――目次――
論文
1,
言語構造主義と聖書釈義, 小林恵一, Structuralisme Linguistique et Exégèse Biblique, Keiichi
KOBAYASHI, pp.1-27.
2,
インド自然哲学の研究:ヴァイシェーシカ学派の pākajotpatti 理論, 宮元啓一, A Study on Natural
Philosophy in India: Vai
śeṣika Theory of Pākajotpatti, Keiichi MIYAMOTO, pp.29-50.
3,
アグニチャヤナ祭式と古ウパニシャッド, 井狩弥介, The Agnicayana Rite and the Early Upanishads,
Yasuke IKARI, pp.51-73.
4,
越年の儀礼:信州善光寺の場合, 山ノ井大治, Etsunen (New Year) Rituals of Zenko-ji Temple, Daiji
YAMANOI, pp.75-99.
書評
5,
高崎直道著『如来蔵思想の形成―インド大乗仏教思想研究―』, 江島惠教, Yasunori EJIMA,
pp.101-104.
6,
戸田義雄著『宗教と言語』, 井上順孝, Nobutaka INOUE, pp.104-108.
Posted in 1976
(昭和51)年
ま書の釈義︵
巴 Ⅹの的のお︶をその事間家の方法に
則して見るとき、今世紀初頭から行われてきた
釈
義は、
Ⅲ聖書の諸
を
検討し、キリスト教思想の原流とその後の発
展を記述
せ
ふとした歴史批評的研究︵
オ e ︶∼
沌ぃ 0
コ の ㏄ののの
日ぃゴ
この︶㈲聖書
申の物語、格言等の様式を見定め、当初の宗国
の 実存が文書の様式に影響を及ぼしていることを
確認しようとした
様
武史研究︵
q0
︵ ヨ潟お
三ぃ
オ ︵の︶㈹その後に出現し
た
、諸文書の史料の編集の仕方にその編集者の
思想上の特徴を見出
書 釈
以上の諸研究に共通していることは、歴史
﹁
﹂がその前提的価値となっていることである。
ここでは原本、または
原
聖
紐
史料はいかなる形態をなしていたか、イェス
の 歴史的
原像
はいかなるものか、が探求の主要
目的となり、そこから
反
睦転
してその後のキリスト教の発展、変化が説
萌
される。本文批評や様式、編集
史
研究などは
非歴史的・美学的側面を
議
もっているが、何れもそれらは前述の﹁歴史
﹂価値に仕える手段的存在となっており、歴史
が優
泣を占めていると
ぃ
︵ー︶
えるのである。
1(
Ⅰ 01)序
論文
|
@言語構造主義と聖書釈義
小林
恵
かかる二面性は当然、聖書中の言語にも存在す
るのであるが、これ迄の釈義においてはやはり
通時制における意味
が特に意識され、新約聖書の主要用語︵ギリシ
ヤ語︶にしても、ぞの語の古典時代における
意 味、通俗語時代の意
味、新約聖書における意味、という如き通時制
の面での意味が重視されてきた。これは号目語研究としては不十分であ
︵
4Ⅹ︶
るということになるであろう。 Ⅰ よ 3 Ⅰ時代においてその意味が如何に転用、発展して
きたかを問う場︶のとき
鐘丁
兜の頂き手児小家の
紋章となってくる。のとき、糊付けされた絵入りの小紙片、書類上
のインクで押されたスタンプ、証紙等となる。
通時制︵Ⅱ歴史的に各
これは、近代人、またキリスト教界が歴史的
事
実やその後の歴史の発展という主題に強い関心を
示してきたことの
証しでもあるが、その姿勢はその反面としてそ
れ
以外のアプローチを見落し、あるいは軽視して
きたことを我々に
予
思
させる。
たとえば、聖書は一文書であるが、聖書であれ
他の文書であれ、そこに用いられている
語
、文が
言葉として通用し
意味伝達の役割りをはたすためには、当然のこ
とながらそれは言語のもっ本来の構造、法則に
則
して表現されね
ばな
らない。一方、﹁舌口語﹂は舌口語学者によれば、
上
述の如き歴史的変化発展の面をもつと共に
、非
歴史的・静止的領域
をもつもので、むしろ静止的領域の言語構造に
歴史的側面は拘束される。舌口語学的術語でいえば
、歴史的側面は通時
︵
6
乙 ︶
制
︵
し田
pn
オ
q0
三の︶静止的側面は共時制︵の
せコ
nr
﹁
0
コ
円の︶と名付けられる。言語がこのように二面
性
をもっものである
ことを認識するとき、上述のこれ迄の聖書釈義に
おいてはその一面が多少なりと軽視されていた
と
言い得るであろ
-
つ
0
単語を取上げてみても、一つの単語の意味には、
言語学的にいえば、
共
時制的意味と通時制的意
味
が存在すること
になる。たとえば苗講
ヴ
︵のというフランス語は
、
共
時制︵Ⅱ非歴史的閉じられた言語状態の内部
で
意味を考える
場
︶
(102) 2語 構造主義と 聖 ;
次に、
文
・物語の場においては如何であろうか。
文書は読まれるために存在し、それは文書全体
として一つの個体
な
形成している。そして文書は︵聖書を含め︶
誰
かが誰かにあることについて語っているもので
ある。それゆえ文書
は
、それの送り手と受け手の中間に在るわけで、
受け手はこの文書が全体として何を言わんとし
ているか判断せねば
ならない。また聖書という文書は、その全体
の
中にある物語が含められ、その物語の中に小物語
、
教
説などが在る
、
という構造になっている。それらを前出の歴史
的
諸研究の如く、
A教
説は後代の作、
B物語は原
資料に近い等々と図
分
、整理し、原初の形態のものに優位を与えて
いく場合、文書が全体として与えようとする
メッ
セージを破壊してし
まうのではないか、という疑問が生じてくる。
こ
れるの疑問は素朴な信仰者から提出される
他、
聖書の全般的解釈を
試みる解釈学︵
宙
寓ヨ目の三東︶の分野からも
提
起されるものである。そして上記の歴史追求的
釈
義
と解釈学的アプロ
|チ
との調和、綜合は今日
必
みずしも成り立って
ところでここに今一つ、上記の歴史的研究が見
落していた分野が存在する。聖書は前述の如く
、
, ての文章日中に複数
の
大小の物語・伝説が折込まれており、その
物註
碩
の一つを抽出してみるとき、その内部にさらに
小さな物語断片、説
話などが含まれている、という如き構成体にな
っている。かかる構成体に接近するのに前出の歴
史
追求派は、聖書を
義
構成する各説話その他の歴史資料価値を優先
的に求め、換言すれば
適
時制的前後関係に注目
していったのであるが、
罫
それとは別に、
文
構成の上下関係、すなわち
共
時制的
文
構造と水準に留意していくアプロー
チも
可能であることが
近
年
特にフランスの言語学関係者から語られるよ,
つになってきた。
これは言語が単語、文、物語の各水準において、
印欧語では左から右方向へと線上に動く﹁統合
︵の
せ
コヰの的
ヨ
0
︶﹂の
面と、その中間において置換え可能な、言語
要
素
、単語等が上下に並べられる﹁系列︵㌧の︵
曲
Ⅰ
鼠
ヨ
0
︶﹂の二面が存在
することに注目してなされた発想であるが、
こ
れはこれ迄の聖書釈義また解釈において全くとい
っていい理念頭にな
3 (103)立てるにあたって基礎とした理論に、今世紀は
じ めの著名な舌口語学者ソシュール︵刊の乱 ま い 臣 Ⅰ ︵ 00- と、 ソ連の民話学者、 V,プロップ︵
田
㏄Ⅰ∼ ヨ ∼︵ ソシュールは構な 呈舌 語学者として有名であるが、彼は言語を言語構成体の対立価値に基
い て 記テゴリーの成員が互いに置き換え得るような構造
体であることを論証した。この対立価値という場合、前出の﹁統合﹂と﹁
系列﹂の両面の緊張関係がいわれているのであ
は舌口語要素Ⅱアルファベ記号、統
辞、各
水準に表れるものと
見徴 される。さて、言語の斯様な共時制的特徴は本来、言語
研究者が認知している基本的な問題であり、
こ 書に関していえば、翻訳、辞書編纂等において
生かさるべき事柄であって、聖書理解に関して
味を捕えんとの目的をもっものであるとき、
|
補助的役割を持つに止まるものであった。
音は
Gs目お︶の論
述し、舌口語はその 力るが、この対立関係
れに基づく研究は聖
|
それが説話の意
彼
が
有
自無
ら@
を の検
討 数冊 : 口を て
組
さ き る た
取
て い 上げ、
の
種
"-
"
若
干
の研
究|
伊 iC触
にそ
注
の よ テ@
限界
目され り@
た ムコ乞 迫 、 の
L
歴
史
追求 ラ 的 ウ
研
究
の の
成
ト、の果
と
の田 比
分木あ ち @
の ( て の レ 7 -
で
あ
る
が
チと
対立するものなのか、あるいは補完性をもっ
ものなのかということも我々にとっては大きな
関心事となる。 ︵ ム u ︶そこで、以下の本論においては、これら新研究
|
一般に構造主義︵の tructu ︵の︶∼の日の︶・と呼ばれている研究1
0 特色 (1 ㏄ ぬなりの興味を我々に持たせてくれるものとな
る。またかかるアプローチは、はたしてこれ迄の
歴史追求的
ァ プロかったアプローチであり、それはまた歴史的
追求を対極におきながら独白の追求をせんとするも
のであるゆえに、 そ一一一日
したわけである。そして﹁系列﹂の面に焦点を
あて、物語中の諸機能の置換え可能性に注意しつ
つメッセージを読み
語 構造主義と聖書釈義構 ッ レ て こ
造 セ ベ る は 釈 ジ @ こ 意 彼
へ
る みらし
以後味は進
と 含む オ,
表 の ん も る 層 構 で の 対 的 遣 い と 立 - で 主 っ な 差 あ 義 た っ 異 り 者 。 て は@
こそ も る
物
の 共通す
背後と
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口論 水
に る し準
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も ち沢 正
す 差
つこと「統合
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が 昌 一 万うが
"
メ (105)ストラウスはこのプロップの理論を採用しつつ
ソシュールの言語理論を反
努し 、 文 以下の品詞、単語、言語要素の
に 関してソシュールの舌口語理論以上に有益な武器 を 提供することになった。ファンクションを含む構造
林となっている
" この、三一機能の発見、およびその理論は、 物庄晦の水準において文法的規範性を発揮するゆえに
、神話・物語分析
のであるが、そこでの登場者の果たすファン
クションは、三一であって、いかなる物語も必らず
この中のいくつかのびただしい数があり、登場人物や
数の限られたものになるというこ
合﹂であり、登場者はそこにおい
る現在分詞的
働ら
きをもっていた
その属性も様々であるにも拘らず、それら登場
者が果たす機能︵
ho
コ
ct
円 o
口
︶は一定
とを発見した。言語学的表現を借りれば、物語
の筋の展開︵シークェン
ス
りは﹁
統
て
置換え可能なものとして
一 ,系列﹂の位置にあり
、その役割はシークェン
ス
を進め
る
対立関係を内包しっ
つ
展開する
彼は民話の形態論を確立せんとして
彪大な民話
を蒐集し分析したのであるが、多くの試行錯誤の
結果、神話には
お物語・伝説のレベルにおいても見出されること
を発見したのが、すなわち前出の
レ ・プロップでキめ
る。ところが、かかる言語構造︵ソシュール舌口語学
においては
統辞
以下の水準において論証された
構
造
︶の特徴が
、
式 I
一
syntagme几ス
③
ヵず
互
m
l
Ⅱ @ ム @ ノ
ousesti
parent
タム
Ⅱ
s((((
Ⅱ
ハ段
スに
②
スュ
e
ウ
のす
s
︵
ド
金口
①
力
に一
つい
Ⅰり田
鉛ビラ
0
。
ェジ
ボスは母の
イ コ カストと結婚すl
アンチゴースは 兄父す は殺 スを 。ポス ジオ エイ スす は倒 スを ポス ジク エン ェテオクル は弟の ポリニースを 殺す
3)@ persistence
イ足 ラ片 ? ︵ - る ス ︶ あ コ 父で ダ 0 曲 プス 自 ラオ 不 ポ用 ジ器 ェ不 ︵一一 ス ︶ や オ尖 る イめる ラスで ま | スて ジ上 ヱ @ 付
伝 神
に ③ る ク 注 っ に と よ 物 う取
ろ
に に お と 土 はたと
説話なもは①
腐敗にいたる
ェン 目し 上の てお よれ いう うと 語で追
放縦、②は不毛にいたる
迄 純粋、着性の否定、①は自然を超えられないことの認知
知 っく生活、コミュニケーション。、ストラウスによれば斯様な構造は単にギリシャ
ヤのみ見出されるものではなく、他の諸国の神話・
も見出されるものであり、世界的なものである。
としていったところに彼の特色があるといえ
よえば、ギリシャ神話の
オエディプス︵
0 の 黛ち 屈の︶ あるが、この物語︵Ⅱかの 山︵︶には近親結婚を避
けして取った手段が実際上はそれを不可避とする、
メッセージが込められている。しかしストラウ
ス ば他の多くのギリシャ神話もそれと同じ構造を
も ︵ , l ム 4 ︶ り、それは上のような構造図式で表わされる。
図式に示される如く、レシを構造上の対立関係
@てとらえていくとき、﹁統合﹂の面に表れる
シ スは四項に区分され、それは次のように説明さ
(106) 6アプローチにおいて、構造主義的分析を言きだという。前者はテキストそれ自体︵ 諦
め
富
フつス b Ⅱ。
にめの聖主日
二ノ よ丁ストへの
0
主
生色
郡話
、特に聖書中の
レシはストラウス的構造
解 釈 にはなじまないものである。 義っている神話・物語には適用可能であるが
、通時制が優越しているものには困難であり、
、 ︵ l 5 ︶セム・ヨーロッパ系の神
口へ彼はそ これ の レシ ・我々 愛する
論を適
構造
解機能を
の レシ かくち、構
の例として北米
イ
ン
デ
アンの神話
他
、多数の先住
民族の神話をあけて説明してしれ
︶。Ⅰ。
2
1
ら
、ストラウスの構造解釈は識者から感歎の声
をもって迎えられたのであるが、では斯様な構造
解釈は聖書中
にも
適
m可能なものであろうか。
が
思い浮べる聖書中の
レシ
、たとえば旧約の族
長物語とか
旧
・新約の奇蹟物語など︵紙面の都合
上
、用例は割
が
︶
|
ストラウス的構造解釈に適合するとは
必,
らずしも思えない。また事実ストラウス自身、聖
書
には自らの
用
することを控えている。それは彼によれば、
聖
書中の
レシ
は
原
構造が編集の段階で崩されてし
さっていて、
釈を行うのが困難であるとしう理由による。・
へ
。︵ 3
1
︶
また遡って、ストラウスの理論の墓
礎
となった
プ
ロップの三一
聖書中の
レシ
にあてはめてみても、彼の論は︵
後述の如く︶一部分あてはまるものの、それのみ
をもって聖書
-4 1 廿
︶
を
解読することは不可能であり、聖書中の神話
・物語はむしろ相当に通時制に関わる性質をもっ
ているⅤ
、ストラウスの構造解釈はそれを適用し得る
テ
キストを選ぶ傾向をもっており、これについて
甘 口語哲学者の
P
ル
︵ 巾
・
力ぃ
coe
仁
こも、明快にストラウス的解釈
の
限界を指摘している。リクールによれば、
神
話
・物語のう
造
解釈に適する種類のものがあると共に、それ
に
適さないものも存在するのである。換言すれば
、
共
時制が勝
価値追求派学者とは
異る斬
らしさをもっている
といえる。しかし一方、彼は構造分析学者が
レシ の解釈をする場合の問題点をも、前述の
L. ストラウス 批 判 にも示される 如 く指摘しているわけで、彼は解釈の水準と釈義
の水準とを意識的に区別して語っているといえよ
う。これは彼の次の
に近い論評であるが、斯様に、リクールは構造
分 折るレシ解釈の基礎作業になり得るとして認め
た点で、従来の歴史
看過 づ -@ キト ヵ母ブ を間 し、レシの歴史価値的側面のみを強調した結果、
彼の解釈は言語構造から浮き上った
意 -8- I と指摘する。そして、構造主義抜きでは解釈は
できないと主張する。こうした批判は
、ルトマンを評して、彼は神について語るとは如何
なる意味をもっか︵韻
二の汀コ田目下里 ぅが、神という言葉は如何なる意味をもっか︵
甘
﹁凸の プ の コ の ぎ コす由井山 ド の 妻 0 Ⅰ ヰ除ハり o ヰ d" ︶ 味過剰のものになって
い エべ リング︵の・ 馬サ臼 ぎし 幼 ・ セ 0 コ ハい 0 丑ヰぃ申 Ⅱの隼の目︶ ︵ 9- l エ を問わないと批判したの
的側面、セマンティックな意味をもつ。
りク| ルによれば、ブルトマンはかかる信仰言語のもつ
女時制的意味範囲を
わち非神話化︶リクール
ほこの方向を一応肯定
する。しかし一方、信仰の言葉︵聖書︶もまた
舌 口語である限り女時制トマン︵押い
三 ︵ ヨ曲目︶の解釈論にも批判を加え
ている。 ケ @ ニケ マフルトマンは、聖書中の
レシを宣教の客観化、固
足された体のものとして、その客観化を取除こ
うとしたが︵
すなはそれを成立たせている思考の秩序︵
か c の コ o ヨ @ の きでの コ紋③に支配されるのであり、その
共時制の面を把握しな
-7 Ⅰ ︶いとき、解釈は土台から浮き上った意味過剰のも
のとなる。そしてかかる理由からしてリクール
は、神学者
R. ブル る。それを看過するとき象徴言語は意味過剰と
なる。彼は聖書の象徴言語は偶像破壊的であると
いうが、 そ の象
徴
小生 的 あ る 薫 り 味 、 こ を そ こ も れ で っ は は も"
T
の キ テ で ス キ あ ト ス る の ト が意
を 、 味 客 言 を 観 語 把 的 の 握 に も し観
つ よ 家象
う し徴
と分
性 す 析
は る す、 者
ること
にと構造 生 っ にね び
に は 上
限 、 ら定 宗
せ さ教
る れ の こ る 言 と も 語 が の は 可で 象 能
あ 徴 で (108) 8そして、斯様な限定はストラウス以後の構造主義
者たちにも一応の原則として受入れられ、また
自らは
レシ
の解釈
如き論述にも表れている。彼は、レシの宗教
@= ロま咀を説明するのに二通りの領域があるという。㈲はその言語の構成にもとづ
いて︵ づ ㏄︵のの白日 宙 no コの ︵ ぃ ︵斥
︶する領域であり、㈲はその舌口語が いわんとすること︵のの 4 日せの三 %R︶にもと
ついてする領域であ
るが、前者が構造分析を求めるのである。とこ
ろがこの分野、換言すれば
統辞|共
時制の領域に
おける分析は、文章
ノル 占ヱ @ ユからそれが持っている﹁不思議さ﹂を追放する
ものであり、また、あえていえば、そこにこの分
析の使命がある。
﹁グレイマス︵ ト ・ ナの Ⅰ往 ヨ舖︶のいう如く、言語
には何らかのミステールは存在しようが、それ
は哲学者の考える
問 @ 却 @ 額 であり、言語には本来、 、 、ステールは存在しな いのである 一 。一方、象徴的言語は文章の中で何かをいわんとし
ている。この私議
性はグレイマスの指摘する
如 く、言語学的
統辞
の領域には存在しないのであって、それゆえ、
文 の秘 義を解く解釈は、統辞
レベルの構造分析
からではなく、その上
の水準の文章の領域においてなされることになる
。斯様な区分、相違は両領域の学者の言語への
接近姿勢の相違とし
ても現れる。リクールによれば、構造分析学者
はレシ から統辞
,言語構造へと降りていく︵ ゅコ の︵︶方向に関心を注ぎ
、 そこから綜合へと帰る︵Ⅱの︵ ou ︵︶方向には関心 をもたない。それゆえ構造分析でなされる舌口語 モ デか は構造主義者の 義抽象化作業によって﹁上部の欠けたもの1
%ない結果となる。そこで
% レ シ を理解せんとするものが構造分析を行、 7% 台、帰り︵の︵ 0目は行き注の︵と等価値で
はないことを念頭に置か
聖 -l 2 ︶とねばならないのである。
義立場に置き解釈学的円環の帰路を重視しつっ
、構造分析を
ぱ解釈学的の
レミ 蝿作業の一過程として、文法的領域に限定して
認めたものということができるであろう。
に
入らずに
レシ
の分析、説明の段階に留まろ
うと
する構造主義者も出現するようになった。
リクールが一応の評価を与えている
R.バルト
︵ 力
・㏄
art
プ
⑱︶は
|
︵リクールはバルトの分析は
、単一の
レシ
中に
働いている諸コードを見分けるところ造進もう
とする点で勝れている、という︶︵
2
2
︶
|レシ
の分析の
目的は﹁解釈者に
レ
シ
のもっ意味の多様性を復元して示すことにある
といっているが、︵
3
2
︶
これは前出のグレイマス、
ま
た
後の
スタ
ロバンス
キー︵︶・の︵の︵
oFぎの牙山︶と同様、自らの場を
レシ
の
説明・釈義の場に限定しようとするもので、
クールの求める方向
にも合致した態度といえるであろう。
かつて
L.ストラウスは構造解釈者として分析
な
行ったが、その後の構造論者たちが解釈と釈義
・説明を区別しっ
つあることは、両分野の混同を避けるメリットを
もつと共に
、
特に聖書に関しては補完的作業を
進め得る立場を取る
ものとして一応の評価を与え得ると思
う
。
本来、釈義︵綾の帆のの∼の︶はもつれたものをほぐ
す
宋で
口
︶田のⅡ︶であり、解釈︵
オの
︵ ヨ
の口のご︶は神
託を解き明かす
、
であり、両者は区別され得るものであった。
ところで以上の如くに釈義と解釈とをリクール
的に区分していくとき念頭に浮ぶのは、聖書
学の
分野で従来行われ
てきていた歴史価値追求のアプローチもまた一つ
の
釈義であった、ということである。彼らは
レ
シを
通時制の面で捕
え
分析し注釈をし、解釈者に解釈領域︵の
ゴゅヨ
os
音
す
%ヨ
の口の
ロ
ヰ白
ヒ
0
︶を提供してきていた。
そ
れゆえ構造主義的
釈
義は、釈義という水準において従来のものとは
実
ったの
メ
も︶Ⅰの
ハ
をし、従来の釈義と競合する面
をもっに至るのであ
る
。ここに我々の関心が存在する。一体この
異
る
アプローチはテキストを如何に解きほぐし、
如
何なる意味を浮
び上
らせてくれるであろうか。
以下の項ではこの点を中心に研究
側
に則して
検
討を加え、そのメリットを探ってみたい。
(
Ⅰ 1.10) 10円の手続きのものは、シークエンス︵
筋 展開︶ 分 析である。レシはそれが単一の
レシに見えるも
のでも本来シーク
語 構造 主登場者の属性と目されるものが
種 ・類に分類されていく。文法でいえばこの指標は追加形容詞に
あたり、この分析は
︵ 刀れ - レシの人物のはたす機能を検出するためには不可
欠 のものである。 (Ill) 聖 記手続きの㈲のものは、バルトが指標分析
と称するもので、レシの品詞分析である。ここに
おいては、諸機能をもっ
書 釈義 ろ う レ " ッ ス れ@
レ
ふじに
シト ば さ
つ
い た の な め そ の う 、 て 重 て グ 図 層 、 ノ ン 式た
っ構こ
造に一
三ウ
スの
ここ
こ構 l イ Ⅱ 造 ク マ は
( 式 軸 能 解 析 構
。 図 工 機 約 分 で
Ⅰ
を エ ス 次 ほ 、 ノ @I 頁 ぐ ス よ 注て 出 は よ い 来 こ う く て の に
と い 真 説 擬 き
的 を 、 き 例 の い く 本 明 う の 溝 さ こ が 造 れ と レ は る に 、 ン 幾 。
な と 層 て シ る た 離 が に る い に レ の こ の を " " の う も シ 又 と で 保 そ 彼 で こ 重
あ
と層
る@c
イヒ見
が ぅ は方
。 な しる て号
造
と る彼 な 山 的
る
凶 日 よ も つ の 出 そ も 式 さ う は た プ 発 ね め と れ に そ 積 ロ 点 の で し る な こ 道 ッ に え あ て グ っ に 主 プ つ レ り 受 レ た お 義 の い八 々 。 い 者 三 て
分
ま析 た
は こ 逆 の に構
こ 造 い
知 生 全 析
とお
め る悪 玉
本 鞘
に他
構造 因 め式 触
を 媒
な 立 心あ 的
っ て と て機
ま
| 肯ヒ ヒ い よ る な ロ に よコ手
nateur
Ⅱ
式
D
回
者
治
退
㏄
の
㎡
手肱
受
i
補助者
adjurant@ ->@@ Suj
t@ -<@@ opposant
注 ( 説 明 )
体 )
は龍 ,悪魔 (
敵対者
) の妨害に逢いながら
魔法 (
補助者
)
の 力を借りて敵を
倒
し姫と 結ばれる。 ② また次のような レシ にもなる。神 (
送り手
) が人間 ( 受け手
) に救い (
対象 ) を与えんとする。
人間 ( 主体 ) はサ
タンに苦しめられ (
敵対者 ) ながら,キリスト ( 補助者
) の助けを借りて
救いを獲
得する。 ま l る 勝 の て プ て 数 閉 め る ば の 場 も ェ た ク レ っ 三 い ロ バ い 筋 l 注 も さ と 合 の ンのか
くこと聖書中ているのどれス
ェ ンス/
、|
1チは ノー レトょ ァ つこ。
6@
2
( 展開 検 のから 訳者ののが、
れつつ もいい の如く にすぎ0
分 リ レ か が 相 、 出 ろ 役 プ 未 得 、 な ら レ 析 ク シ が で 互 こ0
合 目 口 尾 ろ シ い み シを l は 優
き補
c@
コ た い は ア に 。 l 。 合 め る そ 4 玉 そ ク た いはよ
通りの
ルグ
レ的
光
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完シ
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時 多 い 々 に し で クのほれレるこェ
縫ぐゆテ 。
で
ンえ成
とで
7 周 か あ ェえ
合 し ソ 斯 は ス は 立 - 的 求 セ ス い し り ン 様 て 、 ク 様 あ は 字 っ 特 め ム 的 ら ま 、 ス 式 い こ に に る 混 の て 徴 る 機 れ た 各 分 ) く の 取 レ シ 線 消 お な と ョ 罷 る 、 分 析 を こ 表 捨 シ l す え る ちい @ 分
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多 と 層 撰 に ク る て も つ3
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作 あ 節 さ い ン あ な で と パ れ な さ が 重 り る 展 れ て ス る い う に系
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し げ そ @ 進 l 途 は 皮 一 ク る も す 一 レ に て " の バ ん ク 中 フ 紙 ン @ で の く 般 シ 応 い そ た か で ェ で ィ 上 l ル あ " " 的 の じ る ね め ト い ン 切 ル に ク め る ま 通 に 性 て がを に
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、 教 則 如 書 層
れ 聖 、 て 制 以 用 の 筋 レ で き き い 的 道 書 シ い の 上 い ア携績展シあ
伸もたの
(112) 12歴史価値追求の聖書学を知ってきたものとして
受入れやすいが、このテキス・
トの
構造分析に取組
んでいる前記
R.
バ
ルト、また同傾向の
J.
スタロバンスキーがどの
ようなアプローチをしていくか、以下では特に
スタ
ロバンスキーが
取上げた新約聖書中の
レシ
@
マルコ伝五章一と一
一
0
節のいわゆる﹁ゲラサの狂人し物語のシーク
ェ
ンス分析例を検討
- 折
-
していきたい。︵テキスト本文はギリシャ
語文
が
用いられているが、ここでは説明の便宜上、日
木
聖書協会試をあげ
ておく。︶
︵テキスト︶マルコによる福音書五章一節
?
二
0
こうして彼らは海の向う岸、ゲラサ人の地に着い
た
。それから、イエスが舟からあがられるとす
ぐに、けぶ
炉れ
与に幸正
ほつかれた人が墓場から出てきて、イエスに
出
会った。この人は墓場をすみかとしており、もは
やだれも、鎖でさえ
も
彼をつなぎとめて置けなかった。彼はたびた
び
足かせや鎖でっながれたが、鎖を引きちぎり、
定
かせを砕くので、
だれも彼を押えつけることができなかったから
である。そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫び
っ
づけて、石で自分
とたちをこの土地から追い出さないようにと、 聖
しきりに願いつづけた。さて、そこの山の中腹
に、
琢の大群が飼って
あ
のからだを傷つけていた。ところが、この人が
ィ
エスを遠くから見て
、
走り寄って拝し、大声で
叫ん
ネ L
舌口った
、
﹁Ⅱ
リ
と
高き神の子イエス
よ
、あなたはわたしとなん
の係
わりがあるのです。神に誓ってお願いします
。どうぞ、わたしを
義
苦しめないでください﹂。それは、イエスが
、
﹁けがれた雲よ、この人から出て行けしと舌口
わ
ね
たからである。また
彼
一 O
榔に、
﹁なんという名前か﹂と尋ねられると、
﹁
レアギ
オンと旨
ロ卜リ
ます。
大ぜ
Ⅱ円なの
ネ Ⅰすから﹂
と
答えた。そして、自分
一一
義
違った。霊はイエスに願って言った
、
﹁わたし
どもを、豚ははいらせてください。その中へ
送
ってください﹂。イエスが
諦お
許しになったので、けがれた
霊
どもは出て
行って
、
豚の中へはいり込んだ。すると、その
群れは二千匹ばかりであ
っ
たががけから海へなだれを打って駆け下り、
海
の中でおぼれ死んでしまった。豚を飼う者たち
が
逃げ出して、町や
1
一一一一口
は
立ち去り、そして自分にイエスがしてくださ
っ たことを、ことごとくデカボリスの地方に三ロ い ひろめ出したので、 人々はみな驚き怪しんだ。さて、このテキストのシークェンス分析にあた
って最初に注意さるべきは、シークェン
ス が ど こから動き始める か 、ということである。これは、スタロバンスキーによれば、既に四立
曇一五節から始まる。三五節に﹁向う側へ渡ろう﹂
とのイェスの言葉
があり、これが予告をなして筋が動き始め
|
﹁へという前置詞﹁
口い の﹂がこの後 一 0教団用いら
れる︶|
そして五章
一節において行為が現実となる。この一節では
々 エ ス と共に弟子たちも居る。しかし二節におい
てはイエスだけが
登 ︵ お ︶場
する。︵
R.バルトの言葉を借りれば、プロ
アイレシスーすなわちシークェン
ス の選択取捨︶また、このある場所
から他の場所への移動は構造図式としては対立
的 意味を含むものとして、 左 0右の図式で表わす
ことができる。次に、二節で悪霊につかれた者が墓から出てく
る 。この墓は山にあり︵十一節参照︶。悪霊につかれた人間ほ山にあ
る墓から
岸 、すなわちイエスのおるところへと 来 る 。ここでは対立図式として、 山 Ⅱ 上 、岸Ⅱ 下 0 対立項目、また 墓 Ⅶ 二 Oどんなに大きなことをしてくださったか、またど
んなにあわれんでくださったか、それを知らせ
なさい﹂。そこで、 彼この地方から出て行っていただきたいと、頼みは
じめた。イエ一八
ほつかれた人がお
供
をしたいと願い出た。しかし、一九イエスはお許し
にならないで、彼に言われた。﹁あなたの家族の
もとに帰って
、
主が
一 - ノ着物を着て、正気になってすわっており、それ
がレギオンを宿していた者であるのをみて、恐れ
た。また、それを
見 一七 た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った
事 と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。そこで
、人々はイェスに
、村
にふれまわったので、人々は何事が起ったの
かと見にきた。そして、イエスのところにきて、
悪霊にっかれた人が
4
言語構造主義と
聖書釈義
まり正常態への復帰が一五節に示されている。
こ の正常態への復帰によって一つのシークエンス
は 、完了する。次 コ @C
マ
-
あ 四 る 飾 り降 論 ;
で 述て は が 。物 。
垂口
豚が@
一 Ⅱ@
@
@@
し去 な
た た
後
もの 悪
霊
と
一口、
(生理 し敬 待
) る は で狂
あろう。消え、
@
)ま | 正
常
人単
数
者
とて
二二 ス の
目 」
J
に山 るつ
(115)次に、この狂人とイエスを対立図式に置きつ
っ
シークェン
ス
を追うとき、そこにデリケートな
筋
展開のあることに
気付かされる。
グ @
ド ・アーソ
ユ
と
答えている。この八節と九節間に統辞の面で
の
断層が存在する。八節
迄
には狂人は単数とし
て
示されているが、
九節において、わたしという単数は
レギ
オン︵
軍団︶という複数を表わす言葉で表現され、九節
以降においてこの
狂
人は自分のことを常に複数で語るようになる。
ス
タ
ロバンスキーによれば、﹁・みかけの単数が実
は
複数であることが
示され、次にそのみかけは消え複数の実体が表
面
に出てくる﹂のである。
司 わたしどもを豚には
いらせてください。
詰
たも
き
も セ
めりのへの
To
㌻
Xo
奇
Qc
紀
︵了一節︶。
イ
エ
スはこれを許し、悪霊は豚へと入る。ここで、
豚へ
入るという事実
の
前にその予告がなされていることを注意せねば
ならない。﹁はいらせてください﹂との願いが
あり、予告があり、
次にそれが実現されるというシークェン
ス
に
な
っている。これは前述の、
一 1 向う岸に渡ろう﹂︵
四の三五︶から始ま
る
シークェン
ス
において既に示されている特色
であり、予告があり、次にそれが現実となるので
ある。この特有性に
注目するとき、一三節の
、
豚の群の湖水への
落
下は
、シークェン
ス
の本来の動きではないという
こしこ
に
わ は
ノつ
。㍉これ
は
予告されていない出来事であり、目の
コ
np
吊目
︵因果関係︶がない﹂。これは意図されず命令さ
れず、従ってこれは、
スタ
ロバンスキーによれば、単に象徴的語句とい
ぅ
ことになる。換言すればこれは本来のシーク
ェシ
スに挿入された
図式Ⅱ
I.A 五 alyse 鯛 quencIeIle5
章l Jfl3US
づeeS
わ届 p& ノブ ウ Caa
スイ ad.v? づ ゲラサ人の地づ 海の向う岸全2 ナぷノ oppWIoS
y
なノあ 仰がaKaS&o
。 甲ヰ けがれた霊につかれた 人3
ヰ山・墓場8
けがれた 霊よ出て行け ソ ざ
e
さ loeこの人から
e
ん オ
0
うれノサ 05%0 サe@S
て 0%S ヱ
0
ソ p00Sその中へ送ってください
・
Ei
上
ク穫且
haafo
膵ノ13a
豚の中へ入り込んだ ソ さ @S
TOjS ア 0@
Ⅰ nov 寸
b 海へ 一 ガ
S
亡う ノクみノ Ⅰ クク ㏄ ノ13b
は象徴 的 と レd
多 も @ っ は 数 な る 節 知 驚 方 なで 国
きそ 六
き
複
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下
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て述
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頁
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事
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てよ
は 人 ・ 主 と 一 件 ェ な 者 、 の f で た う終
々単 が す セ を
(116)@ 16言語構造主義と
聖書釈義
図式
I. Analyse symb0@ique
( 二対立が意味をもつという 意味でsymbolique)
シ @ クェンス分析の 一項目
opposition
simple
( 単数 )
plurie@
(
複数Ⅰいめ
た
てじ
よ
出は
着
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ゃ
複数
)
さ
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Ⅰ
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ⅠⅠ
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Ⅰ
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悪霊
イエス
そ
∼
悪
22
5
5
17@ (117)言語構造主義と
聖書釈義
図式 V Ⅱ. Sh ろ Ima Structural ( グレイマスの 図式による ノ
(A)
Dest@a 土 eur.
一一
-- 廿O
円 et一
-
一十
Dest@ata 廿e
神 , ( あ るいは 物
救い
人間 ( 悪霊にっかれた 八 ) 語 のさし出し人Ⅰ 5,1∼
15 イエスAdjuvant
一一斗
人間
Sujet
(
悪霊にっ
-<--Pn
悪魔およ
Opposant
ひそれに
支
かれた 人 ) 配されるもの 0
(B>
Deur 一一一一一キ Ob.
一一一一 D
「e
神
ィ ニスの示 人間 5,16-20 イエス す福音
AdJ 一 p->- Su.
午
一一一
Opp伝道者 ( 救わ 悪魔の残存勢力 ( あ る れた 人 ) いは ゲラサの住民 ) Ⅱの A は Syntagma れ que
B
は Paradigmatique三
、構造分析の効果と限界
さて、以上の構造主義的釈義をこれ迄の歴史
価 値追求的釈義と比
敏してみるとき、いくつかの点でその相違が明
, らかとなってくる。この同じテキストを取上げた従来の釈義の中
か, り 様式 史研究の代
︵ 0 窩 3 ︶表着ブルトマンのものをべっ見すると、ほぼ
次 のようになる。フルトマンによれば、このマルコ・五の一
) 二 0 は マルコが編集する以前にすでに現在の形のものにまとめられ
て おったもので、 マ ルコが編集者として手を加えた部分は殆んど存在
しない。ただ、 八節は前後の節との結びっきの不調さから判断し
て挿入と考えられ
る。また、この
レシの原型は、八節を除き、一節
から 一セ節 までと判断される。︵この
一 と一 セを原型とみる聖書
学者は他にも少なか
すでに弱められており、イエスの使者はイエス
の
支えの下にその
活
動を続けることができる。この①悪霊追放物語、
②イェスの使者の
在り方、は
、
③として示され得る聖書全体の
メ
ッ
セージに合致しす
る
。すなわち各水準間に相応性︵ぎヨ
0
︶ 0
ぬ宙
︶
が
存在する。という
ことになるのである。︵図式
V
参照︶
(118)ス
、またはイェスの使者に対立し続ける。しかし
その対立者の
力
は
8i
のあることを考えさせられる。史的部門の釈義が
同じテキストを扱いつつも多様な結論に至ると
き、構造主義的研究
1
語 構造主義と聖書釈義 で め り ま あ 斯 る 、さ,ら
た り、
様に 結果 そ更 更
と に れ 釣 的 な シ ゆ 部 分 つ :え 門 析
て ク @c の 研 い ェ史 幅 穿
る ン 的 買 は 。 ス 研 の の究 広 史
は さ 的 ヰ%
拳 と 主旨 段落 を造 兵 向
主 に 性 五
養 方
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(C
ァプ上て
論い
お ロ の 共
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非 道
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-
も な比 性
の ど較 を を
照
も も合 惑 っ タ す じ と
る さ は
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"
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れ 個 キ よ る 々っ 。 の の て
研
見
反
究
解
て の そ者、
@c
接
も近
の た有
効
す
お度
結
が百冊
後
検
は者
証
極
の さ め見
れ て多解
る面
様
を靱(119) している、などを挙げることができる。
ところで、この相違は、史的研究者と構造研究
者両者間に固定的な相違ではなく、構造分析の立
場 においては、 扱 いはほ ほ共通していると思われるが、史的研究者
間においてむしろ見解の個人差が大きく表れて
いる。たとえば、 ト へ ・ 3 人 ︶ ロク /︵編集史的立場︶は八節を特に挿入とはせ
ず、また一三節
b を ば、奇跡の現実性を証明せ
んとする語句とと
相違点として、ブルトマンは
一セ 節を レシ 原型 0区切りとし、スタロバンスキーは一五節を
シ|クエンスの一段落と
らず存在する︶次に、ブルトマンによれば、
こ の原型レシは悪魔払いの民間説話と目
た デモン︵ こ︵
raのの
コ呂 3 円 臼︶のモチーフを
含んでおり、滑稽
譚的民間説話がイエス
︵
ロココ
目ぃゴ のⅡ㏄の コ ミの コオ ㏄仁井ヒのの蛋の屈すの
Ⅰ 叶
Ⅰ㏄内の
コ| なのである。以上に一瞥したブルトマンの注釈と前記スタ
ロ
バンスキーのものとを比較するとき
表れている。スタロバンスキーによれば八節は
シークエンスにとって必然的であり、というべき位置にあった。第二の相違は一三節
の扱いである。スタロバンスキーが
こ象徴的意味をもつ部分として、シークェン
スか, ら切離すのに対し、ブルトマンはその
されるものであって、だまされ
に転位されたもの1
% 口づ 0 守で、その相違はまず八節の扱いに
九節が次のシークェン
ス の起点 0部分を筋展開の必然性を欠く
よ うには扱わず、また、第三の
と
比較しつつ、多様なものの中から有効なもの
を拾い上げることも可能であろうし、また上記の
トロ クメ の例にみる めく、厳密な史的分析研究の結果と、文章の構
追分析にもとづく結論とが、接近しているという
ことは、両者は相互
︵㌍︶補完的性質をもつということをも考えさせられ
る 。また、従来の史的釈義が歴史的前後関係におい
てテキスト中の章句を分類、原点に近いものと
遠いものとを価値
序 列的に扱うことによって、テキスト全体、コル
プス全体のメッセージを解体してしまう恐れなし
としなかったのに
対 し、構造分析を主としていくアプローチは個々
のレシを扱うと共にそれがテキスト、コルプス
全休の水準における
メ ッセージの同質性を探るという綜合の方向︵
りク |かめ述べる解釈の場︶をももつことを考える
と、構造主義的
ァプローチは全テキストの解釈に開かれた道を用意す
るものといえるであろう。かく比較してみるとき、構造主義的アプローチ、
特に R, バルト、 J,スタロバンスキーの構造
分析は、釈義とし
て一応のメリットをもつということができるので
ある。ただし構造主義的アプローチも弱点をいくつか
抱えていることは認めねばならない。
史的釈義が歴史価値を求めて分析的になり、
今 休めメッセージを解体する危険性を内臓する如く
、構造主義的
ァプローチは史的アプローチを欠くとき静的︵
共時制
的︶構造を解釈せんとする方向
。
L . ストラウ スが進んだ方向に傾
きやすく、また
文構造の対立、差異というもの
に意味を過度にあてはめるとき、中世的アレゴリ
力かな解釈へと傾斜
ク マ し、テキストが本来所有しない意味をも無理に。
てこにあてはめ、テキストを教義の中に閉じ込め
てしまう危険性なし
としない。それゆえにこそ、両者は相互補完的に進めらる
べきであり、 各て存在理由を認めることによって
、解釈者に従来よ
り以上の解釈領域を提供していくことが望まし
Ⅱ @@V @0 (120) 20言語構造主義と
聖書釈義
注 ︵ 1 ︶聖書学の分野で今日別いられている研究は 、方 法論的にいえば、様式 史 、編集史的研究であり、 左 のものが代表的であ刃ロ
U- ︵ 2 目 目し驚 GeSCh 音オ鮭きドめセさっ ㌧∼∼ の う寸心さ づ Ⅰ ぺも ∼∼∼ っさ、 のむ まぎ ㏄の コ ︵ づハコロ の コゴい の c ガ漆オ屈づへぬ c ゴ ︵︶Ⅱ 卜 由 ︵・ ト ののⅡ 門戸 の 。 黒 い 目ヨ u@n@ コ ,む Ⅱ㏄Ⅱ 寸今 Ⅱ∼∼ & ハナミ ムいめロ Ⅰ - 口っ ︵ @*@@@ ハ @ ぬ 一 @@ ハ @ ︵Ⅰ n. ロ ・ ヨ 0 す ﹁︶︶ ゆのい 已 ・ づ ﹁ 00 臼坐 いさ 卜っド まさ∼ @0 さ もめ∼ - 曲ミ Ⅰさい マ鮭の 雨∼ っさや
主 Ⅰ ﹁ c, ㌧ ぃャ卸 ︵ づ ・ 己 ・ 弓 ︶ ト ののの ︵ 2 ︶ 弓 ・ ト のの の 仁のの け Ⅱの " の 。 だ Ⅰ㏄も い ∼ @ さ船笘 @ め ∼ @ 白隠へ心かⅩ ぷ ⅠⅠⅠ 脛 ㌧ ハャ @ の ︵㌧ ヰセ 0 ︵︶おお小林英夫訳ヨ口語学原論 L ︵ 岩 ︵ 3︶ギロ1
%. の 日 ﹁ aUd ︶佐藤 訳 ﹁意味 め BJ ︵文庫 ク セ ジ ス ︶参照。 またⅠの市の目︵ オ 。 ヴの 臣一口∼ ぃ 悪もささⅠ∼Ⅰ ぬ も夫∼ ぬ ∼Ⅰ さめ ま % ㌔ Ⅰ白さ う Q へめ n. づ ・ ト Ⅱ㏄ け ︵ 4- ある。ただ、構造主義的研究は末
だ端
初についた段階
の研究分野であり、テキストの取扱い事例も多く
はなく じ判定すべき段階には至っておらない。また
細 部 二日一って指摘すれば、聖書テキストを分析する 際 、ギリフル語の原典にもとづいて行うべきか、あるい
は翻訳文を基礎に行って済むものか、また兵額
お佃
土日重目
申合
、どの福音書の
レシを基礎とするのか、等の
問頭 は必らずしも十分論じられているとはいえな
い 。さら析は目下のところ
レシ 中心に行われているが、 パラフルの場合、また書簡体の勧告文などへの
アプローチ
わるべきか、 こ の分野の研究事例も多くはなく、︵,
@3構造主義的方法論の全体としての評価は尚今後
の 研究に らない。しかし何れにせよ、従来の史的価値追求研究は
、
構造主義的研究から学ぶところ決して
歩 くない はずで て今後、後者のアプローチを参照することによっ
て、更に綜合的な釈義の道を準備することも
可 能 になる全貌を論
シヤ 語、へ のレシ の場に、構造分
は如何に行
待たね ば なあり、そし
と 思うので︵ 4 ︶スイスの新約学者 F. ボヴ オンは 、づオぎぎ幅 ∼ め ︵ 討めり きぬ﹁∼ ぬ ﹁