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[Reexamination of San-fo-ch’i : Change of Perspective of the Study on Early History of the Western Part of Insular Southeast Asia]

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(1)

東南 ア ジア研究 25巻2号 1987年9月

-

マ ラ ッカ海 峡古代史研究 の視座転換・

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FUKAMl*

Sanjo・ch'iappearsinChinesesourcematerials

fr・om thelOth to15thcenturiesandhasbeenalmost unanlm ouslyidentifiedwithSrivijaya. Itis ,how-ever,wellknownthatChineserecordson Saw-f o r

ch'iinthesecondhalfofthellth centurycontain Severalexplicitmistakesandotherpartsthatseem incomprehensible. Theaccepted theory thatthe capitalofSrivijaya moved from Palembang to ∫ambiaround 1080isbased on interpretation of thesedocuments.

Afterreexamination ofalltherelated Chinese records, I reached a fundamentally different understandingon whatSanjo-ch'iisin Chinese

sourcema.terials.

Concernlng Tl--hua・ch'a-Zo who senttributary missiontoChinain1077,andwhowasrecordedas ruler or Cola on one hand and as ruler of Saw-fo-ch'iontheother,myconclusionis,without

excluding anyinformation from sourcematerials asmistaken,thatherepresentedtheColapowerin Saw-fo・ch'ian dthatassuch hewastherulerof

Saw-fo-ch'i at the same time. The dominance

ofColaintheSam-foICh'iareaseemstohavebeen

establishedthrough agreatexpeditiontothearea

*摂南大学国際言語文化学部 ;Facultyoflnter na-tionalLanguageandCulture,SetsunanUniver・ sity,17-8,Ikeda-nakamachi,Neyagawa,Osaka 572,Japan

mountedin1025,whichisrecordedintheso・called Tanjoreinscript10n・ Hisresidenceseemstohave been atKedah. And the seemingly mysterious descriptions of Sa71・jo-ch'i・Cha72-Pi (Saw-fo・ch'i

-Jambi)asatributarystatein1079and1082andof Saw-fo-ch'i-Chow-h'C71(Sa7t-fo-ch'i-Cola)alsoasa

tributary statein 1082 can be explained if,by analogywithTa-∫hih,whichisageneralnamefor AraborEastAsiancountries,Saw-fo-ch'iisunder・

Stoodasageneralnameforcountriesinaparticular area.

ThusIconcludethatSan

l

oICh'ishouldber e-gardednotasasinglepolityorempire,likeSrivijaya ofthe7th and 8th centu

r

y

,which can safelybe identified with Chinese Sh'h-1i-fo-shih of Tang times,butasageneralnameforcountriesonthe eastcoastorSumatra and in the centraland southem partsofthe Malay Peninsula.Sam-foI

ch'icanbeidentifiedwithZabajofArabrecords

,

which includes Kalah (Kedah),Ramni(Aceh)

,

Sribuza(PalembangP)andsoon.

This conclusion raisesnew problems hitherto unconsidered,Someofwhicharementionedinthe lastpartofthispaper.

Ⅰ 序

1. は じめに

10世紀中頃か ら15世紀 中頃までの漢文資料

(2)

に現れ る三仏斉 は通常 ,刻文資料 に見 える シ ∫ ェ リーヴ ィジャヤ国 (Sr王vijaya)の ことと理 解 されている。 シュ リーヴ ィジャヤ国の存在 は長 く人 々の記憶 か ら失われていたが,1918 年 セデス [CoedとS 1918]が中国資料 の室利 仏逝 を,それまで王名 と考え られていた現地 の碑文 の シュ リーグ ィジャヤ と同定す ること によ って再生 させ た とされ る。室利仏逝 は唐 代 の漢籍 に見 え,その時期 の碑文で シュ リー グ ィジャヤの名を刻む もの としては現在 ,ス マ トラで発見 された六つの碑文 (うち三つ に は680年代 の紀年 あ り,他 の 三 つ は これ ら と同時期 とされ る) とマ レー半 島中部のナ コ ンシータマ ラー トで発見 された775年 の碑文 (所謂 リゴール碑文) が知 られている。 シュ リーグ ィジャヤの名を記す碑文 には この他 に 11世紀 の南 イ ン ドの ものが知 られてい る。 セ デスは室利仏逝 を シュ リーグ ィジャヤに同定 す るとともに,唐代 の圭利仏逝 を宋代以後 の 三仏斉 に同定す る当時の通艶 に従 って,三仏 斉 もシュ リーグ ィジャヤに同定 し,また都 の 位 置はパ レンバ ンと した。か くして, シュ リ ーグ ィジャヤ国は 7世紀後半 に 台 頭 して よ ることか ら,14世紀後半 まで存在 した とす る 定親 が生 まれた.そ して シュ 1)-ヴ ィジャヤ ほ東西交通 の要衝で あ るマ ラ ッカ海峡を抑 え て ,東南 ア ジアを代表す る交易 国家 , さ らに 交易帝 国 と して栄 えた と見 なされ ,東南 ア ジ アの古代 中世の栄光 の代 名詞 とな っている。 確 か に三仏斉 を シュ リーグ ィジャヤに同定す る限 り., シュ ))-ヴ ィジャヤが交易帝 国 と し てす ぼ らしい繁栄 を見せていた とす る歴史像 は揺 るがないで あろ う。その都の位 置につい ては, その後, 桑 田 [1945a], ウォルタ ース

W olters 19661 が県寧 ・元豊年 間の三仏斉 関係 の記事の検討 を通 して1080年 頃 にパ レン バ ンか らジャンビに移 った と してか ら,それ 以前 はパ レンパ ン,以後は ジャンビにあ った 206 とす るのが走艶 にな ってい る。1) 三仏斉 を シュ リーグ ィジャヤに同定す るこ とに異論が ないわ けではな く, と くにマ ジュ ムダル は三仏斉 を シュ●リーグ ィジャヤではな くア ラブ資料 に見え るザ -バ ジュ(Zabaj)に 同定すべ きと主張 している[Majumdar1937: 204-227】。三仏斉 とシュ リーグ ィジャヤとが 音韻上対応 しに くい ことは定説 の側で も問題 とされてい るが,三仏斉 は シュ リーグ ィジャ ヤ の ア ラビア語 化 した ス リブザ (Sribuza), サルバザ (Sarbaza)な どの音 を写 した もの と され,従 って三仏斉 はやは りシュ リーグ ィジ ャヤに同定で きると考え られてい る。 本稿 は無事 ・元豊年間の漢文資料 の検討 を 通 して三仏斉 とシュ リーグ ィジャヤの同定 に 異 を唱 え,併せ て三仏斉 が単一 の国家 とか帝 国 とかではな く,諸朝貢 国の総称であ ること を明 らか に しようとす るもので あ り, この こ とを通 して ,従来 シュ リーグ ィジャヤ史 と し て構成 されて きた東 南ア ジア島峡部西部 , と くにマう ッカ海 峡の古代史研究 の視座 を転換 す る必要 を唱え るものであ る。

2

.

漢籍資料の混乱 11世紀後半の三仏斉 に関す る中国資料 自体 にかな りの混乱,あ るいは理解 に苦 しむ記述 が あ ることは夙 に指構 されている。 この混乱 は本稿 の主 な内容 に関わ るものであ るので, まずその概要 を見 ておきたい。 ここでは末代 の三仏斉 に関す る最 も重要 な研究 とい うべ き 桑 田の 『三仏斉考』[桑 田 1945a】に従 って 見 てい くことにす る。三仏斉 関係 の藻希資料 は,戦後発表 された広州 の碑文 を除いて, こ の研究で ほぼ尽 きてい るか らで あ る。 (D無事十年 (1077)の朝貢 1)戦前の研究史については【桑田 1945a:passim; 桑田 1945b:passim;Sa・stri 1940L 近年の 研究動 向 につ いて は 【深見 1981;Wolters 1979】を参照。

(3)

深 見 :三 仏 斉 の再 検 討 天聖六年 (1028)以後1077年 まで約半世紀 の間三仏斉 の朝貢 は諸書 に見えない。1077年 の朝貢 は宋史三仏斉伝 と文献通考三仏斉伝 に 見え るだけで,続資 拾遺鑑長編,宋会要輯稿 (と くに歴代朝貢),玉海 ,山堂考索 などの請 書 に見 えない。桑 田は,宋史注華伝 その他 の 資料 に見え る同 じ年 の注葦 の朝貢 に関す る記 事の一部分が誤 って三仏斉伝 に入 ったので あ り,従 って この年 の三仏斉 の朝貢 はなか った と して いる [1945a:70-71]。 ⑧元豊 (1078-85), 元祐 (1086-94) 年間 の朝貢 宋史三仏斉伝 は 「元豊 中使至者再」 と言 い なが ら,元豊二 ,≡ ,五 ,六年の4回朝貢が あ った ように書 いてい る。 また元祐年 間の朝 貢 につ いては全 く記 していない。 これは実は 「三年」 は五年 の誤 り

,

「五年」 と 「六年

は 各 々元祐三年 と五年 の誤 りで, しか もこの他 に元豊七年 の朝貢 もあ る。従 って,元豊 ・元 祐年 間の三仏斉 の朝貢 は元豊二年 (1079),五 年 (1082),七年 (1084),元祐三年 (1088), 五年 (1090) に行 われている [桑 田 1945a: 86-94]。 ⑧三仏斉 虐卑 国,三仏斉注葦 国 とい う表現 1079,1082両年 に朝貢 したのは単 な る三仏 斉 で はな く「三仏斉 唐卑国」と記 されている。 また桑 田は否定 してい るが,1082年 には 「三 仏斉注軍

国」

の朝貢 もあ った。三仏斉 -シュ リーグ ィジャヤ (パ レンバ ン),虐卑 -ジャン ど,江華 -チ ョ-ラとい う通説の立場 か ら見 る時 ,三仏斉虐卑国,三仏斉注軍 国 とい う表 現 には何 らかの混乱が あると考えざ るをえな い。 この混乱 した資料 の解釈 か ら, シュ リー グ ィジャヤの都が当時パ レンバ ンか らジャン ビに移 った とす る今 日の通説 が生 まれた。 ④ 「注葦 役属三仏斉」 文献通考 の蒲甘伝 に次 の記事があ る。宋史 蒲甘伝 もほぼ同文であ る。 宋崇寧五年 (1106) 蒲甘遣使入貢 ,詔礼秩 視注輩,尚書省言 ,注肇役属三仏斉 ,故無 事中,赦書以大背紙 ,械以匝撲 ,今蒲甘乃 大 国蕃王,不可下視附庸小 国,欲如大食交 鮎諸 国礼,凡制 詔,並書以 自背金 花綾紙 , 貯以間金鍍叙管答 ,用錦絹爽撲賊封以往 , 従之。 この資料 か ら,中国政府 において ,江華 が 三仏斉 に役属 している,注筆 は三仏斉 とい う 大 国の 「附庸小 国」 であ るとい う認識が存在 した こと,その認識 は注筆の (または三仏斉 の)無寧年間の朝貢 に由来す る ことがわか る。 その県寧年間の朝貢 は 照寧十年 しか な い の で , これは照寧十年 (1077) の執貢であ る。 しか しチ ョ- ラの刻文か らは,チ ョ-ラが三 仏斉 に対 して優位 に立 っていた とすべ きこと が明 らかであ る。従 って この中国政府 の認識 は誤 りで あ った ことになる。 以上 の うち中国資料以外の資料 と突 き合わ せ ることによ って誤 りが指摘 され る④ は と も か くとして (これが実は資料 の誤 りではない ことは後 に述べ る),(9⑧ (釧 ま資料 の記述が 誤 ってい る,また は混乱 してい ることが同 じ 中国賃 料 によ って明 らかにな る希有 の例-少 な くとも東 南 アジア島峡部関係 の記述では - で あ る。 それが興寧,元豊年間 に集中 し てい ることは,その時期 にこのよ うな錯誤が 生 じる事情があ ったか らであろ う。あ るいは また,我 々の,ない しは資料 の編者の認識の 枠組 みに問題があ るか らであろ う。本稿 は こ のよ うな資料の錯誤 ,混乱- または,その よ うに見え ること- の検討を とお して三仏 斉 に関す る認識の枠組 みを改 めよ うとす るも ので あ る。 ⅠⅠ 焦寧十年の朝貢 - 三仏斉 の朝貢か注肇 の朝貢か 1. 無事十年 の三仏斉朝貢記事 無事十年 (1077) の朝貢の検討か ら始 めた 207

(4)

い。宋史三仏斉伝 は次 のよ うに記 してい る。 熊寧十年 ,使大首億地華伽曜来 ,以為保頒 慕化大将軍 ,賜詔寵之 日,吾以声教覆露方 城 ,不限遠遭 ,苛知夫忠義而来者 ,莫不錫 之華爵 ,輝以美名,以寵異其 国,商悦慕皇 化 ,浮海貢深 ,吾用汝嘉 ,併超等秩,以 昭 思 義之勤。 「吾以声教」以下 は詔の文章であ る。この年 の三仏斉朝貢 について他 には文献通考 の三仏 斉伝 に 「賜詔寵之」 までがあ るだ けで,他 の 請書 には見えない。末代の三仏斉 の朝貢 で宋 史三仏斉伝 と文献通考三仏斉 伝 に の み 記 さ れ,続資拾通鑑長編,宋会要輯稿 (特 に歴代 朝貢), 玉海 , 山堂考索 のいずれに も記 され ないケースは他 には全 くない。

2

.

江華の朝貢記録 当然同 じ年 の江華の朝貢記事 との関係 が問 題 にな る。注輩 の朝貢 は宋史注輩伝 ,文献通 考注華伝 ,続資治通鑑長編 ,宋会要輯稿,玉 海 のすべ てに大 中祥符八年

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,天肩 四年

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,明道二年

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,熊寧十年

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の4回記録 され,嶺外代答 と諸蕃志 は大 中祥 符八年 と無事十年 のみを記 してい る。

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7

年 の記事では王名が記 さ れている

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年 の注肇王 は羅茶羅乍 (宋史 注肇伝) で, これはチ ョ-ラ王 ラー ジャラー ジャー世

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年 の戸離羅茶印俺嘱注喝 (宋史注輩伝) はチ ョ-ラ王 (シュ リー ・) ラー ジュー ン ドラ ・ ∫ チ ョ-ラ (Sr

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に当た り,いずれ も漢字の音 と現地の刻文 か らわか る王 名 とが一致す る。問題 は

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年 の 地草加罪 で ある。 当時のチ ョ-ラ王 クロー ト ウンガ一世

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,在位

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と音 が対応 しない。 これは通常 ,この王 の別 名 ラ ー ジェー ン ドラ ・デーヴ ァ ・クロー トゥンガ

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のデ -ヴ ァ ・ クローの部分 を写 したのが地草加羅であ ると 208 解 されている

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年 に自 ら中国を訪れ た とす る見解 は無寧十年

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年 と 誤 ったために生 じた もので問題外で ある [桑 田

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年 の注肇 の朝貢記事 を見 ると,資料 に よ って多少 の出入 りがあ るが,次 に掲げる宋 史注筆伝が最 も詳 しい。 無寧十年 ,国王地華加羅遣使奇嘱嘱,副使 南卑琶打 ,判官麻図草薙等二十七人来献腕 豆珠 ,麻瑠璃 ,大洗盤 ,自梅花脳 ,錦花 , 犀 ,牙,乳香,瓶 ,商務 水 ,金蓮花,木香, 阿魂 ,鵬砂 ,丁香。使副以真珠 ,竜脳 ,登 陛脆 而散之 ,謂之撤殿 ,既降詔,通徹重宝 労之 ,以為懐化将軍保順郎将,各賜衣服器 幣有差 ,答賜其王銭八万-千八百綿 ,銀五 万二千両。 これを先掲の同年 の三仏斉 の朝貢記事 と比べ ると,桑 田が指摘 した ように, これ ら二つの 記事 を合 わせて一 つの もの と見 ることがで き る [桑 田

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。その論拠 は次の

4

点 である。 (∋ともに無寧十年で あ る。 ①王名 -地華加産 が同 じで あ る (この点 は 後で触 れ る)0 ⑧注肇伝の 「降詔

は三仏斉伝 の 「賜詔」 の文 と見 ることがで きる。 (彰王 に保順慕化大将軍 ,使者 に懐化将軍 , 保順郎将が与え られた と見 ることがで きる。 元来一 つで あ った記事が宋史で は三仏斉伝 と注肇伝 に分割 されたのだ とすれば,他 の請 書 に三仏斉朝貢 な く注輩朝 貢 が あ る の で, 「宋史三仏斉伝の無寧十年 の入貢 は,注挙国 の同年の入貢の記事 の一部分 を,誤 って混入 した もので あ ると思 うO 換言すれ ば無寧十年 三仏斉入貢 を否定す ることにな る」[同所】と い う桑 田の結論 は当然であ る。 桑 田はまた こ 2)チョ-ラ王の在位年は

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による。

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深見 :三仏 斉 の再検 討 の立場 か ら,宋史三仏斉伝 の 「使大首領地 華 伽 喝采」 は 「大首領地華伽喝遣使来 」 の誤 り とす るが, この点 につ いて筆者 が見解 を異 に す ることは後 に述べ るとお りであ る。 なぜ この よ うな錯誤 が生 じたのか桑 田は特 に論 じていな いが, この よ うな二 つの誤 りは 無 意識 の誤 りと見 るにはあま りに不 自然で あ り,何 らかの作為 の結果 と見 るべ きで あろ う。 この観点 に立つ と嶺外代答 の注肇伝 に 「至神 宗熊寧十年六月 ,此 国亦貴方 物,上達 内侍労 問之 ,乃此 国也」 とあ って,わ ざわ ざ 「乃此 国也」 と断 って い るの も不 自然で あ る。 3. 広東天慶観碑文 1960年代 にな って 「広東重傷天慶観記」 な る碑文 が紹介 され [戴 1979;Tan 1964】, この1077年 の朝貢 をめ ぐる議論 は新 たな展 開 が可能 にな った。 「元豊二年 (1079)重九 日」 に記 された この碑文 の全文 は本稿末尾 に掲 げ る (資料 Ⅰ)。 これは皇祐 四年 (1052)債智高 の乱 の際 に破壊 された広州 の天慶観 の修復 に 「三仏斉地主都首領地華迦

嘱」

が貢献 した こ とを記す もので あ る。 この地 華迦喝 が保傾慕 化大将軍 を賜 った ことが記 されて お り,おそ らく同 じ機会 に判官麻図華喝 が保順郎将 を賜 った と考 えて よいで あろ う。 これが何年 の こ とか明記 されて いないが ,無 寧三年(1070)と 元豊二年 (1079) の間で あ ることは確実で, おそ らく無 寧十年 と見 て よいで あろ う。 この碑文 を紹介 した戴 高塩 はまた,天下郡 国利病書 の三仏斉 国の条 に引かれた広州 旧志 の一 節 を紹介 してい る。 これ も本稿末尾 に掲 げ る(資料Ⅲ)。 な お東西洋考巻12に 「見広州 志」 と して一 部簡 略化 した ほぼ同 じ内容 の文 が 引用 されて い る。広州志 は15世紀 ない し16 世紀 に成 った ものであ るが,碑 文 の 内容 と一 致 す る部分が多 いので碑文 と相補 い合 う価値 の高 い資料 と考 え ることがで きる。 ここには 「明年地 華伽喝没」 と記 され , この 「明年」 は元豊三年 (1080) と考 え ることがで きるの で, この碑文 と広州志 の地 華迦噂 は治平年間 (106411067) ない しそれ以 前 か ら1080年 まで 「三仏斉地主都首領」 の地位 にあ った ことに な り, これ は在位 1070-1119年 のチ ョ- ラ王 クロー トゥンガではあ りえない。 そ こで,宋史三仏斉伝 の「大首領地 華伽 曝」, 宋史注肇伝 の 「国王地草加羅」, 天慶 観碑文 (および広州志) の 「三仏斉地 主都首領地華 迦噂 (地華伽嘱)」 が同一人 か ど うかが問題 に な る。 戴 は同一人 であ り,宋史注肇伝 は誤 り で,1077年 につ いて は注肇 の朝貢 な く三仏斉 の朝貢 があ った とす る説 を立ててい る。戴 の 所論 の一部 を批判 した林家勤 は,同一人説 に は従 いつつ も,1077年 の朝貢 につ いて ,注輩 の入貢 は三仏斉 の入貢 に委託 して行 われ た, 換言 すれ ば実際 に中国 に来 たのは三仏斉 の使 節 で あ るが , この使節 は注肇 の朝貢使 を兼 ね ていたので ,両 国の朝貢 があ った ことにな る と結論 す る 【林 1979]。 戴 の説で は,宋史注肇伝 その他 の請書 に こ の年 の注華朝貢 が記 されてい ることが十分説 明で きず ,注 肇 固有 の慣 習で あ る 「撤殿

が 行 われてい ることの説 明がつかない (撤殿 に つ いては第 Ⅲ章第 3節参照)。 林 の説 の場合 は,本来三仏斉 の朝貢で あ り,朝責任 であ る ものが ,後代 の編纂書 で あ る宋史 と文献通考 の三仏斉伝以外 の,末代 の請書 において注輩 の朝貢 と して扱 われてい ることの説 明がで き ないであろ う。 4. 別人説 -ウォルタ ース説批判 筆者 の説 に入 る前 に別人説 を見 てお こう。 ウォルタ ースは注輩伝 の 地 華 加 藤 と, 三 仏斉伝 および天慶観碑文 の地 華 伽 喝 は 別 人 と考 えてい る。 その根拠 は次 の 3点 で あ る [W olters 1966:229-230】。 ① 注章伝 の地草加産 は 「王 (king)」で あ る の に対 し,三仏斉伝 と天慶観碑文 の地華伽嘱 209

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は 「首領

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のタイ トルで示 され, この タイ トルの違 いは地位の高低 の違 いを示す。 ⑧三仏斉 の地華伽喝 に保順慕化大将軍 ,注 肇 の地華加蓮 に懐化将軍が与え られている。 ⑧地華伽曙 と地草加雇 。伽喝 と加羅 の文字 が区別 されている。 ウォルタ ースは1077年 に注華 の地草加産 も 三仏斉 の地華伽喝 も各 々朝貢 して い る と し て , この1077年 の状況 を,チ ョ- ラとシュ リ ーヴ ィジャヤ両 国の ライバル関係 を措 定 した 上で,次のよ うに考 えている。 ①1077年注華の地草加羅 (-クロー トゥン ガ) は三仏斉 を も支配す る上級支寵者 (over -lord)で あ るかの如 きふ りを した。 ⑳10年前 に シュ リーヴ ィジャヤに与えた軍 事 的援助 (1068年 頃のチ ョ- ラのカダ ー ラム (Kadかam)遠征 。本章第 6節参照)が この支 配債域 に関す る虚偽の申 し立ての根拠 とな っ た 。 ⑧ それゆえ後代 の中国の資料編纂者達 は, 1077年 に シュ リーグ ィジャヤが独立国で あ っ たか どうか怪 しみ, この年 の三仏斉朝貢 を無 視 す ることに した。 ④ シュ リーヴ ィジャヤの使節 は首尾 よ く逆 の主張 ,つま り滞甘伝 に見え る 「注華役属三 仏斉

を中国に認 めさせ るのに成功 した。 ⑤ しか し宋史 の編者だけが この1077年 の三 仏斉 の朝貢 を認 めた。彼 は しか し支配者 と使 節 の名前 を間違 った。 ⑥江華 の判官麻図華雇 と天慶観碑文 の判官 麻図華喝の名前 の一致 は宋史 の編者の間違 い によるもので, このよ うな細かい点 に拘泥す る必要 はない。 まず この1077年 の状況①∼⑥ を批判 してお きたい。第1に,⑧ の1068年 頃の遠征 をチ ョ - ラが三仏斉 - シュ リーヴ ィジャヤの王を援 助す るための もの と見 ることは,通飴で はあ るけれ ども,後 に述べ るよ うな異 な る解釈 が 可能であ る。① ,⑧ ,④ は資料 的根拠 が全 く 210 な く,資料 の混乱 を説明す るための一つの想 像 に過 ぎない。⑧ については,おそ らく統覚 治通鑑長編 ,宋会要輯稿 など末代 の資料 の編 者 も宋史 の編者 も, ともに利用 した共通 の原 テキス トが存在 したであろ うが,宋代の資料 を参照 しつつ作成 された宋史 においてのみ注 輩 の朝貢 と並んで三仏斉 の朝貢を認 めてい る のは不 自然であ る。また天慶観の重修 に重大 な貢献 を行 い,かつ,おそ らくは これ との関 連 で 「大将軍

を与 え られた三仏斉 の地華伽 喝 について続資治通鑑長編 な どの末代の資料 が記 さず,逆 に 「将軍」 を与え られた注華の 地草加雇 について記 してい るのは不 自然であ る。 この ことは逆 に言 えば

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にす ぎな い者 に 「大将軍」が

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」に 「将軍」が与 え られた とい う逆転現象 があ った ことにな り, これを ウォルタースは別人飴 と両国の ライバ ル関係 を措定す ることによ って説明 しよ うと していると言 えよ う。別人観 が成立せず,普 た ライバル関係 も措定す る必要がなけれ ば成 立 しえない考え方 とい うことにな る。最後 に, ここで はそ もそ も資料 の混乱 を前提 として, その説明が求 め られてい るので あ るか ら,⑤ や⑧ のよ うな資料の誤 りを云 々す ることは論 拠 とな りえない。 こう見て くると(9-⑥ とい う1077年 の状況 を想定す ることの根拠は弱 い ことがわか る。 つ ぎにこの想定は別人説 を前提 としてい る ので,上記 の別人説①∼⑧ を批判 してお きた い。第 1に, この 3点 は別人税 の根拠 とい う よ りは,別人で あ ることを前提 と して成 り立 つ解釈 と言 うべ きで あ るo第 2に,(丑のタイ トルの違 いは,同一人 を三仏斉伝 と注肇伝 の 両方 に記すために,意図的 に区別 しよ うと し た結果 と解釈す ることもで きよ う。すなわ ち, 後 に論 じるよ うに,注華王で あ ると同時 に三 仏斉地主都首領 で もあ る一人 の人物が存在す れ ば, この(Dは別人説の根拠 と して無意味 で ある。 ⑧ について は, 既 に見 たように, 栄

(7)

深見 :三仏 斉 の再 検討 史 の三仏斉伝 と注華伝 の記事 は合わせ て一 つ に見 ることがで き,地華伽嘱 (地華加羅) が 保順慕化大将軍 を,使節 が懐化将軍 や保順郎 将 を与 え られた と見 ることがで きる。 しか も 天慶観碑文 には保順慕化大将軍地華迦噂 と保 順郎将麻 図華喝 とが現 れ る。 また, 熊寧 ・ 元豊 ・元祐年間の朝貢記事 か ら判明す る限 り で,将軍 は王 ではな く使者 に与え られてい る こと (第 Ⅲ章第 5節参照) も,両記事 を合わ せ て一つ と見 る根拠 の一 つ とな しえ よう。 ③ の伽喝 と加羅 の文字 の違 いについては,筆者 は これを,宋史 の編者 が一つの原 テキス トを 三仏斉伝 と注牽伝 に分割す る際 に意図的 に行 った区別 と想像す る。 それは ともか く, この よ うな文字の違 いは三仏斉伝や注華伝 の他 の 個所で も しば しば見 られ ることで あ って,重 視す る必要がないで あろう。事 実宋史三仏斉 伝 の地華伽喝 は広州志 では同 じ地華伽喝 に作 るが,天慶観碑文 では地 華迦喝 に作 ってい る。

5

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東南 ア ジアの注華 こう見 て くると別人説 の根 拠 は 薄 弱 で あ る.少 な くとも,同一人説 か らの批判 が十分 可能 な ものであ る。以下 に同一人説 に立 って 論 を進 め るが,まず同一人説 の根拠 を整理 し てお くと次 のよ うになる。 (D天慶観碑文 と広州志 の地 華 伽 喝 は 同 一 人。 ⑧天慶観碑文 (および広州志) と宋史三仏 斉伝 の地華伽喝 は同一人 。 この2点 は ウォル タース も認 めてい る。 ⑧問題 は宋史注華伝 と①⑧ の 3資料 との関 係 で あ る。 この問題 では,文字の細 かい違 い は別 に して,地華伽喝 とい う名前 が同 じであ ることの他 に, a)桑 田が指摘す るとお り,三仏斉伝 と注肇 伝 の内容 は合わせ て一つ と見 る こ とが で き る。 b)江華伝 の判官麻図華是 は天慶観碑文 の判 官保順郎将麻 図華噂 と同一人で あろ う。 C)注賛伝 の使者奇噂喝 は天慶観碑文 および 広州志 の治平 中の条 の至嘱喝 と,おそ らく, 同一人 であろ う。 とい う 3点 に基づ いて,宋史注肇伝 と(∋(参の 3資料 の地華伽喝 は同一人 と考 え られ る。 さて,同一人説 を取 った場合 ,地華伽喝 は 注肇王 とす る資料 と三仏斉地主都首嶺 とす る 資料 とが存在す るゆえ,注肇王で あ り同時 に 三仏斉地主都首領で あ ると考 え るべ きで あ る。 どち らか一方 のみの支配者 と見な した場 合 に解釈 しきれ ない問題があ ることは これま で述べ て きた とお りで あ る。一人が注華 と三 仏斉 の両方 の支配者で あ るケ ース と して,請 理的 には次 の4つの場合があ りうる。 ①注肇の支配者 が三仏斉 の支配者 を兼 ねて い る場合。 ⑧逆 に三仏斉 の支配者が注肇 の支配者 を兼 ねてい る場合。 ⑧注肇本 国 とは別 に (しか しおそ らくは本 国の勢力 を背景 に),三仏斉 において 三 仏 斉 を支配す る,注肇 のいわば出先勢力 の支配者 。 ④逆 に注肇 におけ る三仏斉 出先勢力の支配 者。 チ ョ- ラの刻文 が三仏斉 に対 す る注輩の軍 事的優位 を示 してい るので,⑧ と④ はあ りえ ない.チ ョ- ラ刻文 を除外 して考え ると して も,④ は次 に述べ る① に関す るの と同 じ理 由 で可能性 がない。②の場合 は,続資治通鑑長 編 や宋会要輯稿 が無 寧十年 (1077) の朝貢 を 注肇 の朝貢 と していることの説 明が,少 な く とも⑧ の場合 よ りも,不 自然 にな るで あろ う。 (むのケース もあ りえないで あろ う。 その論 拠 と しては次 の 3点 で十分で あ る。 a)天慶観碑文 において地華迦曙は自分 を三 仏斉 の支配者 と位 置づ けてい る。 b)既述 の如 く,当時のチ ョ- ラ王 クロー ト ゥンガ と地華伽喝 の在位年 が か け 離 れ て い る。 211

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C) 天慶観碑文 によれ ば治平 中 (1064-1067) か ら無 寧三年 (1070)にか けて使者 が毎年 の よ うに地華迦喝 の もとと広州 の間 を往復 して い る。 と くに1069年 と1070年 には2年連続 し て往復 して い る。 しか し広州 と南 イ ン ドのチ ョ- ラの間 は 1年 で は往復 で き な い の で,3' 地 華迦喝 の所在 地 はイ ン ドで はな く,東南 ア ジアでな けれ ばな らない- これ と同 じ理 由 で(むの場合 もあ りえない- . か くして① ,⑧ ,④ の可能性 は否定 され , ⑧ が残 る ことにな る。 これ は従来 の諸説 が全 く想定 しなか った事 態で あ る。 この立場 に立 って1077年 の朝貢記事 を見直 してみ ると,原 テ キス トには 「三仏斉注 挙 国 大 首債 (また は三仏斉 注華 国地主都首領)地 華伽 曜遣使云 々」 ない し 「三仏斉地主都首 領 (または三仏 斉大首領)注華 国王地草加羅 遣 使 云 々」 とあ った可能性 が考え られ る。5年 後 の元豊二年 (1082)に 「三仏斉 江華 国朝貢 云 々」 とあ って

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「三仏斉注肇 国」 とい う表現 の あ ること (第 Ⅲ章第 3節) を考慮 に入 れ る と,前者 の方 が良 いか も しれない。 この よ うな原 テキス トを続 資治通 鑑長編 や 宋会要輯稿 は,おそ ら く原 テキス トに疑 問を 持 ちつつ注華 (本 国) の朝貢 と理解 し,また 宋史 の編者 も疑 問 を持 ちつつ ,三仏斉伝 と注 肇伝 の両方 に これ を分割 して配 置 したので あ 3)嶺外代答巻2の注葦伝に 「注挙国,是西天南印 度也。欲往其国,当日故臨国,易舟而行」とあ り,同じく故臨国伝に 「故臨国,与大食相適。 広舶四十日到藍里,往冬,次年再発舶,約-月 始達某国」とある。また同書の巻3の大食諸国 伝に 「有麻離抜国,広州日中冬以後発船,乗北 風,行約四十日,到地名藍里,博買蘇木白銀長 日藤,住至次冬,再乗東北風,六十日順風方到 此国」とある。以上から広州-豊里 (スマ トラ 北端部)-故臨 (南インド西部,クイロン)一往 葦または大食諸国というのが当時のルー トであ り,この場合,豊里で長期の風待ちを余儀な く されるため,広州と南インドの間は 1年では往 復できないのである。 また 『東方諸国記』 【ピ レス 1966:154,199,458,4621参照。 212 ろ う。す なわ ち宋史 の編 者 は,原 テ キス トの 意味 が正一しく理解で きなか ったた めに2国 1 使 節 の朝貢 と理解 し,三仏斉 に関 して は三仏 斉 が注華 国地主 都首領地 草加羅 を して朝貢せ しめた と解 して 「使 大首領地華伽噂来」 とな し,注肇伝 の方 では 「国王地草加羅 遣使」 と したのであ ろ う。 6. 地華伽 曙 と1068年 のチ ョ- ラの遠征 我 々は熊 寧十年 (1077)の朝貢記 事 の検 討 を とお して ,地 華伽 噂 は三仏斉 にあ って三仏 斉 を支配 す る江華 の 出先勢力 の支配 者で あ っ た とい う結 論 に至 った。この結論 に従 うな ら, 宋史蒲甘伝 の 「注華役属三仏斉 」 とい う中国 政府 の認 識 は,注華 (実 はその 出先 勢力) が 三仏済 の領域- 領域 とい う言葉 が適 当か ど うか問題 だが- 内 に存在す る とい う地理的 状態 を三仏済 と注肇本 国の間の政 治的関係 と して誤認 したた めに生 じた と考 え る ことがで き る。資料 自体 を誤 りと して否 定 し去 る必要 はな く,また ウォル タ ースの よ うな,資料 的 根拠 の な い,チ ョ- ラとシュ リーグ ィジャヤ 各 々の虚 偽 の 申 し立 てを想 定す る必要 もな く な る。 この結 論 か らい くつかの再検討 すべ き問題 が生 じるが, この節 では1068年 頃のチ ョ- ラ の カダ ー ラム遠征 につ いて述 べ る こ と に す る。 この遠征 は1063年 に即位 し1070年 に 死 亡 す るチ ョ- ラ王 ヴ ィ- ララー ジ ェ ー ン ド ラ (Ⅴ‡rar勾endra)の第7年 つま り1069-1070年 の刻文 に記 され てい ることか ら,その少 し前 の1068年 頃で あ った とされて い る。 その部分 は次 の よ うに英訳 されてい る [Majumdar 1937:181;Sastri 1975:271-272,318]

Having conquered (the country of) Kadaram,(he)waspleased to give (it) (back)to(its)kingwhoworshipped(his) f

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深見 :三 仏 斉 の再 検 討 これ は通常 ヴ ィ- ララー ジェー ン ドラ王 が援 助 と保 護 を求 めて きた カダ ー ラムの王 のため にカダ ー ラムを征服 し,それ をその王 に返 し た ことを述 べてい ると理解 され ,また この カ ダ ー ラムの王 はつ ま りシュ リーヴ ィジ ャヤ王 で あ るとす るのが通説 で あ る。 しか しこの刻文 の記事 を,遅 くと も治平年 間 (1064-1067)に地 華伽喝が チ ョ- ラの 出先 勢力 と して三仏斉 の支配者 にな っていた こと と考 え合 わせ ると, この カダ ー ラムの王 がま さ しく地華伽 喝で あ った と考 え るこ とがで き よ う。換言 すれ ば,1068年 頃の チ ョ- ラのカ ダ ー ラム遠征 は,何 らかの原 因 で本 国の軍事 援助 が必要 にな った地華伽 喝 に引 き続 きカダ ー ラムを統 治 させ るた めに行 われ た とい う こ とにな る。 とすれ ば,地 華伽 喝の所在地 はカ ダ ー ラム とい うことにな る。 な おカダ ー ラム (タ ミール語)は一般 にサ ンス ク リッ トのカタ ーハ(Kataha),ア ラブ資料 の カ ラフ (Kalah) に同定 され,マ レー半 島西岸 の ケダ ーに位 置 比定 され る。4) ⅠⅠⅠ 元量 ・元祐年間 の三仏斉朝貢

1

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元豊 ・元祐年間 の三仏斉 の朝貢- 宋史 三仏斉 伝 つ ぎに無 寧十年 (1077)よ り後 ,元豊 (1 078-1085),元祐 (1086-1094)年間 の三仏斉 の朝 貢 を検 討 す る。 第 Ⅰ章第2節 で述べ た よ うに 4)ただし,天慶観碑文によれば地華迦噂の使者は 治平中 (1064-1067)から県寧三年 (1070) に かけて毎年のように広州と往復 しており,かえ って無寧三年から無寧十年の間 (1070-1077)に 使者の往来が記されていない。とすると1068年 頃に本国の軍事援助を必要とするような事態は 想像 しにくいと言えよう。広州との使者の往来 を妨げない程度の,たとえば地華迦境の宮廷内 部の争いといったものを想定すべ きで あ ろ う か。あるいは,1068年頃とされるチョ-ラのカ ダーラム遠征は実は1070年 であった のだ ろ う か。 宋史三仏斉伝 には朝貢 の年 につ いてかな りの 誤 りが含 まれて お り, この時期 に実 は元豊二 午 (1079),五年 (1082),七年 (1084),元祐 三年 (1088),五年 (1090) に朝貢 があ った。 この うち元豊二年 ,五年 ,元祐 三年 ,五年 の朝 貢記事 にはかな りの問題 が含 まれてい る。 こ の章 では元豊 ・元祐 年間の各 々の三仏斉朝貢 を資料 を整 理 しつつ跡づ け る ことにす る。 ま ず宋史三仏斉伝 の記事 は次 の とお りで あ る。 元豊 中使 至者再 。率以 白金 ,真珠 ,婆律 , 薫陸香 ,備万 物。広州受表人言 ,侯報乃護 至開下 ,天子念其道里遥遠 ,毎優賜遣帰。 二年腸鏡六万 四千綿 ,銀一 万五百 両 ,官其 使 群 陀畢羅為寧遠 将軍 ,官陀勇亜里為保順 郎将 。畢羅乞買金帯 白銀器物 ,及僧紫衣 師 牒 ,皆如所請給之 。三年広州南蕃綱 首 ,以 其主管 国事国王之女唐字書 ,寄竜脳及布与 提挙市舶孫 廻 ,廻不敢受 ,言於朝 ,詔令佑 直輸之官 ,悉市 南以報 .五年遣使皮機 ,副 使胡仙 ,判 官地草加羅来人見 ,以金蓮花貯 真珠 ,竜脳撒殿 。官皮禎為懐遠将軍 ,胡仙 , 加羅 為 郎将。加羅 還至薙郎病死 ,購以絹五 十 匹。六年又以其使 薩打撃満為将軍 ,副使 羅 悉沙文 ,判官悉 理沙文為郎将 。栢聖 中再 入貢 。 文献通考三仏斉伝 では 「三年」 の条 の 「以 報」 まで ほぼ同文 ,その後 の部分 は年 を誤 る ことな く, 内容 を簡 略化 してい る。 冒 頭 の 「率以 白金真珠 ,-・-毎優賜遣帰」 の部分 は 他書 に発 見 しえず,宋 史 と文献通考 の三仏斉 伝 にのみ見 え る。 2. 元豊二年 (1079) の朝貢 元豊二年 の朝貢 につ いて ,玉海巻 154は「七 月 己巳入貢」,宋会要 輯 稿 (歴代朝貢) は「七 月三 日三仏斉 唐卑 国来 貢万物」 とあ るのみだ が ,続 資 治通 鑑長編巻 299に次 の よ うな三 つ の記事 があ る。 (∋ (七月) 己巳三仏斉 唐卑 国 使 来 貢 万 物 213

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(割 り注 :唐卑 国当考二十七 日並八月二十 二 日,賜三仏斉物亦不及唐単。元豊五年十 月十七 日合参照。) ⑧ (七月莫 巳)賜三仏斉 国進奉 ,銭 六万四 千綿 ,銀一万五百両。以進奉使群陀畢為餐 遠将軍 ,判官陀勇亜里為保順郎将 (割 り注 : 初三 日可考。) ⑧ (八月丁 巳)賜三仏斉 国群梅畢産等銀水 錐 ,交侍 ,骨菜二対 ,飯洗羅一面及賜僧紫 衣二 ,師号度牒各- 。初群晦畢産等乞私 自 買置,詔依注肇国例 ,特腸之。 宋史三仏斉伝 の記事 は この うちの七月莫 巳 と 八月丁 巳の記事 と対応 してい る。八月丁 巳の 条 の 「注挙国例」 は注華関係 の記事 に対応す るものを見 出 しえなか ったが

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年 の朝貢 ではな く,直近 の

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年 の朝貢 (つ ま り地草加雇 の朝貢) の際 に この 「注筆 国例」 があ った と見 るべ きであ ろう。 この資料 ,特 に ここに見え る三仏斉唐卑国 につ いて桑 田, ウォルタースが詳 しく検討 し てい る。 ウォルタ ースの説 は第 Ⅳ章第

1

節 で 取 り上 げ る。 桑 田の説 では, この年 の三仏斉 唐卑国の朝貢 は唐早 が三仏斉 と して入貢 した もので あ り,次節で扱 う元豊五年

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ち 同様で あ り,その背後 には, この

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年 頃 には三仏 斉 の都がパ レンバ ンか ら唐卑つ ま りジャンビに移 っていた とい う事態があ っ た。三仏斉 (パ レンバ ン) の継承者を以 て任 じた唐卑 は当初 は三仏斉 の名を冠 して朝貢 し たが,その後 は単 に三仏斉 と して 朝 貢 した [桑 田

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年頃 には三仏斉 の中心地 はパ レンバ ンか らジャ ン ビに移 っていた とい う桑 田の結論 は, この元 豊二年

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の三仏斉唐卑 国の朝貢 を唐卑 が三仏斉 と して朝貢 した とい う解釈 に基づ い てい る。そ して この解釈 は上 引の続資治通鑑 長編 の記事 ,中で も特 に七月 己巳の条 の注 の 「賜三仏斉物亦不及唐卑」 に基づ いてい る。 嶺外代答 は この朝貢 を- と言 うよ り, こ 214 の朝貢記事 を- 「七月達彦卑 国使来貢」と, すなわ ち,三仏斉が唐卑国の使者 を して朝貢 させた と理解 してい る。 この嶺外代答 の理解 は,桑 田が言 うとお り,三仏斉 と唐早 の 2国 の朝貢 があ った,換言 すれ ば,1使節2国の 朝貢 があ った と理解 してい ることにな る。桑 田によれば この理解 は誤 りで あ って

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「賜三仏 斉物亦不及唐卑」 とい う続賢治通鑑長編 の注 は,続資拾遺鑑長編 も三仏斉唐卑 国 とい う表 現 に疑問を抱 いた証拠で あ り, これを 2国の 朝貢 と解 し得 ない ことをのべた もので あ る。 宋朝の賜与が三仏斉 に対 してのみで唐早 に及 んで いないのは, この来貢 が1国の入貢だ っ たか らで あ る。 その 1国 とは,桑 田説 に従 え ば,三仏斉 と して入貢 した唐卑 とい うことに な る。 とす ると,その唐卑 には及 ばない賜与 が三仏斉 に与 え られ た とい うことは,宋朝の 側 が唐早 を唐早 と してではな く三仏斉 と して 扱 うとい う態度 を示 した ことにな る。 しか しなが ら

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「賜三仏斉 物亦不及唐卑」と い う注 は七月莫 巳,八月丁 巳の条 を参照 した 上での解釈 と見 るべ きで あろ う。すなわ ち こ の注 は,嶺外代答 と同 じ立場つ ま り三仏斉 が その属 国唐早を して入貢せ しめた とい う立場 に立 って,宋朝 の側 で は三仏斉 のみ に腸与 し, 属 国倉卑 には賜与 がなか った- なぜ な ら, 七月莫 巳,八月丁 巳の条で は三仏斉 にのみ腸 与 があ った- とい う解釈 を示 してい るに過 ぎない と思われ る。 いずれにせ よ,嶺外代答 は1使節2国の朝 貢 が あ った と理解 してい るの に対 し,秦 田は 1使節1国の朝貢 と見 な して い るとい うこと にな る。 どち らの説 も可能 か も しれないが , この他 に2使節2国の朝貢 が示 されてい ると す るウォルタースの鋭 (第 Ⅳ章第1節) があ る。筆 者は,その 2国を ウォルタ ース説 の如 く三仏斉 (- シュ リーグ ィジャヤ,パ レンバ ン) と唐卑 (-ジャンビ) とす るのは ともか くと して,上掲 の資料 には2朝貢使 の記事 が

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深見 :三仏斉の再換討 存在す ると考 え る方 が 蓋 然性 が高 い と考え る。すなわ ち,玉海 の 「七月 己巳入貢」,宋会 要輯稿 の 「七月三 日三仏斉唐卑国来貢万物」, 続資治通鑑長編の七月 己巳の条 は明 らか に三 仏斉唐卑 国の朝貢 を扱 ってい るが,記事 の内 容 か ら見て , この三仏斉 唐卑国の朝貢 は,栄 史三仏斉伝 および続安治通鑑長編 の七月莫 巳 ・八月丁 巳の条 の朝貢 と共通点 を持 たない と 言 え る。 三仏斉唐卑国 とは別 の三仏斉 の朝貢 があ っ た とすれ ば,筆者 は ウォルタース同様,地華 伽喝の朝貢で あ った と考え る。 ただ, ウォル タースが地華伽曙 を シュ リーヴ ィジャヤ王 と 考 え るのに対 して,筆者 は既述 の如 く三仏斉 注挙 国の支配者 と考 え る。 地華伽 曜 (三仏斉 注肇 国) の朝貢で あ った と考 え る根拠 は, こ の年広州 の天慶観の重修 が完成 し,天慶観碑 文が立て られてい ることであ る。 同 碑 文 の 「適判官麻図華曜」以下 の部分 (これが無寧 十年 で あ ることは前章で述べた) によれ ば, 麻図華噂は 「願備金銭云 々」 と 「遂 具章奏」 し,中国朝廷 は これを多 と してその願 いを認 め,かつ この機会 に地華迦喝 に保順慕化大将 軍 ,何徳版 に崇道大 師

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(また おそ らく麻図華 曙な どの使節 に保順郎将 など) が与 え られ, さ らに鏡八万-千八百縛 ,銀五万二千両 が賜 与 されてい る。地華迦喝 によ る天慶観の修復 は中国朝廷 の承認 と後援 の もとに進 め られた と言 え る。 元豊二年 にその ような天慶観 の修 復 が完了 し,かつ この碑文が立て られたので あ るか ら, この年 に地華迦喝 の朝貢 があ った と考 え るのは荒唐無稽 ではあ るまい。熊寧十 年 の場合 と同様 に銭六万 四千綿 と銀一万五百 両 が賜与 され ,使者の群陀畢定 が寓遠将軍 , 陀芳亜里が保順郎将 とされ たが (七月芙 巳の 秦),これ は天慶 観修復の告竣 の機会 に行 われ た と考 え られ る。また群陀畢羅 らが 自分 で買 お うと した 「鉱水錐交侍 ,骨莱二対 ,銀洗羅 一面及賜僧紫衣二 ,師号度牒各-」 を特 に賜 ったの も (八月丁 巳の粂) や は り天慶親告竣 に関わ りがあると考 え ることがで き, この品 物 の うち 「僧紫衣

は碑文の 「紫衣何徳順」, 「住持崇道大師賜紫何徳順

に対応 してい る と言 え る。 七一八月 に このよ うな朝貢 と腸与 があ り,九月九 日に碑文が立て られたのは時 間的 に も符 合す る。 なお八月丁 巳の条 に 「詔 俵注挙国例 , 特腸之

とあ るのは, 注肇国 (チ ョ-ラ) の例 に倣 って三仏斉 (シュ リー グ ィジャヤ) に も特 に賜 った と言 うのではな く

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(三仏斉)注挙 国

の先例- つま り熊 寧十年 の例- に倣 って同 じ 「三仏斉 (注挙 国

)

に賜 った と考 え ることがで きる。 か くして,筆者 は この元豊二年 には七月 に 三仏斉唐卑国 の朝貢 , 七一八月 に 三仏斉注挙 国の地華迦喝の朝貢 があ った と考 え る。 3. 元豊五年 (1082)の朝貢 元豊五年 については,上記 の宋史三仏斉伝 の他 には,続資拾通鑑長編巻300と宋会要輯 稿 の職官44の 6 ・7にはば同文 があ る。続資 治通鑑長編 の方 を記す。 (元豊五年十月 甲子)広東転運副使兼提挙 市舶司孫 廻言 ,南蕃綱首持三仏斉唐卑 国主 及管勾国事 国主之女唐字書 ,寄臣熟竜脳三 百二十七両 ,布 十三段,臣昨奉差委推 ,行 市舶法,臣以海舶法敵商旅軽於 冒禁,毎召 暮雪 ,示以候約 ,暁以来之之意,今幸刑戟 不加 ,而来者相継 ,前件書 物臣不敢受儀 , 乞佑直入官委本庫,買探 鳥等物,侯冬舶 回, 報謝之 ,所貴通異域之情 ,来海外之貸 ,従 之。 (割 り注 :元豊二年七月三 日唐卑国来 貢。) 元豊五年 には この記事 の示 す三仏斉唐卑 国 の朝貢の他 に三仏斉注挙 国の朝貢 もあ った と 考え られ る。 これは本稿が これまで利用 して きた資料 には見えないが,次 の二つの資料 に 記 されてい る。まず鹿元英 の 『文 昌雑録』巻 1の元豊王威 (五年)八月 の条 に次 のよ うに 215

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あ る。 元豊壬成八月・--三仏斉 注挙 国朝貢 ,見延 和殿 ,引至柱脆 ,撤金蓮花 ,真珠 ,竜脳 , 於 御座前 ,謂之撤殿。初至閲,先具陳請 , 詔方許之。 鹿 元英 (宋史巻311に伝 あ り)は元豊年 間 に 礼部 の主客郎 中で あ ったが,主 客司はま さに 蕃夷朝貢 を管掌 し,その記録 を整 え るのが役 目で あ った。従 って,宋史 は ともか く続資 治 通鑑長編 や宋会要輯稿 に関係記事が見 えな い のは疑 問な しと しない とはいえ, この年 の三 仏斉注華国の朝貢 を事実 と認 めてよい と思わ れ る。 また栢聖四年 (1097)の進士 で南宋初 にか けて活躍 した菓夢得 (宋史巻445に伝 あ り')の 『石林燕語』巻2に次 のよ うにあ る。 元豊 間,三仏斉注肇国入貢 ,請以所真金蓮 花 ,竜脳 ,依其 国中法,親撤御座 ,謂之撤 殿 。詔特許之 ,御延和殿 引見 ,使拡散干殿 柱外 ,前未有也。 この 「元豊 間」 が元豊壬戊 (五年)で あ る 保証 はな く,二年 または七年 の可能性 も否 定 で きな いが, 『文 昌雑録』 に対応す ると見な して,五年 の ことと してお こう。 ここで大事 なのは 「三仏斉注華 国」 の朝貢 が資料 に明記 されてい ることで あ る。 桑 田は前掲 の 『文 昌雑録』 を引用 し

,

「これ は撤殿 に関 して先例 を述べただ けで此 の時 に 三仏斉江華 が入貢 したわ けで は な い」 [桑 田 1945a:70-71]と して いる。 しか しなが ら, 上記 の如 く鹿元英 が元豊年 間 に礼部 の主客郎 中で あ った ことの他, 『文 昌雑録』 は編年体 で構成 されて お り,また撤殿 は次 に述 べ るよ うに注肇 固有 の儀礼で あ るので,や は りこの 年 の三仏斉 注挙 国の朝貢 があ った と認 め るべ きと思われ る。 とす ると, この元豊五年 には 八月 に三仏斉注肇 国の朝貢 (および撤殿) が あ り,十月 に三仏斉唐卑 国の朝貢 があ った こ とにな る。 216 ここで撒殿 につ いて見 て お きたい。管見 の 限 り,撤殿 が行 われたのは次 の 5回で ある。 ①大 中祥符八年 (1015)。続資治通鑑長編巻 85,九月 己酉 の条 ,宋会要輯稿 (歴代朝貢), 玉海巻153, 山堂考索 な どの注華朝貢記事 の 中 に記 されて い る。 宋会要輯稿 を 挙 げ る と 「以盤捧真珠碧頗裂升殿 ,布於御座」 とあ る。 ⑧ 明道二年 (1033)。宋史注肇伝 の他 ,続資 治通鑑長編 ,宋会要輯稿 (歴代朝貢),玉海巻 153などの注華朝貢記事 の中 に見 え る。 宋会 要輯稿 に 「枢離偽請用夷礼以 中背慕之心 ,乃 奉銀盤於殿脆散珠於御楊下面退

とある。 晦 散 は使者 の名前であ る。 ③無寧十年 (1077)。この年 の撤殿 は宋史注 肇伝 (第 Ⅲ章第2節 に引用),続資 治通鑑長編 , 宋会要輯稿 (歴代朝貢),玉海,山堂考索 な ど の注肇朝貢記事 の中に記 され る他 ,神宗 時代 (つ ま り同時代) の人沈括 の 『夢渓筆談』巻 24に次 のよ うに記 されてい る。 おそ らくこれ が撤殿 の様 を最 も詳 しく描 いて いる。 無寧 中,注挙国使人入貢 ,乞依本 国俗撒殿 , 詔従之。使人以金盤貯珠,脆捧於殿樫之間, 以金蓮花酌珠 ,向衛座撒之 ,謂之撒殿 ,乃 其 国至敬之礼也to朝退有司掃徹 ,得珠十余 両分賜 ,是 日侍殿 閤門使副 内臣。 この撒殿 は注華国の朝貢使 が行 な った とさ れてい るが, この場合 の注挙 国 とは第 Ⅲ章 で 見 たよ うに,地華加雇 の注挙国,つ ま り三仏 斉 注挙 国 と考 え られ る。 (多元豊五年 (1082).上 に引用 した よ うに 『石林燕語』 と 『文 昌雑録』 に三仏斉注肇 国 の朝貢 の際 に行 われ た ことが記 されて い る。 ⑤元祐三年 (1088)。宋史三仏斉伝 に元豊五 年 の ことと して見え るが, この元豊五年 が実 は元祐三年で あ ることは既述 の通 りであ る。 元祐三年 の撤殿 は この他 ,続資拾通鑑長編 , 宋会要輯稿 (歴代朝貢) の三仏斉朝貢記事 の 中 に見え る (次節参照)0 以 上の5回の うち,① と⑧ は注華本国,⑧

(13)

深見 :三仏斉の再検討 と④ は三仏斉 注挙 国 ,(訓 ま三仏斉 の使節 によ って行 われ た とい うことにな る。宋史巻119, 礼志22の諸 国朝貢 の条 に 「注肇 ,三仏斉 使者 至 ,以 真珠 ,竜脳 ,金蓮花等登 陛脆 散之 ,謂之 撤殿。」 とあ るの は これ に基づ いて い る と言 え よ う。 しか しなが ら, ここで問題 は(参の三 仏斉 の使節 による撤殿 で あ る。 とい うの も, 撤 殿 は この(参を除 いて注撃本 国または三仏斉 注挙 国の使者 によ って行 われて お り,上の⑧ と(塾の 引用 か らわか るとお り注華 固有 の儀礼 で あ り,かつ注肇 におけ る 「至敬之礼

で あ って, これが三仏斉注華 国以外 の三仏斉 の使 節 によ って行 われ るとは考 え に くい。従 って, ⑤元祐三年 (1088) の朝貢 は実 は三仏斉 では な く,注撃本 国または三仏斉注肇 の朝貢 と考 え られ る。 注聾本 国の朝貢 を三仏斉 の朝貢 に 取 り違 え ることは考 え に くいので ,三仏斉 注 肇 の朝貢 とすべ きであ ろ う。 な お 元 祐 三 年 (1088) の朝貢 は次節で扱 う。 4. 元豊七年 (1084),元祐年 間(1086-1093), 紹聖年 間 (1094-1097) の朝貢 元豊七年 (1084)。元豊七年 の朝貢 につ いて は本紀 に 「九月乙 巳三仏斉来貢」,続資治通鑑 長編巻348に 「九月乙 巳三仏斉貢万物」,宋会 要輯稿 に 「九月八 日三仏斉 国貢万物」 とあ る のみで ,問題 がない。 元祐三年 (1088)。元祐三年 の朝貢 につ いて は宋史 で は本紀 に 「是歳三仏斉入貢」 とあ る のみだが ,三仏斉 伝 には既塙 の如 く使者 名そ の他 が記 されてい る。 また宋会要輯稿 (歴代 朝貢) には次 のよ うにあ る。 十二月十 二 日,三仏斉貢奉人請以金蓮花一 十 五両 ,真珠五両 ,竜脳一十両 ,俵例撤殿 , 従之 。 続資治通鑑長編418と山堂 考索 の各 々この年 十二月 甲中の条 に同文 が あ る。 山堂考索 には さ らに翌四年 正月庚辰 の条 に,次 の よ うにあ る。 進奉副使胡仙為帰徳郎将 ,進奉判官地華加 藤 為保順郎将。 さ らに続 賢治通鑑長編巻427, 四年五月壬辰 の条 に次 の よ うにあ る。 鴻臆寺言 ,三仏斉 国進奉判官保順郎将地草 加 嘱 ,至薙 郵県以疾卒 ,(下略) 宋史三仏斉伝 の この年 の朝貢記事 は こう した 宋会要輯稿 ,続 資治通鑑長編 ,山堂考索 の記 事 に対応す るもの と言 え る。 筆者 は前節 で撤殿 を根拠 に この三仏斉 を三 仏斉 注挙 国 と見 な した。使者 の一人地華加露 とい う名が第 Ⅲ章で扱 った地華伽喝 と同 じ音 なので チ ョ- ラ系 の名前 と考 え られ る こ と も, この三仏斉 を三仏斉 注聾 国 と見 なすべ き 根拠 と言 え よ う。 ところが,宋会要輯稿 には上 引の部分 に続 いて ) 閏十二月五 日三仏斉 ,二十一 日西南蕃並達 人入貢 とあ り,続 資拾通鑑長編巻419に も, 閏十二月 (中略) 丁未三仏斉遣使入貢 とあ る。玉海 と嶺外代答 で は この年 の朝貢 は 閏十二月 だ けが記 されて い る。 桑 田は この閏十二 月 の朝貢 を十二月 の朝貢 と同 じものか も しれ ない とす る。勿論 その可 能性 は否 定で きないけれ ども,先 に見 た よ う に元豊二年 (1079),五年 (1082) に三仏斉 注 挙 国 と三仏斉唐卑 国 とい う三仏斉 を冠 す る2 国の朝貢 が あ った ことを踏 まえ ると, この元 祐三年 に も二 つ の三仏斉 の朝貢 があ った可能 性 が否定で きず ,その場合 に前節で見 た よ う に,撤殿 を行 ってい る十二月 の朝貢 は三仏斉 注肇 の朝貢 ,閏十二月 は三仏斉 注 肇以外 の三 仏斉 の朝貢 とい うことにな る。 元祐五年 (1090)。元祐五年 と六年 (1091) の三仏斉朝貢 が宋史本紀 に記 されて い る。宋 史 と文献通考 の三仏斉伝で は五年 の入貢 な く 六年 の入貢 のみ記 されてい る。五年 につ いて は玉海 に 「十二月入貢」,宋会要輯稿 (歴代朝 217

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貢) に 「十二月五 日高麗,三仏斉達人入貢」, 続資治通鑑長編452に「(十二月乙末)高某国, 三仏斉国遣使入貢」とあるが,六年 につ いて これ らの資料 には続資拾通鑑長編巻456の三 月丁亥o'条 に次 のようにあるだけであ る. 御史中丞趨君錫言,高某国,三仏斉国進貢 使副以下檀入疎盆観看,奉詔館伴押伴官等, 並特放罪。臣頼惟 ,蛮夷入貢,有司当守君 命,今館伴官等廼敢轍於観灯之夕,公然廃 越法制辱国誤朝,宜在不簸 ,詔館伴押伴官 並罰金六斤。 これは五年十二月の朝貢使 と考え ることがで きるだろう。 六年 に五年十二月の朝貢 とは別 の朝貢があ った可能性 も否定で きないが,三 年十二月の使者が四年正月 に帰徳郎将を与え られたの と同様 に,五年十二月の使者 に六年 に将軍などが与え られた と想定すれば,桑 田 が言 うとおり,宋史三仏斉伝の六年の使者は つま り五年十二月の使者の ことで ある。 この元祐五年 の朝貢 は三仏斉注輩国の朝貢 で あった可能性 が考え られ る。その根拠は次 の 2点である。第 1に,次節の熊寧 ・元豊 ・ 元祐 ・相聖年間の三仏斉朝貢の-真義か ら明 らかなように,この間三仏斉の朝貢使 に将軍, 郎将などの官位 が 4回与え られているが,元 祐五年を除いてすべて三仏斉注肇国の朝貢使 であ る。何 らかの理由で三仏斉注挙国の朝貢 使 にはつねに官位が与え られたのか もしれな い。第 2に,その使者の羅悉沙文 ,悉理沙文 とい う名前が天慶観碑文 に見え る思離沙文 に 似ているので,チ ョーラ系 と考え ることがで きる。 細聖年商 (1094-1097)。念のため元祐の次 の細聖年間について も見てお くと,宋史 と文 献通考 の三仏斉伝に 「細聖中再入貢」とあ り, 本紀 には元年十月丙 申と二年の入貢が記 され ている。山堂考索 は二年三月丁 巳の入貢のみ を記すが,宋会要輯稿 は元年十二月二十八 日 と二年三月二十三 日に各 々 「三 仏 斉 遣 使 入 218 貢」 と記 している。本紀 の元年十月丙 申は十 月二十八 日なので,宋会要輯稿の十二月二十 八 日に見 くらべ ると,十二月丙 申を十月丙 中 と誤記 した可能性 が考え られ る。 とすれば, 細聖年間の三仏斉朝貢 は元年十二月 と二年三 月 の 2回記録 されていることになる。 桑田はこの両者 も同一 の使 者 と し

,

「再入 貢

は誤 りとす る。その可能性 はもちろん否 定で きないけれども,とくに宋会要輯稿が両 者 を明記 しているので,元年十二月 と二年三 月の 2回朝貢があった と考えて もよいと思わ れ る。三仏斉 を単一 の朝貢主体 と考え る立場 か らはこの両者を同一の使者 と見 るのが当然 であろ うが,本稿のように三仏斉 を複数の朝 貢国の総称 と見 る立場に立てば,3カ月の間 に2回の朝貢があったことに不思議はない。 この後三仏斉 の朝貢は建炎二年 (1128) 頃 まで記録 されていない。 5. 無寧 ・元豊 ・元祐年間の三仏斉 の朝貢 - まとめ 以上か ら無寧・元豊 ・元祐・細聖年間 (10 68-1097)の三仏斉の朝貢 として,無寧十年,元 豊二年2回,五年2回,七年,元祐三年2回, 五年 ,紹聖元年,二年の11回を認めることが できる。 この他,元祐六年の朝貢を否定 しき れないことは上に述べたとお りであ る。 これ らを-発表にすれば次の とお りであ る。 ( ) は資料 自体 には記 されていない,筆者の推定 に基づ くものである。また撒殿 とあ るのはそ れが行われた ことを示す。 (力無寧十年 (1077) 三仏斉 (注肇国) (推定の根拠 :天慶観碑文 ・宋史三仏斉 伝 ・宋史注肇伝。撒殿) 王名 :地学伽嘱 保順慕化大将軍 使 :奇嘱曝 懐化将軍 副使 :南卑琶打 (保瀕郎将) 判官 :麻図草薙 保頒郎将 ⑧元豊二年 (1079)七月 三仏斉唐卑国

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深見 :三仏斉の再検討 ⑧ 同年 七 ・八月 (三仏斉江華国) (推定 の根拠 :天慶観碑文) 使 :群陀畢羅 寧遠将軍 判官 :陀勇亜里 保腰部将 ④ 五年(1082)八月 三仏斉注挙国 撤 殿 ⑥ 同年 十月 三仏斉唐卑国 「国主 及管勾国事国主 之女」 (む 七年(1084)九月 三仏斉 ⑦元祐三年(1088)十二月 三仏斉 (注輩国) (推定の根拠 :撤殿。地草加羅 とい う名 前) 使 :皮禎 懐遠将軍 副使 :胡仙 帰徳郎将 判官 :地草加羅 保順郎将 ⑧ 同年 閏十二月 三仏斉 ⑨ 五年(1090)十二月 三仏斉 (江華 国) (推定 の根拠 :使者 に官位。羅 悉沙文 , 悉理沙文 とい う名前) 使 :薩打華満 将軍 副使 :羅悉沙文 郎将 判官 :悉理沙文 郎将 ⑩紹聖元年(1094)十二月 三仏斉 ⑪ 二年(1095)三月 三仏斉 以上の うち①⑧⑦⑨ を三仏斉注肇 国の朝貢 とす る推定が正 しい とすれば,元豊 ・元祐年 間の三仏斉注肇国の朝貢 は⑧④⑦⑨ ,つ ま り 元豊二年 ,五年 ,元祐三年 ,五年 にあ った こ とにな る。他方 ,第 Ⅱ章漢籍資料 の混乱 の第 2点 として示 したように,宋史三仏斉伝 はま さにこれ らの年 の三仏斉 の朝貢 を元豊二 ,三 , 五 ,六年 と誤 ってい る。 この ことか ら,宋史 三仏斉伝の年次 の誤 りと三仏斉注挙国の朝貢 の間 に関連 があるとい う推定が得 られ る。 換 言すれ ば,詳 しい経緯 は不明で あ るが,三仏 斉注挙 国 とい う表現 が宋史三仏斉伝 の年次の 誤 りを もた らした と想像す ることがで きるの で ある。 lV 三仏斉其 々国 1. 「三仏斉其 々国

とい う表現- 桑 田説 とウォルタース鋭 この節で は三仏斉唐卑国 ,三仏斉注挙国 と い う表現 を問題 にす る。 上記 の リス トの うち 無寧十年 (1077) と元豊二年 (1079) の三仏 斉注挙 国は資料 に見え る表現 で は な く筆 者 の推定であ るが, 元 豊 二 年 (1079) と五 年 (1082) の三仏斉唐卑国,同五年 の三仏斉注 挙国は資料 自体 に見え る。 これが三仏斉 と唐 卑国,三仏斉 と注挙 国でない ことは資料 か ら 明 らかであ る。 従来 この表現 を詳 しく論 じた のはやは り桑 町, ウォルタースであ る。 桑 田 は大食其 々国 とい う表現 との 類 似 を 取 り上 げ, ウォル タースは大理蒲甘国,裏腹羅斜国 とい う表現 との類似 を問題 に してい る。 大食其 々国 とい う表現 は,た とえば来会要 輯稿 の大食伝では大食勿巡国 (勿巡 はオマ ー ン地方の ソフ ァルのベ ル シア名 メゾェ ン),大 食余塵和地国 (余塵和地 はバ フ レイ ンの港 ア ル ・カテ ィフ),大食麻曝抜 国 (麻嘱技 はハ ド ラマ ウ トの港 ムルバ ッ ト),大食層壇 国 (層壇 はスルタ ンの音訳で セル ジュク ・トル コの都 ライ) な どがあ る 【桑 田 1945a・.88]。 これ らが大食 の中の諸地方 を指 していることは明 らかで あ る。桑 田によれ ば,三仏斉倉卑国は この大食其 々国 と同様 に見 る こ とは で き な い。なぜ な ら,大食某 々国の入貢 は結局某 々 国の入貢であ るの に対 して,三仏斉倉卑国の 入貢 は,事実 は唐早の入貢であ るが,末 は こ れを三仏斉 の入貢 と して扱 ってい るか らで あ る [桑 田 1945a:88-89]。 しか しなが ら,筆 者 は,後述 の如 く,三仏斉其 々国の入貢 は結 局 は其 々国の入貢で あることに もっとこだわ るべ きで あ ると思 う。また桑 田は上記 の元豊 五年 (1082) の際 に見 たように三仏斉 を冠す る注葦国の朝貢 の可能性 を否定 してい るが, 219

(16)

筆 者 は これ を重視 す るもので あ る。 ウォルタ ースの説 は次の よ うな もので あ る 【W olters 1966:230-234]。 ① ウォル タ ースは大食其 々国 とい う表現 に 全 く触 れ ることな く,宋会要輯稿 (歴代朝貢) の細興六年 (1136)の大 理蒲甘 国,同二十五 年 の真膿尿斜 国 と同 じ表現法 とす る。す なわ ち,中国は既知 の国名 (大 理 ,真膿) を冠す ることによ って未知 の国 (蒲甘 ,産科) の地 理的位 置を示 したので あ って ,三仏斉唐卑 国 とは三仏斉 の近 くにあ る唐卑 国 とい う意味 で あ るとす るのが氏 の説 であ る。 この説 には差 し当た り,次 の批判 が可能 で あ る。第 1に,大食其 々国 との比較 が行 われ ていない ことが納得で きな い。 また蒲甘 国の 最初 の朝貢 は崇寧五年 (1106)であ るか ら, その30年後 の朝責 の際 に大 理蒲甘 国 とい う表 現 が行 われ るの は奇妙 であ る。 さ らに三仏斉 江華 とい う表現 は説 明で きない。なぜ な ら, 三仏斉注筆 とい う表現 は,江華 が既知 の国で あ る1082年 に行 われてい る。 (多元豊二年 (1079)の朝貢記事 につ いて氏 は,続 資拾遺鑑長編 の七月莫 巳 と八月丁 巳の 条 は この唐串 の使節 とは別 の三仏斉 の使節 に つ いて記 してい るのであ って, この三仏斉 の 使節 は天慶勧重修 の告竣 (および天慶 観碑文 の建 立) と関連 して派遣 された もの とす る。 従 って,七月 己巳の条 の割 り注 は,七 月莫 巳 と八月丁 巳の条 に見 え る賜物 が三仏斉 に与 え られた物で あ って (三仏斉 の 近 く に 位 置 す る) 倉早 に与 え られたので はない ことを言 っ てい ることにな る。筆者が この税 と同 じ考 え で あ ることは前章第2節で述べ た とお りであ る。 ⑧氏 によれ ば, 従 って, 1079年 に は 唐卑 (ジャンビ)と三仏斉 (シュ リーグ ィジャヤ, 於パ レンバ ン)の二 つの朝貢 があ り,シュ リー グ ィジャヤは ジャンどの朝貢 を妨 げ ることが で きなか った とい うことにな る。 そ して1080 220 年 に シュ リーグ ィジャヤ王地華伽喝 が死 に, 1082年 に ジ ャンビのみが朝貢 しシュ リーグ ィ ジャヤが朝貢 していないので あ るか ら,1079 年 と1082年 の間 に南 スマ トラにおけ る覇権 が シュ リーグ ィジャヤ (-パ レンバ ン) か らジ ャンビに移 った ことにな る。 この ウォル タ ースの説 は三仏斉 を シュ リー グ ィジャヤに同定す る通説 を 前 提 と す る 限 り, もっともな結論で あ る。 しか し筆 者 は三 仏斉 唐卑 国 と三仏斉 注挙 国の検討 を とお して この前提 自体 を否定 しよ うと す る も の で あ る。 なお桑 田が1079年 には既 に覇権 がパ レンバ ンか らジャンビに移 って いた と し, ウォルタ ースがそれを1079年 と1082年 の間 とす る違 い は,前者 が1077年 の朝貢 を注華 -チ ョ- ラの 朝貢 と して三仏斉 の朝貢 を否 定 す る の に 対 し,後者 は1077年 には注華 -チ ョ- ラの他 に 三仏斉 -シュ リーグ ィジャヤ も朝貢 していた と して1077年 の三仏斉 の朝貢 を肯定す るとい う違 いに由来 す る。 ウォル タ ース説 によれ ば,1082年以 後 の朝 貢 については, 中国側 には自 らに関わ りがな い限 り 「蛮族

の内部事情 に関心 を寄せ る理 由がな く,そのため この唐卑 を7世紀以来 シ ュ リーグ ィジャヤと して知 っていた国 ,つ ま り三仏斉 と して扱 い続 け,他方 ジ ャンビ側 に もこの扱 いにあえて異 を唱え る必要 がなか っ た。 か くして これ以 後 の三仏斉 は ジ ャンビで あ るとい うことにな る。 桑 田 もウ ォル タース も これ以 後 の三仏斉 の 中心地 を ジ ャンビと して い る。 その根拠 は こ の時期 の三仏斉 唐早 をめ ぐる解釈 と,1225年 の請書志 に列挙 され る三仏斉 の属 国の中に, パ レンバ ンに当た る巴林 鵜があ るが ジャンビ に当た る名前が ない ことで あ る。 なおまた ウォルタ ース は以上 の説 に基づ い て1082年以 後の三仏斉 の朝貢 について も考察 を展 開す るが,本稿 の中心的 テーマ とは直接

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