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18世紀の博物学とルソーの植物採集

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18世紀の博物学とルソーの植物採集

著者 上利 博規

雑誌名 人文論集

巻 68

号 1

ページ 21‑41

発行年 2017‑07‑28

出版者 静岡大学人文社会科学部

URL http://doi.org/10.14945/00010416

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18世紀 の博物学 とル ソーの植物採集

     

18世紀 は博物学の時代 であ り、 その時代 を生 きたル ソーも博物学、 とりわ け 植物学 に関心 を示 し、近年植物学者 としてのル ソーが一層注 目されている。不 平筈 を作 り出す社会 よ りも 「自然状態」 を重視す るル ソーが植物 に関心 を示す ことは当然の ようにも思われ るが、無名であったル ソーを一躍有名 にした『学 問芸術論』 において 「学問・芸術 が完全 なものへ と進歩す るにつれ、われわれ の魂は腐敗 した」 と断ず るル ソーは、 当時の流行 であった博物学、植物学 をす んな り受 け入 れる ことがで きたのであろうか。

本論文 では、2つの視点か らこの問題 について考 えたい。 まず、 そもそも18 世紀の 「博物学」 とはいかなる学問で あったのかについて、伝統的 な自然誌・

博物誌 との違いか ら考 えたい。「博物学」は英語ではnatural hlsOtryで あるが、こ れが自然誌、 自然史、博物誌、博物学 とい うい くつかの訳語 をもっていること は、hおtowと い う語の古代 ギ リシア語1以来の歴史的発展 とともに広 く知 られて いるところである。ここで注 目したいのは、プリニウスに代表 され る古代の「自 然誌Jは、ルネサ ンス的展開 を経て、バ ロ ック時代 の学問化・ 科学化 によって

「博物学」 とい う一つの学問 となった という点である。 そして「博物学」は18世 紀 には リンネ とビュフォンによって その頂点 を迎 え、19世紀 には「生物学J「 質学Jなどにとってかわ られる。バ ロック時代 においてnamral hisotryに 起 こっ た大 きな変化 とは何 か、 その学問化 とはいかなる事態か、 これを第一章 におい て検討 し、ル ソー と植物学 との関わ りについて考 える準備 としたい。

第二の観点であるル ソー自身の植物学 との関わ りについていえば、ル ソーは 若い頃 にブァランス夫人 たちと植物採集 を行 ってはいたが、 そこに積極 的な意

1動ioЮ Dは 探究する、知 る、記述するとい う意味で、名詞形 競

"●は探究、知、記述 などの 意味 をもつ。

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味を見いだせずにいた。彼が本格的に植物採集に取 り組むようになったのは、

「エ ミールJによって逮捕状が出され、スイスに逃れた1762年以降のことであ る。 もともとルソーは若いころからフランスとスイスの国境周辺の土地になじ んでいたが、そこはアルプスを眺めることができる地であると同時に、「ジュラ Jの語源 ともなったジュラ山脈があった。1760年代のルソーは、リンネのF自

然の体系』を携えてフランス とスイスの国境付近のジュラ山脈周辺、あるいは イギリスに逃亡中には美 しい自然景観で有名な観光地である中部のアシュボー ンの山のふもと、さらにフランスに戻 ってからはスイス国境に近いグランド・

シャトルーズ周辺の山々で植物採集を行ったのであった。1770年代のパ リでの 晩年にも、ルソーは最後の楽 しみを植物採集に見出していた。植物学、植物採 集の何がルソーをひきつけ、ルソーは植物学、植物採集の中に何を見いだして いたのか、 これが第二の問いである。

1 18世紀の博物学 と植物学

(1)近代的博物学への過程

生物の研究は古代ギリシアから見 られ、アリス トテレスには『動物誌』epl

ZOα'I∝Op価 、Histoda animJium)、 「動物発生論』εoalv γCOCOらDe

gencradOne anima」u→、慟 物部分論』Oepl ov llⅢ呻、De panibus a面malum) をはじめとして数多 くの著作がある2。 これら音代の動植物に関する研究を包括 的な立場から記述 し、自然誌・博物誌 という考えの基礎 を作ったのはプリニウ スの F自然誌』(Naturars Histoia)37巻である。この著作は、宇宙から始 まり、

動物、植物、鉱物 という、いわゆる「自然の三界」について網羅的に記述 した。

中世 は、キ リス ト教における神の創造が前提 となるために、 自然そのものを 探究 しようとする気運はたかまらなかったが、それでも12世紀に入るとアリス トテレスの自然学に関する著作力渕 られるようになり、アルベル トゥス・ マグ メス (Albertus Magnus,c.1193〜 1280)はアリス トテレスに倣 って『動物につ いて』(De ttimaubus)、「 植物 についてJ(De vegetabШbus)などを著 した。ま た、ドミニコ会の修道士ヴァンサン・ ド・ポーヴェ(Ⅵ ncent de BeauvJs,c l190

126の による『自然の鑑』『諸学の鑑J「歴史の鑑Jの3部からなるF大いなる

2アリス トテレスの著作 には、 これ ら動物の研究のほかに植物 の研究 もあった ともいわれるが残 つ ていない。それを補 うかの ように、ア リス トテレスの友人であるテオフラス トスによる植物 に関 す る著作『植物誌』(nepl ttyヨv" ph、 HtttoHa plantartlm)が ある。

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J(Spcculum Maius)が 生 まれた。「自然の鑑』(124)は32巻3,718の項 目 を含んでお り、天地や生物3を被造物 という観点から記述することを通 して創造 者 を讃 えようとしている。同 じ頃、パー ソロミュー・ オプ・ ィングラン ド (Bartholomew Of England、 1203〜1272)が19巻か らなる『事物の性質 につい て』(De proprictaibus rerum)を著 し、「自然の三界Jについて4詳細に記述 して いる。 こうして、中世後期 には自然を合理的に理解 しようとする考えが広がっ ていった。

ルネサ ンスに入 ると異教的関心 が花開 き、メディチ家のプラ トン・ アカデ ミー な どで 自然魔術研究が盛 んに行われた ことは周知 の ところである。世俗的 には 大航海時代 によって未知 の生物 がヨーロッパ に持 ち込 まれ5、 F口刷文化の興隆 に よ り図版 が挿入 された報告書 な どが多数刊行 され、人間を含 む生物 あるいは自 然 の多様性 について強い関心が もたれ るようになった。

ルネサ ンスの自然魔術研究がやがてバ ロ ックにおける自然科学へ と発展 した ように、ルネサ ンスにお ける自然研究 は学問的態度 を準備 す る。 た とえば、後 に リンネが 「植物学 の父」 の1人にあ げたオ ッ トー・ プル ンフェルス (Otto Brunfels、 1488〜1534)は、神学者 であると同時 に医学的 な立場 か ら『本草写 生図譜』(HerbaHum宙vac icones、 1530〜1536)を刊行 したが、そこにはデュー ラー (Albrecht Durer、 1471〜 1528)6の弟子のハ ンス・ プァイディッツ (Hans Weiditz der Jingere、 1495〜c1537)に よる詳細 な木版画 による図版 が挿入 さ

れ、採集 した植物 を魔術的要素 を排 して精密 に描写 しようとす る7姿勢は後代 に 大 きな影響 を与 えた。

そのほか、ルネサ ンス後期 には、グスナー8(Gesner Conrad、 1516〜 1565) の「動物誌』(Historiae AnimJium)、『植物誌』(死後刊行)、 ピユール・ プロン

3植物 については、第9巻か ら第14巻が扱 う。

4植物誌 (De herbb et arbonbus)は 第1?巻である。

6世界各地から珍 しい動植物がヨーロッパに持 ち込 まれるにととまらず、世界各地に赴 さそこで発 見 した動物や植物 に関する自然誌 を予J行した り、植物 を求めて世界中を探検す るプラン ト・ ハン ター と呼ばれ る植物採集者たちが登場する。彼 らは、食べ物や産業 に役立つ植物の発見や、観賞 用植物の輸入 を行い、やがではアジアにおけるお茶や ゴムの プランテーシ ョンなどの権民地経済 を導いた。

自画像で有名 なデューラーであるが、「野 うさぎJ(1・o02)、「芝草J(1503)など、 自然 を詳細 に描 写 した作品 も残ってお り、デューラーはポ リュクレイ トスや ウィ トルウイクスの比FFlなど古代の 定型化、理念化された自然観の影響 を受 けたイタ リア ルネサンスとは異 なった自然観 をもって お り、 それが弟子のヴアイディッツに継承 された と考 えられる。

7傍点 は論者 による。以降の傍点 についても同 じ。

̀彼によるラテン語 による命名は、やがて リンネに採用 されることになる。

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(Pierre Belon、 1517〜1564)の『鳥寿碕ぶ(ピH燎oire dc la nature des Oyseaux、

1555)、 レオンハル ト・ フックス (Leonhard Fuchs、 1501〜1566)の 『植物の 注釈書J(Dc LIstO●a surpim conlmenta五i insignes、 1542)、 ウィリアム・ター

ナー(Winiam Turner、 1520〜1568)の『新本草書」(A new Herban、 1551〜

1568)をはじめとして、数多 くの動物誌、植物誌が作 られた9。

このような医学的な立場からの動植物への関心に導かれながらもなお未定型 であったルネサンス期における自然への関心は、バロック期 における学問 とし ての博物学の発達を促 した。バロック期のはじまりに登場するフランシス・ベー コン (Frands Bacon、 1561〜1626)は「自然の解明」を目標 とした『大革新』

(hstaura■O Magna)の起点 としての『学問の進歩』において、新 しい時代の学 問の状況にふさわ しい知性 と学問の体系を構築 しようとした。アリス トテレス のオルガノンに対 す る「ノヴム・ オルガメム」である。 また、デカル ト(1596

1650)は「精神指導 の規則』(Regulae ad direcJonem ingenii、 1651年 公刊)

の第4の規則 として、「何 ら特殊 な質料 に関わ りな く、順序 (ordO)と計量的関 (mensura)と について求 め られ うるすべての ことを、説明す る一般的な学 問が なけれ ばな らない。 それ は…古 くか ら使 われてい る普遍数学 (Mathesis un市ersaLs)と 呼 ばれ るべ きである」 と述べ、定量的思考への道 を明確 に示 し た。

こうした学問化・ 科学化への志向は、1660年代 のイギヽリス とフランスにおい て科学 アカデ ミー創設へ と結 びつ くが、観察・ 実験 による科学化への動 きを促 進 したものの一つが レンズの使用 による望遠鏡 と顕微鏡 の発明であ り、望遠鏡 の発 明は天文学 に大 き く寄与 し、顕微鏡 の発明は動物、植物 の分野 において大 き く寄与 した。1590年前後 の顕微鏡 の発明 は、 オランダのメガネ職人 のヤ ンセ ン親子によるものとされているが、1665年にはロバー ト・フック(Robert HOOke、

1635〜1702)が自分 で作 った頭 微 鏡 を用 い て図版 を描 い た 『顕微 鏡 図譜 』

'彼らの中には植物園に関わった者 も多 く、たとえばボローニャ大学の植物学教授 アル ドロツァン デイ(0ヽse Alむ

"鍮di、 1522〜 16115)は植物園 を作 り、 ピ,大学教授 アン ドレア・ チェザル ピーノ(Alldrea CesalplnO、 1519〜16031は ピサ植物園園長でもあ り、『薬草国J(Homs Medlcus、

1588)を著 したヨアヒム・ カメラ リウス (Joachlm Calnerarlus、 1534〜1598)はニュル ンベル クの庭園●値物 を採集・標本 していた。イギ リスでは「本草書』(1597)を 著 した医師のジェラー ド・ ジ ョン(Ccrard John、 15 〜1611,)力=ホルボーン植物園を管理 していた。

10r大革新J第2部として書かれた「ノツム・ オルガメム」 は 「自然の解明についての指標Jと う副題 をもち、r大革新』 とい う構想が 「自然の解明」 とい う日標 に向けられていた ことを象徴 している。拙稿 「Rベーコンにおける自然の解 明 と職人技術」(「人文論集』592、 2009)参照。

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(Micrographia)を 刊行 しているu。 以降、ス フンメルダム(Jean Swammcrdam、

1637〜1680)、 18世 紀 に入 る とニ ーダム (John Turbeville Nccdham、 1713〜

1781)の『顕微鏡 による新発見 の説明』(An account of sOme new microscopical discoveies、 1745)、 レダー ミュー ラー (Martin Frobenius Lcderm01ler、 1719

1769)によるF顕微鏡 による心 と眼の娯 しみJ(Mikroskopischc Gcmuths̲und Augen Ergotzung)な ど、顕微鏡観察 による報告が続 く。

また、バ ロ ック期 には、薬草研究 とは異 なる観点か らの植物園 に関す る著述 も多数現れた。 これは、絶対王政 を背景 とした庭園・ 園芸文化 の興隆 によるも のであ り、楽 しみや癒 しのための庭園で育て られている植物 についての報告書 である。た とえば、シャルル・ ド・ レク リューズ (Charles dc rEcluse、 1526〜

1609)はウィー ンの植物園の管理 を行 っていたが、 そこで 日に したオース トリ アの植物やチュー リップな ど外国産植物 を『稀産 植物誌』(Rajorum Plantarum

HistoHa、 1601)と して記 した。そのほか、フランスの ピエール・ プァレ(Pierre Valet、 c1575〜c1650)の F国王 ア ン リ4世の庭 園』(Lcjardin du roy●s

chresien HenりIV、 1608)は花好 きだったアン リ4世の妃のために書かれた本 である。園芸 ブームが始 ま りつつあったイギ リスではジェームズ1世の顧間薬 剤師であ リチャールズ1世の王室主席植物学者 で もあったパーキンソン・ ジ ョ (Pattnson Johll、 1567〜1650)が『陽のあたる楽園、地上 の楽園J(Pradisi in SoL Paradlsus Terrestis、 1629)と い う園芸書0植物 の栽培方法 について書 いた。ほかにも、 ドイツではベスラー (Basilus Besler、 1561〜1629)が『アイ ヒシュタットの庭園植物誌」(Hortus Eystettcnsis、 1613)を 、オランダでは ド・

パス (Dc Passe、 1590〜c1664)が『花の園』(Hortus Floridus、 1614)を 、ベ ルギーではヨハン・ テオ ドール・ ド・ プリ(」ohan Theod00r de Bり 1562〜

1620)が F花譜』(FlorleglШ  Renomtum et Auctuln、 1641)と いった園芸目録 を著 した12。

とはいえ、当時の庭園が単なる観賞用のためだけだったわけではな く、ス ウェーデンのウプサラ大学で医学を教えていたルー ドベ ック (Rudbeck Olof、

1630〜1702)Юがスウェーデン初の植物園を作 り『薬草大全』(Campi EサЫk 1701)

フックは顕微鏡 によって 「細胞J(cdl)とい う単位 に気づいたが、19世紀 には顕微鏡の観察 に よって動物 も植物 も「細胞か らできているJとい う点において共通 していることが理解 され、両 者 を統合 した「生物学」 とい う分野が生 まれた。

2こうした本草学や庭園 目録の中には、オランダか ら日本 にもたらされ、平 賀源内が手に したもの もある。

"1690年に長崎 にやつて きて 子日本誌』 を著 したケンペル(Englebert Kacmpfer、 1651〜1716)は

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を著 し、 また ドイ ツ南東部 の レーダンス ブルクに植物園 を開いた元薬剤師のヨ ハ ン・ ヴィルヘルム・ ヴァインマ ン(JOhann wilhch Wcinmann、 1683〜 1741) が 『薬 用植 物 図譜 』(Duidc,kC VCrtOning ccniger dulzend in alle宙 er waerelds dcctn wasscndc、 1736〜1748)を出版 したように、植物図鑑 の第一の役割 はな お薬草の整理 にあった14。

以上 のように、ルネサ ンスか らバ ロック時代 にかけて、大航海時代 とプラン ト・ ハ ンターの活躍 によってそれ まで知 られていなかった種類の 自然物 につい て知 られるようにな り、植物園でた くさんの種類 の植物 が栽培 され、顕微鏡で 観察 され、 それ らについて記 した文献が きれいな図版 を伴 って多数生み出され るようになった。 そうなる と、多様性 を楽 しむだけでな く、多様性 をどのよう に整理・ 分類す るかが問題 になる。

(2)多様 な自然の列挙か ら「分類Jヘ

この問題 の解決 に向かつたのが15、 イギ リスのジ ョン・ レイ (John Ray、 1628

1705)であ り、 フランスの トゥルメ フォール (Toumefort」oscph、 1656〜

1708)であった。彼 らの著作、すなわちレイの F植物新方法論』〈Ncw method

of planヽ 1682)や トゥルメフォールの『 植物学の基礎』(1694〜1695)、 F植 学指針J(Instttdoncs rci herbarlae、 1700)などの著書のタイ トルが示すよう に、植物誌に「方法論Jや「基礎」「指針」力S求められ、いかなる原理に基づい て多様な植物の整理・分類するかいう方法や原理への反省が生 まれている。こ こに、伝統的な自然誌・博物誌 とは異なる近代的な博物学の誕生を見ることが できる。それまでの伝統的な分類法は経験的であ り、 ともすると薬草のように 入間にとっての有用性 という観点から行われてきたものや、直観的印象による 差異に基づ くものが多いの対 し、学問的方法論の確立は植物 自身の形態や構造 などの特質によって分類を行お うとするものである。

「 植物誌J(1686)で「種」という概念を確立 したといわれるレイの場合は、調

ルー ドペ ックの弟子であ り、 リンネはルー ドペ ックの息子の弟子である。

ヴァインマ ンの F薬用植物図譜』 は量 もさることなが ら、 デューラーが用 いていたエングレー ブィングを改良 したもの として17世紀中頃に開発 されたメ ゾチン ト印扇1によ り、中間色を用いた カラー図版の美 しさによって知 られている。中間色 を用いることができるとい うことは、3次 的表現が格段 に進化 し、生物 をよ リリアルに見せ ることができる。植物学の進歩 を支えたものの 一つ として、こうした印刷技術の進化があ り、その美的効果の影響 もあったことを見逃 してはな

らないであろう。

命名 とい う点で この問題 に取 り組んだ先駆者 としては、スイスのガスパール・ ボアン(1560〜

16%)の『植物一覧表』(1623)による属 と種 による二名法 を挙 げることがで きる。

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査旅行による植物の観察に基づいて植物を分類 し、「種Jはある固有の特徴を何 世代にも渡って保持すると考えた。つまり、一つの「種」は同 じ「種」を産み 続 け、そこから別の「種」が生 まれて くることはない とい うのである16。 ここ でいう「固有の特徴Jとは、従来の形態学的な特徴であるだけでな く、動物の 場合には解剖などの手助けを借 りて理解された構造的生理的特徴も含んでいる。

また、 トゥルヌフォールの場合には、分類の基準を花の形に設け、植物 を花の 形に従って22のクラスに分け、さらに果実や種子の形などにより下位の区分を 行った。すなわち「種Jという概念だけでなく、より上位の概念 との関係づけ

を行った。

このような17世紀の成果に基づいて、18世紀にはリンネ (Carlvon unne)の

『自然の体系』(Systcma Naturae、 1735)と ビュフォン (GeorgesLouis Leclerc de BufFon、 1707〜1788)の 『一般 と個別の博物誌J(Histoirc nature■e,generale ct padcalere、 1749〜1800)力現れ、命名・分類に関 して人為的分類法 と自然 的分類法の対立を見ることになる。 ここでは両者の違いについて立ち入 ること なく、むしろ18世紀の両者の「分類」の立場がそれまでの自然誌や博物誌 とい かに質的に異なっているかについて、 ミシェル・ フーコーの『言葉 と物』を手 掛かりに検討 してゆこう。

フーコーは F言葉 と物Jにおいて、近代西欧の文化の「エ ビステーメー」が バロック時代である「古典主義時代」を挟んで二つの断層があると考え、第一 部で「古典主義時代Jの「エ ピステーメー」の特徴 を述べ、第二部でそれに続 く時代の「エ ビステーメー」 との違いを述べる。その論に従えば、古典主義の 時代を特徴づけるのは「マテシス(mathesis)Jと 「タクシノミアGttinοmia)J であり、前者はデカル トからライプニッツに受け継がれる代数学、普遍数学で あ り、後者は記号 という体系に従って対象を秩序付け分類 し「表」化すること である。 この二つの方法によって、多様な自然は共通な単位によって定量化さ れ計測可能なものとな り、記号を通 して対象の同一性が与えられると共 に他の 対象との差異が明確化され体系における位置づけが可能 となる。

こうした 「マテシス」 と「タクシノミア」 という「古典主義時代」の新 しい

「エビステーメーJに基づいて新たに生まれたのが、一般文法、博物学、経済学 であるとフーコーは考える。バロック時代における博物学は、「マテシス」 と

お このようなレイの考えは、「種J

も主張 してお り、隣接する「種」

る。

の同一性 を主張 してい るのみならず、他の 「種」 との不連続 陛 との交配 による雑 「種J力'生まれる可能性 を認めない ことにな

(9)

「タクシノミア」という点において、それまでの自然誌、博物誌 とは異なると考 えるのである。そして、そのような新 しい「学問 としての博物学」を支えてい たのが、「古典主義時代」の言語の役割であった。フーコーは次のように述べて いる。「言語 とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係 のなかにおさめるものである。つまり、『ある』という動詞を基礎 とし、F名』の 網 目によって頭示 される、同一性 と相違性の体系 (un systёme d'identt6s et

dif6meces)の なかにおさめるのだ。古典主義時代における『言説』の基本的 任務は、「物 に名を付与 し、 この名において物の存在を名ざすJ(databuer un

nom auK choses,et en ce nom de nonlmerleur Otrc)こ とである。二世紀 にわ たって西欧の言説は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在を名 ざすとき、哲学、すなわち認識の理論およιC観念の分析であり、表象された個々 の物に適切な名を付与 し、表象の場全域にわたって『よくできた言語』の網 目 を張 りめ ぐらす とき、学問―― すなわち名称体系 と分類法―― だったわけだ」

(p1351、 邦訳P1461)。 言葉が物を分節化 し、体系的な表を表象可能 とし、そ

の体系の中の位置を示す役割を果たすようになったことが、博物誌が単なる多 様性の記述ではなく、「学問」としての博物学 として成立 した基盤だったという のである。

フーコこは、そのような言語の特徴 を「第四章 語 ること」(Parler)で論述 したのち、「第五章 分類することJ(Classer)の 「二 博物学」において、「古 典主義時代」に現れた博物学について、『博物学』の領域を、古典主義時代は

どのように規定 していたのであろうか」 と問うて、次のように答えている。

まず、博物学が出現するために必要だったのは、「『記述』がもっばら『自然 を対象 とするJものになること」(1'Histoire dぃnne Naturelle)であったとい う。つまり、自然が「語 られる」 とき、それまでは「観察Jされた (客観的な)

自然 と、その自然が作 り出してきた (物語的)「意味論的網目」 とが一体 となっ ていた、すなわち「観察J「記録J「お伽話」が区

=Uされていなかったが、ヨンス トン(ス)の F四足獣の博物誌Jでは意味論的物語的部分が削除されてお り、

「本質的相違は、 まさにヨンス トン (ス)におけるこの F欠如』にある」17。「そ

rヨハネス・ ヨンスエン(Johannes Jottton、 1603〜1675)は 、江戸時代に著書が翻訳された際、

所有格の「スJ力S誤ってそのまま「勇斯東私(ヨンス トンス)Jとされた。

彼の著書には、四

'動物、鳥、魚などの詳細の銅版面による図版瀾 載されている点でも注目 される。しかし、図版には、一般的な動物に並んで翼をもったライオンや ドラゴンも含まれてい る。このことを考えれ,ム ヨンス トンが自然観察に徹底 していたわけではなく、なお物語に引き ずられている41」面があるといわざるを得ない。

(10)

こでは、動物 に関す る意味論 は、死んで不要 になった部分 とでもい うようにそっ くり欠落 してい る。動物 と絡みあっていたさまざまな語 がほ どかれて取 りさら れ、解剖学的要素、形態、習性、誕生、死 をもつ生身 の存在 がむ きだ しの まま あ らわれてい るのだ。博物学 は、語 と物 とのあいだにい まや開かれた この隔た りの うちにみずか らの場 を見 いだすJ(p141、 邦訳p1521)。 つ ま り、ルネサ ン スにおける自然魔術 か らその魔術性 が削 られ「純化」「中性化」され るところに、

バ ロック時代 の科学的 自然研究が生 まれた とい うことである。

こうして、「古典主義時代 は、記述 にまった く別 の意味を賦与する。すなわち、

物 それ 自体 には じめて最新 な視線 をそそぎ、ついで視線 の採集 した ものを、滑 らかな、中性化 された、忠実 な語で書 き写す」(p143、 邦訳P154)。 つ ま り、「人 文科学の考古学Jとい う副題 をもつ『言葉 と物』の立場か らすれ ば、「古典主義 時代Jに変化 したのは、「記述す るJ(朧tolle)と い う言葉 の働 きの方であった のである。人 は紡 がれて きた物語 の上 にで はな く、 自ら新 し く物 をそれ として 見つめ直 し、「純化」された言語 によって物のあるがままを忠実に書 き記 そうと す るよう になったのである。ルネサ ンスの人文学か らバ ロックの 自然科学への 変化、物 と物 とが標本 として並置 され る透明な空間、 ここに新 しい時代 の 「エ

ピステーメーJがあ り、 自然誌、博物誌 が 「博物学」 となるのである。

ル ソーの植物採集

(1)ルソーの植物採集の始 ま り

『告 自』 によれば、ル ソーが植物採集 を始 めたのは、 シャンベ リで過 ごした

1731年か らの数年間、「お母 さん」 ことヴァランス夫人 と、ライバルでもあった

クロー ド・ アネ と一緒 に過 ごした ときである。「アル プスの まん なかの この町 (シャンベ ソ)の位置 は、植物学 にはきわめて都合 が よかった」(Fルソー全集』

第一巻、 自水社、p226)。 とはいえ、1730年代 のル ソーは「植物学 については なんの観念 ももたなかったので、一種 の軽蔑 と、 さらに嫌悪 さえ持 っていた。

そんなものは薬剤師のや る研究 とみ な しているだけであった」(同p202)と う。そして、当時のル ソーに とっては、「これ とは異なって、余 りにも反対な趣 味が徐 々に多 くな り、やがて他 のすべての趣味を吸収 して しまった。 それは音 楽 のことだ。 た しかに私 は、 この芸術 のために生 まれて きたに違 いない」 と述 べ、植物への関心 はさらに後退す る。「完全 に音楽 に没頭 した私 は、他 の ことが 考 えられな くなった」「私 の音楽熱 は狂気 になった」(同p209)のである。

(11)

1736年からはシャルメ ットで再 び「お母さん」と過 ごす。「お母さん」はここ でも 晴 物の採集 をして楽 しんでいた」力S、 ルソーはというと「他の研究に気 を取 られすぎていた」ために、「花や植物から気をそらせてしまった」(同p270)。

ただ、1739年に世に出た詩集 Fヴァランス男爵夫人の果樹園』 においては、自

分は哲学の勉強をしているが、「それはたしかに崇高だが、 くだらぬ作 り話。頼 りにならぬ仮説はじきに棄て、博物学の研究を喜ぶ。そこでこそ、プリニウス やニューウェンティットは彼 らの学識で私を助け、私に考えること、眼を開 く

こと、見ることを教えて くれる」(Content d'ё tudier l'histoire naturelle La,Pluie et Niuwentyt,rn'aidant de leur savOir.M'apprennent a penser・ ouvrir les yeux ct vo■)と述べている。まだこの時点では、「植物学への趣味」をもつ 「時期には なっていなかった」にもかかわらず、既に博物学は「考えること、眼を開 くこ と、見ることを教えて くれるJと語っていることは注目に値する。

こうして、ル ソーは若いときから植物採集に触れてはいたが、植物学よりも 音楽に大 きな関心を抱いてお り、田合での植物採集から離れ音楽の新 しい記譜 法の原稿 を携えてパ リに向かうことになる。パ リに出たルソーは自作のオペラ を発表 し、ディ ドロと出会い F百科全書Jの音楽の項 目を引き受ける。その頃、

たまたま懸賞論文 の題名を目にして「別の世界を見、別の人間になった」(同

p381)ルソーは「学問芸術論Jを執筆する。学問・ 芸術は進歩の功罪を問 う テーマに対 し、ル ソーが意図的に否定的立場から論述 したことは知 られている ところであるが、その中でルソーは、「われわれの庭園は彫像で飾 られ、われわ れの回廊は絵画で飾 られています。一般の賞賛のまとになっているこれらの芸 術の傑作が示 しているものは何であると、諸君はお考えですか」(『学問芸術論』 岩波文庫p45)と読者に問い、不平等の産物であ りまたそうした不平等を再生 産する芸術によって庭園 という自然を感 じる場が飾 られていることを批判 して いる。そして、「われわれはもはや市民をもっていません。あるいは、市民が 残っているとしても、みすてられた田園にちらばっていて、貧乏でさげすまれ て死んでゆきます」(p46)と 論 じ、不平等で虚飾 に満ちた社会 よりも田合での 自然 と触れ合 う生活を擁護 している。

続いて1753年に「人間不平等起源論Jを発表すが、 ここでは植物学や植物採 集については触れられていないが、何度か博物学 〈rhistoire naturelle)と ビュ フォンが参照されている。それ らを順に追ってゆけば、まず人間の最初の言語 に関する論述 において、事物はそのはじめにおいて 「その種類や種にかかわ り なく、特殊な名前をもらった」(o匈et recut d'abord un nom particuliet sans̀gard

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atlx genres,et att cspёces)が、やがて「さまざまな存在 を共通 の種 による名称 のもとに酉己列するために」(pOur ranger lcs Otrcs sous des dё nominations communes,

et gёn6● ques)、「それ らの特性 と相違点Jを知 る (conna,tre les prop●ёt6s ct lcs

dittrences)こ とが必要 となった。そのため多 くの「観察 と定義」(des obserN/adons, et des dё initions)、 、すなわ ち「博物学 と形而上学」(dc l'histoire naturelc et de la mёtaphysique)が求め られるようになった、 と述べてい る。「特性 と相違点」

を知 るために「観察 と定義」が必要 とな り「博物学」力'生まれた とい う考 え方 は、 まさに18世紀 の博物学の誕生 を意味 している。 そのほか、注で ビュフォン や ゴーチエ (Gauticr DagOty、 1717〜1785)の『博物誌考察』(Obsewations sur rHistoire naturelle、 1752)を参照 しているが、 リンネの名前 はまだ登場 してい

ない。

1761年に入 るとF新エロイーズ』が発表 されるが、 ここでも博物学、植物学、

植物採集 については言及 されない。 しか し、 これ まで にしば しば指摘 されて き たように、 その第1部で描 かれ るマ ッターホル ンをは じめ とす る数 々の名山を もち「アル プスの心臓Jとも称 され るスイス南部 のヴ ァレー州 の自然や、第4 部書簡11でのいわゆ る 「エ リゼの庭」 についてのサ ン・ プルーの描写や ヴォル

マール夫人 との会話のや りとりな どに、ル ソーの 自然に対す る思いが語 られて い る。

た とえば、第1部書簡23では、空気 の清澄 さが′心の平和 を回復 させ、地上的 な卑 しい感情 が消 えて清浄界 (■6giOns 6th̀r̀es)の純粋 さ(inalt̀rable puretё )、

「静かな悦楽J(lcur inalt̀rable puret̀)を 感 じ、「存在す ることと思考す ること だけで満足す る」(contcnt d'Otre et dc pcnser)と 述べている。 そ して、 自分の 周囲にはまった く新 しい対象、見知 らぬ鳥や奇妙 な未知 の植物 しか見 られない 喜 び、いわば別 の 自然 を観察す る喜 び、新 しい世界 の中にある喜 びがあ り、「精 神 と感覚 を洸惚 とさせ る」 とい う。 この ような「いっさいを忘 れ、 自分 自身 を 忘 れ、 自分 が どこにいるのかわか らな くなる」 ような感覚 こそが、ル ソーが田 園 に、散歩 に、そしてやがては植物採集 に、すなわち自然 と触 れ合 う喜 びであっ たように思われる。 それは1760年代 に植物学の手 ほ どきを受 ける以前 に既 にル ソーの中にあった ものである。ル ソーは『新エ ロイーズ』 の中でそれを 「自然 の魅力J(たs cllarmcs de la nature)、「田園の魅惑J(enchantcment du paysagc) な どと語 っている。

『新エ ロイーズ』に続いて1762年には『社会契約論』を執筆す る。 ここには植 物学、植物採集、博物学 などのいずれ も出て こない。 この年ル ソーは Fエミー

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ル』も執筆 している。「エ ミール』でも、第一部の始 まりの「植物は栽培によっ (par la culture)つ くられ、人間は教育によってつ くられる」 という有名な 部分 〈岩波文庫 (上)p28)な ど、植物を例 にあげながら教育について語る場 面はあるが18、 植物採集の話は一か所を除いて出てこない19。 しか妹 この一か 所はル ソー理解 にとってきわめて重要であると思われる。

それは、第五編の半ば近 くであるが、旅の「楽 しみ」を博物学を例 に取 りな がら、次のように語 る場面である。「わたしたちは旅の初めと終わ りのことだけ を考えているのではな く、そのあいだ (rinteⅣalle)の ことも考えている。旅 そのものもわたしたちにとっては楽 しみなのだ。(Le vwage mёme est un plaidr

pour nous)…エ ミールには、そんなに急いですることがなにかあるのか。た だ一つの こと、人生 を楽 しむことだ。(Mais de quoijamais imile peut■l etre pressOP D'une seule chose,dc jouir de la宙 e)わたしには、馬で行 くよりも愉快 な旅のしかたは一つ しか考えられない。それは歩いて行 くことだ。わたしたち は、都合のいいときに出発する。好 きなときに足を休める。 うん と歩 きたいと 思えばうん と歩 くし、そう歩 きた くなければすこししか歩かない」(岩波文庫 (下)p158)。 ここには、目的に拘束されない気 ままで自由な旅の様子が描かれ ているように見える。

しかし、ルソーは次のように言葉を続ける。「わたしたちはその土地のすべて を観察する (on observe)。 …わたしたちの心をひくあらゆるものをしらべてみ

この箇所以外でも、植物への言及 はい くつかあるが、特 に第一部の終わ りの方で、次 のような指 摘 を していることは注 目に値す る。す なわち、「動 くもの、感官 をもつものに とって、いつさい は教育 によって与 えられる。植物が漸進的な運動 を行 うものなら、感覚 をもち、知識 を獲得する 必 要 力'あ る 」(Tout est instruction pour les etrcs alllm6s et sensibles Si les plantes avaient un mouvement progressit u fauと at qu'enes cuscnt dcs sells et qu'cues acquissent des connalssances、

岩波文庫 (■)p91)とい う部分である。すなわち、ル ソーは、植物 も動物 と同等 に、外界 との 交渉のための「感覚」(sens)を もち、それによって得 られた事柄 としての「知識」(connalssances) をもつ とい うのである。

ル ソーが植物 も知識 を獲得す るとい うのは、 その前提 として、「私 たちは話 をす るまえに、人 の言 うことを聞 きわけるまえに、人間 はすでに学 びはじめている。経験 は授業 に先だつ。乳母の 顔 を見分 けるときに、子 ともはすでに多 くのものを獲得 している。…一般的な知識 はほとん ど計 算 にいれない。 それは知 らない うちに、理性 の時期 よ りもまえに獲得 され るか らだ」(岩波文庫 (■)p90)と述べているように、ル ソーは意識以前の経験の中で無意識 につかみ とるものに重 きを置いているからだ とい うことが理解で きる。その際興味深いのは、この意識的なもの とそれ 以前の無意識的なものの二つを「人間の学問(la sdence huma■ne)を二つの部分 に分けてみる とした ら」 と述べてい ることであ り、生 まれた時か らの経験 によって獲得 されたものも「学問 ω)」 と呼んでいる点であ り、さらにそれ を「人間の学問 (知)Jと

^「人間以外のものの学

問 く)Jも予想 され る点である。

"ピュフォンの名 は本文 に一回、注に一回でて くる。

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(on examine tout cc qui nous natte)。 …川 がみつかれば、わた したちはその 岸辺 に沿 ってすすむ。茂 った本立 があれば、 その蔭へ行 く。洞窟 があれば、 は いってみる。採硬場があれは 破物 をしらべてみる。」すなわち、 ここには気 に なった ことを調べずにはおれないル ソーがいる。 したがって、ル ソーに とって 自由 とは単 に気 ままである ことではな く、何 かの 目的のための手段 としてで は な く、純粋 な好奇心のために自由に時間 を使 って気 になることを気 の済 むまで 調べてみ ることである。 そ して、 それが博物学であ り、植物採集 なのだ と、次 のように述べ る。「歩 いて旅 をす ること、それはタ レス、 プラ トン、 ピタゴラス の ように旅 をす ることだ。…かれが足で踏 んでい く財宝、大地 が惜 しみ な くか れの目のまえに くりひろげる財宝 (■chcsscs qu'1l foule aux PiedS Ct que la tcrrc

prodgue a sa we)を 、 どうして しらべてみず にい られ るのか、 わた しは理解 に苦 しむ。す こしで も農業 を好んでい るな ら、かれが通 ってい く地方 の風土 に 特有の産物や、 その栽培法 を知 りたい と思わ ない者 が あるだ ろ うか。博物学 (1'histoire naturene)にす こしでも興味 をもっているな ら、土壌 をしらべ もせず にある土地 を、岩 を削 りとらずに岩 山を、植物採集 (hcrbo五scr)をせずに山の 中を、化石 をさがさないで石塚 を過 ぎて行 く気 になれ るだろ うか。」

にもかかわ らず、ル ソーは植物学 を手離 しで肯定 しているわけではない。「陳 列室のなかで博物学 を研究 してい るJ人たちは、「名称 を知 ってい るが、 自然界 について はなんの観念 ももたない」 として、本 当の博物学 に関心 のある人 は、

「陳列室 よ りも豊富 な標本」、すなわち「地球ぜんたい」 を観察・整理 してい る とい う。ル ソーはいろいろな場面で、植物の名 を知 ることよ りもまず 「見 るこ Jが必要 だ と語 るが、 ここにも知識 によって得 られたもの よ りも五感 を使 っ て獲得 した経験 の方 に重 きを置 くル ソーの姿が うかがえる20。 自然 には限 りな い 「財宝」 力S隠されてお り、 それを見つける目をもたない限 り、植物学 は死ん だものになって しまうと考 える。ル ソーに とっての植物採集 は、学問のために とい うよ りも、 自然 を財宝 として見 る喜 びだったのである。

しか し、『エ ミール』第二篇では、 これ と逆の ように思われ ることを語 つてい る。 それ は子供 に「有用性 の観念 (une idё e du mOt utile)」 を教 える場面であ (岩波文庫 (上)p405〜415)。 た とえばル ソーは次の ように述べている。「わ

2.『エ ミール』第五部の後半の「旅 についてJでは、「書物の悪用は学問 を殺す。人々は読んだこと は知 つているのだ と思 い、自分はもうそれを学ぶ必要はないと思い込んでいる。…観察すべ き事 実 はとんな種類のことでも、読んではならない、見 なければならない。一知識 を得 るためには…

旅の しかたをこころえていなければならない。観察するためには、見 る目をもっていなければな らない」 と述べている(岩波文庫 (下)p2烈)。

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た しが生徒 と一緒 になって太陽の運動 と方向 を知 る方法 を研究 しているとき、

とつぜ ん、 かれがわた しをさえ ぎって、 こうい うことはみんななんの役 たつの か、 とたずねた としよう。…わた しはかれに話 してや るだろ う。旅行 の有益 な こと、商業の有利 なことについて、 それぞれの風土 に特有 な産物 についてさま ざまな民族 の風習 について、暦 の利用 について、農耕 に必要 な季節 の循環の算 定法 について、航海術 について、海上 で方向 を定 め、 どこにいるのかわか らな くても正確 に航路 をすすむ方法 について。政治学、博物学、天文学、 さらに道 徳 も、 そして国際法 も、わた しの説明の うちに含 まれ ることにな り、わた しの 生徒 にあ らゆる学問 についての偉大 な観念 をあたえ、 それ らを学 びたい とい う 大 きな望 み をいだかせ るよ うにす るだ ろ う (La poldque,1'hヽtoire natureⅡe, 1'astronon■e,la morale mё me etle droit des gens entreront dans mon exPICatlon, de maniёre,donner a mon ёve une grande idё e de toutes ces sciences et un grand d6sir de les apprendre)」 (岩波文庫 (上)p410)。 ル ソーは続 けてエ ミー ル との会 話 をさ しはさみ、最後 に 「天文学 って なにかの役 にたつ もんですね (1'astrOnOmie est bonne a quclquc chosc)」 (同p415)と語 らせ る。ここでは、学 問 を学 びたい とい う気持 ちを育てるため とはいえ、学問の 「有用性」 とい う点 か ら語 られてお り、博物学 もその一つ に算定 されているのである。

(2)スイスでの植物学の出会い

『エ ミール』第四部 をめ ぐって1762年 6月 6日 に逮捕状が出たが、それ を受 け てル ソーは1762年か ら1765年までスイスで逃亡生活 を送 った。ル ソーが しば ら く滞在す ることになるメーシャテル地方 のモチエ村 に到着 したのは 7月10日 ことであった。ル ソーが植物学の手 ほ どきを受 け、植物採集 を本 格的に始めた のは この時である。

この時の ことをル ソーは F告自』で次の ように述べている。「1764年 に、友人 のデュ・ ベールー氏 (M du PeyrOu)といっ しょにクレシエにいた とき、われ われ は小 さな山にのぼつたが、彼 はその頂上 に感 じのいいあず まや を持 ってい て、F見晴亭Jと呼んでお り、 まさにその とお りだった。その頃私 は植物採集 を は じめていた (Je conlmencals alors d'hcrbO五scr un peu)」 (『ル ソー全集J第 p251)とい う。 ところが、 それ に続 けて、「のぼる途 中、茂みのあいだを眺 めていた私 は、喜 びの叫 び声 をあげる。『あっ、 ッルニチ草 がある。(Ah!v昴

de la pervenche!)Jじ っさいそ うだった。デュ・ ペールー氏 は、私 が夢 中なの に気がついたが、 その原 因を知 らなかった」 と述べ、「その原 因」 とは、1736年

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の初夏にシャルメ ットで 「お母 さんJと一緒に散歩に行つたとき、「お母 さん」

が 「ほら、 ツルニチ草がまだ咲いているわ。(Voil)de la pervenche encore cn

eu■)」 とル ソーに語 つたという思い出の ことである。ル ソーは、「お母 さん」

との植物採集のことを覚えていたのである。

だが、ル ソーに植物学の手ほどきをしたのは、デュ・ペールーが最初だった のではない。既 にディブェル ノフのジャン=アン トワーメ (」can―toine d'Ivemois、 1703〜1765)がいた。1739年ハラー (Albrecht vOn Halに r、 1708〜

1777)は『スイス植物誌』(Historia stirpium)aを 執筆 したが、その際スイス西 部 のクル・ デュ・ プァンを訪れ、 ディプェルノフはガニュバ ン (Abraham Gagncbh、 1707〜1800)と共に彼の案内役をつとめていた。ディプェルノフは、

1745年頃自らその土地の植物について1000を超える種類の図録を執筆 し (未

)、 トゥルメフォール、ハラー、リンネたちの分類について解説 している。ル ソー自身 も『孤独な散歩者の夢想』第五の散歩及 び第七の散歩において、自分 が植物学の手ほどきを受けたのはディプェルノフであると述べている22。

ガニュバンはスイスのジュラ地方のフエリエールの村に住んでいた自然学者 であったが、植物学に関する知識 と資料の膨大さで有名であ り、「植物学大学」

という地域のグループを組織 していた。その会員でもあったデュ・ ペールーに 紹介される形でル ソーはガニュバンと知 り合った。そして、ルソーは1765年4 29日のデュ・ベールー宛の書簡の中で、自分はまだ経験的に植物をあまり知っ ていないので、15日間ガニュバ ンと共に過 ごそうと思 うと述べ

、実際その年 6月14日から27日 までの間、ガニュバンのいるフェリエールに滞在 し気 ジュ

"ハラーがスイス植物誌 に関心 を抱いたのは、既 にスイスの自然科学者であ り作家でもあったシ ョ イツェル (Johann casPar Scheuchzer、 1702〜 1729)力

'アルプスの博物学研究 を行い、詩集「ア ルプスの山々』でアル プスの魅力を伝 えていたことの影響である。シ ョイツェルは1726年3000 万年前の地層 か らオオサ ンショウウオの化石 を発見 したことでも知 られるが、オランダ商館 に勤 めていた ドイ ツ人医師のケンペルの遺稿 を英語に翻訳 させて『日本制 として刊行 したことでも 知 られている。1778年にル ソーが亡 くなった時、ル ソーの書斎 からハ ラーのrスイス植物誌Jの 初版 が発見 されている。

22「私 はもういい年 になってか ら、 ディジェルノフ博土 には して植物学の手ほ ときを受 けた。 そし て、その後、旅 から旅 を重ねるあいだにも、 うまい ぐあいに植物採集 はで きて、植物界 について の一応の知識 を得 ることがで きたJ(『ル ソー全集』第二巻p386)。 第五の散歩 における言及 につ いては後述の とお りである。

28「今 まで以上 に植物学 に熱中 してい ますが、実地 に植物 をまだあまりよく知 らず、体系的にFJI究

はで きない と、恥ずか しなか らわか ってお ります。 しか しなが ら、それでいやになるとい うわけ ではな く、季節 がよくなったら、ガニュバン氏の ところに行 つて、二週間ほどお世話 にな り、少 な くとも自分 で リンネの勉強がで きるようになるつも りですJ(『ル ソー全集J第十四巻p262)。

2ガニュバンの自宅は博物館 (植物以外のものも)のようだったらしく、ガニュバ ンは来客 を宿泊

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参照

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