問題と目的 日本の地方社会とともにあったさまざまな民俗宗教 が、概して後継者問題を抱え存亡の瀬戸際にあるなか、 長崎県の一部に残るといわれるカクレキリシタン信仰に おいても、近年は既存の組織形態が崩壊する事態が相次 いでいる。それはしばしば「解散」と表現されるものの、 カクレキリシタンにかんする先行研究は、この「解散」 をまだ経験していない組織における信仰の実践形態を調 べたものに偏っており、「解散」が実際何を意味する出来 事であるかについては、深く論じられてきたとはいいが たい。 こうした背景をふまえ、本論では、カクレキリシタン の「解散」を捉えなおすことに主眼をおいている。すな わち、「解散」とはいかなる意味をもつ出来事であったの かを、詳細に描き出し、分析して導き出すことが、本論 の主題である。 そのうえで定めた目当てが、大きくふたつある。まず は、組織を「解散」したとされる人びとにおける、現在 のカクレキリシタン信仰の実態をとらえることである。 これは、「解散」以後における彼らの信仰にかんする報告 の少なさを考慮すると、調べあげることそのものに意義 があるといえる。またこれは、組織が崩壊した民俗宗教 における信仰形態の変化の事例ともなる。 そしてもうひとつの目当ては、現在おこなわれている 信仰の実態という分析材料をくわえた見地から、彼らの 「解散」を総合的に捉えなおすことである。これによっ て、たんに衰退と結びつけるのではない、「解散」につい ての新たな解釈を得ることが期待される。またこの過程 では、カクレキリシタン信仰そのものについても、「解散」 後のいまであるからこそ再考することで、新たな理解が 得られる可能性がある。 方法 以上の内容を論ずるにあたり対象としたのは、2003 年2月 23 日に「解散」したとされる、長崎県平戸市、 生月島の辻という地縁、血縁的なカクレキリシタン組織 であった。また分析のための支柱として、①「解散」後 である現在おこなわれている信仰にかかわる実践、②「解 散」へ至るまでの流れ、そして③「解散」以前におこな われていた信仰の伝統的な実践形態、という3つの柱を 想定し、それらを時系列に沿って提示した。ただし、内 容へ入る前に、本論における「カクレキリシタン」が、 「禁教が解かれて以後の日本において、禁教時代に由来 するキリシタン振興を継承する人びと」をさすことを明 記した。 第1章は「生月カクレキリシタンのあゆみ」として、 生月、またなかでも辻のカクレキリシタンが、「解散」ま でおこなっていた信仰の実践形態を、聞き取り調査や、 組織内に伝えられていた記録と文献から説明した。第1 節ではキリシタン略史を確認し、第2節で、調査地であ る生月島、そして辻の組織が属する元触という地区につ いて、統計情報などをもとに説明した。そして第3節で、 辻のカクレキリシタンの人びとが「解散」以前にいかな る実践をおこない、信仰を保ってきたのかをあきらかに した。項目でいうと、カクレキリシタンの聖地、組織構 造、信仰対象、年中行事と御誦とよばれる祈祷文、人生 儀礼に分け、とくに「解散」以後とかかわりが深いと思 われる箇所を重点的に、辻の伝統的なカクレキリシタン 信仰について概説した。 第2章では、人びとの語りや彼らの信仰組織における 記録、議事録などをもちいて、辻のカクレキリシタン組 織が解散へむかい、それを決定するところまでの流れを 追った。第1節では、近年における生月島の社会的な変 化として、昭和30 年代から 40 年代にかけての漁業と港 湾建設業の繁栄に着目し、それらに加わっていた人びと のあいだで、カクレキリシタン信仰がいかにして負担と 感じられるようになっていったかを、人びとの語りから あきらかにした。それから次節で、彼らがその負担とど う向き合ったかを、辻の組織における制度面の改革とし て議事録に表れたものから読み取り、「解散」への流れに
「解散」した信仰のゆくえ
――長崎県生月島 辻のカクレキリシタン組織を事例に
キーワード:カクレキリシタン,解散,組織,実践と信仰,継承 人間共生システム専攻 志垣 直哉厚みをもたせた。つづけて、祈祷文である御誦を編纂す ることによって、信仰行事を存続させようとした彼らの 試みを事例に、行事や組織の存続において必要となるも のについて考察した。最後に、「解散」を決定した当時の 議事録を参照し、何が「解散」の直接のきっかけとなり、 「解散」後のことについていかなる決定がなされたのか を確認した。 第3章では、「辻における現在のカクレキリシタン信 仰」として、行事への参加や人びとへの聞き取りによっ て得たデータをもとに、「解散」を経験した辻の人びとが 現在どのような実践において信仰とかかわっているのか を示した。第1節では、まず現在おこなわれている年中 行事について、2009 年から参加してきたなかで得たデー タにもとづいて概説し、例としてそのうちのひとつの行 事の流れを詳述した。第2節では、この現在おこなわれ ている年中行事にたいする、人びとのかかわりかたにつ いて、数人を選出して説明し、現在の垣内における行事 と組織の特色を指摘した。さらに次節では、現在人びと がおこなう、信仰にかかわる実践のなかでも、年中行事 以外の、おもに個人が自宅においておこなう儀礼につい て、彼らの語りをもとに把握した。 解散への流れと、その前後における信仰形態の変化を、 この3章において説明した。第4章ではこれをふまえて、 カクレキリシタンにおける「解散」という出来事を分析 し、その意味を総合的に捉えようと試みた。 結果 まず、「解散」当時における辻のカクレキリシタン組 織は、垣内とよばれる地縁、血縁にもとづく信徒のまと まりのなかに、オヤジ役を中心として行事をおこなうツ モト組織と、ツモト行事に出席する役中とよばれる人を 中心に儀礼を催す小組があった。とくにオヤジ役の自宅 であるツモトにおいておこなう年中行事の数は多く、そ の手順は、①御誦の唱えによる祈願、②神酒とサキイカ をそれぞれ届ける詞を唱えて飲食する直会、③さまざま な料理を飲食し談話する宴会、という3段階の流れをふ くんでいた。オヤジ役は、ツモトにおける行事の主催以 外に重要な役として、戻し方とよばれる葬送儀礼をおこ ない、いっぽうもうひとつの役職であるオジ役は、それ と対になる入信儀礼、お授けを施した。ただし「解散」 のころには、お授けはほとんどおこなわれなくなってい た。いずれの役も輪番制で、とくにオヤジ役は、御前様 とよばれる、辻のカクレキリシタンにとってのご神体で ある、掛け絵の宿主であった。 元触は農業集落であったが、出稼ぎの伝統はむかしか らあった。ただし昭和30 年代から 40 年代にかけて、生 月では漁業や港湾建設業が盛況になり、両者が手掛ける 現場が全国規模へ拡大するとともに、そこへ出稼ぎに出 ていた辻の人びとは、数多い年中行事へ参加するのが次 第に難しくなっていった。役中の人びとは、家族を代理 に立てることもやむを得ないとされたものの、役職者は そうはいかず、行事があるたびに、あるいは人が死亡し たり生まれたりするたびに、集落へ帰ってきては儀礼を おこなわなければならなかった。そういった役職者の負 担は垣内の人びとのあいだでも理解されており、これを 軽減し、彼らの信仰行事を後世まで存続させるために、 さまざまな制度改革がおこなわれた。なかには役職者の 負担を減らすためのものではなく、御誦の詞を編纂する などといった、新たな担い手を育成するための試みもあ ったが、編纂された冊子が登場しただけでは劇的な変化 をもたらさなかった。 こうした改革のうちに、親が役職を受け持った人は役 に就かなくてよい、という役職の免除制度がふくまれて いた。役の負担は本人のみならず家族を巻き込むもので あるため、せめて垣内全戸へ平等に負担が回ることを目 的としていたものだったが、「解散」の直接のきっかけは、 この制度によって、親子2代ともまだ役を持っていない という家がなくなってしまったことにあった。免除制度 の撤廃する提案もあったが受け入れられず、当時すでに オヤジ役を受け持つと決定していた人の任期いっぱいで、 辻垣内は「解散」すると決定した。 辻の「解散」にあたって問題となったのは、これまで 輪番で各家において祀ってきた、ご神体をはじめとする 祭具の行き先であった。当初は、カクレキリシタン資料 も展示している島内の博物館において管理してもらうよ う決まったが、その後、博物館におけるご神体の取り扱 いを不安に思う人や、少人数で行事をおこなうので堂を 建ててほしいといった声が出て、次第に堂を建てて祀る 方向へと全体の意見が移ってきた。そこでふたたび決を 採り、最終的にはオヤジ様の判断において、堂を建てて 管理し、自由参加による年3回の行事をおこなうことと 決定した。そうして2003 年2月 23 日、辻垣内は「解散」 した。 当初、「解散」後の行事へ参加する人は少数と見積も られていたが、実際に堂においてはじめての行事がおこ なわれると、予想を上回る大人数がやってきた。堂は数 人が入れるほどの大きさしかなかったため、とくに冬の 行事に際して、祈願、直会ののち小宴までおこなうには、 べつの建物を必要とした。そこで、辻垣内の堂のすぐそ ばにあった不動尊の礼拝堂が使われることになった。辻
垣内の長老は、生月大巡団体の大先達を務めており、礼 拝堂を管理していたため、それが可能となった。 現在の辻の垣内においては、元日の年始参詣、7月の 土用中様、12 月の日曜日の御誕生という、「解散」時に 定めた年3回の行事が、辻の堂においておこなわれてい る。その内容は、堂において参会者の男性を中心とした 御誦による祈願をし、神酒とサキイカで直会をおこない、 その後宴会に移るという、基本的に「解散」以前の儀礼 手順を踏襲したものとなっている。ただし、元旦は垣内 の人びとが忙しいということで、2008 年以降における年 始参詣の宴会部分は、年明け最初の日曜日に別席を設け るかたちで催されている。その具体的な日程については、 前年末の御誕生の席において、話し合って決めることが 通例となっているが、年明け最初の日曜日という基準は、 「解散」以前におこなっていた小組行事「初のドメーゴ」 と重なることから、この宴会についても同じ名称が用い られている。そのため現在おこなわれている年中行事は 4つあると見なすこともできる。また、この「解散」後 の初のドメーゴと、年末の御誕生における宴会部分は、 辻の堂のすぐそばにある不動明王の礼拝堂においておこ なわれる。いっぽう土用中様は、「解散」以前と同様にま ず祭具を虫干ししたのち、祈願、直会が済むと、堂の外 において宴席を設ける。「解散」した当初は、土用中様も 年始参詣や御誕生と同様、午前8時開始であったが、夏 場の暑い時期に屋外でおこなうため、現在では午後4時 からが通例となっている。このような試行錯誤によって、 現在の辻垣内の行事は、ただ消滅へむかうだけではない、 変化の可能性を秘めている。 行事は、「解散」前における最後のオヤジ役を務め、 堂の建設を決断した人物による指揮のもとでおこなわれ ている。それは、通常であれば、オヤジ役を務めたのち、 次代のオヤジ役の補佐である隠居オヤジ役に就くことが 定められていたためでもある。彼は「解散」の際、以後 10 年間にわたる堂の管理と行事の世話を務めることに なった。またとくに冬場の行事においては、不動明王の 堂を管理している人物も、前日に準備をおこなっている。 こうした、行事の世話をする人びとがいるいっぽうで、 「解散」にあたって信仰の締めくくりのために動いた、 最後から2番目のオヤジ役であった人物にとっては、「解 散」後の行事はたんなる寄り合いのようなものとしてし か映らない。 以上のような年中行事のほか、個人宅においておこな われる儀礼もまた、「解散」後の現在もなお継続している。 ツモトやオジ役がなくなったために、入信儀礼も葬送儀 礼ももはやかつてのようなかたちではおこなわれなくな ったが、死者の安寧を願うために「解散」以前からもち いられていたオマブリは、現在も同様のはたらきをして いる。また辻の人びとは、現在も毎朝晩、カクレキリシ タンの神にむけた茶や飯の届けをおこなっており、さら に、故人の月命日や年忌法要にあたっては、御誦を唱え ている。こういった自宅でおこなわれる儀礼の頻度や内 容は、朝晩の拝みが基本としつつも、人によりさまざま である。 考察 「解散」後の現在、辻の人びとがおこなっている行事 は、その数こそ減ったものの、基本的な儀礼の形式は「解 散」以前と変わらずたもたれており、そこに参加する垣 内の人は多い。また、役職の後任問題によって「解散」 したにもかかわらず、行事の世話をするための役職が残 されているだけでなく、新たに作られた役職と見なすこ とのできるものもある。こうしたことから、辻垣内にお いては、「解散」してなお、緩やかな組織を形成して行事 がおこなわれていると見なすことができる。 また、個人が自宅においておこなう拝みからは、カク レキリシタンである彼らが、「解散」後もなお自分たちの 神を信仰している、その精神性がうかがえる。彼らは、 朝は自身や家族がその日を平穏に過ごせることを願い、 晩の拝みでは、朝の願いどおり一日を無事に過ごせたこ とにたいする感謝を述べ、以後の加護についても願うと いう拝みを、毎日欠かさずおこなっている。すなわち、 「解散」してなお毎日続けられている、何事もなく日々 を過ごせることを願うこの拝みこそが、カクレキリシタ ン信仰の基底にあるものではないかと考えることができ る。またこの拝みからは、宮崎がカクレキリシタン信仰 の基層と捉えたタタリへの恐れ[宮崎 1996]よりも、金 児がタタリと並んで日本人の民俗宗教性をなすとみなし たオカゲ観念[金児 1997]のほうが、より強く意識され る。カクレキリシタンの神にたいする、日々の平穏を願 う拝みが継続しておこなわれるかぎりにおいて、カクレ キリシタン信仰は、「解散」してなお生きつづけると考え られる。 辻垣内においては現在、次世代への積極的な宗教的教 育はほとんどおこなわれておらず、むしろいまの担い手 たちは、その多くが自分たちの代を最後と見なしている。 しかしながら、「解散」以前におこなわれていた御誦の伝 承に際しては、テキストを一切参照することなく、ただ 毎日拝む戸主の姿を見ているだけで、唱えかたを覚えて しまった女性や子どももいた。それと同様に、信仰に篤 かった父が亡くなったのち、その娘によって家での拝み 余白 1.5cm
が継続されている事例や、毎晩食卓で拝む父を見て育ち、 将来の堂の管理を意識している若者がいること、あるい は、晩の拝みが忙しくてできないとき孫にその代わりを させると、自分が日ごろおこなうとおりにできていた、 という年長者の語りもある。こうした事実からは、現在 の担い手が毎日拝みをおこなうことによって、それを間 近で見ている下の世代においても、自然と信仰の土壌が 耕されることがあると考えることができる。カクレキリ シタン信仰とは、日々の加護をカクレキリシタンの神に 願い、毎日拝みをおこなう信仰であるが、上の世代がそ れを毎日実践してみせることで、この拝みも次世代へ受 け継がれていく可能性があるといえる。 以上が、カクレキリシタンの「解散」という出来事の 意味するところについて研究した、本論における結論で あった。ただし最後に、「おわりに」において、ひとつひ とつの儀礼における意味論、象徴論などにふみこんだ考 察によって、「解散」前後の行事の関連を考えることがで きなかったこと、他の信仰とカクレキリシタン信仰の関 係についても考察を深められなかったことなど、全体と して表面的な議論に終始してしまった点を反省し、今後 の研究における課題として添えた。 主要引用文献 生月町郷土誌編さん委員会 1997 『生月町史』 生月町教育委員会 2005 『生月町史 追録』 大畑博 1972 『生月旧キリシタン御誦詞』 私家版 1987 『生月里旧キリシタン―御誦詞と行事―』 私家 版 金児曉嗣 1997 『日本人の宗教性 オカゲとタタリの社会心理学』 新曜社 平戸市生月町博物館・島の館 2000 『生月島のかくれキリシタン』 平戸市生月振興 公社 宮崎賢太郎 1996 『カクレキリシタンの信仰世界』 東京大学出版 会 2000 『カクレキリシタン オラショ―魂の通奏低音』 長崎新聞社