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客家文化考 : 衣・食・住・山歌を中心に

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客家文化考 : 衣・食・住・山歌を中心に

著者 周 達生

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 7

号 1

ページ 58‑138

発行年 1982‑03‑31

URL http://doi.org/10.15021/00004483

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国立民族学博物 館研究報告  7巻1号

客 家 文 化 考

衣 ・食 ・住 ・ 山 歌 を 中 心 に ・

周 達 生*

Hakka Culture, with Special Reference to the Material Culture in Mei Prefectural District and Longyan District, People's

Republic of China

ZHou Dasheng [Chou Ta-sheng]

This paper reports on a study of the culture of the Hakkas, based on the surveys made in Mei Prefectural District (Guangdong [Kwangtung] Province) in 1979 and 1980, and in Longyan District (Fujian [Fukien] Province) in 1980.

The Hakka (lit. "the Guest Family") people began migrating southwards from the Central Plains (i.e., the middle and lower reaches of the Huanghe or Yellow River) at approximately the time of the disruptions and great migrations, starting in the Three King- doms era (220-280 A.D.), continuing through the Jin [Chin]

Dynasty (265-420 A.D.) and ending in the Northern and Southern Dynasties (420-589 A.D.). After several group migrations the Hakkas arrived in their present-day main areas of residence, in southern Jiangxi [Kiangsi] Province, northeastern Guangdong Province, and western Fujian Province. Smaller groups of Hakka reside in other districts of Guangdong Province, Guangxi [Kwangsi], Zhuang [Chuang] Autonomous Region, Sichuan [Szechwan]

Province, and Taiwan Province, among other areas.

My fieldwork on Hakka culture, together with the research of other scholars, in addition to demonstrating that the forms of pro- nunciation of the language spoken in the ancient Central Plains are still used in the present-day Hakka language, also revealed that, for example, some characteristics of the Northern culture are conti- nued in the structure of the traditional Hakka house, and that besides their strong preference for rice, the "Mountain Songs" of the Hakkas

*国 立民族学博物館第1研 究部

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周  客家文化考

have been influenced by the Southern culture of the districts into which they migrated.

The mixture of Northern and Southern Chinese cultural ele- ments is a characteristic feature of Hakka culture. However, the cultural elements shared between the Hakkas and the Han exceed those peculiar to the Hakka alone, thus permitting the conclusion that Hakka culture is just one of many local cultures which compose the Han culture. There are few cultural characteristics that can be used to distinguish the Hakkas as a nationality independent of the Han.

NOTES :

1. Chinese proper nouns are Romanized according to the Pinyin system.

2. Romanization in the Wade system is given in brackets.

は じめ に

1.「 客 家 とは何 か 」 を め ぐって 皿.客 家 研 究 の概 略

皿.客 家 の 文 化   1.衣

  2.食   3.住

4.山   歌 む す び

は じ め に

  本 稿 は,1979年 の 中華 入 民 共 和 国広 東 省 梅県 地 区,お よ び,1980年 の 同地 区 と福 建 省 竜 岩 地 区 にお け る調 査 と,こ れ ま で に発 表 され た諸 資料 とに基 づ き,客 家 の文 化 に 対 して,考 察 を 加 え よ うとす る もの で あ る。

  「 客 家 と は何 か 」 と い うこ とに つ い て は,後 述 す る こ とに な るが,ひ とま ず 客 家方 言 を話 して い る人 々の分 布 域 だ けを 見 る とす れ ば,い わ ゆ る華 僑(外 国 に居 住 す る中 国 人)ま た は華 人(居 住 国 に帰 化 した 中 国 系住 民)と して,中 国か ら海 外 へ 流 出 した 人 々を除 くと,そ の主 要 分 布 域 は,広 東 省東 北 部,福 建 省 西部,江 西 省 南 部 で あ り, そ れ と,広 西 チ ワ ン族 自治 区,湖 南 省,四 川 省,台 湾 省 の それ ぞ れ一 部 な どで あ る。

  行 政 区で い えば,広 東 省東 北 部 は,梅 県地 区 で あ り,福 建 省 西部 は,竜 岩 地 区 で あ る。 梅県 地 区 に は,梅 県,豊 順県,平 遠県,五 華県,蕉 嶺 県,興 寧 県,大 埴 県 の7県 が あ り,竜 岩地 区 に は,竜 岩県,武 平 県,上 杭県,連 城県,永 定県,譚 平 県,長 汀 県 の7県 が あ る。

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      国立民族学博物館研究報告  7巻1号   もと よ り調 査 は,客 家方 言 を 話 す 人 々の分 布 域 の全 域 にわ た るの が理 想 と い う もの で あ ろ うが,今 回 は,上 記2地 区 の調 査 しか行 な って い な い。 した が って,本 稿 は, 発 表 さ れ た諸 資 料 で も って補 強 され る こ とは あ って も,あ くまで も初歩 的 に考 察 を 加 え た だ けで 報 告 させ て いた だ く もの と な る。今 後,さ らに他 地 域 を 調 査す る こと にな れ ば,お そ ら く修 正 せ ざ るを得 な い部 分 が 少 な か らず 出て くるで あ ろ う。

1.「 客 家 と は 何 か 」 を め っ ぐ て

  客 家 は,結 論 を 先 に い え ば,漢 族 なの で あ る が,少 数 民 族 の1つ だ と誤 認 され る こ とが しば しば あ る。

  日本 在 住 の華 僑 の あ る機 関紙 に,「 客 家(中 国 の少 数 民 族)… … 」 と して あ る のが あ った が,こ れ は,そ の編 集 者 が,日 本 に居 住す る華 僑 で あ るか ら,本 国 の事 情 に う乏 く,そ の た め誤 認 した か とい うと,そ れ も理 由 に な るか も知 れ な いが,誤 認 す るの は, 華僑 だ け と は限 らな い。

  解 放 後 の 中 国で も,そ の よ うな誤 認 が あ り,問 題 に され た こ とが あ った。

  1957年,中 国 科学 院歴 史 研 究 所 ・北京 大 学 歴 史 系合 編 『 中 国史 学 論文 索 引』 が,科 学 出版 社 か ら刊 行 され て い るが,こ の 索 引 で は,「粤西 北郁 客 方 言」,「審 査 客 家 方 言 報 告 書 」,「述 客 方言 之 研究 者 」 な どの 論文 を,「 少 数 民 族語 文 」 の項 目 に分 類 し,「 客

地図1  広 東  省 全 図

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周  客家文化考

族 源 流 考 」,「客 家 研 究」 な ど の客 家 研 究 に 関す る論 文14篇 を,「 各少 数 民 族 史 」 の 中の 「 南 方 及 東 南 沿 海民 族 」 の 小項 目に分 類 し,批 判 され て い る[因 夢  1958:裏 表 紙]。

  なぜ この種 の誤 認 が 起 こ るか とい え ば,後 述 の侮 蔑 す るた めに,わ ざ わ ざ 客家 を少 数 民 族 と した の を 別 に す れ ば, そ の原 因 は2つ あ る。1つ は,少 数民 族 の 名 称 に は,「 家」 が 付 くもの が い くつ か あ った か ら,そ れ に よ る連 想 か らで あ る。 た とえ ば,  トゥチ ャ 族 の

地図2  梅 県 地 区 全 図

「土 家 」 は,今 日 で も 「家 」 が 付 い て い る が,昔 の 少 数 民 族 の 名 称 に は,ま だ い くつ か 「家 」 の 付 くの が あ った 。 ス ィ 族(水 族)の 「水 家 」,プ ィ 族(布 依 族)の 「仲 家 」,

ペ ー 族(白 族)の 「民 家 」 が そ の 例 で あ る 。 も う1つ は,漢 族 内 部 の ち が い に つ い て

地図3  福 建 省 全  図

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国立民族学 博物 館研究報告  7巻1号

地図4  竜 岩 地 区 全 図

の 呼 称 は,地 域 に よ って,た と え ば

「北 京 人 」,「上 海 人 」,「広 東 人 」,「福 建 人 」 な ど と 命 名 さ れ る の に,客 家 の 場 合 の 「客 家 人 」 は,こ の 地 域 に よ る 命 名 法 の 原 則 に よ って い な い か ら で あ る 。 「客 家 人 」 の 場 合 の 「客 家 」 は, 地 域 を 示 す の で な く,後 述 す る よ う に, 異 な る概 念 に よ って で き て い る の で あ

る 。

  解 放 以 前 は,こ の よ う な 原 因 に よ る 誤 認 だ け で な く,客 家 を 侮 蔑 しよ う と し た 人 々 の 書 い た もの な ど に よ り,客 家 を 少 数 民 族 な の か と 印 象 づ け られ た 場 合 もあ った だ ろ う。 それ は,同 じ漢 族 で あ って も,封 建 思 想 の 産物 と して の 地 方 的 宗 派 主 義 が あ り,当 時 蔑 視 され て いた 少数 民 族 を もちだ し,そ れ と客 家 を結 び付 け る こ と に よ って,客 家 を侮 蔑 しよ うとす ると こ ろか ら起 こ って い る。客 家 を少 数 民 族 と の雑 種 で あ る と した り,当 時 多 くの少 数 民 族 に け もの 偏 を 付 けた 字 を作 って いた の と 同 じよ う に,客 家 に対 して は 「徭家 」 とか 「 犯 家 」 と書 いた り した 。

  解 放 後 は,中 国 は,中 国を 統 一 的 な 多民 族 国家 で あ る と規 定 して,各 民 族 の平 等 と 団 結 を説 く民 族政 策 を実 施 した 。 そ の た め,旧 来 の大 民 族 主 義 で あ る 「 大 漢 族 主 義 」 は否 定 さ れた の で あ るが,同 時 に,狭 隆 な 民族 主 義 で あ る 「 地 方 民 族 主 義」 も否定 さ れ た[周   1980a]。 そ の影 響 で,少 数民 族 を蔑 視 す る こ と は,江 青 な ど の い わ ゆ る

「 四 人 組 」 の 時 代 は別 と して,許 され な くな った。 だか ら,客 家 に対 して,故 意 に少 数 民族 と の 関係 を も ちだ し,侮 蔑 す る こ と も,そ の前 提 が意 味 を な さな くな った の だ。

  しか し,そ の よ うな,は じめ か ら特 殊 な 意 図 で も って客 家 を少 数 民 族 視 す る とい う の で な く,少 数 民 族 の 名 称 に 「 家 」 の付 くの が い くつ か あ るた め,客 家 は少 数 民 族 だ

と思 い こん だ り,他 の漢 族 の 場合 は,地 域 名 に よ って 漢族 内 の ち が いが いわ れ て い る の に 対 して,客 家 だ けが そ うで な い の に基 づ き,客 家 を少 数 民 族 だ と思 い こん だ りす

る こ と は,す で に述 べ た よ うに,解 放 後 もあ った わ けで あ る。

  そ の 例 は,『 中国 史 学 論文 索 引』 の 場合 に 限 らな い。 た と えば,中 国共 産党 機 関紙 で あ る 『人 民 日報 』 に お いて す ら,そ の よ うな例 が あ った と い う[因 夢   1958:裏 表 紙]。 そ れ は,朝 鮮 戦 争 の頃 で,『 人 民 日報 』 は,天 安 門 に お け る 「 抗 米 援 朝運 動 」 の

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周  客家文化考

集 会 につ いて の消 息 を,新 華 社 の報 道 に 基 づ い て発 表 した ので あ るが,そ の 中 に 「 客 家 族 」 の代 表 が か くか く話 した と あ り,そ の 数 日後,『 人 民 日報 』 は,少 数 民 族 中 に

は客 家 族 な る もの は な い と して,既 発 表 の 記事 の誤 りを訂 正 した ので あ る。

  と こ ろで,李 有 義 に よ れ ば,お そ ら くこの 「 抗 米 援 朝 運 動 」 の集 会 の ことだ と思 わ れ る が,客 家 の人 々 自身 が 少 数 民 族 の 隊 列 に加 わ って いた とい う[李 有 義  1980:48‑

59]。

  そ れ は,"1950年 の北 京 に お け る あ るデ モ行=進に お いて,客 家 の 人 々が,「 客 家 人」

の 旗 を 立 てて,少 数 民 族 の隊 列 に加 わ って いた けれ ど も,そ の後,か れ ら は少 数 民族 で な く,漢 族 の一 部 を 構 成 す る もの だ と い うこ とが,す み や か に判 明 した"と い う も の で あ った。

  李 有 義 は,さ らに こ うつ づ け て い る。"東 南 沿海 一 帯 の 水 上 居 住民 は,歴 史 の上 で は早 くか ら 「 螢 民 」 と して記 載 され て お り,蔑 視 さ れ,賎 民 あつ か い され て もいた が, か れ ら は確 か に水 上 で 生 活 を 送 り,漁 業 に従 事 し,そ れ 自 身 の社 会 組 織 と特 殊 な風 俗 を もち,内 婚 集 団 を作 って はい るが,民 族 識 別 を 行 な った結 果 判 明 した の は,別 の単 一 民 族 で は な く ,や は り漢 族 の 一部 を構 成 す る もの で あ った 。 ただ,か れ らは水 上 で 生 活 を 送 って い た の で,「 水 上 居 民 」 と い う呼 称 もあ るの で あ る。 しか る に,客 家 と, この 「 螢 民」 につ いて,中 国以 外 で は,し ば しば そ れ を 「 民 族 集 団 」 とす る こ とが あ り,民 族 とい う概 念 が,国 に よ って,必 ず しも一 致 して い な い よ うで あ る"と して い

る。

  確 か に,日 本 で も客家 を特 別 視 して い る人 々が い るよ うで あ る。

  中嶋 嶺 雄 は,"去 る6月 中〜 下 旬 に か けて の訪 中 は,公 的 には,中 国 の都 市行 政 を 調 査 す る と い う 目的 を もち,中 国研 究 者 と して の私 個 人 と して は,こ の機 会 に,私 自 身 が 中 国 に関 して,な お疑 問 を残 して い る問題 点,た とえ ば 回 民(漢 人 化 した イ ス ラ ム教 徒)の 生 活 動 態 や客 家 と い う特 殊 な エ ス ニ ッ ク ・グル ープ の 今 日の 中 国社 会 で の 位 置づ け,冠 婚 葬 祭 と くに葬 儀や 墓 お よび 祖 先 信 仰 の実 態 … …を さ らに詳 し く知 りた

い とい う 目的 を も って 訪 問 した の で あ る"と 書 い て い る[中 嶋  1980:172‑183]。

  中 嶋 の い う 「エ スニ ック ・グ ル ー プ」 は,客 家 を,単 一 の民 族 と して,漢 族 以 外の 民 族 だ とい って い るの か ど うか,こ れ だ けで は よ くわか らな いが,こ の程 度 の表 現 で

も,中 国 で は,国 外 の 学 者 は客 家 を 「 民 族 集 団 」視 して い る,と 思 い が ち で あ る。

  と こ ろで,既 述 の よ うに,解 放 当初 で す ら い さ さか 混乱 の あ った 客 家観 に対 して, な ぜ 客 家 は漢 族 の一 部 を 構 成 す る ものだ と い う こ とに な った のか を,な ん らか の形 で 発 表 した もの が あ るか と い えば,そ れ は寡 聞 に して 知 らな い。

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国立民族学博物館研究報告  7巻1号   そ れ はさて お き,客 家 は,漢 族 を構 成 す る一 部 で あ るに ちが い な い と して も,漢 族

は,中 国人 口 の ほ とん どを 占め る民 族 で あ り,そ の居住 範 囲 は広 域 にわ た って お り, 居 住地 方 が異 な る と,異 な る文 化 もあ る はず だ か ら,そ の 意 味 で の客 家 研 究 とい う も

のが,成 立 しな い はず はな い 。 しか し,実 の と こ ろ は,客 家 の 山歌 な どが,民 間歌 曲 の研 究 の一 部 を なす こ と,方 言研 究 に客 家 方 言 が,組 み こま れ て い る こ と,そ の他 ご く限 られ た場 合 の もの を 除 くと,ト ー タル と して の 客 家文 化 の研 究 と い う もの は,ど う も行 な われ て い な い よ うで あ る。

  た とえ ば,中 国社 会 科 学 院 民族 研 究 所 の 場 合 は,研 究 対象 は少 数 民 族 にな って い る。

「民 族 」 を 冠 す るな ら,当 然 漢 族 の研 究 も含 まれ て よ さ そ うで あ る けれ ど も,現 状 は そ うな って は い な い。 これ に 対 して,疑 問を 提 出 した こ とが あ るが,た とえ ば,中 央 民 族学 院民 族 研 究 所 の 林 耀 華 の場 合 は,個 人 的 意 見 と して は漢 族 を も対 象 に す べ き だ

とい って は い るが,大 勢 はそ う理 解 して い な い 。

  で は,漢 族 に つ いて はど こで研 究 す るか と いえ ば,言 語 的 研 究,建 築 学 的研 究 な ど, 分 野別 に異 な る所 で 研 究 され て お り,民 族 学 的 研究 に近 い もの と して,し い て い うな

らば,そ れ は中 国 社 会 科 学院 歴 史 研 究 所 で あ る こ とに な る。 しか し,歴 史研 究 所 で の 研究 とい う もの は,当 然 の こと な が ら,民 族 学 的 硬究 そ の もの と はな らな い 。   この辺 の と こ ろが,や は り,国 外 研 究 者 に対 して,も うひ とつ す っき り しな い 印象 を 与 え る こと に な って い る。

  林 耀 華 の 場 合 は,目 下 の緊 急 を要 す る民 族 学 の仕 事 の1つ と して,漢 族 の研 究 を挙 げ て い る。 か れ に よ る と,"漢 族 は 中 国 にお いて主 体 を なす 民 族 で,全 人 口の94%

を 占 め,か な り豊 富 な 歴史 につ いて の記 載 の蓄 積 が あ る けれ ど も,漢 族 を1民 族 と し て見 た場 合 は,そ の民 族起 源 の問 題 民 族 形 成 と発 展 の問 題 な ど,ま だ ま だ今 後 の研 究 を行 なわ ね ば な らな い 分 野 が あ る。50年 代 にお いて は,漢 族 の 起 源 につ いて,討 論 さ れ た ことが あ った け れ ど も,そ の後 は継 続 され て お らず,そ れ だ けで な く,民 族 学 研 究 の対 象 と任 務 か らい え ば,漢 族 に関 す る研 究 で,今 日まで 展 開 され た こ と が な い が,必 要 とす る項 目 は,ま だ まだ 多 くあ る。 た とえば,漢 族 居 住 区 に お け る人 民 の生 活 と文 化 の 変 化(特 に,解 放 後 に発 生 した 急 激 な 変 化),家 庭 史,民 俗 学,お よ び, 海 外 に居 住 す る数千 万 の華 人 の歴 史 と現 状 の研 究 な どで あ る。 欧 米 の民 族 学 の 場 合 は, 少 数 民 族 に つ い て の研 究 だ け に限 定 され て い な い。 た とえ ば,ソ 連科 学 ア カデ ミー民 族 学 研 究 所 で は,ロ シア人 の研 究 に従 事 す る メ ンバ ー の数 が 最 も多 く,研 究 範 囲 も ま た広 い。 だ か ら,わ れ わ れ は,こ う い う面 に注 目す べ きで あ る"と い って い る[林 耀 S…  1981:48‑55]0

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周  客家文化考

  した が って,客 家 に 限 らな いが,漢 族 す べ て に共 通 す る文 化 以 外 に あ る,異 な る地 方 文 化 を背 負 うで あ ろ う漢族 内 の諸 グル ープ に 対 して も,い ず れ研 究 す る こと に な っ て くる と思 わ れ る。

  だ が,そ れ は,林 耀 草 の よ うな問 題 の 提 起 が あ った と して も,残 念 なが らそ う早 急 に行 なわ れ は しな い,と も思 わ れ る。 と い う の は,中 国 は,表1に 示 す ご と く,現 在 公 認 され て い る民 族 だ けで も,56の 多 数 を数 え る こ とが1つ の理 由で あ る。 も う ユつ は,民 族 識 別 の 研究 が,ま だ 継 続 中 で あ り,そ の対 象 とな って い る 「 ○ ○ 人 」 と呼 称 さ れ て い る集 団 が,表2に 示 す ご と く,や は り多 数 を 数 え る こ とで あ る。 これ ら の集 団 は,今 後 の研 究 によ って,あ るい は新 た な単 一 民 族 と して 公 認 され る可 能 性 もあ る が,あ るい は現 在 公 認 されて い る民 族 の ど れ か に帰 属 され る可 能 性 もあ るの で あ る。

さ らに も う1つ は,こ の公 認 され て い る少 数 民 族 と,民 族 識 別 を 行 な わ な けれ ば な ら な い集 団 を対 象 と して,研 究 を行 な うメ ンバ ーな の で あ るが,「 四 人 組 」 に よ る後 遺 症 は,消 滅 させ る に は まだ か な り時 間 を 要 す る よ うで あ り,質 の点 で も,量 の点 で も,

まだ 不 足 して い るか らで あ る。 この方 面 の 研 究 を 行 な う上 で,最 も中心 的 な存 在 とさ れ て い る中 国社 会 科 学 院 民 族研 究 所 の場 合 を 見 る と,「 四 人 組 」 粉 砕 後,中 央 民 族学 院 のキ ャ ンパ ス 内 で,そ の建 物 の1つ を借 用 した 形 で 復 活 した の で あ る が,現 在 そ の 研 究 員 のす べ て(約200人)が 出 て き た とす る と,坐 わ る余 地 が な く,ほ とん ど は 自 宅 研 修 の形 で 研 究 させ られ て い るの で あ る。 した が って,そ の 研究 の範 囲 を 広 げ るま

で に は,ま だ まだ 時 間が か か る よ うに思 わ れ るので あ る。

  さて,次 は,唐 突 で あ る よ うだ が,表2の 中 に含 まれ て い る 「穿 青 人」 を と り上 げ た い。 と い うの は,こ の穿 青 人 につ いて の 知見 を,客 家 の そ れ と対 比 させ れ ば,客 家 の性 格 が,よ り鮮 明 に な るか と思 わ れ るか らで あ る。

  穿 青 人 につ いて は,費 孝 通 の論 文[費 孝 通   1980:147‑162]に よ る とす る。

  穿 青人 は,1950年 の 費 孝通 ほか の調 査 に よれ ば,言 語 や 生 活 様 式 の 点 で は,漢 族 と 基 本 的 に は変 わ らな いの に,漢 族 か ら蔑 視 され て お り,し た が って,漢 族 と認 定 され るの を 欲せ ず,少 数 民 族 と して の待 遇 を 要 求 して い た。 そ の た め,こ の 貴州 省 西 北 部 で,約20万 の人 ロ を もつ 穿 青 人 に対 して,1955年,実 地 調 査 が行 なわ れ る こ とに な っ た 。

  調 査 に よ る と,か れ らは,過 去 にお い て は 「 老 輩 子 話 」(古 い ことば)と 称 され て

い る 当地 の 漢 族 と異 な る言 語 を 用 い て い た。 また,自 らの集 居 す る村 々が あ り,他 の

漢 族 と は,信 仰,風 俗 習 慣 の点 で 異 な って い た。 た とえ ば,婦 人 の 服飾,髪 型 に 特 徴

が あ り,纒 足 をせ ず,花 嫁 は輪 に 乗 らな い。 そ のた め,当 地 の漢 族 は,か れ らを 「 穿

                                                   65

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漢  語  名

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蒙古 回 蔵 維吾爾 苗 舞 壮 布依 朝鮮 満 個 白 土家 恰尼 恰薩克 榛 黎 傑{粟 侃 雷 高山 拉砧 水 東郷 納西 景頗 桐爾克孜 土 達斡爾 仏老 布朗 撤拉 毛難 佗倦 錫伯 阿 昌 普米 塔吉克 怒

烏孜別克 66

               国立民族学博物館研究報告  7巻1号 表1  中 国の 諸 民族 とそ の主 な 分布 地

ロー マ字 表 記 Mongolia Hui Tibetan Uighur Miao Yi Chuang Pyui Korean Manchu Tung Yao Pai Tuchia Hani Kazakh Tai Li Lisu Wa She Kaoshan Lahu Shui Tunghsiang Nahsi Chingpo Khalkhas Tu Tahur Mulao Chiang Pulang Sala Maonan Kelao Sibo Achang Pumi Tajik Nu Uzbek

日 本 語 名

モ ン コ ル 回

チ ベ ッ ト ウ イ グ ル ミ ャ オ イ チ ワ ン ブ イ 朝 鮮 満 州 ト ン ヤ オ ペ ー

ト ゥ チ ャ ノ 、ニ カ ザ フ タ イ(ダ イ)

リー リス ワ シ ョオ 高 砂 ラ フ ス イ

トン シ ャ ン ナ シ チ ン ポ ー キ ル ギ ス トゥ ー ダ フ ー ル ム ー ラ オ チ ャ ン

む     

フ ー フ ン サ ラ ー ル マ オ ナ ン コ ー ラ オ

シ ボ ア チ ャ ン プ ミ タ ジ ク ヌ ー

ウ ズ ベ ク

主 な 分 布 地 内蒙古

寧夏 ・全国 西蔵 ・青海 新彊

貴州 ・湖南 四川 ・雲南 広西 ・雲南 貴州 東北 東北 ・北京

貴州 ・湖南 ・広西の境 広西 ・広東

雲南

湖南 ・湖北

雲南

新彊

雲南

海南島

雲南

雲南

福建 ・漸江

台湾

雲南

貴州

甘粛

雲南

雲南

新彊

青海

内蒙古

広西

四川

雲南

青海

広西

貴州

新彊 ・東北

雲南

雲南

新彊

雲南

新彊

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周  客家文化考

漢  語  名 ロー マ字 表記 日 本 語 名 主  な 分 布 地

43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56

俄羅斯 蔀温克 崩竜 保安 裕固 京 塔 々爾 独竜 都倫春 赫哲 門巴 路巴 基諾 漢

Russian Owenke Penglung Paoan Yuku Ching Tartar Tulung Olunchun Hoche Monba Lopa Jinuo Han

オ ロ ス(ロ シ ア) エ ヴ ェ ンキ パ ラ ウ ン ボ ウ ナ ン ユ ー グ キ ン タ タ ー ル

トー ル ン オ ロ チ ョ ン ポ ジ ェ ン メ ンパ ロ ツノぐ

チ ィ ノ ー(ジ ノ ー) 漢

新彊 内蒙古 雲南 甘粛 甘粛 広西 新彊 雲南 内蒙古 黒竜江 西蔵 西蔵 雲南 全国

注:(1)主 な分 布 地 の 「東 北 」 は,「 東 北地 区 」 の略,東 北 地 区 と は,黒 竜 江 ・吉林 ・遼 寧 の        三 省 を含 む 地 方 を い う。

   ②   17番 の 「榛 」 の 日本 語 名 の ダ イは,一 般 に用 いて い な い 。 ただ,中 国で は タイ 国の タ

        タイ      ダイ

       イ 族 と本 来 は 同一 民 族 で あ って も,タ イ国 の は 「泰 」族,中 国の は 「榛 」族 と して 区        別 して い るの で,参 考 の た め に記 した。

   (3)30番 の 「達 斡 爾」 族,44番 の 「 郭 温 克 」 族,51番 の 「都 倫 春 」族 の主 な分布 地 は,従        来 の文 献(た とえば,村 松 マ 弥著 『中国 の少 数 民 族 』,毎 日新 聞社 な ど)で は黒 竜 江       省 とな って い るが,1979年7月1日 か ら,内 蒙 古 自治 区 の範 囲 が,1969年7月 以 前 の       範 囲 に も ど る ことに な ったの で,「 内 蒙 古」 と して あ る。

   (4)55番 の 「基 諾 」族 の 日本語 名 は,普 通 話(日 本 人 の い う中 国語,正 確 には漢 語 の共 通        語)音 に よれ ば 「チ ィ ノー」 あ る い は 「ジノ ー」 にな る。1979年6月1日 の 中 国通 信        に よ る朝 日新 聞 の記 事 で は,「 ジ ノー」 族 とな って い た が,日 本 で の呼 称 につ いて の        専 門学 者 の 意見 は まだ 統一 され て い ない の で,こ こで は,「 チ ィノ ー」 と 「ジ ノ ー」

       の 両方 を記 した 。た とえ ば,48番 の 「京 」族 の場 合 は,普 通 話 音 に よれ ば 「チ ン」 と        な るが,日 本 で は,ベ トナ ム系 の かれ らの音 で 「キ ン」(Kinh)と い うの を と って い        る。 このよ うにす るの が妥 当だ とす れ ば,「 基 諾 」族 の雲 南 で の 音 に よ って,「 キ ノ ー」

       とす る こ と もよ いだ ろ う。

表2  「 民族識別」未完了の集団 チ ベ ッ ト自治 区

雲 南 省

四  川  省

僚 人,夏 爾 巴 人

苦 聰人,本 人,空 格 人,山 達 人,鮮 刀人,阿 克人,未 老人, 八 甲人,砂 芒人,盆 満人(自 称 「克 木」),香 堂人

達 布人(現 在 は 白馬 「蔵 族 」 と呼 ば れて い る),拍 味 人,納 日人,嘉 戎人(現 在 は嘉 戎 「蔵 族 」 と呼 ば れ て い る)

広 東 省 陣 臥 舗 島の「 醐

貴   州   省 俸 兜 人(自 称 「父 摩 」),穿 青 人(現 在 は 「漢 族」 と呼 ばれ て い る),木 老人,東 家人,西 家 人,藥 家 人,南 京 人

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国立民族学博物館研究報告   7巻1号 青 」 と称 し,か れ らは,当 地 の 漢 族 を 「 穿 藍 」 と称 して い た の で あ る。 そ して,解 放 以 前 は,こ の 「 青 」 と 「 藍 」 とが 対 立 して お り,「 青 」 が蔑 視 され て いた 。 解 放 後, 民 族 の 種 別 を登 記 させ たが,穿 藍 の ほ うは,す べ て 漢 族 と記 した が,穿 青 は,そ うす る と損 で あ る と して,漢 族 と して 登 記 す るの を い や が った 。

  と い うの は,少 数 民族 だ と承 認 され れ ば,政 府 か らの優 遇 が 得 られ る し,再 び穿 藍 か ら侮 辱 され る こ と もな い,と 思 ったか らで あ る。 しか し,当 地 の各 少 数 民 族 は,か れ らを穿 青 と称 せ ず,漢 族 と い う こと ばの 前 に形 容 詞 を付 け た こ とば を 用 い て い た。

そ の少 数 民 族 語 を 漢語 に な お す と,そ れ は 「窮 漢 人」(貧 し い漢 人)と か,「 当里 民 的 漢 人」(田 舎 の 漢 人)と か の 意 味 に な る。

  とに か く,は じめて か れ らに 接 した場 合 ぽ,そ の 言 語,地 域,経 済,生 活,心 情 な どの 特性 は,す べ て そ れ 自身 が 単一 の民 族 を 構 成 す るの を 支 持 す る条 件 と な り得 るか の よ う に印 象 づ け られ る 。 しか し,民 族 識別 の研 究 を,ま ず 言 語 面 か ら始 め た が,か れ らの す べ て は,当 時 の貴 州 で話 され て い る漢 語 方 言(官 話 方 言 中 の 西南 方 言,さ ら

に細 か くいえ ば,そ の 中 の 川貴 語 の こと)を 話 して お り,少 数 だ けが 「 老 輩 子 話 」 を 話 せ た 。 また,「 老 輩 子 話 」 を分 析 す る と,そ れ は や は り完 全 な漢 語 で あ り,他 の民 族 語 の痕 跡 は,全 く含 ま れ て い な か った。 しか し,そ れ は,貴 州 で 話 され て い る漢 語 方 言 とは区 別 され る もの で あ った 。 それ は,貴 州 の 漢語 方 言 か ら変 化 した もの で な く,

過 去 に お いて,江 西 省,湖 北 省,湖 南 省一 帯 で 話 され て い た漢 語 に淵 源 の あ る もの で あ った 。

  か れ らは,他 の地 方 か ら当地 に移 った 当初 か ら,そ の種 の方 言 を 用 いて お り,5,60 年 前 に な って,や っと現 在 の 貴 州 の 漢語 方 言 を 普 遍 的 に 用 い る よ うに な った よ うで あ る。 も ち ろん,言 語 の分 析 だ け に よ って,穿 青 人 を 漢 族 と決 定 す るわ け に は いか な い。

と い う の は,漢 語 を使 用 す る もの は,漢 族 に 限 らな いか らで あ る。 しか しな が ら,言 語 に よ る分析 か ら,か れ らの来 歴 に関 す る糸 口 が発 見 され た の で あ る。過 去 に お いて, か れ らが 貴 州 省 以東 の諸 隣 省 か ら,貴 州 省 に 移入 した と い うこ と は,地 方 志,穿 青人 の家 譜,墓 地 の碑 文,文 物 上 の記 録,民 間伝 説 な ど の情 報 と,符 合 す る もの で あ った。

  さ らに その 歴史 に つ い て追 及 す る と,明 初(1381年),朱 元 璋 が 軍 を 派遣 して,元 の 雲南 に お け る残 存 勢 力 を 掃 討 し よ うと した と き,そ の軍 は貴 州 を経 由 して い る。 そ の 後,貴 州 に お い て は,多 くの拠 点 が作 られ て お り,屯 田兵 も置か れ て い る。 それ 以 来,他 地 方 か らの貴 州 へ の移 民 が 増 加 した が,そ の一 部 に,江 西省 方 面 か ら,軍 に強 制 され,軍 に した が った 漢 族 が あ った 。 かれ らは,そ れ 自身 の 出 身地 の特 性 を 具 備 す る移 民 集 団 を な し,現 在 の貴 州 省 清 鎮県 一帯 に集 居 した 。 そ こは,当 時,イ 族 の集 居

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周  客家文化考

す る水 西 地 区 の 辺縁 部 に相 当 し,漢 族 勢力 の最 前 線 と な って いた 。

  軍 に した が った も の は,明 代 に お いて は,「 民家 」(前 述 の 白族 の 旧称 の 「 民 家 」 の こ とで は な い)と 称 され,軍 籍 の あ る 「 軍 家 」 と区 別 され て い た 。軍 家 に は土 地 が分 配 され た が,民 家 は,イ 族 か ら土地 を借 用 せ ざ る を得 ず,そ の 小 作人 と な って 搾 取 さ れ て いた 。 した が って,民 家 の 身分 は一 段 低 い と され て いた 。 しか し,か れ らは,漢 族 軍 隊 の 近 くに 位 置 して お り,イ 族勢 力 の 中 で,そ の ま ま埋 没 して しま うと い うこ と は なか った 。 つ ま り,イ 族 に比 べ て,自 らの経 済,文 化 な どが よ り先 進 的だ と思 われ て いた た め,イ 族 に同 化 す るの で な く,そ の本 来 の民 族 的 特 性 を 保 持 す る ことが で き た の で あ った 。

  明 末 に至 る と,イ 族 の土 司勢 力 が 弱 くな り,か れ らは,さ らに水 西地 区 の 中心 部 に 進 出す る。 現 在 の 織 金県,納 雍 県 一 帯 へ の 進 出な の で あ る。 そ して,清 初 の 「改 土 帰 流」(少 数 民 族 の 土 官 を改 めて,一 般 の州 道 府 を 建 て る こ と)が 行 な わ れ て か ら は, 漢族 が,こ の 地 方 の 政 治 的統 治 権 を 掌 握 す る こ とに な り,一 層 多 くの もの が移 入 して, 漢 族 移 民 の集 居 地 区 が 形 成 され た ので あ る 。

  この移 民 た ち と,ほ ぼ 同 じ頃か や や 遅 れ て,別 系統 の漢 族 が,や は り続 々移 入 す る。

あ る もの は官 吏 と して,あ る もの は商 人 と して や って きた の で,そ の人 た ちは,城 市 (町)の ほ うに定 住 した 。 とい う次 第 で,2つ の経 路 を 異 に す る漢 族 が,そ れ ぞ れ 異 な る地 点 に居 を定 めた こと にな る。早 期 に移 入 した ほ うが,そ の 後穿 青 と称 され,遅 れて 移 入 した の が,穿 藍 と称 され るよ うに な った ので あ る。 後 者 は,城 市 で 政 治 的, 経 済 的 に優 位 に立 ち,イ 族 の小 作 で あ り,田 舎 ず ま いで あ る前 者 を,穿 青 人 と蔑 視 す

る よ う にな った 。 そ の優 劣 の関 係 は,解 放 に 至 るまで 維 持 され た た め,局 地 的 で あ る が,し ば しば 大 小規 模 の異 な る 「 械 闘 」(武 力闘 争)が 生 じて い た 。 そ れ に もか か わ らず,こ の地 方 の経 済 の発 展,お よび,国 内市 場 の形 成 に よ る地 区 間 関係 の緊 密 化 に よ って,穿 青 人 の生 活 も変 貌 せ ざ るを 得 な くな って き た。 つ ま り,他 の 漢族 と の交 渉 を い や で も行 な わ ね ば な らな くな った の で,そ の伝 統 的 な特 性 は,逐 次 消失 す る に至 った の で あ る。

  5,60年 前 あ た りか ら,そ の 言 語,服 飾,風 俗 な ど が,他 の漢 族 と異 な らな くな っ た の で あ る が,そ れ は,特 に交 通 の便 の よ い所,つ ま り,互 い の集 居地 の辺 縁 部 に お いて は,境 界 は曖 昧 に な るか,消 失 した の で あ る。 た だ,集 居 地 の中 心 部,特 に辺 鄙 な 山地 に住 む穿 青 人 の場 合 は,政 治 的,経 済 的 格 差 が著 し く,依 然 と して蔑 視 の対 象 に な って いた 。

  と い うわ けで,穿 青 人 は,少 数 民族 で は な い と され た 。 穿 青,穿 藍 間 の矛盾 は,漢

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国立民族学博物館研究報告  7巻1号 族 内 部 の地 方 差 に基 づ く,特 定 の歴 史 的条 件 に よ って 生 じた矛 盾 にす ぎず,こ の種 の 矛 盾 は,漢 族 が,現 代 的 民 族 と して発 展 して い く過 程 にお い て,逐 次 消 滅 す る もの な ので あ る。 た だ,こ れ まで の い き さつ が あ った ので,穿 青 人 に は,政 治 的,経 済 的 に 適 当 な優 遇 策 を と り,穿 藍 と の格 差 が,一 層 早 く縮 小 で き る よ う提 案 さ れ る こ と にな った 。

  この よ うに,費 孝 通 な どに よ り,漢 族 で あ る と認 定 され た 穿 青 人 で あ った が,こ の 穿 青 人 が,こ こ数 年 来,再 び 単一 民 族 と して 認 め て も らい た い と要 求 す るよ うに な っ た 。

  前 述 の 民 族 識 別 の研 究 は,こ の よ うな再 識 別 を要 求 す る もの に 対 して も,不 問 に す るわ け に はい か な い ので,漢 族 を1民 族 と して多 方 面 か ら研 究 を行 な う と い う こ とは,

さ らに実 行 が む ず か しい とい え よ う。

  さて,こ の穿 青 人 の 場合 と対 比 させ れ ば,客 家 の性 格 が よ り鮮 明 に な る と い った が, 客 家 の 場合 は,前 述 の よ うに,解 放 当初 は,自 らを 少 数 民族 だ と思 い こみ,デ モ の と

き,少 数 民 族 の隊 列 に ま ぎれ こん で い た の もあ った が,今 日の客 家 は,中 国 々内 め客 家 で あ ろ う と,国 外 の客 家 で あ ろ う と,筆 者 の知 る限 りで は,だ れ もが 自 らを 漢族 以 外 の な に もので もな い と して い る ので あ る。

  したが って,客 家 自身 が,民 族 識 別 を 望 む の で な い限 り,客 家 に対 す る民 族 識 別 の 研 究 とい う もの は あ り得 な い の で あ る。

  とい うわ けで,「 客 家 と は何 か 」 につ い て の研 究 は,も ちろ ん あ り得 るが,そ れ は, 客 家 を 漢 族以 外 の単 一 民 族 で あ る こ とを証 明 しよ う とす る研 究 な どで はな い とい う こ と にな る。 そ れ で は,「 客 家 と は何 か」 につ いて の あ り得 る研 究 と は何 か,と い う こ とに な るが,そ れ は,客 家 が漢 族 を 構 成 す る一 部 だ と して も,漢 族 内部 に は,ど この 漢 族 に も共 通 す る文 化 と い う も のが 一 方 に あ って も,そ れ か らは み 出す 各 地 方 独 特 の 文 化 とい うの もあ るの だ か ら,そ うい う意 味 で の研 究 が あ り得 る ので あ る。

  と ころで,漢 族 自体 の 形成 史 とい う もの が ま だ十 分 研 究 され て い な い だ けで な く, そ の一 部 を構 成 す る客 家 の 形 成 史 も,こ れ まで 研 究 が な か ったわ けで はな い が,き わ

めて す っ き り して い るわ けで もな い 。 だ か ら,ひ きつ づ き,客 家 の形 成 史 を 研究 す る とか,客 家 とい う呼 称 が ど の時 期 に 確 立 した の か な どの 研究 も,十 分 検 討 され な くて は な らな いが,本 稿 は,そ の す べ て を あつ か う まで に は至 って い な いの で,「 客 家 と は何 か」 を 客 家文 化 の面 で と らえ よ うとす るだ け で あ る。 しか も,そ の客 家 文 化 に 関 して は,物 質 文 化 を 中心 に考 察 を加 え よ う とす るだ け で あ る。 しか し,そ うはい って も,物 質 文 化 だ けを と らえ る とい う ことで はな い 。物 質 文 化 の性 格 を 明 らか にす るた

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周  客家文化考

め に は,そ れ と関 連 す る文 化 を 不 問 に す るわ け に は いか な い か らで あ る。

 そ の た め,次 に お い て は,こ れ まで の 客 家研 究 の概 略 を記 し,批 判 す べ き は批 判 し て,考 察 の た め の 材 料 と した い。

ll.客 家 研 究 の概 略

 本 稿 は,「 客 家研 究史 」 そ の もの を 対 象 とす る もので はな い 。 した が って,客 家研 究 に 関す る文 献 を,多 けれ ば 多 い ほ ど よ い と して,無 意 味 に羅 列 す る こ と は しな い。

必 要 最 小 限 の文 献 だ けを 引 き,そ の 内容 の概 略 を 記 す だ けに とど め る。

  まず,中 川 学 の論 文 を 引用 す るが,逐 語 的 に 引用 す る所 も出て くるが,引 用 の す べ て が そ うな る と は限 らな い ことを,あ らか じめ こ と わ って お く。

  中川 に よれ ば,"今 日的 意 味 に近 い客 家 の研 究 は,19世 紀 の 広州 の 開港 と香 港 の割 譲 後,欧 米 人 に よ って始 ま って い る。

  1856年 か ら1860年 ま で は,ア ロー号 戦 争 の た たか わ れた 時 期 にあ た る。 英 仏 連 合 軍 の武 力 侵 略 に対 して,ま ず広 東 の 中国 人 が 必 死 の 抵抗 に決 起 した ま さに そ の時 期 に, 中 国人 ど う しが,土 客 対 立 の あ げ く,械 闘 とい う全 面衝 突 に追 い込 まれ て い た の で あ

る。 つ ま り,1856年 か ら1867年 ま で の12年 間 に わ た って,広 東 土 着 の漢 族 と,客 家 と 称 す る漢 族 と が,双 方 で50万 人 を こえ る死 傷 者 を だ す 械 闘 を行 な った のを,欧 米 人 が 奇 異 に感 じて,客 家 に対 す る研 究 が 行 な わ れ た ので あ る。

  土 着 民 と客 家 の 差異 に つ い て,1868年,W.  F. Mayersが 報 告 を ま と めた が,そ の 後,E・J・Eitel,  ch. Petonな どが,客 家 に 関 す る報 告 を ま とめ て い る。 ま た, G.

Compbellは,客 家 居 住 の 中 心地 で あ る梅県 を 現地 調 査 し,客 家 方 言 は,「 零 方 言 」 (広東 方 言)と 異 な る,中 原 の古 音 を と どめ る方 言 だ と発 表 した 。 中原 と い うの は, 黄 河 の 中,下 流 域 の こ とで,漢 族 の発 祥 地 と され て い る所 で あ る。

  か れ は,客 家 を 「 純 粋 に 中 国 人 の血 統 を 伝 え る世 族 」 で あ る と した 。 当 時 の漢 族土 着 民 は,客 家 は ヤ オ族 な ど との 雑 種 で あ る と い う よ うな見 方 を も って いた が,そ れ に 対 して,客 家 は雑 種 な どで な く,純 血 の漢 族 で あ り,少 数 民 族 よ り優 秀 な ば か りか, 土 着 の漢 族 よ り,由 緒 の あ る 中原 王 朝 の後 齎 だ と して い るの で あ る。

  これ に よ って,以 後 につ づ く研 究者 の 多 くは,客 家 の 中原 古 音 を保 存 して い る こ と の確認 へ の努 力 が な され,1910年 頃 ま で に,早 く も客 家語 一 英 語,客 家 語 一 仏 語 の辞 典 が編纂 され て い る。

  こ のG・Compbellの 見 解 は,漢 族 の 少 数 民族 蔑 視 を助 長 す るだ け で な く,一 方 で

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国立民族学博物館研究報 告  7巻1号 は,客 家 の イ ンテ リ層 の 自尊 心 を くす ぐ り,い わ ゆ る客 家 ナ シ ョナ リズ ムを 助 長 す る こ とに な る"と い う[中 川  1974b:59‑86]。 か くて,中 川 の い う 「客家 ナ シ ョナ リ ズ ム」 とい うか,「 客 家 精神 」 と い うか,と に か く この見 解 に よ って,客 家 は,漢 族 の中 で も,特 に正 統 的 な もの で あ ると い う観 点 が,導 きだ され る こ と にな った 。   中 川 の客 家 研 究 は,次 の よ うに,当 初 の欧 米 人 に よ る客 家 研 究 の本 質 を 批 判 す る こ と によ って,始 め られ て い るが,こ れ は,ま さ に当 を得 て い る と思 わ れ る。 そ の部 分 の全 文 は,"中 国へ の侵 略 者 と して あ らわ れ た この 時代 の ヨー ロ ッパ 人 は,太 平 天 国 革 命 運 動 の鎮 圧 に全 力 を 傾 注 した あ と,そ の運 動 の 中心 勢 力 で しか も敗 北 者 とな った 客 家 が,天 国 滅亡 後 の広 東 にお い て本 地人 と殺 しあ いの 泥 沼へ の め りこん で い くの を,

じ っと見 つ め て い た。 こ と に よ る と打 って一 丸 とな って 自分 達 に反 抗 して くるか も し れ な い脅威 を,ア ロー号 戦 争 で 痛 感 した侵 略 者 た ち は,後 半 戦 に は い って,土 客 の対 立 に利 あ り と見,す で に挫 折 へ と追 い こまれ た 客 家 を 「純血 の漢 民 族 」 と賞揚 す る こ

とに よ って,土 客 械 闘 を土 客 融 合 へ と誘導 し,中 国 人 の一 体 に 団結 す る反 抗 力 を 弱 め つ つ,し か も,漢 民族 と少 数 山地 民 族 との反 目感 情 を客 家 即 純血 漢 民族 説 に よ って 激 化 せ しめ,侵 略 の 対 象 の エ ネル ギ ーを 四 分五 裂 させ て い った 。 そ の最 前 線 に立 って, 賞讃 の笑 顔 を 満 面 に た た えつ つ,実 は血 も涙 もな い植 民 地 支配 の イデ オ ロギ ー情 況 を 構 築 して い った もの,そ れ こそ前 世 紀 後 半 か ら今 世 紀 初 頭 に か け て の 欧米 人 に よ る客 家 研 究 な る もの の 歴 史 的本 質 な ので あ った 。 そ の本 質 を直 視 しな い こ とに よ って,羅 香林 氏 を は じめ とす る多 くの 中 国人 客 家 研究 者 は,結 局,自 らを苦 しめ る こ と にな っ た の で は な いか 。 そ の 本 質 を直 視 し,直 言 しな い こと に よ って,羅 氏 の それ じた い と して は労 作 で あ るに ちが い な い客 家 研 究 の誤 訳 に満 ち た邦 訳 のほ か に 何 ひ とつ 見 るべ き客家 研 究 を な し得 ず に き た 日本 人 「 東 洋史 」 な い し 「中国 史 」研 究 者 は,結 局,自 らを はず か しめ,中 国 人 民 に惨 苦 を強 いて きた の で は なか ったか 。 私 の 客家 研 究 は, こ の漸 憶 に は じま る"[中 川   1974b:59‑86]と な って い る。

  次 は,こ こに 出現 した 羅 香 林 氏 につ いて 紹 介 す る。

  羅 香林 は,興 寧 県 出身 の 客 家 で あ る。 清 華 大学 歴史 系 を卒 業 。 国立 中 山大 学 を経 て, 香 港 大 学 の 教授 とな り,香 港 珠 海 書院 中国 文 史 研 究 所 々長 と な る。1978年,72歳 で逝 去 す る。『客 家 研 究導 論 』,『客 家 史 料 涯 篇』,『中国族 譜 研 究』 な ど の著 書 が あ る。

  羅 香林 の 著書 の 中で,最 も有 名 な の は 『客 家 研 究 導 論』 で あ ろ う。 客 家研 究 を行 な う もの に と って は,こ れ を 入 門 の 手 引 き にす る こ とが 常 識 とな って い る。

  そ の原 著 は,1933年,興 寧県 で騰 写 印刷 に よ って 刊 行 さ れ た 。 そ の後,1939年 に, 東 南 ア ジ ァの 華僑 に お いて,客 家 系 の本 部 と され る シ ンガ ポ ール の南 洋客 属 総 会 に よ

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周  客家文化考

って再 版 され た が,1942年,そ れ に基 づ く日本 語 訳 が,台 北 で 出版 され た 。 この 翻 訳 が,中 川 の い う 「 誤 訳 に満 ちた 邦 訳」 な の で あ る。 この 翻 訳 は,誤 訳 だ けで な く,客 家 に よ る反 日運 動 に 関す る部 分 の 削 除 もあ る の で あ る。今 日,日 本 で入 手 され る活 字

の復 刻 版 は,1975年,台 北 の古 亭 書 屋 に よ る刊行 の もの で あ る。

  さ て,こ の羅 香 林 に対 して の評 価 は,先 の 中 川 の 引用 文 に も少 し 出て い たが,中 川 の 一層 明確 な羅 香 林 に対 す る評 価 は,そ の 後 の 論文 に詳 し く出て くる。 そ れ に は,あ とで触 れ るが,こ こで は,そ の前 に中 川 の 先 の 論文 よ り前 に発 表 され た論 文 につ いて, まず 引 用 して お き た い。

  中 川 は,"日 本 語 で 出版 され て い る歴 史 事 典 や辞 典 の う ち,「 客 家 」 の項 目を たて て いて 参 考文 献 を 明示 して い る もの は,概 して 羅 香 林 氏 の研 究 に依 拠 して い る。 それ は そ れ で 論拠 が は っき りして い るか ら,『 客 家 研 究 導 論 』 を は じめ とす る羅 氏 の見 解 を 検 討 す るば あ い,必 要 な議 論 をす れ ば よ い。 こ こで は,出 版 部 数 め多 い事典 類 で,論 拠 の明 示 され て い な い もの か ら… …"[中 川  1973:65‑79]と して,小 学 館 の 『 世 界 原 色 百 科 辞 典 』第4巻[1970]と,諸 橋轍 次 の 『 大 漢 和 辞 典 』 巻3[1956,大 修 館 書 店]の 「 客 家 」 につ い て の項 目を 問 題 に して い る。

  前 者 の 解 説 は,無 署 名 の もの で あ る が,問 題 に され て い る個 所 は 「 北 方 出身 の 漢民 族 が 広 東 ・広 西 の原 住 少 数 民 族 ミャオ族 ・ヤ オ族 と混 血 した もの と み られ る」 とい う 表 現 。 後 者 は,同 じ く 「もと山 西 ・河 南 の北 支 那 人 で,西 晋 末 の北 方 異 族 の侵 入以 後, 黄 巣 の 乱 等 を 避 けて漸 次 南 遷 し,両 広 地 方 の猫 ・撞 等 と混血 した もの の子 孫 で あ ら う

といふ 」 と い う表 現 。 中川 は,こ れ に対 して"こ の よ うな発 想 構 造 に お け る 「 漢族 」 対 「 異 族 」 の 民 族 観 は,純 血 ・混 血 を人 種 差 別 的 に 問題 にす る レイ『 シ ズ ムRacism, Racialismの 発 想 で あ る","こ れ こそ,羅 香 林 氏 は じめ 客 家 出 身者 が対 決 しつ づ けて

きた,客 家 蔑 視 その もの な の で あ る"と 批判 す る[中 川   1973:65‑79]。

  中川 は,ひ きつ づ き,他 の い くつ か の 日本 語 文 献 を 列 挙 して,批 判 をつ づ け る。 次 の諸 文 献 と,傍 線 部 が 問 題 に され て い る。

  1.  呉濁 流 『 夜 明 け前 の 台湾     植 民地 か らの告 発 一 呉 濁 流 選集(1)』 社 会 思 想 社,1972年 に付 け られ た 飯倉 照平 の注 記:「 もと黄 河 流 域 に住 んで いた が,の ち に南 下 して 福建,江 西,広 東 三 省 の交 界 地 域 を 中 心 に住 みつ いた 漢 民族 の 一部 の呼 称 で, 移 住 者 の 意 を 持 つ語 と解 釈 され て い る。」

  2.  武 田泰 淳 『 秋 風 秋 雨 人 を愁 殺 す一 秋瑛 女 士伝 一 』筑 摩 書 房,1968年 の1節:

      よそもの

「彼 らは客 民 で あ るか ら,」

  3.  可 児 弘 明 『 香 港 の水 上 居 民一 中 国社 会 史 の 断面     』 岩 波 新 書,1970年 の1

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国立民族学博物館研究報告  7巻1号 部:「"蟹 民"に た い す る 人 び と の 平 均 的 な 意 識 を 端 的 に あ ら わ す もの に,"香 港 三 家"

      ごろつき

(蛋 家,客 家,携 家)と い う こ と ば が あ る 。"螢 家"や 客 家 は,携 家 の 仲 間 と し て 位 置 づ け られ て い る の で あ って,見 識 と 理 解 を も って"蛋 民"を 考 え た も の は 稀 で あ る。」

  4.彰 濟 著,山 本 秀 夫 訳 『近 代 中 国 農 民 革 命 の 源 流     海 豊 に お け る農 民 運 動 一 ・ 』 ア ジ ア 経 済 研 究 所 シ リー ズ 「ア ジ ア を 見 る 眼 」,1969年 の 解 題 の 付 記:「 な お 校 正 の 段 階 で,本 文 に で て く る特 殊 な こ と ば,た と え ば"客 家"な ど … … 」

  以 上4例 に 対 し て,中 川 は,次 の よ う に 批 判 して い る 。

  "客 家 の 形 成 過 程 に 関 す る 諸 問 題 の う ち,も っ と も基 本 的 な こ と が ら は,「 客 家 」 と い う呼 称 が い つ ど の よ う に 形 成 さ れ て き た の か,そ して ま た,客 家 じ しん が 客 家 と 自 称 す る よ う に な っ て く る の は,い つ ど の よ う に して で あ っ た の か,と い う 問 題 で あ る よ う に お もわ れ て く る 。 そ こ の と こ ろ が 明 確 で な い ま ま に 「客 家 」 の イ メ ー ジ を 描 き だ そ う と す る と,移 住 者 の 意 味 を も つ 語(飯 倉 氏)が,な ぜ,こ と さ ら に,「 香 港 三 家 」 な ど と い う 蔑 称 の ひ と つ と して 「 客 家 」 と よ ば れ,「 ハ ッ カ 」 と 発 音 さ れ る の か 〜 そ の 意 味 が ぼ や け て し ま う。 そ こ の と こ ろ が あ い ま い に な る と,た と え ば,可 児 弘 明 氏 の よ う に,「 蟹 家 」 「蟹 民 」 に つ い て は,そ の 用 語 の 差 別 的 本 質 に 敏 感 に気 付 い て       ごろつき

「水 上 居 民 」 と表 現 しな が ら も,「 客 家 」 に つ い て は,〈 「螢 家 」 や 客 家 は,携 家 の 仲 間 と し て 位 置 づ け ら れ て い る 〉 と 書 く こ と に よ っ て,客 家 と携 家 に た い す る 差 別 観 を 放 置 し て し ま う 。 携 家 を わ ざ わ ざ 「ご ろ つ き」 と よ ま せ る こ と に よ って,日 本 に お け る 価 値 判 断 の ふ くま れ た 歴 史 的 差 別 用 語 を,中 国 史 の な か へ も ち こ ん で し ま っ て い る 。 こ の こ と は,武 田 泰 淳 氏 が,「 客 民 」 を 「よ そ もの 」 と よ ま せ 「乱 暴 者 」 等 と い い か え て い る 意 識 に つ い て も,問 い た だ さ れ な くて は な ら な い 。 さ ら に,山 本 秀 夫 氏 が

「客 家 」 を 「特 殊 な こ と ば 」 と み な し て い る 点,氏 じ し ん の 客 家 観 と,学 界 情 況 と を, は っ き りつ き 合 わ せ て 検 討 す る 必 要 を 感 じ させ る"と し て い る[中 川   1973:65‑79]。

  な お,中 川 は 同 論 文 で,"閲 ・零 ・鞍 三 省,つ ま り,福 建 ・広 東 ・江 西 の 三 省 の 交

接 す る と こ ろ の 三 角 地 帯 の10世 紀 に お け る 民 衆 の 抵 抗 力 が 発 展 す る か ら こ そ,四 囲 の

諸 権 力 体 制 か ら圧 迫 さ れ,そ の た め に 蔑 視 工 作 も着 手 さ れ る よ う に な る,と い う 展 望

を も っ て,「 客 家 」 な る語 の 形 成 過 程 を トレ ー ス して み た い"と い い,さ ら に,こ の

よ う な 視 角 か ら,"蔑 称 と して の 「客 家 」 の 成 立 事 情,な ら び に,抵 抗 力 を つ よ め た

民 衆 が,そ の 他 律 的 呼 称 を 逆 手 に と って,逆 の 意 味 づ け を し,自 己 解 放 の た め の 積 極

的 称 号 に し て ゆ くで あ ろ う 過 程,い い か え れ ば,客 家 の 自 律 的 形 成 過 程 を 見 と お す こ

と が 可 能 と な る に ち が い な い"[中 川   1973:65‑79]と い っ て い る が,こ こ ま で 読 む

と,中 川 が 前 半 で や や 神 経 質 す ぎ る ほ ど,諸 文 献 の 細 か い 点 ま で 指 摘 して 批 判 した,

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周  客 家文化考

そ の真 意 が よ くわ か る。

  つ ま り,中 川 は,羅 香林 を は じめ と す る客 家 出身 者 が 対 決 して きた客 家 蔑 視,そ れ と無 縁 で な い諸 文献 を 批 判 して,一 方 で は,こ れ ら客 家 の知 識 層 が,援 軍 を得 た とす る よ うな と こ ろが示 され て お り,そ れ はそ れ で全 く正 しいの で あ るが,も う一 方 で は, 客 家 の知 識 層 が,蔑 視 に 対す る反 論 に お い て,そ の論 理 構 造 が,し ば しば同 じ レイ シ ズ ム の 裏返 しに と ど ま る場 合 が あ る の を,こ れ ま た批 判 して いた ので あ る。

  後 者 の点 が一 層 鮮 明 にな るの は,先 に も触 れ た よ うに,中 川 の もう1つ の論 文 で あ るの で,そ れ を見 て み よ う。

  中川 は,羅 香 林 の客 家 史 研 究 を つ らぬ く歴 史 意 識 の 内実 を,結 論 か ら先 に い え ば と して,"客 家 は中 華 の 文 化伝 統 の精 華 で あ って,古 代 中原 の 中華 思 想 に よ る国 家統 治 の正 統 を 継 承 す る もので あ る こ との 自己確 認 が 課 題 と な って い るの で あ る"[中 川 1977:68‑81]と して い る。 ま た,そ れ につ づ く部 分 は,は な はだ重 要 な指 摘 だ と思 われ る ので,原 文 を そ の ま ま 引用 す る。

  "客 家 の形 成 史 を,そ の北 か ら南 へ の移 住 の過 程 を段 階 づ けて説 明す る研 究 の,根 本 的 な動 機 づ け は,結 局,客 家 の 源 流 が 古 代 中原 の 王朝 の支 え手 に発 して い る こと の 証 明 に他 な らなか った 。

  した が って,客 家 自身 に よ る客 家 史 研 究 は そ の ア イデ ンテ ィテ ィーの 確認 作 業 に帰 着 す る ので あ り,数 多 くの 客家 姓 氏の 源 流 を 調 べ る労 作 も,大 祖 先 を周 か ら晋 まで の 古代 王 朝 の王 室 な い し官 人 の なか に突 き止 めて 初 め て 意 味 を もつ もの とな って いた の で あ る。

  大 祖 先 か ら今 日 の 自分 に いた るま で,血 の 流 れ を 証 明 す るた め に は,煩 雑 な 族 譜 研 究 も我 が もの と思 え ば軽 し笠 の 雪,禁 欲 的 な作 業 に あた いす る もの で あ った 。 血 の流 れ,と い う表現 は,と もす れ ば 人 種主 義 的 な排 外 性 を 連 想 させ るか ら,適 当で は な い との 意 見 もあ り得 る で あ ろ う。 しか し,羅 香 林 氏 の客 家 研 究,そ の 一環 と して の 中 国 族 譜 研 究 を 読 む か ぎ りに お いて は,単 な る文 化 価 値 と して の 中 華 的 秩序 に と ど ま らず,

も っと具 象 的 な 漢 人 の血 の流 れ が 問 題 と され て い る ことを 否 定 し得 な い の で あ る。

  客 家 が,華 南 の 山 間 地 帯 に ひ と と き の安堵 を 見 出 す と き,そ の地 域 に 住 む非 漢人 諸 族 と ど の よ うな関 係 に あ った の か,お 互 い に婚 姻 関 係 で結 ばれ た のか ど うか,と い う

こ とが 問 われ る よ り も,も っと熱 心 に,客 家 は漢 人 そ の もの で あ る こ との 証 明 が優 先 され て い る。

  そ の よ うな連 綿 た る伝 統 を 「 愛 国保 族 の思 想 」 と い う表現 で描 くと き,こ の 表 現 の なか に羅 氏 の歴 史 意 識 が凝 縮 され て い るので は な いだ ろ うか 。 国 を愛 す るの み な らず,

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国立民族学博物館研究報告  7巻1号 族 を保 つ こ とが 重視 され て い る。族 は,族 譜 に お いて 父 系 的 な血 の流 れ と して 把握 さ れ て い る。 そ の 流 れ を汲 む も のが 自覚 を も って国 を 愛 す るの で あ る。 国を 愛 し,敵 を 撃 つ 。 敵 は夷 狭 と して と らえ られ る。 客 家 の集 団 的 自覚 は宋 朝 支配 期 に成 立 した,と 見 る羅 氏 に よ れ ば,宋 の正 統 を 脅 かす 夷 狭 こそ客 家 の 敵 な の で あ って,宋 の 南 遷 に従

って,力 尽 き,臨 安 が陥 落 して か ら も,勤 王 抗 敵 の 忠 義 に 生 き て,宋 帝 を 擁 し遺 民 と 称 し,元 の 支配 の お わ る まで 終 生仕 官 しなか った 客 家 徐 氏 の 族譜 記 載 を,羅 氏 は 熱情 こ めて 書 き の こ して い る。 意 に反 して 元 に王 朝 を纂 奪 さ れ た後,客 家 出身 の学 生 は大 多 数 が 科 挙 の試 験 に応 ぜ ず,ま た,元 に よ る宋 史 編修 に も一切 協 力せ ず,あ くま で も 抵 抗 した こと を羅 氏 は力 説 す る。 同 じよ うに,清 とい う夷 独 の支 配 を 拒 否 して仕 官 し な か った 明朝 の遺 臣 群 像 を 描 い て,客 家 が その 中核 と な った こ と,あ るい は 臣 とす ら い え な い書 生 の義 士 まで もが,復 明 抗 清 に決 起 した こと を羅 氏 は特 筆 して見 せ る。 す な わ ち,客 家 の書 生 た ち は,明 朝 王 室 の 深 恩 を ま だ受 け て い な い に もか か わ らず,父 祖 伝 来 の 忠義 心 を も って 明 朝 を 守 ろ うと し,そ の 抵抗 に よ って 自 らの正 統性 を保 と う

と した の で あ る。

  そ の結 果,元 や 清 の 支 配下 に お いて 編 纂 され た正 史 に は,客 家 の 記 事が 残 され ず, 客家 の正 統 性 と は別 の 意 味 の正 統 性 を 主 張 す る元 ・清 側 の正 史 か ら,客 家 は黙 殺 され て しま う。 だ か ら,羅 氏 は,民 間 伝 説 や地 方 志 の記 事 の 中か ら客 家 の 歴史 像 を 再 構 成 しよ うとす る。 そ れ とて も,清 の 支 配 の 確 立 とと もに 困難 とな り,つ い に非 合 法 的 な 地 下 活 動 の組 織 化 が もと め られ,反 清復 明 を 目ざす 明 末 遺 老 た ちを 中心 に結 成 され た 秘 密結 社,三 合 会(天 地 会)を 客 家 は支 持 し発 展 させ る。 羅 香 林 氏 に よれば,興 寧 の 天 地 会 秘 密文 献 は客 家 語 を多 く使 用 して い る とい う。 こ の よ う に して結 成 され た 秘 密 結 社 は血 盟 に よ る義 兄 弟 関係 を 絆 と して,客 家 の居 住 地 全 域 へ 拡大 して い くの で あ っ た。 そ して この 流 れ の なか に,清 末,洪 秀全 の上 帝 会 が 加 わ って きて,太 平 天 国 運 動 へ と盛 りあ が って い く。

  羅 香 林 氏 の この よ うな叙 述 を 支 え る歴史 意識 は,古 代 中原 王 朝以 来 の正 統 を つ ぐ客 家,と い う客 家 的正 統 論 に他 な らな い。 そ こに お いて は,歴 史 事 象 は正 統 論 の正 当 化 の た めに 編成 され動 員 され る。 あ た か も,J・H.  Plumb,  The  Death  of the Past, 1969,London(ジ ョ ン ・ハ ロル ド ・プ ラ ム著,鈴 木 利章 訳 『 過 去 の終焉 一一 現 代 歴 史 へ の提 言   』 法 律 文 化 社,1975)が 指 摘 した よ うに,現 在 の正 当化 の た め に過 去

        ヒストリ       パ ス ト

を動 員 す る正 史 が,批 判 的 検 討 を経 た歴 史 学 で はな くま さに過 去 で あ るの と同 じ意 味

      バ スト

で,羅 香林 氏 に よ って 代 表 され る客 家研 究 は,過 去 的認 識 な ので あ った 。

  そ の こと は,次 に見 る客家 語 研 究 の分 野 で も傍 証 され るで あ ろ う。羅 氏 に と って,

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周  客家文化考

客 家 の正 統 性 を 証 明 す るた め に は,客 家 語 が 中原 の古 代 中 国語 を現 代 に い た る ま で保 守 して い る こ とを 解 き明 か す 必要 が あ った 。 一 見,成 立 しそ うに思 わ れ るそ の 仮 説 は,

しか し,最近 の 言語 学 研究 に よ る批 判 的 検 討 の ま え に留 保 を余 儀 な くさせ られて い る"

[中 川   1977:68‑81]と 。

  さて,中 川 の この論 文 は,こ れ につ づ く部 分 にお いて,客 家 語 につ いて の 研 究 概 況 を ま と めて い る。

  それ は,橋 本 萬 太 郎 の諸 業 績 に基 づ くの が主 体 にな って い るが,要 約 す る と こ うな る。"華 南 の先 住 民 で あ る広東 人 や 福 建 人 の 生 活 圏 内 に,後 世,遅 れて 移 住 して きた と され る客 家 が,先 住 の本 地 人 との対 抗 関係 に耐 えて,文 化 的 ・言 語 的 統 一 を し っか り持 続 し,現 代 に お いて さえ,環 境 の 激化 に もかか わ らず,客 家 と して の 自覚 と客 家 語 の独 自性 を維 持 して い る こ と は,驚 くば か りで あ る。 自 ら客 家語 を,周 囲 の 諸 方 言,

と りわ け広東 語 や 福建 語 か ら,強 い 影 響 を受 け な が らも,総 体 と して み る な らば,古 代 か らの北 方 中 国語 の音 韻 学 的 特 徴 と多 くの一 致 を 保 って 持 続 して い る こと は,確 か

に珍 しい こ と と言 わ ね ば な らな い。 そ の 意 味 で,中 国語 の 音 韻 学 ・語 彙 ・文 法 の通 時 的 な比 較 研 究 に と って,客 家 語 が 貴 重 な素 材 を提 供 して い る こ と は,疑 うべ く もな い。

に もか か わ らず,従 来,客 家 語 を 他 の 諸方 言 と体 系 的 か つ 共 時 的 に 比較 研 究 す る こと は,ほ とん どか え りみ られず,客 家 方 言 そ の もの の特 質 を 解 明 す るた め に,当 然 な さ れ るべ く して な され な か った こ と,残 され た課 題 が,き わ めて 多 い,と い うの が実 情

の よ うで あ る。

  か え りみ れ ば,羅 香林 が,客 家 の 中 原 起源 説 を体 系づ け る に あた って 援用 さ れ た言 語 学 的証 拠 と い う もの も,現 代 的 水 準 か らみ るな ら,問 題 が な い わ けで はな い 。   四 川客 家 語 を 考 え る と き,話 し手 で あ る四 川 の客 家 が,祖 先 を さか の ぼ れ ば 広東 省 五 華 県 出身 だ と信 じられ て い る に もか か わ らず,五 華 県 を 含 む広 義 の梅県 客家 語 と,

四川 客 家 語 と は,音 韻 体 系 に 関す る限 り,全 く異 質 な もの な の で あ る。 この よ うな事 実 が 明 らか に な って くる と,客 家 語 を 中 原 の 古 代 中 国語 と 比較 して,そ の 連続 性 を 強 調 す る議 論 に先 立 って,そ もそ も客 家語 とは何 で あ る のか を,そ の サ ブ タ イプ の 詳細 な 検 討 に よ って把 握 す る必 要 が生 じて きて い る と いわ ね ば な らな い"と して い る[中 川 1977:68̲‑81]。

  この 客家 語 に関 す る,解 放 後 の 中 国 にお け る成 果 は,た とえ ば,何 燗,李 映 川,李 作 南,何 臥 豊 な ど の もの が あ る[何 畑   1958:73‑85;李 映 川  1958:85‑87;李 作 南 1958:87‑90;何 歌 豊   1958:90‑91]が,最 近 に な って 刊 行 され た窟 伯慧 の が 最 も ま とま って い る よ うで あ る[倉 伯慧   1981]。

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参照

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