一、はじめに 志 賀 直 哉 の 最 初 期 の 作 に「 鳥 尾 の 病 気 」( 『 白 樺 』 一九一一年一月)という短いものがある。草稿時の仮題を 「 小 説 神経衰弱」 として、 その下に 「(一名トラヂコメディ―) 」 と書き込まれていたことからも明らかなように 、 (1 ) 同時代に 流行したテーマとしての「神経衰弱」という病気を、いさ さか 悲喜劇 0 0 0 的に描いた作品である(作中で「トラヂ、コメ デ ィ」 の 言 葉 は、 神 経 衰 弱 の 鳥 尾 が「 私 」( 山 本 ) を 小 馬 鹿にするために使用されたのだが、明らかにそれは、鳥尾 自身に跳ね返る意味を含んでいる) 。 草稿時で「二十行二十四字詰め」の原稿用紙一五枚程度 の小話である。近頃、鳥尾の神経衰弱が「余程悪い」こと を紹介する簡単なエピソードではじまり、その療養のため に 鳥 尾 と「 私 」 が「 暖 あつた か い 海 岸 」( 鵠 沼 ) へ と 向 か う 途 中 に、車内で起きた小事件を中心的内容とする。事件は、汽 車で背中合わせに乗り合わせた魚屋の爺さんから発せられ る「生臭い」臭気に対して、普段から労働者等に同情的な 反貴族主義の思想を表明していた鳥尾が、やせ我慢をして いたため、ついに気を失って前後不覚になってしまう、と いう他愛のないものだ。ただし、後から振り返れば他愛な い出来事とはいえても、動転した「私」が鳥尾の脈を取ろ うとしてみて 「脈はくがない」 と感じ、 「こりゃ死ぬ」 と 「思 い込んだ」ほどに
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コミカルなかたちではあれ―
致命 的な事件として描かれた狙いには注意したい。 でなければ、 その情景を前にして、 以下のような冗長な「私」の心象が、シ
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志賀直哉「鳥尾の病気」を軸に
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坂
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わざわざ記述されることはなかったはずである。 こんな時、然し妙な事が頭に浮ぶものである。此友が死 んだあと、自分が何となく孤独を感じつつ亡き此友を想 ふ時の事をマザ〳〵と頭に浮べた。そして此友が自分に 就 て い つ た 罵 倒 を 聖 人 の 教 へ 程 に あ り が た い も の に 思 ふ。さういう未来のある時の有様が一瞬の間に明かに私 の頭に映つた。 つまり、 鳥尾は 「私」 の心象的風景 (思い込み) というフィ ルターを介して、いったんは〈死〉を通過した。だがそれ は象徴的 ・ 比喩的レベルの話であるから、結果的には、 「島 木の従者」 という、 社会の軛のなかで社会的存在として真っ 当 に 生 き て い る 他 者 が、 「 大 し た 事 は あ り ま す ま い 」 と い う冷静な判断を示し、携帯していた丸薬を含ませると同時 に 鳥 尾 は 蘇 生 す る。 そ の 後、 「 私 」 は 鳥 尾 を 途 中 下 車 さ せ て医者の診察を受けさせるのだが、 医者の診断は、 一言、 「脳 貧血」であった。 「 神 経 衰 弱 」 と「 脳 貧 血 」
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こ の 対 立 関 係 が 本 論 を 展 開していく上での基本的な参照枠である。医者と「私」は 診察の最後を次のような対話で終えている。 [前略]―それでこれから 何 ど ち ら 方 へ?」 「鵠沼へ行かうと思つてゐます」と私は答へた。 「御勉強ですか」 「いいえ、此人が神経衰弱なんです」 「 ハ ハ ハ、 そ れ 〳 〵」 と 云 つ て 医 者 は 又 笑 ふ。 ど う い ふ 意味か、よく解らなかつたが、それも脳貧血の原因であ ると云ふ事らしかつた。 「 私 」 は、 医 者 の 言 葉 の 意 味 を は っ き り と は 解 さ な い が、 神経衰弱は脳貧血の原因になり得るらしい、という判断を 下した。そして、この非断定的な判断を、テクストのやや 曖昧な結末が反映する形となっている。鳥尾と「私」の共 通の友人である武林は、後から二人の逗留に合流する予定 であったが、今度の事件の顛末と鳥尾の回復を「私」の便 りで知った後、先に鵠沼にいる二人に次のような葉書を寄 越したのである。 「 只 今、 お 手 紙 拝 見。 君 達 の 狼 狽 し た 様 子 が 眼 に 見 え る や う で 面 白 か つ た。 い い 気 味 だ と 思 ひ 〳 〵 読 ん だ。 然 し 大分いいとは何より、 僕は脳貧血が神経衰弱の薬になる と云ふ事を初めて知つた 」走り書きにこんな事を書いて、 猶端に「 明 みようごにち 後日 の午前中には僕も行ける」と書き加へてあつた。 [以下傍線は全て引用者] こ れ が 短 編 自 体 の 終 端 で あ る。 見 落 と さ ず に い た い の は、 こ の 葉 書 の 内 容 は「 私 」 が 状 況 を 知 ら せ た 葉 書 に 対 す る 返 事 0 0 で あ る こ と だ。 つ ま り、 「 脳 貧 血 が 神 経 衰 弱 の 薬 に な る」という知識は、先の医者が言った事に対して「どうい ふ意味か、よく解らなかつた」ながらも「私」が一つの解 釈を出した、その答えを反映したものか、でなければ武林 が「私」に代わって解釈した答えということである。医者 の診察を聞いた時、 「私」 は 「脳貧血」 の原因は 「神経衰弱」 だと曖昧にみなしていた。しかし、 その後鳥尾の病気が 「眼 に見えて柔いで了つた」結果をみて、むしろ「脳貧血」は 「 神 経 衰 弱 」 に 対 す る 薬 0 で あ る、 と い う 捉 え 返 し が さ れ て いる。この顛倒こそが重要なのだが、むろん因果関係が逆 転しているわけではない。 〈神経衰弱〉 →〈脳貧血〉 →〈鎮静〉 と い う 因 果 の 推 移 の な か で、 「 脳 貧 血 」 に 対 し て 前 の 矢 印 が 示 し て い る〈 原 因 〉( = 事 前 ) か ら、 後 ろ の 矢 印 が 示 し ている「脳貧血」の効用(=事後)に焦点が移動したにす ぎないという言い方もできる。だがそれゆえに、この小話 で 機 能 し て い る 主 題 の 中 心 的 意 味 を、 「 神 経 衰 弱 」 と い う より、 「脳貧血」 (の悲=喜劇性)として見直す必要がある だ ろ う。 「 脳 貧 血 」 こ そ が、 死 の 可 能 性 に 触 れ る 悲 劇 を 作 ると同時に、 鳥尾の病気が快癒する顛末を、 ドタバタと「何 だか可笑し」いものにしているのだ。おそらく通常の読解 に お い て は、 鳥 尾 の「 病 気 」 を「 神 経 衰 弱 」 が「 脳 貧 血 」 へと高じたものとして見るだろう。言い換えれば、当時の 医学的知識において「脳貧血」が「ヒステリー」発症の前 提にされていたように、併発する二つの「病気」のあいだ に段階的差異しか見ないだろう。つまり、二つの症状を合 併して考えて、一つの同種の「病気」なのである。しかし 概観したように、これら二つの症状の表現的な差異によっ て生じている対照関係が、このテクスト全体の構成を象っ ているのは疑えない。本論の狙いとして、その後高い評価 を 得 て い く 志 賀 の「 実 質 的「 処 女 作 」」 、 (2 ) ひ い て は「 大 正文学」 の重要な起点の一つとしてみなせる 「鳥尾の病気」 の背景的な因子を探り、それを明治後半から大正へと移行 する思想的文脈の集約点として結び合わせながら、同時期 における「脳貧血」の文学的系譜を考えてみたい。 二、サロメの神経美 まずは、このテクストにおいて神経衰弱と脳貧血の対立 関 係 と い う 主 題 的 演 出 が い か に 周 到 に な さ れ て い る の か、 その内容を歴史的背景を含めて確認してみよう。その観点
に お い て、 こ の 小 話 で 唯 一 無 二 の 役 割 を 果 た し て い る 具 象 的 ア イ テ ム
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オ ス カ ー・ ワ イ ル ド 作 の 戯 曲「 サ ロ メ 」―
を無視することはできない。 「サロメ」 のドイツ語版は、 鳥尾の病状を紹介する冒頭のエピソード中に、丸善で買わ れ、そして肝心の汽車の中で、奇妙に興奮した調子の鳥尾 にドイツ語で読み上げられる。したがって、それはあから さまに「神経衰弱」の代象として描かれている。 いわゆる世紀末ヨーロッパの象徴主義時代において、洗 礼 者 ヨ ハ ネ の 首 を 所 望 し た ヘ ロ デ ヤ の 娘、 〈 宿 命 の 女 〉 と してのサロメの主題が、絵画や文学の表象に繰り返し描か れたのは周知のことに違いない。その隆盛の発端を成して いるのが、ギュスターヴ・モローが一八七六年にサロンに 出 展 し た 油 彩 画「 サ ロ メ 」 と 水 彩 画「 出 現 」、 そ し て ほ ぼ 同時期に執筆されたギュスターヴ・フロベールの短編「ヘ ロデヤ」である。さらに、モローのサロメ像の受容と影響 に関する論考を参照してみれば 、 (3 ) 象徴主義的デカダンスの 典 型 と い う 意 味 で 言 及 す べ き 文 学 は、 ジ ョ リ ス = カ ル ル・ ユイスマンスの『さかしま』 (一八八四年)になるだろう。 主人公のデ・ゼッサントの観た、モローに描かれたサロメ の美的姿態は、端的に神経症(ヒステリー)の身体であっ た。 「 そ れ は ユ イ ス マ ン ス 自 身 の 固 定 観 念 で あ っ た よ う に 思える。サロメの表情にヒステリーやカタレプシーの痕跡 を読むことは、ジャン=マルタン・シャルコーをはじめと する精神医学者たちが華々しく学説を展開した、一九世紀 末特有のメンタリティーを反映している」からだ。 したがって、志賀が、十九世紀末デカンダンスの文学者 としてフランスのユイスマンスと並び称されるイギリスの ワイルド、その代表的戯曲「サロメ」を「病気」の鳥尾に 携帯させた意味に関して、 さほど複雑に考える必要はない。 ワイルドの「サロメ」は、一九〇七年八月( 『歌舞伎』 )に 森鴎外が基本的な筋を紹介したのを皮切りに、翌々年の鴎 外自身による翻訳、一九一二年十一月の外国人劇団による 日 本 初 上 演、 そ し て 一 九 一 三 年 一 二 月、 「 芸 術 座 」 の 松 井 須磨子主演による初日本人役者の上演と続いて、受容の素 地 が 整 え ら れ た。 大 正 初 期 か ら 中 期 に、 「 サ ロ メ 」 の 表 象 は複数の劇団によるヴァリエーションを通じて一時隆盛を 迎え、関連してワイルドの他の著作も作家達に好んで翻訳 さ れ た。 そ の 後、 「 サ ロ メ 」 は 関 東 大 震 災 の 時 期 ま で、 大 衆的見世物の格好の題材として変形・消費されていくわけ だが 、 (4 ) 本論で取り上げている「鳥尾の病気」は、出版時期 ( 一 九 一 一 年 一 月 ) か ら わ か る よ う に、 そ の 賑 や か な 流 行 を ま だ 経 て い な い。 全 集 解 題 に よ れ ば、 草 稿「 神 経 衰 弱 」 に記された執筆の日付は一九〇九年一月なので、鴎外の翻 訳や、 それよりも半年発表が先んじた小林愛雄訳「サロメ」( 三 月 ) に も 先 行 し て い る。 つ ま り、 大 正 期 へ と 続 く「 サ ロメ」流行の兆しが未だはっきりとは見えない段階に執筆 されている。 ところで「サロメ」の原作は、本来イギリス人であるワ イルドがフランス語で著わしたものだが、 話中の「サロメ」 が ド イ ツ 語 版 で あ る の は、 鴎 外 の 紹 介 文 の 最 後 に、 「 現 今 のところでは、ワイルドの流行は、本国よりは独逸の方が 盛 な 様 に 見 え る 」 と 書 か れ る よ う に、 欧 米 で の「 サ ロ メ 」 の偏った受容のされ方が関係していた(鴎外が翻訳の底本 と し た の は、 ヘ ド ウ ィ ッ ヒ・ ラ ッ ハ マ ン の ド イ ツ 語 訳 で、 その上演はドイツで評判を取り、また同訳を元に作曲され たリヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」も人気を 博 し て ド イ ツ 語 版 の 流 通 に 貢 献 し た。 志 賀 の 引 用 元 で あ る )。 ( 5 ) 作 中 で 鳥 尾 に よ っ て 読 み 上 げ ら れ る ワ イ ル ド の 戯 曲 の 台 詞 は、 草 稿 時 は 邦 訳 が 使 わ れ て い た に も か か わ ら ず、 出 版 時 に ド イ ツ 語 に 書 き 改 め ら れ た。 「 病 気 」 を、 異 質 な 言葉が身体を浸食する鮮明さによって印象づけるという意 味では、理解可能な変更だろう。多くの読者にとって異国 語の表記は 読めない 0 0 0 0 (上手にデコードできない)表象であ り、それは〈身体〉の 本来的意味 0 0 0 0 0 を含意しているからであ る(ちなみに、 引用された部分は、 踊りを終えたサロメが、 ヘロデ王に褒美を尋ねられてヨハネの首を所望する瞬間で あり、 作中における鳥尾の病気の 「高潮」 を表現している) 。 その意味で、一九一二年一一月、横浜ゲイティ座でアラ ン・ウィルキイ一座によって、日本ではじめて演じられた 「 サ ロ メ 」 に 対 す る 批 評、 特 に サ ロ メ 役 の ハ ン タ ー・ ワ ッ ツに対する感想で多かったものが、 「肉体の神秘」 や 「霊肉」 の 力 の 不 足( 島 村 抱 月 )、 ま た は「 神 秘 的 な 一 面 」 を 裏 か ら支えるべき 「肉的な一面」 の欠如に対する不満 (小山内薫) であったのは理解しやすい結果である。ワイルドの戯曲を 前にして、肉体的美学を優先するヨーロッパ世紀末の象徴 派的態度が、あらかじめ識者の期待として前提されていた ということだ。ただし、一九一三年一二月に芸術座で松井 須磨子を主役にして初めて日本人による「サロメ」が演じ られた際には、同じ小山内が、須磨子の「肉体」の表現を 半ば認めつつも、逆に「霊魂」の欠如を強く批判したこと は付記する必要があろう。つまり、その肉体的美は、神秘 的なものの顕現に自ずと合一すべきものとして捉えられて いた。が、同時にそれは、自然的な「肉」というメディウ ムの他では決して顕現しないものでもあった。ヨーロッパ 象徴派的感性において典型的な、美学化された神経症や神 経衰弱において愛でられる詩的肉体の特質である。 志 賀 の 作 に お い て も、 幾 人 か の 論 者 が 強 調 す る よ う に 、 (6 ) 鳥尾は他二人の友人と作家同人(白樺派)の繋がりを思わ
せる、高等遊民的な友情の共同体を形成していた(モデル は本人曰く、 鳥尾が志賀で、 「私」の方が木下利玄である) 。 だ が 鳥 尾 が 山 の 手 に 住 ま い を 持 ち、 「 東 京 都 市 空 間 に 疲 弊 しながら」 、同時に「 「精神」 ・「文化」の特権化された空間 に依存していた 」 (7 ) 存在であることは確かだとしても、ワイ ルドの「サロメ」を、単純に、その階級的特権性を象徴す るものと捉えるだけでは収まらないだろう。鳥尾(やその 友人達の交流圏)は積極的に、世紀末以来の「サロメ」受 容の逆説的な意味に通じていたと想定される。それゆえ普 段から「貴族主義を罵つてゐ」る知的エリートの鳥尾が社 会 的 ヒ エ ラ ル キ ー の 虚 飾 を 嫌 い、 「 肉 」 の 美 へ と 沈 潜 す る 方向に親和感を抱くのは些かも不思議ではない。 「私」 (山 本)に待ち合わせをすっぽかされて神経の非常に高じた日 に、鳥尾はドイツ語の「サロメ」を丸善で購入し、鵠沼行 きの列車の中でこれ見よがしに取り出して朗読する。そし て、背中合わせに座った魚屋の爺さんの「生臭い臭」に耐 えられず、脳貧血で気を失う騒動の後、医者の診断を経て 「如何にも穏やかになつた 眼 ま な ざ 差 し」の鳥尾は、 「あの騒で僕 はサロメを 失 な くして来ちやつた」と「工合悪さう」な様子 で「懺悔」するのである。したがって、戯曲の世界では決 して「懺悔」しない〈サロメ〉を紛失することが比喩的に 表わしていることは自ずと明らかで、 つまりは、 鳥尾の「病 気」の治癒である 。 (8 ) サロメの表象する〈興奮〉を除去した 弛緩の状態へと鳥尾を導いたのが、 「脳貧血」なのである。 普段、外国語で書かれた「サロメ」のような高尚な文芸 によってデカダンな肉体美を信奉する鳥尾は、 現実の「生」 の臭気、労働者階級の肉体から発せられる臭いに打ち負か された。それは、ちょうど小山内達が「サロメ」を演ずる 女優等に対して抱いた批判の理由と同じく、肉体の神秘的 側面と現実的側面が分離されてしまったために引き起こさ れた結果である。だが鳥尾の「病気」の身体は、両者を分 け隔てなく感受する場を用意していた。その二種類の、理 論的には似ているはずの、しかし現実的にはあまりに相違 する 「肉体」 の対比 (とその混同) が、 このテクストの 「喜劇」 的要素を作っている。その意味で、この短編は鳥尾が携帯 していた戯曲自体に対する、一つの批評的作品になり得て いる。 「サロメ」の原話は単純に悲劇であり、 「トラヂコメ ディ」はそれに対して喜劇性を加味した
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おそらく坪内 逍遙の小説論で取り上げられて以来の―
近代的な止揚概 念であり、 小説的な批評概念であるためだ。だからこそ 「サ ロメ」 は、 「脳貧血」 という新たな心的状態の導入によって、 「 失 な く」される(=揚棄される)ことになったのである。三、 「脳貧血」の美学とその系譜 と こ ろ で 医 学 以 外 の 学 術 的 な い し 知 的 サ ー ク ル に お い て、 「 脳 貧 血 」 の 用 語 が 頻 繁 に 用 い ら れ た 擬 似 科 学 的 な、 それゆえに越境性のある領域は、ほとんど専売特許と言っ てよいほどに「催眠術」の解説の中か、もしくはより学的 体系を整えた「催眠心理学」の中であった。無論、その生 理 的 原 理 は、 人 為 的 か 否 か の 差 別 を 除 け ば、 当 時 の「 睡 眠」の医学的解説に等しいものであったから、単体の理論 として新奇なものではなかったかもしれない。しかし、あ る通説がいかなる言説との抱き合わせのなかで流布したの かは、別様の問題である。 東京帝国大学では一九〇四年に心理学科が哲学科の一分 野 か ら 独 立 す る が、 一 八 九 〇 年 代 か ら 心 理 学 講 座 を 担 当 し て き た 元 良 勇 次 郎 に「 変 態 心 理 学 」 の 研 究 を 勧 め ら れ た 福 来 友 吉 が、 「 催 眠 」 を 専 門 と し て 博 士 を 取 得 す る の が 一九〇六年、同年にそれまでの成果をまとめた催眠心理学 の 包 括 的 研 究 書『 催 眠 心 理 学 』( 成 美 堂 ) を 出 版、 心 理 学 科で講師職から助教授となるのが一九〇八年なので、福来 の存在を直接の根拠とせずとも、一九〇六年に帝国大学に 入学した志賀や、その親友で一九〇九年入学の里見弴らの 世代が、新たな基礎的教養として催眠関係の知識に触れる 機会は少なくなかったと想像される(実際、明治四〇年前 後 に 関 連 書 の 出 版 数 は 極 端 に 多 く な る )。 ま た 学 術 的 言 説 だけではなく、志賀は「当時流行の催眠術を、武者たちと 見に行くなど、催眠術・暗示などの心理」などに対する極 めて通俗的な関心を通過していた証拠を残しており、その 記載は「武者小路実篤『彼の青年時代』所収日記の明治 41 年 11月 13日 」 ( 9 ) に存在する。 だ が 実 篤 の 日 記 の 内 容 が 決 定 的 に 重 要 な の は、 そ の 日、 実篤が志賀と木下利玄と一緒に「中央会堂」に催眠術を観 に行った証拠としてではなく、 その術を鑑賞中に実篤が 「脳 貧 血 」 で 倒 れ た 事 実 が 記 さ れ て い る こ と に よ っ て で あ る。 日記に描写された状況は、小説における脳貧血の場面と酷 似しているから、この体験面に限れば実篤が鳥尾のモデル だろう(パーソナリティとしては志賀か木下であるとして も )。 実 篤 は、 催 眠 術 の 興 行 を 見 て い る う ち に、 あ た か も 自 身 が そ れ に 犯 さ れ た よ う に な っ た。 「 そ の 内 に 冷 汗 が 額 に 出 る。 吐 き さ う な 気 が す る。 だ ん 〴 〵 四 方 が ボ ン ヤ リ す る」という体験描写もさることながら、その後に「これで 死ぬのかと思つた時、一寸母がどんなに心配するだらうと 思つて、死んではいけないと思つたが、それも痛切には感 じなかった 」 )(1 ( という〈死〉を夢想する部分、そして、その ま ま 志 賀 に 介 抱 さ れ て 病 院 へ 行 き、 「 脳 貧 血 」 と 診 断 さ れ
た帰り道、志賀と一緒に「吃驚りした事、本当に死ぬかと 思つた事など大きな声で話しながら、大笑ひに笑つて家に 帰つた」結末までの話は、この時おそらく志賀と共有され たのだろう。大きな変換操作も介されずに、志賀の小説に 生 か さ れ て 見 え る。 「 鳥 尾 の 病 気 」 の 草 稿「 神 経 衰 弱 」 に 記 さ れ た 日 付 が 一 九 〇 九( 明 治 四 二 ) 年 一 月 で あ る 以 上、 直 接 的 な 関 連 を 否 定 し が た い。 強 調 す る が、 「 脳 貧 血 」 は 催眠術の最中に引き起こされたのである。 ここで歴史を少々繙けば、催眠術が思想的意味をもって 一部知識人の間で受け入れられ始めるのは、明治二十年代 以降である。既に一八八〇年代にアメリカでは 「神経衰弱」 の流行ともいえる蔓延があり、そうした神経病その他に対 する治療方法の一つとして流入した催眠術に関する情報の 増加は、十分にアカデミックと評すべき思想史の動向、お よび大衆的オカルト趣味の方面にも派生的な影響をもった と考えられる。当時日本で唯一ともいえる哲学系の学会誌 であった 『哲学会雑誌』 (一八八七年二月第一冊第一号創刊) の関連記事取扱いを追ってみると、第一冊では皆無であっ たそれは、第二冊(第十四~二十四号=一八八八年二月~ 翌年一月) になると、 「催眠術治療法」 (一四、 一五、 一八号) 、 「睡遊の説明」 (十四号) 、「催眠術の解説」 (十九号) 、「妖怪、 夢、 及催眠術」 (二十一号) 、「催眠術彙報」 (二十一号)と、 記事数が急激に増加している。しかし第三冊(一八八九年 三 月 ~ 翌 年 二 月 ) に は「 魔 睡 術 の 解 説 」( 十 九 号 ) に「 魔 睡」の語が現われるものの、それ以外の目立った記事が存 在 せ ず、 第 四 冊( 一 八 九 〇 年 三 月 ~ 翌 年 二 月 ) で も、 「 催 眠術の危険」 「魔睡と犯罪」 「「メスメリズム」 と催眠論」 等、 題名からしてもオカルティズムに対する警戒感が生じてい る。そして、第五冊、六冊(一八九一年三月~一八九二年 五 月 ) で は、 夏 目 漱 石 が 翻 訳 し た と 推 定 さ れ る ア ー ネ ス ト ・ ハートの「催眠術」に関する演説記録(第六冊最終号) を 除 け ば、 も は や そ れ ら し い 記 事 が 存 在 し な い。 第 七 冊 ( 一 八 九 二 年 六 月 ~) で、 海 外 に お け る 催 眠 術 治 療 の 動 向 を紹介する記事が小さく載る程度である。先に言及した福 来友吉が「催眠」に関する骨格的考察を提示した「催眠術 に 就 き て( 催 眠 術 の 心 理 的 研 究 )」 が 同 誌 に 載 る の は、 時 代を下って第百九十八号(一九〇三年八月)である。 これらの記事を時系列に並べて推測できることは、当初 の催眠術の意義が「病気」に対する「心部」からの 治療 0 0 的 期待(精神の一時休止によって身体が元々備えている「自 然の性」や「自然の勢 」 )((( を回復する心理療法)に基づいて 紹介されていること、そして、明治二十年代を飾る新たな 思想的論題としては一過性のインパクトを与えた後の持続 力がなく、直ぐ後に引用する近藤の書のような単発的で緩
やかな成果を傍らにおきながらも、興行的・見世物的関心 の背後で伏流の水準に留まっていた様子である。一柳廣孝 『催眠術の日本近代』 (青弓社、二〇〇六年)が明らかにし て い る が、 「 催 眠 」 の 概 念 を 本 格 的 な 心 理 学 の 項 目 と し て 独立させ、十分に体系的かつ高度な学術的言説の体裁を整 える書物の発刊は、 「大衆」的規模の催眠術流行(第二次) とも連動した一九〇三年頃を待たねばならない。例えば竹 内 楠 三『 学理 応用 催 眠 術 自 在 』( 大 学 館、 一 九 〇 三 年 三 月 ) の 序 文 で、 「 我 が 国 に は、 本 統 に 催 眠 術 の 事 に 就 て 書 い た 本 は ま だ 一 冊 も な い 」 た め、 「 一 般 の 人 」 の 啓 蒙 書 た ら ん と し たと主張されるように、その時期、科学的言説としては新 たな段階(輸入的言説から国産的言説への仕切り直しの時 期)に入っていたことが伺われる。 繰り返すが、このように二〇世紀初頭に急速に整えられ た 催 眠 心 理 学 に お い て、 「 催 眠 hypnosis 」 の 起 こ る 生 理 学 的 理 由 は、 多 く の 場 合、 「 脳 貧 血 」 と 説 明 さ れ て い た。 十 年ほど遡って、初期の催眠術紹介書のひとつ、近藤嘉三著 『 心理 応用 魔 術 と 催 眠 術 』( 頴 才 新 誌 社、 一 八 九 二 年 八 月 ) を 取 り上げてみても事情は変わらない。同書の主題である「魔 術」の驚異的現象についての解説は飛躍が多く、記述の体 裁は未熟であるが、催眠術を脳に人為的に 機能障害 0 0 0 0 を起こ す方法として、生理学的、心理学的知見に即しながら次の ように説明している。 催眠術ハ一種の 法 ( マ マ ) 方 に由て他人の精神作用を休止せしめ 独り運動反射の機能のみを逞ふせしむる者なれハ大脳表 皮の灰白質に血液減退し従て其の機能に障害を起し且つ 脳の中部即ち線状体視神経丘等に充血を起して反射的運 動機能を 抗 (ママ) 進する者なるへし故に僅微の刺戟に由りても 反射運動を起すに至る者ならん(二一頁) この理屈によれば、催眠術の典型的手法の一つである「物 体の一定点又ハ光輝ある物体を凝視せしむるか如き」注意 凝 集 法 が 有 効 な の は、 「 視 神 経 及 ひ 視 神 経 丘 に 充 血 を 起 さ しむる手段にして従て他の部に貧血を起す」ために他なら な い。 「 視 神 経 」 に 血 液 が 偏 る た め、 大 脳 表 皮 の 神 経 細 胞 に血液が行き渡らず、 睡魔を引き起こすという理屈である。 むろん、現代の医学的知見における有効性を問う必要はな い。とりあえずは催眠(睡眠)=脳貧血の理論が、この時 期から既に通用していた事実の確認である。催眠時にいず れの部位が貧血し、反していずれの部位が充血するかに関 しての説は多少の異同をみせるものの、基本的には催眠学 の権威として知られた福来友吉の著作においても、わざわ ざ実験図(本稿末尾参照)まで載せた比較的取扱いの大き
な生理面の解説項目であったし、 志賀のテクストの草稿時、 催眠術関係の書物が大量に出揃った時期に至っても、どれ も似たり寄ったりの「脳貧血」論が採用されていた。 さらに、その点に関して付け加える必要のある通俗的知 識が、催眠状態と禅学(座禅)における悟りの理論との類 縁性である。一九〇三年以降の催眠術の一大流行の文脈に おいて、 『催眠術治療法』 (大日本催眠術協会、 一九〇四年) や 『 独習 自在 自 己 催 眠 』( 博 士 書 院、 一 九 〇 八 年 ) 等、 複 数 の 関 連書を精力的に著していた古屋鉄石は、並行的に隆盛をみ ていた禅ブームに乗じる意図もあってか 、 )(1 ( 『坐禅独習法』 (博 士書院、 一九〇九年) にて 「自己催眠」 の方法としての 「坐 禅」という考えを改めて整理してみせている。その具体的 な坐禅の行い方(調心法)の解説に添えられるのは、予想 に 違 わ ず、 「 此 調 心 法 を 自 己 催 眠 上 よ り 観 察 せ ん に 之 は 即 ち自己催眠を行ふと同一理なり何となれば自己催眠法の原 則中生理的の基礎は脳貧血を以て其尤なるものとす故に思 ひを脚頭に凝めて其脚頭に血液を集め脳を貧血状態に導き 精神を沈静せしむるなり」 (二一頁)という文章であった。 福来友吉は、 『催眠心理学概論』 (一九〇五年)やそれを 母 体 に し た 大 著『 催 眠 心 理 学 』( 一 九 〇 六 年 ) を 上 梓 す る のに平行して、催眠学の探求とは別に心理学科教員として 『心理学教科書』 (一九〇五年) と 『心理学講義』 (一九〇七 年)を出版しているが、 例えば後者の最終章(一五章) 「精 神と身体の関係」 の第一節 「精神活動と血液分配との関係」 に お い て も、 「 脳 髄 中 の 血 液 供 給 の 不 足 は、 脳 中 枢 神 経 活 動の休息を結果し、脳中枢神経活動の休息は精神活動の休 息を意味す。故に醒覚の脳髄は或る程度の充血状態にあり て、 睡眠中は或る程度の貧血状態にあるべきなり」 (六六〇 頁)とまとめている。その上で、第二節「丹田の注意と精 神修養との関係」にて、精神を「丹田」に向けて「脳中に 鬱積する血液を下して脳を冷静にする」人為的方法として の 坐 禅 や 類 似 の 精 神 修 養 の 現 代 的 効 用 を 説 い て い る。 「 脳 中 に 鬱 血 す る こ と 長 年 月 に 亘 る 時 」、 そ の ま ま 手 を 施 さ な ければ「終に 神経衰弱症 4 4 4 4 4 に罹る」からである。福来におい て「 神 経 衰 弱 」 の 実 体 は、 実 に 単 純 に 持 続 的 な「 脳 充 血 」 に還元されていた。こうした知識連合が構築されてきた背 景を勘案すれば、例えば、独学で催眠術を研究して治療法 を 施 し た と い う 森 下 幽 堂 が 著 し た、 そ の 名 も『 心理 応用 脳 神 経 衰 弱 必 治 策 』( 博 文 館、 一 九 〇 九 年 ) な ど の 内 容 も 推 し 量 れようというものである。 四、 「さびしさ」の美学 ① ふたたびヨーロッパ象徴派的デカダンスの創造的受容と
い う 観 点 へ 戻 り、 「 鳥 尾 の 病 気 」 以 後 の、 や や 時 代 を 下 っ た地点まで考察の範囲を拡大してみたい。ハンター・ワッ ツ演じる日本初サロメを期待に胸膨らませてゲイティ座に 観劇にいき、その老いて衰えた肉体に失望した印象記をわ ざわざ「十四五年 」 )(1 ( 後に書き残しているという意味で、 「サ ロメ」にまつわる時代の問題関心を共有していた作家に芥 川龍之介がいる 。 )(1 ( 彼は、 「「風流」とは清浄なるデカダンス で あ る 」 )(1 ( と い う 有 名 な 箴 言 を 残 し て い る が、 「 清 浄 な る デ カダンス」とは、まさに「脳貧血なる興奮」と同じくらい に意図的に組み合わされた矛盾語法、芥川自身の好んだ言 い回しを借りれば「パラドックス」である。 芥川がこのアフォリズムを記す直接のきっかけとなった の は、 一 九 二 四 年 の「 新 潮 合 評 会
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第 十 回( 二 月 の 創 作) 」 )(1 ( 座談会にて、 室生犀星の心境小説を俎上にあげながら、 「 風 流 」 の 定 義 を め ぐ っ て 佐 藤 春 夫 と 久 米 正 雄( そ の 味 方 として徳田秋声)の間で闘わされた風流論争である。春夫 の 立 場 は、 「 む か し な が ら の 風 流 」( =「 さ び し を り 」) を 犀星のスタイルに読み取るが、久米は犀星の作に宿る「官 覚 的 な と こ ろ 」 を 旧 時 代 の「 風 流 」 の 定 義 に そ ぐ わ な い ものとした。しかし春夫が頑なに譲らないのは、 「官覚的」 こそ今も昔も変わらぬ「風流」の基本原理だという主張で ある。 久米。いや、風流と云ふ心境は、どちらかと云へば意志 的なものだ。それを感覚で行けば、近代的のデカタ ンになつて了ふ。 佐藤、意志だつて? 一種透明にデケイした享楽主義 だ よ。このデカタン振りは東洋独特のものらしいのだ が…。 これに対して久米が伝統的なプロセスとして「意志的な鍛 錬 」 の 必 要 を 言 い、 徳 田 秋 声 が「 官 覚 」 へ の 到 達 は 心 的 な「禅修業のやうな努力的な修業」の結果であると言葉を 添 え て 久 米 を サ ポ ー ト す る が、 一 方 の 春 夫 に と っ て、 「 枯 木寒厳を生きものとして感ずる感覚官能」の真髄は、あく ま で「 自 己 陶 酔 」 に あ る( 無 論 そ れ は、 「 風 流 」 の 定 義 と その獲得の仕方にまつわる意見の相違で、犀星の作におい て 体 現 さ れ た と こ ろ の「 心 境 」 の 理 解 は ほ ぼ 一 致 し て い る) 。座談会を通して春夫はこの問題に拘泥し、 『中央公論』 一 九 二 四 年 四 月 号 に「 風 流 論 」 を 発 表 し た。 「 風 流 」 と は 「 あ れ 」 と い う 指 示 詞 を 使 っ て の み 示 せ る と こ ろ の、 だ か らこそ共感の共同体を形成する素因となりうる「奇異な静 寂的陶酔の世界」であり、同じ無想を目指しても仏教的な 「 - マイナス に働くところの意志を充分に発揮しなければならない」 心的活動と違って、 自然的な 「意志脱落」 の瞬間に立ち会い、その状態を芸術としての生活形態とすることである。 後年、 「 再 説 風 流 論 」 )(1 ( で、 当 時 の 融 通 の 利 か な い 持 論 の 貧 し さ を 言 い 訳 し て、 「 生 活 の 精 神 」 か ら 意 志 を 棄 却 で き な い こ と を 認 め る も の の、 「 そ の 根 本 的 解 釈 に 就 て は 多 く こ れ を 改 める必要を認めてゐない」 。 いずれの作家とも交流の深かった芥川は、 「感覚」や「意 志」の語を定義しないことには片方の説だけに与すること はできない、通常の語感からすれば風流は両要素とも含ん でいる、という主旨の発言をしており 、 )(1 ( それだけ見れば久 米の意見に近いところにいた。しかしながら、両者の論争 を 目 に し た 後 に 記 さ れ た と 思 し い「 清 浄 な る デ カ ダ ン ス 」 と、 春夫の言葉 「透明にデケイした享楽主義」 との類似 (「透 明 」 と「 清 浄 」、 「 デ ケ イ し た 享 楽 主 義 」 と「 デ カ ダ ン ス 」 の平行関係)は嫌でも見て取れるし、両者の親近性は、直 後 の 箴 言 と し て「 「 風 流 」 と は 芸 術 的 涅 槃 で あ る。 涅 槃 と はあらゆる煩悩を、
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意志を掃蕩した世界である」と書 き付けられたことでもわかる。だが芥川は自分の命題が孕 む 不 安 定 さ に 一 言 す る の を 忘 れ ず、 「 風 流 」 が 宿 す 二 つ の 傾向性を指摘している。一つは仏教的と言うべき「釈迦に 発する釈風流」であり、 それはやや「憂鬱」に傾くもので、 もう一つは、 道教 (老子) に源を辿ることのできる 「老風流」 で あ り、 「 風 流 」 に 潜 む 享 楽 的 0 0 0 傾 向 を 代 弁 す る( こ の 分 類 は 意 志 の 有 無 と は 別 個 の 問 題 で あ る )。 む ろ ん「 二 つ の 伝 統 は 必 し も は つ き り と は 分 れ て ゐ な い 」。 そ れ ゆ え の「 清 浄なるデカダンス」というパラドクシカルな合成だったと も言えるだろう。春夫は「意志」と「感覚」の問題に拘泥 しすぎたため、期せずして発した「一種透明にデケイした 享楽主義」 という自らの言葉に潜む、 もうひとつのパラドッ クスに無頓着だった節がある 。 )(1 ( しかし、 そうした議論の発展以前に、 そもそも春夫が「風 流」の中心として論じたのは、俳句の精神、それも蕉風の 精神であった。堀まどかのまとめによれば 、 )11 ( 芭蕉ブームは 早く一八九〇年代から北村透谷らを中心に、 一定の文脈 (や や旧型のロマンティシズムとでも言うべきか)の条件の中 で開始している。その後、野口米次郎の詩論などによって 象徴詩の文脈で散発的な参照がされ、明治四〇年頃からの 写生文の変質と時期を同じくして、散文小説の文壇へと評 価 が 進 出・ 加 速 し て い っ た( 次 節 で 論 じ る )。 そ の 後 も、 芭蕉人気は衰えを見せず、大正中期からは大規模な範囲に 及び、アカデミックな研究を伴いながら知的流行と化した の で あ る。 こ の 経 緯 は、 「 風 流 」 の 問 題 を ま ず も っ て 芭 蕉 の評価問題として考える必要を教えるだろう。 し た が っ て 既 に「 枯 野 抄 」( 『 新 小 説 』 一 九 一 八 年 一 〇 月)を発表していた芥川が、風流論争に前後して「芭蕉雑記 」( 『 新 潮 』 一 九 二 三 年 一 一 月、 翌 年 五、 七 月 連 載 ) を 書 いているのは当然の成り行きで、その後「発句私見」 (『ホ ト ト ギ ス 』 一 九 二 六 年 七 月 ) や「 続 芭 蕉 雑 記 」( 『 文 芸 春 秋』一九二七年八月)等の簡易な俳句論を継続して著して いる(同じ漱石門下の寺田寅彦も、やや遅れて一九三〇年 代前半の五年間ほどの間に、俳諧論および俳諧の美学を巧 みに融合した映画メディア論を立て続けに発表するが、上 記 の 流 れ の 正 当 な 下 流 域 に 当 た る と み て 差 し 支 え な い )。 一九二八年には、論議の種となった当の室生犀星も『芭蕉 襍記』 (武蔵野書院刊)を出版した。 その冒頭の「芭蕉論」の章で、犀星は「自然の大医であ る 芭 蕉 」 と「 最 も 新 し い 人 情 の 科 学 者 で あ る 西 鶴 」、 前 者 の「 静 か さ 」( 寂 し さ ) と 後 者 の「 情 痴 」 を 元 禄 文 化 の 生 み出した二つの極端に対照的な気質としてややナイーヴに 並 べ て い る。 「 一 つ は 簫 錯 た る 冬 枯 の 風 物 の 中 に 咲 く 薺 の やうに幽遠哀寂で、一つは混沌の感情の中に光る一個の露 はな人情の猟人である」 。 )1( ( 芭蕉が歩いたのは、 「空漠に等し い景色」 でありながら 「また何物をも得られる道」 であり、 その極北にある 「閑寂の地平線」 が示していたのは 「永遠」 の相という他ないものであった。いうまでもなく、それは キリスト教的な天上の性質ではなく、一九三〇年代の日本 ロマン派が語法として育んだ、 狡 さ か 賢 しらを相互干渉的に掻 き消していくイロニーの精神の、その部分形成へと繋がる 「 永 遠 」 の 方 に 似 る 。 )11 ( ち な み に、 橋 川 文 三 は 保 田 与 重 郎 の 文体に、中野重治による評「頽廃期の檀林の俳諧風」を引 き 合 い に 出 し な が ら、 「 俳 諧 的 連 想 様 式 の 畸 型 的 影 響 」 を 見ているから 、 )11 ( その意味では、日本ロマン派の基底的な路 線は、犀星のまとめるような蕉風的風流に対しては裏の関 係に近いところにあって直接的な連続性をいうことはでき ない。いうなれば、犀星の思考には、芥川や春夫が言うと ころの「デカダンス」 、いわば「神経衰弱」や「ヒステリ」 の気質が欠けているのである。 話 を 春 夫 の 風 流 論 に 戻 す が、 肝 心 な の は、 そ の「 風 流 」 の名において、なべて「嫌味」や下手な「意志」が忌避さ れ る 様 子、 「 人 間 的 意 志 の の さ ば り 0 0 0 0 出 る こ と 」 を 厭 う 態 度 からは、 はやくに 『ホトトギス』 を中心に唱えられた 「写生」 の 理 論 が 思 い 起 こ さ れ る 点 で あ る。 『 白 樺 』 の 作 風 は 創 刊 当初、高浜虚子達「ホトトギス派」や漱石周辺に似通って 見える事実が同時代評で指摘されていたから 、 )11 ( 論じてきた 志賀の位置を挟んで、多少のぶれを示しながらも一本の縦 線を引くことができる。だが、何よりもまず、その起点に 措かれるべき改革者・正岡子規の発句と風流談義において 愛 で ら れ た 蕉 風 と の 間 に 明 ら か な 差 異 を み る 必 要 が あ り、 それは後者の中心的概念であった「さび」という価値観に
対 す る、 子 規 の 写 生 句 の 不 適 合 性 で あ る。 犀 星 に よ れ ば、 子 規 の 俳 句 が 芭 蕉 に 傾 か ず、 蕪 村 に 寄 っ た の は、 「 遂 に 彼 が さ び る 0 0 0 機 会 が 無 か つ た か ら 」 で あ り、 「 性 情 の 中 に さ び 0 0 が無かつたから 」 )11 ( である。子規―漱石の系譜下にいる芥川 の芭蕉論においても、犀星のそれと同じく蕪村は芭蕉に如 かずとされた。どこで評価の逆転が起こったのだろうか。 その捻れの系譜を考える鍵の一つはおそらく、元禄時代 に お い て 芭 蕉 の 登 場 が 意 味 し た 圧 倒 的 新 し さ を 言 う の に、 犀星が「今から想像して見ても国木田独歩の出現や、子規 の時代の新しさではなかった」と、比較の対象として持ち 出したもう一人の、独歩の存在である。たとえ負の言及と いう形ではあっても、そもそも俳諧師というわけではない 独歩の名が、芭蕉論の中で子規と横並びにされている事情 は何を意味するのか。 飯 田 祐 子 は、 雑 誌『 文 章 世 界 』( 一 九 〇 六 年 三 月 創 刊 ) に掲載された投稿文章の考証を通して、明治四十年前後に 「 文 学 」 の 性 質 が 明 治 三 十 年 代 的 な 家 庭 小 説 の 物 語 性 か ら 「 告 白 」 の 文 章 へ、 ま た 一 方 で「 写 生 文 」 の 客 観 性 が 抒 情 文の主観性へと転換するのに、 文学青年達による「寂しさ」 と い う 心 情 の 吐 露 が 果 た し た 役 割 を 明 ら か に し て い る 。 )11 ( 『 文 章 世 界 』 は 新 時 代 の 規 範 と な る 文 章 の 確 立 を 投 稿 読 者 と共に担わんとした雑誌だが、その第一巻第一号の「発刊 の 辞 」 に、 「 敢 あへ て 論 ろ ん せ つ 説 と 言 い は ず、 書 し よ か ん ぶ ん 簡 文 と 言 い わ ず、 浮 ふ く わ 華 を 排 はい し、 形 けいしき 式 を 排 はい し、 朦 まうろう 朧 を 排 はい するは、 今 いま の 文 ぶん を 学 まな ぶものゝ 最 もつと も 必 ひ つ え う 要 と す る 所 ところ な る べ し 」 と 書 き 出 さ れ て い る よ う に、 広く「言文一致」の文章法の推進や、小説であれば「自然 主義」の関心が前面化する状況と連動して登場した。多用 されるキーワードは、 文の 「明晰」 や 「素朴」 であり、 「朦朧」 や「華美」に頻繁に対比される。とりあえずは、この時点 で、事物や意味の実感を離れて「朦朧」や「影」を作り出 す 修 辞 的 あ や が、 「 自 然 」 を 愛 で る 陣 営 か ら あ か ら さ ま に 敵視されることが多かった事実を押さえておきたい(だが 次節で確認するように、この対立関係はすぐにも綺麗な形 では成立しなくなる) 。 五、 「さびしさ」の美学 ② あ ら た め て、 飯 田 の 論 文 は、 「 寂 し さ 」 と い う 個 人 的 感 情とその告白的表現が一九〇七年中の誌上で極めて盛んに なっていったこと、またそれが「告白」という装置と共感 の文学的共同体の形成の媒介として機能したことを主張す るものである。論題に明らかなように、その「寂しさ」の 規範的作家として参照されたのが、その小説に過剰なほど 「 寂 し い 」 の 語 を 塗 し て い た 独 歩 で あ っ た。 飯 田 は、 論 点
を文学場におけるホモソーシャルの構造と、その成立を可 能にする青年男子の「共感」に絞っているが、本論で注目 するのはむしろ、明治四十年以降の作家達が流行語であっ た「 寂 し さ 」 の 心 情 を 摂 取・ 消 化 す る な か で、 そ の 当 時 か ら 大 正 期 に か け て 姿 を 現 し て く る「 俳 諧 的 ロ マ ン 主 義 」 と で も 名 付 け る べ き 水 脈 で あ る。 そ も そ も、 明 治 四 十 年 ( 一 九 〇 七 年 ) 前 後 の 文 学 青 年 達 ―「 彼 ら 」 ― は 何 故 寂 し くあらねばならなかったのか。それは「さびし」という本 来〈不足〉や〈欠落〉を表す空虚の美的感覚が文学的 治療 0 0 概念として働くからである。ならば、一体何を対象とした 「治療」と言うべきなのか。それは時に、 (日露)戦後が生 ん だ 独 特 の 方 向 喪 失 感 の 一 形 態 が、 「 近 代 的 青 年 」 に 特 有 の抽象化された「不安」や「悩み」として発露したもので あり、時に具体的な、未来の書き手が上京することを夢見 て田舎を出られぬ鬱屈であり、また、東京に住んで競争社 会 の 只 中 で 行 き 場 を 失 っ た 自 己 疎 外 感 や 苛 立 ち で も あ っ た。いずれにしても、彼らは文章のなかに 筋 プロツト を介さず、田 舎の「自然」を描き、その風景の寂しさに自己の感情を同 化せんとした。 したがって確かに独歩の存在は、彼らが「寂しい」の語 を極端に好むようになった直接の原因であるという言い方 は可能に違いないが、その時点で独歩は決して新進の作家 ではなかった。つまり、その作風は「発見」された面が少 なからずあるのだから、まずは右に述べた状況等を、逆に 独歩受け入れの土壌を用意した要因として考慮に組み込む 必 要 が あ る。 さ ら に、 そ れ に 加 え て、 「 寂 し い 」 の 流 行 に 関わる幾つかの 文学史 0 0 0 的要因が挙げられるわけだが、まず 一番手に脳裏に浮かぶのは、ゲルハルト・ハウプトマンの 「寂しき人々」だろう。 原題を
Die einsamen Mienschen
(一八九一) 、 日本にお け る 受 容 過 程 で 頻 繁 に 参 照 さ れ た は ず の 英 訳 題 を Lonely Lives と す る ハ ウ プ ト マ ン の 戯 曲 が、 日 本 の 自 然 主 義 及 び そ の 周 辺 に 及 ぼ し た 影 響 の 大 き さ は、 田 山 花 袋 が「 蒲 団 」 の執筆に際して深く参考にしたという証言によって良く知 られている。山本昌一が、その範囲の広さを簡潔に解説し ているが 、 )11 ( 独文学者の登張竹風や、一九〇六年にハウプト マ ン の 紹 介 本 を 出 版 し、 「 寂 し き 人 々」 を 翻 訳( 一 九 一 一 年二~四月『読売新聞』連載、七月単行本発行)した森鴎 外らがドイツ語版を参照したのは当然として、島崎藤村や 徳田秋声といった自然主義系列の作家達は、概ね英訳で読 んでいたとのことである。途中経過は省略するとして、結 果、 「 明 治 三 十 四、 五 年 が ハ ウ プ ト マ ン の、 「 寂 し き 人 々」 の愛読期であった」 。その後、 一九〇九年の楠山正雄訳、 翌々 年の鴎外訳の出版が続いたことで、大正期へと読者数が一
気に増えていったのは想像に難くない。当然、 その間、 「寂 しき人々」が「寂しさ」という用語の拡散と語用頻度の増 大に果たした役割は相当なものだったと予想される。ただ し、その語によって伴われた文学史における新たな勢いの 中 心 は、 眼 に 見 え る か た ち で は、 「 中 年 の 作 家 が 若 い 女 性 と恋愛し、その報告をするというテーマ」と約言されるよ う に、 「 象 徴 主 義 」 の 理 論 面 を 吸 収 し つ つ、 い わ ゆ る「 私 小説」へと旋回する「日本自然主義文学」の告白的・内面 的光景のなかに据えられるものであった。鴎外は、 その 「中 年 の 作 家 」 の 造 形 を 評 し て、 「[ 前 略 ] 主 人 公 J ヨ ハ ン 子 ス OHANNES は、 其 性 格 多 く 人 の 同 情 を 惹 く に 足 ら ず。 BRANDES は 評 し て 半 ば 拘 儒( PEDANT ) な り と 云 へ り。 要 す る に 神 0 経 質 あ る 澆 季 人 物 0 0 0 0 0 0 0 0 ( DÉCADENT ) た る こ と を 免 れ ず。 そ の末路の悲壮なり難きも亦宜なり。されど此人物にして此 末路あり 」 )11 ( [傍点引用者]と言っている。つまり、 その「寂 しさ」は、互いに理解し合えない孤立した人間の状況と焦 燥的心理を強く指しているわけだが、しかし戯曲という特 性もあって、その解決としての、自然や風景に同化した性 格的な 「寂しさ」 を表出しているのではない。 したがって 「寂 しい」の増幅過程の考察に、このハウプトマンの受容に裏 表の形で沿う、もう一つの「文学史的要因」を加える必要 がある。それが、既に述べた通り、独歩再評価と見事に歩 調を合わせていた芭蕉評価の動きである。 一八七五年生まれ、一八九三年に渡米、日英語バイリン ガル詩人の先駆として知られる野口米次郎は、先述した大 正 中 期 か ら 昭 和 初 頭 ま で の 芭 蕉 ブ ー ム 中 の 一 九 二 五 年 に、 その名も『芭蕉論』を出版した。だが既に一九世紀末、米 国在住時の詩作初期から芭蕉のエッセンスを取り入れる詩 的境地の確立を模索しているほか、帰国後に一般評論誌で ある 『中央公論』 に寄稿した 「世界眼に映じたる松尾芭蕉」 ( 一 九 〇 五 年 九 月 ) な ど は、 文 壇 で の 反 響 の 大 小 に か か わ らず後の芭蕉流行の在り方に先鞭をつけたに違いない。そ の主旨をまとめれば、芭蕉はフランス象徴派のマラルメに 比するべき「沈黙」に秀でた偉大な詩人だ、という単純な ものにすぎない。しかし野口は、そのマラルメだけを対象 にした「ステファン、マラルメを論ず」というエッセイを 後に 『太陽』 (一九〇六年四月) に寄稿して、 「暗示」 を 「詩 の極美」とするマラルメの詩的世界観を説明していた。そ のことを考えれば、 芭蕉の発句の「本義」も同様に「暗示」 だとする主張が推移的に見いだせるだろう。十分興味深い のは、その野口の芭蕉論が載った同誌同号に、前章で解説 した福来友吉の「暗示の社会に及ぼす影響」と題された催 眠術に関する啓蒙的エッセイが、目次上で隣り合わせに掲 載 さ れ て い る 事 実 で あ る。 つ ま り は、 「 暗 示 」 の 概 念 は 分
野を越えて共有されていた。催眠術が神経衰弱の直接的療 法であった事情に照らせば、芭蕉人気と催眠術の心理学的 評価の時期が相即したのは単なる偶然とはいえない。独歩 の人気が向上する背後には、そうした新たな認識体系の形 成過程があったのである。 正 宗 白 鳥 の 証 言 に よ れ ば 、 )11 ( 独 歩 が よ う や く 晩 年 に 明 ら か な 支 持 者 を 獲 得 し た の は、 『 文 章 世 界 』 創 刊 と 同 年 同 月 (一九〇六年三月)に発刊したアンソロジー『運命』 (佐久 良 書 房 ) に 前 後 す る 頃 で あ る( 前 年 七 月 発 刊 の『 独 歩 集 』 が、徐々に彼の知名度が上がっていく準備的段階を示して い る )。 そ の 頃 の 独 歩 は、 一 部 の 批 評 が 喧 伝 し た 科 学 的 観 察 重 視 の、 客 観 主 義 的 な「 自 然 主 義 」( 実 際 に そ ん な 作 風 が厳密にありえたのかは別問題)の体現者とも、いわゆる 告白的・暴露的なそれとも評価されている様子はなかった (基本的にはロマン主義的作家として遇せられていた) 。『文 章世界』誌上では、一九〇七年から本人自身の文章が掲載 されるようになるが、ここでは一般読者に受容されていく 過程を推し量る意味で、 第一巻第九号(一九〇六年一一月) の「 文 叢 」 に 投 稿 さ れ た 西 山 樵 郎 の「 『 運 命 』 の 著 者 」 と いう評論を参照してみたい。あたかも自分が最初の発見者 で あ る か の よ う に、 「 人 気 な き 作 者 」 に 正 当 な 評 価 を 訴 求 する論法は目新しくはないが、だからこそ逆に、次のよう に独歩の特徴を集約している部分は、 時代に応じた〈読み〉 の変化を捉える上で参考に値する。 独歩の文は素湯の如しだ。之れを今様の話でいへば個人 性がないのだ。いや個人性がないのではない、大いにあ る。然し現代の人が直下に看取するやうな判り易い個人 性 が 現 は れ て 居 ら ぬ の で あ る。 [ 傍 点 省 略。 以 下 同 誌 引 用は全て同じ] 西山によれば、 「好んで自然を説」 き、 人を描く場合にも 「自 然に近いものゝみを捉える」独歩の文章は、 「非凡の凡作」 と呼ぶのがふさわしい。この評言は、 「個人性」 の有無と 「自 然」の関係を巡って、こう言ってよければ、写生文に対す るのと極めて似通った価値評価を独歩の作風に対して与え て い る。 そ れ も 当 然 の こ と、 こ の 徳 島 県 在 住 の 投 稿 者 は、 翌月の第一〇号に別の評論、題して「俳人の文章」を寄せ ているのである。曰く
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今や俳句は「元禄天明以上」の 「極盛時代」 であり、 「文士で多少俳句を唸らぬものはない」 、 子規派の写生文に代表される「俳人の文章」も「明治文壇 の一角を占め」ている、 しかし、 あえて欠点を挙げるなら、 「 彼 等 は 客 観 を の み 描 い て 主 観 を 顧 み ぬ 結 果、 自 然 界 を の み写して人生の機微に遠ざかり、読者の目には映つるが心に 沁 ま ぬ の で、 何 と な く 物 足 ら ぬ 心 地 が せ ざ る を 得 な い 」 ことである
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。すぐに気が付くのは、西山はほとんど変 わらぬ評価の物差しで、先の独歩評を非常に肯定的にまと めていたことである。そして「余は今の俳人諸君が、其の 俳句上より得たる或物を散文に向つて投ぜられんことを望 まざるを得ぬ。極言すれば俳句に注がるゝ熱心を散文に傾 倒して欲しい」と文章は締めくくられるのだが、彼は時間 を前後して、その実現を独歩のスタイル「非凡の凡作」に 既に見出していた、としても間違いではないだろう。一般 に、この一九〇六年中に「写生文家が小説に手を着け出し た 」 )11 ( と言われている。一九〇七年 (明治四〇年) 三月には、 同雑誌で「写生と写生文」の特集が組まれ、子規派の嫡子 である高浜虚子も 写生文的小説 0 0 0 0 0 0 の実例を立て続けに発表し た( 後 述 )。 文 学 の 歴 史 的 動 勢 を 一 人 の 投 稿 者 の 文 章 に 帰 すわけには無論いかないが、西山の論理は、新たな独歩像 の形成過程を部分的に反映したものと見ることが許される なら、ここに、ややバタ臭い印象のあった独歩と写生文= 俳句精神の接点が一つ見つけられる。 ただしこの時点では、 まだ両者の共有点を「客観的観察」の態度に見いだせるに すぎない。 したがって次に問題となるのは、一九〇六~七年にかけ ての写生文の小説化という事態にあたって、もともとの写 生文的特徴にも変形と調整が模索された点である。主張の 明瞭な例を、 特集 「写生と写生文」 に寄稿された評論に探っ てみることにしよう。まず、その動勢の主役の一人だった 高 浜 虚 子 は、 「 写 生 文 の 由 来 と そ の 意 義 」 と 題 し て、 写 生 文の現在的意義を 「筆力を養う」 修養的側面におきながら、 「 今 の 文 学 界 の 多 く の 諸 君 は、 先 づ 人 間 の 性 格 と か、 運 命 とかを研究し来つて、今日になつて、始めて技術の上に写 生の必要を認め来つたと反対に、写生文家は先づ写生の技 術の方に着眼して、 今後人間を研究しようといふのだから、 果してどういふ結果を齎らすか知らぬが、進んで、小説の 方面にも、力の及ぶだけ、手を伸して見るのも、また面白 からうと思ふ」と他人事のような意見を披露している(結 果的に、彼の一九〇七年はその道を自ら邁進するものだっ た )。 そ れ な ら ば、 フ ィ ク シ ョ ン の 力 は 写 生 的 散 文 の 意 味 にどのように介在しえたのだろうか。結局、写生文家の書 いた小説は、客観的観察描写の広告塔を期待されていただ けなのだろうか。 同特集掲載の長谷川天溪「写生文の妙趣」は、 虚子と類 似した立場を取りながら、写生文は「或る意味に於いては 未製品」と定義している。そして同時に、なぜ、その無機 的な姿の写生的作品に「妙趣」が存し「一種の快感が生ず る」のか、という美学的問いかけを加えている。優れた写生文は読者に想像の余地を託すというのが、彼が示した答 えである。 即ち写生的芸術品は、読者の想像を読者の意志通りに任 すので、完成芸術品は、作者の意を以つて他人の想像を 拘束するものである。 言 い 換 え れ ば、 「 写 生 」 作 品 の 美 的 快 楽 は、 テ ク ス ト そ れ 自体から「意志」を剥奪した点に存する。これは先述の春 夫によって「意志」を抹消する「風流」に接続する観点と 考えれば看過できない指摘である(ただし読者や受容者に 相 当 分 の「 意 志 」 を 預 け る 発 想 は、 春 夫 に は な い )。 続 け て天溪は、 写生は対象が有形であれ無形であれ、 その 「形式」 あるいは「骨組」を捉えるものであるため、観察者の立ち 位置(思想、感情)の取捨によって表現に相違が生じる点 に言い及び、 「写生的芸術にも作者の思想感情が混入する」 必 然 を 言 っ て い る 。 )1( ( 特 に 対 象 が「 無 形 の 物 」 の 場 合、 「 観 察者の個性が著るしく顕出される」ため、 それは「主観的」 な「 写 生 的 芸 術 」 と い う べ き も の に な る。 「 即 ち 写 生 の 場 合に、意義に重きを置けば、作品は一転化して 抒情詩的 4 4 4 4 と 変ずる。何となれば対境に現れた意味其の物は作家の感想 に外ならぬもの」だからである。 更に此の主観的写生が一転化すると表象的となる。対境 に 現 れ た 意 味 を、 或 る 二 三 の 事 物 の 上 に 凝 結 せ し む る、 別言すれば、或る欠点を捕へて、此れに全部に現れた意 味を代表せしめて、 他の事物を切り棄てる場合となれば、 作品は一種の表象的芸術となる。 [ルビ省略] そ の「 作 品 」 の 代 表 例 が、 ま さ に 芭 蕉 の 句 に 他 な ら な い。 ここで使用されている「表象的」は、馴染みの語彙を借り れば「象徴的」とほぼ同義である。先述した独歩から写生 文=俳句精神への架け橋に続けて、今度は、写生文=俳句 精神から象徴主義や心内表象への架け橋が見い出せるので ある。 最後になるが、同特集に島村抱月が寄稿した「今の写生 文 」 の 要 旨 も 確 認 し て お こ う。 前 提 と し て「 未 アンフイニツ シ ユド 完 成 」 を 基本的性質とする写生文は、何よりもまず小説を志す者の 「 手 習 ひ 」 の 役 目 を 果 た す こ と、 し か し そ こ に 留 ま ら ず に 今一歩の表現的進化を促している点で、その主張は虚子や 天溪と完全に同根である。 写 生 文 の 興 味 は、 下 絵 の 興 味 と 同 じ で あ る と い つ た が、 或は現に今の写生文の中にも、渾然とした興味を与ふる ものがあるといふかも知れぬ。 (中略)これについては、
自ら異つた解釈をしなければならぬ。即ち、文字の上に は、初中終の形式がなく、表面はホールではないけれど も、 作 者 の 内 生 命、 即 ち 感 じ の 上 に 一 種 の 形 式 が あ る。 換言すれば、作者の心内の感じをもつて、散漫なる文学 以 外 に、 そ の 文 章 を 統 一 し て ゐ る 点 が あ る の だ。 [ ル ビ 省略] 抱月は写生文には二種類あると言い、 「一は全然無形式で、 未完成のもの、他は内生命即ち感じの上に一種の形式のあ るもの」 という区別である。前者はともかくも、 後者の 「感 じ」という、いかにも曖昧然とした情緒に透かされる「形 式」の主張は、写生文や俳句精神のなかに強調されていっ た美的領域の行き先を指し示すものだろう。 以上の、三者に要約される小説化にともなう写生文の理 論的な方向転換を見てきたが、それは一九〇六年頃から独 歩にたいする評価の気運が上昇していくのと完全に軌を一 にしていた。当然予測されるのは、一九〇七年初頭に論者 達が示した写生文的小説の舵取りに合わせて、その後の独 歩 の 評 価 も さ ら な る 変 容 を 被 る こ と に な ろ う こ と で あ る。 独歩は確かに「自然主義」の隆盛に預かる「竜土会」のメ ンバーに一九〇〇年代初頭の草創期から名を連ね、 その 「主 義」の先駆的仕事をしたと評価されている。だが、それは 様々な解釈が複雑に混在していた 「自然主義」 の理論が 「自 然主義」の名の下に十把一絡げにまとめられた文脈のなか に置かれた場合においてそうなのである。先の西山の言葉 を借りれば、その作風の多くは「素湯」のように何色の批 評にも染まる媒材であり、様々な模様の言説的布置を連繋 する蝶番の如き役割を果たしていた。当時を内在的立場か ら見れば、それは俳味を宿した写生的文学でありえたので ある。したがって古くは中村光夫が、独歩の初期作に西洋 的・ 科 学 的 客 観 性 を 体 現 す る「 自 然 」 の 発 見 を 指 摘 し て、 その祖と見立てたのも、因果が倒立した話とは言わないま でも、随分と一面的な荷を負わせた格好である。 結論として、独歩の文学的遺産に対する評価は、社会的 悲劇性を描いた「自然主義」や、告白的・暴露的もしくは 自我固執の「私」的な「自然主義」へと同化吸収されるに 先立ち、それらの方向を否定する径路も幾つか並走して脈 打っていた。そして、その「寂しい」特徴は、蕉風俳句の 「 寂 さび 」( や 禅 学 の「 寂 滅 」) と い っ そ う 緊 密 な 観 念 連 合 を 形 成することになる。
六、 「さびしさ」の美学 ③ ところで、芭蕉に関係づけられた「寂しい」の美学を象 徴派的に評価したキーパーソンの一人は、先に記したよう に野口米次郎である。象徴派を欧風の直輸入と考える上田 敏の考えとも、蒲原有明の理論の如く「熱情」に奉仕する の で も な い。 言 葉 の「 沈 黙 」( サ イ レ ン ス ) を 強 調 し た と い う 意 味 で は、 「 寂 し さ 」 を 汎 用 的 文 学 概 念 と し て 捉 え る 系譜の先駆的存在だったといえる。鈴木貞美によれば 、 )11 ( 同 概念は近代短歌の世界においても、尾上紫舟、とりわけ若 山牧水、そして前田夕暮らの近代歌人によって美学的典型 として積極的に受容されていた。 そして重要な指摘として、 「 短 歌 に お け る 生 命 主 義 が、 さ び し き「 生 命 」 と 燃 焼 す る 「生命」に分かれゆくのを見ることができる」 (二四五~六 頁)とあるのだが、この二重螺旋的対立は、本論で「脳貧 血」と「脳充血」の対照関係として見てきたとおり、短歌 の世界を越えて二〇世紀前半の文学史を考察する理論的補 助線として押さえる価値がある。 ただし、詩と散文小説は、ジャンル的性格の差異に伴っ て、各々異なる方法的意味に帰結する可能性には留意しな くてはならない。新体詩のスタイルを発展させた蒲原有明 の よ う な タ イ プ の 象 徴 詩 が、 「 自 然 主 義 」 や 口 語 自 由 詩 / 散 文 詩 の 陣 営 か ら の 攻 撃 に あ っ た の は 当 然 で あ る。 「 な ぜ なら、フランス象徴詩、とりわけ、その代表者、ステファ ヌ・マラルメの詩は、俳諧のような平俗な言葉の世界に遊 ぶ も の で は な い 」 の で あ り、 「 そ の 詩 句 は む し ろ、 難 解 と いってよい 」 )11 ( のと同じ様な意味で、抵抗感が解消しきれな かったからである。逆に、自然主義に合流した写生文的小 説は、俳句精神を通して象徴派的傾向を要求するに至った が、それを表現するにあたって心がけていたのは、文体の 簡明さである。後に欧米の象徴詩を「未熟」として一蹴す る萩原朔太郎が「三木露風一派の詩を追放せよ」 (『文章世 界』一九一七年五月)を書き、いかにもそれらしく「解る ものを解らなく見せる」 観念的な象徴性を修飾した詩を 「似 而非象徴詩」と揶揄したことを見ても、自然主義の導入か ら大正期以降に概ね勢力を持つのは、詩のジャンルにおい てさえも散文精神だった。繰り返すが、それは俳句的精神 を 排 他 せ ず、 「 寂 し さ 」 は 十 全 に 根 を 下 ろ す こ と が で き た のである。 したがって、念頭に置くべきは「象徴的」作風のダブル スタンダードである。その意味では、野口が芭蕉の象徴性 とマラルメのそれを重ね合わせたこと自体に多少の無理が あ っ た 可 能 性 は あ る。 仮 に 野 口 の 主 張 を 排 し て、 「 沈 黙 」 を愛でたマラルメの象徴性は、しかし未だ「さび」の脱力
的境地までは至らないもの 、 )11 ( そして朔太郎の述べるように、 続 く 欧 州 お よ び 日 本 の 象 徴 派 詩 人 に よ る 亜 流 の 象 徴 性 は、 芭蕉によって体現されていた「真の象徴主義」になおさら 及ばぬもの、と割り切ってしまえるのであれば、その文学 史的図式は二重像を免れて怪しいほど明快になる。だが早 急に結論を出す必要も、 出せる当てもない問題であるから、 本稿中の考察は保留するしかない。 もう一度、小説における「寂しさ」の問題の発端に眼を 戻 し て、 写 生 文 の 変 容 が 行 き 着 く 先 を 明 ら か に し て み よ う。 「 変 容 」 を 代 表 さ せ る の に 最 適 な の は、 や は り 高 浜 虚 子である。子規の直下から出て来た虚子は、当然ホトトギ ス派が推進した「写生文」の先導的存在であったが、既述 したように、一九〇七年中に率先的に小説の執筆へと転身 した。彼自身が「私の写生文が小説の色彩を帯びた最初の もの 」 )11 ( と述べている、 その名も「風流懺法」 (『ホトトギス』 一 九 〇 七 年 四 月 ) は、 「 淋 し い 」 叡 山 の 滞 在 か ら 始 ま り、 祇園の芸者遊びに戯れて終わる「風流」を描いており、あ る程度、芥川の言う「清浄なるデカダンス」に適合した世 界 で あ る。 漱 石 は 虚 子 の 初 小 説 集『 鶏 頭 』( 一 九 〇 八 年 一 月 ) 序 で 、 )11 ( 「 余 裕 の あ る 小 説 」 と い う カ テ ゴ リ ー を 提 出 し て 虚 子 の 作 を 置 き、 そ の 種 の 小 説 の 特 徴 と し て、 「 人 生 の 死 活 問 題 」 や「 生 死 の 現 象 」 を「 脱 離 」 す る「 俳 味 禅 味 」 が 果 た し て い る 重 要 性 を 指 摘 し た( 「 俳 味 」 と「 禅 味 」 は 外面的様態からみれば類似しているので並列される傾向が あり、虚子の作は前者の素養に基づきながら後者の態をな し て い る、 と 漱 石 は 見 た。 俳 句 に 禅 味 が 重 ね ら れ る の は、 禅宗的思想が導入した「否定的契機 」 )11 ( が美学化された時か ら ス タ ー ト し、 茶 の 湯 や 水 墨 画 な ど の 発 達 と と も に〈 無 〉 を内包する「さび」の美意識が中世に生まれ、それが芭蕉 の「さび」に継承・洗練されたのだから元々長い伝統であ る