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京都の源義経伝説とみちのくの影

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(1)

京都の源義経伝説とみちのくの影

著者 野崎 準

雑誌名 東北文化研究所紀要

号 47

ページ 37‑56

発行年 2015‑12‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00000504/

(2)

京都の源義経伝説とみちのくの影

はじめに京都における牛若丸の伝説

義経東下りにおける伝説

悲劇の生涯の史実と伝説

都とみちのくの義経像

...  五

終わりに

はじめに

源義経は源平の合戦に源頼朝の異母弟として参戦︑木曽義仲を敗

死させ︑平家の滅亡に破格の活躍をしながら京都と鎌倉の板挟みと

なり悲劇の最後を遂げる︒そして死後まもなく多くの伝説がつくら

れ︑それは近世︑近代を通じて義経伝説として語り伝えられた︒

義経にまつわる伝説については明治以後の近代歴史学の成立で史

実とは切り離され︑戦前は黒板勝美博士の﹃義経伝﹄によって歴史

上の義経の姿が明らかになり(註一)︑軍記物語︑舞や謡曲に見え

る中・近世の人々にイメージされた架空の義経像︑歌舞伎や物語に

東北文化研究所紀要第四十七号

O一五年十二月

野 崎

よる近世から明治までのその発展は島津久基博士により﹃義経伝説

と文学﹄としてまとめられた(註二)︒さらに戦後の歴史学を踏まえ︑

特に﹁都とみちのく﹂の関連︑文学上と史実の関係は高橋富雄博士

が﹃義経伝説﹄として昭和四一年に出版された(註三)︒

研究書は黒板博士の時代にすでに﹁汗牛充棟﹂とされ︑戦後の歴

史プ

1ムに至り語り尽くされ論じっくされている人物であるが︑東

北人の視点から見ると︑平泉への下向と滞在︑最後も同地という東

北と都との関係をとりもつ人物である︒筆者はこの﹁都とみちのく﹂

を結ぷ人物としての視点から坂上田村麻呂と伊達政宗を論じたが

(註四︑五)︑源義経についても﹁都とみちのく﹂の視点から︑非

力ながら考えて見たい︒

京都に伝わる伝説は幸いな事に﹃京都叢書﹄なる編纂物があり(註

六)︑復刻版には精綾な索引が付いているので︑江戸時代から明治

初期の伝承から探索して見た︒

(註一﹀黒坂勝美﹃義経伝﹄大正三年初版中公文庫所収平成三年

(3)

(註二)島津久基﹃義経伝説と文学﹄昭和一O

庖復刻版による

(註三)高橋富雄﹃義経伝説││歴史の虚実﹄中公新書昭和四一年

(註四)野崎準﹁坂上田村麻呂と観音伝説﹂東北学院大学東北文化研究所

(註五)野崎準﹁都の奥州武将﹂東北学院大学東北文化研究所紀要第四

一号平成二一年

(註六)﹃新修京都叢書﹄全二五巻臨川書庖(昭和四二年

63

平成八年)

3六年に刊行され︑昭和八1O年に補足を加

え二十巻として﹃増補京都叢書﹄が︑昭和四二年に図版・索引を加

えた﹃新修京都議書﹄が出版された︒﹃新修﹄は索引の訂正に時聞が

かかり完成は平成八年となった︒以下引用の﹃京都議書﹄はこの﹃新

昭和五三年京都大学堂書

京都における牛若丸の伝説

源義経と京都との関係があるのは︑幼年の牛若丸時代と︑木曽義

仲追討から平家を滅ぼし︑頼朝に追われるまでの京都滞在の二時期

である︒本章では牛若丸時代について述べる︒

(ご幼児時代

義経の母常盤(常葉)は源義朝の妾で今若︑乙若︑牛若の三児を

産む︒平治の乱で義朝が戦死してから常盤は三児と共に流捜し︑捕

われるが平清盛により赦免︑大蔵卿一条長成と再婚した︒三児は出

家させられ︑今若は醍醐寺で出家し禅師公全済(全成)︑乙若は八

条宮で卿の公円済︑牛若は鞍馬山東光坊阿閤梨蓮忍の弟子禅林坊阿 閤梨覚日の弟子となり遮那王と称した︑と﹃古活字本平治物語﹄の終り近く﹁牛若奥州下りの事﹂にある(註七)︒

この時代の牛若丸については同時代史料がなく︑最も古い伝承が

この﹃平治物語﹄であるが︑いつの時代の追加であるかも不明であ

ると

いう

その牛若丸誕生の地は現在の京都市北区︑大徳寺の東北に﹁牛若

町﹂

があ

り︑

﹃名

所都

鳥﹄

(註

八)

に 産 湯 水 愛 宕 郡

京の北紫竹村大徳寺の末寺大源庵の方丈の庭に有︒むかし源

の義朝この所に住給ひすなはち常盤御前愛にて牛若を産み此水

を汲で産湯とするゆへの名也︒

と見えるのが古い伝承である︒

﹁都

花月

名所

﹂(

註九

)に

は 源義経誕生水今宮大源庵

﹁山

城名

跡志

﹄(

註一

O )

には

源義経誕生所︻紫竹村南今宮東有

古井世伝此井義経誕生水旧跡云々︼

異本義経記云大夫判官伊予守従五位下源義経母ハ九条院ノ官蝉

常盤ナリ平治元年洛北紫竹ニテ生レルと云々

(以下引用文中の︻︼は割註︑(

地名の当て字は原文のままとした) 大徳寺塔屋之一也此内有

)は筆者註を示す︒人名︑

(4)

﹁山州 名跡志

﹂(註一一)には 常盤第

所 今 宮 ノ 束 紫 竹 ニ 到 ル 左 方 人 家 ノ 地 ナ リ

常雄ハ義経ノ 母︒ 始メ九条殿ノ雑司ニテ無双ノ美女

也︒此人紫野‑一居住ノ事

双紙物語ニ載ス︒

此館ニテ牛若誕

ズト云フ︒(一

部読み下し)

また

義経産水ノ井 在同所人家北

清泉ナ

リ︒ 弁財天社

町若 祉 牛 戸

‑区

圃市 産 都 経

京義

図版ー

東北文化研究所紀要第四十O五年十

井ノ傍南向ニ有

此所義経ノ胞衣ヲ政ムトイフ

牛若町

牛若丸龍生井の碑 牛若町 図版二

牛若丸誕生の地、右遠方が胞衣塚 図版三

などとあり

︑江戸

時代前

期に

はこの地が牛若丸誕生地とされていた

ょうである︒

(5)

ぷ侃の鋭義経伝説とみちのくの彬

京都時代祭

牛若を抱く常盤御前と今若・乙若 図版四

現在は牛若町の道路沿いに﹁源義経産湯井ノ迫枇﹂という大正一

五年十月︑紫竹土地区画整理組合建立の石叫があり︑

﹁此ノ地ハ源義朝ノ別業ニシテ常撚ノ住ミシ所ナル︒平治元年義

経誕生ノ時此井水ヲ産湯ニ扱ミ米タトノ伝説アリ

: ・

﹂以下︑後に大

徳寺熔頭大源院の敷地となり竹林となったが大正十四年紫竹区画整

理で消滅したので︑後足(後世)に備え記録する

︑と

ある(図版一)︒

この仰の西の畑地に小さな啄と古井戸があり︑ここにも﹁牛若丸

誕生井﹂の石仰がある(悶版二︑三)︒説明絞があり︑﹁元弁財天社

の一部︒牛若丸胞衣啄と産湯の井戸︑後方州の中の小さな康が胞衣

塚で応永二年の叫がある﹂旨記されて

いた

ここ が

﹁山州名跡志﹂

に見える弁天社の跡であろう︒接近した二地点であるが︑誕生の地 そのものが伝承であるから真偽を論じるレベルではないだろう︒

﹃平治物詩﹄では平治元年二月九円に市織に抱かれて的水寺から山

科を経て大和に逃れ

たと

あり︑ザヨの中を今若・乙新を先立てて逃げ

る安は京都人の好みなのか平安神宮時代祭にも登場する

(悶

版凹

) ︒

また大和に逃げる途中用いたという﹁市総

の井

や平

山系

に捕

えら

た地という伝説が伏見区にある︒

(ニ)鞍馬山時代

牛若丸は﹁鞍馬寺の東光坊阿悶梨蓮忍が弟子禅林坊阿閑梨党日が

弟子となりて遮那王とぞ由

・し ける

﹂が︑十一の年に出生の事情を知

り︑平家討伐

を志

し︑

昼は学問を︑夜は武芸を稽古し伯正谷で天狗

から兵法をならったと﹃平治物語﹄にある︒

﹁京羽二重﹂(

註 一

二)に

僧正谷

鞍馬山の奥西のかた也不動明王示現の地にして牛悲丸兵法剣

術を伝授せし所也

﹁都名所車﹂

( 註 一

三)には

鞍馬寺

いにしへ捌九郎義経此山に賠給ひ平家をほろぼしたく毘沙門天

たもんてん

召( 多 聞天)あはれと思て例正

妨をもて兵法を教へさせ其後も平家の一知をつぶして願成就せり に折哲をかけ給へば

僧正が谷本堂の西の方也︒此谷にて剣術ありし所といへり

(6)

経の太万弁慶錫杖吉次兄弟鎧甲其外色々の宝物有

﹁洛

陽名

所集

﹂(

註一

四)

には

僧正谷

鞍馬寺の西のかたなり此所にて源義経未だ牛弱(うしわか)

なりし時異人に偶会し刺撃(剣戟)の法さまざまならへるとな

り今に義経の剣甲など其外珍器どもおほかめり是にったへて

此所に天狗とて有となんかたちしなじなかへ出現しけるとぞ

蛍尤旗星の義にあらずまず僧正を巨魁として愛宕山の太郎

比 良 山 の 次 郎 伊 都 奈 の 三 郎 富 士 の 太 郎 上 野 の 妙 義 坊 常 陸 の 筑 波 法 印 彦 山 の 豊 前 坊 太 山 の 伯 香 坊 大 峰 の 普 鬼 今 平 六比叡山の法性坊肥後の阿閤梨葛城の行者高間(たかま)

坊高雄の内供奉如意獄の天狗といへる類多し:・(下略)

と︑日本独特の﹁天狗﹂の解説も記されている︒

﹁出来斉京土産﹂(註一五)には

(鞍

馬山

)僧

正谷

僧正谷は鞍馬山の奥西のかたにあり

ひし時 源義経いまだ牛若丸とい

あやしき人に途て兵法をならひしと也今も義経の太万

その他色々の什物あり

此所は大天狗僧正坊の住所といへり

て・

:(

各地

の天

狗︑

略)

是を魁(かしら)とし

今の世の僧にはせめて天狗になるべきもあるべからず名利に

東北文化研究所紀要第四十七号

O一五年十二月 おちいり行法をおこたり学徳もなく文盲感療にしていたづらに施

これみな死しては地獄におつべし物をつゐやすしからずば牛

馬と生れなんまことにあさまし

と︑当時の僧侶への皮肉も載せている

﹃日次記事﹄の作者黒川道祐の遺稿で明治になってから出版され

た﹁近畿歴覧記﹂(註二ハ)には

(鞍馬山)霊宝ヲ一覧ス源義経ノ太万並ニ具足ハ奇怪ノ物ナ

リ古ノ法眼元信ノ函ケル縁起並ニ義経ノ像天狗ノ像目ヲ驚

カセリ(中略)

貴船ニ赴ク北ノ内ニ僧正谷アリ相伝源義経少年ノ時寓東光 坊日々此ノ谷ニ下リ大天狗僧正坊兵法ヲ授リシ処ナリ ノ岩石アリ土人義経ノ事故説ク

種々

山城の枕詞﹁つぎねふ﹂から題名をとった北村季吟の﹁菟芸泥卦﹂

(註

一七

)に

は 僧正谷鞍馬山寺の西四五町計奥に有僧正は天狗の名なり

源義経牛若丸とて此寺の東光坊阿閤梨のもとに児なりしほど

夜この谷にて僧正に剣術を習ひ給へり

痕つけり

其太万痕とて其谷の石に

とあり︑僧正谷の岩に義経剣戟の傷があるとしている︒

﹁近畿歴覧記﹂の追補(註一八)はもう少し考察して

(7)

とみちのくの影

(鞍

馬山

)

Z

宝ヲ一覧ス古法眼元

源義経ノ太万並具足ハ奇怪ノ物ナリ 信画ケル縁起

目ヲ驚カセリ(中略)

義経像

天狗像

立船

‑一

赴ク

源義経少年時

偶東光坊日々僧正谷アリ

此谷ニ下

リ大天 狗僧正坊ニ兵

法ヲ伝シ所ナリ種々ノ岩石アリ

土人義経ノ事ヲ説ク・:(

中 略

)・:

方解石

・等ノ付合ナリ

と︑牛若の付けた傷でなくこの地域の岩石の特徴だと

言っている︒

﹁山州名跡ぷ﹂

には

例正

申什

( 鞍

鳥山

)

八所社両北卜町余ニ在リ

︒牛打背脱.われ路傍‑一紅リ︒

品ヨリ 下リ

坂︒

太郎幼社例正谷市向ニ在リ

此所牛府丸剣術ヲ琢前ノ

所ナリ︒総テ

此所

山石

洞・

付品

川ニ

アラ

ズ︒

行面剣刀

ヲ段ルガ如シ︒比

挑行

(ク グ

リイシ)陸

一れ (カ ク

レイ

シ)

水入石

拠石

(ツ カミ

、‑'

等アリ︒

足駄石

叫 石

などとある︒

現在の鞍馬寺では﹁九十九折

﹂登 山路

の・凶岐神社の上に石造宝熔

があり﹁

源義経公供養陪

﹂とある(凶版五)ここが﹁束光幼跡

﹂の

伝及地であるとか︒

また

川川

正谷

には

﹁義経背競石

﹂がある︒

﹁京羽

二兎﹂に

せくらべ石

名 石 鞍馬

山僧正谷に

うしわか丸せくらべ石とであり

また

北山 矢背 のさと迫のかたはらに弁鹿がせくらべ石とて今にあり

﹁取

引所

μ

﹂に

虫 戸 T 4

1

44 Tg aV伯 作ddH

源義経供養碑

図版五 鞍馬山

red

t r

Ml

dy

例正が谷に牛若丸せくらべ石とてあり︒

又北山八瀬の盟に弁慶がせくらべ石あり

︒これははじめに出す

弁陸石の事なり

' とや の ヲ ︒ ︒

現在

﹁背

くらべ石

﹂とされるのは尚さ一・二メートルほどとある

から︑子供時代とはいえ小柄だったのだろうか︒

室町時代になるとこの時

代を

鉢台にした﹁戸

火狗

の内

・泌

﹂なる物訴

も生まれる

(柱一九)︒

牛若丸時代の義経が駿馬山中で天狗の内裏

に似人し︑地獄を見学︑無事往生したのか大日如来となった父源義

(8)

朝と再会︑前世の宿命によりこれからの生涯は︑平泉に行き兄の挙

兵に参加して平家を滅ぼして本懐を遂げるが︑議言によって三十二

で死ぬ︑と告げられる︒そして﹁汝の前世は虫で多数の烏に食われ

た︒その鳥が転生して平家の武士になっているから辻斬りして倒

せ﹂などと殺人教唆を受け︑千人斬りを始めた・:とされている︒出

家を約束させられながら父の仇を討ち平家を滅ぼしたいと願った︑

という牛若の心情を汲んだ物語だろうか︒

(三)武蔵坊弁慶との出会い

鞍馬寺時代に牛若丸は武蔵坊弁慶と知り合い︑主従の約を結んだ

とされている︒弁慶は島津博士が昭和十年に﹁日本のキングコング﹂

(米映画﹃キングコング﹄の日本公開は昭和八年)と言われたほど

の怪力無双の人物で︑正史にはほとんど登場しないが︑物語では平

家討伐の諸合戦や義経の逃避行にも大活躍し︑平泉で義経最期の時

に﹁立往生﹂したとも︑実は義経と共に生存し蝦夷地に去ったとも

言われている︒室町時代に既に﹁弁慶物語﹂が数種類書かれており

(註

O

)

︑この注釈だけでも研究書数冊を著しても論じっくせな

いほど伝説で一杯の人物である︒また古い絵草紙類や絵馬に画かれ

る時肌を黒色に表現される事︑全身が鉄で覆われていたが﹁弁慶の

泣き所﹂だけは肉身だった︑などの伝説から大林太良博士はアキレ

ス︑ジlクフリ!ト︑平将門など世界的に分布する﹁全身が鉄で覆

われていた神﹂の一人とされていた(註二一)︒

室町物語の弁慶の物語は出生︑修業時代︑播磨国書写山を焼き

東北文化研究所紀要第四十七号

O 払った事など︑義経の従者になる前の物語が中心である︒

二人の出会いの場所は多数考証されているが︑清水寺︑五条大橋

(現在の五条大橋とは別の場所)︑五条天神社︑北野天満宮などが

語ら

れて

いる

﹁都名所図会﹂(註二二)には

五条天神社

此安元元年源牛若丸鬼一法眼の兵書の遺恨ありて戦ひ

感応を得て打勝し此所又武蔵坊に途ひしも此森也

鬼一法眼の話は後世のものだが︑室町物語では京での話となっ

てい

る︒

﹁京

町鑑

﹂(

註二

三)

には

松原

也 故に松原といひならはせり 此道古の五条通也

古の橋杭今にのこれり 弁慶と出会ありも此松原 古は寺町より四五町西へ松の並木有しとぞ

源牛若

京都の弁慶ゆかりの遺跡として﹁弁慶背競石﹂があり︑北山八背

(﹁

京羽

二重

織留

﹂︑

﹁薙

州府

志﹂

)の

巨岩

とい

う︒

また

中京

区に

は﹁

慶石町﹂があり︑﹁弁慶石(図版六)﹂が残されている︒

﹁京

町鑑

﹂に

また

弁慶石町

(9)

a H n ちのくの彰

此町に兄弁腿石ありゆへに小名とす此ア引の米山さまざまの

記あれども怪しければここに記さず︒

中京区弁慶石町 図版六 弁慶石

此打今は汗願寺の方丈の

出にあり

また

﹁京羽二重﹂

には

﹁七条のにし水薬師

の内

此石いにしへ

はくらま口にありしがある年の大洪水にながれて三条御幸町弁腔

石町といふに

有 し 其 後 此 地 に

引としと也﹂

とあ

り︑

﹁名所郎

μ

には

﹁七条の凶水薬師の内山︒

行の町といふにあり はくらま日にありしが︑ある年の大洪水にながれて三条御幸町弁腿

此.

れい

にし

へ そののち此所へひき取しとあり︒水柴仰のほ とりならば必野川のうち也﹂︑﹁山城名勝志﹂

には

﹁今三条辿京極州 円弁出石町︒

制作

中り

述凶

H

寺 或 年 代 記 云 平 禄 元 年 七 月 十 六 H衣川弁慶石三条京極人格﹂

と︑確かに﹁由来さまざま﹂で︑場所も変わっている

︒﹁

京都坊目

ハ ヰ

三年奥州

弁附

凶行

人部

出京M

制作

誌(註二四)﹂は諸説を整理し︑明治二五年に現在地に移されたと

している︒

削侃 什

机の説明仮は主に﹁京都坊

H

芯﹂

に依

った

よう

で︑

千泉衣川館

で弁陛の出愛した石︑鞍崎山から持参したわ︑弁嵯は若いころこの

近くに住んでいた︑などの諸説を記している︒

また

﹁治小節外併

﹂M m

の小にこの石を若者の力試しに朋いている絵がある︒

(注ヒ)ぷ的安明

μ m m

雄校

似元物M

4r 治物

日本占拠文学大系

一 三 一

‑L

( 一

九六

) (比八)

m n

しハ巻八附作町小山川広悦

(

O )

ι

(川九

) ﹁ 部花川名所

﹂ 一

‑ L  

判 比

九年

( 一

ヒ九

= . ) ﹃

H

(

O )

山城名勝ぷ乾坤

)

京総澄川﹄一三

( )

山州名跡ぶ

( 柱

二乙﹁京羽

(

)

郷名所巾

﹂ 一

o m

'

E Oわ

ts

iJIE‑﹂MLnMFぽ徳元年

( 一

正徳元年

h m

都叢Hd

宝水

( 一

O

) ﹃

京都波川

正徳川作)

HA

Mh

(

) ﹁

. 谷

‑ ‑

(

) ﹁

山米斎h μ

. h

(

h

O )

UU

延 山 k川年

h

)

浅井f

(10)

一 一

(

(

O )

(註一七)﹁菟芸泥卦(つぎねふ)﹂八巻九冊

)

︿

)

(註一九)﹁天狗の内裏﹂﹃室町時代物語大成﹄巻九角川書底

(

O)

﹁弁慶物語﹂﹁弁の草子﹂など﹃室町時代物語大成﹄巻一二

(註二一)大林太良﹁本邦鉄人伝奇﹂﹃季刊民話﹄二昭和五O

(註二二)﹁都名所図会﹂六巻六冊秋里離島宝永九年(一七八

O )

叢書﹄六

()

()七3

二 一

黒川道祐

原稿︑出版明治四

北村季吟貞享元年︿一六

昭和五八年

宝暦四年(一七

O

)

()

義経束下りにおける伝説

(一

)出

父の仇討に平家討伐の野心を抱いた牛若丸は陸奥の国の藤原秀衡

を頼って鞍馬山を脱出し東北に向かう︒手引きをしたのは砂金商人

﹁金売り吉次(橘次末春)﹂で︑その館は現在の上京区智恵光院通

今出川上ル桜井町の首途八幡宮の地とされている︒

﹁京羽二重織留﹂に

橘次が井

東北文化研究所紀要第四十七号

O 西陣五辻の南さくら井の辻子にあり

此井大にして水あまた清冷なり 伝云金売吉次末春が宅地

なりと

源のよしつね橘次にしたがひてあづまにくだりし時に此地より

首途(かどで)したまふと也

﹁名所都鳥﹂にも

橘次が井

西陣

愛宕郡

五辻の南桜井の辻子に有

商人橘次末春が屋敷の跡也︒

此井大きにして清(すめり)︒奥州下りの首途の時も此所より

出ておもむかれたり︒又妙心寺の東にある屋敷の跡ともいひ門出

の水というふは大きにあやまれり︒それはむかし官家木辻氏の新

館なるを橘次と批哨したる也︒

妙心寺付近の﹁木辻﹂の井戸が誤伝であることは﹁京羽二重織留﹂

にも

見え

る︒

これ牛若をともなひし金売

﹁薙州府志﹂(註二五)には

橘次井

在西陣五辻南桜井辻子相伝此処賀金商橘次末春之宅地也 此井大而水又清冷也源義経従橘次東行時自此処首途 文妙心寺南門東有木辻村是古官家木辻之領所而干今有第宅之 跡 土 人 誤 木 辻 為 橘 次 村 中 一 筒 井 亦 号 出 門 ( か ど で ) 之 水 義経首途日所用之井也云皆是謬伝也

(11)

橘次の井戸、桜井公園

製作は﹁点初瓦水の一

︑桜

井 ︑ 一名山次のル﹂

とさ

れる

比一

ド形

油収を中心とした桜井公附(凶版七)と︑その凶の山崎状の盛り

t

k

の い U

途八幡神

社(凶版八)からなっている︒

仏 川

田文衛博LLはこの地を陸奥川の校聞から郎の此族たちに頁納物

を運ぶための出

先機関

﹁平泉第﹂と般

定され

( 註

二問

)

角田博

十‑

は本

代けでまた︑牛若丸が秀衡を傾った

型巾

についても︑陸奥守︑

図版七

鎖守府将軍をはMめた後平泉に滞介

忙 し

その

・ 叫

が秀衡の

E

・藤原袋衡

の円であった必原基成と︑品川

船 怖 が

阿 川 附した一条長成はともに権中納

首藤原長忠の子係という附係で︑

この

過激思想の少年を千家から護

るため相談の上︑平泉に赴かせたのでは︑とも々証された︒

(ニ

)蹴

上の伝説

首途八幡、石段の上に社殿がある

士円次と共に奥州に旅立った牛石丸にまつわる地名起訴伝説がある︒

点都

市街から米国に行く道筋はいくつかあるが︑

u h

米海道は三条

大橋から栗田口

を経

・印

して

米山

を越え

︑山科

に向かう︒辺路が山道

にさしかかる所を﹁

蹴上

(けあげ)﹂といい︑

現在は地

鉄蹴

t

がある︒

主織制﹂に

蹴仁水

.卜

東 川口にあり︒

九郎

よし

つね

小作れ

たり

し時

bmJv

h H

eg

A 'E

B

かね尚人偏次本ぷにしたがひい米におもむく時此所にて附似

奥山にあふ︒奥山は夫般の川の川上にして民に乗りぷ附に人る︑

図版八

奥山が郎党あやまりて此水を蹴上てよしつねのぷを汚しぬ︒

よ し

つね其無礼を怒り興市が郎党数

十人

をきりころし︑猶又奥山がヰ

(12)

はなをそいで追いはなっ︒牛若束行首途の吉事なりとよろこびた

まふと云々

また

血洗池誕地

下一柴田蹴上の水の辺にありいにしへ源九郎義経牛若た伝云

りしとき此所にて聞はら興市に逸ひて興市が家人数十人斬ころし

其太万を此水にてあらひたまふと也

﹁名所都鳥

﹂には

蹴上の水

下一柴田に有源の識経牛若ときこへし時くらま山を出

金売

興市はみ

橘次と︑もなひて奥州にくだる愛にて関原興市に逸 の︑国の住人なりしが京へ来るに郎党数十人

所の水をあや

其無礼をいかりで切あひしたりまって蹴あげ義経にか︑る

に興市が耳はなをそいで追はなつまことに門出よしとよろこび

て下られける今此水をあやまって関の清水といふもの有

聞 の

清水は大津の西おいわけに有

﹁薙州府志﹂には

蹴上水

在下栗田

源説経為牛弱

(・

っし

わか

)時

出 鞍 馬

従 賀

金商

師側

次末

ぷ而

ぃ米

行 於悲逸

聞.ぬ興市々々美濃国之士也

騎馬入京

共従者十人誤蹴斯水汚義経衣義経怒其意気掛々然列行

ぃ米北文化研究所紀要

O

年卜

無 礼 抜 万 斬 従 者 十 人 首途之吉

兆也今誤断水称関消水 殺奥市之耳品而放之

関清水在近江国大津之西

﹁山城名勝志﹂にも 蹴上水

︻在栗

田口神明山

東南麓土人云関原与一重治被討所

安元

年 初 秋 頃 美 濃 国 ノ 住 人

関原奥市重治ト

私用ノ事アリテ江州ニ赴タリ

分 東

また

地(胤)洗池

義経斬奥市

従而後洗万処也

興本義経記云

云者在京シタリ 義経菩以為束行

山階の辺ニテ御

掛奉ル

重治

ハ馬上也

義経其無礼ヲ後テ及闘争 折節雨ノ後‑一テ蹄跡‑一水ノ有シヲ蹴曹司ニ行進

市一治終討レ家人ハ逃去ヌ︒

蹴上の義経大日

図版九

(13)

蜘 仙

ha経伝説とみちのくの彩

3

ゐ・玄:

: ;  

号 ‑ 3 :

j f  

‑ 村:

9

'U

ヘ :

山科区御陵血洗町 義経血洗いの池伝承地

図版ー

0

喜多流謡本

「関原興市

J

図版一一

﹁近畿歴覧記﹂

﹁京

都 坊目 誌﹂にも簡単だが同様の記事がある︒ 蹴上の清水は今所在不明だが︑琵琶湖疎水インクラインの上端近

く︑

政・

水工

引殉

難民

引 出

辺倒と住んで﹁義経大H︒

開凶

即興

市と

その

M 4

米の供益仏﹂と称する石仏がある(凶版九)︒実際は鎌灯時代の阿 弥陀石仏である︒また伝説では蹴上の近くだが︑現在はけ問峠を越

えて

山科に下りた所に山科区御陵(みささぎ)血洗町があり(同版

O

)

ここに義純沈池の跡と︑隣接するぷ郎薬科大学迎動場内血︑

に﹁義経腰燐石﹂がある︒御陵の地名から分かるように天智天虫山

科陵の併である︒

これも正史にない話で︑応体博士は﹁鉾﹃

鞍馬出

﹄︑話山﹃関原

奥山﹄が山山内︑熊坂長範伝説と同様競虫型虫者却に凶する脱武州中一か

っ州戦

m

一説

﹄﹂活では興)冗ニ詑(即興市閃﹃山品一としている市︒

は英政国小山で牛行と山

会い

﹁七寸騎﹂の即強な郎党もろともこ

の少年に全滅させられ︑馬を奪われたと訴の脱肢が大きくなってい

る(図版

一一

) ︒

(三)その他の東行にまつわる伝説

半以に向

かう

途・

中︑

﹃義経

記﹄では近江鋭の術で育次の隊聞を盟

う盗賊団﹁出羽の由利太郎︑越後の藤沢人道︑信濃の佐久太

郎 ︑

江の苅興市︑駿河の興津十郎︑上野の畳間源八ら二十五人の盗峨﹂

と闘い︑山利太郎以下五人までの片を取った︒その後厄必川

熱川

川仰

山で一バ

服し

狐九郎諸経と名乗ったとある(元服も鏡の約で行っ

たと

する物語もある)︒

この物語が脚色され︑大盗蹴熊坂長範と牛若丸との戦いになり︑

また

﹁山中常盤伝説﹂といい︑鞍馬を出た牛若を追ってきた常盤は

熊岐に殺されており︑牛行は知ら

ずに

ほの仇を討ったという伝説に

(14)

もなっている︒史実では﹃吾妻鏡﹄に常盤は義経逃亡後も生存して

いた事が見られるのであるが︒

牛若成長

・東下りの段で語られる伝説には辻斬り︑蹴上での虐

殺︑強盗団退治と血なまぐさい話が続く︒島津博士は﹁競勇勇者認﹂

曽・平家討伐の超人的な活躍を合理化するためであろうか︒ としておられるが︑兵法書の入手などその後の短くも華々しい木

東への旅を続ける義経には︑さらに一三河安城で病死するが薬師

如来の化身浄瑠璃脱によって蘇生させられる﹂話がある︑愛知県岡

崎市には﹁浄瑠璃脱の供養塔﹂

(図版=乙がある

また

都に

戻り

軍学者鬼一法眼の秘蔵する兵法の告﹁虎

の巻

﹂を入手する話もある

が︑いずれも郁・みちのくとは附係がない話である

︒室

町物語の﹃判

官みやこぱなし﹄では平泉から都の鬼一判官の元に軍学を学びに米

た義経は﹁奥州は平泉のいわて︑くりはら山の者にて候﹂と名乗る︒

東北文化研究所紀袋

第四卜七号O

一 五

岡崎市浄瑠璃姫 供養塔

図版一二

都で適当な地名を引用して創作したと想像できる名乗りである︒

なお

﹁虎の巻﹂の入手については室町時代の物語に﹁御曹司島わ

たり﹂がある(註二八)︒もとは江戸時代の成立とされていたが︑

文屯・永正ごろの成立とされる﹁天狗の内裏﹂に﹁鬼の大王から兵

法の虎の巻を奪う﹂話が出ており︑中世に遡る物語と判明したと言

ぅ︒平泉滞在中の義経が︑鞍馬天狗の太郎坊に﹁蝦夷が島きけん城

の鬼の大王が兵書﹃虎の巻四二巻﹄を所持する﹂と言ったのを思い

出し︑四国土佐固から高麗航路の船を一隻買い取り︑馬入国・女謹

・小 人国・かしま向

(傑

国)

など

を流

抽出

の末

﹁えぞが品﹂に至り︑

相模国江ノ島の弁財天の化身﹁朝日天女﹂

の助

けで

山地

の大

王の

硲伝

舎を

被写

﹁牛頭馬頭阿房縦刺﹂の迫撃を振り切って﹁とさのみなと﹂

(体

峰十

三淡

?戻る話である山津博士は義経地獄廻り(天)に﹁︒

狗の内裏

)

問機に中国の説話ゃ︑あるいは南蛮人により伝わった

凶欧の伝説が影響していると考

日航

され

てい

︒義経が筒の雌力で危

機を脱する話をオルフェウスに︑異形の山めぐりをスィフトの﹃ガ

リヴァ

l旅行記﹄(初版は一七二六年なのでその原形)とも比較し

ておられるが︑筆者には﹁百合若大臣物語﹂の如くオデッセイの影

山部もあるのではと思われた︒

(

)

一O

(註 二六 )

角山文衛平泉と平安京││必原代の外交政策奥州平泉黄金

虫学

(

八六)

(15)

の世紀﹄新潮社とんぼの本昭和六二年(一九八七)

(註二七)謡曲喜多流﹃関原興市﹄明治コ二年訂正再版︑明治四三年三版

()()

O

悲劇の生涯の史実と伝説

(一

)平

家追

討の

戦い

治承四年(一一八

O )

四月に発せられた高倉宮以仁王の平氏追討

の令旨が諸国に届き︑以仁王戦死の後にも諸国の源氏が続々旗揚げ

し︑伊豆の源頼朝も挙兵︑平泉の義経も奥州の兵を引き連れ黄瀬川

で兄

頼朝

と面

会す

る︒

﹃義経記﹄では秀衡が和泉冠者に命じて陸奥・出羽の軍勢を集め

ようとしたが義経は﹁遅れてはいけない﹂と三百余騎を賜り︑兄の

元に

向か

う︒

興味深いのは三百騎を﹁馬の腹筋馳せ切り︑腔の砕くるをも知ら

ず﹂強行軍させたので伊達の大木戸を越えて行方原(西白河郡)に

至った時は百五十騎に減っており︑﹁百騎が十騎にならんまでも打

てや者ども︑後を顧みるべからず﹂と速度をゆるめず︑武蔵につい

たときは八十五騎に減っていた︑とある︒

頼朝はこれに﹁我らの先祖八幡太郎義家﹂が二三年の合戦(後三

年役)で大敗した時︑弟の新羅三郎義光が職をなげうち駆け付けて

くれた時の喜びに﹁いかでか勝るべき﹂と喜ぶのであるが︑義光は ﹁二百余騎にて下られける路次にて勢打ち加わり三千余騎にて厨川に﹂来たと言っているのは義経の落伍者放棄の強行軍をさり気なく批判している言葉で︑﹃義経記﹄成立の時には義経の戦い方がこのような伝説として人々に臆愛していたと考えられる︒

無事頼朝と面会した義経はしばらく鎌倉に止まり︑寿永二年(一

一八三)︑蒲冠者範頼と共に鎌倉勢を率いて上洛︑木曽義仲を近江

粟津に敗死させる︒

高橋富雄博士はこの前後の﹃玉葉﹄﹃吉記﹄を引いて都の貴族た

ちが範頼より九郎義経の方に深く興味をもっていると指摘された

が︑出自や少年時代の都での挙動から︑坂東武者より組みやすい人

物と目されていたのであろうか︒

都に入った義経は直ちに寿永三年(元暦元年)正月二十九日に都

を出︑二月に一の谷︑翌寿永四年(文治元年)二月には四国に渡り

牟礼・高松・屋島で平氏を破り︑三月二四日には壇ノ浦で平家を全

滅させてしまう︒息を突かせぬ追撃また追撃の鮮やかな勝利である

が︑同時に関東武者の反感を買ったのは︑平泉から黄瀬川までに三

百騎が八五騎になるような︑平氏はおろか関東武者も時易するほど

の︑騎馬隊の速度を最大限に利用した戦法であったからであろうこ

とは先学の注意する所である︒

これが名馬の産地︑北方ユーラシアの秋馬(てきば)の技術も取

り入れ︑蝦夷の時代から騎馬隊を主力として広大な東北の山野を駆

け回っていた﹁みちのくの騎馬戦法﹂なのだと考えたいのだが︑如

(16)

何であろうか

︒その後

中世を通じて︑或いは北畠顕家や伊述政

宗が

都とその周辺で見せた東北の騎馬隊

の威力も義経伝説の脚色に力が あったのではないだろうか

会 己 堀 河 夜 討 と

逃亡

文 治 元 年

(一一八五)︑三

月に壇ノ浦で平家を誠

させた後京都 に戻った義経は

一月も立たずに頼朝と不和になり︑急法鎌倉

に下向

して﹁

腰 越 状

を頼朝に送るも許されず︑十月一七

日に

は鎌倉の刺 客土佐房昌俊の夜討ちを受け

た︒ 京都の滞在

は武家源

氏重代の館

であった六条堀河といい︑現在の

京区佐女牛井(さめがい)

町の

周辺とされている

醒ケ井は名水で知られたが堀河通拡強

で道路の

北文化研究所紀要第四十七号

佐女牛井跡

堀河館の跡とされる 図版一三

O

下となり︑現在は石碑が残るのみである

(図版

一三 ) ︒

﹁京

﹂( 註

二九)に

楊 栴

(やまもも

)町

仙こうぢを西へ入町よりさめが井通までのあひだに六条ほり

の御所とて九郎判官義経すみ給へり

︒椀川

夜打は

所にて侍りと

かや︒

﹁京

二重﹂に

源義経古館 楊梅(やまもも)通の

北あふらの小路のにし口に

六条ほり

川の

御所とて九郎

官よしつねの住み給ひし御

あり

︒土

佐 坊

打手に

上がりし堀

夜討も愛の事

也︒ 今竹薮茂り其跡ばかり残れり

﹁京

二重﹂

にま

た︑

甑 識 経 古 館 旧

楊梅通の北あぶ

らの

小路のにしに

六条

ほり川の御

所とて九郎

官よしつねのすみ給ひし御所あり

土佐坊打手に上がりし捌

川夜

討も安の事也

﹁京

重織留

( 註

O )

武蔵坊居所 伝云

条 河 原 の 東 南 に あ り いにしへ弁鹿よしつねにした

がって京都に侍るときは此所に住居すと︑土

佐坊主正俊

よしつね

(17)

京都の源義経伝説とみちのくの影

堀河の屋形をせむる時も弁慶馬を馳せて此所より趣しなり

此所農業をせずして荒地なり世に弁慶が芝と号す︒

i

弁慶芝については﹁名所都鳥﹂にも

弁慶芝

愛宕郡

二条河原の東南に有︒むかしむさし坊弁慶

にともなひ京に来る時 義理(原文ママ)

まず愛に居宅をかまふ︒此地いまにたが

やさ

ず︒

同様の記事が﹁羅州府志﹂他にも見えるが︑現在はどこか不明であ

V

﹁京町鑑﹂に

金仏下町

油小路の西醒井の南

正俊討手に上京して一戦ありし 昔源九郎判官義経の御居館有し

世に堀河夜討といふも此所の地 土佐坊

(下

略)

他にも︑微妙に位置が違っているが堀河五条から六条にかけての地

が堀河館となっている︒また﹁京羽二重織留﹂などには四条猪熊に

﹁義経太万掛松﹂があるとしているが︑これは細川頼有の墳墓だと

されている︒

夜討ちに失敗︑弁慶に諮問されて嘘で逃れ︑最後は捕えられ処刑

された土佐房昌俊(土佐坊正尊)は謡曲﹃正尊﹄となって人々に知 られていたのか︑

﹁京町鑑﹂に

中金仏町

此辺古云(土)佐坊昌俊頼朝公の御上意を請義経の討手に上

りし時の旅宿有し旧地也

﹁日次記事﹂(註三一)には

十月二十六日

土佐坊昌俊忌︻東鑑日文治元年十月十七日夜侵入堀河源義経

之館:::︼敗北︒鞍馬山ノ宗徒捉エ此ノ日六条河原ニテ謙サレル︒

また﹁京雀﹂に

四 条 通 祇 園 御 旅 所

又この御旅所の南のかたに西向き小社あり︑世にいひったふ是

は土佐坊正尊が社也︒そのかみ頼朝の仰に依りて九郎判官義経の

打手にのほり此事露見して六条堀川の御所にめしょせられ︑義経

の前にて打手の使にあらずくま野まうでのため也といふ起請文か

きたり︒主君の御ために罰をかへりみずおそろしき起請文かきけ

るは忠ありといへどそのむくひにや正尊つひに義経の館に夜うち

していけどられころされたり︒かの起請文をものうき事におも

ひ︑今は神といは︑れて世の人の起論文の罰の身かはりに立へし

といへる︒願ありとにや此故に十二月大晦日の日は京中の商人空

証文のほどこしに此社へまうでていのりまいらするといふ︒

(18)

﹁日次記事﹂には十月二

十日に

四条京

極冠者殿社参詣

俗ニ伝フ

此ノ神偽胤ノ罪ヲ免レシム故

‑一一附日此社‑

一詣

テ欺

キ 売ルノ非ヲ紘フ故

‑ 一

今日参詣ス︒(

中略

)

世ニ或ハ土佐坊日出俊ト

︑昌俊ハ義経ノ前ニ於テ追

討ノ使ナラズ

ト偽リテ哲フ

救フト︒未ダ然リヤ否ヤヲ知ラズ︒ 此ニテ神間ニ因リ殺サルル故ニ他

人ノ偽哲ノ非ヲ

︑弁庇に迫られて熊野牛

王の

・誕に偽の証文を哲

いたので︑

死後阿 通りの拡張で移転し︑ 品地獄へ落ちたが︑偽証文の罪を免除する神になったとある

︒凹条

いま八坂神社御旅所の西の﹁冠者殿社

しがそ れであると言う(図版一四)︒

京北文化研究

所紀

第凶十七号

土佐房昌俊を肥る冠者殿社

左は祇園御旅所

図版一四

O冗年十

μ

後白河法

より兄頼朝の追討の院

宣を受けた義経は大物浦から西

国に逃れようとして迎灘︑吉野に逃げ︑以後平泉にかくまわれてい

る事が判明するまで姿を消す

︒﹃

妻 鋭

には

潜伏

先の

探索

︑ほ

作一

山 盤の取

り調べ︑抑御前の物語などを記録し︑伝説は大物浦沖での平

家の怨

を弁慶

の祈りで退散させ︑吉野からの脱出︑山伏に変装し

ての安宅の聞での物語など多彩である︒ 義経に奥州から従った佐藤継(嗣)信

・忠信兄弟のうち兄継信は

屋島の戦いで義経を庇って戦死

︑弟忠信は義経脱出後︑文治二年九

月二

O

日六条期河館で鎌倉勢と闘い切腹するのであるが︑

コ 口

小 羽

重織留

﹂に 佐藤忠信屋敷

七条の坊門ふどう堂の東南にあり(中略)此所耕作せずして荒

地なり

忠信

一男子あり武家に

成長の後坊門

‑ ‑

郎と号す

ありて坊門と名乗りするはおぼくは是佐藤が苗荷也

﹁京都坊日誌

﹂に

佐藤継信忠

信の枇

中御門束澗院ニ在り

︒今其所を知らず︒

また二

人の供養培が馬町

(現在は京都凪立同物館内に移転)

にあ

ることも﹁

都名所図会

﹂などに見える︒最後まで忠義を口いた家臣

として評判が高かったのであろう

(19)

京都の源義経伝説とみちのくの影

(三)義経由害とその後の伝説

文治三年(一一八七)平泉にたどり着いた義経は臨終の藤原秀衡

から後事を託されるが︑鎌倉と京都からの鑓賞厳しく︑五年間四月

に義経一党は高館で殺害される︒

﹁日

次記

事﹂

四月晦日義経忌︻於奥州衣川館白書︼︒武蔵坊弁慶忌︒

と︑都でもその最後は語り継がれていた︒

藤原泰衡は義経の首級を鎌倉に送るが︑前九年役以来奥州の支配

を武家源氏の悲願としていた頼朝は当然許さず︑七月鎌倉軍が進発

する

平泉藤原氏は名だたる馬所である陸奥国を支配し︑室町物語には ︒

﹁秀衡十八万騎︑関東三十二万騎﹂(﹁天狗の内裏﹂)などと関東武

者と互角に戦える兵力とされていたが︑義経亡き後は﹁百騎が十騎

にならんまで﹂の強行先制攻撃もかなわず︑伊達郡厚樫山の防衛線

が崩壊すると敗走︑泰衡は鎌倉に助命を嘆願して部下に殺され︑他

はなす術もなく降伏し︑同年九月には平泉政権は崩壊してしまっ

た︒京都の研究者には藤原氏三代の平和な時代が続いたので︑平泉

軍には源平両氏のような戦闘力はなかったのだろうと評されている

(註

三二

)︒

島津博士は﹃義経伝説と文学﹄(註二文献)の第二章﹁義経に関

する主なる諸伝説﹂の最後に﹁蝦夷渡伝説﹂を取り上げられ︑﹁生

脱型伝説﹂即ち非凡の英雄の末路が不明の場合に﹁実は生きていて

・:﹂と語られる伝説であるとして︑衣川で自害したのは影武者の杉

目行信︑弁慶と義経は脱出して北海道に渡り︑さらに縫担に至り金

国の将軍となった︑という伝説を紹介されている︒そして北海道の

伝説は金田二尽助の調査により︑近世の日本人が伝え︑ユーカラに

登場する﹁英雄と怪力の従者﹂に当てはめた物︑と判明︒そもそも

義経蝦夷地渡海伝説は江戸初期以前にはない︒大陸へ渡ったとする

説の根拠となる﹁金史別本列将伝﹂なる書は江戸時代の贋作︑﹁義

経はジンギスカン也﹂説に至っては明治一八年の珍説︒と明快に論

破さ

れた

なお同書は︑江戸時代の﹁義経生存説﹂を本気で取り上げて東北

の遺跡を探索したのが仙台藩の﹃奥羽観蹟聞老誌﹄﹁義経事実考・

付録﹂であるとされている︒

﹃奥羽観験問老誌﹄(註三三)巻一七の﹁事実考﹂はこれらの説

による﹁義経勲功記﹂︑﹁金史別本列将伝﹂を詳細に紹介し︑明治の

﹃補修編﹄でも青森県三厩の﹁義経の馬を繋いだ岩屋﹂︑﹁竜馬山義

経寺﹂を紹介し﹁義経此の地より蝦夷島に渡れりと伝ふ﹂と真面目

に論じているが︑これらは悲惨な最期を遂げた英雄への鎮魂伝説に

過ぎなかった様である︒

(

)

中川喜霊

(

)

(20)

(

O

)

哉書﹄ニ

(註三一)﹁日次記事﹂十二巻十二冊

都叢書﹄四

(註三二)上横手雅敬﹁顕義経の生涯と色々な見方﹂﹁今なぜ義経なのか﹂

上横手雅敬編﹃源義経││流浪の勇者﹄文英堂二

OO

(

六年)

(註三三)佐久間洞巌﹃奥羽観蹟聞老誌﹄﹃仙台叢書・奥羽観蹴聞老誌・下﹄

昭和四年 六巻六冊孤松子元禄二年(一六八九)﹃京都

黒川道祐延宝四年(一六七六﹀﹃京

都とみちのくの義経像

﹁東を向いた都﹂平安京には東国︑それも最果ての陸奥・出羽と

の関わりをもっ人物の伝承が多いと気が付いたので︑その代表者と

して坂上田村麻目や︑東国の武者たちを探索したが︑文献も多く︑

過去に様々な研究もされている源義経についても︑伝説中の人物に

注意し︑主に京都の地誌︑名所案内に見える記事からまとめて見た︒

歴史上の義経は記録が少ないが︑源平合戦の最中に鎌倉勢の中心

として突然登場︑都で政権の基礎を固めつつあった平氏を短時間に

滅亡させてしまい︑しかも勝利者の栄光も一瞬で兄頼朝との不和に

より逃亡︑異境の地で悲劇の最後を遂げる︒史料上で不明な時代も

多く︑悲劇の主人公としては恰好の人物︑しかも都人からの武家政

権への批判も箆めることが出来るためか︑史実とは関係なく﹁ご当

東北文化研究所紀要第四十七号O

地﹂名所が創作され︑育てられていったことがうかがえた︒

従来義経伝説には︑地方で作られ成長した物語が都で書き換えら

れ記録された部分がある︑という見方と︑全て都の人々が創作した

と言う見方があった(註三四)︒いま都の伝説を見る限りでは︑も

とは地方で創作されたと断定できそうな話は見当たらない︒意外な

のは室町物語のように地域の交流が鎌倉時代以前より盛富になった

時代にも︑都で語られ記録された物語は都での創作が中心であるこ

とで

ある

今一つ気が付いたのは義経本人よりその側近の武蔵坊弁慶︑佐藤

継信・忠信兄弟︑退治された関原輿市︑熊坂長範︑土佐坊昌俊(正

尊)などの脇役の物語が都では意外に発展し多くの関連する名所や

その物語を残している事であった(註三五)︒

(註三四)高橋富雄博士は柳田園男﹁東北文学の研究﹂で﹁地元の人でない

と書けないから地方で創作された﹂とされた部分は﹃義経記﹄や﹃吾

妻鏡﹄で十分書くことができる︒全て都で創作された物語だ︑と考

(

)

(註三五)前述のようにこの調査は﹃新修京都叢書﹄の詳細な索引を利用さ

せていただいて資料を集めたのであるが︑﹁牛若丸︑九郎判官︑源義

経︑武蔵坊弁慶﹂などだけでなく︑この周辺の人物たちについても

もっと検索するべきであった︒

(21)

京都の源義経伝説とみちのくの影

.

終わりに

都とみちのくを往復して活躍した人物の代表が源義経であるが︑

史料にあまり登場せず︑短期間に目覚ましい活躍で人々を驚かせ︑

悲劇の最後を遂げた一生が人気を呼び︑以後数百年に渡り多くの伝

説に取り巻かれている︒京都では﹁みちのく﹂との関連人物として

語られているが︑あまりにも大きな人物像で取り上げる機会はない

と思っていた︒しかし﹃京都叢書﹄に収録されている近世の名所案

内・伝説紹介だけでもこの人物をさまざまに観察できると考え︑図

書館で該当部分を筆写︑パソコンでデータベースを作成して様々な

視点から追いかけた所このようにまとめることが出来た︒

物語の中にも都とみちのくの関係があるが︑記録されたものは地

方から都に語り伝えられた話より︑都から想像して創作されたらし

いものが多い事は︑時を経ても都人にとって﹁みちのく﹂は遠いあ

こがれの地であったことを示しているようである︒

関心のあった最大の人物である源義経についての物語を︑過去に

ない視点から探索しようと考えていたが︑京都議書を利用して以上

のようなまとめが出来た︒今回も多くの方々から助言︑資料の提供

を頂いたことを衷心から感謝する次第である︒

(平成二七年八月二

O

日)

参照

関連したドキュメント

しかし私の理解と違うのは、寿岳章子が京都の「よろこび」を残さず読者に見せてくれる

詳しくは東京都環境局のホームページまで 東京都地球温暖化対策総合サイト

第2章 環境影響評価の実施手順等 第1

原田マハの小説「生きるぼくら」

1. 東京都における土壌汚染対策の課題と取組み 2. 東京都土壌汚染対策アドバイザー派遣制度 3.

都市 の 構築 多様性 の 保全︶ 一 層 の 改善 資源循環型 ︵緑施策 ・ 生物 区 市 町 村 ・ 都 民 ・ 大気環境 ・水環境 の 3 R に よ る 自然環境保全 国内外 の 都市 と の 交流︑. N P

東京都清掃審議会 (※1) の累次の答申に基づき、都は、事業系ごみの全面 有料化 (※2) や資源回収における東京ルール

詳しくは東京都環境局のホームページまで 東京都地球温暖化対策総合サイト http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/climate/index.html. ⇒