• 検索結果がありません。

罪が先か、罰が先か―フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(前編:シェーマ L)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "罪が先か、罰が先か―フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果(前編:シェーマ L)"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

1. 罪が先か、罰が先か――. フロイト・ラカンにおける超自我の諸相と諸効果 (前編:シェーマ L). 清田友則. Crime or Punishment?: . Aspects and Effects of Super-Ego in Freud and Lacan (Part 1: Schema L). Tomonori KIYOTA. 1. ラカンの数ある図式(シェーマ、トポロジー)の中でも最も基本的で包括的でありながら、入門者. にもとっつきやすく、ラカンみずから「シェーマ中のシェーマ」(2006:4)と豪語したのがほかならぬ. 「シェーマ L」だが、分かりやすさゆえの落とし穴なのか、不可解な点がいくつもある。. 本稿では、前編・後編の二回にわたって、それらの中でもとくに以下の相互に関連する二つの“不. 在”に着目しながら考察を進めていく。その意図と目的については、のちほど触れる。. 1) 「超自我」はシェーマのどこに位置するのか? 2) 「死の欲動」(あるいは「快感原則の彼岸」)はシェーマのどこに位置するのか?. もとよりシェーマ L はラカンが独自に考案した概念図式だが、一方でラカンほど自身の独自性につ. いて謙虚であった人物はいないことを考慮に入れると、シェーマ L も他の図式同様、「フロイトへ. 還」るための一連の註釈的試みと捉えるべきだろう。実際、図中の無機質な記号(「S」、「a」、「A」). も、もとの出自はフロイトの「Es(エス)」、「Ego(自我)」、「Anderes(他なるもの)」である。. ところでエス、自我とくれば、次に超自我がくるはずだが、これがないのはどうしてか。超自我なし. では「第二局所論」の三位一体が成立しないのではないか。そこが第一の疑問点。. 第二の疑問点――死の欲動」(あるいは「快感原則の彼岸」)の所在はどこか?――については、. まだ筆者が十分には読み解けるにいたっていないため、この段階で挙げることに少しためらいがあ. る。それでもあえて提出するのは、ラカン自身も強く奨励するように、誤解には「訂正の道の扉」. (1987b:9)が開けているからだ。誤解は「対人的ディスクールの基盤そのもの」であり、「誤解の幅」. なしにコミュニケーションは成立しない。そこで、無責任な見切り発車を承知の上で提示した次第で. ある。. まず手始めに『フロイト理論と精神分析技法における自我(上)』(1997c:178)にある四つの図式を. 見てほしい――。. . 2. . . 上から順に「『草稿』における心的装置の最初のシェーマ」、「『夢判断』における心的装置」、「ナ. ルシシズムの理論の為の光学的シェーマ」、そして最後にシェーマ L(「自我の想像的機能と無意識. のディスクール」と、四つの絵図式が載っている。. ラカンの簡略な註釈を添えると――。. 第一のシェーマは、フロイトの初期の一般心理学の水準で素描されたものです。出版されたこと. はありませんが、フロイト自身にとって豊かな洞察に満ちたものでした。第二のシェーマは『夢. 判断』の成果を形にしたもので、夢を説明しようとする心的装置の理論です。注意してください。. フロイトが夢の解釈の要素をすべて示したあとでもまだ、夢を心的機能として位置づける仕事. 3. が残っていたのです。第三のシェーマはリビドー理論の水準に位置する、ずっと後のものです。. リビドー理論は決して『性欲論三篇』と同じ時期に書かれたものではありません。そうではなく. てナルシシズムの機能の到来と相関しています。最後に第四のシェーマですが、これは『快感原. 則の彼岸』です。(上同:175). これら四つの図式は、上から順にフロイトの思考の進化の過程を表しており(「人間存在と呼ばれる. ものに対する彼の概念化の進歩です」(上同)、とりわけ題四のシェーマは「フロイトの思考の最終段. 階、『快感原則の彼岸』に対応」(上同:177)しているとされる。ところが、なぜかその後の展開では、. シェーマ L が『快感原則の彼岸』とどのように「対応」しているのか、どこにも記述が見つからな. い。. ちなみに「見つからない」といえば、ラカンが好んでよく引用するピカソの言葉に「私は探し求め. たりしない。私は見つけるのだ」(肯定形の違いはあるが)というのがある。繰り返しを嫌うラカン. にしては何度も引き合いにだすほどだから、よほど思い入れのある言葉なのだろう。何に対する思い. 入れかというと、もちろんフロイトのテクストに対してである――。. フロイトの領野では見出すべきものを拾い集めるには、屈みさえすればよい、ということです。. (上同:291). 要は、ピカソのような天才でなくとも、その気になれば誰でもすぐに実行に移せるというのだが、実. 際そう簡単にいくものだろうか。それともただの言葉の綾か。「フロイトの領野」との但し書きがあ. るのは、フロイトだけに限ったことか。もしそうなら、ラカンの中に答えがなければ、直接フロイト. に当たればよいだけの話になるが、それでは我々はいったい何のためにラカンを読んでいるのか。. 「フロイトに還」るためと言っている割には、「屈」んでも何も見つからないではないか。なのに、. わざわざラカンを経由する必要はあるのだろうか。. もちろんこれは修辞的な問いであり、ラカンの必要性を軸に議論を進めることに変わりはない。ラ. カンは我々にとって「知っていると想定される主体」であり、「フロイトに還」るための迂回路じた. い、ラカンによってあらかじめ敷かれたものである。そこに薄々気づきながら、それでもラカンの先. 導なしに進めないのは、我々自身が率先して「知らないと想定される主体」(筆者の造語)の立場に. 身をおいているからである。その意味で、つまり両者のあいだに転移が働いている意味で、「知って. いると想定される主体」と「知らないと想定される主体」の関係は、先生(書き手)と生徒(読み手). の関係よりも、分析家と被分析家(患者)の関係に近い。“ラカンゼミ”(セミネール)の特色もこの. すぐれた臨床的性格にある。. 転移は、言表行為と言表内容との操作的分断によって引き起こされる。「屈みさえばよい」と意表. を突かれた読者が、それでも納得した気持ちになれば、転移が作動している証拠である。もちろん、. いざフロイトのテクスト(言表内容)を開いてみても、「見出すべきものを拾い集め」られない状況. は以前と変わらないが、言表行為の魔術が効いている限り、「見つける」ことへの希望はなくならな. い。「一歩前進できることを期して、三歩前進の前に二歩後退」(2002a:133)とラカンも言っているよ. うに、大切なのは焦らず着実に地歩を固めていくことであり、あえて「二歩後退」を促すのがラカン. の教師としての手法であり、分析家としての技法でもある。. 4. ピカソの話はこのくらいにして本題に戻ろう。まずは超自我(の不在)から。. 『快感原則の彼岸』(1920年)は、「フロイト思考の最終段階」を示す歴史的論稿だが、周知のよう. に、超自我概念が本格的に登場するのは、その三年後の続編『自我とエス』(2023 年)の三位一体. (「自我」「エス」「超自我」)が織りなす「第二局所論」においてである。ただ、二つの論稿が正、. 続の関係にあることを考慮すると――実際、正編の「自我」は後編でもそのまま「自我」、後編の「エ. ス」は正編「無意識」の後継概念にあたる――「超自我」だけが、その対応物の萌芽さえ見当たらな. いのはいささか奇妙である。. 四つの図式でラカンのいう「人間存在と呼ばれるもの」は、フロイトの「心的装置」を言い換えた. ものだが、どちらも抽象的で分かりづらい。それでも下に行くほど具体性が増すのなら、いちばん下. のシェーマ L から始めるのが手っ取り早い。ただ、そうしたらしたで、なおのこと超自我の不在が気. になってくるのも事実である。ならば、四つの図式以外のもっと平易な図式から始めてみてはどうか。. たとえば、帽子の形(「聴覚帽」)でお馴染みの脳を模した図はどうだろう。しかも出典は同じ『自. 我とエス』である。なぜラカンが四つの図式からこれを省いたのかは不明だが、そこも含めて検討し. てみよう。ちなみに『自我とエス』(1996b:221)発表の九年後(1932年)に書かれた『続精神分析入門講. 義』(2011:103)には、その修正版も出ており、両者の違いは以下の通り――。. 左図の「聴覚帽(聴覚知覚)」が、右図では「超自我」に差し替えられている(それ以外はほぼその. まま)。いま一度冒頭で述べたことを繰り返すと、超自我の記述が不在なのは、あくまで正編『快感. 原則の彼岸』のほうであり、三年後の後編『自我とエス』では全面展開されている。なのに、なぜ左. 図に超自我が見当たらないのか。さらに付け加えると、タイトル自体、本来なら『自我とエスと超自. 我』となるべきところが、『自我とエス』となっている。言葉の選択に極めて厳格なフロイトが二度. も同じミスを繰り返すとは考えにくい。何かそれなりの理由があるはずだ。. 筆者はその手がかりを『自我とエス』にでもなければ、『快感原則の彼岸』にでもなく、むしろラ. カンのシェーマ L なかに探っていくつもりだが、その理由は、ラカンが『快感原則の彼岸』を「フロ. イトの思考の最終段階」と位置づけ、そこに「心的装置」(「人間存在と呼ばれるもの」)の完成形. を見いだしながらも、それがなぜかラカンのシェーマ L であるからだ。. 5. 2. そこでまず手始めに、四角形の四極の中でも最も怪しく問題含みな、文字通り“それ”(「Es エス」. =It、Id)から探ってみよう。ところで「“それ”が見えたら、終わり」といえば、スティーブン・キン. グの「It イット」(2017 年)がまず思い浮かぶが、「エス」では逆に「見えたら、始まり」である. (※ただし、後述するように、「エス」が別の形で回帰という条件がつく)。どちらも“それ”という. 点では同じなのに、なぜ片方が「終わり」で、もう片方が「始まり」になるのか。それは、前者では、. “それ”(ピエロ)と“それ”を見る主体(主人公)が別人物であるのに、後者では二人が同一人物だか. らだ。. ちなみに同じカタカナの「エス」でもフロイトは「Es」なのに、ラカンが「S」なのは、後者が語. 呂合わせで Es に“S”ubject を重ねているからだが、Subject には、それに加え「主体」としての“私”. と「主語」(主格)としての“私”の二つの意味合いがある。ただ、人間をなにより文法的生き物と捉. えるラカンにとって、この違いはさほど重要ではなく、主体と主語は限りなく同義に近い(ちなみに. この点はフロイトも同じ)。それよりむしろ問題となるのは、主語としての“私”の存在を担保する目. 的語の“私”の位置づけのほうだ。日本語だと、どちらも「私」なので気づきにくいが、英語だと、目. 的語「I」ではなく「me」や「myself」となる。たとえば“私”が自分の顔を鏡で見ると想定しよう――。. ✗ I look at I. ◯ I look at myself.. “I look at what I look like.”と「I」を残す表現もあるにはあるが、問題の本質はそこではなく、シェー. マ L にも示されるように、主語(I)と目的語=対象(a)が、構文上、不可逆的な関係にあることで. ある。たとえば、鏡に映る自分を見るとき、鏡に映る自分と鏡を見る自分が同一人物だからといって、. そのまま“鏡の中の自分”が“鏡の外の自分”を見れることにはならない。同様に、主語(鏡の外の自分). から目的語(鏡の中の自分)に向かう語の流れに逆らい、目的語から主語へと逆方向に読むことは文. 法上許されない。. 不可能を可能にするホラー映画の喩えが出たついでに、”I look at I.”についても文法上のマジック. が使えるかどうか試してみよう。結論から言うと「“”」で括るという条件であれば(”I look at ’I.’”). 文法的に可能となるが、そのぶんニュアンスが微妙に――フロイトいう「不気味なもの」に――変わ. る。それはもはや主語の”I”とは異質な、「私」のようで「私」でない、「それ」としか呼びようのな. い何かである。文を受動態(「私は『私』に見られている。」)に変えると「不気味さ」はさらに増. す。. 幸いシェーマ L 上の主語「S」と目的語「a」では非対称性が保たれているが、“かろうじて”の留保. がつく。そもそもシェーマ L のなかで、「S」と「a」の関係を示す線は引かれておらず、繋がりをも. つのは「a’」(「他我」、「小文字の他者」)と「A」(「大文字の他者))に対してのみだ――。. 6. では、なぜ「S」と「a」は繋がらないのか。理由は第一に、ラカンの言葉を借りれば、「それこそが. 文章の定義」だからである(2005a:11)――。. 我々は瞬間的な現在に甘んじることは絶対にできません。<中略>例えば、私がある文章を話し. 始めたとしますと、皆さんは私がそれを話し終えたときに初めてその意味を理解します。皆さん. がその文章の最初の言葉がどこにあるかを理解するためには、私が文章の最後の言葉を言った. ということがどうしても必要なのであって、それこそが文章の定義なのです。(上同). これを主語(S)と目的語(a)の関係に沿って言い換えてみよう。目的語というと、スタートライン. がまずあって、主語の合図とともにゴールに向かってひた走るイメージがあるが、それは「瞬間的な. 現在」(スタート・ゴール間のどの瞬間を切り取っても、話者は話す内容を把握している)という錯. 覚によるものであって、まずゴールに着き、そこからスタートラインへと遡行し、さらに誰が何をど. のように話していたのかを事後的に決定するのが実際における意味形成過程である。主語(S)が同. 時に「エス」であるのもそのためで、主語が措定されたばかりの時点では、「それ」としか言いよう. がない。それでも目的地に向かって意味=意志を貫徹させる意欲が起こるのは、名無しの誰かの特定. を促す動作主「a’」と「A」が、それぞれ迂回ルートを形成しているからで、これが「S」と「a」が. 直接繋がらない第二の理由である。. 「a’」と「A」は、どちらもフランス語「他者(autre、Autre)」の略語だが、映画『イット』とよ. り親和性があるのは「a’」のほうだ。映画の副題は「“それ”(It)が見えたら、終わり」だが、「エス. (Es)」だと逆に「見えたら、始まり」である。なぜ始まるのかというと、「エス」を「a’」が引き. 継ぐからであり、主体としての“それ”が対象としての“それ”に格変化することで、主体(私)と偽り. の主体(“私”)の同一化を回避させるためだ。ただし、そこには副作用があって、二つの対象――「a」. (自我)と「a’」(他我)――に“格”分裂することで混乱が生じる(これがラカンの「鏡像段階」で. ある)。. (Lシェーマ). 7. ここで「a’」経由ルート上の二つの矢印に着目しよう――。. S a’ a. 矢印はそのまま文章の通常の流れの向きを示しており、先ほどの遡行性は見られないが、いっぽうで. はっきりしない点が二つある。ひとつは、なぜ「a」が主語「S」と目的語「a」の間にはいる必要が. あるのか。もうひとつは、なぜ前半の矢印だけ点線なのか。 . これら二つの問いはたがいに連動している。前半の矢印が点線なのは、単純に主体が向かう対象が. 不可視だからである。可視化されるには、「a’」経由の直線矢印を通って「a」と重なり合い、鏡像化. (同一化)される必要がある。逆にいったん鏡像ができあがれば、主体の「想像」から「a’」の痕跡. がなくなり、あたかも「S」と「a」が一つの直線で結ばれているような錯覚が生じる。「a’」と「a」. の二重化は、自我イメージの補強構築でもあり、想像化の必須要件である時間の欠落――「 像 イマージュ. は. 生命体を越えて生き残るという意味で、 像 イマージュ. の中には、生の動き、生の不定性を超越する何かがあ. ります。」(2015:235)――を逆手に取って、二つの矢印のあいだの距離と時間をなくすことにある。. それにより、「a’」「a’’」「a’’’」「a’’’’」と時間の経過につれ年輪のように多層化されることで、あ. たかも自我が“成長”しているような気分にさせる。. 3. では、自我と構文上の対極に位置する主体の成長についてはどうか。そこが実は曖昧なところで、. 能動的立ち位置にいる主体は鏡を通してしか自分を見る(知る)ことができない。しかも鏡に映るの. は受動的な立ち位置に置かれた自我である。かくして主体と目的語の混同は両者間の距離と時間を. なくし、文章を「瞬間的現在」に縮減してしまうが、一方でこの混同がないと、“鏡を見る私”と“鏡. に映る私”のあいだに亀裂が生じ、ドッペルゲンガー的不安が生じてしまう。それを防ぐための防衛. 手段が主体化なのだとすれば、そのもとにあるのは主語と目的語の履き違えという構文ミスである。. たとえば翻訳にうるさいラカンの指摘によれば、イメージ化されたエゴの元となるフロイトの「理. 想自我」の英語訳「Ideal-Ego」は、実は正確な訳ではなく、原典では「Ego」は「Ich」(「I」)とな. っている。英語訳を元に孫訳された仏語版でも誤りは踏襲されていて、主格であるはずの「Ich」が. 「moi」と目的格になっている。ラカンは誤訳の背景に当時彼の宿敵で、自我を過大評価する対象関. 係論者たちの悪しき影響を挙げている。ところが不可解なことに、誤訳を指摘しながらも、ラカンは. ミスを糺してはおらず、シェーマ L の「a」の横にはそのまま「moi」が添えられている。これはいっ. たいどういうことか。何らかの意図が背後に込められているのだろうか。. 早計のそしりを覚悟で推測を試みると、ここで問題となっているのは主格か目的格のどちらかと. いうことではなく、どちらもが「a」と「a’」の二重構造に両義的に含まれているということではなか. ろうか。それはとりわけ「S」と「a」を、「S」にとっては目的格、「a」にとっては主格の機能を担. う「消え去る媒介者」(F・ジェイムソン)として仲立ちする「a’」のなかに見て取れる。対象関係論. 者が理想として掲げる「Ideal Ich」(理想自我)は精神分析家の自我であり、患者は分析家の自我を. 模範にすることで改善が図られるとされる。模範とはなんとも自信に満ちた態度だが、ラカンが皮肉. るように、二人の自我のどちらのほうが健全か天秤にかけてみれば、おのずと分かることらしい――。. 8. 君は私に同一化できるから、そして私は君に同一化できるから、当然、我々二人のうちで、現実. によりよく適応した自我こそが最も良いモデルである、というわけです。(2006:25). このように、対象関係論が捉える二者関係は対称的、双方向的である。かたや、ラカンのシェーマ L. における二者関係は、左下への矢印の向き(「a’」→「a」)に示されているように、非対称的、一方. 通行的である。「→」がなにより示すのは、「a’」がまず先にあって、その次に「a」が「a’」をひな. 型にして形成されること、最初から「a」が実体「Ich」として存在しているのではなく、他者「a’」. を主格「Ich’」に模すことで、「想像的」に自らの主格像を作り上げるのである。. なぜこのような転倒が起きるのか。それは、左上の主格「S」にまず「a’」が重ね合わされ、さらに. この“主格”化された「a’」の上に「a」が二重に上書きされるからである。「a」のこうした両義性(主. 格≒目的格)を念頭に置き、フロイトのモットー「エスのあったところに自我をあらしめよ(Wo es. war, soll ich werden)」に対するラカンの再解釈(ジジェク経由)を読み直してみよう――。. それは「自我は、無意識の欲動の住み家であるエスを征服しなければならない」という意味では. なく、「私は私の真理の場所にあえて接近しなければならない」という意味である。「そこで」. 私を待っているのは、私が同一化しなければならない深い「真理」ではなく、私が共生すること. を学ばなければならない堪えがたい真理なのだ。(2008:18-19). 「エス」がなぜ「堪えがたい真理」なのかという問いについては後ほど触れるとして、ここで押さえ. るべき点は、「a’」→「a」の想像線が、「堪えがたい真理」の避難場所として機能しているというこ. とである。対象関係論が説く分析家の自我も、そうした機能の一環として位置付けられよう。また同. 様の理由から、「堪えがたい真理」を押し付けるのが審級としての主な役割の超自我が想像線上にあ. るとは考えにくい。. うつ病と同じく、超自我には、真面目で義務感が強い人を好んで巣食う傾向があると言われる。な. らば、怠けや逃避に走れば超自我の攻撃から逃れられるかというと、そうとはならず、代わりに別の. 問題が生てくる。シェーマ L の右下「A」の場所から、想像線を監視するのが超自我だが、監視の目. を逃れたらどうなるかといと、二者関係の密室化であり、息苦しさのあまり「二人であることの病」. (ラカンのある著書の表題)が起こりがちだ。それはたとえば“毒親”問題であったり、“ダブルヒロ. イン”(『アナ雪』他)であったり、年老いた母と同居の“子供部屋おじさん”や“墓守娘”であったり、. あるいは逆に、一緒にいたくない相手との“二密”による“夫源病”や“在宅ストレス症候群”であったり. と、現代における家族のあり様を色濃く反映する事例として、認知が広まっている。. ちなみに「二人であることの病」を否定形で言い換えると、「三人でないことの病」となるが、三. 人目の人物がいる場所は「A」(「大文字の他者」)であり、先の「a」に向かう二つのルートのホラ. ーでないルートのほうである――。. S A a. ひと目見て分かるように、「A」を挟んで二つの矢印がそれぞれ反対方向に向いている。そんな股裂. き状態でそもそも文章が成り立つのか――というのが最初の疑問だが、我々の論旨に沿った答えは. 9. ひとつしかない。すなわち、文法をねじ曲げてでも第三者を介入させることで、閉じた二者関係を防. ぐのだ。ただ、こう捉えてしまうと、ただちに次の疑問が起こる――閉じた二者関係が問題であるな. らば、左端に「a’」がこないといけないはずだが、なぜ「a’」ではなく「S」がそこにいるのか。もっ. とも、かといって、「S」がなくなると頭(主語)のない文章になってしまい、そうなると元も子も. なくなる。. これら錯綜した問いをどのように紐解くか。そのヒントとなるのが、先のフロイトのモットー「エ. スのあったところに自我をあらしめよ」についてのラカン独自の注解である。フロイト没後、ラカン. が新解釈を提起するまでの一般的認識は、ジジェクの引用にあるように、「自我は、無意識の欲動の. 住み家であるエスを征服しなければならない」という対象関係論的解釈が主流だった。. これを根底から覆したのがラカンだが、それがはっきりと見て取れるのがシェーマ L である。そ. れはとりわけそれまで同じものとみなされがちだった無意識とエスをはっきりと区別し、対極の位. 置に据えたところに示される。. S (エス) A(無意識). 真ん中を垂直に横切る「a’」→「a」を挟んで点線と直線に分かれているのは、図式にも示されている. 通り、「無意識」が「a’」→「a」の壁で仕切られているからだが、ということは、壁の内側にいる「S」. にとって、壁の外側には何も存在しないことを意味するのだろうか。もしそうだとしたら、エスと無. 意識の区別がそもそも成り立たなくなるが、それとも別の解釈があるのだろうか。いずれにしても、. 鍵は点線部分にありそうだ。「A」から対角線(「a’」→「a」)までの(「無意識的」と添えられた). 直線部分との対比でいくと、点線部分はおのずと「意識(的)」となるが、矢印は「S」に向いてお. り、そこだけ見ると、対象関係論者たちの解釈(「エスのあったところに自我(=意識)をあらしめ. よ」)とも合致する。「あらしめよ」というからには、背後から意識化をうながす別の動作主がいる. ようにも受け取れるが、対象関係論では、分析家が自身の分身「a’」をひな形に、「a」を「S」に導. くよう要請される。「a’」→「a」を越えなくとも、左上の三角形内でことは完結するわけだ。. 当のフロイト自身はどのように考えていたのだろうか。『自我とエス』を読む限り(「メタサイ. コロジー」という論文の性格上、やむを得ないが)、分析家(対象関係の分析家だと「a’」)の影. すら見当たらず、自我の孤軍奮闘ぶりが執拗に描かれている――。. エスにたいする[自我の]関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行. なうが、自我はかくれた力で行なう、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から. 落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、. あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがよくある。(1996b:274) . 「自分の意志ででもあるかのように」という部分が重要なポイントだ。騎手が奔馬をうまく手懐けて. いるように見えて、じつは馬の動きに合わせているだけにすぎないように、「自我もエスの意志を、. あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように」錯覚しているだけにすぎないとしたら、点線部分. の「意識(的)」についても同様に差し引いて考えなければならない。. 10. その結果、もはや意識的とは言えないまでに無意識的であることが判明したと仮定しよう。にもか. かわらず、自我がその事実を否認し続けた場合、それがただの偽意識でしかないとしても、だからと. いって、「a’」→「a」の壁の向こうの直線上を流れる無意識とまったく同じものとは言えないだろ. う。あとで詳しく見ていくように、これら二つの“無意識”は、点線部分が「想像的」無意識、直線部. 分が「象徴的」無意識と、それぞれラカン的に分類することができるが、その前に、先の主格、目的. 格としての自我の両義性の問題をクリアしておく必要がある。. これらを乗馬の喩えに当てはめて考えてみると、騎手が主格としての自我、馬に翻弄される自我が. 目的格の自我と捉えることができる。ただし、前者については留保が必要で、自我に偽意識(無意識). の疑いが残る以上、目的格を中心に置く後者のほうを先に検討すべきだろう。フロイト自身、エスの. 発案者である G・グロデックに同調しながら、次のように述べている――。. 彼[グロデック]はわれわれが自我とよぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであ. り、彼の表現にしたがえば、未知の統御しえない力によって「生活させられ 、、、、、、. 」ている、と繰り返. し主張している。<中略>そして私は、彼の見解を考慮するように提案する。(1996b:273) . 何に対して「受動的」か。もちろんエスに対してである。では、なぜ点線矢印がエスのほうに向いて. いるのか(向くことじたい能動性の証ではないか)。我々はその答えを、矢印の先にある「S」では. なく、矢印の出発点があるであろう「a’」→「a」の壁の向こう側に求めることになるが、出発点まで. の直線ルートは「無意識」と表示されている。. そもそもラカンのいう無意識とは何か。まず思い浮かぶのが「無意識は言語のように[として]構. 造化されている」という有名な定義だ。ここでいう言語とは象徴と同義であり、構造化された象徴. (「象徴界」「象徴秩序」)が擬人化されたものが「大文字の他者」(「A」)である。この点を踏. まえ、あらためてシェーマ L の二つの交差する線(「a’」→「a」の線と「A」→「S」の直線部分). を見ていくと、そこで浮き彫りになるのが、以下にあるように(突然で恐縮だが)「死」である。難. 解な文章だが、シェーマ L と照らし合わせながら、筆者なりの解読を試みてみる――。. 自我と死との関係はきわめて密接です。というのも、自我は主体がその中にとらえられ疎外され. ていると感じる共通のディスクールと、主体の心的現実との交点だからです。. 人間において想像的関係は、死の現れ出てくる裂け目が生じるところですから、迂回されます。. 象徴の世界は、その基礎そのものは反復する執拗さの現象ですが、主体にとって疎外するもので. す。あるいはもっと正確には、象徴の世界が、主体がつねに他の場所で実現されることの、主体. の真理が主体にとってつねに一部覆い隠されていることの原因です。自我はこの想像的世界と. 象徴の世界が重なるところにあります。(1997d:61-62). まず「自我と死との関係はきわめて密接です」についてだが、これはラカン独自の見解ではなく、フ. ロイトの『快感原則の彼岸』が原典である。いくつか例を示すと――。. あらゆる生命の目標は死である 、、、、、、、、、、、、、、. 。(1996a:174) 本能生活はすべて死をまねくことに奉仕する。(上同). 11. 自我本能は無生物に生命があたえられてはじめて生ずるのであって、無生の状態を回復しよう. と求める。(上同:177-178). 快感原則は、まさに死の本能に奉仕するもののように思われる。(上同:194). どれも世の通念からかけ離れたものばかりだが、かといって極論と安易に斥けるわけにいかないの. は、世の通念への順応をなによりの任務とする対象関係論の――「ポリコレ」をもじるなら――“精. 神分析的正しさ”を、ほぼ同じ内容のまま極端な表現に言い換えただけにすぎないからだ。. たとえば「あらゆる生命の目標は死である 、、、、、、、、、、、、、、. 。」は、“生き物の命は有限である”の言い換えだし、. 「無生の状態を回復しようと求める」も、“土に帰る”と言い換えられよう。「死の本能に奉仕する. もの」としての快感原則にしても、どうせ死ぬなら安らかに死にたいという、誰もが抱く願望をフロ. イト独自の用語で言い換えたものにすぎない。科学者の立場で言われるとこちらも面食らうが、教会. やお寺の講話だと思えば、馴染みのあるものばかりだし、終末期のベッドの傍らにカウンセラーがい. てもとくに場違いではない。もっとも、死への準備という観点から対象関係論を捉え治すと、分析家. が自我の模範を示すことで、患者の自我の修復が行われた後に訪れるのは死ということになり、それ. が治療の究極の目的だとしたら、分析家はまるで死神の化身ということになるが、それはそれでまた. 別問題である。. 4. それにしても、フロイトはいったい何を根拠に「自我本能=死の本能」(上同:185)と断言するのか。. そこがいまもって謎なのだが、それと比べると、自我と死のあいだに「主体」をクッションに置くこ. とで、自我の死がそのまま主体の死とはならないラカンの死生観のほうが、まだしも分かりやすい。. ちなみに対象関係論の見方はというと、主体と自我の一致が理想とされるため、自我が死ねば主体も. 共倒れしてしまう。. こうした違いの由来は、先の「想像的」無意識と「象徴的」無意識の違いとも絡む問題だが、問題. の下地を作ったのもじつはフロイトで、「想像的」無意識に対応するのが「理想自我」(Ideal-Ich)、. 「象徴的」無意識に対応するのが「自我理想」(「Ich-Ideal」)である。さらに言えば、前者には「小. 文字の他者」(「a’」)、後者には「大文字の他者」(「A」)と、二つの他者がそれぞれ対応して. おり、シェーマ L は、これらを二つの対角線上に配置することで図式化したものである。. まずは一つ目の対角線「A」→「S」。「『エス』とは、主体の中で<他者>のメッセージを介して. 『私』となることができるものです」(2006:52)、とラカンが言うときの<他者>は、「大文字の他者」. を指す。直線・点線矢印を通じて<他者>からエスに伝わる象徴言語で作成された「メッセージ」の. 中身は、直線と点線の混線のせいで判読困難になっている。そこで主体は<他者>の真意を汲み取ろ. うと試みるが――,. 原理上、私は[ランガージュの壁]の向こう側には到達できません。私が真のパロールを口にす. るたびに私が目指しているのは基本にこの他者 A たちです。しかし鏡面の反射の働きのせいで. 私が手に入れるのはつねに「a’」、「a’’」、なのです。(1997d:120). 12. ちなみに「他者 A」のあとに「たち」と複数形になっているのは、大文字の他者も小文字の他者同様、. 「A1」、「A2」と多元化しているからだが(バイリンガルやバイセクシュアル、異文化共生、メルテ. ィングポット、等々)、壁で隔てられているため、「メッセージ」の送り手がどの他者(たち)なの. か分からない。そのため、“私”は唯一、顔の見える「a’」、「a’’」たちに頼らざるをえないが、それ. らも元はと言えば、私の似姿をもとに鏡像化された小文字の他者、すなわち――,. 我々がどんなものにでもしてしまえる他者、一つの対象、自分が何を言っているのか知らない者. にさえしてしまえる他者です。我々がランガージュを使う時、我々と他者の関係はつねにこの曖. 昧さにおいて機能します。言葉を換えればランガージュは我々を他者の中に基礎づけると同時. に我々がこの他者 A を理解する事を根底から妨げるようにできています。(上同:120-121). 二つの引用を読み比べてほしい。どちらも主体の自己疎外について論じているが、主体の相関物であ. る「他者」が「小文字の他者」(「a’」)から「大文字の他者」(「他者」)に微妙にシフトしてい. ることにお気づきだろうか。さらに、これに呼応するかのように、自己疎外の原因が最初の引用では. イメージ(「鏡面の反射」)に、二つ目では言語(「ランガージュ」)と、それぞれ別個に帰されて. いる。. なぜこのような面倒な記述プロセスを踏まねばならないのか。それは、繰り返しになるが、“文章. として”自己を示そうとするかぎり、主語(主体)と目的語(対象)の分割が避けられないからであ. る。主語が省略されやすく、目的語が部分化しやすい日本語だとなかなかピンと来ないが(例:「私. を褒めてあげたい」の「私」は正確には「私の努力」)、主格と目的格の区別があるかぎり、どの言. 語でも「主客逆転はできないと」いう原理は一緒だ。たとえば「I look at myself」を「Myself looks at. I」と置き換えることは、文法的にも意味的(行動的)にも許されない。鏡の中の「私」は、鏡の外の. 「私」を見ることはできない。そのとき、鏡の中の「私」は無力な存在である。そうした弱みにつけ. 込むことで「どんなものにでもしてしまえる」のが主体のマジックだが、それでも全能というわけで. はなく、影響が及ぶのは「ランガージュの壁」までである。. 主体としての「私」は、対象としての「私」を見ることはできても、完結したメタ文章としての「私. が『私を見ている私』を見る」ことはできない。ラカンのいう「主体の真理」とは、言表行為として. の「私は私」(文章を作る行為)と、言表内容としての私は私(文章の意味内容)の間に横たわる亀. 裂のことを指す。「主体の真理が主体にとってつねに一部覆い隠されている」というときの「一部」. とはこれら二つのうちの一つであり、同時に両方を見ることはできない。そのことで生じる不具合が. 「理想自我」と「自我理想」の分裂と、それによる主体の混乱である(混乱することが主体の要件と. もいえる)。. 主体が自身の目を通じて(=文章を作ることで)獲得する対象が「理想自我」(文章の中に現れる. 「私」)だとすれば、「自我理想」は、このまさに文章表現によって自我を「どんなものにでもして. しまえる」「私」の暴走を、壁の外側から監視する「A」の代理人としての、もうひとりの「私」で. ある――。. 13. <自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を. 監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理. 想である。(ジジェク 2008:139). それでは、「憧れ、現実化したいと願う理想」を「私」は叶えることができるだろうか。答えは否で. ある。引用にもあるように、「原理上、私は[ランガージュの壁]の向こう側には到達でき」ない。. 「到達」しようにも、<大文字の他者>が「私」に何を求めているのか、知りようがない。そんな為. すすべのない「私」を<大文字の他者>は、壁の向こうでただじっと見つめているだけである。. ここで疑問がよぎる。主体が「[ランガージュの壁]の向こう側には到達でき」ないにもかかわら. ず、<大文字の他者>の存在を知り、「憧れ、現実化したいと願う理想」を抱くことができるという. のはどういうことか。これまで誰ひとり見た者はいないのに(=表象不可能なのに)、その存在を誰. もが信じて疑わないもの(正確には、自分以外の誰もが信じているように見えるから、自分も足並み. を揃え信じたフリをするもの)――これこそまさに「表象代理」(Vorstellungsrepräsentanz)にほかな. らないが、一方で、数あるフロイト概念の中で、これほど多くの誤解に晒されてきた概念はない(そ. の最たるものが「代理表象」である)――。. この「Vorstellungsrepräsentanz」は、例のまずい訳が言うような「代理的表象 représentant représentatif」. なのではありません。それは表象の代わりなのです。(2000:79). . そもそも、なぜ「代理表象」ではなく「表象代理」なのか。「理想自我」「自我理想」と同種の語呂. 合わせか。いや、それとはまったく関係ない。ラカンみずから格好の例として挙げるフロイトの糸巻. き遊び(「あっち―こっち Fort-da)を挙げているので、それを手がかりに両者の違いについて説明. してみる。. 「代理表象」の場合、糸巻きは、幼児のそばに常にいてくれるとはかぎらない母親と同じ動作をと. りうる点で――いるとき(「こっち」)もあれば、いないとき(「あっち」)もある――母親の表象. 物とみなすことができる。糸巻き遊びが幼児にとって快感なのは、そこにいないはずの母親を自分の. 意志でそばに呼び寄せられるだけでなく、あっちに放り投げることで、幼児を置き去りにしたことへ. の腹いせや憂さ晴らしができるからだ。. 糸巻きが母親の「代理」である意義もそこにある。表象だけでよいのなら、母親とは似ても似つか. ぬ糸巻きよりも適当な素材はいくらでもある(母親の写真や持ち物、姉妹や祖母、等)。表象に代理. が加わるのは、母親の不在を補う機能が代理に付与されたからだが、この機能を極端に推し進め、母. 親の面影どころか痕跡すらなくしたのが、代理表象ではなく、表象代理である。. 事実、糸巻き遊びに没頭している幼児のそばに母親がいたとしても、遊戯に夢中なあまり、母親の. ことなど眼中にないだろうし、逆にいえば、母親の表象から切り離されて初めて遊戯に没頭できると. いえる。表象を代理することは、表象の中身(母親)というよりは、表象の機能(在・不在)を代理. することであり、そこが表象の中身にこだわる代理表象との決定的違いである――。. 「表象代理」とは、無意識において記号 シーニュ. として、表象を、すなわち把握の機能としての表象を代. 理しているもののことです。(2002a:108). 14. 表象の中身の省略、機能への特化が「記号 シーニュ. 」あるいは「シニフィアン性の優位」(2000:82)を確立する ことで、糸巻きはもはや母親の表象物ではなくなり、代わって「主体」が登場する(「糸巻きこそを. 我われは主体というべきである」(2000:83)。ちょっと舌足らずな説明だが、このロジックが分かりに. くいのは、ロジックそのものに加え、我々の目に刷り込まれた偏見のために、ついつい糸巻きじたい. に目が向いてしまうからである。我々が真に目を向けるべきものは、糸巻きというモノではなく、あ. くまで「あっち」「こっち」という言葉(シニフィアン)である――。. このシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する。(同上:294). この文を糸巻き遊びに置き換え、図式化すると――。. 「あっち」 糸巻き(幼児) 「こっち」. シニフィアンという点では「あっち」も「こっち」も同じだが、構造的位置が始原的で非対称な「あ. っち」をラカンは「一なるシニフィアン」と呼び、特権的地位を与えている――。. それは、最初のシニフィアン、すなわち一なるシニフィアンが<他者>の領野に出現するかぎり. でのことであり……。(同上:294). 「あっち」(「一なるシニフィアン」)の等価概念が「<他者>」(大文字の他者)だとすれば、「こ. っち」の等価概念は「a’」(小文字の他者)ということになろうか。これらを基に、「あっち」を起. 点にシェーマ L と重ね合わせると、以下のようになる――。. 「あっち」=「A」 糸巻き(幼児)=「S」 「こっち」=「a’」→「a」. ちなみに「こっち」(「他のシニフィアン」)がなぜ複数なのかというと、先の議論と矛盾してしま. うが、複数の関係にかんしては、どういうわけか表象代理ではなく代理表象(「意味内容」)が適用. される――。. 意味内容が問題となるのは「表象 Vorstellung」の方です。<中略>そのとき、世界の諸対象はい. わば主体という括弧のもとで引き受けられ、そこで a、a’、a’’……という一続き全体が展開され. ます。(同上:297). まず最初の疑問だが、意味内容はどうして「a、a’、a’’……」と連鎖(代理)するのか。それは、「一. なるシニフィアン」と違い、「他のシニフィアン」の場合、“ひとりでは生きていけない(=一語で. は意味を成さない)”からである。. 辞書の喩えがわかりやすい。任意の知らない単語、例えば「slack」を辞書で引くと、「ビジネス向. けチャットツール」とあるが、「チャットツール」の意味がよく分からないので、さらに引いてみる. 15. と、「ビジネスチャットツールはさまざまな種類があり、それぞれに異なった特徴や魅力があり」と、. さらに枝分かれしていく。どこまで行けば意味が確定するのか。だいたいの理解でよければ、他のア. プリとの機能や性能の違いが分かれば十分だろう。ただ、違いの背後には膨大な意味の連鎖(「a、. a’、a’’……」)が潜在的に含まれており、これらを「一続き全体」として圧縮したのがほかならぬ表. 象である。なので、たまたまこれを機に、それまで使っていた line から slack に乗り換えた(代理さ. せた)としても、それで line がなくなるわけではなく、履歴やノウハウの引き継ぎを通じ「全体」の. 隠れた一部として残り続ける。. かたや、「あっち」のほう(<他者>)はというと、ずっと表象不可能のままである。理由は、そ. こに「不在」しかないからである。「いや、そこに糸巻きがあるではないか!?」と言うかもしれな. いが、糸巻きはあくまで代理に過ぎず、しかもそれが何を代理するのか、幼児はもはや覚えていない. し、覚えていないからこそ、それじたい何も表象しない糸巻きが、たまたまおもちゃに選ばれたわけ. である。しかも糸巻きは幼児自身でもある。「アリストテレスにならって、人はその対象でもって考. える」(2000:82)のと同様、幼児も糸巻きでもって考えるのだが、何について考えるのかは重要ではな. い。重要なのは、考えることで「主体の分割」(同上:294)が起こり、<他者>(あっち)を起点に、. 「一続き全体」(こっち)へとシニフィアンの流れが生じることであり、「不在」から「在」への流. れじたいこそ考える行為にほかならない。. 5. この点を踏まえ、先の「ランガージュの壁」をあらためて検討したい。主体が「[ランガージュの. 壁]の向こう側には到達でき」ないにもかかわらず、<大文字の他者>の存在を知り、「憧れ、現実. 化したいと願う理想」を抱くようになれるのはどうしてなのか。ところで、我々は「ランガージュの. 壁」を、「想像(的)線」、「a’→a」、「他のシニフィアン」(「a、a’、a’’……」)、「意味内容」. と様々に言い換えてきたが、どれも目論みは一つ――“代理表象”を通じた<大文字の他者>の偶像化、. 「小文字の他者」化である。. 筆者自身、偶像化の誘惑に屈することはままある。たとえば大学の講義で<大文字の他者>を分か. りやすく説明しようとするあまり、これとよく似た概念(「世間」、「社会」、「掟」、「巷間」). で当座を凌いだりしたものだ。だが、厳密にはこれらは概念ではなくイメージである。正確な意味を. 求める概念と違い、イメージは“像”の焦点さえ合っていれば、多少の意味のずれは許容される。た. とえば「世間」と「社会」の微妙なニュアンスの違いは、状況に応じて使い分けられる程度に置き換. え可能な誤差であり、しかもイメージの真価は誤差にある。. たとえば新聞の「社会面」を「世間面」と言わないのは、たまたま慣習上そうなっただけの話で、. 内容が世間的であることを訝しがる読者などいない。ある新聞の定義によると、社会面とは「事件・. 事故やまちの話題などの記事」とあるが 1、たとえば「まちの話題」とひらがな表記に変えることで、. 「事件・事故」の重苦しさを相殺させるのもイメージ操作の一種である。厳密に(概念的に)考えれ. ば、陰惨な殺人事件と町内会の催しを一緒くたに掲載するのはおかしな話だが、イメージで括れば、. 読者も鷹揚に受け流せる。. ただ、イメージのこうした特徴は同時に弱点でもあり、置き換え可能な類語のストックがどれほど. 増えようと、概念の域には到達しない。これはおそらく「ランガージュの壁」の“こちら側”(シェー. マ L の左上領域)にいる者の目には「イメージの壁」にしか見えないからだ。目は主体の自我が宿る. 16. 器官なので、「ランガージュの壁」によって遮断された自我理想は見えないはずだが、それでも気配. だけは感じさせるのは、理想自我の代理表象を介してそれらしきものに変換されるからであろう。. 自我理想としての理想自我というとややこしい言い方になるが、従来の二つのタイプの自我(自我. 理想、理想自我)に加え、さらに二つのタイプの理想自我(“理想自我的”理想自我、“自我理想的”理. 想自我)に細分化できる。子どもの将来の夢(サッカー選手、お花屋さん、パイロット)にあるよう. な、ナルシスティックな自己像に訴えるものが“理想自我的”理想自我だとすれば、“自我理想的”理想. 自我は、「士・師業」(医師、弁護士、教師、等)に代表されるような社会(貢献)色の濃い職業が. イメージとして浮かぶ。. とはいえ、後者が醸す“高い志”オーラが概念的というと、そこは微妙なところで、テレビのプロ野. 球中継を観てプロ野球選手に憧れるのと、医療ドラマを観て医師に憧れることのどこが違うのか?. と問われると、返答に窮してしまう。一方で、かりに元の動機がイメージだったとしても、現実に地. に足のついた社会活動をしているのであれば、事後的に概念を形成したと言えなくもない。アフガン. で治水事業に奉仕した故中村哲医師は概念の体現者だが、中村医師に憧れて同じ治水事業の道に進. んだ若者が概念的に劣るとは思えない。そう考えると、”理想自我的“理想自我はともかく、”自我理. 想的“理想自我と括るのは、不要な細分化かもしれない。無駄に頭を混乱させないためにも、理想自. 我と自我理想の原点に戻ろう。. まず基本的かつ決定的な違いを押さえておくと、理想自我にとって理想の実現は必須要件ではな. いが、自我理想の場合、理想とその実現は切っても切れない関係にある。この違いをフロイト自身の. 用語で分けると、理想自我は「理想化」(ただし、これについては留保付き)、自我理想は「昇華」. とそれぞれ概念として分けられる――。. 昇華が欲動について行なわれるものを現わし、理想化が対象において行なわれるものを現わす. 以上、両者は概念上区別されなければならない。(1969:126). 抽象的な記述だが、後半部分(「理想化が対象において行なわれる」)が理想自我だけを指している. と早合点してはならない。「対象」としての自我は自我理想にも含まれており、その点に違いはない。. 重要なのはむしろ以下の指摘である――。. 自我理想の形成はしばしば、理解が欠けているために欲動の昇華ととり違えられる。高い自我理. 想の尊厳と引換えにナルシシズムをえた者は、それゆえに、リビドー的欲動の昇華に成功したも 、、、、、、、、、、、、、、、、. のである必要はない 、、、、、、、、、. 。(同上、傍点筆者). 傍点部分が何を意味しているのかというと、理想の実現のために必要な「抑圧」(努力、禁欲)の見. 返りとしての昇華(非性的快感、満足感)が必ずしも行われるわけではなく、社会的栄誉や他者から. の尊敬を得たからといって幸せになれるわけではない、という事実である。なぜ昇華はつねに起きる. とは限らないのか。それは、快が先送りされる傾向があるからであり(フロイトのいう「現実原則」)、. この原則に沿って作られたのが自我理想である。一方、理想自我の等価概念は「快感原則」である。. これらふたつの原則はしばしば手段と目的、過程と結果が本末転倒の事態になる(常態と言ってよい. かもしれない)。. 17. たとえば「キャプテン翼」に憧れ、軽い気持ちでサッカー教室に通いはじめるもメキメキ上達。あ. れよあれよと数年後には強豪校の中心選手。キャプテンとしての自覚も芽生え、選手たちの模範たる. べく誰よりも練習に明け暮れる毎日。努力の甲斐あり卒業後、念願の Jリーグへ。そんな自分自身の. サッカー人生をあらためて振り返ると、あの「キャプテン翼」と言えどしょせんは子ども向けテレビ. アニメ。それがまさか本物の Jリーガーにまでなろうとは…と自分の変貌に戸惑いつつも、回り回っ. て自身のプレーに夢を託すちびっこサッカー選手たちの期待を裏切ることだけは許されないと、み. ずからを厳しく律するようになると、もはや昇華とは無縁の、立派な自我理想の誕生である……。. ……とこう書くと、あたかも立派な人格を体得したかのように聞こえるが、あくまで主体の監視役、. 「主体がその前で恥じ入る眼差し」2としての自我理想であり、主体の思い通りにはならない。主体. にできることはせいぜい、自我理想の諸々の教えを“取り込む”だけで、自分の価値観を自我理想に. “投影”することではない。しかも、取り込めば即、終了(昇華)とはいかない。それこそ先の見え. ない攻略ゲームといっしょで、常に更新し続けなければならず、取り込み完了と同時に次のステージ. が始まる。一方の理想自我はというと、更新は学習内容(概念)ではなく、対象(イメージ)に対し. て行われる。タマネギの皮によく喩えられるように、理想自我は複数の対象群から構成されており、. それらは「自我」という名のフォルダー内に蓄積保存される。. かたや、上書き保存の自我理想の場合、更新毎にデータが削除されるため、最新のデータすらいっ. たん保存されたら元に戻すことはできない。主体が真に保持すべきデータは、自己の成長の証として. のフォルダー内にない未来の自我理想であり、それですら、いったん手に入れてしまえば、使用済み. のデータとなり、捨てるのを惜しんでフォルダーに残しておいても、理想自我としてしか関連付けら. れない。. 理想自我と自我理想の関係は、寓話「うさぎと亀」に似ている。理想自我(うさぎ)が自我理想(亀). を捕え追い越そうとした瞬間、なぜか元の位置に逆戻りしてしまう。ならば、無駄な努力などせず、. ただじっと未来を見つめていればよいのかというと、それもまた許されず、自分から行動を起こさぬ. 限り向こうから棚ぼた式にやってこない。大切なのは、未来の自我の現実化に向けてつねに前進し続. けることであり、努力が報われるかどうかは、神のみぞ知るである。. ところが、この神(またの名を<他者>)がまたくせ者で、慈愛や赦しとは裏腹の高圧的な態度―. ―規律、風紀、戒め、叱責、懲戒、監視、等々――で接してくるのである。しかも露骨な外的強制と. してではなく、主体の中から自然と沸き起こるような「生権力」(フーコー)として血肉化されるの. で、主体が少しでも努力を怠ろうものなら、<他者>は“黙ってはいない”。「黙ってはいない」とは. ちょっとオーバーな言い方だが、これにはじつはわけがあって、冒頭で触れた超自我の不在の問題を. 満を持してこれから論じていくにあたり、これ以上意表を突く――超自我の本性を如実に示す――. 切り口はないと考えたからである。. 6. 超自我の本性とはなにか。それこそ他ならぬ聴覚であり、視覚に頼る自我理想との決定的違いでも. ある。ふたつは役割分担的に――シェーマ L 的にいえば、「ランガージュの壁」を挟んで左上部の三. 角形と右下部の三角形に分かれることで――主体の視聴覚を四角形に合併する。ジジェクはこれら. の違いを次のように整理する――。. 18. 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥. じ入る眼差しである。すなわち、「眼差し―恥―自我理想」/「声―罪―超自我」。3. しばしば同一概念とみなされがちな自我理想と超自我だが、紛らわしい点では恥と罪も同様である。. ただ、後者には明快な識別法があって、目と耳のどちらを経由するかが判断の目安となる。. たとえば人前で恥をかいたときに“穴があったら入りた”くなるのは、周りの視線が痛すぎるから. だろう。逆に罪悪感に見舞われたときに感じるのは、視線ではなく声であり、“良心の声”とは言って. も“良心のまなざし”とは言わない。良心の声は“内なる声”とも言われ、元々は主体の外部にあった掟. やルールが内面化されたものである。フロイトの心的装置の「聴覚帽」は、“目の上のたんこぶ”なら. ぬ、“耳の上のたんこぶ”の異物感を表現しようとしたものだろう。この違和感は、無理やり異物を外. から内部に埋め込まれるという、文字通り“外傷的”な性格に起因するものだ。. ところで日本では、『菊と刀』(ルース・ベネディクト)の余韻からいまだに抜けきれないのか、. 恥と罪を安易に日本と西洋に分けて見る風潮が依然としてあるが、構造的差異と比べれば地域差レ. ベルの問題にすぎない。たとえば英語の”Shame on you!”は、日本語の「恥を知れ!」と同等かそれ以. 上に強烈な罵倒だし、アメリカの法廷では聖書に手を置いて宣誓するが、日本の法廷だと「良心に従. って真実を述べ」云々と、表現方法は違えど真実の重みは一緒だ。. それよりもむしろ検証すべきは、目と耳の懲罰をめぐる分業体制についてである。それこそ、二つ. のうちのどちらかを選ぶとなったとき、見えるが聴こえない 、、、、、、、、、. 辱めを受けるのか(自我理想)、聴こえ 、、、. るが見えない 、、、、、、. 裁きを受けるのか(超自我)。それ以前にそもそも主体に選択権はなく、すべて<他者. >の一存に委ねられているのか。これはもう状況次第としか言えないが、<他者>であれば、主体に. 恥の不意打ちを食らわせる自我理想に、主体であれば、自己懲罰、もしくは自傷行為に駆り立てる超. 自我に、それぞれ化身することになる(肉眼で見えるわけではない)。. ちなみにどちらのほうが先に分業体制に組み込まれるかというと、「エディプス・コンプレクスの. 遺産」(1996b:282)である自我理想がまず先で、そのあとに「かつての自我の弱体と依存性の記念碑」. (同上:291)である超自我が組み込まれる。これら二つの間の時間差は、各々が自我に説く以下の父に. 対する心構え(同一化)の差としてあらわれる――。. 自我理想:「お前は父のようであらねばならない 、、、、、、、、. 」。. 超自我:「お前が父のようであることはゆるされない 、、、、、、. 」。(同上:281). ここでいう「父」とは、血の繋がった父というよりは、<他者>の暗喩としての父、あるいは父の暗. 喩としての<他者>であり、「父のようであらねばならない 、、、、、、、、. 」は、「<他者>のようであらねばなら 、、、、、、. ない 、、. 」と言い換えられる。“子どもは父親の背中を見て育つ”と言われるのは、父の目が、家族に対し てではなく、社会のほうを向いているからである。一方で、背中は社会を遮る壁にもなっていて、見. えない部分は、子供なりの想像力で埋めていくことになる。. こうして父は子どもの中で、大文字の他者「A」(父の背中)と小文字の他者「a’」(子どもが想. 像する父)に分割、仕分けされる。「お前は父のようであらねばならない 、、、、、、、、. 」というとき、父が象徴す. るのは、父の背中で遮られた未知の世界であり、父(の背中)が<他者>の暗喩となるのは、そのか. 19. ぎりにおいてである。「父のようであらねばならない 、、、、、、、、. 」のは、「ランガージュの壁」としての父の背. 中である。背中に何か指示事項が書かれているわけではないが、父の顔が社会に向いていることから、. 自分も社会に顔を向けねばならないことを、すなわち自分も“社会人”にならなくてはならないこと. を子どもは学ぶ。この人生で最初かつ最大の学習事項を押さえれば、あとは社会人としての諸々の属. 性や義務――教育、納税、勤労の「国民の三大義務」や法令遵守、学歴、年収、道徳や礼儀――等を. 適宜身につけていくだけである……。. ……と言いたいところだが、ことはそう簡単に運ばない。これまで繰り返し指摘してきたように、. 社会的価値が社会から個人に移管される際、理想自我「a’→a」に変換されるため、価値を取得したあ. とも、ずっと新たな自我理想の獲得への(無駄な?)努力を続けていかねばならない。その意味で、. 「父のようであらねばならない 、、、、、、、、. 」というよりは、「父のようであろうとし続けなければならない 、、、、、、、、、、、、、、、. 」と. 言うほうがより正確だろう。さらに別の言い方をすれば、取得した価値をさらなる価値を得るための. 手段(資本)として、利益の還元を永遠に先送りする忍耐力を規範化、審級化したものが自我理想だ. とも言える。. その際、重要となるのが、目標達成への努力の指標化であり、英語でいう”accountability”(説明責任). が求める内容とは、結果ではなく、過程としての努力数値目標である。その最も原初的な標語が「一. 日一善」だが、これもまた達筆の文字で掛け軸や色紙に書かれることで、概念ではなく字体に注意が. 注がれたりすると、理想自我に堕してしまう。. このように自我理想をどこまで追い求めていっても、まるでメビウスの輪のように理想自我に反. 転してしまう点で、両者は“表”と“裏”の関係にあると言えるが、他方、自我理想と超自我の関係. は、“光”と“影”(闇)に喩えることができる。. 超自我の起源は両親の寝室にある。そこには、子どもの模範となる理想自我は存在しない。いや、. まったくないとは言い切れないが、この「原光景」というあまりに眩しすぎるイメージを取り込むだ. けの能力を子どもはまだ持っていない。にもかかわらず、両親の寝室が立ち入り禁止になるのは、能. 力の有無とは別に、家族内の絶対的掟があって、その最初に書かれている条項が「父(=夫)のよう. であることはゆるされない 、、、、、、. 」である。ここでいう夫とはもちろん妻に対する夫であり、夫が妻に対し. て“すること”が子どもには「ゆるされない」のは、子どもにとっての母は断じて妻ではないからだ. (近親相姦の禁止)。シェーマ L に「父」と「母」はいる。だが「夫」はもちろんのこと、「妻」の. 痕跡すらないのはそのためである。. 7. さて、問題の超自我の“声”だが、両親の寝室の中の出来事が子どもにとって――実際に目撃した. かどうかにかかわらず、幻想上の――「原体験」だとしたら、そこで耳にする言葉は何か。万が一、. 両親が子どもの気配に気づいたとしたら、躾けというよりは、動転して咄嗟に思いついた「出ていき. なさい!」「早く寝なさい!」といったその場逃れの言葉だろう。これら行為遂行的(performative). 発話の意味内容は、教育的配慮とは無縁の、問答無用の「見るな!」であり、なぜ見てはいけないの. かについては、問うことすら暗に禁止される。. ところで、この「暗に」という無言の禁令はいったいどこから来るのだろうか。受け手としては“ど. こからともなく”としか答えようがないが、もちろんそれでは答えにならない。だが視点を変え、こ. の幻聴的な性格こそ、超自我の懲罰的、外傷的機能の中核だとしたらどうだろうか――。. 20. 超自我の地位は、われわれを迫害し、われわれの心のバランスを乱す侵入者であるトラウマ的な. 声 、 の地位である。(1996:98). 「トラウマ的な声 、 」が「地位」として意味すること、それは、声の持ち主がかならずしも人(父)で. ある必要はなく、懲罰的、迫害的な役割をこなせるなら――糸巻き遊びの糸巻きがまさにそうである. ように――代理でもかまわないということであり、超自我の「超」に込められた意図もそこにある。. ただ、ここで素朴な疑問が起こる。そもそも何のために超自我は主体を苛めるのか。過ちや失態へ. のお仕置きといった躾けのたぐいなら分かるが、その場合、罪の重さと罰の重さが互いに同等である. べきではないか。なのに、トラウマを植え込むほど罰が罪を上回るとはどういうことか。ちょっと行. き過ぎではないか。. ここで疑問が疑惑に変わる。罪と罰の不均衡がじつはあらかじめ仕組まれたもので、その目的が搾. 取や水増しの合法化、常態化だとしたらどうだろうか。仮に罪と罰の既定上の比率が 4:6 で利益が. 2 生じるとしよう。この利益 2 を前倒し的に固定すると、たとえ罪を犯さなくても比率は 0:2 とな. り、罰 2 が自動的に加算される。この加算された罰を元に罪を錬金術的に生み出すことが可能になれ. ば、主体が何も罪を犯さなくても、超自我は“零度”の罪を主体に科すことができる。カフカ的世界の. 主人公たちと同様、このいわれなき“原罪”に対して主体はとうぜん身の潔白を主張するが――、. それでもこのとまどった潔白という抗議には、常に…はっきりしないカフカの世界の「抽象的な」. 罪の感情、権力の目からは私はアプリオリに何か悪いことをしているのだという感情が伴う。何. の罪なのかははっきりわからないし、まさにそのために――自分が何の罪なのかわからない以. 上――さらに罪が重くさえなるのだ。もっと鮮明に言えば、私の本当の罪は、まさに私のこの無. 知にこそあるのだ。(同上:104). 何も悪いことをしていない私に罪は無い 、、. はずなのに、なぜ“無い”ことへの無知が罪になり、罰を受け なければならないのか。このどうみても理不尽なロジックが、それでも主体を拘束するのは、逆説的. だが「悪魔の証明」がそうであるように、罪を犯したことが“無い”ことを証明する手立てがないから. だ。. ところで悪魔といえば、当初は神と同じくらいにあった「この世の神」としての威厳が(「コリン. ト人への第二の手紙」4:4)、世俗化(近代化)の波で著しく低下し、いまではバットマンやアニメキ. ャラ程度の存在にしか扱われなくなってしまったのは残念なことだ。とはいえ、いまもこの世に悪が. 存在する以上、何らかの形で――例えばメタファーとして――その潜在能力(潜勢力)を発揮してい. るはずだ。現に、凋落の理由が世俗化(近代化)にあるのなら、同じ理由で発展を遂げたものもある. はずで、たとえば、「(ブルジョア階級が)呼び出した地下の悪魔」(1951:50)とマルクスが呼んだ資. 本主義などは、近代における(メタファーとしての)悪魔の筆頭候補だろう(ちなみに一時期、資本. 主義の最大の敵だった共産主義のマルクスによる比喩は「幽霊」(1951:39))。. それでは、資本主義のどこがいったい悪魔なのか。もちろん、利潤(剰余価値)という合法的搾取. 形態である。等価交換であるはずの商取引が、なぜ悪魔の取引に変容し、利潤(搾取)が生まれるの. 21. か?――という謎を解明しようとしたマルクスの価値形態論は、資本主義という名の「悪魔の証明」. (世俗バージョン)である。悪の話になれば、とうぜん罪と罰の問題も出てくる。. こう言ってよければ、搾取とは主体の無実の罪への罰であり、利潤は一種の賠償金として超自我に. 徴収される。とくに最近の新自由主義社会における利潤は常に上昇傾向にあり、「0:2」「0:3」「0:4」. …と貪欲を増すばかりだが、超自我も貪欲さの点では負けてはいない。どちらに対しても主体は手を. こまねくばかりで何もできないのは、たんに無力だからというよりは、無力であることじたいがひと. つの罪だからであり、無力を理由に唯々諾々と罪を受け入れることへの罰が無限に追徴される。資本. 主義社会における罪人は搾取する資本家ではなく、搾取される労働者であり、彼らは搾取された廉で. 罰を受けるのである。. とくに最近の新自由主義社会における利潤は常に上昇傾向にあり、「0:2」「0:3」「0:4」…と貪欲. を増すばかりだが、超自我も貪欲の点では負けてはいない(その象徴が封建領主も真っ青の CEO の. 超高額年収である)。資本主義に対してであれ、超自我に対してであれ、主体は手をこまねくばかり. で何もできないのは、単に無力だからというよりは、無力であることじたいがひとつの罪だからであ. り、無力を理由に唯々諾々と罪を受け入れることへの罰が無限に追徴される。資本主義社会における. 罪人は搾取する資本家ではなく、搾取される労働者であり、彼らは搾取された廉で罰を受けるのだ。. 同様に、超自我がみなす罪人とは、自身が犯した罪を知らない者のことであり、そのかぎりにおい. て、実際に罪を犯したかどうかは問題にな�

参照

関連したドキュメント

ところで,労働者派遣契約のもとで派遣料金と引き換えに派遣元が派遣先に販売するものは何だ

ア詩が好きだから。イ表現のよさが 授業によってわかってくるから。ウ授

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

 当社は、APからの提案やAPとの協議、当社における検討を通じて、前回取引

て当期の損金の額に算入することができるか否かなどが争われた事件におい

データベースには,1900 年以降に発生した 2 万 2 千件以上の世界中の大規模災 害の情報がある

)から我が国に移入されたものといえる。 von Gierke, Das deutsche Genossenschaftsrecht,

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration