章學誠の史料學
著者
稲(稻)葉 一郎
雑誌名
人文論究
巻
51
号
4
ページ
18-30
発行年
2002-02-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/4934
章
學
誠
の
史
料
學
稻
葉
一
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じ
め
に
章學誠は中國史學史上 、 史學理論の二大名著の一つ ﹃ 文史 義 ﹄ の 著者として知られているが 、 史敍 として は、生涯に、自ら 史敍 として位置づけた、地方志﹃永清縣志﹄の一書を #したにすぎない。 彼は少年時代から 史敍 への願望を膨らませてい た が 、 それは乾 二 十 九︵一 七 六 五︶年、 二十七歳のとき 、 ﹃天門縣志﹄の編修において具體化された。當時、彼 は國子監生として北京で科擧試の準備にはげむかたわら 、 數人 の同志と清代の撰 にかかる地方志、 ﹃江南 志﹄や﹃湖廣 志﹄などを研究していたが、偶々、 ︵湖北︶天門縣學の 講席を宰どっていた父章 (が知縣の胡翼と共同で﹃天門縣志﹄を編修することになり、子息の學誠にも作業に參加さ せたものである。 ﹃天門縣志﹄編修では彼も﹁修志 十 議﹂ を提案したり 、 いくつかの篇を執筆するなどして積極的に 從事し、作業は一年ほどで完了、胡翼の名で刊行された。この地方志に關して注目すべきは﹃縣志﹄のほかに、彼の 提案で史料集﹃文 録﹄が編纂されたことである。紀傳體形式の地方志本體とは別に史料集を併行させるのは彼の地 方志編修の一貫した方針だが、彼はかつて閲讀した地方志にそれぞれ史料集が添えられていたことに範をとったので ある。 一八514-02
こ の ﹃ 天 門 縣 志 ﹄ を 皮 切りに 、 章學誠は以後 、 乾 三十八年には ﹃ 和州志 ﹄ 四十二巻 、 史料集 ﹃ 和州文 ﹄八 巻 を、乾 四十四年には ﹃ 永清縣志 ﹄ 二十五巻 、 史料集 ﹃ 文 ﹄五 巻 を、乾 五十五年には ﹃ 亳州志 ﹄ 、 史料集 ︵ 制 度 史關係史料︶ ﹃掌故﹄ ・ ﹃ 文 ﹄を、乾 五十九年には﹃湖北 志﹄ 、史料集﹃掌故﹄ ・ ﹃ 文 ﹄・ ︵口頭傳承史料︶ ﹃叢談﹄ を編修している 。 この中 、 刊行され現存しているのは 、 ﹃ 天門 縣 志 ﹄ を除けば 、 ﹃ 永清縣志 ﹄ のみであり 、 他は完成 後、いずれもパトロンの知州や總督が轉任となり、刊行に至らなかったものである。 章學誠が心血を注いで手がけた地方志は上の五種類だが、これらのほかにもいくつかの地方志の編修に關與してい る。乾 二十八年には同學の國子監生、甄松年の﹃文安縣志﹄編修に際して編修方針を具申しているし、四十九年に は同年の 士、張維祺に﹃大名縣志﹄の編修方 針を教示している 。 そして五十六年には黄書紳の要請で ﹃ 麻城縣志 ﹄ の、五十八年には黄 '修の求めに應じて﹃廣濟縣志﹄の、同じ頃、李大 ,の依 -を受けて﹃常 府志﹄の、同じく崔 龍見の要請で ﹃ 荊州府 志﹄の、 および王維 の要請で ﹃ 石首縣志 ﹄ の編修にもそれぞ れ關與したことが知られてい る 。 上 のように彼の關わった地方志には一種類から三種類の史料集が付加されていたことを見れば、彼の理想とする 地方志像は地方志本體のほかに史料集を併せもつものであったことが理解されよう。このことは彼が 史敍 たる地 方志に史實を盛る一方、別に史料集の形で史料を保存し、後世の 史敍 の編修に役立てようとしていたことを物語 る。 かかる史料の保存は彼の 史學の要請と彼獨自の哲學的論據に基づくものであるが、小稿では收集史料に對して彼 がどのような態度で接し、吟味批判を試みていたかを見ることにしたい。 なおテキストには主として劉承幹嘉業堂刊﹃章氏 #書﹄ ︵以下、 ﹃ #書﹄と略稱︶本を使用する。 章學誠の史料學 一九
一
史料收集と史料論
章學誠は、上に見た ように地方志に ﹃ 掌 故﹄や﹃文 ﹄、 あるいは ﹃ 叢 談 ﹄ という史料集を設けたり 、 州縣での史 料收集を制度化すべく 、 州縣廳などの役所に志科の設置を提案したりして ︵ 後 ︶ 、 史料の整備を強調し た が 、 彼 自身、實際の史料の收集・吟味批判をどのように行っていたのだろうか。 章學誠が自ら日常的に史料の收集につとめ ていたことは 、 ﹃ #書 ﹄ の中に收められた日用のノート類を一瞥すれば 明らかである 。 ﹃ 信 ﹄︵ ﹃ #書 ﹄ 外編巻一 ︶ 、 ﹃ 乙卯箚記 ﹄ ︵ ﹃ #書 ﹄ 外編巻二 ︶ 、 ﹃ 丙辰 箚 記 ﹄ ︵ ﹃ #書 ﹄ 外編巻三 ︶ 、 ﹃ 知 非日札﹄ ︵ ﹃ #書﹄外編巻四︶ 、 ﹃閲書隨箚﹄ ︵ ﹃ #書﹄外編巻五︶などは日常の讀書や調査の合間に書き留めた覺書き集 であるが、とくに最後の﹃閲書隨箚﹄などには 史的人物の卒年と享年とが列擧してあり、彼がそのような人物の生 卒年に注意を拂っていたことをうかがわせる 。 上 のように、彼の編修した地方志が紀傳形式であったことからすれば、人物の傳記を書くことも彼の大きな關心 事であり、人物の傳記を書くには當該人物の正確な生卒年を把握することが基本的な課題であった。その意味からす れば、彼が閲覽中の文獻の中から 史的人物の生卒年に關わる記事を抜き書きし記録していたことは、彼が日常的に 史料の採集を心がけ實行していたことを示すものである。 章學誠が採用した史料の種類は多方面に 及んでいる 。 最も早い時期の 、 ﹃ 天門縣志 ﹄ の編修に際して知縣の胡翼に 提出した﹁修志十議﹂の第二條の議考證においても、 邑志は小なりと雖も、體例は備えざる所なし。考核、精詳を厭わず、折衷、務めて善を盡すを祈む。所有る用う べきの書は、省府隣境の諸志より而外、廿二史・三楚文獻録・一統志・聖祖仁皇帝御纂の方輿路程圖・大清會典 章學誠の史料學 二〇・賦役全書の屬の如き、倶に加意採訪すべし。他は邑紳の撰する所の野乘・私記・文編・稗史・家譜・圖牒の類 いの若き、凡そ搜討に資すべきものは、亦た須らく出示 收し博觀約取すべし。其の六曹の案牘・律令文移の、 政教の典故・風土の利弊に關わるものあれば、概ね副本を録出せしめ、一體に館に送り以て憑りて詳愼に銓次す れば、能く鉅細 #すなく、永く信史を垂るるに庶し。 ︵ ﹃ #書﹄巻十五、方志略例二︶ といい、正史や公文書から私人の記録に至るまで、幅廣く史料を收集しようとしていたことがうかがえる。この後、 彼は金石史料の收集にも力を注ぎ、 ﹃ 永 清 縣 志﹄で は﹃文 ﹄ の一巻に金石類を充てるまでになる 。 彼の史料觀はそ の後、地方志編修の經驗を重ねることによって益々充實し、晩年には彼の特異な 史觀とも密接に結びつけられ、す べての文獻・記録を 史に從屬すべきものと考えるまでになった 。 彼は自らの史料採集の立場について、 豈に三代の鐘鼎 、 秦漢の石刻の 、 款識の奇古 、 文字の雅奧なること 、 後世の得るべか らざる所のものなからん や。その事を取辨すれば、庸なりと雖も廢すべからず。事に當たるなければ、奇なりと雖も爭うに足らず。 ︵ ﹁ 言 公中﹂ ﹃ #書﹄巻四、文史 義内篇四︶ という。すなわち眞僞を判別したり、 史像を構成するのに役立つものであれば、つまらないものでも捨て去るわけ にはいかないし、一方、どんなに珍奇なものでも、史實の解明に役立たなければ採擇するわけにはいかないというの である。彼にとって史實の解明に對する有効性こそが史料の價値を決定 づけるものであった 。 彼はこのような立場 から、史料の範圍を極く日常的な、ありふれたものにまで擴大した。 夫れ千百年前の物の、千百年後の考訂をなすべきものは、市井の簿帳、孺子の鴉塗、胥吏の案册、夫婦の家書、 甚しきは井臼の磚石、廁 /の柱礎に至るまで、以て取證すべからざるなし。 ︵ ﹃丙辰箚記﹄前 ︶ と。考證や考訂に役立つものならば、市井の帳簿は勿論のこと、勝手の磚石や便所の柱礎にいたるまで、何でも史料 章學誠の史料學 二一
として利用できるというのである 。 今 日 、 我々が文獻史料の缺を補うために利用している考古學的出土 品の類まで も、章學誠は史料として評價していたことがわかる。 清代には 史研究におけるいわゆる金石類の利用は一般化しつつあったが、このような記 を見ても、考古學的出 土品の利用における彼の積極性を知ることができよう。 ただし章學誠はこのように多樣な史料を利用して史料批判を行なったが、その史料の利用に當たっては、すべての 史料を對等に扱うのではなく、諸史料間に一定の等級を設けていたようである。彼は唐の劉知幾が﹃尚書﹄と同時代 あるいは後世の文獻史料を同じレベルの史料と見なして相互につきあわせ檢討したことに對して次のようにいう。 劉知幾は︵堯舜︶二典・ ︵禹︶貢・ ︵洪︶範の諸篇の錯出するを以て﹃尚書﹄の義例の不純なるを轉譏す。乃ち後 世の空言に因て古人の實事を疑うことなきや。 ︵ ﹁書教上﹂ ﹃ #書﹄巻一、文史 義内篇一︶ と。劉知幾は﹃ %周書﹄や﹃ +子﹄など の 記 を參考にしながら 、 ﹃ 尚書 ﹄ の記載の信憑性を吟味したが 、 その史料 に對する無差別の吟味に疑問を呈しているのである。章學誠には史料批判は史料の性質に應じてきめ細かく行うべき ものであり、 ﹃尚書﹄の如き先王の聖典はいわゆる空言に 屬する文獻と輕々に比較檢討さるべきものとは考えていな かったことがうかがえる 。
二
史料批判の實際
章學誠は、既に少年時代に先秦時代の文獻を史料として紀傳體史を作っていたというが、果たしてその頃に彼が嚴 密な意味での史料批判を加えていたかどうかは疑問である。しかし國子監生の頃には 史記録には虚僞や歪曲が含ま れている事實を知り、史料批判の必要性を認識していた。同學の甄松年に與えた書簡にそのことが見える 。 章學誠の史料學 二二今の所謂る修志は、令長、徒だ空名に務め、作者も又た學識鮮く、上は勤事考成を圖注するに !ぎず、下も苟に 館穀禄利を資るに !ぎず。甚だしきは邑紳、之に因りて以て奔競を啓き、文士は之を得て以て曲筆を舞わし、主 賓各々成見を挾み、同局も牴牾を起すあり。 と。彼の得た情報では、若干誇張はあるにしても、修志局内部は上から下まで曲筆を事とし、虚僞の記 を弄んでい たかに見える。されば傳えられる修志局の實態から推測して 史記録そのものに懷疑的にならざるを得ず、彼なりに 史記録に吟味を加え、史料批判を試みていたことが知られる。 章學誠が本格的な史料批判の方法を會得するのは二十八歳の時、師事していた朱 *の藏書より﹃史 ﹄を見出して からであろう。彼は間もなくこの書の眞價を正當に認め、 史學に關す る知的源泉とした 。 具體的な史料批判に關 しては﹃乙卯箚記﹄ ︵前 ︶に次のような記事が見える。 史 、李陵の﹁蘇武に與うるの書﹂を以て僞作となす。世々その言を以て蘇子瞻に始まるとするは非なり。然る に史 の以て假作となし、蘇氏の以て齊梁の人の僞作と謂うは皆な是にあらず。蓋し東晉而後、南北朝の時、或 は南朝の人の北朝に仕うるあり。而して南朝その妻子宗族を戮辱すれば、傷心に因りてこれが辭を擬え爲るなら ん。庶幾どこれに近からん。 と。劉知幾は﹁與蘇武書﹂の、前漢期には見られない語句・音韻などの高度な技巧と司馬 &がこの書簡に全然觸れて いないことを論據に 、 これを後人の僞作と斷定したが 、︵ 宋 ︶ 蘇軾はこの書 簡 が︵梁︶ 蕭統の編纂した ﹃ 文 $﹄に 載せられていることを根據に僞作者を齊梁の間の人と推定した 。 こ の ﹁ 與蘇武書 ﹂ について は︵明︶郭 孔 衍 や ︵清︶王 鳴 盛 なども言及しているが 、 章學誠は 、 僞作者の立場を考慮に入れ 、 南朝から北朝に &徙した人 の作と推 定したものである。章學誠も彼なりの文章變 &觀をもっており 、そのような 認識の下に外形的側面から史料批判を 展開しているのである。文體や音韻、字形、諱名、書式あるいは印章などの外面的・形式的な根據から、當の史料が 章學誠の史料學 二三
本物かどうかを檢討し、眞贋の判定を下すのがいわゆる外的批判だが、上の事例は彼がそのような側面にも注意をは らっていたことを示すものである。 一方、彼は史料の記載内容に關しても、彼なりに愼重な吟味を、すなわち内的批判を加えていた。ここでは箚記類 から性格の異なる批判をそれぞれ一例紹介しよう。先ず系統の異なる複數の史料が存在する場合については﹃丙辰箚 記﹄ ︵前 ︶に、 兩淮 "鹽御史王仕驥は山陰の人なり。相傳えて郷人王千里、呉江知縣と作り、前任の虧帑を釋き、繋獄にして自 ら承けたれば、上官、奏聞して、兩淮の任に擢んでらるるを得、十年にして虧項を清にす、と爲す。今、揚州府 志を按ずるに、王君、僅かに康煕五年一任、七年再任さるるのみにして、十年たることなし。 という。王仕︵士︶驥は﹃清史稿﹄や﹃清史﹄に傳なく、地方志にしか現れない人物だが、 ﹃ ︵嘉慶︶山陰縣志﹄巻十 五郷賢の條には、 王士驥、字千里、順治丙寅 士、授庶常、改侍御史、慷慨陳言、有 1直聲。督理兩淮鹽課、釐奸剔 2、常額外解 羨餘以充兵餉。當事有請託者、立飛章糾參置之法 、旋解組歸。 とあるも 、 呉江知縣のことには觸れていない 。 そして ﹃ ︵ 嘉慶 ︶ 揚州府志 ﹄ 巻三八秩官志 四 、 兩 淮 "鹽御史の項に は章學誠の指摘するように、 王士驥、山陰人、五年任、七年再任。 と見える。章學誠が傳聞した記事によれば、王士驥は呉江知縣の治績が評價されて兩淮 "鹽御史となり、ここでも敏 腕を振るって十年で虧項を清算してしまったとある。しかし﹃揚州府志﹄の記載によると、王士驥は康煕五年と七年 の二度任官したことになっている。官吏の 任期を三年として 、 ﹃ 揚州府志 ﹄ のいうように 、 五年と七年の任官であれ ば、初めの任期は二年ということになり、合計五年、兩淮 "鹽御史の任にあったわけである。とすれば、兩淮の任を 章學誠の史料學 二四
得て十年云々というのは事實と異なる傳承ということにならざるを得ない。やはり信憑性を缺いた記録として史料か ら けられるか、あるいはより信憑性の高い記 )にもとづいて修正されざるを得ないであろう。 今一つは張方海という人物の 、 黄梨洲 、 すなわち宗羲の容貌に關する言及を繪畫史料を用いて批判 したものであ る。 張方海自ら言う、曾て黄梨洲に見えたるに貌甚だ奇古なりし、と。按ずるに黄梨洲は康煕三十四年乙亥七月に卒 し、年八十六なり。張方海は康煕五十四年乙未に生れ、相去ること二十年なれば、見ゆるに及ばざるなり。乾 乙卯、余、餘姚において梨洲の #像二幅を見るに貌甚だ肅穆清高なり。亦た奇古なるを見ず。 ︵ ﹃ 信 ﹄前 ︶ と。黄宗羲は、周知のように、明の #民の立場をまもって清朝に仕えず、死後も早く朽ちることを望んで棺を用いな かったとされる。全祖望﹁梨洲先生神 碑 文 ﹂ ︵ ﹃ 0埼亭集﹄巻十一︶によれば、黄宗羲には沒後四十年以上もの間、 墓碑がなかったという。そうした .況で彼に關するいろいろな傳説や批評が横行したものらしい。張方海の黄宗羲評 も、當時、行われていた梨洲評の一つと考えられる。 章學誠は奇古の語にこだわり、その眞僞を確かめたいと考えていたが、乾 六十年、ついにその確證を得たのであ る。先に紹介したように、章學誠のノートには 史的人物の卒年と享年が克明にメモされていたことを思い合わせる ならば、上の判斷はいわば彼の多年の 史研究の經驗的知見によるものといってさしつかえない。張方海は自らかつ て﹁貌甚だ奇古なる﹂黄宗羲に會ったといっているが、しかし張方海の生れは康煕五十四年、黄宗羲の卒年は康煕三 十四年で、張方海の生れる二十年も前に黄 宗羲は亡くなっている 。 ﹁ 曾て見えた ﹂ というのは 、 だから虚僞の證言と せざるを得ない。されば彼が傳える黄宗羲の容貌に對する印象も信用できないことになる。果たして黄宗羲の肖像畫 二幅を見ると、奇古どころか肅穆清高、嚴肅で穩やか、清らかで氣高い風貌であるというのである。これなどは主觀 的評價の應酬の側面も否定できないが、生卒年の隔りを立證した上で傍證として圖巻、すなわち繪畫史料を利用し、 章學誠の史料學 二五
張方海の主張の虚僞性を暴露したことは確實である。 上に紹介した史料批判の實例は、何れかといえば、末梢的な事柄に屬するものばかりだが、これらを しても章學 誠が零細な史料に對しても綿密に批判を加えていたことがうかがえる。 ところで章學誠の史料批判には、上のような傳統的な史料批判のほかに闕疑の精神で史料に臨む態度があったこと を忘れてはならないであろう。 夫子曰く、多聞して疑わしきを闕き、其の餘を言う、と。聞きて多からんと欲し、疑いて其の闕を存するは、愼 しむの至りなり。 ︵司︶馬︵ &︶・班︵固︶而下、其の信を存し疑う所を著して訪を待たず。是れ直だ謂う所の疑 しき者は之を削るのみ。又た何の闕くことのあらんや。闕疑の例に三あり。一事の兩傳して衷一を爲し難きもの あり、 ︵中略︶ 。舊と其の文を著して、今、其の説なきものあり、 ︵中略︶ 。愼んで聞見を書して自ら解を爲さざる ものあり。 ︵ ﹃ #書﹄外編巻十二、永清縣志七闕訪列傳序︶ と。すなわち矛盾して一つに折衷できない複數の記録、あるいは脱文などを含み解釋の困難な記録、あるいは當時點 では理解の困難な見聞の記録、などを不十分な史料として一概に削除するのではなく、保存して裏付けられる史料の 出現を待つという態度である 。 これは彼の ﹁ 闕訪列傳 ﹂ 作成の趣旨であるとともに 、 彼の史料 集作成の論據でもあ る。ここには將來の地方志・國史の編修に對してより豐富な情報を提供しようとする彼の年來の願望が方法論として 理論化されているのを見ることができよう。 一般に史料批判といえば、收集された多くの史料の中から利用に堪えないものを析別し排除して、 $別された史料 をもとに 史像を構成する作業と理解されている。以上の記録を して章學誠の作業を見ると、彼の史料批判は眞か 僞か、是か非かという硬直した擇一的 $別ではなく、殘された史料の有効利用に注意が向けられている。それは王士 驥の記事について見たように、誇張された表現を訂正して記 内容を修正し、改めて活用しようとしたものと理解で 章學誠の史料學 二六
きる。彼の史料批判はただ虚僞や錯誤を摘出してそれらを含む史料を排除するのではなく、それらを修正して史料と して利用できる を開いているところが特 的である。汗牛充棟もただならざる中國の 史文獻といえども、特定の 史事象に關して利用できる史料は限られており、わずかの瑕疵を含むという理由だけで史料から排除するならば、 貧しい 史像しか殘らない恐れもある。そうした觀點から學誠の批判を見るならば、彼の史料に對する態度にはより 豐かな 史像を獲得するための配慮を看取することができる。
小
結
章學誠は少年期における趣味の 史研究から具體的な地方志編修、そして﹃續資治 鑑﹄や﹃史籍考﹄の編修へと 經驗と研究を重ねる !程で 史敍 の方法論、 史哲學を 究し、獨自の史學理論を樹立した。方法論の中でも、と くに史料批判に關する見解はむしろ箚記類に見られるが 、 ﹃ 天門縣志 ﹄ の編纂に從事してそ の意義を再認識し 、 ﹃ 史 ﹄ を手にしてからは方法論的にも啓發され たと考えられる 。 そして ﹃ 和州志 ﹄ 、 ﹃ 永清縣志 ﹄ 、 ﹃ 亳州志 ﹄ 、 ﹃ 湖北 志 ﹄ へと編修の場數を踏むに從って史料の重要性に關する認識は深まり 、 地 方志に付される史料集も ﹃ 文 )﹄か ら、 ﹃文 ﹄・ ﹃掌故﹄ 、さらに﹃文 ﹄・ ﹃掌故﹄ ・ ﹃叢談﹄へと史料集の増加となってあらわれた。 ただし今日の學問水準からすれば、彼の史料學にも不十分なところ がないわけではない 。 第一章の註 に見たよう に、 ﹃尚書﹄をはじめとする經書の記載を尊崇して、 ほかの同時代史料よりも高い位置づけをし 、 對等な比較檢討を ける點に關しては、彼獨自の世界觀や 史觀と深いかかわりがあるにしても、理解しがたいところである。かの周 知のテーゼ﹁六經皆史﹂が六經のそれぞれを一 史敍 と見なすところに成り立つものであるとすれば、各經書も 史敍 、すなわち廣義の史料に置き換 えらるべきであり 、 ﹃ 尚書 ﹄ を特別視するのは ﹁ 六經皆史 ﹂ 説の根幹をなす史 章學誠の史料學 二七料論の自己撞着を招くことになりかねない。 史料論に關 して特筆しなければならないのは、彼の地方志のため の資料館設置の要請 である 。 章學誠の活躍し た清代には一方では﹃明史﹄の編修や﹃古今圖書集成﹄ 、 ﹃四庫全書﹄などの大規模な編纂事業、全國地誌﹃大清一統 志﹄の編纂などがあいついで行われ、史料の整備は體制的にも保障された。しかし地方志編修に關しては、康煕帝の ﹃大清一統志﹄を編修すべく、その 基礎をなす地方志を整備しようとの意志を受け て、省・府・州・縣・ 鎭にいたる まで大小さまざまな地方志が編修され、清一代を じて七千種に上る地方志が編修されたが、編修事業の度に修志局 が開かれ、終わると閉じられるのを慣例とした。 常設の修志局のないことは史料の收集を不十分なものにしたことはいうまでもない。六十年に一度、改修するとい う規定はあったが、おおむね地方長官の個人的な裁量に任されており、ほとんど空文化されていたといってよい。篤 志の地方長官の發意で急遽、編修の議が提案され、史料收集が開始されるが、短期間の史料收集では網羅的であり得 ないし、必要な史料を採録できないこともあった。だからこそ州縣︵の官廳︶に志科︵資料館︶を設置し、恆常的に 史料收集にたずさわれるようにすべしとする要請が生まれることになる。この提案は結局、採用されなかったが、し かし史學史的觀點からすれば、それ自體、極めて積極的な意味をもっていたといえる。 史學が科學として成立する ためには、方法論が確立されるだけでなく、史料批判の科學的水準が制度的にも保障されることが不可缺の條件であ る 。地方志を國史の史料として位置づける立場からすれば、地方志編修 における制度的保障こそは全體として 史 敍 の科學性を高めるものであり、彼の提案はそのような觀點からのものであったからである。 この地方志を將來の國史の編纂に役立てるべく、そのための制度的保障をはかるという考えは、舊來の國史や王朝 史など、公式の記録を中心にして編修された一面的な 史敍 に對する一つの批判でもあったが、先 的すぎる主張 は時代に受け容れられなかったのである。 章學誠の史料學 二八
註 ﹁ 答甄秀才論修志 第 一 書 ﹂ ︵ ﹃ 章 氏 #書 ﹄ 巻十五 、 方志略例二 ︶ 、 ﹁ 爲張吉甫撰大名縣志序 ﹂ ︵ 巻十四 、 方志略例一 ︶ 、 ﹁ 横 ﹂ ︵巻四、文史 義内篇四︶ 、 ﹁ 報廣濟黄大尹論修志書﹂ ﹁爲畢秋帆 制府撰常 府志序 ﹂ ﹁ 爲畢秋帆制府撰荊州府志序 ﹂ ﹁ 爲畢秋帆 制府撰石首縣志序﹂ ︵巻十四︶を參照。 ﹁州縣請立志科議﹂ ︵ ﹃ #書﹄巻十四、方志略例一︶ 。 章學誠は隨筆や箚記について、 凡斯等類 、 隨筆箚録 、 以待日後參訂 。 固學者之功程 、 遽爲成 書 定 説 、 即無取矣 。 ︵ ﹁ 與林秀才 ﹂ ﹃ #書﹄巻 九、文 史 義外 篇三︶ といい、後日、改めて檢討の上、著 に載せるべきものとしているので、小稿 での箚記類の引用はあくまでも參考意見とし て利用するものである。 ﹁報孫淵如書﹂ ︵ ﹃ #書﹄巻九、文史 義外篇三︶には、 愚之所見以爲盈天地間、凡渉著作之林、皆是史學。六經特聖人取此六種之史、以垂訓者耳。 といい、有名な命題﹁六經皆史﹂に對應する主張を記録している。あらゆる文獻を史學に從屬させるのが彼の立場である。 この點に關しては例えば、 志乃史裁、苟於地︵事︶理無關、例不濫收詩賦。 ︵ ﹁ 書武功志後﹂ ﹃ #書﹄巻十四、方志略例一︶ という言葉も參考になろう。なお葉瑛﹃文史 義校注﹄ ︵中華書局、一九八五年︶は地を事に作る。 ﹃ 尚 書 ﹄ に僞作の古文諸篇を含むことは當時 、 既に閻若 ﹃ 古文尚書疏證 ﹄ によって明らかにされており 、 章學誠もそのこ とを認識していたにもかかわらず、敢えてこのような主張をするところを見 る と、 毛奇齡の反論などもあり閻説の妥當性が まだ一般に承認されていなかった︵皮錫瑞﹃經學 史﹄八、經學變 古 時 代︶ からであろうか 。 ﹁ 爲張吉甫司馬撰大名縣志序 ﹂ ︵前 ︶ で閻若 の方志論を批判しているところを見ると 、 閻氏の學問に懷疑的であったとも考えられる 。 な お ﹃ 尚 書 ﹄ を も含めて彼の經書に對する !信は今日、評價の岐れるところであり、 彼の思想上の缺陷とする指摘もある ︵ 林時民 ﹁ 章學誠 史學的缺失﹂ ﹃書目季刊﹄第二八巻第三期、一九九四年︶ 。 ﹁答甄秀才論修志第一書﹂ ︵前 ︶。 ﹁與孫淵如觀察論學十規﹂ ︵ ﹃ 文史 義﹄補 #續、古籍出版社、一九五六年︶には、 章學誠の史料學 二九
史 多譏先哲、後人必不服從、至今相去千年、其言頗驗。蓋其卓識不磨、史家陰用其法、其論鋒可畏、故人多陽毀其書。 と い う 。 ﹁ 其の言は頗る驗あり ﹂ と か ﹁ 卓識不磨 ﹂ などの表現からも 、 世人の評價とは異なる獨自の高い評價を與えていた ことが分かる。 ﹃史 ﹄巻十八、 ﹁雜説下﹂ 。 ﹃東坡文談録﹄および﹃東坡志林﹄ ︵ ﹃ 稗海﹄所收︶を參照。 郭孔衍﹃史 註﹄の同條を參照。 ﹃蛾術編﹄巻八十、説集六﹁李陵答蘇武書﹂を參照。 彼は﹃日知録﹄ ︵巻二一﹁詩禮代降﹂ ︶を引いて次のようにいう。 顧寧人云 、 ︵ 詩 ︶ 三百篇 、 不能不降而楚辭 、 楚辭不能不降而漢魏 、 漢魏不能不降而六朝 、 六朝不能 不降而唐也 、 勢 也 。 用 一代之體 、 則必似一代之文而後合格 。 此説良然 。 ︵ 中略 ︶ 今閲顧氏之説 、 則以時代升降 。 文體亦有不同 。 用一代之體 不 容 雜 入不類之語、亦求清之 也。 ︵ ﹃ 乙卯箚記﹄前 ︶ と。このような記 によれば、彼なりの文章變 &論をもっていたことが知られる。 ﹁有請託者、立飛章糾參置之法﹂の句については李慈銘﹃乾 山陰縣志校記﹄ ︵一九三十年刊︶の所見に從う。 王士驥の名は﹃ ︵乾 ︶呉江縣志﹄縣令の條にも、またより廣域 的な地方志 ﹃ ︵ 光緒 ︶ 蘇州府志 ﹄ 呉江縣令の條にも見えない ので、この傳聞史料にはさらに錯誤の含まれている可能性がある。 ﹁州縣請立志科議﹂ ︵前 ︶。 G・G・ イッガース 、 早島 瑛︵譯︶ ﹁ 史の科學化がヨーロッパのど の國よりも早くドイツで起こったというのは本當か ﹂ ︵ ﹃ 大學史研究﹄第十號、一九九三年︶などを參照。 ││文学部教授││ 章學誠の史料學 三〇