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即興演技としての暗闇

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1 3  

即興演技としての暗闇

『閤の奥』と『西欧人の目に』について

中 村 英 男

虚 偽 を め ぐ る 物 語 と し て の 『 閣 の 奥

j

「閣の奥』にはその意味をめぐって相反するこつの見方が存在する。その一 つはライオネJレ・トリリングが『誠実と本物」において披露した見方、ク

y

を閣の奥にひそむ究極の「本物」として捉える見方である。それはイアン ワットの言い方を借りれば「プレイクやニーチェの伝統

J

を続けるものとして コンラッドの描くものを捉えようとする見方であり、これもワットに依拠して 書き写せば「トリリングは『誠実と本物

J

においてこの見方を増幅させてい る」のであり、クルツは「本物へのパラダイム的な文学的表現(1

6 5 ) J

にし て「社会的伝統的な価値観に抗しての個人が持つ内的な衝動

J

を描き出したも のだということになる。パーク的なロマン主義の求めた究極の存在、あらゆる 日常の荏拾を超えた経験を通して至高の真実に触れた存在。ク

J

レツを称揚する 見方はそのようなものであろう。

『閣の奥』は長くこのトリリングの影響のもと、 「本物」を巡る物語として 捉えられてきたが、実際には逆の見方、つまり「本物」ではなくて「虚偽

j

巡る物語という見方が可能であることが、この小説の題名につながる小説内の 中心的なイメジヤリの中に示唆されているという事をこの小論の出発

F

にした

し 、 。

重要な事はク

J

レツが才能ある存在だという点だった。そしてその才能の中でも 一つの才能、本物の存在を意識させる才能が際だつていた。それは彼の話す能 力、彼の言葉であった。この表現の才能、当惑させ同時に啓発し、崇高でもあ

(2)

14  Nn興演技としての暗闇

れば同時に卑しむべきでもあるもの、脈打つ光の流れ、あるいは欺鵬の流れが 侵すことのできない暗閣の中心から流れ出てきていた。

( 6 3 )

呆たしてクルツの語る言葉はトリリングたちが考えるように真実の言葉、光 の流れなのだろうか。それともそうでなくて、マ}ロウがもう一つの可能性と して感じているように欺揃の流れ、虚偽の言葉なのだろうか。少なくとも嘘と いう事がこの小説において非常に重要な意味を持っていることは、物語の語り 手マーロウの次の言葉に明らかである。

主日ってるだろう。オレが嘘を憎み、毛嫌いし、我慢が出来ないと。他の人間 より真っ正直だからってわけじゃない。単に嘘が怖いからなんだ。嘘の中には オレカて忘れたいと思っているもの、一抹の死が、死すべき運命の香りがするん だ。だから嘘は、まるで何か腐ったものを口にしたときのように、オレを惨め で不快にするんだな。

( 4 2 )

マーロウは自身のこの言葉にかかわらず、目的を遂行するために他人の不安 と期待と欲望の中に入り込むこの小説での典型的な嘘をかなり早い段階でつ く。自分の背後にヨーロツパでの影響力を見ている相手の思考を利用して彼は 自分の欲する船を修理するための鋲を手に入れようとするのである。マーロウ は嘘をつき、目的を達する。その意味で彼もまたこの小説の論理の中に取り込 まれていく。勿論、より重要な嘘はマーロウが最後にクルツの許婚に対してつ く嘘、クルツの最後の言葉はその女性の名前だったという、見方によれば他愛 もない嘘である。

考えたいのは、そもそも何故クルツが「本物」であるならばそのような嘘を つく必要にマーロウが駆られたのかということである。クルツの言葉が光の流 れとも呼びうる真実の言葉であるなら、何故クルツの実際のあり方を糊塗する 事で物語を終わらせる事が必要だったのだろうか。そもそもマーロウが遠くか

(3)

即興演技としての暗闇

1 5  

ら想像したのとは異なり現実に接したクルツの身体は「子供のような重さしか なく

( 8 3 ) J

、疲弊して死に近づいた存在でしかなかったのではなかったか。評 判を通して想像していた問はいかにも英雄らしいオーラで包まれていたクルツ は、実際には惨めな存在でしかなかったのではなかったか。いずれにせよ、

様々な嘘で覆い隠さねばならないような存在の言葉を「本物」の言葉の中心と 考えることは適当だろうか。むしろ小説が示唆するもう一つの可能性、すなわ ち彼の潜む密林から流れ出ていた言葉全体が虚偽であったと考える方がより自 然で、小説の不可解とも見える筋がより理解しやすくなるのではないだろう

もし仮にクルツの言葉が嘘なのだとして、それはどのようなものなのか。何 が嘘なのか、それはマーロウのついたその目的の遂行のためにいかにも人がつ きそうな嘘なのか、浅ましいまでに褒め称えられた姿とあまりにかけ離れてい るためにクルツの許嫁に対してマーロウがつく嘘なのか。あるいはそれらには 何か共通する側面があるのか。あるいはさらに根本的な嘘がこの小説には存在 するのか。結論から言えば、コンラッドの『閤の奥』という象徴主義的な陵味 さの横溢するテキストのみから、この小説内の虚偽のあり方を確定していくの は非常に困難なことだと思われる。

しかしク

J

レツがヨーロツパ全体のしかけた偽善の中に絡め取られたある意味 で犠牲者でもあるような存在であり、あまつさえマーロウがクルツを尊敬して いるというライオネル・トリリングの見方はクルツを「本物」の具現に祭り上 げたいという欲望故に生じた片手落ちなものでしかないように恩われる。とい うのはすでに指摘したような小説の単純なしかし明瞭なもう一つの可能性にほ とんど顧慮を与えていないからである。ク

j

レツとは嘘をめぐる存在だったので はないのか。そのことも考えにいれてこの作品を読み直していく必要があるの ではないか。

(4)

1 6

即興演技としての暗闇

2  即興演技と近代性

果たして『聞の奥』が「本物」をめぐる物語なのか、それとも「虚偽」を巡 る物語なのか。その答えを探るのに、シェイクスピアの剛七に遡って語ろうと いうのは冗漫迂遠のそしりをまぬがれないのではないかと恐れるが、しかし一 つには

17

世紀初頭がある意味で近代というそれまでとは隔絶したシステムに 基づいて動く新しい時代の始まりであり、そこで始まった特に植民地化という 現実の政治とイデオロギーが混在した運動がコンラッドという自ら植民地に赴

き現地の実情を経験したというだけでなえ、自身の祖国が事実上植民地化され ていたとも言える作家にとって、彼自身という存在を作り上げるのに関与した 非常に重要なテーマであったという事に注意を促せば、時間的には離れた時代 の出来事や物語がコンラッドのこの作品を考えようとする際、ある助けを与走 ると考える筆者の論理に読み手の寛恕が得られるかも知れない。

フォード・マドックス フォードもコンラッドとエリザベス朝を結びつけて いた。といってもコンラッドをエリザベス朝人にたとえたとき

( 2 4 0 )

、この作家 兼批評家の念頭にあったのは勿論あくまで友人でもある異国出身の作家の理解 しがたいしかし魅力的な暗きであり、これから説明しようとするチューダ一朝 とエドワ}ド朝というこつの時代の持つ意外な質的近接についてではなかっ た。しかしコンラッドに影響を与えた作家ヘンリ}・ジェイムズもアメリカ人 として生まれながらイギリス文学の中心に自らを置き、さらに言えば彼らの影 響のもとに

20

世紀初頭モダニズム運動を作り上げていったジェイムズ・ジョ イス、エズラ・バウンド、

T.S

・エリオットらのイギリス文学の中心的指導 者逮古まいわゆる生粋のイギリス人ではなく、それぞれが以前イギリスの植民地 だった地域の出身者だったという事実を考慮に入れて言えば、当時最先端の文 学のあり方をさぐろうとしていたポーランドという当時広い意味でのヨーロッ パ内の事実上の植民地出身と言って良いこの作家が感じていた何かをフォード といういわば帝国の中心にいた人間が明瞭には理解出来ないまま、すぐれた触 知力でエリザベス朝的と表現した。そういう事だったのかもしれない。

(5)

即興演技としての暗闇

1 7  

呆たしてフォードのその推量の質がどれほどのものであったのかはともか く、友人からエリザベス朝的と評された作家が

20

世紀の初頭に二つの作品を 通して描こうとしていたものは、まさに

1604

年にシェイクスピアが描いた とされるものとつながりを持っていた

o

この二人の芸術家が描いているものが いずれも植民地化を強制する側、そして服従させられる側のそれぞれの立場で 関わった人びとの内面を描いているという点を以下に説明していきたい。この 説明は主に様々な視点から

16‑17

世紀の植民地化に関わった人々の内面の 有り様を主に文学作品を通してたどろうとしているスティープン・グリーンプ ラットの

[ J

レネサンスの自己成型

I

によっている。そこで批評家は英国ルネッ サンスにつながる広い意味での西欧の他の地域の楠民地化の際に生じたであろ う近代性とそれに対比されるものとしての伝統的な社会のあり方を描き出すこ とに成功しているが、その近代という時代にヨーロツパに生じたと思われる一 つの重要な能力が、彼の言う即興演技、即ち他者になりきる能力である。

グリーンプラットが「即興演技

J

(註1)の現実の例としてあげるのは現在 のパハマ諸島に当たる

J

レケイア諸島の人ぴとを簡単に言えば騎して強制労働に つかせようとしたスペイン人植民者の非道とも言える行為である。

1525 

年、スペイン人たちは自分たちの存在がある意味では引き起こした植民地での 労働力不足を解消するために、

J

レケイア島を訪れその土地の人々が信じている 死後の理想の世界の存在を知ると、自分たちが彼らの信じるその楽園からやっ てきたのだと言葉巧みに信じ込ませ船に乗せると鉱山へと連れて行き強制労働 をさせようとした。やがて自分たちに起こった事を理解したとき、

J

レケイアの 人びとが事実上の集団自殺に走るという悲惨な結末を迎えた。この出来事のう ちでコンラッドという

20

世紀初頭の作家に関わりがあるのは、この行為が持 つヨーロッパによる他の地域の構造的な搾取にもつながる搾取者と非搾取者の 聞に存在する思考のあり方の断絶と差異である。

スペイン人植民者たちはルケイアの人々を暴力を以て自分の望む場所に連れ て行ったのずはない。島の人々古吋言じているものを使い、いわば相手の内面の

(6)

1 8  

~n興演技としての暗間

中に入り込むことによって己の望むことをなさしめたのである。他人のイデオ ロギー世界を利用して相手を搾取すること。この場合で言えば暴力や身体的な 強制によるのでなく相手の世界を作り上げているイデオロギーの中に入りこ み、いわばそれを利用して相手を自らの望むとおりに動かすこと。その際に取 られる手段をグリーンプラットは即興演技という名前で呼ぶ。初めて知った他 人の内面世界をいわば一種の塑型可能な素材として使い、自分に都合の良い世 界を打ち立てそれを使って他人を利用すること。これがいわば「心的可動性」

を有する近代の側に立つ人びとがそれを持たない伝統的な社会の人びとを搾取 する際に起こることであった。

興味深いのは、グリーンプラットによればこのような能力を生み出すのに英 国ルネッサンス期における人文主義の教育が重要な役割を果たしていたという 点である。単純化して言うならばイギリスのルネッサンス期においては、ある 時はオセロウとなりある時はイアーゴウとなって相手を説得するという今日の デベートにも通じるよう者技能が教え込まれた。自分の信念にかかわらず、あ る主張を心を込めて行えるようになること。それが当時の人文主義教育が求め た事であった。真っ向から対立する二つの立場をそれぞれ同じだけの説得力を 込めて論じられるように生徒の能力を育成することが重視され、そしてこのよ うな意図と深く結びついたものとして初期の演劇が存在したとグリ}ンプラッ

トは説明する

σ30‑231)

言うまでもなくシェイクスピアは「初期の演劇」などではなく完成に近づい た形態であり、初期の演劇が内包していた教育的目的がどれほと手シェイクスピ アの念頭にあったか疑問である。しかし問題はシェイクスピアがそれを意識し ていたか否かに関わらず、彼が即興演技を教育的目的として持っていた演劇の 伝統の、あるいは文化的な枠組みの中にあり、それに基づいてイアーゴウとオ セロウの関係、を創り上げたのだという点である。

グリーンプラットは「自己成型jの第

6

章においてシェイクスピアの『オセ ロウ

j

の悪漢イァーゴウのあり方を即興演技の例としてとりあげzている。イ

(7)

~~奥演技としての暗闇

1 9  

アーゴウは、オセロウの内面に入り込みその精神を操作することに成功する が、それはまさにイアーゴウの近代人に特有とグリーンプラットが見る能力、

つまり実際にそうではない者になること、他者の内面をいわば演じることに よって他者の支配に成功するのである。他人の内面に入り込み、そのもっとも 畏れるものを捉え、その最も欲するものを意識し、その不安の対象を媒介とし て相手を自分の望むとおりに使役すること。他者の思考の基礎となる信念や知 識の全体をいわば換骨奪胎して自分に都合の良いように利用できる能力、グ リーンプラットが即興演技と呼ぶものこそ、近代世界を理解しようとする際の 重要な核となる行為だということを意識してみる必要がある。

興味深いのは同じ年に発表されたコンラツドとジェイムズの作品に、共通す るテーマが見られるという点である。コンラッドがある意味で師として仰ぎ見 ていたアメリカ生まれの作家から直接の影響をどれほど受けて自らの作品を生 み出したのかは別にして、彼がシェイクスピアの時代に始まったと思われる他 人のイデオロギーを利用しての支配というテ}マを

300

年後に小説という形 で書いた時、このポーランド出身の作家はその試みにおいて決して孤立

L

てい たわけではなかったという点を指摘しておきたい。偶然かどうなのか、この二 つの作品にはシェイクスピアの『オセロウ』と共通した主題、即興演技と呼ぴ うるものが存在している。それは誰かの中に入り込みその中の素材を利用して 自分の欲望を遂げようとする行為がジェイムズと、そしてコンラツドの作品の 中において行われており、そのような即興演技の働きを認めることによってこ れまで不可解と見えたものが、幾分か理解可能なものとして読めるのである。

190 2

『聞の奥』と同じ年に出版されたヘンリー‑ジェイムズの作品

『鳩の翼

I

の登場人物ケイト・クロイが主人公ミリーに対して行っていること が、私には限りなくイアーゴウがオセロウに行ったことに、さらにはスペイン 入植民者が

J

レケイア島の人々に行ったことに、似ているように見える。主人公 ミリーは不治の病に冒されている。何とか生きたという感覚を持ちたいと願っ ているその女性の絶望的な内情を知るともう一人の主人公ケイト・クロイはミ

(8)

2 0

即興演技としての暗闇

リーのいわば生と死をめぐる不安の中に入り込み、自分の欲しているものを手 に入れようとする。ケイトがミリーの中に見いだしたもの、それはミリーの内 に秘められたケイト自身の秘密の恋人デンシャーへの思いであった。ケイトは ルケイアの人々に対してスペイン人植民者がそうしたように、その内なる思い を利用じてミリーの遺産を手に入れようとする。ミリ}に愛し愛されたのだと いう生きたという感覚を与えその代わりに自分はミリーがデンシャーに残すだ ろう遺産を言わは恋人を貸し出した対価として受け取ろうとする。ミリ}を救 うためだという美名の下に半は進んで利用され、半ば自己穏晦によって罪悪感 を弱めて欲望の虜となった恋人の言いなりに動いたデンシャーという人物をど う評価すべきかは別の機会にゆずり、ここでは相手の欲望の中に入り込んで相 手の見たいものをみせることで自分の欲望を遂げようとするケイトの姿がどこ までもスペイン入植民者や、あるいは、オセロウに彼の恐れていた愛する妻の 不貞を信じさせたイアーゴウの振る舞いと酷似しているという点を確認してお きたい。奇しくも同じ年に発表された小説が同じようなテーマを内包していた ということを確認した上で、次にそのテーマがコンラッドの他の作品にも見い だすことができるのだということを見たい。

3  ラズーモフの即興演技

次に見ておきたいのは、 『聞の奥』の

9

年後に発表された『西欧人の目に

j

(以下『西欧人

j

と略記)との比較において「閣の奥

j

という作品を見ること によって、このこっの作品が表現

L

ているものが、

1604

年に初演された演 劇が表現しているものと思いがけず近接しているという事実である。

r

西欧 人』の三部からなる長さをある意味で冗長とみる向きもあるが、ほとんど説明 をはぶいた象徴主義的な不可解さのオーラによってその実態を見るのが難しい

『閣の奥

j

という作品を照らし出すのに

1908

年に出版されたこの作品ほど 適切なものはない。何故なら小説の中心にあるクルツの嘘と『西欧人jでっか れた嘘の間には私の見るところ相似性が存在しており、そしてその相似性はイ

(9)

即興演技としての暗闇

2 1  

アーゴウとオセロウの聞にも、そしてスペイン人植民者とルケイア島の人々と の聞にも存在していると見えるからである。

まず、ク

J

レツとコンゴの密林に住む人びとの聞に成立した関係が

f

西欧人』

の主人公ラズーモフと飲んだくれの御者ジミーアニッチとの聞にも成立してい る。重大な犯罪を犯しながら勝手に自分に盲目的な信頼を抱いて助けを求めて きた草命家にしてテロリストであるヴイクター‑ハルデインを主人公ラズーモ

7

は最初救おうとするのだが、逃亡の手助けをするはずだった御者ジミーア ニッチが泥酔して役立たないということもあって、結局はハJレディンからの盲 目的な(その意味でロシア的な)信頼を裏切ってしまう。孤独を癒すかのよう にラズーモフは自分の恐らくは父であろう貴族を通して体制側にハルデインの 所在を通報する。

r

西欧人』はその点でコンラッドおなじみの裏切りを巡る物 諾である。

注意したいのはラズーモ7とジミーアニッチの態度の対比である。自分の家 に突然草命遂行者が現れたという事実を素材として、最初は救出者として、次 には通報者として、自己演出を行い、いわば歴史的事実の解釈を根底から変え てしまうことにラズーモ7は成功する。革命遂行者を自分の家に確保すること に成功した存在として自らを定義し直すのである。事実カ可寅技によって変貌を 遂げる。さらにこの「演技」には念がいっていて、後に体制側のスパイとなっ てジュネープに乗り込む際、ジュネープの草命家グル}プを信用させようと実 際には必要の無かった金を彼カも耳、要としていると思いこませるために、身近に いた草命の大義を信じる純朴な青年を騎して父の金を盗ませることまでする。

さらにはベテルスプルグを去る際、もともと必要のなかったこの盗ませた金を あたかも芝居の小道具のように線路に捨てる場面をコンラッドは描写している

σ 1 5 )

。この演技による変貌によってラズ}モフはロシアの民衆の一人ジミーア ニッチにもそして

1525

年のルケイアの人ぴとにも恐らく想像もできない、

しかしイアーゴウはよく知っている領域に足を踏み入れる。その瞬間ラズーモ

7は固定化された自己象から離れて f

固定化され確立されているように見える

(10)

2 2

即興演技としての暗闇

ものを自分の都合にあわせて把握する

( G

e n b l a t t 2 2 7 ) J

ことに成功したのであ る。即興演技を身につけて、ある意味で彼の周辺にいた伝統的な世界を生きて いる人々には未習得の近代的な能力を帯び始めた存在、それがラズーモフで あった。

ラズーモ

7は新しい現実を取り込んでそれまでの草命実行者の常助者として

の自分を革命遂行者の摘発者へと変貌させた。その意味でルケイアの人々を腐 したスペイン人植民者に似ているのに対して、御者ジミ}アニッチは限りなく そのスベイン人たちに騎された島の人々に似ている。自分の泥酔の故にハ

1

ディンの逃亡がかなわず処刑された事を知ると素朴な御者ジミーアニッチは罪 悪感から自らを責め、結局自殺を遂けてしまうのである。

ラズーモ

7の可変性に対してジミーアニッチは固定化された自己を表現して

いる。彼は自分が行うはずだった仕事と一体化した自分という存在を自らの即 興演技的な解釈によって変えることが出来ない。

I

変化に抵抗し他者の状況を 把握することのできない(

G r e e n b l a t t 2 2 4 ) J人物、言い換えれば素朴なしかし正

直なロシアの民衆そのものと呼ぴうる存在なのである。彼はそうでない存在に なって生き延びることができず、自己破壊という形でしか自らの故にハルデイ ンが処刑されたという現実を受け入れられなかった。シュワーツは『西欧人』

におけるロシアを「一種のヨーロツパ版のコンゴ」と捉えている(7

0 7 )

が、その 見方は恐らく正しいだろう。付け加えるとすればここに描かれたロシアはその 事実上の属国であるコンラッドの出身困ポーランドの姿だと見ることができる という事である。コンラッドがロシアとして描いた近代化の遅れた世界はロシ アである必然性は私の見るところほとんどない。むしろそれはコンラッドのあJ

る種の絶望を隠すためにロシアとじて描かれていると考えられる。ここでのロ シアは作家が見限った故国であり、さらに言えばコンラッド=ラズーモフが裏 切った理想王義的な革命家ハルデインの姿には作家自身の父にして革命家アポ ロ・コ

1

レジェニオウスキの姿をみることができるのではないか。

植民地化される地域とは即興演技を行う事のできない人々が多く住む地域で

(11)

N O

興演技としての暗闇

2 3  

あり、その地域を食い物にする地域とはそれを行うことにたけた人々の住む地 域である。そのヨーロッパに対してのロシア(あるいはポーランド)がコンゴ と共有するのはその人民の現実に対しての、或いは自分という存在に対しての 態度の故なのである。ラズーモ

7

から裏切られたことを知ったハルデインの完 全な沈黙という行為自体が即興演技的にラズーモフを自らのシンパとして色づ けることをしなかったという点でこの理想主義的な革命家が人格の可動性を欠 いておりその意味で、自殺したジミーアニツチと同じ素朴さを有していたこと を示している。彼もまた伝統的な社会を破壊しようと願う伝統的な社会の一員 に過ぎないのである。彼が家族から深く愛され尊敬された一員であることが、

孤独で切り離された近代世界内の存在を思わせるラズーモフと対置されるべき 存在であることを示す指標なのだと考えられる。

さらに言えば、後に経験することになる現実からの遊離の感覚を味わった後 に最終的には「ハルデFインを裏切ったことで、もっとも卑しい仕方で自分が裏 切ったのは自分自身だったのだ(

r

西欧人J3

6 1 ) J

と告白する時ラズーモフは いったんは離れたコンゴのヨーロッパ版であるロシアの民衆の側、そしてルケ イア島の人々の側に戻っている。ジミーアニッチが直感的に判断することの出 来た事、すなわち自分以外の者になることが自分の死を意味するのだというこ とをラズーモフは『西欧人

J

に描かれた経験全体を通して学んでいく。非近代 的な心性の持ち主にとって割り振られた固定化された自己を裏切る事がどうい う意味を持つのか、ラズーモフが学ぶのはそれである。同じ感覚が『ロードジ

j

の中の主人公によっても共有されている。ジムはおぼれた人々を救わな かったことを自らの責任として苦しみ続ける。これらコンラッドの描く主人公 たちの苦悩は恐らくは完全な近代人であったフォードには実感を以て理解する ことができないものだったろう。どこまでもそれは彼にとって「個人的な名誉

( H u e f f e r , 2 4 3 ) J

の問題としか思われないものだったはずである。コンラッド がラズーモ

7を根本的には理解できない西欧人である英語教師の視線を通して

作品を語らせているということの意味はフォードのような一般の近代化された

(12)

2 4

即興演技としての暗闇

イギリス人読者の感じるであろう違和感を予期していたためだったのかもしれ ない。

自分の存在の確かさ、解釈や演技によっては変えようもない存在としての自 分の存在、アウグスティヌスが「汝自身に手をふれるなかれ。汝を築こうとし て汝は破滅を築くであろう

( G r e e n b l a t t2)  J

と言ったというその伝統的な社 会のイデオロギーと共に存在し、動かしたり改変したりすることの出来ないも のとしての自己のあり方。その意味で『西欧人』は恐らく『閣の奥j同様、グ リーンプラットが批判的に引用しているラーナーの言葉を使えば心的可動性の 低いあり方の社会と高度に心的可動性が発達した社会、すなわち単純化すれば 伝統的な杜会と近代的な社会との間の議離をめぐる物語なのだと言える。無論

152 5

年の

J

レケイアと

1908

年のロシア及び

20

世紀初頭のコンゴを同列 に置くことは突飛であることは承知だが、自己との距離という点においてルケ イアと

1908

年のロシアは(あるいは私の見るところではロシアと偽装され たポーランドは)同列におかれるべき文化的状況の変奏なのだと考える。ク

J

ツというラズーモフを見つめるもう一人のラズーモ

7、自分を裏切ったとして

告白をすることになるラズーモフがマーロウである。この嘘(即興演技)を嫌 う人物が嘘に死の影を感じるのはそのことが理由である。嘘をつけば、ラズー モ7が経験したように確固としてある固定化された現実の持外に出ることにな る。ジミーアニッチがそれと共に死なねばならなかった自分から抜け出してい かねばならなくなる。

r

西欧人』の冒頭で語り手が言葉を「現実の大いなる敵 (3) 

J

と定義するのは恐らくそういう意味なのである。

r

閣の奥

J

カ守及おう とする密林の奥から流れ出てくる嘘とはこのような嘘なのだと推定することが 可能である。

4  クルツの即興演技

即興演技によって生き延びようとして、結局はジミーアニッチ的な自己に 戻っていくラズーモ

7に対してクルツは逆の方向からこの即興演技に近づいた

(13)

即興演技としての暗闇

2 5  

存在であり、限りなくあの

J

レケイアの人々を鉱山に連れて行ったスペイン人植 民者に似ていると言える。クルツは楽園から来たと

J

レケイアの人々をだました 連中同様、コンゴの密林に住む人が見ることを願った物を演じて見せた。他の 村を襲い人間狩りを行ってその狩った首をさらして畏怖をかき立てる。それは

J

レツが最初演技を開始するまえには「破滅する」ことを主張した彼の言うコ ンゴの白人の想像の世界の「野蛮人たち」のありようである。コンゴの密林に 住む人々の期待し望むような王の姿を彼らの想像を超えて演じることによって クルツは実際上、それらの人々を高度に効率的な象牙略奪装置へと変えてい く。彼らを支配する際に有効な手段としてク

J

レツが最初から考えていたように

「超自然的な存在として振る舞う

( 6 6 ) J

ことによってクルツは目的を達成す

それは即興演技によって、虚偽によって、嘘によって、与えられた状況を素 材として自己の都合にあわせてあらたに解釈を加え利用していくジュネーブで のラズ}モフに限りなく似た行為である。いわば植民地の王としての戯画化さ れた、そして戯画化されたものであることによってコンゴの住民を徹底的に魅 了したその姿が密林の奥から流れ出していた虚偽=暗聞なのだと考えれば、白 人=光、コンゴの住民=閣という定型的な図式から離れて白人の一人であるク ルツの行った行為全体こそが暗闇であり、さらに暗闇とはグリーンプラットの 言う即興演技だと考えればワットが指摘するような

( 2 4 9 )

光と閣の図式の表 面上の混乱とも見えるものは解消されるように思われる。

クJレツの残した謎めいた絵に描かれたたいまつを掲げる目隠しをした女性

( 4 0 )

の意味はジミーアニッチを照らし出すランターンが必然的に生み出してい る「強烈な影」について言及した『西欧人』の一場面を参考にすれば自ずと明 瞭になるように恩われる。泥酔したジミ}アニッチを照らし出す際にカンテラ が使われるのだが、そのカンテラから生み出された光の輸の中に真っ黒なス ポー芳状の影を生み出す様をコンラッドは描写する([西欧人

J 3 0 )

。伝統世 界に生きる人々を照らし出すカンテラが同時に生み出す影。啓蒙するはずの理

(14)

2 6

即興演技としての暗闇

性が生みだす影。ジミーアニツチを照らし出すラズーモ

7という理性という名

を持った人聞が掲げさせた明かりが同時に影を生み出しているこの場面が、目 隠しをしてたいまつを掲げる女性の姿と共にコンゴの密林に住む人々に対する クルツの身振り全体を照らし出す。クルツか彼らに行った行為、すなわち即興 演技がとりもなおさずこの作品古雫苦る暗闇という虚偽なのである。

r

野蛮人を

磯滅 ( 6 6 ) J

することを目的として彼らに対し「超自然的」存在として振る舞う という即興演技を見せたその行為自体が、たいまつという理性を掲げる行為で ありながら、同時に客観的に見れば閣の中へ人々を落とし入れる行為だったの だ。目隠しをしてたいまつを掲げる女の絵はその意味でクルツ自身の自画像 だったと解すことが可能であるように思われる。クルツは実際上自身の周囲に 対して嘘をつきつづけ、それ故にリアリテイを失ってしまった存在となってい る。ク

J

レツはクルツ自身の嘘故に死に近づいたのである。その意味で嘘の中に 死の予兆をかぎ取ったマーロウの既述の言葉は予言的なものであると言える。

嘘が死を生み出した。物語の結末は果たしてその通りのクルツの運命を拾いて いる。

5  リアリティの喪失

担論、虚偽と演技は同じものではない。しかしその実体が同じものである瞬 間があることを我々は知っており、そしてイアーゴウの行為も、クルツの行為 も、叉ペイン人入植者の行為も、ラズーモフのそれも、さらに言えばジェイム ズの描いたケイトのそれも、どれもが演技でありながら同時に虚偽でもあるよ うなそういう行為なのである。重要なのはこの虚偽でも演技でもあるようなも のが、最初にそれを見せられる観衆である騎される側の人ぴとを客観的な現実 から遠ざけるが、やがてはその当の即興演技を行う人物自身のリアリティを失 わせるという点である。恐らくその事を意識していた為なのであろう、コン ラッドが虚偽=演技の物語として描いたであろう『西欧人j という作品の眺め ている西欧人とは物語の構造的には語り手である英語教師であるが、テーマと

(15)

即興演技としての暗間

2 7  

いう観点から言えばそれはラズーモフが自らの現実の有り様をあたかも自分の 現実を見失わないためであるかのように書きつづるその行為を金属製の目で見 下ろしている

J

レソーの{主である

( 2 9

1)

ルネッサンスに続く大きな近代化という流れを実際に生み出したというより もそのような現実の流れを人一倍敏感に感じ取り言語化したと言われているこ の思想家は、演じることを存在の基礎からの逸脱と結びつけて考えていた。芝 居が自我を希薄化させる。そう信じていたが故にダランベー

J

レが提案したジュ ネープでの劇場の建設に反対したのだとセネットは説明する。ダランベー

J

レが ジュネープでの劇場建設を提唱した時ルソーはそれが自我の希薄化をもたらす と感じていた。

1  758

年、ルソーは『ダランベール氏への手紙」を出版した。この手紙はダ ランベールが言おうと意図していたもの以上のものへの応答となっている。

j

ソ}は(自らの行う)演劇への政治的検閲を正当化するためにダランベ‑)レの 価値観がコスモポリタンのそれであることを明らかにしなければならなかっ た。彼はさらに小都市へのコスモポリタン的価値の普及がそこの宗教を破壊

し、またその結果、人々は俳優の「感受性の繊細さ」で振る舞うことを学ぶう ちに、深い誠実な内的生活を持たなくなることを明らかにしなければならな かったのである。

( S e n n e t t1 1 6 )  

ここで言うコスモポリタン的な価値観とは啓蒙思想的な、その意味で世界全 体を一つの価値観で眺めようとする近代的な価値観の別の名前であると考える

ことができる。演技がもたらす仕事や家族や市民としての義務という様式から の逸脱が現にある自分という存在の存在感を希薄なものにしていく。そうでな いものとして振る舞うことの危険。

J

レソーが問題にしているのはその事であ

コンラッドが具体的にどのようにルソーという啓蒙思想家を理解していたに せよ、 『西欧人』の中でのこの人物の彫像が果たしている役割はこのセネット の説明にそったものとなっている。この彫像の視線の元で自らのいわば正気を

(16)

2 8

即興演技としての暗閉

保つことを目的として裏切り者としての日記に現実の己の姿を記録し続ける主 人公ラズーモ

7の存在のあり方はルソ}の主張する演劇によって自己の基礎的

状態から逸脱する危険の有様を具現化したものといえる。自らを頼ってきた人 物を結局は裏切って死に追いやってしまいながら、その際に生じた誤解を利用 して今や祖国を離れ国家転覆を狙う人びとの問で革命の英雄として振る舞うと いう嘘=フィクションを生きる羽目になったこのラズ}モ

7

という人物が感じ ているのはまさにそのこと、つまり演じることを強いられた結果、彼にとって 生きていることが夢のように感じられリアリティを失ってしまったという点で ある。必要のない金を盗ませて己の偽の姿を完成させた後ジュネープへと向か うラズーモ

7

が感じているのはまさにその点、現実が夢のようになっていると いう彼の経験である。

もう一度夢が彼を捉えた。プロイセン、ザクセン、ヴユ

J

レテンベJレ夕、様々な 顔、様々な言葉、それがすべてが夢でありながら、怒りを込めてそして強いら れるままに注目して観察せねばならない夢であった。チューリヒ、ジュネープ と依然夢のままであった。夢でありながら事細かに経験されたためにラズーモ

7はかすれた笑い声ゃ怒り、そして死に駆り立てられるほどの疲れを感じさせ

られた。にも関わらず彼は最後にその夢から覚めるのを恐れてもいるのだっ

( 3 1 5 ‑ 3 1 6 )

実際にはそうではないもののように振る舞うこと。そこには強いられた、あ るいは意図した演技がある。ラズーモ

7は草命の英雄を救おうとした人物と L

て振る舞台てはいるが、実際はロシア帝国体制側のスパイである。彼はそうで はないものを演じることによってリアリティを失っている。そのような生の感 覚の希薄化を彼がもっとも痛切に感じているのがまさにジュネ}プの湖畔に立 っこの思想家の彫像の視線の下であるということを考えれば「西欧人の目から みれば」というこの小説の題が単にラズーモフが経験する情熱や苦しみを遠目 に客観的に眺めるこの小説の語り手である英語教師の視線だけを指しているの ではないことは明白であるように思われる。

(17)

即興演技としての暗闇

2 9  

さらに言えば『閣の奥」でマーロウがすでに引用したように陸の中に死の影 を見ていることはこのリアリティの喪失の問題と重なっていると考えられる。

実際の有り様から離れていって現実がおぼろに感じられてくる状態。ラズーモ フの内面をのぞき込むことの許された『西欧人

I

の場合と異なり、我々はクル ツの内面を推し量るしかないが、この解釈は彼の「恐怖だ。恐怖だ (86)

J

いう短い最後の吐露と符合する物だと考える。クルツの行為とラズーモ7の行 為とは等しい構造のもとに成立していると見なすことができれば、すなわち柵 の周りにめぐらされた狩られた首を含めて一種の、冷静な計算に基づいた舞台 装置だったのだと考えれば、最後にもらしたク

J

レツの言葉もラズーモ

7の絶望

と重なって理解しうるものとなる。イアーゴウの「俺は俺がそうであるものと は違うのだ」という言葉の意味するところをこの二人の即興演技者は実感を以 て理解できたであろう。ク

1

レツが故国に残してきた物語の最後に登場する許嫁 に象徴される、コンゴの密林から眺めれば許し難いほどの凡庸さの中の日常、

そのある意味でありふれたそれゆえに正気を持ちうる生活に決して戻れないほ どにクルツは彼の作り出したフィクションの中におぼれ、ありふれたリアリ ティを見失っていた。コンラッドが彼の「精神は明断」だが、その「魂が狂っ て」いると書いた時

( 8 3 )

意味していたのは近代性を具現するような頂点の能力 を一身に具体化しながら、同時に又その高度に発揮された能力故に己を見失っ ていった者の絶望的な内面の有り様だった

o

そう考える方が、クルツをパーク 的な極限状況、 「崇高」に能う限り近づいたトリリング的な「本物」として見 る見方よりも、単純ではあるが文化的イデオロギーの歴史という視点から見た 場合より適切な見方と言えるのではないだろうか。

ジ キ ル 博 士 と し て の ク ル ツ

ここまで述べてきた議論を通して一応は、 『閣の奥』を自分の創り上げた虚 偽の世界によってリアリティを見失っていく自己をめぐる物語、虚偽の力をめ ぐる物語として説明できたとa思っているのだが、議論の充実のためにもそのよ

(18)

3 0

即興演技としての暗闇

うな見方への強烈な反論の根拠となりうる小説内の事実に目をふさぐことはで きない。それはコンラッドがマーロウのクルツへの旅、クルツの住む密林を目 指す旅をより古い起源への遡行と見なしているように見えるという点である

( 5 1 )

。ここには私の見方からいえば矛盾したクルツの姿があることになる。何 故ならここまで見てきたように少なくとも『西欧人

j

と照合して考えると、ク

J

レツはごく単純化して言えば極悪非道でかつ洗練された植民者の一人であり、

彼古河

J 用 L

ょうとする人々を彼らの望むものを素材として使いながら煽してい るという点で、近代に特有の心的可動性を有した近代世界の精神の具現とも言 える人物であるはずである。つまり近代的な新しさの先頭にいる人物なのであ る。しかるに、クルツが古い起源、の中心にいるように見えるというもう一つの 事実に基づくならば、その同じ人物が、何か非常に古い起源に近づいた

J

レソー 的な高貴な野蛮人、いわば「本物

J

とも見えるのである。ク

J

レツは果たして古 い起源に近い人物なのだろうか。それとも近代の先頭に置かれるぺき人間なの だろうか。もしこれまで見てきたようにクルツを近代の産物と見て良いとする ならばなぜ彼が同時に古いものとして描かれるのだろうか。

トリリング的な論理に従えばこうなる。起源に遡った場所にあるもの、それ はより真実に近いものであるはずである。故に「ク

J

レツは可能な限り逢か文明 の構造の奥底まで人間のもはやこれ以上還元し得ない真実まで、人間の本性の 最も深い内的核心まで、人間の聞の奥まで到達した

( T

ri1

1 i n g1 0 8 )   J

という見 方が可能となる。だが、このような見方に対して反論することは容易だろう。

一つには自然の起源を遡ればそこに人間の起源があるわけではないという単純 な事実がある。人間らしさの起源は常に自然から枝分かれした所に生じるのに 過ぎない。遡りすぎれば必然、人聞を超えた人間ではない何かにたどり着くこ とになる。さらに言えば、コンラッドがたとえクルツが起源に近づいたのだと 考えたとしても、その起源にあったものに対して必ずしもトリリングが感じて いたような肯定的な意味づけをしてはいなかったのではないかと考える理由が ある。それは別の人物の中から、同じように人の日常を越えた「起源」とも見

(19)

即興演技としての暗闇

3 1  

えるものが噴出する別の場面を想起してみればわかる。ク

J

レツのあり方が欝蒼 とした密林を背景としているために、いかにもトリリング的な「本物」を思わ せるような根源的かつ肯定的な側面を持っていると感じられるのに対して、同 じように起源に近づいた姿でも、それがロンドンのうらぶれた通りを舞台に起 こるのを眺めるならば、必ずしも噴出してきたものが「本物

J

と呼べるのかど うか疑問が湧いてくるのである。

クルツの姿と対比して私が思い浮かべているのは『密偵

J ( 1 90

7)にお いて知的に劣った弟を失った悲しみと怒りのあまりに変貌を遂げ、一種先祖返 りとも言えるような姿を示すヴァーロックの妻ウイニーの姿である。コンラッ ドが『密偵』を捧げた『タイムマシーン

J ( 1895)

においてウェルズが描 いたデ'ジェネレーションは未来における人間の変貌であって人間の起源におけ る姿ではない。しかしコンラッドはあきらかにこの作品からインスピレーショ ンを得て、ウエ

J

レズが未来における出来事として描いたものを、起源として提 示して見せた。時間のベクト

J

レが異なるだけでその告げようとすることは同じ である。ロンドンという当時文明の頂点にあると恩われていた空間において も、そしてヨーロッパ人の内にすら、普段は見失われている野生が存在し危機 の瞬間に姿をあらわす。未来であるか過去であるかは問わずに。注目したいの はロンドンにおいてその内なる野生をさらけ出したウィニーの姿には、ク

J

の密林の姿を包む一種のオーラは見られないという点である。それどころカ呼可 か惨めで哀れなものすら感じられる。

しかしそれをいうならク

J

レツ自身の姿にも、少なくとも直接マ}ロウが間近 で目撃した姿にはウィニー的な退化の兆候とも言えるみじめな何かが見て取れ たように思われる。まるでパ

J

レザックが

f

あらかわ

J

で描いたような、欲望の 解放カ匂

E

につながるようなそういう状態にクルツは近づいているのである。

1

9‑20

世紀の世紀転換期のヨーロッパ的な、

7

ロイト的言説を生み出したよ うなセクシュアリティの抑圧からの解放はコンゴの密林の中で起こったのかも 知れない。しかしそれはコンラツドの想像力において消耗と枯渇をもたらしク

(20)

3 2

即興演技としての暗闇

j

レツを「子供のような重さしかない」状態にするものとしてあらわれてきたこ とに注目する必要がある。又、読み手はクルツの姿がオーラを以て描かれるの はクルツに直接は接近し得ない人々の報告においてであったことも思い出す必 要があるだろう。ウィニ}の中から現れた獣的と見える存在がコンラッドに とって人間の本性の最も深い内的核心などではないのと同様にこの「ょっんぱ いで歩く

( 8 1 ) J

クルツの姿もまた「本物」というよりも何らかの病理の表現、

すなわちデジェネレーションの一例とみるのが適切なのではないだろうか。

デジェネレーションというテーマについて言えば『タイムマシーン』が階級 の問題に近づいているのに対して、 『タイムマシーン』の

1

年後に発表された

『ジキ

J

レ博士とハイド氏

J

(以下『ジキル』と省略)の方がセクシユアリティ の抑圧の問題と関わっているという点でも、ヴイクトリア朝の抱えていた内面 的な問題に関わっている作品と考えることができる。この作品において問題は ダーウイニズム的な視点、すなわち人の中の遡行によって遡ることが出来、か つ我々の中にあるであろう一種の「自然」の問題に近づいているだけでなく、

その「自然」と日常的な自己との関わり合いについても描いているからであ

この作品と『閣の奥

j

を比較してみることによって、我々はク

J

レツの姿をよ り正確に捉えることができるようになる。スティーブンソンの描いた物語の中 にあったヴイクトリア朝における中産階級の性的抑圧とそこからの解放を求め る傾向を『タイムマシーン』という恐らく共通のインスピレーション源を持つ この『閣の奥

j

の世界に読み込んで良いのだとすれば、クルツの物語における コンゴの密林はその意味での理想郷、完全に解放されたセクシュアリテイの世 界を表している事になる。そこではヴイクトリア/エドワード朝的な空間におい ては依然許されていない性に関する完全な解放が経験される。しかし、この欲 望の理想郷の不完全きあるいは不安定さを思い出すには、次の事を思い出すだ けで十分である。すなわち、その性的に完全に解放された姿を果たしてクルツ は堂々とイギリスに残してきた自らの許婚の女性に見せることが出来たのだろ

(21)

~O興演技としての暗闇

3 3  

うかと。クルツはあの『ハワーズエンド』のウイルコックス家の当主ヘンリー のように植民地だから経験できる怪し気な自由を経験していたに過ぎないので はないだろうか。彼がもし故国に戻ることが許されたならばヘンリー・ウイ

J

コックス的な仮面を帯びてイギリス紳士然として暮らしたのではないか。そし ていつの日か自分の許婚との結婚式の当日にコンゴの密林のあの美女と再会す

るなどということもあり得たかもしれない。

余計な想像はさておき、我々が意識すべきはクルツが故国に残してきた彼の 許婚を含む日常の恥

l

、さと彼が密林で獲得した超自然的な巨大な姿との聞の懸 隔である。なぜなら

f

閣の奥jの蛇足とも見えるがしかしi鮒に必要なマ}ロ ウと許婚の会見の場面が告げようとしていることこそ、この物語の全体の構造 をあらわにするものだからである。それはラズーモ

7が言った彼が「卑しくも

裏切った」自分と、ジュネープでの偽りの自分との距離である。平たく言えば 植民地主義のお先棒を担ぐために虚仮威しの仮面をかぶったら、その仮面が取 れなくなっていった。ク

J

レツの物語とはそのような物語なのではないか。これ までの議論の文脈に即して言い換えるならば、可変的塑形可能な自己を獲得し た代わりに、その可変的な自己の描き出した肥大化した現実に引きずられて、

もっとずっと小さいありふれた、しかし親密な関係を結ぶべき等身大の人間と のつながりにおいて確保していたはずの自己を見失ってしまった。それがク

J

ツの置かれた状態だったことを最後の会見は確認しようとしているのではない だろうか。

このように考えるとクルツの経験が意外にジキル博士の経験に近いのだとい うことがわかってくる。ク

j

レツはただジキJレ氏がハイドに変貌して仮の偽の自 由を得てロンドンという近代世界で密やかに行っていることを、監視する許婚 から遠距離によって隔てられているのをいいことに植民地の「野蛮な」世界に おいて謡歌しているにすぎないのだとも言える。わざわざマーロウが許婚の女 性のもとを訪れてクルツの最後の言葉が冷感症的とも見えるこの女性の名前 だった事を告け

Z

場面を、ク

J

レツを「本物」と見る批評家たちは常々冗長で不

(22)

3 4

即興演技としての暗闇

要な部分とみてきたはずである。ク

J

レツが「本物」であり、その「本物」の物 語について『閣の奥

j

という作品が真剣に語っているのなら、そのようなクル ツの真実に関しての偽装など本来不要のはずであるからである。実際の『閣の 奥』という作品においてこの場面は一個の核心ですらある。何故ならクルツの セクシュアリティの現実の恥

J

、きが密林においてマーロウ以外の大多数の人々 に対して覆われていたというその偽装こそ、この小説が語ろうとしているすべ てだという言い方もできるからである。

7  P

書癖としてのテ ジェネレーション

「閣の奥j と『ジキJレ』という文学的評価においてかけ離れているように見 えるこのごつの作品における意外なテーマ的な近接に気づけば、さらに『聞の 奥』で語られている事柄が

20

世紀初頭のイギリスの文学世界において中心的 主題として語られていたこと、特にヘンリー‑ジェイムズのいくつかの後期作 品において描かれた自己のあり方の問題とその自己の物語の破綻としての噌癖 という問題ともつながっているという事が見えてくるように思われる。という のは、

20

世紀初頭の文明化されていると見える個人の内から何か非人間的、

獣的とも見える統御不能なものが現れてくるという点で、ジェイムズの作品の 中でのデジェネレーシヨン的な表象がコンラッドの提出するデジェネレーショ

ン表象とつながる可能性が存在するからである。

ジェイムズが『ある婦人の肖像画』において意識して創り上げられる自己の あり方の問題を追求していたのだと論じた際、私はその作り上げられるべき自 己の対極にあるものとして、自由に作られようとする妻の自己を抑圧する伝統 の中に自らを固定化させようとするオズモンドの姿についても言及し、その姿 の内に自由に創り上げられる自己の破綻としての噌焼、その問題の痕跡を見る ことが出来るのだと論じた。

u

反復と自己

J 5 4 )

その際、暗癖の症例とし てあげた「鳩の翼jのライオネル・クロイ、 「大使たちjのヴイオネ夫人、さ らに『厄介な剛七』のプ

J

レツク夫人の姿の中にはある種の欲望故に自己に対す

(23)

即興演技としての暗闇

3 5  

る統御を失った人物遣の姿が繰り返し描かれている。仮に、そのような自由に 自分を塑形することが求められ始めている世界に不適応を感じている個人、そ れがオズモンドでありライオネルやヴイオネ夫人らであると言えるのだとした ら、さらにこう言えるのではないか。つまりダーウイン的遺伝を背景として社 会的不安の表現として考えられ、遺伝的な原型の表出、人の源泉に存在する動 物としての身体、原始的な存在への先祖返りという形で捉えられてきたデ'ジェ ネレーション表象を、近代世界での自己の構築の問題への不適応の問題、すな わち自己の物語の破綻としての噌癖を表象したものと捉え直すことが出来る

ジキル博士が周りから尊敬を受けるリスベクタプJレな存在として自身を規定 し描いていくことによって、その定義にそぐわないハイド氏的なものは異質な ものとして排除されねばならなくなる。そのような圧力を感じながら生きるこ とを強いられた結果、自己の統御ができなくなってハイド氏が徐々に前景に現 れ、統御していたはずのジキル博士が不在となっていくその過程こそ、デジェ ネレーションが実は近代の自己構築の破綻としての噌癖の問題とつながってい ることを示す過程と考えることができるように思われる。抑えられていた欲望 古朔

1

えていた個人を乗っ取りその人間の「自己の保全そのものが脅かされる

J

ような状態(ギデンズ 11 6) にまで衝動強迫的行為が強いものになってい く。自分が意志によって自分を描くのでなく、何かに引きずられ乗っ取られて しまったような状態。ジェイムズの描いた様々な中産階級以上の人々のこのよ うな状態こそ、コンラッドがコンゴの密林の中でクルツに経験させたものでは なかったか。そのク

J

レツの姿をコンゴの密林の中からロンドンのテムズ河畔へ 移して考えてみれば、それがどれほど近代的な病理とつながっているかが見え てくるように思われる。

デジェネレーションは通常、遺伝に関する知識と大衆化する社会の中での中 産階級上位者たちの恐怖が結びついた形で生まれてきた概念であると考えられ ているが、この退化の問題は、揺らぐ階級の感覚の問題、階級という共同体の

参照

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<インタビューより> (d)「僕は、明らかに自分が変わってきたのが実感で