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仏教文化研究所紀要53 006中村, 本然「『平家物語』と高野山参詣曼荼羅」

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第八十二回 仏教文化講演会記録

と高野山参詣憂茶羅

高野山大学教授・密教文化研究所所長

司会 高野山大学の浜畑です。龍谷大学出身です。今日は高野山大学密教文化研究所の中村本然先生に﹁平家物語と高野山参詣蔓茶羅﹂のタイトル でお話をいただきます。はじめに仏教文化研究所所長からご挨拶をいただきます。 青 島 仁 本日は龍谷大学仏教文化研究所主催の講演会に多数ご参加くださいましでありがとうございます。この仏教文化講演会は文学部の 7 学科叩専 攻で持ち回りで担当していまして、毎年、 2 回開催されます。今年度第一回は八十二回目の講演会です。日本語・日本文学科担当で大取一馬先 生がご尽力され高野山大学密教文化研究所長の中村本然先生をお迎えしてご講演をいただくことになりました。テーマの﹁平家物語﹂、本学の 図書館に写本が所蔵されております。高野山参詣憂茶羅、高野山の宗教文化を代表する文化資産の一つでございます。二つの歴史的な文化遺産 を通してその二つの関係を通して、お集まりの皆さま方への仏教文化への知見が深められることを、また高野山大学と龍谷大学の学術的な交流 がますます深まっていく機縁になりますことを念じまして、簡単ではございますが、挨拶とさせていただきたいと思います。先生、よろしくお 願いいたします。 司会 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 豊 茶 羅 一 二 九

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 一 三

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ご講師の紹介を本学の大取先生にお願いします。 大 取 中村先生のご講演のご紹介をさせていただきます。先生は兵庫県神戸市に生まれで、高野山大学大学院博士課程修了後、 一九九四年四月から 高野山大学教授としてお勤めで、現在は高野山大学教授、並びに高野山大学密教文化研究所長をお務めです。ご専門は弘法大師の思想並びに真 言教史の研究です。先生がお書きになられたご著書は﹃真言密教における安心﹂﹃真言教学の諸問題﹄﹃縛顕密二教諭﹄を読む、を高野山大学通 信教育室から出されまして、最近では二

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一二年に﹃空海と高野山﹄を青春出版社から出版されています。大変ご活躍の先生ですが、そのご研 究のことだけを拝見しておりますと、近寄りがたい先生だなと思って、私たちに近いようなところをおもちではないかと思っておりましたが、 漏れ聞くところによると中村先生は食べることが大好きで、それもお好み焼きが大好物だとお聞きしてホッとしまして、同じところをもってお られるなと思って。今日は中村先生のご専門の研究を拝聴して会得していただきたいと思います。先生のお人柄にも触れていただければと思っ ております。簡単ですが、先生のご紹介をさせていただきました。 司会 それでは中村先生、よろしくお願いします。 中 村 過分なご紹介をいただき、まことにありがとうございました。お好み焼きを好物としている中村でございます。今日、高野山から四時間ほど かけてまいりました。三

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年程前に遡る事なのですが、大学に奉職しました頃に、学生たちと一緒に空海が嘗て高野山から京都の東寺まで通っ た道を尋ねてみよう、 と少し無謀とも思われる計画をいたしました。現在では草木に覆われ竹が生い茂ている道を古い地図を頼りに探し出して 京都まで歩いたことがあります。都合、三日間かかりました。高野山の奥ノ院の裏山から黒河道を利用して奈良の五条に着いたのが一日目。大 和街道や平城京へ続く下ツ道を辿りながら東大寺あたりまでめざしたのが二日目。奈良の中心から宇治へまわり、五重の塔の聾える東寺につい たのは三日目の夕刻でした。普段長時間歩いた経験のない学生にとっては、足を痛めながらの強行軍になり、随分辛い旅になったようですが、 今では懐かしい想い出となっております。

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この度は、若い頃に高野山大学で教鞭をお取りいただいていた大取先生の貴重な講義の 1 コマをいただきまして、このような機会を設けてい ただき、まことにありがとうございました。しかも仏教文化講演会という歴史と伝統のある講演会に、 お招きいただきましたことを光栄に思っ ております。これまでにご講演をされた方々を拝見すると、日本を代表する鋒々たる先生方のお名前が並んでおられ、場違いなところにいるよ うにも感じております。 官頭で紹介いただきましたように、私の専門は日本における密教思想やその展開に関心をもっております。随いまして日本文学を語るという 知識も素地ももちあわせていないというのが正直なところですが、折角のことですので、高野山のことも知っていただく機会にさせていただけ ればと考えております。 今年は四国霊場が開かれて一二

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年という年となっております。そして来年は真言宗を開宗した空海(七七四 l 八三五)が、嵯峨天皇から 修行の道場として高野山を賜ってから一二

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年の記念すべき年にあたっています。明年の四月二日から五月二十一日までは高野山で記念の法 要が執り行われることになっておりまして、その準備におわれております。 本日は﹃平家物語﹄に登場する平清盛を中心にお話しをすることになります。清盛が都を移そうとした神戸とは、個人的にも多少なりとも縁 がございます。三ノ宮に程近い春日野道あたりで生まれまして、その後にしばらく西宮で暮らしておりました。ですから二

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二 一 年 に NHK の 大河ドラマで﹁平清盛﹂が放映されました時は、懐かしきも伴いながら観ていたように思います。ご承知の方もおられると存じますが、平清盛 は高野山とは深い縁がありまして、彼が携わったという伝承の残る﹁血蔓茶羅﹂はよく知られています。近年、﹁血憂茶羅﹂の修復作業がなさ れ、その事業も無事に終えたという報告も聞いております。 さて本題に入らせていただきたいと思います。文学部の先生方や皆さんを前に今更ながら大変な講題を選択したと反省していますが、少し違 った視点からのお話もできればと思っております。まず平安時代を代表する文学について触れることから始めさせていただきます。随筆として は清少納言の﹁枕草子﹂(一

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初頭)があり、物語は紫式部の﹁源氏物語﹂(十一

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初頭)が有名であることは申すまでもございま せん。紫式部と近しいお寺として真言宗の石山寺が知られています。続いて平安後期から鎌倉期における代表的な文学作品について、しばしば 行われている説話集・歌謡集、随筆、軍記物語という分類によってお話しいたします。 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅

一 一

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 一

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説話集││﹃今昔物語﹄(一一

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六年

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十 二

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前半)・﹁古事談﹂(二二二43=二五年)・﹃十訓抄﹄(一二五二年)﹃古今著聞集﹂(一二五 四 年 ) ・ ﹁ 宇 治 拾 遺 物 語 ﹄ ( 鎌 倉 初 頭 ) ・ ﹃ 沙 石 集 ﹄ ( 一 二 八 三 年 ) 等

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歌謡集││﹃梁塵秘抄﹄(一一七九年)等

随 筆ーー﹃方丈記﹄(=二二年)・﹃徒然草﹄(一三三

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一=三二年頃)等

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軍記物語││﹃平家物語﹄(鎌倉中期)等 説話集には﹃今昔物語﹄や﹃故事談﹄﹃十訓抄﹄﹃宇治拾遺物語﹄等があります。﹃今昔物語﹄の中には高野山の話しも入っており、空海を高 野山に案内したのは大小二匹の犬であったという伝承等が記載されています。歌謡集としては﹃梁塵秘抄﹄が夙に知られています。随筆に分類 される鴨長明の﹃方丈記﹄そして﹃徒然草﹄、今日、皆さんに紹介をする﹃平家物語﹄は軍記物語という部類になります。このように平安後期 から鎌倉期にかけて、文化的な所産として数多くの文学作品が作られています。時折このような書物を見る機会もございますが、この中には仏 教の教えや説話が散見し、仏教の影響を色濃く感じることがあります。紹介させていただいた作品の制作年代などについては、研究も日々進ん でいますので、より厳密な成果が示されているのかもしれませんので予めお断りしておきます。またこれ以外に指摘しなければならない多くの 文学作品があることはいうまでもありません。 話題とします﹃平家物語﹄は軍記物語という領域になりますが、本日司会を務めていただいています浜畑先生は、正しく﹃平家物語﹄のご専 門と聞いております。専門家の前でお話をするという恥知らずなことをしておりますので、試験をされている学生のような気分にもなっており ま す 。 ﹃平家物語﹄と高野山との関わりは幾つかあるように思いますが、特に﹁大塔建立﹂のことはよく知られています。史料としては、市古貞次 先生による﹃日本古典文学全集﹂(小学館) のものと、富倉徳次郎先生の﹃平家物語全注釈﹂を用意しました。 ﹃日本古典文学全集﹂の﹁大塔建立﹂の所説段には ﹁抑も平家の安芸の厳島を信じ始められげる事はいかにといふに、鳥羽院の御宇に、清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国をもッて、高野 の大塔を修理せよとて、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌に付けられ、六年に修理終ンぬ。修理終ッて後、清盛高野へのぽり、大塔をがみ、奥院

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へ 参 ら れ た り け れ ば 、 いづくより来るともなき老僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、 かせ杖のこまたなるにすがッて、 い で き 給 へ り 。 良久しう御物語せさせ給ふ。﹁昔よりいまにいたるまで、此山は密宗をひかへて退転なし 。天下に又候はず。大塔すでに修理を終 り候ひた り。さては安芸の厳島、越前の気比の宮は、両界の垂遮で候が 、 気比の宮はさかへたれども、厳島はなきが如くに荒れはてて候 。 此次に奏 聞して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は、肩をならぶる人もある まじきぞ ﹂ とて、立たれたり。 此老僧の 居 給 へ る 所 、 異香す なわち薫じたり。人を 付 け て み せ 給 へ ば 、 一 二 町ばかりはみえ給ひて、其後はかき消つやうに失せ給ひぬ。ただ人にあらず、大師にてましま しけりと、弥たッとくおぽしめし。裟婆世界の思出にとて、高野の金堂に、豊陀羅を書かれけるが、西呈陀羅をば、常明法印といふ絵師に か れ け る と ぞ 聞 え し 。 ﹂ 書かせらる。東畏 陀羅をば、清盛 書かんとて、自筆に書かれけるが、何とか思はれけん。八葉の中尊の宝冠をば、 ,

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社寺参謂史茶続Ji'9fJ収「花岳寺所 蔵 (兵庫県赤穂市/江戸時代・十七世紀)

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と高野山参詣長茶羅 わが首の血をいだいて書 と あ り ま す 。 ﹁大塔建立﹂の記 述に関する 今日の話しのポ イ ントを幾っか申します。鳥羽院の御字、市 盛公、老僧(空海)、安 芸の厳島(胎蔵 生呈茶羅 ) 、 越前の気比 ( 金 剛界史茶羅 ) 、 高 野 の 金 堂、東呈陀羅( 胎蔵生 虫茶紐) と 清 盛 、 八葉の中尊の宝冠などの項目で、密教との関わりが あると考えられる事柄です。 時代は、鳥羽上皇こ一

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三 1 一 一 五六)が院政を敷 いていた時期にあたります 。根本大 塔という其言密教の教理を具現化した塔の修復を仰せつかるのが平清盛(一一一八,一一八 ご 、院宜の命は父の忠雄 ( 一

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九六 l 一 一 五 一 ニ )が拝受するのですが、笑際には 消盛が 実施 することになります。修復を無事に終了して高野山に登り、新たな装いをした大塔を眺めた 後に奥の院に参拝したところ、眉が白くなり額も織で波だって杖を曳いた風貌の老僧が現れ て、清盛に親しげにいろいろと話しをされます。安芸の厳島と越前の気比の宮は、密教の円以

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 豊 茶 羅 一 三 四 茶羅に配すると胎蔵生蔓茶羅と金剛界蔓茶羅に相当することになる、敦賀の気比の方は栄え、 一方の安芸の宮島の方は衰微して荒れ果てている ので、高野山の修復に続けて厳島の修理を手掛付るように諭されます。きすれば貴方の官位の昇進は思いのままになろうというお告げをされて 立ち去られます。この老僧のおられた場所から妙なる香りが漂よっていたので、家臣をつけさせたところ三町あたりで姿をかき消されるととに なりました。この老僧こそ弘法大師に違いないとの尊敬の想いを抱かれる様子が物語られています。金堂には憂茶羅を描かせますが、西の憂茶 羅︿金剛界﹀を常明法印に描かせ、東︿胎蔵生憂茶羅﹀は清盛自らが画くことになり、何を思われたのか胎蔵生憂茶羅の八葉の中尊である大日 知来の宝冠をご自身の頭部の血を混入して描かれたというのです。清盛は老僧の教訓に従い、安芸の厳島を復興し、平家一門の繁栄を期するこ とになります白その一端を厳島に今に伝わる﹁平家納経﹂などにみる思いがいたします。 ﹃平家物語﹄に伝承された﹁大塔建立﹂の模様が﹁高野山参詣憂茶羅﹂に採用され、多くの人々に伝わることになります。ところで﹁高野山 参詣憂茶羅﹂として伝わっているものは室町期以降のものとされます。この﹁高野山参詣蔓茶羅﹂には、三種の参詣蔓茶羅が現存します。

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高野山参詣憂茶羅 ー、淡路成相寺︿伽藍絵図﹀ 所蔵(兵庫県南あわじ市/室町後期)/一二四三年実弘上人創建) 2 1 ①ハーバード大学美術館所蔵(十五 l 十六世紀) 2 1②東京芸術大学美術館所蔵(十五 l 十六世紀)︿大阪市立美術館/二

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一 四 年 ﹁ 山 の 神 仏 ﹂ 展 出 品 ﹀ 3 、花岳寺所蔵(兵庫県赤穂市/江戸時代・十七世紀)/ 花岳寺は一六四五年創建 因みに高野山参詣憂茶羅として、しばしば眼にしますのは花岳寺所蔵の参詣憂茶羅であります。 花岳寺は兵庫県赤穂市にあり、討ち入りとしても有名な赤穂浪士や浅野家の菩提寺となっています。﹁高野山参詣憂茶羅﹂は、お寺の宝物館 に所蔵されています。宝物館には赤穂浪士の遺品等が多く陳列されていますが、入り口近くにこの参詣蔓茶羅が飾ってあり、そこだげ異質な雰 囲気が漂っています。花岳寺所蔵の高野山参詣蔓茶羅は二幅からなっており、両幅で高野山全体を表現しています。まず一幅目ですが、下方に 根本大塔、上方に奥ノ院が描かれています。奥ノ院は、 一般的には弘法大師空海が埋葬されている場所です。﹃平家物語﹄では、奥ノ院にお参 りした際に、平清盛は白眉の老僧に出逢うことになります。ところが参詣豊茶羅の方では真言密教を象徴する大塔の扉を開くようにして老僧が

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社寺参詣虫茶羅』所収 「花岳寺所蔵 (兵庫県赤総市/江戸時代・十七世紀

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す。古来より ﹁ 影向桜 ﹂ と称されてきています。 現れています。その老仰を迎えるように清盛らしき人物と家臣が脆‘ついている糠 子 が覗え ます 。その傍 ら には色鮮やかな桜の花が拙かれていま もう一幅の方の説明に移ります。下方に慈尊院があり、高野山の入口にあたる大門そして中門を経て、中央に金堂があります。金堂の前で日 野山の高僧達による宗教行事が行われている風景があります。金堂の中には ﹃ 平家物語 ﹄ に取り上げられている両部の昆茶縦が掲げられていま す。画面の左側即ち西の金 剛 界長茶羅を描いたのが常明法印にして、清盛が手掛けたのは東の胎蔵長茶羅となり ます 。 菩提を弔うために建立した経蔵で、 後にも触れることになりますが、金堂の左下に六角形の建物があります。鳥羽上 皇の皇后であった美福門院(一一一七 l 一 一 六

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が上皇の 一 切の経典が奉納されていました。金堂の左上には松が 生えています。﹁三鈷の 松 ﹂と い われます。弘法大 師が修行のために留学した中国から帰国する際に、学んだ密教の教えを弘め、修行す るための道場を探す目 的で、中国の明州か ら日本に向けて 密教の法具である三鈷を投げられます。それがこの松の枝木に引っかかっており、 まに伝えるものです。﹁ 三 鈷の松﹂の 上には弘法大師の御影を 収める﹁御影堂 ﹂ その場所である a 両野山に密教の道場を開いたという伝承をい その上方が明神社、右隣に琳紙幣などが描かれています。 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と高野山参詣受茶羅 ﹁三鈷の松﹂については想い出があります。三

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年前の一九八四年のことです。この年は弘法大師がご入定されて 一 一 五

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年という真 言宗に 一 三 五

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﹃ 平家物語 ﹂ と高野山参詣受茶羅 --L /'¥

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社寺参詣長茶羅』所ll>i.

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花岳寺所蔵 (兵庫県赤穂市/江戸時代・十七世紀)J) とっては大切な年にあたりました。様々な記念の行事が全国的な規模で催されましたが、 そのひとつに中国に留学した空海のルートを追体験し ょうという事業が企画されることになりました。それは中国政府の協力を得ての壮大な計画として実行されました。日本と中国の関係はいまも 良好であるとは言いにくいのですが 一一八四年当時もそれほどいい状 況ではなか ったように思います。時の首相であった中曽根首相と胡耀邦 総書記との話し合いによって、この事業は実施されることになったという経緯がございます。八

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四年に遣唐使船で唐に渡った空海 一 行 が 、 漂 着した福 州 の赤岸鎮から唐の都(現 ・ 西安) までの二五

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キロのル 1 ト を、空海以来一一八

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年ぶりに日本人として追体験しようという事業 でした。﹃空海長安への道﹄と名づけられた企画事業に、幸いにもメンバ ー の一員として参加することになりました。大学に奉職した年にあた ります。空海一行は五

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日あまりの日程で福州から長安を目指されることになります。それを追体験する事業の中で、空海が日本に向けて密教 の法具である三鈷を投げた海辺の砂浜にも訪ねることになりました。遊び心も手伝ってその場所あたり(現在の寧波) から空海と同様に三鈷を 投げ て みることを思いつきますが、実際には思いとどまりました。三鈷を日本に向りて投げても海の藻屑となるのは眼に見えていたからです。 ところで空海一行が漂着した赤岸鎮 ︿ 村 ﹀ は 、 一九八四年当時でもほとんどの住民はランプでの生活でした。私たち 一 行が宿舎とした接待所の

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みが、自家発電を機能させているような状況でしたが、 その自家発電も深夜には止まってしまう有り様でした。空海一行の漂着したであろう海 岸にいくた めの道路も不 十分で 、乗 員十名あまりのマイクロバスを通すための道路を 、人海戦 術さながらに村民総出で 二 か月余りで造られたこ とを 、後 に知ることになりました。ともあれ三

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年あま り の歳月の 中 で 、 現在では道路は舗装され、鉄道が創設され、近代的なホテルなども組 てられております。空海を慕う日本人の来訪を受け入れるためにいそいで環境を整備したように思われます。 次にハーバ ー ド大学所蔵の 参詣員茶 線の紹介 を いたします 。十五 世紀か ら十六世紀の室 町 後 期 の作品とみなされて い ます。花岳寺所蔵よりも 百年以上も辿ることになります。花岳寺の参詣員茶緑と同様に大門や中門があり、金並へと続いています。大塔には微かにお坊さんらしき人物 がいるようにみえます。右下で迎えているが平清盛や家臣でしょうか?実は今年( 二

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一 四 年 ) の四月から五月にかけて大阪市立美術館で 、 紀 虫茶縦にまみえることになりました。 伊山地が世界辿産に登録されてから一

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周年を記念して﹁山の神仏﹂と題する展覧会が開催されました。思いがけず、 その時にもう片方の参詣 ハ ー バ ード大学所 臓の 参詣長茶縦だけでは高野 山 のすべてを 陥 き尽くせていないと感じておりましたので、 漸くその想いが解消される ことになりました。その一一 附は東京 芸術大学美術館が所蔵していました。この参詣長茶縦の存在も紹介しておきます。 ﹃ 平家物語 ﹄ と高野山参詣受茶羅

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社寺参詣受茶羅j所収「ハーバード大学 美術館所蔵(十五ー十六世紀)

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高野山参詣長茶羅 J¥ 三つの 目は、成相 寺に伝わる参詣円安茶羅です。西国霊場で著名な成 相 寺ではありません。淡路島に古くからあるお寺で、 一 二 四三年頃に実弘 上人という方による創建が伝えられています。当時の高野山では様々な訴訟事が絶えず、実弘はその立任をとらされるように淡路島に流された ともいわれていま す。実 弘が高野山の重鎮であ ったことを街 併させますが、 実弘 は 弘法大師や高野 山 のことを忘れないために、祖 山 と同じ よ う は な搭堂 一 を建立したといわれています 。現在で も在りし日の面影を十分に受げ止める ことができます。花岳寺所蔵やハ ー バ ー ド 大所蔵と異なるの そして美福 門院 が造営された六角経蔵が 描 か 一 一 胞 か らなる 円 安 茶 羅 と い う 点 で す 。 下方に大門や中門 などが配さ れ、中央 に金堂と根本大 塔 、 れています 。金堂の上には 、 三錆の松や御影堂が 描かれ ます。但 し、中央 の右に位置する大塔には老僧が見当た り ませんし、平前盛や家臣の姿 もありません。成相寺所蔵の参詣虫茶羅の制作年は、 ハ ー バ ー ド大学 所蔵 と同じ室 町 後期とさ れ ています。時期を 同じ く し て 二 種 類の参開虫茶 継が存在していた こ と の確認してお きたいと思います。 三 種類の参詣長茶羅に閲す る紫 朴な捉 え方として、成相寺所蔵の量茶羅からハ ー バ ー ド大学所蔵へ、 そして花岳寺所蔵へと変遷 し ている様子 が想定されます。その途中で高野山への多くの人々の参詣を促すように ﹃ 平 家 物語 ﹄ や﹃今昔 物 語﹄に散見する説話が 挿 入されて、固有の参詣 く淡路成相寺 〈伽藍絵図〉 所蔵 (兵庫県南あわじ市/室町後期)) 円山茶羅として確立していった可能性を考えることができます。淡路品 の成 相 寺は、高野 山 大学の職員さんのお寺ですが、実弘上人当 時には 壮大 な伽藍を配備した寺院であったことを、 いまに伝えています。 さて高野山と高野 山伽藍復興 事業を 推進し た平清盛には、次のよう な歴 史 的 事実があ りま す。﹃高野春 秋編年輯録 ﹄︿後、高野春 秋と略 す﹀などの資料によりますと、 一 一四九年五月十二日に雷によって大 塔が炎上いたします。五月 二十八日に鳥羽上皇よ り播磨守であった平 清盛の父忠盛に進営の命が下ります。七月九日に播磨守忠盛は造営に 着手しますが、指揮をとったのは平清盛でした。 ﹃ 平家物語 ﹂ ではそ の 史 実を反映させる かのよ うに 、安 芸 守 で あ った平清盛が着手 したこ

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-轟 例 ﹂ 官 2 動 t ! duEU とになっています。 一 一 五六年四月、高野 山 の 大 塔 が 落 鹿 し 、 そ の 折に清盛が 参 詣します。史 書によっては 、 一 々 の 期 日に若干の 相違 がありま すが 、 今回 は ﹁ 高 野春秋 ﹄ を 軸 にお話しを進めています。 続いて忠盛や清盛だりではなく‘この時代を彩った人たちと高野 山 との関わりについて紹介をしたいと存じます 。 お話ししましたよ <NHKのHP抜粋参照〉 う に 、 二

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一 二 年 に

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の大河 ド ラマで﹁平清盛﹂が放映されま し た の で 、 そこに登場する人 々 と関連させながら説明したいと思 い ま す 。 最初にこの当 時の天 皇 ・ 皇族 と 高野 山 と の 関 係についておさえた い と思います。白 河 天 皇 ( 一

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五 三 l 一 一 二 九 ) と鳥羽 上 皇 ・ 後白 河法皇 ( 一 一 二 七 二 一 九 二 ) は厳しい院政を敷き、 その統 制 を諮 っ た ことでも 知 ら れてい ま す 。 三 人の上皇は熊野詣 で を盛んにされ ま したが、高野 山 と の縁しも深い方々でした 。 白河 天皇は いち早く す 。 続 く鳥羽 上 皇は 二 十 一 回、後白河 法皇に至っては 三十 五回の熊 野 参詣を挙行しています。 取 分け後白河法皇は 熊野 信 仰 を象徴するような 人 熊野 詣でを 先駆けた 上 皇 で 生 涯 に 百 一 っ て 十 回の熊野詣を 行って い ま 物です。そ の生雄を通 して熊野詣をする だけで なく、住 居で あ る 法 住 寺 山 似 の 鎮 守 と して新熊野 祉 を 創 越します 。ま た 一一六三年に 生じた伊勢 神 宮と 熊野権 現を巡る騒 動は ﹁ 長見 勘 文﹂として 践 さ れ ています 。 ともあれ こ の 三 上皇は高野 山 にも参詣し、荒廃した高 野 山の伽藍や法会の再興に尽力されて い ます。鳥羽上皇の后である美福 門院 は上皇の菩 提のために 六角経蔵を 建 立さ れます 。後白河法皇も高野 山 の復興に 積極的に関 わられたお一 人 で す 。 また平家一門と高野山との関係については、次のような こ とが言われています 。 清盛の父である忠盛は、高野山の大塔 の修理を 仰 せつかった ﹃ 平家物語﹄と高野 山 参詣隻茶経

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﹁ 平 家 物 語 ﹂ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 一 四

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方でした。平清盛はその事業を実行に移しました。清盛には実しやかな話しとして白河天皇が実父ではないかという噂もありました。清盛は大 塔を造営するとともに自らの赤誠を顕した血憂茶羅を奉納しています。忠盛の後妻の池の禅尼の子息に頼盛(一一三了一一八六)がおります。 頼盛は源頼朝に特別な待遇を受けますが、その子息に禅林寺の静遍(一二ハ六 1 一二二四)という密教の教理や事相(実践方法)に優れた業績 のある真言僧がいます。興廃した高野山奥の院の拝殿を再興したのは静遍でした。 一般に弘法大師空海の教えはこの身このままに成仏する即身 成仏の教えといわれます。空海が即身成仏思想を論じたのが﹃即身成仏義﹄とされます。その原本ともいえる﹁即身成仏品﹂を二二七年に高 野山の御影堂に納入したのは頼盛の息の静遍であるといわれます。浄土信仰を鼓吹した法然の浄土教との関わりをもち﹃続選択文義要紗﹄を著 しました。藤原信西は後白河法皇と親密な方ですが、 その息子に醍醐寺の勝賢や三論宗の明遍(一一四二 l 一二二四)などの子息がいます。こ の方々も少なからず高野山と縁をもたれた僧です。現在高野山には地名として﹁明遍通り﹂という名の通りがあります。明遍と法然との交流は ﹁散心問答﹂として現存します。清盛との交流も取りざたされる西行ご一一八 l 一 一 九

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は高野山の麓を流れる紀の川流域添いの打田の出身 です。桜の名所吉野と西行との関係はよく知られることですが、西行の伝承は高野山麓の天野にもあり、高野山でも儀礼や儀式を復興させる牽 引力にもなられています。また

NHK

の﹁平清盛﹂では、祇園女御とともに﹃梁塵秘抄﹄の歌が流れていました。﹁遊びをせんとや生れけむ、 戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ﹂という歌謡は、この時代を代表する後白河法皇が蒐集されたひとつに 加 え ら れ て い ま す 。 これまで天皇や皇族・そして平家一門と高野山との繋がりを扱ってみましたが、平安後期から鎌倉初期におげる貴顕の高野山参詣と高野山浄 土信仰と弘法大師信仰という視点から、 一覧表にして眺めてみることにいたします。 一

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二 三 ・ 一

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・二三│藤原道長(九六六 l 一

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二七)高野山参詣﹃高野春秋﹄

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二 六 東門院彰子(九六六 l 一

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二七)御落鰐、奥院御廟前に納髪﹃高野春秋﹄ 一

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四 八 ・ 一

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藤原頼通(九九

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七四)高野山参詣﹃高野春秋﹄ 一

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八一・二・二ハ││藤原師実(一

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四 二

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こ高野山参詣﹃高野春秋﹄ 一

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八八・二・二六││白河上皇高野山参詣﹃高野春秋﹂/﹁三鈷の松﹂伝承﹁白河法皇高野御幸記﹄

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九一・二・一九││白河上皇高野山参詣︿二回目﹀﹃高野春秋﹂ 一

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九八・六・七│││蓮待(一

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一 三 l 一

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九 八 ) ﹁ 南 無 弘 法 大 師 遍 照 金 剛 菩 薩 ﹂ ﹃ 高 野 山 往 生 伝 ﹄ 一

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九九・ニ・一七││藤原師実高野山参詣︿二回目﹀﹃高野春秋﹄ 二

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三・一一・二五│白河法皇高野山参詣︿三回目﹀﹃高野春秋﹄ 一 一 二 四 ・ 一

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・ ニ 七

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鳥羽上皇高野山参詣﹃高野春秋﹄ 二二七・一一・ニ││白河院・鳥羽院両太上皇高野山参詣、東塔・西塔建立﹃高野春秋﹄ 一 二 ニ 一 了 一

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・ 一 七 │ 鳥 羽 上 皇 高 野 山 参 詣 ︿ 三 回 目 ﹀ ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ 一 一 四 一 頃 鍍 ( 一

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九 五 I 一 一 四 一 二 ) ﹁ 日 々 の 影 向 を 闘 か ず し て 処 々 の 遺 跡 を 検 知 す : : : 南 無 高 祖 大 師 遍 照 金 剛 入 定 留 身 舎 利 ﹂ ﹃ 弘 法 大 師 講 式 ﹄ 一一四二・二・一五││藤原忠実(一

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七 八 1 一 二 ハ ニ ) 高 野 山 参 詣 ﹁ 高 野 春 秋 ﹄ 一一四八・三・一四││藤原頼長(一一二

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一一五六)高野山参詣、金剛心院建立﹃高野春秋﹄ 一 一 五 六 ・ 四 平清盛高野山参詣﹃高野春秋﹄ 二五九・七・ニ I l -美福門院、鳥羽法皇の菩提のために六角経蔵を建立。 崩御される一二ハ一年まで再三の御令旨による院領等の施入 あ り ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ 一二ハ九・三・一七

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後白河法皇高野山参詣。崩御される一一九二年まで院領の施入及び最勝講・伝法大会等の法会の始行を院宣により発 令 。 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ 一 二

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八 ・ 一

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-北条政子(一一五七ー三二五)、天野社に第三・四宮︿気比明神・厳島明神﹀の造営を発願﹃高野春秋﹂ 一二二三・二・二一ーー道範こ一七九二二五二)﹁南無大師遍照金剛﹂︿﹁秘密念仏紗﹄尋常と臨終用心﹀ 貴顕の中で、史実として初めて高野山に参詣したのは藤原道長です。 一

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二三年のことですが、摂政であった道長が参詣したことは、 一 般 民 衆の多くに高野山のことを周知してもらう起因になりました。 一

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二六年には道長の娘・上東院彰子が落飾されます。奥ノ院には落飾された際 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 四

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﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 四 の髪の毛が奉納されました。道長の息子の頼通が、道長の菩提を弔うために一

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五二年に創建するのが宇治平等院です。その頼通が高野山に参 詣 し た の は 一

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四八年のことです。頼通の息子の師実も高野山に詣でることになり、歴代の関白が相い続いて高野山に参詣しています。 熊野信仰を隆盛に導いた白河上皇は熊野に詣でるこ年前の一

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八八年に高野山への参詣を行っています。白河法皇の﹃白河法皇高野御幸記﹄ の中には﹁三鈷の松﹂の消息がみられます。白河上皇が二度目の高野山参詣を挙行するのが一

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九一年。その合聞を縫うように一一九

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年に白 河上皇は熊野に参拝しています。先遣を務めたのが園城寺僧・増誉です。その増誉に下賜されることになるのが、後の聖護院というお寺です。 一

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九八年頃に蓮慢という僧侶が空海に対して﹁南無弘法大師遍照金剛菩薩﹂と唱えたこと が記されています。弘法大師というと、すぐに思い浮ぶのが﹁南無大師遍照金剛﹂という御宝号ですが、最初から南無大師遍照金剛と唱えてい 知寂という僧が撰述した﹃高野山往生伝﹄には、 たわけではないようです。幾らかの唱え方の存在が文献資料に散見します。現行の﹁南無大師遍照金側﹂の形で唱えるように落ち着いたのは、 一二二三年頃の道範の書物﹃秘密念仏紗﹄と考えられています。 話しを貴顕の高野山参詣に戻します。 一

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九九年に藤原師実は二回目の高野山参詣をいたします。 一 一

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三年には白河法皇が三回目の高野山 参詣。鳥羽上皇は一一二四年一

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月に初めて高野山に参詣します。三年後の一一二七年十一月には白河法皇と鳥羽上皇が共に参拝して高野山の 東堂と西堂を建立することになります。 一一三二年、鳥羽上皇が高野山に

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度 目 の 参 詣 。 その九年後の一一四一年頃に新義真言宗の祖とされる覚鍍が﹃弘法大師講式﹄を撰述しています。新年の初詣で多くの参詣者で賑わう成田山 や川崎大師や高尾山はその流れを汲むお寺で、京都の智積院や奈良の長谷寺もその系列寺院です。覚鍍は和歌山・岩出市にある根来寺を開くこ とになりますが、覚鍍の著した﹃講式﹄には﹁日々の影向を闘かずして処々の遺跡を検知す:::南無高祖大師遍照金剛入定留身舎利﹂という一 文をみることができます。現在、高野山の入口である大門には﹁日々の影向を閥かずして処々の遺跡を検知す﹂が掲げられおります。この﹃講 式﹄を、弘法大師がいまも生きておられ、迷える衆生を救済しておられるという入定信仰の淵源と捉える研究者もおります 一一四四年、摂関家の藤原忠実による高野山参詣に続いて、 一一四八年のその子息・頼長が高野山を参詣して金剛心院という寺院を造立しま す。高野山はその翌年に雷で炎上することになります。 一一四九年のことです。繰り返し申していますが、高野山修復の命を受けたのは忠盛、 実行したのは清盛でした。再興した高野山に清盛が参詣するのが一一五六年四月のことでした。

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一一五九年には鳥羽上皇の妃であった美福門院が、上皇の追善菩提のために一切経をおさめる六角経蔵を創建します。美福門院が紀の川を挟 んで根来の対岸にある荒川地区に居を構えられたことから六角経蔵のことを荒川経蔵とも呼びます。美福門院が逝去されるのは一二ハ一年です が、それまでに再三に及んで所縁の諸領を高野山に施入されるという事績があります。 一一六九年に後白河法皇が高野山に参詣されます。法皇も崩御される一一九二年までに院領を施入されたり、高野山の法会を新設して始行さ れたりするなど、高野山の復興のために尽摩されることになります。つい先日の七月六・七日には﹁最勝会﹂という国家安穏のための法会が高 野山で執り行なわれましたが、この法会などを高野山で執行するように推進したのも後白河法皇の支援によるものと考えられます。鎌倉時代に 入りますと、頼朝の夫人であった北条政子が天野大社に、三の宮と第四の宮即ち無比神社と厳島神社を勧請し合配しています。﹃平家物語﹄に は老僧が気比神社と同様に安芸の厳島を繁栄させるように、と清盛に諭す場面がありましたが、政子の行動にはその両神社のことを意識した対 応を看取することもできます。 一二二三年二月二十一付けの消息を残す道範の﹁秘密念仏紗﹂に南無大師遍照金剛という御宝号があり、今日に伝わっております。この時期 には、別な唱え方として南無遍照金剛という御宝号がありました。高野山では伝統的に南無大師遍照金剛、川崎大師とか成田山の方では南無遍 照金剛と唱えているのではないでしょうか。いずれにしろこの時期に空海を尊称する唱え方が定着しはじめたようです。 このように平安後期から鎌倉初期にかけて、貴顕と称される皇族や貴族の方々と高野山との交流が頻繁に行われておりました。特に白河・鳥 羽・後白河の三人の上皇の時代に高野山の伽藍の復興や整備が調うことになりましたロ美福門院や娘八条院も鳥羽上皇の菩提を弔うために高野 山に寄進しております。上皇や藤原一族等の力添えなくして、当時の高野山を考えることはできません。 この時期に生じる信仰として、高野山の浄土信仰と弘法大師の入定信仰があります。﹁高野蓮華蔓茶羅﹂は江戸期のものですが、高野山はこ の世の浄土・仏国土であるという信仰が形成されるのは平安後期から鎌倉期にかけてと推測されます。高野山を胎蔵生憂茶羅と金剛界蔓茶羅に 擬えた信仰が﹁高野蓮華憂茶羅﹂には描かれております。そして今日高野山の浄土信仰を持ち合わせた多くの人々が聞きなれた言葉を、この中 に見出すことができます。 ﹁ も し 人 、 専 ら 遍 照 尊 を 念 じ て 、 一度高野山に参詣するならば、無始よりの罪障は道中にて滅し願いに随うて、即ち諸の仏土を得る﹂ ﹃ 平 家 物 語 ﹂ と 高 野 山 参 詣 憂 茶 羅 一 四 三

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︿ 十 一 C 成立 ・ 赤染衛門 / 出 羽 弁 ? ﹀ に は 、 か う や た ま S S の ぞ み た て ま つ h 、 し あ お た て 傘 つ ﹁ 高 野に参らせ給ひては、大師の御入定の織を覗き見奉らせ給へは、御 髪 宵やかにて、準り ら り す す 必 ざ や い ろ の づ ら たる御衣いささか鹿ばみ煤けず、鮮かに見えたり。御色のあはひなどぞ 、 珍かなるや。ただ ね ぷ み あ し た た 虫 み と S ほ ど 眠り給へると見ゆ。あはれに弥助の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ給。大師、承和 二 年 三 月 二 一 日仁明天皇の御時の程、 , a F 百八十余年にゃならせ給ぬらん﹂ ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と高野山参詣受茶羅 一 凶 四 人々が専一に遍照尊である仏さまを念じながら、高野山に一度でもお参りするならば 、 その道 〈高野山・霊宝館所蔵「高野蓮華受茶羅J

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すがらにおいて、これまで積み上げてきた罪障が消滅し、衆生の願いに応じて仏さまの世界に行 という内容です。文献としては 、 一 二 三

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年 頃の ﹃ 南山秘記 ﹂ にその記 くことができましょう 、 載をみることができます。また北条政子によって進められた丹生明神 ・ 高野明神 ・ 気比明神 ・ 厳 島明神の四社明神像が描かれることになるのも時期を同じくしています 。 続いて弘法大師の入定信何について申し上げておきたいと思います。立族の中でいち早く高野 山 に 参詣し、弘法大師に対する信仰を堅固ならしめたのは藤原道長でした。 ﹃栄花物語﹄には 、道長が高野山を 参詣した時の様子につ いて詳述されています 。 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ とあります。高野 山 にお参りして弘法大師が入定されている様を覗うと、自然に伸びた髪の毛は青々としており、着ておられる衣装も若干塵が 勤菩薩が下生される時に ついているようには見えますが、煤りることもなく色鮮やかなままでした。大師はまさに眠っておられるように見受けられました。恐らくは弥 一緒に自党められて世の衆生を救済されることでありましょう。八三五年三月二十一日から一八

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余 年 ( 一

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二 三 年)の歳月が流れています。 後白河法皇が一一七九年に撰出した歌謡集 ﹃ 梁 塵 秘抄 ﹄の 中には ﹁大師の住所はどこどこぞ。伝教、慈党は比叡の 山、横川 の御廟とか、智証大師は 三 井寺に、弘法大師は高野の御 山 にまだおわします ﹂ には﹁あかつきをたかの山に待つほとや、こけの下にも有明の月﹂と寂蓮法 とあります。また一一八八年に藤原俊成が撰述した ﹃ 千載和歌集 ﹄

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師(?ムニ

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二)が高野山を詠んだ和歌が載せられています。慈円(一一一五ー一二二五) の私家集ともいわれる﹃拾玉集﹂には一般に浸透し ている﹁ありがたや、高野の山の岩蔭に大師は未だおわしますなり﹂という歌が記されています。丁度同じ時期の事でしょうか?高野山の勧進 を司っていた高野聖が肌身離さずに持ち歩いたであろう﹁綾織弘法大師像﹂(一二六九年の記述あり)が現存いたします。これには﹁念阿弥陀 仏勧進聖人﹂と墨書されています。 平安後期から鎌倉期にかけては、このように高野山の浄土信仰や弘法大師の信仰が成立し、その信仰が貴顕の高野山参詣や、高野聖などの活 躍によって、全国的に広まりをみせていく時期でもありました。 残された時間を頂戴しまして、平清盛と縁の深い憂茶羅、特に胎蔵生蔓茶羅に関するお話しをさせていただきます。胎蔵生豊茶羅は、正式に は大悲胎蔵生蔓茶羅と申します。 憂茶羅は、密教の思想を象徴的にあらわしています。憂茶羅には数多くの仏さまが描かれています。仏教の信仰の中で登場する仏は、軒並み ここに入っています。密教思想の特徴は、あらゆることを肯定的に受け入れることにあるともいわれます。特に憂茶羅中の念怒尊は仏教には存 在しない尊であります。 つまり仏教では貧りと膜りと無知の貧膜痴三毒は無明や煩悩の原因とされます。仏教では、怒りは否定され決して心に 抱いてはいけないことになっています。それにも関わらず密教では怒りの表情の尊がおられます。よく知られている不動明王とか愛染明王は念 怒の表情をしています。それこそが密教の特徴ともいえます。例えば、子供のことを芯から心配する親心として理解すると、密教の念怒尊の有 り様が理解していただけると思います。悪戯ばかりしていて、他人や社会に迷惑ばかりかけている我子を前にした親の心境ですね。よくなって ほしいという切なる願いにも似た思いを込めて叱ります。正しくそれに通じるところが密教の念怒尊にはあります。また憂茶羅の諸尊の特徴と して、仏教以外の神々がおられることも指摘できます。憂茶羅の一番外枠に鎮座されている神々のことですが、これらの神々はインドにおいて 庶民に信仰されていた神々です。密教の思想においては、それらの神々も否定したり見捨てたり排除することはありません。あらゆる存在は、 大日知来の顕われであり、尊い存在にして、本来自性清浄なる心を持ち合わせているといたします。 蔓茶羅はインドのサンスクリット語で、もともと円とか

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まる)を意味しました。それが仏教や密教の言葉として採り入れられることにな り、﹁本質を具える(ものこという訳語に変化します。仏教でいう本質とか真髄は悟りということになります。自らの本質である自性清浄心に ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と 高 野 山 参 詣 蔓 茶 羅 一 四 五

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﹃ 平家物語 ﹄ と高野山参詣畏茶羅 拘: 名 諸 尊

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J U 4 重量呈 一 四 六 目覚めた 人を仏陀とい います。仏陀とは目覚めるという意味ですが 、 自らの本質に覚 醒した聖なる方がおられる空間を円安茶羅ということにもなります。ともあれ長茶羅は 衆生の本来清浄なる心を示唆することになります。 この量茶羅は未だ自らの本質に目覚めていない人や目覚めようとする修行者のため の観想や膜想に依用されることもあります。さらに密教の法を継承する儀式にもなく てはならないものです。胎蔵生円安茶羅は 、 密教の中尊である大日如来の境地をそのま まに表現したものですが、同時に衆生の心の本質そのものをも表現しています。この 〈京都 ・教王護国寺発行〉 ようなわけで大 日 如 来は迷える衆生に対して ﹁ 実の 如 く自ら 心 を知りなさい﹂と教え 諭すことになります。 空海の真言密教の教理は大日如来の教えを説いた ﹃ 大日経﹄という経典に基づいて います。空海は衆生が本来の自性清浄心にめざめる プロ セスを十の段階に想 定 する ﹁ 十 住 心思想 ﹂を 構築する こ とになります 。空 海は 、 現代心理学や脳科学の成果と比 較しでも決して見劣りしない理論を一二

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年前に樹立していたのであります。﹃硲 密呈茶羅十住心一論﹄所説の十住心思想 ︿ 自心が開顕し即身成仏するプロセス ﹀ は左記 のように 示すこ とができます。 ① 第 一 異 生 抵 羊 心 │ │ 凡 夫(倫理や道徳以前の本能のままの心) ③ ② 第 第 嬰ま愚t 童 童 :「 無

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持C凡 畏

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夫 心土心土狂

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道 儒 て 吾が非を悟らず 但し姪食を念ふこと 彼の抵羊の知し﹂ 教 教

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ゆ い う ん む が し ん ④第四唯誼無我心││声 ぱつごういんぴ申しん ⑤第五抜業因種心││縁 たえんだいびょうしん ⑥第六他縁大乗心││法相宗││弥勅菩薩の三摩地 かくしんふしようしん ⑦第七覚心不生心ーー一ニ論宗││文殊菩薩の三摩地 によじついちどうしん ⑧第八如実一道心││天台宗││観音菩薩の三摩地 ごくむじしょうしん ⑨第九極無自性心││華厳宗││普賢菩薩の一二摩地 ひみつしようごんしん ⑩第十秘密荘厳心││真言宗││大日知来の三摩地 聞ーー小 乗 覚 乗 空海の提唱した思想を注目した人物がおります。親鷺聖人(一一七三 1 一二六二)の師匠にあたる法然上人(一一三三ー一二三一)です。鎌倉 時代には日本固有の仏教が興起することになりますが、その多くの祖師たちは天台宗の比叡山で修行をされた方々です。天台宗は最澄そして円 仁や円珍以来のことですが、思想的にも密教の影響をうけていますロ法然・親鷲なども幾らか密教についての知識を持ち合わせていたように思 います。その一端を親鴛聖人の晩年の著書とされる﹃西方指南紗﹄にみるととができます。 ﹁源空聖人私自記 真言教を修するために道場に入りて、五相成身の観を観ず、行じて之れを顕わす﹂ 法然上人は密教の﹃金剛頂経﹄の観法である五相成身観︿通達菩提心・修菩提心・成菩提心・証金剛身・仏身円満﹀を修行して、その悟りの 境地を得たことが書かれています。また法然の﹃選択本願念仏集﹄(一一九八年/法然六六歳) は ﹁念仏の力のみあって、よく重罪を滅するに堪へたり。故に極悪最下の人のために、極善最上の法を説くところなりロ︿略﹀弘法大師の二 みようやく 教諭に︿略﹀醍醐の妙薬にあらずば、五無関の病、甚だ療し難しとす。念仏もまた然なり。﹂ と記されていますロ極悪にして宗教的な素養にすぐれない衆生のためにこそ、念仏(の教え)があります。弘法大師が﹃弁顕密二教諭﹂で、父 や母を殺め、仏の身体より血を流させるような仏性もないような衆生のために密教の教えによる救いを説かれたように、念仏も同様であると告 白されています。その他にも﹁法然上人消息﹂等に、空海の十住心思想を汲み取る文章が散見いたします。法然上人が弘法大師の教理に通じて おられた証拠と考えられます。 ﹁平家物語﹄と高野山参詣蔓茶羅 一 四 七

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﹃平家物語﹄と高野山参詣憂茶羅 一 四 八 空海は﹃秘密蔓茶羅十住心論﹄によって、衆生が本来持ち合わせている自性清浄なる心が顕現する様相を述べられることになります。それを 視覚的に衆生に顕示したのが蔓茶羅ということになります。胎蔵生憂茶羅の中尊である大日如来の宝冠に、平清盛が自らの血をもって描いたこ との意味を今一度考えてみたいと思います。拙い話しを最後までお聞きいただき、まことにありがとうございました。 司会 どうもありがとうございました。お話いただきました中村先生に感謝の気持ちをこめまして花束を贈呈したいと思います。 中 村 ありがとうございます。 司会 以上をもちまして仏教文化講演会を終了いたします。ありがとうございました。

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