﹁ 經 營 關 係 論
﹂ の 成 立 と そ の 理 論 的 性 格
坂 口 幹 生
.︑
− 迅
二︑川代は営における高度化の仰向
三︑現代社会における利皆者井川仕の佃向
囲︑利賀者集団化の悟らす撞営経済的変動
五︑経営学の自己反省と経営関係論六︑露営園係論の埋論的性柏
一︑関 原
ここ数年以来数多‑の論者によって紹介され'あるいは論究されきたつたど.とく今日アメリカにおいては例えば
St oc kh ol de rs Re la ti on s, In ve st or Re la ti on s. ln du st ri rl Re la ti on s, La bo ra nd Ma na ge me nt Re la t・ cm s, Em pl oy ee an dE mp lo ye rR el at io ns ,C re di to rR el at io ns .C us to me rR el 畏o ns ,S up pl ie rR ei af un s, Tr ad e‑ Re la ti on s, Go ve rn
‑ me nt Re la ti on sあ るい は広
‑P ub 叫i cR el at
︼o ns .あ るい は深
‑H um an Re la ti on sな どと 云う がど とき 各種 の関 係 論が研軍産つつある︒しかして今これら各種の関係論の中にはその研究がいまだ緒についたばかりで明確なる規定
﹁描出田無巴の成立とその埋諭的性絡三七
経 営 と
経 済
入
をかくものも少くはないが︑しかし次第に集積されきたったこれら各種関係論研究の業績からは今や﹁経常関係論﹂
とも称すべき一つの統一理論が経営学的に結晶せしめられる段階にまで到達しているのではないかと考えられる︒蓋 じ程営をもうてそれ自体が一つの生活休なりとする理解はつとに経営学界において弘通の傾向であり︑また近時経営
の自主自作性などと云う問題がさかんに論吋仇されたのであるが︑元来経営の生活や存立ないしはその自主性と云うが
ごときものは︑人間個人の生泊や存立と同阪︑決して単純なる個休的存在ではなく︑対内的にも対外的にもあらゆる 関係の絞合休ししして︑すなわちあらゆる社会的なったがり︑係はりの網の結日に立つものと理解するにあらざれば到
民その木町は十全に山川刊され件ないものであり︑それは必然的に﹁関係論﹂の領域にまで発展せしめられてゆかなけ
れげいなら次いむのであるからであるn
勿九
州へ
JH
プJ
リカに沿いて所冗されつづある作間関係諭の業給から一つの﹁経営関係論﹂なるものを確立するに当つ
ては向次のごと九三諸点について光ヘバK
る川胤花加して沿かなければならない口すなわちまや第一にとれら各種
U
関係
九州口元米内世紀行のみな主休的河川村としてぬじられてきた関係ぬではなく︑レスリーも云うごとく(註
1)
例えば
パブリック・リレ1シヨシガのごときは労似机へH
︑代
党︑
山川
校川
休︑
NV校K
ど︑凡そ一つの組織休で社会生活をなす
ものには︑乙とごとく︒ハプリツク・リレ1シヨジズ的助が必叫なものとして研究されているのである︒
叉 ヒ ユ
lマγ・リレ1シヨシズのごときものについて市川ごいんでみても︑それはもともとは経営乃王は経営者を主体的当
事者として研究されたものではなく︑かえって経営の巾に祈肋する例パの労働者左中心に研究が初められたものであ
るn従ってこれら各種の関係論はそれを総括したものが泣ち一にこ乙で一五う経営学理論としての経営関係論とする乙と
はできないからである︒われわれにとっては経営を場とする︑すなわち﹁経営に訟ける関係論﹂と経営を主体的当事
者とする﹁経営関係論﹂とは明らかに区別されなければならない︒
市二にとれら各仰の関係論は元来アヌリカ現代社会の実践的次生前目的のために︑それぞれの問題を佃別的︑具体
的に川決するとL
しから山発したものであり︑アメリカ経営学がすでにしかるがごとく︑まやノ基礎理論としての方法
論︑対
U 1 1
州︑問ヘ山地火︑統一一以却の侃立がなされ︑その上に立クて各論的に各種の関係論が体系宇けられたものでは
ないと云うととである︒換言すればそれはパラパ一ブ友実践的欲求に応やるものとして生れ出てきたものである︒従っ て今日アメリカに沿いて研究されている各駅関係論には共通的注統一原理が理論的にとかれて訟らや︑且つそのすべ
てが政情︐なる意味での経営学理沿'として︑はたしてその批判にたえうるや否や疑わしきものがあるからである︒
しかしながら︑これら件附の川冗はそれが巾なる内部机織論や外部交通論あるいは取引論としてではなく︑総じて
﹁問係品﹂しどして川叫んろれているしいたろに川たたる江美しし共通性が見出されうるものであり︑且っとれらが関係論と
して川冗されるに五ク
k .
川史的︑川会的︑以前的北川沿にも概ね共通のものが見出される上うに考えられるから︑乙れ
九り刊刊の川係九州在来材止しながらも︑防法
MM
九日立主休的当事者として︑そ乙に必要なる規定を施してゆくとき︑やが
てそれは花川関係品川の成立を可能ならしめてゆく乙止は疑うべくもないと乙ろであろう口
はたしてしからば︑そもそもかくのご止さ路川閃係九州の成立はいかにし℃可能なのであろうか︑そのためにはいか
なる認識上の立場や対象︑認識原理が必要であり︑それによって各種の関係論をいかに統合し﹁経営関係論﹂として
泣化してゆくとと川できるのであろうか白木︐Mの日的し仁するととろは︑かかる問題について若干の考察を試みんとす
る点にある︒しかしこの問題を明俗にするに当つてはい刈やその前にわれわれは今日プヌリカに・おいて前述のごとき各︐
'極の関係論が何故問題化され且づそれが﹁関係論﹂として把服されるに至ったのは何故であるか︑その歴史的︑社 会的︑経済的あるいは学問的背景を明らかにしてゐかねばならないロ
(注
1)
HU
z‑
‑h
MH
何回目3
・ 同
μロヴ]片岡山巳伊丹山
o g
同
89
8H
CH
・ ∞ M
│ ︒
一一ー現代経営における高度化の傾向
キソポ今日アメリ切に・おける各種関係論の問題化されるに至づた背栄を求めんとする場合︑うとにとの問題に着目せ
られた一平井ム栄太郎教授はとれを教授のいわゆる﹁高度経営﹂の出現と一五う主として経営経済的な事実に見出されてい
る︒(花
2)
教授に従えばいわゆる高度経営とは犬規模経常を一要閃としながらも︑向それ以上のものを意味する︒
すなわち通常犬規模経営どは雇傭労働者数とか機械設備とかの犬規模化を意味するものであるが︑現代経営に沿いて
﹁w m
悦関係論﹂の成立とその理論的性格
九
経 時 と 経 済
四
O はかくのごとき生産規模がさらに巨大化し性質的変化をきたしているのみたらや︑経営体系的にも主すます広地域に 令布ずる工場︑事業場を持ち︑その問の取締たる述葉︑連絡を保づてゆかなければなら友い正云う.経常的︑取引的な 事業連鎖の組織商がます全す章一た化しつつある︒すなわち取引的には遠隔地取引とピラミッドの底辺をねらう大衆取
引が成立して︑い上いよ﹁広範間取引﹂が実現されつつ.ある︒しかるにかくのごとく広範陣取引が遠隔地取引︑犬衆取
引に発民する乙とは他回それだけ坑気変効︑下怖い党効︑怪済事情の推移︑流行の変化︑競争の生起︑新製品の出現な ど各国の怪済的危険に径九円がさらされると止左足味ずる︒かくてこれらの市場危険上り自らを防衛するために︑まや
絞九日のどる政策は日常者間︑川川
MY
行川にb
ける協同︑協定︑融通たどの連鎖的友実関係あるいは系統関係である︒し
かしたがらかくの知念間同ははリ九一心術守る川沿仲川に・おける関係であり︑さらにかかる関係が支配的に強化されると
台︑
そと
には
市件
以九
日?
に従
ハ仰
い引
しじ
の川
一川
︑川
川小
J刊行けし仁川川込山北常止の関係︑親工場と子工場︑協力工場︑連繋工場︑
下山工勾
kの関係︑山小
土で氏︑九日間以問係︑代川山内係︑仲介山関係︑山入関係などを成立せしめる︒‑ K
主允かかるいや民花川︑大川川悦川はかけな紙同げする九九めには山川仙川︑山以仰などの同定施設のみならや︑原材判商品友どの保
持︑技術の改主︑市川サの川げ刊しし枇作の
km
に円相︑以件︑木の必一四なこ止は一氏うまでもない︒しかるにかくのごとき巨額
な白木は今日では一何人
f允は攻川人の︐f
に上って川市されうるものではなく︑又向己資木のみに工クて賄う必要も
ない︑金融機印刷︑取引内山色川一じて的入門・ボLしして刈引いされ︑一川一泊され︑運転されちる︒しかしそのためには経常に
対する信用と経常相立川の一支持が必WKなってくる円士たとれな円己件︑木についてみても今日の高度絞常に長ける自
己資本は銀行︑一村山託︑保険︑一批券その他の法人または同家︑公共同休と云う犬株主工ゎ調達されているのが特徴であ
るが︑とれらの法人︑諮問休それ自身はまた甚だ多くの出資者上り︑あるいは多数個人の洪金左京集するととによク て成立しているものであるから︑一高度経営の出資関係は間抜的には無数の大衆に関聯しているわけである︒叉出資 関係は形式的には現在の株主名簿に登載されているもののみに限ちれるけれども内芥的には現在の株主が譲渡をうけ 允前の株主︑あるいは現ホの株主より譲渡を受けんとする未来の株主たど高度経営の出資に対し事実上関心を有する
汗は沢川的に無数に上るものである︑換言する九仏らば今日高度経営に告げる出性一関係は証券市坊を通ビて犬来︑云わ
ぼ市場大衆との関係である︑されば乙そ高度経営は平に茨而上︑形式上の株主に対し報告を行うのみでは目的を達成 しえ宇︑市場に報告し大衆に報告する必要在住じてきたのである︒
また乙れを同家︑公共同休との関係にクいてみても︑九州才に工れぼ一リ川市礼状化枠はその成立したる後に沿いては社会大
衆すなわず市川匂と肝ねするのであろが︑成立の泊料に沿いてはプロシヤやわが同の隠史にみるごとく同家または公共
同休の山川︑
MM
助︑川肋に上クて山内ーすることが多いのである︒しかしとの均合抗謎︑段助︑仙助とは単に直按的怒る
人小川代的おるいは引・本的川助のみならや︑国主党は公共同休工りの注文︑技術的︑情報的便宜の供与をも包含されるロ
品川穴州立川伐といえども同有民営︑民有国営︑国家管理伝ど各種の形態に沿いて高度経仔は同家または公共団体と重大
江る関係を保たなければなら危いのが現代の経済社会である︒
以上のごとく現代の高度経営はきわめて複雑たる﹁外郭関係﹂を有するものであるが︑今日の高度経営はそれ自体 がすでに機椛化しあるいは計算化しその性格としては科会的たもの止なりつつあるのであるから︑経営をめぐる各方 面の関係者が経営に対していかたる寄与たたし︑いか在る利害を有す忠弘のためやを
TKしく一認識し︑乙れに即応する経
営成果の正しき配介を行い︑以て経営目的達成にクいての合理性を昨立せねばたら︑ないととが漸く考慮せられるに至 タたのである︒とれ今日各種の関係論が問題化されるに至ったほ凶であると︒
さて以上の所論に上クて明らかなるごとく︑論者は
HM
近に治ける各杭関係論の問題化の原凶をその所謂﹁高度経営 化﹂たる事実に求め主としてとの経済的事実との関耶に沿いて問問を説明されんとするものである︒しかり現代の経
'営は単に大規模化と一式う量的発展のみならや︑それが同時に高度化と一式う質的発展をもとげている乙とは事実であ
る︒遠隔地取引化︑犬来取引化はひとり経営の市場がその広さを増した乙とを意味するのみたら宇︑同時にその深さ をも増したととを意味するのであるから︑との市場の底辺に低迷︑浮動する大衆を確実に捉え︑中小経営と常得意と
の問に・おけるが如き回定関係を︑人格的な連りに沿いてでは訟くもっと新しき意味に沿いて確立することは︑正に現
代高度経営に課せられた重大なる新課題をなすものと一式わねばたちたい︒また関聯産業や同業者︑金融先に対しても 単なる経済的計算以上の関係確立が必要とされるに至っている乙とも否定でき左い事実であろう︒さらに経営の高度
﹁経営関係論﹂の成立とその想論的性格
四
経 営 と 経 済
四 化とともに配当利得者としてますます章一目的に大衆化してゆく投資家に対しては︑かつての所有経営者に対する関係 とは呉友る意味に沿いての新しい関係の政
ι立が必要とされるに至っていると
F
も事実である︒しかもとの複雑友る経 済社会にあって︑現代経営がその存立上の主体性を確立するためにますます高度化すればするほど︑その対外関係は いよいよ緊迫複雑化してゆくととは当然であるロ乙れ宛もゴム風船の中の空気が充実すればするほど外側の空気との
物理的た緊迫関係を生中るのに等しいものがある︒従って今日に・おける各種関係論問題化の原因を現代白経営の高度化
と云う事災に求め︑とれとの問聯に沿いて問題左説明せんとするととは部八
γ的には正しいとせねばたちか仏い︒
しかしながら巧えてみればかくのど
K
2問問の把揮の仕方のみを以てして︑はたしてよく今日に・おける各種関係論
問問化の北川公花十全にぷ明しうろや芥や︑われわれには多犬の疑問︑なきをえない︒すたわちまや第一に元来﹁関係﹂
次どみ一一五うがごと立ものは一般論
mk
して考えてみても相対的たものであり︑関係主体の側における発展変化と同時
に相千万たるものの発民変化をも巧えたけれ氏︑なら紅い︒関係主体の状態がたとえ従来のま主であっても︑相手方た
る存休の状態が発問的変化すれば︑そとにはやはり析しい関係が生じ︑関係論があらためて問題化されるにいたるとと
は当然のととと云わねぽたら友い口従って今日にわける存杭関係論問旭化の原閃を単に現代経営の高度化と一式う経営
の側のみの発展変化工り一方的に説明せんとする乙とは︑そのとと向休は誤りではないにしても問題を十全に把握説 明するためには片手落ちに陥らざるをえ左いのではないか︒しかり︑かかる観点だけからは少くとも労使関係や政府 関係の問題化を十令に説明するととはできたいのではないかと云う疑問が生やる︒
第二に論者に従えば各種関係論問題化の背景は現代経営の丙度化と一式う主として経営経済的事実にあるとするので
あるが︑それにしても何故かくのごとき諸問題が︑従来の経管学に長けるがごとき経営組織論たり︑経営交通論ない
しは対外取引論としてではなく︑正に﹁関係論﹂と一式う新しい観点からとりあげられるに至ったか︑その聞の理論的
泊明が殆んE符略されているのでは泣いかと一式う疑問である︒積極的に反問する怒らぽ今日経営をめぐりその存立を
支えている門外の訪問係は故早川中に経済的友いしは経管経済的訟もの以土肥集問的社会的訟ものに空で発展している
のではないか︑従ってとの問の状況を杷握するためにはもっと科会単的た方法や概念や原理を借りてくるにあらざれ
ばその完全なる把掻説明はできたいのではないかと云うところに︑正に﹁関係命﹂的研究が生れたのではないか︑ζ
の問の事情を理論的に説明するにあらざれば﹁閃係論﹂の木健在究極的に捉えることは不可能ではないかと一式う疑問
である︒以下以上のごとき消淀川に内ら符えククわれわれの立味する経悦閃係論の比例を明かにしてゆきたい白
( ぷ
2)
平井市太郎
wM
川の内叩川係と外部川係
一︑現代社会における利害者集団化の傾向
われわれの考伐を以てするたらば︑今日アメリカに沿いて各種の関係論が正に関係論として問題化されつつある事
的は決して中純なものではない白まやJ乙れを概括的に云う﹃ならば︑もともとかくのごとき関係論的た研究方法ないし
は仰点在新しく導入したのは例のハ1パ1
ド・グル
1ケを中心とする人間関係の研究︑とくに経営内に沿ける個えの
労働者をめぐる人間関係の研究にあクた口すなわちこ乙では従来久しくとられてきた﹁すべての社会問題は結局は個 人の問題である﹂と云う観点が捨てられ﹁すべての個人の問題は本質的には集団的︑社会的な問題である﹂とする新
しい観点が採用され︑(註
3)
個々の労働者の生産能率︑生産活動は決して個々に切り離された労働者の個人的性質 問題ではなく︑彼をして今日に至らしめた過去の生立ち︑教育︑経験︑ならびに今日彼をとりまくあらゆる集団的ク
ながり1
係わり︑つまりあらゆる人間関係によって左右されるものである︒従って客観的に彼の活動を認識するため
には彼をめぐるあらゆる人間関係︑環境︑状況を令一析せねばならや︑目的えに彼の活動をして能率的ならしめるにた
めには矢張り彼をめぐるあらゆる人間関係︑環境︑状況に安定と均衡を保たしめねばたらたいと云う社会学的た観察
方法が導入されたときに初まるものである︒
しかるに一方かくのごとき社会学的な関係論的研究方法が経営の内部関係の研究に学問的に導入される反面︑他方
現実的な問題として現代経営にその実践的た解決を要話したものは経営それ自体の高度化と云うとともさることなが
ら︑現代社会に沿ける利害者集団化の傾向とそれがもたらす経営の対外関係の複雑化と云う問題であったりしかもか かる対外関係は今や中に経済的なものの領域に尚まる乙となく︑さらに集団的︑社会的たものにまで発展している以
﹁純白関係論﹂の成立とその盟論的性格
四
経 営 と 経 済
四 回
上︑これが十全の理解のためには矢張り社会学的た研究方法を援用せねばたらやか︑くて一度経営内的危︑それも個々
の労働者左中心にして依立された関係論的研究方法が今や経営の対外関係の研究にまで発民拡犬されるに至ったもの とみる乙とができる︒つまり︑ととではあらゆる関係の中心点に個々の労働者を置く代りに経営否一般的に組織休そ のものを据え︑その存立と活動並に発展を理解するためにはそれをとりまく全体的た状況︑環境との持関係から把握 して来なければたらたいと考えられるに至って︑今日各種関係論が正に関係論として問題化されるに至ったものと考
えられる︒
よって以下われわれは便宜上︑主やかかる関係論の問題を引起した現実的危状況の中現代社会に拾ける利害者集団
化の傾向と︑それが机枇休としてのけ枕引にいかたる影山刊をもたらすものであったかを吟味してゆくととにしたい︒
あらためて一氏う況でもなく羽代社会在成立ぜしめている根本基調は個人主義︑営利主義︑自由主義である︒すたわ
ちことでは机会を机成する北川木市伏口問人でおり︑乙の場合それは自然人であると法人である乙とを問わや︑また労
問者であると商業者︑工業汗︑政治ずであるとを川わない
n
彼等は中世時代に沿けるがごとく︑権力的たもの︑特権
r
的なもの︑伝統的たものによってその存立を保附されているのとは兵り︑利己的︑獲得的︑合理的なホモ・エコノミ
カ(
出︒
目︒
開︒
οロ ︒
EK5
﹀としての創立と工夫と努力と式任とに沿いてその利治と存立とを確保してゆか怠ければな らないものである︒しかも近代社会に沿いてかくのごとき花沢人の消泊効を強調宇けているものは自由主義である.
すたわち乙乙では各人はその営業︑就業︑売買︑設波︑処介︑契約についてその自由が許されているのであるが︑それ
故に乙そ又反面においてはひたすら需要と供給と価格の三クによって自然的に自己調節されている自由市場に沿い
てv
他人と不可避的に競争することに工って自らの存立を確保してゆかなければたらないのである︒従ってかくのご
とき社会秩序の下に沿いては︑各人はこの競争に打勝ち︑自らの存立を確保してゆ/¥いためには︑ますます自己意識的︑
自主的となり︑可能なる限り官らの力を強大化せんとする傾向の生やる乙とはまことに当然の結果と云わざるをえ ない︒しかるにかくのごとき自主的友自己拡大も近代社会がいまだ脈えたるその成長発展の時期にある段階にあって は︑例人主持︑円山主誌のば却はそのまま実現されえてきたのであるが︑しかしその後資本主義経済社会が複雑高皮
佑し︑生産と購買との不均衡による自由市場の凶案化と乙れにひしめく競争の汲化が出現するに及んでは︑到底従来 のままの個人主義の原理では経済人は各自の利治と自由とを佐保実現してゆく乙とは凶維となクてきたーかくて乙の
困難を克服するために現代社会に川現してさた新しい事実乙そ所謂﹁利害者集団化﹂の傾向に外たらたい︒す︑なわち特
定の相片方に対し利市山花川じうするものが︑日己の力のみを以てしては充分これを消治または似保することができた
いこと花川化し︑川正に川的人日机叫することに上クて集団の力を以てその利害を椛保し自由を実現してゆかうとする
何一
向で
おお
n勿必乙の山内心の机
方たるもの以一クの場合もあり︑また時と問題に応じて多である場合もある口い・ず‑ r
れにも寸上︑羽代社会にかくのごとさ利引将ぷ川がますます増加する傾向にあることは︑新しい一つの事実であり︑
別代社会白羽市川ハム助かしてゆくものはかかろ必川であると云う意味において︑現代社会こそは正に個人桔成の社会で
はなく必
M
川成の社会であると云うことがで
S
るであろう︒かくてスチユア
lド・チェlスのごときは今日アメリカ
会同臨時経済委此会(吋
O B H V 2 R U 1 Z υ
片山Oロω
ニ
wo os
日ぽ
(一
B ︒
55 00 )
には全同製造業者協会︑商業会議所︑A・
F‑
L︑C・I・0
︑農業団体連合会を初め︑銀行協会︑保険協会など約四百の総数にとる利害者集団が対政府関係におい て附集している乙とを指摘しているし(詰
4)
会たギスト︑ハルパ1ト両氏がミゾリ1州カシサス市に司おいては労働
組合八一︑各種事業者団体四二︑市内に本部州北部地万支部主有する一品栄者団体三九︑自由職業者団体一五︑一般事 業者団体五︑総計一九二の利害者集団が存在していること主指摘しているのも︑一クの地域社会においでさえへいか に利害者集団佑の傾向が顕著であるかを示すものに外ならない︒(詑
5)
ムんもこ乙で一応注意されてよい乙ιは︑これら各都の利害肴集凶の仙絡にも基本的にはニクのものがありうると一式
うことである︑すたわちまやy
その第一には現に経済的な佼伎を維持しクつありながら︑さらにその利益をより拡大伸 張するために結合する︑一式わば積極的︑攻勢的た集団である︒例えば好対気の除でありながら︑よりその利溢を拡大 するために独占的市場統制左目的として結成せられるカルテル︑トラストなどがすなわちこれである︒しかしながら
第二の性格のものは少くともその出発点に‑おいてはむしろ消極的︑守勢的なものであり︑i
社会的︑経済的劣位にたク ものが集団的な組織力左以てその劣勢在カバーし︑以てその利益と自由とを防衛芦けんがために結成する集団化の傾向
ιe JNF e'
﹁終日関係論﹂の成立とその盟論的性格
四 五
経 蛍 と
経 済
四六
はむしるかかる場合に設も多く現わ札る
ο査し今日の社会は自由主義主基調とする¥社会でありながら︑結局は優勝劣
敗の結来俊者支配の社会と化し︑かかる関係に・おいて劣位に立クものの経済的諸条件は事実上殆んとそのすべてが優 位者たるものの一方的な支配によクて決定せられており︑劣位者にはただ形式上(含吉日)の自由と利益はあクて も事実上(品
022
︒)の自由と利誌は殆んどあり待ないような実情にあるからである︒従クてかかる情況の下にあク ては劣位者はまずまず日己波山的となり︑相互に共鳴を呼んで相提携し集団的な組織力によクて自らを防衛せんとす ることはまことに当然の成行と云わねばならないからである︒
かくて今日の社会にむいてはそれが似似的なものであれ治極的なものであれ︑これら無数の利害者集団が何者か主 相チとして必川主川山内し利引的に相対交抗争する災状主現出している︒かくて現代の社会は自白主義主基調とする社 会でありながら︑それは今や川中なる例人またわ個人の力のみによクて実現せられている白出主義ではなく︑集団また
は必凶の力によクて︑初めて宍刻されうる日山主花の社会と化しククある口換一一一目するならば今日の社会に・おいては段
平近世初期に沿いて夢想されていたようなホ毛・エコノミカはすでに逝去しておるのであり︑その弔鐘とともに﹁集
団﹂がそれにとクて替らんとしククあるのである︒かかる芯・味に沿いては現在社会こそは正に﹁個人的自由主義﹂の
社会ではたく︑﹁集団的自由主義﹂の社会であると云うことができるであろう︒
( 詰 3 )
HF ︐
93
口一 広
己開
門円 ︒
M吋 O﹁
開口
ou Z4 0・ ・ 40
ュE
m‑
‑H 20
司・
区戸
(ロ
・の
・0225戸
門コ
ペ・
同・
・05司Hロ 仏
5E
色
ω O 口 一 O H o m w ‑ P ω
吋﹀
(註
4)
盟E
司 向 ︒
rE
・ ロ 0
0 5 0 口 ﹃
白 山 河 口
口 仏 市 吋
M M Z M
M E 円0
・ ︑
22 ↓3
己古
pcgZ43z・3
当司
・
N N
(出 向 ロ
2
2仏﹃
25
・宗
一仏
・司
l∞ω斗∞ω
∞ )
( 註 5
)
開‑ H
・V
2 E
・仏SF
k r・
同・
同色
70 5d FS
・F口Ew
・M M
8 N (
ン ロ ロ ぬ
円 PE
司2
5w
王 子
・8M M
∞ ) 四︑利害者集団化の資らす経営経済的変動 しからば現代社会に治ける利害者集団化の傾向は基本的にはいかなる転換を意味し︑とりわけそれはわれわれの諒 四とする経ぽにいかなる変化︑勤揺をもたらし︑やがて各稜関係論の研究を要請せしめるに至クたのであるうか︒わ
れわれはこの間四にクいて次のごとき三クの点を指摘することができる︒
一︑個人的権力上め集団的権力え
すなわちまや第一にそれは従来伺人的伝ものに給付けて考えてきた格力(同
Mo d‑ R)
k云うものを今や集団的訟もの
陀給付けて考える工うに伝つ死亡止な点叫する︒従来の杭会に・おいては人は向己の存立在容休的に保障するものは それが向山知人でおれ法人であれ︑すべて他の何人であり︑その個人権力に友実的にか同町的にか触れるととに上って 円らの利桃山災現されろむの
km AJ えてきた︒しかし今や利害弁集団たるものが形成ぜられ︑それに工って自らの存立 すたわ?け山
K
利治どが的保されてゆくとととなると︑かかる集団そのものの中に権力を見出す工うに友らざるを得
次い円三ゾ1
︑ホ
1
ムはとれを権力の非個人化
( H B H V R ω
︒Eロ
N ω
片山
内﹀
口︒
同可
︒君
︒円
)と
称し
てい
る︒
(註
6)
い ま 乙 れ
た
m
在中心として考察する.たちば︑かかる原理の転換が経管に及ぼすペき影響には一一つのものが考えられうる︒一
w
つは経営がその構成単位として包摂される利害者集団と終営の関係であり︑二つは経営を構成する例えば労働者が労
働組合正云うが如き利害者集団を形成した場合︑それと経営との関係に・おいてである︒一式うまでもたく従来の産業経営
においてはその権力の約対性は経常党主宰し例意し指導するや業者もしくは経営者と一式う個人に・おいて考えられてき
た︒しかし訟がら今や経営がそれ自らの利誌を椛保するために︑工り上位の利害者集団に属しそれを通じてにあらざ
れば宵らの存立を確保し得友いと一式ろとととたると︑従来企業苦や特許者と一式う個人に・おかれていた経営権力の絶対
性が利害者集団と云う如.織そのものに若干移行せざるをえなく怒るととは当然であろう︒叉とれを経営内的た関係に 沿いてみても例えば労働者は従来経営の主宰者たる企業者︑経管者に絶対唯一の格力を認め︑それとの個人的︑人格 的友問係に上って自らの利治を実現確保するものと考えてきたのであるが︑しかし今や労働組合と一式う利害者集団が
出現し︑労働者はその一員として寧ろ自らの利益の焼設所在とれに見出し︑一明をかかる集団関聯に・おいて考える工
ろにたってきたのである︒(註
7)
はたしてしからほ従来令業者︑経管者を中心としてその支醍の下に︑一明がその 絶対的た権力から発するもの左考えてきた近代経営そのものにとって︑現代社会に・おけるかかる利害者集団化の傾向
とそは正に大きくその存立構造を揺るものでたければならたいロ
一一︑機能的結合より利括的結合え
﹁経営関係論﹂の成立とその理論的性格
四七
経 営 と 経 済
rm
1¥
現代社会に長ける利害者集団化の傾向の持つ第二の意味はそれが従来持能的に結合せしめられていた集団社会関係 を介解もしくは部弱化せしめ︑利治的に結合する集団社会関係を工り強化せしめた正云うととである︒す伝わち従来 の社会に沿いては各人は社会令業的にそれぞれ兵たる機能を担当し︑との異たる機能を通じて容前刺市的に結合する ととろに調和ある全体社会は成立してきたのであるロ換言するたらぽ乙とでは機能的訟ものがまや第一に社会を秩序 づけかかる機能の遂行に伴って利益は﹁キヴ
4アγ
ト
・ テ
1
ク
﹂ 的 に 自 ら 実 現 さ れ る も の と 考 え ら れ て き た の で あ
る︒しかるに今日にむいては単に桃︐能の遂行を十全に果していただけでは各人の利恭一は侭障さ︑れや︑ために締能的た結
合がむしろ第二美的とたり︑逆に利治的た狩人口が社会情成上その前面に強く現われてきたのである口それは撚能的に 具なるものの総合工り利件的に同じきものの結合えの発足であるとも云えるであろう︒
しからば今かくのど止さ以刊の恢机がけ
m mV H
にヰ入されんとした場合それは一一体何を意味するか︒周知のごとく従来
のけ刊行川仰に沿いては︑続九日は一氾目的述内のための活効︑機能の統一休であり︑との場合かかる機能の一切は経営目
的の主休汗たる余栄肴もしくは経将汗の木米刊当すペ古川
W︐惜すなわち経営者機能の延長であると考えられてきた口か
くて経常を梢成する各
λは︑その加知とそ瓜(なれ︑いやれも問問的た経討が什椛能をそれぞれに応じて計画的︑組織的
に担当せしめられ︑機能的に結合せしめられるととろに杭九日は存主ずるものと信じられてきたのである︒じかしたが
ら機能協同休的な性格の本来きわめて強いかかる経狩にむいてさえも︑へーや山山川口は終常的情的に結合せしめられる
工りも︑経営者は経営者︑職長は職長︑労働者は労働才︑川作一汗は山件︑ず同志に﹃おいて利括的に自ら結合せんとする
傾向を生じつつあるととを意映するのである︒換一一一閃する次らば絞仰向悦の担当者として経管管理の客体たちんとする
意識よりも︑利害者集団の一員として自主的た主休たちん止する苛識の方が工り強く現われんとしつつあるのであ
る︒
者出行者と労働者に関する限り︑その利害者集団化は経常に守とってさらにもち一つの宣犬たる変化転換を意味する
円それはかかる問係朽の利害肴集団化が同時にその経営外部品引化︑外存者化を煮味する正一式うととで色る︒あらため
て一氏うまでもたく近代余栄は企業者す伝わち出性経営者の設立するととろのものであり︑ととでは出性者は同時に経
営者として経営内部位成の設も主要なる主体者であクた︒しかるに所前貯木と経営の介離はかかる出資者をして事実
上経営管理の実際商工り後退せしめ︑加え川中なる出件ハ機能の担当者︑そしてそれに対する配当利得者としての地位に
転落せしめ︑経営の主休性︑
n
主出は淀川川それ円休乃至は専門経営者左中心として確立される上うになった白しかしてい主との市災はすでにして川件︑行が日仰の外作汗︑アウトサイダーと化したと左左京味するものであるが︑彼等が
町 市
l利件以什ししして川内行泉川花机叫しげ北九日に対抗してくればくるほど︑その外在者化の傾向︑性格はまずまず強めら
れてくる人ししは石氾できない︒
主穴子れを労倒汗についてみても︑従米の尚治経貯に・おいては彼等はひたすら従業員す左わち経営労働機能の担当 利として経叶作理的支配に服従するもの︑従つては主た経営椛成の内部要弓たる安格に沿いて考えられてきた白しか
るに今や労働者は他面白らが独立の生前汗︑生前川村︐胞の引当者たる自覚に基いて利害者集団としての労働組合を組織
し︑その一員としての也格を強く現わず上うに次って江穴のである︒そしてとの乙とはとりも直さ?とれまでひたす
︑ ︑ ら経営の内部情成員の民格においてのみ理解され
﹂たった彼等が︑今や経常のアウトサイダー︑外在者としての性格‑ T
を強めつつある乙とを意味するものに外ならない︒何此ならばもともと労働組合なるものは労働者が従業員すなわち 経営機能の担当者たる乙とを前提的機縁としながら一応かかる狗格上り離脱し一個の独立せる主体者として経営と対
い等的地位に・おいて安渉する組織に外たらないからである︒経営と対等的地位に・おいて安渉するものは最早経営のアウ
トサイダーたる地位においてでなけれぽならない︒
以上のごとく現代社会における利害集団化の傾向は︑従来強く機能的に結合していた社会を解体してますます強く 利害的に結合し相互に相対立する社会を出現せしめ︑その結果経営に・おいては経営機能の担当者として内在的性格の 強かったものがますます経営のアウトサイダー化せんとする傾向を示しク
L
あるのであるが︑かかる事実乙そ従来経
営機能の統ー一休として内部的に緊続たる結合を旨としてきた経営にとっては正に玄大たる変動を意味するものと一式わ
4なければならない︒
三︑利告者集団より権力圧力集団え
﹁純白閃係論﹂の成立とその理論的性格
四 九
経 営 と 経 済
::f .i O
さて第三に現代社会に台ける利者集団化の傾向は同時にそれが権カ集団化(句︒君︒門間gロ司)圧力集団化(旬︒
ω ω ロg
H円︒ロ℃)を意味し︑それはまずまず力そのものによる対立闘争を激化しづっあると一式う乙とである︒(詰
8)
何故たら
ぼ社会が機能結合的たもの上り利治結合的なものえ転化したと一式うととは最早﹁ギヴ・エ
Y F
・テ
1ク﹂左一式うが如 き互譲的たものが影をひそめ︑経済闘争以外に社会的な一般原理は見出しえない段階に到達しているととを芯味する からである︒かくて経済的た利害正利桃色が相対立して︑そとに当事者集団間の馳引安渉が行われる場合︑その最後 を決定するものは結局当事者間にゐける力関係であり︑相互に相手方陀対しいかに圧力を加え自らの優位性をかちう
るか正一式ろとみ一が利符ガ集同に去っ
vては故犬の閃心事とたクてくるのである︒しかもとの場合注意しなければ玖らな
いと止は︑かくの如売力川係は
hl fm に当川ぜる問問の解決についてその都度きり終結するものではなく︑将来に向
づて
q川内村山川町か
‑ m m
付山
叫ん
どす
九問
︑
11
ド︑が次されるとと︑投びにかかる力はひとりその利害者集団がそれ自らに直按所有
する力のみでは次く外部集川の力を
h m
わたて同時にとれらを向己附営の力たらしめんとする働きさえ盛んに行われ
る三氏うとしーであろnいだ以上山ペ
hl
曹と
しろ
をけ
品川
k w m
係九州的に一式ろならば作定経伝をめぐる各種の利害者集団は権力
集閉止しては(一)伐山口山市川川なじでその集問の仰はするととろに常に山立在向けしめ︑(二)その集団が経営指揮の内
本たる立志決定正訓税にち加しうるとム一死花将汗に永沼ぜしめ︑(三)できうべくんぽ経営者同の人事を意のままに 左右せんとして︑常時︑権力止圧力止を以て附んでくるのである︒(泊︒)又かかる格カ集団︑圧力集団としての利
害者集同が間八月以外の外部集同のカを私利用せんとするとみ一は常に必やしもとれ託行うととでは注いが︑しかしたと
えぽ労働争議の一場合に訟けるがご正く対立抗争が和一度に以化するムセしは︑自介以外の外部集団のカをも駆りたてんと
ていかに華々しい運動争一聴聞するかは常にわれわれの見うけるLしとろであり︑かかる場合は友朋諸団体のカは勿論の
とと新聞︑ラヂオ︑一般科会の質論︑左きには政党︑政府機関長でもがかかる力の中にまき込まれる乙とすちありう
るのである︒
かく
ア村
山狩
LL
その利品川げず集同止の聞係は同時に﹁力関係﹂﹀一たるものであるが︑ととに注意し友ければ段ちたいと
しし
は︑
か︿
のど
ム一
苛力
問係
は安
一一
同件
一山
に必
やし
q m 対立抗争の形を
'K
TF内示少︿ども表商上はきわめて・友突︑親善的た形を
とる場合があると云うことであるロ・例えば労使関係にクいて云うならば︑従米労伎関係においては所謂利潤分配制 度︑従業員持株制度︑産栄自治制皮︑従栄只相談制皮︑門戸開放制度など各杭の平和的︑民主的︑親善的な制度が実 施されきたクたととは川知のごとくである口しかしながらこれら労使同に沿ける諸制成は︑その夫両的な戸明にも拘
わらや必ヂしも.一川淀川一りの平和的︑民主的︑川氏い的立凶から出でたものではなく︑労働才の対抗力主快采︑緩和︑減
殺するための
m m
でおり︑従クて木げ川には伏然として力関係上の政策である場合が決して少くないのである︒殊に
アメリカ以どにわけらがどとく︑心ドヤ九州的に什よすべて松力的なもの︑暴力的なもの︑闘争的なものを段下する固にお
いては︑計川才は此陥的な川午に火州切クて山ると
aバうがごときことはせ十︑﹁平和と理解﹂を賞らさんがための腕
山的以況に山る均介が多いのである︒
( A m )
勿九州前述せるごとき諸制度がすべての場合において力関係上の偽装で
あると一五うのではない︑十日(にその叫げる日州いから川犯し正純な﹁平和と理解﹂を荒らさんとするものである場合もあ
る 乙 と は 一 氏 う ま で も な い 口
‑
¥ ともあれ今かくのごとくして現在の経営にはそれなとりまく各杭の利害者集団が権力集団化し圧力集同化して経営 に麓唱えの圧力を加えてくるのであるが︑かかる圧力に対処するためには中に経済取引以上のものが新しく必要である
のみならやノ︑経営権力えの挑戦︑経営意志決定えのぬけ泣に対しては︑いかに乙れを防衛し経営の自主性を確保してゆ
くか︑乙れまさに現代経営にとっては主大たる却問となって巴ているのである
n
札ーさて以上われわれは現代社会における利害者集団化の似向とそれが伝統的な経営に対しいかなる脅威︑変動を荒ら
すものであるかについて考察したのであるが︑しかしこれに関税して故後にもう一ク汚祭を必要とする問題がある︒
それは利告者集団としての国家または政府官庁と経営との関係である︒あらためて云うまでもなく近代国家の成立 は︑巾世的な封山地的権力国家が崩壊して所謂﹁国民間家﹂が出現すると乙ろから出発したりすなわち近代国家は何人 かの格力才︑作椛才のための国家ではなく︑すべては国民のための同家として成立したのである円しからばかくの
ごとき同民休制の下に沿いては岡山一氏は産業経営といかたる関係に立ってきたか︒それはアダム・スミス以来久しく説
かれてきたごとく︑元来産業経営の乙とは国民︑市民の﹁私﹂の乙とであり︑国家は乙れに対し洗りに干渉を加えて
﹁純白川係愉﹂の成立とその理論的性格
五
経 営 と 経 済
五 はならない︑もし国家にしてとれら産業経営に対したすべきととありとすれば︑それは産業経営の倒立と工夫と活動 とを自由容易ならしめ︑旦クそれが阻害されたいよう防衛してやる乙とであると云う考方であった口かくて母国イギ
リスに沿けると同様爾来アメリカにむいても所前﹁自由企業制(吋
50
開口
ZQ
江8
ω3
ZE
)
が久しき伝統として確立 されてきたととはあまねく人の知るところである︒すなわちかかる関係に沿いては国家は例えば財産︑契約︑商行為
に関する法律︑会社法︑破際法︑作品一川法などの制定︑補助金︑助成金の突付︑情報︑食料の提供などによって直接的
に内業経営を助成するとか︑あるいは︑幻易政策︑通貨政策︑商業政策︑工業政策︑産業政策たどによクて環境的に
古川治絞併前助を仰治するがごとさ加山にしか川でえたかったのである︒
しかるに一九三O年在前後して所川一一ナl・
. γ
イ1
ル政筑が宍現せられるや︑アメリカにおける産業経営との関係
は刊行しさ収抑在一不すに五ったnすなわちスベ
yJ γ
イング政策に上る同家院本の産業投狩︑証券取引所法︑ヮ〆ナ
1法
制定に上る労働組合の寸成保校︑労使関係えの川去の介入︑止へ主保険︑政的災巾一日保設︑表老年金︑寡婦年金その他の
社会一倒的制皮の拡充︑公巨労働基準法に上る労働条件の円以低保仰など日出全荒川の伝統とは逆に同家が積極的に而かも個えの経営にではなく産業全体に対し各種の制限たり介入たりを・加えてサたのである︒そしてとの場合同家のかか
る干渉を理論的に基礎宇けたもの乙そ﹁公共利益の理論﹂(叶
F g
円可 え
MMCE
宵 宮
﹀であった乙とは云うまでも古E2
左い︒蓋し当時ニュ1
・ヂ
イ
1
ル政策匠夜の目棋は一九二九年以来のボ什有の大不況をいかに克服快復するかと云う ととにあったことは云うまでもたいが︑かかる問題に対して同家が稲松的に乗出してきたのは未曾有の犬不況とこれ に伴う各種の社会的弊害とを解決するには︑今や従来のごとく民間産業人の創意と努力に任しその自己調節的た結果 に侠っていたのでは到底不可能︑無力であることが認識され︑公共の利益を確保するためにはどうしても全体的社会 的な立場に立ク同家がそれを直接の目標として積極的に突出すにあらざれば到底実現されえない乙とが事実を以て明 か に さ れ た か ら で あ る 口 ー
しかるにその後一品川はさらに三転した︑一九四O
年頃左前後して同際列同の利害はいよいよ激烈に対立し世界をあ げて第二次世外大戦の防術単仰時代に入るや従来公共の利誌の名の下に行われていた国家統制が今や国家利誌の名の