『經濟學批判大綱』再論 : エンゲルス歿後60年に よせて
その他のタイトル On Engels' Outlines of a Critique of Political Economy
著者 杉原 四郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 6
ページ 645‑665
発行年 1955‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15745
私は前稿「マルクス経済学形成への一礎石ー—_エンゲルス『経済学批判大綱』、研究序論'|l」
八合併号所載︶
活とを一瞥し︑
の二
で︑
エンゲルスが一八四三年の四合にマンチェスターで﹁大綱﹂を執筆した当時の彼の思想と生
その三で﹁大綱﹂の序論的部分の論旨を要約・註解し︑最後にこの基本的見解がマルクス経済学の
形成過程においてもつ意義を︑プルードン︵﹃財産とは何か﹄
との中間に位置せしめつつその四でいささか考察した︒本稿はそれをうけて﹁大綱﹂の各論的部分をとりあげ︑
さきに見たように︵前稿五七ー八頁︶︑
的諸範疇を研究し﹂︑自由主義経済学のうちにふくまれてはおりながら﹁まだ最後の帰結まで展開されず︑はつきり
﹃経
済学
批判
大綱
﹄再
論︵
杉原
︶
エンゲルスは︑経済学ことに自由主義経済学を批判するためにその﹁根本 れがマルクス経済学形成への一礎石たる所以を︑ヨリ具体的にあきらかにしてゆきたいと思う︒
一八
四
0年︶とマルクス
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ーニンゲだス歿後六十年によせてー~
﹁ 続 清 學 批 判 大 綱
﹂ 再 論
原
四
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誌第
四巻
第七
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︵﹃
経済
学・
哲学
草稿
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四年
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646
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代•利潤・労賃が順次に検討される。 果﹂たる﹁商業によって条件づけられる第一の範疇﹂たる価値がとりあげられ︑ ことを以て﹁大綱﹂の課題としている︒この点から各論的部分の構成を見てみると︑ とのぺられはしなかった﹂ところの﹁私有財産の諸法則﹂を徹底的に追求してその矛盾から生ずる結論をひき出す︑ ︑
合︑ゆきつくところはいつも競争である︒たとえば価値とは︑本来﹁生産費の効用にたいする関係である﹂のに︑
それが生産費と効用とに﹁むりやりにひきさかれて︑
結局﹁これらの片輪の定義をたすけおこすためには︑
定の生産物について︑土地と資本と労仇とのわけまえがどれだけであるかはまった<決定できないことである:
. . . .
これら三者の機能は︑まった<別種のものであって︑ある第四の共通の尺度ではかられるものではない︒したがつ
て︑こんにちの状態のもとでは︑牧益を三要索のあいだに分配することになると︑
問題
は︑
まったく外在的で︑それらにとつて偶然的な尺度︑すなわち競争︑
される︒地代は競争をひそかに前提し︑資本にたいする利潤はもつばら競争によって規定される︒また労賃につい
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も︺
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⁝例
によ
り︑
ふたたび競争によって決定される﹂︒以上︑価値・地代・利潤・労賃等の基礎範疇に関する
経済学の見解を吟味し︑その﹁対立﹂と﹁混乱﹂と﹁転倒﹂とをあきらかにした後︑第八節に入って︑まず﹁吾々
がみたように︑私有財産が存在するかぎり︑結局一切が競争に帰着する︒競争は︑.経済学者の主要な範疇であり︑
彼がたえずあまやかし可愛がつている最愛の娘であるー~そしてどんなメドゥーサの顔がそこにあらわれるかに注
︑ ︑
意するがよい﹂とのべ︑私有財産の帰結たる競争について︑ ﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶
とこ
ろで
︑
つぎのようにいう︒すなわち︑私有財産の最初の結果 エンゲルスによれば︑ まず﹁私有財産の最初の結
経済学はこれらの決定原理を説明する場
その個々の側面のおのおのが全体である︑といいふらされ﹂
どの場合にも︑競争をもとめなければならない﹂︒また﹁一
それらに内在する尺度はなく︑
または強者の狡猶な権利によって決定 ついで生産費の分析に入って︑地
しめる機械化の作用︒そして﹁大網﹂は︑最後に︑﹁機械の作用を注視することによって︑私は他のもっとかけは の侵入の結果としての犯罪の増加とその合法則的存在︑および︵六︶資本に対する労佑の競争を決定的に不利なら その事実を否認するためのマルサス人口論︒︵四︶所有集中の法則と中産階級の没落︒
必然
性︒
と理想社会
( 1 1
共産
主森
︶の
﹁人
間的
は︑まず生産の自然的側而︵土地︶と人間的側面︵人間的活動︶との分裂だが︑
相互に敵対するに至り︑ 後者はまた労仇と資本とに分解し︑
かくて三要素の相互扶助ならぬ相互斗争が出現することになるが︑その上さらに私有財産
﹁私有財産が各人を一人一人ばらばらに孤立させるために︑
は 三 要 素 お の お の に 分 裂 を も た ら す
︒ し か も そ れ に も
かかわらず各人がその隣人とおなじ利害をもつているために︑ある土地所有者は他の土地所有者と︑ある資本家は
他の資本家と︑ある労佑者は他の労佑者と敵対する︒利害をひとしくするものが︑まさにその平等のために︑この
ように敵対することによって︑人類のこれまでの状態の不道徳性は完成される︒そしてこの完成が︑競争である﹂︒
自由主義経済学の諸範疇の分析を通じて競争本質論までいわば下降してきたエンゲルスは︑
て︑競争の法則から展開される現実的諸現象を以下つぎのように追求してゆく︒
︵二︶現実社会
( 1 1
資本主義︶の競争︵とくにその帰結たる周期的恐慌︶
本性に根ざ﹂す競争との対比゜
なれた題目︑すなわち工場制度に到達するのであるが︑私にはここでこれをとりあっかう気持も時間もない︒とは
いえ
︑私
は︑
︵三︶競争の必然的産物たる過剰な富と過剰人口との同時存在という現実の矛盾と
やがて機会をえて︑この制度のいむべき不道徳性をくわしく展開し︑そしてこの国で光輝燦爛として
あらわれている経済学者の偽善を容赦なくばくろしたいと思っている﹂という文章で結ばれている︒このうち︵二︶
と︵三︶とは量的にも質的にも最も重要であるから︑これらは﹁恐慌論﹂および﹁人口論﹂として︑
﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶ これを基礎視点とし
︵一︶競争と独占との相互関連の
︵五︶道徳の領域への競争
﹁価値論﹂と
であ
る︒
まず︑今かかげた結びの文章がしめしているように︑
﹃経
済学
批判
大網
﹄再
論︵
杉原
︶
にすることにしよう︒
﹁現在の社会秩序の生命の かるに工業はH自由競争/の実践にすぎないし︑
︑︑
︑
﹃状態﹄の中で最も理論的な章である﹁競争﹂は後にも見るように︑
︑︑
︑
にその資本蓄積論を前提としているのであり︑最も実践的な章である﹁労仇運動﹂は︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑中枢﹂である﹁競争をなくそうとする﹂労仇者のこころみ︵同上三二八頁︶を中心に展開されているのである︒ところ ﹁大綱﹂の賃金論・人口論・恐慌論・要する
でこのような意義をもっ﹁大網﹂の競争論の特徴は︑第一に私有財産にもとずく競争の不道徳性乃至非人間性を︑
﹁人類にふさわしい状態のもとで﹂の﹁真の﹂競争と対比することによって浮彫し︑これをはげしく攻撃すること
エンゲルスによれば︑競争はそもそも﹁財産という独占を前提する﹂が︑その上一方﹁競争は利害にもと
ずき︑利害はさらに独占をうみだす﹂ので︑競争は独占に移行せざるをえず︑しかも﹁他方では︑独占は︑競争の /自由競争/は工業の原理にすぎない﹂と︵同上三七頁︶︒そして ク自由競争/が議論の出発点となっている︒し ともに︑次節以下で順次とりあげることにし︑ここでは︑しき労佑者に分解してしまった﹂という﹁事実﹂をあげ︑その箇所に註していわく︑年誌﹄に発表した/経済学批判大綱/を参照せよ︒この論文では︑ ﹁これについては私が﹃独仏 このような論理構成をささえる基礎視点そのものを問題﹁大網﹂自身その後に﹃イギリスにおける労佑者階級の状
︵選
補R
三五
態﹄︵以下﹃状態﹄と略称する︶の展開を予想しているのであるが︑それのみならず﹁国民経済学の偶像﹂
ヽ .ヽ
七頁︶たる競争を基本視点として経済学およびその土台11基礎過程の分析をおこなうことによって︑﹁大網﹂は﹃状
態﹄の理論的前提を提供しているといつてよい︒すなわちエンゲルスは︑﹃状態﹄の第一章にあたる﹁工業プロレタ
リアート﹂の中で︑近代工業が小中産階級を破壊して﹁一方のがわにおける富める資本家︑他方のがわにおけるまず
四
う﹂︒このような新社会での競争に関する推測的綾述は︑
五
てこの競争は︑相対立する利害が揚棄されたのちには︑
その固有の合理的な領域にかぎられるようになるであろ
関係である︒人類にふさわしい状態のもとでは︑ ﹁真の競争関係﹂について︑つぎのようにのべていることである︒﹁真の競争関係は︑消費力の生産力にたいする 改革︑対立する利害の融和︑ エンゲルスが︑ 競争の矛盾によって︑最高度に緊張させなければ︑の
だが
︑
とりわけその﹁不道徳の極致は有価証券の取引所投機であ﹂また歴史ととも
に人類は山師的あるいは冒険的投機者の貪欲をみたすための手段にひきおろされる﹂︒.このようにエンゲルスにと
つて重要なことは︑ また真に人間的な目的をすべて放棄するのでなければこれにたえることはできない﹂
﹁競
争は
窮乏
︑
そして﹁一般に︑
つて
︑
立証
し︑
魔落﹂をしめすマルサス人口論については後述︶︑注目すべきは︑これと対比的に︑ ﹁そのために歴史は︑
私有財産が人類をどれ侭どふかい堕落におとしいれたかをしめすこと﹂なのだが︵人類の﹁もっともふかい
﹁社会関係の完全な
私有財産の拇棄﹂によってもたらされるところの﹁共同体の合理的状態﹂における
この競争以外の他の競争は存在しないであろう︒
. . . . .
.
主観的競
争︑すなわち資本対資本︑労佑対労佑の競争は︑このような事情のもとでは︑人間的本性に根ざしており︑かつい
ままでのところフーリエによってしかかなりあきらかにはされていない競争にすぎないものとなるであろう︒そし
現社会での競争に対する道徳的批判とともに︑当時のエ
ンゲルスに及底した空想的社会主義者たち︵前稿六0頁参照︶の影響をしめすものであろうが︑同時にわれわれは︑
﹃締
済学
批判
大綱
﹄再
論︵
杉原
︶
貧困
︑
犯罪の原因であること﹂︑﹁競争が道徳の領域にも拡大していることを
いて
はそ
の恐
慌論
をと
りあ
げる
際に
後述
︶︒
競争という斗争にくわわるものはたれでも︑ ﹁一般的利害と個人的利害とは真正面から対立する﹂ ながれを阻止することができ﹂ず︑
その力を
( 1 )
それどころかあたらしいヨリはげしい競争をうみ出すのであって︑このような
︵こ
のよ
うな
矛盾
と対
立の
具体
的様
相に
つ
て ︑ の
競争
論が
︑
族の財産共有﹂をさへ破壊しつ4あることも︑ ﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶
その競争論の第二の特徴として︑エンゲルスが競争の発展を歴史的必然的なものとして把握し︑競争の法則を客観
的自然的なものとして理解し︑競争の意義を生産力とかかわらしめて評価していることに注意せねばならぬ︒すな
わち彼によれば重商主義から自由通商への展開は前者にともなう﹁こせこせした局地的および国民的な顧慮が後退
し·…••それによって現在の斗争が普逼人間的なものとなることができた」という意味で「進歩」であり「必然」で
もあったのだし︑後者が﹁その独自のりつばな発明品である工場制度﹂によって﹁共同の利害の最後の痕跡たる家
﹁ついには︑経済学者の学校知識が夢想もできないような社会革命
をひきおこす﹂ことによって︑結局は﹁この世紀がむかえつつある人類の自然および自分自身との和解という大転
換のために道をひらいているにすぎない﹂のである︒そしてエンゲルスは︑
﹁大網﹂ほ︑社会主義的立場からす このような革命への道に通ずる﹁競争
の動揺とその恐慌への傾向﹂を規定するものは︑.﹁関与者の無意識に立脚する自然法則にほかならない﹂ことを確
( 2 )
認するとともに︑﹁資本対資本︑労佑対労佑︑土地対土地の斗争は︑生産をすこぷる昂進させ﹂︑かかる﹁対立の内
部において﹂ではあるが︑科学の進歩によって︑生産力をいちぢるしく増大させるのであり︑さらにこの遺産をう
けついで﹁私有財産︑競争および対立する利害の揚棄によって﹂招来される新社会においては︑
ざした﹂真の競争によって︑
一方
では
︑
に︑他方では︑ ﹁人間的本性に根
﹁はかりしれない生産能力が意識的にかつ万人のために使用される﹂ことによって︑
﹁人類に課される労佑をたちまち最小限にへらすであろう﹂と推定する︒かくてわれわれは︑以上見たエンゲルス
初期社会主義に一般にみられる空想的観念論的性格をすくなからず共有していると同時 それを克服した科学的唯物論的思考をすでにある程度まで確立していることを知りうるのであっ
﹁大綱﹂の基本観点がこのようなも.のであればこそ︑またそのかぎりで︑ 六
﹃経済学批判大網﹄再論︵杉原︶ るはじめての包括的な経済学批判に成功しえたのであり︑
( 3 )
提供しえたのであり︑
七
﹃状態﹄にもられた豊富な内容を整理する正しい規準を
( 4 )
﹃経済学・哲学草稿﹄をよびおこす︱つの強力な契機たりえたのであった︒以下節をあらた
めて︑このような基本観点にささえられた経済学的分析の具体的内容を︑価値論・恐慌論ならびに人口論の三つに
焦点をしぼつて見てゆくことにしよう︒
註
(1 ) ローゼンベルクはこの点を引用しつぎのように隊く評価している︒﹁彼は︑競争と独占との相互的制約性を発見し︑一 つのテーゼを簡潔に表現しているが︑このテーゼは後に︑もっと発展深化せしめられた形で︑マルクスレーニン主森の重 要な要素になった︒このテーゼの正当性を認めることを︑社会民主党の旧幹部等は拒否した︒彼等は︑これを拒否し︑そ の某礎の上に︑組織された資本・主義という彼等の理論をつくりあげたのである︒彼等にとつては︑独占は競争の否定であ
る。しかし、エンゲルスは前世紀の四十年の初めにすでに書いている`……•」(ソ同盟大百科辞典版高山訳『フリードリ
ヒ・エンゲルス﹄一四九頁︶︒
(2 ) この章句は﹃資本論﹄第一巻第一篇第一章第四節﹁商品の物神的性格とその秘密﹂の註二八に引用されている︒又ルカ ッチも初期の著作の中で︑これに注目している
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146)︒
(3 )
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) は︑エンゲルスの﹃状態﹄がその罰麹であるかのようにいわれることもあるのだが︑コルニュも指摘しているよ うに︑エンゲルスはすでに﹁大綱﹂において︑このンスモンデイの流れをくむ改良主義者とは全く異った革命的某本観点 をうち出しているのである
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の所説を参照
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(4)『経済学・哲学草稿』の第一草稿でも、労貨•利潤・地代について、経済学者の所諒を吟味した徒つぎのような結論に , 385)
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︑ 逹する︒﹁経済学をうごかすただ︱つの車輪は︑所有欲ならびに欲ばりたちのあいだでの戦争すなわち競争である﹂︒だ
︑︑︑︑
が︑﹁経済学は運動の連関を概念的に把握しない﹂ので︑﹁甜有財産の運動のなかに︑まさに経済の運動のなかに︑全革 命運動はその経験的ならびに理論的某礎をみいだすという⁝⁝必然性﹂を洞察しえない︒これに対して︑﹁経済学的な
︑︑
︑ 目前の事実から出発﹂しながら︑そのような必然性をみちびき出すものこそ︑ほかならぬ﹃草稿﹄の﹁労働の自已疎外﹂
の論理だったのである︒︵選補④二九七・三四二頁︶︒
﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶
価値論ーー←﹁大綱﹂の価値論の論旨を整理すると︑日経済学者は抽象価値もしくは現実価値と交換価値もしくは
商業価値との二重の価値をもつていること︒⇔前者の本質についてマカロック・リカードの生産費説とセーの効用
説とが対立しているが︑その論争は未だ決着していないこと︑国その原肉は︑
係﹂であるべき価値の概念が﹁むりやりにひきさかれて﹂その個々の側面のおのおのが全体であるとされる結果︑
競争によってゆがめられた生産舒が価値そのものとみなされなければならないし︑同様にたんなる主観的な効用も
そうみなされなければならないからであること︑同私有財産制の下で競争によってもちこまれるところの効用は︑
あり
︑ 偶然や流行や富者の気まぐれに左右されるし︑又その生産費も需要と供給との偶然の関係におうじて上下するので
かくて生産費と競争との交互作用によって決定される価格は︑本来の価値といちぢるしく背離し︑その﹁永 久的動揺は︑商業から道徳の最後の痕跡を完全になくしてしまう﹂こと︑国これに反して私有財産が揚棄されるや
いなや︑現在のような交換はなくなり︑価値概念の適用は﹁ある物を総じて生産すべきであるか︑すなわちそのもの
の効用は生産費をつぐなうかという問題を決定する﹂という﹁価値概念の本来の領分﹂に限られることになろうーー←
ほぼ以上のようにまとめることができよう︒ところでこのような﹁大綱﹂の価値論を﹃資本論﹄のそれとくらべるなら︑
すくなからぬ未熟と混乱と誤謬をそこに指摘することは決して困難ではない︒根本的には労仇の二重性把握の欠如
のために︑商品価値の実体︑大きさ︑形態に関する諸概念が確立していず︑従って商品生産の基本法則たる価値法則
の機能が不十分にしか理解されず︑
いわんやそれの生産価格法則への展開の過程も全くかえり見られていない︒商
本来﹁生産費の効用にたいする関
八
品生産の最高の発展段階たる資本主義経済の無政府性は鋭くつかれているものの︑その批判はなお超越的・倫理的
( 1 )
攻撃にとどまつていて︑商品の物神性の内在的論理的刷扶には往ど速いといわなければならない︒もっともその資︑︑︑︑︑︑本主義批判は方向としては決して誤つているとはいえず︑さきに見た競争論の積極的側面や︑後に見る恐慌論と関連
させて読むならば︑そこにすでに資本主義社会における労佑配分の基本的歪曲の論理をさえよみとりうるのであっ
て︑なればこそ後年マルクスは︑一八六八年一月八日付のエンゲルス宛の手紙の中で︑つぎのように﹁大綱﹂を回顧
したのだった︒﹁じつさい︑社会の処理しうる労仇時間が何らかの仕方で生産を規制するということは︑
社会形態もこれを妨げえないのだ︒
れはただ共同所有においてのみ可能だーーによってではなく︑裔品の価格の運動によって実現されるあいだは︑依
然と
して
︑
﹁大網﹂の価値論の積極的側面は︑ しかし︑この規制が︑その労佑時間に対する社会の直接的な意識的な統制lそ
君がすでに﹃独仏年誌﹄で全く適切に述べた通りなのだ﹂︵﹃贅本論に関する手紙﹄岡崎訳一八八頁︶︒だが
︑
︑
︑
︑
その商品価値論よりもその基礎にある価値の本質論的把握にある︒価値の本質
を生産
11
費用と消費
11
効用との前者を基礎とする関係として理解する考え方は︑﹃神聖家族﹄におけるマルクスの
﹁︵
私有
財産
制下
にあ
って
は︶
価値
も︑
最初
には
︑
さだめられる︒しかしやがて︑この価値も︑純粋に偶然的な規定であって︑生産費とも社会的効用ともなんらの関
係にたつ必要のないものである︑ということが示されてくる﹂という綾述︵選補⑥二三六ー七頁︶や︑﹃哲学の貧困﹄の
﹁諸階級の敵対関係が消滅し︑もはや階級というものが存在しないような来るべき社会にあっては︑⁝⁝︱つの物
品にささげられる生産の時間が︑そのものの効用の度合によって決定されるであろう﹂という主張︵選①一三一頁︶
やに相通ずるものであるし︑
九 いかなる
ある物の生産費とその社会的効用性とによって表面的には合理的に
更には﹃資本論﹄の﹁生産が社会の現実の予定的統制の下にある場合にのみ︑
﹃経
済学
批判
大網
﹄再
論︵
杉原
︶
社会
の連関を創造する﹂︵長谷部新訳第三巻二八0頁︶という思想にも貫流するものといわなければならない︒
自身その﹃反デューリング論﹄の中で︑
超歴史的性格をもつものであるとすれば︑ は ︑
﹃軽
済学
批判
大綱
﹄再
論︵
杉原
︶
﹁大綱﹂の価値論はこの点において︑ 一定財貨の生産に費される社会的労仇時間の範囲と︑この財貨によって充たさるべき社会的欲望の範囲との間
﹁︵
生産
手段
の共
有に
甚づ
く狩
来︶
社会
は︑
に応じて︑生産計画を作製しなければならないであろう︒種々の使用対象の利用効果がたがいに比較され︑︒またそ
れらの生産に要した労仇景と比較されて︑この生産計画を最後的に決定するであろう︒
値﹄のおせわをうけないでも︑万事を至極簡単にかたづけてしまうのである﹂とかいて︑
値概念の妥当性を否定するかのごとき口吻を示しながら︑
共産主義社会になお残るものがあるとすれば︑ ただちにこれに註記して︑
それは生産を決定するさいの上述のような利用効果と労佑支出との
比較だけであることは︑私がすでに一八四四年にのべたところである﹂とのべ︑
質論の参照を求めているのである︵選⑭五一四ー五頁︶︒価値が︑
no
ch
ni
ch
tと
いう
消極
的評
価と
エンゲルス
特に労佑力をもふくめた生産手段
例の有名な﹃価
一見将来社会における価
﹁経済学の価値概念のうちで
さきにかかげた﹁大網﹂の価値本
ヨリ正確にはマルクスの所謂﹁価値規定﹂︵邦訳第三
巻︱
二 0
0頁︶が︑本質的には社会の欲望を前提しこれに関係する側面をもっと同時に一般的に人間社会に妥当する
は反
対に
be
in
ah
e
schonという積極的評価をあたえられなければならぬ︒最近東独のある研究者は︑
価値本質論を﹁われわれの見解によれば︑使用価値は価値の前提であるというマルクス主義的把握の朋芽が︑ここ
( 2 )
にすでに存する﹂といつているが︑わが国においても︑社会主義乃至共産主義社会における価値の問題をとくに効
用面とかかわらしめて理解しようとする論者がエンゲルスのこの論旨に強い関心をよせているのは︑当然である
( 3 )
とい
えよ
う︒
人々
は︑ 1
0
﹁大
網﹂
の
て ︑
︑︑︑︑︑註
(1 )
﹃資本論﹄第一巻第二篇第四章の﹁商業資本は︑等価物同志が交換されるかぎりは不可能であるかに見え︑したがつて
それ︵剰余価値の形成︶は・・・・・・商人によっての⁝⁝商品所有者の両面的謳取からのみ導き出されうるかに見える﹂という
箇所に附せられた註︵三三︶に︑﹁大綱﹂の一文章ーー'﹁現実価値と交換価値との相違の某礎には︑つぎのような某礎が
ある││つまり︑ある物の価値は商業のさいにそれに対して与えられるいわゆる等価物とはちがつているということ︑す
なわちこの等価物はなんらの等価物ではないということがそれである﹂ーが引用されている︵邦訳第一巻一︱︱
10
頁︶
が︑
これはむしろ︑﹁商業資本の噌殖が商品生産者の単なる詐取によってでなく誤明されるために︵必要な︶︑長い一連の中
間の環﹂︵同上︶が﹁大綱﹂には未だ存在していないことを暗示しているものではないであろうか︒
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3. 19 54 , S.
, 324
(3 )
迫間真治郎﹃社会主義計画軽済理論﹄六五ー六頁︒白杉庄一郎﹃価値の理論﹄二四0ー四一頁等参照︒
恐慌論││←﹁大綱﹂の恐慌論は︑直接には﹃状態﹄︵とくに選集補R︱二八ー三八︑三二九︑四四
OI四一頁︶︑﹃共産主
義の原理﹄︵一八四七年︑
︱ニー一三節︶︑﹃反デューリング論﹄︵一八七八年︑第三篇第ニー三節︶などの所論の原型とし
( 1 )
一 般 に は マ ル ク ス 主 義 恐 慌 論 の 源 吃 た る 意 義 を に な う も の で あ る が
︑ そ の 内 容
は
e
恐 慌 の 事 実
◎ 恐 慌 の 原 因
@ 恐 慌 の 帰 結 の 三 つ に 分 け る こ と が で き る
︒ す な わ ち ま ず
︑
﹁ 過 剰 に 生 産 さ れ る こ と は 決 し て あ り え な い
﹂ と す る 経 済 学 者 の 主 張 に も か か わ ら ず
︑
﹁ 現 実 は 商 業 恐 慌 を も つ て こ れ に 答 え て い る
﹂ こ と
︑ そ し て こ の 商 業 恐 慌 は
︑
八0
年 ま え か ら
︑ 五 年 乃 至 七 年 の 周 期 で 昔 の 流 行 病 の よ う に 規 則 的 に や っ て き て
︑
﹁ そ れ 以 上 の 貧 困 と 不 逍 徳 と を も
( 2 )
︑︑︑
た ら す こ と
﹂ を 確 認 し
︑ つ ぎ に そ の 原 因 を 求 め て
︑ も し 生 産 者 た ち 自 身 が 社 会 的 必 要 を 正 確 に 把 握 し て
﹁ 生 産 を 組
﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶
656
れるのである(ここにいう「社会革命」については前稿五0—五一頁参照)。
以上のような﹁大綱﹂の恐慌論について︑先ずその事実認識を見れば︑
恐慌との区別がなされず︑恐慌の周期も五ー七年とされているのは︑
の不正確をものがたる証左であろうが︑この点は﹁大綱﹂が四三年に書かれたことを想起する必要がある︒後年エ が
進行
して
︑
張させなければ•…••これにたえることができない。 つぎのようにのべている︒
﹃径
済学
批判
大綱
﹄再
論︵
杉原
︶
織してこれを自分たちの間に配分するならば︑競争の動揺とその恐慌への傾向とは不可能となるであろう﹂が︑﹁諸
君が現在の︑無意識の︑無思慮の︑偶然の支配にまかせられた方法で生産をつづけてゆくかぎりは︑商業恐慌は依
然として存続する﹂として資本主義生産の無政府性を指摘︑
する次第を︑ さらにこの矛盾が︑近代的生産力の発展とともに激化
﹁一般に︑競争という斗争に加わるものほだれでも︑その力を最高度に緊
一方におけるこの過度の緊張の結果は︑必然的に︑他方におけ
る弛緩である︒競争の動揺がすくなく︑需要と供給︑消費と生産とが殆んどひとしいときには︑生産の発展には︑
あまりに多くの過剰生産力が存在する結果︑国民の大多数が生活に必要なものをすこしも持たず︑人口が過剰だけ
のために死ぬような段階がやってこなければならない︒イギリスはすでにはやくからこのような気ちがいじみた状
態︑このようなあきらかな不合理のなかにある︒生産がこのような状態の結果として必然的である︑よりも一層烈し
( 4 )
く動揺すれば︑繁栄と恐慌︑過剰生産と不振の交替が起る﹂と︵後論の都合上︑以上の章句を﹁引用A
﹂と
よぶ
︶︒
そし
て
︑︑
︑
最後に︑くりかえされるごとに以前より一層普逼的なかたちで襲来する恐慌を通じて︑大資本と大土地所有との強
者の権利にもとずく小資本と小土地所有の併呑︑この﹁所有の集中﹂による小生産者の没落と労佑者階級の増大と
﹁ついには経済学者の学校知識が夢想もできないような社会革命をひきおこす﹂にいたると結論さ
一八二五年以後の典型的恐慌とそれ以前の
︑ ︑
﹁商業恐慌﹂という表現とともに︑その認識
ンゲ
ルス
が︑
﹃状態﹄ーそこでも恐慌の周期は五ー六年とされていた︵選補R︱二九・一三二頁︶ーーのドイツ語第
二版︵一八九二年︶
うの週期は十年であること︑そして中間的恐慌は第二義的な性質のものであって︑
( 4 )
たことを証明している﹂︵同上四九三頁︶のである︒われわれはむしろ︑
る﹂ところの﹁経済学の皮相さのほど﹂︵﹃資本論﹄邦訳第一巻九八二頁︶を斥けて︑ 一八四二年以後は次第に消滅し
流経済学の販路説や︑﹁産業循環の週期的交代の単なる徴侯たる信用の膨脹および牧縮をこの交代の原因たらしめ.︑
︑︑
︑︑
過剰生産恐慌の一般性と必然性と
週期性とを明確に把握し︑恐慌過程を通じて進行する所有集中と階級分化の激化によって革命的情勢が招来される ことをするどく見とおしていることをこそ高く評価すべきであろう︒わけても近代的恐慌の本質を︑産業革命にも
とずく生産力の発展にかかわらしめて把握しようとするアプローチの仕方ーー!それは﹁大綱﹂の分析をうけた﹃状
態』でヨリ具体的に展開されている—|.は『反デューリング論』第三篇第二節でのマルクス主義恐慌論の古典的綾
述や同第三節での過少消費説批判の発端をなすものとして︑まさに﹁天才的スケッチ﹂とよばれるにふさわしいと
いわなければならない︒そしてこのような理論的分析を媒介したものとして︑
イギリス資本主義の基軸産業たる紡績工業の中に直接身をおいて得た生活体験が︑
触と相侯つて︑大いにあづかつて力があったと考えてよいであろう︒ イギリス社会主義者たちとの接
註
(1 )
ロー
ゼン
ベル
ク前
褐書
一五
0頁参照︒ッュピートホトフも﹃国家学辞典﹄の﹁恐慌﹂に附した文献目録の中に︑
党宣
言﹄
︑﹃
資本
論﹄
︑﹃
反デ
ュー
リン
グ論
﹄と
とも
に﹁
大網
﹂を
あげ
てい
る︵
望月
訳
P .
65)︒
︵2︶エンゲルスはここで
Wa
de
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1 8
3 5
の参
照を
求め
てい
る︒この書物については﹃資本論﹄第一巻第三篇第八章第三節の註六四︵邦訳第一巻四二五頁︶︑ベルクマン﹃国民経済
﹃経
済学
批判
大綱
﹄再
論︵
杉原
︶
への序文で指摘しているように︑
﹃共 産
エンゲルスが当時マンチェスターで エンゲルスがこの時期においてすでに︑ ﹁一八四二年から一八六八年にいたる工業の歴史は︑
俗
匠んと
﹃経済学批判大綱﹄再論︵杉原︶
学的恐庶学説史論﹄豊崎・三谷訳ニニ八'̲三
0頁参照︒
(3)
エ ン ゲ ル ス は
﹁ 大 綱
﹂ の 中 で 唯 一 つ の 貨 幣 に ふ れ た と こ ろ で つ ぎ の よ う に 恐 慌 を 問 題 に し て い る
︒
﹁ も っ と も 重 要 な 商 品 た る 貨 幣 は
︑ と り も な お さ ず 独 占 を も っ と も 多 く 必 要 と す る
︒ こ の 流 通 手 段 は
︑ 国 家 の 独 占 で あ る こ と を や め る や い な や
︑ い つ で も 商 業 恐 慌 を ひ き お こ し た
﹂
︒ し か し
﹁ 大 綱
﹂ を 全 体 と し て 見 れ ば 彼 が
︑ 恐 慌 の 某 本 的 原 因 を 貨 幣 的 側 面 に 求
めているのではないことはあきらかである。~
(4)
こ の 点 に つ い て は な お
﹃ 贅 本 論
﹄ 第 三 巻 第 五 篇 第 三 十 章 に 附 し た エ ン ゲ ル ス の 註
( I
00
)
(邦訳第三巻第六九三頁︶
ならびに一八八三年五月十日付のエンゲルスのペーベルヘの手紙︵改造社版全集R二六二頁︶を参照︒
明するために彼は人口理論を発明したのであるが︑ マルサス的人口論の批判は﹁大網﹂全体を通じて︑
ゲルスが最も力を入れた問題であるが︑それは﹁この理論こそ︑自由主義的な自由通商学説の要石であって︑これ
が倒壊するとともに︑建物全体も倒壊する﹂からであった︒恐慌論のところで参照した引用Aにすぐひきつづいて
﹁経済学者は︑このようなくるった状態を自分に説明することが決してできなかった︒それを説
それは︑富と貧困とが同時に存在するというこの矛盾とまった︑︑︑︑︑︑く同じように不合理である︒いや︑それ以上に不合理である︒経済学者は︑真実をみてはならなかったのである︒
彼はこのような矛盾が競争の単純な結果であることを洞察してはならなかったのである︒なぜなら︑さもなければ︑
このようなエンゲルスの思想の背後には︑一八三四年の救貧法改正以来
急速にたかまつてきた労仇者階級の資本家階級乃至その為の弁護論に対する反感が存在していた︒院外救助の原則
が廃止されてすべての被救伽民は救貧院へとかり立てられ︑そこでは屈辱的な生活条件ーー'エンゲルスは﹃状態﹄ 彼の全体系はくずれさったであろうから﹂︒ 彼はいつている︒ 人口論ー~さきにも指摘したように(前稿五八ー九頁)、 四
一四
エン