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日本女医史の研究(四) : 徳川時代の女医 度会園

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日本女殴閏史の研究

(四)

馨學士 吉

徳川時代の女讐

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度會

園︵ワタラヒソノ︶   女流俳人、伊勢の人,斯波一有︵滑川と號す︶に嫁す。蕉門に入り夫の残後、江戸深川に出で眼科醤を業とす。享保十  一年四月二十日心す。年七十四、深川露里寺に葬る。著はす所、菊の塵、園女六十の賀あり。  是は﹁大日本人名僻書﹂︵こにある﹁度會園﹂の項の記載である。私は偶々此の記述を見て,女の眼科馨が、當時居ったこ とを見て、非常に掘出物をした様な氣がしたのであった。その折は,たfそれだけの興味を持って居たのであるが、漸次本 研究が進むに連れて、﹁度星園﹂といふのは、﹁その女﹂或は﹁園女﹂として、芭蕉門下の高弟で、元緑時代に陰れもない俳入 であることを知るに至ったのである。女讐にして俳人であるといふことに、私は異常の興味を牽かれたのであろた。事實俳 人としては、かなり傑出した婦入である様である。私は不幸にして俳藷は全然素人で批評の限でないから,私の渉独した範 園に重て、た罫多くの椹威の論を此の小論文に達て禍げることにする。正岡子規︵二︶は、彼女を極力賞揚して㌔獺祭書屋俳    士ロ岡”日本女趣騨史の研究︵四︶        第﹁三巻  三三三

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66    吉岡腫日本女磐 史の研究︵四︶       第﹁三巻 三三四 話﹂︵+二︶に、コ兀蘇の四俳女﹂なる題下に,次の如く述べて居る。  ﹁元服前後の俳譜に遊ぶ婦女子の中まつ捨土,智月、園女、秋色を以て四傑とも稔すべし。すて女は燕子花の如し。うつく  しき中にも、多少の勢ありて、りんこ力を入れたる虞あり,孤月尼は蓮花の如し。清浮潔白にして泥に染まぬ世ハ色浮世の 花とも思は撃。秋色は攣の如し。ゆらぐと樋里ちのびてやさしうさきいでたる申庭、くねりならはぬあどけな  さに、其人柄まで恩ひやられもてなつかし。園女は紫陽花の如し。姿彊くして心おとなしきは俳譜の虚實にかなぴ、口々       む       む        む       む           夜々の花の色は風情の墾化を示して絡に閑雅の趣を失はすともいはん。而して四女の中句作にては余は園女を推して第一  む  む  とす。園女は見識三尊ありて男子も及ばざる所あり。其某漁師に答ふる書の如き曾て婦女たるの腕柔謙遜なる所を失ふて        む  む  む     唯々剛慢不遜なる一丈夫の趣あり。されど其俳句に遊ぶに際しては決して婦女子の眞面目を離れす。蓋し得難き女傑と謂     む  む    ゆ     む       む  む         ふべし。近時の女芝生以て如何となす。これらの人々の俳句に就て三四を抜愛して左に掲げん。︵俳句略、筆者圏貼︶﹂  子規が斯く亀激賞して居るのであるから、俳人として、且旧主の女性として庵立派な人物であったに違ない。此の丈中﹁其某 輝師に答ふる書﹂といふのは、妻女の著作﹁菊の塵﹂︵+︶中にある﹁二野和爾にごたへ奉る﹂の一丈を指したものと思はれる。 此の文章は後に掲げること会するが、子規の賞するも無理ならぬ闘志満々たるものである。全く﹁得難き女傑﹂の趣が見え る。  更に當時西鶴が、園女を稻揚した一文がある。此れも﹁菊の塵﹂中に載って居る。  ﹁伊勢の小町は見ぬ世の歌人、今の世のいせの國より園といへる女の、俳諮をわけて華魁の筆遠き浪速の里に志ざしての  我に嬉しく、二見箱硯の海にうめて、氣のうつり行事艸をかけるに、思ふま玉にぞうごきぬ。過し光貞の妻、かい原のす  てなど花にしぼみ、紅葉はちり、世に詠の絶へにしに、名をいふ月の秋に此堂守ところに、しばしの舎りをなし、紳風の  佳吉の春も久しかれとそことぶきける。   濱荻や當風こもる女丈字 西鶴﹂

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67  要文で、﹁光貞の妻﹂といふのは.杉本美津女.印ち一般に園女の俳譜の師匠といはれて居る入のことを指して居る。伊勢 山田の人にして、﹁慢心家譜﹂︵四︶に依れば、正保四年丁亥七月二日残し、行年六十五である。併し、此の美津女が果して園 女の師であったかどうか疑はしいのである。何故なれば、園女の生年はこ読あるが.六+二歳で乱した読に依れば、寛文四 年であって、美津女の寡言十七年となる。次に﹁誹譜家譜﹂の七十四歳で評した論に依るも、園女は男望二年生れとなり. これまた美津女六界六年に當るのである。夫古製の園女が美津女の門人であるといふ論は疑はしいといふことになる。而し て、斯る読が出たのは、上鮎の﹁誹譜家譜﹂及び医欝階家譜拾遺集﹂︵五︶に出たものであらう。また﹁かい原のすて﹂といふ のは丹波柏原の田野女のことで.既蓮の子規が﹁元緑の四俳女﹂とした胃士女Lを指し、青緑+一年六十五歳で残して居る。 此の西鶴の一文に依ても、園女が當時高名の俳人であったことが点せられる。  更に園女に關し丈獄を渉猟するに、﹁早撃史簿﹂♀五︶に次の如き傳がある。  園女。は伊勢松坂の人にして才學豊窟、有韓男子をしてそ卜うに雷管せしむるものあり。また和歌をよくし、後ち美津女に  學びて幽霊にあそび芭蕉に從ふてその三昧に入る。一曲軒が妻となり、夫死して江戸に叢り,眼科讐を業とす。性卓落にし  てまたきはめて男々し。雲虎却尚に参聾して悟道に入る。旬をいぴ、歌を綴り、遊候事に候。無欲の口業ならぼ一切経も  掛屋のロ業にて候。法臭き事は嫌にて,我平日の行は念佛と句と歌となり。極樂へ行はよし。地獄へ縛るは目出度しなど  放言す。その識見の非凡なるを想見すべし。   負た子髪なぶらる玉暑かな   夜あらしや太閤様の櫻狩   有程の伊達しつくして紙子かな   手をのべて折ゆく春の若木かな  是等諸家の﹁園女﹂に食する叙述に総て、護者は彼女に關する概念を把握し得ると信ずる。    吉岡π日本女腰史の研究︵四︶      第三巷 三三五

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68    士口岡11日本女馨⊥更の研究︵四︶       第三巻  三三六  私は、更に進んで、彼女の傳記、逸話等に就て、詳細に物語らうと思ふ。然し,彼女に就て述べるに際して、一言断って置 かねばならないのは㍉その傳記等に極めて異読が多く.從て定論がなく,各人各論の有様である。それ故私は渉猟し得ただ けの材料を其儘提供して、護者諸君の判鰍を仰がうと患ふ。  先づ出生より述べること目する。先づ、何虚で生れたか。前記の大野氏に依れば、勢州松坂の人、或は勢州山田の司官渡 會氏の女なりとして、既に出生地が決定しない。享保+七年中の﹁綾錦﹂︵七︶に依ると,﹁本土勢州山田渡善管女ナリ﹂として       ノ       ニセ     ヲ ある。大野氏の一読は、此庭から出たものと思はれる。然るに ﹁誹諮家譜﹂に依ると,﹁伊勢松騒人也不レ審旧⋮其苗氏︸或日騨   ナリ︸   テ  トノ        ヲ   プ     ヲ       昌       テ   ヲ  スル      昌        ヘテ  ヲ   ス  ト   一カ      シ    昌   ノ     昌   ブ 亭娼  曾師二美津女一提唱睡中一雅趣不レ無二丈夫一罪中出レ郷住一手浪華鴨之臼迎レ之爲レ妻申外患野望住東府一興二其角一苫葺芭蕉流 ヲ     ノ    ヲヨビ    テ フタミビ ル     ニ 一後経二廻京師蟹浪華一而復蹄二干東府一享保十一年丙午四月廿日浸里庄十四﹂となって、伊勢松坂読がこ玉から出たものと思        ヲ はれる。また仙墓の遠藤蔵人の書いた﹁蕉門諸生全傳﹂︵六タに依ると、﹁本土勢州山田度會琉ノ女ナリ、依一一法艦忌一擁風二 ヵミヲノコス。深川二軍ス。菊の塵をあむ。籔巖毒念佛堂に墳アリ、風流ノ鐵肝石心ナリ、男女ノ情ヲ忘レ切込リ。大イナ        マも ル籠ヲ作りテ是ヲかぶりて男子二見ゆ、邪淫ヲフツトウケザラシムタシナミ也。伊勢ノ松坂ノ人、もと和歌ヲヨム、美津女       む      む    ヲ師トス。岡西惟中浪花営移ル頃行テ其妻昌ナル。早死シテ東武二下る、眼科ヲ以テ身過トナス、世ノナリワイニ至テウト ク、着タル袖ノ下ヲ切テ下駄ノ緒トナシ、張文庫ノフタヲ取、水ながしに用ゆ、世事に疎画天窓丸メ髪眞中に零本ホド立の

事たり、+筋斗・アリ、唯一の寸たるべし。魏と改、冠筆算騰・母君へ仕へ享保丙+犀四月昔、六+三莞

ス。林二院遊轡稻詠妙園信女出世へ秋の月春の曙期し室は夢か現かなむあみだ佛 惟申ハ備前ノ人,始望一二學ビ一有ト 云,後梅翁二從、元緑五年二残,・九国、 一時随筆ヲ叙ス、惟中心因州鳥取産トアリ,園女ハ縫室たるべし。身の捨られぬを くやみたるは後妻故也。﹂此の傳になると、山田詮と松坂詮と混同して居て、誠に奇妙である。勝峰督蝉茸の解読に依ると、 此の﹁蕉門諸生全傳﹂の著者﹁仙憂の遠藤日人は奇行のある武士であるが、七部集の註繹に關する遺著もあり蕉門研究者め ︸人なので、蕉門の作者悉くをそれぐの生國に赴いて踏査する志を焚し、勤番のをりをり先づ江戸から着手して遺族の存

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6冠 する者はその家を底ひ、或はその墓にまうで見聞せるところを手記し,芭蕉の生國伊賀にも出掛けたようである。叉その國 にっでのある者は文書で照覧して手記するま﹄﹁蕉門諸生全傳﹄の稿本となったのである。﹂とあるから、相當信用してよか らうと思ふが、郎女の記述に就ては、前述の如く甚だ曖昧である。かくて園女に隔ては、第一に、出生地に就てすら定論が ないのである。そこで先づ伊勢の國だけは確だといふ結論となる。  次に、彼女の父に予ては、どうであるか。先づコ綾錦﹂に依れば、前蓮の如く﹁渡華氏女ナリ﹂と有り、﹁俳諮家譜﹂には    ヨセ     ヲ  ノ    ノ ナリト ﹁不レ審二七苗氏一曇日騨亭娼﹂ と述べ、﹁蕉門諸生凶事﹂も﹁綾錦﹂と同論である。此の顯に就て、勝峯習墨黒︵+一︶は、一論 を立て玉居られる。   園女の父は伊勢の人秦師貞である。藤壷の末に園庭自ら白板した﹃菊の塵﹄に、父の師貞は、芭蕉が園女の貞節を詠じ  た白菊の句を聞いて喜び、はじめて俳句を作ったことが出てみる。     人の親の,心はやみにあらねども,翁しら菊のめに立て見る塵もなし、と,お製せゆけるをよろこび玉ひ、初て俳     諮の磯句して、予にたまふ。   かぜに動く花や西どちひがしどち   秦 師貞   園女の家が秦姓に属することが分明する、渡會氏は伊勢の宵宮郡に住もて、其の地名を取った代々の通情であらう。そ  の頃の女子が他家に嫁して後にも、表向に生家の氏を名乗つた例はいくらもある。  斯ういふ読に依ると、﹁垂直﹂といふのが、園女の正しい姓名の様に思はれる。邸ち、父は秦師貞が正しいのではなからう        ノ     ノ  ナワト か。而して、前述の﹁誹諮家譜レの﹁或日騨亭娼﹂ は,挙挙を侮辱するも甚しい様に思はれる。勝峯氏︵+一︶もコ然も園女 を娼婦としたのは適宜も甚しい。﹂と述べて居られる。後述する如く、﹁花屋日記﹂に、芭蕉翁が、﹁白菊の目に立て見る塵もな し﹂と、園女の貞節を賞揚して居る位であるから,此の娼婦論は否定されて差支なからうと思ふ。  次に園女の夫の問題である。此の問題こそ、實に各人各詮で、貫儒が極めて判定し難い。私は例に依り,丈獄的考設に移    吉岡目日本女馨史の研究︵四︶       第三巻 三三七

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70    吉岡膣H三女醤史の研究︵四︶      第三巻 三三八 らう。﹁誹諮家譜﹂を引用したと思はれる大野氏に依れば、﹁備前の人岡西平中の妻となり,難波に曝す。しとある。其の原文       テ  ニ スル    ニ    ヘテ  ヲ ゑ  ト は既述め如く、﹁惟中隔レ郷佳二干浪華一主日迎レ之爲レ妻﹂としてある。﹁蕉門諸生全傳﹂にも、﹁岡西書中浪花二移ル頃行テ其妻ニ ナル。﹂としてあるから、これも﹁誹諮家譜﹂を出所としたものであらう。これだけの丈職に依ると、岡西惟中の妻たるもの 曳様である。  然るに、園部の夫に就ては七珍がある。帥ち﹁滑川﹂といふ濡者だといふ論である。それに就て、先づ沼波遭音氏︵+三︶の 論を此に引用しよう。   次に善女の夫の事、これは飴程前からいろぐ論が出たことでありますが、潤川といふ讐者である事は確で.す。この事  はモノシラズの私まで知ってみる程知れ渡ったことです。Y氏がコ詮として存在する贋値は十分.Lはちとお手ぬるいと  存じます。  ﹁菊の塵﹂に、.園女が自ら序文を書いて居ります。そのなかに、   折から芭蕉の翁尋ねきまして     白菊の目に立て﹂見る塵もなし  と吟じ出されしによりて、六々やがて雀をなしぬ。いくほどもなくて躍起世をさりまし玉かば、そもはや限りの序となれ  りける。はかなき其丈句にとりてぞ此身の名とは定めてけるを、︵潤川さへ身をいたづきにおきふし、月に日に、あるは輕め  る如く︶︵沼波氏原早戸︶あるは重れるが如くなむ見ゆれば,その事をとては云ぴ出すべきいとまだにあらざれば、さは云ひ  わたるめみにてぞ過ぐる。さきのをと玉しの秋に及びては、病ことの外になりて、あはや悲しくなき人の数にいられたり  けり。さり七より夜の燈ひとりごち,とまれかくまれして見むからはをかしなど、いひくて今年といふ今年けふといふ  けふ編みえて侍る。  とあります。なぼ同書に、來山の、

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71     添竹もないに健氣に跳きくの  といふ句があります。明らかに夫におくれた園女に途つたものです。その前書のうちに、   三とせ跡の秋風に誇もかげ斗残せしは斯波氏の滑川なり。  とあります。   それから.﹁園女六十の賀﹂の琴風の蹟に、    紳風や伊勢度會の何がし斯波一士が妻。中頃難波に佳みて芭蕉の風にすがり、俳譜に名高く今深川の園女、轡は夫の    術を傳へ  とあります。   そして﹁菊の塵﹂には、園女と滑川とはいつも同じ俳席に在って蓮旬をしてゐます。﹁白菊の目に立て﹂しの時も溜川が  連句してることは、﹁芭蕉の臨絡﹂にも書いて置いた通砂です。﹁菊の塵﹂には﹁澗川﹂の名が固しく見えて居ります。この潤  川が園女の夫である事、潤川は一名一有と言うた事は、これ等の引用丈だけで確であbます。但し.一男は俳號で澗川は署  者の方の名と定めることは如何でありませうか。   私がこの小聖に、溜川を園女の夫と書き、花屋日記の惟書記に、﹁気中が妻となる﹂と明記してあるのを棄てたのはかう  云ふ課であります。斯ういふところに花屋日記の怪しさがあります。  此れは沼波氏の﹁﹃芭蕉の臨絡﹄に就て﹂といふ一文から引用したものである。此の沼波氏論に依ると、潤川が夫で、清川 即一有といふ事になる。﹁菊の塵﹂ ︵+︶に依て、來山の句の原文を引用すると次の如くである。   いっか寝畳の数にいるべきと,身ぴとつを観じ或は十人酬和九人無とつくりけるも,二十年の夢をさへしたふぞかし。  ましてや、三とせ跡の秋風におもかげばかり淺せしは、斯波氏の清川也,道に志淺からぬ常をたのしみ満座の一三に及ぶ、  下略︵原丈にて略︶    士口.岡11三三女将史の研究︻四︶       第三巻 三三九一

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72    吉岡朋日本女醤史の研究︵四︶       第三巻 三四〇

    添竹もないに健氣に此の菊の 來山

 此の來山といふのは、小西來山で、大阪の俳人で、+萬堂とも坐した。享保元年六+三歳で残した。此の人は一生無妻で 常に土の女の人形を座右に置いて暮したので有名で、清元の﹁保名﹂にこの來由の故事がとり入れてある。それ故、潤川を 園女の夫と見れば、無妻主義の來山が、夫をなくした園女に同情したのが面白いとも見られる。  次に馳斯波一有が夫で、澗川は別人であるといふ論がある。此の説に就ては、勝峯氏︵+﹁︶氏の極めて詳細なる研究があ る。私は馬氏の読を詩学るだけ詳しく紹介して見よう。先づ、氏の主張せらる玉事を引用する。   堅甲の夫は斯波一有である。伊勢山田の紳当館一世、足代弘氏の門人のやうに思はれる。大淀三千風や中田心友等と往  來して、かなり名の知れた郷土俳人で,それらの人の撰集に作者として加へられてるる。貞享三年には自ら﹃あけ鴉﹄と  いふ俳書一雀を撰んで出汚したコ園女はその頃妻に婆られ、夫の感化によって俳譜に志したらしく、﹃あけ鴉﹄の中に唯,        む  ﹃女﹄として二毛載ってるのがそれのやうである。句主の名を記さないで、女とした例は無いでない。杉木みつ女の如き  は箪に山田の女として諸集に見える。其後、元隷五年、一郭夫妻は大阪に出で、讐者の傍、前句付の思者などして暮して  みた。一思はいつ頃浸したか、平芝はないが、私は元豫五年より邊くなからうといふ推定設を持ってるる。それは後に記  さうQ園女は以後二夫にまみえない。貞婦としての清い操を守ってみたのである。︵註︶凶有の著﹁あけ鴉﹂は雷枝といふ俳人が  助ヵしてみる。雷枝の著﹁あや杉﹂にも一三の句がある。本の諸賢もまったく同一である。雷枝の句は↓有と共に三千風の﹁日本行脚文集﹂  にも出てみる。  此の如く,勝峯氏は絶謝的斯波一有論である。  然らば﹂氏の一有読の根櫨は.何であるか。   園女が斯波一瞥の妻なることは、三筆から享保時代の諸俳書に見出される定量で,すこしも疑ぴを容れる飴地が無い。  左にその二三を引謎しよう。

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73 へ一︶嵐雪撰﹃其袋﹄元豫三年版,二巻       む む む む  の      春水春風一時來   伊勢一有妻    氷浩えて風におくれそ水車   そ の  ︵註︶享和三年板の﹃七部拾遺﹄に牧録した其袋には伊勢∼有妻の傍註を創ってある。賓俳書の再刻本には心なき編者の爲め、往々斯うし  た不都合がある。俳譜叢書の﹃芭蕉翁全集﹄所載の其袋は七部拾遺を、そのまま覆刻して、原本と照合すべき黒船を計いてるので、や  はりこの大切な傍識が落ちてみる。 ︵二︶青木鷺水撰﹃誹譜若えびす﹄愈愈十五年版、前句付の高鮎を輯めた本である。    む む  大阪一有難   む  同妻園女貼  として各高貼に撰んだ句を載せてみる。 ︵三︶許六撰﹃歴代滑稽傳﹄正徳五年版        む       む  む     園女は馨が一有の妻な9、猿蓑の頃よゆ随ぴ. ︵四︶園女撰、﹃六十賀集﹄享保八年版  蹟       む     む  む       む  む          神風や伊勢渡會の何がし、斯波一有が妻、中比馳難波に佳て,ぼせをの風にすがり、俳譜に名高く、今深川の園女、讐 む        む       む は夫の術をつたへ、筆はもろこしをひねり、世輿にはこ玉ろ疎く、袖下の紅ミを切では、下駄のばな緒をと二のへ、茶碗 を二つあはせて,花生ん事を思ぴ、十あるを九つまで、穴明むとうち割、張文庫の蓋を水流しに昇る叛ど,あどけなき業 も,風雅の上の興なりけらし。近きころ、佛にき玉入、あたま丸めけれど、眞中を十筋ばかり剃淺せしは.唯一のむかしを       む  む む む む    む む  む む      む   む む む む   む む む 事たるなるべし。高きにたよ診.びき玉に愛あ夢て.武藏に遊ぶ事,すでに九年,ことし六十賀をうたふ、をのぐに句   士口内H日本︺女馨一史の研究︵四︶      第三巻 三四一

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74    吉岡11日本女肇史の班究︵四︶      第三巻 三四二  を乞て,みつから筆をてむじて、一集となし,末書せよと袖にし來る。浪花の因みいなみがたく、その膝のもとにしで頓に蓮。    享保八卯年黄鐘  女幕架琴風   ︵註︶略   園女の爾生存した時代の諸書。殊に琴風は芭蕉と其角に随ぴ、蹟にもある通り、大阪の人で園女とは古い縁故もありい  ろぐ面倒を見た 人であるから、萬に一つ誤る筈がない。まして国女自らの撰集の蹟なので、唯︸正確な園女傳と見倣  して好いものである。堅雪にしても、許六にしても同門の先輩である。鷺水は前句付の鮎者仲間である。その人達の著述  にこれ程明白に記載してあるのに、明治になるまで春秋庵白歯の﹃誹譜名家録﹄及び生川言明の﹃誹家大系圖﹄が、斯波一  有の妻とせる以外,大抵の俳書に岡西惟中の妻であると断定して,揮らないのは奇怪である。  斯る勝峯氏の主張に依れば、一.有読は相討確實であるらしく考へられる.  然るに、諸種の紅斑に岡西惟中の妻なることを述べてあることは、勝峯氏の記述並に私が既に畢げた通りである。それ 故、若し一畳読が正しいならば、惟中論の誤謬なる根糠を墨げなくてはなるまい。再び勝峯氏の論を聞かう。   こ玉に園女に重大な交渉を有する里中の殴年に就いて考へて見る。里中の獲年は千載堂避止の著した怪士元年板﹃誹譜 家譜﹄に,       申   元緑五年壬午八月十日獲訊子浪華鴫行年不詳  とあって,生川溶明の大系圖亦此読を襲用して、行年五十四歳といふ一項を加ふるのみである。然るに元隷八年、大阪  の深江屋太郎兵衛の開板した﹃蒲生軍記﹄の惟中自序に   元緑八年如月既望月、撮陽北水浪士弍時軒惟中序  といふ残年より四年後に爾立派に在世してる明誰があるので、元緑五年説は一粒に覆へされるのである。私はこの端緒を 握ったけれどそれ以上突止める事が出域なかった。偶、歌人井上通泰氏が婦中書道の門人姫井二七郎光好といふ人の随筆

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75  から、その正確なる疫年を磯見された事を知った。        む         岡西氏、 ︸時庭惟中、此人、寳永第八辛卯は正徳改元年也。此年の十月廿六日、七十三歳にて卒。享保甘年冬十月廿六   日,二十五年忌也。  とあるのが原文である。随筆物をあまり信用しない私は此の記事には,敬意を佛ひながらまだ不安であった。其後宗砥の        トノ  崇鐸者なる稻津砥室の弟。椎本本室の﹃著の花﹄の中から左の一讃を見出した。       り       む   予初老の年、一時軒の翁、八十のなからおのこ、と、一句して.おくのたまびしも、おもへば︵下略︶   之れにて七十歳以上の里雪を保ってみた事が勘いよノ\確實に近くなった。︵芳室の初老は寳永七年に相當する︶更に宗  因父子三代の蓮歌の磯句を輯めた享保十九年板,﹁西山三権集﹄に       岡西惟中七十賀    ︵宗因長子︶     ながめにぞ年はませんはなの宿  宗春  とあるので、井上通泰氏の量見が、全く相違なき事を確め得たのである。二女が大阪から江戸へ下ったのは寳永三年で,  惟中に何等の關係ないことは言はすと知れた事實である。  此れに依ると、越中と下女とは全然宿継のない様である。園女は,一般に.寡婦として江戸深川に佳んで居た事は既述の 通である。夫故、假に惟中が夫なら、七十にもなる夫を残して江戸に立つ等とは、考へ難いことである。  而して、勝峯氏は,更に難中の妻は外に有って、﹁惟中の妻は柴田二言女である。俳諮にも多少の趣味があって、延寳五年 板の気中撰﹃俳階三部抄﹄にその妻,柴田氏順として一句採録してある。天和元年十二月二十八日、夫に先立って厳した。夫 婦の中に男女五人の子供があったが、同年八月五日に末子を出産して後、病の爲め倒れたのである。﹂と述べて居る。  然らば、此の愚蒙論は、何故起つたかといふ問題になる。勝痛罵は、﹁惟中を三女の夫として誤催した罪は、﹃誹諮家譜﹄が、 其の一牛を負はねばならぬ。﹂と去って居る。﹁誹譜家譜﹂の全文は既に5一用した通である。而して、氏は此の鐵に關して、更    吉岡11口本﹁女癖史の研究︵四︶       ﹁ 第三巻 三四三

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7e>    吉岡H日本女馨史の研究︵四︶      第三巻 三四四 に次の如く云ふ。   素潜を美津女の門人に押付けた最初も之の家譜である。私は全然これは採らない。其次に家譜の傳を布諭して世人を惑  はしたのは俳家奇語談である。七部集と五百題と奇人談は近世俳人の必讃した三部書で、流布の範團が廣いので、誤傳は  俳人以外の交尊者にも及び。今以て惟申論を盲信する人が勘くない。可笑しいのは奇人談の本丈に﹃友人琴風の記にいは  く﹄として、琴風の六十賀集蹟により乍ち、前群の妻として平然たる事である。聯か穿つた話であるが、著者の盲人立々  一が一有と惟中の昔讃相通するので、﹃いちう﹂と口堅して筆記させて置いたのを、後に遺稿を整理した人が、本丈を野校  せすに家譜の読に從ひ、一に一議ともあるので、戸惑ひした結果、惟中の傳に   はじめ望一に學んで、一有といぴ,後、梅翁に從うてよ勢、惟申と改む。   と噴飯すべき虚構記事を、でっち上げたのであるまいか。家譜と奇人談の爾設を破却して、一男詮を確立したのは大系  圖である。前掲家譜の園女に回する一部を引いて曰く   

沛xナ・。一心ハ忠信;テ、伊奮田・霧ナ・。惟中が初號ニア・ズ。廊華墨薩馨當難壁囚圃翫購

      フタリ      ト ク

  麹呆行脚受忍鱗恵雨個・モ出タルヲ以テ惑・氷解ベシ。力市女・惟中が妻ナリ会モ,オ・ヅ辺フ明白ナ

  ルベシ。爾軌焦門ノ三二委シ。  惟甲読は以上で、民器から覆し得たと信ずるから、近代の人々の所詮に︸々反駁を加へるのは愚だ。私は眼を閉ぢてもう  云ふまい。  斯る研究に依ると、斯波一髪読が極めて根接のあるもの二様に思はれる。尚.勝峯氏は.註に、大系圖に一有、惟申の爾 百出つると述べて居るが、﹁行脚丈量﹂には, 一有のみで聴講は見えす、是は著者の思ひ違ひであらうと云はれて居る。叉, ﹁蕉門ノ條二委シ﹂と書いてあるが、この蕉門の條の稿本は現在存在して居ない。  上述の如く、園女の夫の問題に就ては,読が未だ淺って居る。帥ち、沼波氏の清川邸一等読である。此の読が誤謬である

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テ7 といふことに就ては、やはり勝峯氏の読がある。左に引用する。   冠注の夫に就いて、まだ設題が残されてみる。縮笹春秋庵幹雄の言ぴ出した澗川設、大野洒竹茂の案出された一有郎滑  愛読とのごつである。塗れ窓菊の塵を論難とするもので,理由ある薪読として信春が多い。私は折角こ玉まで筆を蓮ん  で、爾余を見逃す課には行かない。菊の塵の序丈は眼にクコの寄る程、引合ぴに出されてるが、こ玉で講参照しなけれぼ  ならぬ。﹃わが畑道に入し初は元豫二年なり﹄とその序にあるが、避道とは蕉風を指すのであらう。裳階の道ではあるま        む      む む  い。現に同年春の撰﹃暖野里﹄に一諾妻として一句あるのと、私が前に﹃あけ鴉﹄の女を園女であらうと指摘した如く、  溜塗はもっと以前からやってみたらしい。芭蕉の以後、白菊の句を外題にして一集を編む考であったが、事情あって實行  する事が出來なかった。その課は   む  む  む     む  む  む  む  む  む       む      滑川さへ身をいたつきに,おきふし、月日に.あるは、かろめくごとく,あるは,おもれるがごとくなむみゆれば、そ       む  む  む       む  む  む        む         の事をとていひ出すべき、いとまだにあらざれば,さはいひわだるのみにてぞすぐる。さきのおと玉しの秋におよびて   む    む    む   む む   む む  む         む む    む む む む む む   む   は,病、ことのほかにな夢て,あはや、悲しくなき人の撒にいられた塞け砂。  といふのである。この滑川が問題なのである。幹雄読はこれを直ちに探駕して,留女は潟川の夫であるといぴ、洒竹読は  一寸考を廻らして,二女の夫は期波一着であるが,それは讐者の方の名で、俳譜には潤川と號したといふ意見である。洒  竹論は省菊の塵と六十賀集とを比較すれば明瞭すると附記してある。併し菊の塵の序文によって、潤川が儲君の親近者で  あることは判然するが、夫といふやうな淫婦の深い言葉は一語もない。且つ洒竹論の爾集をくらべて見ても、野川を園女  の夫と推定す可き個所は一つも無い。菊の塵に霊堂の句が十五章と歌仙の申にちよいく附句が散見するのみである。六  十賀集には潤川の名が一個所もない。殊に洒竹詮の愚者の名と俳階の號との匠別は、全く鎧装のない附會論である。私は  潤川を園女の親近者として爾者の關係を何う見るか。   それには元緑十五年板の﹃花見車﹄を■見て頂き度い.    吉岡舳日本女帯史の硯究︵四︶       第三巻 三四透

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78   吉岡“日本女盛史の研究︵四︶       第三巻 三四六   本の   ▲太夫  あんにやの風も、いやしとて、大阪に出られたり、ようつの藝、女にはめづらし。風俗もあれこれを、見とられたれ

ば・京にも・むさとも似る・されども遠ゲヂ禦茅拶垂堪能・・謬拶昭駅でが潔熱沙だ郡。

 此やり手が、死んだらば,か製へて、よき金まふけせんにとて、みなみなわるロ    得た貝を吹で田蓑の月見哉  ○筆はじめ 此の評判記の﹃讐喩の目録﹄中で、弓丈の解繹に必要な部分を引抜いて見る。    O O       O O 一、太夫とは  む  む 一、風俗とは  む   む 一、やり手とは  む む   む   一、あんにやは 上の貼者        其人の磯句にてしる,  む        む     む     む  む  俳諮のせわやきなり       いせ 讐喩の言葉を目録に劃照して,要領と摘んで酬屈すると斯うなる。  園女は一流の俳譜忍者である。伊勢風に厭きて大阪に出た。女には珍らしく悔言に堪能である。俳旬の格調は頗る自在の  境にあるから、京風にも、江戸風にも似通ってみる。併しその背後には一人の後見があって、かれこれ差出ロをするので、  俳人の仲間では煙たく思はれてるる。此の後見が死んだら、、我が窯派に引入れて,一つ利用して見度いといふ蔭口がある。  花見車は談林派の俳人轍士の戯作である。當時の俳娘師を花魁に見立て﹂品隣した一種の評判記である。警士は室賀氏 (一 ノ高島氏︶、東鮒庵、事事,佛日豊の諸事があって,宗因門であるが,蕉門の人々とも,交って元緑軍馬の表裏に通じ て居った。寳永四年の夏、其角の殴後﹃萎の穗に尾をかくさばや老狐﹄といふ僻世を詠んで残した。

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  私は花見車の﹃㌻て﹄帥覆轟轟である患ふ。︵蕨㌍雛慰書誰鯵潤川の撃は菊の塵の出板前﹃さきの

 おと製しの秋﹄すなはち四年前になるから,丁度時代が接近して居る。俳譜の後見として園女の杖とも、柱とも頼まれた  人であるから縁族の一人であらう。  後述するであらうが、勝峯氏は一盛の疫年を元線五年より遅くないと云はれて居る。それ故,﹁花見車﹂が元緑十五年板で あるから、時代が掛け離れて居ると云ふのである。氏は、更に犀川が﹁後見人﹂であるといふ根擦を次の如く述べられる。   菊の塵は露塵年代を明記してない。本文に見える最も若い年代は﹃みつのえむまの懇望紳御忌にあたり給ふ﹄といふ園  女の句の前書である。壬午は恰も元緑十五年になるからそれより遠くない頃の出板であらう。假に十五、六年と見れば、  三川の殴年は元腺十二、三年頃に躍る課である。溜川が露岩の夫ならざる誰擦はまだある。園女亭の歌仙は、 白菊の目に立て見る塵もなし    紅葉に水をながす朝月 冷ぐと鯛の片身を折わけて    何にもせすに年は暮行 小襖に座右の銘は煤ぴたり   みやこをちって國々の族

惟支潤颯園芭

然考澗竹女蕉

以下、酒堂,舎羅、何中の九吟である。客磯句、亭主脇は蕉門に於ける恒例であるが,此歌仙は園女が脇を引受けて潤川 は第四句に至って.﹃何にもせすに﹄ぼんやゆ手持無沙汰の態で附けてみる。滑川が道造の夫とすれば、園路は亭主を尻に 敷いてる形だ。貞潔な園女にそんな非禮、非儀がありよう筈がない。否、嚴格な芭蕉は断じてそれを許さないであらう。 どこまでも園女ボ主人役で切ゆ廻してみるのを見て,笹下既に寡蓋して未亡人の身分にあったことが知れる。さればこそ 芭蕉も白菊の個章を贈ったのである。花屋日記で見ても,   吉岡H日本女権史の碍究︵四︶      第三巻 三四七

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80    吉岡龍日本女垂雪の研究︵四︶      第三巻 三四八   園女より御菓子並に水仙邊る   園女より見舞として菓子など贈り來る。  など見えるが、滑川からは一同の見舞品も贈らない。同じく歌仙に一座した夫婦が、妻の名義ばかりで義理をすまして置  かうとは考へられぬ。   園女、下中、先婦來る,去來,皇考會探す,の記事になると潟川は随行者として取扱はれてるる。私見の如く滑川を園  女の俳砂上i家事向をも襲ねた後見、保護者と見れば、一切は何等の不都合なく解繹されるのである。笈日記によって  も、白菊の句に就き、去來が芭蕉に力附けた話は事實と推定される。去來が﹃園女が二夫に見えざる貞潔﹄云々の評語は、  花屋日記を儒書として退くる人と錐も,あり得ない言葉として拒まれまいと思ふ。  一斯ういふ読に依ると,どうも滑川後見論は確實の様にも考へられる。然し、勝峯氏は,後述する如く,此の研究の磯 直後に、再び潤川後見論に多少動揺された傾向がある。此の園女の夫は、﹁何んにしても厄介な問題である。﹂といはざるを得 ないが,先づ一有を夫と見倣して差支へあるまい。  斯くて此迄甚だしく冗長に論述して來た事を、こ﹂で一先づ回顧して見よう。帥ち、私が此迄述べた事は、園女は伊勢の 國に生れ、父は経師貞にして、出生年月は、雪交四年と軍慮二年と叢論あり、その夫は、先づ斯波一滴であらう、といふ事 である。  此に於て、私は次いで国女の年代的傳記の考察に移らう。既述の如く,園女が芭蕉の門に入門したのは,﹁菊の塵﹂の序文 に明なる如く,元豫二年の十二月である。帥ち、﹁我が此道に期し初めは元緑二年の冬なり﹂とある。十二月といふ事は,沼波 氏の﹁芭蕉全集﹂に依るに、此の年、芭蕉は﹁奥の細道﹂の族を絡へ、十月故郷上野に瞬り、奈良より京に出で、十二月膳所 に行き、園女が入門したとなって居るからである。翌三年二月に、芭蕉は伊勢に行き、事事に面會し、彼女の句など見て教 へを乞はれて居る。帥ち﹁あけの年如月、かの翁とここの人曾良などひきゐ、來たらせしに、しかじかと告りければ、翁喜び

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8工 て、いかなるごとをも綴りてよと,仰せりたるに。しとある。而して元本五年八月には、伊勢を立って、大阪に夫妻で來て居 る。そこで,今度は園女がいつ寡婦になったか,といふ問題である。再び勝峯民の読を借りる。   話は戻って信女の眞實の夫一事の獲麟に就いて一考したい。私は元豫五年目ゆ遅くあるまいとの私見を述べて置いた、  其の擦車とする一つは芭蕉の白菊の句である。園女は感激して後年﹁菊の塵﹂を撰んだ程、此の旬には重大な意義がある。  園女の貞潔を詠じた句である事には誰も異存がない。私はこの時、園女が夫一壷を失って既に寡婦であったと考へる。﹁目  に立て見る塵もなし﹂といふ感激の言葉は夫の獲後人から後ろ指をさ㌧れす,克く女の操を守って汚さない貞潔の意を含  めたものである。白菊の園女その人を指した事は云ふまでもない。芭蕉が園女亭でこの句をよんだのは元応七年九月二十  六日である。・支考の﹁笈日記﹂及び﹁花屋日記﹂ともに一致してみる。菊の塵には月日の記載がない。花屋日記は儒書とし  て退廿る人があるが,私は一概にさう断ずるのは早計と思ふ。..、艦の骨子は芭蕉の門人が書き残したのに違ぴない。後人  が本丈の一部に註を入れて補逡としたのが,いつの間にか、本丸に紛れ込んだと思はれる個所が鑓所に見出される。園女  に關しても前後撞着する記事かある。その一つは九月二十六艮の園女亭の部に﹁實は伊勢松阪の人な妙とそ﹂以下が邸ち後  人の書入れである。殊に、   岡西惟中が備前より浪華に上のし時,惟中が妻となる。其の時より風雅の名ますノ\高し。種馬の死後,江戸に下りて   其角が門人となる。  との一項は誹諮家譜を、そつく砂借用したので文脹まで相似てる。斯うして後人の補註を除いて行けば、僑書としての非 難は雲散するであらう。私は花屋日記の辮護をしてる場合でない。日記を引出した目的は他にある。十月六日の日記に芭 蕉が園女亭の白菊の句が前面と同案なるを懸念して.去來の意見を敲いた。何事は師の杞憂を鷺⋮じて後、       ミサボ   三女がいまだ若くして、隠上桑の調あるを讃めたまぴたる吟な砂。 とあり、其の二三行隔て玉    士口岡多日本女馨更の研究︵四︶      第三巻 三四九

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82    吉岡11日本女馨史の研究︵四︶       第三巻 三五〇   む  む      む       む   園女が二夫に見えざる貞潔と︵下略︶  と、さらに明白に泣女の智見を単坐す可き、去來の讃僻があるのである、私が花屋日記を引合に出した所以は、この一項 を鷺苔に基げる嵩めであった。是より推して園女が夫一士に死に別れた年代は、謹賀七年以前であると言ひ得るのであ  る。それから又、私が一有の展年を元緑五年より遅くないといふ推定詮を持出した理由は何か。雪女の菊の塵の序によつ  て元豫壬申、墜ち五年中一有夫婦が大阪に出で玉、欝なり、前句付の監者となり、確に夫婦とも健全であった事が,前揚  の諸俳書によって判然すると共に、誤られた惟中の残年は﹁いちう﹂の讃違びから生じたので、其實一有の残年に該當しま  いかと億測されたからである。   豊中が是までの記録より十九年も後まで存命したことは既述の如くである。然もその獲年、月日に至るまでも相違して  みる。いくら何でも書中に無性係の人物の三年を、大隠にあてはめる程、昔の人は不正直であり得ない。私は惟中、一有  の音響をこ玉に逆用して、懸想五年八月十日即すといふ記事は、園女の夫一翼に相申するので、それが音響の違びから惟  申の残年に借用されたのではないかと推定して見愛いのである。勿論、推定論である。私に確信がある講でないが、種々  の理由よりこの一新読を提出して、その握れりや否やを、後の考誰に待つ次第である。  然し一直の残年が元豫五年八月十日とすると、夫妻が大阪に着くと、間もなく夫は死んだ事になる。そうすると、﹁菊の塵﹂ の序丈などにもう少しその間の事惰が記述してあり相にも考へられる。それ故,私は寧ろ元隷六年位ではなからうかと推考 せられるのである。  次に、園女にとっても,芭蕉にとっても、その一生にとって極めて重大なる既述の如き芭蕉の園女亭訪問がある。その訪 問記は、﹁花屋日記﹂に出て居る。  廿六日。園女亭也。山海の珍味をもて饗製す。婦人ながら禮をた即し敬屈の法を守る貞潔閑雅の婦人なり。實は伊勢松坂  の人とそ。風雅は何某に學びたりといふ事をしらす。岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時、惟申が妻となる。共時より

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83  風雅の名ますぐ高し。惟中が死後、江戸にくだりて其角が門人となる。     白菊の目にたて玉見るも塵なし    翁       紅葉に水を流す朝月    園  女  連衆九人、寄仙あり、別記。     推然記  芭蕉が園女亭を訪問したのは、元首七年九月廿六日である。批の俳譜の會合の際の菌の過食に依り赤痢となって、芭蕉は 途に此の年十月十二日残したといはれて居る。その事情は、また花屋日記に接て知られる。  今朝の欣、相違富農と存候。老師御事、昨夜泄痢♂の氣味二副署.﹄攣、夜中二十絵度導通氣、是は頃夜園女亭二而の菌之御  過食故と相考候。一夜之中亭手を返すが如二、今朝より猫叉通痢度数三十此度、我等始、之二手を握り候迄昌候。此歌着次  第、木節同姓二堅固に御下り相待候。南久太郎町花屋仁左衛門と御尋。早々御入り菊芋成候。急雨以上。   十月二日夜子ノ時        惟  然

   去來様

 然し芭蕉は、この園女亭の御馳走も,病態の一因であったかもしれないが、實はそれ以前から病氣であったらしい。それ は次の書簡に依て推考される。これは芭蕉から兄松尾牛左衛門に宛てた手紙︵+四︶である。  尚々は玉様およし御心得奉願候  彼是呼量以書欣不興男望愈御堅固被弾御座候哉承度奉存候頃日意専より便御座候而其元相替も無量座学は被相傳候私南都  に一宿九日に大阪へ参着道中に又右衛門かげにてさのみ苦螢も不仕なぐさみがてらに参つき申子大阪へ参候而十日の曉よ  りふるび付目毎曉七つ時分夜五つまでさむけ熱痛参候而もしはおこりに成可申かと藥給候へば廿日頃よ託すきとやみ申候  就者心むつかしく早々御案内も壁掛上貫かめや、はかたやへ今空理日見舞折半京屋寒鯛候間啓上仕いまだ逗留もしれ不申    吉岡一1日本女雪虫の研究︵四︶       第三巻 三五一

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84    吉岡1一日本女将史の研究︵四︶       第三巻 三五二  候へ共長逗留は無難暴富に奉存候間二三日申にははせ名張越にて参宮壬申と奉算盤相替事無御座候叢叢爲御案内如此御座  候叉右衛門方へ別紙に不及候間乍慮外御心被遊可馬下候 以上       カキハン   九月廿三日       桃 青口 松尾牛左衛門檬  これに依れば、園女亭に赴く前から、多少不快であった事は事實で、園女の虚血のみを責める課にも行くまい。此の芭蕉 の園女亭の訪闇を、沼波氏︵+三︶は次の如く書いて居られる。        よに  ⋮三家に近附くと、滑川は一寸一揖して先へ急いだ。犬除を構へた家の口に二女の品の無い顔が見えた。   南向きの十畳の奥座敷が、今日の會席であった。待合の間など別に設けるだけの飴裕のある家でも無かった。 一行は玄       てうご ば  關へ上って、虎を檜いた衝立をまはって、小さな坪の内を右に見た調合場の細魚を通って、柔し暗い六七の間を横切って  すぐ座敷に入った。六聾の間に佛壇があったのを、芭蕉は見つけて、歩きながら禮をして通った。皆もそれに倣った。   ﹁今日はわざぐ御尊來下さりまして、まことに面目に存じまする。皆様、有難う御座りまする﹂   席定まってから、・滑川は袴の折目を正して、改めて芭蕉及び随行者に禮を述べた。       しとや   園女が出て來た。愛川に紹介されて、優かにそれん\挨拶した。彼女はもう四十二であった。沈着いた其基止のうちに  翻印と甘心とよく調和されて居た。,芭蕉は其の凡婦でないことを見て取った。彼女は、茶を配ってから、小判形の銘々菓       かうがいまげ  子器に鶴屋の饅頭と唐菓子を盛ったのを配った。 笄髭を程の好い窮みに結って、淺い塵地に白く三星小紋を散らした小  袖着て、茶嬬子の帯を前結びにし、裾捌き輕く人手を借りすに快く物を蓮ぶ容態が、一座の客に心行く感を與へた。其の         そらだき  間に溜川が焼払た塞蛙が高く薫り出した。       ひとことふなこと      さだ   芭蕉は園女に、土地の噂など,一言二言訊いて見た。それから俳諮の席が定まった。     ﹁白菊の目に立て玉.見る塵も無し﹂

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85        うめもだを  床に無落款㊨竹石の南書を懸けて直前に竹筒の花入に白菊と面嫌を読らつてあった。芭蕉はその白菊を見て、それによ そへて園女の貞潔閑雅の人格を賛した。この賛に欝する禮として脇は二女が附けねばならなかった。    ﹁紅葉に水を流す朝月﹂ 沼波氏は、滑川を園女の夫として居るので.斯の如く書いて居る。 なほ花屋日記︵入︶には、園女に浮して興味深い一節が存するから、引用しよう。 六日。天応陰晴きはまらす。朝の食.入直垂箸。前夜絡宥疲入たまはす。暫く睡眠したまふ御目ざめより,去來をちかく めして、先の頃、野明が方に残し置侍りし.大井川に吟行せし句、    大堰小波にちりなし夏の月    翁 此句、あまり景色過たれど、大井川の夏氣しき、いびかなへたりとおもぴみたりしが、清瀧にて、    清瀧や波にちりこむ青松葉    翁 と作りし、事柄は攣ρたれど同相なりと、人のいはんもいか璽なれば,大ゐ川の句は捨はべらんと汝に申たり。しかるに 頃日園女に招かれて、    白菊の目にたて玉見る塵もなし  翁 と吟じたり。裏面同案に似て句の道筋おなじ。それ故前の二句を一向に捨はべりて、白菊の句を残しおき侍らんとおもふ 也。汝が意いかん。去來泪をうかべ、名匠のかく名を惜み、道を重じたまふ有がたさよ。縄句一章に、さまで千辛萬苦し たまふ御意謄の中の御骨折、風雅の深情こそ尊とけれ。眼あるもの何者か,此面を同案、同市と見るべき。恐ながら此句 を同案、同集など玉申ものは無事人と申ものなり。其ゆゑは下句に、景情別々論りて、句意を見る時は、三句ともに別な       ユ メ ラ リ。かるがゆゑに、我は句の意を目に見て句の姿を見す。青苔日高自無レ塵。これはこれ隙者の高儀をぼめたる語。今は       こサホ 園女がいまだ若くして、阻上桑の調あるをほめたまひたる吟なり。意も妙な砂、語も妙なρ。世人此句を見るもの、園が   由口岡H日本女馨史の研究︵四︶       、       第三巻 三五三

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86    吉岡11日本:女座込の研究︵四︶      第三巻 三五四  清節をしらん。波に塵なしの語は左太仲が、必.モ非二輪,與乳ハ竹、山水意有二清音一といへる絶唱もおもはれ、園が二夫に  まみえざる貞潔と、大井.清幽の絶景と重句の間相たがって、感じてもあまりありと申せしかぱ、師も機嫌よくおはしけり。        去來記  此の﹁花屋日記﹂は、極めて議論の多い替書で、儒書として全く斥ける人もあって、その評債も,・人々に依て極めて匿々で ある。勝峯氏︵四︶の解読を引用すれば、次の如くである。﹁肥後八代の正教寺の住持であった僧文曉が、長崎で獲書したと構 する﹃俳論芭蕉談﹄の一部である。活字本は﹃花屋日記﹄の題名で行はれてるるが、原本には題笙に﹃芭蕉翁反古丈﹂とあり、 粗景には﹃芭蕉談絡古本記﹄また、立みだしには﹁翁反故絡焉日記﹂とあるが,﹃花屋日記﹄の丈字はどこを探しても出て來な い。恐らく活字本の覆刻者が無題笙のものを底本として假にさう名附けたのが流布して,その後の立憲者も同名を襲ふ事に なったのであらう。︵中略︶廿六日園女亭の饗慮に囲女を稻して﹁岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時翁忌が妻となる﹂の 一項の如き﹃誹階家譜﹂に誤られた記事で、これのみを以ても文面の創作なる事は動かし得ないのである。﹂と。  斯くて園女は、芭蕉の歌意も大阪に居住し、寳永三年に江戸へ下ったものと考へられる。それば既述の享保八年版の﹁六十 賀集﹂の蹟に、﹁武藏に遊ぶ事、すでに十九年﹂といふ句に起て大福推考し得る。勝馬氏も此の読を探って居る。而して園女 が江戸へ下った當初に、彼女の代表撰集﹁菊の塵﹂が出版されたものらしい。此の著書に就いては、また主峯氏の解読があ るから、次に掲げよう。  園女の代表撰集で其の序歌はしばろ\引合に出されるが内容は知らない人が多い。明知、安永の時代既に藍本であったと見  えて、芭蕉の通家と総⋮する松村櫓門の﹁春と秋﹂に白菊の歌仙を韓臆してみる。温故集に呈する西鶴の爵位や彼の雲虎和禽  に答ふる書は本集から抄出したのだ。芭蕉が早寝の貞節を着した﹁白菊の目に立て見る塵もなし﹂の句に依って、菊に關す  る諸家の句が主となって、其の他園女と俳交のあった人々の作品を読め、元豫時代の名家は敢て蕉門と限らす大概牧録さ  れてある。出版年月は記してない。私は元緑十五年以後であらうと推定したが、版本は江戸の書隷吉田宇右衛門だから園

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87  女が江戸に來た當初寳永こ、三年かも知れない。序文の﹁滑川さへ身をいたづきに起き臥し﹂の澗川が皇女の家事後見者  であらうといふ小論は私が嘗てホトトギスに詳しく考讃した通である。但し此程一覧した朱拙の﹁おくれ馳﹂元豫十二年井        すで 筒屋版には清川が一有、何中が荷中となって居るので、柳か動揺を感じたが、朱拙の奥書に﹁是ははせを翁貫入を捕たま     あき  ふ年の穐、難波にその雀なりとて、或人の許より我が手に入りぬ﹂とあって、要領は豊後の佳人なので恐らく作者名を傳  へ誤られたものであらうと思ふ。一有が士女の亡夫であるがためにi一翼申−魂有ーー滑川とかう三人。何んにしても  厄介な問題である。大野酒竹氏の奮蔵本には﹁この書友入交學士堀田璋左右氏の珍藏なりしを得て架中に納む﹂と奥書あ  り、上中二巻の完全な版本で、私は東大附驕親書館の爲本と校合して、轟喰いで讃めないところを補って置いた。  園女は深川に在佳して居たことが諸種の丈献に見えて居るが、その生活朕態は、やはり此の﹁,菊の塵﹂に、その一端が窺 はれる。  長屋割られし人の有明の月に酒費不レ許レ入レ内とてなきあかしたり。     水窓の綱手もきる﹂氷桂かな  其角  水窓は外より氷を汲入,うちより水さわしたる中学也、必ず水瓶の上にあけたれば、都の鳥居には湿す。捲れ東國のせば  き家のあらましなり。       ○  露は秋、しぐれは冬となむさだめて、こそこそと反古取出て、火桶ぴとつを張まはす。是何の翁ぞ、俊成、頼政をならふ  にもあらす。ただひとつにて吾冬を過さんとなり。春より後はといはfあらすあるまじ。割なぼもとの土にこそと.若し  問は貸かく答ふべき     膝もとの折敷の糊に木葉哉    その女  園女の簡素な生活が偲ばれる。    吉岡H日本女醤史の研究︵四︶       第三巻 三五五

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88    吉岡H日本女醤史の研究︵四︶      第三巻 三五六  然るに、彼女は享保三年には剃髪をして居る。それに諾する一驚が﹁六十賀集﹂に怯められて居る。引用すれば、弐の如 くである。       たかずゑ  泉式部は雲林に雁の一聲をあはれみ、清少納言は四國のかたにさまよぴて、つ穿りのすがたをかへりみ、菅原の孝標の娘  は筆身の滋賀佛を製し、藻壁門院の少將はをのがねの面ぶせなりとて、障子をべだて玉李の親清の娘に見えけむ。むかし  の風流したはすしもあらねど、身にいたづきおほく、心すごやかならざれば、衣裳にたき物し、白粉を顔にほどこすこと  をしらす、斎けつるさへ物うければ、このごろみつからかしらおろしぬ。わが草庵もとより良いたらざれば、男女の境界  なし。木にもあらす草にもあらす、竹のよのはしたなき世をふるまム、西土をねがびてぼとけの御名をとなふのみ。東窓  閑成曉いささかおもひのぶる事かくのごとし。   くろかみよわが一すちの思ひしれ     すて玉蓬かもとにくつとも    その女  享保三戊戌年陽申  かくして剃髪してしまった。その剃髪の容も、普通と異って居ることは、既述の通であって、﹁天窓丸型髪眞中に廿本ホド 立のこしたり﹂といはれて居る。こんな鮎から考へても、飴牛氣性の勝つた、普通と異った婦人であったことが推察され る。女讐ともなる人物は、やはり凡人ではないと見える。  而して享保八年には,有名な﹁六十賀集﹂を撰した。此の著述に撃ても、同じく勝言言♀︶の解題があるから、次に掲げ る。  翠蓋が寳永二年に江戸へ下ってより十九年目の享保八年,六十賀集に撰んだのである。題名は永く知る事を得なかった  が、最近大阪の営林鳳二氏の好意で借賢した三浦若海量藏の作者別俳書目録で﹁鶴の杖﹂、といふ書であることが明瞭し  た。板下は園女の雄渾な筆蹟をそのまま刻下したので安藤冠里公の題句が大きく書いてある。其角門の琴風の蹟丈は園女.

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89  傳として最も明確なもので塾斯波一興の妻とあるが、奇人談は此の蹟を引用しながら一有の妻の一項を参照せす,惟中の  妻なる奮読に育從してみるのは可笑しい。︵洒竹文庫藏︶  1斯くて、その後三年にして.帥ち行年六十三︵誹譜家譜の七十四歳論あり︶,享保丙午十一年四月廿日罪した。法名は 林香院遊轡構詠妙園信女と稻した。欝世に曰く,  秋の月春の曙見し室は    夢か現かなむあみだ佛︵四︶  私はこれまでかなり詳細に、冗長の嫌ある程,園女に就いて述べて來たが、それは殆ど悉く俳人としての傳記で、彼女が 寝番として、殊に眼科馨としての詳細なる逸話等がないのは霊芝のこと﹄云はねばならない。然し隠女が砂くとも、深川に 來て讐術を行って居たことは、︸例の﹁六十賀集﹂の蹟のコ今深川の二女,州讐は夫の術をつたへしなる記載に嘗ても明であら う。然し、大阪に在住當時は、園女が果して、轡師を開業して居たかどうか、明瞭なる設がないのは遺憾である。  園女に淫しては、まだ是迄に書漏した認可が若干あるから此に掲載する。次に引用するのは、大野酒倉氏に依る園女傅︵三︶ である。        わならひ  ﹁園女は勢州松坂の入なり。︵黒影勢州山田の司官渡雲影の女︶備前の人岡西野中の妻となり、難波に住す。和歌を嗜み﹂  俳諮は杉本美津女︵望一門人︶に學ぶ。元豫二年の冬よ夢,芭蕉の門に入り,後其角に随ふ。夫零して後江戸に來b・、、深  川に黒し眼科を以て生螢とす。性風雅にして世に拘はらす、袖下の紅絹を以て木履の緒に換へ、文庫の蓋を厨の水流しに  用みしと云ふ。深川八幡に歌仙櫻とて.園女が三十六本の櫻を植えしがありし由,江戸砂子に見えたれど今は過牛枯れ果  てたり、園女後年輝に滲じ名を智鏡尼と黒む。しかも猫頂上に十根許の髪を遺せり、入その理由を問はんと欲すれども,  威風端然問ふに由なかりしと蓉。享保十一年四月廿日獲。行年六十二歳︵或去七十四歳︶上置諸集に多く散見すと難も未だ  軍行を以て世に出でしを聞かす。此篇蕪村の玉藻集を基とし,傍ら諸集を以て余が補びしものなり。固より遺漏の多きを    吉岡H日本女山営史の研究︵四︶       第三巷 三五七

(26)

90    吉岡H日本女讐史の研究∩四︶      籠π三巻 三五八  期す。讃者諒之焉。﹂  是はコ兀豫名家句集﹂に掲載されて居るもの故、﹁此等蕪村云々し以下の丈が記述されて居る。また﹁深川八幡に歌仙櫻と て、園女が三十六本の櫻を植えしがありし由、江戸砂子に見えたれど今は過牛枯れ果てたり、﹂とあり、随筆﹁墨水溝夏録﹂ に依るも,﹁正徳の頃園女といふ女宗匠三十六本の櫻を八幡の試内に植えこれを歌仙櫻と稻す今はかれて唯三本のみ淺れり﹂ といふ記述がある。  そこで、私は此春の一日、畏友板倉洋吉氏と二人で、此の歌帝王を見に行った。現在は、既に八幡境内にはなくて、八幡 の下の深川公園に移されて居た。そして、櫻も十二年の震災に焼けてしまって、今小さな移植した櫻が残って居るのみであ る。此の櫻⋮の中央に、口曳に在る様な記念碑が建てられて居る。四号はその時私が撮影したものである。表面には、三十六入 の現代の俳人の俳句が記され、その上に澁澤子爵のコ園女歌仙櫻之碑﹂といふ題字があり、裏面に伊藤松宇氏の次の如き文面 がある。  予選は 伊勢の置注師貞乃女にして斯波一有が妻なり蕉門に俳名高く寳永二年江戸に來り深川に佳み享保十一年六十三歳に  して獲す歌仙櫻は彼の女が正徳の頃三十六株を移植せるに起り實再勝季二世園女と班象が植え足し歌仙櫻と題して碑を建  て更に大正四年植え泣きしが十二年の震災に焼失し叉鼓に三十六種類を撰みて之を植えたり   昭和六年四月   題字 九十二翁 子爵 澁澤榮一        七十三 伊藤松宇書  次に賛助員及び磯起人の蓮名がある。磯起人の名のみ記すことにする。  磯起人

  嚴谷季雄  伊藤牛次郎  本堂半四郎

(27)

91

  富岡宣水  小倉蟷助 

加藤正治

  津谷一治郎  

津屋治助  

坪谷善四郎

  渡漫象次郎

 世話人   井 下  清    林  愛 作  私が行った時は、這々櫻は盛りを遇ぎて居たが,三+六本のさ玉やかな櫻が誠に美しかった。婦女の貞節の人格を象徴し て居る様で、私は氣持が好かった。  それから、園女が葬られたといふ深川の漿巌寺に行って見た。此の寺は市電の深川旺役所前に下車して,すぐ前の菓子屋 と菓子屋の間の匿役所へ行く廣い道へ入って牛丁も行かない左側で、松平樂翁公の立派な墓のある寺である。寺はひどく荒 れはて玉、かなり敷地は廣いが,突當のにその寺があ夢.入って左側に,狡いが石の玉垣したコンクリートで敷きつめた、 寺とは似つかない立派な墓地がある。坊さんに色々訊ねて見たが,園女の墓が傍にあったといふ念佛堂も、そんなものがあ ったか知らない程で、なんでも震災で全部焼けて、墓なども見るかげもない程に荒れてしまったので、残って居るのを、今 の墓地に改葬したものだ相である。墓守の案内で.墓を見て歩いたが、悪女のは途に官話らなかった。墓守の話では、震災 で無縁佛になったものは,皆⋮緒にしてしまったと,無縁の卒塔婆の量り込んである所など見せて貰ったが、結局得る所が なかったのは,淺念であった。やはの震災で,園女の墓も無縁として片附けられてしまったものであらう。惜しい事といは ねばならぬ。然るに、其後深川直史︵二︶を見ると,震災前の墓の爲眞が掲載されてあるから、ロ縮に載せることにした。ま た震災前の婆巖寺も同様に輔載する。  深川は、斯く園女に縁が深いので,上流の、深川厩更しにも、雄鷹傳がある。   勢州松坂の祠官の家から難波の岡西氏に嫁し、和歌俳諮を好んで芭蕉に師事し,元豫七年置芭蕉の最後の關西行の時に    吉岡n目本女帯史の研究︵四︶       第三巻 三五九

(28)

92    吉岡1一日三女馨史の研究︵四︶       第三巷 三六〇 は、芭蕉が訪れて快懐し﹁白菊の眼にたて玉見る塵もなし﹂の句を残した事蹟もある。後江戸に移り深川に窪み、眼科を 業としてみたとのことであるが、深川では八幡肚境内に歌仙櫻を植えてゆかしい名を湿してみる。享保十一年四月年六十  三︵叉七十四︶で残し、露巌寺念佛堂に葬った。僻世に﹁秋の月春の心見しそらは夢か現か南無阿彌陀佛﹂とある。  また深川史料展覧會三︶には園女に關して次の如き出品目録があった。

度會園女懐紙一  伊藤松宇

園女筆   牛折     名月や明石につ樽く海の色        江村庄太郎

度會園女 

俳句短紛鈴木松雄

 雄興冒上人値酵記   園女墓地の圖あり 同 爾園女に關しては、淀華百事談︵+六︶に、﹁蕉門俳人園女の宅﹂といふ記事があるσ  奮の過書町︵北濱より一丁南の通︶なには橋すぢ東北角の家は古くある菓子舖なり。︵余幼き時より直しが、今にあるは其  孫か。又別人なるかは知らす︶是はばせを翁の門入園女が家のよし。母様名所圖絶砂面四にのせたり。  此の宅と﹁誹家大系圖﹂︵四︶の岡西居中の難波の佳景﹁高麗橋ノ側二卜居ス﹂と同一地図であるが、是は興味ある事と考  へられる。  此の小論を絡るに際して、諸所に引用したが、有名な﹁菊の塵﹂の聖女の自序の全文を重複を厭はす揚げ、また此の書中に ある著名な﹁雲虎和爾にごたへ奉る﹂をも併せ掲載しよう。

菊 の 塵

序 文

(29)

93 壬申八月、神風や伊勢の故郷を立ちて、古き都の此庭に來りぬ。その耳も浪をいとあらたまの春を迎へて  難波せに何からとはむ事はじめ と賀して遊びき。其後あまたの句みき曳たるが中に、これから拾ぴ求て、さやかくやうらの月もやせましなど、言ぴ居りけ る折から、芭蕉の翁訪ね來まして、  白菊の目にたて玉見る塵もなし, と吟し出されしによりて、六々やがて巻をなしぬ。いくほどもなくて果樹世を去夢ましかば、それもはや限りの序となれり ける。はかなき其事句にとりて、その集の名とはさだめてけるを、滑川さへ身をいだづきにおきふし、月に日に、あるは輕 めるごとく、あるは重れるがごとくなむ見ゆれば、その事をとては言ぴ出すべきいとまだにあらざれば、さは言びわたるのみ にてぞ過ぐる。さきのおと玉しの秋におよびては、病ことのぽかになりて、あはや悲しくなき人の数にいられたりけり。さ ゆしょり夜の燈ひとりごち、とまれ,かくまれして見むからはおかしなど、いびくて今年と云ふことし今日と云ふけふよ 弐とこれを編み聲て侍る、思ふに我が側道に入りし初めは即興二年の冬なり、あけの年の如月、かの翁とこ玉の人曾良など びきゐ、來たらせしに、しかじかと告りければ、翁喜びて、いかならむことをも綴りてよと、仰せりたるに。  花待てば時雨て残れ檜笠 といぴ出ければ、やがて脇の句附て給ふべて,さらに  りうらんの奥物ゆかし北の梅 といふ嚢句をさへ聞こへられしそかし。されば此集はそれより今迄、妙々所々より我が手に落ちし句ども、叉は自らのをも 力の及ぶらむぼどは、えりてわけて書のせ侍る。なをおろそかならむ事のありがちならんは、思はすしもあらす。ただかの 人びとの志に、いそ圏てむくはまほしうこそ       その女 吉岡匪日本女鱒螢史の硯究︵四∪ 第一二巷  三六一

(30)

94 吉岡向日出女帯皮の研究︵四︶

雲虎和尚にこたへ奉る

第三巻  三六二  艶書の旨趣舞申候。不濫費不求妄大道の根源誰も存の所、乍樺不霊候。一心源頭にのぼりての所作は、柳線華紅ただその ま玉にして常に句を蓉ひ、歌をつ削りてあそび申事に候。無釜のロ業に候は璽一切経も無記の口業にて候。法くさき事は嫌 にて、所作所行は念佛と歌と也。極重へ行はよし。地ごくへ入れば目出度し,そこに更々無分別候。申世事世一ども、歩行難 成候ま玉御ゆるし候へかし。       そ の 女     和 玉 駒  自己念其レ不レ覚レ心.  法灯工.輝ヶ四灯.心   市中黙々有,二明鏡一  全.識ル人間清浮,心    叉  誰か見むたれかしるべき有にもあらす  無にもあらざる法のともし火 次に﹁六十賀集﹂の序文を掲げる。    ﹁園女穴十の賀集﹂︵鶴の杖︶の序文 あふ人のとへどかはらぬ同じ名のいくひになりぬむさしの乙原といぴて後鳥羽院、下野の族衣、草枕を結びたまぴけんもな つかしく、尾花が袖をもる玉月かげ、雲にそびへて生出たる不二峯、移すぼあらじとこ玉に遊べる事十九年、はやくも六十 の老量り、はこやの山の千代の坂行、杖を賀して再々句を玉ふ。叉は先年かしらおろしける折のあらましも筆ゆつみでに書

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