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[ 始 まり] 幕 末 の 頃 の 文 政 3 年 (182O) 正 月 元 日 清 水 の 美 濃 輪 で1 人 の 男 が 生 ま れました 薪 炭 を 商 う 三 右 衛 門 の 次 男 で 長 五 郎 と 名 付 けられられまし た 母 方 の 叔 父 で 米 屋 を 営 んでいる 甲 田

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(1)

安東文吉と清水次郎長

目   次   [東海遊侠伝の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1   [安東文吉伝史料集の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・ 1   [始まり] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2   [次郎長侠客になる] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2   [天保水滸伝遺跡保存会の現地案内板には] ・・・・・・・・ 3   [次郎長、安東一家に捕まる] ・・・・・・・・・・・・・・ 3   [幕末の侠客の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4   [東庄町のホームページによると] ・・・・・・・・・・・・ 4 [ここで江戸時代の刑罰のお話を、、] ・・・・・・・・・・ 5 [次郎長、和田島の文左衛門と津向の文吉の仲裁をする] ・・ 8 [身延山久遠寺の決闘] ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 [次郎長と八尾ケ獄宗七(保下田久六)との争い] ・・・・・ 1O [石松金比羅代参に行く] ・・・・・・・・・・・・・・・・ 14 [寺島(都田)一家の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14 [次郎長と都田の吉兵衛との争い] ・・・・・・・・・・・・ 15 [黒駒の勝蔵の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18 [黒駒の勝藏の悪行] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19 [荒神山の決闘] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19 [清水の次郎長と黒駒の勝藏との争い] ・・・・・・・・・・ 2O [清水次郎長、黒駒の勝蔵と富士川で喧嘩す] ・・・・・・・ 21 [黒駒の勝蔵、岩渕の庄右衛門を斬る] ・・・・・・・・・・ 22 [清水の次郎長、黒駒の勝蔵再び喧嘩す] ・・・・・・・・・ 23 [黒駒の勝蔵、清水の次郎長を追う] ・・・・・・・・・・・ 25 [黒駒の勝藏 清水の次郎長 和解す] ・・・・・・・・・・・ 27 [大政奉還後] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3O [穴太徳と清水の次郎長との和解] ・・・・・・・・・・・・ 31 [次郎長賭博で逮捕される] ・・・・・・・・・・・・・・・ 32 [山岡鉄舟の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 33 [安東文吉の事] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 34 [あと書き] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36 [東海遊侠伝の事] 「旅行けば 駿河の国に 茶の香り 名代なるかな東海道、、、」 広沢虎三で有名な浪曲清水次郎長伝のネタ本になった「東海遊侠伝」 を書いたのが、天田五郎です。 天田五郎は安政元年(1854)7月2O日、磐城平藩主安藤信正の家臣甘 田平太夫の5男として平城下に生まれました。幼名を久五郎といい、後 に明治4年(1871)天田五郎と改めました。明治元年(1868)、15歳で戊 辰の役に出陣中、父母妹が行方不明となってしまい、以後2O年間、肉 親を捜して全国を歩いたのです。その間、山岡鉄舟の知遇を受け、また 一時、次郎長(山本長五郎)の養子となったりしました。 次郎長が逮捕されてすぐに、以前から書き留めておいたものを、2ヵ 月掛けてまとめ上げ、意図的に次郎長を立派で人望が厚く曲がった事の 嫌いな人物として書き、[助命嘆願書] としたのでした。 明治2O年(1887)、五郎34歳のとき滴水禅師(てきすいぜんし)に よって仏門に入り、鉄眼(てつげん)と号し、明治25年(1892)、京都 清水に庵を結んで「愚庵」を名乗りました。漢詩において異彩を放った ばかりでなく、万葉調歌人としてすぐれ、正岡子規に大きな影響を与え ました。 明治37年(19O4)1月17日、京都伏見桃山の庵で没。享年51歳。 [安東文吉伝史料集の事] [安東文吉伝史料集上下] を、大正、昭和時代に安東文吉の子分達の記 憶を相川直弘氏によって書き留め、昭和15年(194O)に完結しましたが 当時の事情で活字化することなく、原稿用紙のまま葵文庫(静岡県立図 書館)に寄贈され保存されました。 相川直弘氏は、静岡市に生まれ国鉄に勤務し、別に安東文吉の子分で も何でも無かったのですが、旧安東村の村長の依頼でこの [安東文吉伝 史料集上下] をまとめ上げたのです。 その後市町村合併で安東村が静岡市と合併し、資金不足や物資不足の 影響で、出版する事なくお蔵入りになりまりました。 戦後になり、昭和33年(1958)、ガリ版刷りの相川春吉著・静岡郷土 研究会発行の [安東文吉基本史料] が150円で発売されています。 [安東文吉伝史料集上下][安東文吉基本史料] 共コピー版が静岡県立図書 館に蔵書されており、貸し出し可能です。

(2)

[始まり]  幕末の頃の文政3年(182O)正月元日、清水の美濃輪で1人の男が生ま れました。薪炭を商う三右衛門の次男で、長五郎と名付けられられまし た。母方の叔父で米屋を営んでいる、甲田屋次郎八に養子に出され、次 郎八の長五郎と云う事で次郎長と呼ばれました。  この男、根っからの暴れん坊で子供の頃、読み書きを習う寺子屋に入 るのですが、いたずらが過ぎたため、直ぐに退塾させられてしまう、と 云う厄介者でした。15歳の時、養父の次郎八が死亡したために、家業 を継ぎ、一時はまじめに働くのですが、何しろ博打が好きで、2O歳前 には、すでに博奕打ちになっていたと云います。  その頃、博奕は大流行で2個のサイコロを用い、目の合計が偶数なら 丁、奇数なら半という、丁か半かを当てる超単純な遊びで、確率5Oパ ーセントなのですが、参加する費用が掛かりますから、普通に遣ってい たのでは、儲かったり損をしたりで、総合的には儲かる訳は無いのです。  そこで考えた方法が、サイコロに細工を施す事と、自分で賭場を開く 事でしたが、当時、清水も江尻(静岡市清水区)も、駿府(静岡市)の 大親分の安東文吉兄弟が、縄張りを持っていて、しかも、十手も預かっ ていましたから、地元では賭場は開けない状態でした。そこで次郎長は、 手薄な場所を狙い、賭場を開いては稼いでいたのでした。  当時の清水は隣に江尻が有り、共に現在の静岡市清水区で、東海道の 宿場は、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子と続き、清水は江尻から 分かれていました。清水には巴川の河口に港が有って、多くの船の出入 りが有りました。 [次郎長侠客になる] 次郎長資料による 22歳の時、江尻で芝居見物をして酔っての帰り道で、闇討ちに会っ て、瀕死の重傷を負ってしまいます。これを機に生涯禁酒を誓ったと云 われています。6月、博打のもつれから巴川河畔で小富、佐平を斬り、 殺した事と思い込んで、家業の甲田屋を姉夫婦に譲り、妻と離別して無 宿者となり、清水を離れるのです。三河の寺津(西尾市)に流れて行き、 寺津一家初代今天狗の治助のもとに身を寄せ、さらに吉良の武一につい て剣術を学びヤクザの道に入って行く、と云うのですが。 [天保水滸伝遺跡保存会の現地案内板には] 千葉県東庄町では天保水滸伝の歴史的案内をしていますが、それによ りますと、 [野見宿禰命の由来 天保13年7月27日(諏訪神社祭礼の日)笹川 (岩瀬)繁蔵は相撲の元祖野見宿禰の碑を建立すると共に農民救済を名目 とし大花会を催した。上州武蔵の大前田英五郎、上州上野の国定忠治、 奥州仙台の鈴木忠吉、奥州信夫の常吉、駿州清水の次郎長など天下に知 られた親分多数が出席し、空前の盛会であった。] という様な記録が残っています。文面が正確ならば、天保13年には 清水次郎長は満22歳の時で、すでに一人前のヤクザに成っていたと言 う事の様ですから、入門したのはもっと早く18歳位だと思われます。 [次郎長、安東一家に捕まる] 安東文吉伝史料集より  ある時次郎長は、安部郡浅畑村の北(静岡市葵区北)で、髪結いを家 業にしている上州屋の裏2階で、毛引骨骰 (けびきさいころ) と云う、 サイコロに工夫を凝らしたものを用いた、インチキ賭博を開帳して、大 旦那の金右衛門などを引っ掛けては、甘い汁を吸っていたのでしたが、 一度が二度、二度が三度と度重なって、話が段々と外に漏れ、安東文吉 の子分の、浅畑村池ヶ谷の松の耳に入り、1度は注意で済みましたが、 まだ遣っていると、ある雨の晩に、池ヶ谷の松に連絡する者が有りまし た。  池ヶ谷の松は、雨の闇夜をついて上州屋に出掛けました。上州屋の裏 2階では、次郎長得意の毛引骨骰を使ったインチキ賭博の最中で、そこ で池ヶ谷の松「この野郎何してんだよ、誰に断ってこんな真似しやがる んだ、」と云いながら、次郎長を取り押さえ、毛引骨骰を証拠品として 捻り上げ、首根っこを掴んでずるずると表へ引き出し、安東村の文吉親 分の所へ渡しました。  文吉親分は懇々と意見をして、「今回一度だけは許してやるが、二度 と再びこんな事をするなよ。」と云って不心得を諭したと云います。  次郎長は平謝りに謝って、清水へ帰って行きました。 この時期が不明であるのですが、もうすでに博打は賭場を開かないと 儲からない事を理解しており、近郊でよい場所を探していた事を示して います。

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[幕末の侠客の事]  幕末の時代には、大前田英五郎、笹川繁蔵、国定忠治、新門辰五郎、 勢力富五郎、会津の小鉄、飯岡助五郎、黒駒の勝蔵、竹居の吃安、江戸 屋虎五郎、都田の源八、高萩の万次郎、保下田の久六、合渡(こうど、 岐阜市)の政右衛門(政五郎)、関の遠藤小左衛門、大垣の水野弥太郎、 美濃の神田の豊吉、尾張犬山の犬屋金十郎、大場の久八、田中岩五郎、 丹波屋伝兵衛、などの侠客が活躍していました。  文化12年(1815)の勘定奉行の達書(たっしがき)には、 「在々所々長脇差を帯び、または帯刀致し、御代官手付手代(つまり八 州廻り)の手先、あるいは火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)手先 などと申しなし、博奕(ばくち)致し、喧嘩口論を好み、仲直りと称し て金銭をゆすり取り、所々百姓家にて衒事(かたりごと)、または押借 (おしか)り等致し、あるいは人の女房娘等を無体に連れ参り、百姓家 へ押しかけて無賃にて数日逗留致し、盗賊を取り押さへ、双方(盗賊と 被害に遭った者)より金子(きんす)等をゆすり取り、無賃にて人馬等 を継ぎ送らせ」 等と有り、達書から2O数年後の天保の後期から、弘化、嘉永、安政 さらには幕末にかけて、勘定奉行の達書は彼らの行動原理をおおむねい いつくしており、 [やくざ者] の原型もほぼそこにある。 (佐藤雅美、[やくざ物]の系譜より) [東庄町のホームページによると] 「利根の川風 袂に入れて 月に棹さす高瀬舟、、、」 浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔 から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の 侠客の勢力争いの物語。 笹川繁蔵は、文化7年(181O)、下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生 まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁 蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間 的にも優れた人物だったと言われる。  繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、1年ほどで村へ帰 る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切ってい た芝宿の文吉から縄張りを譲り受け笹川一家を張ることになる。 一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎 は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親 分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五 郎も黙ってはいられなくなった。  天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根 河原の血闘である。  この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒であ りながら十手持ちでもあった。  飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自 身は笹川を離れることになった。  初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄 然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵の もとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力 を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺 の機会をうかがっていた。  弘化4年(1847)7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇 討ちにあい殺害された。笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。 [ここで江戸時代の刑罰のお話を、、] 当時徳川幕府に於ける刑罰は生かすか、殺すかがはっきりしていて、 死刑の場合は、現在は絞首刑だけですが、以下の6種類の方法が有りま した。 [死刑] 鋸挽(のこぎりびき):公開処刑。地中に埋めた箱(3尺x7尺)に罪 人を入れ、首かせをつけて首だけ突き出して、その傍に置いた竹製の 鋸 (のこぎり) で首を挽く。罪状札(捨札)を立て、 [この者に怨みの あるものは誰でも勝手に挽いてよい] と書かれて有った。田畑、家屋敷、 家財は闕所。三日後に磔。 (江戸中期から形骸化する。) 磔(はりつけ):公開処刑。角材に手足を縛り付け槍で突く。田畑、家 屋敷、家財は闕所。国定忠治が関所破りを咎められ、磔になりました。 獄門(ごくもん):牢内で首を切り、その首を2日3夜公衆にさらす。 田畑、家屋敷、家財は闕所。 火罪(かざい):公開処刑。引き廻しの上火あぶり、放火犯に対して行 われました。田畑、家屋敷、家財は闕所。 死罪(しざい):牢内で首を切る。様(ためし=土壇場に立たされて刀

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の試斬りにされる)が付加。田畑、家屋敷、家財は闕所。 1O両以上の盗賊や追いはぎに適用された。 下手人・解死人(げしゅにん・げしにん):牢内で首を切る。闕所、様 斬り、引廻しが付加されることはない。(現代でいう [傷害致死]のよ うなケースの場合に、この刑が科される) [身体刑] 刑が終われば即釈放されました。 敲(たたき):軽敲(けいたたき)と重敲(じゅうたたき)が有り、罪 人を裸にして体を押さえ、箒尻(ほうきじり)と呼ばれる杖を使って背 や肩、肘を打ちつけた刑罰です。箒尻は長さ6Oセンチくらいの竹の 棒に麻を巻きつけたもので、相当な痛みを与えたといいます。軽敲は 5O回、重敲は1OO回打ちつけました。重敲の場合は5O叩いたと ころでいったん中止して気付け薬を与え、打ち役も交代したそうです。 入墨(いれずみ):左上膊部に [腕廻し幅3分づつ2筋に入墨] 、(模 様は地域によって異なる。)場合により [敲] が付加される。 手鎖(てじょう・てぐさり):吟味中手鎖および過怠手鎖(3O日、5 O日、1OO日) 追放刑(場合により、 [敲] または [入墨の上、敲] が付加されること もある。) 遠島(えんとう):江戸の場合、伊豆七島(大島、八丈島、三宅島、新 島、神津島、御蔵島、利島)へ送る。のちに八丈島、三宅島、新島の 三島に限定。京、大坂、西国、中国の場合、薩摩、五島列島、隠岐、 壱岐、天草郡へ送る。田畑、家屋敷、家財は闕所。 重追放(じゅうついほう):武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下 総、常陸(ここまでで関八州)、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東 海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河及び現住国と犯罪地から追放。京都で 執行される場合は上記の他に河内、近江、丹波が加わる。田畑、家屋 敷、家財は闕所。 中追放(ちゅうついほう):武蔵、山城、大和、摂津、和泉、肥前、東 海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河および現住国と犯罪 地から追放。田畑、家屋敷が闕所。 軽追放(けいついほう): 江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、 日光道中および現住国と犯罪地から追放。田畑が闕所。 江戸十里四方払(えどじゅうりしほうばらい):日本橋から四方五里以  内立入禁止。在方の者は居住地の村も立入禁止。 江戸払(えどばらい):品川、板橋、千住、四ッ谷大木戸の内より追放。 所払(ところばらい):在方の者はその居村、江戸および市街地の者は、  その居町から追放。 門前払(もんぜんばらい):奉行所の門前から追い放つ。 [財産刑] 闕所(けっしょ):死罪など重罪の本刑に付加して科される財産の没収  刑。磔、火罪、獄門、死罪、重追放に対して田畑、家屋敷、家財が闕  所。中追放は田畑、家屋敷が、軽追放は田畑がそれぞれ闕所になった。  利欲にかかる犯罪では江戸十里四方追放や所払でも田畑、家屋敷が闕  所。 過料(かりょう):軽過料は銭3貫文/5貫文。 重過料は銭1貫文以  上、金2両/3両。 応分過料は身分に従い料する。 小間過料は家の間口の大きさに応じて科する。 村過料は村高に応じ  て科する。高1石につき銭2貫文程度。過料が納められない者には手  鎖で代えることもある。 [名誉刑 / 身分刑] 晒(さらし):日本橋で3日間公衆の面前に晒す。 奴(やっこ):女性のみに科される。 非人手下(ひにんてか):非人頭へ引き渡し非人とする。 役儀取上(やくぎとりあげ):名主、組頭等の免職。 叱(しかり):お上からの叱責。 急度叱(きっとしかり):叱の重いもの。叱、急度叱とも保証人連署の  請状を提出 [その他] 人足寄場(にんそくよせば):無宿人対策として、当初は佐渡の金山へ  送り、水替人足としたが、のち人足寄場が設けられ、無宿者を収容し  て労役を課した。 牢(ろう):牢は原則として未決囚を収容したが、[過怠牢] とか [永] (終身刑)という禁固刑が科されることもあった。  他に閉門(へいもん)、逼塞(ひっそく)、遠慮(えんりょ)、押込 (おしこめ)、戸〆(とじめ)、預(あずけ)、などがありました。

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[次郎長、和田島の文左衛門と津向の文吉の仲裁をする] 次郎長資料による  弘化2年(1845)、25歳の時、遠州川崎(牧之原市)での争いごとから 負傷し、傷を直して清水に帰って来ます。清水に戻った次郎長は、津向 (山梨県市川三郷町)の文吉と和田島(静岡市清水区)の文左衛門が庵 原川で対決していると聞き、これを仲裁し一段と侠客としての名声を高 める事となります。  その年の暮れ、次郎長は御油宿(豊川市)で賭博で捕らえられてしま い、中泉代官赤坂陣屋に入牢させられてしまいます。翌年の夏に判決が 下り、百敲き(重敲)に処されるのですが、1OO回敲かれても、平然 としていたために、監吏から刑が軽かったと云われ、もう1OO回敲か れた上放免されたと云われています。  弘化4年(1847)、27歳の時、親友で幼なじみの、江尻の大熊の妹、 [お蝶] と結婚し世帯を、清水仲町妙慶寺門前に持つのですが、すでに 子分等が1O人余りが逗留しており、やり繰りが大変だった様です。  嘉永3年(1850)、3O歳の時、八尾ケ獄宗七(後の保下田(ほげた)の 久六)を助勢し、一の宮久左衛門と争ったのですが、安政3年(1856)1 月に八尾ケ獄宗七と一の宮久左衛門との和解が成立しました。  安政3年(1856)3月3日、大和桃生山で寺銭のいざこざから寺役人を 殺害してしまい、近江草津の見請山謙太郎、福知山銀兵衛等を転々とす る事になってしまい、やっと安政5年(1858)1月、長い旅から清水に帰 る事が出来ました。  安政6年(1859)、甲州勝沼の祐天仙之助と江尻の大熊の間に争いが起 きてしまいます。次郎長と大熊は、祐天の親分である甲府の三井の卯吉 を斬殺します。この為役人に追われた次郎長はお蝶、子分等と共に瀬戸 の岡一の所に身を寄せるのですが、 [お蝶] が病に倒れてしまいます。  岡一の所にも永居は出来ぬため、名古屋の巾下(西区幅下)の長兵衛の 所に移ったのですが、12月晦日、帰らぬ人となってしまいます。 かって次郎長が親身になって世話をした保下田の久六(八尾ケ獄宗七) の密告によって、捕吏の手により長兵衛が捕えられて、牢死する事件が 起きます。その時次郎長もその場にいましたが、何とか長兵衛の機転で 逃げる事が出来、次郎長は寺津へ行き時を待ち、6月19日、久六を斬 り長兵衛の怨を晴らすのですが、捕吏の探索きびしく、次郎長は大政や 石松など子分を連れ、甲州、上州、信州、越後、加賀、越前さらに四国 と長い逃避行する事になってしまいます。途中、草津温泉ではインチキ 賭博で34O両を稼いだりしながら、旅を続けた様です。 [身延山久遠寺の決闘] 嘉永元年(1848)1O月11日から3日間、身延山久遠寺の秋の大祭が 行われました。久遠寺を縄張りとする甲州津向の文吉から誘いを受け、 次郎長以下お蝶、大政、森の石松、追分の三五郎、法印大五郎などが、 身延山に行くのです。  津向の文吉は縄張りの事で、吃(ども)安こと竹居安五郎と争い事にな り、次郎長は始め仲裁に入るつもりでしたが、吃安の子分がお蝶に手を 出した為に、次郎長側が文吉側に加勢し決闘となってしまいました。 決闘後、次郎長側は逃げ延びますが、文吉、吃安共に捕まり八丈島に 島流しになりました。文吉は八丈島流人帳に嘉永2年(1849)4月流罪、 明治2年(1869)5月赦免と記されています。  一方、吃安は嘉永3年(185O)1度は八丈島に流されるのですが、翌嘉 永4年(1851)新島に移されるのです。どうして移されたか定かでは有り ませんが喧嘩相手が同じ島に居ると云う事は、治安が保てなかったから でしょう。 吃安が新島に来て2年後の、嘉永6年(1853)6月8日深夜、七人の流 人と共に、島の名主を殺し、漁船を盗み、一番のこぎ手を脅し島抜けを 敢行、伊豆半島の網代(熱海市)に上陸に成功し、そして大場(三島市だ いば)の久八の所に逃げ込むのです。 網代にしても大場にしても、韮山代官江川太郎左衛門の采配地ですが 嘉永6年はペリーが黒船を率いて浦賀にやって来た年で、日本中が徳川 幕府始まって以来の大混乱の最中だったので、島ぬけどころの話では無 かったのです。  幕府は江戸湾防衛のため、江川太郎左衛門に台場を築かせたのです。 伊豆などから石を運び、品川御殿山の土砂を切り崩しての大工事で、そ の人夫頭に大場の久八を使ったのでした。  この様な状態でしたから、吃安は意外と簡単に甲州に戻り博徒を続け る事が出来たのでした。安政5年(1858)には、隣村の黒駒の勝蔵が子分 になったりしています。  幕府は指名手配者として吃安を追っかけてはいますが、逮捕は出来ず にいました。そこで幕府は、次郎長と同盟関係に有った、二足の草鞋の

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博徒、国分の三蔵こと高萩万次郎に協力を依頼、万延元年(186O)、吃安 を騙して捕らえ、文久2年(1862)9月6日、牢内で毒殺されてしまいま した。  なんと吃安は、島抜けから7年間も自由の身で有った訳で、吃安の死 後、次郎長の敵役の黒駒の勝蔵が甲州一の大親分として君臨するのでし た。  新島からの島抜けは、流刑の制度が整っていた約2OO年間に17回 有りましたが、16回は上陸前に捕まって失敗に終わっていますが、た だ1回の成功例が吃安こと竹居安五郎のグループだったのです。  身延山久遠寺の決闘の後、次郎長は運良く逃げ延び、博徒を続ける事 が出来ましたが、この時捕まっていましたら、島流しにあっていても不 思議では無かった事と思われます。 [次郎長と八尾ケ獄宗七(保下田久六)との争い] 安東文吉伝史料集より 尾張一の宮の久左衛門は、西尾張3郡に賭場持っている大親分で、河 渡(ごうど)の政右衛門、揚葉の蝶六、美濃の神田の豊吉、犬山の犬屋の 金十、上有知(こうち)の小左衛門、岐阜の弥太郎などと肩を双べて1、 2を争う大侠客です。  また知多半島に縄張りを持つ八尾ケ獄宗七と云う、元相撲取りの博奕 打ちがいました。  ある時、尾張一の宮の久左衛門と八尾ケ獄宗七との間に縄張り関係の 事での争いが起こりました。八尾ケ獄宗七は、次郎長に加勢を頼み、八 尾ケ獄宗七側は、宗七の子分等4O余人と、次郎長及び子分等1O人の、 合わせて5O余人が、一の宮久左衛門宅へ夜襲ちを掛けましたが、一の 宮久左衛門側は、以前より用心がして有りましたから、八尾ケ獄宗七側 の負けで終わりました。  八尾ケ獄宗七、次郎長共に尾張を出奔して東海道を駿河へ逃げて、八 尾ケ獄宗七は城之腰(焼津市)の甲州屋長吉方へ落付き、また次郎長は清 水へ逃げ帰り、時を待ちました。 駿州城之腰(焼津市)の甲州屋長吉は、生まれは甲州甲府の者で、国で 何か間違いを起こして、人を斬って駿府へ逃げて来て、安東の文吉の子 分になっている内に、見所が有ると云われて城之腰の賭場をあてられて、 甲州屋長吉で売り出し、中々の顔役になっていました。 八尾ヶ嶽宗七は、城之腰の甲州屋長吉と兄弟分の杯をして後援者を作 り、次郎長は専らの勢力に頼って人数を増し、以前にも増して大勢で、 再び尾張の一の宮の久左衛門と喧嘩に挑んだのですが、又も大負けして しまいました。その負け方が甚しい負け方で、宗七は甲州路へ落ちて姿 を隠し、次郎長も命からがら清水へ逃げて来て、隠れていました。  安政3年(1856)1月、一の宮の久左衛門と八尾ヶ嶽宗七、次郎長との 和解が出来ました。これで宗七も名が広く伝わり、名前を改めて保下田 の久六と名乗って売り出し、短い時の間に大親分となり、尾張様の十手 を預るまでになりました。兄弟分には、常行(とこなめ)の哲太郎、大場 の久八、大前田の英五郎、大阪の水浅葱(みずあさぎ)の中吉、伊豆の本 郷の赤鬼の金平、城之腰の甲州屋の長吉、清水の次郎長、等で日本の中 枢で巾を利していました。 一方の次郎長は、保下田の久六が売り出したのに反して極端に景気が 悪く、永年の旅生活から故郷清水港へ帰って見れば周りは、焼津の平五 郎、城之腰の甲州屋、藤枝の長楽寺清兵衛、南荒屋の清右衛門、丸子の 菊石虎(あばとら)、安東の文吉、安東屋辰五郎、江尻の紺久、和田島の 竹、興津の千代蔵(ちよくら)の栄助、蒲原の平野屋、岩淵の源七、等々 でありました。 大小の親分が雨後の筍のように出て来て、清水の猫の額大の土地では 手も足も出ないので、ボンヤリしていると、運の悪い時は悪いもので、 安政6年(1859)正月6日、甲州の総親分で有る有名な、甲府の三井の卯 吉が何者かに暗殺されたのです。これが大騒ぎとなり、お上では下手人 として、勝沼の祐天仙之助か、清水の次郎長だろうと云う考えがあって 2人へ目を付け始めた。 (これは平常の行状善からざる為め) 兎も角2 人を召し捕って一応調べて見ようとあった。早速手を廻して捕手が向か ったと云います。  勝沼の祐天仙之助は京都方面へ出奔し、次郎長も夜に紛れて名古屋へ 出奔しました。名古屋在の瀬戸へ来て瀬戸の岡一と云う親分の世話にな っていると、お蝶が病気になってしまい、当時瀬戸では、良い医者も薬 もなく、又無一文になってしまい見かねた犬山城主の部屋頭の鬼若の駒 吉が、仲に入って保下田の久六に話を持って行くのですが、善い返事を しないのです。困っている所へ名古屋の巾下(西区幅下)の長兵衛が面 倒みようと云ったので、長兵衛の所に転がり込んでいたのですが、不幸 にも次郎長の女房のお蝶は、翌年の正月元日の朝、死んでしまいました。

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 次郎長は、瀬戸の岡一、鬼若の駒吉、名古屋の長兵衛、等に世話にな り何とか葬儀だけは出しますが、一文無しを見かねて保下田の久六が、 十手を預かる身で、三井の宇吉事件で目標になっている者を、かばう訳 にはいかぬのだが、今はその詮議も少しは薄くなったので、折りもよし として次郎長を引き取ったのです。 しかしそれからは、以前の保下田の久六とは違い双方、何となく白け ている所へ、次郎長の子分の石松が「親分どうも久六の奴油断が出来ね ー、いつ御用と十手を喰わせるか解らねーぜ、」と云い出して、終いに は話が進んて、「久六は、死んだお蝶さんと姦通していた、」と迄云っ たのです。 これを聞いた次郎長大いに怒り、殺意を固めて時期を待っていました 或る晩の事、保下田の久六は妾と2人で涼み台で晩酌を (表通りの街道 の端で) 一杯やって楽しんでいました。そのうちに妾が1人立って用を 足しに宅に戻ったのです。久六は只1人で涼み台の上へ横になって寝て 油断をしていました。それを見澄まして、次郎長、石松、大政、小政、 の4人で不意に斬り倒して何れかに逃亡したのでした。  程経てからこの事を発見した、保下田の久六の子分等、大いに驚き八 方手分けして探すのでしたが、すでに遅かったのです。 次郎長、保下田の久六を斬って逃げた、との連絡を受けた久六の兄弟 分の、信州常行(とこなめ)の兵太郎は、早速子分を連れて名古屋へ向か いました。大阪の水浅葱の中吉も飛んで来て、次郎長の行方を探します。 上州の大前田の英五郎は子分3O人を選抜して名古屋に向かいました。 館林の江戸屋虎五郎は、腕利き1O余名で関東より道々次郎長を探し乍 ら南下し、大場の久八は疾風の如く箱根と甲州街道を塞いで、東北に走 する事を拒み、伊豆の大親分本郷の赤鬼の金平は、大場の久八、下田の 弁天の安太郎、等々通して与力方を依頼し、自らは、子分4O余人と船 3艘に分乗させて、直行して清水港へ押し寄せました。  大将赤鬼の金平は、伊豆の鬼と言われた男で、身に黒革縅(おどし)の 甲冑(かっちゅう)を着け、子分も皆半具足で身を堅めて、槍、長刀を 持っているのでまるで戦争の様な騒ぎで有った様です。 これを望観した次郎長は驚いて、すぐ身を隠しました。 赤鬼の金平は、清水へ上陸して方々を探しましたが、相手の次郎長が がいないので、行列をして清水の市中を練り歩き、充分示威運動をして から、その翌日海上から伊豆へ引き上げたと云う事です。この滑稽なる 行動を大騒ぎして見た気の早い者は、戦争が始まるなどと騒いだと云う 事でした。  保下田の久六の子分、八万騎の力蔵、等3O余人は一気に、城之腰の 甲州屋長吉方へ来て、そこから毎日15人づつを交代で、八方へ手配し て、清水港を中心に、虱つぶしに次郎長を探しましたが、手掛りが掴か め無かったのです。  一方次郎長は、逃げ隠れする場所を探し、やっと押切(静岡市清水区) の、大畑定吉の所へ逃げ込みましたが、数日滞在してもどうにもならず、 安東文吉の子分の、柳新田(静岡市葵区)の政蔵に、仲裁を安東文吉に 頼んで呉れるよう要請するのです。  要請を受けた安東文吉はこれを引き受けて、柳新田の政蔵を交渉役に して、城之腰の甲州屋長吉方へ行かせ、保下田の久六の子分等と交渉を し、まず久六の子分等を尾張に帰しました。  その後数回の交渉を重ねて、仲人には堀越の藤左衛門、森の五郎八、 藤枝の長楽寺の清兵衛、の3人が決まり、安東文吉が、この3人と交渉 をして、次郎長にも異存が無い事を確かめてから、久六身内に通知した したのです。久六身内側も喜んで、城之腰の甲州屋長吉方へ飛んで来ま した。  堀越の藤左衛門、森の五郎八、藤枝の長楽寺の清兵衛、安東の文吉の 顔役が、揃って甲州屋方で、久六の身内代表八万騎の力蔵以下6人と、 最後の交渉を始め、金子15O両を、保下田の久六の石塔料として贈り、 久六の身内は、これを土産にして帰る事に決め、以後次郎長とも交際の 出来ることにして引き上げさせました。

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[石松金比羅代参に行く] 次郎長資料による  万延1年(186O)、久六の制裁を果たし、石松を四国の金比羅神社へ代 参に行かせます。石松は清水への帰途草津身請山の鎌太郎のもとを訪れ、 鎌太郎からお蝶の葬儀の際に届けられなかった香典25両を託され、遠 州笠井の寺島一家を訪れた際、懐の25両を都田の吉兵衛兄弟にだまし 取られた上、斬殺されてしまいます。この年の6月、次郎長一家、梅蔭 寺住職宏田和尚のふるまったフグに当たり、角太郎、喜三郎が死亡して しまいます。  文久1年(1861)、都田の吉兵衛は次郎長一家がフグ毒で倒れていると 聞き、石松斬殺の報復を恐れていたため、チャンスとばかり逆襲を企て、 徒9人を引き連れ清水に向いました。いち早く吉兵衛らの清水入りを知 った次郎長は大政、小政、相撲常、清吉らと共に、都田吉兵衛らが追分 (静岡市清水区追分)で昼食をとっているところを襲い、吉兵衛を討ち取 り石松の怨を晴らすのでした。 [寺島(都田)一家の事]  都田の源八は寛政の末年頃都田村新木(浜松市都田町)の旧家鈴木惣重 の次男に生れ、若いころから博徒になって、旅に出るのです。文政十年 (1827)頃、若い女を連れて都田に帰ってきたので、鈴木家では源八のた めに家を建ててやったりしましたが、身内の人達に遠慮して、近くの山 小屋に住み、そこで連れて来た若い女が、長男吉兵衛、次男常吉、3男 梅吉の3人を産みました。天保八年(1837)浜北市寺島の寺島一家2代目 大村藤助の死後、女房と子供の吉兵衛、常吉、梅吉を連れて大村家と寺 島一家の跡目を継ぎ、寺島一家3代目になりました。 天保1O年(1839)頃、信州早木戸の権蔵が、都田の源八の守場所であ る秋葉神社の高市に、無断で賭場を敷いた事から、権蔵を信州早木戸で 殺し、天保1O年7月1日、早木戸の権蔵の兄弟分の、信州南和田の伊 之助とその若衆らに、寺島の近くの地蔵堂の賭場に殴込みを掛けられ源 八は殺されてしまいます。 都田の吉兵衛は、文政11年(1828)、都田の源八の長男として都田で 生れる。幼名は鈴木浅之助。都田の源八の没後寺島一家4代目になりま した。文久元年(1861)1月15日、江尻の追分で清水一家によって殺さ れてしまいます。吉兵衛の兄弟分には本郷の金平、本市場の金七、江尻 の大熊、などがいました。  都田の常吉こと大村常吉は、都田の源八の次男で、吉兵衛の実弟。吉 兵衛死後、寺島一家5代目の跡目を継ぐが、1年数ヶ月後3O代の若さ で亡くなりました。 都田の梅吉は、都田の源八の3男で吉兵衛の実弟。常吉の没後寺島一家 5代目の跡目を継ぎますが、文久元年7月21日、本沢の為五郎こと鈴 木為吉を殺す。文久3年3月12日、本沢の為五郎の実弟、為蔵こと鈴 木爲蔵らに殺されます。  親の源八と吉兵衛、常吉、梅吉の三兄弟は、いずれも3O代の若さで 亡くなりました。 [次郎長と都田の吉兵衛との争い] 安東文吉伝史料集より 都田の源八の長男で、都田の源八の浅之助、又の名を横須賀の吉兵衛 とも、又は都田の源八の浅之助の吉兵衛とも云う長い名前の持ち主で、 幼少の時紺屋職人に弟子入りして、浅之助と云いましたが、元服して吉 兵衛と云いました。 (以下吉兵衛と称す。)  遠州横須賀3万5千石の城下町で、売り出し中の吉兵衛は、父の源八 が旅の途中に横死してから、一時身を隠して足袋職人 (一説には紺屋職 人) になっていましたが、父の覇気を受けて、小成に満足せず、寺島一 家の後を継ぎ、寺島一家の4代目になって、侠客の群に投じてからニョ キニョキと頭を上げて、横須賀を中心に東に相良町、川崎町から大井川、 西は福田、掛塚と天竜川に及び、堂山の鬼の龍五郎や相良の富五郎の賭 場を併せ持つ強勢になっていました。兄弟分には、伊豆の赤鬼の金平、 本市場の金七、等が有りました。 吉兵衛は、東海道を上り下りの時、安東の文吉の所へ、始終立ち寄っ ていました。傍目では、安東の兄弟とは、兄弟分の杯でもして有るよう に云われていました。その上に駿府在の柳新田(静岡市葵区)の坊主音、 江尻追分の沼繁(静岡市清水区追分)の、2人の子分も出来て大分評判 も良かったのです。  都田の吉兵衛の池新田の賭場を、次郎長の子分の石松等2、3人が荒 らして、都田の吉兵衛の子分に袋叩きにあって帰った事がありました。  これを聞いた次郎長の子分2、3人が、仕返しだと云って、都田の吉 兵衛の池新田の賭場をまた荒らしたのですが、都田の吉兵衛の子分が、

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怒って直ちに逆襲し、石松始め多くの子分を袋叩きにしてしまうのです。 このような事が数度重なったのですが、子分同士は知らぬ顔でいました が、石松はこの時の傷が元で病死してしまいます。  この様な事から次郎長側と都田の吉兵衛側とは一時険悪に成ってしま いますが、安東文吉が仲に入って一旦は納まりました。  文久元年正月、吉兵衛が子分を連れ、安東文吉に年始の挨拶をすませ、 子分の柳新田の坊主音に寄って、坊主音を連れ、同じく子分の追分の沼 繁の宅へ来ました。この沼繁は沼上 (静岡市葵区沼上)の出身で、吉兵 衛の代貸しをしていて、相当の顔役でした。ここで吉兵衛等は一杯やっ て、次郎長の所へ年賀の挨拶に行ったのですが、この沼繁宅に2ヶ月前 より草鞋をぬいでいた、甲州生まれの無宿人で馬麻国と云う者が厄介に なっていました。この男、何を思ったのか先回りし、次郎長に嘘の報告 をするのです。 「お前さんは何も知らねーが、横須賀の都田の吉兵衛が、只今、子分4、 5O人引き連れて江尻から清水へ、網をはったように取り巻いて、不意 に切り込む手段だが、表は年始と云うふれ込みで、1、2人の子分を連 れて、親分の様子を見に来るが、決して油断は出来やせんぜ。」と云っ たのです。次郎長は「それで今、源八の吉兵衛はどこにいる。」馬麻国 答えて「沼繁の所だ!」「それは有難い、御礼はいずれ後でする、今日 はこれで分かれるが、、」と云って馬麻国と別れた。  甲州の馬麻国ヤレヤレ今日は面白い、お芝居が見られると喜んでいる。  源八の吉兵衛は、そんな事とは知らず、国から連れて来た子分と坊主 音を連れて、堂々と次郎長宅へ年始に来たが、次郎長は留守で、留守宅 には、耳の遠い老婆が1人いて、他に猫の子1匹いない。何を云っても 分けが解らないが、年賀の儀を述べて、年始届を置いて帰って来た。少 し変だと思ったが、それが馬麻国の反逆からの出来事とは考え付かなか った。  兎も角次郎長が帰って来れば解るだろうと思って、縁起直しに又1杯 と云って、又酒宴を始めました。今度は奥の1O畳の間に座を移して、 今年から清水の次郎長とも仲が直って、これからは安心で目出度いと、 大いに気勢をを上げて騒いでいました。しかし侠客仲間では、こう云う 場合腰の物や刃物は、皆戸棚や押し入れに入れて置くのが習わしですか ら、吉兵衛等は、皆腰の物を背後の戸棚へ入れて置きました。 その戸棚の前で、呑めや騒げと大酒宴を始めていました。表に向かっ て正面が吉兵衛、右と左が沼繁の女房と妾で、国から来た子分と沼繁と 坊主音の3人は並んで、親分に向かい合って呑んでいました。  この酒宴も十分興に入って、皆々十分酩酊して宴もたけなわの、時刻 が、未の刻下がり(約午後3時頃)になろうとする時、不意に表裏に現れ た6人の凶漢、表より4人、裏口より2人、充分に身支度をして、鉢巻 き、手っ甲、脚絆、2枚草鞋、に長脇差し、竹槍、を揃えて次郎長先頭 に立ちました。大きな声で「やい横須賀の吉兵衛、よくも計略を掛けた なその手は喰わねー、野郎覚えていろ。」と云い乍ら、次郎長真っ先に 立って、表口から奥へ殺到して、竹槍で突っついて掛かって来たのです。 表と奥の間との中間にあった、衝立てを打倒して、4本の竹槍を揃えて 電光の如く突いて来ます。横須賀の吉兵衛の一党は、呆れている間も無 く、次郎長自ら吉兵衛へ突いて掛かったのです。  これを見た坊主音、「野郎!」と云いながら飛び込んで、次郎長の槍 を掴んで、グイと引き寄せて、次郎長の手首へ食いついた。  次郎長、「痛てー、、」と云って槍を放す所を、グイと奪って取って、 反対に次郎長に、突いていったのです。次郎長狼狽え乍ら、「野郎、」 と云って長脇差しを抜いて立ち向かいました。大政、小政等も「この野 郎生意気だ、、」と云って、左右から坊主音を取り巻いたのです。  沼繁も手当たり次第に投げつけました。この場に有った、土瓶、鉄瓶、 徳利、杯洗、皿、小鉢、硯蓋、座布団、何でも片っ端から取って投げた のです。最後に投げる物が、無くなり自分の身体で飛びついて行き、八 五郎にぶつかり、武者振り付いて上から下りる。両人死力を出して、揉 み合っています。吉兵衛の子分達はこれは大変と、早速傍に有った戸締 まり棒を握って、吉兵衛を背後から庇って、立ち向いました。  吉兵衛は、夢中で裏口から逃れようとしましたが、次郎長、これを見 て、坊主音を捨て置き、吉兵衛に迫ったのです。吉兵衛は身を飛び出し て、座敷から中庭に出る所を、先に裏口に廻っていた、次郎長子分2人 に竹槍をつけられました。吉兵衛ハッと立ち止まったのです。  これを見た小政が、竹槍を捨て、長脇差しを抜いて、横合いからハッ と斬り付けました。吉兵衛はこれまでと覚悟して、念仏を唱える如く南 無阿弥陀仏と唱え出して「南無阿、」と3声聞いた時に、小政の2つの 大刀で斬られて倒れてしまいました。吉兵衛の子分も戸締まり棒で戦い ましたが、足をズタズタに斬られて倒れてしまいました。  これを見た、沼繁、坊主音の両人今はこれ迄と思い、死力を出して一

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方の血路を開いて表へ走りだして、東海道を西へと駈け出し、各自は2、 3カ所の手傷を負っていましたが、死力を尽くして、安東の文吉の宅へ 駆け込んだのです。  その時文吉は丁度留守だったのですが、その場に居合わせた、仏の勇 蔵、安西の悪吉の吉五郎、信州屋源次郎始め多くの子分等が、沼繁宅へ 駆けつけましたが、時すでに遅く、次郎長等が吉兵衛の死骸や、吉兵衛 の子分の死骸を、ズタズタに切って細かにして、6人で担いで有度山に 捨てた後でした。  沼繁は、その時の負傷が原因で2、3年後病死しました。坊主音は、 親分なしでブラブラとして、遊び人仲間に入って行きした。 [黒駒の勝蔵の事] 黒駒の勝蔵こと小池勝蔵は、天保元年(183O)黒駒村若宮(山梨県御坂 町黒駒)の名主吉右衛門の次男に生れ25歳で渡世人となりました。弘 化4年(1847)8月5日甲州金川河原に於いて、祐天の仙之助と出入りと なり、黒駒方の瑠璃光院の鬼勝と遠州堂山の竜五郎の子分だつた三州の 理吉が、祐天方の小室井の藤三郎の子分堀の内の嘉吉、佐渡の金堀人足 の銀次、作蔵、三代太の6人が討死しました。この喧嘩が終ると、勝蔵 は国を売る事となり、安東の文吉の弟分の二軒茶屋の庄五郎に頼み、文 吉に紹介して貰らいました。文吉は選別5O両に手紙を付けて勝蔵を、 濃州上有知の小左衛門に紹介しました。小左衛門のところに寄食してい る時、袋井宿の部屋頭四角山周吉を斬ってしまい美濃に逃れて来て、堀 越の藤左衛門と懇意になり藤左衛門を弟分にしました。安政5年(1858) 隣村に住む吃安 (どもやす) こと竹居安五郎の子分となります。文久2 年(1862)、安五郎が獄死した後は、甲州一の大親分として勇名を関八州 に轟かせました。やがて倒幕思想に基づき、甲府城占領計画などを画策 しますが、慶応4年(1868)黒駒一家を解散、池田勝馬と名を改め、赤報 隊に入隊し官軍側について戊辰戦争に参加しました。  明治4年、明治政府の手により山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で 斬首にさせられました。 [黒駒の勝藏の悪行] 次郎長資料による  文久2年(1862)、勢力を伸ばしていた甲州黒駒の勝蔵ら一味は、興津 の盛之助に乱暴をするなどの悪事を働いた為め追われる事となり、遠州 に逃れた勝蔵を捕らえるべく、中泉番所(現磐田市)は大和田の友蔵に依 頼し、加勢した次郎長は勝蔵を甲州に追いやってしまいます。  慶応1年(1865)、宿敵とも言える黒駒の勝蔵が山岳地帯から富士川、 天竜川を筏に乗って下ってくる機動力に対抗するために、縄張り外を転 戦する戦闘集団 [清水二十八人衆] を結成して対抗します。  黒駒の勝蔵と兄弟分の雲風亀吉 (くもかぜかめきち) との2度に渡る 三河の抗争は [平井村(小坂井町)の役] と呼ばれ、博徒抗争史上かつて ないほどの殺戮戦だったと云います。 [荒神山の決闘] 次郎長資料による  慶応2年(1866)、伊勢の神戸(鈴鹿市神戸)の長吉(かんべのながきち) が寺津の間之助をたずねて、「伊勢の荒神山観音寺の縄張りを、穴太徳 (あのうとく)に取られ、取り返したいから助っ人をお願いしたい」と、 助力を頼みに来ました。間之助は高齢のために自分の代わりに吉良の仁 吉を助っ人として派遣することを決めました。  すなわち神戸の長吉に対する義理で、吉良の仁吉28歳の時です。話 が少しややこしくなりますが、喧嘩相手の穴太徳、穴太(三重県東員町 穴太)の徳次郎の妹が仁吉の女房のお菊であった。喧嘩が始まれば仁吉 は女房の兄の穴太徳を義理の兄として、加勢するのが当然の人情でした が、仁吉は義理を選ぶか人情を重んじるかの板挟みになってしまいます が、しかし、渡世の社会で生きる仁吉は義理を選択し女房と離縁し、間 之助親分の命の神戸の長吉の加勢に行く決断をします。  東海道を名古屋まで収めた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが、こ の年で大政(山本政五郎)が率いる戦闘集団と、甲斐信濃制圧に転戦する 大瀬半五郎の別働隊を寺津で合流させて、吉良仁吉を大将にして4月8 日、荒神山にて穴太徳・黒駒の徒13O人余を相手に、吉良の仁吉や大 政など清水の一党ら5O人が血闘をし、大政が首魁の穴太徳の弟分の門 之助を倒したが、仁吉、法印大五郎らが討死してしまいます。荒神山は 観音寺の山号で、寺は平地に位置しています。

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次郎長は憤慨し報復として千石船2隻に手勢48O人、銃4O丁、槍 17O幹、米9O俵を乗せた戦略艦隊で伊勢に上陸し、穴太徳と、その バックにいた丹波屋伝兵衛を屈服させます。この時の武器調達は、上州 田中一家の2代目を勤めていた田中の敬次郎でした。 この年12月O5日、徳川慶喜征夷大将軍になり、 慶応3年(1867) 1O月15日、大政奉還になります。 [清水の次郎長と黒駒の勝藏との争い] 安東文吉伝史料集より 駿東、富士の2郡の親分には、本市場の金七、宮島の年蔵、森島の重 蔵、の3人がいました。この3人の大親分は、吉原の金平でありました が、金平の跡目は、本市場の金七が続けていました。3人共黒駒の勝藏 の兄弟分でありました。  黒駒の勝藏と遠州の堀越の藤左衛門とは美濃上有知の小右衛門の所で 義を結んで兄弟分の杯をしていました。次郎長はすでに小金井の小次郎 と義を結んでいる。  この義を結ぶとか、杯をすると云う事は、軍事同盟を結んだ事ですか ら、何かの時に出動要請が有れば、助っ人として必ず、出掛けると義務 が生じる事に成ります。  黒駒の勝藏の子分の大岩、小岩、等7人者が、堀越の藤左衛門の所か ら帰国の途中、掛川宿の出入り口辺りで、次郎長の子分2、3名とバッ タリ出会って、何か2言3言云い合う中に、平常から余り好感を持って 持っていなかった連中でしたから、たちまち抜き合いの喧嘩になったし まい、次郎長の子分等が散々に負けて、手傷を負って逃げてしまいまし た。次郎長これを聞いて残念に思っていました。  翌々年、今度は勝藏の子分の、大岩、小岩、等13人が、中泉の堀越 の藤左衛門の所へ行く時、今や日坂の険路へ掛かった途中で、次郎長の 子分、大政、小政、等15人の外に大和田の友蔵の子分4人、と浜松の 国領屋の子分3人が、合同して、前と後の2手より現れて、黒駒の子分 を攻撃した。  黒駒方もかねてより用心していた事で、更に驚かず応戦した。しかし 地の利を得ず、小勢だった事と不意をつかれた事で、黒駒方が危なく見 えたる所へ、通り掛かりで仲裁に現れたのが、岩渕の庄右衛門と小川の 梅吉の両人であった。「まあまあ、待った。」と庄右衛門、梅吉の両人 が仲へ入って、その喧嘩は一旦は中直りとなりました。  この時仲裁に入った、岩渕の庄右衛門は、岩渕の源七の跡を受け継い だ親分で、小川の梅吉は、関東の小川の幸八の弟です。小川幸八は、武 州北多摩郡が地元で、小金井の小次郎は、年中小川の幸八に押されて、 旅に出ていました。  小川の幸八と岩渕の庄右衛門とは兄弟分で、その縁に頼って小川の梅 吉は年中岩渕に来て遊んでいました。 [清水次郎長 黒駒の勝蔵と富士川で喧嘩す] 安東文吉伝史料集より 黒駒身内と清水身内の喧嘩は岩渕の庄右衛門、小川梅吉の仲裁で、一 旦は納まったものの、それは外面であって、双方共に喧嘩は3度の飯よ り好きな連中でありますから、その後も何のかんのと小競り合いの喧嘩 が続き、終いには遂に親分同士が承知しなくなり、双方喧嘩状を突きつ けて、日を定めて富士川の河原で喧嘩をしようと一決したのです。  次郎長方では大政、小政、等85人を引き連れて、3手に分かれて勢 力を構えて機を待っていました。中堅の次郎長は自ら水神の森にとって 敵を待っていました。  黒駒方は兄弟分の、本市場の金七、森島の重吉、宮島の年蔵、等と共 に、子分5O余人を引き連れて、竹槍を持って先頭は進み、次郎長を目 がけて寄って掛かったのですが、次郎長は自ら手を下さず、大勢で包囲 して掛かり、黒駒方を引き包んで掛かったのです。多勢に無勢黒駒方が 敗色が濃くなったその時、後れて馳せ参じた黒駒の兄弟衆の、鰍沢の乞 食の英三郎、戸田の権右衛門、お店の常太郎、勝沼の三蔵、身延の豊五 郎、等5人が鰍沢の英五郎の宅から船を出して、一気に富士川を下って、 水神の森に着くと、今や黒駒が苦戦の所だったのです。  これを見た栄五郎等5人が、次郎長方の後方に回って、背面からワッ ト喚声を上げて、清水方へ斬って入ったのです。清水方は不意を付かれ たために、大いに驚き散々に負けて逃げだし、蜘蛛の子を散らした様に なってしまいました。次郎長は命からがら横割村の成安寺へ隠れてやっ との思いで命だけは助かりました。  後年、次郎長は、横割村の成安寺に報恩の額を上げた、と伝えられて います。

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[黒駒の勝蔵 岩渕の庄右衛門を斬る] 安東文吉伝史料集より 岩渕の源七の跡目は庄右衛門が継いでいました。賭場は庵原、富士、 駿東の1部と甲州の1部へも食い込んで勢い旭の如くで、又兄弟分には、 関東の小川の幸八なども有って、中々の大親分で有った様です。その頃 その付近には東の大場の久八、沼津の菊池、本市場の金七、森島の繁蔵、 宮島の年蔵、蒲原の平野屋の三平、興津の千代蔵の栄助、江尻の紺久、 和田島の竹、等の親分がいて、江尻以東は盛大で有りましたが、独り清 水港は、安東の辰五郎の取り締まりが厳しく、次郎長は年中旅へ出て居 り、清水では盛んで無かったのです。  すでに黒駒の勝蔵は清水の次郎長と、和解の後で有ったのですが、黒 駒の子分で、鬼角、板東の勝蔵、板東の新助、八角の松五郎、等7、8 人で、中泉の堀越の藤左衛門の賭場で遊んでいる時、次郎長の子分が1 2、3人が不意をついてこれを襲撃したのです。黒駒の方は不意を付か れて敗北してしまいました。  黒駒の子分等は、散々の体で逃げて来て、岩渕の庄右衛門方で身を隠 して貰っていました。それは岩渕の庄右衛門へは次郎長が手を付け得ぬ と見たからであります。  その中で鬼角、板東の勝蔵、板東の新助、八角の松五郎、等4、5人 は中々の重傷で有りましたから、岩渕方に世話に成って傷の養生をして いました。それが縁となって、甲州から駿遠2国へ往来する度に岩渕に 寄って仁義を交わしていました。その中に不祥事が起きてしまうのです。 それは意外にも黒駒の子分の板東の新助が、庄右衛門の妻に不義の姦通 をしたのでした。  それを庄右衛門が気づき、庄右衛門無念を堪えて忍んでいましたが、 或る時黒駒の子分共が、皆甲州へ引き上げて板東の新助のみ只1人奥の 間に残っていたのです。これを見た庄右衛門が、夜の更けるのを待って、 子分2、3人と共に板東の新助を富士川の河原に担ぎ出して、不義姦通 の罪を白状させて、新助の首を刎ねその死体を富士川に流してしまうの でした。  黒駒の勝蔵これを聞いて怒ったが、むやみに手が出せない (小川の梅 吉がいるので。) それから2、3年位経って小川の幸八が、武州小金井 の小次郎と悶着が始まったと云うので、小川の梅吉が関東へ帰ったので す。  これを知った黒駒の勝蔵、鬼角、板東の勝蔵、竹居の新五郎、吉田の 仙吉、等1O数名で夜半に富士川を船で下り、岩渕に上がって、庄右衛 門の様子を伺いながら誰も居ないのを確かめて、大勢で闇入りして遂に、 庄右衛門夫婦と子供2人を縄でぐるぐる巻にくくって、富士川の河原に 担ぎ出したのです。黒駒の勝蔵が、 勝蔵 「板東の新助を殺したのは誰だ、さあ云え、、」  と問いかけると、庄右衛門口を開いてあざ笑いながら、 庄  「ベラボウめ、不義した野郎の1人や2人斬るのは、人手は借り     ねー、俺1人で斬った。さあスッパリ斬れ、どうせこの商売じ     ゃー剣の下で死ぬのは覚悟だ、スッパリやれ。」  と云った。 勝蔵 「ウム善い覚悟だ、その心意気に感じて、女房子供はこの黒駒が     立派に引き取って育ててやるから成仏しろ。」  と云って庄右衛門の首を刎ねた。  これを伝え聞いた小川の幸八、小川の梅吉の兄弟大いに怒り、子分を 集めて甲州へ乗り込むというので、黒駒の勝蔵青くなって驚き、八方手 を尽くして、やっと和議が成立致しました。  黒駒の勝蔵は、岩渕が手に入って、甲州への出入りが自由になりまし た。次郎長は、これを聞いてこれ又青くなって、小さくなっていたと云 う事です。 岩淵は現在富士川市岩淵で、東海道の宿場に1つです。富士川の右岸 にあり、富士川を利用して、甲州との重要な交通の拠点でした。 [清水の次郎長 黒駒の勝蔵再び喧嘩す] 安東文吉伝史料集より 黒駒の勝蔵、岩渕の庄右衛門を斬って、甲駿の要路を得る事が出来ま したが、東は沼津の菊池の坂五郎、駿府には安東兄弟があり。一挙に清 水の次郎長を倒す事は、駿州では難しく思い、手を延ばして遠州に誘い 出して逆襲して呉れようと考え、東部の事は宮島の年蔵、本市場の金七、 等に任せてから、自分は中泉の堀越の藤左衛門と打ち合わせ、遠州へ出 る用意をしました。  あとは信州の根津の萬蔵親分に頼んで、子分の八角の松五郎、川口の 重蔵、吉田の仙太の三人を連れて鰍沢の英五郎始め戸田の権右衛門、お 店の市太郎、勝沼の三蔵、身延の豊五郎、を始め5O余人を集め、甲州

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巨摩郡茨沢村の市川文作の所から、3千両の金を拝借して準備を調えま した。  信州の金沢から山越えをして、伊那の郡の河島に出て、青崩峠の切所 を越して、水窪から西に渡り、次に秋葉山の峯を越して、周智郡森町へ 出て、その夜は大黒石へ1泊し、次郎長の兄弟分の、大和田の友蔵の所 へ喧嘩状を送って、次郎長と油山の薬師堂の広場で、果たし合いをしよ うと連絡したのです。 解説:金沢は現在の茅野市金沢で、ここから山越えをして、現在の国道 152線(杖突街道)に出て、南下し、高遠町、長谷村、大鹿村、上村、 南信濃村から青崩峠を越し、遠州(静岡県)に入って水窪、春野(共に 現浜松市)を通って森町まで、直線距離で約13Okmあります。  黒駒村(現在の御坂町)は甲府の東約1Okmで、金沢までの距離は 約6Okmになり、合計19Okmにもなります。これは直線距離です から山道ですと2OOkm以上を徒歩で歩いた事になります。  大和田の友蔵は、驚いて兄弟の荒石常吉、次郎長と3人で協議をして、 油山の薬師堂は止めて、天竜川の子安の森で、喧嘩しようと云って返事 をしたのです。黒駒の勝蔵は早速承知の旨を返事をしました。  約束の日が来て、黒駒の勝蔵は、5O余人の子分を連れて、子安の森 へ出て来て、次郎長来たれと待っていました。清水方も次郎長、大和田 の友蔵、荒石の常吉等が子分6O余人引き連れて、天竜川の子安の森に やって来ました。川上に陣取ったのが清水の組で、川下に陣取ったのが 黒駒の組でした。  黒駒勢は一気に清水方へ襲撃して、勝敗を決せんとするとき、中泉の 代官中山誠一郎様の追手の者が、御用、御用と来たので、双方共に退却 してしまいました。これは大和田の友蔵がとても勝ち目が無いと見て、 密かに御代官方へ手を廻して御用風を吹かせて、吹き散らしたのであり ました。  黒駒の勝蔵は、喧嘩に失敗して国へ帰る途を失い、三州へ落ち延びて、 平井の雲風の亀吉宅で様子を見ていると、そこへ大岩、小岩、勝沼の三 蔵、鰍沢の英五郎、子分等5、6人が尋ねて来て、黒駒と共に雲風の2 階に隠れていました。 次郎長は吉良の仁吉の家に来ていました。次郎長と勝藏の和解の為に 御油の源吉 (玉蔵とも云う) が奔走中でしたが、勝藏が雲風の家にいる のを次郎長等が見付けて、コッソリ吉良の仁吉に3O余人を付けて、刀、 鉄砲の用意をして、舟で平井村に上陸して乗り込んだのです。  勝藏は2階から飛び下りて、東に向かい川を泳いで向こう岸へ渡って 逃げてしまいました。大岩は飛び下りるさま2人を斬ったのですが、筒 先を見て「鉄砲だ、卑怯だ、」と騒いだが、「何こきゃーがる」と一発 で打たれてしまいました。  黒駒側15人の中、大岩、次郎吉、勘重、松太郎、種吉、5人の墓が 平井の常吉の墓と並んで、西小坂井沢のそばの塚にあるそうです。後に 雲風の亀吉は、吉良の仁吉へ仕返しに行って家を焼き払ってしまったと の事です。 [黒駒の勝蔵 清水の次郎長を追う] 安東文吉伝史料集より  黒駒の勝蔵、清水の次郎長互いに権を争っていたが、遂に黒駒の勝蔵 の勇猛は、次郎長を追い込んだのです。1勝1敗の如き勝敗も常に、黒 駒6分、清水4分の如き状態でありました。  黒駒の勝蔵、岩渕の庄右衛門を討ち取ってから、遂に甲駿出入りの自 由を得ていましたから、次郎長は油断が出来ない状態が続いていて、ま た甲州勝沼の祐天仙之助が、文久2年(1862)甲州から京都へ行き、京都 で山本仙之助と変名し、新徴組と云う幕府の浪人組へ入って、その翌年 江戸の千住で、元竹居の吃安の用心棒の桑原雷助一子の、大村辰雄の為 に殺されてから急に寂しくなっていました。  反して黒駒方は万事有利な進展をして、機を待つ事久し、時節到来と 察しました。  慶応2年(1866)6月、炎天の暑さを富士川の川風に吹かれながら、船 に乗って急流を下る黒駒の勝蔵始め6O余人の決死隊の子分、その矢を 射る如き早瀬を一気に海へ出て、田子の浦を左に見て、蒲原海岸へ上陸 し、そのまま清水港へ襲撃しました。これを聞いた次郎長、大いに驚き 大政、小政、外数名のその場にいた、子分を引き連れて、あわてふため いて、一目散に西へ西へと逃げ出したのです。  ソレ清水と黒駒の喧嘩だと、安東文吉に注進して知らせる者がありま したった。聞いた安東の文吉 文吉 「これはイケねー、この喧嘩止めろ、この喧嘩止めるには、黒駒

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    の勝蔵を引き留めるより外は手がない、誰でも駆けつけて行っ     て、黒駒の勝蔵を引き留めろ。」  と云った。ふと見ると清川の富五郎がいた。文吉は清川に向かって、 文吉 「お前早く行って、黒駒を止めてくれ、黒駒を押さえれば、次郎     長の方はどうでもなる、今から行っても途中では駄目だから何     でも早く、中泉の堀越の藤左衛門の所へ行っていて、黒駒の来     るのを先廻りして待って捕らえろ、黒駒は必ず堀越の所へ立ち     寄るから、その時捕らえろ、俺も後から行くから。早く早く」  と急き立て清川の富五郎を中泉へ飛ばした。  清川の富五郎は、一生懸命に馳せに馳せて、中泉の藤左衛門の処へ着 いて、その話をすると、堀越の藤左衛門が、 堀越 「ソーカそれはひと足遅いぞ、たった今黒駒の勝蔵が、俺の止め     るのも聞かず、今度はどうしても次郎長を首にすると云って、     何度止めても止まらず、袖を払って西へ飛び出して行ったばか     りだ、それは残念だったなー」 富  「誠にひと足違いで残念でした。実は安東が親分が大分心配して、     これこれだと云う、」  云うと堀越の藤左衛門も安東の親分を喜んで、 堀越 「それは有り難い、黒駒も安東の親分にそれ程迄に思って貰うと     は、男の冥利に叶ったと云うものだ。この堀越からも御礼を申     し上げます。どうぞ安東の親分にその旨云ってください。それ     で平井の雲風の亀吉の所へ足を留めはしないかと思う。」  と云ったので、 富  「そんなら急いで平井の雲風の親分の所へ行って見ましょう。」  と云って、そこを出て、清川の富五郎は、また足を急がせて、三州平 井の雲風の亀吉の親分の所へ行って、雲風の亀吉に会って、この事を話 すと、雲風もその親切を喜んで、 亀  「それは有り難い御厚志の扱い、誠にかたじけない、この雲風、     黒駒に代わって幾重にも御礼申し上げる。然し残念な事には、     黒駒は今大急ぎで立ち寄って、次郎長の跡を追って行ったばか     りだ。名古屋から伊勢路へ入ったか、それとも真っ直ぐに岐阜     から大垣を経て、京都へ登ったか、路順は分からないが今に分     かるだろうから、私が探って路を聞いて上げるから、長途の労 も有るだろうから、ひとまず私の所で草鞋の紐を解いて一休み     してはどうか。」  と云うので、清川富五郎はひとまず雲風の処で一服していた。  そんな事は知らない、安東の文吉は2、3日経過したら清川富五郎が 帰って来るだろうと待っていたが、清川が帰って来ない、4、5日した らと待っていたが、まだ来ない、鉄砲玉の使いで更々何の便りも無い。  変だと思って、新田の政蔵を呼んで、 文吉 「時に政蔵や、実はこうこうの次第で、清川を遠州の堀越の所へ     やったが、更々帰って来ない、お前一つ苦労だが堀越の所へ行     って様子を見て来て呉れ。」  と云うので、新田の政蔵がすぐさま、安東を飛び出して、堀越の藤右 衛門の所へ行って訳を聞く、こうこうだと云う、これ又三州へ行ったの で、これ又鉄砲玉の使いでした。  2人共幾日経過しても帰って来ぬので、安東の親分は訳が解らず、じ りじりしている処へ、やっと14、5日経ってから、のっそり帰って来 た。その報告が、狐を馬に乗せたような話で、次郎長は、上方に行った か、伊勢路へ行ったか解らないので、いずれその内には解るだろう位の 話であった。 [黒駒の勝藏 清水の次郎長 和解す] 安東文吉伝史料集より  黒駒の勝藏は清水の次郎長の跡を追って、堀越藤左衛門の云う事も聞 かず、雲風の亀吉の云う事も聞かず、又途中で待っていて意見して呉れ た、伊勢の山田の妙見寺の丹波屋の親分の云う事も聞かず、一生懸命清 水の次郎長の行方を、尋ねたが解らなかったため、東海道を美濃路へ迷 い込んで、岐阜に腰を据えて、清水の次郎長を尋ねたが、次郎長の行方 が解らない。それに黒駒の勝藏1OO余人の子分を引き連れているので 入費も掛かり、路用の金銀も無くなって来た。仕方なく伝手(つて)を求 めて官軍へ(京都にて朝士の募集が在ったのを幸いに朝士になった。)従 って西に上る事にしたのです。 名も池田数馬と改め、官軍の先鋒となり、禄高1万石の格式で子分百余 人を皆侍に仕立て上げ、羅紗服に軍刀、鉄砲を持ち、肩へ錦のひらひら を付けて、頭に長い髪の帽子を冠り、足並み揃えて威風堂々と東へ下っ た。その相棒となって東に下ったのは、新門の辰五郎であった。 新門の辰五郎も徳川15代公のお供をして、大阪にいる間に大政奉還

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