• 検索結果がありません。

ヘミングウェイと狂気

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ヘミングウェイと狂気"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

This document is downloaded at: 2016-10-08T01:00:06Z

Title

ヘミングウェイと狂気

Author(s)

中村, 正生

Citation

長崎大学教育学部紀要. 人文科学. vol.60, p.23-33; 2000

Issue Date

2000-03

URL

http://hdl.handle.net/10069/5772

Right

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

(2)

長崎大学教育学部紀要 一人文科学 - N0.60,23-33(2000.3)

ヘ ミングウ ェイ と狂気

He

mi

ngwayandMadne

s

s

Mas

aoNAKAMURA

<一人を殺せ ば犯罪者 だが、百万人 を殺せ ば英雄 だ

>1

序 第一次世界大戦 は、文字通 り人類が世界的規模 で戦 った初 めての戦争 であった。戟争 の 真 の残酷 さも知 らぬ まま、「若す ぎる

とい う父親の反対 を押 し切 り、「常 に現場 に居合せ なければ気がす まない」記者魂 に燃 えて、ヘ ミングウェイは ヨーロ ッパの戦場 に赴いた。 そ して1918年7月8日の真夜 中頃、イタリア戦線で瀕死の重傷 を負 う。 迫撃砲弾 による負傷 は227カ所 に及 び、手術の回数は10回 を超 えた と言われる。 ここまで は "若気 の至 り" と 言 うこともで きよう。 しか し、3カ月後 に退院の許可が出る と、早速 イタリア軍の歩兵隊 勤務 を志願 して戦 闘貞 として働 くに至 っては、 まさ しく "狂気の沙汰" と言 えるのではな いか。それか ら1961年7月2日の猟銃 による自殺 まで、ヘ ミングウェイは "狂気''と隣 り 合 わせ に生 き、"狂気''の うちに死 んだ。

本論で は、主 に A FarewelltoArms(1929)と For Whom theBellTolls(1940) を通 して、「ヘ ミングウェイ と狂気」 について考察す る。 Ⅰ 「狂気」 とは 「気が狂 っていること。気違い じみた精神状 態

2

の謂 で あ る。 す なわ ち 「狂気

とは 「気が狂 ってい ること」 だけでな く、「気違い じみた精神状態」をも意味する。 ここで前者 を 「アブノーマルな (または病 的な)狂気」、そ して後者 を 「ノーマルな狂気」 と呼ぶ ことにす る。 一般 に人は激 しい感情 に とらわれる と、時 に後者 を体験す ることがあ る。 芥川龍之介 は曲亭馬琴が r南総里見八犬伝Jを書 きなが ら,ついに戯作三昧の境地 に到 達す る様 を次の ように記 している。 彼の耳 には何時か、 こほろ ぎの声が聞 えな くなった。彼 の眼 に も、円行燈 のかす かな光が、今 は少 しも苦 にな らないO筆 は 自ら勢 を生 じて、一気 に紙の上 をた りは

(3)

じめる。彼は神人 とあひうつや うな態度で、殆 ど必死 に書 きつ ゞけた。 頭の中の流は、丁度空 を走 る銀河のや うに、こんこん として何処か らか溢れて来 る。彼 はその凄 じい勢 を恐れなが ら、自分の肉体の力が万一それに耐- られな くな る場合 を気づかった。 さうして、緊 く筆 を握 りなが ら、何度 もか う自分 に呼びかけ た。 「根か ぎり書 きつづけろ。 今己が書いてゐる事は、今でなければ書 けない事か も 知れないぞ。」 しか し光の燕に似た流は、少 しもその速力 を緩めない。反 って 目まぐる しい飛躍 の中に、あ らゆるものを溺 らせなが ら、はうはい として彼 を襲 って来る。 彼 は遂に 全 くその虜になった。 さうして一切 を忘れなが ら、その流の方向に、嵐のや うな勢 で筆 を駆 った3。 `天保二年九月の或午前である。神田同朋町の銭湯松の湯では、朝か ら不相変客が多かっ た。' と始 まるこの作品に、馬琴 は もうもうと立上 る湯煙 と朝 日の光に包 まれ、種 々雑多 な入浴客 にま じって登場する。齢六十あま り、眼 も少 し悪い。彼の心には、時に死の影が さす こともある。 しか し、 どこかまだ老年に抵抗する底力が残 っている。やや大 きい口の 周囲に、旺盛 な動物的な精力が、恐 ろ しい閃 きを見せているか らだ。そこで彼は r八犬伝」 を誉める男に会 うが、立ち込める湯気の中でこれをひどくけなす声 を聞 く。沈んだ気分で 松の湯 を後 にする。 帰 ってみると煩わ しい訪問客。 しか し、面白がって彼 をかついだ孫の 言葉に偶然救われる

「勉強 しろ。病癖 を起すな。 さうして もっとよく辛抱 しろ。」 と浅草 の観音様が言った とい うのだ。彼の眼に涙がに じみ、彼の唇 には微笑が浮かぶ。そ してそ の夜の ことである。 かすかな光の ような ものに導かれて、彼は創作 に没頭す る。 `神 人 と あひうつや うな態度で、殆 ど必死 に'そ して `嵐のや うな勢で'筆 を駆 りながら、馬琴は、 利害 も愛憎 も忘れ、まして段菅 に煩 わ され る心 な ど消 え去 って、 `不可思議 な悦 び' と `快惚たる悲壮の感激'に満たされ、戯作三昧の心境 に到達する。 ここに至るプロセスで 彼は 「ノーマルな狂気

を体現する。 もちろん、ヘ ミングウェイの作品に登場する人物 にも、「ノーマルな狂気」 の体現者 た ちがいる。

Shecameintheroom andovertothebed.

`Hello,darling,'shesaid.Shelooked fresh and young and very beautiful. IthoughtIhadneverseenanyonesobeautiful.

`Hello,'Isaid.WhenIsaw herlwasinlovewithher.Everythingturned overinsideofme.Shelookedtowardsthedoor,saw therewasnoone,then shesatonthesideofthebedandleanedoverand kissed me.Ipulled her downandkissedherandfeltherheartbeating.

`Yousweet,'Isaid.`Weren'tyouwonderfultocomehere?I `Itwasn'tveryhard.Itmaybehardtostay.

'You'vegottostay,'Isaid.'Oh,you'rewonderful.'Iwascrazyabouther. Icouldnotbelieveshewasreallythereandheldhertighttome.

(4)

ヘ ミングウェイと狂気 25

'Youmustn't,'shesaid.'You'renotwellenough,' `Yes,Iam.Comeon.'

`No.You'renotstrongenough.' `Yes.Iam.Yes.Please.'

`Youdoloveme?'

'Ireallyloveyou.I'm cT・aZyaboutyou.Comeon,please.' `Feelourheartsbeatlng?'

`Idon'tcareaboutourhearts.Iwantyou.Ⅰ'm justmadaboutyou.'4

[italicsnotintheoriginal]

これ はAFaT・eWelltoAT・mSのCHAPTER 14か らの引用 であ る。 イ タ リア戦線 で負 傷 し、 ミラノにあるアメ リカ軍 の痛 院 に運 ばれ たFredericHenryはイギ リス人の看 護 婦Catherine Barkleyと再会 し、彼 女 を心 か ら愛 して しま う。 ここで はcrazyがmadとほぼ同義 で用 い られてい る。 激 しい恋情 に身 をこがす フ レデ リ ック もまた 「ノーマ ル な狂気」 を体現 して い る。 これ に対 して、 冒頭 に掲 げた<一 人 を殺 せ ば犯 罪者 だが 、百万 人 を殺 せ ば英 雄 だ > とい うチ ャ ップ リンの言葉 は、戦争 の本 質 を的確 に表現 してい る。 人 間 に倒錯 した価値観 を強 い る戟争 こそ 「アブ ノーマ ル な狂 気」 の極 致 であ る。 Ⅱ 人類 は二 度 の大 戦 を経験 した。そ してそれぞれ に戦争 文学 を生 み 出 して きた。今 次大 戦 が終 わ った1945年 以 降数年 間 に発 表 され た作 品 を眺 め て み る と、J.Hersey,A Bellfor Adano(1944),J.A.Michener,TalesoftheSouthPacific(1947),N.Mailer,TheNaked andtheDead(1948),I.Shaw,TheYoungLions(1948),H.Wouk,TheCaineMutiny

(1951),J.Jones,From HeT・etOEtemily (1951)な どが あ る。 一 方 、 第 一 次 大 戦 後 に はヘ ミング ウェイに代 表 され る 「失 われ た世代」 を始 め とす る作 家 た ちが輩 出 した。 そ し て彼 らは過去 の伝 統 と国葬 に反抗 し、それ らを破壊 し、独 自の文学 を創 造す る こ とに よっ て、現代 アメ リカ文学 を世界 に知 ら しめ たのであ る。

OnemightsaythatagreatmanynovelsoftheSecond Wararebased on DosPassosforstructure,sincetheyhavecollectiveheroes,intheDosPassos fashion,andsinceheinventedaseriesofstructuraldevicesfordealing with suchheroesinunifiedworksoffiction.Atthesametimetheyarebasedon ScottFitzgeraldformood,onSteinbeckforhumor,andonHemlngWayfor actionanddialogue.5

Malcolm Cowleyは 「第二次大戦 の大半 の小 説 が 、構 成 を ドス ・パ ソス 、雰 囲気 をス コッ ト ・フ イ ツツジ ェ ラル ド、ユ ーモ ア をス タイ ンベ ック、行動 と会 話 をヘ ミングウェイに依 存 してい る」 と して、 この よ うな作 家 た ちが今 次大 戦後 の アメ リカ文学 に及 ぼ した影響 の

(5)

大 きさを説明 している。 カウリーによれば、第二次大戦後の作家たちは第一次大戦後の作 家 たちを超 えることがで きなかった とい うことである。 初めに も述べ た ように、第一次世界大戦 は人類が世界的な規模で戦った最初の戦争であっ た。参戦 した若者たちは、戦争 にinnocentな世代であったために、 その衝 撃 もそれ だけ 大 きかったのではないか。それが諸種 の情況 とあい まって 「失われた世代」 を生みだ し、 遂 にはアメ リカ文学 を世界文学の高みに押 し上げる結果 になった と考 え られる。 その意味 でヘ ミングウェイは戦争が生み出 した作家である。彼 の戦争への接近は、いわば 「ノーマ ルな狂気」か ら出発 した。 ミラノでヘ ミングウェイ と付 き合いのあったHenryS.Villard は次の ように書 いている。

TheUnitedStateshaddeclaredwaronGermanyonApril6,1917,andthroughout thelandcollegestudentsnotyeteligibleforthedraftweredeserting their teacherstoservethenationinanywaytheycould.Theundergraduatebody asawholewasouttohangtheKaiser.Whocouldconcentrateonsuchdllll subjectsaseconomicsormathorancienthistorywhentheworldwasinturmoil andhistoryinthemakingwasscreamlngfrom theheadlineseveryday?Those concernedwiththefutllreOfeducationsollghtinvaintostem theexodus.King Canutemightjustaseffectivelyhavetriedto preventtheocean tidefrom receding.

Tobanishforeverthescourgeofwardidn'tseem atallnaiveto young colleglanSimbuedwithWilsonianideals;itwasanattainablegoalformankind, worthanysacrifice,anyriskorhardship.Afterall,thiswasawartoendall wars-therewouldneverbeanother.Nottojointhecrusade,tobethought a``slacker,''wasimpossible.6 1917年4月 6日、アメリカが ドイツに宣戦布告するや、まだ徴兵年齢 に達 していない大学 生 たちは力の限 り祖 国に奉仕 しようと続 々 と大学 を後 に した。あの伝説上のクヌー ト王 な らい ざ知 らず、誰 しも彼 らの国外脱 出を押 し止めることはで きなか った。 ウイル ソン流の 理想主義 を吹 き込 まれていたinnocentな彼 らは、 どんな危険や苦難 に直面 しようとも、 この 「すべ ての戦争 を終 わ らせ るための戦争」 (`awarto end allwars')に勝利 しな ければ と意欲 を燃や していた。彼 らには ドイツ皇帝 を絞首刑 に して、世界 に平和 をもた ら す とい う達成すべ き人類 の 目的があった。 この十字軍 に参加 せ ず 、 「責任 を回避 した者

(`slacker')と見 なされるのは我慢 のならない ことであった。ヘ ミングウェイを含 む同世 代 の若者たちの間に、戦争の実体 を知 らぬがゆえに、「ノーマルな狂気」が蔓延 していた。 さらに彼 らを戦争 に駆 り立てたのは、好奇心である。 この大戦 を身近 に眺めてみたい と い うのが、戦争 に参加す る彼 らの もう一つの 目的であった。

NotforanythingwouldI[Villard]havemissedtheopportunityforari ng-sideview ofthegreatestspectaclelikelytounfoldinourtime.Tomanyofus thewarinEuroperesembledaglganticstageonwhichthemostexcitingdrama

(6)

ヘ ミングウェイと狂気 27

everproducedwasbeingplayedout;asthepoetArchibaldMacLeish described it,itwassomethingyou"wentto"from aplacecalledParis,asifgolng tO acurrenthitatthetheater,andIknew foracertaintyIwouldhavetoget overthereandseetheshowformyselfbeforethecurtainfell.Mychancecame whentheRedCrossbeganlookingforrecruitstoreplacesomeofitsdriversin theItaliansectorwhoseterm ofservicehadexpired.Itwasa shortcutto thefront,apassporttoadventureinaromanticforelgnland,thechanceof alifetime.Ilostnotimeinseizlnglt.7

これ を読 む と、ヘ ミングウェイを含 めた同世代 の若者 たちが まった く戦争の実体 を知 らず、 掲 げた大義 は立派 だが 、いか に安易 な気持 ちで戦場 に出かけて行 ったかが分 か る。彼 らに とって世界大戦 はロマ ンテ ィックな異 国 を舞台 に催 される世界最大の シ ョーにす ぎなか っ た。繰 り返すが、それ だけに戦後の衝 撃 も大 きか ったのだ。 ヘ ミングウェイは傷病兵運搬車 を運転 していて負傷 した と思 われているが 、 ヴィラ- ド によればそれは事実 に反 している。その時彼 は移動酒保 の安貞 として、偶然 に も兵士 の役 割 を担 っていたのだ。それ までの比較 的平穏 な戦場 で傷病兵 を運 んでばか りの毎 日に飽 き た らず 、当時、最 も戦 闘が激 しか った ピア-ヴェ川沿いの地域 で戦争 を 目撃 したい と思 っ た らしい。その地 区での新 しい移動酒保 の要員 に応募 して、 と りわけ危険 な場所 として知 られていたサ ン ・ベ ルナル ド近 くの フォツサル タへ と赴 く。移動酒保サ ーヴィスが傷病兵 運搬車 の運転 と並 んで、イタリア戦線 で一番危険 な役 目を担 っていることはだれ もが知 っ ていた。 もちろん彼が知 らぬわけが ない。そ して案 の定、最前線 に到着 してほんの数 日後 の 7月 8日の真夜 中頃、オース トリア軍の攻撃 に際会 し、迫撃砲弾で重傷 を負 って しまっ た。彼 は後 に、ほ とん ど死 にかけた この時の様子 を、…IflcouldhavealightIwasnot afraidtosleep,becauseIknewmysoulwouldonlygooutofmeifitweredark."8

と書 いてい る。 これは暗 い夜 に受 けた重傷 のせ いにちがいな く、 この戦傷 で彼 がいかに大

きなシ ョックを受 けたか を表 わ している。 並の好奇心 だった ら、 ここで吹 っ飛 んで しまっ

た ことだろ う。しか し彼 は怯 まなかった

。「

彼 はびっこをひいて参加 し得 る戦争があるか ぎ りイタリアの地で勤務す る覚悟 だった

」(hewasdeterminedtoserveinltalyaslongas therewasawartohobbleto.)9し、 この言葉 に嘘 はなか った。 ミラノの アメ リカ赤十 字病 院に3カ月入院。10月 に退院す る と、 まだ杖 をついてびっこをひ きなが ら、 イタリア 歩兵部隊 に投 じ、前線 に復帰す る。 オース トリア軍 に対す る大規模 な攻撃が まさに開始 さ れ ようとしてお り、彼 はその現場 に行 きた くて堪 らなか ったか らである。結局、す ぐにひ どい黄 だんにかか り再 び ミラノに送 り返 される。 しか し、 フ ォツサ ル タで重傷 を負 いなが ら、退院す る とす ぐに前線 に復帰す るあた り、並 の好奇心でで きる もので はない。 この時 点でヘ ミングウェイは 「ノーマ ルな狂気」か ら 「アブノーマ ルな狂気」へ と一歩 を踏み込 ん だ と言 えるのではないか。 ヴィラー ドも戦争の惨禍 を初めて 目の辺 りに した ときの こ とが 忘 れ られ なかった。緊急 出動要請 を受 け、傷病兵運搬車 の運転手 として現場 に駆 けつけて み る と、悲惨 な光景が待 ち受 けていた。そ こには手投 げ弾で両足 を吹 っ飛 ば された見 る も 無惨 な兵士 がいた。それは彼 に とって生 まれて初 めての、恐 ろ しい体験 だった。 しか し彼 は 「傷病兵運搬車の運転手 に とっては、恐怖 に対 して慣 れるのが早 ければ早 いほ ど、 よ り

(7)

よ く義務が遂行で きる」(thesooneranambulancedriverbecomesinuredtohorror,

thebetterisheabletocarryouthisduties.)10と言 う。 したが ってその ような衝撃的 な洗礼 を早 く体験 で きたのは、結果 として よかった と考 える。 これは、当然のことなが ら、 兵士 に も当てはまる。恐怖 に対 して無感覚 な兵士 ほ ど勇敢 なのだ。果て しない殺 りくと破 壊 、そ して人間性 の喪失。その代償 はあ ま りに も大 きい。参戦 した多 くのアメ リカの若者 たちと同 じように、ヘ ミングウェイ もこの戦争 によって深い影響 を受けたのであ る。

1918年、18歳のヘ ミングウェイが フォツサルタでオース い ノア軍の砲撃に遭い、脚部に 重傷 を負 った こと、退院 して前線 に復帰後 、す ぐに黄 だんにかか ったことは既 に記 した。 しか し、彼の病気や怪我 は、 これに止 まらなかった。 この年 を皮切 りに、1961年の 自殺 に 至 るまで彼 は何度 も病気 にかか り、怪我 を している。 主な ものを拾 ってみる と、1928年 3 月、バスルームの天窓が落 ちて、頭部 に重傷。1930年11月、 自ら起 こ した交通事故のため 入 院。1942年、 3人 目の妻マーサは rコリアJ誌 と契約 を結んで家 を空けることが多 く、 この頃深酒が進み、精神的 に不安定。1944年 5月、灯火管制下のロン ドンの街 を無灯火で 走 る車 に同乗 し、交通事故 に会 って重傷。1954年 1月、西ナイロビを飛び立った飛行機が 墜落 し、ヘ ミングウェイ と4人 目の妻 メアリー重傷。 さらに救出に来た飛行機が離陸に失 敗 し、炎上。強度の打撲 による内臓破裂のため、その後終生苦 しめ られる。10月、ノーベ ル賞 を受賞す るが、病気 を理 由に授与式 を欠席。1959年12月、高血圧 と不眠症 に苦 しむ。 1960年 8月、欝病の症状がひどくなる。11月、 ミネソタ州ロチェスターのセント・メアリー 病院に入院。1961年4月21日、猟銃で 自殺未遂。 4月25日、飛行機のプロペ ラに飛 び込 も うとす るが未遂。そ して同年 7月2日に猟銃で 自殺。11さらに自殺 についてい えば、1928 年 、父親が ピス トル自殺。1961年のヘ ミングウェイの 自殺後、1966年 には妹 アーシュラが 睡眠薬 によ り自殺 (64歳)01982年、弟 レスターが ピス トル自殺 (68歳). また1983年には、 彼女 との出会いが

Ac

r

o

s

st

heRi

u

e

T

・a

n

dI

nt

ot

h

eTr

e

e

s

(1950)を執筆す る切 っ掛 けに

なった といわれるイタリアの美女 ア ドリアーナが 自殺 した (53歳)。先 に 「アブ ノーマ ル な狂気」の極致 は戦争 だ と書 いたが、それが個人 を完全 に支配す る と最後 は自殺 に至 るの だ。伊東高麗夫 は精神病理学 的な見地か ら次の ように述べ ている。 ヘ ミングウェイはいつ も 「死」 を見つめていたのである。そ して大酒 をのみ、冒 険 を好 んだ。好 んで危険な環境 に身 を投 じた。いつ も行動家 であったのは、逆 にい えば じっとしている と倦怠 と不安が、あるいは虚無がつ きまとって くるか ら、 とい う考 え方 は決 して無理ではない。彼 は友人ホ ッナナ一に語 ったように仕事す ること (書 くこと) と友人 と食べ た り飲 んだ り (酒 )す る こ とと女 とベ ッ ドで遊 ぶ こ と (セ ックス) とその他 の運動や冒険が、これ らが肉体 としての 「生

の表現 で あ る ことを知 っていた。大男であるヘ ミングウェイが肉体のみちを選んだのは、遺伝 的 で もあ り体質的で もあ ったのであろうが、第一次欧州大戦で死生の間をさまよった ことも大 きく影響 した。彼 はまた 「ドン ・フアン型」で もあった。三回離婚 して四 回結婚 した。精神分析 的に考 えれば、彼の数限 りない事故、負傷 、外傷 はいわゆる

(8)

ヘ ミングウェイ と狂気 29 死へ の願望 、即 ち無意識 的な 自殺へ の意志 であ り、彼 の心 の底 に倦怠 と不安 と、憂 うつ とがか くされていた ことになる。12 す る と 「平和 な ときはスペ イ ンの闘牛 、キ ー ・ウェス トでの魚釣 り、ア フリカの猛獣狩 り な どに熱 中 した意味 も、了解 されて くる」 と氏 は言 うのであ る。 遺伝 的 とも思 われ る 「欝 的傾 向」 に加 えて、 フ ォツサ ル タでの重傷 の後 で 「アブノーマルな狂気」に足 を踏み入れ て以来 、彼 の心 の奥底 には死 にたい とい う願望が ひそみ続 けていた と思 われ る。 高校 時代 のヘ ミングウェイがRingLardnerの書 いたスポ ーツ記事 を愛読 した こ とが知 られてい る。そ して彼 は学校 の週 間新 聞Trapeze紙のために記事 を書いていた。彼 がユ ー モ ラス な文章 を書 くため に主 として模範 に したのは リング ・ラー ドナーの文章 であ った。 ラー ドナー とい えば、当時 「シカゴ ・トリビュー ン」紙 の コラム を担 当 し、大好評 を博 し ていたのであ る。1917年 、高校 を卒業 して 「キ ャンザ ス ・シテ ィ ・ス ター」社 に見習い記 者 として入社 したヘ ミングウェイは取材 の仕方や記事 の書 き方 を先輩 の記者 た ちか ら熱心 に聞 き出 した。 また、「ス ター

社 には若い記者 たちが勉 強す ることになっていた `style -book'もあ った。

Toworkonthepaperwastolearnhow "towritedeclarativesentences," how "toavoidhackneyedadjectives,"andhow "totellaninterestingnarrative.'' Therewasalsoastylebookwhichtheyoungreportersweresupposedtostudy. ItsaidthatthekeytofinereportlngWastO``useshortsentences.Useshort firstparagraphs.UsevlgOrOuSEnglish,notforgettingtostriveforsmoothness. Bepositive,notnegative."13

これに加 えて、先輩か らの指導 や監督 もあ り、彼 は本格 的 な文章修業 を開始 した。 しか し 1918年 にイ タリア戦線 に赴いた後 も、分隊発行 の新聞 にラー ドナ ーぼ りの書簡体で投稿 し ている。Bakerは1933年 にヘ ミングウェイが 「若 い頃 には リング ・ラー ドナーを模倣 した 時期 もあったが 、そ こか ら教 え られ る ものは何 ひ とつ なか った。その理 由は何 よ りも彼が 無知 な男であ ったか ら

(Inhisyouthhehad gonethrough aperiod ofimitating RingLardner.This,saidhe,hadtaughthim nothing,largelybecauseLardnerwas anignorantman.)14と語 った こ とを伝 えて い る。 この と きまで に彼 はAnderson,Ger

-trudeStein,EzraPound,Joyce,そ して直接 ではないが、D.H.Lawrenceとい った作 家 たちか ら創作上 の技法 を学 び、大作家 としての地歩 をかためていたのであ る。それに し て も冷酷 な言 い方 ではあ る。 い ささか不可解 だが 、か って恩義 を受 けた先輩や友人 を後で 冷 た くあ しらう習性 が、彼 にはあった ようだ。 以上 の ように創作 の技法 を身 につ け、磨 きをか けたヘ ミングウェイはその書 くべ き対象 を戦場 に兄いだ した。世界最大 のスペ クタクル を見物 す るつ もりが瀕死 の重傷 を負 い、九 死 に一生 を得 た彼 は、復員後 も眠れ ない夜 が続 く。一瞬 に起 こる残酷 な死 は他 人事 ではな か った。眼 を閉 じる と、魂が体 か ら抜 け出すのではないか と恐 れた。 この事実 は戦場 で彼 が受 けた傷 の深刻 さを物語 ってい るが、 また同時 に、彼 の死へ の関心 を決定的 な もの に し た。 もっ とも単純 なことか ら始 めて書 くこ とを学 ほ うとしていた彼 に とって、あ らゆるこ

(9)

との うちで、 もっとも単純で、 しか ももっとも根本的なもの といえば、戦場で 目の辺 りに した 「激烈 な死

つ ま り `violentdeath'であった。 そ してそれが見 られ る唯一 の場所 は、戦争が終 わって しまえば、ただ蹄牛場があるばか りだ.彼 は書 くべ き対象 を求めてス ペインの闘牛場- と赴 くOヘ ミングウェイが戦争か ら生 まれた作家 と言 う所以である。

AFal・eZL)elltoAT・mSの主人公 フレデ リック ・ヘ ンリ-は、作者ヘ ミングウェイの分 身を思わせ るアメリカの青年である。 イタリアで建築 を学 び、イタリア語が話せ るところ か らイタリア野戦隊に加わった中尉で あるが、傷病兵運搬車の指揮 をとっていて負傷 し、 ミラノの病院に送 られる。 ここでキャサ リン ・バ ークレイと再会 した彼は、は じめは戯れ のつ もりで接 していた彼女に対 し、次第に真剣 な愛情 を抱 きは じめる。病院での二人は幸 福 な日々を過 ご し、やがてキャサ リンは妊娠する。 ここで彼 は、先 に引用 した ように、 「ノーマルな狂気

を体現する。この作品はヘ ミングウェイが現代の 「ロメオとジュリエ ッ ト」だ と言 った と伝 え られるように、確かに熱い恋愛小説であるが、また同時に深刻 な戦 争否定の小説で もある。 負傷する前のフレデ リックは自分の指揮下にいる元職工の操縦兵たちにむかって 「戦争 は最後 まで戦いぬ くべ きだと思 う」(`Ibelieveweshouldgetthewarover∴‥)15と言 う が、彼 らはみんな戦争 を呪っている。なかで もPassiniとい う兵は 「戦争以上 に悪 い もの は存在 しません」 (`There・isnothingworsethanwar.')16と上官に対 し丁重 な言葉 で反 論する。その議論 はテキス トの1ペ ージ半に及ぶ。別の兵に 「いいかげんに切 り上げよう」

とうなが されて、最後 にパ ッシー二は 「中尉 を転向 させ よう」 (`Wewillconverthim.')17 と結ぶ。これが後の フレデ リックの 「単独講和」の伏線 となる。 やがて傷が癒 えて前線 に復帰 した彼は、そこにみなぎっている厭戦気分 に驚 く.そ して す ぐにイタリア軍の稔退却が始 まる。有名なカポ レッ トの退却である。彼 もこれに加わ り、 雨 と闇の中を徒歩で逃れてい くうちに、味方の意兵 に捕 えられて しまう。彼のイタリア語 になまりがあるとい うことで、イタリア軍の制服 をまとう ドイツ人の疑いをうけ、銃殺 さ れそ うになる。だが隙 を見て川 に飛 び込み、危機 を脱する。岸 にた どりつ くと、お りか ら 徐行 して きた無蓋車 に飛 び乗 って戦線 を離脱する。彼 はキャサ リンのために生抜 こうとミ ラノへ向か う。 さらに、彼女は今ス トレーザにいると聞いて、 ミラノをあ とにする。ス ト レーザに着いた彼 は 「新聞は持 っていたが、読 まなかったO戦争 に関する記事 は読みた く なかったのだ。戦争は忘れるつ もりだった。ぼ くは単独講和 をしたのだ」(Ihadthepaper butIdidnotreaditbecauseldidnotwanttoreadaboutthewar.Iwasgoing toforgetthewar.Ihadmadeaseparatepeace.)18と考 える。ホテルに入 る とバ ーテ

ンがなにか問いかけて くるのに機先 を制 して、フレデ リックは次の ように言 う。

LDon'ttalkaboutthewar,'Isaid.Thewarwasalongwayaway.Maybethere wasn'tanywar.Therewasnowarhere.ThenIrealizeditwasoverforme.19 自分にとっては戦争 もこれで終わったのだとはっきり分かったが、現実に戦争が進行 して

(10)

ヘミングウェイと狂気 31 い る以上 、学校 をず る休み した少年 の後 ろめた さがあ るの も確 かであ る。 しか しそんな後 ろめた さを感 じている ときではない。 彼 には脱走兵 と して逮捕 の危険が迫っていたか らだ。 ス トレーザで再会 したばか りの二 人は、暴風雨の夜 、マ ジ オー レ湖 をボー トで漕 ぎ渡 り、 ス イスへ逃れてい く。そ してそ こで平和 で幸福 な生活 を手 に入れ る。 今 の彼 には戦争 な ど 縁遠 い もの に思 えた。 やがて雨が 降 りだ し、雪が溶 け、春が近づ くと、二人はローザ ンヌ -移 る。 そ この病 院でキ ャサ リンは死産 を し、 フ レデ リックの必死の祈 りもむな しく、彼 女 も帰 らぬ人 となる。 これが二人の愛の代償であ る。言 い換 えれば、二人の愛 の代償 はな に もなか ったのだ。 か って 自分 の指揮 下 にあ る操縦兵 に向か って 「戦争 は最後 まで戦いぬ くべ きだ」 と説 い た フレデ リック ・ヘ ンリー中尉が 、単独講和 を結 んで戦線 を離脱 し、 「アブ ノーマ ル な狂 気」 の極致 である戦争 に抵抗 し、 これ を否定す る とき、愛す る人 キ ャサ リンが死産 を し、 自分 も死ぬ とい う代償 のない愛 に彼 が黙 々 と耐 える とき、読者 は悲 しみ と同時 に一種 さわ やか な深い感動 に満 た され る。

ForWhoTntheBellTollsの主人公 ロバー ト ・ジ ョーダンは大 学 で スペ イ ン語 を教 え る若 いアメ リカ人で、1936年 に 「スペ イ ン内乱」が勃発す る とす ぐに、共和政府 軍 に参加 した反 フ ァシス トである。 彼 の戦争 についての考 えは、ゲ リラ隊の一員で彼の案 内役 であ

る老 ア ンセ ルモ との対話 に よ く表れてい る。

`Wehaveaformidableaviation,'theoldmansaidhappily. `Yes.'

`Andwewillwin.I `Wehavetowin.I

`Yes.Andafterwehavewonyoumustcometohunt.' `Tohuntwhat?I

`Theboar,thebear,thewolf,theibex-' `Youliketohunt?'

`Yes,man.Morethananything.Weallhuntin my village.You do not liketohunt?'

`No,'saidRobertJordan.LIdonotliketohillanimals.'

`Withmeitistheopposite,'theoldmansaid.'Idonotliketohillmen.'

`Nobodydoesexceptthosewhoaredistllrbedinthehead,'RobertJordan said.'FButIfeelnothingagainstitwhenitisnecessary.Whenitisforthe

cause.'20 litalicsnotintheoriginal]

戦争 に勝利 をお さめた らぜ ひ とも猟 に来 ないか と誘 われて、ジ ョーダ ンは 「動物 を殺す の は好 きではない」 と答 える。すか さず ア ンセルモ は、 自分 はその逆で 「人間 を殺すのが嫌

いだ」 と応ず る。 しか しジ ョーダンは、大義のため には殺 人 もや むな しとす る姿勢 を くず きず 、「戦 争 に勝 つ た め に は、 敵 を殺 さな くて は な らない 。 これ は不 変 の真 理 なの だ」 (`TowinawarwemllStkillourenemies.Thathasalwaysbeentrue.')21と言 い放 つ。それで もア ンセルモは、人間 を撃つのは獣 を撃つ ような もの と言 うジ ョーダンを理解

(11)

で きない。彼 にとっては、いかにそれが大義名分のためであれ、人を殺す ことは罪悪 なの だ。「きみは人 を殺 したことがあるか

?」

と問われて、ア ンセルモは次の ように答 える。

`Yes.Severaltimes.Butnotwithpleasure.Tomeitisasintokillaman. EvenFascistswhom wemustkill.Tomethereisagreatdifferencebetween thebearandtheman....No.Iam againstallkillingofmen.'22

た とえ相手が、われわれが殺 さねばならないファシス トであって も、人 を殺す ことは罪悪 である。熊 と人間 とは、 どうで もいっ しょに見 ることはで きない。人を殺す となるとどん なことで も反対 なのだ。これが彼の回答である。やがて敵の歩哨 を撃ち殺 したア ンセルモ は、「おれは奴 を殺 さなければならなかったんだ

.

′」

と叫んで、落涙す る。 ア ンセ ルモ と 対置す ることで、主人公 ロバ ー ト・ジ ョーダンの 「アブノーマルな狂気」が鮮明に映 しだ される。

Fo

T

・Who

m t

h

eBe

l

lTol

l

s

は、1937年5月最後の週の土曜 日か ら火曜 日にかけての 4 日間た らずの時間がその背景 となっている。 ジ ョーダンはこの極めて短い期間にマ リア と 出会い、激 しい恋 をす る。彼女の父親が共和主義者であったため、両親はファシス トによっ て殺害 され、彼女 も暴行 を受 けた うえ、丸坊主にされていた。 しか しジ ョーダンに心か ら 愛 されて、マ リアの心 にも生 きる意欲が建 って くる。彼 はファシズムと戦 うために政府軍 の一月 としてゲ リラ隊に加わ り、ダイナマイ トによる橋梁爆破 の作戦に従事す る。 そ して 爆破 は成功す る。 しか しその直後、被弾 した馬の下敷 きとな り、大腿骨 を折 って しまう。 もう立 ち上が ることがで きない。彼 はマ リアをゲ リラ隊の一行 とともに無事待避 させ、薄 れい く意識 と自殺 しようとい う誘惑 に耐え、敵の将校のひとりに軽機関銃の照準をあわせ、 迫 り来る死 と対決す る。そ して二人の短い恋は終わる。

`Listentothiswell,rabbit,'hesaid.Heknewtherewasagreathurry and hewassweatingverymuch,butthishadtobesaidandunderstood.`Thou wiltgonow,rabbit.Butlgowiththee.Aslongasthereisoneofusthere isbothofus.Doyoullnderstand?'

`Nay,Istaywiththee.I

`Nay,rabbit.Whatldonow Idoalone.Icouldnotdoitwellwiththee.

I

fthougoestthenIgo,too.Doyounotseehow itis?Whicheveronethere is,isboth.'23 「いや、わた しもあなた と一緒 にあ とに残 るわ」 とい うマ リアを 「二人の うち どちらかが いるところには、いつ も二人 ともいるのだ よ」 とジ ョーダンは諭す。今、ジ ョーダンはマ リアで もある。 人間はひ とりではない。彼が死んで も彼女が生 きているか ぎり、彼の未来 は彼女 とともに生 き続けてい く。彼の死 には、彼女 と彼女 とともに生 きる彼の未来 とい う 代償があるのだ。

この ように

Fo

T

・Who

m t

heBe

l

lTo

l

l

s

も恋愛 と戦争 を2本の機軸 として展 開す る。 た だ し

、A

F

ar

e

we

l

lt

oAr

ms

とはその様相 を異 にす る. 相手が フ ァシス トであ る とはい

(12)

ヘミングウェイと狂気 33 え、主人公 ロバ ー ト ・ジ ョー ダンは戦争 を肯定 し、作 品の結末で予測 される彼 の死 には恋 人マ リアが生 き延 びる とい う代償が用意 されているか らだ。 これ ら2つの作 品は、 この よ うな点で著 しい対照 をな してい る。結果 として、 フ レデ リック ・ヘ ンリーの生 き方 によ り 大 きな感動 をお ぼえるのは何故 だろ うか。「アブノーマ ルな狂気」の極 致 で あ る戦争 を否 定 し、代償 の ない愛 に敢然 と耐 えるフ レデ リックの姿が 、作 品全体 に強い緊張感 を与 え、 それだけ強い感動 を呼ぶか らではないか と思 われる。 ヘ ミングウェイはつねに "狂気" と隣 り合 わせ に生 き、"狂気"の うち に死 ん だ。 彼 が "狂気 ''に対決 し、 これ を否定す る ときの作 品は、強い緊張感 を生み深 い感動 を与 える傑 作 となったのである。 [本稿 は九州 アメ リカ文学会 第45回大会 (1999年 5月 9日,福 岡大学 )での フ ォーラム : 「アメ リカ文学 と狂気」 にお ける口頭発表 を もとに加筆 ・修正 した ものである。] 註 1

.r

チャップリンの殺人狂時代

J

(1947)の台詞から引用。 2.松村明 [編]大辞林第二版 三省堂 p.646. 3.

r

芥川龍之介全集」第三巻 (岩波書店,1996),pp.40-41.

4.ErnestHemingway,A FaT・eWelltoArTnS(London:JonathanCape,1958),p.84. 5.Malcolm Cowley,TheLiterarySituation(New York:TheVikingPress,1954),p.41. 6.HenryS.Villard& JamesNagel,Hemingway in Loveand WaT・(Boston:Nort

h-easternUniversityPress,1989),pp.1-2. 7.Ibid.,p.2.

8.ErnestHemingway,TheFiT・StForty-NineStories(London:JonathanCape,1964), p.299.

9.CarlosBaker,ErnestHemingw

a

y,

A LifeStory(New York:CharlesScribner's Sons,1969),p.52. 10.Villard&Nagel,op.cit.p.25. ll.今村楯夫 rヘミングウェイと猫と女たちJ(新潮社,1990),pp.252-265. 12.伊東高農夫 rヘミングウェイ 芸術 と病理」(金剛出版,1972),p.75. 13.Baker,op.cit.,p.34. 14.Iaid.,p.240.

15.Hemingway,A FarewelltoAT・mS,P.49. 16.Loc.cit.

17.Iaid.,p.50.

18.乃id.,pp.210-211. 19.Iaid.,p.212.

20.ErnestHemingway,FoT・WhoTntheBellTolls(London:JonathanCape,1963),p.41. 21.Iaid.,p.43.

22.Loc.cit. 23.Ibtd.,p.435.

参照

関連したドキュメント

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも

○今村委員 分かりました。.

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを