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インディアン・カジノ時代からみる先住民アクティ ビズムの半世紀

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インディアン・カジノ時代からみる先住民アクティ ビズムの半世紀

著者 野口 久美子

雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies

巻 50

ページ 63‑82

発行年 2017‑03‑01

その他のタイトル Indian Gaming and Post‑War Native American Activism

URL http://hdl.handle.net/10723/3004

(2)

【論 文】特集テーマ「マイノリティの視点から」

インディアン・カジノ時代からみる先住民アクティビズムの半世紀

(1)

 

野 口 久美子

“Indian Country understands it is not about gaming it is about economic survival and providing for our future generation.” (Ernest Tervens, Jr., Oneida Nation of Wisconsin, Chairman, National Indian Gaming Association year.)

【要 約】

1980

年代以降急速に発展した,アメリカ先住民部族によるカジノ産業は,先住民の経済活動や社会生活 全般に影響を及ぼし,先住民史において「インディアン・カジノ時代」とも呼べる,新たな時代を作り出 したといえる。本稿では,全国インディアン・カジノ協会の年次レポートや部族成員に対する聞き取り調 査,先住民保留地における現地調査結果を踏まえ,先住民カジノ産業が現代の先住民社会にいかなる影響 を与えたのか,特に

1960

年代以降の先住民による復権運動の思想的基盤となった部族主義を「インディア ン・カジノ時代」がいかに継承しているかに注目しながら分析する。先住民カジノ産業を,単なる先住民 の経済活動ではなく,先住民がいかにしてその生活を向上させ,さらには政治的な正義を追求しようとし ているのかという先住民アクティビズムの一形態として考察することで,現代のアメリカ社会におけるエ スニック・マイノリティーの復権運動を考える,一つの視点を提示してみたい。

はじめに

1945

2

23

日,硫黄島の頂にアメリカ国旗 が掲げられようとしていた。後に,旗を持った

6

人の兵士の写真は全米のメディアに流され,帰国 した彼らは一躍戦争ヒーローとしてアメリカ社会 に迎えられた。その中の一人に,アリゾナ州ピマ 部族出身のアメリカ先住民男性が含まれている。

イラ・ヘイズ,22才(当時)である。ヘイズの存 在は,同じく戦時中に活躍した他の先住民兵士,

例えばナバホ部族の暗号解読者(コード・トー カー)達などと並び,アメリカ合衆国(以下,合 衆国)を勝利に導いた先住民の象徴として,さら には第二次大戦における先住民の高い従軍率と相 まって,彼らがいかにアメリカ社会に貢献する正 当な「アメリカ人」であるか,という強烈なメッ セージとなった(2)

米軍による硫黄島占領(イラ・ヘイズは最左)(3)

第二次大戦における先住民の活躍が注目された 一方で,先住民が,戦後どの程度その生活環境,

経済状況を改善させたのかについては十分に焦点 が当てられてこなかった。ヘイズが出身地である

(3)

保留地(4)へ帰還後,アルコール依存症に苦しんだ 末に自殺するという非業の死を遂げたことが象徴 するように,先住民に与えられた「同化」という 戦後イメージと,荒廃した保留地の実情とは,大 きなかい離があった。実際に戦後の保留地社会は 貧困とアルコール依存症,高い失業率と自殺率,

そして社会崩壊に直面していたのであり,その惨 状は,1960年代から

80

年代にかけての先住民に よる復権運動を経験してもなお,劇的に改善され ることはなかった。

2016

年現在,合衆国には

567

の連邦承認部族(以 下,部族)が存在するが,カジノ産業は,全国

28

州で

239

の部族が従事する,保留地における一大 産業となっている(5)。1980年代末以降,急速に拡 大した部族によるカジノ産業は,戦後先住民社会 の貧困状況を解決するための打開策であった。か つて,平原地域の先住民にとって,バッファロー はその衣食住すべてを賄う貴重な資源であった。

バッファローが消滅した

19

世紀後半以降は,平原 部族のみならず,多くの先住民が,土地の喪失,

同化政策,社会崩壊を経験し,貧困状態に陥って いった。一世紀以上の間,先住民の貧困に対する 十分な打開策が講じられない中で,カジノ産業は,

「新たなバッファロー」として,先住民社会を支 える唯一の糧となったのである。そして,現在,

カジノ産業は,それに従事する部族の生活を支え るのみならず,時に部族に莫大な経済的利益と政 治的発言権をもたらしている(6)。カジノ産業は,

部族自治を経済的,政治的に支えつつ,現代の先 住民アクティビズムを活性化させてきたといえる であろう。まさに,1980年代以降,急速に広まっ ていったカジノ産業の成功は,先住民史において

「インディアン・カジノ時代」とも呼べる,新た な時代を作り出したといえる。

そこで本稿では,まず先住民によるカジノ産業 に関する先行研究について言及したのち,第

1

章,

2

章では,カジノ産業に参入するに至った先住 民社会の歴史的経験を政治的,経済的文脈からそ れぞれ整理し,第

3

章では,先住民カジノ産業に 関する司法判決と合法化に向けた立法措置につい て確認し,第

4

章では,カジノ産業が開始される

文化的文脈と関連させて,一部族がカジノ産業に 参入する過程と,その文化・社会的背景を,カリ フォルニア州のトュールリヴァー部族の事例から 紹介する。おわりにでは,カジノ産業が先住民社 会に与えた影響について総括し,カジノ産業が,

現代の先住民社会にいかなる影響を与えたのか,

特に,

1960

年代以降の先住民アクティビズムの基 礎となった部族主義を,「インディアン・カジノ時 代」がいかに継承しているかに注目して分析して みたい。先住民カジノ産業を,単なる経済活動で はなく,現代のアメリカ社会において,先住民が いかにしてその生活を向上させ,さらには政治的 な正義を追及しようとしているのかという先住民 アクティビズムの一形態として考察することで,

現代のアメリカ社会におけるエスニック・マイノ リティーからの視点を提示してみたい。

先住民カジノ産業に関する先行研究

先住民カジノ研究は,未だ緒についたばかりで ある。なかでも,2000年以降,法学,政治学分野 からの研究が蓄積されてきた。例えば,ラルフ・

A・ロッサムやパッツィー・ウェストらの研究は,

比較的初期にカジノ産業に参入したフロリダ州の セミノール部族やカリフォルニア州のカバゾン部 族が争った最高裁判決の事例を紹介し,保留地に おけるカジノ産業の管轄権をめぐる部族と州の対 立に焦点を当てている(7)。また,政治学者である

W・デイル・メイソンの研究は,先住民カジノ産

業に関する司法判決に加え,カジノ法設立にいた る連邦議会議論に着目しつつ,カジノ産業をめぐ る部族と州の軋轢が,連邦制と先住民の部族主権 という合衆国の政治体制の矛盾に起因すると指摘 している(8)。さらに,以上の基礎研究を踏まえた ケネス・N・ハンセンとトレーシー・A・スコペッ クらの研究は,カジノ部族(カジノ産業に従事し ている部族の意)が,ローカルやナショナルなレ ベルで展開する政治活動に着目し,先住民カジノ 産業によって変容した先住民社会の最たる特徴と もいえる,利益団体としてのカジノ部族の動向と 社会変化を分析している(9)。以上の研究は,アメ リカ社会の中で周縁化され,社会的,経済的,政

(4)

治的弱者とされてきた先住民社会から,カジノ産 業を通して,いわゆる「リッチ・インディアン」

が生み出される背景,それに伴う,部族社会の政 治的,経済的エンパワーメントの過程について,

個別的説明を試みるものであった。

こうした研究は,先住民カジノ産業に対する,

司法,立法からの個別解釈や,経済活動の現状報 告に留まり,部族がカジノ産業を取りこんだ歴史 的背景,具体的には,過去の連邦先住民政策や先 住民アクティビズムの諸相を踏まえ,先住民の視 点からのカジノ産業の発展過程について考察を加 えてはいない。また,アメリカ連邦制の観点から 先住民カジノ産業を分析したメイソンの研究も含 め,何故

1970

年代に先住民がカジノ産業に参入す る必要があったのか,実際にいかなる過程で参入 したのかなど,先住民カジノ産業に関する社会史 的視点が圧倒的に欠如している。特に,カジノ産 業が先住民社会と先住民性をいかに変容させたの かについては,アレクサンドラ・ハーモンらの研 究で扱われているが,同産業が,現代の先住民社 会の基礎を作った

1960

年代以降の先住民アク ティビズムや部族主義をいかに継承しているの か,という点についての分析はまだまだ不十分で ある(10)

カジノ産業について現時点で活用できる歴史史 料はかなり限定されている。

1980

年代から現代に かけての保留地内の経済活動に関する部族内議論 や,連邦政府と部族間で交わされた文書は開示さ れてはおらず,特にカジノ産業については,その 性質上,開示される情報自体が選択的,かつ限定 的である。そのため本稿では,以上の先行研究成 果と二次文献を踏まえ,カジノ産業についての公 的データとして採用されている全国インディア ン・カジノ協会の年次レポート,カジノ産業に関 する民間報告書,カリフォルニア州の部族成員に 対する聞き取り調査,カジノ施設における現地調 査結果を含めた,現時点で入手可能な情報をもと に分析を試みる。

1

章 部族の政治的地位と部族主義

部族固有の政治的地位

そもそも,州政府の規制下にあるカジノ産業に,

何故,部族が参入できたのであろうか。部族は,

合衆国の建国以来,合衆国国境内に居住しながら,

部族自治を行使するための固有の政治的地位を保 持している。結論を先取りすれば,カジノ経営は 部族自治を行使する先住民が,保留地内で行なう 経済活動の一環であった。以下では,やや時代を さかのぼりつつ,部族のカジノ産業の前提となる,

先住民の政治的地位を整理してみたい。

フランス移民であるジョン・クレブクールは

1782

年,その著書『アメリカ農夫からの手紙』に おいて,独立戦争直後のアメリカ社会を以下のよ うに観察している。

「(アメリカ人は)ヨーロッパ人か,ヨーロッパ人 の子孫でもありますが,他のどの国にもみられない 不思議な混血です。私はこんな家族を知っています。

祖父はイングランド人で,その妻はオランダ人,息 子はフランス人の女性と結婚し,今いる四人の息子 たちは今では四人とも国籍の違う妻を娶っていま す。……ここでは,あらゆる国々から来た個人が解 け合い,一つの新しい人種となったのです。(11)

クレブクールの観察眼は,すでに多元主義的ア メリカ社会に対する鋭い洞察力に満ちている。確 かに,合衆国には建国時より多様な出自,人種,

民族が混在し,かつ混血化するるつぼ的社会で あった。しかしながら,アメリカ社会に一定程度 存在していながら,クレブクールのアメリカ論に 取り入れられなかった

2

つのグループがある。そ れは先住民と黒人である。特に,本稿が焦点を当 てる先住民に関して,現在の合衆国国境内には,

15

世紀の初頭に

500

以上の部族を構成する

500

人から

1,000

万人の先住民が居住していたと見積

もられている。早くから移民と接触してきた東部 湾岸地域の先住民の人口は,ヨーロッパからもた らされた伝染病によって急速に減少するが,それ でも,独立戦争(1775-1783)の際には,多くの部

(5)

族がイギリス,もしくはアメリカ植民地軍の主力 部隊として戦力を発揮し,かつ両軍に対して政治 的発言力を持っていたことはあまり知られていな (12)

その確かな存在にも関わらず,先住民は,合衆 国の建国のプロセスからも除外されていた。1788 年に制定された合衆国憲法では,先住民について 言及した箇所が

2

か所存在する。合衆国憲法第

1

2

節第

3

項には,「下院議員の数及び直接税の徴 収額は,連邦に加入する各州の人口に比例して分 配される。各州の人口は,自由人の総数をとり,

この中には一定の期間役務に服する者を含ませ,

課税されないインディアン(Indian not taxed)を 除外し,これに自由人以外の全ての人数の

5

分の

3

を加えたものとする」とある。また,同第

1

8

節第

3

項では,「諸外国との通商及び各州間並びに インディアン部族との間の通商を規制すること」

とある。これらの記述は,先住民(インディアン)

の法的,政治的地位について直接言及しているわ けではないが,理論的に考えれば,以上の内容か らは,憲法制定者たちがこめた以下

2

つの意図を 読み取ることができる。それはまず,先住民が連 邦を構成する州の人口には含まれないこと,そし て,「インディアン部族」は,外国でも州でもなく,

それと並列化されうる固有の政治組織であるとい うこと,である(13)

合衆国憲法では,「インディアン部族」が,合衆 国の境界内に存在しながら,その連邦制には「含 まれない」,異なる主権集団とみなされている。い うまでもなく,合衆国内に異なる主権集団の存在 を認めることは,国家の存続にかかわる大きな矛 盾である。しかしながら,こうした妥協策を作り 出した背景には,合衆国内に(あるいは以後,合 衆国の領土の拡大に伴って随時変更される国境内 に),圧倒的多数を占める先住民人口と,強力な軍 事力と政治力を備えた部族社会が存在していたこ とがあった,という点は想像に難くない。加えて,

先住民史家であるウィルコム・

E

・ウォッシュバー ンが指摘するように,合衆国はその建国以来,民 主的国家であるという「国家の理性」を維持しな がら,国境内にすでに「生得権」としての土地権

を持つ先住民と共存する方法を模索せねばならな いという宿命を背負っていた(14)。結果として,州,

準州から成る連邦制国家でありながら,国境内に,

そのいずれにも属さない多数の部族(主権国家)

が存在するという,複雑な政治体制が生み出され たのである。

部族の固有の政治的地位を最も端的に表すの が,建国期から

1877

年にかけて合衆国と部族で交 わされた土地をめぐる条約の存在である。この間,

締結された条約数は

600

に上る。合衆国は,「外交 政策」として,主権集団である部族が占有する土 地を入手していたのである。たとえその間,先住 民戦争や強制的移住政策によって,部族からの強 制的な土地の収奪を行おうとも,あるいは,合衆 国が幾度となく条約内容を反故にしたとしても,体 面上,「外交政策」としての条約締結自体は継続され (15)

しかし,国家の境界内に異なる主権集団が存在 するという状況は,19世紀初頭になって,ほころ びを見せ始める。その背景には,米英戦争(1812-

14)後,綿花プランテーションで経済力と軍事力

を備えた南部諸州が,その州境界内に居住する部 族の自治権に対し,介入しようとしたためである。

特に,

1829

年の大統領選挙で選出された南部出身 のアンドリュー・ジャクソンは,その翌年,南部 諸州の境界内に居住していたチェロキー,チョク トー,チカソー,セミノール,クリークといった 諸部族をミシシッピ川以西に移住させる,強制移 住法を制定した。同法は,州の自治権が部族の自 治権に優先されるのか否か,という憲法解釈に関 する議論を巻き起こし,同時に,合衆国の連邦制 そのものが内包する「矛盾」をあぶりだしたので ある(16)

このとき,連邦制と部族の固有の政治的地位の 関係性について,改めて解釈を提示したのが,い わゆるマーシャル判決である。1831年から

32

にかけ,ジョージア州内に居住するチェロキー部 族とその部族自治に介入しようとしたジョージア 州の対立は最高裁にまで持ち込まれ,最高裁判事 ジョン・マーシャルによる

2

つの最高裁判決を生 み出した。同判決は,先住民カジノ産業導入の背

(6)

景となる,部族の特殊な政治的地位を積極的に規 定した重要な判例であるため,その内容をここに 整理する。

まず,

1831

年のチェロキー部族へのジョージア州 法の適用をめぐるチェロキー部族対ジョージア裁判 では,チェロキー部族が「国内依存国家(domestic

dependent nation)」という,特殊な政治的地位に

あること,さらに,連邦政府は同部族を後見的立 場で保護する責任があることが確認された。さら に,チェロキー部族領内への立ち入りを州法で罰 せられた宣教師がジョージア州を訴えたウーセス タ対ジョージア州裁判においては,チェロキー部 族は,固有の領土を持つ異なる集団であり,条約 締結や議会法,もしくはチェロキー部族の同意な しに,ジョージア州は州法を適用することはでき ない,と確認された。これらの判決は,合衆国憲 法では行間に隠されていた部族の政治的地位に関 して,部族は「国内依存国家」という固有の政治 的地位を持つこと,部族に州法は適用されないこ と,連邦政府が部族(の政治的地位)を保護する 義務があること,という

3

点を明確にした(17) ここで,マーシャル判決で確認された先住民の 政治的地位が最も脅かされた,先住民に対する同 化政策期についても言及しておきたい。

19

世期後 半に本格化した先住民戦争や虐殺,離散などに よって先住民人口が減少すると,連邦先住民政策 は「身体的虐殺から文化的虐殺」,つまり,先住民 にアメリカ文化を強要する同化政策期に移行し た。特に

1870

年代から

1920

年代にかけて,部族 の共有地である保留地の個人割り当て政策や,寄 宿学校での強制的同化教育などによって,先住民 個人の経済的自立が推進される一方,部族社会は 同化の障害とみなされた。1924年には,すべての 先住民にアメリカ市民権を付与する先住民市民権 法が制定されている(18)

同政策によってマーシャル判決で確認された部 族の政治的地位が消滅したわけではない。だが,

同化政策期には,保留地から出てアメリカ社会に 同化した先住民は増加し,また多くの保留地では,

部族社会に強いられた社会変化(西洋的ジェン ダー観の導入や部族の伝統的指導者の役割低下な

ど)によって,「伝統的」部族社会自体の機能が危 機に直面した。さらに,同化政策の核となった土 地政策(後述)が失敗したことによって,収入の 手段を失った保留地の部族社会を,貧困が襲った のである(19)

1934

年,保留地の社会状況が問題視される中,

フランクリン・ルーズベルト大統領による一連の 福祉政策,いわゆるニューディール政策の一環と して,インディアン再組織法(Indian Reorganization

Act,以下,再組織法)が制定された。再組織法は,

内務省の指揮下において,先住民が保留地,ある いは部族単位で部族憲法(tribal constitution),部 族会議(tribal council),部族経済共同体(tribal

corporation)を設立すること,さらにそれに伴う

資金援助について定めた法律である。同法は,先 住民の「伝統的」政治体制を,「西洋式」政治体制 に再組織させることで,部族社会の「建て直し」

を図り,将来的な自治,自活を促すことを目的と している。加えて,同法は,合衆国と部族との信 託関係と部族固有の政治的地位は維持することを 確認した(20)。再組織法は,部族社会の惨状に目を 向けた人道主義者や多元的社会を目指す社会福祉 活動家,さらに,連邦と部族関係の効率化と,部 族の自立により将来的な補助金削減を意図した連 邦議会や内務省の思惑が交差した先住民政策の妥 協案といえよう。

というのも,マーシャル判決で確認された「国 内依存国家」という部族固有の政治的地位と,再 組織法型部族自治とには大きなかい離がある。何 よりも,後者は,最終的な決定権が内務省にあり,

「主権国家」としての部族の政治的地位を大きく 狭めているのである。一方,再組織法を受け入れ ることで,部族は,新たに「連邦承認部族」とし ての政治的地位と,それに付随する連邦補助金を 獲得した。再組織法とマーシャル判決はいかに共 存するのか。当初より,この点について鋭く批判 した部族は存在したが,多くの部族が,将来的な 自治,自活のための現実的な選択として,あるい は半ば強制的に,再組織法を受け入れ,部族会議 を設立した(21)

結果的に,この妥協案は,現代社会にまで続く

(7)

連邦,先住民関係を確立した。だが同時に,再組 織法体制が「国内依存国家」としての部族固有の 政治的地位をいかに継承できるのか,という問題 を抱えたまま,部族は,

20

世紀後半を迎えること になるのである。

先住民アクティビズムと部族主義

歴史家ケネス・W・タウンゼントが指摘するよ うに,ヘイズに代表される第二次世界大戦での活 躍は先住民のアメリカ社会への同化,というメッ セージを広めただけでなく,先住民の権利意識を も高めた(22)。保留地に帰還した先住民は,過去の 不当な連邦先住民政策に対する補償を求め,組織 的運動を展開したのである。1944年,戦争から復 員した先住民が中心となり,50 部族の代表者に よっ て 全国 ア メリ カ ・イ ン ディ ア ン議 会 (The

National Congress of American Indian,以下,NCAI)

が設立された。NCAI は再組織法下で設立された 部族会議の基盤強化を目指す部族リーダーの活動 母体として,以後の先住民運動をけん引すること になる(23)

1960

年代以降,全国的に展開された先住民の復 権運動の起爆剤となったのは,1961年,NCAI 主催したアメリカ・インディアン・シカゴ会議で ある。参加者は「インディアン目的宣言」を起草 し,連邦管理終結政策の廃止,内務省インディア ン局の組織改革,連邦先住民政策の立案,運営に おける先住民の参加など,部族自治を支えるため の重要な提言を行った(24)。特に

NCAI

が批判を向 けたのは,先住民に対する連邦管理終結政策であ る。第二次大戦後に,連邦先住民政策における資 金難を受けて採用された同政策は,保留地の存在 に象徴される連邦政府と部族の信託関係を「パ ターナリズム」とみなし,部族固有の政治的地位 の解消と,先住民のアメリカ社会への早急な同化 を目指した一連の政策であった(25)

連邦管理終結政策は,以下,2 つの政策として 施行された。保留地の民事・刑事管轄の各州への 移行と,先住民の都市への移住政策である。これ ら一連の政策は,保留地に居住する先住民の複雑 な政治的,法的地位を解消し,アメリカ先住民の

同化をより促進することが目的であった。

1950

代以降,いわゆる「都市インディアン」が急増し たのも,こうした背景がある(26)

部族固有の政治的地位を,半ば強制的に終了し ようとした連邦管理終結政策と,それを批判した

NCAI

によるシカゴ会議が火付け役となり,1960 年代から

70

年代にかけて,先住民による復権運動 は,瞬く間に全国に広がっていった。こうした復 権運動は,NCAI に加え,都市に移住した先住民 が中心となって形成されたアメリカ・インディア ン・ムーブメント(AIM)に代表されるような,

時に急進化した直接行動によってもけん引され た。運動の参加者は,連邦政府主導の連邦,部族 関係を廃止すること,それに伴う内務省インディ アン局の再編,そして部族主権の一層の強化など を訴えた。歴史的分析を加えれば,1960年代以降 の復権運動は,

1930

年代に構築された再組織法体 制の矛盾(内務省管轄下の部族自治体制)を突き,

一方で部族固有の政治的地位をより強化しようと する部族主権を訴えるものであった。

さらに

1970

年代以降,先住民による復権運動 は,高等教育を受けた先住民知識人に継承され,

学問分野にも広がっていった。先住民研究学部

(NAS)を含む,各種エスニック・スタディーズ の設立は,公民権運動や先住民運動の最大の成果 であるといえるであろう。特に,「先住民による先 住民研究」を掲げた

NAS

は,部族固有の政治的地 位とそれに基づく先住民の復権運動を学問的に支 持してきた。

NAS

は,再組織法型部族自治と,「国 内依存国家」としての部族との矛盾を認識しなが らも,先住民の将来が,再組織法を基盤とした部 族組織の強化にあるとする学問的アクティビズム の側面を持っている。その過程で,固有の政治的 地位を持つ部族が単位となり,先住民の復権を目 指すことを意味する部族主義(Tribalism)や部族 ナショナリズム,部族プログラムといった概念が 作り出された(27)。これらは,マーシャル判決や再 組織法を通して歴史的に構築された「部族」とい う概念を戦略的に用いつつも,部族本来の社会的,

政治的,文化的役割を強化し続けようとする,現 代の先住民復権運動の根幹をなす概念である。

(8)

1960

年代以後,先住民は,自らの直面する「不 正義」に,主体性と戦略性をもって立ち上がって きた。その間,先住民運動は,連邦政府の先住民 政策に対する責任問題に加え,例えば,博物館に おける非人道的展示,メディアや学問における先 住民描写のステレオタイプ化,環境レイシズムな どを問題視し,国家,地域,そして,多様な先住 民社会を巻き込んだ議論を展開させている。こう した議論や実際の運動は,先住民の側からは,個 人,コミュニティー(特に都市部に居住する先住 民),部族,さらには汎部族的組織(NCAI

AIM

など)を単位として展開されてきたが,その主目 的は先住民の部族主権の強化に他ならない。つま り「不正義」を正すための様々なレベルでの行動 の目的は,自分たちの属する部族の諸権利を回復 することである。さらに,その二次的結果として,

先住民であることは「部族成員であること」と同 一視される,今日の部族ナショナリズムを作り出 してきたともいえるであろう。

先住民カジノ産業は,固有の政治的地位を持つ 部族が,保留地で行う自由な経済活動の一環とし て導入された。その上で,同産業は,現在,そし て将来的な部族主義,部族ナショナリズムを経済 的に支える重要な手段となっていくのである。

2

章 先住民の貧困とカジノ産業

次に,先住民カジノ産業が開始された背景につ いて,保留地の社会状況から考察していきたい。

1970

年代末,保留地は圧倒的な貧困状態にあっ た。結論を先取りして言えば,先住民カジノ産業 は,部族がその固有の政治的地位を利用し,貧困 から脱するために保留地に誘致できた数少ない産 業の一つであったのである。

1970

年代における先住民の貧困は,先住民の生 活を支える土地の減少に伴う,必然的帰結といえ るであろう。合衆国の歴史は,先住民の居住地に 国家の領土を拡大していく,土地収奪の歴史でも あった。特に同化政策期と戦後の連邦管理終結政 策期において,多くの先住民は保留地の土地基盤 を失い,貧困化していった。そこで,1946 年に

NCAI

の積極的な働きかけで設立されたインディ アン請求委員会は,部族と連邦政府との条約内容 に立ち返り,連邦先住民政策の中で先住民から不 当に取り上げられた土地を補償するための調査,

裁判機関となった。

1978

年にインディアン請求委 員会が廃止されるまでに,先住民からの全請求の

58%に賠償が認められ,342

件の請求に対して

8

億ドル以上の補償金が支払われた。一方,イ ンディアン請求委員会による補償は金銭的やり取 りに留まり,部族成員の生活を根本的に立て直す 保留地の増加にはつながらなかった(28) 前節でみたように,NCAI によるシカゴ会議以 降の先住民復権運動は,部族の政治的地位や部族 主権の強化に向けたアクティビズムとして,ある いはそれを支える学問理論を構築したという点で は大きな成果を残したが,一方で,それらの運動 が,保留地の生活状況の実質的改善に果たした影 響はそれほど大きくない。確かに,部族の復権と 連邦政府の歴史的責任を追及したこれらの運動 は,結果として,1960年代以降,連邦政府の部族 に対する補助金の増額をもたらしたが,保留地で 採掘される天然資源を利用した産業や観光業を導 入した一部の部族を除いて,多くの部族では保留 地産業やその担い手の育成,雇用政策は十分には 行われていない。そのため,部族は,部族自治を 維持するために,かえって連邦補助金への依存を 強めざるをえなくなったのである(29)

保留地内雇用の増加と独自産業の育成が停滞し ていた背景にはいくつかの理由があった。まず,

建国以来,保留地における商業規制や管轄権など を定めた無数の法律の存在がある(例えば,連邦 管理終結政策の一環として定められた公法

280

は,重犯罪や一部の刑法を州,連邦の管轄,軽犯 罪や民法を部族の管轄としている)。つまり,連邦 制と部族自治を併存させるために合衆国が定めて きた複雑な「先住民関連法」の存在は,保留地外か らの産業誘致や投資を困難にしたのである(30) また,保留地とその周辺の複雑な土地権の帰属 状況もそれに拍車をかけた。同化政策期,保留地 の一部を個人所有化することを目的として制定さ れた,いわゆる一般土地割当法(通称,ドーズ法,

(9)

1877

年)によって,多くの保留地内には,元来の 保留地(連邦信託地)に加え,先住民による個人 所有地,先住民から非先住民に売却,賃貸された 個人所有地が混在していた。加えて,先住民によ る個人所有地は,持ち主の死亡に伴う遺産相続に よって,さらに細分化していた。こうした状況は,

過去半世紀間で,元来の保留地境界線内に,保留 地,小規模の先住民個人所有地と非先住民所有地 が作り出されたことを意味する。保留地への産業 誘致を困難にしたのは,「虫食い状態」や「飛び地 状態」と表される,こうした保留地環境にもあっ (31)

また,軽視してはならないのは,非先住民社会 からの保留地に対する差別意識である。元来,保 留地は都市部や市街地から地理的に離れ,入植者 が少ない不毛の土地に設立されてきた。多くの保 留地は,季節労働者などの行き来を除き,非先住 民社会からは明らかに孤立して存在していたので ある。カリフォルニア州を例にとれば,保留地の 先住民が,労働や飲食を目的として近隣の市街地 に出向くことはあっても,1970年代に至るまで,

非先住民が保留地を訪れて定期的な交流を持った り,その近隣に土地を購入,居住したりすること は多くなかった。また,保留地や先住民に対する 差別意識や,「アルコール依存者」や「失業者」と いった先住民のイメージは,アメリカ社会に根付 いていた。実際,1970年代において,カリフォル ニア州の保留地内の平均的な失業率は

50%であ

り,アルコール依存症率は成人の

70%にも上って

いたのである(32)

さらに,NCAI の活躍の反面,多くの部族では 再組織法下で設立された部族会議が十分機能して いなかったことも,保留地の貧困化を招いた一つ の原因といえよう。まず,保留地では,部族会議 に対する反部族会議派(時として「伝統派」と呼 ばれる)たちの不満が根強く残っていた。こうし た対立は

1973

年,サウスダコタ州でおこったウン デッドニーの占拠事件にも明らかである。このと き「伝統派」は,現行の部族会議が,再組織法の 下で便宜的に設立された内務省の傀儡政権に過ぎ ないと反乱を起こしたのである(33)。一方で,保留

地では部族会議の役割や部族法,連邦政府との交 渉を行える新たな部族リーダーや経済的指導者が 育成できてはいなかった。確かに,連邦政府によ る職業教育訓練や連邦奨学金制度で高等教育を受 ける若者は少しずつ増加傾向にあったが,保留地 に戻って部族会議を運営する人材の育成は遅々と して進まなかった(34)。部族会議の人材不足によっ て,部族自治の遂行のみならず,必要な連邦補助 金の申請や,保留地資源の利用,産業の育成がな されなかった保留地も多い。

以上のような保留地の状況に対して,連邦政府 もまた有効な経済復興策を導入できずにいた。例 えば,1960年代,ジョン・F・ケネディ,リンド ン・B・ジョンソン両政権は,「貧困との闘い」を 政策の軸として,先住民への補助金増を打ち出し た 。 特 に , ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 に よ る コ ミ ュ ニ ティー・アクション・プログラム(CAP)は,保 留地における貧困対策のための人材育成や新事業 の立ち上げ,雇用促進を目的とする経済・福祉政 策であった。CAPは,先住民に雇用機会を与える と同時に,次世代の先住民リーダーを育成し,先 住民主導の自活に向けた一歩として一定の成果を 生み出した。だが,CAPも,保留地内に長期的な 雇用を作り出すことはできず,依然として,先住 民の連邦政府の資金に対する依存を強めたことに 変わりはなかった。加えて,CAPは,その補助金 の分配,用途をめぐり,部族内対立や部族間摩擦 を生み出した(35)

特に,先住民主導による経済復興プログラムに ついては,リチャード・ニクソン大統領による

1970

年の「特別教書」で,改めて提言された。ニ クソン大統領は,連邦管理終結政策を廃止し,部 族と連邦政府の信託関係を確認するとともに,先 住民による連邦プログラムの運営,管理と経済開 発促進の方針について明確に述べている。その背 景には,ニクソン政権前後により急進化した先住 民運動がある。同時期には,アルカトラズ島占拠

(1969年),首都ワシントンでのインディアン局 本部占拠(1972年),ウンデッドニー占拠(1973年)

というように,

AIM

による直接抗議行動が続いた。

「特別教書」での提言は,ニクソン政権期

2

(10)

目に制定されたインディアン自決・教育援助法

(1972年)に結実した。各先住民団体や部族指導 者,教育者など多くの先住民の陳述を受けて作成 された同法は,住宅,医療,教育,経済開発など の連邦先住民政策を部族が主導して行うこと定め ている(36)。ニクソン政権に至り,連邦政府からの 補助金を部族が独自に運用するという,新たな部 族自治,自活の枠組みが整ったといえるであろう。

とはいえ,以下のデータからもうかがえるよう に,保留地が,依然として貧困状況にあったこと には変わりなかった。

1970

年代における保留地の 平均収入は全米平均の

32%であり,保留地の先住

民の失業率は

49%(全米平均の 8

倍),そして,

9

割の先住民が上下水道,冷暖房なしの生活環 境にあった。さらに先住民の平均死亡年齢は,高 い自殺率,アルコール依存症による死亡率を反映 して

40

代に留まり,これは全米平均寿命の約

3

分の

2

程度でしかなかった。保留地の平均収入に 目を向ければ,

1980

年代には連邦補助金の増加に より全米平均の

41%に上昇するも, 1990

年代には

32%まで減少している。これは,保留地の平均収

入が,連邦政府の補助金の増減に左右される不安 定な状況であり続けたことを示している。

1960

代以降の連邦先住民政策の変化にも関わらず,先 住民は連邦補助金に依存する,「最も貧しいアメリ カ人」であった(37)

フロリダ州に居住するセミノール部族が,保留 地内でビンゴ場を開始した

1970

年代末から,多く の部族がカジノ産業を開始する

1980

年代にかけ て,部族は貧困を打開するための有効な経済政策 を見いだせずにいた。孤立した保留地に住む諸部 族は,低い初期投資で利益が得やすい,魅力的な 産業として,ビンゴ場の経営に乗り出すことにな るのである。

3章 カジノ産業をめぐる州と部族との対立

合衆国におけるカジノ産業

1979

年,フロリダ州ハリウッドに保留地を持つ セミノール部族は,保留地内にカジノ施設を誘致 した。週に

6

日間の経営で,100ドル以上の賞金

を出すこともある高額掛け金のビンゴ場である。

この部族ビンゴ場は短期間で大成功をおさめ,そ れに伴って,ムスコギー部族を含む近隣の諸部族 が次々と同様のビンゴ場経営に乗り出した(38)。一 方,部族によるカジノ産業が拡大する勢いを見せ 始めると,フロリダ州では部族によるビンゴ場経 営の是非をめぐり,部族と州の軋轢が高まって いった。

合衆国におけるカジノ産業は,元来,州の規制 下に置かれてきた。例えば,カジノを最も早く合 法化したのがネバダ州である。1831年,鉱業地帯 に隣接したラスベガスに,鉱業労働者のための娯 楽施設が設けられ,その中にカジノ場が開設され た。1930年代のニューディール期には,フーバー ダムの水力発電を用いてラスベガスに大量の電気 が送られ,街のシンボルでもある,きらびやかな ネオンが飾る夜景を作り出した。加えて,第二次 大戦後には大規模な商用施設が次々と併設され,

ラスベガスやリノには一大カジノ施設が誕生し (39)

1970

年代に入ると,全米各州は,不況による税 収入の減少を補てんするため,高収益を見込める カジノ産業に参入した。以下でみる第

3

種カジノ を導入した州の数は,

1978

年に合法化したニュー ジャージー州を筆頭に,1998年までに

9

州,さら

2005

年までには

28

州に増加している(40)。また

2003

年までに犬,馬レース競技カジノが

43

州,

ロッタリーが

40

州,慈善カジノが

47

州,商業カ ジノ(ラスベガス式の大規模カジノ)が

11

州で合 法化されており,現在までに,ユタ州を除きほと んどすべての州が何らかのカジノ産業を認めてい (41)

1995

年,ネバダ,ニュージャージー,イリ ノイ,ルイジアナ各州におけるカジノ産業からの 収益金はそれぞれ

2

億ドル,ミシシッピ,コネティ カット,ミズーリーは

1

億ドルに上り,カジノ産 業からの州の税収入は全米で

1

億ドルにも上っ た。先住民カジノ産業は,まさに,州によるカジ ノ合法化時代の中で開始されたのである。

先住民カジノ産業と司法判決

セミノール部族が居住するフロリダ州は,1970

(11)

年当時,慈善カジノのみを合法化していた。その ため,同部族があるブロワード郡では,セミノー ル部族による高額掛け金のビンゴ場経営が州法違 反であるとし,同地の郡保安官がビンゴ場の規制 に乗り出した。これに対してセミノール部族が訴 えを起こした連邦地方裁は,部族の経営するビン ゴ場には,州の管轄権は適用できないとして,部族 のカジノ経営を支持した。これを不服とした州政 府と部族の対立は最高裁にまで達するも,

1981

に最高裁が出した判決は同様にカジノ産業におけ る部族の管轄権を支持するものであった(Seminole

Tribe of Florida v. Butterfield, 1981)

(42)

同様の係争はカリフォルニア州でも起こった。

当時,カリフォルニア州は掛け金が

250

ドル以下 の慈善カジノ(ビンゴ)や,パリミューチェル方 (43)で行う競馬,カードゲーム等を合法化して おり(郡や市が規制することもある),加えて,州 も独自にロッタリーを運営していた。しかし,州 内に居住する部族が州の規定以上の高額カジノ施 設を開設すると,州以下の自治体は相次いで取り 締まりに乗り出した。例えば,1980年,リバーサ イド郡にあるミッション・インディアン・カバゾ ン・バンド(以後,カバゾン部族)はポーカー場 を開設したが,その

2

日後にはインディゴ市警察 が検挙に入っている。当局は,ポーカーを禁止し ているインディゴ市の規制を破ったとして,カジ ノ場の職員,労働者,部族成員を含めた約

1000

を逮捕し,カバゾン部族にポーカー場の閉鎖を命 じた(44)

これを受け,同年

3

月,カバゾン部族は連邦地 方裁に訴えを起こしたが,判決はインディゴ市側 の主張を支持するものであった。しかし,1982

12

月に行われた第

9

上訴審では,インディゴ市は カバゾン部族の保留地に対する管轄権は持たず,

よって,市のカジノ規制をカバゾン部族に適用す ることはできないと,前判決を覆した。しかし,

同部族のポーカー場運営をめぐる市と部族の対立 は終わらず,郡,州も巻き込み,1987年には最高 裁にまで達している(California v. Cabazon Band of

Mission Indians, 1987)。同年 2

25

日,最高裁は カジノ産業におけるカバゾン部族の主張を支持

し,部族はカジノ産業を継続できる,との判決を 下した。同判決は,部族固有の政治的地位を尊重 し,部族には「その成員と領土に対する自己決定 権があり,部族自治は……州によって制限される ものではない」としたのである(45)

以上に挙げた,初期の先住民カジノ産業をめぐ る部族と州の争いは,州境界内に固有の政治的地 位を持つ部族が存在した場合に,その最終的な管 轄権はどこに所属するのか,という根本的問題を 提示している点で,

1830

年代にマーシャル判決に 至った,部族領土の管轄権をめぐる州と部族間の 争いに共通する。先住民カジノ産業をめぐる以上

2

つの最高裁判決は,まさにマーシャル判決を継 承し,州政府は,保留地と部族の経済活動に対す る管轄権を持たないことを改めて提示した。

カジノ法

先住民カジノ産業をめぐる

2

つの最高裁判決を 受け,州内に同様の先住民カジノ産業が急増する と見込んだ各州は,同産業に対する何らかの規制 措置を連邦議会に求めた。一方,カジノ産業に関 する立法措置を求めたのは,部族側も同様であっ た。部族は,州政府の干渉から部族によるカジノ 産業を保護する法律の制定を連邦議会に対して要 請した。すでに,セミノール判決前後の

1983

年か

85

年にかけて,連邦議会には先住民カジノ産業 の保護と規制に関する複数の法案が提出され,上 下両院では,部族,州,連邦議会,専門家らを招 き多くのヒヤリングが行われていた( 46)。最終的 に,カバゾン判決の翌年である

1988

10

17

日,ロナルド・レーガン大統領によって,先住民 カジノ産業を規制するための連邦法,先住民カジ ノ規制法(Indian Gaming Regulatory Act,以下,カ ジノ法)が調印された(47)

カジノ法は,その冒頭にもあるように「部族の 経済発展,自活,強力な部族会議の発展」を第一 の目的としている。その背景にはまた,カジノ産 業を部族による自活の有効な手段とみなしたレー ガン政権の先住民政策がある。新自由主義的経済 政策を推進していたレーガン政権では,部族によ るカジノ産業への参入を後押しする一方で,先住

(12)

民の自活を促し,先住民関連の予算削減を目指し ていた(48)

それゆえ,カジノ法は,部族によるカジノ産業 で得られた収益金が,部族自治を支えるため,以 下の

5

つの用途にのみ使用できると定めている。

1)部族会議の運営やプログラムの資金,2)部族の

成員のための一般的福祉活動,

3)部族経済発展の

促進,4)慈善団体への寄付,5)地方自治体への 資金援助。まさに,カジノ産業からの収益金を,

これまで国庫から念出してきた部族に対する補助 金と代替させることを意図しているといえよう。

カジノ法では,

1988

年の時点において連邦政府 からの承認を受けている部族が,保留地に限定し てあらゆる種類のカジノ施設を運営することがで きるとし,さらに部族によるカジノ産業を以下の

3

種類に分け,それぞれ異なる規制方法を定めた

(図

1)。第 1

種は,部族が保留地内で伝統的に 行ってきたゲームや,部族の儀式や祝祭時に行わ れる際の賭け事である。続いて第

2

種は,ビンゴ や,それに類似した低額掛け金のカジノ(例えば,

プルタブ,ロッタリー,パンチボードなど)やカー ドゲーム(例えば,ポーカーなど)である。最後 に,第

3

種に分類されるのは,第

1

種と第

2

種に 分類される以外の,高額掛け金(主に,掛け金に 上限を設けていない)すべてのカジノ(例えば,

スロットマシーン,クラップス,ルーレット,ブ ラックジャックなど)である。

さらに,カジノ法は,以上のカジノに対する管 理規制の所在を明らかにした。第

1

種については,

部族が自主的に管理し,第

2

種については,連邦 政府主導によって設立された全国インディアン・

カジノ委員会(National Indian Gaming Commission)

と部族の両者が規制するものとした。最も高額な 掛け金を伴う第

3

種のカジノは,部族と全国イン ディアン・カジノ委員会によって規制されること に加え,部族は州と個別に契約(contract)を結び,

その経営方針(収益金の上納額も含め)について 事前に合意を要するものとした。

カジノ法は,保留地における先住民カジノ産業 は合法であり,州以下の地方自治体はそれを禁止 する権限を持たないとする最高裁判決を前提とし た上で,部族のカジノ場経営に対して一定の規制 を行っている。つまり,カジノ場経営の条件とし て,その収益金で部族の自治,自活を担い(ある いは合衆国の保留地に対する財政的負担を減ら し),さらに第

2

種と第

3

種カジノについては,連 邦(全国インディアン・カジノ委員会)による監 視下で行ない,特に第

3

種カジノについては,州 との契約に沿って行うという点である。カジノ法 は,部族の政治的地位を尊重し,その自治権を認 めながら,一方で,その自治権に対して,連邦と 州がどこまで介入することができるか,という点 を明確化することによって,先住民カジノ産業を めぐる,部族,州,連邦側の主張の妥協点を提示 した法律であるといえよう。

4

先住民のカジノ文化とトュールリ ヴァー部族のカジノ産業

カジノ法によって部族によるカジノ産業に対す る法整備がなされると,カジノ産業に乗り出す部 族が急増した。特に,大都市近郊や国道近辺に位

1 カジノ法におけるカジノ分類と規制方法

カジノ法

種類 内容 規制の担い手

1

部族内での賭け事

ceremonies, cerebrations

部族政府

2

低額カジノ

bingo, pull tabs, lottery, punch board, card game

部族政府/全国インディアン・

カジノ委員会

3

高額/商業カジノ

slot machines, craps, roulette, blackjack

部族政府/全国インディアン・

カジノ委員会/州

参照

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