• 検索結果がありません。

ジャワの村落における社会変容の一考察 : 日本軍政下の籾供出制度とその影響 [Social Changes in Javanese Villages, 1942-45: The Forced Delivery System and Its Impact]

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ジャワの村落における社会変容の一考察 : 日本軍政下の籾供出制度とその影響 [Social Changes in Javanese Villages, 1942-45: The Forced Delivery System and Its Impact]"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東 南 ア ジ ア研 究 19巻1号 1981年6月

資 料 ・研究 ノー ト

ジ ャワの村落 にお け る社会変容 の一考 察

-

日本 軍 政 下 の籾 供 出 制 度 と そ の 影 響

-倉

子 *

Soc

i

alChan皇e

si

n Javane

s

eVi

l

l

a皇es

,1

9

421

45:

TheForce

d De

l

i

ve

r

ySys

t

e

m and I

t

sI

mpact

Ai

koK

uRASAW A*

Javanese society underwent various social changesduringtheJapaneseMilitaryOccllpation

(

1

9

4

2

-

4

5

)

.

Someorthemostimportantchanges resulted from theestablishmentofasystem which forcedthepeasantstodeliveragrlCulturalproducts, especially paddy, to the government, and the introduction ofnew institutionsto carryc・utthis policy. TheJapanese,in need ofhugeamounts ofprovisionsforcontinuingthewarandtheocc u-pation,ordered the Javanese peasants to "sell" acertainpercentageoftheirpaddy (usually30to 40percent)tothegovern-entatafiXedprice・

Thispolicy had a tremendousimpactboth on village politicsand on the peasants)livest The

は じ め に 本 稿 は, 日本 軍 政 期 の ジ ャ ワにお いて導 入 され た籾 供 出制 度 が村 落 社 会 に与 え た影 響 に つ いて考 察せ ん とす る もので あ る。 筆 者 が こ の 問題 に関心 を抱 いた背 景 に は, 次 の よ うな 問題 意識 が存 在 した。

辛 History Department,Cornell University. 現 住 所 :〒

5

6

2

箕面市粟生外院

2

4

4

-

1

箕面東 コーポラ ス

B-

4

1

7

(注) イ ン ドネシア語の綴 りは原則 として新綴 りを 採用 したが,固有名詞,文献表題,ならびに引用 部分は原文 (旧綴 りならびにオランダ式綴 り)に 従 った。

Japanesesetupgovernment-spoIISOredcooperatives called 丘umiat'whichweremodeled afterJapanese agriculturalcooperatives(no々γoo). Pamo7tgPraja

(civilservants)andvillagechiefsplayedanimpor -tantroleinimplementing thepolicy,which led to theunderminingoftheirprestigeamongthepeople・ ForcedDeliveryalsocausedasharpdeclineinthe peasants'welfare. Starvation spread and general livingconditionsdeterioratedsomuchthat丘nal】y,

in

1

9

4

4

,thedeathrateexceededthebirthrate. Thispaperdiscusseshow the Forced De]ivery System worked and its social, economlC, and politicaleffects.

1

94

0

年代 の イ ン ドネ シア社 会 は, 急 激 な政 治 的 変 化 と と もに, さま ざまな社 会 的変 容 を 体 験 した。 オ ラ ンダ植 民地 政権 の崩 壊, 日本 軍 に よ る 占領統 治, そ して独 立 戦 争 とい う激 動 の 中で, その 社 会 の既 成 の秩 序 の 多 くは挑 戦 を受 け, 動揺 し, かつ 変 容 して い った。 こ の時期 の歴 史 に関す る研 究 は, 最 初 , 民 族 独 立 革 命 - の 関心 とい う形 で始 ま った。 ケ - ヒ ン

(

Ka

hi

n)

1

9

5

2

年 に著 わ した,

Nat

z

l

o

na7

-2

'

s

m andRe

z

J

O

Z

ut

z

'

o

nz

'

nIndo

ne

2

'

a

[

9

]はその 代 表 的 な もので あ り, 彼 は この 中で, 対 オ ラ ンダ独 立 戦 争 の路 線 を め ぐって対立 す る

1

9

4

5

-

1

94

9

年 期 の イ ン ドネ シアの 中央 政界 の 動 き

7

7

(2)

東南 ア ジア研究 19巻1号 に焦点 を 当て て論 じて い る。 そ の後

1

960

年 代 に な って, 一 連 の地 方 史 が 登 場 して くるに伴 って, 各地 方 の イ ン ドネ シ ア社 会 が 内包 して いた民 族 内部 の さ ま ざ まな 亀裂 や対 立 の存 在 が注 目さ れ る よ う に な っ た。 そ の よ うな 中で, 革 命期 の歴 史 を 「民 族 レポルシ・ソシアノレ 革 命

とい う側 面 か らで は な く, 「社 会 革 命

(

r

e

vol

us

is

os

i

al

)

とい う視点 か らと らえ よ う とす る動 きが 出て きた ので あ る。 これ らの研 究 の 中で, 「社 会 革 命 」 と して 論 ぜ られ て い る現 象 は, 必 ず し も社 会 構 造 の根 本 的 な変 革 J<モ ン ・プ ラ ジヤ を 目指 す行 為 で はな く,地 方 行 政 官

(

pamong

pr

a

j

a

)1)に 代 表 され る よ うな 伝 統 的権 威 に 対 す る挑 戦 で あ る。 よ り具 体 的 に いえ ば, さま ざ ま な社 会 グル ープ に よ る, 地 方 行 政 官 や 区 長 のつ る し上 げ, パ ー ジ, 誘 拐, 殺害 な どの 行為 で あ る。 それ は, あ る時 に は, 新 興 の世 代 や社 会 グル ー プ に よ る挑 戦 と い う 形 を と り, また あ る場 合 に は, 地 方 エ リー ト間 の権 力 闘 争 的 な色 彩 を帯 びて いた。 ア ンダ ー ソ ン

(

Be

ne

di

c

tAnde

r

s

on)

は これ を, 新 しい価 値 プ ム ダ 観 と戦 闘 性 を 日本 時 代 に学 ん だ 急 進 的 青年 た ち に よ る 「プ ムダ主 義

(

pe

mudai

s

m)

の抵 抗 と い う側 面 か らと らえて い る。 そ して, その 代 表 的 な例 と して ス ラカル タ

(

Sur

akar

t

a)

の 社 会 革 命 を あ げて い る

[

1

]

しか しこの 「プ ム ダ主 義」 の現 われ方 は各地 方 で異 な り, た と キ7イ ・ウ ラマ え ばバ ンテ ン

(

Bant

e

n)

にお いて は,回教 指 導 1)直訳すればパモ ンは保護者,プ ラジャは国家と いう意味で,一 般 に は,県 長 (bupati),郡 長 (wedana),村長(camat)などの地方行政単位の 首長,副首長などを指す。ただ し,日本軍政期 には,さらにその下の 区長(lurah)もパモ ン ・ プ ラジャの中に含めて論 じられているので, こ こではそれに従 った。なお本稿においては,也 方行政官の役職名や地方行政単 位 の 名称 な ど は,日本軍政時代の正式な呼称に従 った。 とり わけ,村長 と区長の区別がまざ らわ しいが,前 者はonder-districtの最たるcamatのことであ ってデサ長 (lurah)ではない。 一方, 区長が こ のデサ長に当たるものである。

7

8

者 の封 建 支 配 層 に対 す る闘 争 とい う形 で, い わ ゆ る 「ア リラ ン」2)の 断 面 に沿 って 進行 した し, また テ ガ

ル (

Tegal

)

で は, ジ ャゴ

(

j

ago

, な らず者 的集 団 の リーダ ー) た ちが権 力 を握 った, とい う実 例 を もア ンダ ー ソ ンは指 摘 し て い る。 ス メ イル

(

John Snai

l

)

もまた,バ ン ドン

(

Bandung)

の社 会 史 に 関 す る 研 究

[

16

]

で, 「社 会 革 命」 と い う表 現 は使 って い な いが, 地 方 行 政 官 の誘 拐 や殺 害 と い う現 象 に触 れ て い る。 彼 は そ れ を, 多種 族 混合 的

(

mul

t

i

-e

t

hni

c

al

)

な性 格 を も ったバ ン ドンの青年 民 族 主 義者 が , ス ンダ 貴 族 の流 れ を くむ地 方 行 政 官 に対 して行 な った挑 戦 とみて い る。 また, ジ ャワの事 例 研 究 で はな いが, リー ド

(

Ant

honyRe

i

d)

は 北 ス マ トラや アチ ェの 「社 会 革 命」 に 関す る研 究 [31]の中 で, これ 杏, 回教 指 導 者 と封 建 支 配 層 との 問 の権 力 闘 争 とい う側 面 か らみ て い る。 この よ うに, 「社 会 革 命」 と総 称 され る事 象 につ いて の研 究 は, これ まで, 主 と して地 方 政 治 に お け る一 種 の権 力 闘 争 とい う視 点 か らと らえ られ, 問題 関心 は リーダ ー シ ップ の 分 析 や相 対 立 す る社 会 グル ー プ間 の文 化 的, イデ オ ロギ ー的亀 裂 の解 明 とい うよ うな点 に お か れ て きた。確 か に ジ ャ ワに お け る 「社 会 革 命」 の重 要 な要 素 と して, 地 方 エ リー ト間 の権 力 闘 争 とい う側 面 が あ った こと は否 め な 2)ジャワには,その価値観,生活様式,行動様式 などにおいてイスラムの浸透度が比較的強いサ プサ ントレン ン トリ(santri,もともと回教塾の学生 という意 味である)・グループと, それに対 してイスラ ムの比較的弱いアバ ンガ ン(abangan,も と も と 「赤 き人 々」 というほどの意味でサン トリ側 か らつけられた蔑称である)・グループ とが 存 在することが指摘 されている。 このそれぞれの 社会集団はア リラン(aliran,直訳すれば流れ) と呼ばれている。なお,アバ ンガ ン ・グループ の中には貴族的背景を もつ プ リヤイ(priyai)ら 含 まれてお り, しば しばそれを強調する意味で プ リヤイ-アバ ンガ ン ・グループと称 されるこ ともある。

(3)

倉沢 :ジ ャワの村落 におけ る社会変容 の一考 察 い。 しか し, 「社 会 革命」 に は同時 に, 支配 ラヤ ツ ト 者 に対す る大 衆

(

r

akyat

)

の抵抗 運 動 と して の 側面 もあ り,本 稿 にお け る筆者 の関心、は主 と して その側面 に向 け られて い る。 す なわ ち, 「大衆 が主権 を行使 す る

(

me

ndaul

at

)

」運 動 と して の 「社会 革命 」で あ り, その背後 に は, その ころ指導者 や大 衆 の問 で しば しば 口にさ クダ ウ ラタ ン ・ラヤ ツ ト

れた 「人 民 主 権

(

ke

daul

at

anr

akyat

)

とい う概 念 が あ った。3) 大衆 に と って これ は, む つ か しい政治学 的概 念 で はな く, 支配 者へ の 報 復 に正 当性 を賦与す るた めの一 種 の呪文 の よ うな性格 を もった言 葉 で あ っ た。 リー ド は, 「社会 革命 」 にお け る大 衆参 加 を指摘 し なが らも, これ を 「ェ リー ト間 の権 力闘争 の リバ ー カ ツ シ ヨ ン 村 落 にお け る 反 映 」 とい う観点 で と ら え て い るが

[

1

4:61

],果 た して その よ うな角 度 か らだ けで この運動 を理 解 して よいので あ ろ うか。 事実 この時期 の大 衆 に よ る運 動 の背 景 には回教指導 者 に よ る煽 動 が あ った り, また 除去 された区長 や地 方行 政官 の後任 に イス ラ ム系 の人物 が選 ばれ た よ うな例 が多 い ことは 確 かで あ る。 つ ま り, 「大衆

の 「支 配者」 に対す る闘 争 は, サ ン トリ対 プ リヤ イ -アバ ンガ ンとい う文 化 的対立 や, エ リー トの権 力 闘 争 の問題 と も切 り離せ な い形 で 出現 して い る ことは否 定 で きな い。 しか し, 純粋 に 「大 衆 」 レベルで みて ゆ くと, 「社会 革命 」 と呼 ばれ る現 象 の中 には, その よ うな側面 か らだ けで は理解 しきれ な い部分 が あ るよ うに思 わ れ る。 大 衆, と りわ け村 落社 会 の農 民 た ち が, この時期 に この よ うな形 で行 動 を と った 背 景 に は, 彼 らな りの主 体 的 な意思 や必 然性 が存在 した と考 え られ る。 オ ラ ンダ時代 に民 族主 義 政党 が あ らゆ る努 力 に もか か わ らず大 衆基盤 を もちえ なか った とい う事 実 は,上 か らの組 織 化以 上 に大 衆 の側 か らの 自発 性 が必 要 な ことを示 して い る

。1

9

4

0

年 代 後期 に, た とえ リーダ ー シ ップ と イデ オ ロギ ー

(

ke

dau-3)これに関しては [1:334]参照。

1

at

a

nr

akyat

)

が そ ろ った と して も,それだ け で農民 た ちが行 動 に出 る とい うことはな い。 ス コ ッ ト(

Ja

me

sSc

ot

t

)

の い うよ うに, 農民 は 「生 命 の維 持 に と って必要 な ぎ りぎ りの水 準

(

s

ubs

i

s

t

e

nc

el

e

ve

l

)

が脅 か され るま で は, た やす く立 ち上 が らな い もので あ る。4) そ れ で は, このサ ブ システ ンス ・レベルを割 るよ うな状 況 が,

1

9

4

0

年 代 の ジ ャワに は広 範 に存 在 した ので あ ろ うか ? その よ うに考 えて い った時 ,筆 者 は, 「社 会 革命」 の理解 に は,

1

9

40

年代 の ジ ャワ農民 を取 り巻 いて いた社 会経済 状 況 の実証 的解 明 が必要 で あ り, その た め に はまず, 日本 軍政 期 の経済 的収奪 とそれ に よ って もた らされ た 村 落社 会 の 変容 につ いて の考 察 が 必 要 で あ る, との認 識 に いた った もの で あ る。 日本 軍 に と って ジ ャワ占領 の最大 の 目的 は 資源 の確保 にあ った。 彼 らは, ジ ャワ島 に駐 屯 す る 日本軍将兵 ,軍 政要 員, 日本 人企 業 関 係者 の 自活 のた めの物 資 は もちろんの こと, 他 の南方 占領地 や前線 , あ るい は 日本 本 国向 けの物資 を もこ こで獲 得 す る ことを 目指 して いたので あ る。 中で も米穀 は, ジ ャワの住 民 に と って も, また 日本 軍 に と って も最 も重要 な食 糧 で あ り,双 方 に と って死 活 問題 で あ っ た。 ジ ャワは戦前 か ら多少 の米 の余 剰 を生 み だ して いたた め, 日本 当局 は これを,食 糧 不 足 の スマ トラ,海 軍支配地 区 (ス ラウ ェシ, カ リマ ンタ ン,東 イ ン ドネ シア方 面),シ ンガ ポ ール- の供給, お よびニ ューギ ニ ア戦 線 へ の補 給 に当て よ うと した ので あ る。 もち ろん それ を まか な うた めに は, 従来 か らの余 剰分 で は大 幅 に不足 で あ るた め, 強行手 段 に よ っ て大 量 の米 を農民 の手 か ら集 荷 す る ことが必 要 で あ った。 か くして米 は重要物 資 に指定 さ れて 当局 の厳 しい統 制下 におかれ, また集荷 の効 率 を高 め るた めに生 産者 に粗 の 強制 供 出 制度 が課 され たので あ った。本 稿 にお いて 目 4) [151参照。 79

(4)

東南 アジア研究 19巻1号 指 して い るの は, その よ うな状 況下 におかれ た ジ ャヮの農 民 の生活 に関す る社会 的経 済 的 考 察 で あ り, まず第 Ⅰ章 にお いて, 籾 供 出制 度 の実 態 を究 明 し, しか るの ちに第 Ⅱ章 にお いて その制度 が農 村社 会 に どの よ うな影響 を 与 えたか を検討 す る。 す なわ ちそれが, 農村 社会 にお いて,農 民 のHsubsistencesecurity"

を脅 かす よ うな構 造上 の変 化 を生 みだ し, 階 級 的対立 を激 化 させ るよ うな役 割 の一端 を担 った のか ど う か を 考 察せ ん と す る もので あ る。 さ らにまた, その よ うな軍 政期 の体 験 を 通 じて,既 成 の権 威 や秩序 に対 す る農民 た ち の意識 (perception)に何 らか の変 化 が生 じた か否 か につ いて も考 えて み た い。 軍 政期 の米 穀 問題 に関す る研究 は,主 と し て資 料 的 な制 約 の故 に困難 が多 く, これ まで の と ころ最 も遅 れ た分 野 の 一 つ と な っ て い る。 日本 軍政期 の米穀 政策 に関 して は, 日本 軍 の 降伏直 後 に イ ン ドネ シアへ入 ったオ ラ ン ダ人 の手 に よ って い くつか の調 査 が行 われ, その結 果 が,1946-1947年 期 の

Ec

o

no

mz

'

s

c

h

We

e

hb

Z

ad

TAeEc

o

no

mz

-

cRe

vi

e

z

e

,o

f

Zn-do

ne

2

.

a

な どの 雑 誌 に 発 表 され て い るが, い ずれ も数 ペ ー ジの簡単 な報 告程度 で あ り, あ ま り深 い分析 は 行 われて いな い

5

) しか し資 料 的価値 は非常 に高 い もので あ る。 その後, 1959年 に早稲 田大 学社 会科 学研 究所 が編纂 し た 『イ ン ドネ シアにお け る日本 軍政 の研究

「23]が, スバ ル ジ ョ (Soebardjo)の 報 告 書

[

41

]

6

)

な どを使 用 して米 に 関す る い くつ か の 興 味 あ る問題 を紹 介 して い る。 同 じ年 に, ジ

ョン ・サ ック- (John0.Sutter)が,

Zndo

-ne

3

'

am'

s

a

∫i:

Po

h'

1

2

'

C

∫i

.

naChan

gi

n

gEc

o

no

my

[19]の第 2章 で 日本軍 政期 の経 済 問題 を扱 っ て い るが, 残念 なが ら村 落経 済 や米 穀 政 策 な 5)たとえば【251,[26],[27]がある。 6)これは,スバルジョが海軍武官府の委託で ジャ ワの約60カ村を旅行 して行なった調査の報告書 であり,多 くの貴重な情報が含まれている。 80 どに関す る記 述 は多 くな い。 そ して それ以 後 軍 政期 の研究 は政 治史 的 ア プ ローチが主 流 を 占め,社 会 経済史 はあま り顧 み られ なか った。 その よ うな中で,1966年 にベ ネデ ィク ト・ア ンダ ー ソ ンが, 非常 に興 味深 い イ ン ドネ シア 語 資料 を英 訳 し,HProblem ofRice"と題 し て雑 誌

Zndo

ne

2

'

a

で紹介 した [24:77-123]。 これ は,米 穀 問題 を討議 した1945年 1月 8日 の参 与会議7)関係 資料 の一部 で, 前 半 が討 議 の参考 資料 と して提 出 された現状報告 書, 後 半 が討 議 内容 の速記録 と な って い る。8)ここ で は, 厳 しい統 制下 にあ った 当時 の新 聞や雑 誌 記事 な どに は出て こな い真 実 が あ りの まま に語 られ て お り, 非常 に貴 重 な資 料 の一つ で あ る。 ア ンダ ー ソ ンは翻 訳 の序文 にお いて, 軍 政期 の米 穀 問題 を究 明す る ことの重要 性 を 強調 して い るが, それ以 後今 日まで この種 の 研 究 はあ ま り行 われて いな い。 わず か に, ル ーカ ス(Lucas)が籾 の供 出制 度 に触 れ, それ に伴 うい くつ かの興 味深 い逸 話 を 関係 者 との 面 接 に基 づ いて紹介 して い る, とい った程 度 で あ る[30]。 本 稿 にお いて ほ, 以 上述 べ た よ うな これ ま で の研 究成果 に加 えて, 筆者 が オ ラ ン

, イ ギ リス, 日本 にお いて新 た に収集 した文献 を 使用 した。す なわ ち, オ ラ ンダ政府 各省 の文 7)インドネシア人政治参加の一環 として,軍政監 部の各部 (省に相当)に参与と称する顧問職が 設置され,高級官吏や民族主義者などの著名な インドネシア人がこの地位についた。この各部 の参与たちが集まって構成されたのが参与会議 で,一種の影の内閣的な性格をもって,軍政当 局の諮問に基づ く政策検討を行なった。 8)しか し,ここに訳出されている部分は,その一 部であるので,本稿では原文の文書をもあわせ て参照 した。なお,この原文はアムステルダム

の RijksinStituutvoorOorlogsdocumentatieと, --グの旧植民地文書館の双方に分散 して所蔵

されて い た。前者においてはR.Ⅴ.0.Indiscb Collectie,No.036626-036655に,また後者にお いては官房長官文書第1群 (ArchiervanAlge -meenSecretary,Eerst)[46]の中に見出される。

(5)

倉沢 :ジ ャワの村落 における社会 変杏cZJ ・考1g,l享 書 館 や ロ ン ドンの 公 文 書 館 (PublicRecord Ofhce)の文 書,な らび に,早稲 田大 学 の西嶋 コ レク シ ョンや ア ジア経 済研 究所 の岸 コ レク シ ョンな どで あ る。 なお, 視点 を ジ ャ ワに限定 したの は,第

1

に, イ ン ドネ シア社 会 の多様性 に鑑 み全地 域 を一様 に論ず る ことが ほ とん ど不 可能 なた め で あ り,さ らに第 2に,日本 の 占領下 で は,ジ ャワは他 の地域 か ら切 り離 されて単 -Lの行 政 単位 と して 陸軍 第16軍 の支 配 下 におか れ て い た とい う制度上 の理 由に もよ る もので あ る。

籾供 出制度 の概 要 ジ ャ ワの農村 は, その生 産 の大部 分 を水 稲 耕 作 に依 拠 して い る稲 作社会 で あ り, い うま で もな く米 は住 民 に と って最 も重 要 な主食 で あ る。9) オ ラ ンダ時代 末期 の統計 で は, ジ ャ ワの 「原住 民農 業」10)に使用 され て い る土地 約 800

haの うち, 水 田 は 42.5% に当た る 340

haを 占めて いた [5:3]。ジ ャ ワは,1936 9)軍政監部調査室が1943年にマラン州のタンマ ド ゥ区において行なった調査によれば,同区の各 階層の農民の主食中,米に依存する割合は次の とおりであった。 米 1日ひ とり当た 第1階層 り消費量 (2ha以上の 土 地 所 有) 66% 40

0g

第 Ⅱ階層 (1.500-1.999ha′ 〃 ) 56 300 第Ⅲ階層 (1.0-1・499ha 第Ⅳ階層 (0・5-0・999ha 第Ⅴ階層 (0・1-0.499ha 第 Ⅶ階層 (0・099ha以下 第Ⅶ階層 (ゼ ロ) 平均 // ) 67 360 〟 ) 65 290 〃 ) 62 270 〃 ) 51 240 51 220 60 320 これによれば,貧富の差を問わず,米-の依存 率は高 く,平均

6

0%であったoなお,それ(ここ次 いで玉萄黍への依存度が高 く,1日ひとり当た りの摂取量は平均 210gであった f21:65,146 -147

J

年以 前 には,需要 を満 たす ため毎年 若干 崖 の 米 を他 の東 南 ア ジア諸地 域 か ら輸入 して いた が, 1937年 以 降 1941年 ま で は 年平 均 850万 トン の籾 (水稲 +陸稲)を産 出 し 自給 が 可能 にな って いた [26:81]。農家 1戸 当た りの水 田耕 作面積 は他 の東 南 ア ジア諸地 域 に比 べて 小 さ く, 大 多数 が 0.5ha以 下 で あ る [36: 5]。11) また ラ トへル ズ(RtltgerS)に よれ ば, ジ ャワ農村 にお ける無 産農民 は農 村 人 口の約 37.8% を 占めて お り, これ らの者 は他 人 の土 地 を耕 作 した り, エステ ー トそ の他 の農 業 労 働者 と して働 いて いた [23:60]。 ジ ャワの産 米 は, 商 品作物 と して の性格 は少 な く, 生 産 物 の ほ とん ど (75%)が流通 機構 にの る こと な く村 落 内部 で消費 され て いた。12) オ ラ ンダ時代 の ジ ャワ農村 社会 の貧 困 につ いて は しば しば言及 され て い る。 当時, 農民 の 中に は播種期 まで に種籾 す ら食 べ つ くして しま って手 元 にな く, 米倉 (lumbung desa) や華僑 の金貸 し, その他 の金融機 関か ら種籾 を借 り入 れ て まか なわね ば な らな い者 が多 か った。 また,収 穫 時 まで の生 活を支 え る こと が で きず に, しば しば精 米業 者 や集荷 仲 買人 (tengklak)らの 「青 田買 い (i5on)」の犠 牲 に な る 者 も 多か った。 した が って, 収 穫 時 に は収穫物 は もはや生 産者 の もので はな くな っ て いた り, そ うで な い場 合 で も小 作料 (現物 柄) や借金 返済 に当て る と手 元 には何 も残 ら 10)なお, ここでいう 「原住民農業」 とは 「プラン テーション農業」に対 してオランダが使用 した 用語である。 ll)たとえば,下 ビルマのデルタ地帯では68.3%の 農家が 3.2ha以上の水田耕作者であるのと対照 的である。 12)ファン ・デル ・ギーセンによれば,オランダ時 代末期に商品として流通機構にのり,精米業者 によって精米 されていた米は全生産高の25%に も満たず,残 りの75%強はすべて農家で手鳴き され村内で消費されていた〔5:7]。これはたと えば,軍政当局者が常に政策決定の参考 として いた当時の日本の商品化率55.

7

%に比べてずっ と低いものであった。 81

(6)

東 南 ア ジア研 究 19巻1号 な い こと も多か った。 そ うな ると市 場 へ の 出 荷 はお ろか 自家 食糧 用や種籾 用 さえ不 足す る ことにな った。 そのた め に,再 び高 い借金 を して金 貸 しの手 か ら籾 の 「買 い もど し」 を し な けれ ば な らな くな る。 彼 らは この よ うな悪 循 環 の 中で借金奴隷 とな っ て い っ た の で あ る。 日本 軍 が ジ ャワ島へ進 攻 し, オ ラ ンダ軍 を 敗退 させ て 軍 政 を開始 し た の は1942年 の3 月 , ち ょうど雨 期稲 作 の収穫 期 が始 ま ろ うと して いた時 で あ った 。13)しか し, 当初 占領 軍 は治安 の回復 に忙 し く, と うて い本格 的 な経 済 政策 を始 動 させ る余 裕 な どなか った た め, この年 の雨 期稲 作 の収穫 に関 して は農 民 た ち は これ まで どお りの 自由を享受す る ことがで きた。14)この年 の収穫量 は,の ちに発 表 され た と ころによれ ば籾

8

,302,000トン (秩 ,水 稲 +陸稲) で, オ ラ ンダ時代末 期 の平 均 よ りわ ずか に少 ない程 度で あ った[25:81]。 日本 軍 が粗 の 引 き渡 しに関す る最初 の指 令 を発 した の は, ジ ャワ占領 か ら数 カ月 をへ て 13)雨期稲作は,かんがい設備が不備であった当時 のジャワにおいてほ,米の生産の大半を占めて おり,この収穫は,西ジャワで3月に開始する のを皮切 りに,徐々に中 ・東部でも始まり,坐 ジャワ的には5月が ピークである。日本軍がジ ャワを占領 したのは,この主たる収穫期が始ま ろうとしていた時であるが,以下に述べ るよう に,本格的な米穀集荷政策を開始 した8月まで には,新米に対 しては従来の方法に基づ く処理 が行われて しまっており,そのために生産者に 新たな負担が かかった。 なお, オランダ時代 末期の月別収穫量は下記の とお りで ある[34: 2109-2112]

O

1月 1.6% 2月 2.1 3月 5.2 4月 15.0 5月 28.0 6月 23.0 7月 9.8% 8月 4.7 9月 3.0 10月 2.8 11月 2.7 12月 2.1 14)1942年8月以前には,日本軍各部隊が独自に特 定の清米業者 (大多数が中国人)と契約を結び, 米を調達 していた。 82 か らの ことで あ った。す なわ ち 日本 本 土 か ら 軍 政要 員 が到 着 し,行 政機 構 と して軍政 監部 が開設 され, その下 に 食 糧管理 事務 所

(

S.

K.

Z.

)

1

5

)

が設 置 され た1942年

8

月 の ことで あ る。 この食糧管 理事務 所 が特別 会計 を得 て, ジ ャ ワ島 内の精米 業者 に命 じて軍 需交流 用 の籾 の 買 いつ けにの りだ した ので あ る。16) しか し, この ころはす で に端境 期 に入 って お り, 農家 の大 半 は もはや供 出す べ き手 も ち の 籾 が な く, 要 求 に応ず ることは非常 に 困 難 で あ っ た。 しか しこの ころはまだ籾 の 引 き渡 しを生 産者 に法 的 に強制す る処 置 は と ら れ て お ら ず, 買 いつ け は も っぱ ら精 米巣 者 の責 任 にお いて行 われた。 粗 の供 出が法文 化 され, 官 憲 の強 制力 を も って実施 され るよ うにな った の は, 1943年 3 月 に新米 穀年 度17)が始 ま って か らの こ と で

ある

。その実 施方 法 は,各 州 や県 に よ りさま ざまで あ った が, 基本 的 に は, 自家 食粗 用 お よび種 籾 用 を除 くすべ て の籾 を指 定 の精 米業 者 に引 き渡 す とい うもので あ った。18)しか し 「白家用

な らび に 「種籾 用 」 の基準 量 は, 15)食糧管理事務所は,その後1943年9月に重要物 資公団が設立された際にこの中 に吸 収 され た が,1944年4月に再び独立 して食糧管理局とな った([26:161],な らびに1980年3月4日,倉 敷 で の近藤重蔵 (元東部食糧管理事務所職員) とのインタビュー)。 なお, 本稿では以上のす べてを,食糧管理事務所と総称することにする。 16)1942年8月か ら1943年3月までの時期には,精 米業者は,食糧管理事務所から請け負った軍需 用米の買いつけと,自己の営業用の民需米の買 いつけとの2本立てで行なっていた。前者の場 合,100kgにつきfO.55の精米手数料をとり, 砕米やぬかは精米業者のものにすることができ●● た[26:162]。 当時ジャワには,551軒 (一説に よれば517軒)の精米業者があったが, これ ら はすべて米穀統制令 (のちに精米業組合連合会 と改名)の会員となって,食糧管理事務所の統 制を受けなければ営巣が許可されなかった。な お,精米業者の大多数は華僑であった0 17)オランダ時代の米穀年度をそのまま採用 して, 毎年4月か ら翌年3月までを1年 とした。 ′

(7)

倉沢 :ジャワの村落における社会変容の一考察 定 め られ て い な い 場 合 が 多 く,19)しか も現 実 に は多 くの 場 合 ま ず 供 出 量 が 当 局 か ら指 定 され , そ の 残 りで 必 要 な も の を ま か な う と い う仕 組 み に な って い た 。 つ ま り, ど れ だ け を 農 民 の 手 元 に残 す の か で は な く, どれ だ け を 農 民 か ら 取 り上 げ るか が まず 決 め られ た の で あ る。20) そ れ で は, 供 出割 り当 て 量 は ど の よ うな 方 法 で 決 定 さ れ , ど の く らい課 され た の で あ ろ うか 。 各 州 ご との 供 出高 揺, 毎 米 穀 年 度 ご と に食 糧 管 理 事 務 所 が 決 定 し, そ れ を 州 州 ・侯 地 ペ カ ロ ン ガ ン ス マ ラ ン ノヾ ア イ ケ ド ゥ

-ス ラ カ ル タ ノヾ ニ ュ マ ス ジ ョクジャカル タ 表1 籾 供 出 割 り 当 て 量 (単位 トン) F 1943/44 . 1944/45 F 1945/46 90,000 ; 88,000(21・6%) 64,000 : 78,000(24.3%) 56,000 48,000(19.3%) 120,000(33.6%) 100,000(35.7% ) 60,000(27.6%) 40,

0

0

0

44,000(14・0

%

)

1

49

,

000(17.8%) 20,.00 14,400(ll.3%)t 25,..0(22.3%) ( )内の数字 は,供 出割 り当て量が各州の生産高 に占めるパ ーセ ンテ一一ジを示 した ものであ るが, これは筆者 の算定 によるもので あ り,それは次 のよ うな方法 によ った。 まず,軍政期 の各州別 の籾生 産高 に関す るデ ータがないために,771dischVer∫Fag1940[22]に掲 載 された1939年度の統計 と,1946年 に発表 された [25:811軍政期 の ジャワ全体 の生産高を利用 して, これを推定 した。後者 によれば, ジャワ全体 の生産高 は,1939年 に比べて1944/45年度 は20%減,1945 年度 は30%減で あったので,その割合 に従 って1944年 ,1945年 の州 別生産高を計算 し,表 1に示 した州別供 出割 り当てがそれ に占める 割合を算 出 した ものであ る。 長 官 に通 告 した 。 そ の 量 は各 州 の 実 状 に応 じて 決 定 され た の で 州 問 で 大 き な 差 が あ った.21) た と え ば 中 部 ジ ャ ワ 各 州 18) これに関 しては以下 の法令 にお い て 定 め られ た 。 プ リア ンガ ン州 布告 「籾 ・精米 ノ販 売 ニ ッ イ テ」1943年 5月7日付 ペカ ロンガ ン州令第 4号 「籾 二関スル件」1943 年7月14日付 バ - ユマス州令第 1号 「籾及 米 穀 統 制 規 則」 1943年11月18日付 バ ンテ ン州令第 1号 「米穀其 ノ他重要食糧農産 物統制規

」1944年 2月 4日付 ス ラカル タ侯地事務局令第 1号 「籾 ノ供 出二関 スル件」1944年 3月付 なお,本稿で使用 した法令 はすべて, ジャワ軍 政監部発行 の邦語 『官報』 [6]な らびに イン ド ネ シア語 のKanPo[8]か ら引用 した。 19) 自家食糧用 と種籾用の基準量を 定 め て い る の は,前掲 のスラカル タ侯地事務局令第 1号のみ で, これ によれば, 自家食糧用粗 はひとり当た り年間 100kg (約50kgの米 に相 当), また種 籾用 は 1ha当た り75kgを 超えてはな らな い と述べ られている。1940年 におけるジャワ ・マ ドゥラにおける米の年間消費量 は 87kgであ っ た [27:123]のに比べて非常 に少 ない。 しか も, ここに定 めてあるのは上限で あ って,実際 には ス ラカル タの農民が これだ けの籾.を確保で きた とい う保証 はない。 に お け る籾 割 り当 て 量 は表 1の よ うで あ った [26:163]。 これ に よ れ ば, 1944/45年 度 の 供 出割 り当 て は, 生 産 高 の 15% な い し25% (辛 均 17.6% ), ま た 1945/46年 度 は 20% な い し

3

5

% (平 均

2

7.

6%)

程 度 で あ った。22) 以 上 は州 レベ ル で の平 均 値 で あ るが, そ れ で は州 以 下 に は ど の よ うな形 で 割 り当 て が 配 分 され た の で あ ろ うか 。 州 ご と の 供 出割 り当 て 量 を 食 糧 管 理 事 務 所 か ら通 告 され た 州 庁 経 済 部 は, 州 内 の 各 県 長 を 集 め て 協 議 の 上各 県 20) スコ ッ トは 「農民 にとって大 切な ことは, 自分 が生産 した ものの うちどれだ けが取 り上 げ られ るかではな く,どれだけが手元 に残 され るか と い うことで あ り,生存を維持す る最低限の もの が残 されて いさえすれば,彼 らは精神的に安定 感を感 じてい られ る」 と述べて いる

[

1

5

1

21)1942年か ら1943年 まで,食糧管理事務所 のボ ン ドオ ソ (ブスキ州)出張所長 と して籾の集荷 に たず さわ っていた近藤重蔵氏 によれば,東部管 内で は,ブスキ州のよ うな穀倉地帯 に対す る割 り当て は非常 に大 きか った一方 ,ポジ ョネゴロ のよ うな貧 しい州 (これを 日本人関係者 はポ ロ ネゴロと呼んで馬鹿 に していた)か らはほ とん ど要求 しなか った とい う (同氏 とのイ ンタビュ ーな らびに [28:14])0 83

(8)

東 南 ア ジア研 究 19巻 1号

の分 担額 を決 定 した。つ いで同様 の方法 で,

デ サ

那 (kewedanaan),村 (kecamatan),区(desa)

の各 レベ ルで の分 担額 が決定 された 。す なわ ち, 当局 か らの正規 の割 り当て は生 産者 個 々 ルラ・一 人 に対 して で はな く区単 位 で課 され, 区長 に すべ て の責任 が課 され た。23) この よ うに して区 レベル まで の分担 額 が決 定 され た の ち, 最終 的 に は区 長 の裁 量 に よ っ て各農 家 当た りの負担額 が決 定 され, 隣組 長 な どを通 じて通 達 した。 しか し,伝 達 が州庁 か ら区役 場 まで お りて くる問 に行 政 単位 の各 レベル にお いて, あ らか じめ集 荷 の 困難 を み こ して 「水 増 し」が行 われ た ら し く,生 産者 の レベル に達す るまで に は, 供 出率 は一般 に最 初 州 レベルで定 め られた もの よ り高 くな って いた。現 実 に どの くらいの籾 が農 民 の手 か ら 奪 われて い ったか を知 る ことは非常 に重 要 で あ るので, 以 下少 し詳細 に検討 して み よ う。 スバ ル ジ ョが 行 な っ た 調査報 告書 に よれ ば,彼 の調査地 域 の場合 ,各 農家 の供 出量 は 収 穫物 の

1

0

-3

0

%

で, 一 般 に土地 の等 級 や耕 作規 模 に無 関係 に一様 に課 されて いた。 その 結 果 「大 土地 所 有者 は自家用 米 を残 す ことが で き るが,小 農 の手 元 に はほ とん ど何 も残 ら ず, 多 くの場合 供 出 は非常 に苛 酷 で あ る」 と 報 告書 は判 断 して い る

[

41:

5

]

。 次 に,軍 政 監部 調査室 が,

1

9

43

7

月 か ら

1

0

月 の 問 に マ ラ ン(Malang)州 シ ン ゴ サ リ

(Singosari)郡 の タ シマ ドゥ (Tasikmadu)区

2

2

)1

9

4

5

1

月の参与会議に提出された報告書によ れば,1944/45年度の各州の供出割 り当ては,お おむね

1

5

% (たとえばプ リアンガン州,ケ ドゥ -州)か ら

2

5

% (たとえばバ ンテン州,バニュ マス州)であったといい,表1の計算の結果と ほぼ一致 している。なお同 レポー トはパティ州 の

5

6

.

6

% (

1

7

0

,

0

0

0

トン)という異常に高い供出 率を報告 しているが,これは

2

6

]

に引用された 数字と食い違 っており真湿性に も疑 問が あ る

[

4

6:

XXV-

2

6

]

0

2

3

)

これは,昭和

1

8

1

0

月の 「米穀管理要綱」にお いて定められた,日本国内における供出の割 り 当て方法と基本的に同 じである

。[

2

0:

9

0

1参渦。

8

4

で行 な った農村 実 態 調査報 告書 に よれ ば, 同 区 の供 出割 り当て状 況 はIZZl下 の ごと くで あ っ た[21bid.:

56

→57

1。す なわ ち

,1

94

3

3

月 段 階 で は, 強制 は比 較 的 ゆ る く, そ の土地 の地 租 嶺 を

o.

0

3

24)で割 った数 字 を供 出額 (単 位kg) と して いた。 た とえ ば, 地 租額

r24.

00

の者 は,

24.

00÷0.

03-800

kgの 籾 を 供 出す る こ とにな る。 しか し, この方 法 は実際 に はあ ま り厳 密 に実施 されて お らず, 区長 の判 断や情 実 に よ り一部 が免 除 され る例 も多 か った とい う。 しか し, これで は集 荷率 が低 くな った た め に,

19

4

3

9

月以 降 は, 種籾 用 と

1

週 間 分 の 自家食 糧 用 を 除 くすべ て を供 出す る ことが 県 長 よ り厳 命 された。 しか るの ちに, この区 の場合 あ らた めて米 の配 給 が区長 を通 じて行 われ た が, その量 は

1

日ひ と り当た りわず か

20

gで, これ は従来 消費 して いた

1

400

g の

5%

にす ぎなか った。 これ に対 して, ボ ゴ ール (Bogor)州 や ジ ャ カル タ(Jakarta)州 で は,

1

9

45

年 度 か ら生 産 者 の耕作 面積 に応 じて収 量 の一定 パ ーセ ン ト を供 出す る制度 が導入 され た。25)参 与会 議 に 提 出 され た レポ ー トによれ ば, ボゴ ール

の 場合 ,

1

94

5

年 度 の割 り当て は次 の とお りで あ った

[

2

4:88

-89;46

]

Ⅰ. 自 ら耕作 す る者 の場合 耕 作面積

lha

以 下

40

%

1

-3ha

50

%

2

4

)0

.

0

3

という数字は籾

1

kg当た りの価格に相当 する,と同報告書は述べている。 しか し,現実 の公定価格は

1

9

4

3

年度においては

f

O

.

0

3

6

であ った。 計算の便宜上

0

.

0

3

にしたのか, あるい はその区で集荷人が実際に買いっ け る価 格 は

f

O

.

0

3

であったということなのかもしれない。

2

5

)

これが,供出畳は個人に対 してではな く行政単 位に対 して課されるという基本原則の変更を意 味するのかどうかは定かではない。おそらくそ うではな くて,これは区長が個人に割 り当てる 際の参考として示 した基準量とみる方が妥当の ようにも思われる。いずれにせよ,このような 供出量の課 し方は

1

9

4

5

年になってみ られた新 し い方式である。

(9)

倉 沢 :ジ ャワの 村落 に お け る社 会 変 容 の 一考 察 3-5ha 60

%

5ha以上 75% Ⅱ.自 ら耕 作 しな いが 生 産物 の 分 配 に あ ず か る者 の 場 合 a.田を ボ ゴ ール州 内 に も って お り, 自 ら は州 内 の農 村 部 に居 住 して い る者 -- 彼 の取 り分 の90%

b.

田を ボ ゴ ール 州 内 に も って お り, 自 ら は ボ ゴ ール市 に居 住 して い る者 一 一彼 の 取 り分 の95% C . 田 を ボ ゴ ール 州 内 に も って い るが , 自 らは州 外 に居 住 して い る者 - 彼 の取 り 分 の100

%

Ⅲ. 小 作 人 の 場 合 自分 の取 り分 に 対 し, Ⅰに準 ず る割 り当 て量 を 課 す ジ ャカ ル タ州 の場 合 は,1945年 3月 15日付 の州 告 示 第

3

号 「昭和20年 度 水 稲 並 二 陸 稲 籾 ノ 政府 二対 スル販 売 州 一 方バ ンテ ン州 の 場 合 は, 耕 作 面 積 に関係 な く収 穫 の3分 の 2を 供 出す る こ とに な って いた。 た だ し小 作 人 は この 限 りで は な く, 収 穫 の

6

分 の 1を 自家 保 有 す る こ と が 許 さ れ た 。一 方, 地 主 は 自分 の取 り分 を す べ て 供 出 せ ね ば な らな か った [24:89-90]。 以 上 が,州 レベ ル か ら生 産者 レベ ル に い た る まで の 供 出割 り当 て 状 況 で あ る。 そ れ で は, い った い そ の う ち どれ だ けの数 量 が現 実 に供 出 され た の で あ ろ うか ?す な わ ち集 荷 率 は どの く らい だ った の で あ ろ うか ? 表 2は, 米 穀 統 制 会 の統 計 に よ る中部 ジ ャ ワ各 州 の集 荷 量 と, それ を前 出 の表 1の 供 出 蓑 2 籾集荷 量 とそ の割り当て額 に対する達成率 (集 荷 率 ) 1943.4月 -1944.3月 集 荷 量 (トン) 1 ケ ド ゥ -ス ラ カ ノレ ク 30,0

2

3

8,6

0

6

ジョクジャカル タ ; 7,489 1 三三 三 二三 L _____≡ 計 !204,999 数 量 」 に お いて , 1945/46年 度 の供 出量 が 次 の よ うに 定 め られ た。 Ⅰ. 私 儀 地 管 理 公 社 管 理 地 以 外 1.耕 作 面 積 0.5ha未 満

2.

0.5ha以上 5ha未満 3. 5ha以 上 10ha未 満

4.

10ha以上 20ha未満 5. 20ha以 上 %

%

%

%

%

0

0

0

0

uU

3

4

5

6

6

Ⅱ.私 領 地 管 理 公 社 管 理 地 チ ユ ケ 賦 課粗 (〔uke)の 150%

. 小 作 地 二於 ケ ル地 主 小 作 人 ノ供 出責 任 割 合 - 夫 々籾 取 得 割 合 二準 ズ。 地 主 二非 ザ ル モ収 穫 粗 ノ取 得 二付 権 利 ヲ有 スル モ ノ アル トキ亦 右 二準 ズ 集荷率 % 1944.4月-194 5.3月 嚢.宿竃 (トン) …5:;2日 35;

8

:

50.0! 32,

2

1

8

2

1・5; 44・

0

8

7

3

7.4j 13,

2

9

0

1 1 194

5

.

4 月 -9月 褒 亮一豆

%

」 (トン) 1

9

1.1:

6

1,578

6

4,319

2

2,320 60.Oi 17,464

9

8.4: 37,073 92.3i 9,336 1

2

1,362 82.0 ∼233,452

蓑 3

1944年度4-10月の籾集荷率集荷率 , L70 51.3 64.3 37.2 21.8 75.7 37.3 27.4 46.0 ケ ド ゥ - 州 43.4% ク デ ィ リ 州 と 82・7% マデ ィ ウ ン州 . 109・5% ポジ ョネゴロ州 r 29.0% マ ラ ン 州 Ⅰ 75・0% ブ ス キ 州 ボ ゴ ー ル 州 プ リア ンガ ン州 40-45% スマラン州,ケ ドゥ-州 の集荷率が表2と食 い 違 っているのは,衰 2は翌年3月 までの1カ年 間の合計集荷量か ら割 り出されたのに対 して, 表3は4月か ら10月 までの中間報告の数値であ るためである。 したがって,表3のパ ーセ ンテ ージは実際よ りい くぶん低 くな っている。 85

(10)

東南 アジア研究 19巻1号

表 4 ブ ス キ 州 に お け る集 荷 状 況*

丁 頑高

す雪

Bondowoso県**

Bondowoso郡 Jamaran郡 Wonosari郡 Pradjekan郡 Panaroekan県 Sitoebondo郡 Panaroekan郡 Soemberwaroe郡 Besoeki郡 Banjoewangi県 Banjoewangi 郡 Rogodjampi郡 Blambangan郡 Bangoredjo郡 Djember県

Dj

e

mber郡

Ma

jang郡 Kalisat郡 Rambipoedji

W oeloehan郡 Poeger郡 Tanggoel郡 計 て 量 1

1

0月までの集荷量 __..(トン ) 46,333.0 (46,332.8) 12,105.0 14,616.2 14,938.6 4,673.0 27,027.0 (27,027.08) 7,638.4 5,969.18 4,055.0 9,364.5 158,025.0 (128,025.0) 13,000.0 40,238.0 54,000.0 20,787.0 150,579.0 16,500.0 10,000.0 20,000.0 21,000.0 21,600.0 35,579.0 25,900.0 381,

9

6

4.0 (351,963.8) 31,711.2795 7,424.1375 10,112.623 ll,088.871 3,085.648 21,236.956 8,301.620 4,983.486 2,639.667 5,312.183 93,098.475 (78,949.2625) 6,406.2925 13,488.761 42,558.847 16,495.362 112,633.09

(

112,573.18) 9,652.5 6,940.0 13,380.0 17,850.0 18,622.4 28,320.88 17,767.4 258,679.8

(

244,470.678) tHr H一 7 5 1 7 9 7 3 5 8 4 8 3 5 6 8 1 9 3 8 9 0 (M V 6 5 5 6 4 3 7 7 1 ( 74.8 58.5 69.4 66.9 85.0 86.4 79.6 68.6 *この表の数字のうち,()内

は原

調査 の集 計 ミスを

正したもの。 **地方名は原文のまま旧 綴りを

使用

した。 割 り当 て 量 で割 って 算 出 した集 荷 率 で あ る。 また表 3は, 参 与 会 議 レポ ー トが 報 告 して い る九 つ の州 の集 荷 率 (1944年4月 か ら10月 ま で) で あ る。 さ らに表 4は, そ の 9州 中 ブ ス キ州 の各 郡 に お け る集 荷 状 況 を示 した もの で あ る[46]。26) 以 上 の デ ー タか ら分 か る こ と は, 第 1に, 26)この統計は,参与会議の討論資料 として収集 さ れた ものであるが,1944年1月8日の参与会議 討論 (ア ンダーソン訳出部分)には提出されな か った 。 86 集 荷 率 は1943/44年 度 よ り も 1944/45年 度 の方 が は る か に 高 くな って い る こ とで あ る。 この間 に, 集 荷 の効 率 を高 め るた め に何 らか の制 度 あ る い は方 法 が導 入 され た り, 宣 伝 活 動 が 強 化 され た た め で あ ろ う 。 第 2に, 集 荷 率 は地 域 に よ って格 差 が大 きか った とい う ことで あ る。 た と え ば 表

3

9

州 の 場 合 を 比 較 す る と, 最 高 の マデ ィ ウ ン(M adiun) 州 (109.5% )か ら, 最 低 の ポ ジ ョネ ゴ ロ (Bojor]egoro)州 (29.0% ) まで 大 きな差 が あ る。 一 つ に は, これ は取 り立 て に当 た った地 方 行 政 官 や農 業 組 合 (後 述 ) が行 使 した 強 制 力 の差 に よ る もの と思 わ れ る。 それ ぞ れ の地 域 で 採 用 さ れ た集 荷 方 法 , 特 に強 制 執 行 の方 法 な ど と集 荷 率 との 関係 は今 後 解 明す る必 要 が あ るだ ろ う。 さ らに,地 域 に よ る集 荷 率 の差 は, 不 正 申告 が原 因 に な って い る ことが考 え られ る。 す な わ ち, 統 計 上 の集 荷 率 の低 い地 域 の場 合 , 現 実 に は も っと多 く集 荷 して い る に もか か わ らず, 関 係 者 が そ の一 部 を 隠匿 して少 な い数 字 を報 告 して い る こ と も考 え られ る。 これ らのデ ー タが示 して い る第 3の興 味深 い事 実 は, 集 荷 率 が100%を越 え て い る, す な わ ち割 り当て量 以 上 に供 出 して い る地 域 が あ る と い う ことで あ る。 これ は表

3

の マデ ィ ウ ン州 (109・5% )と, 表4の ブス キ(Besuk

i

)

シ トゥボ ン ド(situbondo)郡

(

108.

7

%)

に お いて み られ る。 表 4に は掲 載 で きな か った

(11)

倉沢 :ジ ャワの村落 にお ける社 会変容 の一考察 が, シ トゥボ ン ド郡 内の 内訳 をみ る と, シ ト ゥボ ン ド村

1

62.

4

%

, パ ンジ

(

Panj

i

)

111・

1

% , カ ボ ンガ ン

(

Kapongan)

90・

8

% ,. マ ン ガ ラ ン

(

Mangar

an)

10

3・

8

% とな って お り, 郡 内の どの村 で も平 均 して高 い集 荷率 を示 し て い る。 この現象 はどの よ うに説 明で き るで あ ろ うか。考 え られ る一 つ の可能 性 は,集 荷 に関与 した地 方行 政官 が必要 量以 上 を生 産者 か ら収奪 して余剰 分 を楼 蘭 しよ うと したが, 何 らか の事情 で これ を政府 に 申告 す るはめ に な った とい うことで あ る。 第2に,地方 行政 官 が 自分 の点 数稼 ぎのた めに,生 産者 に大 き な負 担 を課 した とい う可能 性 で あ る。 そ の場 チ ヤ マ ツ ト 合, 郡下 の各村 長 が足並 みを そ ろえて同 じこ とを した と い う点 が興 味深 い。 また 第 3に は,集 荷 のむつ か しさを見 こ して あ らか じめ 供 出量 を水増 しして割 り当て た と ころ, 予想 外 に大 量 に集 荷 で きた とい う可能性 もあ る。 さ らに第 4に, 地 方 行政 官 や精 米業者 の意思 と は無 関係 に,上 級行政 当局 によ って この郡 が一 斉捜 査 を受 けて 隠匿籾 が多数発 見 され没 収 され た とい う可能 性 も考 え られ る。27) と ころで,表2- 4の統 計 は いずれ も, 精 米業 者 の組合 を通 じて食糧 管理 の大 元締 めで あ る食 糧管理 事務 所 へ提 出 された報 告 に基 づ くもので あ るが, これ は必 ず しも生 産者 が実 際 に供 出 した実 数 とは一致 して いな い。.む し ろ, ほ とん どの場合 その実 数 を下 まわ って い る と考 え られ る。 とい うの は,籾 が生 産者 の 手 を離 れて か ら食糧管 理事 務 所 - の報告 書 に 載 るまで の問 に, 集 荷 の あ らゆ る レベル にお いて不 正 や横 領 が行 われて いた事 実 が,各 種 の文 献 に述 べ られ て い るか らで あ る。 生 産者 が実 際 に供 出 した量 と, 最終 的 に帳簿 に記入 された量 との違 い は, ほ ぼ次 の よ うに して生

2

7

)

割 り当て額が初めか ら低すぎたということも理 論的には考えられるが,たとえそうであったと しても,生産者が必要以上の量を進んで供出し たとは考えられない。 じた。 まず, 計量 の基 準 はす べ て 完 全 乾 燥

(

ke

r

i

ngmat

i

)

の稲 穂 あ るい は籾 とい うことに な って い るが,集 荷人 は籾 が十 分 乾煉 して い な い ことを理 由 に不 当に重 量 を 低 く見 積 っ た。28)た とえ ば生 産者Aが十 分 乾燥 させ て も って い った

1

00kg

の稲 穂 が,湿 って い る と い う理 由で

70kg

に しか査定 され な い とい う よ うな ことが しば しば あ った。 次 に, 集荷 業者 が精米 所 に運 ぶ まで の問 に 生 じた損 失 はす べ て生 産者 の責任 にな った。 た とえば

70kg

と 査定 された 上 記 の

A

の 稲 穂 の うち,

10kg

が途 中で盗 まれ た り腐 敗 し た場合, 帳簿 上 はAは

60kg

しか供 出 しなか った とい う扱 いにな る。 なぜ な ら, 正式 には 精米 所渡 しの量 がすべ て の統 計 の基 準 にな る か らで あ る。 次 に, こ う して精 米所 -達 した 米 が,今 度 は精米 業者 の不 正 申告 で 当局 に は 実 際量 を下 まわ った数値 が報告 され る ことが あ る。 スマ ラ ン

(

Se

mar

ang)

州 で は, 精 米 業 者 が生 産者 か ら籾 を受 け取 った段階 で, 区長 に対 して受 領書 を発 行 す る。 これ を集 計 す れ ば, 区長 はその区 の供 出総 額 を正確 に把握 す る ことがで きた わ けで あ る。 果 た して,精 米 所 が食糧管 理事務 所 に報告 した数 字 と, 区長 の手 元 にあ る数 字 が食 い違 って い る ことが し ば しば あ った とい う。 た とえば あ る県 で 8カ 月 間 に

160,0

00

キ ンクル (

1

キ ンクル

-100

kg)

が い くつ か の精米 業 者 に販売 され たが, 業 者 か ら食 糧 管理 事務 所 に 申 告 さ れ た 額 は

1

10,000

キ ンクル で あ った。 ま た プ マ ラ ン

(

Pe

mal

ang)

県 で は,

1

カ月 間 に

10,

842

キ ン クル を供 出 した はず なの に, 業者 の 申告 に よ 28)稲穂は収穫時に平均24%の湿気を含んでお り, 精米の前にこれを乾燥させなければならない 。 現在インドネシアでは一般 に未乾燥稲穂

1

0

0

に 対する乾燥籾 (村落で乾燥 されたもの)の重皇 換算は65と定められている

[

1

2:1

0

9

]

。 軍政当時はこのような明確な基準 も定められて お らず,農民にとって不利な換算率が しば しば 採用された0

8

7

(12)

東 南 ア ジア研 究 19巻 1号 れ ば

7

,

8

5

6

キ ンクル の みで あ った

[

24:

9

5

]。 この よ うな不正 も, も し地 方 行 政官 と精 米 業 者 が結 託 して しまえ ば, 摘発 はほ とん ど不 可 能 で あ る。確 か に この よ うな不 正 を防止 す る た め に, 当局 は イ ン ドネ シア人 の視 察官 を お いて いた が, これ は全 ジ ャワで7人 しか お ら ず, ほ とん ど機 能 を果 たせ なか った [36:1]。 また, 一 定 量以上 の籾 の隠匿 を摘発 す るた め に, 特 別 警 察(Polisilstimewa)に よ って特定 地 域 の一斉 手入 れ が行 われ る こ と も あ っ た が, 警 察 も人手 不 足 で,全 域 にお いて実施 す る ことはで きなか った。 元 マ ラ ン州 治 安部 長 に よれ ば, 治安 当局 は通敵行 為 の摘発 や反 日 政 治活 動 の弾圧 にむ しろ重点 を お いて いたた め, 経 済 的取 り締 りは二次 的 にな った。29) この よ うに集 荷過 程 にお いて は各 種 の不 正 や横領 が容 易で あ った一方 , 生 産者 に対 す る 監視 や 強 制 は厳 しか ったた め, 権 力 の な い一 般 の農 民 に は逃 れ るす べ が なか った。 た とえ ば,一 部 の地 域 にお いて は, 収 穫 時 に生 産者 が収量 を ごまか さな い よ うに籾 収 量査定 委 員 会 が編 成 され た。 ジ ャカル タ

の場合 , 法 令 に よ って この設 置が定 め られ, 各村 ごとに村 長 を長 と して作 られ,村長 の指 名す る者

1

0

人 以 内が委 員 と して各 区 に配 属 され て いた。30) また, それ を補 佐 す るよ うな形 で 隣組 が利 用 され た。31)当時 の新 聞 を み ると, しば しば隣 組 が籾 の 引 き渡 しにお いて果 たす べ き役割 が 論ぜ られ て い る。 た とえ ば,

1

9

4

4

7

1

4

日 付 の ジ ャカル タ発 行 の 中央紙

As

i

aR

a

[

4

4

]

,

r

隣組 が籾 の 引 き渡 しの完全 実施 を援 助す るよ う望 ん で い る」 とい うサ ラテ ィガ(Sala -29)元マラン州治安部長門司恵行氏 とのインタビュ ー (1980年2月18日,大阪にて)0 30)ジャカルタ州 告示 第 3号 (1945年3月15日付) 【6]。 31)隣組 とは,日本本国のそれをまねて1944年1月 にジャワに導入 された制度で,10.-20戸をもっ て1単位とした。また組長は区長の指名によっ た。 88

t

i

ga

)

市 長 の ア ピール を 載 せ て い る。 隣組 に は連帯 責 任 が課 され たた め, 組 員 同志 で牽 制 しあ うよ うな傾 向 もみ られ た。 た とえ ば農民 た ちは, 供 出を少 しで も免 れ るた め に, しば しば夜間 に こ っそ り稲 を刈 った が, 隣組 の訴 えで 当局 に知 られ て しま うよ うな こと もあ っ た 。 生 産者 か らの粗 の集 荷 を よ り徹底 させ るた め に導 入 され た もう一つ の組 織 は, 農 家 の全 員加 盟 制 の農業 組合 (地 域 に よ って は農 産物 集荷 組合 ) で あ る。軍 政初期 に は, 生 産者 と 精 米 業 者 との間 に は従来 か らの仲 買人 が介 在 し, 直 接税 の集 荷 に 当た って いたが,

1

9

4

4

年 4月 に 「ジ ャワ住 民経 済新 体 制

が発 足 して 農 業組合 が導入 されて か らは, これが集 荷業 務 を肩代 りす るよ うにな った。32) これ は,村 長 その 他 の 村 役 人 を 長 と して 村 単 位 で 作 ら れ, 地 方 行 政組 織 と密 接 なつ なが りを も って いた官製 組 織 で あ る。 す なわ ち, この 組 合 にお いて も権 力 を担 ったの は地 方 行 政 官 だ っ た。 当局 に よ る, 供 出促 進 のた めの努 力 は, そ の よ うな制 度 的側 面 か ら行 われ ただ けで はな い。 そ の一 方 で, 供 出 に対 す る農 民 の 意欲 を 鼓 舞す るた めの宣伝 活 動が, さま ざまな手 段 を使 って行 われた。 た とえば, ノル マを達 成 した区 に報 奨 を授 与 し, それ を新 聞, ラジオ な どで大 々的 に報 道 した り して農 民 た ちの競 争心 を煽 った。 さ らに,籾 供 出の 「意 義」 を 徹 底 させ るた め に, 懇 談会 ,大 衆集会 ,地 方 32)1944年4月29日に発表 された 「ジャワ住民経済 新体制」要項の中で,基本5項 目の一つとして 「住民経済協同団体の培養」が提唱され,これ 以来本格的に組合設立に着手 した[23:579]。 組合の設立と組織に関 しては以下の法令を参鷹 されたい。チレボン州告示第2号 「チ レボン州 農業組合規程」(1944年6月15日付)[6]。なお, アン トン ・ルーカスは,集荷を担当した 「農事 パディ(NojiPadi)」なる役職について触れてい るが,これと農業組合役員が同 じものであるか どうかは定かではない[30:95]。

(13)

倉沢 :ジ ャワの村落 にお ける社会変容の一考 察 キ ア イ 行 政官 や 回教 教 師(kiyai)の講 習会,紙 芝居, ワ ヤ ン 影絵, 映画 な どを通 じて宣撫 工 作 を 展 開 し た。 そ して そのた め に, 宣伝 部 は もち ろん の こと,軍 政 監部 産業部,宗務 部 な どの官庁 が バ リサン ・ 主導権 を と り, その下 で ジ ャワ奉 公会, 奉公 プ ロポ ー ル

推進隊(BarisanPelopor),青年 団,婦人会 な どの大 衆組 織 が大規 模 に動員 され た。 そ の よ うな宣伝 活動 の 中で も最 も大 がか り だ ったの は,

1

9

4

5

4

月 に始 ま った 「籾 供 出 運 動 (GcrakanPenjerahanPadi)」で あ る。 これ は, ジ ャワ奉公会 が 音頭 を と り, これ に 宣伝 部,宗務部, 産業部 が協 力す る形 を と っ た もので あ った。 この道 動 の基本 的 目標 は次 の6点 にあ った。 1

.

「社会 の共 栄 のた め に」農民 が進 んで政 府に籾 を販売す るよ う奨 励す る。 2.籾 供 出に関 して農民 の 自覚 を高 め る。 3.籾 の輸送状 況 を改善す る。 4.農 民 と精米業者 との間 の業務 を 円滑 にす る。 5.増産 につ とめ る。

6.

都 市 の消費者 は, た とえ配 給 が少 な くと も闇販売規 制 に従 い,農 民 に感 謝 の意を 表 す るよ う指導 す る。 そ して以 上 のた めの具体 的 な手段 と して は, 次 の よ うな ことが提案 され た。 1.ジ ャワ奉公会 の本 部 か ら区 に いた るまで の各 レベルで, 籾 供 出 委 員 会 (Ⅰ'anitia PeIづerahanPadi)を設 置 し, 奉公会 長, 奉公 推進 隊長,婦人 会代表,精米業組合 代 表, 関係 官庁 の官吏 らに よ って これ を 構成 す る。

2.

奉公会代 表 が精米 業組合 な らび に米穀 卸 商組合 の常 任理事 に就任 し,籾 供 出業務 と精米業者 との間 の連絡 を促 進 す る。 3.生 産者か ら精 米 所 へ の輸送 を速 やか な ら しめ るた め に,推 進隊員 その他 の労働 力 を利用 す る。 4.農業組合 や, 村 ・区奉公 会 が食糧管理局 の許可 を得 て, 精米所 の精米能 力を越 え た分 の籾 を手塩 きす る。 5.奉公 会 は,州 長官 の命 を受 けて,米 を必 要 とす る農民 に適宜 に こ れ を 配 給 す る (バ ン ドン市 発行 の 日刊紙 Tj'ahaja

l

4

3

]

1

9

45

4

2

1

日付 に よ る)0 こうみて ゆ くと, 奉公 会 や推 進隊 の設立 目的 が, 日本 軍政 当局 の意図を住 民 の問 で徹 底 さ せ る こと, す なわ ち上位下達 と, さ らにその 意 図す る方 向-住民 を動 員 して ゆ くことにあ った とい うことが, あ りあ りと う か が わ れ る。 そ して その 中で も籾 供 出を徹底 させ る こ とは最 も重要 な課題 の 一 つだ っ た の で あ ろ う。 この運動 が展 開 され た の は,

1

9

45

年度 の 収 穫期 の開始 直前 で あ る

。1

9

4

4

年度 の収穫作 業 の大部分 が終 了 した9月 ごろか らこの時期 まで の間 に,軍 政 当局 は中央参 議院 や参与会 議 にお いて,籾 供 出を速 やか な らしめ るた め の政策 検討 をた びた び命 じて い る。 また粗 引 き渡 しに関す る新 聞論説 が シ リーズで掲載 さ れ た の もこの時期 で あ る。 す で に み た よ う に,

1

9

4

4

年度 の集 荷率 は平 均 して

7

0

%

程度 に 達 して いた。 しか し当局 はその成果 にか な り 不満 で あせ りを感 じて いた らしい ことが, こ れ らの ことか ら察せ られ る。 それ は, 一 つ に は, オ ラ ンダ時代 と比べ て収 穫 が大 幅 に落 ち た ことに もよ るだ ろ う。軍 政 当局 は,農業 技 術者 や あ らゆ る宣伝 メデ ィアを動 員 して米 の 増産運動 を大 々的 に展 開 したが あ ま り効果 は な く,

1

9

4

0

年 度 の

8

6

0

万 トン (陸稲 +水 稲)に 対 して

,1

9

4

3

年 の生 産高 は

8

1

0

万 トン

,1

9

4

4

年 は

6

90

万 トンに減少 して いた。

1

9

4

5

年 は さ ら に落 ち くぼみ,生産高 はオ ラ ンダ時代 の

7

0

%

以下 に落 ちて いた

[

2

7:ユ

1

7

]。33) 33)なお,この数字は,インドネシア共和国当局が 提供 したデータに基づ くものであると述べ られ ている。おそらく,共和国の農業省が軍政監部 産業部か ら引きついだ統計資料に基づ くものと 思われる。

8

9

(14)

東南 ア ジ ア研 究 19巻 1号

籾 供 出 制 度 と村 落 社 会 そ れ で は, この よ うな 日本 軍 政 期 の粗 供 出 制 度 は, ジ ャ ワの 農 民 に, そ して 広 くは農 村 社 会 全 体 に どの よ うな影 響 を 与 え た の で あ ろ うか 。 この 問題 を, 第 1に農 村 に お け る貧 困 の激 化 とい う観 点 か ら, そ して第 2に ジ ャ ワ の村 落 共 同 体 に お け る権 威 と秩 序 の 動 揺 と い う点 か ら検 討 して み よ う。 (1) 貧 困 の 激 化-

Hs

ubs

i

s

t

e

nc

e s

ec

ur

i

t

y"

の崩壊-す で に み て きた よ うに, 粗 の 供 出割 り当て は生 産 者 の レベ ル で は平 均 して 生 産 高 の

30-40% に の ぼ った と推 定 され るが , これ は一 般 の農 民 に と って どれ ほ どの 負 担 だ った の で あ ろ うか ? 以 下 に お いて, 自作 農 ・小 作 農 の それ ぞ れ につ いて典 型 的 な例 を仮 定 して検 討 して み よ う。 まず , 平 均 的 な耕 作 規 模 で あ る と い わ れ て い る

0.

5ha

の 水 田を所 有 す る 自作 農

A

が, 40% の供 出 を課 され た場 合 を 想 定 し て み よ う。34)フ ァ ン ・デ ル ・ギ ーセ ン

(

vanderGi

e

s

-s

e

n)

の 報 告 に よれ ば, 豊 年 で あ った 1940年 度 の全 ジ ャ ワの平 均 生 産 性 は,

1ha

当 た り籾 22.19キ ンクル (2,219kg)で あ った。 仮 にA 家 の水 田が この 平 均 並 み の 収 量 を あ げた とす れ ば, 0.5

ha

か ら 1,109.5kgの収 穫 が あ る。 現 実 に は このす べ て が

A

家 の 所 有 に帰 す る こ と は少 な い。 多 くの場 合 , 農 家 は籾 で 返 済 す べ き負 債 を 各 方 面 に負 って い る し, ひ ど い場 合 一に は集 荷 業 者 に よ って 「青 田買 い」 され て いて, 生 産 者 は収 穫 時 に はそ の 生 産物 に対 す る処 分 権 を 失 って い る。 また, た とえ そ うい う こ とが な か った と して も, ジ ャ ワ農 村 共 同 34)水 田耕作面積が 0・5haというのは,自作農のほ ぼ平均的な規模 とみてよいのではないか と思わ れ る。 また軍政期の報告書 によれば, 軍 政 当 時,0.5ha以下の土地所有者が農民の50%を占 めていた [36:5]。 90 体 に お け る慣 習 か らい って , 収 穫 に いた るま で の労 働 のす べ て がA家 の 成 員 だ けで 行 わ れ る こ と は少 な い035)そ して そ の 労 働 に対 す る 報 酬 は収 穫 物 で支 払 わ れ るの で あ る。 しか し な が ら, そ の 報 酬 を算 出す る こ と は極 め て 困 難 で あ るの で , い ま仮 に, 収 穫 時 の労 働 力 以 外 に

A

家 は何 ら他 人 に負 う と こ ろ は なか った と仮 定 しよ う。 収 穫 労 働 に は欲 す る者 は誰 で も参 加 で き る こ と に な って い る。 そ して 通 常 , 収 穫 労 働 に 対 す る 報 酬 は 稲 穂 で 支 払 い

(

bawon

制 度 ), 一 般 に

6

束 刈 る ご と に

1

束 35)稲作 における自家労働 と雇用労働の割合を算出 す るのは非常 にむつか しい。家畜労働力の使用 や機械化が進み,人的労働力の投入量が少な く なるほど,雇用労働力-の依存度は低 くなるわ けであるか ら,経営形態 によって異なるし,ま た気象条件やエコロジカルな条件によって も異 なる。 しか し,この時代のジャワの稲作は,まだ 人的労働力への依存率が非常 に高か った とみて よい。データが少 し古 くなるが,スヘルテマが 1928年にプ リア ンガ ンの80戸の農家を対象 に行 な った調査 によれば,1バ ウ(0.71ha)の水 田を 耕作するのに必要な労働時間は,平均1,445時間 である。ただ しこれは約6カ月間の稲作期間中 平均 して投入 されるものではな く,一定の時期 に集約的に必要 とされる。た とえば桝起作業 に 360時間,収穫時 (刈 り入れ,束ね,乾燥)に398 時間を必要 とす る。 したが って,少な くともこ れ らの作業には家内労働力以上の ものが必要 と され るとみてよい。[33]参照。なお,加納啓良の 最近の調査によれば (これが軍政期 にも当ては まるか どうかは極 めて 疑問ではあるが), 東部 ジャワのバグララン村の稲作 における雇用労働 への平均依存率 は54.6% で あった。[11]参照。 36)ただ し, この慣習が この時期 にも守 られていた かどうかは分か らない。収穫労働者の配分比率 もまた,労働力の需給関係 に大 き く左右 され る と考え られ るか らである。 原則 として,収穫労働 には誰で も希望す る者が 参加 してよいとい うことにな っているので, こ のような食糧難の時代 には籾の分配を求 めて多 くの者が殺到 した と考え られ る。 とすれば水 田 所有者 は当然配分比率を低 くして 自己防衛 に当 た らざるをえなか ったであろう。なお,オ ラン ダ時代 にもすでに地域 によっては 5 :1にな っ ていた ところもあ り,一定ではない。 さらにま た男子労働力 と女子労働力 との間に差をつけた 場合 もある。

参照

関連したドキュメント

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時

スペイン中高年女性の平均時間は 8.4 時間(標準偏差 0.7)、イタリア中高年女性は 8.3 時間(標準偏差

平均的な交通状況を⽰す と考えられる適切な時期 の平⽇とし、24時間連続 調査を実施する。.

「PTA聖書を学ぶ会」の通常例会の出席者数の平均は 2011 年度は 43 名だったのに対して、2012 年度は 61 名となり約 1.5

 STEP ①の JP 計装ラックライン各ラインの封入確認実施期間および STEP ②の封入量乗 せ替え操作実施後 24 時間は 1 時間に

z 平成20年度経営計画では、平成20-22年度の3年 間平均で投資額6,300億円を見込んでおり、これ は、ピーク時 (平成5年度) と比べ、約3分の1の

・微細なミストを噴霧することで、気温は平均 2℃、瞬間時には 5℃の低下し、体感温 度指標の SET*は

1時間値が 0.12 ppm 以上になった日が減少しているのと同様に、年間4番目に高い日最 高8時間値の3年移動平均も低下傾向にあり、 2001~2003 年度の 0.11 ppm