日(毎月1回25日発行)ISSN 0919品43
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2010
こべる刊行会NO. 205
立型盤
アメリカにおける「両側から超えるJ
試 み ーウィリアム・J・ウィルソン『アメリカのアンダークラスjへの遅れた訳者解説 平 川 茂 いのちを生きる⑩ 「生身といのち」を実感してほしい 長 谷川洋子 記憶の旅から明日へー写真提供と文 小 林 茂、
ム〆
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写真提供と文一小林茂 砲丸よ、より高く、より遠くに飛べ! 中学校に入って、砲丸投げ競技に出会った。強くなれば、どんどん大きな大 会に出られた。知らない町、知らないライバル。砲丸投げは未知の世界の入り 口であった。 一一砲丸投げをする筆者(中学校 1年生、昭和43年、 1968年) 中学時代は思春期そのものだった。起き上がる白我。正体は見えない反抗心。性。充満 する体力を砲丸投げに打ち込んだ。担任の Y先生は村のお寺にト宿していた。よく遊びに 行った。そのうち、お寺から学校に通うようになり、 q,学校生活の半分くらいはお寺で暮 らした。父や母から離れた生活。新しい別の世界。自分の家族のかたちだけが家族ではな い。さまざまな人間関係があるのだ。「村から出なければ、白分の人生は始まらないj と 思った。 そのY先生が町の学校に転勤した。下宿した家にも遊び》こ行った。先生のすすめで私は その家の養子になった。小林茂O これが新たな名前である。そして、高校生活を始めた。 もちろん砲丸投げは続けた。暗い練習の帰り道、生家が恋しかった。母から手紙が来た。 2階の自分の部屋に入ってから封を切った。「茂くん元気ですかj。涙がこぼれた。ひろば⑩
アメリカにおける
ー ウ ィ リ ア ム ・J
・ ウ ィ ル ソ ン平川
+ 戊 ︵ 四 天 王 寺 大 学 ・ 奈 良 県 香 芝 市 在 住 ︶ 一九九九年末に青木秀男氏と牛草英晴氏との共訳︵監 * 訳者は青木氏︶で一冊の翻訳書を出した。原書はウィリ ア ム ・J
−ウィルソンというアメリカの黒人社会学者が 書いた﹃本当に不利な立場に置かれた人々l
インナl
シ ティ、アンダークラス、公共政策﹄というもので一九八 七 年 に 出 版 さ れ て い た 。 ひ 私はタイトルに惹かれて一九九四年の夏にそれを読ん でいた。それは私の母親が亡くなった翌年の夏のことだ ったのでよく覚えている。読んだ感想は、﹁そこで展開 されている議論がすでに日本で部落差別に関してなされ ていた議論によく似ている﹂というものだった。ここで 日本での部落差別をめぐる議論というのは、一九八七年 ︵まったくの偶然だが、ウィルソンの原書刊行と同じ 年︶に藤田敬一氏が﹃同和はこわい考﹄︵阿昨杜︶とい﹁
両
側
か
ら
超
え
る
﹂
試み
﹃ ア メ リ カ の ア ン ダ ー ク ラ ス ﹄ への遅れた訳者解説 う本で提起し、その後も持続していた る ︶ 議 論 で あ る 。 翻訳を進めるうちに最初の感想は的外れではなかった と思うようになった。そこで翻訳が完成して後は﹁監訳 者解説﹂を残すだけとなった段階で、私は監訳者の青木 氏に対して私の感想を幾分かでも﹁監訳者解説﹂に反映 してもらおうと考えた。しかし結局はそうしなかった。 というのは青木氏に働きかけようとすれば、ウィルソン の主な著書を読んだうえで、たんなる感想にとどまらな い説得力のあるリポートにまとめる必要があったが、翻 訳が完成した時点で私が読んでいたのは彼の最初の著書 だ け だ っ た か ら で あ る 。 昨年の夏、必要に迫られてウィルソンの主な著書をす べて読むことができた。その結果ようやく、あの﹁最初 ︵ 今 も そ う で あ こぺる 1の感想﹂をある程度展開できる見通しをもつことが可能 になった。以下は一一年前の翻訳書についての遅れた訳 者 解 説 で あ る 。 藤田氏の ﹁両側から超える﹂試み 藤田氏が﹃同和はこわい考﹂で問題にしていたのは、 部落の人々と部落外の人々との対話が途切れたままにな っているのはなぜかということであった。藤田氏はその 理由をこれまでの部落解放運動における部落の人々と部 落外の人々の関係のあり方に求めていた。 これまでの部落解放運動にあって部落の人々とその リーダー層は、自分たちが差別されるのは部落外の人々 の意識が差別的なものであるからだと考える傾向があっ た。しかも部落差別が何であるかがわかるのは、部落に 生まれた自分たちを置いて他にいないと考えがちであっ た。それゆえ部落外の人が部落差別の定義に関わること に異を唱えたとしても、﹁何が部落差別であるかを判断 できるのは、部落に生まれ育った自分たちだけである﹂ い っ し ゅ う として一蹴されるのがふつうだつた。 部落の人々のこうしたあり方に対応するものとして、 部落外の人々の中に、差別する可能性のある自分をひた すら責め、部落の人々の言動を全面的に肯定する心性が 見られた。部落外の人間は、部落に生まれなかった限り で部落の人々を差別する可能性のある位置にいることに なるのだから、肝、心なことは﹁部落差別の現実に深く学 ぶ﹂ことによつて内なる差別音 に 行 わ な い よ う に 、 心 が け る こ と で あ る と い 、 つ の で あ る O これまでの部落解放運動に見られた、こうした部落の 人々と部落外の人々の関係を藤田氏は﹁指導
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随伴﹂の 関係とみなした。そこに見られたのは、自己への批判を 拒絶しつつ部落外の人々のみを告発することから生まれ る﹁思い上がり﹂︵指導側︶と自己の立場の検証を抜き にした部落の人々への安易な同一化から生まれる﹁身と 心のすりょせ﹂︵随伴側︶であった。こうした関係の下 では、部落の人々にせよ、部落外の人々にせよ、﹁差 ル ﹄ に つ 別・被差別関係の全体像﹂を捉えることはできないし、 ほ う U ょ う ましてやそれぞれの人間性の豊鏡化など望むべくもな い。それゆえ部落差別をなくすこともできない。 ではどうすればいいのか。藤田氏は、差別・被差別関 係の新しいあり方を提案していた。それは部落の人々に は、﹁何が部落差別であるかを判断できるのは、部落に 2生まれ育った自分たちだけである﹂というテ
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ゼをひと し ん まず棚上げにしたうえで、部落外の人々からの批判に真 し 撃に耳を傾け、その批判が妥当だとみなされれば自己の あり方を改めることを求めるものであった。他方、部落 外の人々には、部落に生まれなかったからといって、そ のことをもって﹁自分たちには何が差別であるかを判断 する資格などないので、部落の人たちの言動に関してあ れこれ言うことはできない﹂と考えるのではなく、自分 の価値観に照らして認められないとみなされることに対 しては、たとえ相手が部落の人であろうとも、そのこと を指摘できるような主体性をもつことを要求するもので あ っ た 。 ﹁指導|随伴﹂関係に取って代わる新しい関係にあっ ては、部落の人も部落外の人もともに自己および他者を 対象化できる主体となることが求められた。そして、こ うした主体となった者どうしが差別をなくすために協力 することを、藤田氏は︵部落差別を部落の内と外の︶ ﹁両側から超える﹂試みと表現していた。 黒人貧困層の社会病理の原因をめぐる論争 ウィルツンもまた藤田氏と同じく被差別者側のあり方 に対して批判的である。藤田氏は、部落民とそのリー ダー層がこれまでの部落解放運動において﹁何が部落差 別であるかを判断できるのは部落に生まれ育った自分た ちだけである﹂として部落外の人々の苦言に耳を傾ける ことをしないで、彼らを単なる指導・啓発の対象としか 見てこなかったことに異議を唱えていた。 ウィルソンも、一九七0
年代以後、アメリカの大都市 中心部の黒人居住地域︵ゲット l ︶に住む黒人貧困層の 聞に見られるようになった社会病理︵犯罪の増加、若い 未婚女性の婚外出産とそれにともなう女性世帯主家族お よび福祉受給者の増加︶を多くの白人が問題とみなした うえで、その原因を黒人のあり方に求めるようになった ことに対して、黒人とそのリーダー層が﹁こうした社会 病理をことさらに取り上げて、その原因を黒人のあり方 に求めること自体、もともと差別の犠牲者である黒人を 非難することにしかならないので許すことはできない﹂ として白人の声に耳を貸すことなく、当の社会病理にあ こぺる 3たる現象そのものから眼を背けようとしてきたことに対 してきわめて批判的である。 アメリカでは一九五
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年代後半から六0
年代前半にか けて黒人が中心となって大規模な公民権運動を繰り広げ た結果、一九六四年に公民権法が成立した。その後積極 的差別是正措置︵アファi
マテイヴ・アクション・プロ グラム︶も実施された。これによって雇用および教育の 面で黒人の機会は大幅に拡大した。また黒人の経済的・ 社会的地位も向上した。それにもかかわらず、一九七0
年代になると大都市中心部のゲットーでは失業者・無業 者が目立つようになった。また若い未婚女性の婚外出産 とそれにともなう女性世帯主家族も増加した。さらにこ れらの女性世帯主家族の聞で福祉を受給する者も著しく 増えた。そして犯罪も増加した。なぜ、よりによって公 民権運動が始まる前ではなく、それが終わって黒人の社 会参加の機会が拡大し地位も向上した後になって、大都 市中心部のゲットl
に住む黒人の状態は極度に悪化した のか。その原因をめぐって激しい論争が繰り広げられた。 民主党の立場に近い研究者たち︵リベラル派︶は、そ の原因をアメリカ社会に根強く残る人種差別︵過去の人 種差別の影響と現在の人種差別の存在︶に求めた。彼ら リベラル派の研究者にとって、ゲット l の社会病理の一 原因はアメリカ社会になお厳然と存在する人種差別とい一 うことになった。こうして黒人は、ゲットi
に見られる一 社会病理︵失業、婚外出産、女性世帯主家族、福祉依存一 ま ぬ か など︶の責任を免れることになった。彼らは人種差別− の犠牲者として同情される存在となった。また、こうし一、 た社会病理に対する対策としては、アファi
マティヴ・一 アクション・プログラムのいっそうの充実が主張された。一 他方、共和党の立場に近い研究者たち︵保守派︶は、一 ゲットl
の社会病理の原因を、黒人貧困層に特有の消極一 性や現在志向、無力感、意欲のなさ、劣等感などに求め一 た。保守派の研究者によれば、このような黒人貧困層の一 住宅地や学校の選択において白人が行っている人種統合 すると考えた。彼らはまた、現在にあっても、とりわけ って人種の障壁が取り除かれたとしても一定期間は存続 によって生み出された人種的不平等は、たとえ法律によ は、数百年に及ぶ奴隷制度の下での白人による黒人支配 し つ よ う への執掲な抵抗に見られるように、白人の多くは黒人を 対等の人間として受け入れることを意識的に拒み、黒人 に平等な社会参加の機会を与えないようにしていると考 え た 。 4﹁文化特性﹂︵﹁貧困の文化﹂と呼ばれた︶はいったん生 まれるとその後は社会の変化とは無関係に存在し続ける ものであった。したがって保守派の研究者にとって、ゲ ッ ト
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の社会病理を引き起こしているのは、そこに住ん でいる黒人貧困層自身ということになった。それゆえ黒 人貧困層に自らの態度や行動を改めさせることが、社会 病理をなくすことにつながる対策と考えられた。 論争自体は保守派の立場が優位なまま現在に至ってい る。その理由としてさまざまなことが考えられるが、ウ ィルソンは多くの白人に見られた徒労感が最も大きな理 由であると考えている。一九六0
年代初めからの﹁貧困 との戦い﹂以後、連邦政府は一連の施策を実施してきた。 それにもかかわらず黒人の社会病理は一向に解決されな いどころか、むしろ悪化すらした。このことに徒労感を 募らせていた白人にとって、﹁ゲット!の社会病理の原 因はそこに住んでいる黒人自身の丈化特性︵貧困の文 化︶である﹂という保守派の主張は、公民権運動以後、 そういった主張をすることが差し控えられていたがゆえ に新鮮に映ったのである。 ウィルソンは、リベラル派の研究者のようにゲットl
一 の社会病理の原因をアメリカ社会に根強く残る人種差別一 に求めることはしない。彼によれば、人種差別︵白人が− 黒人を対等の人間として受け入れることを意識的に拒み、一 黒人にはいかなる場合も平等な社会参加の機会など与え一 ないように意図的に努めること︶はゲットi
の社会病理一 とほとんど関係ない。というのは失業や犯罪、未婚女性一 の婚外出産、女性世帯主家族、福祉受給者の増加といっ一 た深刻な社会病理に苦しんでいるのは黒人の多数ではな− く、あくまでもその一部に限られているからである。も一 し人種差別が厳しいままであるなら、それはほとんどの− 黒人にも作用して、彼らが経済的に向上することを阻む一 だろう。しかし現実には黒人の内部にも豊かな人たち一 ︵黒人ミドルクラス︶と貧しい人たち︵黒人アンダーク− ラス︶の二極化が見られる。それゆえ、もはや人種差別 F が黒人の経済的運命を決定する最大の要因と考えること一 は で き な い と い う の で あ る 。 一 では文化特性はどうか。確かにウィルソンは黒人貧困− ゲットl
の社会病理を直視する こベる 5層の文化特性に注目し、その重要性を率直に認めている。 しかし彼は保守派の研究者のように、文化特性が社会の あり方と無関係であるとは考えない。ウィルソンのいう 黒人貧困層の文化特性は、ゲット
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の杜会構造に影響を 受けたり、逆に社会構造に影響を与えたりするという形 で社会構造と相互に影響し合うものである。 ウィルソンは黒人貧困層の文化特性を彼らの﹁社会的 孤立﹂との関係で論じている。ゲットl
に住んでいる黒 人の多くは失業・無業状態にあって、ひじように貧しい。 それゆえ日常的に付き合う人もきわめて限られている。 とりわけ安定した仕事に就いている人と付き合うことは ごくまれである。この状態をさす言葉が﹁社会的孤立﹂ である。したがって﹁社会的孤立﹂で言う﹁孤立﹂とは 何からの孤立かといえば、それはアメリカ社会の主流を なす価値︵最も重要なのが勤労倫理︶を体現している家 族や個人からの孤立なのである。 こうした社会的孤立状態に置かれるとどういう事態が もたらされるか。ウィルソンはとくに深刻な事態として 黒人貧困層の態度と行動が﹁安定した仕事を長く続ける のに不向きなものになる﹂ことをあげている。どういう ことかというと、安定した仕事を長く続けるにはそれに ふさわしい行動様式︵例えば目覚まし時計のベルで朝早− く起きる︶を身につけなければならないが、社会的孤立一 状態にある黒人貧困層の周りには、そういう行動様式を一 身をもって示す人がほとんどいないので、毎日、仕事に− 出かける習慣など容易に身につけられないということで一 ある。したがってゲットl
に住む黒人の中で誰かが幸運一 にも安定した仕事を得たとしても、最初のうちは時間に一 ルーズな態度や欠勤傾向を示しがちである。こうした事一 情に、さらに当の仕事自体の魅力のなさや、ゲットl
に一 あっては﹁大事なことはとにかく仕事を辞めないこと一 だ﹂という考えがあまり支持されていないという事情が一 重なると、彼は仕事を辞めて法に触れる活動に走ったり、一 無為に時をやり過ごすようになる可能性が大きい。 E 社会的孤立状態に置かれた黒人貧困層に見られる、こ一 うした文化特性は保守派の研究者が強調する﹁文化特一 性﹂︵﹁貧困の文化﹂︶と似て非なるものである。なぜな一 ら 保 守 派 の 研 究 者 の い う ﹁ 文 化 特 性 ﹂ ︵ ﹁ 貧 困 の 文 化 ﹂ ︶ はゲット!という社会のあり方と無関係に存続するもの一 であったのに対して、社会的孤立から生まれる文化特性一 はゲットーという社会のあり方との関係で現れたり、な一 くなったりするからである。﹁安定した仕事を長く続け一 6るのに不向きな態度と行動﹂はゲット
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に住む黒人の多 くが失業・無業状態にあって、それゆえ見習うべき役割 モデルが身近に存在しないという状況で生まれ、失業 者・無業者が減って、毎朝仕事に向かう人の姿が身近で 見られるようになれば、なくなると考えられるのである。 これに対して保守派のいう﹁文化特性﹂︵﹁貧困の文 化﹂︶はいわば﹁心に深く根づいた習慣﹂のようなもの であって、ゲットl
の失業・無業状態が改善しても変わ ることなくあり続けるものと考えられた。 人種差別に逃げ込まない ゲ ッ トi
の社会病理の原因は、黒人貧困層の﹁安定し た仕事を長く続けるのに不向きな態度と行動﹂という文 化特性にあることが明らかになった。この結論は、ウィ ルソンが、リベラル派、保守派いずれの研究者とも違っ てゲット!の社会病理を直視したことによって得られた ものであった。しかしウィルソンはこの結論に満足する ことなく、﹃アメリカのアンダークラス﹄の次の著書 ﹁安定した仕事がなくなる時﹄︵原書、一九九六年。川島 正樹・竹本友子訳﹃アメリカ大都市の貧困と差別|仕事 がなくなるとき﹄明石書店、一九九九年︶で、さらにゲ ッ トl
の社会病理の原因を追究している。 ウィルソンはそこで﹁自己効力感﹂という社会心理的 要因に注目している。﹁自己効力感﹂とは、個人が特定 の状況において、﹁自分には特定の目標を達成できる能 力があると確信できる状態にあること﹂を指す言葉であ る。個人がこの﹁自己効力感﹂を持つには以下のことが 必要である。まず自分がこれまで何らかの目標を達成し たことがあること、また自分と似た誰かが持続的な努力 をして目標を達成するのを身近で見たことがあること、 さらに周りの者から困難な目標に挑むように頻繁に励ま されたことがあること︵そのうち少なくともひとつ︶が 必 要 で あ る 。 ﹁自己効力感﹂の意味とその発生根拠が以上のような ものであるならば、深刻な失業・無業状態にあって極端 に貧しいがゆえに、アメリカ社会の主流をなす価値︵勤 労倫理︶を体現する家族や個人との接触をもてない、つ まり﹁社会的孤立﹂状態にあるゲットl
の黒人貧困層が ﹁自己効力感のなさ﹂に苦しむことになるだろうことは 容易に想像がつく。実際ウィルソンが中心になって行っ たシカゴの黒人貧困層を対象にした調査において調査対 こべる 7象者の多くが表明した意見はおよそ次のようなものだっ た。﹁生まれた時から貧しくて、その後もずっと失業・ 無業状態が深刻な環境で暮らさなくてはいけない場合、 何事かを達成しようという気力自体がなくなってしま 、 つ ﹂ 0 安定した仕事に就いている者がきわめて少ない、つま り失業・無業状態が極度に深刻なゲット
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に あ っ て は 、 個人に見られた﹁自己効力感のなさ﹂はゲットl
全体に 広がっていく。そして﹁自己効力感のなさ﹂に満ちたゲ ットーでは以下のような声が聞かれるようになる。これ らの声は、いずれも自己の苦境の原因を、自分の外部に い か ん あって自分の力では如何ともしがたいと思われる、あれ これの要因︵運命であったり、あるいは教育環境や差別、 移民、政治などであったりする︶に帰している点で共通 している。﹁自分たちが貧しくて住んでいる所がろくで も な い の は 運 命 、 だ か ら し か た な い ﹂ 、 ﹁ 自 分 た ち が 出 世 で きないのは学校がいいかげんだからだ﹂、﹁自分がちゃん とした生活ができないのは差別があるからだし、また政 府が移民を受け入れているからだ﹂、﹁仕事なんでいくら 探したって見つかりっこない﹂、﹁自分たちが仕事にあり つけないのは外国人が入ってくるからだ﹂、﹁政府がちゃ んと手を打たないから仕事が増えないのだ﹂、﹁資格があ る連中が資格の要らない仕事まで取っている﹂、﹁あるの はやったってろくに家族も養えない仕事ばかり﹂、﹁いい 仕事があるのは郊外だけで、ここいらにはぜんぜんな い﹂、﹁私たちが働けないのは、面倒見なくてはいけない 子どもがいるから﹂、﹁人種差別があるから、なかなか仕 事が見つからないし、そもそもいい仕事なんか全部白人 が 取 っ て い る ﹂ 。 ゲット l に満ちているこのような声は、黒人自身が社 会病理をなくすために何らかの試みを始めること自体を 阻む。それゆえウィルソンによれば、ゲットl
全体を支 配している﹁自己効力感のなさ﹂がその社会病理の原因 と い 、 つ こ と に な る 。 ゲ ツ ト の 社 A -;z;:;; 病 理 を な く す は どっ
す れ ば し ミ し 、 の か こ だ わ ﹁人種の如何に拘らない﹂施策
ウィルソンがゲット l の社会病理をなくすために提案 し て い る の は 、 黒人貧困層だけでなく、 白人貧困層や ︵ 黒 人 以 外 の ︶ マイノリティ貧困層に対しても十分な職 業訓練と教育を保障するという施策である。 このような 8﹁人種の如何に拘らない﹂施策は黒人貧困層の社会病理 の解決にとってきわめて有効なだけでない。それはまた 多くの白人の聞に、あのおなじみの反発︵﹁自分たちの 税金が、黒人貧困層の救済だけに使われるのは断じて許 せない﹂︶を呼び起こさせなくすることで、広範な人 種・民族が連携することを可能にする点でも重要なので ある。マジョリティの白人にすれば、自分たちの税金が 黒人貧困層や︵黒人以外の︶マイノリティ貧困層のため だけでなく白人貧困層のためにも使われることになれば、 白人も連邦政府の施策に対して強硬に反対することはな くなるだろう。同じことは︵黒人以外の︶マイノリテイ に関してもいえる。すると広範な人種・民族の人々が、 アメリカ全体の社会病理の解決に向けて協力する姿が見 られるようになるだろう。 しかしながら﹁人種の如何に拘らない﹂施策が重要な のは、それが白人の反発を和らげることによって広範な 人種・民族の連携を可能にするからというだけでもない。 ウィルソンが﹁人種の如何に拘らない﹂施策を提案する のは、失業・無業状態に置かれているのがひとりゲツ ト l の黒人貧困層だけではないからでもある。 一 九 七
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年代に入ると、アメリカでは経済活動の中心 が製造業部門からサービス産業部門に移り始めた。この− ような変化が最も顕著だったのは北東部の都市であった。一 これらの都市の中心部には、戦前から戦後にかけて南部一 から移住してきた多くの黒人が住んでいた。彼らは主に一 地元の製造業関連の工場でさまざまな不熟練労働に従事﹄ していた。しかし一九七0
年代以後のアメリカ経済の根一 本的な変化によって、これらの黒人の多くは製造業部門一 で の 安 定 し た 仕 事 を 失 っ て し ま っ た 。 一 他方サービス産業部門の仕事はといえば、それはこの一 間の経済構造の変化によって、大幅に増加したが、しか一 しこの増加した仕事というのは主に金融、保険、不動産、一 広告業関連の仕事であった。こうした仕事では高等教育− レベルの学力が要求されたが、製造業部門で働いていた 不熟練労働者の中で高等教育を受けていた者はほとんど一 いなかった。それゆえ転職もほとんど望めなかった。一 しかし、このようなアメリカ経済の根本的変化の影響− を被ったのはゲットl
に住む黒人貧困層だけではなかっ一 た。その程度は黒人貧困層の場合ほどではなかったにせ一 ょ、都市の白人貧困層や︵黒人以外の︶マイノリテイ貧一 困層もまた黒人貧困層と同じ理由で仕事を失い、不安定一 な 生 活 を 強 い ら れ る こ と に な っ た の で あ る 。 一 こべる 9ウィルソンの議論の評価
ここまで藤田氏の﹁両側から超える﹂議論を念頭に置 きながら、ウィルソンの議論を検討してきた。では、ど の点でウィルソンの議論を﹁アメリカにおける﹁両側か ら超える﹂試み﹂とみなすことができるのだろうか。ま た、そうみなすことができないのはどの点においてだろ、 っ ヵ
。
①大都市中心部のゲットl
に住む黒人貧困層に見られ た社会病理を白人が問題だとみなすことに対して、黒人 とそのリーダー層は﹁社会病理の原因を黒人のあり方に 求めることは、差別の犠牲者である黒人を非難すること になるので許すことはできない﹂として、ゲットl
の 社 会病理を問題とみなすこと自体を批判して当の社会病理 から眼を背けてきた。 これに対してウィルソンはゲットl
の黒人貧困層の中 に社会病理が見られることを率直に認めたうえで、その 社会病理の原因として、個々の黒人が自己の苦境の原因 を運命や教育環境、差別などの自分の力では如何ともし あ き ら がたいと思われるものに帰して諦めている状態を指摘 し た 。 10 これは、部落の人々とそのリーダー層がこれまで部落 外の人から自分たちの言動に関して何らかの苦言を呈さ れた場合、﹁部落に生まれなかった者に、部落のことで あれこれ言われたくない﹂として批判をタブーとしてき たのに対して、藤田氏がそれでは部落の否定面は温存さ れるだけで事態は一向に改善されないと批判する姿勢に 通 じ て い る 。 ②黒人とそのリーダー層は、これまでゲット l に住む 黒人貧困層の社会病理の原因をアメリカ社会に根強く残 る人種差別に求めてきた。 これに対してウィルソンは、人種差別はゲットl
の 社 会病理とほとんど関係ないという。さらに進んでウィル ソンは、社会病理の原因として人種差別を持ち出すこと は、運命や教育環境、移民、政治といった人種差別以外 の要因を社会病理の原因とみなすことと同じく、ゲツ トl
の黒人自身が当の社会病理の解決に向かって何らか の行動を起こすことを阻むことにしかつながらないと考 え て い る 。 これは、部落の人々とそのリーダー層がこれまで﹁部 落に生起する、部落と部落民にとって不利益な問題はすべて差別の結果である﹂として自己の苦境の原因を部落 差別に求めた結果、行政があれこれの施策を実施するよ うに働きかけることに力を注ぐばかりで、自分たち自身 で苦境を克服するために何らかの行動を起こすことがほ とんどなかったことをもって、このテーゼに依拠するこ とは部落の人々の自立を損なう安易な態度だとみなす藤 田 氏 の 姿 勢 と 似 て い る 。 しかしウィルソンの議論と藤田氏のそれには違いもあ る。ここでは最も大きな違いを一つだけ指摘しておきた い。それは差別の捉え方に関しての違いである。藤田氏 は、部落差別が今でも部落の人々の結婚や教育、職業ば かりか部落外の人とのさまざまな局面での人間関係のあ り方にも大きな影響を与えていると考えている。そして、 この影響がどのような帰結を部落と部落外の双方の人々 にもたらしているかをより明確に把握するためには、部 落差別をどう定義するかを検討することがきわめて重要 で あ る と 考 え て い る 。 これに対して、ウィルソンにとって人種差別はもはや 黒人の経済的運命ばかりか日常生活場面での人間関係の あり方にとっても大きな意味をもつものではなくなって いる︵﹃アメリカのアンダークラス﹂の前に出された著 書は﹃人種の意義の衰退﹄[一九七八年、邦訳なし]だっ た︶。それゆえ人種差別をどう定義するかに関してもほ とんど関心を示していない。 ウィルソンのこうした議論をどう ω評価するか。いまの ところ私に言えるのは、ウィルソンの議論は藤田氏の ﹁両側から超える﹂試みによく似ているということだけ である。しかし藤田氏の議論がけっして日本だけに見ら れる孤立したものではなく、同時代のアメリカにもよく 似た議論があったという発見は、私にとってきわめて重 要なものであった。なぜなら藤田氏の議論とウィルソン の議論が似ているという発見は、今後日本とアメリカの それぞれの固における差別・被差別関係のあり方を相互 に比較しようとするとき、これまでになかった着眼点を 与えてくれるように思えるからである。 ︵付記︶ウィルソンの業績の評価および略歴 ウィルソンの業績の評価は分かれる。概してアメリカ の学会︵社会学会や公共政策、社会問題関連の学会な ど︶での評価は高い。げんにウィルソンは一九九
O
年 に アメリカ社会学会会長に就任しているし、﹁アメリカの アンダークラス﹄はアメリカ社会問題研究会からライ こぺる 11ト・ミルズ賞を与えられている。 言論界でもウィルソンは高く評価されている。﹃タイ ム﹄誌は一九九六年、ウィルソンを﹁アメリカで最も影 響力のある二五人のうちの一人﹂とする記事を掲載した。 ウィルソンの評価が高いのは、民主党・リベラル派の中 でも、どちらかといえば右寄りの陣営においてである。 彼らは、民主党が公民権運動以後ますます黒人や女性、 ヒスパニック、同性愛者などのマイノリテイの権利獲 得・擁護を重視するようになってきたことに批判的な 人々である。このような人々にとって民主党がマイノリ ティだけでなく、より広範な階層︵とくに白人労働者 層︶に受け入れられる政党になるうえで、ウィルソンの 人種関係論はきわめて有効であると考えられている︵一 例としてトマス・
B
・ エ ド ソi
ル/メアリI
・D
− エ ド ソl
ル、飛田茂雄訳﹁争うアメリカ人種・権利・税 金﹄みすず書房、一九九五年参照︶。 他方、ウィルソンは、民主党・リベラル派の左派はも ちろん、黒人の研究者や言論人から厳しく批判されてい る。彼らは総じてウィルソンを﹁人種差別の存在を否定 したうえで黒人に勤労倫理を説く﹂保守派とみなしてい ︵ 一 例 と し て ロ ビ ン ・D
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・ ケ リ l ﹃ ゲ ッ ト l を酷 る ぞ う 造する|アメリカにおける都市危機の表象﹄村田勝幸・一 阿部小涼訳、彩流社、二OO
七 年 参 照 ︶ o 一 ただし保守派の黒人の中にはウィルソンを自分と同じ一 保守派に属するとして擁護する人もいる︵一例としてシ一 ゅ う − つ つ エ ル ビ l ・ ス テ ィ l ル、李隆訳﹁黒い憂欝|卯年代アメ一 リカの新しい人種関係﹄五月書房、一九九四年参照︶。一 最後にウィルソンの略歴を見ておく。彼は一九三一五年一 にペンシルパニア州ピッツパ l グ市郊外の労働者集住地一 域に六人兄弟の長男として生まれた。父親は炭鉱夫だっ一 た。二つの大学︵ともに有名大学ではない︶でそれぞれ一 学士、修士を得た後、一九六六年にワシントン州立大学一 で博士号を取っている。博士論文は人種問題と関係ない、一 社会調査の手法に関したものであった。マサチュl
セツ− ツ大学を経て、一九七二年にシカゴ大学に移り、そこに一 一九九六年までいた。その後ハーバード大学に移り現在一 に 至 っ て い る 。 一 12 * ウ ィ リ ア ム ・ J ・ ウ ィ ル ソ ン ﹁ ア メ リ カ の ア ン ダ ー ク ラ ス | 本 当 に 不 利 な 立 場 に 置 か れ た 人 々 ﹄ 青 木 秀 男 監 訳 、 平 川 茂 ・ 牛 革 英 晴 訳 、 明 石 書 店 、 一 九 九 九 年 、 本 体 四 六 O O 円 + 税 。いのちを生きる⑩ 長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶
﹁
生
身
と
い
の
ち
﹂
を
実感してほしい
一 月 二O
日 大学が小学校六年対象に理科の出前授業をするという 取り組みがある。わが六年生たちも﹁超音波﹂と﹁骨と 筋肉﹂について授業を受けた。K
大学の先生、学生さん の総勢一六名が最新機器を持って来校された。 特に超音波の授業では、特殊なカメラを使って超音波 を見たり、超音波で物を浮かせたり洗ったり、i
ポッド を使って指向性を体験したり、小学校では絶対できない 実験をしてもらい、いつもにぎやかな子どもたちは目を 見張っていた。 授業が終わっても、子どもたちは学生さんと話したが り、なかなか教室に帰ろうとしない。熱のこもったプラ ンを作り、東京弁で授業された肝心の先生には寄りつか ない。﹁こんな機会はめったにないよ﹂と促して、ょう一 ゃく女子二人が先生のところに行き、質問した。﹁先生、一 質問があるんですけど。﹁アメ﹂ってどう発音する?− ﹁ ア メ ち ゃ ん ﹂ っ て 言 う ? ﹂ 。 若い先生のお顔に衝撃が走ったが、﹁アメって言う− よ﹂と東京弁で誠実に答えてくださった。何か質問しな一 ければと思つてのことだろうな、と善意に解釈したが、− い か に も わ が 六 年 生 ら し い 質 問 だ っ た 。 一 この半年、教え方に苦労してきた。﹁可愛いが話を開一 かない。討論が成立しない﹂と引き継ぎにあった六年生一 だが、本当にそうだつた。あまりにも話を聞かないので、一 私に対し悪感情を持っているのではと当初は悩んだ。し一 かし遠足の付き添いに行き、悩みは消える。パスの中で− レクリエーション係の子どもたちが懸命に出し物をして一 いるのに、ほぼ全員が私語をしている。担任さんはと見一 ると、彼も隣の子としゃべっていた。﹁不思議の国﹂の一 穴にはまったアリスの気持ちになる。 とにかく授業中の長い説明はムダだと考え、話は出来 るだけ短くし、実験時間や楽しい物作りを増やすように こべる し た 。 13とりわけ子どもが変わったなと感じたのは、﹁人体﹂ の授業だった。授業で
NHK
の六年理科学習番組を見た。 彼らと同年代の子の口からファイバースコープを入れ、 食道から胃の入り口までを観察する実験だった。番組で り ょ う ぜ ん 一目瞭然に消化器の仕組みがわかったし、ポリ l プ ひ とつない、健康的なピンクの食道を感心していたが、さ て子どもはと目を転じると、﹁気持ち悪い j ﹂とざわめ いている。目を覆って隣の子に慰められている子もいる。 か ら だ ﹁君たちの身体も一緒ゃん!﹂と言っても、﹁先生、給食 の前にこんなん見せんといて﹂とゴンタな男子が真顔で 抗議する。間違っているのは私か。昔から理科室にある、 内臓を取り出せる定番の人体模型も人気が悪かった。 ﹁先生、私、理科がキライになりました。人体模型を見 せるんやもん﹂と言う子まで現れ、 思春期にさしかかり、自分の身体の変化に敏感な時期 なのだが、ひと昔前はここまで過剰反応しなかった。 自分や友だちがぬるぬるの臓器と管と血でできた生身 へ こ ん で し ま っ た 。 であることを子どもが認識することはとても大事なこと だと私は思っている。病を経てさらにその思いは強くな っ た 。 二 年 前 の 一0
時間近い手術のあいだ、いつもは最優先 告 H a も ノ 、 される﹁感情・思考﹂は眠らされ、そのかわりに寡黙な 臓器たちが動き続けて、私の命を支えてくれた。だから 気持ちが落ちこんだとき、﹁感情・思考﹂は手術のとき に眠っていた身体の0
・数パーセントの部分から発せら れているに過ぎないと思うようになった。また、 14 0 時 間立ちっぱなしでオベしてくださったドクターたち、私 の生命を支えてくれた臓器たち、放射線を浴びながらH
ITV
治療をしてくださったドクターたちのことがしき りに思い出されるようになった。私を生かしてくれるも のが何かを考えるたびに、背中を暖かく押される想いが す る 。 担任さんがこぼしていた。﹁子どもが卒業文集に自分 のことより担任のことばかり書いている。﹁N
先生があ のとき、こうした﹂って﹂。子どもに自信や実感がない のだろうか。﹁六年生くんたち、生身の自分を実感した まえ﹂と、私の経験を話したいけど、聞いてくれるかど う か 、 自 信 が な い 。月
日
T
市にある老人保健施設へ六年生二五人を引率して行 く。近郊の三施設に分散して施設を利用されている人び とと交流する取り組みだ。 やんちゃな子どもたちを担任ぬきで引き連れて行くの はちょっと心配だったが、三O
分の道程を歩き、施設に 近づくにつれ、引き締まった表情になった。二O
人のお ばあちゃんたちの前でクイズや紙芝居、リコーダーや ﹁南中ソ!ラン節﹂を披露する。学校では見せない表情 に驚く。交流タイムになると更に驚いた。あんなに話を 聴かない子どもたちがおばあちゃんの目を見てしっかり 話を聴き、心からしゃべっている。話しながら泣いてい るおばあちゃんもいらっしゃった。 ﹁小学生の交流は何回もあるのですが、あの方が泣か れるのは初めてです。それに、交流のとき、なかなか相 手の所に行けない六年生が必ずいるのに、すごいですね。 この学校のみなさんは自分から動けますね﹂と、スタッ フ の 方 が ほ め て く だ さ る 。 ﹁学校では全然ちがうんですよ﹂と口から出かけたが、 肝心な相手にはちゃんと接することができる子どもたち なんだ、とここも善意に解釈して言葉を飲みこむ。 私自身も老人保健施設に伺うのは初めてだった。壁に は学校の教室のようにお誕生カl
ドが貼つであるが、 ﹁OO
さん二月何日九二才﹂とあるのに感動した。世 界大恐慌や第二次世界大戦をくぐって大人になった方ば の こ かり。後世へ遺すべき真珠のような体験や言葉をいっぱ いお持ちなのだ。祖父母と同居している子どもはとても 少ない。今日のような取り組みは大事な機会だったのだ と あ ら た め て 思 う 。 月 日 六年の授業の前に、おとといの﹁老人保健施設訪問﹂ 一つのクラスとはなごやかに話 の 感 想 を ち ょ っ と 話 す 。 をすることができたが、もう一つのクラスに同じことを や ゆ 入るもんな﹂と榔撤する 話 す と 、 ﹁ も う す ぐ ︵ 施 設 に ︶ 一 口 葉 が 返 っ て き た 。K
だ 。 ﹁ み ん な 同 じ ゃ ん 。 いつかは年を取るよ。私は、そこ まで生きられないと思うよ﹂と話す。 以前、子どもたちには少し私の病気の話をしたことが あった。するとK
とU
が一斉に笑った。視界にひびが入 こペる 15ったような気がした。﹁傷ついたで。許さへん﹂と私は 低い声で返した。さすがの二人も顔色が変わる。気まず い 雰 囲 気 の ま ま 授 業 を 進 め た 。
K
もU
も大変しんどい子どもであることはわかってい る。しかし、彼らはおととい、どんな思いを抱いて帰つ てきたのだろうと考えてしまう。 帰宅してからも彼らの言葉が頭のどこかにこびりつい て離れない。﹁しんどい子どもたちなのだから﹂と何回 も思い直そうとするのだが、駄目だ。﹁お別れ給食に参 加するもんか!﹂と年甲斐もなく思い、そんな自分が恥 ず か し か っ た 。 翌朝も寒かったが、からりと晴れ上がっていた。パス を降りて空を見上げる。飛行機雲が虹のように天空を二 分している。青い天球にかかったレl
スのリボンのよう だ。立ち止まって飛行機雲を仰いでいると、﹁許した が ん れ!﹂と声がした。胃癌で苦しみながら亡くなった父の 声だった。涙があふれた。 ﹁おはようございます!﹂と若い同僚が自転車に乗っ あ い さ つ でやってきた。あわてて涙をふいて挨拶を返す。 一 一 月 一 六 日 16 昨 日 はI
大病院の診察目だった。二時間授業をしてか ら学校を出ょうとしたとき、先日気まずい雰囲気で授業 を終えたクラスのM
とA
に 会 っ た 。 ﹁ ど こ に 行 く の ? ﹂ と聞くので、病院に診察を受けに行くと返事する。 翌日の休み時間に昨日の二人が理科室に顔を出し、 ﹁昨日どうだつた?﹂と尋ねる。﹁おかげさんでパッチリ よ ﹂ と 一 一 言 、 っ と 、 ん ? ホッとした顔をする。﹁心配してくれた ありがとう﹂と言うと、二人は﹁べつにl
﹂と言 っ て 出 て い っ た 。 やっぱりお別れ給食には出ょうかな?何歳になって もオトナになれない私に、子どもたちの方が反対に手を 焼いているのかもしれない。鴨水記 マ平川茂さんの文章に誘われて、﹁同 和はこわい考﹄を書くまでのあれこれ を回想してしまいました。あのころ、 わたしの一番身近におられたのが故・ 師岡佑行さん︵一九二八二 O O 六 。 元・京都部落史研究所所長︶で、発刊 十年目にこんな文章を寄せてくださっ て い ま す 。 ﹁くりかえし、くりかえし行われた 運動のすすめ方についての議論。その なかで、意見が対立したとき、とどめ を さ す よ う に 、 ﹁ 部 落 民 で な い も の に な にがわかるか﹂という発言がなされる ことがしばしばだった。こういうとき、 わたしは、不快だったが、またかと聞 き過ごしてきた。しかし、藤田さんは そうではなく、こだわった。人一倍く や し が っ た ﹂ ︵ ﹁ ﹁ 同 和 は こ わ い 考 ﹂ の 十年﹂所収︶。いま思い出しても、身 震いするほどくやしい。そのくやしさ が、わたしに﹁なぜ﹂を抱かせたので す 。 マ ﹁ ﹁ な ぜ L がいっぱい、きみの周囲に はあった。﹁なぜ﹂には、こたえのな いことがしょっちゅうだった。そんな ﹁なぜ﹂をかんがえるなんて、くだら ないことだったんだろうか。誰もが言 った、﹁かんがえたって無駄さ。そう なってるんだ﹂。実際、そうかんがえ るほうが、ずっとらくだった。何もか んがえなくてもすむからだ。しかし、 寸そうなってる﹂だけだったら、きみ のまわりにはただのあたりまえしかの こらなくなる。そしたら、きみはもの すごく退屈しただろうな。寸なぜ L と かんがえるほうが、きみには、はるか なぞ に謎とスリルがいっぱいだったからだ。 けれど、ふと気がつくと、いつしかも う、あまり﹁なぜ L と い う 一 言 葉 を 口 に しなくなっている。/そのときだった んだ。そのとき、きみはもう、一人の 子どもじゃなくて、一人のおとなにな っ て た ん だ ﹂ ︵ 長 田 弘 ﹃ 深 呼 吸 の 必 要 ﹄ 晶 丈 社 ︶ 0 マ わ た し は 、 長 田 さ ん 風 に い え ば 、 ﹁ お とな﹂になりきれず、﹁差別する側と 差別される側との対話のとぎれ﹂がな ぜ 起 こ る の か を 考 え つ づ け ま し た 。 ﹁ 同 和はこわい考﹄は、そんな﹁なぜ﹂へ の 、 わ た し な り の 答 え で す 。 しかし、部落差別問題をめぐる最近 の論調は、野中広務・辛淑玉﹃差別と 日 本 人 ﹄ ︵ 角 川 o n e テ l マ 幻 ︶ と い い 、 朝日新聞夕刊特集﹁ニッポン人脈記| 差 別 を 越 え て ﹂ ︵ 叩 ・ 1 ・ 日 1 1 ・