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鎌倉期禅僧の喫茶史料集成ならびに訓註(上)

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鎌倉期禅僧の喫茶史料集成ならびに訓註

(上)

  

 

  本論は、鎌倉期に活躍した禅僧の「喫茶」史料を収集し、注釈を加えて研究者への便宜を図ることを目的 とするものである。 「茶」は、鎌倉時代に中国僧や中国に留学した禅僧たちによって輸入され、 「禅」を介し て日本に定着した。茶を飲む「喫茶文化」として広がり、それが現在の「茶道」へと展開してゆく。それに も関わらず、禅宗文献の読解は極めて難解であるため、 「禅宗」を中心とした視座は確立されていない。   本 研 究 で 扱 う「 喫 茶 」 は、 「 茶 道 」 と し て 形 作 ら れ る 前 の 茶 を 飲 む 行 為 そ の も の と し て の「 喫 茶 」 で あ り、 これを「喫茶文化」として定義づけているものである。   喫 茶 文 化 の 最 初 の 伝 来 は 明 確 で は な い が、 文 献 上 の 初 見 は、 『 日 本 後 紀 』 弘 仁 六 年 ( 八 一 五 ) 四 月 二 十 二 日 条で、 「近江国滋賀韓埼」に行幸した嵯峨天皇が梵釈寺に立ち寄った際に、 「大僧都永忠」が自ら煎じた茶を 献じた記事であり、日本における受容と展開は当初より仏教を介在して行なわれた。そして、鎌倉期以降に 仏教寺院で広く受容されはじめ、室町期以降に茶道へと発展していき、庶民にまで広がり、現在まで受け継

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がれている。このような、日本の仏教・文化史上極めて重要である喫茶文化の伝播と展開に対し、現在の研 究動向は、二つの流れが形成されつつある。   一つは、喫茶を茶道史の中の位置づけで論ずる場合であり、かつて行なわれていた研究はほとんどがこの 方法に基づいている。その場合、奈良・平安まで受け継がれた喫茶は、鎌倉時代に栄西によって再び招来さ れ、その後も禅宗寺院を中心に受容され、室町期以降の茶道へとつながっていくとする見解を基本とするも のである。ただし、論拠として最も重要であるはずの禅宗文献はほぼ取り上げられておらず、文献上の裏付 けがない。   一つは、喫茶を喫茶文化として、茶道史とは切り離した位置づけで論ずる場合であり、喫茶文化は奈良・ 平安から受け継がれ、鎌倉期以降、禅宗寺院のみならず、顕密寺院もその受容と展開に大きく寄与し、室町 期以降の茶道につながっていくとする見解を基本とするものである。これは、従来の茶道史観のみから論じ られる研究に対するものでもあり、この二つの流れを総合的に踏まえつつ研究が蓄積されている。しかしな がら、鎌倉時代から南北朝期にかけて最も影響力のあった禅宗の文献をほとんど用いておらず、その時代の 実情を反映したものとはなっていない。   上記の研究は、専門著書、単独の雑誌論文ともに枚挙に暇がない。しかしながら、喫茶文化が中国から伝 来し、禅寺を中心として受容されたにも拘わらず、そもそも基本となるはずの禅宗文献における喫茶史料が 収集されていない。さらに、先行研究では禅宗寺院や僧侶の膨大な記録のなかでほんの一部の史料が使用さ れるだけであり、使用されている禅宗文献さえも、丹念に分析している研究は少ない。すなわち、現在の研 究状況は不十分な史料による考察に基づくものであり、正確な分析が行なわれているとは言いがたいのであ

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る。   その上、これまでの喫茶、および喫茶文化の研究は、基本的には禅宗研究者以外の手によって行なわれて きたため、特に鎌倉時代から南北朝期という茶道成立以前の時代を論究するに際し、禅語録を中心とした禅 宗文献を基本史料とした上で、禅宗との関連で詳しく述べたものはほとんどない。また、これまで残存史料 として紹介されたものが金沢文庫に集中しているため、ここから全体像を明らかにしようと試みる研究がほ とんどである。   た と え ば、 茶 に 関 す る 史 料 を 収 集 し た『 史 料 に よ る 茶 の 湯 の 歴 史 』 上 ( 主 婦 の 友 社、 一 九 九 六 ) で は、 第 一 章「茶の湯以前」の第二節「宋代の茶と喫茶養生記」 、第三節「禅院の茶」 、第四節「喫茶の普及」において、 日 本 の 書 物 と し て は『 喫 茶 養 生 記 』『 吾 妻 鏡 』「 仏 日 庵 公 物 目 録 」『 沙 石 集 』「 金 沢 文 庫 古 文 書 」『 関 東 往 還 記』が挙げられている。もちろん、本書は喫茶史料を総て網羅した史料集ではないが、この中の禅宗史料は、 僅 か に『 喫 茶 養 生 記 』「 仏 日 庵 公 物 目 録 」 の み で あ る。 し か も、 こ の よ う な 状 況 は、 近 年 よ う や く 盛 ん に な りつつある喫茶文化を中心とした研究においても見られ、研究で用いられている鎌倉時代の史料の中に、禅 宗関係のものは極めて少ないのが実情である。   一方、実際に禅宗文献を紐解けば多くの喫茶史料を見ることができる。もちろん、禅宗文献はその内容が 難解であるため、文献使用に際してはより細かい読解が必要である。また、実際に喫茶したか否かの判断に 迷う文献も存在するが、一方で、確実に喫茶していたことを示す史料はかなり多く見られる。それは、これ までに提示されてきた顕密仏教や金沢文庫史料にも引けをとらないほどであり、その上、年代的な連続性も 見いだせるのである。

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  そこで、このような研究状況を鑑みて、本論において、鎌倉期の禅語録をはじめとした禅宗文献における 喫茶文化の史料を読解し、分析することで、日本における喫茶文化の受容とその背景、多様性と、その後に 中国から日本へと展開し日本化した過程が明らかになると考えたのである。   当初は確実に喫茶していたことを示す史料のみを収集していた。たとえば、鎌倉期禅僧たちが説法する際 に、唐代や宋代の古則公案を引用した場合、その引用文に「喫茶」があるからと言っても、それは実際に喫 茶していたとは言えないからである。また、説法中に「喫茶」の文字があるからと言って、それは確実に喫 茶していたことを示すことにはならない。このような理由から、内容を精査し、その上で喫茶が確実だと思 われるものだけを収集し、読解していた。   ところが、その途中で、 「喫茶」に関する古則公案を提示したり、 「喫茶」を説法に用いる日にちが、ある 特 定 の 日 に 集 中 し て い る こ と に 気 が つ い た。 こ の 中 で も 特 徴 的 な の が、 端 午 ( 五 月 五 日 ) と 重 陽 ( 九 月 九 日 ) であった。そこで、除外した「喫茶」に関する古則公案や、説法で「喫茶」を用いたものを再び見直してみ ると、それらが端午や重陽に行なわれた例が見られたのである。   その結果として、鎌倉期の禅寺ではこの端午や重陽に際して実際に「喫茶」していたことが判明すること に な っ た ( 実 際 に は 中 国 の 宋 代 に 遡 り 得 る 行 礼 で あ り、 南 北 朝・ 室 町 期 の 禅 寺 で も 行 な わ れ て い た よ う で あ る ) 。 端 午 や重陽で「喫茶」に関する古則公案や、説法で「喫茶」を用いるのは、その日に実際に喫茶していたからと 考えたのである。端午や重陽の喫茶については、稿を分けて論ずる予定である。   このような状況を踏まえた場合、内容のみからは、それが喫茶史料ではないと断定することは難しいよう に思われる。また、少なくとも多くの修行僧を前にして「茶」に関する説法をしていることも、喫茶の受容

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を考える上では必要な情報と言えるのかもしれない。さらに、茶を含む公案がどのように理解されていたの か も、 「 喫 茶 」 の 受 容 を 理 解 す る た め に は 必 要 で あ ろ う。 こ の よ う な 経 緯 か ら、 本 論 に お い て は で き 得 る か ぎり史料を収集して掲載することを目指したものである。   この史料収集と注釈を踏まえた上で、鎌倉時代の禅僧における喫茶の受容をテーマとした研究を今後進め る予定であるが、本論はそれらの基礎的研究と位置づけるものである。また、今後の喫茶文化史や茶道史研 究の一助になれば幸いである。 凡   例 ■本論で紹介する史料は、鎌倉期禅僧の喫茶、茶に関する史料であり、かつ管見に触れたものすべてである。ここで収集 した鎌倉期禅僧の史料とは、鎌倉時代の元弘三年(一三三三)までに示寂している僧侶の史料に留めている。ただし、栄 西撰述の『喫茶養生記』については、それそのものが喫茶史料であり、またすでに多くの注釈が存するため、本論では内 容の翻刻や注釈は行なっていない。 ■提示する禅僧の順番は、示寂した年時による。ただし、月峰了然は、師である蘭渓道隆よりも早くに示寂しているが、 師弟関係にあることを重んじ、蘭渓道隆の次に掲載している。 ■道元の著述に関しては、分量も種類も多いため、最初に喫茶の実情が文脈の中から解り易い清規関係の著述を載せ、次 に 公 案 集 で あ る 真 字『 正 法 眼 蔵 』、 こ れ を 踏 ま え た 著 述 で あ る 七 十 五 巻 本『 正 法 眼 蔵 』、 説 法 録 で あ る『 永 平 広 録 』、 最 後 にその他の著述などを順に掲載した。 ■最初に翻刻を載せ、次に語注、次に訳文を載せた。書誌情報は、それぞれの語注の冒頭に記した。出典など細かい注に ついては補注として最後に一括し掲載している。なお、注釈においては、花園大学国際禅学研究所所長の野口善敬先生の

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ご指導を賜った。 ■訳文については、あくまで限られた情報から導き出される範囲のものであり、多くの問題を含んでいるため、参考程度 に留めて頂きたい。また、訳文の後に、それぞれの文献における喫茶史料としての位置づけを【   】で記し、内容の要約 や、喫茶史料としての見解を記した。 ■漢字仮名交じり文で構成される『正法眼蔵』については、道元自身が重要と思われる部分を漢文(中国語)のまま記し ているので、この部分は文中に(   )で訓読文を掲載した。 ■使用する漢字は、常用漢字を基本とし、旧字体は新字体に直し、適宜、句読点訓点を付した。 ■出典に用いた史料のうち、主立った書籍の略称は以下の通り。大正新脩大蔵経=大正蔵、卍続蔵経=続蔵、蘭渓道隆禅 師全集=蘭渓全、五山文学全集=五山全、五山文学新集=五山新、道元禅師全集(春秋社)七巻本=道元①、道元禅師全 集(春秋社)十七巻本=道元②。

西

  [史料 1― 1]『興禅護国論』巻中 乾道戊子歳遊天台。見山川国土勝妙、道場清浄殊特、生大歓喜、嘗施浄財、供十方学般若菩薩。已而至石橋、 拈香煎茶、敬礼住世五百大阿羅漢。 (一〇b)   [訓] 乾 けん 道 どう 戊 ぼ 子 し の 歳 とし 、 天 てん 台 だい に 遊 あそ ぶ。 山 さん 川 せん ・ 国 こく 土 ど の 勝 しょうみょう 妙 にして、 道 どうじょう 場 の 清 しょうじょう 浄 ・ 殊 とく 特 しゅ なるを見て、 大 だい 歓 かん 喜 き を生じ、 嘗 かつ て 浄 じょうざい 財 を 施 ほどこ して、 十 じっ 方 ぽう の 学 がく 般 はん 若 にゃ 菩 ぼ 薩 さつ に 供 く す。 已 すで にして 石 しゃきょう 橋 に 至 いた り、 香 こう を 拈 ねん じて茶を 煎 せん じ、 住 じゅ 世 うせ の五百 大 だい 阿 あ 羅 ら 漢 かん に 敬 きょうらい 礼 す。

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○ 栄 西 … 臨 済 宗 黄 龍 派 の 明 庵 栄 西( 一 一 四 一 ~ 一 二 一 五 ) の こ と[ 補 1]。 ○『 興 禅 護 国 論 』 は、 栄 西 に よ っ て 撰 述 さ れ、 建 久 九 年( 一 一 九 八 ) に 成 立 し た 禅 籍。 禅 が 一 つ の 宗 旨 と し て 独 立 す る こ と が、 「 国 を 護 る 」 た め に も、 仏 教 のためにも必要であることを論じている。江戸時代の安永七年(一七七八)に建仁寺の高峰東晙が諸本を対校して出 版 し た。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 大 正 蔵 八 〇・ 一 〇 b ]。 ○ 乾 道 戊 子 歳 … 乾 道 四 年( 一 一 六 八 ) に 当 た る。 ○ 天 台 … 台 州( 浙 江 省 ) 天 台 県 の 天 台 山。 山 中 に は 国 清 寺・ 万 年 寺・ 華 頂 寺・ 天 台 石 橋 な ど が 存 す る[ 補 2]。 ○ 勝 妙 … き わ め て す ぐ れている。○清浄…煩悩からはなれ、清らかなさま。○殊特…特にすぐれていること。○浄財…清浄なる財貨。清浄 なることに用いる資材などもいう。○学般若菩薩…『大般若経』の本尊とされ、智慧の仏とされる。○石橋…天台石 橋 の こ と[ 補 3]。 ○ 住 世 … 出 世 と 対 に な る 言 葉 で、 こ の 現 実 世 界 に 住 す る の 意。 ○ 五 百 大 阿 羅 漢 … も と は、 仏 の 涅 槃の後にあつまった五百人の羅漢のこと。五百人の羅漢への信仰は、禅宗で盛んに行なわれた。○已…ここでは、ほ どなくしての意味。○敬礼…敬って礼拝すること。   [ 訳 ] 乾 道 四 年 ( 一 一 六 八 ) に、 天 台 山 に 遊 行 し た。 山 川・ 国 土 は き わ め て す ぐ れ て お り、 道 場 は 清 浄 で と くにすぐれていることを拝見して、大いによろこび、そのうえ浄財を施し、十方の学般若菩薩に供養した。 ほ ど な く し て 天 台 石 橋 に 着 き、 焼 香 し て 茶 を 入 れ〔 て 供 養 し 〕、 こ の 現 実 世 界 に 住 す る 五 百 大 阿 羅 漢 に 敬 っ て礼拝した。 【天台石橋での茶供養】 【中国における茶の事例】栄西は一度目の入宋時に、天台山の石橋に行き、茶を供養 している。   [史料 1― 2]「千光法師祠堂記」 二十八、航海達四明、遊台山万年寺、礼石橋羅漢、瀹茶現花。又見二青龍、俄頃尊者現全身。

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  [訓]二十八、海を 航 わた りて 四 し 明 めい に達し、 台 たい 山 さん の万年寺に遊び、 石 しゃっきょう 橋 の 羅 ら 漢 かん を礼し、 瀹 やく 茶 さ するに花 現 あら わる。 又 ま た二の青龍を見、 俄 しばらく 頃 して尊者の全身現わる。 ○「千光法師祠堂記」は、大宋宝慶元年(一二二五)八月九日に南宋の修職郎監臨安府都税務の 虞 ぐ 樗 ちよ が撰した栄西の 伝記であり、栄西が天童山の千仏閣の建立に日本より木材を送ってその事業を助化したことと、その祠堂が天童山内 に建てられて供養法会が行なわれたことが記される。依頼者は道元の参師の明全であるが、明全は宋地で客死したた め、 「 祠 堂 記 」 に は 明 全 の 略 伝 も 付 さ れ、 ま た 同 伝 記 の 将 来 者 は 道 元 と 考 え ら れ て い る。 ○ 掲 載 書 籍 …『 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 』( 『 続 群 書 類 従 』 第 九 輯 上、 続 群 書 類 従 完 成 会、 一 九 二 五 年、 二 七 三 頁 )。 ○ 二 十 八 … 日 本 の 仁 安 三 年 (一一六八) 、南宋の乾道四年に当たる。○台山…台州(浙江省)天台県の天台山。山中には国清寺・万年寺・華頂寺 ・ 天 台 石 橋 な ど が 存 す る。 ○ 万 年 寺 … 天 台 山 中 の 列 秀 峰 下 の 平 田 に あ る 禅 寺[ 補 1]。 ○ 石 橋 … 天 台 石 橋 の こ と。 ○ 羅漢…阿羅漢。尊敬されるべき人。仏弟子の到達する最高の階位。○瀹茶…瀹茗。煎茶に同じ。茶を入れること。○ 青龍…瑞兆とされる青色の龍。○俄頃…しばらく。○尊者…尊き長老の意。ここでは、羅漢尊者を指す。   [ 訳 ] 二 十 八 歳 で、 海 を 航 っ て 四 明 ( 浙 江 省 明 州 ) に 到 達 し、 天 台 山 の 万 年 寺 に 遊 行 し、 天 台 石 橋 の 羅 漢 を 拝礼して、茶を入れて供えたところ、花が現われた。また二頭の青龍が出現し、しばらくしてから〔羅漢〕 尊者の全身が現われた。 【天台石橋での茶供養】 【中国における茶の事例】 [史料 1― 1]に同じ。   [史料 1― 3]『元亨釈書』巻二「釈栄西」 乾道戊子遊天台、見山川勝妙、生大歓喜、至石橋焚香、煎茶礼住世五百大羅漢。   [訓] 乾 けん 道 どう 戊 ぼ 子 し 、天台に遊び、 山 さん 川 せん の 勝 しょうみょう 妙 なるを見て、大歓喜を生じ、石橋に到りて 焚 ふん 香 こう し、茶を 煎 せん じ住世

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の五百大羅漢を 礼 らい す。 ○『元亨釈書』…臨済宗聖一派の虎関師錬(一二七八~一三四六)によって撰述され、元亨二年(一三二二)に成立 し た 全 三 十 巻 の 仏 教 通 史。 栄 西 の 伝 記 は「 伝 智 一 之 二 」 に 収 録 さ れ て い る。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 大 日 仏 一 〇 一・ 一 五 六 ]。 ○乾道戊子…乾道四年(一一六八)のこと。○天台…台州(浙江省)天台県の天台山。山中には国清寺・万年寺・華 頂寺・天台石橋などが存する。○勝妙…きわめてすぐれている。○石橋…天台石橋のこと。○焚香…香を焚くこと。 ○住世…出世と対になる言葉で、この現実世界に住するの意。○五百大羅漢…もとは、仏の涅槃の後にあつまった五 百人の羅漢のこと。五百人の羅漢への信仰は、禅宗で盛んに行なわれた。   [ 訳 ] 乾 道 四 年 ( 一 一 六 八 ) 、 天 台 山 に 遊 行 し、 山 川 が き わ め て す ぐ れ て い る こ と を 見 て 大 い に 喜 び、 石 橋 に て焼香し、茶を入れて〔供養し〕この現実世界に住する五百大羅漢に礼拝した。 【天台石橋での茶供養】 【中国における茶の事例】 [史料 1― 1]に同じ。   [史料 1― 4]『元亨釈書』巻二「釈栄西」 戊子歳上台山、見青龍於石橋、感羅漢於餅峰、因而供茶異花現盞中。   [訓] 戊 ぼ 子 し の歳、 台 たい 山 さん に上り、 青 せいりゅう 龍 を 石 しゃっきょう 橋 に見て、 羅 ら 漢 かん を 餅 びょうほう 峰 に感じ、 因 ちな みて茶を供えるに、 異 い 花 か 、 盞 せんちゅう 中に 現わる。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 大 日 仏 一 〇 一・ 一 五 八 ]。 ○ 戊 子 歳 … 乾 道 四 年( 一 一 六 八 ) の こ と。 ○ 台 山 … 台 州( 浙 江 省 ) 天 台 県 の天台山。山中には国清寺・万年寺・華頂寺・天台石橋などが存する。○青龍…瑞兆とされる青色の龍。○石橋…天 台石橋のこと。○羅漢…尊き長老の意。ここでは、羅漢尊者を指す。○餅峰…蒸餅峰。天台山の石橋あたりにある峰

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の名。   [ 訳 ] 乾 道 四 年 ( 一 一 六 八 ) 、 天 台 山 に 上 り、 石 橋 で 青 龍 を 見 て、 蒸 餅 峰 で 羅 漢 を 感 じ、 そ こ で 茶 を 供 え た と ころ、異花が茶の器の中に現われた。 【天台石橋での茶供養】 【中国における茶の事例】 [史料 1― 1]に同じ。   [史料 1― 5]『吾妻鏡』建保二年二月四日条 二月大四日己亥、晴。将軍家聊御病悩。諸人奔走。但無殊御事。是若去夜御淵醉余気歟。爰葉上僧正候御加 持之処、聞此事、称良薬、自本寺召進茶一盞。而相副一巻書令献之。所誉茶徳之書也。将軍家及御感悦云々。 去月之比、坐禅余暇書出此抄之由申之。   [訓]二月四日 己 き 亥 がい 、 晴 は る。将軍家、 聊 いささ か 御 ごび 病 ょう 悩 のう 。 諸 しょ 人 にん 奔 ほん 走 そう す。 但 ただ し 殊 こと なる 御 お 事 こと 無し。 是 こ れ 若 も しは 去 さ ぬる夜 の 御 ご 淵 えん 酔 すい の 余 よ 気 き か。 爰 ここ に 葉 ようじょう 上 僧 そうじょう 正 、 御 ご 加 か 持 じ 候ずるの処、 此 こ の事を聞き、 良 りょうやく 薬 と 称 しょう し、 本 ほん 寺 じ 自 よ り茶一 盞 せん を 召 め し 進 すす む。 而 しか も一巻の書を 相 あ い 副 そ え 之 これ を 献 すす めしむ。茶の徳を 誉 ほ むる所の書なり。将軍家、 御 ご 感 かん 悦 えつ に 及 およ ぶと云々。 去 さ ぬる月の 比 ころ 、坐禅の 余 よ 暇 か に 此 こ の 抄 しょう を書き 出 い だすの 由 よし 、 之 これ を 申 もう す。 ○『吾妻鏡』は、鎌倉時代成立の歴史書であり、源頼朝から宗尊親王まで六代の記録で、治承四年(一一八〇)から 文永三年(一二六六)の事績が編年体で記されている。成立時期は明確ではないが、鎌倉末期と推定されている。○ 掲載書籍…『吾妻鏡』建保二年二月四日条( 『新訂増補国史大系』第三十二『吾妻鏡』前、七〇九頁) 。○将軍家…鎌 倉 三 代 将 軍、 源 実 朝( 一 一 九 二 ~ 一 二 一 九 ) の こ と[ 補 1]。 ○ 御 淵 醉 余 気 … 二 日 酔 い の こ と。 ○ 葉 上 僧 正 … 臨 済 宗 黄 龍 派 の 明 庵 栄 西( 一 一 四 一 ~ 一 二 一 五 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 加 持 … 加 持 祈 祷。 密 教 の 儀 式。 ○ 本 寺 … こ こ で は、 亀

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谷山寿福寺のこと[補 3]。○所誉茶徳之書…『喫茶養生記』のことと考えられている[補 4]。   [訳] 〔建保二年、一二一四〕二月四日己亥、 〔天気は〕晴れ。将軍源実朝は、軽く病気のようなので、諸人 が奔走した。ただし、特段変わった様子が見られない。これはあるいは昨晩の飲み過ぎによる二日酔いか。 そこで葉上僧正栄西が加持祈祷をされていたが、この事 (実朝の二日酔い) を聞き、良薬と言って、寿福寺よ り 茶 一 杯 を 勧 め た。 そ の う え、 一 巻 の 書 (『 喫 茶 養 生 記 』) を 副 え て 献 上 し た。 〔 こ れ は 〕 茶 の 徳 を 誉 め る 書 物 である。源実朝は感悦したという。 〔栄西は〕以前、坐禅の余暇にこの書物を著していたと言っていた。 【 薬 用 と し て の 喫 茶 】【 『 喫 茶 養 生 記 』 の 提 出 】「 坐 禅 の 余 暇 」 に こ の 抄 (『 喫 茶 養 生 記 』) を 記 し た と す る 記 事 に注目したい。 『吾妻鏡』ができた鎌倉後期には、 「茶の徳を誉むる所の書」と坐禅が結びついていた可能性 が示唆されているからである。

  [史料 2― 1]『典座教訓』 又嘉定十六年癸未五月中、在慶元舶裏。倭使頭説話次、有一老僧来。年六十許歳。一直便到舶裏、問和客討 買倭椹。山僧請他喫茶。問他所在、便是阿育王山典座也。   [訓]又た 嘉 か 定 てい 十六年 癸 き 未 び 五月中、 慶 けい 元 げん の 舶 はく 裏 り に在り。 倭 わ 使 し 頭 とう と 説 せつ 話 わ する 次 おり 、一老僧 有 あ りて来たる。 年 とし 六十 許 ばかり の 歳 とし なり。 一 いち 直 じき に 便 すなわ ち 舶 はく 裏 り に到り、 和 わき 客 ゃく に問うて 倭 わ 椹 じん を 討 もと め買う。山僧、 他 かれ に喫茶を 請 こ う。 他 かれ の 所 しょ 在 ざい を 問 と うに、便ち 是 こ れ 阿 あ 育 いく 王 おう 山の 典 てん 座 ぞ なり。

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○ 道 元 … 曹 洞 宗 の 道 元( 一 二 〇 〇 ~ 一 二 五 三 ) の こ と[ 補 1]。 ○『 典 座 教 訓 』 一 巻 は、 典 てん 座 ぞ ( 禅 寺 の 修 行 僧 の 食 事 を司る役職)の心得を示したもので、嘉禎三年(一二三七)に撰述された。中国留学中に道元に衝撃を与えた二人の 老典座の話をはじめ、典座の職に就いて悟りを開いた祖師の機縁を紹介し、その職がいかに大事であるかを書き記し た。江戸期に道元の清規を集めて刊行した『道元禅師清規』 (通称『永平清規』 )に収録され、世に流布した。○掲載 書籍…[道元①六・一二] [道元②十五・一四] 。○慶元…慶元府のこと。寧波の港があった。○倭使頭…日本人の船 頭か。○説話…話す。○一直…まっすぐに。○倭椹…日本産の桑の実のことか。○阿育王山…阿育王山広利禅寺のこ と[補 2]。○典座…禅宗寺院で衆僧の食事を司る役。六知事の一つ。   [ 訳 ] ま た 嘉 定 十 六 年 癸 未 五 月 中 は、 慶 元 府〔 寧 波 の 港 〕 の 舶 中 に い た。 倭 使 頭 ( 日 本 人 の 船 頭 ) と 話 し て いた時に、一人の老僧がやって来た。年は六十歳ほどに見えた。まっすぐにそのまま船にやってきて、和客 ( 日 本 人 の 乗 船 者 ) に 尋 ね て 倭 椹 を 求 め て 買 わ れ た。 私 は、 そ の 老 僧 に 喫 茶 を 勧 め た。 老 僧 の 所 在 を 質 問 し た ところ、阿育王山の典座であった。 【 中 国 上 陸 前 の 喫 茶 】 道 元 が 上 陸 前 の 寧 波 の 船 中 で、 阿 育 王 山 の 典 座 と 対 談 せ ん こ と を 欲 し て、 茶 を 差 し 出 してもてなしている。日本の禅僧が、茶によるもてなしを行なった記録として最も古いものではないか。中 国における喫茶であるが、正式上陸前であることは注目される。日本の建仁寺や博多などで学習していた可 能性が想定されるからである。   [史料 2― 2]『弁道法』 摺被時、不得教被横而到隣位単上。不得卒暴作声。護身護儀、随衆恭衆而已。開静以去、不得展単蓋被而眠。

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粥了帰衆寮喫茶喫湯、或復被位打坐。   [訓] 被 ひ を 摺 たた む時、 被 ひ をして 横 よこた えて 隣 りん 位 い の 単 たんじょう 上 に到らしむることを 得 え ざれ。 卒 そつ 暴 ぼう にして声を 作 な すことを 得 え ざ れ。 身 み を 護 まも り 儀 ぎ を 護 まも り、衆に随い衆に 恭 きょう するのみ。 開 かいじょう 静 以 い 去 きょ は、 単 たん に 展 の べ 被 ひ を 蓋 おお うて眠ることを 得 え ざれ。 粥 しゅく 了 お わり 衆 しゅりょう 寮 に帰りて 茶 さ を 喫 きっ し 湯 とう を喫し、 或 ある いは 復 ま た 被 ひ 位 い にて 打 た 坐 ざ す。 ○『 弁 道 法 』 は、 永 平 寺 の 前 身 で あ る 大 仏 寺 に お け る 道 元 の 説 示 で あ り( 一 二 四 四 ~ 一 二 四 六 )、 僧 堂 に お け る 規 矩 が記されている。江戸期に道元の清規を集めて刊行した『道元禅師清規』 (通称『永平清規』 )に収録され、世に流布 した。○掲載書籍…[道元①六・三六] [道元②十五・四三] 。○被…掛け布団のこと。○卒暴…にわかに。急いで。 ○ 開 静 … 修 行 僧 を 眠 り か ら 起 こ す こ と。 『 禅 苑 清 規 』 な ど。 ○ 衆 寮 … 修 行 僧 の 学 問 所。 読 書 や 自 習 を す る 場 所 で あ る ことから、看読寮ともいう。   [訳]被 (掛け布団) を畳む時、 被 (掛け布団) を横にして隣りの単 (座位) の上まで到らないようにしなさい。 急いで扱って音を出さないようにしなさい。身体を護り四威儀を護り、大衆とともに行動し、大衆ともにつ つ し ん で 修 行 す る だ け で あ る。 開 静 以 後 は、 単 ( 座 位 ) を 被 ( 掛 け 布 団 ) で 蓋 っ て 眠 る こ と が な い よ う に。 粥 が了わって衆寮に帰ってから茶を飲み湯を飲み、あるいはまた僧堂の自分の単で坐禅しなさい。 【 日 常 修 行 に お け る 喫 茶 】 粥 が 終 わ り、 衆 寮 に 帰 っ て か ら 茶 湯 を 飲 む こ と が 記 さ れ て い る。 毎 日 の 修 行 生 活 における喫茶が規定されている。   [史料 2― 3]『弁道法』 寮主焼香之法、先到当面向聖僧問訊罷、歩寄香炉之前、右手上香罷、叉手右転身還到当面、問訊訖、叉手歩

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到上間之両板頭中間、問訊訖、叉手右転身、経正面而歩到下間之両板頭中間、問訊訖叉手右転身、歩到正面 向聖僧問訊了叉手而立。然後行湯行茶。茶湯罷又焼香問訊。行李如初。   [訓] 寮 りょうしゅ 主 焼 しょうこう 香 の法、 先 ま ず 当 とう 面 めん の 聖 しょうそう 僧 に 向 む かって 問 もん 訊 じん し 罷 お わり、 香 こう 炉 ろ の前に歩み寄り、右手にて 上 じょうこう 香 し 罷 お わ り、 叉 しゃしゅ 手 にて右に身を転じ、 還 かえ って当面に到りて問訊し 訖 お わり、叉手にて 上 じょうかん 間 の 両 りょうばんとう 板頭 の 中 ちゅうかん 間 に歩み到り、 問訊し訖わり、叉手にて右に身を転じ、正面を経て 下 げ 間 かん の両板頭の中間に歩み到り、問訊し訖わり叉手にて 右に身を転じ、正面に歩み到りて聖僧に向かって問訊し了わり叉手にして立つ。 然 しか る後に 行 ぎょうとう 湯 行 ぎょうさ 茶 す。 茶 さ 罷 は に又た焼香問訊す。 行 あん 李 り 初めの如し。 ○掲載書籍…[道元①六・四二~四四] [道元②十五・五〇~五一] 。○寮主…衆寮に関する要務を司る役職。修行僧 が交代で就任する。○当面…目の前。○聖僧…僧堂の中央に奉安する仏像。○問訊…一礼して頭を下げる。○上香… 香を仏前に上げる。○叉手…両手を胸の辺りで重ねること。左手は握って拳をつって親指を上に向け、右手は左手の 甲の上に、親指以外の四本の指を置き、親指は左手親指の上に置く形を作る。○板頭…僧堂内の長連牀の各板の上位。 首座位、後堂位などを指す。○行李…起居動作。   [訳]寮主の焼香の方法は、まず正面の聖僧に向かって問訊し終われば、香炉の前に歩みより、右手にて上 香し終わったら、叉手して右廻りに身を転じ、還って正面に歩みよって問訊し終われば、叉手にて上間の両 板頭の中間に歩み寄り、問訊し終われば、叉手して右廻りに身を転じ、正面を経て下間の両浄縁の中間に歩 み 寄 り、 問 訊 し 終 わ れ ば 叉 手 に て 右 廻 り に 身 を 転 じ、 正 面 に 歩 み 寄 り 聖 僧 に 問 訊 し て 叉 手 で 立 つ。 〔 そ の 後 に〕湯を飲み、茶を飲む。茶・湯を飲み終わったら焼香して問訊する。その作法は最初と同じである。 【 日 常 修 行 に お け る 喫 茶 】 晡 時 坐 禅 後 の 放 参 に 際 し、 寮 主 が 焼 香 す る 作 法 が 記 さ れ る。 そ し て、 寮 主 が 焼 香

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し終わったら、衆寮において皆で一斉に「行湯行茶」することが記されている。毎日の修行生活における喫 茶が規定されている。   [史料 2― 4]『知事清規』 所謂道心者、不抛撒于仏祖之大道、深護惜于仏祖之大道。所以名利抛来、家郷辞去、比黄金於糞土、比声誉 於涕唾、不瞞於真、不順於偽、護規縄之曲直、任法度之進退、遂不以仏祖家常之茶飯而売弄於賎価、乃道心 也。   [訓] 所 い わ ゆ 謂 る 道 どうしん 心 とは、 仏 ぶっ 祖 そ の大道を 抛 ほう 撒 てつ せず、深く仏祖の大道を 護 ごし 惜 ゃく するなり。 所 ゆ 以 え に 名 みょ 利 うり を 抛 なげう ち来たり、 家 かき 郷 ょう を 辞 じ し 去 さ り、黄金を 糞 ふん 土 ど に 比 ひ し、 声 せい 誉 よ を 涕 てい 唾 だ に比し、真を 瞞 あざむ かず、 偽 ぎ に 順 したが わず、 規 きじ 縄 よう の 曲 きょくちょく 直 を 護 まも り、 法 はっ 度 と の進退に 任 ま かし、 遂 つい に 仏 ぶっ 祖 そ 家 かじょう 常 の 茶 さ 飯 はん を 以 もっ て 賎 せん 価 か に 売 まい 弄 ろう せざる、 乃 すなわ ち道心なり。 ○『知事清規』は、寛元元年(一二四六)六月十五日に大仏寺を永平寺に改めた時に撰述された。江戸期に道元の清 規を集めて刊行した『道元禅師清規』 (通称『永平清規』 )に収録され、世に流布した。○掲載書籍…[道元①六・一 三二] [道元②十五・一五〇] 。○道心…悟りを求める心。仏道を求める心。○仏祖之大道…仏法の真理。仏法の一大 事。○抛撒…なげすてる。○護惜…おしみまもる。○名利…名誉と利益。名聞と利養。利養は財を食り己を肥やすこ と。名聞は世間的な評判名声。○糞土…糞やきたない土。○声誉…声名。よい評判。○涕唾…なみだやつば。きたな いもののたとえ。○規縄…円を描くためのぶんまわしと、長い直線をひくための墨縄。軌範などの基準となるもの。 ○曲直…まがったことと、まっすぐなこと。正しくないことと、正しいこと。○法度…法律や制度などのきまり。軌 範。○進退…立ち居振る舞い。○家常…日常。○売弄…自慢する。○賎価…安価。やすい値段。   [訳]いわゆる道心 (仏道を求める心) とは、仏祖の大道 (仏法の真理) をなげすてずに、深く仏祖の大道 (仏

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法 の 真 理 ) を 惜 し み 護 る こ と で あ る。 だ か ら、 名 聞 と 利 養 を 投 げ 捨 て て、 故 郷 を 立 ち 去 り、 黄 金 を 糞 や 土 の ように見、名声を涙や唾のように見て、真実を欺かず、偽物に順わず、軌範を守り、法度に記された立ち居 振 る 舞 い 通 り に 行 な い、 決 し て 仏 祖 家 常 の 茶 飯 ( 仏 祖 の 日 常 の 作 法 ) を 安 価 に 自 慢 し な い の が、 ま さ に 道 心 (仏道を求める心) なのである。 【仏祖家常の茶飯としての引用】修行僧の日常生活を、 「仏祖家常の茶飯」と表現している。日常修行で喫茶 が行なわれているからこその記述であろう。   [史料 2― 5]『知事清規』 新到茶湯、特為不得闕礼。   [訓] 新 しん 到 とう の 茶 さ 湯 とう は、 特 とく 為 い にして 礼 れい を 闕 か くを 得 え ざれ。 ○掲載書籍…[道元①六・一五〇] [道元②十五・一七一] 。○特為…特別に設ける。   [訳]新到に対する茶湯は、特別に設ける茶礼であり、礼節を欠いてはならない。 【 清 規 に お け る 特 為 茶 の 一 例 】 新 し く 寺 に 到 着 し た 雲 衲 に 対 し て、 特 別 に 設 け る 茶 湯 を 行 な う 場 合 は、 礼 節 を欠いてはならないことを記す。新たに寺院に入山した修行僧に対して茶湯をしていたとみられる。雲水と して行脚し、寺院に到着した修行僧を、客人としてもてなしていたものだろう。   [史料 2― 6]『赴粥飯法』 粥後放参、即住持人出堂、打放参鐘三下。如遇早参、更不打鐘。如為斎主、三下後陞堂、亦須打放参鐘。又

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大坐茶湯罷、住持人聖僧前問訊出、即打下堂鐘三下。如監院首座入堂煎点、送住持人出、却来堂内、聖僧前 上下間問訊罷、盞橐出方打下堂鐘三下。   [訓] 粥 しゅくご 後 の 放 ほうさん 参 、即ち住持人出堂して、 放 ほうさんしょう 参鐘を打つこと 三 さん 下 げ す。 如 も し 早 そう 参 さん に 遇 あ わば、 更 さら に鐘を 打 う たず。 如 も し 斎 さい 主 しゅ の 為 ため に、三下後に 陞 しん 堂 どう すれば、 亦 ま た 須 すべか らく放参鐘を打つべし。 又 ま た 大 だい 坐 ざ の 茶 さ 湯 とう 罷 お わって、住持人 聖 しょう 僧 そう 前にて 問 もん 訊 じん して 出 い ずれば、即ち 下 あ 堂 どう 鐘 しょう を打つこと三下す。 如 も し 監 かん 院 にん ・ 首 しゅ 座 そ の堂に入りて 煎 せん 点 てん せば、住持人 の 出 い づるを送り、堂内の聖僧前に 却 きゃくらい 来 して、上下間に問訊し 罷 お わって、 盞 さん ・ 橐 たく 出ずれば 方 まさ に下堂鐘を打つこ と三下す。 ○『赴粥飯法』一巻は、粥飯に赴くときの作法であり、永平寺において道元によって示された。江戸期に道元の清規 を集めて刊行した『道元禅師清規』 (通称『永平清規』 )に収録され、世に流布した。○掲載書籍…[道元①六・七〇 ~七二] [道元②十五・八一~八二] 。○放参…もとは晩参(夜の坐禅)をやめて、修行僧に自由な時間を与えること を意味する言葉であったが、後にはすべての行事で休むことを「放参」と言うようになった。○放参鐘…放参の合図 と し て 打 つ 鐘。 ○ 早 参 … 早 朝 の 坐 禅( 早 晨 坐 禅 )。 ○ 斎 主 … 施 主。 ○ 陞 堂 … 法 堂 に 登 っ て 説 法 す る。 ○ 大 坐 茶 湯 … 僧 堂において大衆一同が坐して行なう茶礼。○下堂鐘…下堂は僧堂や法堂を退いて各自の寮社に帰ること。下堂鐘はそ の合図として打つ鐘。○監院…監寺とも。寺の運営面を司る要職。総領の任にあたる役目。六知事の一つ。○首座… 第一座。禅宗寺院で修行僧の首位に坐る者。六頭首の一つ。○煎点…茶を入れること。   [ 訳 ] 朝 食 の 粥 後 の 放 参 で は、 住 持 が〔 僧 堂 か ら 〕 出 堂 し て、 放 参 鐘 を 三 回 打 つ。 も し 早 参 ( 早 晨 坐 禅 ) に 遇えば、決して鐘を打たない。もし施主のために三回鳴ったのちに陞堂するなら、また必ず放参鐘を打たな ければならない。また大坐の茶湯のあとは、住持人は聖僧前で問訊してから出堂し、すぐに下堂鐘を三回打 つ。 も し 監 院・ 首 座 が 僧 堂 に 入 っ て 煎 点 ( 茶 を 入 れ る ) す る な ら ば、 住 持 が 僧 堂 か ら 出 る の を 送 り、 僧 堂 内

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の 聖 僧 前 に 戻 っ て き て、 上 下 間〔 で 坐 禅 し て い る 大 衆 〕 に 問 訊 し て か ら、 盞 橐 ( 茶 碗 と 茶 托 ) が 片 づ け ら れ たところで下堂鐘 (下堂の合図の鐘) を三回打つ。 【 日 常 修 行 に お け る 喫 茶 】【 茶 道 具 の 記 述 】 道 元 の 記 し た 清 規 に、 粥 後 に 放 参 し た 後 に、 「 大 坐 茶 湯 」 の 茶 礼 があった場合の作法が記されている。また、監院・首座が茶礼を行なった場合の作法も記されている。この 際の記述からは盞橐 (茶碗と茶托) が使用されていたとみられる。   [史料 2― 7]真字『正法眼蔵』第一〇六則 澧州龍潭崇信禅師〈嗣天皇〉作餅為業。礼天皇和尚出家。皇謂云汝執侍吾、已後為汝説心要法門。凡経一載。 師曰、来時和尚許説心要法門、至今未蒙指示。皇云、吾為汝説来久矣。師曰、何処是和尚為某説。皇云、你 若不審、我則合掌。我若坐時、汝則侍立。汝擎茶来、吾為汝受。師良久。皇云、見則便見、擬思即差。師乃 大悟。   [訓] 澧 れいしゅう 州 の 龍 りゅうたん 潭 崇 そうしん 信 禅師〈 天 てん 皇 のう に 嗣 つ ぐ〉は 餅 もち を 作 つく るを 業 なりわい と 為 な す。 天 てんのう 皇 和尚を 礼 らい して 出 しゅっけ 家 す。 皇 のう 謂いて云く、 「汝、 吾 われ に 執 しゅ 侍 うじ せば、 已 い 後 ご 、汝が 為 ため に 心 しん 要 よう 法 ほう 門 もん を 説 と かん」と。 凡 おそ そ一 載 さい を 経 ふ 。師曰く、 「来たる時、和尚、心 要 法 門 を 説 く を 許 ゆる す も、 今 に 至 る ま で 未 だ 指 し 示 じ を 蒙 こうむ ら ず 」 と。 皇 云 く、 「 吾 われ 、 汝 が 為 ため に 説 と き 来 き た る こ と 久 し」と。師曰く、 「 何 い ず く 処 にて 是 こ れ和尚 某 それがし の 為 ため に 説 と くや」と。皇云く、 「 你 なんじ 若 も し 不 ふ 審 しん せば、 我 われ 則ち 合 がっしょう 掌 す。 我 われ 若 も し 坐 す る 時 は、 汝 なんじ 則 すなわ ち 侍 じりゅう 立 す。 汝 なんじ 茶 さ を 擎 ささ げ 来 た れ ば、 吾 われ 汝 なんじ の 為 ため に 受 く 」 と。 師、 良 りょうきゅう 久 す。 皇 云 く、 「 見 れ ば 則 す な わ 便 ち見る、思わんと 擬 ほっ せば 即 すなわ ち 差 たが う」と。師 乃 すなわ ち大悟す。 ○真字『正法眼蔵』は、道元が公案を三百則集めて著した漢文体の『正法眼蔵』のこと。一般的に知られる和文体の

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『 正 法 眼 蔵 』 と は 異 な り、 漢 文 体 で あ る た め、 区 別 の た め に 真 字『 正 法 眼 蔵 』 と 呼 称 さ れ る。 こ の 真 字『 正 法 眼 蔵 』 は日本で編纂された最古の公案集であり、道元自身の手によって編集された。○掲載書籍…[道元①五・一八二~一 八 四 ][ 道 元 ② 十 四・ 一 六 五 ]。 ○ 澧 州 龍 潭 崇 ~ 師 乃 大 悟 …[ 補 1]。 ○ 澧 州 龍 潭 崇 信 禅 師 … 唐 代、 青 原 下 の 龍 潭 崇 信 ( 生 没 年 不 詳 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 天 皇 … 石 頭 下 の 天 皇 道 悟( 七 四 八 ~ 八 〇 七 ) の こ と[ 補 3]。 ○ 執 侍 … 従 事 す る。 ○心要…教えの真髄。○法門…真理の教え。仏の教え。○不審…挨拶の言葉。挨拶そのものも意味する。○侍立…そ ばに立つ。   [訳]澧州の龍潭崇信禅師〈天皇道悟に嗣法する〉は餅を作ることを生業としていたが、天皇道悟を礼して 出 家 し た。 天 皇 道 悟 は 言 っ た、 「 君 が 私 に 付 き 従 う な ら、 以 後、 私 は 君 の た め に 心 要 ( 教 え の 真 髄 ) 法 門 ( 真 理 の 教 え ) を 説 こ う 」 と。 一 年 が 経 っ た。 師 ( 龍 潭 崇 信 ) が 言 っ た、 「 こ こ に や っ て 来 た 時 に、 和 尚 さ ん は、 私 に 心 要 ( 教 え の 真 髄 ) 法 門 ( 真 理 の 教 え ) を 説 く と 言 い ま し た が、 今 ま で 示 教 を 受 け て お り ま せ ん 」 と。 天 皇 道 悟 が 言 っ た、 「 私 は 君 の た め に〔 禅 の 教 え を 〕 ず っ と 説 い て き た ん だ 」 と。 師 ( 龍 潭 崇 信 ) が 言 っ た、 「いったい、いつどこで和尚さまは私のために説いたのですか」と。天皇道悟が言った、 「君が挨拶したとき は、私はすぐに合掌していたではないか。私が坐禅している時は、君はすぐにそばに立っていたではないか。 君 が 茶 を 捧 げ て も っ て や っ て 来 れ ば、 私 は 君 の た め に 受 け と っ て い た で は な い か 」 と。 師 ( 龍 潭 崇 信 ) は、 〔 意 味 が 理 解 で き ず に 〕 黙 っ て い た。 天 皇 道 悟 が 言 っ た、 「 見 る と き は そ の ま ま 見 な さ い、 〔 思 慮 を さ し い れ て〕見ようと思ってしまえばもうまちがいだ」と。師 (龍潭崇信) はそこで大悟した。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下では、このような公案が道元によって紹介されていた。この公案に基づき、 [史料 2― 50]『永平広録』巻

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九「頌古」が提示された。   [史料 2― 8]真字『正法眼蔵』第一四三則 芙蓉山道楷禅師、問投子山青禅師曰、仏祖意句、如家常茶飯。離此之余、還別有為人言句也無。青和尚云、 汝道、寰中天子勅、還仮禹湯尭舜也無。師擬開口。青和尚拈払子驀口打云、你発意来時、早有二十棒分。師 於此契悟、作礼便行。青和尚云、且来闍梨。師竟不回首。青和尚云、子到不疑之地耶。師掩耳而去。   [ 訓 ] 芙 ふ 蓉 よう 山 ざん 道 どう 楷 かい 禅 師、 投 とう 子 す 山 ざん 青 せい 禅 師 に 問 う て 曰 く、 「 仏 祖 の 意 い 句 く は、 家 かじょう 常 の 茶 さ 飯 はん の 如 し。 此 こ れ を 離 る る の 余 ほか 、 還 は た 別 に 為 い 人 にん の 言 ごん 句 く 有 り や 」 と。 青 せい 和 おし 尚 ょう 云 く、 「 汝 道 い え、 寰 かんちゅう 中 の 天 てん 子 し の 勅 ちょく 、 還 は た 禹 うとうぎょうしゅん 湯 尭 舜 を 仮 か る や 」 と。 師、 口 を 開 か ん と 擬 ほっ す る に、 青 和 尚、 払 ほっ 子 す を 拈 と っ て 驀 まっ 口 く に 打 ち て 云 く、 「 你、 発 ほつ 意 い し て 来 た る 時、 早 は や 二 十 棒 の 分 有 あ り 」 と。 師、 此 ここ に 於 お い て 契 かい 悟 ご し、 礼 を 作 な し て 便 すなわ ち 行 く。 青 せいおしょう 和 尚 云 く、 「 且 しばら く 来 た れ 闍 じゃ 梨 り 」 と。 師 竟 つい に 回 かい 首 しゅ せず。青和尚云く、 「 子 なんじ 、 不 ふ 疑 ぎ の地に到るや」と。師、耳を 掩 おお いて去る。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 五・ 二 〇 二 ][ 道 元 ② 十 四・ 一 八 五 ]。 ○ 芙 蓉 山 道 楷 禅 師 ~ 師 掩 耳 而 去 …[ 補 1]。 ○ 芙 蓉 山 道 楷 禅 師 … 曹 洞 宗 の 芙 蓉 道 楷( 一 〇 四 三 ~ 一 一 一 八 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 投 子 山 青 禅 師 … 曹 洞 宗 の 投 子 義 青( 一 〇 三 二 ~ 一 〇 八 三 ) の こ と[ 補 3]。 ○ 天 子 勅 … 天 子 は 皇 帝。 皇 帝( 天 皇 ) が 発 し た 命 令。 ○ 禹 湯 … 古 代 中 国 の 明 君 で あ る、 夏の禹王、殷の湯王のこと。○尭舜…中国古代の伝説上の帝王である尭と舜。○驀口…くちめがけてまっこうに。○ 発意…「ほっち」とも。仏法を求める心を起こすこと。発菩提心。発心。○二十棒…三十棒。師家が学人に対して与 える棒打。徳山の棒。○開悟…大悟。悟りを開くこと。○契悟…開悟。大悟。悟りを開くこと。○闍梨…禅僧の代名 詞。 「 私 」 の 代 名 詞。 天 台 宗 の 阿 闍 梨 の こ と で は な い。 ○ 回 首 … 廻 首。 振 り 返 る。 ふ り 返 っ て 後 ろ を 見 る。 ○ 不 疑 … 大悟徹底の境地。

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  [ 訳 ] 芙 蓉 山 の 道 楷 禅 師 が 投 子 山 の 義 青 禅 師 に 質 問 し た、 「 仏 祖 の 言 葉 は 家 常 の 茶 飯 の よ う な も の で す。 こ の こ と を 離 れ て、 別 に 教 え の 言 葉 が あ り ま す か 」 と。 投 子 義 青 が 言 っ た、 「 君、 言 い た ま え、 寰 中 の 天 子 の 勅 は、 は て 禹・ 湯・ 尭・ 舜 王 の 言 葉 を 借 り る か 」 と。 師 ( 芙 蓉 道 楷 ) が 何 か 言 お う と し た と こ ろ、 投 子 義 青 は 払 子 を 手 に 持 ち 口 め が け て ま っ こ う に 打 ち つ け て か ら 言 っ た、 「 君 が 発 心 し て 来 た 時 に、 す で に 二 十 棒 を く れ て や る に 十 分 だ っ た ぞ 」 と。 師 ( 芙 蓉 道 楷 ) は、 こ こ で 開 悟 し、 再 び 礼 拝 す る と 立 ち 去 ろ う と し た。 投 子 義 青 が 言 っ た、 「 ち ょ っ と こ ち ら に 来 な さ い、 和 尚 さ ん 」 と。 師 ( 芙 蓉 道 楷 ) は、 と う と う 振 り 返 ら な か っ た。 投 子 義 青 が 言 っ た、 「 君 は、 不 疑 の 地 ( 大 悟 徹 底 の 境 地 ) に 到 っ た の か 」 と。 師 ( 芙 蓉 道 楷 ) は、 手 で 耳 を 掩って去って行った。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下 で は、 こ の よ う な 公 案 が 道 元 に よ っ て 紹 介 さ れ て い た。 こ の 公 案 に 基 づ き、 [ 史 料 2― 27]『 正 法 眼 蔵 』 「家常」や[史料 2― 51]『永平広録』巻九「頌古」が提示された。   [史料 2― 9]真字『正法眼蔵』第二三三則 趙州、有僧到。便問、曽到此否。僧云、曽到。師曰、喫茶去。又問僧、曽到此否。僧曰、不曽到。師曰、喫 茶去。院主問、曽到且従、不曽到如何喫茶去。師乃喚院主。主応諾。師曰、喫茶去。   [ 訓 ] 趙 じょうしゅう 州 、 僧 有 あ り て 到 いた る。 便 すなわ ち 問 と う、 「 曽 かつ て 此 ここ に 到 る や 」 と。 僧 云 く、 「 曽 て 到 る 」 と。 師 曰 く、 「 喫 きっ 茶 さ 去 こ 」 と。 又 た 僧 に 問 う、 「 曽 て 此 に 到 る や 」 と。 僧 曰 く、 「 曽 て 到 ら ず 」 と。 師 曰 く、 「 喫 茶 去 」 と。 院 いん 主 しゅ 問 う、 「 曽 て 到 る は 且 しばら く 従 お く、 曽 て 到 ら ず は 如 い か ん 何 が 喫 茶 去 な る 」 と。 師 乃 ち 院 主 を 喚 よ ぶ。 主、 応 おうだく 諾 す。 師 曰 く、

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「喫茶去」と。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 五・ 二 四 八 ][ 道 元 ② 十 四・ 二 三 三 ]。 ○ 趙 州 ~ 喫 茶 去 …[ 補 1]。 ○ 趙 州 … 南 嶽 下 の 趙 州 従 諗 (七七八~八九七)のこと[補 2]。○喫茶去…茶を飲みに行け。茶を飲んでから出直して来い。○院主…寺院の事務 一切を主宰する者のこと。律院・教院の主たる者や、禅院の監寺・監院のこと言う。○応諾…うけがう。承諾する。   [ 訳 ] 趙 州 従 諗 の も と に、 あ る 僧 が や っ て き た。 す ぐ に 質 問 し た、 「 こ こ に 来 た こ と が あ る か 」 と。 僧 が 言 っ た、 「 来 た こ と が あ り ま す 」 と。 師 ( 趙 州 従 諗 ) が 言 っ た、 「 茶 を 飲 ん で か ら 出 直 し て 来 た ま え 」 と。 ま た あ る 僧 に 質 問 し た、 「 こ こ に 来 た こ と が あ る か 」 と。 僧 が 言 っ た、 「 来 た こ と が あ り ま せ ん 」 と。 師 ( 趙 州 従 諗 ) が 言 っ た、 「 茶 を 飲 ん で か ら 出 直 し て 来 た ま え 」 と。 院 主 が 質 問 し た、 「 来 た こ と が あ る〔 と 言 っ た 〕 僧 に つ い て は ひ と ま ず お い て お き ま す が、 来 た こ と が な い と 言 っ た 僧 に ど う し て 茶 を の み に い け〔 と 言 っ た の 〕 で す か 」 と。 師 ( 趙 州 従 諗 ) は そ こ で「 院 主 さ ん 」 と 喚 ん だ、 院 主 は〔 ハ イ と 〕 応 え た。 師 ( 趙 州 従 諗 ) が言った、 「茶を飲んでから出直して来たまえ」と。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下 で は、 こ の よ う な 公 案 が 道 元 に よ っ て 紹 介 さ れ て い た。 こ の 公 案 に 基 づ き、 [ 史 料 2― 28]『 正 法 眼 蔵 』 「家常」が提示された。   [史料 2― 10]真字『正法眼蔵』第二六三則 襄州王敬初常侍、一日治事次、京兆米和尚至。侍乃挙筆示之。米曰、還判得虚空麼。侍乃擲下筆入宅、更不 復請。米和尚致疑。明日憑華厳置茶筵次、設問、昨日米和尚、有何言句、便不得相見。侍曰、師子齩人、韓

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獹 逐塊。米纔聞乃遽出、朗笑曰、我会也、我会也。侍曰、会即不無、你試道看。米曰、請常侍挙。侍乃竪起 一隻筯。米曰、這野狐精。侍云、這漢徹去也。   [ 訓 ] 襄 じょうしゅう 州 の 王 おう 敬 けい 初 しょ 常 じょ 侍 うじ 、 一 日 治 ち 事 じ の 次 おり 、 京 きょうちょう 兆 の 米 べい 和 尚 至 いた る。 侍 じ 、 乃 すなわ ち 筆 を 挙 あ げ て 之 これ に 示 す。 米 曰 く、 「 還 は た 虚 こ 空 くう に 判 はんとく 得 すや」と。侍、乃ち筆を 擲 てき 下 げ し宅に入り、 更 さら に 復 ま た 請 しょう せず。米和尚、 疑 ぎ を 致 い たす。 明 みょうにち 日 、 華 け 厳 ごん に 憑 つ い て 茶 を 筵 むしろ に 置 く の 次 おり 、 設 せつもん 問 す ら く、 「 昨 日、 米 和 尚、 何 なん の 言 ごん 句 く か 有 あ り て、 便 ち 相 しょうけん 見 す る を 得 え ず 」 と。 侍 じ 曰 く、 「 師 し 子 し は 人 を 齩 か み、 韓 かん 獹 ろ は 塊 つちくれ を 逐 お う 」 と。 米、 纔 わず か に 聞 き て 乃 ち 遽 にわ か に 出 で、 朗 ほが ら か に 笑 い て 曰 く、 「我 会 え せり、我会せり」と。 侍 じ 曰く、 「 会 え することは即ち 無 な きにはあらざるも、你 試 こころ みに 道 い いて 看 み よ」と。米 曰 く、 「 常 じょうじ 侍 の 挙 こ す を 請 こ う 」 と。 侍 じ 乃 ち 一 いっせき 隻 の 筯 はし を 竪 じゅ 起 き す。 米 曰 く、 「 這 こ の 野 や 狐 こ 精 ぜい 」 と。 侍 じ 云 く、 「 這 こ の 漢 かん 、 徹 てっ し 去 さ れり」と。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 五・ 二 六 〇 ][ 道 元 ② 十 四・ 二 四 六 ~ 二 四 七 ]。 ○ 襄 州 王 敬 初 ~ 這 漢 徹 去 也 …[ 補 1]。 ○ 襄 州 … 襄 州( 湖 北 省 ) の こ と。 ○ 王 敬 初 … 唐 代、 潙 山 下 の 王 敬 初( 生 没 年 不 詳 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 常 侍 … 中 国 に お け る 宮廷の官名。○治事…事をおさめる。事務をとる。○京兆…雍州(陝西省)京兆府のこと。○米和尚…唐代、潙山下 の 米 和 尚( 生 没 年 不 詳 ) の こ と[ 補 3]。 ○ 虚 空 … 空 中 の 意。 ○ 判 得 … 判 は 押 判( 公 文 書 へ の 署 名 ) の 意 で あ ろ う。 ○ 擲 下 … 投 げ 下 ろ す。 投 げ 捨 て る。 ○ 更 不 復 請 … 請 は 謁。 面 会 し な か っ た の 意。 ○ 華 厳 … 華 厳 会 の こ と。 『 華 厳 経 』 を講読し讃嘆する法会のこと。○筵…むしろ。○相見…互いに相い見える。拝顔する。○師子齩人、韓 獹 逐塊…[補 4]。 ○ 韓 獹 … 韓 廬 と も。 戦 国 時 代、 韓 の 国 の 黒 毛 の 駿 犬 の 名。 ○ 筯 … は し。 ○ 竪 起 … ま っ す ぐ 立 て る こ と。 ○ 野 狐 精…この狐のもののけめ。見かけ倒しを罵る言葉。○徹去…徹している。去は動作の進行を表す助字。   [訳]襄州の常侍であった王敬初は、ある日の事務をしていたら、京兆の米和尚がやってきた。常侍はそこ で 筆 を 手 に と っ て 米 和 尚 に 示 し た。 米 和 尚 が 言 っ た、 「 は て 空 中 に 署 名 で き た か い 」 と。 常 侍 は す ぐ に 筆 を

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投げ捨てて部屋に入り、決して面会しなかった。米和尚は疑いの気持ちを持ったので、翌日、華厳会で茶を 筵 むしろ を 置 い た 際 に、 質 問 し た、 「 昨 日 は、 私 の ど ん な 言 葉 で、 相 見 で き な か っ た の で す か 」 と。 常 侍 が 言 っ た、 「 師 子 は 人 を 咬 む が、 韓 獹 は 塊 を 逐 う も の で す 」 と。 米 和 尚 は、 聞 く や い な や す ぐ に〔 外 に 〕 出 て、 朗 ら か に笑って言った、 「私は分かった、私は分かった」と。常侍が言った、 「分かったことは有るかもしれないが、 〔 何 が 分 か っ た か 〕 試 し に 言 っ て み て ご ら ん な さ い 」 と。 米 和 尚 が 言 っ た、 「 常 侍 さ ん が 何 か を〔 質 問 と し て 〕 挙 げ 示 し て 下 さ い 」 と。 常 侍 は す ぐ に 一 本 の 箸 を ま っ す ぐ に 立 て た。 米 和 尚 が 言 っ た、 「 こ の〔 見 か け 倒しな〕野狐精め」と。常侍が言った、 「こやつは、徹底して〔悟って〕いる」と。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下では、このような公案が道元によって紹介されていた。   [史料 2― 11]真字『正法眼蔵』第二九八則 長慶有時云、寧説阿羅漢有三毒、不説如来有二種語。不道如来無語、只是無二種語。保福曰、作麼生是如来 語。師曰、聾人争得聞。保福曰、情知、汝向第二頭道。師曰、作麼生是如来語。保福云、喫茶去。   [ 訓 ] 長 ちょうけい 慶 、 有 あ る 時 云 く、 「 寧 むし ろ 阿 あ 羅 ら 漢 かん に 三 さん 毒 どく 有 あ り と 説 と く も、 如 にょ 来 らい に 二 に 種 しゅ 語 ご 有 り と 説 か ざ れ。 如 来 に 語 無 な し と 道 い わず、只だ 是 こ れ二種語 無 な きのみ」と。 保 ほ 福 ねい 曰く、 「 作 そ 麼 も 生 さん か是れ如来の語」と。師曰く、 「 聾 ろう 人 じん 、 争 いか でか 聞くことを 得 え ん」と。 保 ほ 福 ねい 曰く、 「 情 まこと に 知 し る、汝、 第 だい 二 に 頭 とう に 向 む かって 道 い うことを」と。師曰く、 「作麼生か是 れ如来の語」と。保福云く、 「 喫 きっ 茶 さ 去 こ 」と。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 五・ 二 七 四 ][ 道 元 ② 十 四・ 二 六 一 ]。 ○ 長 慶 有 時 云 ~ 喫 茶 去 …[ 補 1]。 ○ 長 慶 … 雪 峰 下 の 長

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慶 慧 稜( 八 五 四 ~ 九 三 二 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 阿 羅 漢 … 尊 敬 さ れ る べ き 人。 仏 弟 子 の 到 達 す る 最 高 の 階 位。 ○ 三 毒 … 人 の 善 心 を 害 す る 三 種 の 煩 悩。 貪・ 瞋・ 癡。 ○ 如 来 … タ タ ー ガ タ( 梵: Tathagata ) の こ と。 真 如 か ら 来 た 人。 真 理 に 到 達 し た 人。 仏 陀 の こ と。 仏 の 十 号 の 一。 ○ 保 福 … 雪 峰 下 の 保 福 従 展(?~ 九 二 八 ) の こ と[ 補 3]。 ○ 聾 … 耳 が 聞こえない状態。○向第二頭…後手。次の一手。○喫茶去…茶を飲みに行け。茶を飲んでから出直して来い。   [ 訳 ] 長 慶 慧 稜 が あ る 時 に 言 っ た、 「 い っ そ 阿 羅 漢 に〔 貪・ 瞋・ 癡 の 〕 三 毒 が 有 る と 説 い た と し て も、 如 来 に 二 種 ( 真 実・ 方 便 ) の 語 が 有 る と 説 い て は な ら な い。 如 来 に 言 葉 が 無 い と 言 わ な い が、 た だ 二 種 の 言 葉 だ けは無い〔、真実の言葉のみがあるのだ〕 」と。保福従展が言った、 「如来の言葉とはどういうものですか」 と。 師 ( 長 慶 慧 稜 ) が 言 っ た、 「 聾 人 ( 聞 く 耳 を も た ぬ 人 ) に、 ど う し て 聞 く こ と が で き よ う 」 と。 保 福 従 展 が 言 っ た、 「 ま っ た く 解 っ た、 君 が〔 仏 法 の 第 一 義 を 言 え ず に 〕 第 二 義 を 言 っ て い る こ と が 」 と。 長 慶 慧 稜 が 言 っ た、 「〔 で は、 い っ た い 〕 如 来 の 言 葉 と は ど う い う も の で す か 」 と。 保 福 従 展 が 言 っ た、 「 茶 を 飲 ん で か ら出直して来たまえ」と。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下では、このような公案が道元によって紹介されていた。この公案に基づき、 [史料 2― 52]『永平広録』巻 九「頌古」が提示された。   [史料 2― 12]『正法眼蔵』 「仏性」   七十五巻本の三巻 四祖いはく、 是 ぜ 何 か 姓 しょう は、 何 か は 是 ぜ なり、 是 ぜ を 何 か しきたれり。これ 姓 しょう なり、 何 か ならしむるは 是 ぜ のゆゑなり、 是 ぜ な らしむるは 何 か の 能 のう なり。 姓 しょう は 是 ぜ 也 や 何 か 也 や なり。これを 蒿 こう 湯 とう にも 点 てん ず、 茶 さ 湯 とう にも点ず、 家 かじょう 常 の 茶 さ 飯 はん ともするなり。

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○『正法眼蔵』は道元の主要な著述の一つ。正法眼蔵とは、中国禅宗において、悟りの心、仏法の神髄を指す語とし て用いられていた言葉である。道元はこれを自身の著述の題名とし、さまざまな観点から「正伝の仏法」を詳述した。 この時代としては珍しく和文体で書かれており、門弟に具体的に伝えようとする意図が窺えよう。編集形態によって 「七十五巻本」 「六十巻本」 「十二巻本」などに分類されている。○掲載書籍…[道元①一・二〇] [道元②一・八八~ 八 九 ]。 ○ 四 祖 … 四 祖 道 信( 五 八 〇 ~ 六 五 一 ) の こ と[ 補 1]。 ○ 是 何 姓 …[ 補 2]。 ○ 蒿 湯 … 蒿( よ も ぎ ) を 湯 に 和 したもの。よもぎ湯。   [ 訳 ] 四 祖 が「 是 何 姓 」 と 言 っ て い る が、 「 何 ( 絶 対 の 真 実 ) 」 と は「 是 ( 生 き て い る 真 実 ) 」 で あ り、 「 是 」 を 「 何 」 と す る の だ。 こ れ が「 姓 ( 仏 性 ) 」 で あ る。 「 何 」 と な る の は「 是 」 が あ る か ら で あ り、 「 是 」 と な る の は「 何 」 の 能 ( は た ら き ) で あ る。 〔 だ か ら 〕「 姓 」 は「 是 」 で あ り「 何 」 な の で あ る。 〔 こ の「 是 何 姓 」 の 三 文字を〕蒿湯にも入れ、茶湯にも入れ、家常の茶飯ともする〔ように、日常生活の中で参究すべし〕 。 【 家 常 の 茶 飯 と し て の 引 用 】 例 示 と し て 用 い ら れ た 表 現 で あ る が、 蒿 ( よ も ぎ ) 湯、 茶 湯、 あ る い は 家 常 の 茶 飯という例を出して、日常生活の中で参究すべきことを述べている。   [史料 2― 13]『正法眼蔵』 「仏性」   七十五巻本の三巻 黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、定慧等学、明見仏性。此理如何。黄檗曰、十二時中不依倚一物始得。南 泉 云、 莫 便 是 長 老 見 処 麼。 黄 檗 曰、 不 敢。 南 泉 云、 醤 水 錢 且 致、 草 鞋 錢 教 什 麼 人 還。 黄 檗 便 休 ( 訓: 黄 おう 檗 ばく 、 南 なん 泉 せん の 茶 さ 堂 どう 内 に 在 あ り て 坐 ざ す。 南 泉、 黄 檗 に 問 う、 「 定 じょ 慧 うえ の 等 学 は、 明 ら か に 仏 ぶっしょう 性 を 見 る。 此 こ の 理 は 如 い か ん 何 」 と。 黄 檗 曰 く、 「 十 二 時 中、 一 いちもつ 物 に 依 い 倚 い せ ず に 始 はじ め て 得 よ し 」 と。 南 泉 云 く、 「 便 すなわ ち 是 こ れ 長 老 の 見 けんじょ 処 な る こ と 莫 な き や 」 と。 黄 檗 曰 く、 「 不 ふ

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敢 かん 」と。南泉云く、 「 醤 しょうすいせん 水錢 は 且 しばら く 致 お く、 草 そうあいせん 鞋錢 は 什 な 麼 に 人 びと をしてか 還 かえ さしめん」と。黄檗便ち 休 や む) 。 ○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 一・ 三 六 ~ 三 七 ][ 道 元 ② 一・ 一 二 一 ~ 一 二 二 ]。 ○ 黄 檗 在 南 泉 茶 堂 ~ 黄 檗 便 休 …[ 補 1]。 ○ 黄 檗 … 南 嶽 下 の 黄 檗 希 運( 生 没 年 不 詳 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 南 泉 … 馬 祖 下 の 南 泉 普 願( 七 四 八 ~ 八 三 四 ) の こ と[ 補 3]。 ○ 茶 堂 … 住 持 の 行 礼 の 場 所。 昔 は 法 堂 の 後、 方 丈 の 前 に あ っ た。 ○ 定 慧 … 禅 定 と 智 慧。 ○ 仏 性 … 仏 の 性 質。 仏 としての本性。○十二時…一昼夜。一日中。二十四時間。○依倚…よりかかる。頼る。○莫便是長~麼…推測の句法。 ○見処…自分でつかんだもの。これだと納得したもの。○不敢…どういたしまして。○漿水錢…飲み物代。漿水はこ めのとぎ汁。○草鞋錢…わらじ代。行脚僧の旅費。   [ 訳 ] 黄 檗 希 運 が、 南 泉 普 願 の 茶 堂 の 中 で 坐 っ て い た。 南 泉 が、 黄 檗 に 質 問 し た、 「 定 慧 を 等 し く 学 ぶ こ と は、 明 ら か に 仏 性 を 見 る〔 た め の 〕 も の で あ る と〔 言 う が 〕、 こ の 道 理 は ど う だ ろ う か 」 と。 黄 檗 が 言 っ た、 「 一 日 中、 な に も の に も 頼 ら な け れ ば よ い の で す 」 と。 南 泉 が 言 っ た、 「〔 ひ ょ っ と し て そ れ が 〕 長 老 の 見 解 な の か 」 と。 黄 檗 が 言 っ た、 「 ど う い た し ま し て 」 と。 南 泉 が 言 っ た「 飲 み 物 代 の こ と は ひ と ま ず お い て お くとして、わらじ代は誰に還させたものか」と。黄檗は問答を止めた。 【古則公案の提示】 『天聖広灯録』八の黄檗希運章からの引用。直接的な喫茶史料ではないが、道元門下では、 このような公案が道元によって紹介されていた。   [史料 2― 14]『正法眼蔵』 「仏性」   七十五巻本の三巻 趙 州 有 僧 問、 狗 子 還 有 仏 性 也 無 ( 訓: 趙 じょうしゅう 州 、 僧 有 り て 問 う、 狗 く 子 す 、 還 は た 仏 ぶっしょう 性 有 り や ) 、 こ の 問 もん 取 しゅ は、 こ の 僧 の 搆 こう 得 て 趙州の道理なるべし。しかあれば仏性の 道 どうしゅもんしゅ 取問取 は、仏祖の 家 かじょう 常 茶 さ 飯 はん なり。

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○ 掲 載 書 籍 …[ 道 元 ① 一・ 四 〇 ][ 道 元 ② 一・ 一 二 九 ]。 ○ 趙 州 有 僧 問 ~ 有 仏 性 也 無 …[ 補 1]。 ○ 趙 州 … 南 嶽 下 の 趙 州 従 諗( 七 七 八 ~ 八 九 七 ) の こ と[ 補 2]。 ○ 問 取 … 問 い か け る。 ○ 搆 得 … 構 得。 ぴ っ た り 出 会 う。 邂 逅 す る。 ○ 道 取…言ってのける。適切に言い表すこと。   [ 訳 ] 趙 州 従 諗 に あ る 僧 が 質 問 し た、 「 犬 に 仏 性 が あ る か 」 と、 こ の 問 い か け は、 こ の 僧 が 趙 州 の 道 理 を う まくつかまえたものである。だから、仏性についての適切な答えと問いかけは、仏祖の日常の茶飯なのであ る。 【 仏 祖 の 家 常 茶 飯 と し て の 引 用 】 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い。 仏 性 に つ い て の 適 切 な 答 え と 問 い か け を、 仏 祖の家常茶飯にたとえている。   [史料 2― 15]『正法眼蔵』 「行持」上   七十五巻本の十六巻 大悟をまつことなかれ、大悟は 家 かじょう 常 の 茶 さ 飯 はん なり。不悟をねがふことなかれ。不悟は 髻 けいちゅう 中 の 宝 ほうじゅ 珠 なり。 ○掲載書籍…[道元①一・一六一] [道元②二・一四一] 。○不悟…ここで言う「不悟」は、悟らないという意味では な い。 道 元 は 不 悟 を 大 悟 と 同 義 の 高 い 位 置 づ け の も の と し て 捉 え て い る[ 補 1]。 ○ 髻 中 宝 珠 … 髻 中 明 珠 と も。 転 輪 聖王の髭の中に隠された宝珠のこと[補 2]。   [訳]大悟をまってはならない、大悟は日常の茶飯なのだから。 不 ふ 悟 ご を願ってもならない、不悟こそは 髻 けいちゅう 中 の 宝 ほうじゅ 珠 (最もすばらしい仏法の宝) なのだから。 【日常の茶飯としての引用】直接的な喫茶史料ではない。大悟を「家常の茶飯」にたとえている。

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  [史料 2― 16]『正法眼蔵』 「行持」下   七十五巻本の十六巻 ( 芙 蓉 道 楷 の 説 法 ) 唯 将 本 院 荘 課 一 歳 所 得、 均 作 三 百 六 十 分、 日 取 一 分 用 之。 更 不 随 人 添 減。 可 以 備 飯 則 作 飯、 作 飯 不 足 則 作 粥、 作 粥 不 足 則 作 米 湯。 新 到 相 見 茶 湯 而 已、 更 不 煎 点。 唯 置 一 茶 堂、 自 去 取 用 ( 訓: 唯 た だ 本 ほん 院 いん の 荘 しょうか 課 の 一 いっさい 歳 の 所 しょとく 得 を 将 もっ て、 均 ひと しく三百六十分を 作 な して、 日 ひ に 一 いち 分 ぶん を 取 と って 之 これ を 用 もち う。 更 さら に人に随って 添 てん 減 げん せず。 以 もっ て 飯 はん を 備 そな う 可 べ ければ 則 すなわ ち飯を作り、飯を作るに足らざれば則ち 粥 しゅく を作り、粥を作るに足らざれば則ち 米 べい 湯 とう を作る。 新 しんとう 到 の 相 しょうけん 見 は 茶 さ 湯 とう のみ、更に 煎 せん 点 てん せず。 唯 た だ一を 茶 さ 堂 どう に置き、自ら 去 ゆ きて取り 用 もち ちゆるのみ) 。 ○掲載書籍…[道元①一・一九一] [道元②二・二〇七] 。○芙蓉道楷…曹洞宗の芙蓉道楷(一〇四三~一一一八)の こと[補 1]。○唯将本院荘課~自去取用…[補 2]。○本院…主となる院。○荘課…荘園の課料。○所得…得るとこ ろ。○三百六十分…陰暦における一年間の日数。○米湯…米を煮てできた湯汁。○新到…新参者。新たに入門した者。 ○相見…互いに相い見える。拝顔する。○煎点…茶を入れる。○茶堂…住持の行礼の場所。昔は法堂の後、方丈の前 にあった。   [訳]ただ本院の荘園年貢一年分の所得を、ひとしく三百六十分し、日に一分を取ってこれに用いなさい。 さらに人数によって増減することがないように。それでご飯を作るのに足りればご飯を作り、ご飯を作るの に足りないならば粥を作り、粥を作るのに足りないならば米湯を作りなさい。新到の相見については〔最初 の〕茶湯のみで、 〔その後は〕決して茶を入れない。ただ茶を一杯茶堂に置いておき、 〔あとは新到が〕自分 で取りに行って飲めばよいのだ。 【 古 則 公 案 の 提 示 】 真 字『 正 法 眼 蔵 』 に お け る 茶 の 記 述 を 含 む 公 案。 直 接 的 な 喫 茶 史 料 で は な い が、 道 元 門 下では、このような公案が道元によって紹介されていた。

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