19目当年5月21日 揮3種郵便物認可・ 2田lJl'.1,1月2S日(毎月1回25日発行)ISSN 0919-4843
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こベる刊行会NO.
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部落のいまを考える⑬ 同和地区住民の流出入に関する分析 (その1) 一大阪「二000年部落問題調査」結果を読む一 奥 田 均 ひろば⑬ 歴史をどう学ぶか 一「奈良本辰也先生と部落問題」補遺一部落のいまを考え る ⑬
同和地区住民の流出入に関する分析︵その
1
︶ ー大阪﹁二OOO
年部落問題調査﹂結果を読む|奥
田
均 ︵ 大 学 教 員 ︶ 大阪﹁二000
年部落問題調査﹂と 本稿の目的 一 九 九 九 年 一 一 月 か ら 二000
年一一月にかけて、大 阪府は関係市町とともに﹁同和問題の解決に向けた実態 等 調 査 ﹂ ︵ 以 下 、 ﹁ 二000
年部落問題調査﹂とする︶を 実施した。この調査は、①行政関係調査としての﹁地区 概 況 調 査 ﹂ ﹁ 差 別 事 象 調 査 ﹂ ﹁ 事 業 実 績 調 査 ﹂ ﹁ 既 存 報 告 書のまとめ﹂、②同和地区内関係調査としての﹁生活実 態 調 査 ﹂ ﹁ 同 和 地 区 内 意 識 調 査 ﹂ ﹁ ヒ ア リ ン グ 調 査 ﹂ 、 ③ 同和地区外関係調査としての﹁府民意識調査﹂、からな る八種類の調査によって構成されている。その全体像を 図 示 す れ ば 図 ー と な る 。 明 ら か な 通 り ﹁ 二OOO
年部落問題調査﹂は、部落問 題に関わるかつてない体系的で総合的な調査として実施 された。三三年間の長きにわたる﹁﹃特措法﹄時代の部 落問題﹂に幕が閉じ、部落問題の根本的な解決に向けた 新 た な 歴 史 の 扉 一 を 聞 く に あ た っ て 、 従 来 の 発 想 を 大 き く 転換し、改めて部落問題の実態と意味を見つめ直そうと したためである。こうした姿勢は調査方法や調査内容に も反映され、①同和地区住民の本格的な意識調査を導入 す る と 共 に 、 過 去 一0
年間に発覚した差別事象の集約分 析を行うなど、調査対象領域を拡大したこと、②量的調 査に加え、ヒアリング調査や差別事象のケ l ス ス タ デ ィ など質的調査を導入したこと、③﹁格差の検証﹂にとど ま ら ず ﹁ メ カ ニ ズ ム の 探 索 ﹂ を め ざ し 、 ﹁ 生 活 実 態 調 査 ﹂ と﹁同和地区内意識調査﹂のデータリンク化を行うと共図1大阪「2000年部落問題調査jの体系 意識分野 : 生活実態分野
|
一
(2 0 0 0年 5踊
査
月) 過去10年間の差別事象間査 ( 1 9 9 9年11月∼12月) 地区概況銅査 ( 1 9 9 9年 11月} I ・ リ ン ウ 一 一 一 一 一 一 + ー| … 冊
2000,ljeBJ'l叩 |
地区生活実態調査 (2 0 0 0年 5月) 被差別体験者ヒアリング飼査 (2 0 0 0年8月∼11月) 大阪府民 同和地区 住民 そ の 他 過 去10年間の大阪府既存調査報告書のまとめ(20 0 0年目月) に、分析内容の深化をはかったこと、④﹁自立﹂や﹁自 己実現﹂をキーワードの一つに据え自己概念に関する設 聞を設定するとともに、﹁生活実態調査﹂においても個 人 調 査 方 式 を 導 入 し た こ と 、 ⑤ ﹁ 多 様 性 ﹂ へ の 配 意 か ら 、 各同和地区の特性が把握できるサンプル数を確保したこ と 、 な ど の ﹁ 二OOO
年部落問題調査﹂の諸特徴に、そ の 歴 史 的 役 割 を 果 た さ ん と す る 意 欲 が 表 現 さ れ て い る 。 本稿はこうした﹁二000
年 部 落 問 題 調 査 ﹂ の 中 か ら 、 主に﹁生活実態調査﹂のデ l タ を 用 い て 、 ﹁ 同 和 地 区 住 民の流出入問題﹂というテ l マ を 追 求 す る も の で あ る 。 これにより、﹁ポスト﹃特措法﹄時代﹂の部落問題解決 へ の 取 り 組 み に 対 す る ヒ ン ト が 得 ら れ れ ば 幸 い で あ る 。 な お ﹁ 二000
年部落問題調査﹂の詳細については、本 文 末 尾 に 記 し た 、 大 阪 府 の 各 報 告 書 を 参 照 さ れ た い 。 ﹁縦の変化﹂と﹁横の変化﹂ 同和地区住民は固定的ではない。同和地区が障壁に固 ま れ た 閉 鎖 社 会 で は な い 以 上 、 地 区 へ の 人 々 の 流 入 ゃ 、 地区住民の地区外への流出はごく自然な現象である。部落の生活実態は、経年的な﹁縦の変化﹂を反映している とともに、こうした﹁人の出入り﹂という﹁横の変化﹂ の影響を体現している。﹁現状﹂とは、部落を舞台に ﹁縦の変化﹂と﹁横の変化﹂が織りなす、今日的な同和 地区の生活模様ということができよう。本稿はこの﹁横 の変化﹂に着目し、部落の生活実態の意味を考えてみよ う と す る も の で あ る 。 その最初の検証テ l マは、同和地区住民の移動状況で あ り 、 ﹁ 変 化 の 規 模 ﹂ を 確 か め る こ と で あ る 。 一 九 九
O
年に実施された大阪府﹁同和対策事業対象地 域住民生活実態調査﹂︵以下、﹁一九九O
年調査﹂とす る︶によると、大阪府内の四八同和地区の人口は、一一 一 、 四 三 五 人 で あ っ た 。 二OOO
年のそれは九五、四六 八人︵対一九九O
年比八五・七%︶で一五、九六七人減 少している。ところで、﹁現住地以外で生まれた者﹂の 来住時期を見ると表 1 の と お り 、 年 以 降 の こ こ 一0
年間に新たに来住してきでいることが わかる。これは一五歳以上の地区人口の九・四%にあた 一 七 ・ 九 % が 一 九 九 る 。 今 、 一五歳未満においてもこれと同じ状況であると 見なしたとき、二OOO
年人口九五、四六人人の九・ 四%、入、九七四人が一九九一年以降の新規来住者とな る。さらに、﹁現住地区に生まれた者﹂で地区外に転出 していた者が、この期間にU
タ l ン 来 住 し て い る こ と が 推測される。地区人口全体における U タ l ン 来 住 者 は 一 五・一%を占めているが︵表 3 参 照 ︶ 、 本 調 査 で は こ れ ら住民の来住時期を捕捉していないため、ここ一0
年間 のU
タ l ン 来 住 者 数 を 仮 に α 人 と し て お こ う 。 以上の状況をまとめたのが表 2 で あ る 。 こ れ に よ る と 、 自然増減︵死亡・出生︶の影響を無視すれば、この一0
年間に︵八、九七四+α︶人が来住し、︵一五、九六七 十 八 、 九 七 四 + α ︶ 人 が 転 出 し て い る こ と が わ か る 。 α をO
人と仮定しても、八、九七四人の来住者数は二00
0
年地区人口の九・四%にあたり、二回、九四一人の転 出 者 数 は 一 一 六 ・ 一 % に 相 当 す る 。 実 に 大 き な 人 口 移 動 と いわねばならない。同和地区住民は激しく入れ替わって い る の で あ る 。 なお使用している同和地区の総人口は、﹁一九九O
年 調 査 ﹂ お よ び ﹁ 二000
年部落問題調査﹂における﹁地 区概況調査﹂デ l タによっている。これらが比較可能な ものとなるためには、両調査における四八地区の対象地52.7% 5.8% 6.6目 10.9% 10.3% 9.0世 9.4% 0.7% 「現住地区以外で生まれた者
J
の来住時期 ・該当数i
現住地区以|全体!こおT-f 外で生まれ|る比率 h者 の1:1':率 In=
ー
ー
100.0% 11.1首 12.5百 20.7% 19.5目 17.0% 17.9% 1.2百 表1 4,113 456 514 853 801 701 737 51 総数(人) 1950年以前 1951∼60年 1961∼70年 1971∼80年 1981∼90年 1991年以降 f:fl, 表2同和地区人口の変化 1990年人口 2000年人口 Uターン来住α
人 童盟圭隼 8974人 95468人 苅19面手瓦議少人口 15967人 111435人 域が完全に一致していなければならない。しかし残念な がら、それを確かめることはできなかった。そこで便宜 上、対象地区の面積を検証することにより、推定の妥当 性を確かめておきたい。面積が一致する場合、対象地域 が 同 一 で あ る と 判 断 で き る た め で あ る 。 そこで、調査対象地区四人地区のうち、﹁地区概況調 査﹂において両調査の対象面積が完全に一致する三六地 区を取り上げて、その人口を比べたところ、一九九O
年 調査の対象地区総人口は九三、八O
九人、今回の調査の 総 人 口 は 八 一 、O
八八人であった。対一九九O
年人口比 は八六・四%である。これは先にみた四人地区全体にお ける人口比八五・七%とほぼ同じであり、先に推定した 同和地区人口の移動状況は、その基本動向を把握する上 で 妥 当 な も の で あ る と い え る 。 生活実態に見る来住者像 では、どのような人々が同和地区に来住してきでいる のであろうか。生活実態に見る来住者像を、[同和地区 [ 世 帯 類 型 ] [ 学 歴 構 成 ] [ 年 間 世 帯 総 収 と の 属 地 関 係 ]入 ] [ 就 労 実 態 ] の 各 デ ! タ か ら な が め て み た い 。 [ 同 和 地 区 と の 属 地 関 係 ] 表 3 は、同和地区との属地関係から見た地区人口分布 である。現住地に生まれて以来ずっと現住地に住みつづ けている原住者は三二・O%、来住者は六七・八%とな っている。来住者のうち、二二・三%は出生地が現住地 で あ る 者 の
U
タ l ン 来 住 で あ る 。 ま た 、 ﹁ 現 住 地 生 ま れ ﹂ および﹁前住地が同和地区﹂の﹁同和地区出身の来住 者﹂は三四・九%、﹁現住地以外の生まれ﹂で﹁前住地 区が同和地区でない﹂来住者︵﹁同和地区出身でない来 住 者 ﹂ ︶ は 五 四 ・ 二 % と な っ て い る 。 [ 世 帯 類 型 ] 表 4 は、原住・来住別に見た世帯類型である。来住者 に あ っ て は 、 ﹁ 高 齢 者 単 独 世 帯 ﹂ ﹁ 高 齢 夫 婦 世 帯 ﹂ の 比 率 が原住者より高く、とりわけ﹁現住地以外の生まれ﹂の 来住者において高い。また﹁母子世帯﹂の比率も来住者 において高く、とりわけ﹁現住地生まれ﹂の U タ l ン 来 住者において高い。結婚により地区外に転居した女性が、 不明 19 0.2胃 原住者 2.494 32.0百 表3 属地関係別人口 総数 1λ来 住 者h 7.8051 ∼L 5.292 100.0首I.・、山67.8覧 ↓ 出生地が現住地 1.179(22. 3%)(15.1%] 一一至盟一一 579(10.9事也)(7.4号色] 出生地が現住地以外 4. 113(77. 7%) 里[2.7%] 同和地区出身でない来住者 2. 866(54. 2%) [36.7%] 同和地区出身の来住者 1.847(34.9%) [23.7%] 注 1)[ ]内は、総数に占める割合 来住者内訳① 来住者内訳② 原住・来住別の世帯類型 該当数 |独高世齢者帯単 高世齢帯夫婦 その他の 母子世帯 父子世帯 そ世の帯他の 不明 高齢者世 総数(人) 7,805 552 584 115 188 54 6,297 15 100.0% 7.1也 7.5百 1.5首 2.4% 0.7% 80.7% 0.2首 原原住者 2,494 130 160 23 45. 27 2,105 4 100.0首 5.2恒 6.41目 0.9覧 1.8% 1.1% 84.4百 0.2首 住 来 住 者 5,292 422 423 91 らw~ 27 4,178 10 来 100.0% 8.0事 a.a冒 1.7百 0.5% 78.9首 0.2% 住 現住地区の 1,179 54 65 20 ぷi
J
,
11 976 2 生まれ 100.0% 5.5首 1.7也 0.9% 82.8百 0.2% の 4.6首 見]I 現住地区以 4,113 368 358 71山wル」'2~t
首 16 3,202 8 外の生まれ 100.0% 8.9首 8.7% 1.7% 0.4% 77.9百 0.2% 表4 注2)「その他の高齢者世帯」とは、高齢者(65歳以上)と18歳未満の者からなる世帯母子世帯となって同和地区に U ターンしている様子がう かがえる。子どもが未成年であることから、夫との死別 というよりも離別によるものが多数を占めていると考え ら れ る 。 [ 学 歴 構 成 ] 表
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は、原住・来住別に見た学歴構成である。来住者 にあっては、﹁中学校まで﹂が五四・九%と原住者より 一0
・ 五 ポ イ ン ト 高 く 、 逆 に ﹁ 短 大 以 上 ﹂ が 一0
・四% と二・五ポイント低くなっている。﹁在学中・不明﹂を 取り除いても、傾向に変わりはない。同和地区における 学歴構成は大阪府全体に比べて相対的に低いが、来住者 の そ れ は 、 さ ら に 低 く な っ て い る 。 [ 年 間 世 帯 総 収 入 ] 表 6 は、全国および同和地区における原住・来住別の 年間世帯総収入分布である。来住者においては、四OO 万円未満の世帯が六一・一%を占めており、原住者の五0
・ 二 % よ り 一0
・ 九 ポ イ ン ト 高 く な っ て い る 。 逆 に 、 四OO万円以上ではいずれの収入額区分においても、原 住者の方が高い。同和地区における年間世帯総収入は全 国の状況に比べて相対的に低いが、来住者のそれは、さ ら に 低 く な っ て い る 。 [ 就 労 実 態 ︺ 表7
は、雇用労働者における原住・来住別の雇用形態 を調べたものである。来住者の﹁常雇﹂は六四・O%に とどまり、原住者の七五・六%より一一・六ポイント低 い。逆に﹁臨時工﹂﹁日雇﹂という不安定雇用形態の割 合が来住者において高い。表 8 は、原住・来住別の賃金 形態である。来住者の﹁月給﹂は五五・一%で、原住者 の六七・四%より二了三ポイント低い。逆に、﹁日給 月 給 ﹂ ﹁ 週 給 ﹂ ﹁ 日 給 ﹂ ﹁ 時 間 給 ﹂ な ど の 賃 金 形 態 の 割 合 が 来 住 者 に お い て 高 い 。 同和地区における不安定就労の問題が指摘されている が、その中でも来住者はより不安定な就労状況にあるこ と が わ か る 。 な お 就 労 実 態 は 年 齢 に よ る 影 響 が 大 き い 。 そ こ で 表 7 、 表 8 はいずれも、原住者と来住者の年齢構 成割合がほぼ一致する三O歳以上の年齢階層を取り上げ て 集 計 し て い る 。表 5現住・来住別の学歴構成 該当数 で中学校ま 高校まで 短大以上 在学中・不明 総数(人) 7,805 4,014 2,383 875 533 100.0% 51.4拍 30.5% 11.2也 6.8% 原住者 2,494 1,107 741 321 325 100.0% 44.4首 29.7% 12.9% 13.0百 来住者 5,292 2,903 1,640 553 196 100.0首 54.9百 31.0拓 10.4% 3.7% 表6全国および原住・来住別年間世帯総収入 該当数 2満00万円未 2万円朱満 万円未満 万円未満00∼400 400∼600 600∼800 800∼1000 1000万円 全国 100.0% 15.0% 20.7百 19.4% 総数(人) 7,805 2,482 2,010 1,320 100.0百 31.8% 25.8% 16.9% 原原住者 2,494 671 581
J!Ta~
下 ちιι 100.0% 26.9首 23.3% ,,噌 住来住者 5,292ぜt~t~r時
iト)l~j~幅
'= 859 来 100.0百 16.2% 住 現住地区の 1,179 376 299 193 の 生まれ 100.0弘 31目9百 25.4覧 16.4% Jll] 現住地区以 4,113 1.431 1,129 666 外の生まれ 100.0% 34.8% 27.4百 16.2% −ー・‘ ‘. 日 ー・・. 注2)全国:「国民生活基礎調査Jl998年 表 7原住・来住別雇用形熊(30歳以上) 該当数 常雇 臨時雇 日雇 総数(人)ー 2,300 1,541 631 100.0百 67.0% 27.4% 原住者 590 446 117 100.0% 75.6% 19.8首 来住者 1,710 1,095 514 100.0覧 64.0% 30.1首 注)該当数lま、原住・来住の別が不明の回答者を除く 表8原住・来住別賃金形熊(30歳以上) 128 5.6首 27 4.6% 101 5.9百 15.3百 716 9.2百 ,(1~:
t
目 445 8.4百 115 9目8百 330 8.0% 万円未満以上 29.5首 465 6.0% mi: 7.5弛 278 5.3目 77 6.5% 201 4.9% 該当数 月給 自給月給 週給・日給・時間給・その 不明 総数(人) 2,450 1.428 377 636 9 100.0% 58.3百 15.4% 26.0詰 0.4目 原住者 634 427 80 127 100.0% 67.4% 12.6百 20.0% 来住者 1,816 1,001 297 509 9 100.0百 55.1百 16.4首 28.0百 0.5百 ~、昌4』...掴阻止晶’ L =ι.,,_ ...ι』畠 F’・...咽 円F噌 ,』唱、戸咽喝司,.』..’~d’ 484 6.2% 216..可 8.7% 268 5.1% 74 日 目3百 194 4.7% 不明 328 4.2% 112 4.5% 207 3.9百 45 3.8% 162 3.9%四 生 活 実 態 に 見 る 流 出 者 層 の 推 定 次に、どのような人々が同和地区から地区外に転出し ていっているのかを探索したい。ただし同和地区住民を 対象としている本調査においては、流出者を把握するの は困難である。そこで本調査と﹁一九九
O
年調査﹂の デ l タとを比較する中で、経年的変化が予想可能な[年 齢階層][学歴構成]というこつの指標において流出者 層 を 推 定 し て み た い 。 [ 年 齢 階 層 ] 年齢から見た流出者層の推定には、両調査における地 区概況調査デ l タを用いる。なお比較は、両調査におけ る対象地区面積が完全に同一で、かつ年齢階層別地区人 口の回答がなされている二二地区を取り上げた。 自然増減︵死亡・出生︶および流出入を無視すれば、 一 九 九O
年 の 年 齢 階 層 別 人 口 は 、 一O
歳加齢したこ00
0
年の年齢階層別人口と一致するはずである。その比較 表が表 9 である。それによると、いずれの年齢階層にお いても人口減が見られる。その減少数が流出者数である が 、 実 際 に は こ の 一0
年間に来住してきた人がいること を考えると、流出者数はさらに大きいことがわかる。 問題は年齢階層によって異なるその減少率である。落 ち 込 み は 、 ﹁ 一 九 九O
年調査﹂における﹁二O
! こ 九 歳 ﹂ ﹁ 三0
1
三四歳﹂および﹁六O
歳以上﹂の階層で八割を 切っており二つの谷を作っている。二O
歳代から三O
歳 代前半にかけての若年層が大きく流出していることがわ かる。なお﹁六O
歳以上﹂の減少は、死亡による自然減 で あ ろ う と 推 測 さ れ る 。 ちなみに、﹁現住地区以外で生まれた者﹂における一 九九一年以降の来住者数を年齢階層別に見た結果が表叩 で あ る 。 ﹁ 二 五 l 二九歳﹂が一九・八%、﹁三0
1
一 一 一 四 歳﹂が一六・八%と若年層の占める割合が他に比べて明 らかに高くなっている。若年層がより高い割合で来住し てきでいるこうした状況を勘案すると、二O
歳代から三O
歳代前半にかけての若年層の流出率は表 9 よりさらに 大 き い こ と が う か が え る 。今回の調5 人 数 対 1990年比 総数 24940 75.1首 25∼29銭 2,854 84.7覧 30∼39歳 4,729 71.3% 40∼44歳 1,867 76.0目 45∼49歳 2,218 81.8首 50∼54歳 2,544 82.8弛 55∼69歳 7,215 83.6百 70∼74歳 1,481 70.3時 75∼79歳 1,006 63.3首 80歳以上 1 026 39.1% ’−・,.ι 7 ~ー, 年齢階層別の人口変化
時砂
表9 1990年調王 人 数 総数 33 202 15∼19歳 3,371 20∼29歳 6,636 3・0∼34歳 2,455 35∼39歳 2,713 40∼44歳 3,071 45∼59歳 8,634 60∼64歳 2,107 65∼69歳 1,590 70歳以上 2,625 注)年齢陪層の衷Jみ は1990I 年調査 「現住地以外で生まれた者Jの年齢階層別来住者(1991年以降)該当数|;;長|;:長 I~~長|;:長|言語|;:長|;;長|::長|言語|::長 1:~長|;:長|認証 1~1t
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1.:% 表10 [ 学 歴 構 成 ] 学歴階層から見た同和地区からの流出者層の推定も、 [年齢]と同じ方法を用いる。ただし、﹁一九九O
年調 査﹂においては年齢階層別の学歴構成デ l タ が 、 ﹁ グ ル ー プ A ﹂ ︵ 注 1 参照︶を対象としたものしか残されて いない。そこで、今回の調査のデ l タはこれと比較する た め 、 ﹁ グ ル ー プA
﹂に対応する同和地区住民として ﹁ 同 和 地 区 出 身 の 住 民 ﹂ ︵ 注 2 参照︶を取り上げ、その年 齢別学歴構成を見ることにする。対象としたのは、﹁一 九 九O
年調査﹂における二O
歳から五九歳の年齢階層の 人である。ただし、いずれのデ l タにおいても﹁在学 中﹂を除いている。今、この一0
年間に住民の流出入が なかったと仮定すると、﹁一九九O
年調査﹂での各年齢 階層における学歴比率は今回の調査におけるそれぞれ一O
歳上の年齢階層の学歴構成比率として再現されるはず で あ る 。 も ち ろ ん 、 こ の 一0
年間に亡くなった人や社会 人になってから再入学した人も考えられるが、それらは 学歴比率の動向に大きな影響を及ぼすほどのものではな いと判断される。その比較した結果が表円である。これ によると、表において網掛けをした部分の比率が、﹁一九 九
O
年調査﹂の結果から再現されるはずの比率より減 少している。それは、﹁短大・高専修了﹂における一部 の 年 齢 階 層 を 除 き 、 ﹁ 中 等 教 育 修 了 ﹂ ﹁ 短 大 ・ 高 専 修 了 ﹂ ﹁大学修了﹂といった、高学歴階層の比率が減少してい ることを示している。逆に、﹁不就学﹂﹁初等教育修了﹂ の比率が全体として増加していることがわかる。この増 減は明らかに、比較の﹁仮定﹂として除外した、ここ一0
年間における同和地区への流出入者の影響であると考 えられる。先の﹁生活実態に見る来住者像﹂の[学歴構 成]で見た通り、来住者における学歴構成は原住者のそ れより相対的に低い。これに加えて、﹁中等教育修了﹂ 以上の高い学歴階層の者が流出していることを示唆して いる。このことは、相対的に高い学歴構成をなしている 若年階層がより大きな比率で流出しているという﹁年齢 階層から見た流出者層の推定﹂結果からも裏付けられる。 ︵ 注 1 ︶ グ ル ー プ A 一 ﹁ 一 九 九 O 年 調 査 ﹂ は 世 帯 調 査 で あ り 、 現 住 地 区 と の 関 係 で ﹁ 原 住 世 帯 ﹂ と ﹁ 来 住 世 帯 ﹂ に 区 分 し て い る 。 ﹁ 原 伎 世 帯 ﹂ と は 、 ﹁ 世 帯 主 夫 婦 、 そ の 父 母 ま た は 祖 父 母 の う ち 、 者 ﹂ が い る 世 帯 と 規 定 し 、 こ れ 以 外 を ﹁ 来 住 世 帯 ﹂ と 一 人 で も こ の 地 区 に 生 ま れ た 年齢階層別学歴構成比較 該当数(人) 1990年調査 今 回 の 調 査 1990年調査鵠錯重
課
今回の調査錯
霊
1990年調査 4哩fl)_号 20∼29歳 並立笠藍 30∼39歳 笠ヱ笠量 40∼49歳 盟二型童 50∼59歳 盟こ盟 20∼59 30∼69 表11 年 齢 階 層 し た 。 グ ル ー プ A と は 、 ﹂ の ﹁ 原 住 世 帯 ﹂ に 加 え て 、 ﹁ 来 住 世 帯 ﹂ の う ち 前 住 地 が 同 和 地 区 と し た 世 帯 の 合 計 を さ し て い る 。 ︵ 注 2 ︶ ﹁ 同 和 地 区 出 身 の 住 民 ﹂ 一 出 生 地 が 現 住 地 で あ る 者 、 お よ び ﹁ 現 住 地 以 外 の 生 ま れ ﹂ で あ つ で も 、 現 住 地 に 至 る ま で に 他 の 同 和 地 区 で の 居 住 歴 の あ る 者 を 合 わ せ て 、 同 和 地 区 と 属 地 関 係 が あ る 者 も の と し て ﹁ 同 和 地 区 出 身 の 住 民 ﹂ と し て い る 。 ︵ 次 号 に つ づ く ︶ひ ろ ば ⑮ 師岡佑行︵沖縄県在住︶ ー
歴史をどう学ぶか
﹁ 奈 良 本 辰 也 先 生 と 部 落 問 題 ﹂ 補 選 | もとめに応じて、雑誌﹃部落解放﹄九月号に﹁奈良本 辰也先生と部落問題﹂を掲載した。そのなかで私は、こ の三月に八七歳で亡くなった奈良本辰也先生の部落問題 にかかわられた動機として木村京太郎さんとの出会い、 業績として部落問題研究所を主宰して部落問題研究の基 礎を築かれたこと、理論的寄与として雑誌﹃部落﹂ 九 六一年一月号に発表された﹁部落解放の展望|部落問題 の新しい展開についての試論﹂があることをあげた。 この論文は、奈良本・井上論争を招き、多くの論客の 批判を浴びたことで知られているが、論争の核心は、独 占資本の体制下で部落の解放はあり得るかという一点に っきた。前年の部落解放同盟第一五回大会は、﹁独占資 本とその政治的代弁者こそ部落を差別し圧迫する元凶で ある﹂と新しく採択した綱領で龍一いあげたばかりだった か ら 、 奈良本先生が、部落差別を利用して利潤をはか るなどは﹁恐らくいまの独占資本の心情ではないであろ う﹂と述べたところに非難と批判は集中した。 いわば、論点が部落解放と革命の問題にかかわるもの だったから、その点をめぐって論争が激しかったとして も当然だった。だが、その余りに、この論文が指摘して いた、きわめて重要な主題が忘れ去られてしまった。議 論は、部落の解放をどう展望するのかという肝心のとこ ろに到らない前に、入口のところでストップしたままに 終わったのである。 その後、部落が大きな変貌を遂げたことは、もはや誰 も否定しない。かつて部落といえば、﹁劣悪な生活実態﹂ の一語に尽き、住宅・道路・公的施設がととのえられた 現在から想像もできないほどであった。いうまでもなく、 れ ら は 同 対 審 答 申 と 同 和 対 策 事 業 特 別 措 置 法 な ど の 法 律にもとづいて投下された膨大な予算︵一九六九年 l 九三年に限っても一三兆四千億円︶によるものである。と こ ろ で 、 いまからふりかえれば、不思議だといえるが、 この﹁シュトルム・ウント・ドランク﹂︵疾風怒涛︶と もいうべき部落の大きな変化を、部落解放運動の側は、 容易に理解することができなかった。ようやく全解連が 気付くのが七
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年代の半ば、部落解放同盟にいたっては 九0
年代に入ってからであった。いわば運動は、きちん とした現状認識のないまま、急速に変わっていく部落の 状況の後追いに終始していた。 し か し 、 予見がなかったわけではない。ここにあげた 奈良本先生の論文﹁部落解放の展望﹂は、すでに六O
年 代の初頭にあって、この変化を明確にとらえていた。独 占資本の体制下にあっても﹁︵政府は︶多少の予算を割 き、それ︵部落︶を政治的にも経済的にも向上させる方 向に持っていこうとするに違いない﹂と明言され、同対 審答申が公布され同和対策事業がすすめられる可能性を 示されている。そればかりでなく、事業に伴う予算の投 下によって利権問題が生じる恐れがあることについても ﹁その予算が融和主義者たちの手で自由に処理されてい く危険性が十分にあるのであるから、それを如何にして 公正な場所におくかということがわれわれの問題となっ てくる﹂と警告されたのであった。 みごとな予見であった。理論のもつ力とは、常識では とらえられないところを明確にとらえ、その全貌をはっ きりとした形で示すことにある。その力によって、運動 は対象を取り巻く全体をつかみ、余裕をもってその方向 を見定めることができる。しかし、この場合、そうはな らなかった。全解連は、部落の大きな変貌のなかに呑み ﹂まれていったし、部落解放同盟はイケイケドンドンと 要求闘争を強めるばかりであった。基本法制定を運動の 第一目標にかかげるのは、その延長といってよい。同じ 柳の下にドジョウはいるとは限らないのだが。 先生は政府の部落にたいする政策がプラスだけでなく、 マイナスの点が生じることも警告されていた。利権の間 題である。部落解放同盟はこの点について、きわめてあ い ま い な 態 度 を と っ て い る が 、 一度は中央本部を揺るが すほどの大きな問題となったこともあった。 一 九 八 一 年一一一月、中央執行委員だった西岡智、駒井昭雄両氏が提 出した意見書がそれだった。当時、同盟内の利権問題は しばしば新聞をにぎわしていたが、野間宏氏が事態を憂 慮され、時には京都まで来られて、日高六郎氏や奈良本 先生と直接相談されることもあった。西岡・駒井意見書 の背景にはこうした知識人の思いもこめられていたので ある。しかし、本格的に議論されることなく、ウヤムヤ の う ち に 終 わ っ て し ま っ た 。 ところで、﹁部落解放﹄九月号の小文からは、この意 見書のことは省かれてしまっている。編集者の音 Y V 向 と し て、個人の名前は出しては迷惑が及ぶかも知れないので 触れないでほしいとのことであった。私には二
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年も以 前のことであり、名誉でこそあれ、迷惑になるとはいさ さかも考えられず、情報の公聞が時代の趨勢ともなって いる今日、おかしな話とは思ったが、編集部の考えかた と し て こ れ を 承 知 し た 。 しかし、﹁利権問題が生じ、組織に腐敗が生じた﹂と いうのでは、あまりに抽象に過ぎて、これでは歴史から なにごとも学べはしない。事実の経過を具体的に知って こそ学ぶこともできよう。この一文を草して補ったのも このためである。しかも、高知県でおこった不正融資開 題が副知事にまで及んで、高知県政を大きく揺るがして いることは、部落問題についての記事の少ない沖縄にお いでさえ報道されている。利権問題は現在の問題であっ て、歴史は直接つながっているのである。 雑誌﹁部落﹄の七月号に東上高志氏が寄せた文章﹁初 代理事長 奈良本辰也先生を送る﹂も、先生のこの論文 についてふれている。東上氏といえば、部落問題研究所 で事務局長として長らく奈良本先生を補佐してきた。先 生自身、﹁東上君はよくできる。研究所の企画や事業に は抜群の事務能力を発揮している。﹂私自身がまだそれ ほど部落問題にかかわっていない頃から何度となく、お 聞きしたことを思い出す。 し かL
、この文章はいただけない。まず、先生の論文 中 申 についていえば、杉之原寿一氏の所論をあげて﹁科学的 なうらづけのない﹃ひらめき﹄といっていいものであった ﹂ と け な し て い る 。 * 論 「 研 杉 究 之 」 原
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入 品 四’己IZ
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刊 題 の 第 理 章 部 落 差 別 論 部 落 差 別 本 質 ー日間ι査
本 氏 の 見 解 に つ い て 。 初 出 は ﹁ 同 和 行 政 研 究 ﹄ 第 2 集 ︵ 部 落 問 題 研 究 所 、 一 九 七 六 年 八 月 発 行 ︶ 所 載 。 だが、東上氏は、おおかたの場合、﹁科学﹂の名によ る凡百の実証的研究がきまりきった結論を﹁証明﹂する に過ぎず、﹁ひらめき﹂なくして、理論が現実に切り込 めないことに気がつかない。氏は、それが思いつきのよ うに、軽く見ている。先生の場合、﹃部落解放﹄誌での 小論でもふれておいたが、きびしい方法上の反省に裏付 けられていた。当時、もっとも先生の身近にいた東上氏 はなにを見ていたのか、疑わしくなる。 しかも、自身の評価ではなく、杉之原氏の﹁部落解放 論﹂をもって、これに代えているのは自信の無さの現れ だろう。おそらく、この論文も読み返すことなしに、過 去 の 記 憶 を も う 一 度 く り か え し た に 過 ぎ ・ な い よ う で あ る 。 杉之原氏が奈良本先生の論文を批判したのは、 一 九 七 六 年、さきにみたように部落の急激な変化が足下ではじま っていた。生きた理論的関心からいえば、まず、この現 実に向わねばならず、そうだとすれば的確にこれをとら えた先生の論文に驚いて然るべきだった。 h v ’ − 守 、 通 、 ナ hAM いま読み返しても、杉之原氏の論文には、そう したアクチュアルな関心はまったくうかがえず、生硬な 構造論が述べられているに過ぎない。これをもって﹁科 学的なうらづけ﹂とあがめるところに東上氏の党派性が 渉み出ている。そればかりではない。七0
年代以降の部 落の激変という状況を自らの目で確かめようとしてこな かった理論的怠慢が露呈してしまっている。 東 上 氏 の 文 章 に は 、 ﹁ 敵 対 者 ﹂ 、 ﹁ 偽 証 ﹂ 、 ﹁ 変 質 ﹂ な ど の言葉がおどり、ことごとく先生に向けられている。 一九六六年はじめ、先生は朝日賞を受賞したばかりの 部落問題研究所を辞められた。部落解放同盟京都府連内 部の対立の激化が研究所があった文化厚生会館におよび、 朝田善之助氏らのグループは会館に事務所をかまえてい た三木一平氏らのグループを追い出し、研究所を閉鎖し* て会館を一時占拠するという事件がおこった。東上氏の おぞましい言葉は、この事件をめぐる先生の対応をめぐ つ て な さ れ て い る 。 * く わ し く は 拙 著 ﹃ 戦 後 部 落 解 放 論 争 史 ﹄ 第 四 巻 ︵ 柘 植 書 部 落 解 放 同 盟 と 臼 房 一 九 八 四 年 一 一 月 刊 ︶ 。 第 一 章 本 共 産 党 と の 公 然 た る 対 立 、 抗 争 の 始 ま り 、 一 一 京都府 連 大 会 の 開 催 と 文 化 厚 生 会 館 問 題 、 を 当 た ら れ た い 。 事件の経緯についてくわしく述べる余裕はないが、東 上氏がはげしく非難するのは、事件当初、先生はじめ研 究所理事会が一致して朝田氏らの強制排除の仮処分を申 請し、建造物侵害などで告訴したにもかかわらず、その 後の法廷で、先生が朝田氏からの研究所復帰の提案を受 け入れ、理事会にはかったが、多数決で否決されたと述 べたという点である。こうした事実はなく、﹁偽証﹂だ と決めつけ、自分は当時、理事︵事務局長︶として理事 会に出席し、議事録を作成していたから、間違いないこ とだと強調してみせるのである。 しかし、ごく親しい友人である朝田氏らを法律に訴え ることは先生の本意でなかった。だからこそ、事件直後、 先生は朝田氏と会い、事態の鎮静化次第、研究所に戻つ てもらいたいとの返答を得た。これを受け入れた先生は 何人かの理事にはかったが、 はかぽかしい返事は得られ なかった。東上氏もその一人だったはずだ。正規の理事 会ではなかったが、こうした努力がはらわれていた。こ の経緯を無視して、﹁偽証﹂だと決めつけるのは、まさ に先生の人格を傷つけて、自らをよしとする暴言以外の な に も の で も な い 。 東上氏は先生の辞職について﹁部落解放同盟と対立す るような部落問題研究所は存立し得ない。そうなった研 究所の責任はもてない﹂のが、その理由だという。それ もあるだろう。しかし、それ以上に切実だったのは、辞 任屈の冒頭の﹁非力、無能にして今回の問題に対し、今 日に至るも、なお解決の糸口を見出し得ず、しかも将来 に対して明白なる解決の糸口をつかんでいません﹂と述 べられた絶望感に満ちた言葉である。 権力の介入によって友人達を排除し、 やっと就職した ばかりの人たちの職を告訴によって奪うことは先生の望 むところではなかった。しかし、東上氏らはこれを受け
入れない。﹁非力、無能﹂は単なる修飾語ではなく、こ の一言葉を用いざるを得なかったものとして東上氏らの党 派的な行動があり、これとの闘いが課題として先生には 登場した。東上氏が見るように、部落解放同盟対研究所 の組織的関係があっただけでなく、なによりも許せない ものとして東上氏をはじめとする研究所のやりかたがあ った。法廷に立って、研究所のやり方を批判し、﹃部落 解放﹄誌上で論難するとして不思議ではなかった。 これを﹁変質﹂とするのは全く当たらない。まして、 ﹁なぜここまで変質されたのか、三十五年たった今も、 私にはわからない﹂と嘆くのは東上氏ひとりであろう。 リ l ガル的正義にしがみつき、組織的関係のみに目をや って、歴史として全体をとらえようとせず、先生の辞任 届の悲痛な言葉が東上氏にも向けられていることに気付 こうともしないで来た半世紀をはるかに越える年月が、 氏の精神を紛争当時のままに化石化してしまっている証 明 で あ る 。 いや、とっくに東上氏は気付いているのかも知れない。 だからこそ﹁︵先生は︶私の人生のみちゆきにおいて、 もっとも大きな影響を、つけた、恩師である。それだけに こうした追悼を書くことはつらく、また悲しい﹂と最後 に記さねばならなかった。この数行は﹁私的なこと﹂と して書いたとある。では、棲緩と暴言を書きつらねたの はなんだったのか。非私の、公の、組織の世界のホンネ ではないタテマエというのか。﹁滅私奉公﹂という古い 言葉が浮かんで来るが、その世界のなかに﹁私﹂を貫き 通せなかった東上高志氏とはいったい何者なのだろうか。
鴨水記 マちょっと気になる文章があるので 紹介します。加藤陽一さんの﹁﹃踏 ま れ た も の の 痛 み ﹂ 考 ﹂ ︵ ﹃ 部 落 解 放 史ふくおか﹂第問号旧・ 6 ︶ で す 。 ﹁ ﹃ 踏 ま れ た も の の 痛 み ﹂ は 、 七 0 年代の運動の高揚期において、何か しら相手に有無を言わせぬ切り札的 に使われた紋切型の言葉として、今 日では使われることもなく、否定的 な評価しか与えられなくなってしま っ て い る が 、 私 は そ う は 思 わ な い 。 ︵ 略 ︶ ﹃ 踏 ま れ た も の の 痛 み ﹂ が 問 わ れなくなってから、以前以上の豊か な関係が生まれたという話を聞いた ことがないのは、おそらく、私だけ ではないだろう。﹂加藤さんはどう も﹁足を踏んでいるものには、踏ま れているものの痛みはわからない﹂ という例のテ l ゼの復権を主張して い る よ う に 読 み と れ ま す 。 加 藤 さ ん は 教 員 。 ﹁ 七