『美 の 原 一一Keats
理』
のオ
-ドの研究(2)
大 林 輝 彦 (人文学部英文学研究室)“Principle of Beauty"
一一AStudy
of Keats's Odes
(Part Two)
Teruhiko Obayashi (£)epart・nent of E71がish Faculりof Hti7?%antties) オートの視点について 1 前回の考察においてわれわれは, Stillingerをはじめとする一連の批評家のオード解釈の問題点 を検討し,そうすることによって, Keatsにおける「美の原理」の姿を理解する糸ロを求めたの であるが,そのいわば消極的なアプローチが示唆したものは, Keatsの「美の原理」の存在の仕 方の二面性ということであった.すなわち, Keatsにおいて「美の原理」は詩を構成する原理で あったと同時に,また一方で人生に関わる原理でもあったということである.「美の原理」は美的 観照をその本質とし,一面においてそれは実践的,倫理的な問題追求の一時的中断であり・,独自の 中心点を持っている. そしてそれが,オートの厳密な意味での「意味」を構成しているものであ る. しかしまた一方で,それは確かに実人生の問題から出発し,そしてその結果か再び実人生に帰 ってゆくという側面を持っている. Keatsにおいて「美の原理」は,「神秘の重荷」と理想の哲学 との間で深刻な緊張関係を形成し,そこからさまざまな対立,矛盾が生じている.そしてそれが, 一つの中心点を取り巻き,それをより一層浮き彫りにするような,背景となっているのである.も ちろんそのような問題意識がオートの中で直接述べられているのではない.純然たるポエジーの中 で実人生の対立,矛盾は一応一つの解決を与えられ,緊張は解消されている. しかしそのポエジー は確かにそのような問題意識を背景とし,そこからその活力を得てきていることも見逃せないので ある. つまり比喩的に言うならば,内部構造と外部構造を持っていると言うことができる.そしてこの 二つの側面は, Keatsのオートを考察する際の二つの作業一一解釈(記述)と批評(評価)という 二つのものに対応してくるものであるが,この二つはある程度はっきり区別して考える必要かある と思われる.そうしないと「美の原理」の理解は混乱し歪曲したものになってしまう. 「美の原理」の内部構造をあいまいな形で,例えば単なる感覚的なもの, pleasureとかluxury などと同じものだとして無批判的に規定し,それをそのまま外部構造のレベルに持ち込んでゆ< と,とたんにそれは人生の真剣な努力というものと対立するものに見えてくる.そういう錯覚が生 じてくる. そして感覚の詩人,現実逃避の詩人かそこに浮かび上かってくる.そこでそれに反発し てKeatsを弁護しようとすると,今度は, Keatsの詩は現実逃避の危険を述べている,現実に帰 るこ,との正しさをくり返し述べているのだ,といったことを強調せざるを得なくなってくるのであ る. これは,「美の原理」の内部構造と外部構造を単一のレベルで同時に論じようとしたために,
98 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号 その間を行きつもどりつし,結局のところそのいずれをも解明できずに終わった不毛な努力であ る.それは解釈のレベルで言うなら, Keatsのポエ’ジーの中味を歪曲して安っぽい教訓にしてし まったもの,そして批評のレベルで言うなら, Keatsの精神か直面していた本当の問題点をすっ かり見失ったもの,と言える.だからその二つのものをまずそれぞれのレベルに正しく据え直す 必要かおる.その上ではじめてKeatsのオートを正しく位置づ,けることか期待できるのである. あらゆるすぐれた詩の理解について言えることであるか,’解釈と批評を混同しないこと,作品の 中に含まれるものと作品の外にあるものとを混同しないこと,それがKeatsのオートの考察にお いて特に重要な意味を持ってくる. 1819年に書かれた分−ド(“Ode on Indolence” を除く五つの オード)に共通する特徴は,作品か明確な輪郭を持っているということである.その輪郭が,いわ ばmagic circle のように,その内部の意味構造をその外部にある一切のものから峻別していると いう点である.だから内部の意味構造を外に取り出して論ずるならヽ,それはもはや本来の意味をと どめてはいないのである.
Archibald MacLeish ぱOde to a Nightingale” 第ブ連の"perilous”どforlorn”を
What does periZousmeans but full 0f peril? Aηd what is μΓ1θΓ,lin its true sense, the sense in which Milton used it, but desolate, forsaken and abandoned 一forsaken by humankind, abandoned by men?1
という推論によって解釈しようとしている.しかしなが・ら.,詩において,ことばの意味は独立して 存在する純然たる客観物ではない.それは何よりもまず,・「意図されたもの」である2.だから詩 のことばの解釈は,そのことばが使われる一般的な意味合い,通常の意味合いに基づくのでなく, まずそのことばを使った作者の視点というものを復元してみることでなくてはならない3.ことば はそれ自体では,自身か持つ制約内でさまざまに可能な意味を呈示してくるものであるか,そのさ まざまな可能性の中から妥当なものを選び出す過程において.もし作者の視点というものを無視す るならば,作者の視点にかわってそこに入ってくるのは,何ら客観的な基準ではなく,他ならぬ解 釈者自身の視点にすぎないのである.かくしてことばを純然たる客観物と見る見方は,いかなる客 観的な解釈をももたらさず,皮肉にも逆に,そこに批評家の主観の独壇場をつくり上げてしまうの である. MacLeishの解釈の姿勢はそのような非難を免れないであろう.彼はそのような解釈に基づい て,第フ連の最終行を「認識の瞬間」と規定した.想像力にようて示される価値の世界は,実は実 在性のない空虚な世界であり,そのような世界を追求すIることは,人間の社会から放逐され,捨て られることになる,危険な行為であることを,詩人がここで認識したというのであるが,しかしこ れはKeatsか意味したものであるというよりはむしろ・,I多分に,詩人,批評家としてのMacLeish 自身が感じている現代人的な危機感の表現であるよう沁思われる/芸術め表わす価値か,科学の 進歩とともに次第に人生の舞台の周辺部に追いやられ.科学によって明確な形で記述される事実 の世界に対比されて,ますます実在性に欠ける存在に見えてきたこ!とは,ヽ歴史的な事実でもある. そしてKeatsもそういう歴史の流れのある地点に位置している.ことも確かである.彼が,“Do
not all charms fly/ At the mere touch of cold philosophy?”という時,彼は科学そのものを非 難しているというよりはむしろ,明確化しゆく事実の世界とぴきかえに,次第に影がうすくなって
ゆく価値の世界,各人の心の内奥にひそかに息づいてほいても,科学のように動かし難い確かな証 拠をもってさし示すことの困難な世界,それか次第にうすれてゆく幸の不安を述べているのであ
る.それはThe FallofHyperion の中でもづ士厳.な女神Monetaのことばとなって出てくる. しかしながら,オートにおける Keatsの視点は,そ.のような不安を背景としながらも,なおかつ
『美の原理』 Keatsのオートの研究(2) (大林) 99 それをのり越えたところにあるのである.解釈の仕事は,その視点を正しく復元することでなくて はならない.しかもそのようにして正しく解釈された作品を基礎に置いて,その上でKeatsの精 神構造の吟味に向かう時,彼が抱いていた不安というものが, MacLeishの説明するような現代人 的な危機感,余りに否定的な絶望感とはかなりへだたったものであることか明らかになる.そのへ だたりこそが, Keats固有の価値であり,それが批評の中心的な対象となるべきものなのである. つまり,・作者の視点を無視することは,解釈の唯一の基準を失うことであり,同時にまた,それを 失うことによって,批評の基礎としての作品そのもめを失うことでもある.その結果生まれるの は,どんなにすぐれた評論であっても,少くともそれは作品の解釈でも批評でもないごそれは, 作品と無関係に行なわれる,自己との対話にすぎないのである4L
Keatsのオートの意味構造かmagic circle によって囲まれているとすれば,そのmagic circle を形成しているのは,作者の視点の特異性に他ならない.詩の解釈は,そのような作者の視点を正
しく復元することに尽きると言えるが,しかしそれは,例えば作者かしばしば作品の意図として明 確な形で説明してくれるものと必ずしも同じではない.それは作者によって完全な形で意識されて
いるとは限らないのである.ここでは, E.D.Hirschが説明する前提,
That a man may not be conscious of all that he means is no more remarkable than that he may not be conscious of all that he does/
ということか,実践の第一原理として考えられねばならない. それゆえ,作者の視点の復元は,実際には,漠然とした推測に始まり,それが作品の全体と部分 の照合を通じて次第に明確化し,可能性の範囲をせばめてゆくところの,一種の作業仮説の形をと らざるを得ない. このような形で作者の視点にせまってゆくものを, Hirschぱgenre”観と呼 んでいる6. われわれの課題は,そのような意味での, Keatsのオートのジャンルを解明することである. 1819年に書かれた五つのオートを,一つのまとまりとして結びつけているのも,まさにこのジャン ルの同質性なのである.そのジャンルを明らかにすることによって,はじめてオートの解釈をめぐ るさまざまな問題に対して,確定的な答えを出すことかできるのである.先に,オートの厳密な意 味での「意味」を構成しているのは,内部構造としての「美の原理」であるということを述べたが, それも,オートのジャンルの規定に向かっての一つの暫定的な仮説にすぎない.われわれは,それ をさらに吟味し,規定し,明確にしてゆかねばならない.以下の考察においては,「美の原理」の 中味について詳しく検討し, Keatsのオートとそれとの必然的なつながりを明らかにすることに よって,オートのジャンルを解明することにしたい. 2 「美の原理」についてのKeats 自身の発言は断片的なものであるが,しかしよく検討してみる と,それらの断片がすべて一つの方向をめざし,ある一つの説明困難で逆説的な事実に向けられて
いることがわかる.彼が使う“principle of beauty in all things” ということば自体が,その逆. 説的な性格を帯びている. E C Pettetは,“principle”ということばに注目し, J. Maritainの “aesthetic beauty” どtranscendental beauty"の区別を引用し, Keatsが意味したのは後者で
あると結論している7. しかしながら,われわれはこの点に関して, Keatsがいかなる詩人であ ったかをよく知っている, Keats のこのことばは,例えばHyperion の中の“'tis the eternal law / That firstin beauty should be first in mightブ’のような,理論化されたものとは全く関
100 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号
- -係がなく,個々の事物の属性と言う方がより近いものである.その意味で,“the ‘principle' is
not the supersensuousから5, but merely the inductive sub-totalof the things.”8と説明す
るH. N. Fairchildの方が正しいように思われる.しかしまた一方で, Keatsの言う美を,こ
のように事物のレベルにすっかり密着させてしまうと, Keatsが,“Praise or blame has but a momentary effect on the man whose love of beauty in the abstract makes him a severe critic on his own worksブ' (L. 90)と言い,まだThe mighty abstract Idea l have of beauty in all things stiflesthe more divided and minute domestic happiness − ” (L. 94)と言う時に使
う,“abstract”ということばで困難にぶつかってしまう.この一節は,コンテクストから考える と,明らかに“principle of beauty in all thingsWと同じものをさす表現であるはずであるか, そこに“abstract”ということばが加わってくるのである. このことばの使用は, N. F. Fordも気づいているように, Keatsの美の説明の鍵ともなる ことばである. Fordがこのことばの解釈をさし控えたのに対して, J. L. Jonesは,これを “imaginary'≒“pertaining to imagination”という意味に解釈している9.つまり彼はKeatsの 言う美を,客観的な事物,物自体に属するものとしてでなく,想像力に属するものとして理解する のである.われわれが前回の考察で,「美の原理」を, Fairchildが言うような美的「事物」の総 体としてでなく,美的「体験」の総称であるとして理解したのも,その意味においてであった. しかし, Jonesの言う想像力ということばか,単に Keatsの“abstract”を言い換えただけの ものであり, Keatsのことばと同じあいまいさと逆説を,そのまま中に含んだことばであること も見逃せない.「美の原理」ということばの説明としては, A.C. Bradleyの
That which the poet seeks is Beauty. Beauty is a‘principle';it is One. All things beautiful manifest it and so far therefore are one・and same. 10
という説明か最も当を得ていると思われるが,しかしこの説明もその中に,個と普遍という逆説を そのまま含んでいると言える.つまりKeatSが「美の原理」について語る時の,一見矛盾するよ うな表現は,説明の不備であるというよりはむしろ,彼が語ろうとしている対象そのものに内在す る性質なのである.
Keatsが使う“in all things”どin the abstract" の矛盾は.次にあげる Kantと S. K.
Langerの解説を補足して考えれば理解できる.そしてその矛盾は, Keatsが美的事実の核心に
せまってそこから発言していたということの証拠であ名として理解できるであろう. Kantによれ
ば,美の満足は無関心に基づくものである,それゆえ美を語る者は,それを客観的なもの,事物の 属性であるかのように語るのである.
hemust be】ievethat he has reason for demanding a similar delight from every one. Accordingly he will speak of the beautiful as if beauty were a quality of theobject. . . ."
しかし一方で,それはまた同時に, Langerが説明するような/次のような現象一美的事実は時
として,抽象的ニュアンスのことばで語られるという事実-ど表裏一体をなすのである.
The abstract sense, which is sometimes called“logical form”, is involved in thenotion of expression that characterizes art. That is why artists,when they speakof achieving“form”,use the word with something of abstract connotation, evenwhen they are talking abouta visible and tangible art object in which
!:策9原理」 Keatsのオートの研究(2) (大林) 101
that form is embodied.*^
実際, keats批評の常識に従ってKeatsを,具象的事物の世界,感覚界に沈潜した詩人であると
して,それを文字通りの意味で理解してゆくと, Keatsの書き物の至るところで困難にぶつかって しまう.例えば,“abstract”をはじめとしでessential'≒“spiritual”,“ethereal'≒“sublime”, “empyreal”,“speculation”などのことば,さらには
What astonishes me more than anything is the tone, the coloring, the slate, the stone, the moss, the rock-weed; or, if l may so say, the intellect,the countenance of such places. (L.71)
というコンテクストの中で使われる“intellect”などのことばである. R. T. Daviesはそれらの ことばが使われているコンテクストから,その独特の意味を帰結しようとしているが13,しかしこ れらのことばは, Keatsがそれらによって説明しようとしていた究極の目標,すなわち美的事実 そのものに内在する逆説的な性格というものを,考慮に入れて考えない限り,正しく理解すること はできない.それを考慮に入れて考えれば, Keatsの使うことばは必ずしも奇異な用語.だとは思え なくなる.むしろ,彼が美的事実の核心にせまっていたことを示す証拠であることが明らかになる のである. 美的事実を理論化するのではなく,それを感得しかつ実践しようとする者にとっては,感覚的快 と,美との理論的区別はさして重大事とはならないであろう.経験的に観察する限りでは, Santa-yanaが言うように,その両者の間に明確な境界線は認め難いからである.
There is no sharp line between them, but it depends upon the degree of objectivity my feeling has attained at the moment whether I Say“It pleases me”or “It is beautifulプ’14
Keatsにおいても同様である.彼の言う“A thing of beauty” は両者をともに含んでいるように も見える.
Such the sun, the moon,
Trees, old and young, sprouting a shady boon For simple sheep; and such are daffodils
With the green world they live in; and clear rills That for themselves a cooling covert make
'Gainst the hot season; the mid-forest brake, Rich with a sprinkling of fair musk-rose blooms; And such too is the grandeur of the dooms We have imagined for the mighty dead, AI目ovely tales that we have heard or read ― An endless fountain of immortal drink, Pouring into us from the heaven's brink. (Eれdymion,I, 13-24)
そして彼がそれらに対して与えることばも,しばしば,“pleasure”,“luxury”,“delicious”,“vo-luptuous”等々である.“O for a life of sensation rather than of thought!”
と彼が言うその“sen- 102 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6旦
sation”ということばも,この点に関して明確な境界をもって使われているようには思われない.
しかしながら,われわれの立場にあっては,その二つのものをはっきり区別し, Keatsの説明
が究極的に意図している中心部はいずれであるかを,明確にすることか必要である.その区別は, 例えばKndymioれ第1巻の“Wherein lies happiness?”の一節についてわれわれが考察する場 合に重要になってくる. Keatsはこの一節について,“My having written that Argument will perhaps be of the greatest Service to me of anything l ever didグ(L. 42)と言い,彼の 美学理論の中で占めるこの一節の重要性を強調している.その一節は次のように始まる.
そして次に
Wherein lies happiness? In that which becks Our ready minds to fellowship divine, A fellowship with essence, tillwe shine Full alchemized. and free of space. Behold The clear religion of heaven! (I, 777-781)
Fold A rose leaf round thy finger゛staperness And soothe thy lips; (I, 781-783)
と続く.しかしここで,指に巻きつけた一枚のバラの花ぴらが,いかにしでessence" に結びつ き,“We shine / Full alchemized and free of space"ということといかに結びつくのであろう
か. J. L. Jonesは,その連関を新プラトン主義的な意味で理解するのはまちがいであり,こ れは質的変化というよりはむしろ,量的変化であると説明しているか15,その解釈は正しいであろ う.しかし量的変化だと説明するだけではもちろん不十分である.これに対して,ここで,全くの 感覚的事物の世界でもなく,また理念の世界でもない領域,それを仮りに表象の領域と呼ぶことに して,それを,先ほど見たような美的事実の特性-ある時は具体的事物に付属するかのように語 られ,またある時は抽象的なニュアンスをもって語られるという特性−−を備えた領域であるとし て考えてみるならば,その量的変化ということの意味がはっきりしてくる. Keatsがこの一節を,
“aregular stepping of the Imagination towards g Truth” と説明する一方でまた,“even like a kind of Pleasure Thermometer” (L. 42)と説明したその理由も理解できる.いかなることば を用いようとも,彼の説明は確かに,逆説的な性格を帯びた,この表象の領域に向けられているの である.
これと関連してくるのが,自然美と芸術美に対する Keatsの扱い方である.先ほど引用した ^ndymion回頭の一節においても,まだFold / A rose leaf" に続く一節においても,その二つ
のものは対をなして並記されている.この二種類の美の問題は,美学においては困難な問題となっ てくるものであるか16,それもKeatsにとっては何の困難もない.彼がその二つの間に全く区別 を設けないその扱い方は特異である. ‥
In the calm grandeur of a sober line へf/esee the waving of the mountain pine;
And when a tale is beautifully staid, We feel the safety of a hawthorne glade; When it is moving on luxurious wings,
「美の原理」 Keatsのオートの研究(2) (大林)
The soul is 】ostin p】easant smotherings ― Fair dewy rose brush against our faces
And flowering laurels spring from diamond vases; O'er head we see the jasmine and sweet briar, And bloomy grapes laughing from green attire;
While at our feet the voice of crystal bubbles Charms us at once away from a11our troubles,
So that we feel uplifted from the world,
Walking upon the white clouds wreathed and curled (“Istood tip-toe upon a little hill”,127-140)
10ろ
詩から受けた印象が,容易に自然の事物へと連想され,溶けこんでゆき,とどまるところを知らな い.その自然な移行ゆえに,彼ぱA drainless shower / Of light is Poesy” と言うのであるし, あるいはまた,・
This pleasant tale is like a little copse. The honeyed line do freshly interlace To keep the reader in so sweet a place, So that he here and there full-hearted stops; And oftentimes he feels the dewy drops Come cool and suddenly against his face, And by the wandering melody may trace Which way the tender-legged linnet hops. (“This pleasant tale ‥二1-8)
といった共感覚的な表現を使ったりもするのである.さらにその逆の,自然から芸術への移行もま た同じく容易である.そのことは,神話(Keatsにとってそれは詩と同じもの)が自然の美の観 照の中から生まれたのだとする,彼の神話起源論の中に見られる.
What firstinspired a bard of o】d to sing Narcissus pining o'er the untainted spring? In some delicious ramble he had found A little space. with boughs all woven round, And in the midst of all a clearer pool Than e'er reflected in its pleasant cool The blue sky here and there serenely peeing Through tendril wreaths fantastically creeping. And on the bank a lonely flower he spied,
A meek and forlorn flower, with naught of pride。 Drooping its beauty o'er the watery clearness To woo its own sad image into nearness。
Deaf to light Zephyrus it would not move, But stillwould seem to droop, to pine, to love, So while the poet stood in this sweet spot,
104 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号
Some fainter gleamings o'er his fancy shot, Nor was it long ere he had told the tale Of young Narcissus, and sad Echo's bale. (“I stood tip-toe upon a little hiir≒163-180で)
ちなみに,このあざやかな描写は,自然美と芸術美を等しく心からいつくしむ,詩人の情念に貫ぬ かれており,その発想が単なる借り物でないことを示している17.
自然美の問題を, CroceとCassirerはともに,「芸術家の目」で自然を見る時に自然は美にな
るのだ,という形で解決している18.では「芸術家の目」とは何かというと, Cassirerはそれを次
のように説明している.
l may walk through a landscape and feel,its charms. I may enjoy the mildness of the air, the freshness of the meadows, the variety and cheerfulness of the coloring, and the fragrant odor of the flowers. But l may then experience a sudden change in my frame of mind. Thereupon I see the landscape with an artist's eye 一 l begin to form a picture of it. l have now entered a new realm − the realm not of living things but of“living forms.”
ここで“living forms”の領域と規定されているのは,われわれが表象の領域と名づけたものと 同じである.つまりこの問題もやはりそこに行きつくのである.・自然美も芸術美も,表象の領域が 成立するその契機として異なるだけであり,その領域の中では同質のものとして存在し得るのであ る. この点で最も良い例となるのは,“To Autumn" 制作時のKeatsの次のことばである.
How beautiful the season is now − How fine the air. A temperate sharpness about it . Really, without joking, chaste weather − Dian skies − l never likタd stubble-fields so much as now − Aye better than the chilly green of the
Spring. Somehow a stubble-plain looks warm − in ・the same way that some pictures look warm − (L. 151)
その意味は明らかである.彼はまさに「芸術家の目」でもって,秋の情景を眺めたのである.そし てそこに表象の領域か成立し,その中では,自然の光景も芸術作品のイメージも,区別されること なく重なり合い,溶け合うのである.
Ian Jack は, Keatsの詩の背景に,絵画,彫刻の影響をあとづけているが,それは特に“To Autumn”の解釈にとっては,画期的な研究成果だったと言える.例えば,
Sometimes whoever seeks abroad may find Thee sitting careless on a granary floor, Thy hair soft-liftedby the winnowing wind;
などのイメージは,自然の光景をあるがままに客観的に抽写したもののように思えるし,また事
実そういうものとして評価されてきた.しかしIan Jack が‘Giulio Romano の絵(“Psyche asleep among the Grains”)をこの一節と対照させてみせる時19,われわれはKeatsが描いた のは,現実の秋の情景なのか,それともRomano の絵なのか,そのいずれであるかわからなくな ってしまう.恐らくは,そのいずれでもないと言うのが正しいであろう.それらはともに表象の領
「美の原理」一一Keatsのオートの研究(2) (大林) 105
域に投げこまれ,観照者の「芸術家の目」によって全く新しいものにつくり変えられてしまう.そ れがKeatsの描いたものなのである.
同じことは,
on a half-reaped furrow sound asleep,
Drows'd with the fume of poppies. while thy hook Spares the next swath and allits twined flowers:
についても言える.われわれはこれを極めて自然な光景のように思う.実際,本当にそこにけしの 花が雑草にまじって麦株にからみついていて,それが麦と一緒に刈り取られ,あるいは刈り残され たまま,秋の日差しのもとで眠りを催すような独特の芳香を,あたりにただよわせているといった 様子が,ほうふつとしてくる.しかしそれでいて実際には,けしの花の香りには催眠性はないし, 収穫の野にただようあの一種独特の香りは,刈り取られる麦や乾いた土などか全体となってつくり 出すものであり,眠りを催すのは,暖い日差しと心地よい体の疲労なのである.そして一方,けし の花のそもそもの由来は,自然の観察からというよりはむしろ,眠りを催すものとしてそれが常 套的に用いられた詩のコンベンションからのものなのである2o. つまり自然の光景が芸術のイメ ージにひき寄せられるのと同様に,芸術作品の中に見た詩語やイメージや風景描写といったもの も,容易に自然の事物にひき寄せられ,みずみずしい実体を与えられるのである.このようにして PsycheとCupidのイメージも,
couched side by side
In deepest grass, beneath the whispering roof Of leaves and trembled blossoms, where there ran A brooklet, scarce espied.
'Mid hushed, cool-rooted flowers, fragrant-eyed, Blue, silver-white and budded Tyrian,
They lay calm-breathing on the bedded grass;
というような,自然の中に溶けこんだものとして描かれることになる. このように,自然と芸術
が,観照者の情念のもとに一つに溶け合うような領域が描かれたのだとすれば,“To Autumn”
を,自然の情景から生まれた詩であると想定するのも,また春のオートについて,
Of the five composed in the spring of 1819, two those on Psycheand the Grecian Urn, are inspired by the old Greek world of imagination and art: two, those on Melancholyand the Nightingale,by mood of the poet's own mind; while the fifth, that on Indolence, partakes in a weaker degree of both inspirations.^' というような区別をしてみることも,オートの説明として,まちがいではないとしても,余り意味 かない説明だということになる. さて以上のように, Keatsにとって,自然の事物といえども,感覚界,快のレベルにとどまるも のではなく/表象の領域にいわば組みこまれてゆくのだということが明らかとなったが,“Wherein lies happiness ?” の一節は,表象の領域に関連するもうー一つの問題を含んでいる.この一節は “Wherein lies happines?”,すなわち価値に関する問題を述べているのであるが,その価値の頂
106 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号 点に置かれているのは,「愛」である.
Butthere are Richer entanglements, enthralments far More self-destroying,leading, by degrees. To the chief intensity: the crown of these Is made of love and friendship, and sits high Upon the forehead of humanity.
butat the tip-top、 There hangs by unseen film、an orbed drop
Of light, and that is love: (I, 797-807)
この愛が単にsensuousなものか,それともhumanitarian love であるのか,意見の分かれると ころであり,それifi. E.nd.ymion全体の解釈にもつながってゆく.しかしながら Keats のことば は,そのように意見か分かれるほどには,あいまいなものズはない. 彼の言う愛かhumanitarian
loveをさすものではないことは,次の一節で明らかである.
Aye, so deliciousis the unsating food, That men, who might have tower'd in the van Of all the congregated world ...
Have been content t0let occasion die,
Whilst they did sleep in love's elysium. (I, 816-823)
この愛はその甘い心地よさによって,実践的なヒューマニズムとはむしろ対立するものである.確 かにそれは世に益するものであるか,しかしそれが世に益するその仕方は,積極的なヒューマニズ ムのそれではない.“unknowingly”なのである.「夜鳴鳥のように」とKeatsはつけ加える.
And, truly, I would rather be struck dumb, ・ Than speak against this ardent listlessness: For l have ever thought that it might bless
The world with benefits unknowingly; As does the nightingale, upperched high, And cloister'damong cool and bunched leaves 一 She sings but to her love, nor e'er ・conceives How tip-toeNight holds back her dark-grey hood。
(I,824-831)
この愛は世Rニ関わることなく,ただひたすらに自らを追求する愛である.それゆえ,それは世間一 般の理解では,“mere commingling of passionate breath ” と呼ばれるかも知れない.しかしそ れは単に世間一般の理解であって,本当はsensuousな愛以上めものだ.
Just so may love, although 'tisunderstood The mere commingling of passionate breath,
r美の原理j Keats のオートの研究(2) (大林) Produce more than our searching witnesseth
‘(I,832-834)
107
Keatsが言わんとしているところは明らかであり,何のあいまいさもない.そしてこれらのことば の後に,次のような最後の一節が来る.
What l know not : but who, 0fmen. can tell
That flowers would bloom, 0r that green fruit would swell To melting pulp, that fish would have bright mail, The earth its dower of river, wood, and vale, The meadows runnels, runnels pebble-stones, The seed its harvest, 0r the lute its tones, Tones ravishment, 0r ravishment its sweet If human souls did never kiss and greet?
(I,835-842) この愛は,それなくしては草花も咲かず,果実も実ることがない,いわぱ宇宙の創造原理である. それか物理的自然の創造原理でないことは言うまでもないが,ではそれはいかなる意味における創 造であろうか.このように考えてくると,この一節か言及しているのは,表象の領域に他ならない ということか明らかになってくる. 表象の領域は,われわれの日常的な実践本位主義の視点からすると,客観的事実の世界の陰にか くれて容易に見逃されてしまう領域である22.客観的事実の世界は,はっきりと観察し,記述し, 説明することができる.しかし表象の領域はそのような正確なことばを,日常の言語の中に持っ ていない.日没の空を普遍的な自然法則によって明確に記述説明することは容易であるけれども, その記述は,日没の輝きがわれわれの胸のうちに喚起するものを,大部分除外せざるを得ない. それに対しては,極めて大ざっぱな表現をもってするしかないのである23.しかしながらそれは また確かな価値の領域でもある.もしわれわれが実践本位のエゴにとらわれて,このような領域を 見過ごしてしまうならば,多くの価値は失われ,人生は不毛の荒地となってしまいかねないので ある24.なぜなら,われわれの精神か,狭小な実践本位のエゴから解放され,純化され,より大き な精神に拡大する可能性を持つとすれば,それはまさにこの領域をおいて他にないからである25. それゆえわれわれは,実践本位のエゴを離れて,共感の心,愛に似た心をもってその領域を発見し なくてはならない.人間に対して即自的に沈黙している世界も,そこに表象の領域が意識される時 に,はじめてその沈黙を破って語りかけてくる26.草花か咲き果実が実るこの世界も,その時はじ
めて,真に美なる世界,意味ある世界として生まれかわるのである.“Wherein lies happiness?”
の最後の一節は,表象の領域の,まさにこのようなcosmogonyを述べているのだと理解される. そしてそこにおいて,愛はその創造原理の比喩である.しかし比喩というものが,普通,比較さ
れる二つのものの違いをはっきり意識するところにはじめて成立するものだとすれば,ここで言う 比喩はそのような意味での比愉ではない.愛は,快感情や自然美が美なるものとの親近関係におい て扱われていたのと同じような形で扱われているのである.それがこの一節における特徴であり, 恐らくはEれdymion全体の象徴性の特徴でもある.“A drainless shower / Of light is Poesy"
に対して,今度ぱan orbed drop / Of light, and that is love” と言う.“Poesy ” と近似的 に扱われるこの比喩的な愛は, sensuousなものでも hamanitarian なものでもなく,愛というも のがいかなる形をとって現われようとも,必ずその根底にあってその愛を本当に価値あるものにし
108 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号 ているところの,「愛そのもの」である.それは表象の領域に比喩として対比されるというよりは むしろ,それ自身か表象の領域に属するものである.それというのも, sensuousな愛か純化され 真に人間的なもの,神聖なものになるのも,またhumanitarianismがその本来の活力を得てくる のも,この領域をおいて他にないからである.このようなものとしての愛か,人間の心の中に存在 しない限り,この世界に花が咲き果実か実ったとしても,それは本当の意味で花が咲き果実が実っ たことにはならないのである. 表象の領域の創造原理としてのこのような愛は,実人生の関心から一歩離れた心の内奥に息づ く,あらゆる純化された感情に共通するものである.“Wherein lies happiness?” の一節に付した
もう一つの注釈において, Keatsが,
l have the same Idea of al】our Passions as O’fLove they are all in their sublime, creative of essential Beauty. ln・a word, you may know my favorite Speculation by my first Book and the littlesong I sent in my last − (L.31)
と言うのは,その意味においてである.例えば悲しみというものは,実人生の関心に結びつき,容 易にそれから離れようとせず,われわれの心をただひたすら重苦しくおおう時もあるが,しかし時 として,何か不思議なきっかけで,それか個人的な=レベルを離れいわば純化されることがある.そ してわれわれが本当に美なるものを意識するのは,実人生の成功に狂喜する時ではなく,むしろ悲 しみによって実人生の関心が一歩後退し,それにかわって純化された心の内奥か開かれるような時 なのである.かくして詩人が歌うものは,無上の喜こびであり,同時にまたそれは深い悲しみでも あると言えるのだ.“the littlesong” すなわぢOde to Sorrow” は,そのようなことを実例をも
って説明しているのだと, Keatsは言っているのである.≒(そしてそれは決して病的な感受性など
ではない.)また彼が“they are allin their sublime, creative of essentialBeauty.” と言う その“sublime”は,感情がひととおりのものでないと同時に,実人生のレベルを離れ,純化され たものとなっていることを意味することばである.それは次の一節においてさらに明らかである.
my Solitude is sublime. Then instead of what l have described, there is a Sublimity to welcome me home. The roaring of the wind is my wife and the Stars through the window pane are my Children. The mighty abstract Idea l have of Beauty in all things stifles the more divided and minute domestic
happiness − (L. 94)
Keatsがl am certain of nothing but of the holiness t)fthe Heart's affections.”(L. 31)と 言う,その神聖な心の感情とは,このような意味での“sublime"なものとしての感情のことであ る. このようにして, Keats の逆説的なことは, ambiguous なことぱを,一方に偏することなく忠 実にたどってゆけば,すべて同じところにたどりつく.それ自体が逆説的でambiguousであると ころの,表象の領域にたどりつくのである.それは客観的事実の世界から全く離れて存在するもの でないとしても,それでもなお,主観の愛,神聖な感情によってはじめて成立する領域,心の内奥 部に存在する領域でもあるのだ.彫刻も絵も,自然の風景も,すべて,客観的事物の世界において は,石塊として,一枚のカンバスとして,自然の事物として,つまり「主観なき客観」として存在 し得る.しかし表象の領域においては,それらのものは,「主観なき客観」として存在することは できない27.その主観の働きが何であるか,愛にたとえたところのこの領域の創造原理は何である のか, Keatsの説明はここから,いわば認識論的な側面へと向かうことになり,さらに核心にせ
「美の原理」 Keatsのオートの研究(2) (大林) 109
まってゆく.
表象の領域は価値の世界であるが,その価値はいかにして認識され得るか.彼の説明はまず否定 が先行する.
And yet such a fate can only befall those who delight in Sensation rather than hunger as you do after Truth. (L. 31)
それぱconsecutive reasoning" によって到達することはできない.
l mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason − Coleridge, for instance, would let go by a fine isolated verisimilitude caught from the Penetralium of mystery, from being incapable of remaining Content with half knowledge. . . . with a great poet the sense of Beauty overcomes every other consideration, 0r rather obliterates all consideration. (L .■32)
そしてこの否定的能力の概念は,次のようなみごとな表現に高まってゆく.
The Genius of Poetry must work out its own salvation ina man: be matured by law and precept、but by sensation & watchfulness That which is creative must create itself. (L. 90)
それはKantか説明する,趣味判断の主観性ということに他ならない.
It cannot in itself.
In forming an estimate of Objects merely from concepts, allrepresentation of beauty goes by the board. There can, therefore, be no rule according to which anyone is to be compelled to recognize anything as beautiful/'
しかしまた, 情,実践的,
その主観性は,単に個人的,実践的な意味での主観性ではない.それは快,不快の感 倫理的な関心に対して無関心であり,その意味で没個性的である.
It has no character. . . . What shocks the virtuous philosopher, delights the camelion Poet. It does no harm from its relish of the dark side of things any more than from its taste for the bright one; because they both end in speculation. (L. 93)
かくしてKeatsの「否定的能力」の概念は,表象の領域をまず否定的側面から規定する.それは,
“That is beautiful which pleases without interest,”“Thatis beautiful which pleases without concepts.”というKantの二つのテーゼを設定し,“a spiritual region, distinct on one side from the pleasurable, the useful and the good, and on the other from truth.”29 を提示 する概念であると言える.
しかしながらもちろん,その“spiritual region” は,外界の’感覚印象への単なる隷属を意味す
るものではない.というのは,例えばKeats A^'
if a Sparrow come before my Window l take part in its existence and pick about the Gravel. (L. 31)
110 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号 一一
と説明するその心の働きは,確かに概念にも関心にも支配されない心の働き,まさに“It has no
characterプ’であり,否定的能力であるのだが,しかしもしそれが本当に,主観の働きの一切を排
除する行為であり,感覚印象への隷属にすぎないのだとしたら, Ruskinが
Let those powers fof mind ]be themselves inert, and the mind vacant of knowledge, and destitute of sensibility; and the external object becomes little more to us than it is to birds and insects; ?e fallinto the temper of the clown."
と言うように,またCroceが
To feel oneself one with Nature, to strip off humanity, to assimilate one's
own spirituality to that of external things, to make oneself Nature . . . is not
superior life . . . but low primitive life . . . lacking the element of opposition
by means of which true unity and superior life is reached."
と言うように,そこには,人間に特有ないかなる精神的価値もないはずだからである. それゆえ, Keatsが説明する心の働きを,「虚心になって油然の事物と一体化する」心の働き であると理解し,そのようなものとして説明するのは,比嚇的にしか意味をなさない説明なのであ る.そしてその比喩はまた,誤解を招きやすい単純化でもある. Keatsの説明か究極的にめざし ているものは,そのように単純なものでなく,あくまで,/説明困難な逆説的事実なのだというこ とを忘れてはならない.趣味判断か主観的であり,同時に普遍的でもあるとするKantの逆説的 なテーゼを理解するのと同じ態度が,ここでも要求されるのである.その意味で,例えば“Ode
to a Nightingale” の中で,詩人がl will fly to thee'≒“Already with thee!” というような詩
的表現で表わしている心の動きを,鳥との一体化,自己からの脱却,自己の解体,自意識からの逃 避などと規定するのは(Keats批評に頻発する説明であるか),意味のない説明であるだけでなく,
誤解を生じやすい単純化である.前回の考察で取り上げた Dicksteinの“all the odes finally
resist thatμight fTomcoれscioiぷsnesswhich is only another form of despair.”" (italics added)
というオード観も,そのような単純化に基づいてい,る.彼は,そのような体験に対して詩人か最終 的にいかなる態度をとったかを判定する前に,まずその体験の中味を,もっと忠実に検討してみる 必要かあったと言える. そのような単純化は恐らく,「カメレオン的詩人」とか「詩人は特定の自己を持たない,詩人は 絶えず他の物になりかわり他の物を満たそうとする」(L.94)といったKeats自身のことばと, 感情移入の理論とを結びつけたところから生じたのであろうが,しかしその際にそれは,感情移入 の理論をも単純化してしまっている. Theodore Lipps の感情移入理論は,主観か無になることを 意味するものではなく,むしろその逆であり,主観の働きは拡大するのだとさえ言えるのである.
The sensuous appearance of the beautiful things is certainly the ∂1りect of esthetic enjoyment, but just as certainly it is not the grou7 「of it. Rather, the cause of esthetic enjoyment is myself, 0r the ego; 一色xactlythe same ego that feels joyous or pleased “in view” of the object or “opposite” it 23
Keatsの説明も同様である.すでに見たように,表象の領域は,それかまさにかくあるものとし て存在するために,その基礎として,愛にたとえ,神聖な感情にたとえられたところの,主観の働 きを要求するのである.否定的能力について説明するKe・atSのことばの中には,単に否定的な側
「美の原理」一一Keatsのオートの研究(2) (大林)
面だけでなく,積極的な側面の説明も同時に含まれている.例えば,
Men of Genius are great as certain ethereal Chemicals operating 071 the Mass of nelふtral intellect − but they have not any individuality, any determined
Character − (L. 31) (italics added)
111
という説明かそうであるし,まだethereal things”を“real”,“semi-real”,“nothing”の三項 目に分けて説明した,次の説明においてもそうである.
things real − such as existences of Sun Moon & Stars and passage of Shakespeare. Things semireal such as Love, the Clouds &c which require a greeting of the Spirit to make them wholly exist − and Nothings which are made Great and dignified by an ardent pursuit − which by the by stamps the burgundy mark on the bottles of our Minds, insomuch as they are able to “cov.%ecrateてiihats’erthりlook u卸㎡≒a, 53)
Keatsにとって太陽,月,星さらには草花や果実か真の存在となるのは,いかなる意味において であったかを思い出せば,この三つの区分が単に強調の度合いを示すだけのものであり,“things real”といえども,“semi-real”や“nothing”と同じ原理に支配され,同じ主観の働き(“greeting of the Spirit”どardent pursuit”)を前提とするものであることは明らかである.
もちろんそれは,対象の上に,自己の感情なり注釈をつけ加えてゆくという主観的行為ではな い.もしそうであれば,それはもはや,実践的判断,概念的思考に属するものであり,否定的能力 ではないからである.それは,外界の感覚印象に隷属するような形をとりながらも,実はその感覚 印象を逆に自己の中に吸収しそれを所有し,そこに新たな客観物を措定する行為,すでに独立して 存在する対象を「見る」のではなく,「見る」ことによってはじめて形成されるような対象を,あ
るかままに「見る」ことである. Keats tii.否定的能力について,“it is everything and nothing” (L. 93)と説明する時,それはLippsが感情移入について,
Empathy is the fact here established, that the object is myself and by the very same token this self of mine is the object. Empathy is the fact ・that the antithesis between myself and the object disappears, or rather does not yet exist.'* と説明するのと同様に,客観へと向かうその道が,逆に主観の中に帰還することになるという, この逆説的事実を指摘しているのである.そのような逆説的事実を, Keatsはさらに“gusto”, “speculation'≒“intensity”などのことばを使って,明らかにしてゆく. Keatsが使う“gusto”ということばには,そのような逆説的な事実が含まれている.このこと ばはもともとHazlittが芸術作品のimitationの特質,すなわち単なる外界のcopy とそれとの 「差」を表わすために用いたことばであるが, Keatsが意味するのもそれと同じである. Keats の説明の中でそれは,否定的能力によって認識されるもの,表象の領域の内容物として位置す る.
it enjoys light and shade; it lives in gusto, be it foul or fair, high or low, rich or poor, mean or elevated − It has as much delight in conceiving an Iago as an Imogen. What shocks the virtuous philosopher, delights the camelion Poet.
112 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号
It does no harm from its relish of the dark side of things any more than from its taste for the bright one;(L.93)
否定的能力は対象をあるがままに見ようとする.全く新しく,全くはじめから,この対象について まだ何らの私念も概念もなかったかのように見ようとするごしかしそれはそうすることによって同 時に,外界の事物以上のもの(“gusto”)をそこに措定しているの=である. この逆説的事実は次のように表現することができるかも知れない.すなわち,否定的能力によっ て認識され,提供されたもの(“gusto”)は,通常の認識よりも多くもあり少なくもあり得るとい うことである35.日常的体験においては,われわれはそれぞれの現象を,原因と結果の範鴎に照 合しつつ関連づけ,また事物の理論的根拠とかあるいは事物かもたらす実際上の結果といったもの に関心を持つことによって,同時にそれらの事物を原因としてあるいは手段として考えざるを得 ない.われわれの通常の認識は,事物に関するそのようなさまざまな探究を同時に伴うものであ るs6. これに対して,否定的能力か提示するものは,通常の思考や科学的認識の見地からすれば, いかなる判断も説明も含まない,単なる事実性,データという性格を持ち得るだけである.それは 現象のありのままの姿であって,それが何であり,なぜそこに存在するのか,という必然性の問題 には及ばない37. その意味でそれは,通常の認識より小さいのである.しかしなからまた逆の見方 をすれば,われわれが日常的体験において所有しているものは,単に,概念の網によってとらえら れ,からみ合わされたところの,いわば本の見出し,事物のラベルであるにすぎない,と言うこと もできる38.われわれの日常的行動にとっては,見出しやラベルで十分なのであり,むしろ・そうで あることによって,一つーつの事実を理論的,実践的な広いパースペクティヴのもとに関連づけて 認識することが可能になるのである.これに対して,否定的能力の認識は,事実性に終止すること によって,日常的な認識が接し得なかったような事実をしばしば提示し,事物の最深部を露呈する ものである.そしてその意味で,日常的な認識より多いと言えるのである. 否定的能力によって認識されるもののこのような二面性は,同時にまた否定的能力の認識形式そ のものに内在する二面性でもある.その認識形式は,否定的側面と積極的側面を持っているのであ る. Edward Bullough は,“aestheticdistance”の概念を説明するのに,次のような表現を用い たが,それはそのままKeatsの否定的能力の二面性の説明となる.
The working of Distance is, accordingly, not simple, but highly complex. It has a negative, inhibitory aspect 一 the cutting-out of the practical sides of things and of our practical attitude to them ― and a tostti-oeside 一 the elaboration of the experience on the new basis created by the inhibitory action of Distance."
Keatsは,“speculation”ということばを使う時に,そのような二面性を示唆する.カメレオン的 詩人は,対象の明暗,すなわちそれに付属する善悪の判断や快,不快の感情といったものに,まど わされることなく対象を見ることができるのであるが,KeatSはそのことの理由として,“because they both end in speculation.”と言っている.この“speculation”が美的観照(aesthetic contemplation)の意味であることは,そのコンテクストから推察できる’が,しかしその意味のい かんに関わらず,この文章が全体として意味しているものは,「いずれの内容物も“speculation”
のうちに終止し,そこに限定されるから」ということ,つまり否定的な側面, Bulloughのことば
で“inhibitory aspect” である.そしてこの意味において,“speculation”は,活動範囲を制限さ れた意識状態であることが解る.しかしながらこのことばはまた別のコンテクストでも使われる.
『美の原理』 Keatsのオートの研究(2) (大林)
the excellence 6fevery Art is its intensity, capable of making all disagreeables evaporate, from their being in close relationship with Beauty and Truth − Examine King Lear and you will find this exemplified throughout; . . . but in: this picture we have unpleasantness without any momentous depth of
speculation excited, in which to bury its repulsiveness 一 (L. 32)
ここでぱspeculation”ぱmomentous depth”として説明される.そして づけられる.すなわち, Bulloughの言う“elaboration of the experience” は集中と深化をもたらす,極めて能動的な意識状態なのである. 115 “intensity”に関連 である.つまりそれ “intensity"ぱspeculation”と密接な関係で使われているか,それぱspeculation" (特殊な 認識形式としての意識状態)に対して,その結果,つまり“speculation”が持つ感情喚起的側面 に,言及しているものと理解できる.そしてここでもまた,同じような二面性が示唆される. “intensity”が;喚起される強烈な感情,平板な日常生活の感情よりはるかに大きい感情,を示すこ
とばであることは言うまでもない.そしてそれか上記の“elaboration of the experience” という側 面から生じてくるものであるこども明らかである.しかしまた,それは単に強烈な感情であるだけ ではない.それは実人生の感情とは質的に違うものである.上の一節において,“disagreeables”, “unpleasantness”,“repulsivenss”などのことばで説明されている,事物の属性は,日常的認識が
伴うところの,事物の因果性,実践的意味合いのことである.そのことはもうーつの一節, with a great poet the sense of Beauty overcomes every other consideration or rather obliteratesall consideration.”(L. 32)
という一節に関連させてみると明らかになる.つまりこれぱinhibitory aspect” とパラレルをな す,“intensity”のもう一つの側面なのである.このようにして,喚起された感情は,実人生の感
情より強烈なものであると同時に,一方でまたそれは実人生の感情から切り離された感情,われわ れを感情に隷属させるのでなく,むしろわれわれを実人生の束縛から解放するような,静穏な感情 でもある.だから“havens of intenseness” (L.59)というoxymoronicな表現も生じてくるの である.“intensity”によってKeatsが説明しようとしたのは,実に,カタルシス論であると言 える. Keatsの説明と, Butcherが解説するAristotleのカタルシス論との類似は顕著である. (もちろん, Keatsの場合は, Kinghearをひき合いに出しているとはいえ,もともと絵画批評 から出発したものである.つまり彼の説明は,単に悲劇における憐れみと恐怖に限らず,芸術一般
の感情喚起的要素を問題にしているのではあるが.)
The KathaΓsis, viewed asa refining process, may have primarily implied no more to Aristotle than the expulsion of the disturbing element, namely, the pain, which enters into pity and fear when aroused by real objects, . . .
The Aristotelian theory asserts that the emotions on which tragedy works do indeed in real life contain a large admixture of pain, but that by artistic treatment the painful element is expelled or overpowered.'"'
このようにして,例えば“Ode to a Nightingale” 第7連冒頭の“Thou wast not born for death, immortal bird!”に示唆されているような,憧憬,願望の感情も,美的観照の“intensity” に関与してゆく時にはノその現実的バ実践的な意味合いを失わざるを得ないことが理解できる. 憧れや願望といったものは,現実には,それがよってきたるところの原因やその結果などを意識さ
114 高知大学学術研究報告 第26巻 人文科学 第6号
せ,そうすることによって不完全な自己をわれわれに意識させずにはおかないものである.しかし その感情が“intensity”を獲得した時には,詩人の意識はただひたすらその憧れや願望の対象その
ものに集中し,現実と理想,自己と世界の間を忙しく行き来するような自己探究 Shelleyか
We look before and after And pine for what is not: (“Toa Skylark", 86-87)
とみごとに表現してみせたような,自己探究の試みからは離れてしまうにちかいない.そしてそう することによって,かえって,単なる自己探究がなし得なかったような,自己の最深部へと導びく 道を用意するかも知れないのである.愛か純化され,感情が浄化されるというのも,そのような意
味においてであり,すでに見だl have the same Idea of all our Passions as of Love they are all in their sublime, creative of essential Beauty.”というKeatsの説明も,そのような意
味においてであったことが理解できる.そしでsublime”には,美的観照の意識状態,さらには “intensity”の側面がこめられていたことが理解できるのである.それは単に“sublime”に限ら ず,“abstract”,“intellect”,“spiritual”などの,抽象的なニュアンスのことばの使用についても 言えることである.彼は,具象的なニュアンスのことばが予想されるようなコンテクストにおい て,それらのことばを使用したが,それは,それらのことばによって彼が,美的事実の中に存在す るこのような純化の要素,深さの要素をも表現したかったからに他ならない.そして,このように 純化され深化されたものとしての表象の領域,それを詩人は切り開いてみせる,それは夜鳴島のよ うに世に益する行為ではないか,そのような考え方にそこからKeatsは詩人としてのスタートを 切ったのである. このようにして彼の説明は完結する.われわれの立場からすれば, Keatsの説明をさらに延長 させて,このような集中と深化の働きがいかなるものであるか膏,さらに検討する必要かある.そ れというのも,われわれの課題は,実践の第一原理に従って, Keatsが何を知っていたか,では なく,あくまで, Keatsが何をなしたか,の解明にあるのであるから.しかしながら, Keatsに とってはそれは不必要であった.客観的事実の世界の陰に隠れた表象の領域,価値の領域,それを 決して見逃さない心の働きが,過去の偉大な芸術家の中に確か叱存在したし,また偉大な芸術に感 応する自己の中にも,それは確かに存在する,彼にとってはその確信だけで十分だった.それをそ れ以上に理論化する必要はなかったのである.過去の偉大な芸術家がっくり出した美なるもの,そ して彼か自らもそこに一片をつけ加えんとした美なるもの,それに対して彼が与えることばは,最 終的にぱmystery”である.彼か美的事実そのものにせまる時,そこには,知的窒一息状態とも言 えるような態度が支配的になる.
The space, the magnitude of mountains and waterfalls are well imagined before one sees them; but this countenance or intellectual tone must surpass every imagination and defy any remembrance. I shall learn poetry here and shall henceforth write more than ever, for the abstract endeavor of being able to add a mite to that mass of beauty which is harvested from these grand materials, by the finest spirits, and put into ethereal existence for the relish of one's fellows. (L. 71)
“I shalllearn poetry here.”と彼は言うが,しかしこの“here”は,そこから学んで生み出す実 際の詩によって例証する以外ないのである.だからそれぱhieroglyphics”である.
「美の原理」 Keatsのオートの研究(2) (大林)
The spiritual is felt when the very letters and points of charactered language ・ show like the hieroglyphics of beauty; 一 the mysterious signs of an immortal freemasonry! “A thing to dream of, not to tell!”41
115
Keatsにおいて,否定的能力の概念は,美的事実を説明するものであると同時に,何よりもまず, 美的領域に対する彼の不可知論を表わすものであったと言える.
Coleridge, for instance, would let go by a fine isolated verisimilitude caught from the Penetralium of mystery, from being incapable of remaining Content with half knowledge. (L.32)
そして, Keatsが美的事実の核心にせまり,それを本当にわかものとしていたこと,それを最も よく証拠立てるものは,まさにこの不可知論に他ならないのである.なぜなら,われわれは,例え
ばCarrittの編になるPhtJosofihtes of Beautyを通読したのちにおいてもなおかつ, Ruskinが
Why we receive pleasure from some forms and colours, and not from others, is no more to be asked or answered than why we like sugar and dislike
wormwood. The utmost subtility of investigation will only lead us to ultimate instincts and principles of human nature, for which no farther reason can be
given than the simple will of the Deity that we should be so created. ■・'
と言って表現したような,率直な不可知論を,心の中心部で感じずにはいられないからである. だから,美的事実の説明は,それがいかにすぐれたものであるとしても, Keatsにとってはあ くまで二義的な意味しか持だない.これまでわれわれが検討してきたKeatsの説明が,ほとんど すべて1818年以前のものであったことを注意するのは重要なことである.それは,「美の原理」を めぐって,大きな考え方や態度の変化が生じたことを意味するのではない. Keatsに関しては年 代記的アプローチはあてはまらないということを, R. H. Fogleは指摘しているが43,確かに, Keatsの発展過程の中にあるのは,根本的な方向変化ではなく,一つの中心点をめぐる発展,一つ のものがembryoの状態から偉大な誕生に向かって胎動する過程,内なるものがふさわしい形式 を見つけて外化しようとする過程であった,その意味で,「美の原理」をめぐる彼の岑まざまな発 言,理論化の努力は,
LO! l must tella tale of chivalry,
For large white plumes are dancing in mine eye (“Specin!enof an Induction”, 1-2) ■ に代表されるような初期の作品と同様に,挫折の産物,あるいはembryoの胎動であったと言え るのである.「美の原理」が実践されたものとして実現すれば,もはや脱ぎ捨てられる外皮にすぎ なかったのである.われわれは, Keatsのさまざまな発言を,そのようなものとして位置づけ, 総括してみなくてはならない. 1 , . . 「美の原理」をめぐるそのさまざまな発言を,全体としてふり返って総括するならば‥そこに 一つの顕著な特徴を見出さずにはいられない.それは,すでにこれまでの考察の中で留意してき た点であるが, Keatsの説明が,古来の芸術哲学からのさまざまな発言と驚くべき一致を示して いるということである.彼の説明を美的観照の理論と呼ぶこともできるかも知れないが,しかし