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『明譽眞月大姉葬儀写真帖』からみた近代の葬列の肥大化

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Academic year: 2021

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『明譽眞月大姉葬儀写真帖』

からみた近代の葬列の肥大化

An Examination of

Photo Album of the Funeral of Teru Araki

to Analyze the Process of Overgrowing of Funeral Processions in the Modern Age

山田慎也

YAMADA Shin’ya

はじめに ❶故人と写真帖の概要 ❷自宅での様子 ❸供物としての蓮華 ❹多様な供物 ❺葬列 ❻常照院での儀礼 まとめにかえて [論文要旨]  現代の葬送儀礼は,告別式の成立と葬儀産業の成長が基底にあって構築されている。告別式は人 口の流動性の高い都市に合致した葬儀形態であり,葬儀産業は,流動化によって弱体化した地域コ ミュニティーを補完することで成長していった。これらの変容は,近世以来継続した葬儀の中心的 儀礼である葬列が肥大化した結果,近代化の中で流動化する都市住民の葬儀としては適合しなくな ることで次第に廃され,告別式に代替していったことは,近代の葬制研究のなかで明らかにされて いる。よって当時の葬列の肥大化の解明は,その後の葬儀の変容を考える上で重要な要素であり, より詳細な検討が必要とされる。  しかし,葬列の展開に関する研究は基本的に文献に基づくものが多く,スペクタクル化として外 部からの視線に関する言説の考察が中心であり,その視線の対象となる葬列の具体的な形態やその 肥大状況についてはいまだ十分に解明されたわけではない。そのため,その後の衰退への過程や告 別式における儀礼要素の流用の状況も明らかになっているわけではない。  本館所蔵の『明譽眞月大姉葬儀写真帖』は,明治末期の葬儀過程を写真帖にしたものであるが, 自宅から葬列をして寺院までの写真記録は希有であり,極めて貴重な資料である。この資料による と,当時の葬列の具体的な形象が明らかになるだけでなく,葬列の肥大状況を見て取ることで,そ の後の告別式において見せる葬儀としての祭壇の成立を促す様も把握できる。さらに供花としての 蓮華や生花などの多様な形態の供物が祭壇脇に安置されつつも,スペクタクル化を担う葬具は大き く転換しつつ,現代の葬儀を形作るようになっていったことがわかる。 【キーワード】葬送儀礼,葬列,告別式,葬祭業,写真

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はじめに

 人口の流動性が高い都市においては,葬送儀礼のあり方もまたそれに対応した形態に変化してい る。特に近代以降,都市に人口が流入,集中し,地域コミュニティーが弱体化していくことで,葬 送儀礼は従来の形態を維持することが困難となり,新たな形態をうみだしていった。東京において は,大正期に従来の葬列が次第に廃されるようになり,それに替わって告別式が行われるようにな るが,その背景には人口の流入による地域コミュニティーの弱体化が要因としてあげられている。 さらに地域コミュニティー機能の代替として葬祭業が納棺や役所の届け出などを代行するなど,葬 儀産業の発達も誘引することとなった[村上 1990]。  告別式の成立と葬儀産業の成長は,現代の葬送儀礼の根幹となっていったものである。このよう な現代の形態を生み出す以前には,葬列を中心とした葬儀が行われておりそれが肥大化していった が,その形態は流動化した社会状況には適合するものではなく,次第に衰退していった。このよう な葬列の肥大化とその衰退は,現代の葬儀の基礎的な状況をうみだす前提となっており,明治期か ら大正期にかけての葬列の考察は現代の葬送を分析するためにも重要な課題である。  そのため従来から関心が寄せられ分析対象となってきた。例えば霊柩車の意匠を通して,葬儀の 変容を大衆文化論として分析した井上章一は,霊柩車の成立の背景として明治期の葬列の様相を葬 儀産業の成長との関連によって描き出している[井上 1984 152]。また村上興匡も,明治期の葬祭 業について中心的業務であった葬列を中心に調査を行っており,葬祭業の立場からの葬列を考察し ている[村上 1990 40-42]。そして個々の家レベルでは,東京都北区の旧家の葬儀支出帳をもとに, 当時の葬儀産業の依存,なかでも葬列道具の使用状況などの分析が行われ[山田 1996a 213-217, 1996b 442-446],さらには葬列の位置づけと告別式の関係についての分析など[山田 2013],当時の 葬列の肥大化の状況については研究が蓄積されつつある。  だが,従来の研究は,基本的には文献をもとに調査が進められてきたため,葬具や葬列の状況な ど具体的な形態については,断片的な写真や図版などに頼らざるをえず,詳細が明らかになってい るわけではない。井上の場合には葬列のスペクタクル化を扱いながらも,その肥大化の分析は葬列 を取り巻く言説が中心であり,言説の焦点となった葬列そのものの実態は十分に把握されていると は言い難い。さらに村上の場合も文献や聞き取り調査によるため,具体的形象への言及はあまり行 われていない。  そうした研究状況下で葬列で使用された葬具や臨終から葬儀までの過程について,具体的にはど のような形象であり,その多様性や儀礼の過程が明確になっていないことも多く,形態の把握がな された上で,それをとりまく言説を取り扱う必要があり,葬列をふくむ近代の葬制を改めて見直す ことが求められる。  ここで取り上げる本館所蔵の『明譽眞月大姉葬儀写真帖』は,1911(明治 44)年の東京日本橋魚 問屋の老母の葬儀の記録写真帖である。それは明治末期におけるある富裕な家の葬儀について,自 宅出棺前から葬列,そして寺院での葬儀式まで,そのプロセスを 18 枚の写真で構成したアルバムと なっている。明治期の葬列については,ある程度写真が残っているので分析対象として取り上げら

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れることもあるが,一般の葬儀での出棺前の自宅の様子から葬列,寺院での儀礼まで,その経過を 追った写真帖は稀有のものであり,当時の葬儀のビジュアル的な側面において当時の様相を示す極 めて貴重な資料である(1)。  そこで本稿では,従来の研究においてビジュアル的には必ずしも明らかにされてこなかった葬列 の状況とその肥大化について,形象的に明らかにする事を目的としており,これにより当時の葬儀 の情景をかなり詳細に把握することが可能となる。しかし単に当時の葬列の一形態の解明だけにと どまらず,本稿は現代の葬送儀礼の連続性と非連続性を解明することにつながるものであり,近現 代の葬制研究の展開に寄与するものと考える。

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故人と写真帖の概要

 この写真帖は縦 14.7㎝,横 20.5㎝の横綴じで,モノクロ写真が印刷されており,表紙と裏表紙, 20 枚の写真頁で構成されている。表紙は故人の肖像写真が中央にあり,右側に「明譽眞月大姉  俗名荒木照 (行年八十二才)」,写真を挟んで左には「明治四十四年二月四日逝去 此肖像ハ二十 年前ノ撮影」とある(写真 1)。厚手の洋紙に写真は印刷され,横右側が糸で綴じられている。か つては背表紙を紙で包んでいたようで,その跡がみられる(写真 2)。  目次はなく,1,2 頁にまたがって白念坊如庵による詞書があり,自筆の詞書を写真で写して掲載 している(写真 3,写真 4)。葬儀の写真は,3 頁目「荒木自宅棺前ノ景」から始まり,4 頁から 13 頁までが日本橋自宅周辺において蓮華の造花など供物が並べられている様子,14,15 頁は菩提寺の 深川常照院近くでの供物,16,17 頁は常照院近くでの葬列の様子,18,19,20 頁は常照院での葬儀 と本堂内外の供物である。  裏表紙には,「明治四十四年三月十日五七日法要ニ際シ 荒木平八謹製 東京製版所印刷」とあ り,三十五日の法要に際して製作し関係者に配布したものと思われる。事実,複数存在することが 判明しており,本館が所蔵しているものは古書店を通して購入したものであるが,故人の嫡孫の妻 である荒木文子氏によると,荒木家でもこの写真帖を所蔵しているという(2)。  このアルバムに掲載されている荒木照氏は,1911(明治 44)年 2 月 4 日に 82 才で亡くなった。 図 1 荒木家の黒枠の死亡告知広告(『都新聞』1911 年 2 月 6 日付 ) 同年 2 月 6 日付『都新聞』に は黒枠の死亡告知広告が出さ れており(図 1),それによる と「八十二歳之高齢を保ち候 処昨年来長病に罹り」とあり, 前年から患っていたことがわ かる。葬儀は 2 月 7 日に行わ れ,午後 1 時に日本橋本舟町 1 番地(現中央区日本橋室町 1 丁目)の自宅を出棺し,深川 区仲大工町(現江東区清澄 3

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丁目)の浄土宗常照院で仏式の葬儀をおこなう旨告知されている。この広告は,男(息子の意)荒 木平八,養孫荒木住司ほか,親戚総代として,三輪八百吉,佐々木定吉,青木弁次郎,白沢武平, 林縫之助,吉川半七の名前がある。  アルバムの 2,3 頁にある詞書きは以下の通りである。 荒木氏の老母は女丈夫と云つべし。良人は稲平と称し魚河岸の問屋也。明治の初,忝くも魚菜 御用を蒙り謹仕二十余年其子平八号潮湖相続て今日に至る。実に老母の助あづかりて力あるな り。老母は侠風ありて江戸児の真面目を存すれども家事を整理し常に余財を蓄ふるなど良家の 内子たるに負かず。是れ所謂女丈夫まして也。八十余歳の天寿を完うし,多子多孫膝下に遊戯 すなるは,現世に於て既に極楽の境界にてありき。其安養浄土の女菩薩たる事疑ふべうもあら じ。余や多年の交よく其人を知り親しく其事を視つゝあり。歓喜の余り筆とりてかくの如し  明治辛亥二月       白念坊如庵  これによると故人のひととなりとともに荒木家の様相が把握できる。荒木家は現在では魚問屋と は全く関係ない事業を行っているが,明治期には魚問屋であり夫の稲平氏は照氏とともに魚問屋を 営んでいたという。明治になると宮中に魚を納めて 20 年余となり,両氏の子であり葬儀の喪主であ る荒木平八氏もそれを継いでいた。荒木文子氏によれば,喪主の平八氏は宮内省大膳職に勤めてお り,明治天皇の日光行幸にも従ったとの話が伝えられているという。  魚問屋であったことは他の資料からも伺える。1851(嘉永 4)年の日本橋四組魚問屋再興時の問 屋名簿によると,本船町組に「正吉地借 稲屋平八」の名がある[魚河岸百年編纂委員会 1968 106]。 さらに 1875(明治 8)年,明治維新以降,混乱し不景気となっていた日本橋魚河岸では,おもだっ た魚問屋や仲買が「魚販会社」の設立を計画した。その 30 人の発起人の中には荒木平八(3)の名前が あり,さらに親戚総代に名を連ねている三輪八十吉の名前もみられる(4)[魚河岸百年編纂委員会 1968 207-211]。下って,1889(明治 22)年の魚河岸の奉納額には 108 軒の問屋名があるが,そのなかに 「稲平」の屋号が見え[尾村 1984 149],1924(大正 13)年の日本橋魚市場組合組合員商号簿にもあ る[魚河岸百年編纂委員会 1968 569]。さらに魚市場移転問題を機に誕生した魚市場青年立志会のメン バーには,養孫の荒木住司氏が屋号稲住として加わっている[魚河岸百年編纂委員会 1968 320]。  さらに詞書によれば,荒木照氏は,侠風があって江戸っ子の風格を有していたが,家事を整理し 常に財を蓄えるなど,良家の内儀にも負けず女丈夫であったとある。これについても荒木家では, 「照おばあさんは女丈夫であった」と伝えられていたと荒木文子氏は述べており,荒木家もまた故人 の照氏も,決して詞書だけでの姿ではなかったことがわかる。以上のように荒木照氏の葬儀は,魚 問屋の荒木家のものとして営まれたのであった。

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自宅での様子

 明治期の葬送は近世以降重視されていた葬列が儀礼の中心であった。当時の葬送は自宅で通夜を

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して納棺をする。特に通夜は丸通夜といって,一晩中起きていて読経も鳴り物などが入り,また飲 食なども盛んでかなり賑やかであった。そして通夜僧は寺院に戻り,人々も翌朝風呂を浴びて出棺 を待った。菩提寺からお迎え僧がきて読経をし出棺となる[村上 1990 39-40]。棺は輿などに納めら れ,数十人から数百人の規模で葬列を組んでいく。参列者も基本的には喪家に集まって,行列に連 なっていくのであった。よって黒枠の死亡告知広告も,寺院での式の開始時間ではなく,葬列が出 発する自宅の出棺時間が告知されており,その時間に参列者は喪家に行くことになる。そして葬列 は菩提寺に向かい,本堂で引導等の中心的な儀礼を行ったあと,埋葬や火葬をおこなった。  さてこの写真帖で貴重なのは,出棺前の自宅での様子が掲載され,明らかになっていることであ る。明治期の葬儀写真は葬列を写したものが多くみられる。しかし出棺前の自宅室内の写真は管見 の限り筆者は把握しておらず,この情景は極めて貴重な写真であると考える。  写真帖の 3 頁は「荒木自宅棺前ノ景」である(写真 5)。八畳程度の座敷奥に寝棺が安置されている。 部屋は外に面しており,座敷と同じ高さに張り出しの床を仮設し茣蓙を敷いている。上部の鴨居か らはテントを外に張り出しており,仮設の床と屋根は読経の際に多くの参列者が座れるようにする ためと思われる。奥に安置されている棺には,現在の棺掛けとは異なり,ふっくらと綿が入ったよ うに膨らんでいる。さらに袵や袖らしき部分も見ることができるため,掛無垢であると思われる。  壁面には特に幕などが張られていることもなく,窓から光が入ってる。棺前には棺の大きさから 6 尺(5)程度と思われる長机に白布が掛けられ,白木位牌,白木の膳が置かれている。白木の膳には枕 飯があり箸が挿さっている。その両脇には台付きの鷺首花瓶に挿した白蓮華が一対のほか,台付の 小蓮華が並べられているのがみえる。前の小机に燭台,香炉などがあり,ここで拝礼をするように なっている。その周囲にも小型の手桶に挿した造花や,蓮華,菊や梅など造花が複数対見え,さら に台付きの蓮華も一対ある。棺前の蓮華が白に対し,これは色の加減からおそらく 5 尺物の銀蓮華 と思われる。  室内にある造花は,基本的に猫足が四隅についた白木台に鷺首の花瓶や 1 尺程度の高さの手桶が 結びつけてあり,そこに造花が活けられている。白木台には,いずれも木札が付けてあることから, それが関係者の供物であることがわかる。  棺にかけた掛無垢は,近世以来,葬儀の華美化が進んでいく中でその豪華さを競うものであり, 掛けられた枚数を誇り,近世期には取り締まりの対象ともなっていった[西木 1999 138-139]。明治 期の風俗を描いた『東京風俗志』には,男女によって襲の色が異なり,女性は上を白にして,下は 33 歳までは蒲黄,それ以上は赤にしたという[平出 1901 33]。明治期の葬列を描いた絵巻物である 本館所蔵の「功道居士葬送図」にも,淡い黒地に綿の入った赤い裾の掛無垢を棺に掛けている様子 が描かれている(図 2)。  以上のように自宅での棺前飾りはきわめて簡素である。ただし,輿に納める前の棺の段階では掛 無垢が掛けられており,むしろそれによって葬儀の豪華さを表出していたものと考える。掛無垢は 葬列の際にもそれを見せる場合があり,本館所蔵の「功道居士葬送図」のようにそれを掛けて上屋 で覆う場合や,引戸駕籠で棺を運ぶ際に,わざと掛無垢の裾を駕籠の引戸から出して見せる場合な どがあったという。いずれも葬列でその葬儀の豪華さや規模を表現のための葬具であった。荒木家 の場合には寝棺の白木輿を使っているため,裾を出したか否かはここでは不明であるが,それでも

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葬列の用意として掛無垢を 使用しているところに,当 時の葬列重視の発想が現れ ている。  その一方で,現在の祭壇 につながるようなものは見 られず,簡単な長机に,位 牌,膳などをおき,小机に 香炉や燭台のほかは関係者 の供物が所狭しと並べら れ,ある意味雑然としてお り,自宅での飾りは人目を 意識した祭壇として,装飾 図 2 輿と掛無垢 「功道居士葬送図」(本館蔵) 性を帯びることはなかったことがわかる。しかし長机を使用することが,すでに明治末期に行われ ている点では,その後の祭壇の誕生を思わせる兆しもまたみてとることができる。

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供物としての蓮華

 さて葬列の肥大化を招く大きな要因が,実は供物となる造花や生花などの贈答であった。こうし た贈答は基本的には近世期にはあまり見られなかったものである。ただし,造花に関して,すでに 葬儀や法事など仏事に使用されていることは大名家の記録から見ることができる。  近世史研究の岩淵令治氏によれば信州松代の大名である真田家は,国元と江戸にそれぞれ菩提寺 があり,江戸の菩提寺盛徳寺では,歴代当主やその正室などの法要が営まれていた。その際には白 蓮の作花(造花)が施主である真田家より贈られていた[岩淵 2004 522-523]。さらに葬儀でも造花 が使用されており,1862(文久 2)年に亡くなった藩主の嫡子の葬儀においても,高さ 2 尺の龕前 用の白蓮華,御牌前用の紅白牡丹作花,御牌前高机用高さ 3 尺の金銀牡丹,位牌隠し用の高さ 1 尺 の紅梅作花が使用されている。こうした作花は糸花屋で購入されている(6)[岩淵 2004 535]。  よって近世期にはすでに葬儀や法要で蓮華や牡丹,梅の造花が使用されていることがわかる。ち なみに位牌隠しとは位牌前に置かれる造花と考えられる。現在,岩手県宮古市では,高さ 30㎝ほど の金蓮華の造花を葬儀の時に位牌の前に置いており,この造花のことをやはり位牌隠しと呼んでい る。近世期のものと連続性を持つかどうかは明らかではないが,やはり 1 尺という大きさからも類 似の使用法と考えるほうが自然である[山田 1992 492]。  ところが近代になると,こうした造花や生花などの数が増えていくだけでなく,その形態や種類 も多様になっている。造花の多様さについては,この写真帖からもその様相を見ることができる。 造花の頁は 4 頁「芝河岸納屋前」(写真 6),5 頁「白澤氏店前」(写真 7),6 頁「尾張屋納屋前」 (写真 8),7 頁「中河岸納屋前」(写真 9),8 頁「中河岸」(写真 10),9 頁「中河岸」(写真 13), 10 頁「中河岸」(写真 12),13 頁「本船町壱番地々先」(写真 15)である。これらの頁は出棺前の

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造花の様子であるが,引導などの儀礼を行う深川の常照院に到着した時点での写真が 14 頁「常照 院入口」(写真 16),15 頁「常照院内」(写真 17),19 頁「常照院内」(写真 21),20 頁「常照院内」 (写真 22)があり,さらに供物としての放鳥籠の写真が 11 頁,12 頁と 2 頁にわたってあるため, 供物の写真が 20 頁の内 14 頁と 7 割を占めている。つまり写真集の目的はこうした大量の供物が供 えられていることを記念することも含まれていることがわかる。  そのなかで圧倒的に多いのが蓮華の造花である。蓮華は基本的に芯となる竹に蓮の花や蕾,葉を 枝として分岐しているもので,植物のハスとは形態が異なる。これは仏前に供えた立花を造花とし てデフォルメして造形された形態と考えられる。蓮華は中心の芯から枝として分離しているが,仏 具業者や葬儀業者は本来の立花の形態をふまえ,花と葉の枝の数で 21 本立,25 本立など,「本立」 という用語を使用する(7)。  このような芯立ちの蓮華の形態は大きく 2 種類に分けられる。一つは 4 頁「芝河岸納屋前」(写 真 6),5 頁「白澤氏店前」(写真 7)にみられるような竹筒に入った蓮華である。竹筒は概して大 型の物が多く,屋根や人との対比から総高 6 尺から 7 尺程度のものとみられる。竹筒は 1 尺 5 寸 から 2 尺程度であり,根元には白木の板で雲形に切り込んだものを 2 枚で十字に組み,竹筒を差し 込んで足にしている。このような竹筒は蓮華の造花だけでなく,生花なども挿すために使用してい る。そして提供者の名前を書いた板札が竹筒に付けられている。竹筒自体はそれを見せるための物 ではないことがここからうかがえる。  もう 1 種類が 10 頁「中河岸」(写真 12)にあるような台にくくりつけたサギクビの白磁の花瓶に 芯立ちの蓮華を挿したものである。これは竹筒の蓮華よりも丈の小さい蓮華が多く,総高 4 尺ない し 5 尺ほどであり,全体に小柄である。台は白木で,板で切り出した猫足が四方に付いている。花 瓶は中程が膨らみ首の部分が細く口が少し開いているのが鷺の首のようなのでサギクビ(鷺首)と いう。この花瓶には家紋を入れている。この場合名札は台の向かって左側にサギクビと同じ高さの 木札を付けられており,花瓶を見せるように名札を付けていることから,竹筒とは位置づけが異な ることがわかる。なおこれらの蓮華は白色と思われる。  この竹筒型の大型の蓮華は,4 頁「芝河岸納屋前」,5 頁「白澤氏店前」,6 頁「尾張屋納屋前」,7 頁「中河岸納屋前」,8 頁「中河岸」の頁に見られる。4 頁では,納屋前に 25 本以上が林立し,おも に魚河岸会やそのほか魚河岸の問屋,仲買業者,関連の家屋共有組合などの名札がある。  この 4,5 頁の見られる蓮華は,白ではなく金もしくは銀の可能性が強い。それは,20 頁(写真 22)の常照院の本堂に置かれた蓮華を見ると,写真両脇の「魚河岸□三佃金」の蓮華は白に対し,写 真右 2 番目の「家屋協同組合」の蓮華は光を反射して色が濃い。この家屋協同組合の蓮華は 4 頁の 左から 2 本目に見え,4 頁,5 頁はいずれも同じ色の蓮華である。  現在,蓮華の造花は葉などの本体を白,金,銀,緑,花の色を金,銀,白,紅色であり,金,銀, 白は花も葉も同色で作るのが基本である。一方,葉と花の色を変える場合もあり,現在では,葉と 花の色の組み合わせが金ピンク,金白,金銀,銀紅色,銀白,緑紅色,緑白などがある。東京本郷 の葬儀社で明治期の葬儀について聞き取りをした村上興匡氏によれば,蓮華は当時,金赤,銀赤の 区別があり対単位で注文を受けたといい[村上 1990 58],当時もすでに葉が金や銀で赤の蓮華があっ たことが指摘されている。ちなみに赤というのは蓮華の色を考えると紅色と思われる。

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 この荒木家の 4,5 頁の蓮華は,花の色が葉と同じか赤かは写真からは判定できないが,白でない ことは推定できる。花ビラは紙を絞って両端を留め中程を広げて作ったものを丸く貼り合わせたも のであるが,葉の方は現在のプレスをして型どりしたものと異なり,葉を丸く切って,浅く笠状に 丸めている。ところが,6 頁や 7 頁の蓮華は葉の葉脈がはっきりしているが,4 頁の蓮華ほど葉の色 は濃くなく,さらに花は葉の色とは異なるので白色もしくは色彩が異なる淡色の花が使用されてい る可能性が強い。  また 9 頁(写真 11),10 頁(写真 12)のサギクビの花瓶に挿した蓮華も,4 頁(写真 6),5 頁(写真 7) の蓮華と同様,葉と花の色は違うかどうかは写真からは判定がむずかしい。しかし,いずれにして も多様な種類の蓮華の造花が圧倒的に多く,当時の葬送の供物の中心であったことがうかがえる。  かつて蓮華が葬儀の供物として重要であったことは,全国各地で聞くことができる。たとえば和 歌山県の古座川流域である旧古座町(現在の串本町),古座川町も,蓮華が最も重要な供物であり, この地域で成立した初の葬祭業者はもともと蓮華の製造をしていた業者が発展したものであった。 しかもそうした業者がいるとともに,地域によっては自前で作っているところもあり,1990 年代に なっても蓮華の製作を継続している集落もあった[山田 2007 152-154]。  荒木家の蓮華の供物の提供者は,おもに日本橋魚問屋関係が多く見られる中で,歌舞伎役者か らの造花を写した写真が 6 頁(写真 8),7 頁(写真 8)にわたってみることができる。6 頁は蓮華 と生花の花筒が双方見えるが,手前の蓮華は当時の歌舞伎役者である「尾上梅幸・尾上丑之助」, 「十一代目片岡」とは十一代目片岡仁左衛門,「市川門之助・市川男寅」,「中村芝翫・中村児太郎」 などの名前が見える。その奥の生花は相撲の親方とおもわれる「甲山力蔵」もあり,芸能関係とし てまとめられている。  7 頁はよく見ると 6 頁と連続しており,「尾上梅幸・尾上丑之助」の右側が,7 頁左の「沢村長之 助」につながり,左から「尾上栄三郎」,「市川段四郎・市川猿之助」,「沢村宗之助」,「沢村宗十郎・ 助高屋高助」,「尾上菊五郎」とあり,この両頁は,歌舞伎役者からのものとしてまとまっている。 これらの役者を見ると,当時 9 代目市川團十郎は 1903(明治 36)年に亡くなっており,まだその名 跡を継ぐ人もいないので,ほぼ当時の著名な役者が揃っていたものと思われる。  歌舞伎と魚河岸との関係は深く,近世以来芝居小屋には,ひいきの俳優や座方のため後援団体が 商品を芝居小屋の前に積み上げて景気づけをした。魚河岸は吉原や青物市場とともにこの積みもの をする盛もり場が特定されているほど密接であり,さらに引き幕なども贈って後援をしていたという [小池 2000 277,尾村 1984 257-258]。とくに歌舞伎の芝居演目の一つである「助六」は,浄瑠璃の部 分が河東節で行うようになったが,その河東節を始めた十寸見河東が天満屋藤左衛門であり,この 天満屋の名跡が魚河岸預かりになっていた。そのため河東節で助六を行う際には魚河岸の承諾が必 要であり,明治期になってもこうした関係が続いていた[魚河岸百年編纂委員会 1968 145-146,尾村 1984 262-263]。  以上のようなことからも,供物の大部分は蓮華であり,その様子をアルバムに大量に残すほど, 当時重視されていたことがうかがえる。さらに主だった歌舞伎役者からの供物として蓮華が供えら れ,それをまとめて写真に残すことで,荒木家としてもそのつながりを誇る部分があったものと考 えられる。

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多様な供物

 蓮華の他にも,多様な種類の供物を見ることができる。すでに 1 頁の「荒木自宅棺前ノ景」では, 小型の手桶に挿した造花である蓮華,菊や梅など造花をみることができる。また 13 頁「本船町壹番 地々先」(写真 15)には,小型の造花が集められている。本船町 1 番地とはまさに荒木家の住所で あり自宅前に並べられているものである。  まず目に付くのが高さ 1 尺 5 寸程度の小型の細長い手桶に蓮華の造花を活けたものであり,一対 並べて細長い白木の台にくくりつけているものが,目視できるものだけで 8 台ある。葉の色は濃く 葉脈が見え,蓮華は白っぽい色をしており色違いであることがわかる。  さらに後部には二対のわりと大きな蓮華が見えるが,この蓮華は単色のようである。しかも見に くいが,花瓶の部分が口の開いた真鍮の仏具用の花瓶である。こうした仏具を蓮華などに組み込む ことは,昭和初期の東京都北区の事例などでも見ることができるので[山田 1996b 446],当時とし てすでに存在していたことがうかがえる。ちなみにそのうちの一対を贈ったのは,奇術師の祖とさ れる「松旭斎天一」である。  そのほか後ろの方には,台の上にさらに竹筒があり梅の造花を活けたものである。かなり小さ な花がたくさん枝に付けている。また最前列には,高さ 1 尺足らずの豆蓮華があるが,台が二重に なっており,長細い一つの台の上にさらにそれぞれ木製の猫足台があり,その上に黒いサギクビの 花瓶があり,蓮華を挿している。つまり上述の 4 尺程度のサギクビの花瓶に挿した蓮華の造花の小 型版であり,小型ゆえに長細い一つの台に一対一緒に飾っているものである。  以上はいずれも造花であるが,11 頁(写真 13),12 頁(写真 14)は大型の籠が写っている。こ れは放鳥(はなしどり)である。放鳥は近代によく使われれた供物であった。写真に写った形態 は,高さ 6 尺以上の大きな目籠を伏せた形であり,直径は 3 尺はあると思われる。台には猫足が 4 本ついており,さらにこれを担ぐための棒が 2 本ついている。駕籠の上部には牡丹や菊,藤の造花 が,花笠のように頂点から広がって垂れ下がり,また籠の下にはアヤメの花が付いている。この放 鳥は,もともと放生会の慣習からきたものとされ,生物を放すことでその功徳が死者の供養になる というものである。  放鳥について 1910(明治 43)年から葬祭業に従事しつつ造花製造も行っていた人物の談話による と放鳥は以下のようなものであった[長谷川編 1968 218]。  「放鳥と云うのは籠に牡丹の花や菊の花を,また藤の花を飾って,安い放鳥でもハトを四羽ス ズメを二十羽をお経が上がってから放してやる,その頃は皆そうした葬儀の慣習であったので 専門に鳥を売っている店があった。スズメは逃げて仕舞うが,ハトはその鳥屋の元の店に帰っ ていく,花輪等はないので,よい葬儀程この蓮華や放鳥がたくさん行列に並んだものである。」  籠に牡丹や菊,藤の花を飾っているということは,写真のように籠の上部に付けたものと思われ る。また放鳥の種類はスズメやハトであり,スズメは放すと逃げてしまうため葬儀のたびに捕まえて

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くるものであるのに対し,ハトは伝書鳩のように戻っているものであるので,販売は楽であったと考 えられる。そして明治期の葬列は蓮華とこの放鳥が行列にたくさん連なったことが指摘されている。  さらに当時,放鳥はそれを運ぶ人夫付きの料金で 8 円であったという。ちなみに蓮華はサギクビ の花瓶の高さが 1 尺のもので人夫二人がついて 3 円 50 銭であった。この放鳥の名札を見ても提供者 である名前の下に小さく「人夫付」とあるのは,これを運ぶ人夫の費用は基本的に提供者が負担す るものであり,放鳥の鳥籠と人夫の費用を合わせて支払う慣習であったことがわかる。  さらに生花も供物として使われた。生花は大きく「筒花」と「桶花」にわかれる。筒花とは,竹 筒に挿した生花であり,竹筒は蓮華のものと同様に雲形に切った白木板を 2 枚十字に組ませて足に して立つようにする。6 頁(写真 8)の左側奥に蓮華と並んで筒花が見える。円錐型に花木を活け る。この写真からは,常緑樹と落葉樹の枝を組み合わせている。  それに対し桶花とは,竹筒ではなく手桶に花木を活けたものである。11 頁(写真 13)の放鳥籠の 右脇に桶花が見える。さらに 15 頁「常照院内」(写真 17)の写真にも桶花が並んでいる。その奥に 背の高い円錐形の常緑樹がみえるがこれは筒花と思われる。桶花も常緑樹の葉と落葉樹の枝がみえ るが,11 頁の写真をよく見ると,葉は樒を思わせるものであり,枝には梅の花らしき白い花が付い ている。またもう少し大きい白い花も活けられている。季節的には梅の盛りの時期であり,季節の 花を適宜使用していると考えられる。手桶には「荒木家」と墨書しており定紋も入っている。  明治 17 年創業の東京都港区の生花店「三田花銀」総支配人鈴木久夫氏によれば,筒花は真竹を 芯にして小菊などを小さく束ね根本を水苔で包んで荒縄で何段もくくりつけて円錐形にしたもので あったという。また昭和 20 年後半より葬儀用品問屋を営む天野勲氏によれば,仏式の場合には樒, 神式の場合には榊で円錐形に筒花を作ったという。特に桶花の手桶は葬儀後,寺院での墓参用にも 使用した。この葬儀用の手桶は山形手桶といい,桶の後半分の板が倍近くの高さとなり,桟を横に 渡して取っ手としたものがよく使用された[草土出版編 1992 19]。また,下の部分を四つ足を付け るための切れ込みを入れる。ちなみに日常使用する桶は三つの足を付けるために切れ込みを入れ区 別していた。  以上のように,葬儀では蓮華が中心であるが,そのほかにも生花,造花,放鳥などがたくさん贈 られることで葬儀が肥大化していく様子がわかる。こうした傾向はなにも荒木家だけでなく,他の 事例も見ることができ,大正期のものと思われる東京都北区豊島の石井家の葬儀写真でも,葬列の 中で桶花,筒花,蓮華の造花が葬列に連なっている[山田 1996b 448]。こうして点でこれらの供物 が葬列の大きな部分を占めているのであり,これに対する批判的認識がすでに明治後期には生じて いる。このような供物が蕩尽とみなされ無駄なものとして,知識人階級などを中心に認識され[井 上 1984 127-128],福沢諭吉の葬儀では生造花放鳥の辞退があったのもこのような状況ゆえであった が,その感覚が一般に普及するにはなお時間が必要であった。

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葬列

 さて自宅前に蓮華や他の造花などが並べられているが,これはみな葬列によって運ばれるもので ある。すでに 9 頁,10 頁では蓮華の後ろに帽子をかぶった着物姿の男性が並んでいるが,これらの

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人は蓮華を運ぶ人足である。  葬列に関する写真は 16 頁「深川高橋通り」(写真 18),17 頁「深川高橋通り」(写真 19)で,16 頁は蓮華を担いだ人足の行列である。多数の人足が蓮華を肩に担いで揃って進んでいく様子は壮観 である。また 17 頁は白木の輿と人力車である。二人の僧侶が人力車に乗っており,その後ろには 丸刈りの少年が白木の四角い台を持って一人で人力車に乗っている。さらに後ろには女性と子供が 人力車にのっており二人の手には白木の台にのった位牌を持っている。最も奥に白木の輿が人足に よって担がれており,その前には白蓮華を一つずつ持った人足が二人居る。脇には輿を置くための 呉床を担いだ人も見ることができる。  ここで見えるのは葬列の中心部分であろう。明治期の葬儀風俗を記した『東京風俗志』に詳しく 記述があるので,少々長いが引用したい[平出 1901],  「葬儀の行列は,貴賤によりて一概ならず。されど中流のについていへば,案内者前に立ちて 導き,高張,生花,造花,放鳥これに次ぎ,迎僧行き,香炉持,位牌持踵ぐ,位牌持は多く喪 主これを務む,或は間々血統の濃き者に代らしめ,己れは棺の後につきて従うもあり,次ぎに 棺とす。棺の両側に駕籠脇の供人従ふ,死者男なれば男,女なれば女とす。概ね日頃親近せら れし奉公人,出入の者などこれを勤む。棺に次ぎて家族,親戚従ひ,次いで一般会葬者これを 送るなり。町家は多く高張挑燈を用ひざれど,身分ある者はこれを掲げしむ。富めるは途に籠 鳥を放ち,或は燈籠を挑げ,何某の柩などしるせる旗を棺の前に樹てしめ,伶人に笙鼓を鳴さ しめて行くもあり。」  先ほど紹介した東京都北区豊島の石井家の葬列写真も葬列のすべてを遠くから静止して撮影した ものであるが,ほぼこの順番で進んでいる。石井家の場合は以下の通りである[山田 2007 224-227]。  複数のコートの男性  高張提灯 一対  桶花(生花) 三対程度  筒花(生花) 一〇対程度  蓮華(造花) 九対程度  高張提灯 一対  僧侶  膳  香炉  竜頭付き幡 一対  白木輿  竜頭付き幡 一対  棺台(呉床)  看護婦

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 白い喪服の女性  編笠,紋付羽織袴の男性  その他多数の人々 である。こうした点をふまえてみると,この写真は,前の僧侶は迎僧で,その後ろの丸刈りの少年 の持つものは香炉か膳かは写真からは不明である。ただし,さらに後ろの女性と子供が持っている ものは位牌であり,香炉は必須のものであるので香炉の可能性が高い。写真の香炉が四角いのは覆 いを掛けているためで,寒冷紗の覆いを掛けて当時は運んでいる。これは『東京風俗志』の葬具の 挿絵を見てもやはり四角い覆いを掛けている点からも[平出 1901],香炉と比定できる。  位牌の札が四角いのは位牌の札の部分に覆いを掛けているからと考えられる。前述の『東京風俗 志』では,位牌は喪主が持つとあるが,荒木家の場合は子供が持っている。喪主の荒木平八氏は, 常照院に現在ある荒木家の墓石を見ると 1936(昭和 11)年 1 月に行年 69 歳で亡くなっている。当 時こうした行年の記載は数えで行うことが一般的であったことをふまえ,平八氏は 1868 年生まれと なり,この照氏の葬儀では数えの 44 歳の時となる。そうすると位牌を持っているのは平八氏ではな い。よって東京風俗志の記述や人力車に乗って従う様子を見ると近親の男子と思われ,荒木平八氏 は輿の後ろに従っていた可能性が高い。  ところで当時の葬列の道筋であるが,自宅は日本橋区本舟町 1 番地で現在の中央区日本橋 1 丁目 であり,葬儀を行った深川常照院は深川区仲大工町,現在の江東区清澄 3 丁目である(8)。現在であれば, 人形町を通って清洲橋を渡れば清澄庭園近くの常照院には比較的短距離で到着することができる。  しかし葬儀のあった 1911(明治 44)年当時は,まず清洲橋がなく,日本橋から深川方面は,現 在の永代通りを通って永代橋を渡って北東に向かって行ったと考えられる。16 頁(写真 18)の写 真キャプションは「深川高橋通り」であり,路面電車が後方に映っている。高橋通りに路面電車が 通るのは,1908(明治 41)年に深川の永代橋近くの亀住町から本所両国駅近くの亀沢町まで開通し ており,ちょうど時代的には高橋通りに路面電車が見えるのは適合している[江東区役所 1957 838-841]。  ただし,もう一つの可能性は,日本橋から人形町を抜け,浜町に向かって新大橋を通って高橋通 りにに出るルートである。どちらのルートにしても,約 5㎞の道筋を葬列をして進んでいったもの と思われる。

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常照院での儀礼

 明治期の葬儀は,自宅から葬列で棺とともに一同が菩提寺に向かい,そこで引導など葬儀におけ る中心的な儀礼が行われる。寺院に到着すると,柩は通常,本堂入口外陣側に本尊と対面する形で 安置される。明治期の葬儀写真が基本的には葬列を中心に撮影されており,寺院での葬儀風景の写 真もまた珍しく貴重である。  この葬儀写真帖では 18 頁「常照院内棺前読経」(写真 20)とある写真が寺院での葬儀の様子であ る。出棺は黒枠の死亡告知広告によれば午後 1 時出棺であるので,写真は冬の午後の様子であり,

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逆光となっていて画像が少々見にくい。本堂は両側に座敷が広がる形ではなく,本尊向かって右側 に座敷が付属し,左側はガラス窓になっている。冬である 2 月の午後の日差しの向きを考えると, 通常の本堂と同様南面しているものと考えられる。  写真では,棺を納めた輿の前には,高めの白布の机に,六丁や四花,六角のケソクがみえる。導 師は輿を背にして本尊に向かって読経をしているようで,導師は浄土宗の装束である水冠という長 い帽子をかぶっている。そのうしろにも僧侶がおり,さらに奥の壁面にも僧侶が並んで座って読経 をしている。写真前方は「親族席」と札が下がっており,黒紋付を着た多数の男性の背中が見える。  輿の前にある六丁とは,6 本の蝋燭を立てるために,3 本ずつ連なった台が一対であるもので,地 獄,餓鬼,畜生,修羅,人,天の六道の救済である六地蔵を表象する。各地の民俗でも墓地の入口 や六地蔵の近くに蝋燭を立てたりする地域は多い[五来 1992 416-418]。  こうした様子は 19 頁の写真「常照院内」(写真 21)の写真でよりはっきりしている。白布の机の 上には手前に四花,六角のケソク,香炉が置かれている。奥中央には台に乗った白木位牌,その両 脇には六丁が見える。ただし,ガラス窓が左側にあることから本堂本尊前に白布の机を移動してお り,その両脇には蓮華が並んでいる。そしてこの写真にはすでに輿がないことをふまえると,これ は寺院での儀礼が終わったあとの光景と考えられる。  当時の東京の葬儀では,火葬を行うために葬儀のあとに,近親の男性と輿を担ぐ陸尺の人足だけ が火葬場に向かった[村上 1990 42-43]。輿がなく外陣側にあった机が本尊前に置かれていることを 考えると,火葬に向かったあとの寺院の光景と考えられる。  基本的に当時の葬儀では,葬列を組んで寺院に向かい,輿を外陣側に安置して,導師は本尊と輿 の間に座って,まず本尊に向かって本尊供養をしたあと,輿の方に向って今度は引導などの儀礼を 行うこととなる。この形態は,例えば明治期になって刊行されたものではあるが,近世期の武家の 生活について紹介している『徳川盛世録』にも,葬列と到着後の寺院の様子が挿絵として描かれて いる。そこでもやはり本尊に対面して外陣側に輦台にのせられた棺があり(図 3),導師は本尊と棺 図 3 寺院での輿『徳川盛世録』 の間に座っている[山田 2013 136-139]。 その図の中で,棺の前には大きな机を 置いて,台付きの位牌,六丁,その前 には天目台の茶碗があり,下の小机に は香炉と香合が置かれている。ただし この場合,六丁は一つの台に六本の蝋 燭が付いているものを一対使用してい る。  つまり,寺院での道具立ては位牌を 持参し,寺院に置かれた六丁で葬列を 迎えるというのが基本的な形であるこ とと考えられる。六丁は六道の救済者 の地蔵を表象するものであり,死者の 世界,つまり他界の入口である寺院に

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おいてこれから死出の旅路に向かう際に,六道の救済者である地蔵の加護を受け,導師の引導によっ てあの世に送られる形態であった。  荒木家の葬儀写真帖からも,近世期の基本的な形態を受け継ぎながら,まだ当時葬列を行ってお り,寺院での葬具も位牌と六丁,ケソクと四花といったきわめてシンプルな道具立てで葬儀を行っ ていることが,その具体的な形象も含めて把握することができる。

まとめにかえて

 明治期の葬送については,明治中期に葬儀社の誕生によって葬列が安価に行うことが可能となり, それによって葬列の肥大化と大衆化が進んでいったことが指摘されている[井上 1984 90-95,村上 1990]。だがその肥大化の具体的な姿はかならずしも明らかになっていなかったが,まさにこの写真 帖を通して把握することができるのは,大量の蓮華と放鳥,その他の造花や生花が供物として贈ら れ,それがかなり長い道のりの行列となっていることである。しかも単に蓮華といっても,その種 類は多様であり,それによって差異化をもたらすとともに,提供者は消費意欲をかき立てられてい き,その大量性と多様性が井上章一の指摘するスペクタクル化を形成していったものと捉えられる。  このような大量の蓮華が贈られることで,贈る側だけが負担となるだけでなく,喪家側でも湯銭 や心付け,弁当代などを人足に与えることになるので[藤田 1971 357],葬儀の負担は莫大なものと なっていった。しかも大量の蓮華などの供物は寺院に持って行ったあとは廃棄されるだけであり, このような消費行動が供物の辞退などを含めた葬儀批判を招き,大正期の葬列廃止と告別式の浸透 につながっていき,現代の葬送の基礎が形作られていった。  このように圧倒されるほどの蓮華をすべて,輿とともに運び,練り歩くというところに儀礼の主 体をおいた近代の葬送を認知することができる一方で,当時は自宅や寺院においては極めて簡素な 飾りつけであったことも,今までははっきりしなかったがこの資料によって明らかになっている。  そして,大正期以降,告別式が重視されていくことで,祭壇が誕生しその装飾に経済的,時間的 な資源を費やすようになり,儀礼が集中的に行われる空間となっていく。この形態が戦後を経て現 在まで引き継がれていくのであった[山田 2013 157-160]。  そして葬列のスペクタクル性は,むしろ固定された空間に於ける祭壇によって表出されるように なり,蓮華や供花はその脇に置かれることによって,その機能は見事に転換していったのである。  いうなれば,葬儀のスペクタクル性は依然として継続するが,それを担う葬具が葬列の場から告 別式に移行するに従って変化していくことが把握できるのであり,このような状況を生み出す要因 となった臨界の姿を把握することによってその理解も可能となり,現代の葬送を検討する上で重要 な視点を提供するのであった。 【付記】  荒木家に関するデータは 2004 年に荒木文子氏に伺ったお話に基づいている。荒木文子氏,荒木邦 雄氏,常照院ご住職大河内義秀氏には大変お世話になりました。心より御礼申しあげます。なお荒 木文子氏はその後 91 歳で亡くなられたとお聞きしました。ご冥福をお祈りいたします。

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参照文献 井上章一 1984 『霊柩車の誕生』朝日新聞社 岩淵令治 2004 『江戸武家地の研究』塙書房 魚河岸百年編纂委員会 1968 『魚河岸百年』日刊食料新聞社 尾村幸三郎 1984 『日本橋魚河岸物語』青蛙房 小池章太郎 2000 「積物」『歌舞伎事典』新訂増補版,服部幸雄・富田鉄之助,広末保編,平凡社 江東区役所 1957 『江東区史』中,江東区役所 小谷みどり 2000 『変わるお葬式消えるお墓』岩波書店 五来 重 1992 『葬と供養』東方出版 木下光生 2010 『近世三昧聖と葬送文化』塙書房 田中大介 2008 「葬儀と葬儀社─死むこと,はたらくこと」『人類学で世界をみる』春日直樹編,ミネルヴァ書房 圭室諦成 1964 『葬式仏教』大法輪閣 西木浩一 1999 『江戸の葬送墓制』東京都公文書館 長谷川新吾編 1968 『明治百年と造花のあゆみ』東京造花工業協同組合 碑文谷創 2009 『「お葬式」はなぜするの』講談社 藤田幸男 1971 『新聞広告史百話』新泉社 村上興匡 1990 「大正期東京における葬送儀礼の変化と近代化」『宗教研究』64(1) 山田慎也 1994 「葬制・墓制」『宮古紙誌』民俗編上巻,岩手県宮古市 山田慎也 1996a 「浮間の葬制」『北区史』民俗編三,東京都北区 山田慎也 1996b 「豊島の葬制」『北区史』民俗編三,東京都北区 山田慎也 2004 「明譽眞月大姉葬儀写真帖」『歴博』125 号 山田慎也 2007 『現代日本の死と葬儀─葬祭業者の展開と死生観の変容』東京大学出版会 山田慎也 2010 「葬儀の行方─私らしい葬儀と死後の観念」『at プラス』6 号 山田慎也 2011 「遺影と死者の人格─葬儀写真集における肖像写真の扱いを通して」『国立歴史民俗博物館研究報 告』169 集 山田慎也 2013 「葬儀の変化と死のイメージ」山田慎也・国立歴史民俗博物館編『近代化のなかの誕生と死』岩 田書院 草土出版編 1992 『東京花一代記小西銀次郞─小西銀次郞没後 1 周年追悼誌』草土出版 (国立歴史民俗博物館研究部) (2014 年 9 月 29 日受付,2015 年 1 月 26 日審査終了) 註 ( 1 )  すでにこの資料については,筆者はその概略を 紹介している[山田 2004]。また写真帖の表紙にある遺 影の位置づけと,葬儀の写真帖を製作する意義について もすでに別稿にて検討している[山田 2011]。 ( 2 )  荒木文子氏は 1920(大正 9)年生まれで,夫虎 之助氏は 1914(大正 3)年生まれである。 ( 3 )  荒木文子氏によれば平八は世襲名であったとい い,喪主の平八氏は明治 8 年の段階では数え年 8 歳であ るため,先代の父稲平氏か,さらにその上の代の当主の 可能性もある。 ( 4 )  ちなみに親戚総代には白沢武平氏の名前もあ る。魚販会社の発起人には白沢武兵衛の名があるが,白 沢武平氏はその後の魚問屋組合の長も勤める有力者であ り,同一人物と思われる。 ( 5 )  葬具は現在でも慣習的に曲尺を基準に作られて おり,1 尺は約 30㎝である。 ( 6 )  糸花とは絹布と糸を使って作った花で蓬莱飾り などでも見られる。ただし蓮華などは一般に蓮弁を作る には紙を絞ってつくるため,紙製の造花も作っている可 能性がある。 ( 7 )  例えば東京の造花卸商のカタログでは,30 号 高さ 100㎝で 15 本立,40 号高さ 125㎝で 20 本立,50 号 高さ 150㎝で 24 本立と書かれており,その葉や花の枝 数が現在でも重要である。(『アヅマヤ造花商報』1994 年, 40 頁,株式会社アヅマヤ) ( 8 )  常照院住職大河内義秀氏によれば,戦前の段階 では現在とは異なり常照院は高橋通りに面していたとい う。

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写真 1 『明譽眞月大姉葬儀写真帖』表紙(本館蔵)

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写真 3 1 頁 詞書

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写真 5 3 頁「荒木自宅棺前ノ景」

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写真 7 5 頁「白澤氏店前」

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写真 9 7 頁「中河岸納屋前」

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写真 11 9 頁「中河岸」

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写真 13 11 頁 無題

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写真 15 13 頁「本船町壹番地々先」

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写真 17 15 頁「常照院内」

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写真 19 17 頁「深川高橋通り」

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写真 21 19 頁「常照院内」

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Today’s funeral rites have been basically molded by two factors: (1) the newly established custom of holding the farewell ceremony and (2)the development of the funeral industry. The final-farewell ceremony has become the most suitable way to grieve for the deceased in urban areas characterized by frequent population movements. In the meantime, the funeral industry is developing as a complementary alternative to the communities that have been undermined by frequent population movements. As revealed by recent studies on funeral rites, the final-farewell ceremony has gradually overtaken the role of the funeral procession, which had constituted the main funeral ritual since the early modern period but overgrown to the point where it was no longer suitable for urban residents who had embraced a fluid way of living in the process of modernization. Therefore, the process of how the funeral procession was overgrowing at that time is an important issue that needs to be analyzed in more details to uncover the changes of funeral customs after that period.

Most studies of funeral processions, however, took a document-based approach and an external point of view to analyze how the funeral procession had become spectacle without fully examining the subject itself to reveal what actually went on in funeral processions or how the ritual had overgrown. Therefore, the following process of its decline and the ritual elements taken over into the final-farewell ceremony have not been revealed.

Photo Album of the Funeral of Teru Araki held by the National Museum of Japanese History is a

booklet of photos of a funeral process in the late Meiji Period. This is a very valuable material since there are not many photographic records of a funeral procession from the home to the temple in that era. The photo album not only reveals the actual form of funeral procession at that time but also shows some evidence of overgrowing of the ritual, which later led to the custom of setting up a funeral altar as a display at a memorial service, as well as the continued provision of many kinds of offerings, including lotus and other flowers, to decorate the alter and the drastic transformation of other funeral accessories to make the ritual more spectacle. Thus today’s style of funeral rites has taken form. Key words: funeral rites, funeral procession, the final-farewell ceremony, funeral industry, photo

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