Buddhaguhya
作
『チ
ベ ット王
へ の師
の書 簡
』 に
つ い て 山本 匠
一郎
は じめ に仏 教 者 が 王に
宛
て た手
紙に、有 名
なも
の と して龍樹
が とき
の シャー タヴァ ーハ ナ王 に送っ た書 簡 『勧
誠王頌』(S
鰐 〃磁 α)が ある。龍樹
は 王の教導役
を担
い 、 王 が平等
の心 を もっ て利他
につ と め るべ きこ とを淳
々 と説
い てお り、 仏 教 者が 王権に 対 して どの よ うな姿 勢で の ぞむべ きかの模 範が示さ れ て い る。 こうした仏 教 の基 本姿
勢は、 龍樹 以 降の、 い な釈 尊 以来の伝 統 とい っ て よい 1) 。Buddhaguhya
に も また、 王 に宛て た書 簡が存 在 する。Buddhaguhya
が 生 きた8
世紀
という時代
は、 ハ ル シ ャの帝
国以後
の混乱
の時代
であ
る。政治的
に は諸候
(サーマ ン タ)が領
地 を分割 統治 す
る サ ー マ ン タ体 制
が敷
か れ、各
地の 王候
はバ ラ モ ン と結 託 して ヒ ン ドゥ ー カ ー ス トを 強 化 して い っ た。 こ の 時 代 にBuddha
−guhya
が見
出 した育 成す
べ き王 は、す
で にイン ドになく
、 チベ ッ トの 王に求
め られた。 チベ ッ トの
賢
王 として名高
いKhri
−srong −lde
−btzan
(742
−
797
)その人で ある 。Buddhaguhya
は彼
の 王へ書簡
を送 り 、 そ の 持て る教 え をす
べ て チ ベ ッ トへ と伝 えた。 その後、 仏 教は イン ドの歴 史の 表 舞 台 か ら大 き く退 き、 チベ ッ トへ とその 命脈を保っ てい くことになる。 こ こ で は仏 法 と 王 法 との 関 係 とい う問 題に 触れ る余 裕 は ない が 、Buddha
−guhya
がチ ベ ッ ト王Khri
−srong −lde
−btzan
に宛て た書
簡 を参
照 する こ と に よっ て、 王権に対す
る仏 教 者のひ とつ の態 度 をう
か がう
ことが で きる し、 またチベ ッ ト仏教
流伝初期
に おけ
る政治
的 ・宗
教 的状況
につ い て知
る こ とがで きる。す
で に長
沢実導
[1978
コ2)や 羽 田 野伯猷
[1987
]3)に よっ てBuddhagUhya
の書簡
の重要性
が指摘
さ れ て い る が 、 こ こで は、 基礎 的
な和
訳資料
を提供す
る こ とを目的
と し、 さ ら に先 行研 究
に おけ
る問 題点
を指摘 す
る こ と に よっ て、今後
のBuddha
−guhya
研究
の資
と したい 。智山学 報第六 十二輯
『チベ ッ ト王 へ の師の
書
簡』 の資料
Toh
.Ng4194
/Ota
N
Ω5693
Sangs
−rgyas −gsang
−ba
(Buddhaguhya
),Bod
rl ’e ’
b
αngsdang
bt2un
P
α rn αmsla
sp ring
yig
.(
Colophon
Title
:Bod
btzun
rnamsla
brdzangs
pa
’i
ミクガηg
y
忽
Skt
.:Bhotasvdmiddis
’ agurzalefeha .本 書簡
の和 訳 に は長 沢実導
[1978
]が ある。 これは北京版
に依拠
した抄
訳で あ り、 全体
の 五 分の 一 ほ どの分 量で ある 。 また本 書 簡に関 連 した研 究に、 羽 田野伯 猷 匚1987
]が あ り、書 簡
を部 分 的 に訳出
し、 その歴史
的 な背
景 につ い て考 察
してい る。本
書簡
は4
つ の パ ー トか ら構 成
さ れ る。1
. 王宛の書 簡2
.諸大 臣宛の書 簡3
.大修 習 者 宛の 書 簡4
.一般僧
宛の書簡
D135a4
−137a3
/P404b4
−407a5
D137a3
−137b7
/P407a5
−408a6
Dl37b7
−138a4
/P408a6
−408b4
D138a4
−139a5
/P408b4
−410a2
王
宛
の書 簡
の分
量が最
も長
く全体
の 約半
分 を占
め る。 次い で一般 僧 宛の 書 簡、 諸 大 臣 宛の 書 簡、 大修
習 者宛
の 書 簡の 順 となる。書
簡 に お けるBuddhaguhya
の 一貫
と した 姿 勢は 、 指導
者と して の 立 場にの っ とり、 ま さ し くそれぞれ に宛
てた相手
に対
して面前
と向
かっ てい るかの ご とく
に、 人 としてあるべ き道 を説い てい るQ書簡
の制作 年代
の諸
説本 書 簡が作 成 さ れ た年 代 は正確 に は不 明 と さ れ て きた が、
bSam
−yas
寺 定 礎(
775
)お よび完
成 (787
)の 時 期 か ら、Khri
−srong −lde
−btzan
(742
−
797
)の 没 年 まで の問で
あ
る こ とは確定
的で ある。 さ ら に詳
しい年代
推定
につ い て は後
述 したい 。書簡
に は、大 翻訳 師
Vairocana
に加
えて、 sKa −ba
dPal
−brtzegs
、Cog
−roKlu
’
i
−rgyal −mtsan 、
Zang
sNa −namYe
−shes −sde 、す
な わ ち 「Ka
Cog
Zang
の 三 人」 と い っ た著名
な翻 訳師
の名前
が挙
が っ ており
、彼
ら大翻
訳師
が仏典
をた ゆまず翻
訳 中で ある ことを伝 え
てい る。 さ らにdBa
’
MafijuSri
(dBa ’ gSal−snang , Ye −shes −dbang −po )が、
Buddhaguhya
をチベ ッ トに招 聘 す る使 者と して来 印 した こ とを伝 え
て い る。彼 ら はすべ て、
8
世 紀の チベ ッ トにお ける仏 教 興 隆事業
の最大
の立役
者 た ちであBuddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の師の書 簡』 につ い て (山本)こ
う
し た翻 訳 師
た ちは もと もと貴 族
であ り
、宮 廷
の事
情 に詳
し く、Buddha
−guhya
と際会
した折に は、Khri
−srong −lde
−btzan
周 辺の 政 治 的 環 境 につ い て伝 え てい たも
のであ
ろう
。書簡
に は、 宮廷
でお こ っ た具
体 的 な トラ ブル と、 そ れ に対 する指導
や 教誡の言 葉が ち りば め られてい る。 こう
した言
葉 を丁寧
に考 察 することをとお して、
制作年代
をおのず
と推 定 する こ とがで き る。ち なみ に長 沢 は、 制 作
年
代をKhri
−srong−
lde
−btzan
の 仏教
入信
(20
歳)の直後
と考 え、
761
年 と設 定 して い る が、 この 設定
に は無
理 が ある。bSam
−yas
寺
にBud
−dhaguhya
を招 聘
し よう
とした事
蹟が書 簡
に見
える の で 、bSam
−yas
寺 建 立 以 前 で はあ
りえない 。また羽 田野は 、
本書簡
が真作
で あ れ ば、 こ の書簡
が製作
された時 期は 「チベ ッ トにお ける翻訳 時代
に入
ろう
と した時 代」 である と し 、Buddhaguhya
の 招聘
使 の派 遣 を 「サ ム イェ ー建
立と平
行 して お こ な わ れ た翻 訳の準
備 時代の で きご とで あっ た、 とみ るこ と もで きよう
が、 しか し、 サ ム イェ ー完 成後
の 盛 大 な訳 経 時代 に入ろう
とす るこ ろ という
こ とに もな ろう」 と示 唆 する。 さ らに羽 田 野 が主 唱す る書 簡の偽作
説につ い て 、 その 問 題 点を検 討 して い くこ と に したい 。書
簡
の問 題 点1
.60
歳薨去説
につ い てBuddhaguhya
の書 簡
は、先行 研
究で もか な り意 見 が 異 なる箇所
があ
る。 そ れ が、Buddhaguhya
、 また はKhri
−srong −lde
−btzan
の60
歳
逝去
を説 く
と さ れ る 一 文である。 その 一文
とは次
の よう
で ある 。「力 少 な き
身体
に おい て、伝承
を余す
こ と な く、59
歳
まで 翻 訳 を行なっ て くだ さい 。60
歳
に は出世
間して 、他の 王 国に生を受
ける こ とに なり
ましょう
。」 4)この
箇 所
の文
脈 は、Buddhaguhya
が 王に対 して基礎
的な翻 訳事 業
の 推 進 を 要 請 してい る場 面である と考
えら れ る が 、 この 部分の 和 訳に関 して、 長 沢実 導
、 羽 田野伯 猷 とも解 釈が異な る。長
沢説
は こ の 部 分 の 主 語 をBuddhaguhya
と考 え
、 こ の とき
Buddhaguhya
が59
歳で あっ た とする 5)。す
な わち 「Buddhaguhya
は体 力 が 乏 しい なが らも
59
歳
まで法 輪 を転 じて きま した」 とす
るわけ
で ある。 しか しこ の 一 文の述 語は尊敬語
で書
かれ て お り、 王に宛
て たBuddhaguhya
の言葉
であるか ら、尊敬
語の主語
がBuddhaguhya
で はあ り
え ない 。智山 学報第 六 十二 輯
1de
−btzan
に寿命
を授記
(予言)した もの と考
え 、 こ の点
をも
っ て本書 簡
を 「後
世の 作 為 的 な もの という
公算
は大
きい 」 とし 「この書翰
が由緒
正 しい伝
統 を持
っ て明
確 な存在 と して広
く知 られて伝承
さ れ、真作
と して常
に評 価 されて きた ものか どう
か 問 題が ない わけで は ない 」6)と疑 義 を呈 して い る。Khri
−srQng −lde
−btzan
の 薨 去 年 代に関し て は異
説が ある が、 そ れにつ い ては他
の 先行 研 究 を
参
照 さ れ たい 7>。 問 題は、 こ の一
文
が 王 の 寿命
を予 言し た もの で
あ
るか ど
う
か という点
で ある。Buddhaguhya
がKhri
−srQng −lde
−btzan
に要 請
しているの は
仏 典翻
訳事 業
の推 進である。 この要 請は本 書 簡に しば しば散 見
さ れ る8)。 つま り
こ の箇 所は、 たん に翻訳事業
の見 通 しを述べ た もの であ
っ て、 王 の寿命
の 予 言 など で は ない 。60
歳
で の出
世 間という
こ とは、 王 に対
して事
業 遂 行 後の 出 家 (引 退 )をう
なが した もの と と らえるべ きで ある と考 える。 その事 業
の見通 し は、 王 の60
歳 を 目処 と した もの であっ た。また こ の一
文
の 冒 頭 に 「力 少な き身体
にお い て」 とある よう
に、 こ の 頃のKhri
−srong −1de
−btzan
は か な り身体
を病
んでい た可 能性
があ
る。 王宛 書簡
の最 終
場 面で王 の徳を海の 徳に比 す 箇所
が あ る が 、そこ で 「不 具 な手 を四方
に広 げ
る」 という表
現 が ある。 これな どは 、 王の手
がすで に老 化の た め不 自由で あっ た こ と を伝 える もの で は な かろう
か。な お 「
60
歳には 出 世間
して 、他
の王 国に生 を受
ける こ と に なり
ましょう
」 と いう
文 を、 羽 田野
は遷化
の こ と と とらえ
るが、 これ もたん に出家
して生 ま れ変わ る という
意味
であ
ろう
。前 文
に 「二 度の 生 を もっ て利 他
を為
してく
だ さい 」9)と ある よう
に、 王 として世 間にお ける利 他 を行 ない 、僧
となっ て出世
間にお ける利 他 を行 なう
という
意味
であ
ろう
。 王 に 出世 間 を勧め るの は 、 たとえ ば龍
樹 『勧 誡 王頌』lo)など に も見
られ る仏教の王権に対 する伝 統 的態度
とい える。しか し
Khri
−srong −lde
−btzan
は60
歳 まで存 命 する こ とは で きな か っ た。Khri
−srong −
1de
−btzan
は56
歳で逝去
して し まう
(797
年)。 す なわ ち 王は 、Buddhaguhya
か ら
自
らの寿命
以上 の仕事
の 遂 行 を求め られ てい たのであ
る。 王 は翻 訳事業
の完
遂 を
見 届 け
る こ となく
、56
歳
で 逝 去 さ れ た。 つ ま りこ の箇 所 は 羽 田野が主 張す
る よ
う
にKhri
−srong −lde
−btzan
の60
歳 逝去
をBuddhaguhya
が 予 言 した もの で はな
く
て 、翻
訳事 業
の完 遂がKhri
−srong −lde
−btzan
の60
歳
を 目処 と し て い た、 その
見 通
しを述
べ たも
の で ある と考
えるべ きであ
る。 本
書簡
を 「後 世の 作 為 的な もBuddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の 師の書簡』 につ い て (山 本)書 簡
の 問 題点
2
.制作 年代
の再 考 こ こで書簡
が示唆す
る歴史
的 な状 況か ら、制作年代
の さ ら に精 しい 推 定を した い 。8
世紀
の末期
、 チベ ッ トは仏 教 を国 教 化 して導
入 す る にあ
たり
、 イン ドと中 国 の どち らか らの仏 教 を優先
して招来す
るかとい う仏 教内
の教線争
い (794
年 ・bSam
− yas の争論)と、 さら に は ボン教な どの巫呪宗
教や先 祖伝
来の習俗 を守
ろう
とす
る 抵 抗 勢 力 との相 剋 状 態に あっ て、 仏教
界は さま ざ まな 迫 害 を蒙っ て い た 11) 。Bud
−dhaguhya
に よ れば 「(チベ ッ トは)学 匠 を受
容 する の に性 急
であ
っ て、 あ らゆ る見
解
に対
して騒然
となっ てい る」12)思 想 紊 乱の状 況、 さら に は 「過失
をわ きま えず
、 正法
を破却
せ しめ て は、 地 獄の 因を増や して (仏)果 を絶
やす」 13)排 仏 運 動の存
在 を伝
える。 政争
が続
き 「チベ ッ トの王 国の 政治
の城塁
も、文官
以下の 政治
の 城 塁 は崩
れつ つ ある」14)政情
にあっ た。こ
う
した政治
的な混乱
状況
が続
い てい るな かで 、 ひ とつ の不 祥事
が起 こる。Khri
−srong −lde
−btzan
の第
三 子Mu
−tig
−btzan
−po
(775
−803
)が 殺 人 を行い 、 北 方に追放 さ れて し ま
う
の であ
る (795
年)。 これ に よ りKhri
−srong −lde
−btzan
は長 子Mu
−ne −
btzan
−po
に 王位 を譲 らざるを得 な くなる が 、 こ の 長 子 はわず
か29
歳
でKhri
−srong −
lde
−btzan
在 世 中に母親
に よっ て弑
され た。第
二子
は幼 少 時
に亡 くなっ てお
り
、第
三子
は北方
に追放
されて し まっ たの で 、第
四子Khri
−lde
−srong −brtzan
(
776
−815
)が即 位
した。Buddhaguhya
の書簡
に 「政治
に よっ て誰
か を降
ろす
と き に は、息
子 をあ き
らめず
に は障害
を避け
られ ませ ん」 という
文
言があ
る が 、 これ は こう
した宮廷
の 政治
的混 乱 につ い て示唆
した もの と考
え られよ う。 また諸大 臣
宛の 書 簡に は 、妻や親 族に お け る不 和や喧 嘩 な どさま ざ まな禍い を説 くが、 こう
した親族
間の不和
に対
してBuddhaguhya
は きび しい 教 導 を行 なっ て い る。こ
う
し た政治
的 混乱
や息
子た ちの 不 祥事
が795
年 周 辺 に起
こ っ て い る。Bud
−dhaguhya
の書
簡は、老
王Khri
−srong −lde
−btzan
カミ 「
力
少 なき身体
」 と な り 「非
時
をつ ねに心に留
めて おく
」 必 要 が あ っ て、60
歳 を見 据え
たKhri
−srong −lde
−btzan
最晩年
の795
年
か ら797
年
の間
に作 成
さ れた もの と考
え られ よう
。書 簡に見 られ る教 学 理 念
Buddhaguhya
は仏典
翻 訳事
業
を何よ り奨 励 して い る。Khri
−srong −lde
−btzan
に智山学報 第六十二 輯
Ye
−shes −sde に よっ て 果た され る こ と に なる翻訳 法
の基 準
設定
(『翻訳名義大 集』MahavyutPatti
の作 成)を指示
し てい る点
で ある。『大 日経』研 究 に とっ て最
大
の 関 心事
は 、 こ の とき本書
簡 と ともに 『大
日経 広
釈』 また は 『大 日
経 略釈
』、 『金剛頂経
』 の 注釈
Tantrdirthavatara
が送
られ た ことで ある。
Buddhaguhya
をbSam
−yas 寺
に招 聘
す るた め に、 試み の7
人の ひ とり
dBas
MafijuSr1
とBran
−ka
Mu
−ti
−ta
が イ ン ドへ と派遣 さ れ た が、
Buddhaguhya
は高 齢 と健 康不安(そ して 文殊 菩薩の 諭告 )の た め に入 蔵 が 果た せ な かっ た。 この使
者
が持
ち きたっ た貢物
と宴
へ の 返礼
と して、 『大日経』 と 『金 剛頂経
』 の注釈書
が送
られたの であ
る。書簡 中
に は、 政治
的に困 難 な状 況や、 家族や人 間関係
で の軋轢
や難
し さが示 さ れ て い る が 、 そう
した困難 な な かで も 「心の 相」 を知
り 、 「自心」 を観 察
する こ とが説か れ る15) 。 いう
まで もな く 『大日経』 の教学が反 映 さ れ た もの とい え よう
。 ま たBuddhaguhya
の 教 理 学の 骨 子 と もい える 「入 ・住
・起」 の三 心 の考 え方 も 見 られる 16) 。Buddhaguhya
の書簡
に は、龍樹
以来の伝 統
的姿
勢で ある、 王に対 して十 善 業 道を説 く姿
勢や17) 、 『倶舍
論』 な どに説 く五煩 悩の克服や 、 『阿含経
』 か ら見
られ る 「亀
の比喩
」 など 、 こう
した基礎
学の修
習 を前 提 と しな が ら、 や は り真
言 乗 ・金
剛 乗 を推 奨 する。 た とえ余
乗 を修 得 して も、真
言 乗 に至 らな ければ、 「あた か も金 を求
め て 土塊
を得
る よう
なも
の で ある」 と説い てい る18)。す
な わ ちこの書簡
は非 常
に短
い な が ら も、Buddhaguhya
その 人の 教 学 と仏 者 と して の態度
や性格
が凝縮
して示 さ れ た もの と言 えよう
。 参考 資 料dBa
’bzhed
[2000
]:The
Royal
Narrative
Concerning
theBringing
of theBuddha
’s
Doctrine
to
Tibet
,Translation
andfacsimile
Edition
of theTibetan
text
,
by
Pasang
Wangdu
andHildegard
Diemberger
with aPreface
by
Per
K
.Serensen
,(
Verlag
der
Osterreichischen
Akademie
der
Wissenschaften
,Wien
Tucci
,Giuseppe
[1950
]:The
Tombs
ofthe
Tibetan
Kings
,Roma
Tucci
,Giuseppe
[1958
]:Buddhist
Minor
Texts
2
,Bhavanakrama
,Introduction
,
Roma
Wayman
,Alex
[1983
];Three
Tanjur
Commentators
−Buddhaguhya
,RatnakaraSanti
, andBuddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の師の 書簡』 につ い て (山本) 稲葉正就 ・佐藤 長 [1964
]『フ ゥ ラ ン ・テ プテ ルーチベ ッ ト年 代 記』 法蔵館 佐藤長 匚
1959
]『古代チベ ッ ト史研究下』 同朋 舎 長 沢 実導 [
1978
]「ブッ ダグ ヒヤの チベ ッ トへ の 書翰」 『瑜伽行思想と密教の研 究』大東
出版社 羽 田野伯 猷 [1987
]『チベ ッ ト・イン ド学集成』2
、 法蔵館 山口瑞鳳 [1967
]「チベ ッ ト仏教」 『講座東洋思 想』5
、春 秋 社 山口瑞鳳 [1978
]「吐 蕃 王 国仏 教史年代 考」 『成田山仏 教 研究所紀要』3
山口瑞 鳳 [1988
]『チベ ッ ト 下』 東 京大学出版会 註1
)Buddhaguhya
の 書 簡 に は、龍 樹 『宝 行 王 生 論』Ratndivali
や 『勧誠 王頌』 跏毎
llekha
に見られる よ うな、 王 に対す る仏 法の優位 と教導とい う 一貫 と した姿 勢があ る。2
) 長沢実導 [1978
:629
−635
]3
)
羽 田野 伯 猷 [1987
:23
−69
]4
) 和訳 〔18
〕参照。5
) 長沢訳 によれ ば次の と お りで ある。 一 「(私は)体 力 乏 しい なが ら も教 法の お陰で無事に 五十九(歳
)
まで転法 を行 じて きました。 六十 (歳 )に は世 間 を超えて他の 王 国に生 を受けるで あ りま しょ う。」
6
)
羽 田野伯猷 [
1987
:43
]7
)Khri
−srong −lde
−btzan
の逝 去 年代の 異 説 につ い て は 羽 田野 伯猷[1987
;43
]を参 照された い 。 しか し、 学界で はほ ぼ
Khri
−srong −lde
−btzan
の 生 存 年 代は742
−797
年で確 定されて い る とい える。 山口瑞鳳 [
1978
]参照。8
) 和 訳 〔17
〕〔18
〕〔24
−2
〕〔28
〕9
) 和 訳 〔13
〕参照。10
)
『勧誡 王頌』
Suhglllefeha
,123v
.瓜生津隆真訳 『大乗仏典14
龍 樹 論 集』 中公 文庫、
2004
,p
.361
.11
)こうした事情につ い ては羽 田 野伯 猷 匚
1987
コに くわしい 。12
) 和訳〔
12〕
参照。13
)
和 訳〔
13
〕
参
照。14
) 和 訳〔14
〕参照。15
) 和 訳 〔19
〕〔20
〕参 照。16)
和 訳 〔70
〕〔70
−2
〕参照。 拙 論 「『大 日経』 所 説の 菩 提 心 に つ い て 」 『智山学 報』60
,2011
参照。智 山 学 報第六十二輯
17
)18
) 十 善業道 につ い て は拙論 「『大日経』 サー クル の成立与件」 『蓮 花 寺 佛 教 研究所紀 要』2
,2009
,p
.42
を参照。 『大日経広 釈』(BhaSya
,D
150b
/P187a
)で、ブ ッ ダ グ ヒヤ は 「世 聞の王 に十 善 業 道の教勅を説 く 」 とい うが、これ は龍 樹 以 来の伝統を意識 し て い る。 龍 樹は 『宝行 王 正論』(
Ratndvali
,1
.7
−10
)や 『勧 誠王頌』(Suhgrllekha
,5v
)
の なかで 、 王に対 して 法を要 約 して教 示する文脈で 、 まず 十 善 業 道 を説い て い る 。 和 訳〔
62
〕。 その他、 真言につ い ては和訳 〔29
〕〔29
−2
〕〔
71
〕〔
72
〕参照。Buddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の師の書 簡』 につ い て (山 本)『
チ
ベ ット
王へ の師
の書簡
』凡 例
1
.訳 出に あ た っ て sDe −dge
(D
)版
を底 本
と し、 北京
版 (P
)、 sNar −thang
版(N
)を参 照 した。 適 宜、各
版の もっ ともよい と思わ れる語句
を採
用 し、異同
があ
っ て底本
を改
める場
合の み註
に反 映 した。2
.本書 簡
は 王/大 臣/大修 習者/
一般 僧
の 四者
に送 付 されて い るので 、
宛先毎
に区分 し た。3
.本 文は不 規 則 な偈文体
であ
る。 王宛
の書 簡
は 、9
綴
4
句
か らなる偈
文
で38
詩頌
ある。大
臣宛
の書 簡
は 、11
綴
を中
心 と し て9
綴や13
綴か らなる散 文 調で4
句
x14 文 節 と な る。大修
習者
宛の 書 簡は、9
綴か らなる偈文
で6
詩頌 ある。 一般僧宛
の書簡
は 、9
綴か ら なる偈 文で
21
詩 頌 ある。 すべ て で79
詩 頌 と な る。4
.偈 と散文
か ら な る文 章
で ある が 、4
句
を 一 単 位 と み な し 、 便宜
的に
通
し番 号
を付
し、訳文 中
に〔
上付
き数字
〕
で記
した。2
文
節 の 場合
は前文
に付 属 す
る半偈
とみな
して〔
0
−2
〕
と した。 どう
して も意味
が 通 りに くい箇所
は、3
文節
、5
文節 等
を 一単位
と した。 ゆ えに必
ず
しも番号
と文 章内
容 と は合致
しない 。5
. 内容
を理解
しやす
くす
るた め、 小 見 出 し を付 した。6
.文
中の( )
は訳 者の補 訳で ある。 帰 敬偈 聖 文殊 に帰命
い た し ます。 D135a4− P404b4− N387a6一 王宛の書簡
啓 奏
チ ベ ッ トの sPrur −rgyal1 、 全 人 民 の 主、
Khri
−srong −lde
’
u−
btzanli
、1sPrur −rgyal :チベ ッ ト族の古称。
11Khri −srong −
lde
’u−btzan
:742
−797
.古代チベ ッ ト王 朝第5
世。 在 位754
/755
/756
−797
年。N
,P
は一貫と してKhri
−srong −lde
−btzan
と表記 する。智山 学報第 六 十二 輯
Ag
−tsom
−mesiiiの御
子息
よ。Rlung
−nam −’
phrul
の 王 の 主 た るSron
−btzan
−sgam −poi
・は観 自在尊
の身
で あ り〔1〕、 菩 薩の
身
相 続 は不断
です
。N387b
六
趣
中に おけ
る大 智 慧
の 人、 五毒・を厭 う六 族 すべ て の 根 で ある 、
Khri
−rje−thog
−brtzanvi
以降
の系譜
であ
ります。〔2〕
十 善
の法
をたも
っ て教 化 し た まう
氏族
の化
現 であ
る、Khri
−srong −1de
’ u−btzan
は、 汚 れた暗い 窓 を 開 けるた めに 、 イ ン ドの金剛座
の 上 で 、 〔3〕釈 尊
が お 説 きに なっ た 三 蔵一 そ れは 、 アー ナ ン ダ等
の従者
た ち が完成
して、 贍 部 洲の道場
の 中心 となっ て、偉 大
な福 徳
ある学者
を数
多
育
て ま した〔4〕その
聞
・思・iiの系 譜
を伴
っ て 、福 徳
の少
ない 王P405a
国を成 熟 させ る た め に、 聖種 viiiを具 えた者 を広 くお求め になり
ました 。Dl35b
翻 訳
師
の イン ド派 遣(
す なわち)
Vairocana1
・、
sKa .
ba
.dpa1
.brtzegs
・、〔5〕
Klu
.yi
.rgyal −Mtsanxi 、
Ye
−shes −sde・ii 、
E
−ra ・iii 、A
−ro ・iv 、Mafljuxv
等iii
Ag
−tsom −mes :在 位704
−754
,755
年。 「髭の 祖 父」 と称 さ れ る。Khri
−lde
−gtzug −
brtzan
の こ と。 古 代 チベ ッ ト王 朝 第4
世の別名。iv
Sron
−btzan
−sgam −po
;569
?−649
.古代 チベ ッ ト王 朝 の祖。 在 位617
−650
年 。また は
617
年 誕 生629
年即 位 説。v 五毒 :六大煩 悩の うち 見 を 除い た 残 りの貪 ・瞋 ・痴 ・慢 ・疑の 五つ の煩 悩の 毒をい う。 また は後出 「五煩 悩」 をい っ てい る。
vi
Khri
−rje−thog−brtzan
:前出Ag
−tsom −mes 、すなわ ちKhri
−lde
−gtzug
−brtzan
のこ とであろ う。
vii 聞 ・思 :三 慧 (聞 ・思 ・修)の うちの 聞と思をい う
。 教 えを聞い て よ く考え
る こと。
viii 聖 種 :’phags pa’
i
rigs .聖賢の種 子の 意。 仏の あと を弟子が次第に継 ぐこと。 仏 教の 血 筋。ix
Vairocana
:bai
−r()−tza−na .大翻 訳師 (lo
chen )。 試みの 七人(sad mibdun
)の ひ とり。 試み の七 人につ い ては
Tucci
[1958
:13
−15
]が諸種の歴史資料に お ける異 同を 挙 げて整 理 してい る。
x sKa −
ba
−dpal
−brtzegs
:大校閲翻訳 師 (zhu chen gyilo
tzaba
)。 『大日経』 の訳 者。『デ ンカルマ 目録』 編纂。
xi
Klu
−yi−rgyal −mtsan :翻 訳師。Cog
−roKlu
’i
−rgyal −mtsan .xii
Ye
−shes−sde :Zang
sNa 覗amYe
−shes −sde .大校閲 翻 訳 師。 『翻 訳名 義大 集』編 纂。 上記の 三 者 sKa −ba
−dpal
−brtzegs
,Cog
−roKlu
’
i
−rgyal −mtsan ,Zang
sNa −nam
Ye
−shes −sde の三 人 は、 sKaCog
Zhang
gsum と称 さ れ、 前 伝期に おける 三大翻 訳師である。
Buddhaguhya
作 『チベ ッ ト王 へ の師の書 簡』 につ い て (山 本) に、 最上の 財で ある金 ・銀 ・財 宝 を預 けて 、 イン ドの正法獲得
へ と派
遣い た しま した。 〔6〕チベ ッ トの暗 闇 と
暗
い 窓 を 開 く、 国政の権 力の頂 点 を、 私Buddha
−guhya
は実にお 慶び申
し上 げます
。チベ ッ ト招
聘
の辞 退あら ゆ る不 正 を糺 す 政
府
は、 〔7〕た ゆま
ぬ翻 訳
を継続
中であ っ て、IDe
xvi 氏、 君 主
Khri
−srong −lde
’ u−
btzan
の治世
に お い て 、 俗法
と仏法
の権
力
の頂
点に騎 乗 した まい 、 輝 く宝
の身体
の蘊
に お い て、 〔8〕呼
吸 ・熱 ・咽
に併 発す
る重 病と、 千八十
の障害
に よっ て追 及 される こ と な く、 ’Jarn
−dpalxvii
とMu
−ri−taxviii
に 一任
さ れ 、Yas
・ixの 地に 私ご ときを招聘
して くだ さい ま した。 〔9〕
私は 身体が衰 えてXX 不 自由で あ り、 聖
文
殊菩
薩の 仰せ で は、 「チベ ッ トに汝 が 旅立 て ば命
を失 う
であ
ろう
」 と諭
さ れ ました。『金 剛頂経
』
・『
大 日経』
の 注 釈書
の送付
私
は不
自 由 なが ら、 地位
と借財
へ の返礼
として、 〔1°〕 『入 瑜 伽口訣 』 加 をお送 り
します 。 使 者二 人 xxii の宴
の返礼
と して 、 『現等覚
タ ン トラ xivAro
:不明。xv
Mafiju
:mafidzu ,試 みの 七 人の ひ とり。dBa
「
Mafijugrl
,dBa
’ gSal−snangYe
− shes −dbang
−po
. xviIDe
氏 :古代チベ ッ ト貴族の名門の家系をい う。xvii ’
Jam
−dpal
:MafijuSrl
。 前出Mafiju
。 羽 田 野伯猷 [1987
:34
]が指摘する ように、 この 二 人にBuddhaguhya
は 『曼 荼羅 法 略 摂』dKyil
’fOhor
gyi chos mdor
bsdus
pa
(Toh3705
/Ota4528
)を送っ てい る。 奥書に 「イン ドの 賢者
Buddhaguhya
が、
dBas
(dBa
’)MafijuSrl
とBran
−ka
Mu
−ti−taに 送っ たもの を、 チベ ッ トでLo
−tza−ba Ka −ba dPal−brtzegs らが 翻 訳 し た」 と記 す(D5b /
P6a
)。xviii
Mu
−ri−ta:mKh as −p
α ’i
−dga
’−ston はBran
−ka
Mu −ti−ta とする。 おそ らく上の註 か らも
Mu
−ti−taの表記の方が正しい と思 わ れる。xix Yas:
bSam
−yas.bSam
−yas 寺 院の こ と。779
年 建立 。xx
身体が衰 えて :sku mnyel
lags
te.N
,P
. sku gnyer .Skt
. kayajlva.香灯 師、寺中管理 人。 長澤 [
1978
:634
]は僧 院管理 職 と考え、 「Na
!anda の僧 院長又は密 教 学部長で あっ たの だろ う」 とする。xxi 『入 瑜 伽 口訣』:
Man
ngag yo ga aba
ta ra,Toh2501fOta3324
. Tantrdirthdva−tara.『タン トラ義 入』
智 山学報 第六 十二輯 釈』 xxiii
内
外
両者
の多
くの実
践の すべ て を、 〔11〕一 つ も残
さぬ一切
N388a
の事
業をお
送 り
します。観
察 ・思惟を行 なう
ときは他所
に移 られ るの が よい で しょう
。チベ ッ トの
政治的
混乱
チベ ッ トの
民
は、学
匠 を受容
するのに性 急であっ て、 あ らゆ る見解
に対
して騒然
とな
っ ています
。〔12〕過 失 を わ き ま え
ず
、 正法
を破却
せ しめ て は、 地獄
の因
を増
や してP405b (仏)果を
絶
やすこ と に なり
ます
。 内外 両者
の実
践 を飾 り
立て て、宴
に お い て二 度の生 を もっ て利 他 を為 して くだ さい 。 〔13〕Khri
−srong −lde
’u−btzan
よ、Yas
の 甥の 、 二 人の 羅刹
の 二 人の 子は、正 しい
方 向
を断 ち切 り、 チベ ッ トの 王 国の 政 治の城
塁 も、文 官
以 下の政治
の城 塁
は崩
れつ つあ
ります。〔 14〕職務
は少
なく
、普
通の女 性
xxiv を妻 に娶 り 、 四方 周辺 を くまな く乞 い歩
い て い ます。〔15〕王 の夏 (安居)に は外 出 して遊 び、普
通の女性
を求
め て村
で食
を乞
い歩
い てい ます。 あ ちこちに行
っ て は、あ
らゆる客 人
D136a と
貴賓
を計
っ て 、自
国民の ご と きは、 奇 異でない と言 っ て向
か わず
、客
人 の よう
に どこ で も寝
て しまい ます
。 〔16〕 翻 訳 事 業の推 進四方に転 じた聖 者が翻 訳 した
法
を、 王が説 く
のは功徳
である と言わ れ るか ら、 すべ て君 主の ため に説か れ た三蔵の伝承
は、 王 の御 子息
の 恩恵
とな ります。〔切力 少
なき身体
に お い て、伝
承 を余
す こ とな く、59
歳 まで翻訳
を行
なっ て くだ さい 。60
歳 に は出 世 間 して、他
の王 国に生 を受
ける こ と にな りま しょう
。 XXV 〔18〕xxiii 『現 等 覚 タ ン トラ 釈』:mngon par byang chub
pa
yi
tan trabshad
.
Toh2662
/Ota3486
,Vairocanabh
isambodhi
−tantra
−Pin
.ddrtha
,(『大 日経 略 釈』)また は
Toh2663
/Ota3487
,Vairocandibhisanibodhi
−mahatantra −bhasya
.(『大 日 経 広釈』(
Bha
$ya ))xxiv 普通の女性 :
dmangs
mo .ロ ーカース トの女性。Skt
, vrSali .Buddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の 師の 書簡』 につ い て (山本 )自
心の 相を知るべ きこと六 趣・xvi ・貴 賤 の どこ に で も生 じる 、
自
然 智の 王 は大自在
であ りま す。 「事 物 の知 識 は智 慧 の な かで は貧 し く、 心の相 xxvti を知 る こ とが 富で ある」 と言わ れ ます。〔19〕そ れゆえ
に心の 相 をよ く了 解 して くだ さ い 。 心 は、 宮 殿 ・猿 ・電 光で あっ て 六種の 因・xvi 」iで あ り ます 。 「貴
賤 い ず れの 趣で あっ て も、自
心こそ大 自在で あ り、 懈怠
せず、 自心 を観N388b
P406a察
しな さい 」 と言 わ れ ます。〔 20〕論
の教
誠 と口訣の解
説 を、 王 が普
及す
る こ と少
なけれ ば、後
に城の礎
は縮
小 し ます。 一人の妃を受
け容れ る に は 、 小 さ な 目を タ ーコ イ ズ で飾っ て美 しくして、 〔21〕ま た一 途に愛 して親切にする もの です 。 仏 教 迫 害の停 止 ・仏 典 翻 訳の規 準作 成赤
面・xi・の 羅刹XXX 、 チベ ッ トの 国民は、 三昧 耶 を損 ない 、 約 束 を破 り、知
識は粗 略
で あ り、熟
考 xxxi す る こ とが 少 ない か ら 、 〔22〕過 去 に行 なっ た こ とXX ・iiを無
きも
の に して よい と言っ て い ます 。 福 徳の 大 なる とこ ろに如 意樹 は生 育 します。 福 徳の 少 ない チベ ッ トの 王 国では、 タ ー ラ ー樹 も
な お生育
い た し ま せ ん 。〔23〕樹 を迫害
し断 ち切 っ て し まう
の はお待
ち な さい 。僧
院 ・塔
・楼 閣等
を、あ
らゆ る威
嚇、 その 迫害
か ら 解 放 するの で す。 〔24〕正 法 を翻訳 ・校 正 する こ と等 を行な っ て ください 。 同 時に基準
xxxiii をつ くるの です 。 〔24−2〕「
56
歳の丑の歳」 に没 し た と記 する。 ま た羽 田 野 [1987
:43
−44
]はKhri
−srong ・lde
−btzan
の没 年の異 説につ い て列挙し、「パ ドマ の伝 記」 だけが61
歳 丑の歳 逝 去 説 を挙げてい るこ とに着 目 し、この点を もっ て 「後世の イン ド仏教系の手 に な るこ と を物 語 る と 思 わ れ る」 と偽 作説を 支 持する。xxvi 六趣 :
N
,P
、’groba
rigsdrug
.D
.’
gro
ba
risdrug
.N
,P
により改める。xxvii 心の相 :sems
kyi
mtsan nyid .こうし た 心の相 と自心の観察を説 くの は、『大日経』 の教学を伺 うことが で きる。
xxviii 六種の因 :能作因 ・倶 有因 ・相 応 因 ・同 類 因 ・遍行因 ・異熟因e この 六
因に 五 つ の結果がある こと を六因五 果とい う。
xxix 赤 面 ;gdong
dmar
.n9
面人。 チベ ッ ト族の 古称。
xxx 羅 刹 :
N
, R srin po . D . srinbu
. N , P によ り改 め る。xxxi 熟考 :
D
.brnags
.N
,P
, rnaxxxii 過去に行なっ た こと :父 王 Khri−
tde
−gtzug−brtzan の 仏教保護政策をい って い るの で あろ う。
智山学報 第六 十二輯
反
対勢 力
へ の対
応王 の本
質
を他者 に話 して はい けま せ ん。 建 設 ・忍 耐 ・慎 重 さ を堅固 につ と めて ください 。 心 を大 ら か に して、内
大 臣の勇 気 ある人たちにDl36b
対
して 、 目的
は愛 護
であ
る こ と を十
分に話
して理解
させ るの です
。〔25〕政
治
を損
なう助
言は耳ざ
わ りです。傲慢
はい け ませ ん 。 温 和に く り か え し話 し、 重 要 なこ とを奨 励 して、 大 臣たち には大 小 を適 切に扱う
よう
に諭 すの です。〔26〕大 臣の 欲 望 は水 の よう
に抗 しが たい か ら、 政 治 の城 塁 を壊 すの はま ちが っ てい ます。 政 治に よっ て誰か を降
ろす と き に は、 息 子 ・ ・xiv を あ き らめず
に は障害
を避 け られ ませ ん 。 〔27〕翻 訳(事 業) P406b が 王侯 貴 族の耳に入っ た と して 、 半分 だけ特 別に請 け 負 うの さえ聞 き 苦 しい の で す。 政治
の水
辺 を観 察 すれ ば き りが あ りませ ん。真 言 乗の
奨
励「三 宝 を眼の よ
う
に扱え
」 と言われ ます。 〔28〕一 切の 乗に入 る門は各
別
であ り
、 一切
の門
か ら果
は得
られ ます
が、 (何より)真
言 ・金 剛 乗 を お受 け
くだ さい 。〔29〕導 く
た めに一切
に行
道 を示す
、 金 剛 乗 を お受 け く N389a
だ さい 。 〔29−2〕 自他平等の理 念 南 方 に は羊 毛や理 知が ある の に、 信 じる こ と な く、 墓地 xxx ・ を据 え た場 所 は、 すべ て除 か れず
壊 れて危 険で あっ て、 い い か げん なこ とを行
なえず
悲 嘆に暮
れて い る とい わ れます
。 〔30〕王妃xxxvi た ち と他
の娘
た ちに 関 して は、貪
欲な る本質
を後々 まで欲 す る もの ですか ら、 心が惹 か れ るもの を過度
に行
なっ て はいけ
ませ ん。 私 とあ な た は 一緒であ っ utPatti の ような もの を 想 定 し た もの と考え られる。xxxiv 息子 :
Khri
−srong −lde
−btzan
に は4
人の子が あっ た。 第1
子Mu
−ne−btzan
− po は29
歳で母に よっ て弑さ れ た。 第2
子Mu
−khri
−btzan
−pQ は 幼 少の と きに亡くなっ た。 第
3
子Mu
−tig−btzan
−pQ は 政敵を 殺 し た た めに宮殿を 追 放 さ れ、のち復 帰する が暗殺さ れ た(
795
年)。 第4
子Khri
−lde
−sron −btzan
(Sad
−na−legs
)が王 と して即位 した。
xxxv 墓 地 :
NP
,bang
so .D
。bod
so .N
,
P
により改め る。xxxvi 王妃 :第
1
子 が 母に よっ て弑さ れた点か らも、 先祖の伝承を め ぐっ て 、Buddhaguhya
作 『チベ ッ ト王へ の師の書 簡』 につ い て (山本) て、 上 下 はない の です。〔 31〕信 頼 するこ と な く目的は果た しえ ませ ん 。食事
の準備
をす
る の に甘 美 な もの を給 仕 するこ と はあ りませ ん。 敬 意 を もっ て 向か っ て くる民に対 しては 公 平で あるこ とです
。 〔32〕他 者 を顧 みず
に他の 村 を屈 服 す れば自
らも進
む こ とが ない の です
。 〔32−2〕海
の徳王の 本
質
は海の水の 如 くであっ て 、 不具 な手
を四方
に広 げ
る こ とで 、 再び王の 本質
をその ま ま成 就 するの です。海
に よ り、あ
ら ゆ る仏 法
に より
六趣 を捨て な さい 。 不 具 な手
で 四方
を利益
して舎
利 を得
るの です
。 〔33〕光
明 が また再び集め ら れ る よう
に 、 潤 い が芽
を生 じ る よう
に、 広 く会 議 を興 す
の です。 水に よっ て果 実が熟
する よう
に、勝法
を成就
し、 P407a 海 が 不 動である ように不 動で あるべ きで す。 岡水
が柔軟
で ある よう
に 心を柔 軟 にすべ きで す。 海の深 さ が測 りが た い ように (心は)量 りえなDl37a い の で す。 大水が覆る こ と が ない よ
う
に政事
を行なう
べき
です。海
が すべ て に ゆ きわ た る よう
に手
を さ しだすの で す。 〔35〕水
を飲ん で満
足 す る よう
に他 を満足 せ し め るべ きです。 海が諸流 を集
め る よう
に仲 間 を集
め るの です
。水
が影
像 を映 しだす
よう
に明 瞭であるべき
です。〔36〕あ
たか も海
が こ の よう
な功徳
を持
っ てい るよう
に、 一人の 王の 身に具わ る よう
にな れば、 sPu −rgyal チベ ッ ト王 の 栄光
の系 譜 にお い て 、 全 人 民の主 と して任ぜ られ た とい わ れ ま しょう
。 〔37〕 結び 急い で出 した こ の 教 誠 を御 前に送 付い た します。 君主 ・国王 の暗 闇 の窓
と して ください 。非時
をつ ね に心に留
め て おく
よう
願い ます
。〔38〕N389b
諸大
臣宛
の書簡
政治
の開放
と経 済
の振興
諸大 臣宛
に送付
します
。心は ゆ っ た
り
として発言
を厳
しくす
れば大 臣
は理解
します
。 堕落
し た政治
を広 く開放 し、 人の肉声
を聞 き、商業
を大
き くして 固め れ ば、智山学報第六十二輯 すべ ては さ らに強 くな りま