The Japan Academy NII-Electronic Library Service

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１私は日本学士院の本日の会合で、﹁台湾﹂について政治的な議論をするつもりではありません。むしろ国際法の観点から現在の﹁台湾﹂を見てみたいと思います。ただ歴史学者あるいは政治学者でもない私の﹁台湾﹂についての体系的知識は薄弱です。しかも今の私にとって﹁台湾﹂の過去、現在についての新しい勉強は望めません。しかしあえて申せば、今の日本で、私ほど﹁台湾﹂との個人的な深い関わりをもった人間は多くはないと思います。私の議論は体験的台湾論になりかねない、そのことを意識した上で現在の﹁台湾﹂の国際法上の地位を国際法の研究者としての立場から見てみたいと思います。

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２日本は日清戦争の結果、一八九五年︵明治二八年︶四月の下関条約によって清国から台湾の割譲を受けました。北白川宮の率いる日本軍が上陸、ほとんど無血で台北に入りました。このとき台北城門︵現在も北門として残る︶を開いたのが住民代表に推された若き辜顕栄、のちに台湾実業界の大御所になり、戦争末期、貴族院の勅選議員になりました。その息が辜振甫、辜寛敏の兄弟であり、弟の辜寛敏の子息に日本で著名な経済アナリストであるリチャード・クーがいます。その年、明治二八年六月に台北で施政式が行われ、台湾総督府が

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︵平成一八年一二月一二日提出︶

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設置されました。それからの日本の治世五〇年、この間の植民地﹁台湾﹂のことをお話しするのが本日の目的ではありませんが、ごく簡単にこの日本の植民地としての台湾の五〇年にふれておきたいと思います。その前に台湾とのかかわりで私の出自にも触れなければなりません。私は札幌に生まれ育ちましたが、大正から昭和にかけてのころ、北海道帝大医学部の助教授であった父の在外研究の二年間、母、兄・小田稔︱︱本院第四分科の会員でしたが、五、六年前に亡くなりました︱︱と私の三人は、当時台北医学専門学校の校長をしていた祖父・堀内次雄の家に預けられて、私は二、三歳のころの二年間を台湾で過ごしました。それから一〇年足らず、昭和九年、あらたに台北帝大医学部の創設にかかわることになって北海道帝大から転ずる父に連れられ、私は小学校四年で北海道の札幌から台北市内の台北第一師範付属小学校に転校しました。男女共学のその四〇人ほどのクラスにいたのが本院第五分科の機械工学の伊藤英覺君であり、また第二分科の三ケ月章会員の夫人になる深川光子さんです。台湾人の子弟もおりました。私はこの数年後旧制台北高校尋常科に入学し、戦争の末期その高等科文乙を終えるまで一〇年足らずの台湾での生活でした。その体験も踏まえた本日の話になります。３まず、この台湾での五〇年間の植民地統治の問題です。矢内原忠雄の﹃帝国主義下の台湾﹄という名著があります。精糖業における植民地統制は言われるとおりだったと思います。搾取と言うべきかどうかは別として、これは良きにつけ悪しきにつけ、一八世紀から二〇世紀にかけての歴史における植民地支配の宿命でしょう。統治はどうであったか。明治、大正期における植民地支配に対する台湾の民族運動は合法、非合法を問わず、台湾内部における台湾人の自治の要求であり、もちろん日本統治への抵抗もありました。多かれ少なかれ、総督府による強圧的な締め付けがあったのも事実でしょう。しかし大規模な反抗は大正の半ばにはほとんど影をひそめ、大正八年には文官総督が実現し、その数年後、摂政の宮、のちの昭和天皇の台湾行啓がありました。終始、武官総督の統治であった朝鮮とは大きな違いです。昭和一〇年︵一九三五年︶、私が小学五年生の時に施政四〇周年記念が華々しく行われました。そのころが日本の台湾統治の絶頂だと思います。しかしやがて日本全体の軍国化とともに過度ないわゆる皇民化運動、儒教の寺廟への圧迫、神社参拝あるいは改姓名の強制にも近い奨励など、当時﹁内地人﹂と言われた私たちの目にさえも余るものがあったのは事実です。しかしその植民地行政は一般には世界の水準以上のものがあったと思います。日本学士院紀要第六十二巻第一号四四

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インフラの整備は非常なものがありました。織田萬京都帝大行政法教授︱︱のち国際連盟によって常設国際司法裁判所︵ＰＣＩＪ︶の裁判官に選出され、私の前任者とも言える方です︱︱などの行った地籍、慣行の詳細な調査は今に残る大事業でしたが、また八田与一技師の名前でも残る大甲渓の灌漑事業や基隆や高雄の築港事業、鉄道建設、さらに殖産事業、たとえば米の品種改良の磯永吉︵戦後学士院賞受賞︶の名前は今も台湾では語り伝えられています。衛生面での向上は世界の歴史のなかでも驚異の目をもって見られました。ペストやマラリアの撲滅などは特筆されるべきものだと思います。４教育の面でみれば、東京、京都、東北、九州、それに北海道についで大正の末には京城とともに、台北にも﹁帝国大学﹂がつくられました。このことは日本政府が如何にこれら植民地の民生の向上に熱意をもっていたかを示します。昭和の始めには官立の台北高等学校が設立されました。台北医学専門学校をはじめとして台北高等商業、台南高等工業、台北高等農林などの職業カレッジも大正の末ころには日本内地と同レベルの水準を保っていたのです。教育面で内地人、台湾人の間の差別があったといわれることがありますが、初等教育では台湾語の家庭で育ってほとんど日本語の判らない台湾人子弟をはじめから日本人子弟と同じに扱うわけにはゆきません。台湾人子弟のためには﹁公学校﹂が用意されましたが、日本語を常用する台湾人家庭の子女は私どもと一緒に﹁小学校﹂に入っておりました。私が転校して入った付属小学校のクラスにも数人の台湾人がおりました。大正期以後中等学校以上ではその入学に内地人、台湾人︵本島人︶の区別はなく、入学選抜試験がすべてであったと思います。四〇人一クラスかぎりの台北高校・尋常科は中等学校のレベルでのエリート中のエリート校でしたが、私のクラスには四人の台湾人がいました。五、六倍という難しい日本語での入学試験をぬけて入ってきたものと思います。この四人とも高等科では理科にすすみ、さらに台北帝大医学部に入り、うち二人はのちの台湾大学教授になっています。この尋常科の私の三年上に後に﹁満州の研究﹂で学士院賞を受けた神田信夫がおり、二年上には後に﹁Ｘ線天文学﹂で恩賜賞を受けた兄・小田稔がおり、一年上には神田の弟で東大で美学を専攻した神田孝夫の他に、邱永漢がいました。その頃から文芸部に拠って恋愛小説を書く生徒でした。直木賞作家の彼が多くの利殖の著作でも有名になりましたが、戦時中に東京帝大経済学部の経済学科ではなく商学科に進んだのは彼の先見の明であったと思います。二年下には﹃台湾万葉集﹄の作家で知られる呉建堂が入ってきました。台北主権独立国家の﹁台湾﹂四五

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帝大医学部に入学した医師が本業です。またそのクラスに辜寛敏︱︱辜顕栄の息、リチャード・クーの父親︱︱などがおりました。高等学校・高等科へ進むと文甲、文乙、理甲、理乙の四クラス編成ですから、多くが中学校から入って来ます。私の三年上、神田信夫の同級で京大人文科学研究所から後に京都国立博物館の館長になる上山春平がいました。私の一期上に台湾人では東京帝大の言語学科からのち明治大学で教鞭をとる王育徳がいました。私と同じ期のクラスには李登輝が淡水中学四修で入ってきました。もっとも私は彼を﹁岩里政男君﹂として知ったのです。大柄な控えめの生徒でした。京都帝大農業経済にすすみました。彼は今でも﹁私は二〇歳まで日本人であった﹂と言って憚りません。理科では半数近くが台湾人でした。この旧制台北高校に関する限り、そうして私の体験では一切台湾人への偏見、差別はありませんでした。５台北帝大は教授陣に優秀な人材を集めておりました。文科に東洋史の神田喜一郎、南洋史の岩生成一、日本史の小葉田淳がおり、また文化人類学の移川子之蔵がおりました。すでに戦前、移川は昭和一一年に﹁台湾高砂族﹂の研究で、岩生は昭和一六年に﹁南洋日本人町﹂の研究で、学士院賞を受けておりました。これらの多くが戦後日本に引き揚げて本院の会員になっています。他に、憲法には中村哲、英文学には矢野禾積など、戦後には引き揚げて法政大学、あるいは都立大学の総長を勤めました。なお医学部薬理の教授は日本の領有後に台湾に生まれた杜聡明です。台北高等学校をとってみてもドイツ語専修・文乙にいた私の隣の英語専修・文甲のクラス担任であった島田謹二が戦後に比較文学の領域を切り開き、犬養孝が当時から犬養節で万葉を講じ、ともに後に文化功労者に選ばれました。自らもこの高等学校の卒業生であった国語の木藤才蔵は﹁連歌﹂の研究で学士院賞を受けました。私の申したかったのは、台湾という植民地でも高度の教育が行われ、台湾人︵本島人︶も内地人と同様にこれを享受してきたことです。そうして興味のあることは台北帝大のあとを継ぐ今の国立台湾大学が来年創立﹁八〇周年﹂を迎えるという、これは台北帝大の設立の年から数えてのことなのです。数年前、かつての京城帝大のあとのソウル国立大学の学長が台湾のこの状況をみて﹁韓国では考えられもしないこと﹂と語ったと伝えられますが、これが朝鮮とは違った﹁台湾﹂であるという認識をもつことが重要だろうと思います。６また、台湾総督府治下において階層的に日本人を支配者、台湾人を被支配者とみる単純な図式は誤解のもとでしょう。台湾人でも当時の高等文官試験を通って総督府の高級官僚をつとめた人、役人としての勅任官もおりました。法曹界に入る人は決して少なくは日本学士院紀要第六十二巻第一号四六

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ありませんでした。台北帝大医学部にはさきにも触れたようにその昭和一〇年頃の新設の時から台湾人の教授もおりました。医学界は多くが台湾人医師でした。実業界では台湾人が大きな勢力を占め、さきに触れた辜顕栄などが代表的な例かと思います。繰り返しになりますが、その長男・辜振甫は私が台北高校尋常科に入学すると入れ違いに高等科を出て台北帝大に進んだ人でした。昭和天皇の大葬の礼に台湾を代表して参列しました。京劇の名手としても知られました。戦争末期で台湾の人口はおよそ七〇〇万近く、そのうち四〇万が日本人、ただし首都台北では四〇万ほどの人口のうち一〇数万くらいが日本人であったと思います。︵注：この数字は正確を欠くかもしれない︶

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７一九四五年、昭和二〇年の戦後の時期、海軍から東京に復員した私は、小石川の茗荷谷の丘の上に今なお堂々たる三階建で聳える高砂寮に潜りこみました。これは昭和の初期、台湾総督府が東京に学ぶ台湾からの台湾人、日本人学生のために造った立派なものです。戦後焼け野が原になった小石川の台地にポツンと残っていたのです。この高砂寮は戦後間もなくの頃集団で押しかけてきた台湾人に事実上乗っ取られ、﹁清華寮﹂と名を変えましたが、私など何人かの日本人学生はその一角に押し込められながらも、それから二年余りをここで過ごしました。８戦後直後の台湾をめぐる現実は、戦勝国であり、国連五大国のひとつである紛れも無い中華民国の国民党政府は、台湾に軍隊を派遣して、日本からの統治機構の接収をはかりました。無条件降伏の日本には一言の発言の余地もないのは当然として、台湾の一部の大衆は、日本の植民地支配からの解放を喜ぶ余り、今までの支配者日本人にかわる﹁戦勝国民﹂であるというフィクションに酔い痴れていたと思います。振り返れば、当時日本からの離脱で﹁独立台湾﹂をつくることは可能であったと思います。事実そういう動きもあったと伝えられています。しかしそれを国際的に主張しうる卓越した政治家は比較的良好であった日本の植民地統治下の台湾にはおりませんでした。台湾にはインドのガンジーのような知性のあふれる指導者が存在しなかったことから、当時の台湾人大衆は国民党政権に代表される中華民国の台湾進出を歓迎こそすれ、この機会にどのような自らの地位を築くかについての深い省察はなく、台湾人の多くは光復といって中華民国への帰属を受け入れていたのは事実です。しかし、終戦直後に国民党政権が台湾に送り込んで来た軍隊、官主権独立国家の﹁台湾﹂四七

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僚の質の悪さに台湾人大衆は改めて茫然とせざるを得ない。そうして街頭での些細な事件をきっかけとした二・二八事件が起こりました。二・二八事件というのは一九四七年︵昭和二二年︶二月に起こった台湾人の中華民国政府への反抗運動です。中華民国政府・国民党政権は徹底的に台湾人を弾圧しました。万の単位の台湾人のインテリが国民党政府によって虐殺されたと言います。私の台北高等学校の尊敬する先輩のひとり、私より四期上の王育霖︱︱王育徳の兄になりますが、昭和一五年に東京帝大法学部を出て戦争末期、日本の司法官をしていました︱︱、あるいは東京帝大文学部を出て台南高等工業の教授をしていた林茂生などはその例に過ぎませんが、多くの台湾の知識人が虐殺され、台湾の独立運動の芽は無残にも摘み取られてしまいました。一時日本からの光復を喜んだ台湾人は中華民国の戒厳令下で第二の植民地支配を感じとります。数少なくはない台湾人が今でも親日的と思われるのは、まさに﹁犬が去って豚が来た﹂と感じた台湾人の心情からくるものです。昭和二二年のことです。祖父・堀内次雄もまた両親の小田俊郎夫妻も、台湾大学での招聘期間二年を経て、昭和二二年の初夏にはこの二・二八事件をみずから見極めた上で台湾から帰国、しかし祖父もまた父母も、この台湾引き上げ直前に経験してきたことの多くを語るのを避けました。台湾に残してきた友人、弟子たちの身に災難が降りかかるのを恐れたのです。今にして思えば、私は両親からもっと戦争直後の﹁国民党政権のもとでの台湾﹂のことを聞いておくべきでした。

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９その当時、支那大陸では共産軍と国民政府軍との熾烈な内戦が演じられていました。一九四九年︵昭和二四年︶一〇月に北京で中華人民共和国建国宣言が行われました。中華民国の蒋介石政権が事実上大陸を追われて、同じくその年に、四年前の日本軍隊および統治機構の降伏によって事実上は中華民国の領域になっていたと信じられる台湾で遷都宣言を行いました。一九四三年カイロ宣言、一九四五年のポツダム宣言でアメリカ、イギリスと並んでその当事国であったのは中華民国であり、しかしさきに述べた支那大陸の当時の内戦の故に、一九五一年のサンフランシスコの対日平和条約の署名に招かれることもありませんでした。いわば日本にとってはチャイナぬきの戦後処理であったわけです。しかし日本はその翌年、一九五二年四月、台北で中華民国と二国日本学士院紀要第六十二巻第一号四八

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間の平和条約を結びました。﹁チャイナ﹂と日本の外交関係は開かれました。しかしそれはすでに大陸に足場を失い台湾に移ってきた中華民国であったのです。この条約に付属の交換公文で日本政府が﹁この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある旨のわれわれの間で達した了解﹂に触れています。爾来二〇年、日本は一貫して蒋介石・国民党政権との関係を主権国家間の外交関係と位置付けておりました。その間、大陸を実際に支配するようになっていたのは申すまでもなく北京の中国共産党政権です。それではこれは日本にとって何であったのか。国際法の用語ではいろいろ言われますが、政治的な理由で外交関係をもたない国家であったと思います。たとえば、大陸沖合の漁業問題について、事実上は国家間の条約なのですが、形式的にはそれぞれの民間漁業団体の﹁民間﹂協定があります。また元総理の石橋湛山の北京訪問をきっかけにして、日本と中華人民共和国との民間貿易がはじまります。この現実は日本にとってのみではありません。アメリカを含む西欧諸国も同様でした。限定的であれ実務関係につき国家としての交流があったのです。しかし他方、ソ連などの社会主義国は北京の中華人民共和国・中国共産党政権と外交関係をもちます。当時の多くの国々にとっても事実上はふたつの﹁チャイナ﹂のどちらか一つのみが国際社会における﹁外交関係﹂の相手国であったのです。１０昭和二〇年代の戦後から昭和四〇年代にかけての現実は、すでに一方で支那大陸には国民党政権の統治支配は及ばず、共産党政権による国家︱︱政治的 entity ︵実体︶︱︱があり、他方で、台湾には国民党政権を軸とする別の国家︱︱政治的 entity ︵実体︶︱︱がそれぞれに存在することは、誰もが否定出来ない事実でした。この二つの entity の存在は当時の政治的現実であるとともに、国際法上の国家のステータスの問題でもありました。その頃私が﹁台湾﹂の問題に関心をもったのは、先にも触れた台北高等学校の一年先輩であって東大文学部を出て明治大学に籍をおいた王育徳などが復刊した雑誌﹃台湾青年﹄を手に入れるようになってからです。この編集陣のなかには彭明敏の名も、また現在台湾の事実上は日本における大使である、台北駐日経済文化代表処の許世楷の名前もあります。昭和三〇年代のはじめであったと思います。私はこれに共感するところ多く、共産党政権に大陸を追われて逃れてきた中華民国の国民党政権の支配下におかれた台湾では、もはや﹁台湾人の自立﹂はできないのかという疑問と懸念でした。私が﹁台湾﹂をいう場合考えるのは﹁台湾人﹂であって、﹁中華民国﹂ではありませんでした。もちろん台湾と事実上もまた法的にも無縁の中華人民共和国とは全く関係がありません。主権独立国家の﹁台湾﹂四九

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そのころ私は台湾における台湾人の地位を重視していましたから、関係のある友人たちにあえて﹁三つのチャイナ﹂を唱えていたことがありました。 ① すでに支那大陸は中華人民共和国の共産党政権の支配下にあり、 ② ﹁台湾﹂は﹁台湾人﹂を主権者とする別の国家であり、 ③ 中華民国は金門、馬祖しか支配権をもち得ない、ということです。実際には台湾の中華民国からの独立論であったのです。こうした議論が当時実際に通用するとは思いませんでしたが、私のこの﹁三つのチャイナ﹂という議論に当時の日本の外務省首脳が興味をもって詳しく聞いてくれたことがありました。１１総括になりますが、ここに二つのきわめて重要な問題がありました。その一つは、当時、一九五〇年代以後、文化・歴史概念としてのチャイナは二つの国家に分裂していたこと、これは法的現実であり、その意味では南北朝鮮、東西ドイツと同一であります。違っていたのは、朝鮮もドイツも、南北あるいは東西がそれぞれが﹁二つの entity ︵政治的実体︶﹂の存在を認識しあっていたのに対して、﹁チャイナ﹂では二つの対立する政権が、あくまでもそれぞれが全チャイナの支配を仮想してお互いに二つの entity の存在をすら認めようとはしなかったことです。台湾に本拠を移した中華民国の国民党政府は、その将来の可能性がない現実を知りながら、あくまで大陸に反攻して﹁ふたたび国民党政権のもとでの統一の中華民国を﹂と叫んでおりました。しかし、戦後、国連の発足にあたって戦勝国であり、それが故に安全保障理事会の常任理事国、いわば五大国のひとつに擬せられた中華民国はもはや支那大陸には存在しないという厳然とした事実があり、他方、支那大陸における中華人民共和国の共産党政権に違和感をもつ世界の主な国々、アメリカも日本も、まだ大陸には中華民国ではない﹁チャイナ﹂の国があるという厳粛なる現実を法的には認める用意はありませんでした。

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１２そうしてもうひとつ、︱︱これがきわめて大事なことですが︱︱、戦後の国連、そうして国際社会が意図的に目をつぶっていた問題は、中華民国の国民党政権が逃れて来たかつては日本の統治下の台湾に住んでいた六〇〇万をこえる台湾人でした。国民党政権の統治下、台湾では、一九四七年には二・二八事件が起きていたことは先に述べました。一九六〇年︵昭和三五年︶初夏ですが、父・小田俊郎︱︱もとの台北帝大医学部長であり、病院長であった︱︱夫妻は昔の台湾の同僚、弟子たちに迎えられて一〇数年ぶりの台湾再訪をしておりまし日本学士院紀要第六十二巻第一号五〇

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た。たまたま会議のためヨーロッパに滞在していた私は、帰国の途次台北に立ち寄って父母に合流しました。まだ日本も台湾も個人の海外旅行は厳しく制限されている時期でした。父母にとって一カ月の台湾滞在は終わりに近く、その送別の宴に私も招かれました。昔馴染みも多いこの父のお弟子さんたちは私にも大変親しく、もちろん日本語で盛り上がった会でした。しかしこの日本語での大宴会は、特に﹁恩師のためのもの﹂として、中華民国の国民党政府の統治下、戒厳令が敷かれていた当時、台北市当局の特別の許可があったということを告げられ、私はなお政治的に難しい立場に置かれていた中華民国統治下の台湾の現実の前に粛然として襟を正したことを思い出します。ただし、台北の市井ではまだまだ日本語がひろく理解されておりました。当時私にはこれら台湾人の医師の人々に、戦後の二・二八事件の時期をどのようにして過ごしたかを聞くのはためらわれました。政治のことは一切お互いに話をしないのが黙契であったように思います。それが当時の台湾人の保身の術だったかと思います。私にとっては懐かしい台湾でした。しかし大事なことは、ビールを飲んでもその瓶のラベルにも、またタクシー、人力車にも﹁大陸反攻﹂の文字が大きく書かれていました。台湾の地に本拠を置く中華民国政府にとって大事なことは、自分たちが共産党政権に追われた大陸でいつの日か共産党政権を駆逐して再び自分たちが統一チャイナの支配者になるという幻想であったと見受けられました。私は不思議な気持ちがしました。こうしたスローガンを当時の人口の九割を占める本来の、ましてそのしばらく前までは日本人であったいわば土着の台湾人がどのように見ていたか、私は台湾の学校時代の友人たちにもこの問題をきくのはためらわれました。台湾人はこうした大陸復帰という国民党政権の幻想に踊らされる事はないものの、一党独裁の国民党政府の下での忍従の一途だったと見受けられました。１３この一九六〇年をきっかけとして、それから一〇数年の間、私は幾度かヨーロッパあるいは東南アジアへの海外旅行の途中に台湾に立ち寄りました。小学校のクラスメートのひとりは台湾味の素の重役でしたが、当時はまだ珍しかった自家用車で懐かしい近郊のドライヴに誘ってくれました。旧制台北高等学校尋常科で同級の二人の台湾人はともに台湾大学医学院におりましたし、高校文科で同級のひとりで戦後のアメリカのエール・ロースクールで私と留学を共にした友人・劉甲一はすでに台湾大学法学院の国際私法の教授になっていて、それぞれ様々に私を歓待してくれるのですが、またしても﹁台湾﹂の未来のこと、﹁台湾人﹂のことを語ることはありませんでした。当時六〇〇万をこえる﹁台湾人﹂は国民党政権下の戒主権独立国家の﹁台湾﹂五一

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厳令のもと、大陸から戦後わたってきた数十万のいわゆる外省人にものを言える状態ではなかったのです。ただしここで国民党政権につき、公平のために申せば、当時でも台湾人はいわばテクノクラットあるいは学者としては重用されていたことは述べておかなければなりません。実際に中華民国・国民党が恐れていたのは、台湾人のもつ﹁台湾人のための台湾﹂思考であったと思います。﹁台湾﹂という思想はまさに国民党の中華民国への反逆でした。雑誌﹃台湾青年﹄に拠った当時の人々は台湾への帰国は出来ず、また、私の一九六八年秋の台湾立ち寄りの時は、国際法学者としての名声をつとに知っていた彭明敏教授︱︱旧制三高から東大法学部を私と同じころに卒業しています︱︱が獄につながれているとも聞きました。終戦直後の日本の植民地支配からの解放で四〇〇〇年の伝統と文化を共有するチャイナへの回帰を歓迎した台湾人が、しかし二・二八を契機として国民党政府への違和感を感じはじめる。しかし戒厳令下それを口には出せない。そうして知識層は独裁政権の国民党政府の存在という現実のなかで、少しでも台湾人のアイデンティティを実現するきわめて現実主義的な方向に向かったのではないでしょうか。しかし、明らかなこと、そうして大事なことは、台湾人は国民党政権に背を向けるとしても、しかし大陸におけるもうひとつの中国共産党独裁政権に自らをアイデンティファイする何物もありませんでした。むしろその時から台湾人には共産党支配への恐怖感があり、万一の場合に備えて、アメリカに生活の根拠を移そうとする台湾人は少なくはありませんでした。

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１４当時の国際社会に目を転ずれば︱︱これがきわめて大事なことですが︱︱朝鮮、ドイツの場合と違って、一九四九年以後は共産党政権にとっても国民党政権にとっても、チャイナとして第二次大戦の戦勝国としての扱いを英米から受けて、それゆえに国連五大国、常任理事国であらねばならぬという思い込みがありました。改めて言うまでもなく、はじめは国民党政府が国連におけるチャイナでした。これは明らかな法的事実です。他方、誰も共産党政権が第二次大戦の戦勝国のひとつであるチャイナとは思わないが、しかしやがて、それが中国国民党・蒋介石政権を駆逐して支那大陸を事実上完全に支配するようになって北京で政権樹立をしたことを否定することはできません。そうして、支那大陸を追われ、辛うじて台湾に拠る国民党政権が戦勝国であるが故に国連原加盟国としての地位日本学士院紀要第六十二巻第一号五二

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をもち続けると考えることは余りにも現実から離れていることは明白です。国際社会としてもこうした不自然な状態を戦後の二〇年間打開することなく放置せざるを得なかったのが国連の現実でした。それでは一九四九年、北京における中国共産党政権による中華人民共和国の樹立、国民党政権の中華民国の台北への遷都の年からの二〇年は何であったのか。国際法学者の言ういわゆる﹁承認論﹂、﹁国家承継論﹂などの学説上の理論をもってこれを説明しようとすることは全く不毛のことです。現実には日本を含め世界の国々はそれぞれその外交関係のないもうひとつの相手方と事実上の︱︱ということは外交関係マイナスの︱︱関係を開き、あるいはもち続けました。そのそれぞれの国民の取り扱いにおいて、行政面でもまた司法面でもその取り扱いになんら事実上の支障はありませんでした。１５一九六〇年代の末期から一九七〇年代のはじめにかけて国連のチャイナ代表権問題があります。国連における詳細な代表権の手続問題は省きます。要は国連社会では、五大国のひとつの﹁チャイナ﹂の代表権を台湾にのみ根拠を持つ中華民国政府から、台湾を除く全支那大陸を支配するに至っていた中華人民共和国政府へ転換するのに二〇年の期間を要しました。一九七一年のニクソンの電撃的訪中でアメリカの政治的スタンスの変化は明瞭になりますが、アメリカの政治姿勢の転換です。そして国連総会は一九七一年︵昭和四六年︶一〇月、総会決議で国連に議席をもつチャイナは﹁中華人民共和国・共産党政権﹂がその代表であると指定しました。﹁中華民国・国民党政権﹂は国連を追われました。理論的には、その時点で中華民国が安保理常任理事国ではなくても、普通の加盟国として国連に残ることは可能でした。しかし大陸反攻を唱える中華民国もその道をとりません。こうして国連は、安保理常任理事国としての中華人民共和国の共産主義政権をここに受け入れ、中華民国の国民党政府を放逐する決定をしたのです。一九七一年︵昭和四六年︶の末のことです。日本では、国連の代表権決議の結果を受けて、翌一九七二年︵昭和四七年︶九月に首相田中角栄の北京訪問があり、両国政府の共同宣言によって両国の間の不正常な状態に終止符を打ちました。他方、日本政府はそれとは別に外交使節を中華民国の﹁台湾﹂に派遣しました。いわゆる椎名︵悦三郎︶特使の派遣といわれる問題です。中華民国・国民党政府は日本との外交関係を断絶しました。中華民国が日本との外交関係を断ったことで中華民国が国際法上の主権国家でなくなったわけではありません。事実は、日本は中華民国・台湾とは外交関係は断ち、大使館は閉ざしながら、文化、経済関係を続けました。北京政権も日本の中華民国・台湾との交流維持に公然と理解を示していたと伝えられます。逆説的に言えば、こ主権独立国家の﹁台湾﹂五三

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れがむしろ日本と台湾との距離を縮めたといってもよいと思います。外交関係を断った中華民国とは政府の外交レベルでは付き合えない、しかし民間レベルでは台湾との関係はむしろ濃密化したのではないでしょうか。かつて台湾に住んだ日本人の第二の故郷﹁台湾﹂への訪問が増え、また台湾人も足繁く日本を訪問するようになっていました。父・小田俊郎の医局に育った医学者たちが、少なからず、東京に住む父を見舞ってくれるようになったのもその時期でした。このことが一般に誤解されていますが、外交関係をもたないということとそれが国際法上の主権国家として存在しているということは別次元の問題です。そのことは現在の日本と北朝鮮との関係を見れば明らかだろうと思います。そうしてまた事実は、このあとにも国際社会では中華民国・台湾と大使を交換し、外交関係をもち続けた国は決してすくなくはありません。ヴァチカンなどもその例です。さらに、さきの国連決議があっても、台湾における現実の政治的状況が変わったわけではありません。国連における中国代表権問題のあとにも、台湾には中華人民共和国とは全く異質の社会政治社会があり、国家としての統治機能がありました。国連からは放逐された中華民国が国際法のもとでは依然として台湾の地域をもつ国家であったのです。中華人民共和国が支那大陸から離れた台湾まで支配しているという虚構は法的にもまた事実としても全く通用するわけもありません。台湾には土地、人民、確立した国民党政権が存在しました。国際法上、国家とは﹁土地、人民、政府﹂、あるいはそれに加えて﹁外交能力﹂の三ないし四要素からなります。国連の場をはなれて、中華民国の主権国家の地位はゆるぎないものがあったと言わなければなりません。１６私はそのころ、一九七二年一一月のインドネシアのバンドンでの国連ＥＣＡＦＥ︵アジア極東経済委員会・現在のＥＳＣＡＰ︶の下部委員会の一つであるＣＣＯＰ︵アジア沿海鉱物資源共同探査調整委員会︶での一日を思い出します。私はその数年前からこの国連の機関の法律顧問に任命されておりましたが、このアジア地域の海洋学者が集う︱︱日本の代表は通産省の地質調査所所長でした︱︱バンドンの会議で一日が私の海洋法の講義に当てられました。法律顧問としての私はこの講演のなかでいろいろな統計に必要で﹁台湾﹂にふれました。たちまちニューヨークから来ていた国連事務局の職員から﹁台湾という言葉を使わないでほしい﹂という指摘を受けました。私は﹁台湾は世界の国連統計ではブランクなのか、豊かな国土ともっともすぐれた教育を受けた人民、そうして少なくとも世界の水準から見てもひとつの統治機構をもつ台湾が国際法上何なのだ﹂、と問いかけました。国連事務局の明確な返答はなく、ともかく﹁台湾という言葉を国連文書に入れることは出来ない﹂の一点日本学士院紀要第六十二巻第一号五四

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張りでした。私は、﹁それならばこの台湾の土地、人民を中華人民共和国のなかに入れるのか﹂と反論しました。そうではありません。事実は、この会議の文書ではここいらがぼかされて記録されていたと記憶します。こういうのが国際社会の現実でした。そこには偽りの空白がありました。政治的に二つの﹁チャイナ﹂を言わないだけで、法的にも二つの主権国家が存在することを私としては主張し続けました。国連加盟国ではない中華民国・台湾の存在はまぎれもない国際法上の事実であったのです。１７国連代表権の問題と離れて、再びその頃の国際政治の現実に戻って考えてみます。一方で支那大陸の共産党政権と他方で台湾の国民党政権、国際法の立場からみるならば、一九五〇年代から一九七〇年代にかけて、明らかに二つの主権国家の存在です。もちろん二つの国家領域の存在です。世界の多くの国がそれに順応して政治的な対応をしてきました。社会主義諸国はいち早く北京の中華人民共和国との外交関係に入ります。しかし冷戦下の世界的な反共産主義の建前から、アメリカをはじめ多くの西欧諸国、そうして日本が大陸における共産党政権を認めたくない。一方で、大陸には事実、国民党政府の権力の及ばない広大な空間が出来ていました。他方、台湾には明らかに中華人民共和国の権力も管轄権も一切及びません。大陸と台湾には事実上ふたつの政治的 entity ・主権国家が存在していたのです。事実上は二つのチャイナでした。しかし大事なことは、中華民国と中華人民共和国の、いわば台北と北京のそれぞれが、この二つの entity が事実は相互になんらの管轄も統治も施し得ないことを知りながら、いずれもみずからの存在のみが唯一つのチャイナであるということを主張します。チャイナにおける自分以外の entity の存在が認めることを拒否するという台北の国民党政権、北京の共産党政権、双方の頑なさが問題を複雑にしたのです。

Ⅶ

台

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人

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台

湾

１８日本と中華民国の間で外交関係が断絶した一九七二年︵昭和四七年︶から一〇年、一九七〇年代から一九八〇年代はじめにかけての台湾の現地の内情について私の知るところは多くありません。その間私が台湾の地を踏むことはありませんでした。私自身はその間に一九七五年国連総会、安保理の選挙によって国際司法裁判所判事に選ばれました。その選挙で私はその四年前の国連総会決議によって国連の構成国になっていた中華人民共和国政府の支持も得ていましたし、その前後から私自身支那大陸に足を運ぶことが少なくはありませんでした。まだ大陸の外国人の旅行は厳しく制限されてい主権独立国家の﹁台湾﹂五五

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るときでしたが、任地オランダからの一時帰国のおりに大陸に幾度か立ち寄りました。北京政府の特別のはからいで上海、蘇州にも遊びました。また少し後になりますが、外国人旅行客の国内旅行が未だにいろいろに制限されていた頃、一九八七年の六月、重慶からの揚子江、三峡下りでチャイナ四〇〇〇年の歴史のあとをたどり、三国志の故事に思いをはせ、また故宮博物館をはじめ各地でチャイナの伝統と文化に触れて悠久の﹁チャイナ﹂︱︱もちろん中華人民共和国のことではありません︱︱への畏敬を念を深めるばかりでした。１９この揚子江三峡下りより前のことですが、一九八六年︵昭和六一年︶、国際司法裁判所の裁判官になってからもすでに一〇年近くもたち、私も裁判官二期目に再選されていました。久しぶりの台湾を訪問することにしました。前の中華民国︵台湾︶訪問からは一四年ぶりのことでした。一九七二年の日本・中華人民共和国共同声明からも同じ一四年がたっていました。この一四年ぶりの台湾で見たのは台湾の驚くべき変化でした。以前︱︱一九七〇年代はじめまで︱︱はまだ、﹁ひとつのチャイナ﹂というフィクションのもと、国連社会の安保理常任理事国である中華民国の国民党の統治下の台湾でした。しかし、この昭和六一年、国連組織にとっては全く﹁無﹂でしかなくなっていた台湾でした。一方で、台湾には紛れもなく、ひとつの完結した政治的 entity がありました。国家がありました。他方、一四年前にはあった大陸反攻のスローガンは全くなくなっていました。そうして目を見張ったのは著しく勢力を延ばしてきた﹁台湾人﹂の存在でした。一四年前には﹁中華民国の国民党独裁下の台湾﹂でしたが、昭和六一年、一四年ぶりに新しく見たのは﹁台湾人の台湾﹂だったのです。これよりさき、中華民国の総統蒋介石は一九七五年︵昭和五〇年︶四月に死亡、長く行政院長をつとめた、その長男・蒋経国が国民党主席となり、その数年後、一九七八年︵昭和五三年︶には三代目の総統に当選しました。彼が自分の副総統に抜擢したのが台湾人の李登輝です。はじめに申しましたが、彼は﹁私は二〇歳までは日本人であった﹂と公言してはばからない私の旧制台北高等学校の同期の﹁岩里君﹂です。戦争末期京都帝大に入学、戦後はコーネル大学などで研鑽を積み、農業経済学者として出発した彼は、この時すでに台北市長、台湾省主席を歴任していました。台湾人が中華民国政府に重用されるのは彼だけではありません。その頃になると多くの台湾人がすでにテクノクラットのみならず政治の要職にありました。蒋経国はなかなかの人物であったと言われます。２０一九八六年︵昭和六一年︶の私にとって一四年ぶりの台湾訪問で、旧制台北高校の卒業一期の東京帝大法学部出の法制史学者で日本学士院紀要第六十二巻第一号五六

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司法院長をすでに退任している戴炎輝をその私宅に訪ねました。また台北高校五期で京都帝大法学部出の劉闊才が立法院副院長になっていて私ども夫妻を立法院の公室で歓迎会をしてくれました。その宴を終えてホテルに戻ったとき副総統・李登輝からの電話で﹁明日オフィスに来ないか、国連の身分もあろうからプレスは押さえておく﹂との招きで、その翌日総統府に副総統・李登輝を訪ねました。戦争末期台北高校卒業で別れてから四〇数年ぶりのことでした。日台関係が話題でしたが、その席で副総統の李登輝が並々ならぬ抱負をもち台湾︱︱中華民国ではありません︱︱の将来に自信をもってその衝にあることが私に感じられました。オランダへの帰任の途中の台湾へのこの立ち寄り訪問は二、三日の短さでしたので、その二年半後、私はあらためて一九八八年の年末から年始にかけての一〇日間を台湾で過ごしました。その一年近くも前、一九八八年一月に三代目の総統・蒋経国が死去、憲法にしたがって副総統・李登輝が中華民国総統に就任しておりました。二年前には立法院副院長であった劉闊才は立法院長になっていることにも私は大変な喜びを感じました。総統も立法院長も台湾人なのです。李登輝は総統官邸に私ども夫妻を招いて台北高校の同窓生を交えた晩餐会を開いてくれました。ここに日本人を招くのは初めてだということでしたが、李登輝の自信に満ちた﹁台湾人の台湾﹂の将来でした。彼は﹁あと一〇年﹂と言いましたが、辛抱強く一〇年待てば台湾人、外省人の区別はなくなる、﹁あせらずにやれば﹂というその言葉に私は元気づけられました。立法院院長の劉闊才に立法院の議場に案内され、長く続いた国民党独裁のもとでの戒厳令もすでに一九八七年には解かれ、事実上は台湾人の民進党が急速に進出していました。彼はようやく議席をもつに至った民進党の乱闘さわぎを身振り手振りで説明してくれました。私は、乱闘はともかく、この﹁台湾﹂で﹁台湾人﹂が主役になってきた現実をうれしく思いました。李登輝総統のもとで政治犯はすべて釈放されていました。この時、財界の大御所で台北高校七年先輩の台湾セメント社長・辜振甫にも招待を受けました。林洋港司法院長、蕭天讃法務部長︵司法大臣︶、衛生署長︵厚生大臣︶も同席してくれました。衛生署長・施純仁は旧制高校の私の同期の医学者です。

Ⅷ

新

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湾

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脱

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２１私は﹁ひとつの台湾﹂という考えが定着してきているのを見ました。それはひとつのチャイナを称してきた﹁中華民国﹂ではありません。もちろん李総統は﹁国民党﹂主席であり、制度的には中主権独立国家の﹁台湾﹂五七

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華民国憲法もまたその統治制度も存在しました。しかし事実は、中華民国、国民党は全く変質しておりました。李登輝の提唱した﹁新台湾人論﹂が台頭します。戦後大陸から来た外省人を含めて、全く変質した﹁新台湾人﹂を基盤とする社会に変わろうとしていました。もうその時点では﹁中華民国﹂という言葉は聞こえてきません。﹁台湾﹂なのです。私は、李登輝を﹁国民党主席・中華民国の元首﹂であるよりは﹁台湾という国の元首﹂としてみました。それから数年後、私はオランダで、当時李登輝の愛弟子といわれ、その行政院の法務部長︵司法大臣︶をつとめたこともある政治大学准教授の馬英九︵現・国民党主席、台北市長︶の訪問を受けました。その数年後に台北で予定される国際法協会︵ International L aw Association ︶のアジア・太平洋地域の会合に出席要請の招待状をもって訪ねてくれたのです。この世代ではもう日本語では無理です。私にとっての初対面の彼との会話は英語です。彼は﹁自分は大陸出身であるが、﹃新台湾人﹄である﹂ことを強調しました。私はそのことに深い感銘を受けました。結局はオランダにおける公務との日程のこともあって私はこの国際法協会のアジア・太平洋地域会合へ出席することはなかったのですが、むしろそれに先だって、一九九三年の年末に重ねて台湾を訪れた私は、政治的動向の着実な変化に驚きました。台湾の経済の大きな発展と都市の過密化に目を見張りました。台北駅一帯はすっかり変わり、東洋一をほこる台湾大学病院は竣工しておりました。かつて私の父が院長をつとめていた大学病院です。２２長く続いた国民党政府による戒厳令はすでに一九八七年に解除され、五〇年近くも前の二・二八事件に関して、自身が﹁台湾人﹂の李登輝総統によって国民党政府の名において﹁台湾人﹂に対する陳謝がありました。彼自身はもちろん台湾人です。しかし中華民国の元首であったのです。そうして戦前に私どもがかつては新公園として親しんだ市中央の公園は﹁二・二八紀念公園﹂と変わっていたのです。かつては﹁ひとつのチャイナ＝中華民国﹂以外はタブーであった台湾で、今は自分たちはその支那大陸とは別だ、大陸から戦後渡って来たいわゆる外省人をふくめて、台湾は﹁台湾人の国﹂という考え方が逆らうことのできない流れになってきていました。その頃、日本やアメリカに永く亡命していた台湾独立運動の理論家たちが晴れて台湾に戻り、あるいは一時訪問していました。カナダに逃れていた彭明敏、アメリカに定着していた陳隆志、日本に永住していた史明などの名前は、五、六年前までは台湾で口にすることさえ憚かられたのです。この時も総統府で李登輝とは一時間の懇談になりましたが、その口から繰り返し﹁ひとつのチャイナ、一つの台湾﹂という言葉が出てきました。ここでいうチャイナは中華人日本学士院紀要第六十二巻第一号五八

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民共和国のことです。国民党の李登輝ですが、﹁現在の台湾ではこの方針でなければ選挙には勝てない﹂ということでした。台湾はチャイナ＝中華人民共和国の一つの省ではない、対等の独立国であり、どちらが兄であり弟であるかは問わず、兄弟関係であるという認識を示します。本屋には、私のエール・ロースクールの後輩・陳隆志の支那語の﹁台湾独立論﹂の本が山積みになっていました。彼が、私にとってもエールの恩師でもある Harold Lasswell 教授とその二〇年ほど前に出版していた﹁国連、チャイナ、台湾﹂が翻訳として台湾に出回っているのです。また招きを受けた辜振甫︱︱その時はすでに海峡交流基金会の会長になって北京との対話の窓口になっていましたが︱︱のオフィスで、彼は台湾が中華人民共和国と一体ということは考えられない、ただ将来中華人民共和国と台湾という二つの国が対等合併することは考えられる、会社合併は二つの会社があってはじめて可能という経済人らしい言い方で台湾の現状を説明してくれました。２３台湾は変わった、そうして現実路線を歩んでいるというのが私が痛切に感じた事でした。強く感じられたのは、古い大陸系のリーダーが依然として残る国民党ですが、﹁台湾人﹂の李総統が党首に就任した国民党と﹁台湾人﹂を主体とする民進党との事実上の区別が薄れていることでした。台湾人の自立をひたすら警戒してきた大陸系支配の国民党政府であった数十年前から、台湾人、外省人一体になって中華人民共和国とは全く別の﹁ひとつの台湾﹂をまもりたてようとする時期になっていたのです。その意味では私には今や国民党の党主席である李登輝と民進党と実際にどれだけの違いがあるかは計りかねました。この時私は李登輝を総統府に訪ねましたが、その私の問いに彼は笑って答えませんでした。しかしこれは彼がかつて﹁あと一〇年﹂と言ったときからようやく一〇年が経とうとしていた時期になります。もうひとつ一九九五年の台湾訪問のおりに印象的であったのは、たまたま国立歴史博物館で見た﹁台湾の一〇〇年写真展﹂です。それは一八九五年からの日本統治の五〇年とその後の五〇年の台湾の歩みがなんらの政治的偏見もなく示されていました。はじめの五〇年には明治天皇や乃木、明石ら歴代の総督の写真もなんのためらいもなく掲げられていました。そこには台湾が、事実上もまた法的にも、中華人民共和国の一部であるという考え方のかけらもありませんでした。２４一九九八年五月、国際法協会︵ＩＬＡ︶の世界総会が台北で開かれました。世界各地から二〇〇名、日本からでも一〇名をこえる国際法学者、法曹が集まりました。海外からの出席者全員がここ主権独立国家の﹁台湾﹂五九