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『看聞日記』現代語訳(一六)

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Academic year: 2021

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  本稿は、室町時代の皇族伏見宮貞成(一三七一~一四五六)の日記『看聞日記』を現代語訳したものである。本稿の底本は、小森正明氏代表校訂『図書寮叢刊  看聞日記』二(明治書院、二〇〇四年)である。難しい語などには※の印を付け、その条の末尾に註を付けた。また、日記原文には改行がないが、訳文は内容に応じて適宜改行した。なお、敬語についてはやや不自然な表現があるが、当時の伏見宮貞成の微妙な立場を勘案した結果である。○現代語訳(一)~(三)  応永二三年(一四一六)

  『米沢史学』

三〇号『山形県立米沢女子短期大学紀要』五〇号・『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』四二号(二〇一四~一五年)○現代語訳(四)~(六)  応永二四年(一四一七)   『米沢史学』

三一号『紀要』五一号・『生活文化研究所報告』四三号(二〇一五~一六年)○現代語訳(七)~(九)  応永二五年(一四一八)   『米沢史学』

三二号『紀要』五二号・『生活文化研究所報告』四四号(二〇一六~一七年)○現代語訳(一〇)(一二) 応永二六年(一四一九)   『米沢史学』

三三号・『紀要』五三号・『生活文化研究所報告』四五号(二〇一七~一八年)○現代語訳(一三)(一五)  応永二七年(一四二〇)分

  『米沢史学』

三四号・『紀要』五四号・『生活文化研究所報告』四六号(二〇一八~ 一九年)  本稿で訳出したのは、紙幅の都合上、応永二八年(一四二一)一月一る。どについては、(一)を参照されたい。

  稿り、だき、さらに原文に当たってもらうことができれば、本望、これにすぐるものはない。皆様からのご示教・ご叱正を切に望む。【主要参考文献】横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、二〇〇二年、  出一九七九年)哉「」(同『』、社、九九四年、初出一九八六年)位藤邦生『伏見宮貞成の文学』(清文堂、一九九一年)訂『  七(院、〇二~二〇一四年)介「―『―」(同『中世史料との対話』吉川弘文館、二〇一四年、初出二〇〇  二〇一四年)照井貴史「『事文賽打』について」(『アジア文化史研究』六号、二〇〇六 史料紹介

『看聞日記』現代語訳(一六)

薗   部   寿   樹

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年)松岡心平編『看聞日記と中世文化』(森話社、二〇〇九年)田代博志「山城国伏見荘における沙汰人層の存在形態と役割」(『中近世の領主支配と民間社会』、熊本出版文化会館、二〇一四年)松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、二〇一八年)

(表紙直筆外題)「看聞日記  応永二十八年正月より極月に至る」

       (伏見宮貞成数え年五十歳)応永二十八年辛丑正月一日、雨が降った。「いまは木徳(※)の治政で、世の中が穏やかに治まっている時期である。全国が泰平の教化の下にもどり、大勢の人々が雨露のような恩徳を浴びている。とても幸せだ、幸せだ」と予祝した。

   た。位・ 朝臣・田向長資朝臣・慶寿丸・阿古丸らがこのお祝いに参列した。宮家に仕える女性たち、東御方・廊御方・亡き兄の妻であった上臈・私の妻である二条・今参らも参列した。一献の酒宴が終わった。いつものように小川禅啓ら五~六人と対面した。長資朝臣は早退した。朝廷の宴会に出仕するためだそうだ。

  と、納言、次席の責任者は裏辻実秀中納言・徳大寺実盛中納言・武者小路隆光参議中御門宣輔参議、柳原行光参議兼左大弁、弁官は広橋宣光、少納言は東坊城長政朝臣。警備責任者は左が四条隆盛朝臣・松木宗継朝臣・白川雅兼朝臣、右は山科教豊朝臣・楊梅兼英朝臣・田向長資朝臣・木造持康朝臣だという。宴会が遅れたので、翌朝[三文字ほど欠失している]

   上皇様のお薬に相伴する役は西園寺実永前右大臣で、四条隆直大納言・裏辻中納言・清閑寺家俊中納言・東坊城長遠参議・藤原参議・柳 原参議兼左大弁が同席したそうだ。お薬を配る役は殿上人の中山定親朝臣・教豊朝臣・四辻季保朝臣・長資朝臣・宗継朝臣・雅兼朝臣・宣光らだという。室町殿足利義持が朝廷と上皇御所へお参りしたそうだ。※木徳(もくとく)…古代中国の陰陽思想「五徳終始説」による木徳徳・土徳・金徳・水徳の一つ。それぞれの王朝の徳や変遷を説明するもの。二日、晴。前日同様、年始のお祝いをした。いつものように夜に歯固め餅を食べた。殿上での酒宴に、田向長資朝臣・木幡雅藤朝臣ら、蔵人頭以下、殿上人ほぼ全員が参列したそうだ。三日、晴。前日同様、年始のお祝いをした。聞くところによると、上皇様のお薬に相伴する役は西園寺実永前右大臣で、田向長資朝臣がお薬を配る役をしに行ったそうだ。千秋万歳が来る日、曇。い。た。いつものように千秋万歳(せんずまんざい)の門付け芸人が来た。五日、晴。音楽会を始めた。平調の曲七つと朗詠などをした。特にお祝いをした。長資朝臣も音楽会に参加した。   今夜は叙位で、執筆役は二条持基左大臣だそうだ。長資朝臣が正四位下に叙された。日、晴。た。る。ん幸せだ、幸せだ」と予祝した。   朝廷の白馬宴会、実施責任者は洞院満季大納言、次席の実施責任者は公卿七人だそうだ。西大路隆富が少将となり、警備責任者に加わった。警備責任者として初めての出仕だという。光台寺風呂始め八日、晴れていたが、夕方に雪が降った。光台寺で新年のお風呂開きがあった。近年はこの八日にお風呂開きをするのが佳い例となっている。

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   住職が一献の酒宴を準備してくれた。丁寧なおもてなしで、お風呂開きをお祝いした。毎年春先にお風呂開きに呼ばれるが、風呂に入った後、一献の酒宴に招かれたのは初めての事である。田向経良三位以下がこの酒宴に同席した。

   今出川家に年賀状を送った。いつものようにお膳などを今出川家に送った。寿蔵主が参賀に来た。九日、昨夜から寒い嵐となり、雪が降った。朝になったら、さらに大雪が降った。指月庵に行き、雪景色の眺望を観た。風景が興味深いこと極まりない。しばらくしてから宮家へ帰った。十日、晴。大光明寺長老が新年の挨拶にいらっしゃったので、お会いした。

   寿蔵主が一献の酒を持ってきてくれた。惣得庵からも一献の酒が送られてきた。惣得庵主は年老いて身体の自由が利かないので、挨拶しに来られないそうだ。一献の酒が重なったので、数献の酒宴となった。

  香雲庵御寮の真幸も来てくれた。十一日、晴。早朝、御香宮へ参詣した。山田宮・権現などにも同じくお参りした。田向経良三位以下を連れて、宮家に戻った。長男や妻の二条も同じくお参りした。京都から松拍が来る    今日から松囃子の芸人たちが来た。猿楽などいろいろな芸能を見せてくれた。褒美の品や酒などを与えた。彼らはその場ですぐに酒を飲み、いつものように乱舞をした。

   西大路隆富が一献の酒を持参して来た。冷泉正永や島田益直も参賀に来た。今出川家や藤原能子典侍殿、それに宮家の男女から、いつものように一献の酒がそれぞれ進上されてきた。

   日、て、た。盛・行光・小川禅啓・広時らを御前に呼んで酒を与えた。乱舞はとても面白かった。    この十一日の酒宴は長年変わらず続けてきたものである。めでたいこと限りない。皆深く酔ってしまった。夕方、酒宴は終わった。しかしその後も廊御方の部屋でまた酒盛りがあった。十二日、晴。綾小路信俊前参議が参賀に来て、酒一献を持参した。数献の酒宴をした。その後、音楽会をした。万歳楽・三台急・甘州・太平楽急・朗詠・五常楽急を演奏した。綾小路信俊前参議・太鼓を打った田向経良三位・田向長資朝臣がこの音楽会に参加した。   冷泉正永が帰っていった。後小松上皇様への年賀状を書いて、冷泉永基を通して上皇様へお送りした。十三日、晴。町経時朝臣が参賀に来たので、対面した。殿上の間で酒を勧めた。大勢のお供がいて、うれしい   大光明寺へお参りした。綾小路信俊前参議・田向経良三位・庭田重有朝臣・町経時朝臣・田向長資朝臣・西大路隆富も一緒に行った。大勢のお供がいて、うれしい。   崇光上皇に焼香した。次に地蔵殿で長老とお会いした。お茶のもてなしがあった。長老からいつものように、杉原紙十帖と御扇の引き出物が献上された。田向三位と重有朝臣にも同じく扇が与えられた。それ以外のお供の者たちには何も与えられなかった。毎年だいたい、このような感じである。しばらくして宮家へ帰った。足利義持への年始の挨拶   その後、経時朝臣と隆富は出ていった。長資朝臣は、京へ出かけていった。清原常宗へ手紙を書いた。室町殿へ新年お慶びのご挨拶をお伝えするよう、長資朝臣をとおして、常宗へ言付けした。   夜に音楽会をした。壱越調の曲を十、それに朗詠などをした。綾小路前参議も一緒に演奏した。

   陰陽師の賀茂在方が御祈祷始めとして御撫で物を献上してきた。

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七十四歳の清原常宗は老衰で動けない十四日、晴。長資朝臣が帰ってきた。清原常宗は七十四歳になる。とても老衰していて、室町殿にも何度か出仕を止めたいとお願いして、お許しがでている。それでもう室町殿の御所へは出仕していないという。それで年始お慶びのことを室町殿へお伝えするのは難しいですと言っていたそうだ。闘茶の会    急に闘茶の会が開かれたので、賞品などを提供した。いつものように一献の酒宴があった。綾小路前参議・田向三位・重有朝臣・長資朝臣・慶寿丸・寿蔵主らが闘茶に参加した。伏見荘の村人たちは呼ばなかった。

   夜に音楽会をした。盤渉調の曲を七つと朗詠などをした。綾小路前参議一人だけが音楽会に参加した。

   聞くところによると、お昼に京の中御門大路と東洞院大路の交差点付近で火事があったそうだ。十五日、晴。早朝の御粥、その後の強飯などで、いつものように小正月のお祝いをした。綾小路信俊前参議以下が参加した。返礼の闘茶の会    闘茶の会があった。昨日の返礼として、面々が準備したという。賞品は面々が献上してくれた。その献上品は、綾小路前参議が三種類の品、田向三位五種類、重有朝臣二種類、長資朝臣二種類、慶寿丸二種類、寿蔵主三種類で、それぞれがとても面白い物ばかりであった。

   た。は、に、鬮を引いて皆で分け合った。醍醐寺の稚児である聖乗も闘茶の会に加わった。去年は闘茶の会をしなかった。このように中絶していたところ、再興できたことを心から祝った。

   夕方に伏見荘の村々から囃子物の行列が来た。先ず石井村、次に舟 津、次に山村の木守寺の者たちが来た。そこでいつものように三毬杖を焼いた。そして各々に酒樽を与えた。見物の者たちが大勢集まった。当年は天下飢饉   囃子物の飾りに特筆すべきものはなかった。今年は全国的に飢饉なので、民衆の力が微弱になっている。それで、形だけでもお祝いの気持ちを表したことのようだ。   囃子物の者たちが帰っていった後で、一献の酒宴をした。酒宴が終わって、殿上の間で侍臣や女官たちが十種香(※)をしたそうだ。   日、剣(た。物学びだが、綾小路信俊前参議が宮家にいるので、彼に教わったのである。今夜は月蝕である。※十種香(じしゅこう)…四種の香を三種は三包ずつ一種は一包で、合計十包をたいて聞き当てる香の遊び。※「漢高三尺剣」…『和漢朗詠集』帝王六五三。十六日、晴。いつものように身を浄めた。音楽会をした。太食調の曲十と朗詠二首をした。綾小路前参議と長資朝臣が参加した。十七日、風に吹き飛ばされながら、雪が時々降った。朝早く音楽会をした。双調の曲を七つ。次に黄鐘調の曲を五つと朗詠をした。音楽会が終わって、綾小路前参議が帰っていった。綾小路は宮家滞在中、唐楽の六調子すべてで笛を吹いてくれた。   さて室町殿への年始ご挨拶の件だが、勧修寺経興検非違使別当に私の年賀状を渡して室町殿へお渡しするように、綾小路前参議に言付けた。勧修寺は連絡役の伝奏(てんそう)に任命されたのだから、室町殿への取り次ぎ役としては適任であろう。   天皇陛下への年始ご挨拶は、いつものように典侍殿を通して申し入れた。十八日、晴。綾小路前参議が書状で連絡してきた。勧修寺の屋敷へ向か

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ったところ、勧修寺は「室町殿への取り次ぎは難しいです」と言っただ。三、ろ、松(頼んでみてください。もし裏松も清原常宗も辞退したら、私に取り次ぎをするようにという内容を書き載せた、伏見宮様の命令書を下さったら、取り次ぎ致しましょう」と返答したそうだ。それで勧修寺が言ってきたように、重ねて命令書を書いた。

   近日は、すべての事において薄氷を踏むような時節なので、勧修寺は取り次ぎをためらっているのであろう。また私のような不肖の者を取り次ぐことに差し障りを感じているのかもしれない。どうであろうか、どうであろうか。

   田向三位と長資朝臣親子は、石清水八幡宮へ参詣しに行ったそうだ。※「裏松」…裏松家は烏丸家の庶流で、後掲一月二十四日条のように貞成は裏松と烏丸を混用している。したがってこの裏松は烏丸豊光かもしれない。十九日、晴。大教院隆経法印が参賀に来た。少し酒を飲ませた。田向経良の息子である法安寺の具侍者らも参賀に来た。万秋楽の秘曲を妙音天に奉納する    夜に音楽会をした。盤渉調の曲七つと朗詠などをした。そして万秋楽の秘曲を妙音天に奉納した。長資朝臣も一緒に演奏した。

   重有朝臣も石清水八幡宮へ参詣に出かけたそうだ。二十日、晴。大光明寺へお参りして、父・大通院に焼香してきた。宮家の女性の二人の尼も同じくお参りした。詩学大成

   具侍者が詩学大成を借りたいと申し出てきたので、同書十冊を貸した。このような詩書などを人々に預けておくと、後日になってその本がどうなったか、分からなくなる。そのために、このことを記録しておく。 二十二日、晴。行蔵庵珠侍者が参賀に来た。酒小一献分を持参してきた。初めての心遣いで、思いがけない事である。珠侍者とともに酒を飲み、数献に及んだ。重有朝臣以下寿蔵主も、この酒宴に参加した。二十三日、晴。室町殿への取り次ぎの件、勧修寺別当がいまだに差し障りがあるとして拒んでいるので、裏松(※)に尋ねたところ、取り次ぐのに問題ありませんとのことだった。   それに室町殿のご意向を伺い、問題なければ、今後もお取り次ぎしますと、丁寧に申し入れてきた。うれしかった。※「裏松」…一月十八日条の註記を参照のこと。今出川公行・実富親子の仲違い二十四日、晴。今出川実富大納言に理解不能なことがあり、なんと父親の今出川公行左大臣と仲違いしているそうだ。これは、去年の冬からの事だ。この事は小耳に挟んではいたが、はっきりとは知らなかった。しかし、最近、今出川左大臣から詳しい事情を聞く事ができた。近江国国衙領   近江国国衙領(※)は今出川家の領地であり、家司の重徳が管理している。その国衙領の代官職を交替させた。新しく任命された代官は、烏丸豊光中納言(※)の若い侍だという。新代官烏丸家青侍が殺される   その新任代官が現地入りしたところ、以前の代官の仕業で、新しい代官を打ち殺してしまったそうだ。実富大納言は、公行左大臣の命令だと称して、偽の書類・偽の花押を作成して、新代官を用いないようにと元の代官に命令した。その命令により、元の代官は新代官を殺害したという。   烏丸としては自家の若い侍が殺されたのだから、腹を立てるのは無理もないことである。この件は、烏丸からすぐに義持将軍の御耳に入れられたそうだ。そして実富卿の所行は理不尽なことであるというご

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判断が下されたそうだ。

   この領地は今出川家の家司である重徳のご恩地所領であるが、犬上という実富大納言の領地と錯綜しているらしい。そのために、実富はこのような命令を出したようだ。いろいろと問題が重なっているようで、ここに詳しく記録することはできない。今出川家を相続するのは次男の公富    もともと公行左大臣と実富大納言は仲が良くなかったので、今回の件でお互いに絶交することになった。実富の弟である公富は、さぞや喜んでいることであろう。今出川家を公富が公行から直に相続するのは、当然のことだからである。※国衙領(こくがりょう)…各国の国府の所領。公領ともいう。室町時代の国衙領は、既に国府が衰退しているので、荘園と同じような私領になっている。※「烏丸豊光中納言」…原文では「裏松中納言豊光卿」とある。前述したように裏松家が烏丸家の庶流であることからか、この年の日記では両者が混用されている。ここでは、幕府による恩寵の深い烏丸豊光と解した。日、晴。た。で、酒宴をした。正月節養

   さて廊御方が節養(※)として酒宴の用意をしたという。それで廊御方の部屋に行った。宮家の女性たちや男どもが皆、集まった。椎野寺主が来た。ちょうど良いところに来たので、特にうれしかった。椎野の母親である廊御方としてみれば、特にうれしかったことであろう。

   酒は数献に及び、いつものように音楽や乱舞が行われた。局女や年老いた尼が特に乱舞をするのは、とても面白い。廊御方のお部屋で節養をするのは、今春初めてのことである。めでたいことである。    さて裏松に書状を送った。室町殿へ新年のお慶びを伝えさせた。今日、裏松の屋敷に室町殿がお入りになるそうだ。養(習。げ、が、う。は、る(世、二、県、)。以降の「節振舞(せちぶるまい)」と同様のものと思われる。二十九日、晴。椎野殿が一献の酒宴を用意なさった。田向三位以下が参加した。連歌始   さて今年の連歌始めが遅れて、いまだ開催されていない。正月中に開催するのが当然のことなので、皆に連歌会をしようと勧めた。それで、た。寿た。午後三時に始めて午後十一時に百韻が詠み終わった。参加者は椎野以下、いつもの面々である。二月一日、晴。「二月朔日となって(※)、めでたい兆しがある。とても幸せだ、幸せだ」と予祝した。いつものように月始めのお祝いをした。「二月朔日となって」…原文では朝廷の儀礼である「告朔」(こうさく)と書かれているが、単に月が改まった意に解した。綾小路信俊の養子資興が死ぬ三日、雨が降った。綾小路資興は綾小路信俊の養子だ。その資興が、今日亡くなったそうだ。この十年余りずっと病んでいて、その状態は朦朧としていて気が狂っていたようだ。それでずっと出仕しないで、家に閉じこもっていた。遂にあの世に行ってしまったということで、とてもかわいそうだ。

   綾小路家を相続する人がいなくなってしまった。信俊前参議は六十

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過ぎなので、たとえ養子ができたとしても、養子に音楽の技芸を受け継がせることは難しいだろう。郢曲(えいきょく)はもはや断絶するしかないようだ。

   朝廷のため、また綾小路家のためにも、歎いて余りあることだ。ただし音楽の道の神様による加護があれば、きっと断絶することはないと信じたい。五日、雨が降った。綾小路前参議が悲しんでいるので、庭田重有朝臣を使者としてお見舞いに行かせた。

   また後小松上皇様へ近江国山前荘に関する詳しい事情を申し入れにも行かせた。冷泉永基朝臣といろいろ相談して、重有を使者として向かわせたのである。今出川公富の和歌    今出川公富新大納言が庭先の梅の花一枝を送ってきた。

    待つ人も  問わぬ伏見の  梅の花        折りてやせめて  君に見せまし    新大納言へ梅の枝を付けて送った返歌     君片折る  情けをぞ添へて  見るからに        色香ぞ深き  梅の一枝     色も香も  伏見の梅に  及びなき        庭の梢の  盛りをも見よ七日、晴。重有朝臣が帰ってきた。永基朝臣といろいろ相談してきたそうだ。この宮家が経済的に困窮している様子を上皇様のお耳に入れたところ、上皇様のご意向としては宮家をないがしろにはしないとのことだったそうだ。

   近々、室町殿は伊勢神宮や石清水八幡宮に参詣するご予定だそうだ。そこからお帰りになった後に、室町殿に近江国山前荘の件を申し上げるのがよいと、永基朝臣は助言してくれたそうだ。    重有は今出川家にも行って、数時間、雑談してきたそうだ。実富大納言の不義の行いについて、いろいろとお話しになったそうだ。   椎野寺の僧である観娯が来た。椎野寺主の母親である廊御方の部屋で観娯と対面し、酒を飲んだ。梅の花見八日、晴。梅の花が盛りなので、近辺を遊覧して歩いた。梅林庵・隆城寺・退蔵庵・蔵光庵などを観て歩いた。しばらくして宮家へ帰った。   小川禅啓が小一献の酒を持参してきたので、廊御方の部屋で飲んだ。田向三位以下、寿蔵主・善基らも参加した。そのうちに無礼講の酒盛りとなった。その後、宮家の女性たちは梅林庵の梅を観に出かけた。   長資朝臣善基たちは酔っ払ったので、庭田の屋敷に向かった。途中、梅林庵から帰ってきた女性たちを引き留めて、庭田の屋敷に無理やり引きずり込んだ。そこで数献の酒宴をした。その後、酒盛りとなり、とても面白かった。すっかり深酔いしてしまった。庭田重有はとても楽しかったということで、私に引き出物を献上した。椎野寺主にも同じく献上していた。九日、晴。豊原郷秋が来たので、音楽会をした。平調の曲を十、演奏した。太鼓の田向三位と長資朝臣らも参加した。松林庵玄超   た。で、酒を飲ませた。それで、すぐに帰っていった。玄超は父・大通院の時代には宮家へ足繁く通い、毎回来るたびに御用に役立っていた。しかし私の代になってからは疎遠になっていた。まったく御用に立たないので、田向三位を通して宮家に来るように命じた経緯がある。それで、その挨拶に来たというわけである。   聞くところによると、室町殿は今日、石清水八幡宮に参詣するそうだ。そして明後日に行列を整えて、社参する予定だという。また 

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たる十七日には、伊勢神宮に参詣するそうだ。晴れがましい儀式となるようだ。去年、神宮などに祈願してご病気から回復した、そのお礼参りだそうだ。法安寺の風呂招待十二日、晴。法安寺が招待してくれたので、行った。椎野寺主東御方方・局・た。位・臣・長資朝臣・慶寿丸らもお供させた。先ず一献の酒宴があった。次に風呂に入った。その後、御膳が出された。丁寧なおもてなしである。例年の通り変わらず、うれしいことである。三献終わってから、座を立った。

   法安寺の薬師堂に参詣して、焼香した。帰りの道すがら、称名院に行き、梅の花を見た。院主の良賢がでてきて、ご参詣恐れ多く存じますと挨拶してくれた。

   土倉の宝泉のところに行ったが、留守だった。土蔵のあたりを遊覧した。あまりよろしくないことだが、亡くなった父の時にも、お忍びで宝泉の梅をご覧になっていた。この先例にのっとり、梅を一覧してきた。

  た。た。を一折り分、行った。その時ちょうど世尊寺行豊朝臣が来たので、うれしかった。今春、初めて行豊は伏見に来た。

   私が発句を詠み出した。梅林庵の庵号の内容を述べた句である。

    色も香も  満ちたる梅の  林かな     緑立ち添う  松は幾千代      椎野寺主     夕霞  山洗わるゝ  月出て     綾小路三位(田向経良)

   良賢が御酒を持参してきた。称名院の梅をご覧になった、そのお礼だという。梅林庵主の光意も同じく御酒を持参してきた。お酒の献上て、皆、だ。だ。た。 春の日が暮れようとした頃に五十韻詠み終わり、帰った。楽しい酒宴が度重なって、思いがけず賑やかであった。   さて兄・葆光院の御仏事を蔵光庵で型通り執行した。経済的な余裕がなかったので、御所での御仏事は行わなかった。後円融上皇の中国産沈香の木槌十三日、晴。椎野が自分の寺へ帰った。法安寺住職が来た。昨日のお礼を言い、中国産の沈香で作られた木槌(※)を献上してきた。これは、先年、亡くなった後円融上皇が伏見にいらっしゃった時、法安寺へお下しになったものだという。今まで大事に保存してきたので、御引き出物として宮家に進上するとのことだった。称名院は土倉宝泉の寺庵   さて土倉の宝泉が酒一献分の銭を献上してきた。称名院は宝泉の寺る。て、す。ちょうど外出していましたので、ご覧になられたことを存じませんでした。そのお礼でございます」とのことだった。神妙である。   廊御方の部屋で酒を飲んだ。田向三位が京都にでているので、その代わりに田向経良の妻の芝殿を呼び出した。芝殿はすぐに来た。重有朝臣以下、村人の小川禅啓や行時らも酒宴に参加した。   香雲庵御寮真幸が梅の枝や梅の花を入れた匂い袋(※)などを持参してきた。素晴らしい花である。真幸の父親である四条隆直卿の庭先に咲いていた花だそうだ。※「木槌」…原文では「破槌」と書かれている。※「梅の花を入れた匂い袋」…原文では「花袋」と書かれている。十四日、小雨が降った。今日は彼岸の初日である。田向三位が帰ってきた。椎野の寺である浄金剛院に行き、昨晩はここの泊まると言っていた。  祐誉僧都が涅槃会のお供え物二種類を進上してきた。

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涅槃会十五日、晴。涅槃会へのお供え物を宮家の男女全員が献上した。涅槃像の絵を懸けた。涅槃講の式を即成院の善基と梵祐がいつものように勤めてくれた。釈迦の念仏を皆で唱えた。

   水無瀬殿へお供え物三種類を進上した。それは、一組の藤枕・大呉器一つ・杉原紙十帖である。故水無瀬具隆三位入道が残した所領を重徳少将が相続したそうだ。相変わらず引き続きお願いいたしますというので、お供え物を差し上げたのである。

   宮家の女性たちが梅林庵の梅を遊覧しに行った。帰りがけに廊御方のお部屋で酒宴があった。小川禅啓がその準備をしたそうだ。十七日、晴。今日はお彼岸の中日だ。いつものように身を浄めた。涅槃会のお供え物を降ろして皆に配った。善基と梵祐には五~六種類与えた。また宮家の男女には鬮を引かせてお供え物を分け合った。面白かった。

   さて聞いたところによると、学問僧の竜山和尚が京都三条堀河の千手堂に寄宿して、法華経を説法なさったそうだ。その千手堂に盗人が押し入り、堂主の老僧を刺し殺し、お堂に放火して炎上させたそうだ。勧進銭を地中に埋める    その訳は、大般若経を新しく書写するため集めた寄附金三十貫文を御堂の床下の土中に埋めたそうだ。盗人はそれを知り、奪い取ろうとして、堂主を殺して放火したらしい。殺人犯は知識竜山とその弟子たち

   これは、実は学問僧の竜山の仕業であることが明らかとなった。それですぐに竜山は逮捕された。尋問したところ、自白なさったそうだ。弟子の僧たちも同じく逮捕され、牢獄に収監されたそうだ。重罪であるので、死刑に処されるらしい。

   この学問僧は去年の冬、伏見荘の新堂に数日間逗留し、法華経を説 法なさった。近所なので、宮家の男女が説法を聴きに行った。すばらしい説法だったと聞き、私もお忍びで聴きに行った。   ところがこのような悪評を聞いた。末法の世とはいえ、僧がこのように重罪を犯し戒律を破るとは、未曾有のことである。十八日、晴。今日、室町殿は伊勢神宮に参詣する。お供の公卿は、木造俊康大納言・日野有光中納言・万里小路時房中納言・裏松中納言・東で、殿だ。て、病気平癒の祈願が叶ったためのお礼参りだそうだ。京都は乞食と餓死者で充満している   さて去年は日照りや飢饉だったので、諸国の貧しい人々が上京してきた。そのため、京都では乞食が充満している。それに餓死者も数知れず、その死体が路頭に転がっているそうだ。   それで将軍からの命令で、諸大名が五条河原に仮屋を建て、お粥の施しをした。それを食べたことが身体に響いて死んだ者はまた千万もいるという。   今春もまた疫病がひどく流行ったため、万人が死去したらしい。

   天龍寺・相国寺でもお粥の施しをしたら、貧しい人たちが大勢集まって来たそうだ。生島明盛も疫病にかかる    生島明盛法橋はこの十一日からその疫病にかかり、とても重態だとう。だ、だ。に、急いで家を出たという。学問僧竜山は無罪で、京都から追放される

   聞くところによると、学問僧の竜山は獄舎に監禁されていた。しかし無実であるとの申し開きをして、牢屋から出され、京都を追放されたそうだ。犯行は竜山の弟子たちの仕業らしい。

   庭田重有朝臣がよい酒器をみつけてきた。その酒器を用いて、順番

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に幹事となって酒宴を準備しようということになった。これは面白そうだ。まずはじめに、重有朝臣が幹事を勤めた。十九日、晴。昨日から始めた当番幹事として田向経良三位が準備をして、酒宴をした。実意法印    さて豪融僧正が亡くなったのは昨年の冬、年末近くだったので、お見舞いにも行っていない。今日、実意法印が豪融僧正の遺産を相続したので、お見舞いの使者を送った。実意は三条公為三位(※)の子息で、明王院と呼ばれた。この法印と私は親戚であるが、疎遠な仲であった。

   来月、室町殿御台御所の日野栄子殿足利義満殿後室である西御所、この両御所が熊野に参詣するそうだ。その先達(せんだつ)役をこの法印にお命じになったという。亡くなった豪融僧正が御先達であったので、その先例に基づいて、この法印を先達にお命じになったそうだ。※三条公為三位…貞成の母である三条治子の兄弟。中川三位と呼ばれた。二人の父親は三条実治。二十日、晴。お彼岸の最終日なので、身を浄めた。当番として東御方が早朝に酒宴の準備をした。即成院にお参りして、心静かに念仏をした。田向三位以下、寿蔵主らをお供に連れていた。二十一日、晴。当番として長資朝臣が酒宴の準備をした。二十二日、晴。当番として廊御方が酒宴の準備をした。二十三日、晴。用健がいらっしゃった。今年始めてのご来訪である。去年より指月庵に滞在なさっていたが、その後、嵯峨へお帰りになっていた。

   室町殿は、今日、伊勢神宮参拝へお出かけになったそうだ。二十五日、雨が降った。御香宮へ参拝した。願い事があるので、願書を書いて奉納した。

   北野天満宮に奉納するための連歌会を開催した。参加者はいつもの 通りである。当番として兄の未亡人である上臈局が酒宴の準備をした。二十六日、晴。大光明寺の花が盛りなので、一覧しに出かけた。特に桜と桃の花が盛りだった。とても素晴らしかった。心より堪能した。田向三位・重有・長資ら朝臣・慶寿丸・寿蔵主らを連れて行った。   伏見御所の旧跡に咲く花も同じく見に行った。ゼンマイなども手折った。   そこへ即成院善基が来た。即成院へ強引に連れて行かれて、一献の酒宴でもてなされた。花見酒のお弁当代わりで、これも少なからず面白かった。二十八日、雨が降った。いつものように当番として私が型通り酒宴の準備をした。これで酒宴の当番も一巡した。そして風呂に入った。惣得庵主は老病が悪化している   その後、惣得庵御寮と明元たちが酒一樽を持参してきた。宮家前庭の花を見に来たそうだ。今春初めての来訪なので、一緒に酒を飲んだ。惣得庵主は年老いて病気だそうだ。この頃、病状はさらに悪化しているという。かわいそうなことである。近江国山前荘二十九日、晴。近江国山前荘のことに関する私の書状を、冷泉永基朝臣を通して後小松上皇様へ送った。この荘園のことを室町殿へ取り次ぐことを上皇様が内々に仰っていると、永基が知らせてくれた。それで、そのことを改めて上皇様へお願いした次第である。   宮家が経済的に困窮している状況は、上皇様のお耳にも達している。その状況を改善するためにも、この荘園のことをしきりに何とかしてあげようと上皇様は仰っているそうだ。上皇様のお気持ちは、恐れ多くもうれしい限りである。   遊山に出かけた。田向三位以下を連れて行った。山に生えている松を七~八本ほど掘らせた。浅野康知を責任者にして、それらの松を前

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庭に植えさせた。三十日、雨が降った。前庭の花見をした。皆に、肴を一種類と酒瓶一つをそれぞれ持参するように、兼ねて命じておいた。その人々は、東御方廊御方・上臈・二条・田向三位・重有朝臣・長資朝臣・寿蔵主・善基らである。彼らは各々、肴と酒瓶を持参してきた。それでいつものように酒宴をし、さらに酒盛りとなった。伏見荘に火車が来た    この近所あたりで火炎が燃えさかっているのが見えるという。皆がそれを眺めている。どうやら御香宮巫女の家のあたりらしい。この巫女の家がある村は、病気になる者が多い。もしかしたら、火車が来たのかもしれない。または火柱だろうか。いずれにしても不思議なことだ。とても不審なことである。三月一日、晴れているが、寒い嵐が吹いている。風に飛ばされながら雪も降っている。いつものように月始めのお祝いをした。花盛りの桜に雪が降り積もる二日、空が明るくなってから、雪が降り出した。三センチばかり積もった。その雪景色は、はなはだ興趣が深い。花盛りの時分に雪が降ることは、今まで見覚えがない。希有なことか。それで、一首詠んだ。

    思いきや  花こそ雪と  散る上に        重ねて雪に  積もるべしとは   重有朝臣にこの一首を送った。庭田家の遅桜が咲く時分に花見に行くと兼ねてから約束していたので、もう一首も添えた。

    まだ見ずよ  昔は知らず  花の上に        かかる深雪の  積もる情けを     遅桜  盛りを待つも  程久し        かく珍しき  雪を問わばや

     御返し        重有朝臣   さぞなげに  昔は知らず  この比の

       花と雪とを  枝に見んとは   遅桜  盛りは待たじ  如何にして        梢の雪を  花と見せまし   落花を蓋に載せて、田向三位に送った。

  またかゝる  情けは見ずよ  散る花に        重ねて積もる  今朝の白雪   我も問わず  人も問い来ぬ  庭の雪        情けなしとや  花も恨みん      返し         三位   さぞなげに  今朝はまことの  雪までも        散りしく花の  影に添うらし   花と雪  嵐も分かず  誘い来て        庭の小松に  吹きぞ溜めぬる    田向経良の妻である芝殿が酒樽を一つ持って来た。和歌の贈答に関わって、やってきたのであろうか。雪見酒は興趣があった。伏見荘丸目池の石橋

   さて九条満教関白から書状が届いた。唐橋在豊朝臣がこの書状を持て、使た。る。この橋をいただきたいという内容の書状だった。室町殿が九条家に来で、だ。て、  らせた。

   このような橋があるのかどうかさえ、私は知らなかった。それで小川禅啓に尋ねたところ、その池に確かに橋はありますとのことだった。九条家は古くから特別な誼のある間柄なので、石橋を差し上げるのに何の問題もない。それに九条満教関白からの書状がこれが初めての事

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