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南船北馬集 : 第十六編〔遺稿〕 利用統計を見る

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南船北馬集 : 第十六編〔遺稿〕

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

15

ページ

331-413

発行年

1998-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002963/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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ぜぱに放吃南浅2,m校峰人央一爺タ6肇㍑,毒蛭嬢壊 1.サイズ(タテ×ヨコ)   250×340㎜(480字詰〔一部に   232×157㎜の便箋使用〕、および   600字詰原稿用紙) 2.枚数   総数:233   目次:1〔「南船北馬集」第16編〕   本文:192〔「南船北馬集」第16   編、便箋20枚含む〕、40〔「静岡県   巡講第1回(遠江国)日誌」〕 3.刊行年月日    未刊   底本:自筆原稿 4.その他   (1)巻頭の大正7年7月4日か   ら21日までの「朝鮮巡講第三回    (北鮮)日誌」は割愛した。   ②第16編としてまとめられて   いる原稿には朱書きで指定およ   び推敲の筆が入っているが、最   後の遺稿「静岡県巡講第1回(遠   江国)日誌」には指定・推敲の   筆は入っていない。また、この   稿は第16編の目次のなかには入   っていない。

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青森県巡講第一回︵旧南部︶日誌

南船北馬集 第十六編  大正七年七月二十五日、午後六時、随行松尾徹外氏とともに上野発に乗り込む。乗客満室、終宵眠り難し。  二十六日 晴れ。朝五時、仙台に停車するや、吉村善吉氏来訪あり。午前十一時半、青森県三戸郡三戸駅に着 す。これより三戸町︿現在青森県三戸郡三戸町﹀まで三十町、その途中に唐馬碑あり。往昔、シナよりアラビア馬を 幕府へ献じきたりしとき、これを南部藩に賜りしという。爾来馬種の改良を得て、南部馬の声価を高むるに至れ り。これその碑なり。午後、三戸小学校において開演す。同校は火災にかかり、昨年再築竣功、講堂は闊大なり。 発起は町長北村芳太郎氏、校長山口清陽氏にして、宿所は丹波旅館とす。この日、炎暑︹華氏︺九十二度に上り、 東京以上たり。郡視学大庭恒次郎氏、八戸より来会せらる。旅館の宿料を見るに、特等一円七十銭、一等一円、 二等七十五銭、三等六十銭と掲ぐ。およそ朝鮮の三分の一なり。  二十七日 炎晴。汽車にて北川村︿現在青森県一一一戸郡名川町・南部町﹀字剣吉に移る。三戸より三里半あり。宿所は 駅を去る七、八丁、旧家出町甫氏の宅なり。会場小学校はその背部の丘上にあり。その下の社側の小池は往古、 田村将軍その水を見て剣を鍛えりとの伝説より地名起こりしという。この日、午後雷雨あり、のち大いに清涼を 覚ゆ。夜に入りて更に降雨あり。主催は青年団、発起は村長工藤一郎氏、校長米田泰助氏等なり。  七月二十八日︵日曜︶ 炎晴。ただし風ありて涼し。午前、汽車に駕し、尻内にて換車し、八戸町︿現在青森県八戸 市﹀に至る。剣吉より四里半あり。午後、劇場錦座において一席は生徒のため、一席は公衆のために講話をなす。 331

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郡長尾上賢次郎氏出席せらる。主催は町青年団および郡教育会にして、発起は郡長、郡視学、および青年団副長 稲葉万蔵氏、同顧問福田大助氏、校長岩泉亀松氏、教育会理事松原民弥氏等なり。本町は旧南部支藩の城下にし て、戸数二千七百、青森、弘前に次ぐべき都会とす。余が今より二十七年前、本県を一巡せし際は、真宗大︹谷︺ 派願栄寺に宿泊せり。住職吉川円成氏、今なお健在なり。当地には哲学館出身者多し。高木一慰氏︵中学校教諭︶、 福田祐記氏︵旧名男児︶、稲川義忍氏︵新聞記者︶、久慈政勝氏︵旧名松原鉄太郎︶これなり。八戸名物を聞くに、 うにをアワビの貝殻に入れて焼きたるもの、これをヤキカゼという。カゼとはうにの方言なり。また、砂糖気の なき胡麻煎餅も名物とす。これを南部煎餅という。  二十九日 曇り。朝来大いに清涼を覚ゆ。日中︹華氏︺七十六度。午前中に腕車にて行くこと約一里半、是川村 ︿現在青森県八戸市﹀に入る。これ純農村なり。会場および宿坊清水寺は維新前は天台宗なりしが、明治二年、真宗 大谷派に改宗せし由。その境内に観音堂あり。本尊は慈覚大師の作、本堂は左甚五郎の建築との所伝なり。門前 に鳥居あるは寺院として異例とす。その地、山に接し林を擁して消暑に適す。また、静閑余りありて終日ただ蝉 声を聞くのみ。よって壁上に一詩をとどむ。   車過田蹟入是川、観音堂畔老杉連、軒端一枕不知夏、林下清風冷似泉。   ︵人力車は田の小道をとおって是川村に入るに、清水寺の観音堂のかたわらに老いた杉が連なる。軒端での   ひと休みは夏とも思えず、林の下より吹く清らかな風は冷たく泉水のさわやかさがあるのであった。︶  発起は村長束政之進氏、住職野沢静氏、助役林崎景年氏、校長平田慶次郎氏、収入役鈴木通孝氏にして、みな 大いに尽力あり。昼夜、揮毫に忙殺せらる。 332

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南船北馬集 第十六編  三十日 晴れ。風ありて涼し。夜来の降雨、暁天に至りて収まる。はるかに杜鵠の声を聴く。午前八時、高等 馬車に乗り、八戸を経て湊村︿現在青森県八戸市﹀に至る。八戸と湊との間は約一里。会場は小学校、主催は本村と 小中野、鮫との三村連合、発起は湊村長関春茂氏、助役湊允氏、小中野助役山田利也氏、鮫書記石田正太郎氏等 なり。当夕、小中野村美野部旅館に宿す。湊より一里強、鮫海水浴場あり。避暑客多く集まる。石田旅館最もよ しと聞く。この地方は岩手県と同じく、旅館の宿泊料の外に丸飯十二銭として掲ぐ。丸飯とは昼食用の握り飯を いう。  三十一日 曇晴。暑気強からず。湊より汽車にて尻内に至り、これより四里の間馬車を駆り、午前中に浅田村 ︿現在青森県三戸郡五戸町﹀に入り、字浅水村長坂本万次郎氏宅に休泊す。会場は小学校、発起は坂本村長と青年団長 中川原貞機氏、校長小向政弘氏等なり。本日、途中にて青年が旗をたて、鼓を鳴らして田間を一過せるを見る。 これ田家の虫祭りにして、害虫を駆除する旧慣なりと聞く。地勢丘山をなせるも高からず、路傍には稲田多し。 本郡は養蚕いまだ盛んならず、田畑耕作をもって本業とす。南部には一戸、二戸等の町村名ありて九戸に及ぶ。 そのうち四戸を欠けるが、浅田村が四戸に当たるという。しかしてその名称を用いざるは、四の字を厭忌せしに よるという。また、浅水につきて一伝説あり。浅水は朝見ずより転化せし由。昔時、安達ケ原の鬼婆この地に住 し、一夜のうちに人を奪い去れり。よって翌朝、ときどき人の見えざるに至ることあり。これ村名の起源と聞く も信じ難し。  八月一日 炎晴。馬車にて行くこと約二里、高原を登りたる所に五戸町︿現在青森県三戸郡五戸町﹀あり。会場は 小学校、発起は高雲寺住職大竹保順氏、助役三浦梧楼氏、青年団幹事田中誠一、江渡慶次郎二氏なり。大竹氏は 333

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旧哲学館出身たり。その夕、桃喜旅館に宿す。当町は毎月七の日に市場を開く。物産として鶏卵を輸出す。助役 三浦氏は子爵と同名なるはおもしろし。その風貌において、いくぶんか相似たるところあり。  二日 炎晴。馬車にて行くこと四里半、下田を経て上北郡百石村︿現在青森県上北郡百石町﹀に入る。本村は奥入 瀬川の岸頭に立てる小市場なり。その川に架せる幸運橋は老朽して今は不運橋となる。会場は小学校、発起は村 長三浦元次郎氏、軍人分会長村井惣次郎氏、校長永瀬佐太郎氏等なり。京北出身村井倉松氏の宅はこの村にあり。 郡役所より視学清野真太郎氏ここに出張せらる。宿所は昆梅次郎旅店なり。当夕、街上に盆踊りあり。そのハヤ シは単調なれども聞きとれず。校長通訳して﹁成にやとなされて何どやれ﹂を繰り返すなりという。その意味は ﹁為せば成る為さねば成らぬ成るものを、成らぬといふは為さぬなりけり﹂の道歌に同じと聞く。  三日 炎熱。駅道五里の間荷馬車に駕し、田圃と草原との間を一過す。シナ内地の旅行に似たり。中間に六戸 村あり。市街の形をなす。午前中に三本木町︿現在青森県+和田市﹀に着す。昔時、新渡米伝氏この地を開墾せし以 来、全国各県より移住民集まりてこの市街をなせりという。今なお新渡米氏の墓には、ときどき参拝にきたるも のある由。会場小学校は郡内第一の大校と称せらる。主催は町長原田鉄治氏、助役豊川毅氏、校長中山留五郎氏、 宿所は金崎旅館なり。伯爵土方久元氏、当所の安野旅館に宿泊ありと聞き、講演後訪問す。同伯は、八十四歳の 高齢をもって十和田湖の探勝にこられたりと聞く。その勇気敬服すべし。十和田は三本木より十二里、奥入瀬川 はその湖より流下せる故、この川に沿いてさかのぼれば道路ほとんど平坦なれども、今日なお五、六里の間は腕 車通ぜずという。郡長清水正澄氏もここにありて面会す。  八月四日︵日曜︶ 炎晴。行程三里、腕車にて七戸町︿現在青森県上北郡七戸町﹀に至る。郡衙所在地なり。途中は 334

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南船北馬集 第十六編 全く新開地なるも稲田多し。七戸市街は渓谷の間にあり。ただ、会場小学校だけは丘上にあり。開会発起は町長 野辺地俊夫氏、校長苫米地半次郎氏なり。篤志家工藤轍郎氏、哲学堂へ特別の寄付あり。また、旧館外員米内山 瞼城氏よりも寄付あり。当夕は大重旅館に宿す。  五日 炎晴。草原、牧野四里の間を馬車にて一走し、千曳駅に至る。これより一里の間は汽車によりて野辺地 町︿現在青森県上北郡野辺地町﹀に入る。千曳村には田村将軍の遺跡とて、途中に田村泉と称する清泉あり。往古、田 村将軍弓の先をもって地をつきたれば、水たちまち噴出せりとの口碑伝わるという。本日、県下第一の牧場を通 過せるとき、所見一首を賦す。   東奥平原望澄 、馬過時見路塵揚、車行十里無人屋、半是農園半牧場。   ︵東奥の平原は一望すればかすむほどに広く、馬車のすぎるときは道に塵埃が上がるのを見る。行くほどに   十里のうちに人家もなく、半分は農園、半分は牧場なのである。︶  昨日以来、郡書記鷹山胤三氏同行せらる。午後の会場は小学校、夜分の会場は曹洞宗常光寺、発起かつ尽力者 は町長篠田竜夫氏、助役野坂彦治氏、常光寺、西光寺︵真宗︶、海中寺︵浄土︶、遍照寺︵同︶、有志野村治三郎氏、 校長松内源次郎、成田常次郎二氏なり。宿所立花館は海に枕し、眺望広闊、海気清涼、消夏避暑に適す。よって 即吟を楼上にとどむ。   奥北一湾風月饒、楼頭涼味夏宜消、雲封下北山難認、坐見帆光映暮潮。   ︵陸奥の北の湾は風月の景観もゆたかに、客楼は涼味にみち、夏の暑さを消すにはよい。雲は下北の山をか   くして見えず、座して帆影の暮れなずむ海に映えるのを見るのであった。︶ 335

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 楼名を潮花楼と命ず。       36  六日 曇晴。海上に霧気あり。野辺地より下北郡郡役所所在地田名部町まで陸路十三里にして、車道あるも、 3 その間馬車も人力も往復せず。強いてこれを雇用するときは多額の車代を払わざるをえずと聞き、当夕六時の汽 車にて青森市浦町駅におり、浜町塩谷旅館に一休し、夜十時、南部丸の小汽船︵七十トン︶に駕す。客室満員、 その横臥のありさまは大根漬けのごとし。室内風通ぜず、炎熱はなはだしきに加うるに蚊の襲来あり。海上濃霧 のために深夜二時出航す。  七日 曇り。朝七時、下北郡川内町に停船中、哲学館出身石沢慈興氏︵旧名宇記︶来訪あり。九時、大湊に着 岸す。当所には海軍要港部あり。これより一里半馬車を駆り、田名部山理旅館に一休し、再び馬車に駕し、郡視 学石田幸六氏とともに四里の間を一走して大畑村︿現在青森県下北郡大畑町﹀に入る。その道は郡内有名なる恐山の 山麓と海浜の間を一過す。路傍に牧場あり、また漁場あり。所見一首を賦す。   右望蒼浜左暖原、恐山雲鎖半天昏、潮風声裏浜頭路、一過漁村入寺門。   ︵右に青い海原を望み、左には広々とした原を望む。恐山の雲は空の半ばをとざしてくらい。潮風の音たて   て吹く浜べの道を行き、漁村をよぎって寺の門に入ったのであった。︶  大畑の会場は真宗大︹谷︺派正教寺なり。住職竹園義亮氏は開会につき大いに尽力あらる。発起は竹園氏の外に 村長宮浦力四郎氏、郡会議長森又四郎氏、信用組合長佐藤佐五郎氏、青年団長菊池察玄氏等なり。この日、清冷 にして暑気を覚えず。本村は漁業者多く、昨今すでに名産の一たる鳥賊の漁期に入るという。これより海峡を隔 て函館に対するをもって、北海道出稼ぎ者多しと聞く。これより八里にして大間崎あり。下北半島の最北端なり。

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南船北馬集 第十六編 北海道の対岸へ海上わずかに六、七里に過ぎざる由。恐山の登路は大畑よりも田名部よりも同じく三里と称する も、大畑の方、道路平夷なりという。山上に地獄と極楽とありとてその名高し。地獄は山上の湯気の噴出する所、 極楽は湖水ありてその浜の白砂洗うがごとく清浄なる所を指すとのことなり。旧南部領の人は死後必ずここに至 ると信じ、生時に必ず登拝すという。余はその言を聞きて一絶を賦す。   峰頂風物自恢洪、世事関心忽作空、誰道天堂冥府遠、歴然近在此山中。   ︵恐山の峰の風物はおのずから広く、世の事への関心はたちまちに空しいものとなる。だれが極楽世界や冥   土が遠いなどといおうか。いまはっきりと近くのこの山中にあるのである。︶  当夜の宿所は郵便局兼旅館なる槙屋なり。  八日 雨。朝気冷ややかにしてフランネルを要す。午前中に馬車にて田名部︹町︺︵現在青森県むつ市﹀へ帰り、午 後、丘上に立てる小学校において開会す。郡長小西為助氏は回村中にて面会するを得ず。町長菊池門五郎氏、校 長石井穣氏、円通寺、徳玄寺、浄念寺等の発起にかかる。田名部は維新の際、会津藩の移転を命ぜられたる地な り。これより野辺地まで数年中に鉄道全通すべしという。当地にて恐山の不思議を聞くに、山上に円通寺の出張 所ありて、数百人止宿するを得。その他にも宿舎あれば、毎年七月二十四日には数千人登山してここに通夜すと いう。その湖畔に賓の河原と名付くる所ありて、小宇に地蔵尊を安置す。毎夜自然に小石の積まるるあり。夕刻 ここに至りてその積石を崩すも、翌朝元のごとく積まるるは不思議の一なり。宿坊にありて、深夜地蔵尊の錫杖 を鳴らす音を聞く。これ不思議の二なり。夜中降雨あれば、翌朝必ず堂内の地蔵尊の衣が雨にぬれているは、そ        37        3 の三なりと聞く。登山者は大抵、前日より精進潔斎をなすという。

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 九日 曇り。田名部より馬車によりて大湊に至り、これより陸路五里の間海路をとり、東北丸にて川内町︿現在       38 青森県下北郡川内町﹀に着す。休泊所は安部城鉱山持ち主田中平八氏の別荘なり。食事は季富旅館より送りきたる。 3 会場は劇場にして、発起は町長谷山成章氏、校長三浦清磨氏、泉竜寺、多善寺、憶念寺、本覚寺等なり。憶念寺 石沢慈興氏は最初より本郡の開会に大いに奔走尽力せられたり。これより十余里を隔つる佐井村より石沢寂良氏 きたりて助力あり。郡内の真宗寺院は大抵みな石沢を姓とすという。  十日 朝霧のち晴れ。午後、川内を発し、土呂車にて渓上をさかのぼること一里半、安部城鉱山に至る。途中、 群虻襲来す。この地方は虻の名所にて、室内へもときどき襲撃しきたる。民間にては虻の多き年は必ず豊作なり とて、これを歓迎すという。虻が豊年の瑞兆とははじめてこれを聞く。休泊所は鉱山倶楽部、会場は娯楽館、発 起は所長高橋芳雄氏、課長山田脩太郎氏、および秋元雄次氏なり。しかして講演は夜会なり。  八月十一日︵日曜︶ 炎晴。午前中に安部城を発し、川内町にて少憩して汽船南部丸に移り、宿野部村︿現在青森 県下北郡川内町﹀に上陸し、これより一里余を土呂にて走り、正午を過ぎて同村字西又鉱山に着す。持ち主は安部城 に同じ。当夜、劇場にて開演す。発起は美濃部甲子郎氏、宇治清三郎氏等、宿所は関陽館なり。  十二日 炎熱。日中︹華氏︺九十度に達す。午前、土呂にて走ること約十町、大正鉱山に移る。午後際雨一過す るも、炎氣夜に入りて去らず。休泊所は所長道野能遁氏の宅なり。会場は事務所内にして、晩食後講演をなす。 発起は所長の外に小田桐辰蔵氏、工藤歳太郎氏とす。津軽の名物七夕祭り、これをネブタという。近年は南部地 方にも伝播し、昼夜山車︹だし︺を引き回し、盛んに騒ぎ立つるを見る。一昨日来三力日間、郡内の鉱山を巡講し て所感一首を浮かぶ。

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南船北馬集 第十六編   路与渓流共作轡、黄煙騰処是銅山、仙源今日化都会、車馬朝昏忙往還。   ︵道と渓流とはともに弓なりに曲がる。黄色い煙のあがるところは銅山である。仙人の住むような地は、こ   んにちは都会と化し、車馬は朝も暮れも忙しく往来しているのである。︶  石田視学は当所まで同行せらる。本郡は九力町村にして、学校は分教場をあわせ五十五校ありという。  十三日 朝雨のち曇り。暑気薄し。宿所より海岸まで一里余を土呂にて走り、正午乗船、午後三時、青森市に 着す。石沢氏はわが行を送りてここに至る。市内は名物ネブタの最終日にして、山車の前後仮面をかぶり、仮装 をなして相従う。その状ほとんど狂するがごとし。川内にて舟子が舟を漕ぐときの掛け声がイーヤセー、ゴーラ へーと繰り返し繰り返し、互いに調子を合わすはおもしろし。下北にて聞くに、南部の名物はへである。一のへ、 二のへより九のへまでありて、なおその補助として尻がたくさんある。尻内、尻屋崎、尻労︵みな地名︶、最後に クソドマリがあるという、また奇ならずや。尻労をシッカリとよむ。普通語のシッカリセヨなどは尻に力を込む ることにて、尻労の意なるやも計り難し。クソドマリは文字の方は九艘泊とかくも、読み方はクソドマリなり。 その地名は宿野部の海岸にあり。これ下品の話なれども一笑にあたいす。青森の宿所は塩谷旅館なり。旧友平沼 淑郎氏と期せずして会す。この日、県視学能登谷甚五郎氏、視学官に代わりて来訪あり。  青森県下の旧南部と称する方面を巡了したれば、その地方の方言を記せんに、その中には他方面に共通のもの も加われり。牛をベコ、蛙をビキ、ヒキガエルをモラビキ、飯を盛るシャモジをヘラ、鉄瓶をカマコ、農夫の編 み笠をバオリ、ジャガ芋を二度芋、暑いを暖カイ。下北郡の下等社会は父をダダ、母をチチと呼ぶ。母をチチと        ㎝ いうは奇なり。乳よりきたりし語ならんとの説あり。赤児の生まれたることをニガナシタという。ナシタは産出

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の義なり。語尾にオマへを付くることあり。例えばソウダオマへというときのごとし。また、上北郡にてはセと への相違あり。例えば兵隊をセイタイといい、煎餅をヘンベイというがごとし。青森県にては町内の各戸に軒下 の通路あり。越後にてこれをガンギというが、本県にてはコミセという。海岸に生ずる草にて、方言ニオと名付 くるものあり。子供はこれをとりて食す。甘味ありという。旅宿につきては、本県は岩手県のごとく旅館と料理 屋との兼業を許さざるは大いによし。下女は気がきかざるも質撲なるはまたよし。客室の風通し悪しく、室ごと に炉または大火鉢を置くがごときは、冬に適するも夏に適せず。ビールは物価騰貴のため、関西は大瓶一個四十 銭なるが、本県は三十五銭なり。茶は旅館まで比較的上等の品を用う。 340

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青森県巡講第二回︵旧津軽︶日誌

南船北馬集 第十六編  大正七年八月十四日 晴れ。昨夜来、青森市︿現在青森県青森市﹀に入宿せしにつき早朝、知事川村竹治氏、内務 部長児玉孝顕氏、視学官山中恒三氏を歴訪す。午後、新町小学校において開催せられたる市教育会に出講す。発 起は会長工藤卓爾氏、副会長窪田春吉氏、幹事大平勝郎氏なり。市長阿部政太郎氏にも席上にて面会す。青森大 林区署に在勤せる石塚茂孝氏は、東洋大学出身の縁故をもって当地開会に非常の尽力あり。演説後、晩六時半発 にて東津軽郡中平内村︿現在青森県東津軽郡平内町﹀字小湊に移り、夜会に出演す。会場および宿所は真宗泉流寺な り。聴衆満堂、その中に婦人の数男子よりも多きことと、念仏の声の演説中にときどき起こることとは、当夕の 特色と認む。住職無井霊瑞氏は先遊の際、各所へ案内せられたる旧識にして、今回も大いに奔走あり。故に余は 特に﹁無井而汲法水、無鋤而耕仏田、是即霊瑞不可議也﹂︵無井︹井戸もない︺なのに仏法の水をくみ、鋤なくして 仏教の田を耕す。これはすなわち霊瑞︹霊妙なめでたいしるし︺であること、議論の余地はない。︶と書して氏に贈 る。  十五日 晴雨不定。午前、小湊曹洞宗東福寺において開演す。発起は村長森田盛健氏、校長種市有隣氏なり。 これより汽車にて青森市に帰る。この里程七里の中間に浅虫温泉あり。先遊の節入浴せしに、極めて田舎式の客 舎のみなりしが、今は全く面目を一変せり。東奥館、仙波館等あまたの旅館あり。青森に着するや塩谷旅館にて 午餐を喫し、これより矢のごとき一直線の道路、一里余を車行して荒川村︿現在青森県青森市﹀に入る。これを監獄 341

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道路と称す。本村に監獄署あるによる。会場は小学校、主催は荒川、大野、高田三村連合なり。荒川村長桜井文 吉氏は、青森よりここに案内せられたり。典獄島田鍬太郎氏および郡視学荒谷元一氏、出席せらる。東津軽郡長 は藤原喜蔵氏なり。演説後、暫時茶話会し、ただちに哲学館出身柿崎平造氏の案内にて青森経由、油川村︿現在青 森県青森市﹀に至り、村長西田林八郎氏の宅に投ず。行程二里半、市外万頃の米田は往々すでに穂を吐きつつある を見る。  十六日 晴雨不定。午後、油川小学校において開演す。村長西田氏および校長佐藤良則氏の発起なり。西田村 長は、事業家にしてかつ篤志家をもってその名高し。すべて公共事業には率先して力を尽くさるるという。本村 は青森の根元地にして、今より二百七、八十年︹前︺までは北海道へ出入する要港なりしという。目下は外人の経 営にかかれる鰯の缶詰を製造する工場あり。  十七日 雨。朝、馬車にて西田氏の宅を発し、約一里、新城駅に至りて汽車に駕す。そのつぎに大釈迦と名付 くる駅あり。奈良の大仏駅と好一対なり。午後、南津軽郡浪岡村︿現在青森県南津軽郡浪岡町﹀小学校において開演す。 村長岡田清平氏、主として大いに尽力せられ、その他海老名行氏、土屋俊蔵氏、岩谷節氏、寺山祐雄氏、平野喜 太郎氏、山内英七氏等十三名の諸氏みな助力ありて、哲学堂維持金も望外の多額を拝受するに至る。宿所玄徳寺 は真宗大谷派なり。当夕、虫声を聞きて所感一首を賦す。   津軽平野路縦横、稲田抽穂覚秋生、朝来風雨涼俄起、一夜客庭虫有声。   ︵津軽の平野の道は縦横にはしり、稲田には穂が出でて秋の気配をさとった。朝からの風雨に涼味がにわか   に起こり、一夜の宿の庭に虫の声をきいたのであった。︶ 342

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南船北馬集 第十六編  岡田氏は哲学館の関係者上、先遊の際も奔走の労をとられたり。  八月十八日︵日曜︶ 晴雨不定。午前、浪岡を発し、川辺駅まで汽車、これより約三十町の間腕車をとりて、藤 崎村︿現在青森県南津軽郡藤崎町﹀に至り、午後小学校に開演す。村長藤本栄氏、校長千葉有定氏、教育会理事福士義 光氏、副会長小笠原保雄氏等の発起にかかる。本村は真宗寺院称名寺ほか数力寺あるも、ヤソ教信徒も少なから ず、種々の宗教信者ありと聞く。演説後ただちに車をめぐらす。四望一面稲田なり。川辺より軽便に駕し、郡役 所所在地たる黒石町︿現在青森県黒石市﹀に入る。当夜、真宗感随寺において開演す。仏教洪済会の主催にて、住職 穴水義鎧氏、来迎寺小鹿秀明氏、保福寺山口覚明氏、および法眼寺、円覚寺、長寿院の発起にかかる。なかんず く小鹿氏中心に立ちて非常に奔走尽力せらる。宿所は岡崎旅館なり。  十九日 晴れ。早暁、旅館の三層楼より回望するに、岩木山と八甲田山との左右に勇ましく頭肩をそびやかせ るを見る。午前、郡長松下賢之進氏来訪せらる。当日は旧七月十三日にして町家、寺院ともに繁忙を極む。故に 午後、小学校において郡教育会のために講演せるも、聴衆いたって少なし。発起は郡長の外に町長山田文弥氏、 校長大平喜三郎氏なり。当地にて盆の馳走を聞くに、赤飯とヤキ豆腐とモヤシとを用うという。モヤシは豆のモ ヤシにあらずして、蕎麦のモヤシなり。その味すこぶるよく、賞味するのあたいあり。夜に入れば、みな墓参を なす由。  二十日 曇り。郡視学杉森秀一郎氏不在なれば、郡書記千葉恒之進氏各所へ同行せらる。午前、車行二里半、 大光寺村︿現在青森県南津軽郡平賀町﹀松崎小学校に至りて開演す。青年団長須々田孫九郎氏の発起なり。午後、車行 約一里、柏木町村︿現在青森県南津軽郡平賀町﹀小学校に移りて開演す。教育分会長工藤友太郎氏の発起なり。この両 343

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村は純農村にして、米作を本位とす。演説後、更に腕車を進むること一里余、丘山の間を漸次登りつつ竹館村︿現 在青森県南津軽郡平賀町﹀字唐竹相馬貞一氏の宅に至る。その宅はこの地方の旧家にして、庭園の老樹巨石、その配 置雅にして趣あり。今夕旧盆十四夜に当たり、街上の盆歌相伝えて客席に入る。ときに微雲淡月なり。   一夕山荘養旅情、青松白石満庭清、朦朧月下聞歌曲、便是津軽盆踊声。   ︵一夜、山荘に旅の心を養う。青い松に白い石を配して、庭すべてに清らかさが満ちている。おぼろ月の光   のもとに盆歌が聞こえてくるのは、すなわち津軽の盆踊り歌なのである。︶  津軽は盆踊りの名所として世に知らる。東洋大学出身者の一人たる相馬栄造氏は貞一氏の舎弟なるが、不幸に して隔世の人となられしにつき、当夕その宅において追弔の講話をなし、かつ遺像に左の語句を題す。   修学吾校、業成帰郷、心有所期、前途悠長、事与志違、身臥病淋、天何無情、君遂夫瘍、予対遺像、 然自   傷。   ︵わが校に学業を修め、卒業して故郷に帰る。心にきめたことがあり、前途は遠く広いものであった。しか   るにこと志にたがい、身は病床に臥すこととなった。天はなんと無情であることよ、君はついに若死にす。   予は君の遺影にむかい、荘然としてかなしむ。︶  二十一日 晴れ。午前、唐竹小学校において開演す。村長相馬清助氏、軍人分会長丹代義男氏、校長藤林多三 郎氏の発起にかかる。本村は林檎の本場、その産額一力年七万円と称す。樹一株につき七、八百ないし一千個を 収得すという。村内村外ほとんど檎樹をもって満たさる。   一過稲田入紫微、満林珠玉暑余肥、山村生産培檎樹、売果年々購食衣。 344

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南船北馬集 第十六編   ︵稲田をよぎって紫微に入れば、林は珠玉のようなりんごに満ち、暑さのなかに大きくなってゆく。山村の   生産はりんごの木を育てて、果実の利益は年ごとに上がり、衣食の費にゆたかにあてられているのだ。︶  午後二時、唐竹を発し、車行二里半、大鰐村︿現在青森県南津軽郡大鰐町﹀小学校に至りて開演す。教育分会副長原 源吉氏、青年団長今良健氏等の発起にかかる。当所は県下第一の温泉場たり。昨年火災にかかりしも新築たちま ち成る。休憩所は工藤旅館なり。その館は江流に臨みて清風座に満つ。湯殿および便所の設置すこぶる清新にし て、当所第一の旅館たるの名に背かず。この外に大鰐ホテルあり。これに次ぎて金森等数戸あり。名物は林檎と アケビ細工なり。晩食後、旧七月十五日の明月をいただき、三里の間汽車にて弘前市︿現在青森県弘前市﹀に移る。 車窓吟一首あり。   半日楡閑浴鰐泉、初更戴月向弘前、満天如昼清輝涯、望裏分明認倒蓮。   ︵半日ほどは時間をもうけて、大鰐温泉に浴し、夕暮れに月を頭上にして弘前に向かった。天空のすべては   昼のごとく清らかな輝きにみち、じっと望み見るうちに、明らかに津軽富士の姿をとらえたのであった。︶  倒蓮とは岩木山すなわち通称津軽富士をいう。宿所石場旅館は駅より半里あり。旧遊当時の宿泊所なり。これ に次ぐものに斎藤旅館あり。  二十二日 晴れ。午前、物産陳列所を一覧し、名物の漆器、アケビ細工を購入す。午後、仏教護国団の主催に て開催せられたる開会に出演す。会場は公会堂なり。昨今は米価暴騰一升五十銭を呼ぶに至り、各所に貧民暴動 ある際なれば、公会堂において米穀を安価にて売り渡すの広告あり。当市発起は左の数氏なり。       45       3   最勝院鷲尾照尭  長勝寺山口彰真  報恩寺小林道詞  法立寺八戸随静  円明寺下間芳山

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  天徳寺相馬励雄  分監長三浦=二  以上の諸氏は一方ならざる尽力あり。市長石郷岡文吉氏も助力せらる。哲学堂維持金のごときは全国無比の多 額を拝受す。その結果はただに青森県において第一たるのみならず、一カ所一日間の開会として実に空前の最好 成績を得たり。これ発起諸氏に対し深くかつ大いに感謝するところなり。当市にてはあらかじめ法立寺内に井上 博士招聰事務所を設けられ、住職八戸氏その主事となりて、百方尽痒せられたるは特にその労を謝せざるを得ず。 あまり賛成者多数に上りたるために、未明より深更まで揮毫に忙殺せしめられたり。  二十三日 曇りのち雨。午後一時、弘前を発し、旧城跡今公園を一覧す。満池の蓮花まさにたけなわなり。こ れより車行一里にして中津軽郡大浦村︿現在青森県中津軽郡岩木町、弘前市﹀に入る。会場は小学校、主催は河西倶楽 部、発起は倶楽部幹事高谷英城氏︵船沢村︶、大浦村長斎藤普策氏、駒越村長柴田益太郎氏、岩木村長須藤市右衛 門氏、船沢村長前田良直氏なり。橋雲寺住職手塚智猛氏および在京中なる野崎栄氏もともに尽力あり。宿所は郵 便局長五十嵐長晴氏宅なり。夕刻、村内の某料理店において慰労会を設けらる。本村の特産はアケビ細工にして、 その産額一年六、七万円という。本村は県下第一の名山岩木山に登る本道に当たる。毎年旧七月二十八日より八 月十五日までの間は、白衣の行者群れを成して登山すという。  二十四日 晴れ。馬車にて弘前を経、北津軽郡板柳村︿現在青森県北津軽郡板柳町﹀に至る。行程四里、稲田全部出 穂せり。人みな豊年を歓呼す。会場小学校は増築工事中なり。主催は青年会、発起は会長竹浪集造氏、校長笹惣 太郎氏、村長吉村文蔵氏、正休寺住職高沢徹蔵氏、六郷校長工藤大成氏等にして、みな大いに尽力あり。晩食後、 馬車を駆ること一里半にして小阿弥村︿現在青森県北津軽郡板柳町・鶴田町﹀に入る。純農村なり。小学校において夜 346

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南船北馬集 第十六編 会を開催す。主催は同窓会、発起は村長安田常三氏、助役田沢三郎氏、校長高嶋徳太郎氏、訓導工藤金助氏等に して、いずれも尽力あり。宿所は工藤長吉氏宅なり。その家、水車および雑貨を兼業とす。この夜、明月天にか かり、清光空に満つ。旧七月十八日に当たる。  八月二十五日︵日曜︶ 晴れ。車行三里、北津軽郡五所川原町︿現在青森県五所川原市﹀に至る。板柳とともに曾遊 の地なり。この辺りは津軽平野の中心に当たり、山遠く田ひろく、津軽七十万石をこの間より産出す。不日、鉄 道の開通を見るに至らん。会場は公会堂、発起は町長佐田正之丞氏、校長坂本紋作、釜萢彦作両氏、玄光寺住職 柿崎智恩氏、青年会総代外崎千代吉氏等なり。この日、招魂祭余興の時間と衝突し、聴衆比較的少なし。郡長見 坊田鶴雄氏の代わりに、視学笹井正太郎氏訪問あり。宿所古一旅館にて望むに、今夕も一天片雲なく、明月暗然 たり。  二十六日 快晴。昨今は朝︹華氏︺七十度、昼︹華氏︺八十度ぐらいの気候となり、暑気しのぎやすし。午前、腕 車にて稲花香裏を一過して金木村︿現在青森県北津軽郡金木町﹀に至る。里程三里、一望無涯すべて稲田なり。その一 部分は実すでに成りて頭を垂るる。平田の広闊なるありさまは庄内以上にして、越後蒲原郡内を一過するがごと き観あり。背視すれば津軽富士の高く半空にかかるを望む。その形改まりて円錐状をなす。よって一詠す。   平野無涯闊似州、稲花香裏路悠々、回頭岩木山容改、峰角衝天北郡秋。   ︵平野は果てしなく広く越後蒲原の地に似て、稲の花の香りにつつまれた道がかなたにのびている。ふりか   えって見れば岩木山の姿もかわり、峰の一方は天を突くかと思われる北津軽の秋である。︶  途中、村社の祭礼あるを見る。各町村、各部落より青年輩が大太鼓をかつぎきたりてここに集まる。聞くとこ 347

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うによるに、津軽地方にてはときどき太鼓の競打会ある由。祭礼の余興にこれを行う。江州愛知郡内に各村競っ て大太鼓を備うる所あるも、相集まりて競打をなすにあらず。よって競打会は津軽名物に加えて可なり。金木に ては午後一時、宿坊南台寺において修養講話をなし、引き続きて第一小学校において国民道徳の講演をなす。更 に夜に入りて、宿寺にて日曜学校生徒に対して談話をなす。その生徒みなよく真宗の正信偶を諸記し、仏前にお いて異口同音に高唱す。すこぶる殊勝なり。発起かつ尽力者は住職生玉慈照氏、助役高橋良三郎氏、校長羽賀猛 雄氏とす。高橋弥左ヱ門氏、高橋昌五郎氏、中村喜徳氏、木村園男氏も助力あり。当地は市街の形をなす。五所 川原以北の都会なり。名物としては虎屋のシソマキあり。これを甘露梅という。終宵虫声卿々、秋味津々たり。  二十七日 暁天、際雨一過のち晴れ。車行三里半にして内潟村︿現在青森県北津軽郡中里町﹀に達す。その地、一方 丘山を控え、他方十三潟に浜す。半島の北端なる小泊に至る駅道に当たる。小泊まではなお六里あり。また、こ れより一嶺を越ゆれば三厩に至るべし。三厩は源義経、北海道に渡りし地として知らる。その村の義経寺に当時 の遺物ありという。内潟会場は小学校、主催は役場、発起は村長奥田順蔵氏、役場員、各校長なり。奥田氏は村 治改良に熱心なりと聞く。当夕は民家野上丑松氏の宅に宿す。戸前に盆踊りあり。越後の踊りと大同小異なり。 津軽にては盆七日と称し、十四日より二十日まで踊るという。村内戸数約六百ありて一寺なきを特色とす。  二十八日 炎晴。小舟に駕して十三潟を渡る。十三の江流集まりてこの潟をなせるより、その名を得たりとい う。周囲六里、長さ二里強、幅一里弱、州多く芦茂る。その水底に古城市ありと伝う。今より八、九百年前、土 地陥落して城市ともに水底に入りしもののごとし。桑海の嘆なきを得ず。近年、浅渚を埋めて米田とす。舟中吟 一首あり。 348

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南船北馬集 第十六編   舟破十三湖上姻、波平風静樟声円、農村今日勤開墾、浅渚逐年為美田。   ︵舟は十三湖上にただようかすみをやぶって行く。波もなく風は静かで、かいの音もおだやかである。農村   は、こんにち開墾に努力しており、水の浅いなぎさ近くは毎年のように美田に生まれかわっているのである。︶  一樟三時間にして西津軽郡十三村く現在青森県北津軽郡市浦村vに着す。本村は海口にありて、維新前までは津軽の 要港なりしが、その後ようやく衰え、ことに東北鉄道開通以来大打撃を受け、船舶の出入なく、物産の集散なく、 全く寒村となれりという。その地は湖海の間に挟まれる帯のごとき砂原にして、耕すべき田畑なければ、主とし て北海道の出稼ぎをもって生計を立つる由。会場は小学校、発起は村長横岡秀雄氏、校長大橋勇吉氏なり。郡視 学小浜嘉七氏は自転車にて鯵ケ沢より十里余を一走してきたり会せらる。宿所今石旅館は日本海に向かいて開き、 万里一碧、波光軒に入る。一絶を賦して壁頭に題す。   西郡尽頭登海楼、潮風洗暑冷於秋、万波一碧無遮目、夕日沈辺是露州。   ︵西津軽の地の果てに、海辺に近い旅館の階上にのぼる。海からの風は暑さを洗い流して秋よりも冷たい。   打ちよせるすべての波がみどり一色に、一望して目をさえぎるものはなく、夕日の沈むあたりにあるのはロ   シアである。︶  楼頭より望むに、三里を隔てて海中に突出せる巌岬を認む。これ権現崎なり。その岬外に小泊ありという。当 地にてはむかしより、蚊三匹生じたる年は豊年なりといえりと聞く。暑気の強きを意味するなり。近年衰微に伴 って年々蚊の増加を見るに至るという。       珊  二十九日 炎晴。荷馬車に駕して十三村を発し、約七里の間を四時︹間︺半を費やして出精村く現在青森県西津軽郡

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木造町﹀に入る。途中は林轡と稲田の間を通過し、すこぶる無趣味なるも、当面に岩木山の尖峰の屹然たるを仰ぐ       50 は目をたのしましむるに足る。本日の暑気︹華氏︺八十六度、例年になき残暑なりという。会場は小学校、発起は 3 村長高橋佐太郎氏、助役白戸平胤氏等、宿所は福島直三郎氏宅なり。本村は米作一方の農村にて畑地に乏し。一 反歩の収穫平均四、五俵、そのうち小作料は二俵ぐらい、売買価額は二百円ないし三百円なりと聞く。村内水田 のみなれば、民家の燃料乏し︹き︺をもって、サルキを用う。サルキは泥炭のことにて、五所川原以北の地下より 掘り出だすものなり。草と泥との混結せるもの、これを薪炭に代用す。一種の臭気あるも、常用せるものはその 臭を感ぜずという。その形は煉瓦よりも少々大形なるが、燃料騰貴のために一個一銭五厘ぐらいなる由。夜に入 りて、隣家に砧声盛んに起こる。各戸より洗濯物の乾きたるを持ち寄り、少女が木盤の上にて槌をもって打つ。 全く朝鮮式なり。このサルキと砧とは、これまた津軽の名物に算入すべし。  三十日 曇り。車行約一里にして木造町︿現在青森県西津軽郡木造町﹀に入り、公会堂において夜中開演す。発起は 助役福士徳弥氏なり。これまた曾遊の地なれども、旧識と相会せず。旅館葛西館の浴室および便所は珍奇無類な り。雪中用の藁靴、方言︹の︺権平ツマゴ等を購入す。  三十一日 晴れ。午前、公会堂において婦人会のために一席の講話をなし、ただちに車行一里強、森田村︿現在 青森県西津軽郡森田村﹀に移る。岩木山麓に接する村落なり。資産家の多きは県下第一と称せらる。会場は小学校、 発起は村長島田惣作氏なり。しかして宿所は浄土宗浄業寺なり。昨今は堆肥用野草を刈る最中にて、聴衆いたっ て少なし。  九月一日︵日曜︶ 晴れ。車行三里余、郡役所所在地たる鯵ケ沢町︿現在青森県西津軽郡鰺ケ沢町﹀に至る。本町は丘

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南船北馬集 第十六編 陵と海湾との間に細長く横たわれる市街にして、舞戸村と相連なり、市街の長きこと一里半に及ぶ。はるかに水 天の間に北海道の山影を望む。午後、小学校、夜分、宿所来生寺において講話をなす。学校の方へは郡長酒井隆 吉氏も出席せらる。住職園村義制氏は真宗大谷派の賛衆にして、活動家なり。今回も大いに尽力あり。主催は園 村氏の外に、町長尾崎有隣氏、会社員園村義典氏、町会議員三橋洋氏、有志小山内健太郎氏、校長小山内鉄之助 氏、町会議員富所忠次郎氏、助役中村皓氏、同長谷川哲郎氏にして、哲学堂維持金につきては弘前に次ぐべき大 好成績を見たり。これ発起諸氏に深謝するところなり。先年ここに宿せし際は盆踊りの最中にて、終宵安眠を得 ざりしことを今なお記憶す。当町の名物は難波煎餅と称し、満面砂糖を塗りたる煎餅なり。  二日 晴れ。馬車にて約十里、海浜に沿い西北に向かいて走る。右には日本海の油荘無際を望み、左には丘山 の起伏せるを見る。中間の金木に一茶店あり、昼食を喫了す。深浦村︿現在青森県西津軽郡深浦町﹀に入らんとすると き、夕陽すでに海中に沈む。十里の行程に八時間半費やせり。この間には大戸崎および吾妻の奇勝あり。あるい は巨岩海中に突出し、あるいは平岩の千畳敷きを成し、あるいは巌壁の屏立せる景色なり。途中に震木の地名を 見る。これをトドロキと︹よ︺む。珍名なり。車上吟、左のごとし。   車行十里度仙関、路在蒼姻碧浪間、背視秋天雲断処、;目影是北門山。   ︵馬車をはせて行くこと十里、仙人の住む里の入口に至る。道は青いもやとみどりの海の間を行く。背後を   見れば秋空の雲間に、青い山影があるのは北の大地の山々である。︶  深浦は小湾深く入りて和船の避難に適す。汽車線路まで約二十里を隔つ。故に村内には汽車を知らざるもの多 し。老男老婦は、汽車は汽船と同一の形を有するものと思うという。最初、汽車を陸︹おか︺蒸気と称せしより起 351

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こせる想像なり。東京︹の︺新聞は三日間、青森︹の︺新聞は二日目に着する由。実に大正の仙郷なり。開会は夜分、       52 会場は小学校、発起は村長佐藤幸一郎氏、校長野呂喜代吉氏、僧侶今大路観梁氏等なり。当所の円覚寺は真言宗 3 にして、有名の観音あり。海浦義観氏その住職なり。宿所秋田屋の掲示を見るに、宿泊料一等一円五十銭、二等 一円十銭、三等八十銭、握り飯十銭、酒一本につき上方酒二十銭、大山酒︵庄内︶十七銭、地酒十四銭とあり。 湯代は五銭、斬髪は十五銭、按摩は二十五銭と聞く。  三日 曇り。午後大雨きたる。午前中に荷馬車に駕し、一嶺を上下して岩崎村︿現在青森県西津軽郡岩崎村﹀に入 る。登路一里、降路一里、その間に満庵︹マンガン︺鉄採出所あり。鯵ケ沢よりここに至るの間、山田みなすでに 実を結べり。会場は小学校、発起は村長大屋重兵衛氏、校長小山内平内市氏、宿所は青年団長七戸藤之助氏の宅 なり。郡役所より郡書記須田定雄氏、わが一行を送りてここに至る。  四日 晴れ。早暁、荷馬車にて岩崎を発す。津軽の荷馬車はかまぼこ形の日よけありて、シナの客馬車に似た り。国界まで五里の間に奇洞二あり。その一はガンガラ穴といい、その二は仙北穴という。伝説によれば、むか しこの岩洞へ犬を追い込みたるに、その犬秋田県の仙北郡に出でたるより仙北のこの名称起これりという。二洞 ともに海岸の断崖中にあり。また、渓流をさかのぼりたる所に日グラシと名付くる絶勝あり。人きたりてここに 遊べば、日の暮るるまで去ることあたわずという。岩崎より国界まで五里、本郡は延長二十五里あり。国界にそ びゆる白神山は、八甲田山、岩木山とともに県下の三大高山をもって知らる。国界より更に行くこと三里にして、 秋田県山本郡椿鉱山︹八森村︿現在秋田県山本郡八森町﹀︺に達す。この日、行程八里、休泊所は鉱山迎賓館なり。その 館は海浜に立ちて、海山の眺望、欝を散ずるに足る。当夕、宿所において講話をなす。所長八木章香氏は不在と

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南船北馬集 第十六編 聞く。庶務課長田村与之助氏および同課三輪和佐吉氏、諸事を斡旋せらる。鉱山事務所の名称は八盛鉱業所なり。 椿の村名八森なるに基づく。本郡長荒田読之助氏は七、八年前、愛媛県にて相識となれり。視学鹿子畑秀重氏は 三年前、十和田湖を案内せられたる旧知なり。視学はわざわざこの地にきたりて歓迎せらる。本日の車上吟一首 を左に掲ぐ。   一路乗風入羽州、蝉声草色已催秋、海中何物蒼然立、不問自知雄鹿洲。   ︵一路、風にさそわれるようにして羽後の地に入った。蝉の声や草の色にもすでに秋の気配が見える。海中   になにものか青々として立つものがあるが、きくまでもなく男鹿半島なのである。︶  五日 晴れ。早朝六時半、椿を発し、馬車にて行くこと五里、能代港町に着し、九時四十分発に乗車。秋田、 山形経由、六日朝七時、上野に着す。  津軽巡講中聞き込みたる名物盆踊りの俗謡二、三を左に採録せん。   テタナ︵出穂のこと︶カぐダナ︵穂のかがんだこと︶前田の早稲よ、出タシ屈タシ苅るばかり。   トダバ︵いかにかの意︶家このテデァ︵父︶山降りせねやアな、十日や二十日で山おりならねや。   アベジヤ︵行こうじゃないかの意︶此の馬こ苗代地かぐに、行けば柳の若萌かせる︵食わせる︶。   夕べ見た夢アてんぽな夢だ、奈良の大仏様鳶アさらた︵鳶にさらわれたの意︶。   岳の白雪ア朝日で融ける、とけて流れて吉田の川へ︵岩木山の麓を流るる川の名︶。  その他、方言の加わらざるものに﹁高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り﹂、また﹁雨の降る様に銭金ふれ       蹴 ば、野でも山でも倉たてる﹂等種々あるも、ここに略す。

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 つぎに、方言につきて特殊なものを挙示するに、       54   蛙をモツケ、蝶をテコナ、猫をチヤッペ、蜻蛉をタンブリ、編み笠をトコマンボー、羽織をバオリ、虎杖︹い 3   たどり︺をサシト、子供をモツケまたはワラシ、母をアッパ、父をテデ、子守をアダコ、物のはじめをショウ   ジト、砧をジョウバ、巫女をイタコ、中座︵神寄せ︶をヨリ祈禰、若き女をメラシ、若き男をワカゼ。  その他、ヤカマシイことをセワシイ、例えば波の音のヤカマシイを波がセワシイという。大層をジヤッキとい い、トンチンカンをピコタコといい、耳語をヨダコといい、そこつをトンテキ、立腹をエセルといい、サビシイ をシゲナイ、気持ちのよいことをアズマシイという。また、ビックリ驚天転倒したというところを、ワイハ、ド ンデン、ブチマケタという。ここに一話あり。青森県人が東京へ出ずるとき、東京にては物名の下にコを付くる と笑わるるから、付くるなと注意せられば、その者東京にきたりて、キナコを買わんと思い、乾物屋に行き、キ ナはないかと尋ねたりとの奇談を聞けり。つぎに迷信につきては、疫病流行のときに念仏を唱えて道路を歩き回 るという。また、大火のときには防火のマジナイとして、婦人の腰巻きを竿につけて振り回すという。また、葬 式を出だすに丑の日を嫌うという。狐つきを信じ、巫女を信じ、病人のタマシイが遠方の親戚、友人の所に至り てその姿をあらわすものと信ず。西津軽郡に車力村あり︵十三村に接近す︶。その字牛潟の三五郎稲荷は非常に信 者多く、毎年旧三月十日には数万の参詣群集をなす。みな病気を祈り福寿を願うためなりという。また、二百十 日の前夜、ゆうがおを切りて田水の入口に立ておく。これ暴風のマジナイなりという。風俗につき︹て︺は秋田県 と大略相同じ。婦人に歯を染むるもの多し。婦人が田畑に出でて働くときに、黒き風呂敷型の布をもって頭部を 包む。この姿は南部地方において再三見受けたり。庄内のかぶり物とは異なれり。酒席において人に杯を献ずる

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ときには、必ず台を付けて差し出だす。これ鹿児島の風に同じ。民家には座敷便所を置かず、苗代の田には稲を 植えつけぬ等は東北一般なり。人の姓としては、一、工藤、二、成田、三、斎藤を最も多しとす。そのつぎは佐 藤なる由。姓の多きをベコの糞という。すなわち牛糞のことなり。ついでに下等の方面も述べんに、寒村僻地の 民家は糞紙の代わりに、藁屑、藻屑、木葉、木片等を用うという。むかしは張り縄をまたぎたる話もあり。  青森県の地形は愛知県の地形に類し、ともに両半島が角のごとく突出しておる。愛知県の方はがまに似て、青 森県の方は蟹に似ているはおもしろし。蟹が鋏を出だして北海道をはさまんとする形が、すなわち青森県なり。 よろしくその地形のごとく、北海道の利益をつかみとるように努力ありたきものなり。 南船北馬集 第十六編 青森県開会一覧 ︵市郡︶ 青森市 弘前市 三戸郡 同 同 同 同 ︵町村︶ 八戸町 三戸町 五戸町 北川村 是川村 ︵会場︶ 小学校 公会堂 劇場 小学校 小学校 小学校 寺院

二二二二二二二席

席席席席席席席数

︵聴衆︶ 百五十人 六百人 一千人 五百人 五百五十人 四百人 三百人 ︵主催︶ 市教育会 仏教護国団 青年団および教育会 同町 青年団 青年団 同村 355

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同 同 上北郡 同 同 同 同 下北郡 同 同 同 同 同 東津軽郡 同 同 同 湊村 浅田村 七戸町 三本木町 野辺地町 同 百石村 田名部町 川内町 同 大畑村 宿野部村 同 中平打村 同 荒川村 油川村

小小寺寺事劇寺劇劇小小寺小小小小小

学学院院務場院場場学学院学学学学学

校校  所    校校 校校校校校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

三百五十人 五百人 三百五十人 四百人 五百人 百五十人 三百人 二百五十人 三百五十人 七百人 六百五十人 六百人 百五十人 七百人 三百人 百五十人 二百五十人 三村連合 振興団および青年団 役場、学校 町役場 役場、学校、寺院 各宗寺院 村役場 各宗寺院 町長および有志 安部城鉱山 村長および住職 西又鉱山 大正鉱山 住職 村長 三村連合 村長、校長 356

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南船北馬集 第十六編 南津軽郡 同 同 同 同 同 同 同 同 中津軽郡 北津軽郡 同 同 同 同 同 同 黒石町 同 浪岡村 藤崎村 大光寺村 柏木町村 竹館村 同 大鰐村 大浦村 五所川原町 板柳村 小阿弥村 金木村 同 同 内潟村

小同寺小小小公小小小自小小小小小寺

学前院学学学会学学学宅学学学学学院

校  

校校校堂校校校 

校校校校校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

三百人 百人 四百人 二百五十人 四百人 三百人 三十人 三百五十人 四百人 四百五十人 五百人 四百五十人 二百五十人 三百人 二百人 百五十人 三百人 洪済会 教育分会 同前 青年団 青年団 教育分会 相馬貞一 村長 教育分会 河西倶楽部 役場および寺院 青年会 同窓会 村役場 住職および檀家 日曜学校 役場 357

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西津軽郡 同 同 同 同 同 同 同 同 鰺ケ沢町 同 木造町 同 十三村 出精村 森田村 深浦村 岩崎村 ︵付︶秋田県山本郡八森村 計二市、八郡、ほか   十人  演題︹類別︺   一、詔勅修身⋮⋮   二、妖怪迷信⋮⋮   三、哲学宗教⋮⋮   四、教育⋮⋮⋮⋮ 小学校 寺院 公会堂 同前 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 倶楽部 一郡、 ⋮⋮⋮四十五席 ⋮⋮⋮二十三席 ⋮⋮⋮⋮十五席 ・⋮⋮⋮:六席

席席席席席席席席席席

四百人 五百人 四百人 百人 三百人 三百五十人 百人 四百人 二百人 百五十人 三十九町村︵十ニカ町、二十七力村︶、 町役場 同寺 町役場 婦人会 村長 村役場 村役場 村役場 村役場 八盛鉱山所長  五十一ヵ所、 九十六席、一万八千百八 358

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南船北馬集 第十六編 五、実業 六、雑題 五 二 席 席 359

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伊豆長岡温泉入浴記

360  大正七年九月十七日。東京を発し、豆州田方郡川西村長岡温泉に入浴す。本年は二月以来東奔西走、ほとんど 半日の休養をなすの余暇なかりしために、身心ともに大いに疲労を感じたれば、これをいやする目的なり。汽車 は三島駅にて駿豆線に乗り換え、南条駅に降車す。これより十町にして古奈温泉あり。旧本陣と称する旅館の外 には格別の客舎なし。これより更に八町にして長岡温泉に達す。南条駅より車賃二十五銭の規則なり。余は大和 館に宿す。当所第一の評なり。これに次ぐものを肴屋とす。そのつぎに山田屋、橋本屋等、総じて十戸あり、み な内湯を有す。更に一丘を越ゆれば長岡館あり。地勢は谷間にして、四方に丘陵をめぐらす。故に遠望するを得 ず、ただこの一事を欠点とす。楼上にありて望むときは、葛城山の一峰、軒前にかかるを見る。その形富士に似 たれば、余はこれを長岡の小富士と名付けり。滞在中の漫吟二首あり。   狩野川西古奈傍、新泉沸処是長岡、四時万客来相浴、冬適避寒夏納涼。   ︵狩野川の西、古奈温泉の近く、新たに温泉の湧き出るところ、それが長岡温泉である。四季にわたって多   くの客が来て入浴し、まことに冬は寒さを避け、夏は涼を得るにうってつけのところなのだ。︶   荒堅開泉万客従、浴余吟賞翠雲濃、窓前山影知何物、即是長岡小富峰。   ︵大きな谷に開かれた温泉には多くの浴客がひきもきらず、沐浴の後は緑の濃密さを鑑賞する。窓の前に見   える山影はなにかといえば、これこそが長岡の小富士なのである。︶

(34)

南船北馬集 第十六編  十九日はまさしく旧八月十五夜に当たり、天晴れて光朗らかなれば、所見一首を賦す。   養病旬余在豆州、客窓今夕会中秋、晴空一道光華漆、月白長岡泉上楼。   ︵疲れをいやして十日余も伊豆に滞在している。旅館の窓に今宵は中秋の名月を迎えた。晴れた空にひとす   じの光があふれ、月は白く長岡温泉の楼閣の上にある。︶  二十四日、暴風雨。二十六日、快晴。徒歩三十町、三津浜に遊ぶ。これをミトとよむ。村名は内浦なり。海湾 まどかにして鏡のごとし。当面に淡島あり。形、蓬莱に似たり。その島の上方はるかに高く富峰の魏立せるを望 み、所吟一首を得たり。   洞道一過海面開、三津風月似蓬莱、姻消淡嶋明如画、天半忽懸倒扇来。   ︵洞穴の道をすぎれば海が開け、三津浜の美しい景色は、神仙が住むという蓬莱に似ている。かすみの消え   さったあとの淡島はすっきりとえがかれたごとく、はるかかなたには天の半ばを占めて扇をさかしまにかけ   たような富士の雄姿が望まれる。︶  この地は長期の海水浴によしとて、西洋式のホテルもあり、日本式の旅館もあり。余は安田館に一休して帰路 に就く。まさに長岡に入らんとする五、六町前、老松樹下に大黒堂あり。その堂には椀や草鮭をたくさんつるせ るを見る。これ地方の迷信なるべし。三十日も雨晴れたれば、散歩して南条駅前に至り名物蕎麦を喫し、更に歩 を進めて蛭ケ小島に至る。田間の孤松の下に磐石と碑石あるのみ。所感一首を賦す。   欲知蛭島跡如何、細径一条排草過、松下孤碑字難弁、多年風雨石将摩。   ︵蛭ケ小島の源頼朝が配流の古跡はどのような所であるかを知ろうとして、ひとすじの細い小道を草をふみ 361

(35)

 わけて行く。松樹の下に立つ碑は字も読みとれぬほどとなり、長い年月風雨にさらされていまや消えさろう        62  としているのだ。︶      3 その傍らに立てる富南秋山の碑、かえって人目を引く。長岡よりここまで一里余あり。 十月一日、帰京す。長岡滞在中の所作二、三を左に掲ぐ。      教育勅語大意頒︵隔句押韻︶  肇国悠哉、樹徳深 。兆民一心、万世済美。国体輝外、教育遍内。孝友和信、恭倹博愛。  修学習業、啓智成徳。開達世務、遵守法則。忠節護国、義勇奉公。扶翼皇運、顕彰遺風。  中外不惇、古今何謬。拳々服膚、孜々奮闘。朝野一徳、邦家万全。聖訓錐短、皇道無辺。  ︵皇御国︹すめらみくに︺のはじまりは悠遠なるかな。恩徳は深く国民にしみわたる。億兆の民は心を一にし  て、万世にわたってその美徳を成し遂げた。国家の栄光は外国にかがやき、教育は国内にあまねくゆきわた  る。父母に孝を尽くし、兄弟仲良く、夫婦和親、朋友は信頼しあい、人にはうやうやしく、自らはつつしみ  深く、博愛を旨としてふるまい、学問を修め、技術を習得し、智能を開発して道徳を成就し、世の責務を達  成して国法を守り、忠節をもって国をまもり、義勇をもって公に尽くし、御国の命運をたすけて、祖先の残  した教えをあきらかにあらわす。この道は内外ともにこれにそむかず、古今を通じてあやまることなく、ね  んごろにいつも心にとめて忘れず、おこたることなくつとめはげむ。官民ともに道徳を一にして、国家はよ  ろずにおいて完壁であり、おおきみのおしえは短くとも、ご政道は永遠である。︶      戊申詔書大意頒︵隔句押韻︶

(36)

南船北馬集 第十六編 人文日進、知識月啓。東西相筒、彼此共済。皆享福利、斉過盛世。修理外交、順応大勢。 発展国運、更張庶政。上下和衷、億兆愛敬。忠実服業、勤倹興家。去華就実、持正防邪。 常守自彊、以誠荒寧。祖訓如日、史跡似星。淳礪輸誠、拮据尽痒。拝承鳳詔、遵奉聖意。 ︵文明は日々に進み、知識は月々にひらける。東西の国々はたがいにたよりとし、たがいにたすけあい、み な幸福と利益をうけ、ひとしくこの盛んな世をすごし、外国との交際をおさめ、日進月歩の文明の大勢にし たがい、国家の命運を発展させ、もろもろのまつりごとをあらためさかんにしなければならぬ。上下ともに なかよくうちとけ、億兆の民は愛しうやまうようにし、忠実な心で仕事に従い、勤倹をもって家を豊かにせ よ。華美なことをとり去って質実さをとり、正義を堅持してよこしまなことをふせぎとめ、常に自らをつよ く保守し、誠をもっておおいにやすんぜよ。そして、祖先の残されたおしえは日の光のごとく輝き、国の歴 史の跡は星のごとくきらめき、そのもとにとぎすました誠をつくし、心のそこから努力しつくせと。天子の みことのりを拝しうけたまわり、おおみこころにしたがいたてまつらん。︶     大正報恩賦︵隔句押韻︶ 粒々悉皆皇恩、滴々無非聖沢。家錐貧食常足、髪已白心愈赤。忠為経孝為緯、義是杖仁是席。少時曾修学業、 老後不播典籍。素志願免徒食、微力欲広公益。縦令身難力耕、不厭心為形役。二十年育英才、十万里試壮遊。 南船遠究海隅、北馬深入山阪。伝播勅語聖旨、扶翼詔書皇猷。心頭尋千古道、足跡印五大洲。活動寸陰是競、 自彊終年無休。已尽人事如此、猶恐国恩難酬。 ︵小さなひとつぶひとつぶのごときものも、ことごとくおおきみの恩徳によるのであり、一滴一滴のごとき 363

(37)

 小さなものも天子の恩沢によらないものはない。家は貧しくとも食するものは満ち足り、髪はすでに白くな  ったが、心のなかにいよいよ赤心︹まこころ︺は大きくなる。忠をたて糸とし、孝をよこ糸とし、義を杖とし、  仁をしきものとするように生きてきた。若いときには学問を修得することにつとめ、老いて後は書物をみな  くなったが、もとより志すところは無駄な生き方はするまいということであり、微力ながら広く世の利益を  はかりたいということであった。たとえ自ら耕やすことは難しくとも、心を肉体の奴隷とするようなことだ  けはしたくない。二十年来英才を育成し、十万里のかなたまで遊歴をこころみた。南には船をもって遠く海  の果てまで行き、北には馬をもって深く山のくまにまで入り、勅語にこめられた大御心︹おおみこころ︺を伝  え、詔書における天子の御はかりごとのお手伝いをしようとしたのである。心には千古の道をたずね、実際  に足跡は五大州におよんだ。生きているうちはわずかな時もおしみ、自らつとめはげまして死に至るまでや  めるまいと思う。すでに人としてなすべきことを尽くしたことは以上のごときであるが、なお皇国の恩徳に  むくい切れないことをおそれているのである。︶ 帰京の後、哲学堂へ左の一文を録してこれを掲ぐ。  余思うに、哲学の極意は理論上宇宙真源の実在を究明し、実際上その本体にわが心を結託して、人生に楽天  の一道を開かしむるに外ならず、ここにその体を名付けて絶対無限尊という。空間を究めてはてなきを絶対  とし、時間を尽くして際なきを無限とし、高く時空を超越してしかも威徳広大無辺なるを尊とす。これにわ  が心を結託する捷径は、ただ一心に南無絶対無限尊と反覆唱念するにあり。人ひとたびこれを唱念するとき  は、たちまち欝憂は散じ、苦悩は滅し、不平は去り、病患は減じ、百邪の波はおのずから鎮まり、千妄の雲 364

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は自然に収まり、たちどころに心界に楽乾坤を開き、性天に歓日月を現じ、方寸場頭に真善美の妙光を感得 するに至る。これと同時に、宇宙の真源より換発せる霊気がわが心底に勃然として湧出するに至る。その功 徳、実に不可思議なり。しかしてこれを唱念する方法に三様あり。  発唱U声をあげて南無絶対無限尊を唱う。  黙唱11口をふさぎて南無絶対無限尊を唱う。  黙念‖目を閉じて南無絶対無限尊を念ず。  この唱念法によりてわが心地に安楽城を築き、進みて国家社会のため献身的に奮闘活躍するを、哲学堂︵自 称道徳山哲学寺︶において唱道する教外別伝の哲学とす。 南船北馬集 第十六編 365

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福島県会津巡講日誌

366  大正七年十月、福島県会津一市四郡を巡講せんと欲し、これに入るの道を検するに、昔時は二道を用いし由。 その一は野州塩原を経由するもの、これを会津東街道といい、その二は藤原を経由する道、これを西街道という。 このうち西街道を取ることに定む。十月十三日夕は、東洋大学前学長大内青轡氏、新学長境野哲氏の送迎会に出 席し、その翌日すなわち十四日、晴れ、午前九時、上野発に駕して巡講に就く。随行は森山玄麗氏なり。午後一 時、日光線今市町に着す。当町には二宮報徳神社あり。今より四十年前、徒歩してこの町に至りしことを記憶す。 余は日光見物に出掛けしこと三回に及ぶ。その当時の拙作を﹃未知句斎集﹄第一編に掲載することを遺忘したれ ば、左に録して補充となす。   祖廟燦然麗且崇、応知名匠尽神工、古来僅諺童猶諦、談美必先看晃宮。︵東照宮︶   ︵祖廟は燦然として壮麗かつ崇厳である。名匠が神妙のわざを尽くしたことを知るべきであろう。昔からの   ことわざは子供も口にする。美といえば必ずまず日光東照宮を見よと。︶   老脚扶筑華石崖、中禅湖畔景尤佳、一過紅葉林間路、湯本泉場解草鮭。︵経中禅寺至湯本︶   ︵老脚をもって杖をついて岩崖をのぼる。中禅寺湖畔の景色はもっともよく、紅葉の林間の道を通って、湯   本温泉にわらじを脱いだのである。︶  今市より軌鉄に移り、更に土呂︹トロッコ︺により、栃木県塩谷郡藤原村︿現在栃木県塩谷郡藤原町﹀滝温泉麻屋に

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