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Aesthetic Sencses of the 400m Hurdle Akihiro U

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400mハードルの美的感覚

上杉 明弘*・日下 裕弘*

(2011 年 11 月 25 日受理)

Aesthetic Sencses of the 400m Hurdle

Akihiro UESUGI* and Yuko KUSAKA*

(Received November 25, 2011)

1.はじめに

 私たちは,スポーツを行なっているときにある種の美的な感覚を持つことがある。スポーツ実 践者が「それ」を感じる時,「それ」は一瞬の感覚的現象であり,その感覚を言葉で表現するこ とは難しい。しかし,その感覚は,スポーツの魅力の一部であることは確かである。スポーツの 実践中に感じるその一瞬の美的感覚に私たちは魅了され,そしてそれが,私たちをスポーツへと 駆り立てる。

 本研究は,樋口聡らを主とする「スポーツの美学」を枠組みとして,私が夢中で行ってきた 400 mハードルの美的感覚を考察することを目的としている。私にしかない,私だけが体験して きた感覚を樋口らの美学論を通して論考したい。

2.研究の枠組み

 普段私たちはさまざまなことに美という言葉や表現を使う。美しい花や美しい人などに使うこ ともあるし,美しき友情や美談などという使い方もする。美の意味には,一般に,「うつくしい ものやうつくしさ」という意味だけでなく「知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこす もの」という意味が含まれている。スポーツマンがスポーツ実践中に美的気分を感じ,美的体験 をするというのは,まさしく後者の意味,すなわちスポーツ実践を通して生成された知覚・感覚・

情感的なある種の内的快感のことである。

 スポーツ実践者が体験するこの感覚は,M. チクセントミハイ(2000)が「フロー」あるいは「深 いフロー」と名づけた,周知の「楽しさの感覚」と表裏一体の関係にある。このフロー感覚を,

茨城大学教育学部体育社会学研究室(〒310-8512 水戸市文京2-1-1: Laboratory of Sociology of Physical Education, Ibaraki University, Mito,Ibaraki, Japan 310-8512).

*

(2)

樋口らは,「美学」の視点から論じているわけである

 樋口(樋口 1987)は,スポーツにおける美を「運動感覚的知覚によって現出する美的気分」

と定義し,その美的気分を,空間的性格,時間的性格,技術的性格,そして共同存在的性格を持 つものとして説明する。

① 空間的性格

 スポーツマンがスポーツをするときには,空気や温度,風,地面の感触など外的な環境に常に 触れている。また,陸上競技には陸上競技場,野球には野球場,サッカーにはサッカー場などそ れぞれの競技特有の競技空間がある。そのような競技空間は厳格な規定の下,画一的に作られて いる客観的空間である。しかし,スポーツマンにとっての空間は,そのような数字で決められた 画一的なものではない。例えば,緊迫した接戦状態で競技している時の 100 mと独走状態で競技 している時の 100 mは,測定距離は同じ 100 mの長さでも,主体にとっては全く異なった長さの 空間である。また,十分に休息を取り,疲れがない状態で走る 400 mと,疲労困憊で体が動かな くなってきている状態で走る 400 mなども同じ 400 mであっても感じる距離は同じではない。ス ポーツマンが感じる空間は,体験され,「生きられている主観的な空間」なのである。この体 験され,生きられている主観的空間が樋口のいうスポーツの美的気分の空間的性格である。樋口 は「スポーツ実践者の美的気分の空間的性格は,日常生活の不安にさらされている空間から隔て られた空間あるいは安らぎのもとで,避けられないおのれの身体的存在を通して,普段は何の意 味ももたない直線や曲線に囲まれた空間あるいはバットという棒きれやボールというという物体 に特有の意味を与え,世界を支えている法則性や理念をあらわにすることに見出せるのである」

と言っている。スポーツの空間は,日常生活とは切り離された,日常生活とは異なる特殊な空間 である。競技場に引かれたきれいで均一な直線や曲線も,野球のバットやサッカーボールも,普 段の日常生活では何の意味も持っていない。100 mをより速く走ることも,バットにうまくボー ルを当てて遠くに飛ばすこともスポーツの空間以外では意味をなさない。スポーツとはそのよう な日常生活から切り離された特殊な空間において成立して行われているものなのである。しかし,

スポーツマンが,人間としてこの世界に存在している事実は疑い得ない。人間として存在し,人 間としてスポーツを行っている。つまりスポーツは人間の生とともにあるのであり,人間として 体験され,人間として生きられる空間である。スポーツの空間もまた人間の生とともにある。す なわち,スポーツマンの美的気分の空間的性格とは,空気や温度などの外的な環境であったり,

陸上競技場や野球場,サッカー場のような競技空間そのものに美的な感覚を持つものではないこ とが分かる。己の肉体や技術を用いて,主体的な競技空間を体験すること,すなわち,生きられ ている空間に転換せしめるところにスポーツの美的感覚における空間的性格がある。そして,こ の空間的性格は,スポーツの美的気分の前提であり土台となる。

② 時間的性格

 スポーツをする際,その体験は時間として体験される。試合時間であったり,何秒で走ったと いうタイムであったり,とスポーツマンは時間と常に関係しながらスポーツをしていることにな る。試合時間や記録としての時間は,正確にミスなく客観的でなければならない。しかし,スポー ツマンにとっての時間はそれだけではない。そこには,空間的性格において述べたのと同じよう に,「生きられ,体験される主観的時間」が存在する。点の取り合いでどちらが勝つかわからな

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い試合におけるラスト5分と,大きな点差をつけて勝つことが決定している試合のラスト5分は,

同じ5分であっても主体にとっては大きな意味の差のあるものである。このようにスポーツには 生きられ,体験される主観的時間が存在する。樋口は,「要するに,練習の持続という時間的経 緯に支えられて発露する瞬間の輝きということが,スポーツ実践者の美的気分の時間的性格であ る」と述べている。つまり,スポーツマンの美は,切れ目なく継続的に体験されるのではなく,

瞬間的に,まさに一瞬だけ感じられるものなのである。スポーツマンがスポーツを行なっている 時に美的気分へと到達できるのはまさに一瞬なのである。瞬間のうちに現れ,瞬間のうちに消え る。スポーツの美とはそのようなはかない性格をもっている。そして,スポーツマンは意図的に いつでもそのような美的感覚を生成できるわけではない。長い時間練習を持続し,技を磨くこと で,瞬間的にその一瞬を体験するのであり,それがまさにスポーツの美的感覚における時間的性 格なのである。厳しい練習の実践が関与するからこそ,実践者は,主観―身体によって運動感覚 的知覚を美的だとして把握することができるようになるのであり,課題の困難さや目標の大きさ によって生じた意味付与の大きさが転換してこそ,実践者がより大きな美的感動を得ることもま た可能になのである。その意味では,スポーツの美は,これから臨む試合が母校の名誉をかけた ものであるとか,一生に一度出られるかどうかという重大な試合であるという外的な威圧によっ てもたらされるものではなく,そのような試合の重要性が,練習という時間的経過のなかで温存 されることによってはじめて生じるものである。主体が練習を持続的に積み重ねていくことで,

一瞬の美の輝きとして感じることができるものなのである。

③ 技術的性格

 樋口は,スポーツ技術における身体を2つに分けて説明している。一つは,運動感覚的知覚の 担い手としての「主観―身体」であり,もう一つは自分の意志ではどうすることもできない,自 分の意志通りには動かない客体的存在としての「客観―身体」である。人間の身体は,すべて自 分の意志通りに動くわけではないし絶えず変化している。疲労によって思うように身体が動かな くなったり,運動をしばらく行なわなかったために自分の意志とは関係なく筋力や体力が低下し たりもする。さらに,関節は一定の所までしか可動しないようになっているし,視野も定まって いる。また,トレーニングをすればその分上達もするし,意識しなくてもスムーズにそのスポー ツを行なうことができるようにもなる。これら肉としての身体は,それ自体合法則性をもつ客観

―身体なのである。意のままにならない身体(肉)を意のままにするところに技術が成立する。

練習によって技術が発達し,意のままになる身体が形成される。それは人間の内なる自然のなせ る技である。人間に仕組まれた内なる能力である。

 樋口はこれを中井正一(1962)にしたがって「内なる自然の技巧」とよんでいる。「技巧」とは,

技術の巧みなこと,文学・美術・工芸などの表現や制作をたくみに行う手腕または手法,テクニッ クという意味をもつ。樋口は,この内なる自然の技巧に対して,外的自然の合法則性を「外なる 自然の技巧」(この場合の技巧とは自然の「摂理」=普遍的原理という意味で使われている。)と よび,内なる自然の技巧と外なる自然の技巧の相互浸透において美的体験は成立するとし,その 浸透をもたらすのがスポーツ技術だとしている。樋口の言葉で言えば「スポーツ実践者が,練習 を通じて自己の運動の質を改善し,ついには極めてすぐれたパフォーマンスを示すことができる のは,ほかならぬこの自然の技巧が存在するからであり,実践者の身体運動を制御する,実践者

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自身にはどうすることもできない自然の技巧なる普遍的原理に,実践者が自己の身体によって運 動感覚的知覚を介在して邂逅すること」,それがスポーツマンの美的体験なのである。

 この内なる自然の技巧と外なる自然の技巧が相互浸透する感覚は,作田啓一(1993)が「生成 の社会学」の中で「溶解体験」とよんでいる感覚に近い。溶解体験とはフロイトの「太洋感情」,

すなわち,「自己と外界との境界が溶け去り,自己が果てのない海のような無限の中に拡散する,

あるいは自己の中に無限を感じる体験」である。自己は外界の中に溶け込み,外界は自己の中に 浸透していくのである。スポーツマンはスポーツを行なっている時に,自然と一体になるような,

外界と溶け合うような,そのような感覚をもちうる。そして,スポーツ実践中にそのような感覚 をもった時のその感覚が美の感覚なのである。

④ 共同存在的性格

 たいていのスポーツは一人ではできず,複数人必要である。チームスポーツや対人スポーツは もちろんであるが,陸上競技のような個人スポーツにおいても競技として成立するためには他の 競技者が必要となる。スポーツマンがスポーツを行う時には,他者が存在し,他者と何らかの形 で関わらなければならないのである。つまり,スポーツは共同存在的なのである。個人競技にお ける他者との関係は,競争という関係である。競技会が行なわれる時,一度に8人から9人で競 技が行なわれる。競争する相手が存在しなければ競技は成立しない。そこでは,集団内の協力や 密にコミュニケーションをとるというような関係は存在しないが,他者と共に競技世界を生成す るという意味では共同存在的性格を有している。そのような共同存在性が成立するのは,競技ルー ルによって定められている共同世界が存在するためである。すなわち,「全く面識のない実践者 どうしが接近し膚を触れ合って競争しうるのは,競技ルールによって支配されたスポーツの空間,

共世界だからである。世界内存在として投げ出され,他者と共に生きることを余儀なくされてい るという現存在の存在様態は背後に押しやられ,スポーツの空間では,実践者どうしが共に存在 することの意味,理由が超越的に与えられており明確に了解されている。このように考えてくる と,スポーツの共同存在性は,実践者間に見出される関係以前に,スポーツの空間性と同様にス ポーツを成立させるための前提条件として存在する」。つまり,スポーツの時・空間においては スポーツマン同士が,相対峙するもの同士として共に存在することがあらかじめ定められている のである。その時,他者は勝とうとする意志の下,何度も何度も攻め寄る生身の存在であり,そ の関係は「我」-「汝」として気遣い合う。それが,スポーツの美的気分の共同存在的性格であ る。 

 中井(1962)が「美と集団の論理」でスポーツ気分として述べている部分は重要である。すなわち,

中井は,それまでに述べたスポーツ気分はスポーツマンが「疲労」を感じるまでのものであると し,「彼等がその疲労を通して立ち上がり始むるとき真のスポーツ気分が出るといえよう」とい う。火事場の馬鹿力という言葉もあるように,追い込まれもう駄目だと感じた時に今まで出なかっ たような大きな力が出るということは確かにある。スポーツにおいても,疲労で身体が動かなく なり限界を感じ始めた時に力を発揮するということがある。疲労で身体が動かなくなり限界を感 じ始めた時に,普段以上の深い美的感覚を得ることがある。中井は彼のボート競技の体験からこ のようにいう。「一本一本のオールを流さないこと,誤魔化さないこと,それはむしろ,いわれ

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るべき言葉ではなくして,筋肉によって味覚さるべきものである。疲切った腕が尚も一本一本の オールを引張って行くその重い気分は,人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る。こ の微笑気分はよき練習と行きとどいた技術の訓練に於いては特殊の『冴え』をもたらすのである。

オール或いは水に身を委ねた心持,最も苦しいにもかかわらず,しかも楽に櫂げる境,緊張し切っ た境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるまま思切り振舞って,しかもあるべき 調子に乗って行く気分である。それはいわば骨,気合の冴えとでもいわるべきものである。耐え ることは最早放棄しか有得ない極みに於いて,何物かに身を委ねる。それはフォームといわんに はあまりにも流動的である。成長するモルフェの瞬間的な把捉であり,時そのものの特殊な実存 的深化である。」この時このボート選手が感じているものがまさしく「美」なのである。オール や水に身を委ね,苦しい中にありながらも楽に身体を動かせる。疲れによって無駄な力が省かれ,

自分の中に存在する真の力が表に出てくる。これは,外界と身体が相互に浸透して,内なるもの が引き出されている状態である。相互一体となり,身体がオールや水なのであり,オールや水が 身体なのである。このような時にスポーツマンは運動感覚的知覚を通して美的気分を感じている のである。スポーツマンが,苦しい競技であるはずなのに夢中になりその競技に没頭するという のはこの作用においてなのである。つまり,スポーツマンは競技中に,競技の苦しさに耐えなが らも外界との相互浸透を感じ,瞬間的に美的感覚を体験しているのである。もちろんこの瞬間的 な美的感覚は必ずしも認知されるものでもなければ,毎回感じ得るものでもない。しかし,一度 でもその感覚をもったスポーツマンは,意識においても意識下においても,自分が味わったその 一瞬の美的感覚を求めて再び競技に臨むのである。要するに,疲れそのものが美として運動感覚 的知覚に捉えられるのではなく,疲れを伴って美的感覚が引き出されるのである。

 人はスポーツを通して達成感を得る。その達成とはよい結果というよりは,生涯最高のプレー が出来た,であるとか,たくさんの練習をして今まで出来なかったことが見事出来るようになっ た,というようなものである。その達成を味わう時,人は生きている実感を伴い幸福感が胸いっ ぱいに広がる。この感覚を,ハンス・レンク(関根正美 1999)は「独創的達成」という。そ れは「人間観が反映した形での,そして人間がそれによって自己を獲得するような自由に選ばれ た創造的で独自の達成」である。関根は,レンクの独創的達成を考察する中で,「人が生きてい て良かったと感じる時,その実感を媒介しているのがレンクの意図している独創的達成なのであ る。」と述べている。独創的達成とは,そのような生の実感を媒介するものなのである。独創的 達成は,もちろんスポーツにのみ当てはまるものではない。しかし,スポーツをすることで生の 実感を体感することはスポーツマンなら誰しも経験することであるし,身体活動を通して達成し,

自己理解に至ることはよくあることである。スポーツの場面において,独創的達成は起こりやす い。独創的達成において重要なのは,しっかりと目標を設定し,その目標に向かって自ら行動し,

悩み・工夫しながら独創的に達成し,心身共に成長し自己理解に至ることである。換言すれば,

それは,人としてより良く生きるということである。スポーツマンはスポーツ活動中に独創的に 達成している時,生を強く実感する。関根は「競技者として生成し,独創的に成し遂げているとき,

人は生の遂行を行っているのである。人間存在の生が,競技者の姿の中で営まれているのである。

人間が競技者として独創的達成を目指して努力するとき,人間としての生は達成に導かれる」と

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図1  スポーツにおける美的感覚の構造

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いう。この時,競技者はスポーツを通して自己の生を感じているのである。この実感こそ,私は 生きているという幸福な実感であり,美的な感覚である。それは,レンク自らの体験の記述から も捉える。「『四分前』,湖にメガホンが響く。クレーターの壁にそれが鈍くはねかえる。オリンピッ クの決勝が目前に迫っている。エイトは小舟にスタンバイしている。胃がむかつく。力を奮い起 せ,今をおいて他にないのだ。突然,スタートを宣言する声が静寂を断ち切る。コックスの甲高 い叫びが起こり,座席で爆発音が鳴り,ピストルの号砲が鳴る,決勝の大レースが始まった。」「記 憶は昔にさかのぼる。われわれはこの四年間に身を捧げてきた。日々のトレーニング,遠漕,タ イムレース,トレーニング課題,ボートの調整,フォームの改造,栄養,戦術,戦略などへの取 り組みに明け暮れた。四年間で,ボートが『世界で最も大切なこと』であった。スポーツの神話 が動機を魅了した。協力,仲間,行為。これらは活動的な生の冒険のように思えた。協同の作業 がなされた。それは,『神話的』夢の極致であり,それの実現であった。」「1,000 メートル。強烈 な 10 ストロークでスパートに応える。四分の三を越えた。決勝レースの最後あと 500 メートルだ。

筋肉と腱はすでに痛んでいる。強まる抵抗に踏み止まる。息,あえぎ,腕,脚,丸太のような障害。

ボートからの視界。バンクーバーが遅れている。一艇身。ラストスパート。『あと 15』。艇にも う一度エンジンがかかる。このストロークがすべてだ。闇,ざわめき,ガラガラののど。耐え難 いつらさだ。」「14,15,ゴール!卒倒,くずれ落ち,息,闇,光の点滅,ぐったりする。ゆっく りとボートを漕ぐ。すると,急に外界が現れる。褐色のボート,鮮やかなユニフォーム,沸き返 る観客・・・。」ここに記述されているレンクの体験,感覚はレンクの生そのものである。この 時のために全てを懸け,夢中でゴールを目指して競技してきた。夢中になり,苦しみに耐え,ゴー ルの瞬間にぱっと我に返るのである。関根はこれを「達成によって生が美的実存になる境地」と 述べている。まさにこの生こそが美なのである。達成によって生まれた美の感覚である。

 研究の枠組みに関するこれまでの考察を,「スポーツにおける美的感覚の構造」として,図1 に示した。

3.400 mハードルの美的感覚  

 上記の枠組みに沿って,私の 400 mハードルの美的感覚の体験を言語化しよう。

 (1)400 mハードル

 まず,400 mハードルとは,10 台のハードルを越えていきながら 400 mを走る陸上競技の種目 の一つである。スタートから1台目のハードルまでのハードル間は 45.0 m,以降 10 台目までの ハードル間は 35.0 mであり,10 台目からゴールまでは 40.0 mとなっている。ハードルの高さは,

男子が 91.4 cm,女子が 76.2 cmとなっている。陸上競技において,トラック種目で最も過 酷な種目と言われる種目である。400 mを走る体力と,ロスなくハードルを越えていく技術が求 められる種目であり,多くの練習が必要となる種目である。また,高度な技術を伴い,大きな疲 労を感じながら行なう競技である。

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 (2)400 mハードルのフローと美的感覚

 400 mハードルの競技が始まると,普段の日常的な事柄から一切切り離される。日常生活のこ となど一切頭にない状態となる。それまでに考えていた事柄も,問題も悩みも,日常生活で感じ るようなわずらわしいすべての事柄から切り離されるのである。それまでの自分も記憶も一切関 係なくなり,「今この時」がすべてとなる。今ここにいてハードルを一台一台越えながら進むこ とがすべてとなる。それが最も重要な事柄になる。注意が集中した状態である。ハードルを越え たら考えるのは次のハードルまでの距離と次のハードルを越えることだけ。自分の意識や注意が それだけに限定されるのである。完全に入り込んだ状態である。例えばこの時,ふっとでも日常 生活のことや 400 mハードルとは関係ない別の事柄が頭をよぎったとしたら,たちまちそのレー スへの興味は失われてしまうだろう。中途半端な集中のまま競技が終了してしまう。ハードルを 越えながらも他の事柄が気になってしょうがない状態では,この世界に入り込むことなど出来な い。このように意識や注意が乱れた時には美的感覚を得ることなどはない。パフォーマンスもも う一歩で,競技終了後も不完全燃焼感が付きまとうのである。心に迷いや不満を宿している状態 での競技にはいいパフォーマンスも美的感覚も充実感も訪れない。重要なのは,すべてを締め出 すこと。たとえその時何か悩んでいることがあっても,気になっていることがあっても,競技が 行なわれている瞬間や競技が行なわれているまさに今この現在には,それらは締め出され,どこ かにいってしまうし,どこかにいってしまわなければならないのである。ハードル競技を行なっ ていれば必ず起こりうる,ハードルにぶつけるのも注意や意識の緩んだ時,日常生活のことなど 余計なことを考えた時などなのである。注意や意識が集中し,入り込んだ時には何も考えなくて も自分の体はハードルのぎりぎり上をスムーズに切れのある動きでスパッと越えていく。ぶつけ るのは決まって「これでは届かなくてぶつけるかもしれない」と委縮したり,「ぶつけたらどう しよう,ぶつけて転倒してけがをしたらどうしよう」などと,ぶつけることばかり考えてしまっ たりしているような時,または全く関係ない他の事柄についてを考えながらハードルを跳んでい る時なのである。ぶつけたくなければ,注意を集中するのが一番であるし,また,ぶつけた時の 痛みを知っていること,ぶつける危険性をはらんでいることが注意の集中の動機の一つになって いることも確かであるといえる。意識を集中しないとぶつける,もうあんな痛みを体験しないた めには集中しなければならない,ということが理解出来ているからである。結局,しっかりと注 意や意識を集中し,入り込んでいればぶつけないし危険はないのである。集中し,入り込んでい る状態であれば,今までの積み重ねてきた多くの練習や経験によって,身体が,どのようにハー ドルを処理すればいいか,どのようにハードルに向かっていけばいいか,スピードはどうか,ハー ドルまでの間隔とストライドは適切か,このスピードでいったら後どのくらいの歩数で次のハー ドルが来るからどの辺りで踏み切るのかなどを瞬時に予測,判断して充分な状態でハードルを越 えていくからである。それは,環境を支配している状態であり,その支配とは,非常に正確な鋭 い切れのある感覚による「場」への対処なのである。

 注意や意識を集中していても,場を支配出来ている状態は競技中ずっと続くわけではない。ハー ドルを越えた時に,「高く跳び過ぎた」,「無駄が多い」,「踏み切り位置が近い・遠い」などとい う修正や調整の必要を感じたり,周りの競技者のペースを確認して自分のペースが速い・遅いな どを補正することもある。次のハードルでうまく修正出来たと感じても,また次の修正点が出て

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きて次のハードルまでに修正するのである。競技中,このように明瞭で直接的なフィードバック を受けて,常に修正と改善のループを繰り返し続けながら競技を進めていく。しかし,深く入り 込んでいる時には,そのすべてがしっくりとぴったりはまり,修正の必要を感じないほど安定し て競技出来る。すべてのハードリングが切れのある正確なもので,ハードル間の距離感もぴった り,周りを走る他の競技者と見比べてスピード感もちょうどいい。稀であり滅多に味わえるもの ではないが,深く入り込んだ時にはこのような状態となることもある。このような時にはもちろ ん高いパフォーマンスで競技をすることができ,美的な酔いしれた恍惚の気分を強く味わう。こ れは,チクセントミハイの言う深いフローの状態であり,美的体験なのである。

 400 mハードルの競技をしていると,自分が誰であるのかを考えなくなり,自分であって自分 でないような感覚になることがある。競技中は夢中で,ゴールした後やしばらくして振り返った 時にそのレースのことをよく思い出せないのである。自分がどのようなペースで走っていたのか,

どのように前半の流れを作ってそれを中盤につなげてどう後半展開していったのかをよく思い出 せないのである。まるで自分の身体を使って他の自分ではない何かが競技を行なっていたような 不思議な感覚である。自分自身が意識してハードルを越えながら走っている感覚ではない。自己 反応的(自動的)にすべての動きが流れるように行なわれていく。ハードルを踏み切った動作は,

今現在の動きであると同時に,着地しまた一歩一歩疾走していくという次の動作の始まりとなる のであり,それぞれの動きがお互いを生み出すように次々に連続的に流れていくのである。自分 の意識と 400 mハードルという行為が融合するのである。自分のことを考えたり,400 mハード ルの競技をしている自分を外から客観的に眺めたりする意識はない。400 mハードルという行為 の中に完全に融合し,その一部となって調和しながら入り込み,溶け込んでいるのである。自分 が速いタイムで走れる選手なのかどうかや,周りの選手のタイムと比べて自分のタイムはどうで あるのかなどということは,試合前なら誰しも考えてしまうものであろう。しかし,このような 状態になると自分の能力のことなどいちいち考えたりしなくなるし,周りとの比較なども気にす ることなく,ただただ走るだけになるのである。注意を集中する点は目の前のハードルのみにな る。その一点のみに集中する。頭で考えているわけでも心を動かしているわけでもなく,ただた だ身体が動くのである。何をするべきかが自然とはっきり分かり,その通りに身体が動くのだ。

時間の感覚さえなくなり,どのくらいの時間が経過しているのかなど全くわからなくなり,その 状態が一瞬で終わるようにも永遠に続くようにも感じられるのである。

 このような深く入り込んだ状態で競技が出来ることは稀である。毎回このような感覚を味わえ るわけではない。深く入り込んでいる時には,自分がどのようにハードルを越えていきながら 走っているのかであったり,なぜハードルを越えながら走っているのかであったり,この先でど のようなことが起こるのだろうかなどという外から自分を見たような客観的な視点は排除されて いる。そのため,自分が深く入り込んで競技をしているのかどうかを自分自身で意識して確認・

認識したりすることはないし,深く入り込もう,と意識的に努力をすることもなければ,なぜ自 分は深く入り込むことがあるのかであるとか,何のために深く入り込むのかなどと意味を考えた りすることもない。深く入り込んだ感覚は「やってくる感覚」なのであり,ほとんどの場合で自 分の希望通りにはならないものなのである。たとえ自分がこの試合では負けられない,このレー スではベストのパフォーマンスをしていい記録を残したい,だから深く入り込んで競技をしたい,

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と願っていても実際に自分の希望通りとはいかないのである。もちろん大事な試合だと意識して,

競技に意識や注意を集中させた状態で競技に臨めば,深く入り込める可能性は高くなるかもしれ ないが,実際のところは,競技をやってみないとわからないのである。そして,競技が終わり一 呼吸置いた頃に,まるで自分が競技していた訳ではないような,「どこか他人事な感覚」と共に ふと自分が入り込んでいたかどうかを知るのである。

 このような感覚は,「夢」のようなものなのであると言えるだろう。見たいと思っていたから といって必ず見られるものでもなく,またどのようになるかは見てみないとわからない。そして,

見ている間ははっきりしているのに起きた途端にぼんやりとしか思い出せなくなってしまい,ど のようなものだっただろうかと考えてみてもすでにどこかへ消え去ってしまって,存在したかも しれないという非常に曖昧ではっきりとしない感覚のみが残る。そんな夢に似ているものである。

しかしそれは確かに存在するのであり,意識としてはっきり捉える事が出来なくても,身体には しっかりと刻まれ焼き付いているのである。そしてこの捉えようのない入り込んだ状態が,深い フローなのであり,その感覚を美として体感している状態なのである。深いフローと美的感覚は,

同質性をもつ。

 (3)400 mハードルと樋口らの美学

 400 mハードルは,陸上競技場で行われる。距離は当然 400 mである。しかし,この 400 mは,

感覚の上では長くも短くもなる。前半で勝利が確定し負けないことが決まっている試合などでは テンポよくハードルを越えていきあっという間にレースが終了する。リラックスした状態ですん なりレースを終了する感覚であり,疲労もさほど感じるものではない。だが,誰が勝つかわから ないような接戦の決勝などで感じる 400 mは本当に長いものである。特に,後半になり疲労も蓄 積されてからのゴールまでの距離などは言いようのないほど長く感じるものである。まさに客観 的な距離とは違う,「生きられ,体験される長い空間」なのである。普段の生活においては全く 意味をなさない,ハードルを越えていきながら 400 mを走るというこの行為に,己の身体と技術 をもって距離に「意味」を与えたのである。

 400 mハードルは,他の種目がそうであるのと同じように他の競技者と競い合いながらレース をする。競技として成立するためには,他の競技者が必要である。チームスポーツに見られるよ うな組織的な美やチームのメンバーと協力して目標を達成するようなグループのリズムはなく,

そこにある共同存在性は相対峙する個人同士の競争としてのそれである。その共同存在性はもち ろん競技のルールによって与えられたものである。400 mを走る間に,時には後ろに,時には前に,

その他者は存在する。お互いに一歩も譲らず,まさに緊迫した緊張状態が続く。少しリードした かと思えば追いつかれ,離されては食らいつく。少しの油断も許されない緊張した関係なのであ る。敵でありながら互いに気遣い,真剣に真正面から向き合う「汝」なのである。その競争性の 中に美感が引き出される。

 ハードルを越えるという動作には技術がいる。400 mを走り続けるスピードを殺さないように,

ハードルを越える際いかにロスなく,無駄な動作を最小限にしていくかが求められる。ハードル を無駄なく正確に越えていきながら,より速いタイムで 400 mを走りきる,というのが 400 mハー ドルに設定されている運動課題であり,この運動課題を達成するために必要なのが技術である。

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この課題を達成するための技術を習得する練習課程や,この技術によって課題を解決する達成感 が美的気分を与えることになる。競技中,ハードル選手は目の前にハードルが来たら越えていく。

そしてハードルを越えていきながら,400 mをどのくらいのスピードで走っていくか,前半はど のくらいのペースにして後半はどのくらいのペースにするかなどを自分の判断や意識で決めるこ とができる。視覚や聴覚などの感覚を含む運動感覚的知覚から与えられる情報をもとに身体が動 くのである。疲れ具合や走ってみた感じ,見た目などを判断基準として身体を動かしていくので ある。これは「身体で感じる,身体でわかる」といわれるものであり,主観―身体に関連する。

 厳しい練習によってこのようなすぐれた技術や体力を獲得しても,この感覚は,練習をやめた り怠ったりすればあっという間に失われていく。自分が失いたくないと考えていても急速に失わ れていくのである。さらに,激しい練習を続けていれば疲労で身体が動かなくなるし,ケガをす ることもある。また,ハードルを越える時の関節の開きには限界があるだろうし,ハードル間の 歩数を減らそうと考えても減らせる歩数には限界がある。これらのような自分ではどうにもしが たい,自分の意志では動かせない部分が客観―身体である。しかし,この客観―身体は制限的に 作用するばかりではない。長く継続して 400 mハードルの練習を重ねていくと,どのくらいの位 置から踏み切り,どのくらいの力で跳び,腕はどのように動かし,脚はどのように動かし,どの ように着地し,次のハードルまではどのくらいのストライドでいくか,などというようなものは 意識しなくても行なえるようになる。長く練習を続けることで上達し,意識せずにハードルを越 えていけるようになるのである。洗練された客観―身体にはこのような,練習による達成能力や 技術の向上,獲得した技術を意識とは関係なしに記憶し,習慣化し,引き出すという作用がある。

これらの洗練された客観―身体の作用は,人間の身体構成のもつ合法則性に基づいた「肉の技巧」

であり,「内なる自然の技巧」の一部である。

 陸上競技が行なわれている屋外などの外的環境にはさまざまな合法則性がある。樋口が「外な る自然の技巧」とよぶものである。競技は天気や風にも左右されるし,地面からの反発を利用し て加速して走って行く。競技を行なっている最中,それらの外的環境と自分自身がぴったりとは まる時がある。踏み出す脚の一歩一歩がしっかりと地面からの反発をもらい,無駄な力を使うこ となく,力んで多くの力を使うことなく,それでも確実に,より速く,よりスムーズに加速して いけるのである。身体がどんどん前へ進んでいくのである。自分の力で進んでいるのでありなが らも,自分の力ではないような感覚なのである。このような状態の時は高いパフォーマンスで走 ることができているのであり,何とも言えない酔いしれた恍惚の気分を味わうのである。まさに 美的気分を味わっているのである。そのような状態にある時は,ハードルを越えていく動作に関 してもスムーズで,低い位置で素早く越えていき,空中動作も最小限であり,走っているスピー ドも落とさずに越えて行けるのである。切れのある動き,切れのあるハードリングが出来るので ある。しかし,何もしなくてもこのような美的感覚を得られるわけではない。そこには技術が必 要なのであり,練習が必要なのである。より速く走るために毎日繰り返し練習をしたり,より速 く走るためにフォームを工夫したり,繰り返しハードルを跳び精度を磨いたりして技術を身につ けることではじめてこの美的感覚や美的気分が味わえるのである。それは磨かれた技術と環境に 潜む摂理とが,ぴったりはまった時の酔いしれた恍惚の気分である。それは,それまでの長い練 習の成果であり,苦しい練習や繰り返し行なった辛い練習の努力が報われた瞬間なのである。求

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め続け,諦めずにずっと練習を続けたものだけが味わえる美的感覚なのである。

 400 mハードルは,多くの試合で予選・決勝または予選・準決勝・決勝と,一日に数本走るこ とになる。この時,当然疲労は蓄積されていき,決勝の頃には疲労がピークとなる。しかし,決 勝が一番いい走りをするということも多い。スタートから加速していくタイミング,ハードルを 越えていく高さやスピード,ハードルを越えながらバックストレートを疾走していくリズム,苦 しくなり脚も動かなくなってくる中で夢中で歯を食いしばって進む最終コーナーからゴール。こ れらの一連の展開がまるで「流れるように」スムーズに楽に進むのである。まさに中井のいう,

「最も苦しいにもかかわらず,しかも楽に櫂げる境,緊張し切った境に見出す弛緩」であり,「あ るまま思切り振舞って,しかもあるべき調子に乗って行く気分」なのである。このような気分を 味わった試合では,後からそのレースを振り返った時に自分が自分でありながらも,しかし自分 ではないようなそのような感覚をもつことがある。自分ではない何物かに身を委ねていたような そんな心持ちなのである。

 疲労に苦しみながら競技を行なっている時,何物かに身を委ねたような,緊張の中に弛緩を感 じて楽な感覚をもっているような時,美という感覚をもつことは多い。しかし,もちろん競技を 行なっている最中は,「ああ,これは美の感覚だ」とか「この感覚のことを美というのだな」な どと考えている訳ではない。前述したように,スポーツマンがスポーツを行なっている時に感じ る美は一瞬の出来事である。ふっと現れてふっと消えるようなものなのである。一瞬のものでは あるが,その感覚は身体にしっかりと記憶として刻まれる。そして,その感覚はそのスポーツの 魅力としてスポーツマンの身体に焼きつく。

 このような美的気分は瞬間なものである。たとえ練習を重ねてきたとしても毎回味わえるもの ではないし,味わえたとしても競技中常に味わえたり競技終了後もずっと感じ続けられたりする ようなものではない。瞬間的であり,もろくはかないものであるとも言える。自分自身と外的環 境がぴったりはまっているのを感じ,自分であって自分でないような酔いしれた感覚を味わって いる時,その時は瞬間的に訪れるのであり,瞬間的に失われていくのである。この美的気分はい つまでも留めておけるものではない。また,芸術のように何かの形として表現し残しておくこと もできない。ゴールしたその時にはもう失っているようなはかない感覚である。味わうためには,

400 mハードルを繰り返し行なって,自分の身体(主観―身体,客観―身体)を通してそのつど 体験するしかないのである。

 そして,この美的感覚は勝っているから味わえるというものでもなければ,負けていると味わ えないというものでもない。勝ち負けで感じるものではない。とは言え,勝ち負けにこだわらな くてもいいというわけではない。スポーツには競争性がある。勝つために,相手よりも少しでも 速く走るために全力で競技に臨まなければ,練習の成果など発揮できないし,一瞬の美的気分を 味わうことなど出来ないであろう。樋口の言うように「それは,俗に『やる気をもってやる』と か『一生懸命にやる』といわれることで,実践者の技術の水準の高低にかかわらず必要なことで ある。たとえすぐれた技術を可能性としてもっている実践者でも,やる気がなく一生懸命に競技 に参加しようとしないのならば,そこにはすぐれた,美的なパフォーマンスなどは生じえない」

のである。やる気をもってやる,一生懸命にやる,というのはその競技に完全に没頭して行なう ということである。達成したい目標をもち,その目標に向かって多くの時間をかけて練習をし,

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成果を充分に発揮できるか,努力が充分に発揮できるかわからない競技に臨み,ルールを遵守し て,自分の全力でもって勝つことを目指し,同じように勝つことを目指して迫る他の競技者と競 り合いながら疾走していく中にこそ,その一瞬の美的な感覚は訪れるのである。そこに,樋口が 言うように「一瞬の幸福な輝き」がある。そしてそれは魅力として自己の身体にしっかりと焼き つけられ,そのつど体験するしかない,一瞬の幸福な輝き,その幸福な感覚の瞬間を求めて再び 練習を繰り返し,競技に臨むのである。

 (4)400 mハードルの美的感覚と独創的達成

 召集が終わって,ゲートから競技場に入り,目の前に広がるトラックを見たとき,これから始 まる競技に胸が高鳴るのを感じる。スタンドの観客,審判,他の競技者,試合前の独特のざわめき,

吹き抜ける風。それらが胸を高鳴らせ,気持ちを高ぶらせる。自分が今から,やってみなければ どんな結果になるかわからない試合に挑んでいることを実感する。まるで冒険や探検のような,

自ら危険に飛び込んでいくようなドキドキ感があるのである。このドキドキはスタートブロック を合わせ,スタートに着き,「パンッ」というスタートの乾いた火薬の音が鳴るまで続くのである。

 0.01 秒でも速く,誰よりも速く走ることを目指して練習してきた成果がこの時試される。自分 が速く走れるようになることを信じ,より巧みにハードルを越えて駆け抜けていけるようになる ことを信じて苦しい練習に耐え,フォームを工夫し改善していき,速くなるために,勝つために 黙々と努力する。競技中の時間はスタートしてからゴールするまで,たった 50 数秒である。し かしそのあっという間の 50 数秒のために多くの時間を費やして練習し,自分のすべてを注ぎ込 むのである。まるで自分にとってはそれがすべてであり,最も重要なことであるかのようにそれ に打ち込むのである。

 スタートの合図と同時にブロックを蹴りだしスタートしていく。身体が風を切って進んでいく。

一台目のハードルを勢いよく越えていく。テンポよく脚を運んで行き,リズムよくハードルを越 えていく。流れるようにバックストレートを疾走していく。周りの競技者の様子を確認する。自 分の位置・順位を把握する。バックストレートを抜け,カーブにさしかかる頃,疲労で脚が動か なくなってきていることを感じる。ここからだ。そう自分を奮い立たせる。ここで力を緩めては いけない。疲労を伝えてきている身体が,感覚が,そう伝えてくる。ここが踏ん張りどころだと,

身体で,直観でわかる。最終コーナーを抜け,ゴールまでラスト 100 m。呼吸が苦しくなかなか 酸素が取り込めない。脚は動くことを拒むかのように重い。ゴールは見えているのに遠い。残さ れたわずかな力を使って残りのハードルを無理やり越えていく。ばらばらになりそうな身体を必 死に抑える。最後のハードルを越え,視界にゴールがはっきりと映る。周りの競技者も迫っている。

速く,速く,速く。何も考えずただただゴールに向かう。歯を食いしばる。もう少し,あと数歩,

ゴール!一気に力が抜け震える脚。荒く激しい呼吸。やっと周囲の音が耳に入ってくる。ざわめ きが聞こえる。ふと我に返り,電光掲示板を見る。自分の練習してきた日々が,自分のすべてを 打ち込んできた日々が報われたことを知る。

 私は誰かに命令されたり,強制されたりして 400 mハードルをやっているのではない。400 m ハードルを行うことを自分で選択し,自分の意志で行っている。前述したような達成の体験,美 的体験は,自己意思と自己選択のもと,創造的に,自由に,自己の身体と力を使って成し遂げた

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達成によって獲得したものなのであり,レンクはそれを「独創的達成」といった。私は 400 mハー ドルを通してこのような体験をしてきた。この体験は,達成によって,強い生の実感と強い幸福 を感じたときであり,400 mハードルから「美」を感じた体験であった。自己の生がもたらす美 的感覚であった。

 (5)400 mハードルの美的感覚と人間性

 私の 400 mハードルに現象したこれらの美的感覚は,きわめて「人間的」である。400 mハー ドルのこれらの美的感覚の中に,人間らしさ,人間だからこそ,という人間性に気づく。「私の こころ」「私のからだ」「私の他者」・・・に気づく。そもそも動物はスポーツをしない。400 mハー ドルは,生きていくために必要な活動ではない。人間としての私が好んで立ち向かい,追求して いる文化である。その中に「美」の価値を見出し,探求するのは,人間としての私である。そこ にはまさに人間ならではの特性がある。この人間性と美のつながりを,次の二点から概念化して みよう。

① 人間の生命力

 積み重ねられた練習によって鍛え上げられた筋肉を躍動させ,勢いよくスタートを切り加速し ていく。おのれの身体を余すことなくすべて使いハードルを越えていく。それは私という人間の 生命力の表出である。鍛え上げられ,高められた人の生命力が美という形で表出する。それは人 間にしか表現できない洗練された形である。そこには,人間固有の「生の実感」がある。自分の 鍛えた肉体を通して,400 mハードルという特殊な,日常からは切り離された行為を通して,自 己の生を強く実感するのである。それは幸福な美の実感である。生きることへの喜び,生への喜 びがある。人間は,人間のみが行ないうるスポーツ活動からそのような幸福の美感を得るのであ る。それは,私の身体の幸福感(フィジカル・ハピネス)である。

② 人格性

 人間は人格を持っている。400 mハードルをする動作の中に,私らしさ,私特有の感じ方,私 特有の捉え方,私特有の考え方,私特有の倫理観,私特有の「かたち」がある。すなわち,私特 有の「人格性」が潜在し,表出する。私が,競技者でありながら一人の特有の人間であるという ことが 400 mハードルの世界で表現されるわけである。人格性は,その人がその人として生きて いるという証であり,生命力と共におのずと表出する。スポーツの空間は日常生活から切り離さ れた特殊なものである。そのため,スポーツ活動を通して表出する人格性もまた日常のそれとは 異なったものである。時には苦しみ,時には喜びながら目標に向かってひたむきに継続的に練習 し,仲間と交流し,ライバルと競い合いながら勝利に歓喜し,敗北に涙してきたその多くの経験 によって培われた人格なのである。長い年月をかけて形作られてきたその人格性はスポーツマン の人としての生の輝きといえるだろう。樋口は,この人格性について「スポーツにおいて生物的 生命がかけられることはありえないが,実践者の精進の軌跡たる人格性がかけられ命をもった生 となるがこそ,実践者の没頭や真摯さが美となりうるのであろう。」と述べている。「スポーツの 世界さがし」は,そのまま「人としての自分さがし」につながっている。

 スポーツの美を考える上で人間性という概念は大きな意味を持っている。人間らしさ,人間だ から,といえる部分がスポーツの美には存在するのである。疲労から重く動かなくなり悲鳴を上

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げる身体を止めることなく動かし,心肺機能は呼吸が苦しくなり必死に酸素を取り込もうとして 荒く激しくなり,己の内面,自らが求める本質と向き合いながら身体を動かす。その時スポーツ マンが感じるのは,「私が私として人間として今生きている」という確かで幸福な実感である。

スポーツマンは,スポーツを通して,私が私として今を生きているんだという強い実感を持つ。

それはただ頭で考え理解するのではなく,身体で,そして心でわかるのである。この幸福な,「人 間としての生の実感」こそがスポーツにおける美なのである。樋口は「美そのものが人間を喚起 するのだとするならば,われわれはおのれの身体によってそのよびかけに答えうるのである。そ のようなことが人間において生じうるのは,人間がそもそも身体的な存在であるからにほかなら ない。人間は理性の力によって美の存在をあこがれ求める。」という。スポーツマンがスポーツ に美を求めるのは,まさに,人間だからこそ,人間ゆえになのである。人間が人間たるゆえんは,

美を求めてやまないこの内なる自然のなせる技にある。

4.総括

 400 mハードルの競技中,満たされたような何かにぴったりとはまる感覚をもつことがある。

それは一瞬であり,すぐに消えてしまうが,独特な幸福感であった。樋口はその感覚を「美」で あるという。400 mハードルにおいて私が感じるものはいったい何なのか,私が私の身体(こころ・

からだ)で実感しているものを,主として樋口の『スポーツの美学』に準拠して概念化し,考察した。

 樋口は,スポーツマンがスポーツ競技中に感じる美的感覚には,空間的性格・時間的性格・技 術的性格・共同存在的性格があるという。同じ 400 mという距離であっても,その時の体調やレー ス展開,試合の序盤と終盤,などで感じる距離感は異なる。それは 400 mというルール上の客観 的空間とは違う,自己の身体によって生きられ,体験される空間である。それは,ハードルを越 えていきながら 400 mを走りきるという,普段の日常生活においては全く意味をなさない行為に,

己の身体と技術で意味を与えるものなのである。樋口はこれを,美的感覚の空間的性格という。

 同じことが時間についてもいえる。400 mハードルの競技中に感じる時間は生きられ,体験さ れる時間である。競技中に感じる時間は,客観的には同じ長さの時間でも,感覚的には長くなっ たり短くなったりするものである。その中でスポーツマンが美的感覚をもつのはほんの一瞬の出 来事なのである。瞬間的に表れ瞬間的に消える感覚なのである。「練習の持続という時間的経緯 に支えられて発露する瞬間の輝き」なのである。樋口はこれを,美的感覚の時間的性格という。

 400 mハードルの競技中,競技が行なわれている外的環境と競技をしている自分自身がぴった りはまる感覚を持つことがある。それは,無駄な力を必要とせず,流れるように楽に自己の身体 がどんどん前へと進んでいく,自分の力でありながら自分の力ではないような感覚である。樋口 はその感覚を,自己の内なるもの(内なる自然の技巧)と自然界の合法則性,外的環境や自然界 に存在する摂理(外なる自然の技巧)とが相互浸透・同調・調和・融合した際に自己の運動感覚 的知覚を介在して感じる美的感覚であるとしている。これを,美的感覚の技術的性格という。

 400 mハードルは競技であるため,他の競技者が存在する。全力で向かってくる競争相手に敬 意を払い,真剣に真正面から向き合う。その競争性の中に美感が引き出されるのである。相対峙

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するものが「我」―「汝」として気遣い合い競争すること,それを樋口は,美的感覚の共同存在 的性格という。

 自分の意志で自由に選択した 400 mハードルという種目で,自ら工夫し試行錯誤して目標を達 成したとき,その時の快い感覚は美的感覚となる。それはハンス・レンクのいう独創的達成であ り,達成によってスポーツマンの生が美となる時なのである。

 スポーツにおける美の感覚は人間性と大きく関わっている。スポーツマンがスポーツを行う時,

生命力や人格性を表出する。それは,人間としての私が私として今を生きているという絶対的な 生の感覚であり,確かで幸福な強い実感なのである。スポーツマンはスポーツ実践を通してこの 幸福な感覚を持つのであり,そしてこの幸福な,人間としての生の感覚こそがスポーツの美的感 覚なのである。樋口のいうように,人間の理性はこの「美」を求める。

 スポーツの実践を通してスポーツマンは,確かで幸福な生の実感,スポーツの美的感覚を得る。

樋口の言うスポーツにおけるこの「美」は,チクセントミハイの言う「深いフロー」と共通する 部分が多く,さらにハンス・レンクの「独創的達成」ともつながるものであった。これは「スポー ツの魅力とは何か」の問いに答えるものの一つであるし,このような感覚がスポーツマンをスポー ツに駆り立て,惹きつけているわけである。つらい練習に耐え,動かなくなる身体に鞭打ちなが ら必死になって競技に臨むスポーツ活動は,日常生活から考えたら決して必要な活動とは言えな い無駄な活動である。しかし,こうまでしてスポーツに打ち込み,スポーツマンとして多くの時 間を過ごすのは,このような確かな生の実感(「溶解体験」)があるからなのである。これは,スポー ツが人間にとって大きな意味のある,ひとつの確かな実存的行為であることを示すものである。

 

 これまでの経験と考察をさらに追求すること,そして,それらを,私の次の新しい経験に生か すことが今後の大きな課題である。     

文献

1) M.チクセントミハイ 今村浩明訳 (2000)「楽しみの社会学 改題新装版」新思想社 Pp. 307.

2) 樋口聡(1987)『スポーツの美学』不昧堂出版 Pp. 275.

3) 中井正一 (1962)『美と集団の論理 久野収編』中央公論社 Pp. 300.

4) 作田啓一 (1993)『生成の社会学をめざして』有閣社 Pp. 220.

5) 関根正美 (1999)『スポーツの哲学的研究:ハンス・レンクの達成思想』不昧堂出版 Pp. 335.

 ほか

参照

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