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巻 頭 言 目 次 ページ 東 京 緑 庭 会 会 長 青 木 高 史 (S42 卒 ) 1 寄 稿 これも 縁 緑 丘 会 理 事 長 東 京 緑 庭 会 顧 問 齊 藤 愼 二 (S40 卒 ) 2 対 北 大 戦 無 勝 の 栄 誉 大 和 田 殖 夫 (S32 卒 ) 2 長 崎 は 今 日

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絵 尾 形 圭 介 画 伯 (昭 和 34 年 卒 ) 「 小 樽 風 景 」

字 松 浦 久 幸 氏 (昭 和 38 年 卒 )

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ページ 【巻 頭 言】 東京緑庭会 会長 青木 高史 (S42卒) 1 【寄 稿】 ・ これも縁 緑丘会 理事長 東京緑庭会 顧問 齊藤 愼二 (S40卒) 2 ・ 対北大戦“無勝”の栄誉 大和田 殖夫 (S32卒) 2 ・ 長崎は今日も晴れだった 田中 隆二 (S39卒) 3 ・ 長崎テニス旅行を終えて 高橋 悦雄 (S40卒) 6 ・ 緑丘会館だより 桶谷 喜三郎 (S41卒) 7 ・ アイヌと私の思い 大西 教文 (S41卒) 8 ・ 2009年の旅とテニス 梶原 啓光 (S44卒) 10 ・ テニスを愛し土と戯れる日々の中で 今井 央 (S45卒) 11 ・ テニス部同期全員集合 田中 隆二 (S39卒) 13 ・ 緑庭主力(46)会小樽遠征 小濱 正寿 (S46卒) 14 ・ おすすめの名画(洋画)4  Orfeu Negro(黒いオルフェ)  Niagara(ナイアガラ) 田中 隆二 (S39卒) 16 【対関東楡庭会戦】 東京緑庭会 幹事長 今井 央 (S45卒) 18 【題 字】 19 【表 紙 絵】 19 『編集後記』 会誌編集担当 髙橋 正明 (S46卒) 20 「小樽商科大学校歌」 21 「若人逍遥の歌」 22 ***** 目 次

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 小樽商科大学創立百周年に向かう重要な時期に齊藤さんが緑丘会の理事長に 就任されました。「励ます会」を催そうと庭球部のOBと昭和40年卒の方々が 発起人(発起人代表は田中隆二氏)となり、2009年6月1日 緑丘会館でパーティー を開催し、東京緑庭会会員・齊藤さんと同期の方々など31人が顔を揃えました。  齊藤さんが入学した昭和36年(1961年)は創立50周年、前庭(今は学生会館等 のある所)でパーティーがあり、湯川秀樹博士の講演を聞き、硬式庭球部に入り、 張り切っていたことと思います。  齊藤さんは「50年後に緑丘会の理事長として百周年を迎える事に運命的なも のを感じる。大学の生き残りをかけて活動したい。」又 「小樽が活性化すること が大学の発展とリンクする。」と話されました。  桶谷喜三郎さん(昭和41年卒)が緑丘会の事務局長、舟本秀男さん(同)がエバー グリーン講座の世話役としてご尽力されています。齊藤さん・桶谷さん・舟本さん、 どうかお元気でご活躍下さい。共にすばらしい百周年を迎えたいものです。 「齊藤愼二さんを励ます会」に昭和40年卒業の同期が勢ぞろい 左から高橋悦雄・髙木良浩・齊藤愼二・細貝勝徳・岡崎雄隆の各氏 2009年6月1日  緑丘会館にて *****

【 齊藤愼二さん 緑丘会理事長に就任 】

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巻 頭 言

東京緑庭会 会長 青木 高史(昭和 42 年卒) 斎藤会長の後を引き継ぎ昨年会長に就任して、早いものでもう一年経ちま した。そして東京緑庭会会報も第4 号の発行の運びとなりました、これもひ とえに事務局皆さんの協力の賜物と大変感謝しています。 会の発足当初はいろいろ議論があり、初代会長には大変ご苦労があったと 思いますが、幹事及び会員の皆さんのご協力もあり、お陰で会も軌道に乗り 順調に運営されてきています。 昨年度の行事については、既に事務局が大学の庭球部の部誌「緑庭」に寄 稿しましたので、ここでは省略しますが、会の行事以外でも会員の活動が幅 広く行われるようになり、まさにテニスを楽しみながら色々会員の交流の機 会ができることはこの会の求めるところで本当に素晴らしいことだと思って います。 現在私は毎日(平日のみ)クラブに通いテニスをしています。ここで出会 う仲間も様々ですが大変楽しく、やはりテニスを愛する人たちはどこに行っ ても気持ちに何か相通ずるものがあるような気がし、テニスを辞めずにこれ までやってきたことに自分なりに感謝しているところです。これからも年齢 による衰えは覚悟して頑張りますが、健康のためにも継続してゆきたいと思 っています。やはり継続は力なりでしょうか。 また、最近会への若手の加入と、改めてテニスを再開し始めた人でバラィ エティーに富んできました。年齢層も相当幅広くなりましたが、これからも 会を通じて健康に留意してテニスを楽しむ心で一緒にやりましょう。 最後になりますが、今後ともこの会の発展と維持のために会員皆様のご協 力をお願いします。そして毎年の最大のイベントである関東楡庭会との親善 試合に勝って、また大いに美酒を飲みたいものです。 以上

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寄 稿

< これも縁 > 緑丘会 理事長 東京緑庭会 顧問 齊藤 慎二(昭和 40 年卒) 緑丘会理事長就任にあたり、東京緑庭会の皆様からは心暖まる激励をいただき 又、折にふれ「ご苦労様」「頑張れ」などと声を掛けていただき有難うございます。 会社を退いてから好き勝手な生活をと思っていた私にとって、緑丘会への会合 出席が増えたこと、また、商大の行事などで小樽へ出掛ける機会が増えたことな ど生活の大きな変化となりました。小樽では、時間を作り、榎本さんと会ったり、 舟本、大西、大船、宮田、佐藤君とビールを飲んだり、庭球部の鈴木先生や現役 学生とも会いました。 東京では楽しいが少し悔しかった楡庭会戦にもこのところ毎年参加していま す。長崎での「約束 45年ぶりのラリー」というイベントもありました。やはり、 庭球部の先輩後輩とのつながりが心のベースにあると思います。 ところで、商大もいよいよ来年は創立百周年を迎えます。2011年を百周年 の記念年間にするとともに、2011年7月8-10日に記念式典、記念イベン トなどが開催されます。又、学生の多様性を進め、人格形成の場としての一助と して学生寮も建設されます。以上の趣旨のもと開始された緑丘会の記念募金は、 同窓生の創立百周年に寄せる母校愛に支えられ順調に推移しております。 緑丘会も会員のためはもとより、商大および学生のためにも活動を重ね、その 実力、団結力は誇るべきものがあります。それこそ「小なれどその輝光強し」です。 昨今の私たちを取り巻く社会は、グローバリゼーション、IT そして少子高齢 化など変化からくる軋みが大きくなっているような気がします。そのような環境 にあって、商大そして卒業生に対する社会からの評価がさらに高められるように、 桶谷事務局長と共に事業を推進していきたいと思います。 以上 <対北大戦“無勝”の栄誉> 大和田 殖夫(昭和 32 年卒) 長い硬式庭球部の間には、いろいろな変遷があった。 室谷・前田キャプテンの昭和 30 年ころの時代には、善戦しながらも対北大戦に は苦戦の連続であった。当時負けると選手一同集められて先輩から激しく喝をい れられ、口惜しくて涙をながしたものだ。そのような北大戦で私は一勝もできな かった。

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31 年の最後の対抗戦ではなんとかして一度だけは勝って卒業したかった。そ れまではナンバー6だったが、必死になって練習した。いよいよ試合が近づいた 数日前、キャプテンの喜多によばれて“試合のメンバー順を決めなきゃいけない が、おまえは格好だけはいいし 4 年次なのでナンバー2をやってくれ”と言われ た。ナンバー2をやれる実力ではなく敗戦必至だが、その編成ならばナンバー3 以下が相手の弱いのに当たれるという一寸いかがわしい作戦ではあったが、最後 に一勝と固く心に秘めていた私にとってはショックであった。しかしこの作戦に よってチーム力があがることは確かだった。 結果は、案の定わたしは負けてしまったが、チームとしても惨敗だった。 お陰で、対北大戦“無勝”のタイトルを生涯背負ってつらい思いをしている。 それから五十余年、今年はいよいよ後期高齢者いりだが、ギックリ腰を気にし ながらも近くのクラブで古参クラスとしてプレーしている。 最近、学生時代に北海道選手権をとった青木後輩が同じクラブにはいってくれ たので、北大戦のウップンをはらすべく、必死に挑戦している。 そのせいか、ギックリ腰発生の回数がふえてきたようには、思う。 平成22年 正月 <長崎は今日も晴れだった> 田中 隆二(昭和 39 年卒) 昭和39 年(1964 年)9 月、長崎大学経済学部庭球部の 4 年生 6 人が来樽し対戦 した。「緑庭」3号(1964 年号)のにこの出来事のことが載っている。平成 21 年(2009 年)10 月 16 日、答礼として、同大学のコートを訪問し対戦した。実に 45 年ぶり のラリーである。 平成20 年(2008 年)の 9 月頃、齊藤愼二さん(昭和 40 年卒、緑丘会理事長、前 東京緑庭会会長、前サッポロホールディングズ代表専務)より「サッポロビール の名物宣伝マンが亡くなったが、その弟さんが長崎大学の小樽遠征メンバーで、 当時シングルスで対戦した」という話を聞いた。 昭和39 年当時、長崎から小樽に来ることはどれほど大変なことだったか想像 がつくだろうか。特に青函連絡船に乗ったことのない世代の人にとっては。 「江戸の敵は長崎で」。ここはエドならぬエゾ、遠い。「はるばる来たぜ函館へ、 逆巻く波を乗り越えて」、北島三郎、“函館の女”。石川さゆりの名曲“津軽海峡 冬景色”。函館から青森に行くのと、青森から函館へ渡るのとでは雰囲気が違い ます。“蛍の光”のメロディーが青森港に流れたものだ。 私事ですが、神戸大学経営学科を受験した時は、青森から裏日本を「日本海」 という列車で大阪へ、そして姫路へ2 日かけて行った。寝台車にも乗らず。 貧乏な時代だった。まさに青春、ロマンだ。今彼等はどうしているのだろうか。

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平成21 年(2009 年)1 月 20 日、東京駅地下街の「海濱亭」で会うことになっ た。先方は4 人、こちらは当時のシングルスメンバー 齊藤(当時 4 年)・新主将 だった宮下佳廣・柿澤昌治(以上 当時 3 年)・青木高史(当時 2 年)の諸氏(当時 3 年だった水越啓蔵さんは病気療養中、また小柴弘乙さんは1 ヶ月前の 2008 年 12 月末に逝去)、加えてまだ在学してなかった早川好寛さん(東京緑庭会事務局長、 S44 卒)と私の計 10 人での会合となった。そして長崎へ行くこととなった。 実はハードルがたくさん存在していた。1 月 20 日に会うまでも一苦労、長崎 のメンバーは誰もテニスをやらず、OB 会組織もない、学生とのパイプもない、 長崎出身者もおらず、長崎はエトラーゼ。行って分ったのが、部員は 2 年生(女 性)が 2 人、1 年生が 3~4 人、コートは 3 面でアンツーカーもどきのフェイス。 私は昭和43 年頃、まさに経済大国になった頃から昭和 60 年頃にかけて延べ 30 回は長崎に行っている。お客さんを三菱重工業造船所・三菱電機へお連れし、活 魚料理とキャバレーでご接待、そして市内見物、良き時代の長崎を満喫したもの だ。内山田洋とクールファイブがキャバレーで「長崎は今日も雨だった」と未だ 地元で歌っていた。 初めは、私自身が直接庭球部・新聞社等にアプローチしたり、6 月には下見に長 崎に行ったりした。しかし、彼等同期の世話役の加茂正司さんを中心に昔日の友 情と結束がよみがえり、OB をさがし、具体化していった。 加茂さんは当時齊藤さんと対戦した人であるが、亡き兄上と親しかった齊藤さ んとのご縁を生かすことは、かわいがってくれた懐かしい兄への鎮魂歌であった であろう。テニスでは十数年ぶりにラケットを握り練習し、無事45 年ぶりとな る齊藤さんとの再戦を果たした。 45 年前唯一 1 勝をあげた内藤聰一郎さん(広島在住)はリーダーシップがあり、 皆の信頼が厚い。奥様・お嬢さんと吉祥寺へ訪ねてきてくれた。 「思いがけず小樽駅頭に歓迎ののぼりと横断幕を見た時は感激した」(内藤さん) 「歓待された借りを返していない気がする」(松島学さん) 若い頃思い切り青春を謳歌し、ロマンのある人は歳をとっても心豊かで若々しい ものだと思う。 当時 小樽へ行けなかった末永博美さん、そして熊野東男さん、藤井利昌さん、 蔵岡洋武さんを含む7 人が前日より長崎に集合、テレビクルー共々空港への出迎、 交歓テニス、稲佐山観光、懇親会、二次会、おみやげまで大変な歓迎をして下さ りました。 私にはやらなければならない大切なことがあった。訪問団のメンバーに長崎を 楽しんでもらうこと。その為に私なりのガイドブックを作り、スケジュールを立 てた。想定外のことが起きて、びっくりした。2 ヶ月前なのに予定された日には 長崎のホテルは満杯だった。後で分った事だが、インフルエンザ騒ぎで春の修学 旅行は皆秋になっていた事だった。たくさんの人にお世話になったし、色々な事 を知った。最初にコンタクトした同大学学生支援課の浜田さん、東條正 経済学 部長には小樽商大庭球部部長の鈴木将史先生からの親書と部誌「緑庭」を渡し懇 談した。東條先生は癒し系で女子学生にもてるとのことでしたが、私のことを「上

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司に持ちたくないタイプ」と辛口をおっしゃり、財前 長崎放送報道局長には「な ぜこの様なことに情熱を持てるのか」と問われた。 加賀 小樽市東京事務所長、能勢 全国楡庭会会長(長崎ローンテニスクラブ名 誉会員、赴任地長崎より国体壮年組出場)、ありがとうございました。長崎新聞 の記者さん、若くてきれいな方でしたけど小樽は札幌の西隣の市であることくら いは調べて来て欲しかった、でもありがとう。 小樽商大 OB で唯一長崎在住の谷口眞一さんはカステラのおみやげを持って きて下さった。昭和41 年卒の軟式テニス部、長崎西高出身で卒業してすぐ長崎 地元のゼネコンに就職、卒業以来同窓の人に会ったことなし。同期の柿澤さんは 参加できなかったからとみやげを送って下さった。 忘れてならないのは45 年前歓迎した中心の宮下さん。彼は森田健作(千葉県知 事)や“熱き血潮”の小林旭より青春派だった。皆々さまにはお世話になった。 齊藤さんには緑丘会理事長として同窓会どうしのつき合いという仕事もあっ た。同大学経済学部の100 周年はもう終わっていて、その時の同大学同窓会「瓊 林会」会長の福地茂雄さんはアサヒビール会長(現 NHK 会長、3 月退任表明)、 現同窓会長はテニス部OB の宮脇さんという方の由、因縁がある。 江川唯主将に、2011 年の夏に小樽でイベントを行う予定なので、祖父の様な 先輩のロマンを引き継いで小樽に来て欲しいとポケットマネーを提供した。 小樽市・長崎市、あるいは大学にも共通の悩みがある。小樽市は人口減少率全 国700 余の市のうちワースト1、長崎県の転出者-転入者(2009 年)は、北海道 が12,000 人で一番であるが、福島・青森・長崎は 7,900~5,900 人、率からいえ ばワースト1か2。ちなみに東京の転入超過 56,000 人、神奈川・埼玉・千葉は 20,000 人。「坂と階段の街で高齢者には住みづらい」と訪問団は実感したと思う。 「長崎は雨」どころか、大会翌日の 10 月 17 日の予報は雨なのに晴れ。とに かくホットしたものだ。

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訪問団員(敬称略):齊藤愼二夫妻・青木高史夫妻・高橋悦雄(大阪在住、S40 卒)・ 梶原啓光(S44 卒)・今井央(S45 卒)・成田芳生(S49 卒)・田中 ** 関連記事・寄稿文等は次の通りです ** ・「緑丘」2010 年 2 月号(田中記) ・ブログ「商大くんがいく!」(2010 年 1 月 31 日付記事) http://d.hatena.ne.jp/shoudai-kun/ ・長崎放送 「報道センター 約束~45 年ぶりのラリー」 (2009 年 10 月 26 日放映) ・長崎新聞 「45 年ぶりテニス交流」(2009 年 10 月 20 日付) <長崎テニス旅行を終えて> 高橋 悦雄(昭和 40 年卒) 長崎大学のコートに入った時と宴会場と二次会会場の「裏町人生」の入口に「歓 迎 小樽商大庭球部OB 様」があったのを見たとき「東京緑庭会誌」の加茂さん の文章にあった、小樽駅での「歓迎 長崎大学庭球部」の「のぼり」のくだりを 思い出しました。長崎大学遠征部員とそれを作った小樽商大メンバーの青春。胸 にグッとくるものがありました。こんなテニスは他に聞いたことなく貴重であり、 又知識を深めた長崎に愛着を覚えた旅行でした。 当時 私はレギュラーではなかったので、コートで長崎メンバーを迎えた記憶 はありますが、試合を見たり、もちろん出たりはせず、又のぼりをもって駅で出 迎えたことも知りませんでした。ただ当時の部の雰囲気は確かにそんな青春とロ マンにあふれていたと懐かしく思い出します。41 年卒のメンバーも今回参加で きれば良かったのになあと思いました。今回いたるところで「歓迎 小樽商大 OB 様」の幕がみられたことは長崎メンバーの小樽駅での「のぼり」への感激へ の回想であったと思っています。 帰阪後、友人にその話をすると「いい話ですね」と喜んでくれましたが、私も 話しながら目頭が熱くなりました。 成田君の送ってくれたDVD を何回となく見ながら、いろいろな場面を満遍な く撮ってくれているので大変よく思い出せます。ただ成田君は忙しくて大変だっ たなあと感謝しております。 今回の旅行はただ見るのではなく、よく学べたという意味で良かったなあと思 い出しております。例えば大浦天主堂でも単に教会の写真を撮って終わるいつも の旅行と違って、隠れキリシタンの事が分ったり、中学の社会の知識を深めたり。 ただテニスはいいプレーができず、パートナーの梶原さんに迷惑をかけた事が 少し残念です。思いがけず私達のペアが新聞の写真となっており、よい記念です。 カラオケでは45 年ぶり?に「霧子のタンゴ」を歌えたことを齊藤君に感謝して

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います。この歌は私がテニス部のコンパで初めて歌って唯一拍手喝采を受けた想 い出の歌でした。 本旅行の企画、実行にご尽力くださいました皆様に感謝申し上げます。 <緑丘会館だより> 桶谷 喜三郎(昭和 41 年卒) 緑丘会と緑庭の関わりのこの1年間を振り返ると、トピックスと言える出来事 が二つあります。一つは何と言っても齊藤愼二さんが、緑丘会の理事長に就任さ れた事でしょう。昭和40 年卒の理事長が誕生し、緑丘会は新たなステップに踏 み出したと内外から見られることとなった意義は極めて大きいと思います。 理事長になられてからの活躍振りや大学当局・緑丘会内部における評価につい ては、随所に登場することと思いますのでここでは割愛します。 二つ目は、緑丘会の行事と関わることであり、この成り行きは詳しく語り、緑 丘会がこんな業務をしているのだ、ということも併せてご理解頂ければ幸いです。 会報「緑丘」は、年2 回、2 月と 8 月に発行しています。本年 2 月発行の第 107 号は、田中隆二さん(昭 39 卒)が『長崎大学との 45 年ぶりのラリー』を 書かれています。会報の作成は、数名の会報委員が企画・編集・原稿依頼・校正 とその全てを交通費のみのボランテイアで精力的に行っています。 会報の発送は、これまで外部に発注したことは無く、その昔は事務所内だけで 行っていたそうですが、最近は旧寮出身者を中心として20数名が集まり、皆さ んでワイワイ言いながら行うようになりました。勿論交通費のみのボランテイア、 昼はカップうどんとおにぎりで済ますという徹底振りです。打上げだけはアルコ ールとおつまみがつきますが・・・。 何度も工夫して発送費の削減にも努めており、現在は“S 急便と郵便事業の連 携”という方式を取っています。これは、差出人の発送代行をS 急便が行うが、 受取人への配達は郵便局が行う、という方式であり、その分幾分の手間をかける 必要が生じます。先ず封筒に『差出人(差出発送代行)S 急便』のシールを貼り、 切手の位置に『ゆうメール』というシールを貼付します。「緑丘」の封入を終え たもの200部を一つの通い函に入れ、30数函、つまり6千冊余詰めるのに約 4時間掛かります。 S 急便は、これを集荷し仕分けして地域郵便局にバトンタッチする訳ですが、 この<集荷―仕分け>の工程が郵便事業ではコストが掛かるのでしょうが、超大 量の発送を行うという年間契約を郵便事業会社と締結するS急便は、緑丘会に対 しても5,000 通以上という条件ながら相当安い料金で引き受け、緑丘会が直接郵 便局に持ち込むのとでは、1通あたり何十円も料金が違ってきます。 今月17 日発送の107号からはシール部分を印刷済みとしましたので、さら に効率アップしますが、以前は緑丘会で郵便番号別に仕分けを行うというような 膨大な時間をかけた時期もあり、S急便と決めつけて封筒に印刷するに至ったの

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は大きな進展です。 さて、前置きが長くなりましたが、昨年の2月18日の「緑丘」105号の発 送日に、初めて髙橋正明さん(昭46 卒)にお手伝いに来て頂きました。「たかが テニスされどテニス」の前回号の原稿が縁となって髙橋さんにお願いできること となった次第です。 この日16時頃、会報発送が全て終了し、皆さんがいくつかのグループに分か れて打上げとなり、一杯飲みながら小樽の街の話や下宿、アルバイトなどなど 夫々の学生時代の話に花が咲いている時でした。突然グループの輪が解けて、 “先生、お久しぶりでした!大変ご無沙汰をいたしました”と髙橋さんが大声を 上げて、ある先輩の前で身体を折っていました。聞けば、先輩は松浦英雄さん(昭 38 卒)で、髙橋さんの中学時代の家庭教師だった方でした。松浦さんは語学の 天才のような方だそうですが、その薫陶を受けた髙橋さんにとっては、正に大先 生、しかも卒業以来40 数年ぶりの邂逅となった次第で、周りがいったい何事か、 と驚くに十分な出来事でした。その後この日は、この話題でもちきりとなり、皆 が二人を取り囲み、さらにさらに全体が大いに盛り上がった一日となりました。 緑丘会内部で今も語り草となっている“師弟の40 年ぶりの出会い”です。 さて、今年の緑丘会館はどんな出会いが、またどんな興味深いことが起こるの でしょうか、とても楽しみにしています。 皆さん、時々緑丘会館に遊びにいらして下さい!皆さんも懐かしい時空へのタ イムスリップを味わうことができるかも! ご利用をお待ちしています。 <アイヌと私の思い> 大西 教文(昭和 41 年卒) 旭川の商業高校の教師(商業科)を勤め上げ、退職してからもう七年になる。同 じ職場で、一人のアイヌの女性(旭川市の業務吏員)と出会う。彼女はアイヌであ ることを特に意識して来なかったが、ある時から母なる言葉(アイヌ語)を知りた いと猛勉強を始め、丁度その頃私も彼女からアイヌ語を教えて貰う。一緒に萱野 茂さんのラジオ講座を聞いたり、アイヌ語教室に通う。彼女は仕事を続けながら 通信制の大学を卒業し、学芸員の資格を取り、現在は旭川博物館の学芸員として 勤務している。 彼女からアイヌ語の素晴らしさ、アイヌ語教室の多くのアイヌの人たちからは、 自然と共生する生活の知恵や工夫を教えていただいた。それを機会に、アイヌの 人たちの文化、歴史について独学で勉強してきた。 この中で、私がこれまで抱いてきたアイヌの人たちに対するイメージが変わる。 「アイヌは、野蛮で劣った人たち」という謂われなき偏見と差別の中で、長い苦 難の歴史をたどってきた人たちであること、そして実は、高い精神文化を持ち、 自然としっかり共生して生活してきた人たちであること、そして現在もアイヌと

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してのアイデンティティをしっかり持ってアイヌ文化を継承している人たちが いることなどを知り、現在は一人でも多くの人たちにアイヌの人たちの文化や歴 史を正しく理解してもらいたいと考えている。 21 世紀は、多文化(他民族)時代といわれている。昨年は、アイヌの人たちを先 住民族として国は認知した。アイヌの人たちの問題を民族問題と考えると、北海 道という一つの地域の問題ではなく国政レベルの問題であり、我々は国民の一人 として無関心ではいられないと思う。 このような思いで、アイヌに関わる文章を投稿させていただいた。 ◎ アイヌの人たちの信仰観(神に対する考え方・日常生活・衣食住に関わる): アイヌ(人間)という言葉の対になっている言葉としてカムイ(神)がある。この 世の中の全ての物は「魂・霊」を宿していて、ある使命を持って姿、かたちを変 えて「神の国」から「人間の国」に舞い降りてきたものである。その使命を全う したら、また「神の国」に帰っていく。 ◎ 「カムイ」と考えられるもの: 人間が素手で立ち向かえないもの(大型の動物や伝染病、雷など)や人間の生活 になくてはならないもの(火、水、家、船など)を総じてカムイと考える。人間が 作ったもの(生活必需品など)や生活にあまり必要とされない植物などは、普通カ ムイとは意識しない。 アイヌは「神は人間の敬虔な態度と心に必ず願いを聞いてくれる」と信じてい る。もし、聞いてくれなければ、厳しい抗議の言葉で神をこき下ろす。それを火 の神が神の国に伝えて、裁きは神々にお任せする。裁きの結果は、一般的には、 夢(ウェンタラップ)にあらわれる。逆に、人間がきちんとした返礼をしなければ、 神はそれに対して相応の報復処置をとることになる。 人間の丁重な返礼に神は大喜びで、捧げられた供物を持って神の国に戻る。供 物は神の国では何倍にも増えて、他の神々をよんで宴会が行われる。人間から尊 敬されている証となり、神々の中の地位も高くなる。 神と人間の関係は、「神あっての人間」、「人間あっての神」と言える。 = イ・オマン・テ(熊の霊送り)= イ:それ(熊) オマン:行く テ:~させる 「熊を神の国に送りとどける」という意味になる。 和人がアイヌは野蛮だという一つに、熊を殺して盛大にお祭りをする「熊祭り」 がある。このイオマンテのことである。しかし、アイヌの宗教観からすると次の ようになる。 「神の国」の神が熊の毛皮と肉を背負って「人間の国」に降りてくる。アイヌは 神からの贈り物として有難く熊を射て、毛皮と肉をいただく。そしてアイヌは感

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謝の気持ちとまた来てくれる願いを込めて、丁重な儀式と沢山の供物を持たせて 「神の国」に送り帰すことと言える。 人間が作ったものは神ではないが、たとへ不要になってもただ捨てるのではなく、 自分たちの生活に大いに役立ったと感謝の気持ちをあらわす。イワクテ(もの送 り)を行うこともある。 以下 次号 <2009年の旅とテニス> 梶原 啓光(昭和 44 年卒) 旅というテーマを与えられて、改めて2009 年を振り返ると、よく旅を楽しん でテニスに纒わる旅も多かった年であった。最近は会社もワーク&ライフ バラ ンスを提唱しており、休暇取得を推奨する環境となったことが推進力となってい る。テニスについては、年初から週1 回のテニススクールに通い出し、体力と技 術の再構築に取り組んでおり、積極的に機会をとらえてテニスをするように心掛 けたこともある。 それではどのような旅をしたのか近場の小旅行を除いて 8 月以降の思い出に 残る旅行を簡潔に綴ってみたい。 最初に業務上の旅として、4 月に 26 年振りのモスクワ、8 月には最初の訪問 となる中央アジアのタシケントとサマルカンド、サイパンとグアムを訪れた。元 ソ連時代と異なり脱共産主義化して豊かになったモスクワに驚き、シルクロード の要地で過って蒙古軍に全滅させられたサマルカンドで西洋と東洋文明の融和 を確認し、仕事をする地ではないサイパンではバンザイクリフで戦争の悲劇を思 い知らされた。 プライベートの旅は、年初から2 回の帰省に続いて、9 月 12 日に開催された 卒業40 周年記念同期会への出席の為に小樽に帰省してから本格化した。同期会 には総勢約60 名が集まったが、庭球部同期生は 6 名が参加(江川、早川、岡村、 佐藤則、今井章、梶原)して全体の 1 割を占めた。同期の今井章さんが、この機会 をとらえて 2005 年に惨敗した榎本先輩に再戦を挑み勝利しようと企画して、9 月 11~12 日、1 年下の今井央さんも含めて、商大コートでテニスをした。怪我 もなく天気にも恵まれて両日6 時間超のテニスを楽しんだが、肝腎な榎本先輩と の対戦結果は残念ながら次回の雪辱に持ち越した。 10 月 2~3 日は、小浜さんが幹事役となり、名古屋から相原先生(元庭球部長) を迎えて、髙橋正さんと共に群馬県伊香保温泉にある堀越屋七兵衛旅館で過ごし た。戦時中に学徒労働奉仕をした際に逗留していた旅館を訪ねてみたいという相 原先生の願いを叶うべく、地元の小浜さんがアレンジしてくれたもの。昭和 50 年代の半ばに、相原先生ご夫妻に結婚式の媒酌人を引き受けて貰った3 名が集ま って、2008 年早春に他界された奥様を思い出しながら一夜昔話に花を咲かした。 我々が生まれる前の時代であり、旅館も名称は同じだが営業地は異なる所に移転

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しており、当時を知る人は誰もおらず歴史の風化を感じたが、変わっていない良 質の温泉とお酒を満悦できた。 10 月 16~17 日は田中隆二先輩のお誘いを受けて長崎を訪れた。田中隆二さん、 齊藤愼二さんご夫妻、高橋悦雄さん、青木高史さんご夫妻、今井央さん、成田さ んと梶原の総勢 9 名の参加であり、地元のメディアにも「45 年ぶりのテニス交 流」と大きく取り上げられた。この旅の詳細は田中さんをはじめ他のメンバーの 方々も寄稿されると思うので詳細は譲ることにしますが、田中さんの情熱ある素 晴らしいアレンジ、長崎大学庭球部の昭和40 卒 OB と現役学生の方々の暖かい 熱烈歓迎のお陰もあり、長く思い出に残るイベントとなった。これ迄に九州に一 泊もしたことがなく、又長崎にも行ったことがなかったので、長らく中国ビジネ スに携わった身としては、歴史的に中国との窓口であった長崎を一度見てみたい との思いが今回の参加を促した動機であったが、長崎はテニスの発祥の地である こともグラバー邸で知ることが出来た。 同じく九州への旅として、11 月 21~23 日は庭球部同期と鹿児島・宮崎を訪れ た。参加者は9 月に小樽でテニスをしたメンバーと同じだが、佐藤則さんを除き 夫人も同行した。今年は江川さんが幹事で昨年の台北と同じ総勢11 名の旅であ ったが、2004 年の上海からスタートして海外 3 回(上海、釜山、台北)、国内 3 回(小樽、秋田、鹿児島)と積み重ねてきたこともあり、夫人共々和気藹々で楽し い集まりになっている。写真撮影と旅行記執筆は岡村さん、ビデオ撮影は梶原と 分担も固まり毎年旅の記録を残している。 最期を締め括って12 月のクリスマスは休暇をとり家族と一緒にソウルで過ご した。ソウルは2 度目の訪問であったが、今回はツアーではなく家具付きホテル に泊まったこともあり、市場での買い物、地下鉄の活用等により現地に溶け込む 滞在となり、家族サービスに努めた。 2009 年は特に下半期、テニス、旅行と週末が忙しい状況となり、リラックス しながら見聞を広めたり、旧交を温めたりして過ごしたことになる。 来年も近い将来のサンデー毎日に備えて、健康的に生活を楽しむベースとしてテ ニスと旅を続けて行きたい。 <テニスを愛し土と戯れる日々の中で> 今井 央(昭和 45 年卒) 20 年前から目標としていた「60 歳定年からの自由な生活」を 2 年前に手に入れ ることができ、快適で忙しい日々を楽しんでいるこの頃です。新しい生活では、 45 年間続けている「テニス」と 10 年前からの「野菜作り」に新しく始めた「陶芸」 を加えた実践趣味3 本柱が中心です。 実は、この目標のため10 年前に自宅隣の宅地を借り、素人野菜作りを始めま した。三度の飯よりテニス好きで会社勤めの私にとって、土曜と日曜はとても貴 重な時間ですが、一大決心をしてその時間の半分をテニスから野良仕事のために

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削り、まず宅地を畑に変身させるための開墾を始めました。固い地面にスコップ を突き立てると、石ころ、空き缶、ビニール等がこれでもかと、次から次へと途 切れなく姿を現す始末で、畑らしき土地に変身するまで何と半年も掛かってしま いました。 野菜作りが未経験だった私は、近所で農業をしているおばあさんから畝作りや 種まきの方法、苗の育て方等を教えてもらい、同時に野菜作りの本を1 冊だけ買 って猛勉強しました。「半年の開墾」、「おばあさん先生」そして「1 冊の野菜作り 教科書」のおかげと汗水垂らした農作業の結果、なんと種から出た芽はグングン 大きくなり、あちこちで実が着きました。初めての年、無農薬で採りたてのトマ トやキュウリを洗わずにそのまま畑でかぶりついた時の感触は今でも覚えてい ます。 それからは毎朝、畑の野菜の生長振りを眺めてから出勤し、休日の午前中には テニスを、午後は野良仕事を楽しみ、有給休暇の大半を旅行でなく農繁期のため に消費する程になってしまいました。毎日野菜の生長を観察していると、養分が 足りているかどうか、健康か病気か、付着している虫が益虫か害虫か等が少しず つ判るようになります。時々女房にお供して行くスーパーの野菜売り場では、自 作の出来栄えと比べて一喜一憂することもあります。 「土との戯れ」は年を追う毎にますます深みに入り、今では農園2 箇所で年から 年中、野菜作りと収穫に明け暮れ、農作状況や収穫結果、作付け計画をパソコン 管理していますが、失敗や気候による不作も後を絶ちません。 悪天候の日は野良仕事も中止せざるを得ないこともあり、室内で「土との戯れ」 をいつでもできるようにと始めたのが粘土いじり「陶芸」です。教室通いを始めて まだ2 年間の修行の身であり、自宅で使う程度の食器やコップ類しか作れません ので、このテーマの話はもっと上手になってから投稿したいと思います。 私が住む流山市にあるテニスクラブに通って26 年になります。クラブでは、 週2-3 日のテニスで汗を流す他、合宿、桜見、花火大会観賞、忘年会等も楽しん でいます。昨年から自宅の狭い庭で始めた初夏の「収穫祭」と晩秋の「芋煮会」では、 女房に面倒を掛けながらも、中高年テニス仲間と一緒に、自作の陶製ジョッキー や「ぐい呑み」で乾杯し、収穫した野菜を味わいながら、テニス談議に花を咲かせ ました。 今年も、家からコートまでの片道20 分、準備運動を兼ねてママチャリでひた すら走り、テニスではたっぷり汗をかき、渇いた喉をビールでたっぷり潤し、「野 良仕事」と「粘土いじり」では柔らかな手触りを感じながら土と戯れ、食卓では形 は良くないけれどとっても新鮮な野菜を味わい、健康にも気を使いながら、快適 で忙しい日々をエンジョイしま~す!

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<テニス部同期全員集合> 田中 隆二(昭和 39 年卒) 2009 年 11 月 4 日、ホテル ナビオス-横浜で卒業 45 周年同期会が行われた。 めずらしくテニス部同期の顔がそろったのでご紹介します。 まず女性は今野久子さん。会誌の創刊号に寄稿してもらいましたが、卒業式で は総代、貿易会社に勤めるも仕事はいわゆる女の子扱い、一念発起し司法試験の 勉強をして、小樽商大卒の初めての弁護士となる。男女雇用均等法の権威で、今 早稲田大学で教壇に立っている。 右端は山本和敬君、鹿児島ラサール出身、小樽で初めて雪を見る。雪道に苦労 する。ヨット部に入るも、5 月初めに祝津の海で転覆、文字通り縮み上がって退 部、私と一緒に1 年生の終わりの追い出しコンパより硬式庭球部員となる。ラサ ールはフランス語もやっていたので、1 年の時はしっかり単位を取っていた。受 験戦争の反動か遊び中心の学生生活であったが、マネージャーをやってくれた。 口ベタで就職の面接で落とされ、その都度大昌園というホルモン焼き屋で一皿 100 円の焼肉と 50 円のコップ酒を飲みながらつき合った。最後には北洋相互と 近畿日本ツーリストが初任給18,000 円のところ 500 円上乗せ(有名国立と早慶等 に適用)で来いとのこと。当時旅行社などは修学旅行の旗持ちとしての認識しか なく、この会社では親に申し訳ないと言う。相互銀行とはいえ金融だからこちら に行くと主張した。私は絶対近ツリに行けと強引に勧めた。日本人は金持ちにな り、円高になり、海外旅行ブーム。一時は文系学生の人気No.1 の会社にもなり、 彼は常務にまでになるが、一転整理の仕事ばかりで後年は苦労した。一つの会社、 業種の好調期間はせいぜい長くて25 年と言われるが、その典型かと思う。 左端のハンサムボーイは工藤達朗君。これも名門-都立西高出身。当時は日比 谷高校と東大合格数が百数十名でトップ争いをしていた。(ちなみに5~6 年前に

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は日比谷が 2~3 名、西が 10 名くらいになり、東京都はこれに国立高校等を加 え強化策を取り、今は20 名くらいになった。)軟式テニスの経験があって、1 年 の初めから入部するも、練習ぎらい、勉強も同様。旅行社に入るも数年で辞め、 海外の大きな建設現場で英語力を活かして働いた。一時フランスの外人部隊に入 り、アフリカにいるとの噂が立つ。私は彼の結婚式の立会人としてパーティーの 司会をした。彼の奥さんの世話で見合いしたのが今のカミさんである。昨年、緑 丘会館に現れ、桶谷さんに会い、住所が分る。卒業50 周年にはもう生きていな いから出て来いとタイからひっぱり出した。齢をとったので故国が懐かしいと言 う。いくら楽天家とはいえ、さびしさがジンと伝わって来る。 昭和39 年卒はテニスは勿論、優の数などどの学年にも敵わないが、遊び好き の名門高校出身者ということなのか、存在感のあるメンバーだったと思っている。 <緑庭主力(46)会小樽遠征> 小濱 正寿(昭和 46 年卒) 2009 年 7 月 31 日~8 月 1 日、昭和 46 年卒業後 38 年ぶりに緑丘コートでの 同期会‐緑庭主力(46)会が実現しました。一人参加の児玉君(京都在住‐昭和 45 年短大卒)、夫婦参加の中村君(青森県十和田)、佐藤君(岩手県一関)、蓮尾 君(神奈川県平塚)、石井君(横浜)、髙橋君(横浜)、小濱(群馬県前橋)と総 勢 13 名の大所帯となりました。私は児玉君とは 39 年ぶりの再会でした。同期 は他に宮本君、桝谷君、山崎君、岡部君がいて、現状確認OK の状況にあります。 実は、緑庭主力会旅行は今回が2 回目で、1 回目が卒業 30 年の記念イベント として2001 年 6 月に中村君の経営する十和田グリーンテニスクラブに集合して 行われました。還暦も過ぎ、時間の余裕のある髙橋君と私が幹事になり、仕事を している方々も多いことから、土日をからめた日程で今回の大旅行が挙行されま した。 我々のルールは現地集合、現地解散です。それと、カミサン孝行です。小樽遠 征の企画を立てるに当たり、何度東京で飲み会をしたことか。カミサン達が初顔 会わせでは緊張するだろうと気遣うオトウサン達は 3 月に顔見世と称して銀座 の超有名フランス料理店に夫婦で集いました。こうして、事前の準備も万端に小 樽遠征は2009 年 7 月 31 日夕方 5 時オーセントホテル小樽集合、政寿司での大 宴会でスタートしました。榎本先輩(昭和37 年卒)、佐藤則之先輩(昭和 44 年 卒)にもご参加いただきました。孝ちゃん(佐藤)の詩吟「雨ニモ負ケズ」は最 高でした。大いに盛り上がったところで蓮尾君のエールと若人逍遥の歌の大合唱 でめでたくお開きとなりました。 2 日目が本番のテニス。私は卒業後商大テニスコートに行くのは、昭和 53 年 (1978 年)7 月 22 日の全国OB会に参加して以来でしたので、斉藤進監督記念 碑をこの目で確かめ、学生時代の様々な苦労や体験を思い出し、懐かしさと感動 で体が一瞬震えました。

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2009 年の北海道の夏は天候不順で雨の日が多く、31 日も曇りでした。ところ が、8 月 1 日だけは、快晴で、軽井沢の爽快さでした。これも日ごろの行いが良 いためか。榎本先輩、佐藤先輩を加えた総勢8 名で、最初は 2 面のコートを借り ましたが、体力がついていけず、すぐ1 面での試合となりました。前日の酒と旅 の疲れもあり、多少不満足な体調でしたが、学生時代にタイムスリップできまし た。当時のクレーコートはオムニに変わっていましたが北海道の空気とコート周 辺の匂いは昔と変わっていませんでした。私は、榎本・佐藤(則)先輩組に蓮尾 君と組んで3-6で負け、2 回目は榎本先輩と組んで佐藤先輩・蓮尾君組に5- 5で打ち止め、引き分けでした。次回決着できる日を楽しみにしています。この 日は北海道緑庭会も同時に行われていて、室谷大先輩、鈴木部長にもお会いでき ました。緑庭主力会は午後3 時までコートを利用させていただき、全員が4ゲー ムをこなし、怪我もなく、疲労感たっぷりでした。学生の後輩の皆さんにはコー トの借用や日程調整等、大変お世話になりました。お礼として、ちゃんと寄付も しておきましたので、先輩はご安心を。 プレー観戦のみで午前中に帰った石井君夫婦、お孫さん達が迎えに来て一緒に 札幌に向かった中村君夫婦を除き、プレーの後、「下山祝い」と言う事でサンコ ーに行き、サッポロ生ビールで乾杯し、また良い気持ちになって、ようやく、お 開きとなりました。これ以後は小樽遠征第2部で各自、夫婦二人旅を堪能しまし た。 私は今回の緑庭主力会遠征で小樽が急接近になりました。そして、2010 年の 年頭目標の一つに、再度小樽で榎本先輩、佐藤先輩と一戦交えることを誓いまし た。今の週3 回テニスを続け、年齢的に膝、腰がガタついていますが、ストレッ チとマッサージで筋力アップし、テニスへのモチベーションを維持したいと考え ています。継続は力なり。 了

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<おすすめの名画(洋画)4 Orfeu Negro - 黒いオルフェ - 昭和 34 年(1959 年) Niagara - ナイアガラ - 昭和 29 年(1954 年) > 田中 隆二(昭和 39 年卒) この二つの映画は話の筋なんかはどうでも良いのです。 【 黒いオルフェ 】 この作品はマルセル・カミュ監督のフランス・ブラジル・イタリアの合作映画。 1959 年公開、同年度の第 12 回カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞。同年、第 32 回アカデミー賞、外国語映画賞を受賞。 石原慎太郎知事は二回目の東京オリンピックの誘致を企てました。ところが東 京都民は盛り上がらない。多分どうせ東京にならない。ではどこか、リオ.デ. ジャネイロだと思っていた人はこの映画を観た事のあるのではないか。貧しい 人々が一年間お金を貯め、3 日間のカーニバルに集まり、踊り狂うために使う。 サンバ・サンバ・サンバ、カーニバル、オッパイ・お尻がブルンブルン、天ま で届け。盆踊り大会が○○カーニバルとなり、盛況となったヨサコイソーラン祭 りも原点はこの映画だと思う。そして三つの美しい主題歌。 ミュージカルの新しい型の代表「ウェストサイド物語」とアラン.ドロンの「太 陽がいっぱい」と共に私の大学生活に彩りを添えてくれた。 【 ナイアガラ 】 “おたるワイン”は評判が良いですね。ちょっと青臭いブドウが余市・塩谷で 採れるナイアガラ種。もちろん映画の題名は米国・カナダ国境の大瀑布のこと。 この映画に主演した女優は後にも先にももう出ない存在。 それが、Marilyn Monroe. 米国民主党は彼等の牙城と言われていたマサチューセッツ州の上院補欠選挙 で共和党に敗れ打撃を受けたと聞く。エドワード.ケネディ議員の死去による補 選でした。 故ケネディ大統領とタイガー.ウッズは同じ病気持ちと言われます。それは性 依存症といい、マジに治療を受けるらしい。 彼女はホワイトハウスに出入りし、ケネディ大統領との関係が取りざたされ、 始末されたという説さえある。 まっ赤なタイトスカートでお尻をふって歩くモンローウォーク。どんな年寄り でも男ならふり向いてしまう。尻・胸・脚・髪・唇、ハスキーな声、まさにセッ クス.シンボルそのものです。アメリカ人は仰天、まして草食系の多い日本人に とってはショックだった。こんな女と結婚した亭主は気の休まる暇はなかろう。 里親12 ヶ所をたらい回しにされ、施設の中で育ち、8 歳で強姦されたという。 その育ちを想像するだけでもおぞましい。36 歳で逝ってしまったが、キリスト

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にも親鸞にも愛されるだろう。ムハンマドには疑問だが。 比べられない存在と言いましたが、その例をいくつかお伝えしたい。地下鉄の 排風でスカートが舞い上がるのを押さえるシーン(7 年目の浮気)。昭和 29 年 (1954 年)、ニューヨークヤンキースの 4 番のスーパースター、ジョー.ディマ ジオ(アメリカ大リーグ、1941 年に 56 試合連続安打を達成、この記録はいまだ 破られていない)と結婚し、新婚旅行で日本に来て、記者会見で質問に答えた。 “寝る時、何を着ていますか?”、“シャネルの5 番よ”。このコピーの広告価値、 比較できない。

There is a river called the River Of No Return.

Sometimes it’s peaceful, and sometimes wild and free. (帰らざる河) 野坂昭如氏は「マリリン.モンロー ノーリターン」と崇めた。 写 真 「7 年目の浮気」より 地下鉄の通気口の上に立った白いドレスの マリリン・モンロー。 電車が通過し、下から排風が。 舞い上がるスカート、押さえるマリリン。

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対関東楡庭会戦

<戦評等> 今年は関東楡庭会に惨敗 残り少ない紅葉の中、銀杏の黄色が鮮やかな晩秋の 11 月 28 日、東京昭和の 森テニスセンターの室内コートに於いて、関東在住の商大・北大それぞれのテニ ス部OBを中心に、今年も「東京緑庭会対関東楡庭会戦」が開催されました。 関東楡庭会では北大テニス部の現役部長である堀口敬さんが札幌から初参加、 東京緑庭会では今年卒業した超若手の仲田悠司君が初参加し、随所でスピードあ るプレーが展開されました。 試合は東京緑庭会が1勝の後、関東楡庭会の盛り返しに圧倒され、終わってみ れば1勝9敗という試合結果になりました。 公式戦に続いて両会プレーヤーは混合お好み戦を楽しみ、その後に催された懇 親会では、関東楡庭会の大勝とお互い1年振りの元気な再会を祝いながら何度も 乾杯し、数時間前の試合や数十年前の大学時代の試合を思い出しながらの談笑が 尽きないひとときを楽しみました。 東京緑庭会 幹事長 今井 央(昭和 45 年卒) <戦 績> 東京緑庭会 1-9◎ 関東楡庭会 NO.1 川口(S36)・斉藤(S40) 1-6◎ 園田(S33)・武内(S42) NO.2 西尾(S36)・岡村(S44) 2-6◎ 青戸(S37)・堀口(部長) NO.3 青木(S42)・今井(S45) 3-6◎ 安川(S42)・堀口(部長) NO.4 江川(S44)・梶原(S44) 2-6◎ 岡(S42) ・長友(S45) NO.5 早川(S44)・今井(S44) 2-6◎ 安達(S47)・高邑(S52) NO.6 小浜(S46)・成田(S49) 0-6◎ 長友(S45)・高屋敷(S46) NO.7 高橋(S46)・山崎(S49) 4-6◎ 川西(S50)・高邑(S52) NO.8 濱田(S48)・古川(S48) 5-6◎ 大野(S50)・久野(S57) NO.9 野村(S56)・松本(S56) 0-6◎ 高屋敷(S46)・安達(S47) NO.10 清野(S63)・北村(H19) ◎6-4 近藤(H19)・桑野(H19) NO.11 北村(H19)・仲田(H21) 途中中止 近藤(H19)・桑野(H19)

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題 字

味わいのある筆字の題字に皆様も親しみを覚えて頂けると思います。筆者の 松浦久幸さん(S38 卒)より近況をお知らせ頂きましたので、ご披露します。 『このところの寒さきびしく、縮こまっています。近況といっても変わりばえし ない毎日です。健康とボケ防止のため日課として継続していることは、 W-ウォーキング St-ストレッチ G-クラブ素振り Sy-書写(または音読)天声人語 I-囲碁 碁石をにぎる 皆さま ご自愛ください。 2010 年 2 月 』とのことでした。 何か毛筆で文字/言葉を書いて頂きたかったのですが、次号にご期待下さい。

表 紙 絵

今回の表紙絵「小樽風景」は尾形圭介画伯の作品です。尾形画伯は昭和11 年 (1936 年)山形県鶴岡市の生まれ、小樽商大 昭和 34 年卒業で、在学中から二紀 会展に入選され、現在 二紀会の審査委員を務めておられる会の重鎮です。 また、 大学の同窓会誌「緑丘」の表紙絵は長年 尾形画伯が担当しておられます。 現在、この絵は金榮昭夫氏が所蔵されていますが、お父上の故 酉吉氏(小樽高 商 大正 7 年卒、緑丘会の副理事長を務められた)が入手されたとのこと。同氏も 小樽商大 昭和 33 年卒業の OB で、田中さんが中・高・大学時代から金榮様ご一 家とは親しい関係で、また大変お世話になったとのこと。 金榮昭夫氏の言葉を引用させて頂くと『「小樽風景」は 1961 年作、油彩 F15 号(65 ㎝ X 53 ㎝)で約半世紀前の作でもあり現在とはやや画風は異なるが、大胆 な色使い、力感溢れた点はまさに現在の尾形圭介の世界に繋がっています。ただ、 緑丘会館にある母校を題材とした同氏の大作と同様、実際の風景を写生したと言 うより、恐らく緑町あたりをイメージしつつ起伏に富んだ街を描いたものと思わ れます』となります。 本会誌の表紙絵としての掲載にご快諾下されました、作者の尾形圭介画伯なら びに掲載用写真までご用意下さった所蔵者の金榮昭夫様に心より御礼申し上げ ます。 表紙の絵は頂いた写真をScanner を使って File に取り込み印刷したもので、 現物の味わいを十分表現できていないのではないかと心配です。

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編集後記

東京緑庭会の2009 年度(2009 年 1 月~2010 年 3 月)のトピックスは大学の庭 球部の部誌「緑庭」48 号(2010 年号)に「東京緑庭会だより」として掲載されて おりますのでご参照下さい。 今年度の特記すべき社会的出来事と言えばやはり2009 年 8 月の総選挙による 政権交代であろう。1955 年の結党以来続いていた自民党政権が 308 議席を獲得 した民主党によって取って代わられ、民主党 鳩山内閣が誕生した。この総選挙 の際に掲げたマニフェストがかなりの「大風呂敷」であったため、現在 鳩山内 閣は、景気低迷による財源不足もあって、これの実現に四苦八苦している。また 鳩山首相自身と小沢民主党幹事長の「政治と金」の問題がまたまた表面化し、お 二人とも苦しい弁明に終始している。景気は底を脱したと言われているが、デフ レはまだ続いており、二番底が来るのではないかという懸念は払拭されていない。 2010 年 2 月にバンクーバー・オリンピックが開催された。フィギュアスケー ト女子シングルでは19 歳の浅田真央選手が 1992 年のアルベールビル・オリン ピックで伊藤みどりさんがオリンピックで初めて成功させて以来のトリプルア クセル(3 回転半ジャンプ)を 3 度成功させたものの、韓国の同じく 19 歳の金姸 児(キム・ヨナ)選手には及ばず、銀メダルに終わった。 上述のような出来事を編集後記に掲載するのは筋違いだと思われる方も多い と思います。なぜ書くのか? 田中さんより「この会誌を何年/何十年後に読み 返した時、その頃/時代の事を思い出すための一助となるような社会的トピック スを入れておけ」とのアドバイスを頂き、「ナルホド」と感じ入った次第。 今回は「旅」をメインテーマにご寄稿を募りました。「人生は旅」などと言っ た教訓めいた文章が無かったのは良かったのか?悪かったのか? でも、読者の 方々ご自身の旅と比べたりして楽しくお読み頂ければ、それで結構だと思います。 今年は印刷所/製本所を替えました。緑丘会 桶谷事務局長に「緑丘」を印刷し ている会社を紹介して頂き作製しました。前号までのものより若干スッキリした のではないかと思います。 来年も会誌を発行したいと考えています。題材にはこだわりません。多くの 方々のご寄稿をお待ちしております。 ともかく、第4 号が出来ました。ご協力頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。 *金姸児さんの名前の“姸児”の“姸”という字は日本語では“ケン”と読み、 「美しい・なまめかしい」という意味を持ちます。“姸児”は韓国語で漢字ご とに発音するとYon‐A ですが liaison して Yona となります。英語にすると、 Beautiful Girl or Sexy Girl というところでしょうか。

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2010 年 3 月 髙橋 正明

小樽商科大学校歌

作詞 時雨 音羽 作曲 杉山 長谷夫 一、金鱗をどる渺々の あけぼの称 たと ふ波の唄 エルムの花に若人の 涯なきのぞみ数々秘めて 夢うるはしの 緑ヶ丘よ 二、夕陽映ゆる白樺の 梢を渡る風の唄 慈愛の山のふところに 銀翼みがき俊足秘めて 唄ほがらかの 緑ヶ丘よ 三、 蒼 穹 そうきゅう はてず道つきず はるかに仰ぐ北斗星 栄冠迎ふこの腕に 飛躍の力ひととき秘めて 花咲き匂ふ 緑ヶ丘よ 四、健腕拓く五大州 凱歌はあがる我母校 感激みてる若人の 血潮に清き教へを秘めて 春永遠の 緑ヶ丘よ

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若人逍遥の歌

作詞 高島 茂 作曲 宮内 泰 一、琅 玕 ろうかん 融 と くる緑丘の 春曙を逍遥 さ ま よ へば 浪漫の靄に街沈み 風悠久の言葉あり 瀾朶 ら ん だ の桜吹雪つつ あわただしくも逝く春の 伝統古き学舎に 展 ひら ける海の果てしなき 二、夏白樺に囁きて ハイネの詩を口 誦 くちづさ む みめ美はしきまなざしの またなきときの愛 いと ほしさ 断 崖 きりきし 落ちて波くだけ オタモイ遠く帆走れば 小樽の嶺々の夕あかね 冴ゆる北斗に 嘯 うそぶ きぬ 三、秋 䔥 しょう 条 じょう の思い濃き ポプラにかかる雲消えぬ 流転の行旅夢に似て 悩みの思惟を誰か知る 感傷笑ふことなかれ 桜ケ丘に 佇 たたず みて 泪滂沱 ぼ う だ と憂愁の 落葉の行方哲 さと ふかな 四、氷雪海に傾きて 月寒ければ 繙 ひもと かむ 海冥航路遠けれど 我に港の乙女あり 流星堕ちて影もなし ゆく青春の足音に 生命を惜しむ若人は 永劫の坏 つき 酌 く まんとす

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東 京 緑 庭 会 会 誌 「 た か が テ ニ ス さ れ ど テ ニ ス 」 第 4 号 ( 2010 年 号 ) 発 行 者 : 東 京 緑 庭 会 編 集 者 : 東 京 緑 庭 会 事 務 局 = 事 務 局 = 住 所 : 〒 101‐ 0051 東 京 都 千 代 田 区 神 田 神 保 町 1‐ 52‐ 12 神 田 耀 ビ ル 5F ス タ ジ オ パ ラ ム 内 東 京 緑 庭 会 事 務 局 FAX: 03‐ 3518‐ 2386 会 費 等 振 込 先 口 座 : 三 菱 東 京 UFJ 銀 行 神 保 町 支 店 普 通 2281793 東 京 緑 庭 会 事 務 局 長 早 川 好 寛 * * * * * 印 刷 所 : ヤ マ ノ 印 刷 株 式 会 社

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新 社 会 人 歓 迎 ビ ア パ ー テ ィ ー

2009 年 8 月 22 日

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