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真宗教学研究 第24号(2003)

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ISSN 1346-2156

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精神主義と現代ーポストモダンと精神主義一

講 演 ポストモダンの親驚 本願史の中の清沢

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荷之縁起と本願ー 研究発表 「現在安住」についての一考察 浄土の救済原理に関する考察 一場として荘厳される必然性 三心具足の念仏法然の信心論 中国南朝における 『大般担繋経』受容の一考察 真宗教学学会講演会 孤独のレッスン金子みす、、の詩から 現代人にとっての浄土 真宗教学学会名古屋大会記念講演 浄土経典に説かれる極楽浄土 2002年度教学大会発表要旨 (18名)

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真 宗 教 学 学

大 村 英 昭 1 児 玉 暁 洋 21 西 本 祐 撮 41 富 岡 量 秀 57 居 者 田 万 里 子 70 長

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宰 円 83 菅 原 伸 郎 101 柴 田 泰 111 藤 田 宏 達 129 h

三三L 151

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講 演 真宗大谷派教学大会 A

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二年度

ポストモダンの親驚

ポストモダンの親驚 ご丁重なご紹介をいただきました、大村英昭でござい ます。実は、今からちょうど三五年前ですが、私が大学 を出た頃に父が亡くなり、父が戦後焼け野が原の中から 復興してくれた寺を、私が継職いたしました。当時、父 は五五才でこの世を去ったわけでございます。私は現在、 本願寺派の寺でございますが、その父が、実は河内︵大 阪︶のお東のお寺から、船場の寺へ養子に入ってきてく れた人であります。 そういうことで、戦前の話ですが、私の父は本学、大 谷大学で学んだということであります。父の実家は、確 か男の子ばかり四人か五人の兄弟でした。お寺の方とい っても、今と違いまして兄弟すべてを大谷大学へやると

刀 口 円 U H H いうのは、大変なことだったとうかがっております。父 は三男坊でございましたから、大谷大学へ行かしてもら ったということを大変誇りに思っておりました。 その関係で、金子大栄先生が大阪の南御堂さんなどへ ご講演にみえますと、その時だけは有無を言わさず、父 は高校生くらいの私を引っ張っていくわけです。﹁ちゃ んと聞いとれ﹂ということであります。しかし、当時の 金子先生は、晩年の金子先生でありまして、めったらめ ったらという話でございましたので、高校生の僕は大抵 我慢できずにグ

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ッと寝ていたわけです。でもその雰囲 気だけは味わわせていただきました。金子先生がお見え になると、前にお座りのお同行衆で拝む方がありまして、

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﹁こりゃ生き仏様なんだ﹂というように思いました。そ れを父が大変誇りにして、わしはああいう先生に習った のだと言っておりました。また、その他曽我量深先生の お名前など、たくさん聞かせていただいたわけでありま す。その父が死に、私がお寺を引き継ぐことになった際 に、父が残した本の中に、例えば金子大栄先生の著作集 などがございましたので、私はある意味で父の思い出を かけて勉強したということがあります。 そんな中、暁烏敏というお名前も、父からは耳にたこ ができるほど聞かせてもらっておりましたので、そのご 高弟であります児玉先生とともにこういう機会を与えて いただいて、父も喜んでいるか、照れ臭がっているかよ く分かりませんが、私としては、本懐を遂げておるとい うほどの思いがあるわけでございます。 人 7 同の教学大会は、一二年にわたって﹁精神、主義﹂を テ l マにされてまいりました三年目、いわば最後の年で あります。そして今回は﹁ポストモダンと精神主義﹂と いうことで、私がお招きをいただいたわけであります。 レジュメにも書きましたように、以前、たまたま﹃ポス トモダンの親鷲﹄という本を何人かで編集して同朋舎か ら出版し、本願寺派のほうではそこそこに話題になりま ポイントは。ホストモダンとは何かということであ ります。ここからが本論でありまして、ちょっと時間の 関係で早口になりますので、ついて来ていただくのがし んどいかなと思いますが、お許しをいただきまして、お 話を進めたいと思います。

ー し れ ∼

清沢満之先生は一九

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三年に亡くなりまして、すなわ ち今年が百回忌であるとうかがってきたのですが、その 亡くなられました一九

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一二年という年は、明治三六年で す。この年は、我々社会学をやっております者にとって、 どういうことで覚えているかといいますと、マックス・ ヴ ェ 1 パ!という人の﹁プロテスタンテイズムの倫理と 資本主義の精神﹄と題された最初の論文が出た年であり ます。これは現在一つの単行本になっており、岩波書店 から大塚久雄先生の翻訳で大変大部な本になって出版さ れております。この本のもとは、第一部が社会政策学雑 誌という雑誌論文として出されます。後に﹁禁欲のエー トス﹂論としてきわめて有名になるものでございます。 政策学雑誌に投稿されたのがそういう年であります。マ ックス・ヴェ l パ

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自身も比較的早く亡くなりますから、 これは若い時のきわめて挑戦的な論文でありまして、後

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ポストモダンの親賢官 にこれほど大きな影響力を及ぼしてくるものはないかも しれません。とりわけわが国に大きな衝撃を与えた論文 になるわけです。マックス・ヴェ!パ l に影響を受けた ものの中に、昭和十六年東京帝国大学に卒業論文で提出 された、内藤莞爾氏の﹃近江商人と浄土真宗の倫理﹂と いう名論文があります。 マックス・ヴェlパ

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自身の言葉で言えば、近代合理 主義ということであります。その近代合理主義の精神を 産み出すということについて、彼は直接にはキリスト教 のプロテスタンテイズム、とりわけで合衆国に広がりま したピュ l リタニズム、つまり、清教徒主義という人々 の信仰、信仰心を挙げます。彼はそれを﹁禁欲のエート ス﹂と名付け、これが近代のきわめて合理的なあの資本 主義、とりわけ合衆国に花聞きました最も進んだ資本主 義の精神、こういうものの苗床となったのだということ を言っています。現在の地上の富貴、具体的にはアメリ カ合衆国の豊かさでございますが、そういう意味での地 上の富貴をこの世にもたらしている資本主義のシステム、 あるいはそういう資本主義を回転させている人々の考え 方、それを彼は

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え︵精神︶と呼んでいる訳です。 つまり、今ではこのような地上の富貴に帰結している 3 けれども、その元には意外にとても禁欲的な精神があっ たということであります。確かにその通りで、当時北東 アメリカ大陸の開拓に心立寸たったピューリタンたちという のは、ものすごく勤勉で、精励をモットーにしておりま す。朝は朝星、夜は夜星というように徹底的に働き、そ して徹底的な節約をします。それで、マックス・ヴェl パ l 自身、避雷針で有名な、あのベンジャミン・フラン クリンを産み出します、フランクリンファミリーの家に 伝わる家訓のような精神を基本とした、人間の非常に合 理的な働きによって、地上が富の山になっていくという ことを一言っています。その家訓の中に、皆さん方もよく ご存知の﹁時は金なり﹂﹁信用は金なり﹂という言葉が あるわけです。 ただし、そういうことを促している精神ではあります が、そもそもはそんな地上の富貴を産み出すことを目的 としたものではないとヴェ l パ l はいうのです。あくま でそういう行動は神の為であり、地上に神の栄光を証す る為である。つまり、清教徒であるあなた方は神の栄光 を地

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に証しする為の道具だから、その道具であるもの が、先に楽しんではいけないということで徹底的に禁欲 的な生活をした。よって、決して地上の富貴をもたらす

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4 ことを意図したわけではないけれども、精励につとめた 結果が、たまたま地上の富貴になったと言うのです。 例えば農機具、鋤を一つ作ったとして、他の人々が作 ったものよりこの人たちが作った物の方がはるかに性能 がよろしい。そして、心がこもっている。ただ、それは あくまで地上に神の栄光をもたらすためにということで、 自分をそうやって鍛えて鍛えて鍛え上げた。そういう 人々の精神だということを指して、彼は﹁禁欲のエート ス ﹂ と い う よ う に 言 っ た の で す 。 そこで、これを掴まえて、我が内藤莞爾先生は昭和十 六年に東京大学へ提出されました卒業論文におきまして、 日本国にも、船場︵大阪︶地方へ出てきて、大成功した 近江商人たちがたくさんいるではないかということを、 主張された訳であります。その中で、近江商人の有名な 家系にあるお家を調べ、そこに伝わっております家訓な どを調べると、ちょうどフランクリン家に伝わったよう な、﹁時は金なり﹂﹁信用は金なり﹂に近いものが、沢山 家訓として子々孫々に残されている。 もちろん、マックス・ヴェ l パ l が合衆国のピューリ タンに見出した﹁禁欲のエートス﹂においては、確かに 刻苦精励すること、節約することを大切にし、無駄使い を非常に嫌がっていますが、我が近江商人たちもみんな 家訓で強調しております。加えて﹁仏法領﹂の賜物だと いうことも強調されております。ちょうど様々な家訓が ﹁神の為﹂にあるのと同じことでありまして、仮にもし 子どもが生まれでも、それは仏法領の賜りものであり、 預かっているという感覚で大切に育ててあげなさいとい うようなことを言っております。 ヴェlパーがそうやってピューリタンたちに見出し、 しかし結果的には地上の富貴へとつながっていった精神 がある。そこで内藤莞爾先生は、彼らと同様に近江商人 たちも富貴や繁栄を目的にしたわけではないが、音川図せ ざる結果として近江商人たちは大阪で成功して富を築い ていった。そういうことは国や宗教の違いがあっても同 じではないか、質的な意味で同じではないかということ を考えられて、これが非常に有名な日本国における研究 になったわけです。内藤莞爾先生の言い方をすれば、 ﹁ ヴ ェ

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・テーゼを我が浄土真宗に当てはめて﹂と い う お 仕 事 で あ っ た わ け で す 。 この論文のきっかけになったマックス・ヴェlパlの 論文が、一九

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三年に出てきます。そしてちょうどその 時に、実は清沢満之先生がお亡くなりになられた。 つ ま

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ポストモダンの親賢官 りこの年でいえば、そのころはまだまだ近代化、近代合 理主義によって地上の富貴をもたらしていこう、そして 豊かな社会作りを目指すことが、文句なしに賞賛されて いた時代なのです。そこが今とは違いますし、このこと に関しては、今は皆首を傾げ始めているわけです。これ は非常に象徴的でありまして、私が実は﹁ポストモダン の親鷲﹂ということを書き始めた理由もここにあります。 もちろん、我が国が、合衆国に勝るとも劣らない確かに 豊かな固になったということはありますし、少なくとも 平等という点でいえば世界一であります。我が国ほど貧 しい人の比率の少ない国はありません。 ただし今、流行している作品の中に、﹃世界がもし百 人の村だったら﹂というものがあります。地球上の全て の人々を仮に百人に換算し直すわけです。そして、それ が一つの村だと考える。そうすると、例えば関西学院大 学、大谷大学などの学生たちは、自分が大学にいること を当たり前みたいに思っていますが、大学へ行けるなん て人は、実は百人のうちたった一人なのです。このよう にグローバルに考えると、あなた方学生がいかに、当た り前みたいに大学来て文句を言ったり、大谷大学なんて 何も教えてくれなかったと文句言ってますけど、世界を 戸 :) よく見てくださいよっていうことになります。後の九九 人は行くことができないのですよ。行きたくてもいけな い人々が九九人もおられるし、百人のうちのたった一人 選ばれて大学に入れたのだから、もうちょっと喜びなさ いというようなことを言う人もいます。世界中で、私た ちのような豊かさを享受しているものが、ほんのわずか だということがますます明らかになるのであります。そ れにもかかわらず、全く不満なわけですね。人々は全く これを喜んではいない。 さらには、いわば近代合理主義、あるいは科学的精神 の権化である生命科学の長大な進歩があります。しかし、 一体幸せが増えているでしょうか。例えば、子どもが心 臓病でもうどうしょうもない状態になり、ひと様の心臓 を移植しないことには、この子はもう駄目だと言われた とする。ほっておきますと、余命二年しかありません。 しかし我が国には、子どもの生体心臓や肝臓はありませ んので、あなたちょっと大変ですが、合衆国へ行かれた らどうですかという風にお医者様は悪魔のようにささや くのであります。 私たちはこれに能く抵抗できるでしょうか。ひと様の ことやったらなんぼでも一言えます。また、自分の事なら、

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6 これを拒否するとおっしゃる方はお坊さんの中にも少な くありません。﹁人の生き胆を取ってまで、わしゃ長生 きしようとは思わん﹂というように豪語なさるお坊様方 も多いです。自分のことなら確かに言えるのですね。で も、お寺の門徒さん、とくにでっちの坊やが:::﹂なん て話を聞いて、﹁そりゃあかんで、人の生き胆もらって まで生きようなんて罪深いことさせてはいけない。それ よりもあなたね、蓮如上人にお教えいただいた通り、子 どもの後生を祈ってあげましょう。あるいは、あと二年 あるか分からないが、その二年間の聞にお念仏できる子 どもにしてさしあげましょうよ﹂と言えるものでしょう A M 外国へ行って、いつ順番が回ってくるとも分からん不 安な状態で、しかも仮にもし心臓いただけたとしても、 ずっと一生涯抗免疫剤を投与される。すなわち徹底的に 医者の管理化に置かれます。称端に言えば、その子は死 ぬ権利が無くなります。ひと様の心臓まで取ってきて、 自殺するなんてことは許されないわけですよ。死ぬ権利 を奪われているわけです。そうやって実験材料としてず っと生き続けなければならんということです。 そんなことみんな分かっているわけです。ただ、分か っているけれども拒否できるでしょうか。皆さん方にも お考えいただきたい。目前に小さな子がおって、その子 が ヒ l ヒ l 泣いていて、このままにしておけば後二年し かない。しかし、たまたま外国へ行って心臓移植を受け ることが出来たら、ひょっとしたらずっと後々も生きて いけるかもしれない。そんな悪魔のささやきの中で我々 は平穏に暮らせるでしょうか。昔の方なら、お医者様に 後一年か二年ですなあと言われて、﹁ああ、そうです か﹂と答えて、﹁まあ、その一年か二年をできたらこの 子どものために、充実した良い後生が得られるように、 お父さんやお母さんが色々とお考えになったらいかがで すか﹂と言われたのではないでしょうか。ゆえに、子ど もとの時間をもっと尊く使うだろうと思います。 しかし、今は科学の進展という中にあるわけでござい ます。一事が万事そうであります。しかし、その科学的 に造り出された世界の豊かさを享受していながらも、下 手をしますと、ご示知のように環境問題その他で、この ままではどうにもならんということもかなりはっきりと 分かってきております。極端に言えば、誰でも分かって い る の で す 。 清沢満之先生やマックス・ヴェ l パ l が思い描いてい

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ポストモダンの親驚 たことと、普通の人々とは違っていた。清沢先生などは 偉いから分かっておられたでしょうし、マックス・ヴ

l パーだってちゃんと﹁禁欲のエートス論﹂の最後で、 このままではひどいことになると予言しております。 ﹁精神なき専門人、心情なき享楽人﹂と言って、この近 代以降のアメリカ型資本主義の行く末を徹底的に批判し ております。現在のアメリカ合衆国における一見の地上 の栄えは、昔の人々が持っていた禁欲のエートスと全く 関係はなくて、ゆえに神を見失ったら一体どうなるのか、 多分駄目であろう、徹底的に堕落した世界になるだろう ということを見抜いてあの本は出来ているわけです。清 沢満之先生も含めて、偉い先生方は分かっていた。だけ ど、一般大衆は分からなかった。我々は分からなかった わけですよ。しかしながら、今はそうじゃない。みんな 気が付いている。大衆的にも分かってきている。この状 況を私は。ホストモダンと呼ぶのです。それでこのポスト モダン社会において、改めて何を考えていくのかという こ と だ と 思 、 つ ん で す ね 。 ここで、実は私たちが﹃ポストモダンの親驚﹄という ことを申し上げた時に、全体として何を言ったかという ことを申しあげていきたいと思います。図をご覧下さい。 氷山というのは、水面の上に出ているところより、隠れ ているところ、見えないところの方が大きいという風に 聞いております。見えている部分を三山手

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であるとし ます。ここで︿

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巾というのは言葉にしやすい、つま り 4 0 2日という意味にもご理解ください。そして見えな いところを

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であるとします。ボーカルに対し ては、サイレントな部分のことです。 ト l マス・ルックマンの名著に﹁日ロゴ己主巾見己記

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という本がございます。宗教学では常識でございますが、 信仰や行為として見えや すい部分と、我々の意識、 というより感情の問題と して非常に見えにくい部 分、この両方から宗教と いうのは成り立っている ということです。合衆国 の宗教行動学などでは、 例えば、日曜礼拝に参加 する出席率の減少をもち ま し て 宗 教 の 衰 退 が 予 − 一 一 目 されたりいたします。し ヴォーカル サイレント 宗学 (宗乗) 開山信仰など 「民俗宗教

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(別図) visible

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8 かし、それにト

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マス・ルックマンは反論しまして、そ れ は

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巾なレベルであって、見えるところだけで宗 教というものを考えている。もっと心の見えないところ にあるのが宗教だと言っております。 昔 、 ﹁ 巴 −

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三 三

O H H Q﹂という言葉がありましたが、 ﹁沈黙している﹂ことの中身は言葉にしにくい。逆に、 こちらの

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巾は言葉になりやすいので、これを使い まして説明します。そして、これが氷山であると、これ を私は浄土真宗全体と考えております。しかし、しばし ば言われる真宗信心というのは、この見えているところ だけで考えられている。しかし宗教、とくに教団全体で いうとそんなことはありません。僕は見えない部分にあ るものが、実は﹁

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山 己 何 回 O ロ﹂だと思うのです。と ころで、ここで私が言うのは町 O ]﹁ですから、皆さんが フォークソングとおっしゃる時の明

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なのです。です から、これを訳する場合は、こっちの﹁俗﹂を書いてほ しいのです。非常に、グローバルに、どこの世界でも通じ る民の心というような意味として使いたいのです。 ﹁民俗のこころ﹂。これは高取正男先生の言葉であり ますが、こういう風に言、っと、これは何も日本の民族が どうだとか言っているのではないのです。いつも、私は これをちゃんと﹁民俗﹂って書いているのに、私を民族 主義者に仕立て上げたい人々は、必ずこれを﹁民族﹂と 書いてくれるのです。そうではなくて、私が言っている フォークは、フォークソングの司。− F で し て ﹁ 明 。

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巾 ー ロ 告 。 ロ ﹂ で あ る と 何 遍 も 言 っ て お り ま す 。 例えば、我々の仲間である金児暁嗣氏の浄土真宗門徒 の意識調査があります。従来は真宗信心と、例えば先祖 崇拝、そういうものは矛盾しているかのように書いてあ ることが多いのです。つまり先祖崇拝の強い人は真宗信 心にはかえってうといというわけです。ところが金児君 の デ

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タに従えば、真宗信心の篤い方、これをどうやっ て計るのかというといろいろ難しい。ほんまにそれで真 宗信心と言えるのか、当てになるのかと僕は言うのです が、例えば本願寺新報をよく読んでいる人、﹃大乗﹄と いう定期機関紙をよく読んでいる人、南御堂さんから出 ている﹃御堂さん﹄などもよく読んでおられる人、そう いう方々になるようです。﹁大村先生大丈夫です。やは りこれでいかないと仕方ないですよ﹂と言って、彼はそ れを真宗信心として捉えるのです。 かっ、そういう真宗信心が強いと思われる方々は、同 時にお墓参りもよくなさるのです。しかも、その様な人

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ポストモダンの親驚 たちの多くは、ご先祖のお仏壇だけを持っている訳では ないのです。神棚もあったりしまして、毎日神棚にも水 をあげていることが多いということなどが報告されてお り ま す 。 結局、その真宗信心と﹁民俗のこころ﹂、つまり民俗 宗教とは矛盾するように学者が勝手に考えておられるの ではないかということが思われるのです。実は氷山の上 と下は一緒になっておる。もっと言いますと、実は下が 親亀です。これがこけたら上もこけます。上こそ、むし ろ 子 亀 で す 。 その意味で言、っと、水面上だけで真宗信心というもの をお考えになるのは、浄土真宗の門徒さんであられる 方々の具体的な心情に即していかがなものかと思われま す。そうではなくて、これは現実には両立可能なものな のです。真宗信心と民俗信仰というものは十分両立する と思います。逆にご先祖様を崇拝する心が失われればお 寺も消える。お墓参りをしなくても平気で、そこらのお 宮へ参っておけばいいという人が広がってきたら、多分 浄土真宗ももたない。真宗信心そのものがもたなくなる という意味であります。少なくとも教団の現場、寺の住 職を三三年ゃったきた人間の勘で言って間違いないと思 います。すると、このことをきちんとご法義論として組 み立てる必要があると思います。以上のようなことから、 ﹁ポストモダンの親驚﹂とは何かと言うと、民俗宗教者 としての親驚を更めて発掘するということであります。 親驚聖人の偉大さを民俗信仰の部分へ持ち込んでいくわ けです。従来こういうことはほとんど言われておりませ ん 。 例えば、親驚聖人における聖徳太子信仰と、それから その聖徳太子信仰のさらに後ろにあります観音様の信仰 がありますが、これをはずして、親鷲の信仰を了解する ということは有り得ない。さらに後でお話される児玉先 生とも僕は全く意見が一致する部分ですが、﹁法華経﹄ についてです。普通皆さん方が言われる﹃観音経﹄とい うのは、﹁法華経﹄の﹁普門品﹂という部分にあり、﹃法 華経﹄の一部なのです。ご承知のように、親驚聖人は、 比叡山に二

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年も留学されたということでございます。 比叡山天台宗といえば、もちろん摩詞止観、﹃法華経﹂ であります。その中で、二

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年間も比叡山におられ、 ﹃法華経﹄を正依の経典となさるところで二

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年間も学 ばれたわけであります。 また、次のことについても多くの方は誤解しておられ

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10 ます。当時、比叡山は世界最高学府です。これは間違い ありません。特にあの頃の中国においては、北の旬奴に 圧迫されまして、中国大陸の本土の人々が次第に南に圧 迫されていっているのです。そしてやがて南宋という国 ができていきます。そして、たくさんの禅坊さんが避難 されたことは、道元禅の方から調べればすぐに分かりま す。しかし、何も禅坊さんだけではないでしょう。多く の仏教徒やお坊様方が、圧迫されて南へ逃げていかなけ ればならなかったわけです。そういう時にどんどん日本 国へ避難してこられたということは、存分に考えられる ことであります。今よりはるかに、豊かに、比叡山へ世 界最高レベルの仏教が入って来ていたと思われます。 それだけではありません。最近明らかになってきてお りますように、今でヨ一ヲんば先端医療情報であります、シ ルクロード経由で本草学と言われる一種の薬草学も、広 い意味での健康法も全部比叡山へ入って米ています。で すから、親驚聖人は最高文化情報のあるところに、二

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年間留学なさった方であるとまず考えるべきです。 その頃の比叡山は貴族的で、あるいは身分が重んじら れたりという雰同気の中で、親鷲聖人はつまはじきにさ れている状況だったように伝えられている。また、悪僧 どものたまり場のようになっていて:::、というような ことばかりが伝わっているわけです。 どうしてそんなところに、あんな元気な人が二

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年間 も篭っていたのかということには、思いが至つてないの です。二九歳までおられたということになっていますか ら、そんな状況の中でずっと止まるはずが無い。もしそ うなら、若いのだからどんどん出ていったらいいはずで す。でもあの方は出て行かれなかったですよね。おそら く楽しかったからに違いないと思います。 親驚聖人は中国語もしゃべっておられます。これも明 らかです。今申しましたように、中国大陸から先端の情 報がどんどん入ってきております。向こうの人は中国語 で話されるのです。日本語は話されなかったと思います。 そういう状況で、若い僧侶が日本語しゃべってください なんて言えなかったと思います。今でもそうですけど、 違う固から偉い先生が来られたら、私はその言葉に合わ さないとしょうがないと思います。先生の方に日本語を 話してもらうというわけにはいかないのです。 だから私はフランスへ行っても絶対日本語しか話しま せんでした。それは私が偉いからです。私は大阪大学に いた際、留学生を招いた時もみんなに二一甘いました。﹁も

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ポストモダンの親驚 うちょっと日本語勉強してきてください。そしたら教え ま す 。 君 た ち の 日 本 語 レ ベ ル で は 、 私 の 一 一 一 一 口 、 っ た こ と 誤 解 するから、そのままでは駄目だ﹂こういうことを一百いま す。そんな風に、偉い方が絶対白分の言葉を押し付ける と思います。ですから、親驚さんみたいな若い方は、す ぐに言葉に適応なさいまして当然話しておられたと思い ます。テープレコーダーがないから分からないのです。 皆さん、親驚聖人は漢文が読めただけだろうと思ってお られるでしょう。そうではなくて絶対中国語で話してお られます。ですから私は、比叡山の公用語は多分中国語 だったと推定しています。そういうことで最高水準の情 報を持って話していた。 それから、親驚聖人は越後へ破廉恥罪で流されたので はないですよ。親驚聖人は流罪になりまして大変なご苦 労をされます。現在国府別院のあるところですが、上越 居多ヶ浜に上陸なさいます。そこは寒風吹きすさんで荒 れ野ケ原のようなところですから、今見れば﹁ウワ! ツ﹂と、御開山のご苦労が偲ばれるのであります。別に 偲ぶのはいいですし、もちろん安楽だったとは言いませ ん。しかしあの辺りも中国大陸から一番早く先端情報が 入ってくる場所であります。 11 それからやがて善光寺にしばらくお住まいになります が、その当時の親驚聖人について、五来重先生に聞いて 初めて知ったことがあります。私は実際に、親鷲様のお られた信濃の善光寺、あるいは戸隠山に行きました。現 在の戸隠神社のそばにも親驚様の御旧跡がたくさんあり ます。そこで私は本願寺史、特に近代本願寺史はこのこ とを抹殺している、ということを信濃教区で言ってまい りました。親鷲聖人はここにおられるのだから、あなた がたはもっとそのことを言うべきだと私は言ってきたの であります。というのも、今の風景がいけないのです。 今は戸隠神社としてあります。でも、親鷲様がおられた 頃は、現在の戸隠神社は戸隠三千坊であった。つまり比 叡山の延暦寺の別当であったのです。だから、あそこは 天台宗の信濃における拠点であり、中心地なのでありま す 。 これは網野善彦先生に教えてもらってヒヤ ツとしたのですが、信濃善光寺というのは、自前で勘合 貿易船を持っているわけです。だから、信濃の善光寺様 の古地図で見ますと、天と地になっていまして、地の方 に掘割が堀つであるのです。小さい船なら分かりますが、 必ずとても大きな船が書いてあるのです。遣唐船みたい そ れ か ら 、

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なものが書いてあるわけです。まあそうですね、音山外に 日本海に近いですよね。地図見たら、掘割行って千曲川 入つといて、そして信濃川行ったらすぐに大陸へ行って しまうのです。一番近いわけです。だからここも大陸か らの最先端情報が入るところなんですよね。 あの辺が一番面白いとこですから、僕の理解では、親 驚聖人は好んで上越へ行かれたのではないかとすら思、つ んです。確かに先端地域でしたから、そういう可能性す らあります。ですから、あまりご苦労ご苦労さんと言わ なくてもいいのではないかと思います。 それ以上に私が申しあげたかったのは、御閉山様が人 生の節目節目ごとに、観音霊場へこもられることについ てです。観音霊場へ龍り、そして聖徳太子の示現を受け る。そこに﹃法華経﹄の伝統に連なっているという理由 があるわけです。ご承知だと思いますが、あの時代の 方々の中でも、親驚聖人ほど聖徳太子を奉讃、あるいは 讃仰される方は珍しいのです。そして、最晩年に至るま で﹁聖徳太子奉讃﹂というのをこしらえておられます。 その聖徳太子について、まず頭へ叩き込んでいただきた h v ご 承 知 の よ う に 、 12 聖徳太子には十七条憲法というもの があります。親鷲様の時代には、十七条憲法が聖徳太子 の手によるものであるということが、今以上に強調され ていたのだと思います。現在の古代史では、十七条憲法 は聖武天皇の側近団、藤原不比等、光明皇后といった 人々のどなたかの手によるものではないかと言われてい ます。さらに現代の古代史では、聖徳太子異人説がはる かに有力でございます。つまり、推古天皇の摂政をなさ ったことが事実だとしても、これは外国から来られた方 であろうということです。 今日本国でもそんな話が出ていますね。日本国にふさ わしい総理大臣がいない。それでルノーからやってきて 日産を立て直した︵カルロス・ゴ

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ン︶、あんな人を雇 ったらどうだということです。ちょうどそういう感じで、 大陸、朝鮮半島を通じて立派な方をスカウトして、日本 国が招聴したんだろう。それが聖徳太子だろうと言われ ているのです。これはかなり有力な説であります。 その聖徳太子の名のもとに、十七条憲法について、少 なくとも第一条だけは学校で教えられます。﹁和をもっ て尊し﹂ということです。それで小さな会社の社長で、 よく後ろにこれを掲げているのを見かけます。﹁日本国、 和をもって尊し﹂という具合です。しかし、もっと大切

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ポストモダンの親鷲 なのは第二条です。第二条を覚えておられますか。これ は学校で教えませんから、みな覚えていないのです。 ﹁篤く三宝を敬え。いわく仏法僧なり。すなわち四生の 終帰、万国の極宗なり﹂とあります。 ﹁万国の極宗﹂というのはすごい言葉です。﹁桜宗﹂ と書いてあるのです。この宗こそは、全ての源という意 味であります。﹁万同﹂はもちろんあらゆる国の、とい う意味です。あらゆる国の成り立ちの大本が、いわば仏 法僧の三宝であるとおっしゃっているわけです。﹁回生 の終帰﹂とは、四つの生の終帰、依り処、最終的な依り 処だという意味でしょう。 四つの生というのは仏教者なら誰でも知っているよう に、ありとあらゆる命たちという意味です。これには植 物も入ります。そこが大事なことです。我々みたいに体 で生まれてくる、これを胎生。お魚さんみたいに卵でぽ っと地上へ現れてくる、これは卵生と書いてあるのです。 化生というのもあります。どこからか突然出てきたよう なものが化生であります。そういう意味で横物まで全部 含む。だから、﹁一切の有情はみなもって世々生々の父 母兄弟なり﹂と親驚聖人ならばおっしゃいます。それと 同じ意味で、一切の有情のことであります。命あるもの 13 という意味だと思いますね。その終帰、つまり最終的な 依り所がすなわち三宝だという訳です。 こんなことが憲法に顕されているのです。憲法という のは国の詔ではありませんか。これ以降日本において憲 法が出たかというと、明治まで出ないのです。憲法とい えるものは、明治欽定憲法までないのです。国の詔、つ まり皇室の勅命としての法は出ないのです。それ以外で も出ているとおっしゃるかもしれませんけど、あれは幕 府のご法度です。法度はいくらでも出ました。公家法 度・武家法度・寺院法度もあるし、式日もございます。 しかし、憲法といえるものは、実に明治欽定憲法まで出 てきません。ということは、少なくとも我が固において は、聖武天皇時代に始まって、あの明治欽定憲法によっ て覆されるまでは、仏教が国教であると宣言されている ことになります。もちろん、天皇陛下はその最高司祭者 でありますから、当然全て戒を授けられ、戒名をお持ち になって、成仏なさっているはずであります。しかしな がら、これが孝明天皇を最後に覆ります。 孝明天皇とは、岩倉具視によって暗殺されたのではな いかと言われる方です。で、そのあとの明治天皇、大正 天皇、昭和天皇、三代に渡りまして覆ってしまっており

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14 ます。院号、院殿号法名がございません。戒名もござい ません。もちろん比叡山は追弔いたします。比叡山延暦 寺は天台宗として、追悼法会をし、追院号のような贈り 名をしておりますが、正式なものではありません。国の 憲法に乗っ取ったところの、正式な儀式ではありません。 そして、国葬として行われるのは全て神道流儀でありま す。神道は残念なことに、暗い黄泉の国しか行くところ はありません。三代に渡って、天皇陛下が成仏なさらず、 お気の毒にもいまだ黄泉の固におられるのであります。 こんなことで日本国がうまくいくはずがないんです。 それを司馬遼太郎先生に申しあげましたら、﹁大村さ ん、それはちょっとまだ危ないで﹂と言われるのです。 ﹁でも、陛下は迷っておられるのと違いますか﹂と私は 一百いました。だって、私は仏教徒ですから絶対そうだと 思います。そうでないと自分たちがやっていることを否 定することになりますからね。やはり受戒していただい て、きちんと戒名を授けて、そして坊さんになってもら って成仏道へ入っていただかなければならない。我々仏 教者がそういうことを怠っているのですから、天皇陛下 の魂はどこへ行ったのでしょうかということになります。 神道で葬儀をしているのであれば、そりゃ黄泉の同です。 そうすると、やはり迷っているとしか言いようがないで すよ。﹁陛下成仏あそばさず迷っておられる﹂というよ う な こ と で す 。 それで、こういうこともポストモダンの精神なのです。 皆さん﹁どこがそれポストモダンや﹂と思っておられる かもしれませんが、大事なことを言っているのです。と もかく日本国は長く仏教を国教にしてきたということが あります。それをくちゃくちゃに変えてしまうのは明治、 特に神仏分離令以降です。一冗々日本国は神仏習合でして、 神様は下にいるのです。そして仏様は上にあるのです。 多くの神々も皆、三宝に帰依して初めて成仏できると一言 って喜んでいる。もとからある神社の由縁書、あるいは お能などに、神仏習合の典型的なものが僅かに残ってい た の で す 。 それで、いわゆる﹁本地垂誠一説﹂ということをお考え になればすぐわかるとおもうのですが、神と習合してい るということがあります。例えば御開山聖人に本地垂連 などの考え方はないというアホなことをいう人がありま すが、とんでもない話でありまして、﹁示現する﹂とい うお一言葉を使われるのです。これといわゆる権現様、つ まり権現するということと同じ言葉であります。大変面

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ポストモダンの親賢官 白 い 。 有名な話ですが、徳川家康が亡くなり、崇伝と天海と い う 4 一人の間で徳川家康を大明神にするのか、大権現に するのかということで論争が起こりました。崇伝は大明 神 だ と 一 一 一 日 い ま す 。 す る と 今 大 海 さ ん の 方 か ら 、 ﹁ そ れ で は 豊臣秀吉と一緒ゃないか﹂ということになった。秀吉で も大明神になっているではないかということになり、 ﹁我らの偉大な徳川家康様はそれと一緒か﹂と一百って怒 るわけです。それで、大権現になるわけです。そして、 日光東照宮大権現として奉られるということになります。 大権現と大明神は大違いなのです。大権現の本地は仏様 です。本地仏がきちんとあるわけです。それの人間界へ の現われとしての権現様なのです。ゆえに示現されたと いうように受け止められるわけです。 ですから、御閉山は聖徳太子のことをそのように何度 も呼ばれるわけですね。﹁上宮皇子方便し和国の有情 をあわれみて如来の悲願を弘宣せり慶喜奉讃せしむ べ し ﹂ o この場合は﹁示現﹂という言葉ではなくて﹁方 便し﹂とおっしゃっています。これは背景にどなたかが おられるから、﹁方便し﹂という言葉を使われるわけで す。もちろん、それは救世観音大菩薩であります。その 15 証拠に、例えばさらに﹁救世観音大菩薩聖徳皇と示現 して﹂と詠われ、聖徳太子は聖徳皇という人間の姿をと って現れてこられたと言われるのです。しかし、一川々本 地は救世観音大菩薩だと言っておられます。 またこれが面白いのですが、﹁多々のごとくすてずし て阿摩のごとくにそいたまう﹂という和讃があります。 ﹁多々﹂とは、パパです。﹁阿摩﹂は、ママです。語源 的にもあっち行ったらファ

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ザーになり、こっち行った らマザーになるというように、これも正しいのですが、 いかに当時国際的かということが分かるのです。 親驚聖人が、このような御和讃をお作りになっている ということに表れているように、当時の仏教者にすれば こういう構図は当たり前なのです。よって、ここに神仏 習合があり、観音様への信仰があり、そういうものに支 えられて、彼の真宗信心というのがあるということなの で す 。 現在に置き換えてみれば、それは普通に皆さん方の遺 骨に対する気持ちと同じでしょう。遺骨は普通に考えた ら、焼いた後では遺骨灰ですし、あれなんでただのリン 酸カルシウムではないですか。死んだらゴミになるだけ だと言う方もおられるわけですから、科学的な彼等の信

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16 念からしたら、あんなものをどうしてあんなに大事にす るのかよく分からないはずです。でも、何かが心にある のです。かわいらしいではないですか。 うちの門徒衆で面白い方がおられます。お父さんの遺 骨について相談に来られて、﹁このごろ先生、海へまく のはやってまんがな。もちろん先生のとこにお預けして いるやつは別です。ちょっと別のやつなんですが:・先生 ご承知のように、うちの親父帝国海軍が好きで、その遺 骨の一部をヨットで行って、ちょっと海へ撒いたろかい なと思うんです。﹂と言われました。それで私は、﹁それ は結構なこと。ええ心がけや。そりゃお父さんも喜ばれ る﹂というように言うわけです。 ここに、一般の門信徒さんたちの遺骨に対する気持ち が表れているのでしょう。このレベルで言っているので す。そんな時に﹁アホか。遺骨なんてリン酸カルシウム やで﹂なんて言っても仕方ない。ですから、﹁ああそれ は結構なことや。お父さんも喜ばれるでしょう。ただ、 一言っておくけど、日本国で火葬した骨片はちょっと大き いから、そのまま撒いたらあかん。海へまく前にもっと 細かく砕いて、それで撒くんや。それがル l ルやで﹂と 一言、ったんですよ。そうすると彼は目を丸くしまして、四 七、八のいい年の中年男が﹁誰が骨を砕くのですか。先 生やっていただけるんかと思ってましたわ﹂と一百うので す。﹁なに言、ってんの﹂と言いましたら、﹁親父を叩いて 傷つけるようでわし怖い﹂と言われました。これが心で す。これあればこその浄土真宗ですよ。この心が無くな ったらお寺は潰れます。現に、私はこの人を立派な壇家 総代にする自信があります。 全体としてはこういうことでして、時々の﹁民俗のこ ころ﹂を大切にされたという意味では、親鷲様について も言えるし、かつ従来あんまり言われてないところです。 次の児玉先生のお話にもひょっとしたら繋がるかと思う のですが、先生はおそらく最初に諸宗派分立という問題 を取り上げて、真宗というのは一つの宗派名ではないん だということを、清沢満之先生にかけておっしゃると思 います。私もそのとおりだと思います。そしてそれを、 本当の仏教という意味でおっしゃっていかれると思いま す。私は先生のものを予め読ましていただいて、カンニ ングした結果ではありますが、特に現代についての了解 は私と同じだと思います。 先ほど申しましたように、元々日本国における観音信 仰 と い う の は 、 ﹁ 法 華 経 ﹄ か ら 由 来 し て き で お り ま 大 体

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ポストモダンの親鷲 す。ゆえに大乗の基本精神として、観音菩薩を大体の方 が大変尊重なさっています。また、御閉山と同じく比叡 山から下山されて、やがて永平寺という山をつくられた、 あの道元禅師も法華信仰の非常に篤いお方でございまし て、実際に永平寺へ行かれたら分かりますが、大変立派 な白山宮というものがございます。当時白山信仰と呼ば れておりますが、彼の遍歴するところからみて当然のこ とですが、この白山というのは先程言いました大権現の ように、﹁仏法大統領白山妙理大権現﹂と当時からはっ きり道元禅師は言われています。仏法、仏の法、そして 大統領。今の米国ブッシュ大統領と同じように大統領と いう字が書いてある。これを見つけて、こんな言い方が あるのかと思い、笑ってしまいました。 それで、この﹁仏法大統領白山妙理大権現﹂の本地を 尋ねれば、﹁十一面観音﹂であると明言なさっています。 ゆえに、永平寺の守り神として、白山宮をまつっておら れる。それで、若き笹山紹獲︵けいざんじようきん︶さ んが初めて永平寺にお参りになった時、まだ若い人でし たから、最初の沙弥戒を授けてもらう前は、当時の師家 に﹁まだ座禅するには早いから、白山宮のお世話し、そ こで朝夕お祈りをしなさい﹂と言われて、そのような役 17 が与えられていたことが記されております。こういうこ とから、当時の観音信仰を中心とする、いわば民俗信仰 のようなものは、さらに遡るとすれば﹁法華経﹄の世界 が今に建ったといえるのではないかと思うのです。 それで今日の講演要旨の②において、﹁清沢満之にお ける﹁真俗二諦﹂と﹁自力無功﹂﹂として、下にちょっ と言葉をつけました。清沢満之先生の中から拾わせてい ただいておりまして、﹁天下に一の無事を訴し、一の無 罪を罰することがあれば、一つとして我は其に対する責 任を免がる訳はないはずであります﹂という責任主義が 説かれています。児玉先生が後から提題される中で、一 方では人あってあらゆる命は仏の子であり、私もそうで ある。その限りにおいて、﹁天下に一の無事を諒し﹂と ありますから、何の罪も無い植物を殺している自分がい る。しかしそれらを殺さなければ、私たちは生きていけ ないのだという意味で、一方で責任主義は全うすること ができない。しかしながら、その心を忘れるわけにもい かないわけです。縁起観にしたがっていえば、全てが我 が兄弟、はらからであり、いのちとしての同朋である。 そういう中で清沢先生は非常に深く自己を問いつめてお ら れ る 。

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18 また一方で、そういうことを﹁金子みすずと﹃供養の 丈化﹄﹂として講演要旨に書きました。ご承知のように、 彼女の詩の面白さは、我々が普通平気で殺しているいの ちをとても惜しんでいるわけです。例えばこんなかわい らしい詩があります。教科書にも入れろということで、 全国の仏教婦人会が運動されている詩でもあります。 ﹁ちったお花のたましいは、みほとけさまの花ぞのに、 ひとつのこらずうまれるの。だって、お花はやさしく て、おてんとさまがよぶときに、ぱっとひらいて、ほほ えんで、ちょうちょにあまいみつをやり、人にやにおい をみなくれて、風がおいでとよぶときに、やはりすなお についてゆき、なきながらさえも、ままごとのごはんに なってくれるから﹂。これは植物のいのちについての感 受性がすさまじく磨かれた、日本仏教の大きな特徴が現 れていると思っています。 中国大陸を含めて、東南アジアのどこに行っても、精 進料理を食べていたら不殺生戒が守れているかのようで あります。日本国仏教だけはそれを認めておりません。 つまりお精進したってだめなのです。植物もいのちに変 わりはないのです。だから、不殺生戒を守っているとは 言わさない雰囲気がある。ここに、一日といえどもいの ちを取らずには生きていけない、という人間のあり方が 現れているのです。菜食主義が可能で、もしそのことに おいて不殺生戒を守っていると言えるのなら、我々は菜 食主義者になれば罪を免れるかもしれない。しかしそれ を認めなかったのです。 これは杉下ツギという、お東の門流でも伝わっている 方の言葉です。﹁俺ら殺しつづけて生きとるでね。あの 白い生きた大根あれ切るたんびに血がでたら、俺ら食べ られるかなあ。俺を生かすために死んでくれると思うた ら、俺のいのちでなかったなあと思う。とうてい生きて いけん俺が、生かさしてもろうとるということに気がつ く。ありがたい一生ゃったなあと手を合わせるわね﹂ 0 こういうように一つの大根、つまり植物のいのちに対す る感覚が表明されている。それをさらに延長させていき ますと、実は講演要旨の③に書きましたように、宮沢賢 治が非常に豊かに動物のいのち以上に植物のいのち、植 物に語らせようとしている。彼の詩など、いろんなもの を読みますと、木が歌い、木が語り、樹木が動くのです。 そういうよ、つに木々に語らせたいというところに明敏な 感受性が表れております。 花巻の宮沢家はご両親が篤信の真宗門徒であり、 ま た

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ポストモダンの親賢官 地主のおうちでありましたので、清沢満之先生のお弟子 である暁烏敏先生を招いて、あの有名な﹃歎異抄講話﹄ をお話しいただいており、宮沢賢治はそのお話しを十三、 四歳の頃、我が家で聞いているわけであります。しかし、 暁烏先生の話を聞かれた後に、やがて今度はお西の島地 大等先生という方の﹁法華経講話﹂を読まれます。こち らは﹃法華経﹄の方です。そして国訳大蔵経の﹃法葦 経﹂であります、﹃漢和対照妙法蓮華経﹄をすぐ買い求 められた。これを島地大等さんが翻訳なさっていますが、 それを読んでパッと法華経の行者に変わられるのであり ます。これは大変示唆的ではないかと思うのです。 清沢先生、暁烏敏先生、そしてこの宮沢賢治という非 常に先進的な三人がおられます。私はある意味でこの ル l トの人たちによって、新しいポストモダンの浄土真 宗の畦りを計っていきたい。特にそういう植物のいのち こそいのちのモデルである、というように﹁法華経﹄を 読んだ宮沢賢治の読みの深さなどによって、改めて逆照 射させていただくということが必要だと考えています。 清沢満之先生の﹁精神主義﹂というのは、﹁精神主義 は世に処するの実行主義である﹂とあるように、意外に ﹁実行主義﹂だということを、改めて読ましていただい 19 て感じております。そして、その﹁実行、モ義﹂に関して は、要はいのちたちとの共生の中で、いのちの御同朋と しての優しさとか同情ということを、非常に強調された と言えると思います。その点に満之先生に、僕は非常に 感服する。そんな生意気なことではないですけど、改め て勉強させていただいた思いでございました。 このルートは一見関係無いように見えるのですが、暁 烏敏先生の情熱に触れて、それが乗り移ったように宵沢 賢治が﹃法華経﹄でそれを表現していった。宮沢賢治に とって、﹃歎異抄﹄の心は﹃法華経﹄で表現せざるを得 なかった。そのことは、私は現代に通じるものがあるの ではないかと考えている次第でございます。大変長くな りましたが、これでも講演要旨で用意いたしましたもの の半分ほどしか申せませんでした。ご静聴ありがとうご ざ い ま し た 。 講演要旨 はじめに東派と西派の違い ﹁ か 歎 異 抄 隠 し が の 蓮 如 は 菟 罪 で す : ・ ﹂ ︵ 西 派 の 門 主 発 二 一 一 口 ︶

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20 *﹁三業惑乱﹂事件←親驚原理主義の再賦活 ①最初の親驚原理主義|蓮如の再評価| ﹁王法はひたいにあてよ、仏法は内心に深くたくわ え よ ・ : ﹂ と ﹁ 家 庭 仏 教 ﹂ の 確 立 ②清沢満之における﹁真俗二諦﹂と﹁自力無功﹂ ﹁天下に一の無事を訴し、一の無罪を罰することが あれば、一つとして我は其に対する責任を免がる訳 は な い は ず で あ り ま す 。 ﹂ ③清沢満之←暁烏敏←宮沢賢治 * か お 精 進 μ でも駄目なわけ ④ グ デ ィ

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プ・エコロジー μ : ・ 植 物 の 方 が 生 命 の 嫡 子 生命倫理と社会倫理 ⑤金子みすずと﹁供養の文化﹂ ︿ 付 ﹀ ﹁ 心 の セ ー フ テ ィ ネ ッ ト ﹂ と 家 族 の 支 え ︵ 関 西 学 院 大 学 教 授 ︶

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一 一 年 度 真宗大谷派教学大会

本願史の中の清沢満之

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縁起と本願||

本願史の中のj青沢満之 この度の﹁真宗大谷派教学大会﹂において、三年間連 続の﹁精神主義と現代﹂というテ

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マの結びとして﹁ポ ストモダンと精神主義﹂という課題をいただきました。 その課題、つまり問いかけに対する私の応答といたしま して、清沢満之の論説である﹁万物一体﹂をテキストと して、﹁本願史の中の清沢満之﹂という講題でお話しす ることになりました。また、﹁縁起と本願﹂という副題 をつけましたが、これはテキストにします﹁万物一体﹂ という清沢満之の論説が、前半は縁起について、そして、 中間の問題提起を転換点として、後半には本願の名号に ついて述べられているという私の了解によります。この ことがここ十年くらいの聞に、私に次第にはっきりして 21 l日 /l.J

きまして、そこで﹁本願史の中の清沢満之﹂という題が 出てきたということであります。 私はこのような大会でお話しすることについて、重い 責任を感ずるのでありますが、もし今、私が、浩々洞に いるとしたら、﹁それは責任煩悩だよ﹂と言って叱られ ると思いますので、敢えて勇気を振り絞ってお話を申し あげることにいたします。また最近、私は﹁一期一会﹂ という実感がいたしますので、このような大会にお招き いただいたことを機会に、今日までお育てをいただいた 宗門に対して、始めに感謝の意を表しておきたいと思い ま す 。 それで、今申しました本題に入ります前に、﹁真宗﹂

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22 つまり﹁真宗大谷派教学大会﹂というとき の﹁真宗﹂という言葉をどう理解するのか。そして、近 代・現代ということを言うときに、その根本にある ﹁時﹂ということをどのように了解しているのか。﹁真 宗﹂ということと﹁時﹂ということ、その二つを言わば 序論としてお話しいたします。 と い う こ と 、 ﹁ 真 宗 ﹂ に つ い て 想い起こしますと、私がはじめて真宗連合学会におい て発表いたしましたときの題が﹁﹁浄土真宗﹂という ご ﹂ と ば μ の意味について﹂でありました。この﹁真 宗﹂という言葉について私はずっと関心を持っていると いうことになるのですが、しかし特にこの真宗という言 葉が私の念頭を去らない理由には、一九九五年に、オウ ム真理教による地下鉄サリン事件がおきたということが あるのです。そこでは人間の宗教心が歪められて、そし てそれが邪宗教、邪まな宗教として発現しました。する と今度はそれに対する反動・反対として、﹁だから宗教 は怖い、無宗教のほうが余程いい﹂という風潮が生まれ、 邪宗教と無宗教の聞をお往左往していて、どこにも真実 の宗教を見出すことが出来ないという現代日本社会の状 況があります。しかしながら、どこにも真実の宗教を見 出すことができないということの中には、実は真実の宗 教を切実に、そして深く求めて止まないということがあ る に 違 い な い の で あ り ま す 。 今回、皆さんのお手元にテキストとしてお渡ししてお ります、﹁万物一体﹂という論説の九一行日に、﹁真正の 宗教﹂という一語だけをゴチにしてあります。これは私 がこのようにしたのでありまして、清沢満之は﹁真正の 宗教﹂という言葉を使われています。そしてもう一つ、 メモとしてお渡ししてあります方を見ていただきますと、 ﹁

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真宗という言葉の意味﹂の

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のところに﹁六要 紗﹄を引いておりまして、その

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⑤ に 、 但シ真宗ノ名、念仏門ニ於テ殊ニ其ノ理有リ。大経 ニハ説テ﹁真実之利﹂ト為シ、小経ニハ亦﹁説誠実 一 百 ﹂ ト 云 フ 。 一 代 教 ノ 中 ニ 実 ニ 凡 夫 出 離 ノ 要 道 タ リ 。 真 実 ノ 宗 旨 其 ノ 義 応 一 一 知 ル ベ シ 。 とあります。﹃六要紗﹄は、﹁真実の宗旨﹂ということで 真宗という言葉を理解しております。私はこの.一つを重 ね 、 ﹁ 真 実 の 宗 教 ﹂ と い う よ う に ﹁ 真 宗 ﹂ と い う 一 一 汁 葉 を 理解致します。ところが、その﹁メモ﹂の

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と い う 所 に 、 広辞苑の中の﹁真宗﹂という箇所を引いております。そ

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本願史の中のI青沢満之 ﹁我が同浄土門の一派﹂と、まず規定します。 ﹁真宗﹂というのはセクトの名前であります。 このように広辞苑はセクトの名として説明します。﹁我 が国浄土門の一派﹂とか﹁親驚を開祖として一派をなし た﹂という表現は、﹁真宗﹂という言葉を宗派の名前と して受け止めているわけです。ちょうど地下鉄サリン事 件が起きた頃、日本において、丈部省が宗教法人として 認めていた宗教団体は、何と二三万あったそうです。そ うなれば、宗教という言葉はあっても、もう何でもあり ですから、何にもないのと同じであります。そういう状 況 の 中 で 、 極 端 に ニ = ヲ ん ば 、 そ の 二 三 万 あ る 宗 教 団 体 の 一 つの名前が、﹁真ウ歪であるということになります。 しかし、そこまで極端に言わなくても、この広辞苑の 真 宗 理 解 は 黒 田 俊 雄 氏 の 壬 一 口 わ れ る 様 に 、 近 世 の 諸 宗 派 分 立を受けているのです。徳川期に仏教は、ディヴアイ ド・アンド・ル l ル ︵ 岳

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分割して支配せ よ|︶とい h ユ春府の政策によって、セクトとして分立し てしまい、その中で閉じこもってしまった。それから近 代の神仏分離令による国家神道の成立に伴ない、あたか も日本国中が一つの宗教団体であるかのように大きな枠 が出来上がり、そういう枠組みの中で諸宗派が各自の発 っ こ ま で り は 23 想をしているわけでございます。、だから広辞苑の理解は、 徳川期と明治期を通りながら、今申したような事柄に決 定的な影響を受けて成り立っているわけです。 従って、宗派の教義として﹁本願を信じ、念仏をもう さば仏になる﹂という一言葉があると考えられます。しか し、これは、道理から一百つでも、歴史的なプロセスから 言っても転倒しているのでありまして、本来から呈一 本願を信じ念仏申す人々が次々と生まれて、その集いが やがて、宗派を形成することになったのであります。そ の意味で、﹁真宗﹂をセクトとして捉えることは転倒で ございます。しかし、一度宗派が出来てしまえば、その 転倒は免れ難く、避ける事ができないということがあり、 広辞苑の﹁真宗﹂理解を、単純に間違っていると言い切 れないということがあるのです。 にもかかわらず、広辞苑の﹁真宗﹂理解は、宗祖親驚 その人の﹁真宗﹂理解、あるいは﹁六要紗﹄、清沢満之 の﹁真宗﹂理解と異なっていることは明確であります。 我々はそのことをはっきりと知るべきであって、その二 つの﹁真宗﹂理解にものすごいギャップ・落差がある。 その落差を認めることによって、我々は歴史的に形成さ れた真−宗大谷派という一つの宗派が、その﹁真宗﹂、す

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24 なわち﹁真実の宗教﹂という実質的な内容をどこで獲得 し、そのことをどこまで表現することができるのかとい う課題を荷負するものとなるのであります。私はそうい う課題を荷負しつつ、清沢満之に学んでまいりたいと思 い ま す 。 ﹁ 時 ﹂ に つ い て それでメモの

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に﹁時について﹂ということを出して おりまして、そのことについて少しく考察を致します。 ﹁精神主義と現代﹂や﹁ポストモダンと精神主義﹂とい う場合の、﹁現代﹂とか﹁ポストモダン﹂というのは、 歴史上の一定の期間を意味しています。その場合に、歴 史ということの根本に時ということがありまして、その か 時 μ をどう捉えているかが問題です。その現代とかポ ストモダンという歴史を考えるときに、時計で計りカレ ンダーで見ることが出来るような時間の内部において考 えることもできます。つまりそういう大きな枠の中で考 え る こ と も で き ま す 。 し か し 、 ﹁ 真 ︵ 一 不 ﹂ 、 つ ま り 真 実 の 宗 教 が は た ら く 時 間 は 、 その枠の中だけではどうしても収まらないのであります。 例えば、﹁五劫思惟﹂の﹁五劫﹂や、﹁十劫正覚﹂の﹁十 劫﹂というような時間は、時計で計ることもカレンダー で見ることもできません。もう一つ、﹁﹁一念﹂は、これ 信楽開発の時刻の極促を顕し:・﹂というときの﹁時剖の 極促﹂という瞬間の時は、時計で計ることもカレンダー で見ることもできません。もっと具一体的な例を言います と、天親菩薩が﹁浄土論﹄のはじめに﹁世尊我一心﹂、 ﹁世尊よ﹂と呼びかけられている。その時に、天親菩薩 は五世紀の人だと言われてますから、釈尊が亡くなられ てから千年の時が流れている。でも天親菩薩が﹁世尊 よ﹂と呼びかけられたら、その千年の時間の経過はない のと同じことなのです。今現にましますがごとくに、 ﹁世尊よ﹂と世親が呼びかけられたのです。 そのことは清沢満之についても言える訳であります。 清沢満之が﹁阿合経﹂を読まれ、それを終わりました後、 ﹁仏本行集経﹂という釈尊の伝記を読まれます。そして その時に、釈尊の出家の姿に大変な感動を受けられて、 ﹁ 末 世 大 法 の 振 興 せ ざ る 、 果 し て 誰 人 の 過 ぞ や ﹂ と 一 一 千 一 円 わ れます。全責任を担い、そして清沢満之が一以を流して泣 いたということ、それが一生に一度のことであったとい う。その時には、ゴ

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タマブッダとの同時代性がきちん と成り立っている。二

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年の時間が過ぎても決して

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過ぎ去ることがなく、現にましますがごとくであった。 そういうことがどうして成り立つのであろう。そういう ことが、時間ということを考える時の我々の問いでござ い ま す 。 本願史の中のi青i尺満之 それで、私は真宗を学びはじめた頃に気づいたことが あります。この﹁大無量寿経﹄、また﹃観無量寿経﹄に おいても、時を表わす時に、過去・未来・現在となって いるのです。過去・現在・未来とも未来・現在・過去と もなっていない。時は直線的に過去・現在・未来と流れ て行くわけでもなく、また未来から現在に来るのでもな い。現在のところに過去も未来も在る。そういうことを 最もよく考え、そして、私が納得できる﹁時間﹂の了解 を一不すものとして、一つはアウグスティヌスの﹁告白﹄ があります。もう一つは、現代の人として、木村敏の時 間論であります。この二つは、お手元にお配りしてあり ま す 、

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にありますので読んでいただきたいと 思 い ま す 。 ﹁信楽開発の時魁の極促﹂とは、名号を体とする信心 が我らの内、つまり衆生貧膿煩悩中に発起するその瞬間 です。その瞬間は時における南無阿弥陀仏であります。 今ここに生きている我と無量寿である阿弥陀仏とが南無 25 阿弥陀仏において一致する。時という主題において、南 無阿弥陀仏ということは永遠の現在なのです。﹁永遠の ん己と言われます。お手許に配布しておりますメモの

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の③は、﹁時間と自己﹄という木村敏氏の著作の中 からの引用でございますが、そこに重ねるようにして私 は申しあげます。その、水遠の現在から過去と未来が生ま れてくる、と。南無阿弥陀仏としての時、つまり、水遠の 現在から過去と未来が生まれてくる。そこで、はじめて 本願の歴史、本願史ということが成り立つわけでござい ます。それを定式化して私は次のように言うことができ る。はじめなき過去にはじめを見出す。それが如来の本 願の発起であります。終わりなき未来に目的、エンド ︵巾昆︶、終わりを見出す。それがすなわち十方衆生の 成仏であります。本願の発起にはじまり、一切衆生の成 仏を未来に目指す。本願の歴史の中における未来、それ は末だ来たらずという意味での未来ではなく、将に来る べきものとして将来であります。本願の歴史における過 すで 去は過ぎ去ったという意味での過去ではなく、既に在る という意味で既在であり、それは伝統として現在に生き ているのであります。︵過去七仏あるいは五十三仏の伝 承︶そういうことで私は本願史ということを考えている

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26 の で あ り ま す 。 生と滅とを滅し巴り 有と無とを超えて有る お手元にお渡ししたレジュメの中で、大村先生 に触発されて私は﹁真宗

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﹂という提言をしています O

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は 国 包 門

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目つまり仏教でありまして、私は真宗は 仏教であるという実に当たり前で単純明快なことを、は っきりとこの機会に確認したいと思っているのでありま す。このように申しあげますことは、お手元にあります メ モ の

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の②に﹁浄土真宗は大乗のなかの至極な り。﹂という親鷲聖人の言葉、それから

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﹁ 六 要 紗﹂にある﹁真宗ハ即チ仏教ナリ﹂という言葉などを依 り所としているということは間違いないのです。しかし、 それだけではなく、先程言いました近世の諸宗派分立と 近代の神仏分離をいかにして乗り越えるか。明治以後、 近代の神仏分離令による国家神道支配が残した傷跡をい かにして乗り越えるか、という課題を担うときに、どう しても真宗は仏教であるということを明らかにしなけれ ばならないと考えられます。 宗門について言えば、ごく最近、首都圏において﹁親 さ て 、 驚仏教センター﹂が開設されるということになりました。 そのときにやはり﹁親驚仏教﹂という言葉が使われるこ との中に、私が今申しあげているような内容が、きちん と受け止められていると言えるのではないかと思います。 そこで、﹁真宗﹂という言葉の中に、どうしても仏教と いう内容が含まれていなければならないと私が言ってお りますことについて、少しだけ展開してお話しいたしま す 。 実は一九九二年に﹁世界の中の日本﹄という題名の本 で、司馬遼太郎とドナルドキ

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ンの対談が出版されまし た。その中で司馬遼太郎氏が大変面白い発言をしておら れます。ちょっと紹介します。当時は一九四八︵昭和二 三︶年ですから、司馬遼太郎氏がまだ産経新聞の駆け出 しの記者で、京都大学と本願寺が担当であったというこ とです。その時に、司馬遼太郎氏は本願寺の坊さんに ﹁極楽はあるのですか﹂と尋ねられたそうです。すると その坊さんは﹁あるとかないとかという上にあるんで す o ﹂と答えたというのです。そして、この答えについ て、司馬氏は次のように述べておられます。﹁つまり ﹃絶対﹄という意味ですが、うーん、うまいことを言っ たな、と私は思いました。もしカトリック神父さんに

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