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ニーチェとマルクスと : 小さなニーチェ論のための序言として

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ニ ー チ ェ と マ ル ク ス と

「現代の学者の, とくに哲学者の誠実 さの度合 いは,その人 が ニーチ ェとマル クス とに如何なる 態度を とるか によって測定す ることがで きる。 自 分の業績の重要部分が この両人の業績を抜 きに し ては成立 し得 なかった とい うことを承認 しない人 は誰であろ うと, 自分 自身 と他の人 々 とを欺隔 し てい るのだ。我 々の知的世界は,その大部分がマ ル クス とニーチ ェとに負 っている(Rl)」. これは, あの r西欧の没落』の シュペ ソグラー がマル クス とニーチ ェについて軽蔑的な言葉を弄 した とき, マ ックス ・ウェーバーがそれに反発 し て語 った感慨 である。 ウェーバー最晩年 の1920年 ミュンヘンで の ことである。60年以上 まえの言葉 であ るが,今 日なおその妥当性はす こしも揺いで いない.ウェーバーは現代の知的世界を

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「ニーチ ェとマルクス と」 とい う定式で とらえよ うとして いる。 これに対 して

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「ニーチ ェかマル クスか」と い う定式に よる現代把捉 もあ る。あるいは この方 が一般的常識的か もしれない。相反す るこの二つ の定式は,おそ らくどち らも可能 なのであろ う。 ただその問題意識の次元 と視角がちが うだけであ ろ う。「ニーチ ェかマルクスか」とい う定式 につい ては, これ は結局

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「唯物論か観念論か」とい う1 世紀前の初歩的な議論 に還元 され ることだろ うか ら,今はふれ ないことにす る。 で

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「ニーチ ェとマルクスと」であるが、 この定 式 は, まず両者が ともに近代性の ラデ ィカルな批 判者であった とい う点 に注 目すれば,容易に うな づけ ることである。 ニーチ ェは,近代市民社会の 腐敗,堕落,偽善, ひ とロにい ってその俗物性を 痛撃 してや まなかった し,マル クスは,近代資本 主義 の内的矛盾 とその歴史的展開による没落の必 然性 とを厳正 な科学 として論証 した。両人が命を かけて取 りくんだ問題の共通性 とその現代的意義 は,●誰の 目に も明 らかであろ う。 しか しそれだけではない。 この定式 は さらに,

戸 嘉

ニーチ ェをマルクスによって見なおす こと,マル クスをニーチ ェによって見なおす ことの必要を意 味 しているのである。ただ近代の崩壊を結論す る だけでは解答にな らない。崩壊す る近代の超克 こ そ現代の課題だか らである。 この課題 に応 えるた めの方法 として

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「ニーチ ェとマルクス と」の定式 がある, と私は理解す る。 ウェーバーの評 言の意 味 もおそ らくそ こにあった と思 う。 「ニーチ ェとマルクス と」 とい う言葉 こそ使わ なかったが,その方向で私にニーチ ェを語 って く れたのは故永田広志氏であった。はっき りは記憶 しないが,1942,43年頃,戦時中の ことだ った。 国民あげて戦争を詣歌 し戦勝気分に酔 って意気軒 昂だった頃である。私たちは意気地 な くも,ただ 息 をひそめて世間 のすみ っこに小 さ くな ってい た。 ある日ある友人が,今の北区の西 ヶ原あた りを 歩いていて偶然に 「永田広志」の表札を見つけた。 そ して一度訪ねてみ ようとい うことになった。そ の友人 も私 も,永 田氏 とはそれまで一面識 もなか った。 ご時勢が ご時勢だか ら, どこの何者 とも知 れぬ学生あが りの若造 に会 って くれ るか どうか心 配だったが,永田氏か らは,暇だ,退屈 して る, どうぞ何時で も,とい う気軽な返事をいただいた。 早速二人で出かけて行 って,火鉢をか こんでおそ くまで話 しこんだ。永田氏は深い理解 と共感を こ めてニーチ ェを語 って くれた。若い ころ自分が ど んなにニーチ ェに傾倒 したかを, また現在, ニー チ ェの破壊 と拒否,待望 と憧保が心情 において ど んなに自分たちに共通す るかを語 って くれた。 それ まで ニーチ ェは私に とってほ とん ど無縁の 存在だ った。 ろ くに読んで もいなかった。読みか けても数ページで投げだ して しまった。私 自身の ナ ロー ドニキ的傾 向がニーチ ェの貴族 主義的雰囲 気にな じめなか ったのである。永田氏 のニーチ ェ - 81

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-観は私にもよく理解で きた。真剣 にニーチ ェに取 りくもうと,幾度か思 った。 しか しその.たびに挫 折 した。今 日に至 るまで, ニーチ ェは私 には難物 であ りつづけている。 永田氏にはその後 も う一度お会い した。戦後の

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年の夏の ことだ った。氏の疎開 さき松本市分 銅町のお宅を訪ねたのである。松本駅のそばの裏 長屋だ った。永 田氏は国疾の結核が悪化 して病臥 中だった。それ も重態だ った。真夏の ことで,玄 関の戸は開け放 して簾が一枚 さげてあった。簾の 裾 に,寝ている氏の足の裏がみ えていた。 重態 ときいていたので上が らず に失礼 しよ うと したが,氏 も奥 さんも,構わないか ら是非 としき りに奨め られ るので上が りこんだ。上が るといっ て も,たたみ一畳ほ どの土間をひ と股 ぎす るとそ こが病室だ った。枕許に坐 って しば らく話 した。 「きの う,お とといは本当に大変で した, もう駄 目か と思いました,それが今 日は こんなによくな って--・」 と奥 さんは明 るい声で話 された。永田 氏は落ちついた呼吸で,「何 もか もすべてが大 きな 自然のなかに溶 けてい くような気拝だ,無の心境 とい うのですかなあ」そんなことを静かな笑みを うかべなが ら話 された。 その翌 日,病勢ふたたび急変 して逝去。 ほんの ひ とときの明るい希望は脆 くもくずれ さった。前 日のご夫婦の談話が記憶 になまなましいだけに, 悲痛な思いだ った。 永田広志の 「無の心境」は, ニーチ ェの 「永却 回帰」あるいは 「アモール・フアテ ィ

「肯定への 意志(注2)」と関係があるか,ないか.あるとすれば, どう関係す るのか。 あるともない ともいえると思 う。 しか し,ある として も,その関係の仕方は,永 田広志が どんな に一時 ニーチ ェに心酔 した ことがあるとして も, その直接 の影響 といった関係ではないこと確かで あろ う。永田広志の 「無」が仏教の ニル ヴァーナ を思わせ る自我 の否定であるのに対 して, ニーチ ェの 「然 り」は 自我の現在における自己回復を意 味 しているか らである。 永田広志は戦前戦中戦後を通 して,マルクス主 義哲学者 として一貫 した人物である。したがって, 彼 の最後 の言葉 に示 された生死観 も,唯物論者 に ふ さわ しいそれ として受 け とるのが 自然か もしれ ない。物質か ら生 まれて物質 にかえる,万象 これ 物質の変態 な りとい った生死観である。 しか し私 の実感でいえば,そ うは思 えないのである。唯物 論 と観念論の対立 といった,そんな次元の唯物論 を無限に越 えた境地 のよ うに思えるのである。 「ニーチ ェとマル クスと」 とはいった ものの, 永田広志を媒介項 に して も, これはそ う簡単な問 題 ではなさそ うである。 ニーチ ェの思想が ヒ トラーに利用 され ナチの 哲学的装飾につかわれた こと,それが浅薄なニー チ ェ誤解あるいは故意のニーチ ェ曲解 にもとづ く ものであること,すでに周知であるが,やは り一 言 してお きたい。その よ うな誤解 な り曲解 な りを 生む要素が, ニーチ ェには確かに存在す るか らで ある。 フユーラーの地位 についた ヒ トラーは,ある日 ワイマールの 「ニーチ ェの家」を訪れた。そ こは 精神錯乱後のニーチ ェが最後の3年間を妹エ リザ べ- ト・フェルスター-ニーチ ェの看護を うけつつ 過 ごした家である。 エ リザベー トはニーチ ェの没 後 もここに留 まって,遺品 と遺稿を守 りつづけて いた。 ヒ トラーはおごそかに彼女を引見 し,勲章を授 けた。 ニーチ ェの 「超人」の理想

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「教養ある俗物 ども」-の侮蔑

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「奴隷道徳」とキ リス ト教 の排斥, 「主人の道徳」の賛美,それ らのなかに ヒ トラー 紘, 自分の姿 と自分の野心 の哲学的支柱を見出 し たのである。 エ リザベー トはた しかに叙勲に価 いす る。遺稿 を改窺 した り,断片を勝手 に切 り貼 りして 『権力 への意志』 とい うニーチ ェ最後の主著をで っちあ げて, ファシス ト思想家 ニーチ ェを控造す るのに 大いに貢献 したか らである。 ニーチ ェの著作の どれか一つで も読めば,彼の 思想があ らゆる点で ナチズム とはまった く相容れ ない ものであることが明 らかになるであろ う。 ナ チのゲルマン民族純血主義,反 ユダヤ主義,国家 主義等 々に矛盾す る個 々の言説をニーチ ェの著作 のなかか ら探 しだす ことは, もちろん容易ではあ るが,そんなことよ り何 よ り, ニーチ ェの思想の 全体が,後述す るよ うに,す ぐれて個人主義を土 -

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82-台 とし基幹 とす るものであ った とい う点で,それ はナチズム とは まった く無縁だ った。 神話 の世界 に生命力 あふれ る人間の木原 の姿 を 見 出 した ニーチ ェであ るか ら,彼 にはあ る意味で, キ リス ト教 にか えて ゲルマソ神話を もちだす ナチ ズ ムに通 じる ものがあ る,といえるか もしれ ない。 しか しこれは, ニーチ ェよ りもワーグナーにあて はまることで あ る。す くな くともワーグナー夫妻 隼心酔 した一 時期 の ニーチ ェについていえるこ と であ ろ う。 しか も, ニーチ ェとワーグナー との関係は,実 は最初 か ら敵 対的でだ った らしい。 両者 は生 まれ つ き性格的 に異 質 で あ ったo ワーグナ ー と コジ マ ・ワーグナ ーの猛烈 な反 ユダヤ主義 は, ニーチ ェの場合 とは異 って,文字 どお りのそれであ った。 (コジマの母 は フランクフル トのユダヤ人銀行家 の娘 であった か ら,血統 か らいえば彼女 自身 -フの ユダヤ人 だ ったが)は3)。 ワーグナ ーの悲壮 ぶ った大袈裟 な身ぶ りや深遠めか した表現や舞 台効 果をね らった構成 な どを, ニーチ ェは欺隅 として 道化 として撰 斥 した。 ワーグナーの虚飾 の ヒロイ ズム示 ニーチ ェには我慢 な らなか ったのであ る. ヒ トラーに は ワーグナーがぴった りだ った。 自 らの演 出効果 をあげ るため, ヒ トラーは好 んで ワ ーグナーの音 楽 を使用 したが, これは正 に彼の ヒ ロイズ ムが ワーグナー的道化 であ った ことを証 明 す る もの とい えるであろ う。 な るほ どニーチ ェは,大衆を,家畜 の群れ,辛 均化 された人 間,卑屈で絞滑で嫉妬ぶかいルサ -/ チマ ンの塊 り, とい っている。 しか しこの場合 の 大衆 とは, マル クスが軽蔑 した,あの臆病 な ドイ ツ ・ブルジ ョアジーの ことだ った. ヒ トラー も大衆を蔑視 した。家畜 として,家畜 化 し うるもの として,家畜の運命が唯一 のそれ に ふ さわ しい運命 であ る存在 として蔑視 した。 しか も公 然 とは, この大衆 の家畜性 を献身奉仕 とい っ た崇高な犠牲 的精神 として称揚 し,積極的に大衆 の家畜化を押 しすすめた。 ニーチ ェともマル クス とも正反対 で あ る。 私 は学生時代 に,立沢剛先生 にも竹 山道雄先生 に も直接教 えを うけ る機会にめ ぐまれた。竹 山先 生 の 『ツアラ トゥース トラ』 の名訳 に接 して,私 は初 めて本 当 の ニーチ ェの姿 を垣間見た思いが し た。超人を説 くニーチ ェの孤独がやや理 解 で きた。 立沢先生の言葉 も忘れ られない。「もしニーチ ェが ゲーテほ ど永生 きしていた ら, ヒ トラーの出現 に 出会 うことがで きただろ う。 ヒ トラーが ニーチ ェ の哲学 をかつ ぐのを見て,彼 は きっと怒 りにふ る えなが ら, ナイン, ナイン, ナインと叫んだ こと だ ろ う」。 ニーチ ェを ヒ トラーに結 びつけ るのは, とんだ 濡衣であ る。 「ニーチ ェとマル クス と」 とはい って も, この 二人の間 には,思想的 に も学問的 にも直接 の継承 関係,影響関係 はまった くなか った。 ニーチ ェが 生 まれたのは

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年 であ り, この年 にはマル クス は既 に思想的にほは 自己確立を完了 していた。 ニ ーチ ェの思想の開花 は

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年代であ る。 した が って, マル クスが ニーチ ェの影響を うけ るとい うことはなか った として も, ニーチ ェがマル クス の影響 を うける ことはあ り.えない ことではなか っ た。それが, まった くなか ったのであ る。両者が それぞれそのなかで思想的成熟 を とげた時代の状 況が相違 していた こと, この相違 がそれを許 さな か ったのだ と考 え られ る。 世紀 の前半の マル クスの時代 と後半 の ニーチ ェ の時代 とを分け る画期 は

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年 の革命 であ る。 全 ヨー ロッパを席巻 した この革命 の嵐 も, ドイ ツでは翌年 には早 くも鎮 ま り,再 び重苦 しい沈滞 の支配す る閉塞状態 に陥 ってい った。マル クス(と エ ンゲル ス)は, これを機会 に,時い まだ熟せず として,賢 明に も政治活動 か ら一歩 し りぞ き,現 実 の与件 を冷静 にみつめ ることに,それを科学的 に分析す ることに関心 の重点 を移 してゆ く。『聖家 族』や 『経済学 -哲学草稿』を経 て,45年 には 『ド イ ツ ・イデオ ロギー』 に到達 していた マル クスに は,それが可能 であ った。 ドイ ツ観念論 の伝統 を 継承 しつつ彼は, その 「生成」概念を,新 しい, 近代 を超克す る新 しい世界観 に再編成 しお えてい たか らであ る。 マル クスほ ど賢明ではなか ったが, マル クス よ り造 かに誠実であ った ニーチ ェには, それがで き なか った。 ビスマル クの飴 と鞭 の もとに,小 さな 立 身出世 の幸福 を求めて轟め き争 う俗物 の群れ に 囲 まれて,身 うごきな らない状況だ った のであ る。 - 83

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-このよ うな状況 におかれて, ニーチ ェの よ うな, 鋭 い知性 とともに病的なまでに絃細な感受性を も つ若い魂 に とって,では どんな途が可能であ った とい うのか。 中産階級に生 まれ,ある程度の才能 止め ぐまれ た当時の ドイツの青年 な ら,世俗的な小 さな幸福 を手に入れ ることはたやすいことであった。それ だけに,それだか ら, ニーチ ェの よ うな魂 は, ま ず この幸福を蔑 まねはな らなか った。 自己の周囲 の一切を,さらに 自己の内の一切 を蔑み

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「恐れつ つ戦 きつつ」手 さぐりで 自己の使命, 自己の途を さが きなければな らなか った。 ユンカー的封建主義 もブルジ ョア的民主主義 も ビスマル ク的国民主義 も,彼を導 く原理 とはな り えなかった。彼 の周囲には,ただ家庭的感傷 とか 貴族的倣慢 とか ブルジ ョア的貴欲 とか小市民的不 安 とか,そのよ うな,歴史のあ らゆる時代の感情 と理念 と制度 とが,雑然 と混乱 したまま存在 して いるだけであ った。 この よ うな状 況 におかれた ニーチ ェで あ るか ら,彼は,同 じ人間の問題,--ゲル-マル クス 的用語でいえは 「人間の 自己疎外の止揚」の問題 も,--ゲルや マルクス とは違 って,いち じるし くペシ ミステ ィックな様相の もとに受 け とめねは な らなか ったのである。 ニーチ ェはひたす ら問題 を 自己の内面へ掘 りさげてゆ くほかはなかった。 この よ うなニーチ ェに,深い同情 と理解を示 し なが ら, マル クス主義の立場か らこれを批判 した ニーチ ェ論 として, アン リ・ル フェーブルの 『ニ ーチ ェ』は4)があ る。戦前 出版の小著であるが,今 日 なお示唆多い好著である。ル フェーブルは, ニー チ ェの哲学 を 「悲劇の弁証法」 と特徴づけ, これ に弁証法的唯物論 を対置 しつつ批判を展開 してい る。すなわち, ニーチ ェは,無限に多様なイデオ ロギー的虚構 の背後 にか くされている真理,それを喚 ぎつ ける 鋭 い感覚を もっていた。感覚だけではな く,あ ら ゆる虚偽を許 さない気賀の潔癖 さと人格の誠実 さ をあわせ もっていた。彼はイデオ ロギーの現実的 根拠をあぱ くと同時に,その偽隅を厳 しく糾弾す る。た とえは, マタイ福音書の 「おのれを低 うす る者は高 うせ らるるな り」とい う言葉を彼 は

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「お のれを低 くす る者は高 うせ られん と欲 しているの だ」 といい変 える。人間は個人 として も国民 とか 階級 とかの集団 として も, 自分の利益や願望や弁 明に役立つ観念のみを価値 とし真理 として来たの であるとい う(tt5)0 しか しニーチ ェには,せ っか くの この よ うな正 しいイデオ ロギー批判を歴史的社会的実践 にむす びつける論理が欠けていた。彼の 「遠近法」 は結 局は,無力な相対主義 に陥 らざるをえなか った。 時代の最尖端 に立た されていると自ら意識 してい た ニーチ ェであるが, この点で実は,--ゲル以 前 の批判主義 の段 階 に まで後退 して いた のであ る。 - -ゲルは,歴史 をさまざまなイデオ ロギー的 幻想相互間の弁証法的演戯 とみた。そ して この演 戯のなかに理性の 自己実現の論理が一貫 している とした。そ こか らあの有名 な 「理性的 なものは現 実的であ り,現実的 なものは理性的である」 とす る現実肯定,過程 としての現実肯定が成立 したの であ った。 この弁証法的論理 を欠 くニーチ ェには,そ うし た現実への途 はなか った。幻想をあぱ くニーチ ェ は,あはかれた幻想の真理か らただちに再 び もう 一つの反対の極の幻想に とりつ く。幻想が幻想に とってかあ り, ます ます幻想的になってゆ くが, 常に同一平面での反覆 なのである。 「アポ ロン的」 と 「デ ィオニュソス的」 との存 在 の根本形式 におけ る対立 につ いて も同様 で あ る。 --ゲルのよ うに双方を ともに否定 して新 し い第三の段階へ進む, とい うことがない。そ うか といって, どち らか一方を決定的に斥け,他方を 決定的に立てるとい うこともない。 --ゲルにお ける 「理性」 のよ うな,究極の審判官が, ニーチ ェには存在 しないか らであ る。こうして彼はただ, 一方か ら他方へ,他方か ら再びもとの一方へ,を 繰 りかえすばか りである。 繰 りかえしは無限につづけ られるのであるが, この反覆 自体のなかか ら一つの結論が導 き出 され る。すなわち,対立項の一方の「アポ ロン的世界」 は静止であ り観想であ り形象であるが,他方の「デ ィオニュソス的世界」は激動であ り酎酢であ り混 沌であるか ら, この不断の反覆その ものが 「デ ィ オニュソス的世界」 の板元性,遍在性を示 してい - 84

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-る, とい う結論である。 この結論 は ニーチ ェのペシ ミズムに深 くかかわ るものであ る。 ペシ ミズムは 『意志 と表象 として の世界』 との偶然の避追以来,師 と仰 ぐことにな るシ ョーペ ソ- ウア-か ら受けついだ ニーチ ェの 根本感情であ った。 とはいえニーチ ェにも,対立す る両項の否定的 限定 を否定 して成立す る第三のジン ・テーゼがな か ったわけではない.彼は, デ ィオニュソスであ り,次に ソクラテスであ り,そ してその次にニー チ ェである,とい うoすなわち

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「哲学者 デ ィオ=. エソス」あ るいは 「音楽家 ソクラテス」 としての ニーチ ェの 自己回復である。 だかそれは現実 においての 自己回復ではあ りえ なか った。 この第三者は

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「別の もう一つの もの」 にす ぎない。件 の対立か らの超越 であ り飛躍であ り,その意味で問題の解決ではな く,問題か らの 逃避 である。 したがって この第三者 は,再 び対立 へ戻 り,再 び 自己の内に対立が復活す るのを見 出 す ことになる。 この反覆 か らのがれ るために, ニーチ ェはその 解決を拝情的追憶 と憧債の世界に求めたのであ っ た。すなわち,神秘的美的幻想のなかでの 自己回 復 であった。 要す るに ニーチ ェは,近代の ブルジ ョア的個人 的人間の自己疎外の諸形態を,その鋭い感覚 と知 性で精確に深刻に とらえは した。 しか しそれを個 人の意識の内面の問題 としてのみ とらえ,その社 会的物質的基礎 を問お うとしなか った。そ うした 問題意識を持たなかった し,持ちえなかった。だ か ら彼は,疎外が分業 と階級分化 ・対立の結果で あ る とい う理解 に到達す ることがで きなか った。 自己 自身の存在を もとめて狂気にいた るまで魂 の苦 悶をつづ けねはな らなか った ニーチ ェは,--ゲルのい う 「不幸な意識」 の最 も徹底 した場合 だ った とい って よいであろ う。 以上,マル クス主義の立場か らす るル フェ-ゲ ルの ニーチ ェ解釈, ニーチ ェ批判のほんの概略で ある。読みの深い解釈であ り,筋の とおった批判 ではある。 しか しこれで, ニーチ ェがおのれに課 した問題が解決 した とはいえない と私 は思 う。 - -ゲルは 「星の輝 く天空 といえども,吹出物 ので きた皮膚 より驚嘆に価す るわけではない。た だ概念の発展のみが永遠の驚異である」といった。 彼のい う 「概念」 はた しかに豊富す ぎるほ ど豊富 な内容をもってはいる。 しか しそれで も,概念が 次の段階-発展す る際に常 に,前段階 の概念のモ メソ トの一部が切 りすて られねはな らなかった。 マル クスにおいて も同様である。彼が--ゲル を追 って人間の自己疎外 とい う問題 に当面 した と き,彼は問題を社会的物質的次元-移行 させ,そ の次元での問題解決を試 るのであるが, このはあ い問題 は, ニーチ ェが問題 に した問題 とは大 きく 内実が変わ った ものになっていた。 したがってマ ル クスの解決はニーチ ェの解決 とはな りえなかっ た。 とすれば, ニーチ ェがギ リシャ悲劇 とその前 提 としてのギ リシャ神話の世界-の回想のなかに 自己の存在-の復帰を見出そ うとした として も, あながちこれを非難す ることはマル クスにもで き ないはずである。 マル クスはい う

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「すべての神話は,想像のなか で,かつ想像によって, 自然諸力を克服 し支配 L 形成す る。だか らそれ らは, 自然諸力 にたいす る 現実の支配 とともに消滅す る」(86)と. だが もちろ ん, これで ニーチ ェの問題が片づいたわ けではな いo マルクス自身 よく承知 していた。 だか ら彼は 続 けて こうい うのである。「だが困難 は,ギ リシャ の芸術や叙事詩が一定の社会的発展諸形態にむす びつ いてい ることを理解す る点 にあ るので はな い。困難 は,それが吾 々にたい して もなお芸術的 享楽をあた え,かつある点では,規範 として, ま た到達 しえぬ模範 として妥当す るとい うことにあ る」 は7)と。 この困難 をマル クスは解決 したか。否であ る。 彼 はただ こ ういっただけであ る。「人頬が もっとも すは らしく発育 したその歴史的幼年時代は,二度 とかえらぬ一つの段階 として,なぜ永遠の魅力を あたえてほならないだろ うか

?」(

珪8)とO これはあ る意味で ニーチ ェ的 自己回復である。マル クスも, ニーチ ェが問題に した よ うな内容での 「人間の問 題」 については, ニーチ ェと同 じく,拝情的回想 へ逃避す るほかはなか った よ うである。 とい うわ けであ るが, この点で私 は 「ニーチ ェ とマル クス と」 といお うとは思わない。た しかに マル クスが探究の努力を放棄 したその地点か ら, ー

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85-ニーチ ェの知的営為 が開始 されている。問題提起 において, マル クスの終点が ニーチ ェの出発点で あ った。 その意味で 「ニーチ ェとマル クス と」 とい って よさそ うであ る。 しか し同 じ く 「古代 ギ リシ ャの 永遠 の魅力」 をい って も,内実がマル クス とニー チ ェではまるでちが っている。 マル クスにおいて は,それは「アポ ロン的晴朗の世界」, ヴィソケル マ ン-ゲーテ的古典 ギ リシ ャ観 に立つそれであ っ た に反 して, ニーチ ェが魅せ られたギ リシャは, アポ ロン的晴朗 の背後 の 「デ ィオニ ュソス的暗黒 の世 界」であ った。 こ うした側面か らのギ リシ ャ 解釈 は ニーチ ェに始 まる。以後 これが文献学的歴 史学的 ギ リシ ャ研究 の主流 とな って今 日に及 んで いる。古代 ギ リシ ャはマル クスが考 えた よ うな「す は らしい人類 の幼年時代」ではなか った。 「ニーチ ェとマル クス と」 とい う定式 の優位 を 主張す るつ も りだ ったのが, いつの まにか 「ニー チ ェかマル クスか」 の定式 の擁護 に傾 いて しまっ た よ うであ る. 同 じ近代 ブル ジ ョアジーを批判 ・ 克服 の対象 とした とい って も,その批判 の内容な り論拠 な り角度 な りが ま った く正反 対 なのだ か ら,や は り 「ニーチ ェかマル クスか」 でなければ なるまい。 コイ ンキデ ソテ ィア ・オポシ トール ム な どとい って ごまかせ る場合ではない。 とい うこ とにな りそ うである。 た しかにそれはそ うだが,その上でなお私 は「ニ ーチ ェとマル クス と」 の定式 の優位 を主張 したい のであ る。 ここで も う一度 マ ックス ・ウェーバ ー に戻 って, 冒頭 に引用 した彼 の言葉 の内容を少 し 検討 してみ る としよ う。 ウェーバ ーは生涯一貫 して, カル ヴィニズムの 禁欲的合理主義 あ るいは ピュー リタン的英雄主義 の倫理 を 自己の生活信条 の基調 として堅持 しつづ けた。 それは疑 うべ くもないが, しか し彼の精神 の内的行程 は決 して平坦 な一本道だ ったわ けでは ない。動揺 もあれば曲折 もあ った。 マル クス との 出会 い とニーチ ェとの出会 いは,その間の二つの 大 きな山だ った とい えるだ ろ う。 マ リア ンネの いわ ゆ る 「ア ブシ ュ トウル ツ」 (1898-1902年)以後, ウェーバ ーは もっぱ ら宗 教社会学 の分野 の研究 に没頭す るが,そ こでの彼 の中心課題 はマル クスで あ った。 マル クスか ら学 びマル クスに従 いなが ら,核心的 な点でマル クス と対立す る, マル クス との格闘であ った。彼はマ ル クスの方法論 を 「経済 史観」 として とらえ,そ れ として評価 しなが ら, それな るが故 の欠落点 を 摘 出 しつつ, これに自分 の 「イデオ ロギー史観」 を対置す る。歴史の客観 的条件 に対 して, ウェー バ ーはそ の主観 性 の契 機 に力 点 を おいた ので あ る。 この時期 までは, ニーチ ェは まだ ウェーバ ーに とって新 しい視野の開示 とはな っていない。彼 は ジムメル とともに, ニーチ ェをただその 自己規律 の厳格 さとい う点か ら高 く評価 したに とどまる。 第二 の山は1910年前後 をこ訪れ る。教祖的詩人 ゲ オル ゲ とその一派 との交 りがその転機 であ った。 そ こには若 き日のル カ-チがいた し, ル カーチの 側 にはエル ンス ト・プロ ッホがいた. ウェーバ ー は,神秘 と美 の世界に改 めて注 目す る ことにな る のであ る。主役 はマル クスに替わ って ニーチ ェに なる。近代の必然 として の合理化 の途,その果 て にあ るまった き生命潤渇 , こ うした歴史 の展開 を 人間 の運命 としてみつめ て来た ウ ェーバーに とっ て, この ときニーチ ェの デ ィオニ ュソス讃歌 は正 に新 しい啓示だ ったにち が いない。今度 は ニーチ ェは,貴族主義者,神秘 主義者,創造的生命 とし ての人間解放 の告知者 としてあ らわれ る。 ウェー バ ーの 「カ リスマ」の概 念 の成立 には,その背後 に この ニーチ ェの強い影 響 があ った とい えるで あ ろ う。 だが 「カ リスマ支配 は, その経済的基盤を も含 めてあ らゆ る点 において官僚制支配 の正反対 をな す ものであ る(Zt9)」.そ うだ とすれば,近代 の 日常性 のなかにそれは制度化 され うるものか否か。それ に近代 の超克を期待 し うるか否 か。 とい う点が問 題 にな って くる。 これに対 して ウェーバ ーの答 は 否定的である。合理化の過 程のなかで,それ もま た,やが ての亡びに運命 づけ られ てい るのであ っ た。 (もっとも ミッソマ ンに よると,ウェーバ ーは 第一次大戦中お よび戦後 の著作 のなかでは,貴族 制 とカ リスマ とは近代性 と完全 に両立 し うると述 べ てい る,とい う(ii10)O研 究不足 の現在 の私 には何 ともいえないが, カ リス マが内面化 されて近代的 官僚制支配 と両立 しうる,とい うことであろ うか。 86

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-そ うであれ ば,-それは何の ことはない, ル ター主 義 へ の後退 で は ない か, とい う疑 問 を禁 じえな い)0 要す るに ウ ェーバ ーにおける 「ニーチ ェとマル クス と」は, 両者 の異質性をそのままに しての共 存 とい うこ とにな るだ ろ う。両者はいつ まで も無 媒 介的 に対 時 した ままであ る。 結論 をいそ ぐことに しよ う。「ニーチ ェとマル ク ス と」を主張 す るウェーバ ーは,それ に よって「近 代性」 の 自己解釈 を著 るし く深めた ことは確 かで あ る。 しか し 「近代性」の超克 とい う課題 に対 し ては,彼は無 力だ った,む しろ絶望的だ った。彼 はマル クスか らこの絶望の必然性を学 び, ニ-チ ェか らそれ の 当然性を学 んだ。 しか し, それ の克 服可能性は, ついに何処 か らも学 ばなか った。 「ニーチ ェとマル クス と」 とい って も, ウ ェー バ ーの よ うに両者を切 りはな して並列す るのでは な く,両者 を一体 の ものに結 びつける理解 は不可 能 だ ろ うか。 否, また また ウェーバ ーであるが, 彼 の 「カ リスマ支配」 の概念 に よって, それが可 能 だ と思 う。(ニーチ ェは 自分を ツアラ トゥース ト ラまたはデ ィオニ ュソスに擬す ることに よって 自 らカ 1)スマにな り, マル クスは プロレタ リアー ト に よって カ リスマに された)。そ して この よ うな 「ニーチ ェとマル クス と」の定式 の理解 に よって, 絶望克服の可 能性が開 けるのでほないだ ろ うか。 とはいって も,今 日までの歴史が示すか ぎ りで は, これまた, さらに大 きな絶望への途 だ ったの であ るが。 マル クス- レーニンー スター リン - 毛沢東 ・--。か え りみ るまで もあ るまい。(ウ ェーバ ーが 「近代性 と完全 に両立 し うる」 と期待 した カ リスマの歴史 における実現形態が これだ っ たのか)0 トーマス ・マ ンの 『魔の山』 には,古典的教養 を身 につけた ヒューマニス トのゼテムブ リ-ニ と い う人物 と,新鋭 の現代的思想家で社会主義者 の ナ フタとい う人物が登場す る。二人のあいだで激 論が展開 され る。 ゼテムブ リ-ニが西欧文化の伝 統 を尊重 す る端正 な姿勢 の紳 士 で あ るの に対 し て, ナ フタは ラデ ィカルな破壊 と革新 に熱情をか たむける過激派であ り,少 々不気味な印象 をあた える怪人物であ る。彼 は最後 にゼテムブ リ-こ と の決闘の場 にのぞ んで, 自らピス トルを 自分の頭 に撃 って 自殺す るのであるが, この人物像のなか に私は, ニーチ ェとマル クス との合体 した姿を見 る思いがす る。そ してそ こに,現代の最 も現代的 な課題 の鍵がひそんでいるよ うな気がす る。 以上,「ニーチ ェとマル クス と」とい う私 の問題 設定の意図の概略である。 最近10年間, とくに フランスを中心 に して, ニ ーチ ェ復興 といいた くなるほ どの, ニーチ ェへ の 関心の高 ま りがみ られ る。す ぐれた研究がっ ぎつ ぎに出てい る。 それ らに教 えられつつ, も う一度 ニーチ ェを勉強 しよ うと思 っている。 (注)

(1) Baumgarten,E∴ Max Weber,Werk und Person. Ttibingen,1964.SS.554-5.

(2) Jaspers,K,:Nietzsche,Einfuhrung in das Verstandnis seines Philosophierens. Berlin, 1974.S.445.(草薙正夫訳,選集第19巻,p.346). (3) Hollinrake,R.:Nietzsche,Wagner,andthe Philosophy ofPessimism. London,1982.p. 206.

(4) Lefebvre,H..'Nietzsche.丘ditions sociales intemationales,Paris,1939. (5) 『権力-の意志』第1巻,第 2書,534節。 (6) 『経済学批判』序説 (大月版マルクス-エンゲ ルス選集,補巻3,p.291). (7) 同上,p.292. (8) 同上.

(9) Weber,M.:Wirtschaft und Gesellschaft. (EconomyandSociety. p.1113.世 良訳 『支配 の社会学』H,p.401).

(10)Mitzman,A∴ TheIron Cage.New York, 1971.p.246n.(安藤英治訳,p.224).

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