が描かれる﹃今鏡﹄などを見ても︑陪従の全てが持ち合わせた特性ではないが︑﹃宇治拾遺﹄で
は第七四・七五話で滑稽に関わる陪従を扱う︒﹁陪従はさもこそとはいひながら︑これは世になきほどの猿楽なりけ
り﹂と冒頭に据える第七四話は陪従の家綱と行綱との滑稽な所作に加えて︑滑稽な兄弟同士の化かし合いが描かれ
る︒はじめに検討を加えたいのは︑同じ陪従の話として括られる第七五話における清仲の語られ方である︒
第七五話は二つの逸話から成る︒前半では︑白川院の宮であった二条大宮の御所が破損していたため︑有賢が修理
を仰せつかった︒二条大宮のもとに出仕していた陪従清仲は︑宮が修築のために居を移しても︑御所にとどまり︑家
の古いものは言うに及ばず新調した柱まで焚いてしまった︒鳥羽院から咎めを受けたところ︑清仲は﹁別の事に候は 野 本 東 生 ││許された者の話││
宇治拾遺物語の清仲・武正
五二
ず︒たき木につきて候也﹂と答える︒それに対して鳥羽院は
大かた︑これ程の事︑とかく仰せらるるに及ばず︑﹁すみやかに追ひいだせ﹂とて︑わらはせおはしましけると
かや︒
と反応する話である︒後半は︑人不足のために任じられた春日大社の祭りの神馬使いを清仲が見事に勤めると褒美と
して馬をもらった︒それに対して清仲は﹁この定 ぢやうに候はば︑定 ぢやう使 つかひを仕候はばや﹂と答えた︒それに対して
仰せつぐものも︑さぶらひあふ物どもも︑ゑつぼに入りて︑笑ひののしりけるを︑﹁何事ぞ﹂と御尋ねありけれ
ば︑﹁しかしか﹂と申しけるに︑﹁いみじう申したり﹂とぞ仰せ事ありける︒
と結ばれる話である︒結末部分の忠通のセリフは称賛の意味合いで受け止められている︒
第七五話の把握にとって︑そこに起きる笑いがいかなるものであるかを考えることは不可欠である︒前半部分につ いて︑実際に起きた現場ではなく︑伝え聞いた話全体の中に笑いを認めようとする見解︵
1もあり︑それは第七四話︶
と対照してみても外れたものではない︒けれどもまずは︑読む者ではなく見る者︑すなわち実際の場面に即して考え
るなら︑小峯和明が
そこでは清仲なら何をいっても許され︑すべて笑いに解消されてしまう暗黙の了解が院らはもとより当人も自認
する形ですでにあり︑道化的な役まわりがきわだっている︒
と指摘する︵
2ように︑陪従あるいは清仲が道化的役回りを果たしているともともと認められていたからこそ︑鳥羽︶
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶五三 院から咎め立てなく済んでいるのであろう︒そして﹁たき木につきて候﹂との一言で鳥羽院は面白おかしく思って水に流したのであろうか︵
3︒清仲の一言に対して﹁大かた︑これ程の事︑とかく仰せらるるに及ばず﹂と取り合わな︶
いにも関わらず︑鳥羽院からは笑いが後から漏れてくる︒それは清仲の物言いの面白さに微笑するのではなく︑清仲
の呆れた行為に苦笑するものではないだろうか︒さらに言えば︑大騒動を引き起こしたにも関わらず︑そこに用意さ
れていた一言が﹁たき木につきて候﹂であった︒清仲がはじめから道化的役回りを担う存在として認知されていたな
ら︑その一言が心を動かすには不十分なものと映るのではないだろうか︒笑いは罪や失敗を打ち消し喝采に反転する
力を持っているわけだが︑清仲はここでそれを発揮することはできなかった︒つまり︑前半の話は滑稽な言動に生き
ようとする清仲の失敗譚として見ることもできる︒
現実の彼が滑稽な言動に生きようとした痕跡は︑﹃長秋記﹄大治二︵一一二七︶年一一月一八日条﹁清仲︑定基及二五六度一︒是猿楽上手也﹂の記事にもあり︑また︑﹃長秋記﹄天永二︵一一一一︶年二月二八日条の記事では︑清仲 の常軌を逸した行動が描かれて咎め立てを受けない記事︵
4にもある︒陪従清仲が普通とは異なる行動をとる者︑滑︶
稽な言動を志す者と見られていたものとして︑第七五話は読む必要があるのではないだろうか︒
二︑﹁ゑつぼに入る﹂とは
第七五話の後半の話をつかむために︑人々が﹁ゑつぼに入りて︑笑ひののしりけり﹂となった﹁ゑつぼに入る﹂と
いう表現に関して追求してみたい︒思わず笑い出したい気持ちになったり︑そこから大いに笑ったりする意として説
明がつけられる語である︒関宦市は︑﹁笑いのへや﹂﹁そこに入ると笑いがこみあげてきて︑止まらないへや﹂とその
語源について考察する︵
5︒以下︑用例の多くは既出のものに重なるが︑笑いの傾向について考えるため︑重複を厭︶
わない︒用例の大半は漢文日記と軍記物語である︒
五四
︵﹃中右記﹄長治元年一一月二七日︶
1
レ二一レレ二一而家定朝臣勧盃之間︑瓶子人不相従之︑仍於前庭欲指盃之処︑万人入咲壺︑一日不祥︒
︵﹃中右記﹄嘉承元年正月七日︶
2
不可指笏︑在座人々入咲壺︑之人︑已迷作法︑誠以不便歟レ二一二一被催御酒勅使︑左宰相中将家政進南簀子敷南第三間︑件家政先之内弁後︑此勅使衆人又弥以断腸︑自本至愚
一レレレ咲壺︑或公卿被申云︑此事甚無由︑人々恠異似無便云々︑︵﹃中右記﹄嘉承二年七月一九日︶
3
二一レレ二同比候中殿御読経僧真宣夜番之間︑独叫喚云︑殺我哉︑高声数度︑万人驚奇て問之処︑已夢也︑衆人雖入
4
二一二一二一レレ予披見了処︑家保七カ年之史也︑而年限注十六年︑又以雑米書新米︑凡一字不成︑狼藉無極︑藤宰 相与奪令レ注二数年一條︑誠以奇恠也︑功過之定已絶失之道歟︑依二失錯一又令二書直一︑及
二数刻一帰座︑入二咲壺一不レ足レ言也︑已雖二書出一誠如レ形︑︵﹃中右記﹄天仁元年正月二四日︶
5
レ二一レレ二一後聞︑頭中将可申事由︑有庶幾之気︑仍頭弁譲之︑右府遅参之間︑内府召之︑昇小板敷︑欲
レ昇二長押一︑ 日暖懸レ膝二長押一候︑源卿等咲壺︑︵中略︶於小板敷乍レ坐仰含︑又満座嘲弄︑夕座右府蒙二殿下御目一︑又召レ人︑頭中将猶懸レ膝︑如レ犬突二□左右手一︑満座大臣以下先咲壺被レ申□由︑帰来如レ前坐︑右府仰弁や候︑︵﹃明月記﹄安貞元年四月二二日︶
6
レレ四位左中将先著︑五位右少将来著之間︑著座寄南︑師季著北云々︑見物人々驚奇咲壺云々︑上卿召立之間︑ 向レ西立︑主上密々御覧︑頭中将并為家等近候︑六位以上解レ頤云々︑彼兄弟於二公事一凡不レ足レ言︑足二驚奇一︑ 拝舞之間︑弁等忘二舞踏一立︑擲レ笏云々︑︵﹃明月記﹄建暦二年八月一六日︶これらの漢文日記の用例では
3
を除いて﹁咲壺﹂に至る状態の前に︑儀式での致命的な失態や故実に則らない振る舞いが記され︑
2
は﹁断腸﹂﹁至愚﹂︑4
﹁不足言﹂︑5
﹁嘲弄﹂︑6
﹁解頤﹂﹁不足言﹂とあり︑非常識な行為と﹁咲壺﹂がつながっていることがわかる︒
4
の例は家保の﹁狼藉﹂によって余計な時間を取られたわけだから︑実際に笑い声をあげたことを想定するのは難しい︒失笑を禁じ得ない︑言うに値しない行為がなされたことが示されている︒
3
の宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶五五 例は︑僧真宣の発した叫び声が夢を見てうなされた声であったことがわかった後の反応で︑驚いた人々の緊張感の解けた笑いのようにも見える︒けれども︑﹁高声﹂は日常生活において忌避されるものであったし︵
6︑彼が﹁夜番﹂で︶
あったにも関わらず眠っていたわけだから︑他例と同様に非難の視点を見ることもできる︒
次の例も見ておこう︒
7
新院母屋の御伩を引ほころばして叡覧あり︒龍顏頗靨にいらせ給︒左大臣殿大床に候ひ給ひけるが︑はるかにみいだして咲まけて︑︵﹃保元物語﹄上﹁新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事﹂︶
8
此條新院内々聞召れて︑すこぶる厭面に入せ給ひて︑︵﹃保元物語﹄上﹁新院御謀叛思し召し立たるる事﹂︶
9
法皇﹁あれはいかに﹂と仰ければ︑大納言立かへりて︑﹁平氏たはれ候ぬ﹂とぞ申されける︒法皇ゑつぼにいらせおはして︑﹁者どもまい︵ッ︶て猿楽つかまつれ﹂と仰ければ︑︵﹃平家物語﹄巻一﹁鹿谷﹂︶
10
泰定都へのぼり院参して︑御坪の内にして︑関東のやうつぶさに奏聞しければ︑法皇も御感ありけり︒公卿殿上人も皆ゑつぼにいり給へり︒兵衞佐はかうこそゆゝしくおはしけるに︑木曾の左馬頭︑都の守護してありける
が︑たちゐの振舞の無骨さ︑物いふ詞つゞきのかたくななることかぎりなし︒︵﹃平家物語﹄巻八﹁猫間﹂︶
︵﹃承久記﹄上︶
11
秀安︑賀陽院殿の御所に参りて︑﹁胤義こそ角こそ申候つれ﹂と申しければ︑一院ゑつぼに入せ給て︑
12
殿上︑階下男女畏シサニ︑ヱ咲ハデ︑忍音ニ咲壺ニ入テゾ咲ケル︒大方振舞トフルマフ事︑云ト云言ハ︑京中上下ノ物咲也︒︵﹃源平盛衰記﹄巻三十三﹁光隆卿向木曾許付木曾院参頑事﹂︶
13
﹁出家ノ時ハ︑何トヤラン四句ノ偈ヲ唱ル事ノ有ゲニ候者ヲ︒﹂ト被仰ケレバ︑此聖其文ヲヤ知ザリケン︑﹁汝是畜生発菩提心︒﹂トゾ唱タリケル︒三河守友俊モ同ク此ニテ出家セントテ︑既ニ髪ヲ洗ケルガ︑是ヲ聞テ︑﹁命ノ
惜サニ出家スレバトテ︑汝ハ是畜生也ト唱給フ事ノ悲シサヨ︒﹂ト︑ヱツボニ入テゾ笑ケル︒︵﹃太平記﹄巻九﹁主上・上皇為五宮被囚給事付資名卿出家事﹂︶
五六
14
或夜東寺ノ軍勢ドモ︑楼門ニ上テ是ヲミケルガ︑﹁アラヲビタヽシノ阿弥陀ガ峯ノ篝ヤ︒﹂ト申ケレバ︑高駿河守トリモ敢ズ︑﹁多ク共四十八ニハヨモ過ジ阿弥陀峯ニ灯ス篝火﹂ト一首ノ狂歌ニ取成シテ戯ケレバ︑満座皆ヱツ
ボニ入テゾ笑ケル︒︵﹃太平記﹄巻十七﹁山門牒送南都事﹂︶
15
紀伊國ノ軍ニ寄手若干討レテ︑今ハ和佐山ノ陣ニモ御方怺ヘ難シト云タリケレバ︑津々山ノ勢モ尼崎ノ大將モ︑興ヲ醒シ色ヲ失フ︒サレ共仁木右京大夫義長一人ハ︑﹁アラヲカシヤサテコソヨ︒哀同ジクハ津々山・天王寺・
住吉ノ勢共モ皆被追散裸ニ成テ逃ヨカシ︒興アル見物セン︒﹂トテ︑エツボニ入テゾ咲ケル︒是ヲバ御方トヤ云
ベキ敵トヤ申ベキ︒難心得所存也︵﹃太平記﹄巻三十四﹁二度紀伊國軍事付住吉楠折事﹂︶
16
其の八分斗の算を置き加ふると見たれば︑ある人みなながら︑すずろにゑつぼに入りにけり︒いたく笑ひて︑とどまらんとすれどもかなはず︒︵﹃宇治拾遺﹄一八五︶
今ここに挙げた
7
〜15
の例はいずれもいわゆる軍記物語を出典とする︒7
︑8
は崇徳院︑9
は後白河院︑11
は後鳥羽院が主体で︑いずれも現状の政権に対する不満を持っている︒
10
ではこの﹁ゑつぼに入る﹂状態は︑兵衛佐すなわち源頼朝の品行方正を手放しで喜んでいるのではなく︑粗暴な振る舞いの目立つ義仲が対照されている︒
12
は同じく木曽義仲の行為に対して︑声を出して笑えずに﹁ゑつぼに入る﹂状態で笑うものである︒
14
は敵軍のあまりの多さに詠まれた狂歌に対する兵士たちの反応である︒
15
の例は味方の軍勢が非勢に立たされている状況で︑味方とも敵ともつかない発言をする際に見せる反応である︒
これらの笑いをまとめれば︑﹁思わず笑い出したい気持ち・思わず笑う・笑い興じる﹂といった訳をあてられたと
しても︑少なくとも快活で前向きな笑いにはつながらないだろう︒控えるべき笑い・攻撃的な笑い・鬱積した笑いな
ど︑それは企みや後ろ暗さ︑馬鹿にすることなどにつながっている︒﹁ゑつぼに入る﹂は笑いに繋がる反応ではある
が︑同時に対象と想定されるものが正しい状態にあるなら笑う状態ではない︑本来的ではないという意識が記主・語
り手の中にあるものと思われる︒漢文日記での用例は有職故実などを乱されることへの反応であり︑軍記物語での用
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶五七 例は非勢に立たされた被告的立場にいる者の反応であった︒笑いたくもないのに算によって笑わされる
16
の例は︑あるはずのない笑いを導く表現としてある︒むろん︑笑いは通常とは異なるものに対して起こる反応ではあるものの︑
それでも記主や語り手にとって正常な状態から外れているとの認識があっての表現なのではなかろうか︒
三︑清仲と滑稽
第七五話の後半部分で︑清仲が﹁此定に候はば︑定使ひを仕り候はばや﹂と言った洒落は本当に面白かったのだろ
うか︒﹁ぢゃう﹂の重なりの他に笑い所がこれまで特に指摘されていない︒﹁ふしまろび悦びて﹂という所作と相まっ
て周囲の笑いをとることができた︒事情を聞いた忠通が﹁よくぞ申した﹂と言った︑従来そのように捉えられてい
る︒それに対して伊東玉美は異なる解釈を提示する︵
7︒居合わせた一同が非現実的な内容に清仲を馬鹿にして笑い︑︶
その一方で忠通は﹁橘氏でありながら︑他氏である藤氏の儀式に毎年尽くしたい︑とは殊勝な物言いと時の長者藤原
忠通には褒められたのではないだろうか﹂と捉える︒一連の笑いの中に否定的な方向を指摘するすぐれた見解である
かと思う︒﹁ゑつぼに入る﹂が馬鹿にした笑いであるという点は︑ここまで検討した用例に合致する︒ただし︑そう
はいうものの︑清仲に対して人々が高望みだと馬鹿にし無理だと笑ったことに︑忠通が人々の反応を打ち消すように
彼や一族に対する清仲の追従を認めるというのは︑いかがなものだろう︒本人に向けられない追従を敏感に察知する
忠通をこの話で描きたかったとは思われない︒あくまで話の中心は清仲ではないのか︒またそれならば︑﹁ゑつぼに
入る﹂という人々の笑いをどのように捉えられるであろうか︒﹁ゑつぼに入る﹂の裏側にどのような鬱積があるのか
は推測するしかないが︑この笑いはむしろ物言いのおかしさにはないと考えられないだろうか︒﹁ふしまろぶ﹂とい
う所作を伴っているからこそ︑そこに笑いが生じるのであり︑﹁此定に候はば︑定使ひを仕り候はばや﹂はそのきっ
かけに過ぎないのではないだろうか︒清仲の咄嗟の反応に︑忠通のことばを伝えた者や居合わせた者は思わず笑い声
をあげてしまった︒けれどもその物言い自体は﹁ぢゃう﹂が重ねられる程度のものであって︑笑うに値するようなも
五八
のではなかった︒笑わせることを生業とする者を前にした﹁ゑつぼに入る﹂とは︑通常であれば笑うべきものでない
ものに対して起きた笑いを表現したものではないだろうか︒この場で笑いが起きたこと自体は不自然なこととは思え
ないが︑この後︑忠通には清仲の発言だけが伝えられて︑この発言が所作抜きに面白く受け止められるとは︑稿者に
は考えにくい︒それならば︑忠通が発する﹁いみじく申したり﹂は︑清仲の今ひとつ面白みの足りないことばに対す
る否定的内容や皮肉にしかならないし︑少なくとも全うに肯定的評価を下しているのではない︒あるいは逆に忠通が
肯定的評価として﹁いみじく申したり﹂ということばを漏らしたとすれば︑清仲が普段はたいして面白くないにも関
わらず︑たまたま面白いことを言ったために︑﹁ゑつぼに入る﹂といういつもと異なる状態に陥ったとも捉えられる
かもしれない︒清仲の発言自身がどの程度の面白みを持つのかによっても左右される部分であるが︑﹁ゑつぼに入る﹂
という表現は︑清仲に起きた笑いの屈折を示すものである︒
﹃長秋記﹄天永二︵一一一一︶年二月二八日条の記事には︑
二三日行幸夜︑兵部丞清仲乗車参二向御輿綱際一︑仍別当能俊仰令レ搦レ之︑而清仲陳申云︑﹁於清仲者︑於待賢 門見物︑於車者送二置皇后宮下仕一︑罷帰間︑不レ知二案内一牛飼遣入二陣中一被レ加二制止一間︑依レ欲レ損レ車︑為レ陳二子細一進二出車一了也︑全自レ本不レ乗之由所申也︑件事任二実正一可レ申者﹂︵中略︶然而為後可レ成レ徒︑仍 内々加二諷諫一︑不二慥見一之由所レ令レ申也︑
とある︒この記事を解読する石田豊のまとめを借りれば︑清仲が乗車したまま陣中に侵入し︑安置されていた鳥羽天
皇の御輿に近寄り絡め取られると要領の得ない陳弁をする内容であり︑この清仲の台詞は滑稽味を帯びたものだとい
う︵ 8︒お咎めがほとんどない︑道化的役回りを担う許された者を確かに想像できるが︑それと同時に彼の行為が咎︶
め立てを受けている以上︑背後に潜んでいたであろう滑稽の目的が空回りに終わった話としても位置づけられるに違
いない︒このような例を勘案すれば︑第七五話でも清仲が滑稽の企みの失敗をまき散らしていたとしても不思議では
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶五九 ない︒﹁たき木につきて候﹂﹁此定に候はば︑定使ひを仕り候はばや﹂が手放しにおかしな物言いとは見なせないとし
たら︑この話は︑滑稽な言動に生きようとする清仲の中途半端さ・未熟達が描かれるものと捉えることもできるので
はないだろうか︒
第七四話の﹁陪従はさもこそとはいひながら︑これは世になきほどの猿楽なりけり﹂には︑陪従の滑稽さが宣言さ
れるが︑それは陪従の表現する滑稽のみならず︑陪従という存在の滑稽さが取り上げられた上でのことである︒笑い
を目指す者のうまくいかない滑稽さが逆に照らし出されるのである︒第七四・七五話のように似た話が一対となる話
題は﹃宇治拾遺﹄にもいくつかあるがそれは同一話題を扱っているようでいても︑視点や結果に少なからぬ差が含ま
れている︵
9︒それゆえ︑第七五話の清仲が無条件に滑稽に秀でた者として扱われる必要はないのである︒滑稽な陪︶
従も面白いし︑滑稽に失敗する陪従も面白いのである︒
四︑武正の﹁ずちなき心際﹂
つづいて︑第七五話でも話題になった忠通︑その周辺に登場する人物︑下野武正の話を取り上げてみたい︒第一八
八話は賀茂祭の帰さの際に︑下野武正と秦兼行が美々しく渡るのを藤原忠通が観覧する話である︒もう一度その様子
が見たいと﹁今一度︑北へ渡れ﹂と言う忠通に応えて︑まず兼行が南に渡ったが︑武正はなかなか現れなかった︒時
間をおいて幔幕の上から冠の頂のみを見せて南に渡った武正に︑人々が﹁ずちなきものの心際なり﹂といってほめた
という話︒
この話の出典は﹃古事談﹄六
69
であるが︑次のように改行以降の後半の記述に大きな違いが見える︒六〇 ﹃宇治拾遺﹄では︑武正が南に渡る姿を具体的に示している点︑忠通の発言を人々の称賛とする点が大きく違うと
ころである︒ここで特に後者の部分を検討しなければならない︒﹃宇治拾遺﹄の﹁ずちなき﹂は︑﹁術 ずち無き﹂か﹁筋 すぢ無
き﹂かで︑かつては解釈が割れていた︒﹃古事談﹄からの直接的関係をほぼ認めてよい現状では︑ひとまずは﹁術無
き﹂と考えるべきと思われるが︑そこで問題になっていたのは︑想定される内容ではなく︑宛てるべき語彙にあっ
た︒一般的な﹁術無き﹂の意味合いを当てはめた際に︑ぴたりとはまる訳や理解に至らなかったことに問題があった
ということである︒人々の﹁ほめけり﹂という行為と︑人々の発言の﹁術無き﹂がそのままでは噛み合わないからで
ある︒﹁術無き﹂は︑﹁工夫したり︑対処したりする方法がなく︑困り切ってしまうさま︒どうしたらよいかわからな
くて困る︒なすすべを知らず苦しい︒どうにもやりきれない︒︵﹃日本国語大辞典﹄︶﹂と説明がされるように︑おおむ これも今は昔︑賀茂祭の供に︑下野武正︑秦兼行つかはした
りけり︒その帰さ︑法性寺殿︑紫野にて御覧じけるに︑武正︑
兼行
︑殿下御覧ずと知りて
︑ ことに引つくろひて渡りけり
︒
武正︑ことに気色して渡る︒次に︑兼行又渡る︒おのおのと
りどりにいひ知らず︒殿︑御覧じて︑﹁今一度︑北へ渡れ﹂と
仰ありければ︑又︑北へ渡りぬ︒さてあるべきならねば︑又︑
南へ渡るに︑此たびは︑兼行さきに南へ渡りぬ︒
次に武正渡らんずらんと︑人々待つ程に︑武正やや久しく見
えず︒こはいかにと思ふ程に︑むかひに引きたる幔より東を
渡るなりけり︒いかにいかにと待ちけるに︑幔の上より冠の
巾子ばかり見えて︑南に渡りたりけるを︑人々︑﹁猶ずちなき
ものの心際なり﹂となんほめけりとか︒ ︵﹃宇治拾遺﹄︶ 法性寺殿の御時︑賀茂祭使のに武正・兼行両人
遣はしたりけり︒殿下︑かへさの日︑紫野におい
て御見物の間︑此の両人︑御桟敷の前各けたみて
通りけるを︑﹁猶ほ坐して御覧ぜらるべし︒今一度
北へ罷り渡れ﹂と仰せられければ︑両人北へ渡り
にけり︒兼行は猶ほ又た南へ渡るに︑三ヶ度御覧
じ畢んぬ︒
武正みえざりければ︑いかにと御尋ねの処︑﹁早う
幔の外より南へ通り候ひぬ﹂と申しければ︑﹁猶ほ
武正は術無き者なり﹂と仰せられけり︒︵﹃古事談﹄︶
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶六一 ね否定的な感情を伴う内容である︒にも関わらず︑現行の解釈ではいずれも﹁術無き者の心際﹂に対して﹁たぐいなく気の利いた心遣い﹂︵
10︑﹁なかなか手に負えない︒心にくいばかりの︒﹂︶︵
11などのように︑この語彙自身に肯定的な︶
評価を与えようと苦慮する︒こちらがどうにもならないほどに相手が卓越していると捉えるのだろう︒他の古語には
しばしば見られる︑肯定的意味と否定的意味の両様を持つ言い回しが︑この場合も当てはまるのだろうか︒
﹃古事談﹄の内容も追ってみる必要があるだろう︒﹃古事談﹄では武正が南に渡る姿が描かれることはなく︑すでに
過ぎてしまったのであり︑忠通の命令に対して意に沿わぬ行動をとったわけだから︑この﹁術無し﹂が説明無しにそ
のまま肯定的評価になることはない︒古記録等でも﹁無術﹂という表現が肯定的評価になることはないから︑和式漢
文を中心とする﹃古事談﹄の文体を考えても︑通常の用法から外れるとは思われない︒
﹁しょうがないやつだ︒忠通の意図を解さなかった武正を非難したことば︒﹂︵
12と︑﹁やはり武正は手に負えぬ奴だ︒︶
馬の好きな忠実は武正を軽んじていたが︑振舞いの奇矯と美貌を忠通は許していた︵渡辺晴美︶︒﹂︵
13という﹃古事談﹄︶
注釈書の説明も︑基本的には﹁術無し﹂という語彙自身を肯定的内容には捉えていない︵
14︒けれども︑例えば﹁手︶
に負えない﹂という訳語が﹃宇治拾遺﹄﹃古事談﹄両書の注の中で重なっているように︑論点はこの語が肯定的か否
定的かというものではなく︑この語を発して評する対象者と発信者との関係性なのである︒つまり︑﹃古事談﹄の注
で言えば︑非難と許容という差になる︒対象者への心理的距離によっては︑発信者の発言意図が少なからず変わるの
であるから︑その語彙が一般的に肯定的語彙か否定的語彙かといった判断に全てを委ねることはできない︒一般的な
書記表現としては悪意のあることばが︑口頭表現では状況次第で愛情表現に変わりうるごときである︒
﹃古事談﹄の解釈に戻れば︑﹁猶ほ坐して御覧ぜらるべし︒今一度北に渡れ﹂と言った忠通の命を﹁もう一度北から
渡って見せよ﹂という意に捉えることができなければ︑武正の短慮が非難されることになるだろう︒けれども﹁猶ほ
坐して御覧ぜらるべし﹂という忠通の意向を汲めないほどに武正が短慮であるとは考えにくい︒﹁術無し﹂はやはり
許容や諦念を帯びたニュアンスでとるのが適切である︒なぜならば︑﹃古事談﹄で次話に番えられる︑忠実と武正の
話から武正の人物像が垣間見えるからである︒
六二 ﹃古事談﹄六
70
では︑随身として働いた乱暴狼藉について忠実の使者から尋問された際に︑武正は事件の子細を語らずに忠実の祖父・養父の師実から認められたことを語る︒結果︑忠実が訴訟を回避するよう手を回すことになっ
た︒﹁忠実にとって師実は絶対的な敬愛の対象で︑その師実恩顧のことを述べて武正は言い逃れを策した︒﹂﹁許すほ
かなかった﹂︵
15というように︑武正は忠実の急所を握っていたのであり︑前話で言えば︑忠通が自分を追求しきれな︶
いことを見越した武正の行動が描かれると捉えることができるのである︒武正の行動の真意については想像するより
ないが︑﹁北に渡れ﹂とは言われたが︑﹁南に渡れ﹂とは言われていないのだから自由に振る舞って構わない︑という
ような挑戦的な態度が現れたと考えられる︒そこには主従関係の駆け引きが活写されていると見るべきではないだろ
うか︒忠通は﹁術無き者なり﹂といって﹁手に負えない者だ﹂と武正の扱いにくさを口に漏らすのである︒
﹃宇治拾遺﹄に戻ってみると︑渡辺晴美は﹁ことに気色して渡る﹂に着目して︑彼の歩き方に特徴があったことを 指摘する︵
16︒そして現行の注釈書では︑﹃宇治拾遺﹄に追加された冠の頂を見せたのが﹁渡り﹂の一演出だと理解さ︶
れている︒それは人々が称賛する対象が他に見当たらないからであったろう︒従来の理解では﹃古事談﹄の内容と
﹃宇治拾遺﹄の内容は同話を扱いながら大きく異なるものであった︒﹃古事談﹄で︑主人の意をあえて汲まずに平然と
する武正に﹁術無き者なり﹂と忠通が言ったものと理解するなら︑同様に﹃宇治拾遺﹄では︑主人の意を汲まずに見
せつけるように平然と行動する﹁術無き﹂武正に︑驚きと感嘆の声をあげたと解すことができる︒言い替えるなら︑
武正以外には許されない行動を決行した剛毅に対する感嘆であり︑それは忠通と武正の普通とは異なる主従関係を前
提として生まれた感嘆である︒﹃宇治拾遺﹄が追加した︑冠の頂だけを見せて幔の外を渡る行為が︑激賞を受けるよ
うな﹁渡り﹂の演出と言えるのかといった疑問は措いても︑期待を外し唸らせる効果を持ち合わせたことは確かであ
る︒﹁なほ術無き者の心際なり﹂とは﹁なかなか手に負えない者の心の持ちようはやはり違う﹂ということである︒
﹁渡り﹂を見せるのではなく︑﹁渡り﹂を見せぬことを見せつけるのが︑この場面なのである︒﹁ずちなし﹂という否
定的なことばで肯定的な結果を得る武正が本話のハイライトであるのではないかと思われる︒
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶六三 五︑﹁わりなきものの様体﹂の武正 以上のような武正の特殊性は︑他の説話集に語られる武正像と重ねても食い違うところがない︒﹃古今著聞集﹄巻
十六
513
では︑藤原忠通の発言の言葉尻を捉えて土地を横領してしまったり︑競馬で負けても勝者が祝盃を受ける中に混じったりと﹁武正ならざらんもの︑かやうの事してんや﹂と評される人物であった︒武正はしばしば評価を反転さ
せるすべを持つ者であり︑それがことばの意味を覆すところでもしばしば表れるのである︒
一八八話で描かれる武正の話題については︑同じ武正の話で共通する部分がある︒武正に関わることばがどこか違
和感があるものである︒
六二話は︑忠通の家司たちの話で︑所司が中心人物である︒前半では﹁ありやう﹂という語から相手に足払いをか
けるような話である︒後半のみ原文を示しておく︒
又︑此所司がゐたりけるまへを︑忠恒といふ随身︑ことやうにて︑ねりとほりけるを見て︑﹁わりある随身のす
がたかな﹂と忍びやかにいひけるを︑耳とく聞きて︑随身︑所司が前に立帰て︑﹁わりあるとは︑いかにのたま
ふ事ぞ﹂と︑とがめければ︑﹁我は人のわりのありなしも︑え知らぬに︑ただいま武正府生のとほられつるを︑
この人々︑﹁わりなきものの様体かな﹂といひあはれつるに︑すこしも似給はねば︑さてはもし︑わりのおはす
るかと思ひて申したりつるなり﹂といひたりければ︑忠恒︑﹁をう﹂といひて︑逃げにけり︒この所司をば﹁荒
所司﹂とぞつけたりけるとか︒
所司よしすけは︑通りがかった随身の忠恒に﹁わりある随身のすがたかな﹂と漏らす︒その真意を忠恒が確かめたと
ころ︑﹁わりなきものの様体かな﹂と人々が言い合っていた様子とはまったく違うので︑これは﹁わりある﹂だと思
六四
ったとよしすけが答えて︑忠恒をたじろがせる話︑それが後半の内容である︒
渡辺晴美はこの﹁わりなし﹂を取り上げて正負どちらの意味合いであるかを検討している︒﹁彼のこれから話す内
容が忠恒を先鋭的に挑発するものではないことを示していよう︒﹂として
武正に向けられた﹁わりなし﹂の語は負の意味合いの言葉となるのである︒武正の歩き方︑その姿恰好は妙に媚
を売った鼻持ちならないどうにもしようのないものだという意味で﹁わりなし﹂と使われたのであろう︒︵中略︶
しかし︑このような武正が突出すればする程︑やっかみにも似た反発が起こったのではないだろうか︒それが
﹁わりなきもののやうだいかな﹂という蔵人所の人々の感想としてここに現れてきたものと思われる︒
﹁わり﹂があるといって褒められたはずの忠恒が﹁をう﹂と言って逃げたのは︑よしすけにはそう見えていなかっ
たが︑﹁忠恒は武正をひたすら真似しようと努力して︑もしかしてある程度までは彼の努力は成功していたかもしれ
ないからではないだろうか﹂と指摘する︵
17︒よしすけの発言は﹁忍びて﹂というものであるが︑これは相手に聞こ︶
えることを重々承知した上でのことであったと思われるから︑ほめたけれどもそれが相手に伝わらなかったという話
では︑よしすけが﹁荒所司﹂と呼ばれたいきさつを語る話全体にそぐわない︒結論には賛同しかねるが︑次に挙げる
重要な指摘は見逃せない︒
よしすけの発する﹁わりなし﹂﹁わりある﹂のことばの意図には︑人々の発言の真意︑忠恒の受け取り方との間に
差があるという可能性である︒よしすけの﹁わりある﹂と忠恒の﹁わりある﹂の受け止め方に差があるという見解で
あったが︑ポイントを左の表を見ながら考えてみたい︒
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶六五 単純な確認をしておこう︒忠恒が逃げたことを考えると︑忠恒は﹁わりある﹂を否定的な内容として受け取った︒結果として﹁わりなし﹂を肯定的内容として捉えたことになる︒けれどもそれは︑人々が武正を評した語であったためのことであった︒渡辺晴美の指摘に従えば武正は︑美貌の随身であり︑独特の歩き方をする人物だった︒武正が﹁鼻持ちならない﹂かどうかは本文から知るよしもないが︑武正がどのように評価されていたかは窺える︒武正を見る目が﹁この人々﹂と忠恒で異なる可能性を否定しきることはできないが︑﹁ことやうにて︑ねりとほりける﹂忠恒を見
て︑よしすけが皮肉を言うことはあっても褒めることはないだろう︒そう考えると人々の﹁わりなし﹂は肯定的内容
として捉えるしかない︒
よしすけが﹁我は人のわりのありなしもえ知らぬ﹂とそらとぼけている部分にやはりこの説話の肝がある︒渡辺晴
美が指摘するように﹁わりなし﹂は一般的には否定的内容を意味するのであるから︑その逆なら肯定的な内容になる
はずである︒﹁わりあるとはいかにのたまふ事ぞ﹂とは︑﹁ねりとほりける﹂忠恒の自意識によって肯定的内容を期待
して発せられたことばであると思われる︒しかし実際にはそうではなく︑期待を外された︒先ほどの表を改めて埋め
てみよう︒ 人々よしすけ忠恒
わりなし
A
B
正
わりある
B!
負
人々よしすけ忠恒
わりなし正負?正?負 正
わりある正?︵負︶︵正↓︶負
六六 ﹁わりのありなし﹂がわからないのだから﹁わりなし﹂﹁わりある﹂の正負の断定ができない︒一見肯定的に見える
造語を以て︑忠恒に投げかけるのである︒むろんそれが忠恒に痛打を与えるのは織り込み済みであった︒﹁わりある﹂
は武正を介して負の意味になるのである︒当然︑語彙の上では否定的ではないのだから︑表面上︑よしすけが忠恒を
過激に挑発している図にはならない︒﹁わりなし﹂は無条件に肯定的内容になる語ではない︒
したがって︑これらの話を武正を軸にして捉え直せば︑﹁武正を見る目﹂は肯定的であるがその評価に用いられる
のは本来否定的な意味が強い語であった︑ということになるだろう︒そこをよしすけがうまく利用して︑反撃できな
い皮肉を浴びせたのである︒武正の存在があって初めて明らかになる皮肉である︒武正はことばの意味を反転させる
存在として現れるのである︒
六︑揺らぐことば
武正の姿を﹃宇治拾遺﹄は他にも描いている︒第一〇〇話は︑大風・大雨で京中の家が破壊の害を被った際に︑武
正が異様な姿で走り回って何かをし︑それを目撃した忠通が﹁あさましく﹂思って馬を下賜するという話である︒こ
こで描かれる武正の振る舞いは︑赤みがかった服を着ていることからも何らかの邪気を払う呪的な行為と思しい︒さ
らにこの後︑馬を下賜されるから︑一般的な行為ではなく特別視されたための結果であることは疑いない︒武正の行
動は肯定的に捉えられているが︑忠通はなぜ褒美を与えたのであろうか︒そもそも褒美なのだろうか︒武正は﹁大か
た︑その姿︑おびたたしく︑似るべきものなし﹂と評されるのであるが︑これを忠通は﹁あさましく﹂感じるのであ
る︒一般的ではないけれども呪的行為と察しがつくため︑その異様なる仰々しさに︑驚愕感嘆したということであろ
うか︒ ここでも問題となるのは﹁あまさし﹂という正負両様の意味を持つ語である︒行為の意味を特定できるだけの直接
的材料がない限り話の十分な把握はできない︒けれども︑呪的行為であったとしても結果を伴う以前の話なのだか
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶六七 ら︑無条件に感嘆につながるというのもいささか解せない︒馬を下賜するという行為は︑武正の行動に決着をつけるものであり︑彼の行動を終わらせることになる︒異様なる仰々しさに︑呆れて驚いた忠通が︑武正に屈して馬を下賜して︑異様な恰好をやめさせたとは捉えられないだろうか︒これは仮説の域を出ないけれども︑行為と評価のずれる武正の話としてみれば︑問題が起きない︒武正は否を以て肯定的評価を下されるような希有な人物であったのであ
り︑ことばや常識をねじ曲げる力を持っているのである︒
清仲︑武正︑彼らの行為を許された者の行為として把握したとき︑行動と評価は一般的表現では全うに噛み合わな
い︒正負を評することばは機能しない︒このようなことばの不安定を語るものとして︑これら四話は﹃宇治拾遺﹄の
中に位置づけることができるのではないだろうか︒逆に﹃宇治拾遺﹄が武正を好んで取り上げる理由も︑揺らぐこと
ばを扱う話柄にあるのではないだろうか︒﹁いみじ﹂﹁あさまし﹂は正負に揺れる語彙でもあり︑﹁ずちなし﹂﹁わりな
し﹂の意味は反転して境界を行き来する︒
以上のことは︑﹃宇治拾遺﹄全体とも通じるものである︒名指す語が孕む二重性でいえば例えば第四六話︑尾張守
として赴任した橘俊綱の怒りに触れて︑勢威をほこった熱田神宮は召し籠められてしまったが︑それは俊綱の先世か
らの宿縁であったという話︒
人の悪心はよしなき事なり︒
は︑その評語である︒一見すると︑登場人物の起こした悪心がつまらないことを引き起こす︑あるいはつまらないこ
とによって悪心が生じるものだと説く評語と見える︒けれどもその悪心は過去の因縁という﹁よし﹂あるものなので
ある︒﹁よし﹂あるものは﹁よしなし﹂と断じられる︒こうして評語自身が自らにひびを入れるようにして配置され
るのであった︒﹃宇治拾遺﹄がことばの揺らぎを意図するならば︑話自体が抱えていたことばの揺らぎを見過ごすこ
とはないのである︒
六八
※本文引用の資料出典は以下に依った︒なお︑私意により一部︑句読点︑表記などを改めた箇所がある︒﹃宇治拾遺物語﹄﹃古事
談﹄⁝新日本古典文学大系︑﹃古今著聞集﹄⁝新潮日本古典集成︑﹃太平記﹄﹃平家物語﹄⁝日本古典文学大系︑﹃源平盛衰記﹄⁝中
世の文学︑﹃中右記﹄﹃長秋記﹄⁝続史料大成︑﹃明月記﹄⁝国書刊行会︒
注
︵
1︶ 伊東玉美﹁﹃宇治拾遺物語﹄の邸宅譚をめぐって﹂︵﹃共立女子短期大学文科紀要﹄
41︑一九九八年一月︶は︑﹁権威ある邸の
内部の者︵関係者︶が邸︵亭主︶の権威を揺るがしかねない事態が起こり︑人々は珍妙な侵犯者の不敵な行動に︑一種痛快な
笑いを催されたのだろう︒﹂と述べ︑清仲の行為は﹁不逞の輩﹂としての認知にその目的があったと考える︒
︵
2︶ 小峯和明﹃宇治拾遺物語の表現時空﹄
3﹁方法としての︿猿楽﹀﹂︵一九九九年︑若草書房︶︒
︵
3︶ ﹁たき木につきて候﹂は︑新日本古典文学大系﹃宇治拾遺物語古本説話集﹄︵岩波書店︑一九九〇年︶の脚注が﹁諸注﹁薪
に尽きて﹂と解するが︑﹁薪に付きて﹂で︑建物の材を薪に見立て︑宮は不在だがこれについて伺候しているとおどけたもの
か︒﹂とする説明を参照すれば︑﹁宮のかわりに薪についておりますが︑薪も尽きてこのように焚いておりました﹂といった解
釈でも構わないのではないだろうか︒
︵
4︶ 石田豊﹁﹁陪従清仲﹂考│﹃宇治拾遺物語﹄第七五話の人物の考察﹂︵﹃二松学舎大学人文論叢﹄
68︑二〇〇二年一月︶︒
︵
5︶ 関宦市﹁ゑつぼ︵咲壺・笑壺︶の語源について﹂︵﹃鶴見女子大学紀要﹄
1︑一九六三年一一月︶︒
︵
6︶ 網野善彦﹁高声と微音﹂︵﹃ことばの文化史中世Ⅰ﹄所収︑平凡社︑一九八八年︶︒
︵
7︶ 伊東玉美注︵
1︶論文︒
︵
8︶ 石田豊注︵
4︶論文︒
︵
9︶ 野本東生﹁宇治拾遺物語の改編と指向│第一七四・一七五話をめぐって│﹂︵﹃古代中世文学論考﹄第十八集︑二〇〇六年一
〇月︶︒
︵
10︶ 新編日本古典文学全集﹃宇治拾遺物語﹄︵小学館︑一九九六年︶の現代語訳︒
︵
11︶ 注︵
3︶新日本古典文学大系﹃宇治拾遺物語古本説話集﹄の脚注︒
︵
12︶ 古典文庫﹃古事談﹄下︵現代思潮社︑一九八一年︶頭注︒
︵
13︶ 新日本古典文学大系﹃古事談続古事談﹄︵岩波書店︑二〇〇五年︶脚注︒
宇治拾遺物語の清仲・武正︵野本︶六九 ︵ 14︶ ﹃新注古事談﹄︵笠間書院︑二〇一〇年︶の頭注では﹁一筋縄ではいかないあっぱれな奴だとの感慨﹂とするが︑これは﹃宇
治拾遺﹄から逆算した勇み足の解釈ではないだろうか︒
︵
15︶ 注︵
13︶新日本古典文学大系﹃古事談続古事談﹄の脚注︒
︵
16︶ 渡辺晴美﹁下毛野武正考│随身説話への再検討│﹂︵﹃国語と国文学﹄
62│ 3︑一九八五年三月︶︒
︵
17︶ 渡辺晴美注︵
16︶論文︒以下の言及も同論文︒鎌倉時代になると﹁わりなし﹂は︑とくに和歌の文脈などで︑肯定的に用い
られる例が目につくようになる︒