大正大學研究紀要 第九十八輯
大正大学と仏教研究
1)星 野 英 紀
1.大正大学の誕生と現在
大正大学は、仏教を建学の精神として天台宗、真言 宗豊山派、真言宗智山派、浄土宗の日本仏教四宗派が 設立している大学である。日本で複数宗派が共同して 設立・運営しているのは大正大学だけである。セクト 性が薄く寛容精神が優先するという日本仏教らしい大 学ともいえる。 4宗派共同設立ということは、仏教研究および聖職 者養成に大きなメリットがある。他宗派の教義や儀礼 も学べること、他宗派の僧侶と親しい友人になれるこ となどである。 大正 15 年(1916)に大正大学は開校した。つまり、 大正大学の「大正」は大正時代から取ったものである。 「日本仏教総合大学」と名付ければ一層大学の性格が 明瞭になったであろうと思うが、当時は大学の名前に 特定の宗教の名を用いることは許されなかった。これ はおもに、キリスト教の進出に対する国家の警戒感の 表れであるとされている。 大正大学の創立の目的は、仏教研究の促進と仏教界 の人材養成であった。創立まもない時代の大正大学に は、数多くのすぐれた仏教関係の学者や学生が集まる ことになった。 さてここで、明治維新以降の日本仏教界および仏教 研究の状況を少し考えてみよう。江戸時代末期から神 仏分離および廃仏毀釈が行われて仏教は大きな打撃を 受けた。江戸時代に仏教が持っていた特権的地位を奪 われた。明治時代初めには仏教は近代化の障害である かのように評価された。 さらに、明治仏教界とくに仏教研究に大きなインパ クトを与えたことは、当時のヨーロッパにおける最新 の仏教学が日本へ紹介されたことである。江戸時代ま での仏教研究は、中国語に翻訳された仏教経典(漢訳 経典)を原典としたものであった。明治になって西欧 からサンスクリット文献やインド文献による仏教研究 が導入された。これは日本の仏教研究を一新したとも いえる。大げさにいえば、仏教研究は「一から出直し」 となった。日本の仏教研究は、それまでの仏教学の再 編成を迫られることになった。原典の再確認(例『大 正新脩大蔵経』の編纂)、専門的な辞典の編纂(この 講演で取り上げるような『梵和大辞典』や『仏教大辞 典』の編纂)のような作業が行われた。大正大学の仏 教研究もそうした動向に沿って展開していった。 昭和 50 年(1975)ごろまで、大正大学は基本的 には僧侶養成と仏教研究を中心とする大学であった。 しかしその後、大正大学はいわば “ 世俗化 ” した。日 本における大学進学者が急激に伸びたことと、大学と して聖職者養成教育以外の教育をすることが社会的責 任になったこと、などが挙げられる。創立期から太平 洋戦争終了時までの大正大学は文学部だけの大学で あった。そのころは学生も先生もほとんどが僧職にあ る者あるいは僧職になる者であった。仏教学科、哲学 科、宗教学科、史学科、文学科などがあった。教員も 学生も仏教色が色濃かったわけで、研究内容、教育内 容はどの学科も広い意味での仏教研究が中心であっ た。つまり仏教史研究、仏教文学研究、仏教思想研究、 仏教の比較宗教学的研究などが盛んであった。学生数 も総数 1000 人に満たないものであった。 現代の大正大学は 5000 人ほどの学生がいる。学部 数は四つあり、仏教学部、人間学部、文学部、表現 文化学部である。現在、仏教学部の学生数は全体の 10%ほどである。そのほかはほとんどが仏教研究と は関係の無い領域を学ぶ学生である。教員も仏教以外 の研究や教育を行う教員の数のほうがずっと多くなっ ている。 現代日本の大学は、あえて大きく分けると、研究者 養成の大学と学部生の教育中心の大学という二つの大 学の種類に分かれつつある。現在の大正大学は経営的 な必要性もあって、学部学生の教育に重点が置かれて いる。大学院の教育は一部では学生が十分集まらない ところも出てきている。ただし仏教学の大学院は現在 も大勢の学生が学んでいるが、やや文献学的な研究に 偏っている向きも見られる。 一大正大学と仏教研究 二
2.本講で論ずること
この講演では、大正大学の歴史のなかで現在でも非 常に高く評価されている優れた業績を上げた仏教研究 者について触れていくことにする。ただし 90 年の歴 史をまとめることはなかなか難しい。そこでつぎのよ うな点を確認させていただく。 1)すべての研究を明らかにするのは不可能であるか ら、選択を行った。 2)優れた業績を残した研究者6名およびライシャワー 博士とご縁の深い学者1名を論ずることにした。 3)論ずる学者は故人に限ることにする。ある程度評 価が定まっているからである。 4)単に文献学的言語学的仏教研究者だけでなく、広 義の仏教研究者をここでは取り上げる。 5)私個人の研究視点が宗教学であるから、意図せず して私の興味が反映されることは否定できない。 6)私は、ここで論ずる7人のうち3人にはその生前 にお会いしている。ただし、そのうち2人は黙礼 する程度の関係であり、あとの 1 人も専門が違っ ていたので、私自身が深い影響を受けたという方 ではない。 とりあえず以上のようなことを前提として、以下の 7人を論じていくことにしよう。ただし最後の勝野隆 信はE・ライシャワー博士と格別のご縁があったとい うことで、この講演の最後に論ずるすることとする。 荻 おぎ 原 わら 雲 うん 来 らい (1869–1937 仏教学者) 望 もち 月 づき 信 しん 亨 こう (1869–1948 仏教学者) 矢や吹ぶき慶けい輝き(1879–1939 宗教学者) 筑 つく 土ど鈴れい寛かん(1901–1947 国文者) 吉 よし 岡 おか 義 よし 豊 とよ (1916–1979 中国学者) 勝 かつ 又 また 俊 しゅん 教 きょう (1909–1994 仏教学者) 勝 かつ 野の隆りゅう信しん(1899–1969 日本仏教史学者) これら7人に共通していることは、いずれも仏教を 研究テーマにしており、いずれも僧侶であったという 点である。なかには亡くなってからかなりの時間が たっている方や若くして亡くなった方もあり、その人 物像などを再構成するには、資料や文献がなかなか入 手しにくい。その結果、私のここでの紹介内容には人 によって文章量の多寡が生じていることがある。3.荻原雲来(1869–1937)
荻原雲来は、西日本の和歌山県で生まれ 10 歳で浄 土宗の僧侶となった。その後、浄土宗僧侶養成機関で ある浄土宗学本校へ進んだ。僧侶として知識と経験を さらに積むためである。 彼は浄土宗第 1 回海外留学生に選ばれヨーロッパ に行った。最新のヨーロッパ仏教学を学ぶためである。 荻原が留学したのは、ドイツ(当時)のシュトラース ブルク(フランス名ストラスブール)大学のエルンス ト・ ロ イ マ ン Ernst Leumann(1859 ー 1931) 教 授のところであった。ロイマンのもとでサンスクリッ ト、パーリ語の学修および原典研究を行った。E・ロ イマンはスイス生まれであって、当時、マックス・ミュ ラーと双璧といわれたヨーロッパの代表的東洋学者で あった。 荻原雲来は日本にいたときにすでに英語はマスター しており、留学後まもなくドイツ語も自由に操るよう になった。日本出発に当たって自分の師僧から「持戒 堅固であれ」とだけ言われたと伝えられているが、実 際に荻原は大変な努力家、勉強家であり道徳堅固な 日々を送った。下宿にいなければ大学図書館にいると いわれるほどであった。友人たちはかれを「菩薩」と か「君子」と呼んでいた。 彼の指導教授であった E・ロイマンは、英語および ドイツ語がよく出来た荻原雲来と極めて親密に交流 し、互いに研究上大いに益するところがあった。荻原 はE・ロイマンからインド原典研究の恩恵を受け、E・ ロイマンは荻原雲来より漢訳経典関連の知識を得るこ とができた。当時のヨーロッパの仏教研究において、 中国語など東アジアの言語に精通する者は極めてまれ であった。荻原雲来のシュトラースブルク大学時代の 親友は、二人の関係を評して「ロイマン教授が先生か、 荻原君が先生かと惑わしむる様な師弟関係」といって いる。(足立文太郎、134 頁)。両者は教師・教え子 という関係よりも共同研究者という風情だったのであ ろう。学風、態度まで両者はよく似ていたという。 荻原のシュトラースブルク大学滞在は6年におよび 帰国した。ただちに宗教大学(大正大学の前身)の教 授に就任し、サンスクリット語、チベット語、パーリ 語、ドイツ語の講義を始めた。さらに浄土宗関係の中 学校、高等女学校の校長を兼任し、また浅草の浄土宗 寺院の住職も務めた。大正大学の教授になってからは 仏教サンスクリット原典研究を聖語学と名づけ、聖語 学研究室を立ち上げた。彼の厳しい指導の下に多くの大正大學研究紀要 第九十八輯 三 サンスクリット学者が育っていくこととなった。 荻原雲来はまじめな学究肌の人間で「細より微に入 り、細をきわめ」(常光浩然、294 頁)る研究方法で、 真髄を究めるまでとことん研究し続けるというタイプ だった。こと専門の学問についてであれば、先輩同輩 といえども一歩も譲らぬ人であったという。彼の学問 の真骨頂は厳密な文献研究にあった。彼は仏教サンス クリットでは世界的権威としての評を受けるまでに なった。荻原雲来の多くの業績のなかでも、現代にお いて大きな意義を持っているものは『漢訳対照梵和大 辞典』である。当時の日本の仏教学界では、西欧のイ ンド学の導入の影響で最新の成果を踏まえた辞典の編 集が喫緊の課題であった。後述のように、望月信亨は すでに『仏教大辞典』の編纂に取りかかっていた。荻 原雲来は親友望月信亨に大きな刺激を受けたと考えら れている。 荻原の几帳面な性格、その博学ぶりは『漢訳対照梵 和大辞典』の編纂にまことに適合しているといえるか もしれない。またE・ロイマン教授の学問方法もさら に辞典編集に適したものであった。ロイマン教授は、 言語学上の立場から仏教サンスクリット語の個々の起 源と変遷を説明するという手法を用いたが、荻原雲来 はその手法の上に、漢訳仏教聖典、チベット語訳まで 参照するという言語学的に高度な手法を編み出した。 それが『梵漢対訳仏教辞典』を生み出す結果となった。 その辞典は第2次世界大戦の影響もあって彼の生前に 完成せず、東大教授辻直四郎らの協力を得て結局最終 的に完成したのは 1978 年であった。いまでは、諸外 国のサンスクリット・英語仏教辞典類も新たなものが 編集されている。参考文献や出典の明記についても不 十分なところがあるが、現代においても本書は日本随 一の学術的サンスクリット・日本語辞典であり、何度 も再版され、大正大学の仏教学研究や教育においても 常に座右の書とされている。 彼の講義を受講する者はその厳しさから毎年ごく少 数の学生であった。つまり年によっては、原典を間に おいて荻原雲来一人に学生二人が向かい合うというよ うな講義であった。学生にとってはまことに大変な講 義であったが、教師と学生の間は極めて親密なものと なった。原典を間に教員と学生が対面的に座り一行一 行を正確に読み進めるという講義スタイルは、いまも 大正大学大学院のサンスクリット文献購読では続けら れている。
4.望月信亨(1869-1948)
望月信亨は、大正大学教授から大正大学学長を歴任 した著名な仏教学者である。浄土宗僧侶であり、浄土 宗本校では先に述べた荻原雲来とは同級生であった。 荻原雲来はサンスクリット学者であったが、望月は中 国仏教、日本仏教研究を専門とする仏教学者であった (ちなみに日本では、仏教学といえば中国仏教、日本 仏教研究を専門とする学領域を指し、その学者を仏教 学者と限定的に指し示すことがある。その場合、イン ド仏教やチベット仏教研究をはインド哲学(印哲)と よび、中国仏教、日本仏教研究者とは区別する)。 望月信亨は福井県の農家の五男に生まれ、11 歳の 時に浄土宗の寺で得度出家した。その後、浄土宗の僧 侶養成機関である浄土宗本校に進んだ。さらに比叡山 に内地留学して中国仏教、日本仏教の勉強を積み重ね た。望月は 30 歳で浄土宗本校の教員さらに 46 歳で 宗教大学教授となる。さらに宗教大学が大正大学とな るとそこの教授となり、1930 年の 61 歳の時に大正 大学学長となる。1945 年の 76 歳の時に浄土宗管長 となり、同時に総本山知恩院門跡となる。1947 年に は、長年の仏教学研究貢献によって日本学士院(The Japan Academy)会員となる。しかし翌年の 1948 年 79 歳で遷化した。 このように望月は研究者として大正大学学長を経て 最晩年には日本学士院会員に選出され、また僧侶とし ては浄土宗総本山知恩院門主に就任としたわけで、学 僧としては頂点を極めた人物である。 望月には大乗仏教に関するかずかずのすぐれた業績 がある。その主なるものを挙げるとつぎのようになる。 『浄土教之研究』(1913)、『略述浄土教理史』(1921)、 『大乗起信論之研究』(1922)、『浄土教の起源及発達』 (1930)、『浄土教概論』(1940)、『中国浄土教理史』、 『仏教経典成立史論』(1946))などである。 しかし望月を今日まで著名な仏教学者ならしめてい るのは、彼の編集した『仏教大辞典』全 10 巻である。 通称モチブツ(「望仏」つまり望月氏編纂の仏教辞典 の意味)と呼ばれ、長らく仏教研究を目指すすべての 学徒の座右の辞典となってきた。望月は「学問一筋」 の「努力の人」であったと彼の遺族が述べている。だ からこそ全 10 巻の大辞典ができたのであろう。ただ し彼の生前中に完成したのは第 5 巻までと別巻1巻 であり、最終的に 10 巻が揃うのは、彼の没後十数年 経過した 1963 年であった。 着手したのが 1906 年であったが、出版までの道の大正大学と仏教研究 四 りは決してスムーズではなかった。彼の言葉でいえば 「悪戦苦闘 30 年」(初版の「自序」のなか)だった。 しかし出版された結果は多くの同学の士に万雷の拍 手をもって迎えられた。この辞典の編集を代表とする 彼の偉大な研究業績が高く評価され、1947 年 6 月に は日本学士院会員に選ばれた。官学優先の日本におい て、私学出身で一貫して私学の教員として過ごした望 月信亨が日本学士院会員に選ばれるということは前例 の少ないことであったという。会員選出の報を聞いた 時の望月の「喜びは文字に表すことのできないほどで あった」という。 『望月仏教大辞典』はいまも仏教研究者の座右の必 携書である。しかしあまりにも大部のものであり、か つ難解な表現も多く初学者には別にハンディな辞典が 必要だということも確かである。
5.矢吹慶輝(1879–1939)
矢吹慶輝は、福島県伊達郡飯坂町に生まれた。6 歳 のとき同県伊達郡の浄土宗寺院無能寺に養子入りし得 度した。 1894 年、盛岡にあった浄土宗東北支校の尋常予備 科に進学。卒業した矢吹慶輝は上京し浄土宗高等学院 に入学した。高等学院時代には品行方正・成績優秀の ために表彰状を授与されたこともあった。 高等学院を卒業した矢吹慶輝は東京帝国大学哲学科 (宗教学)に入学した。卒業時には哲学科首席であった。 卒業論文では姉崎正治を指導教授として「阿弥陀仏乃 研究」を提出している。この論文は、加筆・修正が加 えられ 1911 年に『阿弥陀仏乃研究』として刊行され ている。これは信仰の書ではなく学問的に阿弥陀信仰 の歴史的変遷を研究したものである。 1909 年大学卒業後、同大学大学院に入学する。 1910 年 に 浄 土 宗 立 の 宗 教 大 学 教 授 に 就 任 し た。 1913 年、恩師姉崎正治がハーバード大学の客員教授 として招聘されるに伴って、矢吹はその助手としてア メリカに渡る。引き続いて 1915 年、アメリカ在中時 に浄土宗務所より海外留学生に任命され、欧米各国の キリスト教事情視察と社会制度調査を命じられる。ア メリカからイギリスにわたった際、オックスフォード 大学のオーレル・シュタイン Aurel Stein、1862 ~ 1943)と出会い、シュタイ ン所蔵の敦煌文書を閲覧したことがきっかけで後に三 階教研究を行うこととなる。 留学帰国後の矢吹慶輝は精力的な活動に入った。一 方においては宗教学の研究者として、他方においては 社会事業・社会問題の実践家として活躍した。1917 年帰国後、再び宗教大学教員となり、我が国初の社会 事業研究室を開設し同室主任教授となった。1923 年 の関東大震災のときには東京府臨時調査連絡部長に就 任し、宗教大学社会事業研究室の学生を動員し救済活 動を行なっている。この時期は、社会事業の理論的考 察についても彼の関わりの深みが増している時期で あった。 1923(大正 12)年『三階教の研究』を東京帝国大 学に提出し学位を取得した。三階教とは中国古代の仏 教の一宗派であり、僧俗一体を主張し徹底した布施行 を行ったことでも有名である。矢吹は研究においても 宗教の社会貢献的側面に関心を持っていたことがうか がえる。この研究業績は高く評価され後に出版され、 1925 年に帝国学士院恩賜賞を授与された。 1924 年 1 月、東京帝国大学助教授に任命された。 しかし翌年の 1925 年 5 月には東大助教授のポスト を辞し、東京市社会局長となった。社会局長就任当初 は大いに期待されていた矢吹であったが、局長として の成果はあまり振るわなかったようで、一年あまり経 過した 1926 年 7 月に同職を辞し大正大学教授に戻っ ている。 大正大学における矢吹慶輝の活動は、社会事業家、 社会実践家としての側面が強かったといえる。当時の 大正大学付近には大規模な低所得者層の住宅が数多く あり、キリスト教団体の慈善活動なども極めてさかん であった。矢吹慶輝はその活動を通して、東京都など 公共団体との関係も深くなったように思う。矢吹慶輝 と福祉事業の繋がりはこの頃に膨らんだように思う。 一方、研究者として宗教学者としての矢吹慶輝につ いては、その高い能力を賞賛する声は現代にも伝えら れている。研究者としての矢吹慶輝と社会活動家との 矢吹慶輝はどのように両立していたのか。 矢吹慶輝が東大助教授を辞して東京都の社会局長と いう役人職に突然転身したことはナゾが多い。矢吹慶 輝の後輩であり戦後の東大宗教学科主任教授だった岸 本英夫は後年、学者から役人へ転身した矢吹慶輝の動 機を彼の生前にぜひ聞きたかったと述べている。 いまも転身の動機は明確ではないが、矢吹慶輝は一 貫して宗教の社会的役割や社会貢献に強い関心があっ たのではなかったかと思う。最も高い評価を得た彼の 研究業績は『三階教之研究』である。三階教は唐代中 国の一仏教宗派である。三階教は仏教としてはかなり大正大學研究紀要 第九十八輯 五 は『仏教における心識説の研究』である。この後に密 教研究へと進んだ。 研究業績としては、『仏教における心識説の研究』 (山喜房佛書林、1961)、『密教の日本的展開』(春秋 社、1970)以外に代表業績として『弘法大師著作全集』 全 3 巻(山喜房佛書林 1970 ~ 1973)が挙げられる。 この『著作全集』は弘法大師空海の主要著作を一行 一行書き下(くだ)したものである。それまでの弘法 大師全集は漢文のままであったが、現代人や初学者に 近づきやすい空海の著作集の刊行を目指した。実際、 この著作集はこれ以降の空海研究に欠かせない基本文 献となっている。空海の著作は専門性が高く文章表現 も多彩である。現代の読者がそれに近づきやすいよう にするには、校訂者、編者側の膨大な仏教知識、漢文 学全般への知識が必要である。その意味でインド学、 中国仏教の研究から空海研究に至った勝又だからこそ 出来た業績であるといえる。これ以外に『真言の教学』 上・下(国書刊行会、1981 年)、『弘法大師の思想と その源流』(山喜房佛書林、1981)などがある。勝又 俊教は近代仏教学の方法論と研究蓄積を土台にして、近 代日本における密教研究の基盤を築いた一人といえる。 近代日本においてはプロテスタント的な合理的宗教 観が優先されてきた。感情よりも理性、儀礼よりも教 理が宗教の根源をなすという考え方である。その影響 で、知識人層を中心に、宗教のあるべき姿としてはビ リーフ(信仰内容)優先、プラクティス(儀礼や実践) は副次的という立場が有力になり、日本仏教研究では 鎌倉仏教とくに浄土教や親鸞道元の、それも思想内容 に対する研究が長い間尊重されてきた。それに対して、 平安仏教や密教についてはその豊かな儀礼性、思想的 深遠性が逆に呪術的、非近代的、非合理的なものであ るとされ、仏教の流れとしては非正統的なものとして 必要以上に排除されたり低い評価を受けてきた。 その後、1970 年ごろから過度の近代化への反省か ら「脱近代」そして「反近代」的価値への関心が強く なり、宗教現象の象徴性、儀礼性への関心が生まれて きた。これは日本だけに限らず先進国に広く生まれた 状況であろう。こうして日本仏教研究においても密教 や民俗宗教への関心が高まっていった。 インド仏教文献研究の方法をもって行われた勝又俊 教の密教研究は『密教の日本的展開』として結実し、 それまでの伝統的教学(宗学)ではない〝近代仏教学 的〟密教研究が発展するための大きな貢献となったこ とは間違いない。こののちに述べる国文学者筑土鈴寛 などへの関心が高まるのもほぼ同じ時期である。 ラディカルな一派であって僧俗一体の共同体的組織を 作り、一種の富の再配分をした宗派で中国の唐時代に かなり弾圧をされている。三階教は社会活動を志向す る宗派だったようである。つまり彼は研究上も社会的 関わりが濃厚だった仏教に強い関心を有していた。矢 吹慶輝においては、研究と社会実践は別々のものでは なく共通の関心で繋がっていたのではないかと思う。 1910 年以降、矢吹は精力的に執筆活動をおこなっ た。彼の著書としては『阿弥陀仏乃研究』(丙午出版 社 1911)、『近代思潮と仏教』(矢吹慶輝個人出版? 1919)『三階教之研究』(岩波書店 1927)、『思想の 動向と仏教』(大雄閣、1933)、『日本精神と日本仏教』 (仏教聯合会 1934)、『現代人と仏教』(三省堂 1935) などであり、没後の出版としては、『思想と生活』(明 治書院 1940)、『社会思想と信念』(明治書院 1940) 『近代宗教思想論考』(明治書院 1944)などがある。 ただし矢吹慶輝には社会事業、社会福祉関係の著作は 一冊も無い。実践あるのみだったのか。 矢吹慶輝の社会事業への傾斜は、現在の日本仏教界へ の期待を考えると極めて示唆的であるといえないであろ うか。仏教寺院が現代日本の問題、世界の問題について より積極的な関わりを求める声は年々強まっている。 矢吹慶輝は、1939 年 6 月 10 日、三年前に発病し た狭心症を再発させ死去した。矢吹慶輝の足跡を考え、 また 2011 年 3 月 11 日の東日本大震災のことを考え るとき、矢吹慶輝の社会事業、社会貢献への深い関心 と行動は研究者である仏教者として学ぶところが多々 あるのではないか、と考える。
6.勝又俊教(1909–1994)
勝又俊教は新潟県三島郡に誕生した。医学の道を志 したが、生まれつき視力がやや弱かったために諦めた。 若いときは野球、水泳などスポーツマンだった。東京 帝国大学文学部インド哲学梵文学科に進み宇井伯壽に 指導を受ける。 1942 年 4 月、大正大学講師に就任した。太平洋戦 争後は、大正大学助教授、東洋大学文学部教授、東大 文学部講師などを歴任した。1972 年、大正大学教授 になった。1978 年、大正大学第 22 代学長に就任し、 1984 年 9 月第 25 代真言宗豊山派管長(長谷寺第 79 代世化主)になった。 勝又俊教のもともとの専門領域は唯識思想である。 その後、真言宗豊山派の伝統教学を学んだ。学位論文大正大学と仏教研究 六 現実には密教が日本仏教に占める位置は極めて高 く、個人的な世界観や好みで密教を排除するとか注目 するとかいう次元の問題ではない。黒田俊雄の顕密体 制論も中世社会における政治史上における密教の重要 性を説いていることはご承知の通りである。あるいは 日本の仏教美術史を研究しようとするならば、密教の 知識を欠くことはできない。比較宗教学的には「神秘 主義としての密教」といったテーマも大変興味深いよ うに思う。 日本における密教研究は、インド密教研究、チベッ ト密教研究、真言密教研究、天台密教研究と幅広く関 心を持たれている。研究機関としては代表的なものと して西日本の高野山大学と東日本の大正大学の二つが ある。大正大学においては、古義真言宗と新義真言宗 の二つの流れを踏まえているところが特徴であり、研 究者の数、文献等も豊富である。さらに最近では、中 世の密教研究も日本でかなり盛んになってきている。
7.筑土鈴寛(1901–1947)
筑土鈴寛は仏教文学研究者である。天台宗僧侶筑土 鈴隆の長男として東京都下に生まれた。10 歳の時に 一家離散という不幸に遇った。1917 年 16 歳のとき、 上野寛永寺内現龍院の浦井亮玄の弟子となり、得度受 戒した。その後、天台宗中学を経て國學院大学に入学、 中世文学を専攻する。当時の國學院大學では国文学者 折口信夫が教鞭をとっていて、その講義に大きな感銘 を受け、以後の筑土鈴寛の学問に決定的な影響を与え た。この頃に東京上野の寛永寺内東漸院の住職を命ぜ られる。 1928 年より大正大学で教鞭をとることとなり、そ れと同時に本格的な学究生活に入る。この頃から『国 語と国文学』誌を中心に精力的に発表し続けることに なる。 1938 年、彼は、自己の学問領域を確定するために 『宗教文学』(河出書房)を刊行、次いで 1942 年、彼 がもっとも尊敬した歌人であった中世の僧侶慈円を論 じた『慈円 国家と歴史及文学』(三省堂)を著した。 慈円(じえん)は平安末期から鎌倉期の僧であり歴史 書『愚管抄』を著した。1942 年、それまでの主要な 論文を集めた『復古と叙事詩 文学史の諸問題』(青 磁社)を刊行する。そののち不運が彼を襲う。彼がラ イフ・ワークとして著述していた『中世文学史の研究』 全 3 巻が、太平洋戦争の戦火にたびたび遭い資料と ともに一切焼失してしまったのである。 戦後、民俗学者柳田国男や国文学者久松潜一たちの 激励・援助によって新たな出発を決意したが、しかし 病魔に襲われ亡くなった。享年 45 歳という若さでの 死去であった。そのため彼の研究はほとんど未完成で ある。それにもかかわらず、彼の残した研究成果は戦 後 20 年以上経過してから再評価されて著作集全 5 巻 も出版された。ある学者はかれを評して、「異端の国 文学者」であり「忘れられた民俗学者」であり「薄命 の天才的学者の一人」あった」と賛美している。(小 松和彦 305 ~ 6 頁) 筑土鈴寛が研究対象としたのは、中世の日本文学そ れも歌謡とか平家物語などに代表される語りもの文 芸、唱導文学の世界であった。「安居院作神道集」の 分析によって筑土鈴寛の名は学界から注目されること となった。『安居院作神道集』は神社の縁起、由来、 および祀られる仏神の物語を記したしたものである。 それは神社の由来や伝説を記したものであり、神仏習 合的な日本人の宗教観をよく表している。仏教が在来 の神道を取り入れながら日本文化に根づいていった様 子が良く分かるものであり、この書が中世以降の日本 人特に民衆の宗教的世界観を形成するのに大きな役割 を果たした、と筑土鈴寛は強調している。 『神道集』は、内容は荒唐無稽なことが多くまた文 体もひどい和文臭の漢文体で、学術的には価値の低い ものと見なされてきた。これを筑土鈴寛は近古文学研 究の重要な資料として捉えた。当時主流であった実証 主義的文献学的方法を厳密に守る立場からすれば、布 教の道具として下級宗教者たちによって語られ伝承 されてきた語り物、唱導文学は、低級な研究資料であ る。だから文献として信頼性がないとされてきた。そ れに対して、筑土鈴寛は柳田国男などの民俗学の手法 と成果などにも注目して、語り物の世界の根底に潜む 宗教的世界観、神仏関係などの研究の重要さを指摘し た。文字化され評価の定まった文学そのものではな く、それの深層に潜む精神性や世界観の抽出に強い 関心を持っていた。筑土鈴寛の言葉でいえば、「根源 的な、原初的感情、神話時代からの〈共通の生命感 情〉」の追求であり、「古今変わらぬ地盤として、その 形象こそ異なれ、時所縁に応じて、出現するもの」の 解明であった。(筑土鈴寛『中世芸文の研究』、有精 堂、1966、37 頁)。客観的な実証的資料の範囲の学 というよりも、後世の表現を用いれば解釈学とか現象 学と言われた立場に近い。これは折口信夫からの影響 であったし、またそれが多く無文字的伝承に頼る庶民大正大學研究紀要 第九十八輯 七 (常民)世界を研究する民俗学への筑土鈴寛の関心で もあった。ちなみに柳田国男も早い時期から『神道集』 に注目している。民俗学そのものの成果が学的市民権 を得るのは太平洋戦争後である。 逆に言えば筑土鈴寛が亡くなった後に彼が再度注目 されてくるのは、日本国内でいえば民俗学が注目を浴 びるようになった頃である。筑土鈴寛を再評価したも う一方の人びとは日本文化研究の人類学者たちであ り、それはちょうど人類学において非歴史主義的分析 手法が盛んになった時期つまり構造主義的人類学ある いは象徴人類学が盛んになったころでもある。日本で 言えば、1960 年代後半以降である。『筑土鈴寛著作集』 全 5 巻(せりか書房)が出版されるのは 1970 年代 なかばから後半にかけてであるし、その編集の中心に なったのは人類学者たちであった。 彼の文章は難解であるともいわれる。そして引用文 献が明記されていないなどの欠点もある。これは明治、 大正、昭和前期の学者には決して珍しくないことでは ある。しかしその文章は師匠折口信夫ゆずりのインス ピレーションに満ちていると評価されている。(永井 義憲、549 頁)
8.吉岡義豊(1916–1979)
大正大学が生んだ有名な道教学者に吉岡義豊がい る。吉岡の研究は、日本国内(もしかしたら大正大学 内部)よりも海外の研究者から高い評価を受けていた のかも知れない。これについては私の昔の経験もある。 いまから 40 年ほど前にアメリカのシカゴ大学に留学 したとき、私が「大正大学の出身だ」と話したら、あ るアメリカ人学者が「ヨシオカを知っているか、彼は 世界的な道教学者だよ」と言ったのを良く憶えている。 ちなみに私は晩年の吉岡義豊を知っている。しかし彼 は中国学研究コースの所属教員で、私のフィールドと 異なっていたので彼の講義を聴いたことはない。彼は 大学院の講義中に脳内出血で倒れ一週間ほどで死去し たのである。 吉岡義豊は高知県の山間部にある集落で生まれた。 少年の時に、近くの真言宗寺院住職の弟子となり吉岡 義豊となった。その後、東京の僧侶養成の学校に入り 卒業し、1939 年、外務省留学生(文化事業部第三種 補給生)に採用され北京に留学する。その時の研究課 題は「道仏二教習合の情況」であった。その時の指導 教授が常磐大定であった。常磐大定もまた僧侶であっ たが、中国仏教を専攻して各地の史蹟を調査していた。 吉岡は中国滞在中に何冊か書物を出版するが、最初の 著書は『道教小志』(1940 年)で道教の概説書である。 発行元は日本軍関係であった。日本軍は戦争と占領政 策のために中国文化を知る必要があり、その要請の中 で吉岡義豊は道教を担当した。もちろん吉岡義豊はこ の本を純粋に学術的に書いている。 以降、吉岡は、華北(中国中北部)の道教史蹟や民 間信仰の調査に従事することになる。また北京の白雲 観に入り道士と共に生活をして、道教の実態をつぶさ に調査した。白雲観は道教の一派である全真教の道観 (寺院)で、いわば総本山のような位置にあった。こ の調査研究は後に吉岡義豊の名を高らしめることに なった。 しかし吉岡は太平洋戦争終了まで中国にとどまった ため、敗戦直後に中国から引き上げる際に現地で収集 した資料や執筆した原稿をすべて失うという気の毒な 経験をし、ようやく帰国する。1947 年に大正大学の 教員となる。その後も出版活動や学会活動を精力的に 行っていたが、1979 年に大学院の講義中に突然倒れ そのまま緊急入院し惜しまれつつ没っした。 日本では近代以前においても、中国思想として仏教、 儒教、道教の三教を関連して研究するという立場は決 して珍しいことではなかった。しかしそれは主に思想 的研究であった。 日本文化には儒教、道教の影響が広く大きく見られ るが、しかし日本では儒教と道教を宗教としてみる立 場はあまり発展しなかった。つまり日本には儒教寺院 もほとんど無いしまた道教寺院(道観)もなく、それ ゆえ宗教者としての儒者もなくまた道士もいなかっ た。ここからも日本での儒教と道教への長い関心は、 その儀礼や教団ではなく思想であった。 しかし実際の儒教や道教は中国において思想的側面 だけではない。特に道教においては極めて多彩で複雑 な儀礼が行われており、またそれが中国人の日常生活 に根強い力を持っている。 太平洋戦争以前の中国で吉岡義豊が注目したのは民 衆のなかに生きた道教であった。だから彼は道教寺院 に住み込んで調査を行うというような学的活動をした のである。 彼のこうした活動を推進したのは当時の日本政府の 植民地政策である。日本政府は、アジア諸国の植民地 化を推進するために対象地域や民族の文化、社会の研 究に積極的に研究費を提供した。吉岡義豊が外務省留 学生になったのは 1939 年であり、そのような国家方大正大学と仏教研究 針の一環であったと言ってよい。 皮肉にも、この時代には日本のアジア研究の成果が 大いに上がった時期である。それゆえ吉岡義豊の道教 研究もまさにそうした植民地政策の副産物とである。 当時はそうした研究がかずかず行われた。宗教や信仰 習俗の研究も盛んであった。それには次のような研究 が代表的なものである。赤松智城・秋葉隆『朝鮮巫俗 の研究』上・下(1937 ~ 8)、宇野円空『マライシ アに於ける稲米儀礼』(1942)、大川周明 『回教概論』 (1944)などである。 これらはコロニアル・スタディ以外の何者でもない。 その意味では否定的評価を下されている。しかし、赤 松智城、宇野円空、大川周明の業績そのものは貴重な 研究や資料も含まれているということになり、宇野円 空、大川周明の著作は過去 10 年ぐらいの間に復刊さ れている。 実は吉岡義豊の戦前の調査についても、〝ポスト・ コロニアル理論〟が盛んになる前から評価されてきた。 それは中国研究の特殊性にも原因がある。吉岡義豊は 道観に住み込んで、文献に頼る道教研究ではなく民衆 のなかに実際に生きる道教をつぶさに研究してきた。 中国から帰国する際に資料や原稿を失ったとはいえ、そ れ以前に刊行した道教関係書物もあるし、戦後の吉岡義 豊の業績も現地調査を踏まえた道教研究ばかりである。 吉岡義豊が道観に住み込んで目の当たりにした道教 はまさに民衆の中に生きた道教である。研究者はこれ を民衆道教とよび、前者の道士による道教を成立道教 と呼んでいる。両者は相互に関連しているものである ことは言うまでもないが、機能的にも形態的にも区分 して考えることができる。 こうした民衆道教への関心と調査は、吉岡義豊の調 査のように人類学でいうインテンシブ(intensive)な 方法をとることによって豊富な結果を得ることができ る。ところがこのようなシンテンシブな調査方法は、 戦後中国では実施が極めて困難になっている。とくに 外国人研究者にとっては不可能に近い。中国占領時代 に道観に住み込みながら道教を研究した日本人は吉岡 義豊だけでないが、極めて数少ない。少なくとも日本 において成立道教と民衆道教の区別を主張した学者の ひとりであり、彼の調査報告は日本のみならず外国で も評価されたのである。 こうした新しい視点と視点を持って戦後日本の道教 研究のリーダーの一人であったし、日本道教学会創立 の主要メンバーの一人であった。
9.勝野隆信(かつの りゅうしん)
いままで 6 人の大正大学仏教研究のすぐれた研 究者を紹介してきた。さらにここで今一人勝野隆信 (1899 ~ 1969)の名前を挙げることにする。彼の略 歴はおおよそ次のようである。勝野隆信は天台宗の僧 侶であり、長らく東京大学史料編纂所に勤務した。東 大定年後に大正大学教授として約 10 年間教鞭を執っ た。著書としては『伝教大師』(1936)、『僧兵』(1955)、 『比叡山と高野山』(1959)などがある。彼の専門は 日本中世史であり日本仏教史であった。厳密な文献学 者という定評があったという。 この講演で勝野隆信を取り上げた理由は、大正大学 の学術研究への貢献というよりも、エドウィン・ライ シャワー博士と勝野隆信との縁に触れたいということ からである。彼はE・ライシャワーの学位論文作成に 大いに関係している。それは勝野隆信の日記につぎの ように書かれていることから良くわかる。(勝野家遺 族の提供) 昭和 10 年(1935)10 月7日(月) 「辻(辻善之助のこと)所長より米国ハーバード大学 研究生ライシャワー氏を紹介ありて、氏の研究題目た る慈覚大師の 「入唐求法巡礼行記」 研究につき助力を との事にて承諾、水曜日の午後4時より2時間位の約 在り。 今週よりはじむ事とす」 昭和 10 年 10 月9日(水) 「ライシャワー氏4時より6時まで巡礼記講、来週よ り大師伝を講ずる事となる。一緒に帰途、同氏西荻窪 下車」 昭和 10 年 12 月 11 日(水) 「4時よりライシャワー君例の如し。 「懇願の至りに任 (た)へず」 の一句を説明を重ねて、終に十分なる了 解は得られざるものの如し。 「三界唯一心」 の説明よりもはるかに難しかりしこと、 日本人としては一寸不可解に思わるなり。 新宿まで一 緒に帰る」 昭和 11 年1月 29 日(水) 「ライシャワー氏今年最初なり。いまだ風(風邪?) いえず。慈覚大師伝を終る。来週より巡礼記に入らん とす。 共に電車」 この文からすると、E・ライシャワーは勝野の指導 のもと、テキストを少しずつ読んでいたような様子で ある。テキストは、慈覚大師円仁の漢文で書かれた日 八大正大學研究紀要 第九十八輯 記だったであろう。漢文といっても日本人の書いた漢 文つまり日本式漢文であり、また難解な仏教語が数多 くあり、当時の漢文に通じている者でかつ仏教語を理 解できる日本人の個人教授が、E・ライシャワーに必 要だったのである。そこで僧侶で文献学者の勝野隆信 に白羽の矢が立ったのだと思われる。 E・ライシャワーの『ライシャワー自伝』自伝およ び『円仁 唐代中国への旅』(日本語翻訳)には、E・ ライシャワーによる丁寧な謝辞が記されている。 勝野氏の葬儀にはライシャワー夫人も参列されたと いうことで、その時にはE・ライシャワーの弔文も参 列者全員に配布されたようである。 それが以下の小文である。(英語原文は発見できな かった) 謹んで御悔み申上げます。 私はご主人様が8カ月の入院のかいもなく御逝去され た事を深く悲しみ哀悼の意を表します。 御存知の様に、私との友情は 1935 年、1936 年の私 のハーバード大学からの留学生として東京大学に来た 時、史料編纂所へ勤務の御主人様に慈覚大師に就いて 教えて頂いた事に始ります。卒業論文に選んだ慈覚大 師の研究のスタートに、御主人様は親切で好意的で あった事は今でも決して忘れる事は出来ません。そし て私に仏教と古代日本史をよく噛みくだいて指導して 下さいました。私の慈覚大師の日本語版が出来上がっ た時、御主人様の絶大な御援助のもとに研究した本の 1冊の出版祝の席に御出席下さって、再び 23 年目に お会い出来た時は本当に嬉しいことでした。この近年 お逢いする機会がありませんでした事は残念です。 私は御主人様の御逝去に深く深く御同情申し上げま す。そして私がどんなに仏教学者として又、日本史学 者として尊敬していたかを心から知りました。私の理 解が少しでも貴女のお慰みになる事を願っています。 4月 13 日の御本葬に対して深く哀悼の意を表します。 どうぞ御家族の皆様によろしくお願いします。 1969 年3月 24 日 エドウイン・ライシャワー (前米国駐米大使) E・ライシャワーのように日本と極めて近い関係に あった方の場合、いまでも日本の各地にライシャワー とご縁を持っている日本人がたくさんいるのであろう と思うが、大正大学もまたE・ライシャワーのアカデ ミックキャリアと深い縁を持った方がいたということ はまことにうれしいことであるし、これこそご縁とい うものであろう。 以上 7 人の研究者以外にも後世に大きな影響を持っ た人々がいる。たとえば『大正新脩大蔵経』編纂の立 役者であった渡邊海旭(1872 ~ 1933)、近代日本仏 教界のリーダー役であった椎尾弁匡(1876 ~ 1971) がいる。この二人の足跡はここで取り上げた 7 人に 勝るとも劣らない。都合によりここでは論ずることが できず、いずれ別の機会に譲りたい。
10.エピローグ
―今後の実りある展開に向けて
以上を持って私の拙い話を終わりにさせていただき たいと思うが、最後に一言申し添えておきたい。 先進国はどこも似たような傾向かと思うが、現代日 本においては国家の最重要施策は科学技術の推進であ り、莫大な費用が科学技術文明促進へ投入されている。 そのことは、必然的に人文学への財政上の補助が減少 ないし停滞するという結果となって現れている。これ からも日本の人文学研究は極めて厳しい道をたどるの ではないかと思う。当然仏教研究も同様である。 このような困難な状況もあるが、大正大学としては ハーバード大学とこうした提携を通して、多くの刺激 をいただき、優れた先学の業績と伝統を継承し、こう した機会を通じて次世代の研究者養成のきっかけにし たいと願っている。今後の実りある関係を築くことを 真に要望する次第である。 具体的には研究者の交流ということであろうかと思 う。先に紹介した先学たちの専攻したサンスクリット 学、仏教学、真言学、仏教史学、宗教学、仏教文学に ついては、現在の大正大学においても教員、研究生、 大学院生がおり、その伝統は基本的に継承されてきて いる。仏教研究においては、浄土教研究、天台仏教研 究も同じようにスタッフが揃っている。先にも申し上 げた通り、4宗派がかかわっているので、大正大学の 仏教研究は多彩である。大正大学では天台仏教、真言 仏教、浄土教を学ぶことができるが、東京には日蓮仏 教研究のメッカである立正大学、禅学研究で著名な駒 澤大学がある。大正大学、立正大学、駒澤大学は仏教 研究を通じて緊密な関係にあり、日本仏教の全領域を 学ぶことができる体制となっている。 すでに研究者として一人前になった方々を相互に受 け入れることは当然であるが、若い研究者たとえばポ 九大正大学と仏教研究 スドク(postdoctoral fellow)およびドクターキャン ディデート(doctor candidate )を研究生として受け 入れ、必要な指導を行うことには何の問題もない。希 望する講義を聴講することももちろんできる。その場 合は、綜合仏教研究所の研究生ということがもっとも 都合のいい方法であろう。この status でいままでも 数多くの外国人が大正大学に滞在している。海外から の留学生受け入れの施設(dormitory など)は残念 ながら整っていない。しかし home stay などの便宜 は十分図ることができる。もちろん研究者であること を念頭にいれた home stay である。 もちろんライシャワー研究所と大正大学の研究者間 では、お互いの特徴をよく理解しあうことも必要であ る。その一つは、宗教研究に関する両者間の視点の違 いである。少なくとも私の理解するところ、アメリカ の宗教研究は大きな枠組みを設定し、研究対象に対す る全体的な特徴の把握という点を極めて重要視する。 それに対して日本の研究者は全体像(英語でいえば generalization)の把握に関心が無いとは言わないが、 むしろ細かい個別性にこだわる傾向があるように思 う。この違いはもちろん相互に補足的な特徴であるが、 時々、誤解のもとになることがあるように思う。この 点は克服できないことではもちろん無い。ただし、双方 が最初からその違いを認識して相互交流することが実り 多い結果を得ることになるのではないかと考えている。 〈荻原雲来に関する参考文献〉 足立文太郎「ストラスブルグ時代の荻原裙」、荻原博 士記念会編『独余雲来師余影』1938 年 荻原博 士記念会所収 荻原雲来記念会 『荻原雲来文集』荻原博士記念会、 1938 常光浩然「荻原雲来」、『明治の仏教者』下、春秋社、 1969 西村実則 『荻原雲来と渡辺海旭-ドイツインド学と 近代日本』大法輪閣 2012 〈望月信亨に関する参考文献〉 小澤 憲珠「望月信亨先生」 星野英紀編『大正大学 回顧と展望』 大正大学出版会、2010 年、211 ~ 230 頁 金山正好、香月乗光編『望無雲遺芳』 望月博士記念 会 1950 年 望月信亨先生三十三回忌追悼会編『恩師望月信亨先生』 山喜房佛書林 1980 年 〈矢吹慶輝に関する参考文献〉 江島 尚俊 「近代社会と仏教―矢吹慶輝を中心とし て―」『近代仏教』14 号 2007 芹川 博通 『社会的仏教の研究ー矢吹慶輝とその周 辺』 文化書院 1988 〈勝又俊教に関する参考文献〉 松崎恵水 1995 「巨星 勝又俊教先生を慕う」(『大 正大学学報』70 号、47 ~ 50 頁)。 榊義孝「勝又俊教先生」(星野英紀編著『大正大学 回顧と展望』大正大学出版会、 2010 年 335 ~ 351 頁) 〈筑土鈴寛に関する参考文献〉 小松和彦 「筑土鈴寛の民俗学ー異端の民俗学」 同著 『神々の精神史』 講談社学術文庫、1997 年所収 永井義憲「後記」、筑土鈴寛『中世藝文の研究』有精堂、 1966 年所収 〈吉岡義豊に関する参考文献〉 大澤 広嗣 2010 「第二次世界大戦前後の大正大学 関係者のアジア研究ー戦前・戦中を中心にー」、 星野英紀編 2010『大正大学 回顧と展望』大 正大学出版会、2010 所収、71 ~ 96 頁) 〈勝野隆信に関する参考文献〉 田村完誓「訳者あとがき」(E.O.ライシャワー 著、田村完誓訳『世界史上の圓仁ー唐代中国への 旅ー』、実業之日本社、1963 年、282 ~ 302 頁 所収) ライシャワー、E.O.著、田村完誓訳『世界史上の 圓仁ー唐代中国への旅ー』(原題は
Ennin's Travels in T'ang China , 1955 ) 実業之日 本社、
ライシャワー、E.O.著、徳岡孝夫訳『ライシャ ワー自伝』(原題は My Life Between Japan and America 1986)、文藝春秋社、1987 年
註
1)本稿は、2012 年4月 24 日に、ボストンのハーバー ド大学ライシャワー研究所における講演原稿であ
大正大學研究紀要 第九十八輯 る。2011 年に同研究所のヘレン・ハーデカ教授 を通じて、仏教研究の相互交流を主旨とする大正 大学との協定締結に関する申し出があり、同年中 に大正大学とライシャワー研究所間に協定が締結 した。その後、ヘレン・ハーデカ教授より私に同 研究所にて、大正大学の仏教研究の伝統について 講演してほしい旨のお誘いがあり、ここに掲載し た論文を発表した。当日は、同研究所および近隣 大学の日本学関係の研究者も合わせて約 30 人ほ どが集まり、約 60 分の講演に加え、60 分ほど の質疑応答が和やかな雰囲気のなかで行われた。 私自身にとっても極めて貴重な機会であったこと は申すまでもない。ここに、こうした貴重な機会 をセッティングして下さったハーバード大学ライ シャワー研究所のすべてのスタッフの方々、同大 学イェンチン研究所および図書館の方々に心から の謝意を表したい。本紀要に掲載するに当たって は、より学術論文形式のものにすることも考えた が、元々がプレゼンテーションであるので、その ままの形でここに発表することにした。外国人を 対象としたプレゼンテーションであったため、日 本人にとってみればいささか不要な語句が見られ るかもしれないが、その点はご寛恕をお願いする 次第である。 一一