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雑誌名 東北学院大学キリスト教研究所紀要

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(1)

K. バルトにおける「愛」(1)

著者 佐々木 勝彦

雑誌名 東北学院大学キリスト教研究所紀要

号 4

ページ 81‑111

発行年 1986‑03‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024387/

(2)

K.バルトにおける「愛」 (I)

佐々木勝彦

われわれの課題は, K.バルトにおける「愛」の構造を明らかにすることにあ る。本論文では, 「教会教義学j第2章第18節「神の子らの生活」,第15章第 68節「聖霊とキリスト教的愛」,第12章第54節「交わりの中での自由」を中心

に論じて悪たい。

I

バルトは第18節「神の子らの生活」の内容を次のように要約している。 「神 の啓示は, それが聖霊の働きの中で信じられ,認識されるところでは, 次のよ うな人間をつくり出す。つまりそれは,神をイエス・キリストの中でたずね求 めることなしにはもはや存在せず, また神がすでに彼らを見い出されたことを 証しすることなしには存在することができなL、人間である。」第18節ばl) 「み 言葉の行為者としての人間」, 2) 「神への愛」, 3) 「神の賛美」の三分節から構 成されている。 この第18節は.第2章「神の啓示」 (こればさらに「三位一体 の神」, 「言葉の受肉」, 「聖霊の注ぎ」の三部から成っている)の最後の部分で ある。 「聖霊の注ぎ」は第16節「神のための人間の自由」,第17節「宗教の揚 棄としての神の啓示」,第18節「神の子らの生活」の三節から構成されている。

バルトは. まず第1分節「蕊言葉の行為者としての人間」において,啓示を 受けている人間の研究が, 「和解されたものの心理学」')にならないように響告 している。「実在の啓示」をもたないキリスト教的人間は,必ず抽象的人間になっ てしまう。われわれは,具体的なキリスト教的人間を問題としなければならな

(3)

K.バルトにおける「愛」 (I)

い○それは,現実に啓示によって切りこまれた人間である。神の言葉を聞くこ とは, それが主の言葉であるがゆえに, 神の言葉に聞き従うことである。 この 点では ヤコブ(ヤコブの手紙l:21‑25)もパウロ2)も同じである。信仰はその 対象のゆえに, イエス.キリストのゆえに人間を義とする。行いばこの信仰の

「必然的注解」3)である。 ここに,神学的倫理あるいはキリスト教的生活が問題 となってくる。神学的倫理は, ただ,神の啓示の事実に対応してどのように人 間の生活を形成していったらよいのかを問う。 「神の子らの生活」4)は, この意 味での服従の命令を内容としている。行為の「キリスト教的」性格ば. 「外から」

すなわち神からやって来る。従って「神の子らの生活」は,存在および行為と して理解された人間生活の規定を問題とする。存在として魂られたキリスト教 的生活とは, 人間が神の啓示の中で全く規定された主体と本質として呼びかけ られることである。存在としてのキリスト教的生活は.啓示がなすよき業であ る。存在と行為は不可分離の関係にある。行為のない存在あるいば存在のない 行為がありえないように.一方は他方なしでばありえない。キリスト者は,義 とされた罪人であり,彼は第一に神をたずね求める者として, そして第二に彼 自身が救われていることを証しする者として,生きようとする。つまり神への 愛と神の賛美に生きようとする。キリスト教的生活の本質は, この神への愛と 神の賛美の中にある。バルトにとって教義学は,神の言葉についての反省的考 察であることをやめることなしに,倫理学でもある。教義学ば倫理学を自分の 中に取り上げており,従って特別な神学的倫理学は不必要なのである帥。

第2分節は「神への愛」である。愛ばキリスト者の生活の本質である。そし てこの愛はまず第一に神の愛である。われわれが愛すべきであるということだ けでなく,われわれが愛しうるということも,神が愛であることから生じてく る。われわれに対する神の愛ば.キリスト教的愛の実在根拠であるだけでなく.

キリスト教的愛の認識根拠でもある。愛が何であるかを知るには, まず, われ われにむけられた神の,唯一の, 無比なる愛を問わなければならない。 またわ

(4)

K.バルトにおける「愛」 (I)

れわれの愛する愛が何であるかを知るにば,われわれを愛し給う神の愛に応ず るわれわれの答えはどのようであるべきなのか, ということから始めなければ ならない。 ここには,愛とは同一性の感情および意識であるとか,愛とはわた しの外にあることである(ヘーケル) といった考えが入りこむ余地ばない。そ うでばなく,上と下, あらかじめの規定と自己規定,神と人間, という逆転不 可能な秩序が支配してし、る。われわれは. 何が愛であるかということを,既知 の概念から引き出そうとしてはならない。むしろわれわれは,三位一体の神の 啓示に目を向けなければならない。三位一体の神は御自身に論いて愛である。そ の神が,御子にあって御自身を犠牲として捧げてくださったのである(ヨ,、ネ 3.16)。従ってわれわれにできることば, イエス・キリストの御名を語り.宣 く伝えることだけである。神がわれわれを愛し給うということは,神がしなけ ればならないことではなく, またそれに対してわれわれが何らかの意味で要求 できるようなことでもない。神は.われわれを愛し給う以前にも,われわれを 愛し給うことなしにも,愛でい給う。それゆえ神の愛がわれわれの身に及ぶこ

と城,神の自由なあわれ 蕊であり, 自由な恩恵なのである。

バルトによればⅢ このわれわれを愛し給う神への応答について考える上で最 も大事な聖句は,マタイ22. 137以下,マルコ12:29以下,ルカ10: 27以下であ る。バルトはⅢ マルコ12:2931について次のような釈義を行っている。

(1) 「イスラエルよ 聞け」(12:29)。こればマルコにのぷ見られる申命記6:

4からの引用である。これは,愛の命令がイスラエルだけに, まことのイスラエ ルであるイエス・キリストの教会だけにむけられていること, そして誰がこの 民に, この教会に鴎しているかは,常に新しく決定されることを示している。何 人も,神の子供であることなしに聞くことはできなく, 同時にまた何人も, く

り返し聞くことなしに神の子供であることはできない。 この二つの条件が満た されるとき. 「汝は愛すべし(Dusollst lieben!)は,……汝は愛するであろう (Duwirst lieben!)を意味する。」6,愛することは,愛されたものたちつまり間

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K.パルトにおける「愛」 (I)

き従うイスラエルにとって, 自明で必然的な行為である。命令を聞くというこ とは,その命令の成就にむかって進んでゆくことである。この成就させる力は,

神が神の子のために味方してい給うという約束の中にある。神の子は,イエス・

キリストの中で命令を聞くことによって, それとともに神によって愛されてい ること確認することによって, 同時に愛するものとしての未来をつかむのであ る。

(2) 「主なるわたしたちの神は,ただひとりの主である」 (29節)。ただ愛す ることだけが,神の唯一無比性に対応することである。 この愛することは,神 の唯一性のゆえに「選ぶこと」を意味する。人間が愛そうとする以前に,つね に人間を愛してくださったお方を, 自分の主として選ぶことである。 この主な る神をこそ選び, 主たらしめること, これが神を愛することである。 しかもわ れわれの愛ば, イエス・キリストのうちにその起源と継続力をもって妬り,わ れわれは,神に対して何も持ち出すことができなL,。 もし何かを持ち出すなら ば, その愛は常にわれわれの恥であり,呪いである。

(3) 「汝は……すべし」 (Dusollst !)は, 「汝は……するであろう」 (Du wirSt!)を前提として含んでいる。福音に根ざす律法こそが本当の律法である。

神への愛は,それ以外の可能性が全く残されていない要求である。「汝は……す べし」は,不従順ということが明らかに不可能であることを指している。それ は「われわれが現に「ある」ところのもので「あるように」という要望」7)であ る。それは. あなたはあなたの現在に反抗しつつ, あなたの未来を避けようと したり,あなたの未来から逃れようとしたりすべきではない,あなたばさらに 生きるべきである, との至上命令である。

(4) 「主なるあなたの神を愛せよ。」これは,神が人間の愛の対象であること を語っている。神は御自身を信仰の中で人間に与え給う。それゆえに,神は人 間の愛の対象となり給う。愛されるものの対象性,愛されるものの他者性が存 在しないところには,愛は存在しない, 神のみが人間の創造者である。そして

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K.バルトにおける「愛」 (I)

それゆえに,神は人間に対し他者として立ち向かうことが可能になる。バルト は, さらにこの関連で, 自己愛の問題に言及している。マタイ7:12,ピリピ2:

12,第一テモテ4: 16などを根拠に,愛の対象に,神,隣人,そして自分自身を 考える人為 (例えば, テルトゥリアヌス, クリュソストモス, アウグスティヌ ス, トマス・アクィナス, キルケゴール)もいるが, それは過りである。たし かに自分自身を愛する人間がいる。 しかし,わざわざそのことをするようにと の命令は与えられていない。むしろ,神への愛と隣人への愛がはじまるところ で, 自己愛は止んでしまう。また,人間の自己認識をこの自己愛の理由とする こともできなL、。悔い改めの自己認識ば,われわれ自身についての決定的な報 知を,神の言葉であるキリストのうちに見い出すからである。

(5) 「愛する」とは,神によって愛された者として既にあるところのものにな ることである。愛するとは.神がわれわれのために責任をもち,保証してくだ さる中で, この神をわれわれの主として選ぶことである。愛するとは, この神 の命令に服従することである。従って愛するとは,われわれ自身の将来を肯定 すること,確認すること,つかむことである。 「神への愛ば,悔い改めの自己認 識の中で起ってくる。」8)神を愛する者は, 自分が愛する者としても,愛すると いう行為においても,神の御前にあって,正しくはなく、罪人であることを認 め,告白する。 この不従順な者のために,責任を取り,保証してくださるとい うことが,彼に対する神の愛である。神を愛することは,神をたずね求めるこ とである。そのお方は,われわれの唯一の存在可能性である。たずね求めると いう行為は,神がわれわれを「その愛する御子の支配下に移して下さった」 (コ ロサイ1:13)ことによって,可能となる。愛の命令は,われわれがくり返し神 をたずね求めることを命じており, しかもこの業ば無駄には終らない。神への 愛がその目標に到達するとき,つまり神を見し、出すとき,恵盈が人間に出会う。

恵皐は人間を高ぶらせない。恵象は,彼がただ恵みによって本当に生きること を欲しているのである。

(7)

Kバルトにおける「愛」 (1)

(6) 「心をつくし,精神をつくしⅢ思いをつくし, 力をつくして」とば 人 間の全体が要求されていることを語っている。人間の目に見えない部分と目に 見える部分を分割するといったことは, 問題となりえない。愛の義務を人間の 個々の側面や能力に限定することは,ゆるされない。人間の生の異なった時間,

状況,課題に従って分割することも,問題となりえない。いかなる分割, いか なる留保, いかなる例外も.排除されている。キリスト教的愛は人間の全体性 を要求する。神がL、かなる分割留保,例外もなしに愛されるとき,神はただ ひとりの主であり給うことが示される。 このようにただひとりの主であり給う という排他独占性にⅢわれわれのたずね求めることが対応している。われわれ ば,愛しつつ,神の完全性に参与することをゆるされている。神は,御自身と われわれの間に類似性をもつことを欲し給い, イエス・キリストのうちにそれ を既に造り出しておられる。全体性としての愛ば,恐れの念から服従するので はなく , 自発的に服従する。 この愛には限界がない。 「心をつくし.精神をつく

し, ….」 との命令にはⅢ一回限りの, しかもすべての事柄を動かす啓示と和 解が,反映されている。われわれの心は,聖霊によってこの啓示と和解へと開 かれる。 この啓示と和解がわれわれを愛へと呼び出す。従ってこの愛には終り がない。キリスト教的愛は, この啓示し和解する神への感謝である。感謝は,す べての自己賞賛と自己主張を閉め出す。神の愛が神への愛の「根拠」9)であり,

後者は前者に基礎づけられている。われわれば愛を. 信仰の中で,言葉と霊に よって規定された人間存在の中で.見,理解しなければならない。神への愛は,

神の愛に対する応答であり,神の御業の証しなのである。

第3分節(「神の賛美(DasLobGottes)」)は, 「自分を愛するようにあなた の隣り人を愛せよ」という第二の戒めの注解である。

前述のように, 「神への愛」が絶対性と排他性を含む命令であるとすれば,隣 人愛の命令は何を意味するのであろうか。二つの絶対的命令が独立して並んで いる, と考えることはできない。神は唯一の主だからである。あるいは, 神へ

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K・パルトにおける「愛」 (I)

の愛と隣人愛は結局同一である, とすることもできない。隣人愛の命令は, 「第 二の」命令として記されているからである。神への愛と隣人愛の同一性を主張 する立場は,それ自身において基礎づけられた人間性というものを前提として いる。しかし聖脅によれば, 人間それ自身は固有な価値をもっていない。人間 同士の交わりについても, 同じことが言える。隣人とはどういう存在であるか を,人間性や秩序の思想から定義することはできない。隣人は被造物としての 人間であり.隣人愛を神への愛と等置することはできない。また,二つの命令 を絶対的命令と相対的命令として関係づけることも.正しくない'。)。第二の命令 においてもわれわれは, 何らの留保,差別,緩和をすることなしに,服従する ことを求められているからである。バルトによれば,二つの命令の関連と相違 について正しく考えるには,われわれは, この命令の対象となっている神の子 らが二つの時間と世界に生きていることを知らなければならない。 「義とされ た」罪人であると同時に,義とされた「罪人」であることを知らなければなら ない。 「第一の命令ば,……イエス・キリストにある,完成された存在の中にあ る神の子供……にむかって語りかけている。第二の命令は, ……まだ完成され ない歩象と行為の中にある神の子供・…・ ・にむかって語りかけている。」'1)それ らは二つの絶対的命令ではなく , ひとりの絶対的な主の二つの命令である。わ れわれは,神の啓示の中で,この二重命令の単一性を間かなければならない。「神 への愛は隣人愛の実質的な根拠であり.解釈原理であり,他方隣人愛は,事実,

神への愛のしるしなのである。」'2)

でば以上のような前提に基づいて,隣人愛とは何を意味するのであろうか。バ ルトはこれを四つ分けて論じている。

(1) ここでも「汝憾・…・・すべし」は, 「汝は……であろう」 という約束を意 味する。それはわれわれの存在が, イエス・キリストにあって新しくされてい ることを前提としている。 「汝は.…・・すべし」は, 神の裁きと忍耐のもとでわれ われに許容された時間の中での,われわれの未来である。それは秩序として与

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K,<ルトにおける「愛」 (I)

えられている未来である。

(2) 「隣り人」は,われわれにとって「神の憐れz人 (diegOttliche Barmherzigkeit)の担い手および代表者」'3)である。バルトは,憐れ黙深いサマ リヤ人の話(ルカ10: 25‑37)の注解の中で14)D律法学者の問題点は次のことに あると見ている。つまり彼は, 「ただ」隣人のことだけを問拓うとしていること である。律法学者は,神とばだれのことですか.愛するとはどういうことです か,行うとはどういうことですか, とは問わなかった。彼は啓示を知らず,二 つの命令を正しく理解していない。「では,わたしの隣り人とはだれのことです か」とたずねた律法学者に, イエスは, 「三人のうち(つまり祭司, レビ人, サ マリヤ人のうち)だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」とたず ねた。 こうして助けを求めている, あわれな陽つけられた者でばなく , むしろ あわれではない,助けようとしているサマリヤ人が「隣り人」であることを指 摘した。律法学者は, 他の人に慰め,助け, そして福音をもたらす隣り人とな るように招かれている。 ところが彼は,助けなき状態にある自分自身(強盗の 手に落ち, どうすることもできずに道端に倒れている自分自身)を見ていない。

サマリヤ人をも見ていない。「あなたも行って│可じようにしなさい」との命令は,

イエス・キリストの要求であり, まず第一に福音としての律法である。隣り人 は,憎むべきだと信じられていた者の姿で, しかし現実に,律法学者の前に立っ ている。イエスはこの者を一言も非難していない。「裁きの前に恵みがくる。….. , あなたも行って同じようにしなさいということは あなたはわたしに従ってき なさい. ということを意味している。」Ks)

この讐え話は,結局隣り人は,単に友人や親族に限定されるべきではなく ,全 人類が隣り人である, と語っているのであろうか. バルトば, カルヴァンはそ のように考えている, と批判する。しかしルカ10:36‑37aは,サマリヤ人だけ が隣り人であった,と語っている。「わたしの隣り人とば.むしろ特定の人間.…..

の現実存在の中で遂行される出来事である。わたしの隣り人は,わたしに対し

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K,バルトにおける「愛」 (I)

て『善き業をなす者」と しての機能の中で」'6)働きかけてくる人間である。 この 善き業とは, その隣り人を通してわれわれに孜のような秩序が指し示されるこ とである。それは,神がわれわれを愛してくださったがゆえに, その神に,鍬 心にかなう仕方でわれわれの賛美をさし出すことがゆるされ, そしてさし出す べきであるという秩序である。神の子供たちが, いまここで神を賛美できるの は,神の憐れ象によっていだかれ,担われているからである。 イエス・キリス トの代理ととりなしが,すでにあるからである。憐れみ、が彼らを追い求めるか らである。 この神の憐れみを担う.永遠的であると同時に時間的な人間が, ま さにわれわれの隣り人である。彼ば, イエス・キリストを宣く伝え, それとと もにわたしの神賛美に明確な方向づけを与える限り,われわれの隣り人である。

この明確な方向づけが,隣り人を通してわれわれの身に起こらなければならな い。 このような神の憐れみの担い手があらわれるのは, この世のただ中に教会 があるからである。教会の目的は「証人としての奉仕」を行うことにある'7)。教 会はイエス・キリストを証しする。教会の中で, 人ばただ憐れ象によって生き ようとする。彼は,宣く伝えられたイエス・キリストへと逃れる。 しかも教会 は,ただ自らのためにだけ存在するのではない。イエス・キリストの中で起こっ た和解の力に根拠づけられている教会は.人類全体に対して代理的な意味を もっている。すべての人間が, イエス・キリストを宣く伝えるとL、う奉仕の中 にひき入れられている'8)。 「同胞(Mitmensch)は……『イエス・キリストの人 間性」の反射の中で可見的になってくるということを通して,われわれにとっ て憐れみ深い隣り人となる。」'9) イエス・キリストにおいて最も根源的な神賛美 が出来事となったがゆえに. ほかの人間による神賛美があってよいし, あるべ きなのである2o)。しかし困難な事情のもとで苦しんでおり,助けを必要としてい る同胞は. いつもそのようなものとして神の子供たちに対し, 神によって与え られた課題を示している, と言うわけにはいかない。神はよりよい世界を欲し 給うがゆえに.その困窮を取り除くことに協力することが正しい神奉仕である,

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K.バルトにおける「愛」 (I)

と言うわけにぱいかない。「われわれによって遂行されるべきすべての世界改善 を度外視して,」21)われわれは,その困窮をすでにとり除いている和解の出来事 を信じ,宣く伝えなければならない。われわれは, イエス・キリストを言葉と 行為を通して宣く伝えることによって,隣り人を愛すべきなのである。 しかし その困難な事情のもとにある同胞が, その不幸の中でこそ, イエス・キリスト のまことの人間性,罪苦しみ,死に引き渡された人間性を目の前に描き出し てくれるとき,彼は憐れみ深い隣り人である。彼の事実上の不幸は,彼が生き ようと欲しながら, しかも生きることができないでいることにある。 この事実 上の不幸の中にこそ,十字架につけられたキリストと彼との事実上の類似性が 存在する。その類似性は, 彼がキリストを信じるか否かにかかわりなく, そこ にある。なぜならキリストは,すでにこの事実上の不幸を受肉において自らに 引き受けておられるからである。「不幸な同胞は……まさにそのようなものとし て事実イエス・キリストの代理者であり. そのようなものとして事実神の憐れ みの担い手および代表者であり, そのようなものとして事実神を正しくほめた たえるようにとの指示である。」22)

(3) 第二の戒めの意味で「愛する」とは,われわれに対し神によって,隣り 人の存在の中で,隣り人の存在とともにおかれた未来の中に入って行くことで ある。愛するとは,神によって,隣り人という姿の中で打ち建てられた秩序に 従うことである。従って愛するとは,隣り人の存在を喜んで受け入れることで ある。罪深L、, 自らの罪のゆえに罰せられた同胞たる人間が, われわれの隣り 人である。 この同胞だけが, 神を賛美するようにと,われわれを呼び出す。隣

り人ぱわれわれに対して,われわれ自身が罪人であることをあらわにする。た とえその隣り人との共存がどんなに苦痛でも, そこから身を引くことはできな い。たしかに隣り人はわれわれの罪を赦すことはできない。彼はわれわれにとっ て第二のキリストではない。彼は,われわれの失われた状態を暴鰯することに よって,間接的にしかしはっきりと,われわれは恵翠によっての詮生きること

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K.バルトにおける「愛」 (、I)

ができることを, 語ってくれる。赦しによって生きることができることを, 思 い起こさせてくれる。われわれは.隣り人のうちにイエス・キリストの兄弟を.

従って自分自身の兄弟を見い出すように期待され.要請されてL、る・隣り人を 愛するとは,隣り人に対してイエス・キリストの証人となることである。愛の 義務は証しする義務である。しかしわれわれば証しするとき,何も欲しないし,

何も欲してはならない231.証人は隣り人を自らの活動の対象としないで,神の恵 みの自由を最大限に尊重する。

バルトによれば, この証しには三つの決定的な形態があり, それそれば区別 はされるが,分離されない関係にある。

(a) 証しの中心は, イエス・キリストの名にある。 この名こそが,われわれ が隣り人に対して惜しみなく与えなければならず, それをもってわれわれが未 来の兄弟に挨拶しなければならない言葉である。 イエス・キリストは. その中 で神が罪深い人間を引き受けて下さった愛の本質であり,現実存荏である。従っ て, 自分自身の罪と困窮について語ることが, 主題となってはならない。ある いは. 自分の困窮がいくらか改善されとか.取り除かれたという経験,状態,出 来事について語ることが,主題となっ てはならない。われわれ自身のことは,徹 頭徹尾ただ救いそのものについて語ろうと努めるとき,第二次的に触れられる にすぎない。 イエス・キリストの名を語ることは, その名がうみ出した教会と その名の原証言(聖書)の言葉を語ることである。

(b) われわれは. 自分の力で自分を助けられないように.他者を助けられな いとしても,われわれが現に助けられているということに基づいて, 兄弟の助 けがありうることを示すことができる。われわれ自身ば,本当に彼を助けるこ とができる兄弟ではない。キリストだけがこの兄弟であり給う。われわれは,た だキリストから委託されて, 兄弟となりうるだけである。しかしただ委託を受 けたにすぎないとしても.われわれば,特定の行為をなすべく召しだされた兄 弟として, 行為しなければならない。隣り人の困窮に限界があることを思い出

(13)

K./<ルトにおける「愛」 (I)

させるような行為をしなければならない。彼の困窮を軽減し緩和するように配 慮しなければならない。 このわれわれの行為が成功するかどうか, それはわれ われの知りうる事柄ではない。本当の助けをなしうる兄弟であるイエス・キリ ストが.われわれを用いてくださるように,祈りつつ準備することができるだ けである24)。

(c) われわれの言葉と行為は,福音的な「態度(Haltung)」25)を伴わ唯けれ ばならない。われわれの言葉と行為は,ただそれがわれわれの人格(Person)の 証しである程度に応じて,証しであることができる。たしかに, イエス・キリ ストの人格とわれわれの人格は, 区別されなければならない。 しかしわれわれ は,人格および態度をもって証言するように召されている。 これば,われわれ の生きる態度全体が要求されているということである。 ここでも,神御自身の 行為が出来事となって起こるとき,われわれの態度は始めて福音的なものとな

るのである。

(4) 「自分を愛するように, あなたの隣り人を愛せよ」 とは,何を意味する のであろうか。たしかにこれは, 自己愛の命令ではない。隣り人を愛せよとの 命令は, むしろこの自己愛に対する限界づけである。われわれば, 自分の隣り 人を愛するとき, 自分の自己愛が決してよいものでないことを告白する。 自己 愛ば罪の現実に他ならなL,からである。罪人のわれわれが提供しうるのは,罪 人としてのわれわれ自身だけである。 この罪人に隣人愛が命じられているとい うことば,命じるお方が御自身の責任として引き受けてくださることを意味し ている。 このお方ば.現にあるがままの,愛のないわれわれを引き受け,われ われを愛へと召し出し,証人としてくださる。 「自分自身のように」と言われる とき,われわれは楽観主義に陥ることなく, また悲観主義に陥ることなく , 自 らの信頼をただ全く次の事実に置くように招かれている。それは,われわれに 命令が与えられているという事実である。 この命令を与えられているという事 態が. 「われわれのまことの存在」Z6)である。われわれの愛が本ものであるかど

(14)

K.バルトにおける「愛」 (I)

うか,命令が成就されるかどうかといったことは,神に委ねるべきことである。

われわれは, そのような心配をすべて神に投げかけるように招かれており, こ のことこそが,命令の中に含まれている福音である。われわれは,命令によっ て裁かれた者としての象,従うことがゆるされている。われわれは, もばや自 らを他者に隠そうとする必要がない。われわればあるがままの姿で,隣り人を 愛することができるし,愛さなければならない。われわれは,神の自由な恵み がわれわれの奉仕を用いてくださること,隣り人との出会いの中にイエス・キ リスト御自身がいてくださること, そして彼が御自身の事柄を正しく勝利へと 導き給うであろうことを,確信しなければならない。そこで問題となってL、る のは,われわれの事柄でばなく, イエス・キリストの事柄である。われわれば,

ただひたすら信頼することを求められてL、る。われわれが証人として隣り人に むかうときにもつ勇気ば,教会の使命および委託に自分を従わせる際にもつ「謙 遜の勇気」27)である。ただひたすら信頼をよせ,それを実行に移すことは,祈り の中で神を呼び求めることに他ならない。教会(洗礼と聖餐)が「信頼するこ と」の客観的規定であるとすれば,祈りは「信頼すること」の主観的規定であ るz8)。われわれは. イエス・キリストに,われわれと隣り人のために,われわれ の身と隣り人の身に,約束に従ってその御業をなしとげて下さいと祈りつつ,愛 することができるだけである。祈りとは,われわれの願いの前に,神がわれわ れのために用意してくださったことを, そのまま受けとることなのである。

11

以上われわれは. 「教会教義学j第2章第18節の内容を跡づけてきたが.本 章では,第15章第68節「聖霊とキリスト教的愛」の内容を検討しておきたい。

第68節は1) 「キリスト教的愛の問題」, 2) 「愛の根拠」, 3) 「愛の行動」, 4)

「愛の特性」,の四分節から構成されている291.第68節全体の内容ば次のように

(15)

Kバルトにおける「愛」 (1)

要約されている。 「聖霊は, イエス・キリストが. それによって罪ある人間を御 自身の教団に移し入れ給う生かす力である。従って, イエス・キリストは,聖 霊によって, 『神が罪ある人間の怠慢と悲惨を克服して,彼を魂もとに引き寄せ,

励まし給うたその愛に, 神と人間仲間(Mitmensch) とに対する積極的な献身 によって, 神の証人として対応する自由jを,人間に与え給う・」

第68節は,第15章「主としての僕イエス・キリスト」の最後の部分であり,

第15章はこの他に第64節「人の子の高挙」,第65節「人間の怠慢と悲惨」,第 66節「人間の聖化」,第67節「聖霊とキリスト教団の建設」から構成されてい

る。

第1分節「キリスト教的愛の問題」は, まず,本分節が「個々のキリスト教 的人間」を取り上げること, その個々のキリスト者ばイエス・キリストの教団

えJざ

の生ける肢としてはじめて考察の対象になること, さらに受領(Empfangen)と しての信仰と贈与(Hingabe)としての愛は, 区別されなければならないが, 分 離されてばならない関係にあることを述べている30)。バルトによれば,キリスト 教的愛は,人間が自分自身から離れて行く運動であるだけでなく,他者にむかっ て行く運動である。キリスト教的愛は,他者自身のために他者にむかって行く。

愛する主体は.他者に, 自分の所有, 自分の存在, 自分に属しているものを与 える。愛す為人間は, 自分自身を他者の自由処理に委ねる自由において,愛す る。 このキリスト教的愛に対して,始めから終わりまで,別の仕方で別の方向 にむかって行く愛というものが存在する。それは一切の自己否定などとば無関 係唯, 自己主張から出発する愛である。それは, 自分を表現し実証しようとい う願いから. 自己満足を得たL,という願いから.他者を所有し享受しようとす る。しかもこの愛の対象は,いつも感覚的なものであるとは限らない。それは,

真・善・美であることもありうる。 この愛は.取り,征服し、所有する愛, つ まり自己愛(Selbstliebe)である。その運動は,結局は再び出発点に戻ってく る円形運動31)である。では, キリスト者は, この別の愛に対してどのような態

(16)

Kパルトにおける「愛」 (I)

度をとるべきなのであろうか。たしかにこの別の愛という要素そのものが,決 定的に非キリスト教的なわけではない。 しかしキリスト教的愛がこの別の愛に 対して示す寛容,妥協は,すべて非キリスト教的である。キリスト教的愛は.別 の愛といかなる妥協もせず, ただ対決だけを行う。そして別の愛の方も, キリ スト教的愛に対して同じ態度をとる。「エロースに対するアガペーの対立という 場合, それは, エロースの本質的なあり方に対する対立であって, その変質し たあり方に対する対立でばない。」32)

バルトは, このように二つの愛の相違と対立関係を確認したうえで, さらに これら二つの愛がどのような「所」で, またどのような「意味」で, そもそも 分かれるのかを問う。バルトによれば, エロースにおいてもアガペーにおいて も, 「『同一の』人間が「同一の」人間的本質を実証する。」33)神が常に創造者で あるように,人間は,いずれの場合にも神の被造物である。エロースもアガベー も,人間的本性そのものの中にある可能性によるものではない。両者とも, 人 間的本性の歴史的規定である。従って,両者の差違の根拠を人間的本性から説 明することはできない。エロースとアカ.ペ−は.共に, 「神が選び。欲し・定め・

秩序づけ給うた人間本性に対する関係において,出来事となる。」34)つまりアガ ベーは,人間的本性に対する「対応(Entsprechung)」35)において起こるが, エ

ロースば, 人間的本性に対する「背馳(Widerspruch)」において起こる。前者 は人間的本性の「類比物(Analogon)」として起こり,後者ば,人間的本性の「対 立物(KatalOgOn)」 として起こる。前者は,人間的本性に対して積極的.肯定 的な関係にあり,後者は,消極的・否定的な関係にある。では, この人間の本 性・本質とは何であろうか。神との関係(垂直線的関係)において, それは人 間が,創造者であり主であり給う神と共にいることを指している。創造論の用 語を用いて表現するならば.それは人間の二重の自由を意味する。すなわち.人 間ば神に基づいて自由であり,かつ神に対して自由である36)。アガペーば, この 神に基づき・神をめざす人間の存在に対応して起こる事実であり37),エロースば

(17)

Kパルトにおける「愛」 (I)

それに背馳する事実である。 さらに人間の本性・本質は,他者(水平線) との 関係において,共同人間性(Mitmenschlichkeit)を意味する。人間は,神との 共存の「比瞼」38)として,人間仲間と共にいる。彼ば,我と汝の出会いへと方向 づけられている3,)。この関連においても,アガペーは対応を意味し,エロースば 背馳を意味する。

最後にバルトは, アガベーとエロースの対立嫁,序論(第1分節)において のみ主題となることを強調している。キリスト教的愛は, なるぼどこの対立の

「中に(in)」生きてはいるが, それに「よって(von)」生きているわけではな いからである。愛は,ねたまず, 高ぶらず,誇らないからである(第一コリン + 13:4)。キリスト教的愛とあの別の愛ば,共に人間的本性のうちに基礎をも たない,付与される出来事である。ただし, 全く異なった仕方で付与される出 来事である。アガベーば, 「「聖霊」の生かす力」40}において起こる出来事であり,

エロースは, あの背馳の中に.全く窓意的に巻き込まれるという 「不可解な事 実・ 「不条理な事実」 ・本質的に不可能な事実」41)である。このようにキリスト教 的愛は. エロース的愛に対して絶対的優越性をもっている。それゆえキリスト 教的愛は. あの別の愛と優劣を競う必要がない。キリスト教的愛は,別の愛と 対立関係にありつつ.優越的愛であり,打ち勝つ愛であり.勝利に満ちた愛で ある。アガペーとアガペーから生じたものは.この世のあらゆる滅びの中にあっ て, 不滅である。 まさにそれゆえに, キリスト教的愛の問題に関する蝦後の言 葉は,和解の言葉でありうるし, また和解の言葉でなければならない。人間が 神の御手のうちにあるとすれば, エロース的人間に対しても, キリスト教的愛 におL,て. 肯定の言葉が語られなければならない。それは,彼がエロース的に 愛するということに対しての肯定ではなく,神に属する人間としての彼に対し ての肯定である。和解の言葉の内容は, 「神は,端的に「人間を」受け入れ給う。

従って,エロース的に愛する人間をも受け入れ給う」42) ということであろう。神 は そのような人間をも, 彼が自分自身を理解し配慮するよりも, より良く理

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K.バルトにおける「愛」 (1)

解し配慮し給う・ この神についての使信ば,解放の使信であり, 喜びの使信で ある。キリスト教的愛が人間の救いであるのは, その愛を生きる者は, 自分自 身を救おうとすることをやめるからである。 アカ・べ−は神と人間仲間に対する 献身,つまり神御自身のための神に対する自己贈与(Hingabe)43) と,人間仲間 それ自身のための自己贈与である。そのような自己贈与として, 神から出るキ リスト教的愛ば,それ自身,神御自身の愛に対する人間の応答である。神は,御 自身を求めず, いわんや御自身のために何ものをも求めず, ただあるがままの 人間そのものを求め給う。しかも,神がそのような仕方で愛し給うとき,神は,

決して欠けるところのある神ではなく,その全き自由と栄光の中にある神であ る。 この神の愛に対する応答としての人間の愛は,人間の自己愛の終わりを意 味する。人間は自己贈与において. 大いなる自由と栄光の中にある自分自身を すでに発見し,獲得している。人間ば, アガペーの中に自分を発見することを 許されている。彼は, キリスト者として愛することによって, エロース的に愛 することによって達したいと願いつつ出来なかった場所に,すでに達している。

彼ば,神の愛に応答することによって. 自分が守られていることを発見する。キ リスト者として愛するときに, 彼は, すでに目標に達しており,すでに自分自 身を発見している。われわれに必要なのば, 神と人間仲間に自己贈与すること だけであり,そしてこのことによってオつれわれば.われわれ自身のもとに到り,

われわれ自身のもとにいるのである44)。

第2分節の主題は「愛の根拠(Grund)」である。 まずバルトば,本節での問 題は愛の「根源(Ursprung)」でばなく , 「根拠」であることを強調する。 「根源」

という用語を用いない理由は, それがキリスト者の行為の原点とその行為との 同一性を示唆しがちだからである。聖書が両者を「愛」 という同じ言葉で表現 しているように,両者の類似性は明白である。だがそればどこまでも類似性で あって,同一性でばない。第一の愛と第二の愛の関係は,言葉と応答の関係,命 令とそれに対する服従の関係である。愛は自由な行為である。愛は,他者に対

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Kバルトにおける「愛」 (I)

する自由意志による自己贈与である。 しかしそのキリスト者の愛は,彼に対す る神の愛に基づいている。それば,神が「原像的.本源的になし給うことを,模 像的・比喰的に行う」45)ことである。愛の根拠ば,語り運動する根拠であり,存 立し召し働く根拠である。その根拠は,人間の応答や対応を待たずに, またそ れに依存することなく働く。それゆえ,人間に対する召しば止むことがない。人 間の愛が神の愛に先行することは,絶対にありえない。「愛は,神から出たもの である」 (第一ヨハネ4:7)。神は,存在し給うときに愛し,愛し給うときに存 在するお方である噺61。 「「神ば存在し給う」という命題と「神ば愛し給う」という 命題は, 同意義であって,互いに他を説明し,実証する。われわれを愛し給う とき,神は, そのような存在と愛の「同一性」において,御自身をわれわれに

「啓示し給う。」」47)神は,愛することを存在の目的としている。神は,愛するた めに自らと異なる対象を必要とし給わない。 この世をも,われわれをも必要と し給わない。神の愛は,御自身のうちに基礎づけられている。従って, この神 が世を愛し,われわれを愛するということは,神の永遠なる愛が自由にあふれ 出ることを意味する。 「神は愛である」(第一ヨハネ4:8, 16)。神ば三位一体な るお方であり, この三位一体においてわれわれを愛し給う。神は,御自身をわ れわれの愛の根拠とすることによって,われわれをも内的.本質的な「交わり」48)

に入れ給う。神は,われわれと「契約」 (イスラエルとヤ…ウェの契約)を結び,

保持し給うことによって, そしてその「御国」をわれわれのもとに来たらしめ 給うことによって,われわれを愛し給う。契約は御国の約束であり,御国は契 約の成就である。

契約は, たしかに一つの法的関係でもある。 しかし契約の法的な形の背後に は, イスラエルにとって本質的で忘れることのできない一連の「解放の行為」49)

が存在する。そしてその解放の行為は,ヤ/、ウェが御自身をイスラエルの神とし て選び定め, イスラエルを御自身の民として選び定め給うたことから, 出てき ている。 この自由な選びこそ,愛に他ならない。

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Kパルトにおける「愛」 (1)

人間の愛の根拠である神の愛は, 次の三つの特質を備えている。つまりそれ ば, (1)選ぶ愛であり, (2)潔める愛であり, (3)創造的な愛である。

(1)選ぶ愛は, 「神の自由な『行為」」50)を意味する。神の愛は自由な愛であり,

その自由においての患必然的な愛である。神の愛にとって動機となるのは, 神 の愛それ自身である。神によって愛される者は,神が彼を愛し給うという事実 によって, その価値を得る。神は,御自身に敵対する人間を愛し給うのであり,

罪ある人間を憐れむことによって愛し給う。神の愛はそれほどに主権的であり,

この事実を誇り, 信頼する者は,すでに神の主権性に与っている。

(2)神の愛は潔める(reinigend)愛である。人間は神に愛される価値のない ものである「にもかかわらず,否,むしろそれゆえにこそ」51).神は人間を愛し 給う。 「にもかかわらず」 とば 人間の罪に抗してということであり, 「それゆ えにこそ」 とは.人間をその罪から解放することを意味している。神は. 人間 の罪に対して「否」 と語ることによって,人間に「然り」と語り給う。神の愛 は, 人間の罪を消し去る愛であり,潔める愛である。神の愛は,罪ある人間に 対する全き恵巍であると同時に,全き裁きである。恵巍と裁きば, 神の潔める 愛との関連で,神がそれらに与え給う秩序と意義に従いつつ, 共に起こる。 こ の両者を結合する秩序とは.神が人間をその裁きによってその恵魏のもとにひ きとどめ, その恵みへと導き返そうとし給うことである。 また両者に共通の意 義とは,人間をその罪から引き離し. 自由にすることである。従って人間は,感 謝して神の不可解な慰めと赦しを喜ぶことがゆるされるし, また喜ばなければ ならない。「≦つの道においてわれわれに示されるのは.人間の顛倒と破滅に対 して動的に「対立」する神の現臨と活動である。どちらの場合にも, 人間の『潔 め」が目標なのである。」52)

(3)神の愛は創造的な愛である。すなわち.神に愛された者たちが, 自ら愛 する者になるような愛である。愛が人間の行為として出来事となるためにば,別 の「新しい」人間を必要とする。神は, そのような新しい人間Ⅲ愛する人間を

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K.バルトにおける「愛」 (I)

創り出す。真の愛の前提は, 自己贈与が起こる行為へと解放された, 自由な人 間の存在である。人間ば, そのような自由をもっていない。ただ神に愛される 者のみが, そのような自由を得, そのような自由をもつ。神の愛は,神御自身 と人間の間に交わりを打ち建てることによって,「人間の行為という場所と限界 の中で,神の行為を模倣し,神が神として愛し給うように,人間として愛する

という自由を,人間に与える。」s3)

キリスト教的愛の根拠になる神の愛の行為と業は,聖霊の行為と業である。こ の聖霊において,人間は, 父によって御子のもとへと召され,御子によって父 のもとへと召される。あの自由な選びも,潔めも,そして創造的な業も,聖霊 の力によって起こる。神は霊であることによって,われわれを,神が父として 御子を愛し,御子として父を愛し給う愛に参与させ,われわれの行為を, その ような神の永遠の愛の鏡とする。 「具体的な姿に拓ける神の愛は, イエス・キリ ストがその「教団」を建て,人間を教団へと召し, その中に集め, その信仰と 委託に与らしめ,彼らを聖化し……給う行為と同一である。聖霊の力は,具体 的には,人間の様々な『生の」歴史を含んだ「教会」史の出来事において働く。」54)

バルトは最後に,教団の建設(キリスト者であること)と教団の成員の聖化(愛 すること)は,区別はできても,分離できない関係にあることを強調している。

また,神が聖霊によって最初に教団を愛し給う愛を,神がすべての人間にむけ たもう愛から分離してはならないことを強調している。

第3分節「愛の行為」ば, キリスト教的行為の一般的形式的性格とその対象 を扱っている。 「愛の行為」には次の四つの性格がある。

(1)愛の行為は,新しい創造に基礎をもつがゆえに, いつも新しいものとい う性格をもつ。それは聖霊の力によってのみ起こる行為であり,人間はこの聖 霊を請い求めるより他なく、 またその働きを感謝しつつ,驚くより他ばない。

(2)人間の愛は,神の愛に対する人間的応答・対応・模倣・類比である。 し かしこれは.人間が行動の主体となることを否定するようなものではない。そ

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K・バルトにおける「愛」 (I)

れどころか聖霊は.人間を自発的行為つまり自由へと解放する。人間は,神の あやつり人形として行為するのでばなく, 神に責任を負う独立した主体として 行為する。人間の愛の懐小性・脆弱性ば,聖霊の責任ではなく , 人間の責任で ある。また人間の応答ということで考えられているのは,単なる人間の志向,思 想感情などではない。神の行為に対応する人間の行為は,単なる内的行為で はなく,外的行為でもある。つまり全人間の行為である55)。

(3)愛することは, 「分かち合うこと」56)つまり与えることである。しかしキ リスト者ば何も受けず, また何も所有しないわけではない。それどころか,地 上で最も富んだ者であり, そのような者であることを感謝している。彼は.与 えるときにのみ喜ぶ。愛する者の生活は, その中心を自分自身の外にもつ生活 である。彼は自分自身を, ただ他者と共にもつのである。

(4)キリスト者にとって愛は, 高揚・獲得・喜びでなければならないし, ま たそのようなものであるであろう。 この高揚・獲得・喜びは,次のことから生 ずる。つまり神の子として愛することをゆるされ,神の行為を模倣しつつ,神 との交わりの中に生きることをゆるされ, その聖霊に服従することをゆるされ ることから,生ずる。 これが「たとえ目に涙があふれていても,笑う根拠であ る。」57)愛と喜びは,両者とも,解放者である神に基づいて生じ,神の解放の出 来事から生ずる。そして一方は,他方にとっての確かな試金石なのである。

バルトば.以上のような愛の行為の形式的性格に続いて,愛の対象との関連 における愛の行為の意味と内容について論じている。

キリスト教的愛は,神の選び・潔める・創造的愛に基づく応答的愛であり,従っ てそれは, まず第‑‑に神に対する愛である。愛の行為の測り知れなL、意味と内 容は,神の恵翠の契約関係が愛の行為において,一方的関係から相互的関係に なることにある。神に対する愛・イエスに対する愛は,次のようにして現実化 する。つまりそれは,一人の人にとって,神・イエスがさし迫った緊急の存在 となり,神・イエスの愛の栄光を経験することによって, この迫り来る愛に屈

(23)

K.パルトにおける「愛」 (I)

服し,極めて具体的な思想.言葉.業によって, その時々にそれに場所を与え,

それを考噸することをゆるされ,またそうせざるを得なくなるという仕方で,現 実化する58)・神を愛することは,神に対して自らを贈与し,自らを神に委ねるこ とである。神に対する愛は, 服従の秩序において具体化する。人間が神に対す る愛へと解放されることは,神に対する服従へと解放されることに他ならない。

服従は. 自ら進んで喜んでなす行為.従って自由になす行為である。 「服従は,

愛の当為的行為,愛自身によって要求される愛の行為である。」59)つまりそれ は, 人間が自らを神の処置に委ねることから,直接生ずる行為である。服従は 愛の帰結である。それは,人間の当為的な行為でありつつ, 自由な行為である。

人間は.神の行為の単なる道具や導管ではない。人間はあやつり人形でばない。

キリスト者は,愛において生ける神に,生けるイエス.キリストに服従する。キ リスト者は神御自身を愛し.神御自身に自己贈与する。従って愛の行為ば,一 定の観点と撰則によって絶対的に確定された模像を作り上げることとは, 全く 異なっている。それは, 律法的な生活とは何の関係もない。それは,生き生き

と行為し給う人格に,絶えず新しく喜び進んで従う生活である。

愛の行為は. さらに「一定の歴史的連関の中で与えられた人間仲間 (Mitmensch)」601にむかう。 しかしこの場合にも, 「愛の行為」はキリスト教的 愛の行為であって, いわゆる普遍的な人間愛の行為でばない。それは. 神御自 身の愛に対応して,選ぷ愛であり, 従って区別する愛である。キリスト教的愛 の対象としての「隣り人」は,次のような存在である。それば. イスラエルの 歴史的連関の中で, あるいはイエス・キリストの教団の歴史的連関の中で,愛 する者に付属せしめられた人間仲間のことである。すなわちそれは, 人間仲間 そのものではなく , 「この」人間仲間のことである61)。一人の人間仲間が他の人 間仲間に具体的に付属せしめられる歴史的連関とは,救済史的連関のことであ る。 これ妹, 神が御自身とこの世の和解のために特別に語りかけ,行動し給う 連関である。その中心. その頂点は, イエス・キリストの歴史にある。神を愛

(24)

K.バルトにおける「愛」 (I)

する者ば,救済史に積極的に参与する者として, 自分のかたわらにもともと「兄 弟」あるいは「信仰の仲間」 (ガラテヤ6:10)をもっている。従って, キリス ト教的隣人愛を普遍的な人間愛に「原理的に」拡大しようとすることは,ゆる されない。

しかし他方, キリスト教的愛をあの救済史的連関の中心にいる人々に「原理 的に」制限しようとすることも,問題にならない。救済史的関係を積極的に肯 定することから, その関係を知らない人々を愛してはならないという結論を引 き出すことはできない。 「洗礼と,従って信仰告白無ける目に見える交わりは,

たしかに内包的な徴ではあるが, それだからと言ってただちに排他的な徴では ない。」62)たしかに「隣り人」とは,救済史の連関においてわれわれに出会い,結 合される人間仲間である。ただし, そのような連関において一体誰がわれわれ に出会い,結合されるのかとL、う問いに対して,われわれは常に開かれた態度 をとることができなければならない。つまり,誰がわれわれの隣り人なのかと いう問いに対するわれわれの答えは, いつも実際的で暫定的でなければならな い。われわれは,今日の兄弟を愛することによって, 明日の兄弟に対して行う べきことを先取りしている。われわれは, より狭い愛において, いつもすでに より広い愛へと跳躍中なのである63)。聖書ば,これを「慈愛」(Menschenfreundli‑

chkeit)と呼んでいる。慈愛とは.民族や教団の敵をも含めて,あらゆる隣り人 に対して, また明日の兄弟に対して.喜んで目を注ぎ, また歩患を進めてゆこ うとするキリスト者の態度である。 「慈愛」ば,一種の先取りという仕方で「愛」

を告げている64)。 しかしバルトによれば, 「慈愛」と「愛」ば区別されうるし,区 別されなければならない。キリスト教的愛において問題となるのば, この「愛」

なのである。

前述の如く , キリスト教的愛はその対象として神と隣り人をもっている。バ ルトば, この隣り人を「証人」 という概念で説明している。証人とば 他者に 対して,一つの報知を伝え,確証する人間のことである。その報知の頁理性と

(25)

K.パルトにおける「愛」 (I)

実在性は,報知する者の人間的現実存在・人間的行為と共に. 屯ちもすれば倒 れもする。人は, 他者に対して証人としての役割を託されている。神の契約の 証人,神の選びの証人,神の恵魂と憐れ詮の証人として,他者に同行し,他者 に絶えず出会うように定められている。キリスト者は.神が彼らを愛し, 彼ら も神を応答的に愛することがゆるされていることを証しすべく,派遣されてい る。 しかし証人は,証言の内容を直接他者に与えることはできない。水平の領 域で起こる事柄は,垂直の領域で起こる事柄の「反映」, 「模写」にすぎない。隣 り人・兄弟は, この人間的行為の脆弱性と暖昧性の中で,真実に愛する。 「第一 の戒めば,第‑‑・の戒めであり.第一の戒めであり続ける。しかし重要なの朧.第 二の戒めを実行することによって,第一の戒めの優位性を確認することである。

.…・・人間の証しという奉仕のない神の啓示ば,存在しない。」65}キリスト者は,

他者のために自分自身を「賭する」 )ことによって.他者の保証者となる。彼は.

他者にとって保証者であるということ以外には.他者から何も求めない。彼は.

神が自分を愛し.自分も神を応答的に愛する自由をもっていることを,身をもっ て保証しようとする。それは, このような意図をもって, 自分自身を他者のた めに賭する.つまり自分自身を他者のもとに「移す」ことである。われわれが 問われるのは, このことを行っているかどうかということだけである。われわ れ自身のもつ価値や,技術や, 効果や, 印象ば, 問題でばない。バルトは最後 に, キリストこそが「大いなる」証人・保証者。隣り人・兄弟であり. キリス ト者ば「小さな」証人・保証者.隣り人・兄弟であることを,強調する。 「本来 的には」67)キリストこそが,ルカ10:25以下に記されたサマリヤ人である。 「本 来的には」彼が, 申命6:4の戒めとレビ19: 18の戒めを成就し給うのである。

「本来的には」彼が.愛の第一の次元と第二の次元において.愛の行為をなし給 うのである。

第4分節は.第一コリント第13章の注解に基づいて「愛の特性」を論じてい る。 ,<ルトによれば,愛の特性は,愛だけが価値をもち,愛だけが勝利し,愛

(26)

K.バルトにおける「愛」 (I)

だけが存続することにある。パウロが示す「最もすぐれた道」 (12:31)は, キ リスト者がどのような場合にも歩まねばならない道である。パウロが示そうと する道・行為ば愛である。それは,神の愛に基礎づけられた愛であり, その第 一次的な人間的主体がイエス・キリストであるような愛である。それは,彼と の交わりと随従において生起するような愛であり, 「御霊の愛」(ローマ15:30)

である。 この愛の概念は, その代わりにイエス・キリストの御名を入れるとき,

最も良く理解することができる68)。 しかし「ここでば,人間は決して神やイエ ス・キリストの中に消滅していない。」69)むしろ人間は,聖霊によって与えられ た人間的自由をもつ新しい存在として, イエス・キリストの中に, またイエス・

キリストと共に生きている。 この個所は, キリスト者が,神から, イエス・キ リストにおいて,聖霊を通して与えられた自由によってなすべきことに注目し ているのである。

(1) 第一コリント 13:1‑3。キリスト者は,聖霊によって異言を語りつつ,し かも愛をもたず,神と隣り人に対する自己贈与を全くなおざりにすることもあ る。愛がなければ,預言は空虚な言葉,知識は神秘的・理性的な遊び.奇蹟を 行う信仰は魔術にすぎなくなってしまう。愛の行為そのものが価値をもつので ばなく,愛の最大の行為が価値をもつのでもなく,愛だけが価値をもつ。問題 は, キリスト者と教団の生活が,霊の力に導かれ、 イエス・キリストに従って 営まれているかどうか, 神の栄光のためにささげられているかどうか. という

ことである。

(2) 第一コリント 13:4‑7.愛は, 自由な自己贈与であるがゆえに,寛容で あり,情深い。そして, このように寛容で情深い愛は, 「勝利し、克服し,凱旋 する。他のどのような力も,愛の力に匹敵するものばない。」70)愛することをゆ るされる者ばⅢ 自分の利益を求めない。愛する者は,聖霊を自分の主張・弁明・

利益・装飾のために用いようとする誘惑に打ち勝つ。キリスト者ば, 自分自身 の中で(4b‑5c)また隣人の存在と行為において(5d6)出会う敵対的な様々

(27)

K.バルトにおける「愛」 (I)

な力と戦い,勝利する。愛は, いらだって敵対しようとはしない。愛は反対集 団をもたず, 育てず,許容しない。愛は,相手の「悪」を数えあげて, それに よって相手を解釈したりしなL,。愛は, 自分が他者のように悪や愚かさを犯し ていないことを喜んだりしない。愛は真理を喜ぶ。 「愛は共に喜ぶ−いわば,

あらゆる人間的不義に客観的に打ち勝つ真理と結合して,喜ぶ。」71)キリスト者 にとって重要なのは. 「愛にあって真理を語る」 (エペソ4;15)ことである。愛 にとっては,神も隣り人も不可解になることがありえず, 神と隣り人に対する 関係に疲れることもありえない。愛は忍び,信じ,望象,耐える。 「愛は,すで に,死人の中からのイエス・キリストの甦りの名ごりの光であり,来たるべき すべての者の甦えりの先がけの光である○」72)愛は,神の恵みがもつ「然り」の 啓示である。死に打ち勝つ生の啓示である。愛は罪の力に打ち勝ち, それを克 服する。愛ば弱い行為ではなく,強い行為である○愛だけが勝利するのである73)。

(3) 第一コリント 13:8‑13。 「愛は, 「今」 と 「やがて」, 「此岸』と 「彼岸」

の間の『連続体」である。…. それ自身すでに此岸の力であるような彼岸の力 である。」74)預言・異言・知識は,われわれがむかってゆく永遠の光の中で,新 しいより高い姿へと止揚されるであろう。 「全きものがやって来る○」この全き ものの大いなる光に比較すれば,われわれがその中に生きている様々の小さな 光は, それなりに有用ではあるが,結局みすぼらしい燈火にすぎない。 しかし パウロは, キリスト者が現在から将来に移行するときにもってし、る同一性を除 去しようなどとは考えなかった。同じキリスト者が,全く別の新しL,形へと止 揚されるのである。全きものが来ることによって, またそれと共に,幼な子の 思いと言葉をもつ今の姿が,従って現在の姿におけるキリスト者の預言と知識 が,新しい姿をとる。見ることと知識も,現在と将来に共通していると同時に,

全く新しい姿をとる。現在は「鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。」つ まり自己啓示における神とこの神に基づく人間を,人間的直観及び概念という 地上的な仕方で見ている。 また鏡というものの性質に従って,左右をとりちが

(28)

K.バルトにおける「愛」 (I)

えて見ている。 「われわれの生は,最上の場合にも,非直接的な生であり,逆に 見ることであり,その限りにおいて非本来的な仕方で見ることである。」75)しか し将来には, 「顔と顔とを合わせて見る」ということが起こる。その時には,神 がわたしを理解し給う通りに,わたしも神を理解し,神を通じてすべての事物 を理解するであろう。信仰と希望ば,愛が存続するゆえに, また愛が存続する

ときに,存続する。信仰と希望は愛に齢いて「働く」。愛ば,現在において輝く,

将来の,永遠の光である。 「愛は.現在すでにキリスト者の「永遠の」行為であ る。それゆえ愛はI存続する。」」76)キリスト者は,今すでに、歴史の目標に達し,

永遠の将来の中にいる。愛は, 今すでに, キリスト教的行為における過ぎ去ら ぬものであり,すでに現在に鮪いて成就された約束である。愛だけが存続する のである77)。

(1986. 1. 10.記)

KarlBarth・D/EK"r/z"r/肥Dog?"α"A, I/2 VerlagderevangelischenBuchhand.

lungZ()llikOn, 1938, 19392、 以下KD I/2.. と略記する。KD.I/2., 398.

Cf‑, ローマ2:6, 13,第一コリント3:13, 16: 10,第二コリント5: 10, >jJ・ラテヤ6:

3ff.,エペソ2: 8ff.

KD I/2 , 403.

バルトば, この表題をA.v.ハルナックに負っている, と述べている(Cf., KD.I/2., 403f.)。

Cf #KD.I/2., 408.

KD.I/2. , 402 KD1/2. , 425.

KD.I/2., 429 KD.I/2. , 441 Cf.,KDI/2., 448f.

KD.I/2.、 451 KD.I/2.、 452453.

KD.I/2 、 459.

なお, この個所の解釈史については,拙論「ルカによる福音書第十章二五三七節」

︑1J〃

ワ、迫ノ

3)

4)

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