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〈滋賀県の民俗〉中世の開発フロンティア・葛川の民族誌

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中世の開発フロンティア・葛川の民族誌

  木

  伸

  二

はじめに 滋賀県大津市葛川は琵琶湖の西岸、比良連峰の西側を流れる安曇川上流に位置する。現在、葛川は坂下町、木戸 口町、中村町、坊村町、町居町、梅ノ木町、貫井町、細川町からなる八集落で一つの学区を形成しており、その面 積は一七〇九ヘクタール、うち山林が一二四二ヘクタールを占める。田や畑、居住地はわずかに四一ヘクタールし かない。二〇一五年度の世帯数は一一七世帯、人口は二三一人で大津市の中でも突出して人口が少ない区域となっ ている。また、世帯数に占める六十五歳以上世帯の割合は五六パーセントに達しており、典型的な山村限界集落と いえるだろう。 この静かな山村(坊村町)には平安時代より明王院と呼ばれる天台回峰行の道場が存在し、現在も七月に行者に よ っ て 蓮 華 会 が 催 さ れ て い る( 口 絵 写 真 )。 明 王 院 に は 中 世 文 書 だ け で 約 一 四 〇 〇 通、 近 世 文 書 で は 約 三 三 〇 〇 通 にのぼる文書が伝来していており、このうち中世文書は『葛川明王院史料』として一九六四年に刊行された 一 (村山 一 九 六 四 )。 こ の 史 料 集 に 掲 載 さ れ た も っ と も 古 い 文 書 は 一 一 一 七 年( 永 久 五 年 ) で、 以 後 一 六 一 五 年( 慶 長 二 十 一   『 葛 川 明 王 院 史 料 』 に は、 明 王 院 所 蔵 史 料 と 国 立 国 会 図 書 館 所 蔵 史 料 が 掲 載 さ れ て い る。 本 論 で は 明 王 院 所 蔵 史 料 を( 明 番 号 )、 国 立 国 会 図 書 館 所 蔵 史 料 を( 国 番 号 ) と い っ た か た ち で 記 述 す る。 ま た、 京 都 大 学 所 蔵 史 料 に つ い て は『 博 物 館 の 古 文書』を参照し、文中で引用する際には(京写番号)と記載した。

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国土地理院 1:50,000 北小松より 「葛川絵図」 (彩色絵図)   64 .2 (短辺) 、 96 .6 (長辺)× 204 .1 cm  明王院蔵。葛川絵図研究会によって文保 2 年に作成されたものだと推定されている。

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「葛川絵図」 (彩色絵図)   64 .2 (短辺) 、 96 .6 (長辺)× 204 .1 cm  明王院蔵。葛川絵図研究会によって文保 2 年に作成されたものだと推定されている。

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年)までの文書が掲載されているので、実に四九八年分の史料集となっている。 この豊富な史料を用いた研究、とりわけ鎌倉時代後期の伊香立荘との相論は荘園領主による住民支配について論 じ た 一 九 六 四 年 の 丸 山 幸 彦 の 研 究 を 嚆 矢 と し て、 現 在 に い た る ま で 多 様 な 方 面 か ら 議 論 さ れ て い る 。 丸 山 は 葛 川 の住民が居住権、農地所有権、山野用益権を領主から認められた「住人」と、いかなる権利も認められず狩漁で生 計を維持している「浪人」という身分に分けられていたとする。そして領主はこの身分的差別を活用して人々を支 配したとし、これを分裂支配体制と呼んだ。だが鎌倉末期になると、住民たちは分裂支配体制を打破するべく立ち 上がり、その過程で村落自治への展望が開けたとした。 その後、丸山の研究は多方面から検証されるようになった。榎原雅治は住民にとって克服しなければならなかっ た 課 題 は 身 分 分 裂 で は な く、 住 民 の 生 業 に 規 制 を 加 え る 荘 園 制 的 分 業 に あ っ た の だ と 指 摘 し た( 榎 原 一 九 八 四 )。 また坂田聡は領主が定めた身分体制だけではなく、すでに在地レベルで上層・下層の身分体系が存在しており、こ の 上 層 住 民 ら が 惣 住 人 組 織 の 中 核 を 担 っ た の だ と 論 じ た( 坂 田 一 九 九 七 )。 支 配 す る 側 の 内 実 を よ り 詳 細 に 分 析 し たものとしては、福眞睦城が青蓮院門跡や無動寺の中で葛川の統治に係った個人を分析し、長谷川裕峰は葛川で修 行を実践する行者の構成について考察している(福眞 一九九九、長谷川 二〇一〇) 。 一方、葛川と周辺の荘園が繰り広げた相論そのものを扱った研究としては、下坂守が伊香立荘との相論、小林一 岳 が 木 戸 荘 と の 相 論 の 詳 細 な 分 析 を 行 っ て い る( 下 坂 一 九 八 四、 小 林 二 〇 〇 〇 )。 ま た、 相 論 の 原 因 を 葛 川 に お 二   日 本 史 の 論 文 で は 研 究 者 の 名 前 を 挙 げ る 場 合、 「 氏 」 と い っ た 敬 称 を 用 い る こ と が 一 般 的 で あ る よ う だ が、 社 会 科 学 や 地 域 研 究 と い っ た 分 野 で は 通 常 こ う し た 敬 称 は 用 い ら れ な い。 筆 者 も 論 文 の 執 筆 に お い て、 こ う し た 敬 称 を 用 い た こ と も な い た め、 本 論 で も 用 い な い こ と と す る。 も ち ろ ん、 研 究 者 お よ び 先 行 研 究 に 対 す る 敬 意 は 敬 称 を 用 い な い こ と で 失 わ れ る わ け で はない。

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年)までの文書が掲載されているので、実に四九八年分の史料集となっている。 この豊富な史料を用いた研究、とりわけ鎌倉時代後期の伊香立荘との相論は荘園領主による住民支配について論 じ た 一 九 六 四 年 の 丸 山 幸 彦 の 研 究 を 嚆 矢 と し て、 現 在 に い た る ま で 多 様 な 方 面 か ら 議 論 さ れ て い る 。 丸 山 は 葛 川 の住民が居住権、農地所有権、山野用益権を領主から認められた「住人」と、いかなる権利も認められず狩漁で生 計を維持している「浪人」という身分に分けられていたとする。そして領主はこの身分的差別を活用して人々を支 配したとし、これを分裂支配体制と呼んだ。だが鎌倉末期になると、住民たちは分裂支配体制を打破するべく立ち 上がり、その過程で村落自治への展望が開けたとした。 その後、丸山の研究は多方面から検証されるようになった。榎原雅治は住民にとって克服しなければならなかっ た 課 題 は 身 分 分 裂 で は な く、 住 民 の 生 業 に 規 制 を 加 え る 荘 園 制 的 分 業 に あ っ た の だ と 指 摘 し た( 榎 原 一 九 八 四 )。 また坂田聡は領主が定めた身分体制だけではなく、すでに在地レベルで上層・下層の身分体系が存在しており、こ の 上 層 住 民 ら が 惣 住 人 組 織 の 中 核 を 担 っ た の だ と 論 じ た( 坂 田 一 九 九 七 )。 支 配 す る 側 の 内 実 を よ り 詳 細 に 分 析 し たものとしては、福眞睦城が青蓮院門跡や無動寺の中で葛川の統治に係った個人を分析し、長谷川裕峰は葛川で修 行を実践する行者の構成について考察している(福眞 一九九九、長谷川 二〇一〇) 。 一方、葛川と周辺の荘園が繰り広げた相論そのものを扱った研究としては、下坂守が伊香立荘との相論、小林一 岳 が 木 戸 荘 と の 相 論 の 詳 細 な 分 析 を 行 っ て い る( 下 坂 一 九 八 四、 小 林 二 〇 〇 〇 )。 ま た、 相 論 の 原 因 を 葛 川 に お 二   日 本 史 の 論 文 で は 研 究 者 の 名 前 を 挙 げ る 場 合、 「 氏 」 と い っ た 敬 称 を 用 い る こ と が 一 般 的 で あ る よ う だ が、 社 会 科 学 や 地 域 研 究 と い っ た 分 野 で は 通 常 こ う し た 敬 称 は 用 い ら れ な い。 筆 者 も 論 文 の 執 筆 に お い て、 こ う し た 敬 称 を 用 い た こ と も な い た め、 本 論 で も 用 い な い こ と と す る。 も ち ろ ん、 研 究 者 お よ び 先 行 研 究 に 対 す る 敬 意 は 敬 称 を 用 い な い こ と で 失 わ れ る わ け で はない。

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ける生業の展開と関連づける研究もある。水野章二は外界から隔離された宗教的結界だった葛川が、十三世紀から 多 様 な 生 産 活 動 の 場 へ と な し く ず し 的 に 変 化 し、 こ れ が 隣 接 す る 荘 園 と の 相 論 を 生 じ さ せ た の だ と す る( 水 野 二 〇 〇 〇 )。 春 日 直 紀 は 葛 川 と 伊 香 立 の 相 論 が な わ ば り の 重 複 に よ っ て 生 じ た と す る。 つ ま り、 異 な る 集 団 が 同 一 空 間 に お い 生 業 を 展 開 す れ ば、 お の ず と 土 地 利 用 上 の 軋 轢 を 生 み 出 さ ず に は い ら れ な い と し た( 春 日 一 九 九 五 )。 高 木徳郎は水野や春日の議論を踏まえた上で、葛川住民が行う畑作や林業と伊香立荘民の行う炭焼きが同一空間で営 ま れ、 そ れ が 資 源 劣 化 を 生 じ さ せ て 相 論 へ と 至 っ た と す る。 そ し て 注 目 す べ き 点 と し て 地 域 環 境 の 疲 弊 が、 葛 川、 伊 香 立 双 方 に 開 発 の 行 き 過 ぎ を 認 識 さ せ る よ う に な っ た 点 を 挙 げ て い る( 高 木 二 〇 〇 〇 )。 こ う し た 相 論 と 生 業 の 関係性、さらには土地利用の実態や植生などを伊香立との相論時に作成された絵図から読み解こうとする葛川絵図 研 究 会 や 佐 藤 和 彦 の 研 究 も あ る( 葛 川 絵 図 研 究 会 一 九 八 八、 佐 藤 一 九 八 七 )。 ま た 近 年 で は 松 山 知 子 が 葛 川 の 生 業の実態について、山口大輔が十三世紀から十五世紀にかけての生業の展開と十五世紀における市場圏の発達との 関連性について考察している(松山 二〇〇三、山口 二〇〇七) 。 以 上 、 簡 単 に 先 行 研 究 の レ ビ ュ ー を 行 っ た が 、 こ れ だ け を み て も 中 世 葛 川 の 研 究 の 豊 か さ が わ か る 。 正 直 、 今 さ ら 日 本 史 の 専 門 家 で も な い 筆 者 が 葛 川 に つ い て 何 か 語 り え る こ と は あ る の だ ろ う と か 思 え て な ら な い 。 た だ 、 地 域 研 究 や 文 化 人 類 学 を 専 門 と す る 筆 者 に と っ て 、 こ れ ら 先 行 研 究 が 暗 黙 の 前 提 と し て い る あ る 点 に は 違 和 感 を 覚 え ざ る を え な か っ た 。 そ れ が 「 支 配 」 と い う 言 葉 で あ る 。 先 行 研 究 で は 「 庄 園 領 主 的 支 配 の 構 造 」( 丸 山 一 九 六 四 )、 「 荘 園 領 主 支 配 」( 藤 井 一 九 七 八 )、 「 領 主 支 配 」( 榎 原 一 九 八 四 )、 「 荘 園 制 的 領 域 支 配 」( 水 野 一 九 八 五 、 春 日 一 九 九 五 )、 「 支 配 形 態 」( 伊 藤 一 九 九 一 )、 「 支 配 機 構 」( 福 眞 一 九 九 九 ) な ど 常 に 「 支 配 」 と い う 言 葉 が 用 い ら れ て き た 。 こ の 支 配 と い う 言 葉 に は 、 あ る 個 人 ・ 集 団 が 他 の 個 人 ・ 集 団 を 自 己 の 意 志 、 命 令 、 行 動 に 服 従 さ せ る 、 と い う 一 方 向 的 な 関 係 性 が 含 意 さ れ て い る 。 中 世 の 葛 川 は 意 志 決 定 の 主 体 は 常 に 領 主 ( 支 配 す る 側 ) に あ り 、 住 民 ( 支 配 さ れ る 側 ) は そ の 意 思 決 定 に 服 従 す る と い う 状 態 に あ っ た の だ ろ う か 。 ま た 、 意 思 決 定 は 常 に 上 意 下 達 だ っ た の だ ろ う か 。 少なくとも筆者が専門とする分野で、支配を前提とする議論は一般的ではなく、本論では支配という言葉の代わ りにガバナンスという言葉を使用したい。ガバナンスとは社会的規範や制度の創造、強化、再生といった集合的行 為における諸アクターの相互作用や意思決定のプロセスを意味する。そのため先行研究で支配される側として扱わ れてきた住民も行為主体として含めることができる。 また、先行研究でほとんど議論されてこなかった点が葛川という地域と外部世界との係わりである。十三世紀中 頃から十四世紀初頭にかけて葛川に浪人と呼ばれる人々が流入したが、なぜ、この時期に浪人が流入したのかを外 部世界との係わりで論じたものはない。また、同じ時期に貨幣使用が認められるにも係らず、貨幣が葛川社会に与 えた影響について中世の市場経済化と関連させて議論したものもない。生業に注目した研究においても、葛川で実 践された焼畑を同時代的な文脈の中で考察したものはない。そこで、本論では十三世紀中頃から十四世紀初頭の葛 川をより大きな文脈、フェルナン・ブローデルの言葉でいう複合状況( conjoncture )の中に位置づけて考察する。 以上のような試みは、基本的に筆者が今まで行ってきた地域研究の延長線上に位置づけられる。中世の葛川を地 域研究として考察するのは、そこが開発フロンティアの特色を濃厚にもっているからである。開発フロンティアと は、人口が少なく、資源が豊富に残っている地域に移住者が流入し、市場向けの生産活動を行う場を意味する。筆 者が当時の葛川を開発フロンティアだと考えるのは、そこがこうした特徴を兼ね備えていると感じたからである。 そこでまず、筆者が専門とする東南アジアにおける開発フロンティアの特徴について概観しておきたい。東南ア ジアにおいては、人口が少なく、資源が豊富に残る山岳地帯やマングローブ湿地が開発の対象となってきた。開発 の第一段階は森林の伐採から始まるが、伐採された樹木は市場で取引される。第二段階がゴムやコーヒー(マング

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民 ( 支 配 さ れ る 側 ) は そ の 意 思 決 定 に 服 従 す る と い う 状 態 に あ っ た の だ ろ う か 。 ま た 、 意 思 決 定 は 常 に 上 意 下 達 だ っ た の だ ろ う か 。 少なくとも筆者が専門とする分野で、支配を前提とする議論は一般的ではなく、本論では支配という言葉の代わ りにガバナンスという言葉を使用したい。ガバナンスとは社会的規範や制度の創造、強化、再生といった集合的行 為における諸アクターの相互作用や意思決定のプロセスを意味する。そのため先行研究で支配される側として扱わ れてきた住民も行為主体として含めることができる。 また、先行研究でほとんど議論されてこなかった点が葛川という地域と外部世界との係わりである。十三世紀中 頃から十四世紀初頭にかけて葛川に浪人と呼ばれる人々が流入したが、なぜ、この時期に浪人が流入したのかを外 部世界との係わりで論じたものはない。また、同じ時期に貨幣使用が認められるにも係らず、貨幣が葛川社会に与 えた影響について中世の市場経済化と関連させて議論したものもない。生業に注目した研究においても、葛川で実 践された焼畑を同時代的な文脈の中で考察したものはない。そこで、本論では十三世紀中頃から十四世紀初頭の葛 川をより大きな文脈、フェルナン・ブローデルの言葉でいう複合状況( conjoncture )の中に位置づけて考察する。 以上のような試みは、基本的に筆者が今まで行ってきた地域研究の延長線上に位置づけられる。中世の葛川を地 域研究として考察するのは、そこが開発フロンティアの特色を濃厚にもっているからである。開発フロンティアと は、人口が少なく、資源が豊富に残っている地域に移住者が流入し、市場向けの生産活動を行う場を意味する。筆 者が当時の葛川を開発フロンティアだと考えるのは、そこがこうした特徴を兼ね備えていると感じたからである。 そこでまず、筆者が専門とする東南アジアにおける開発フロンティアの特徴について概観しておきたい。東南ア ジアにおいては、人口が少なく、資源が豊富に残る山岳地帯やマングローブ湿地が開発の対象となってきた。開発 の第一段階は森林の伐採から始まるが、伐採された樹木は市場で取引される。第二段階がゴムやコーヒー(マング

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ローブ湿地であればエビ)などの商品作物の栽培で、これらも市場で取引される。第一段階の森林伐採も、第二段 階 の 商 品 作 物 の 栽 培 も 市 場 で の 取 引 を 前 提 と し て お り、 開 発 フ ロ ン テ ィ ア は 市 場 が な け れ ば 存 在 し え な い。 ま た、 森林伐採や商品作物の栽培など開発フロンティアの経済活動は移住者によって行われる。開発フロンティアとは移 住者が自らの生活の向上を目的として、市場取引を前提とした生産活動を行う場だといえる。 では次に、移住者の立場になって考えてみたい。移住者は今までとは異なる自然環境に身をおく。人間関係も同 様に変化する。筆者が専門とするベトナムであれば、平野部の人口過密な水田耕作地帯では労働交換や水利システ ムの共同管理など、慣習に基づいた相互扶助が広く行われている。慣習にもとづく相互扶助を拒否すれば、いわゆ る「村八分」の状態に置かれることになる。つまり、道徳に準拠した経済活動、モラル・エコノミーが機能してい る 。 こ の モ ラ ル・ エ コ ノ ミ ー は 個 人 の 損 失 を 集 団 で フ ォ ロ ー す る 役 割 を も っ て い る。 だ が、 移 住 先 で は こ う し た モラル・エコノミーが機能しにくい。移住先の環境に対する知識も、社会に埋め込まれた人間関係も希薄なためで ある。そのため、移住者はソーシャル・セーフティ・ネットによる不確実性の回避を期待できない。 自然環境に対する知識の不足、社会に埋め込まれた人間関係の欠如は、移住者が将来を予測することを困難なも 三   モ ラ ル・ エ コ ノ ミ ー 論 で は、 天 候 に 収 穫 を 左 右 さ れ る 農 民 の 生 存 戦 略 に つ い て 議 論 さ れ る。 農 業 生 産 が 天 候 に よ る 不 確 実 性 を 内 包 す る 限 り、 農 民 は 自 分 の 平 均 収 入 を 極 大 化 す る よ り も、 災 害 の 確 率 を 極 小 化 し よ う と す る。 災 害 リ ス ク に 対 す る 農 民 の 対 応 は、 ま ず 栽 培 作 物 や 生 業 を 多 角 化 す る こ と で な さ れ る。 こ れ 以 外 の 方 法 が 集 団 内 部 で リ ス ク を 分 散 す る と い う も の で あ る。 地 主 と 小 作 人 の 関 係 で は、 定 額 小 作 は 平 均 収 入 を 極 大 化 さ せ る も の に 該 当 し、 分 益 小 作 は 災 害 の 確 率 を 極 小 化 し よ う と す る も の に 該 当 す る。 地 主 に と っ て は、 毎 年、 定 額 の 小 作 料 を 徴 収 す る 方 が メ リ ッ ト と な る。 だ が、 北 ベ ト ナ ム の 人 口 過 密 地 域 で は 分 益 小 作 が 一 般 的 で あ っ た。 分 益 小 作 は 収 穫 量 に 応 じ て 小 作 料 が 定 め ら れ る た め、 災 害 時 で も 小 作 人 に は 一 定 の 収 益 が 担 保 さ れ る。 ス コ ッ ト は 地 主 に と っ て メ リ ッ ト の 少 な い 分 益 小 作 が 北 ベ ト ナ ム で 広 く み ら れ た 理 由 と し て モ ラ ル を 挙 げ て い た。 つ ま り、 地 主 は 小 作 人 の 生 存 を 確 保 し な け れ ば な ら な い と い う モ ラ ル が、 分 益 小 作 の 選 択 に 大 き く 作 用 し て い た のだとする(スコット 一九七六) 。 のとする。予測に必要な情報が不足するからである。そのため、移住者は情報不足の中で判断を迫られることにな る。 こ れ が 機 会 主 義 的 行 動 を 生 み 出 す 要 因 で あ る。 ウ ィ リ ア ム ソ ン は こ れ を「 狡 猾 さ を 伴 う 私 利 追 求 」 と 呼 ぶ が、 それは自己利益のために他者の利益が損なわれることを厭わないという意味である(ウィリアムソン 一九七五) 。 筆者が調査を行ったベトナムの開発フロンティアでは、村落エリートが土地の囲い込みを行い、住民をそこから 排 除 す る と い っ た 行 動 を と っ て い た( 鈴 木 二 〇 一 〇 )。 こ れ は 村 落 エ リ ー ト が 情 報 を 占 有 す る こ と で 自 己 利 益 の 最 大化を達成しようとする機会主義的な行動の典型といえた。一方、囲い込みから排除された住民たちも、機会主義 的な行動をとっていた。住民たちは囲い込みの行われていない土地で、できるだけ多く動植物の採集をしようとし た。その結果、生態環境が悪化し、動植物の採集量が極度に低下したのである。このように開発フロンティアでは 利害関係者が機会主義的な行動をとる傾向にあるという点に留意しなければならない。 さて、筆者は十三世紀中頃から十四世紀初頭にかけての葛川は、開発フロンティアに特徴的な機会主義的行動が 社 会 的 な 風 潮 と し て あ っ た の で は な い か と 考 え て い る。 本 家 の 青 蓮 院 門 跡 や 領 家 の 無 動 寺 の 構 成 員、 行 者 や 常 住、 住 民、 葛 川 と 敵 対 し た 周 辺 の 荘 園 と い っ た 利 害 関 係 者 の 行 動 を 自 己 の 利 益 を 最 大 化 す る も の だ っ た と と ら え れ ば、 支 配 と 従 属 と い っ た 図 式 と は 違 う 多 様 な 行 為 の 集 積 と し て 当 時 を 考 え る こ と が で き る の で は な い か。 本 論 の 主 題 は、この点を検証することにある。 この検証に当たって本論では四つの構成をとる。まず、第一章で当時の葛川に生きた個人、坂田が「鎌倉末期葛 川 の 荘 民 構 成 に つ い て 」 で 取 り 上 げ た 中 八 と い う 人 物 を 再 度 取 り 上 げ る( 坂 田 一 九 八 一 )。 こ の 論 考 は 筆 者 が 葛 川 に興味をもつきっかけを与えたものであるが、あえて、中八を坂田とは違う視点から捉えたい。第二章では、中八 の行動を生み出した当時の葛川について考察する。本論ではとりわけ、当時の葛川住民の行動を規定した要因とし て、 葛 川 の ガ バ ナ ン ス( 第 二 章 一 節 )、 移 住 と 生 業( 第 二 章 二 節 ) を と り あ げ る。 第 三 章 で は 伊 香 立 や 木 戸 と の 相

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のとする。予測に必要な情報が不足するからである。そのため、移住者は情報不足の中で判断を迫られることにな る。 こ れ が 機 会 主 義 的 行 動 を 生 み 出 す 要 因 で あ る。 ウ ィ リ ア ム ソ ン は こ れ を「 狡 猾 さ を 伴 う 私 利 追 求 」 と 呼 ぶ が、 それは自己利益のために他者の利益が損なわれることを厭わないという意味である(ウィリアムソン 一九七五) 。 筆者が調査を行ったベトナムの開発フロンティアでは、村落エリートが土地の囲い込みを行い、住民をそこから 排 除 す る と い っ た 行 動 を と っ て い た( 鈴 木 二 〇 一 〇 )。 こ れ は 村 落 エ リ ー ト が 情 報 を 占 有 す る こ と で 自 己 利 益 の 最 大化を達成しようとする機会主義的な行動の典型といえた。一方、囲い込みから排除された住民たちも、機会主義 的な行動をとっていた。住民たちは囲い込みの行われていない土地で、できるだけ多く動植物の採集をしようとし た。その結果、生態環境が悪化し、動植物の採集量が極度に低下したのである。このように開発フロンティアでは 利害関係者が機会主義的な行動をとる傾向にあるという点に留意しなければならない。 さて、筆者は十三世紀中頃から十四世紀初頭にかけての葛川は、開発フロンティアに特徴的な機会主義的行動が 社 会 的 な 風 潮 と し て あ っ た の で は な い か と 考 え て い る。 本 家 の 青 蓮 院 門 跡 や 領 家 の 無 動 寺 の 構 成 員、 行 者 や 常 住、 住 民、 葛 川 と 敵 対 し た 周 辺 の 荘 園 と い っ た 利 害 関 係 者 の 行 動 を 自 己 の 利 益 を 最 大 化 す る も の だ っ た と と ら え れ ば、 支 配 と 従 属 と い っ た 図 式 と は 違 う 多 様 な 行 為 の 集 積 と し て 当 時 を 考 え る こ と が で き る の で は な い か。 本 論 の 主 題 は、この点を検証することにある。 この検証に当たって本論では四つの構成をとる。まず、第一章で当時の葛川に生きた個人、坂田が「鎌倉末期葛 川 の 荘 民 構 成 に つ い て 」 で 取 り 上 げ た 中 八 と い う 人 物 を 再 度 取 り 上 げ る( 坂 田 一 九 八 一 )。 こ の 論 考 は 筆 者 が 葛 川 に興味をもつきっかけを与えたものであるが、あえて、中八を坂田とは違う視点から捉えたい。第二章では、中八 の行動を生み出した当時の葛川について考察する。本論ではとりわけ、当時の葛川住民の行動を規定した要因とし て、 葛 川 の ガ バ ナ ン ス( 第 二 章 一 節 )、 移 住 と 生 業( 第 二 章 二 節 ) を と り あ げ る。 第 三 章 で は 伊 香 立 や 木 戸 と の 相

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論(第二章三節)を取り上げ、当時の葛川における力について考察し、中八の行動を検証する。第四章では、葛川 社会をとりまく大きな文脈、すなわち十三世紀中頃から十四世紀初頭にかけての複合状況について考える。具体的 には、天候、貨幣経済、社会的風潮の三つを取り上げ、これらが複合的に絡まることで葛川の変化が生じたのでは ないかを議論する。第五章では、十三世紀中頃から十四世紀初頭の葛川について整理し、それ以降の変化について 理論的な展望を述べたい。 第一章   根本浪人・悪党人・殺害人としての中八 フロンティア社会の特徴を以下では人に注目して考えるが、ここでは中八という人物に焦点を当てる。中八につ い て は 坂 田 聡 が す で に 詳 し く 論 じ て い る が、 そ の 中 で 中 八 は「 根 本 浪 人 」 と い う 身 分 に あ っ て、 葛 川 の 上 層 住 民 だ っ た と さ れ て い る( 坂 田 一 九 八 一 )。 「 根 本 浪 人 」 と い う 言 葉 は 多 く の 先 行 研 究 に お い て も 言 及 さ れ て い る の で、 以下でその史料を挙げておきたい。 史料一 一三一八年五月「葛川根本住人末孫交名注文」 (明四五) 注進   葛川根本住人末孫交名事 九郎一類   古中七末子   菅三郎一類   源命一類   源七一類 自昔至今、伊香立庄官下人也 根本浪人 後藤次一類   平三一類   今藤次一類   木平一類   新清一類   木内一類   中八一類 此輩末孫等、山賊山立強盗夜打放火人也、或称山僧属人、或武家号家人、鹿猿熊鳥兎魚等、殺生朝夕有之、凡為遁 身罪為所々在々果役、明王之結界之地点定 葛川当悪党事 十郎   金次郎入道   覚□ 被召出之   被相尋日罪科   不可其其隠   与党二十余人、忽可令露顕者也 当時在家及百余家、田畠巳為百余町、被逐実検之日不可其隠欺 史料一では九郎、中七、菅三郎、源命、源七の一類を「根本住人」 、後藤次、平三、今藤次、木平、新清、木内、 中八の一類を「根本浪人」とし、前者は伊香立の荘官の下人、後者は犯罪者や山僧の属人、武家の家人を称す輩た ちで、殺生を生業とする者達だとしている。この外、葛川の悪党として十郎、金次郎入道、覚□の三名が挙がって いる。また、当時の葛川の居住者は数百に及び、田畠も百余町に及んでいると書かれている。 この交名注文は一三一八年五月に相論相手の伊香立で作成されたものであり、高橋はこの点から「根本浪人」は 伊香立からみた葛川の身分認識でしかなく、それを領主側が設けた身分のように扱う坂田の論考に疑問を呈してい る( 高 橋 一 九 八 八 )。 こ れ に 対 し て 本 論 は「 根 本 」 を「 元 々」 と い う 単 純 な 意 味 で と ら え る。 つ ま り、 「 根 本 浪 人 」 とは出自が「浪人」であった人物だとする。 ま た、 本 論 で は「 根 本 浪 人 」 だ け で は な く、 「 浪 人 」 と い っ た 身 分 が 固 定 的 に 存 在 し て い た の か、 と い う 点 に 関 しても懐疑的である。確かに『葛川明王院史料』には十三世紀中頃から十四世紀初頭にかけて「浪人」という言葉 が多く現れているが、それは「住人」という葛川に居住を許された人々以外を指す言葉として用いられている。い いかえれば、フォーマルな居住者に対するインフォーマルな居住者を意味していると考えるのが妥当だろう。

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此輩末孫等、山賊山立強盗夜打放火人也、或称山僧属人、或武家号家人、鹿猿熊鳥兎魚等、殺生朝夕有之、凡為遁 身罪為所々在々果役、明王之結界之地点定 葛川当悪党事 十郎   金次郎入道   覚□ 被召出之   被相尋日罪科   不可其其隠   与党二十余人、忽可令露顕者也 当時在家及百余家、田畠巳為百余町、被逐実検之日不可其隠欺 史料一では九郎、中七、菅三郎、源命、源七の一類を「根本住人」 、後藤次、平三、今藤次、木平、新清、木内、 中八の一類を「根本浪人」とし、前者は伊香立の荘官の下人、後者は犯罪者や山僧の属人、武家の家人を称す輩た ちで、殺生を生業とする者達だとしている。この外、葛川の悪党として十郎、金次郎入道、覚□の三名が挙がって いる。また、当時の葛川の居住者は数百に及び、田畠も百余町に及んでいると書かれている。 この交名注文は一三一八年五月に相論相手の伊香立で作成されたものであり、高橋はこの点から「根本浪人」は 伊香立からみた葛川の身分認識でしかなく、それを領主側が設けた身分のように扱う坂田の論考に疑問を呈してい る( 高 橋 一 九 八 八 )。 こ れ に 対 し て 本 論 は「 根 本 」 を「 元 々」 と い う 単 純 な 意 味 で と ら え る。 つ ま り、 「 根 本 浪 人 」 とは出自が「浪人」であった人物だとする。 ま た、 本 論 で は「 根 本 浪 人 」 だ け で は な く、 「 浪 人 」 と い っ た 身 分 が 固 定 的 に 存 在 し て い た の か、 と い う 点 に 関 しても懐疑的である。確かに『葛川明王院史料』には十三世紀中頃から十四世紀初頭にかけて「浪人」という言葉 が多く現れているが、それは「住人」という葛川に居住を許された人々以外を指す言葉として用いられている。い いかえれば、フォーマルな居住者に対するインフォーマルな居住者を意味していると考えるのが妥当だろう。

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インフォーマルな居住者の中から地域の有力者が生まれるということはフロンティアにおいてよくみられる現象 で あ る。 「 根 本 浪 人 」 と さ れ た 中 八 は、 ま さ に フ ロ ン テ ィ ア に お け る 有 力 者 だ っ た と 考 え ら れ、 固 定 化 さ れ た 身 分 編成にもとづく有力者とは違った行動原理をもっていたと思われる。そこで、以下では『葛川明王院史料』から中 八という名前が明記されたものを時系列にそってみてみたい。 中 八 の 名 前 は ま ず 一 三 〇 八 年 十 一 月 の「 定 使 書 状 案 」 に 現 れ る( 明 四 四 三、 明 四 四 四 )。 こ の 書 状 案 に は 犬 四 郎 と い う 男 が 明 王 院 の 堂 舎 を 放 火 し た た め、 無 動 寺 が 定 使 を 派 遣 し て 調 査 に 当 た ら せ る と と も に、 犬 四 郎 を 処 罰 し て、彼の家を差し押さえたところ、念仏講衆のメンバーが勝手に家財を持ち出して売却してしまったとある。彼ら の行動を不審に思った中五はこれを無動寺に知らせた。無動寺から派遣された定使はこの件について十郎と源藤五 に 問 い 合 わ せ た が、 両 者 も こ れ を 知 ら な い と 回 答 し た た め 首 謀 者 と 思 わ れ る 中 八 と 中 三、 「 根 本 住 人 」 の 源 七 の 三 名に出頭を命じた。しかし、彼らは再三の出頭命令を無視しつづけた。この出来事から当時、葛川には念仏講衆と いう住民結社があったことがわかる。ただ、中五や十郎、源藤五の対応を見る限りそれが集落全体に渡る住民結社 だったとはいえないだろう 四 。 それから五年後の一三一三年十月六日、源藤五が滝山でたびたび大木を「盗取」ったとして葛川を追放されるこ とになった。このとき中八は、このような「大悪行物とハ縁者にて候とも、今日より後者家内ニも入置或不可通意 信 候 」 と し て、 五 藤 次、 中 五、 生 八、 金 三 郎、 東 明、 源 次 ら と 共 に 請 文 に 記 名 し た( 明 七 二 )。 先 の 犬 四 郎 の 事 件 で中八の行動に不審をもち、無動寺に知らせた中五は彼の縁者だったことがわかる。だが、先の事件も照らし合わ せて考えると縁者内の関係性は、必ずしも強固なものだったとは言い難い。 四   佐 藤( 一 九 八 七 ) は 葛 川 住 人 ら が 念 仏 講 に 結 集 し 団 結 の 力 に よ っ て 山 門 領 主 に 挑 戦 し た と 論 じ て お り、 本 論 の 念 仏 講 の 位 置 づけとは大きく異なる。 さて中八はその後、一三一五年に黒太郎と石太郎の訴えにより盗木のかどで葛川から追放の憂き目に合おうとし ていた。二年前に源藤五が追放になった罪状で、今度は自らが追放されようとしていたのである。彼は自らの非を 認 め、 追 放 を 免 れ る べ く 中 三 を 保 証 人 に 立 て、 秋 の 法 花 会 ま で に 明 王 院 の 修 理 を 行 う と 申 し 出 た( 明 二 〇 七 )。 だ が、中八は期日までに修理を行うことができなかった。一三一六年六月十三日、中八は修理用の木材を得るために 「 ひ は さ み 山 」 に 入 山 し た。 そ の と き、 黒 太 郎 と 石 太 郎 が 胡 桃 の 根 を 隠 し て い る 現 場 を 目 撃 し た。 前 年 の 因 縁 も あったのだろう、中八はこの事をすぐに訴え出た。これに対し黒太郎と石太郎は「くるミの根事」は六月十一日に 行った政所の屋根葺きに使用したものであり、紀平大夫がその証人であるとし、そもそも中八は我々に恨みを抱い て い る の だ か ら 沙 汰 に 及 ぶ ま で も な い と 反 論 し た( 明 五 二 )。 一 方、 訴 え 出 た 中 八 は 明 王 院 の 修 理 が 終 わ ら ず、 い よいよ保証人ともども追放されそうだった。 こうした中八に助け舟を出したのが、明王院の住込み僧(常住)の頼玄と隣荘・伊香立から与党二十人を従えた 悪 党 だ と み な さ れ て い た 十 郎 為 正 だ っ た( 明 四 五、 明 七 五 )。 一 三 一 六 年 九 月、 頼 玄 と 十 郎 為 正 は 中 八 が 行 う べ き 修理の期日を翌春まで延期してもらい、それでも彼らが修理を行わなければ中八や請人の田畠を自分たちが譲り受 け る 代 わ り に 修 理 を 行 う と 申 し 出 た( 坂 田 一 九 八 一 )。 坂 田 は 頼 玄 と 十 郎 の 申 し 出 が、 自 分 自 身 の 垣 内 田 畠 の 拡 大 を 意 図 し た も の だ と し て い る( 坂 田 一 九 八 一 )。 そ う で あ る な ら、 こ の 助 け 舟 は 決 し て 利 他 的 な も の で は な く、 自 己利益を追求した行為だったと言える。この一連の結果を記載している史料はない。そのため中八が葛川に留まる ことができたのか、追放されたのかは分からない。 以上までは坂田の論考においても詳しく議論されているが、ここからは坂田がまったく言及しなかった『葛川明 王院史料』の中八について言及しておく。それは、一三一七年十二月の「伊香立悪党人交名等注文」 (明二七)と一 三 一 八 年 一 月 の「 伊 香 立 荘 民 殺 害 交 名 」( 国 四 九 ) に 記 載 さ れ た 中 八 で あ る。 坂 田 が な ぜ 両 史 料 の 中 八 に 言 及 し な

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さて中八はその後、一三一五年に黒太郎と石太郎の訴えにより盗木のかどで葛川から追放の憂き目に合おうとし ていた。二年前に源藤五が追放になった罪状で、今度は自らが追放されようとしていたのである。彼は自らの非を 認 め、 追 放 を 免 れ る べ く 中 三 を 保 証 人 に 立 て、 秋 の 法 花 会 ま で に 明 王 院 の 修 理 を 行 う と 申 し 出 た( 明 二 〇 七 )。 だ が、中八は期日までに修理を行うことができなかった。一三一六年六月十三日、中八は修理用の木材を得るために 「 ひ は さ み 山 」 に 入 山 し た。 そ の と き、 黒 太 郎 と 石 太 郎 が 胡 桃 の 根 を 隠 し て い る 現 場 を 目 撃 し た。 前 年 の 因 縁 も あったのだろう、中八はこの事をすぐに訴え出た。これに対し黒太郎と石太郎は「くるミの根事」は六月十一日に 行った政所の屋根葺きに使用したものであり、紀平大夫がその証人であるとし、そもそも中八は我々に恨みを抱い て い る の だ か ら 沙 汰 に 及 ぶ ま で も な い と 反 論 し た( 明 五 二 )。 一 方、 訴 え 出 た 中 八 は 明 王 院 の 修 理 が 終 わ ら ず、 い よいよ保証人ともども追放されそうだった。 こうした中八に助け舟を出したのが、明王院の住込み僧(常住)の頼玄と隣荘・伊香立から与党二十人を従えた 悪 党 だ と み な さ れ て い た 十 郎 為 正 だ っ た( 明 四 五、 明 七 五 )。 一 三 一 六 年 九 月、 頼 玄 と 十 郎 為 正 は 中 八 が 行 う べ き 修理の期日を翌春まで延期してもらい、それでも彼らが修理を行わなければ中八や請人の田畠を自分たちが譲り受 け る 代 わ り に 修 理 を 行 う と 申 し 出 た( 坂 田 一 九 八 一 )。 坂 田 は 頼 玄 と 十 郎 の 申 し 出 が、 自 分 自 身 の 垣 内 田 畠 の 拡 大 を 意 図 し た も の だ と し て い る( 坂 田 一 九 八 一 )。 そ う で あ る な ら、 こ の 助 け 舟 は 決 し て 利 他 的 な も の で は な く、 自 己利益を追求した行為だったと言える。この一連の結果を記載している史料はない。そのため中八が葛川に留まる ことができたのか、追放されたのかは分からない。 以上までは坂田の論考においても詳しく議論されているが、ここからは坂田がまったく言及しなかった『葛川明 王院史料』の中八について言及しておく。それは、一三一七年十二月の「伊香立悪党人交名等注文」 (明二七)と一 三 一 八 年 一 月 の「 伊 香 立 荘 民 殺 害 交 名 」( 国 四 九 ) に 記 載 さ れ た 中 八 で あ る。 坂 田 が な ぜ 両 史 料 の 中 八 に 言 及 し な

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かったのかは明確には分からないが、中八を「根本浪人」という固定化された身分として捉えたことで、葛川の中 八と伊香立の悪党・殺害人の中八は別人だと判断されたのであろう。しかし、葛川の住民として名前の挙がってい た人物が、伊香立の住民として名前が挙がるという例は外にも存在している。例えば、一三一三年八月六日の「忠 太郎請文」 (明七一)で請人の一人として記載のある観音太郎は、一三一九年八月の「伊香立荘悪行人等張本交名注 文案」 (明四九)と十二月の「伊香立荘悪行人等張本交名注文案」 (明五〇)で伊香立の悪党として記載され、一三三 一年の「伊香立荘沙汰人住人等起請文案」 (明七九)では同荘の有力者と共に名を連ねている。この観音太郎は一三 一八年の史料一「葛川根本住人等末孫交名注文」にその名がないため、インフォーマルな住民である「浪人」に分 類される人物だった。 さて、葛川側で作成された伊香立の悪党人に関する交名注文類には、一三一七年十二月の「伊香立悪党人交名等 注 文 」 と 一 三 一 八 年 一 月 の「 伊 香 立 荘 民 殺 害 交 名 」、 一 三 一 九 年 八 月 の「 伊 香 立 荘 悪 行 人 等 張 本 交 名 注 文 案 」( 明 四 六 ) と 一 三 三 一 年 十 二 月 の「 伊 香 立 荘 悪 行 人 等 張 本 交 名 注 文 案 」( 明 五 〇 ) の 四 通 が 存 在 す る 。 こ の 中 で 中 八 の 名 前 が 記 載 さ れ て い る の は 制 作 さ れ た 時 期 が 早 い「 伊 香 立 悪 党 人 交 名 等 注 文 」 と「 伊 香 立 荘 民 殺 害 交 名 」 の 二 通 で、 五   『 葛 川 明 王 院 史 料 』 に 掲 載 さ れ て い る「 伊 香 立 荘 悪 行 人 等 張 本 交 名 注 文 案 」( 明 四 六 ) は 元 応 元 年 八 月( 一 三 一 九 年 )、 「 伊 香 立 荘 悪 行 人 等 張 本 交 名 注 文 案 」 は 元 弘 元 年 十 二 月( 一 三 三 一 年 ) と な っ て い る が、 史 料 に 記 載 さ れ て い る 二 十 名 の 人 名 は ま っ た く 同 じ で あ る。 一 三 三 一 年 に は、 伊 香 立 が 葛 川 に 支 払 う べ き 修 理 米 を 滞 納 し て い た 件 が 問 題 に な っ て い る も の の、 伊 香 立 側 は こ れ を 率 直 に 認 め、 今 後 は 滞 り な く 支 払 う と 請 文 案 を 作 成 し て お り( 明 七 八 )、 暴 力 を 伴 う よ う な 争 い に は な っ て い な い。 そ の た め、 な ぜ 悪 行 人 の 交 名 注 文 案 が 作 成 さ れ な け れ ば な ら な か っ た の か 不 明 で あ る。 も し か す る と、 元 弘 元 年 で は な く、 元 応 元 年 の 誤 記 か も し れ な い。 仮 に そ う で あ る な ら、 二 つ の 史 料 に 記 載 さ れ て い る 名 前 が ま っ た く 同 じ で あ る こ と に違和感はない。 一三一九年以降に制作された二通の「伊香立荘悪行人等張本交名注文案」には名前がない 六 。 一 方、 先 述 し た 一 三 一 八 年 五 月 の 史 料 一「 葛 川 根 本 住 人 末 孫 交 名 注 文 」、 さ ら に 葛 川 で 一 三 一 八 年 六 月 二 一 日 に 作 成 さ れ た「 葛 川 住 人 等 起 請 文 」 に は 葛 川 の 住 民 と し て 中 八 の 名 前 が 挙 が っ て い る( 明 七 六 )。 こ の こ と か ら 中 八 が伊香立の悪党・殺害人として現れるのは一三一七年の出来事においてということになる。では、一三一七年に中 八は何を行って葛川から悪党人・殺害人とされたのであろうか。 実はこの時期、葛川と伊香立の間で山の用益をめぐる争いが激化していた。一三一七年十一月二二日、葛川と伊 香立の境となる山中で葛川住人の中五、生八、藤内、犬法師四郎、長寿丸の五名が襲われ、銭五貫五〇〇文、大豆 三斗、小豆三斗、板一駄、腰刀や具足が奪われた(明二三、二七、二八) 。「伊香立悪党人交名等注文」はこの襲撃 事件の下手人十六名を挙げており、その一人として中八の名が挙がっている。中五は先の犬四郎の事件で中八の行 動 に 不 審 を 覚 え 無 動 寺 に 報 告 し た 人 物 で あ る が、 中 八 の 縁 者 で も あ っ た( 明 四 四 三 )。 ま た、 中 五 と 共 に 襲 わ れ た 生八も一三一三年十月六日の源藤五に対する絶縁状に署名しており中八とは縁者だった。 十 二 月 二 〇 日、 二 一 日、 二 二 日 の 三 日 間 に は 伊 香 立 荘 民 が 葛 川 を 襲 撃 し、 二 五 日 に は 路 上 で 松 丸 が 殺 害 さ れ た。 二 七 日 に も 葛 川 と 伊 香 立 を 結 ぶ 花 折 峠 で 葛 川 の 紀 平 太、 尺 迦 三 郎、 乙 四 郎 が 殺 害 さ れ、 犬 二 郎 と 辰 三 郎 が 負 傷 し た。 ( 明 二 二、 二 三、 二 五 )。 銭 五 貫 文、 太 刀 一 本、 小 袖 二 着、 布 小 袖 一 枚、 腰 刀 一 本 も 奪 わ れ た( 京 写 一 一 )。 ま たこの時、美濃国の地頭・伊藤六郎が杣人をつれて京都に赴く途上で巻き添えになり、銭十五貫文を強奪されると いう事件も発生した(国五八) 。「伊香立荘民殺害交名」はこの十二月二七日の殺人事件の下手人九名の名前を挙げ ており、ここにも中八の名が記載されていた。 六   ちなみに、先述した観音太郎は制作年度が早い二通の交名注文には名前がなく、後で制作された二通にその名前が記載され ている。

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一三一九年以降に制作された二通の「伊香立荘悪行人等張本交名注文案」には名前がない 六 。 一 方、 先 述 し た 一 三 一 八 年 五 月 の 史 料 一「 葛 川 根 本 住 人 末 孫 交 名 注 文 」、 さ ら に 葛 川 で 一 三 一 八 年 六 月 二 一 日 に 作 成 さ れ た「 葛 川 住 人 等 起 請 文 」 に は 葛 川 の 住 民 と し て 中 八 の 名 前 が 挙 が っ て い る( 明 七 六 )。 こ の こ と か ら 中 八 が伊香立の悪党・殺害人として現れるのは一三一七年の出来事においてということになる。では、一三一七年に中 八は何を行って葛川から悪党人・殺害人とされたのであろうか。 実はこの時期、葛川と伊香立の間で山の用益をめぐる争いが激化していた。一三一七年十一月二二日、葛川と伊 香立の境となる山中で葛川住人の中五、生八、藤内、犬法師四郎、長寿丸の五名が襲われ、銭五貫五〇〇文、大豆 三斗、小豆三斗、板一駄、腰刀や具足が奪われた(明二三、二七、二八) 。「伊香立悪党人交名等注文」はこの襲撃 事件の下手人十六名を挙げており、その一人として中八の名が挙がっている。中五は先の犬四郎の事件で中八の行 動 に 不 審 を 覚 え 無 動 寺 に 報 告 し た 人 物 で あ る が、 中 八 の 縁 者 で も あ っ た( 明 四 四 三 )。 ま た、 中 五 と 共 に 襲 わ れ た 生八も一三一三年十月六日の源藤五に対する絶縁状に署名しており中八とは縁者だった。 十 二 月 二 〇 日、 二 一 日、 二 二 日 の 三 日 間 に は 伊 香 立 荘 民 が 葛 川 を 襲 撃 し、 二 五 日 に は 路 上 で 松 丸 が 殺 害 さ れ た。 二 七 日 に も 葛 川 と 伊 香 立 を 結 ぶ 花 折 峠 で 葛 川 の 紀 平 太、 尺 迦 三 郎、 乙 四 郎 が 殺 害 さ れ、 犬 二 郎 と 辰 三 郎 が 負 傷 し た。 ( 明 二 二、 二 三、 二 五 )。 銭 五 貫 文、 太 刀 一 本、 小 袖 二 着、 布 小 袖 一 枚、 腰 刀 一 本 も 奪 わ れ た( 京 写 一 一 )。 ま たこの時、美濃国の地頭・伊藤六郎が杣人をつれて京都に赴く途上で巻き添えになり、銭十五貫文を強奪されると いう事件も発生した(国五八) 。「伊香立荘民殺害交名」はこの十二月二七日の殺人事件の下手人九名の名前を挙げ ており、ここにも中八の名が記載されていた。 六   ちなみに、先述した観音太郎は制作年度が早い二通の交名注文には名前がなく、後で制作された二通にその名前が記載され ている。

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一三一六年九月から一三一八年六月にかけての『葛川明王院史料』に現れる中八という名前を時系列に沿って忠 実に追うなら、瀧山の木を伐採して葛川を追放されそうになっていた中八が一三一七年十一月と十二月に葛川の住 民を襲撃・殺害した後、一三一八年五月には葛川の住民として舞い戻っていたことになる。これ以前も含めると中 八は領主の出頭命令を無視し、縁者の追放を認め、聖地である瀧山の木を不法に伐採し、訴えた相手を訴え、敵対 していた相手に寝返ってかつての仲間を襲撃し、再び翻って何食わぬ顔で元の鞘に戻ったことになる。彼の行動は あまりにも現実離れしているように思え、坂田が「伊香立悪党人交名等注文」 、「伊香立荘民殺害交名」の中八に言 及しなかったのもうなずける。しかし、当時の葛川は十四世紀以降の葛川ではない。中八の行動は十三世紀中頃か ら十四世紀初頭にかけて葛川が置かれていた文脈、すなわちフロンティア社会という文脈の中で捉え直す必要があ るだろう。そこで以下では、当時の葛川の状況について考察する。 第二章   フロンティア社会としての葛川 第二章一節   葛川のガバナンス 「 は じ め に 」 で 言 及 し た よ う に、 本 論 で は 支 配 と 服 従、 上 意 下 達 と い う 一 方 向 的 な 関 係 性 を 前 提 と せ ず 議 論 す る た め に ガ バ ナ ン ス( Governance ) と い う 言 葉 を 採 用 す る。 図 一 は 伊 藤( 一 九 九 一 ) と 福 眞( 一 九 九 九 ) の 研 究 を もとに十三世紀中頃から十四世紀初頭のガバナンスを整理したものである。葛川の本家である青蓮院門跡は門主を 中 心 と し て 儀 礼 を 司 る 門 徒 僧 綱 と、 門 跡 の 庶 務 や 会 計 を 担 当 す る 坊 政 所 で 成 り 立 っ て い た( 下 坂 一 九 九 九 )。 ま た、青蓮院門主は比叡山の無動寺検校を兼任した。門主(検校)は自身に仕える門徒僧綱の中から無動寺別当を任 命し、別当はまた自身に仕える侍法師を預所に任命した。預所は青蓮院の裁許を現地に伝達し、葛川で行政実務に 当たる公文・下司を任命した。さらに、明王院には終身職として常住が置かれた。一見すると整然とした組織系統 の よ う に も 思 え る が、 こ う し た 組 織 系 統 が ど の 程 度 制 度 化 さ れ て い た の か は 判 然 と し な い。 例 え ば、 鎌 倉 時 代 に 名 前 が 確 認 で き る 別 当 は 一 二 八 八 年 に 改 易 さ れ た と い う 史 料 が 残 る 禅 雅 法 印、 一 三 一 七 年 〜 一 三 二 一 年 の 相 論 文 書 に 名 前 の あ る 玄 勝 法 印、 一 三 二 九 年 に 名 前 を み る こ と が で き る 桓 守 法 印 の 三 名 し か い な い( 福 眞 一 九 九 九 )。 ま た、 預 所 も 一 二 五 八 年 が 初 出 と さ れ、 そ れ 以 前 の 状 況 に つ い て は 不 明 で あ る し、 一 二 八 九 年 に 預 所 に 任 命 さ れ た 沙 弥 生 阿 は 侍 法 師 で は な く 在 地 住 民 で あ っ た と される(福眞 一九九九) 。 し か も、 葛 川 に 関 連 す る 組 織 系 統 は 上 記 以 外 の も の も 存 在 し た。 そ れ が 無 動 寺 政 所 と 無 動 寺 の 衆 徒 だ っ た。 比 叡 山 に 建 立 さ れ た 無 動 寺 に は 様 々 な 坊 が 立 ち 並 び、 こ う し た 坊 の 僧 侶・ 寺 官 ら が 衆 徒 を 構 成 し て い た が、 彼 ら と 門 跡 の 間 に は 一 種 の 緊 張 関 係 が 常 に 存 在 し て い た( 下 坂 一 九 九 九 )。 こ の 無 動 寺 に も 政 所 は 置 か れ て お り、 こ の 政 所 が 葛 川 の ガ バ ナ ン ス に 係 っ て い た こ と は 一 一 九 七 年 と 一 二 〇 二 年 の「 無 動 寺 政 所 下 文 」 か ら も わ か る( 伊 藤 一 九 九 一 )。 と こ ろ が 三 年 後 の 一 二 〇 五 年 の 文 書 を み る と、 そ の 発 行 元 は 青 蓮 院 門 主( 検 校 ) の 坊 に 設 置 さ れ た 坊 政 所 だ っ た( 伊 藤 一 九 九 一 )。 ほ ぼ 同 じ 時 期 に、 比 叡 山 の 無 動 寺 図一 葛川のガバナンス 青蓮院門主 無動寺検校 他門跡 検校坊政所 門徒僧網 無動寺別当(青蓮院門徒僧) 預所 侍法師 無動寺政所 定使 無動寺衆徒 行者 常住僧 公文 下司 住人・浪人 葛 葛川川

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の よ う に も 思 え る が、 こ う し た 組 織 系 統 が ど の 程 度 制 度 化 さ れ て い た の か は 判 然 と し な い。 例 え ば、 鎌 倉 時 代 に 名 前 が 確 認 で き る 別 当 は 一 二 八 八 年 に 改 易 さ れ た と い う 史 料 が 残 る 禅 雅 法 印、 一 三 一 七 年 〜 一 三 二 一 年 の 相 論 文 書 に 名 前 の あ る 玄 勝 法 印、 一 三 二 九 年 に 名 前 を み る こ と が で き る 桓 守 法 印 の 三 名 し か い な い( 福 眞 一 九 九 九 )。 ま た、 預 所 も 一 二 五 八 年 が 初 出 と さ れ、 そ れ 以 前 の 状 況 に つ い て は 不 明 で あ る し、 一 二 八 九 年 に 預 所 に 任 命 さ れ た 沙 弥 生 阿 は 侍 法 師 で は な く 在 地 住 民 で あ っ た と される(福眞 一九九九) 。 し か も、 葛 川 に 関 連 す る 組 織 系 統 は 上 記 以 外 の も の も 存 在 し た。 そ れ が 無 動 寺 政 所 と 無 動 寺 の 衆 徒 だ っ た。 比 叡 山 に 建 立 さ れ た 無 動 寺 に は 様 々 な 坊 が 立 ち 並 び、 こ う し た 坊 の 僧 侶・ 寺 官 ら が 衆 徒 を 構 成 し て い た が、 彼 ら と 門 跡 の 間 に は 一 種 の 緊 張 関 係 が 常 に 存 在 し て い た( 下 坂 一 九 九 九 )。 こ の 無 動 寺 に も 政 所 は 置 か れ て お り、 こ の 政 所 が 葛 川 の ガ バ ナ ン ス に 係 っ て い た こ と は 一 一 九 七 年 と 一 二 〇 二 年 の「 無 動 寺 政 所 下 文 」 か ら も わ か る( 伊 藤 一 九 九 一 )。 と こ ろ が 三 年 後 の 一 二 〇 五 年 の 文 書 を み る と、 そ の 発 行 元 は 青 蓮 院 門 主( 検 校 ) の 坊 に 設 置 さ れ た 坊 政 所 だ っ た( 伊 藤 一 九 九 一 )。 ほ ぼ 同 じ 時 期 に、 比 叡 山 の 無 動 寺 図一 葛川のガバナンス 青蓮院門主 無動寺検校 他門跡 検校坊政所 門徒僧網 無動寺別当(青蓮院門徒僧) 預所 侍法師 無動寺政所 定使 無動寺衆徒 行者 常住僧 公文 下司 住人・浪人 葛 葛川川

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政所と京都の青蓮院坊政所が葛川に文書を発行していたことになる。さらに十三世紀中頃以降、無動寺衆徒の関与 が 拡 大 し た。 後 述 す る 木 戸 荘 と の 相 論 で は、 無 動 寺 衆 徒 の 解 文 と 青 蓮 院 門 主 の 挙 状 が 伏 見 天 皇 記 録 所 に 提 出 さ れ、 一三二〇年には「無動寺住僧等連署下知状案」 (明四二)のように無動寺衆徒が「依衆議」に基づく下知状を発給す るようになった(下坂 一九八四、福眞 一九九九) 。 さらに葛川明王院は北嶺修験の行場でもあったため、行者たちもガバナンスに係っていた。行者たちは明王院で 六 月 と 十 月 の 蓮 華 会 と 法 華 会 に 参 籠 し た。 蓮 華 会 は 十 数 名 の 行 者 が 比 叡 山 か ら「 八 瀬、 大 原 越 」 を 通 っ て「 途 中 越 」 に 入 り、 「 栃 生 堂 」 で 先 達 か ら「 堂 入 り 」 の た め の「 栃 生 作 法 」 を 指 導 さ れ る こ と か ら 始 ま っ た。 こ の と き 大 原で採集した花を水船に浸した。その後、行者たちは「花折峠」を進み、峠の上で樒の枝を折って明王院に向かい 宝前に備えた。明王院参籠は六月十五日から二一日の七日間にかけてで、その際、最も重要であったのが、仏堂・ 神社に花や樒を備えて歩くことと三瀧での瀧行だった(豊島 一九九五) 。 そ も そ も 明 王 院 は 八 五 九 年 に 相 応 和 尚 が 葛 川 の 三 瀧 で 不 動 明 王 を 感 得 し た こ と で 天 台 修 験 の 行 場 と し て 設 け ら れ た( 写 真 一 )。 そ の た め 葛 川 は「 明 王 御 領 」 す な わ ち 「 明 王 」 と い う 仏 神 の 御 領 と さ れ、 理 念 的 に は 俗 界 に は 属 さ な い 霊 場 だ っ た( 下 坂 一 九 八 四 )。 霊 場 と し て の 葛 川 に は 俗 人 が 住 む こ と は 許 さ れ な か っ た。 網 野 も こ の 点 を 指 摘 し て お り、 一 一 五 二 年、 葛 川 常 住 僧 が「 十 方 杣 人 」 が 四 至 内 で の 樹 木 伐 採 を 切 取 る こ と の 禁 止 を 求 め て 発 し た 言 葉、 「 当 山 者、 有 験 之 霊 窟、 尤 縁 之 浄 域 也 」 は 無 縁 の 論 写真一:三瀧(2018 年 5 月) 理にもとづく不入を言い表したものだと論じている(網野 一九七八) 。 この論理に従えば、葛川の領有権はあくまで「明王」に帰属し、青蓮院門跡や無動寺には領有権がなかった。両 者の役割はあくまで「明王御領」の維持管理と行者のサポートだった。当然、明王院の実質的使用者である行者は 霊場の維持に関して発言力を持つようになった。この発言力は「諸門跡之貴人」と言われる構成メンバーの宗教的 権 威 と 門 流 を 越 え た 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク を 源 泉 と し て い た( 高 橋 一 九 八 八、 福 眞 一 九 九 九、 長 谷 川 二 〇 一 〇 )。 特 に人的なネットワークは無動寺と青蓮院の双方に深く張り巡らされていた。 中八の名前が『葛川明王院史料』に現れる十四世紀初頭、青蓮院による葛川のガバナンスは検校坊政所トップの 玄忠、無動寺別当の玄勝、預所の性舜からなる青蓮院系統と、行者の人的ネットワークにもとづいた無動寺系統の 二 つ か ら 成 り 立 っ て い た( 伊 藤 一 九 九 一、 福 眞 一 九 九 九 )。 伊 香 立 と の 相 論 に お い て 青 蓮 院 は 伊 香 立 に 有 利 な 裁 定を行う傾向にあったが、これは玄忠が門跡の会計責任者だったことに起因していたと思われる。一方、行者たち は 無 動 寺 衆 徒 と 協 力 し 葛 川 の 側 に 立 っ て 青 蓮 院 に 圧 力 を か け る よ う に な っ た( 福 眞 一 九 九 九 )。 ま た、 青 蓮 院 系 統 の末端にあった明王院常住も行者に歩調を合わせるようになった。行者は葛川での修行を安定的に実践する環境を 求め、常住は終身職であるため葛川住民の意向を無視できない立場にあった。それぞれの思惑は異なるが、葛川住 民の協力がなければ事を進められないという点において両者は同じ立場にあった。 では、住民達は葛川のガバナンスにおいてどのような役割を果たしたのだろうか。先述したように葛川は「明王 御領」の霊場であったため、理念上、俗人の居住は認めらなかった。そこで、常住とともに葛川に居住する住民が 御堂の整備や行者の世話など奉仕を行う体制が採られた。葛川に居住する住民が百姓ではなく「住人」と呼ばれた のもこのためであり、住人は明王院の奉仕者という位置づけだった。そして、奉仕者としての住人は五宇に制限さ れた。この体制を整えたのは第三代青蓮院門主慈円であった。慈円は若い頃より何度も明王院に行者として参籠し

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理にもとづく不入を言い表したものだと論じている(網野 一九七八) 。 この論理に従えば、葛川の領有権はあくまで「明王」に帰属し、青蓮院門跡や無動寺には領有権がなかった。両 者の役割はあくまで「明王御領」の維持管理と行者のサポートだった。当然、明王院の実質的使用者である行者は 霊場の維持に関して発言力を持つようになった。この発言力は「諸門跡之貴人」と言われる構成メンバーの宗教的 権 威 と 門 流 を 越 え た 人 的 ネ ッ ト ワ ー ク を 源 泉 と し て い た( 高 橋 一 九 八 八、 福 眞 一 九 九 九、 長 谷 川 二 〇 一 〇 )。 特 に人的なネットワークは無動寺と青蓮院の双方に深く張り巡らされていた。 中八の名前が『葛川明王院史料』に現れる十四世紀初頭、青蓮院による葛川のガバナンスは検校坊政所トップの 玄忠、無動寺別当の玄勝、預所の性舜からなる青蓮院系統と、行者の人的ネットワークにもとづいた無動寺系統の 二 つ か ら 成 り 立 っ て い た( 伊 藤 一 九 九 一、 福 眞 一 九 九 九 )。 伊 香 立 と の 相 論 に お い て 青 蓮 院 は 伊 香 立 に 有 利 な 裁 定を行う傾向にあったが、これは玄忠が門跡の会計責任者だったことに起因していたと思われる。一方、行者たち は 無 動 寺 衆 徒 と 協 力 し 葛 川 の 側 に 立 っ て 青 蓮 院 に 圧 力 を か け る よ う に な っ た( 福 眞 一 九 九 九 )。 ま た、 青 蓮 院 系 統 の末端にあった明王院常住も行者に歩調を合わせるようになった。行者は葛川での修行を安定的に実践する環境を 求め、常住は終身職であるため葛川住民の意向を無視できない立場にあった。それぞれの思惑は異なるが、葛川住 民の協力がなければ事を進められないという点において両者は同じ立場にあった。 では、住民達は葛川のガバナンスにおいてどのような役割を果たしたのだろうか。先述したように葛川は「明王 御領」の霊場であったため、理念上、俗人の居住は認めらなかった。そこで、常住とともに葛川に居住する住民が 御堂の整備や行者の世話など奉仕を行う体制が採られた。葛川に居住する住民が百姓ではなく「住人」と呼ばれた のもこのためであり、住人は明王院の奉仕者という位置づけだった。そして、奉仕者としての住人は五宇に制限さ れた。この体制を整えたのは第三代青蓮院門主慈円であった。慈円は若い頃より何度も明王院に行者として参籠し

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て い た。 そ の 後、 無 動 寺 検 校 に 補 任 さ れ、 一 一 八 一 年 に は 青 蓮 院 門 跡 の 門 主 に 就 任 し た( 水 野 二 〇 〇 〇、 高 橋 一 九 八 八 )。 門 主 就 任 後、 慈 円 は「 葛 川 縁 起 」 を 作 成 さ せ、 そ の 中 で 葛 川 の 四 至 を 東 は 比 良 峯、 南 は 花 折 谷、 西 は 鎌 鞍峯、北は右淵瀬と定めた。慈円が定めた葛川の境界はおおむね現在の葛川学区に相当するのでその面積は一七〇 九ヘクタールにのぼる。そこに五宇の住人しか居住してはならないとされたのであるから、葛川は手つかずの資源 が残る開発フロンティアとなった。 十三世紀に入ると開発フロンティアだった葛川に他地域からの移住がみられるようになった。そして、こうした 移 住 者 は「 浪 人 」 と 呼 ば れ た。 「 浪 人 」 の 初 出 は 一 二 二 三 年 の「 葛 川 住 人 起 請 文 」( 国 二 ) で、 葛 川 の 住 人 は 浪 人 を 入居させない旨を起請している。しかし、その後も浪人の移住は続いた。霊場の維持という意味では行者にとって 浪 人 の 増 加 は 好 ま し い も の で は な か っ た が、 蓮 華 会 や 法 華 会 と い う 修 行 に お い て 行 者 は 住 民 の 奉 仕 を 必 要 と し た。 同様に明王院常住も住民の協力を必要とした。御堂の整備などを滞りなく行い、行者の修行に支障をきたさないこ とが本来的な彼の業務だったからである。常識的に考えて、山で木を伐採し、それを搬出して板に加工し、御堂の 修理を行うといった労働を常住だけで行えるはずなどなく、こうした労働は住民に依存するほかなかった。そのた め、住民は一方的に支配されるような存在ではなく、潜在的に交渉力をもっていた。十三世紀中頃から蓮華会や法 華 会 の 費 用 が 滞 る よ う に な る と、 葛 川 住 民 の 協 力 が よ り 重 要 な も の と な っ た( 明 六 八、 明 七 〇 )。 こ の 住 民 の 中 に はもちろん移住者である浪人も含まれており、彼らもまた交渉力を持つようになった。 さらに開発フロンティアであった葛川への伊香立の進出も行者が葛川サイドに立つ大きな要因となった。伊香立 は無動寺や青蓮院の荘園であり、様々な賦課をかされていたが、その中に木炭があった。自荘内で木炭をまかない きれなくなった伊香立は木炭生産の場として葛川の山林用益を要求し、青蓮院の会計を担う坊官だった増円からこ れ を 認 め ら れ た( 伊 藤 一 九 九 一 )。 十 四 世 紀 初 頭 ま で に、 伊 香 立 の 炭 竃 は 明 王 院 の 南 三 キ ロ メ ー ト ル 近 く に ま で 進 出し、その数も行者が看過できないほどになっていた。公事としての木炭を重視する青蓮院の坊官たちと、葛川で の修行を重視する行者の間でガバナンスをめぐる競合が生まれた。 行者にとって住人と浪人から構成される住民は物質的にも修行を下支えする存在だった。また、住民にとって行 者は自らの交渉力を補強する存在となった。住民の要求が行者の人的ネットワークを通して青蓮院に届けられるこ とになったからである 七 。こうして十四世紀初頭には住民の交渉力が強化されることになった。 ここまでは「支配」という言葉を「ガバナンス」に置き換えることで、住民は一方的に支配されるような存在で はなく、本来的に交渉力を有していた点を論じた。ただ住民の交渉力が強く現れるのか、弱く現れるのかは、時と 場合による。十三世紀中頃から十四世紀初頭の葛川では、ガバナンスおける意思決定プロセスが青蓮院系統と無動 寺系統に二分化し競合するようになった。これが住民の交渉力を強化した一つの要因であった。そして、もう一つ が浪人という移住者の増加だった。そこで以下では浪人の増加と生産活動の実態について考える。 第二章二節   葛川の浪人と生業 生業とは人々が自身の生活のために自然環境の一部を資源として利用する経済活動を意味する。狩猟採集であれ ば、森林の中から一部の動植物を採集することで採集者自身の生存を維持する。農業では自然の再生産能力の一部 を人間が人工的に作り出し、そこから得られる作物を消費することで生存を維持する。市川は、この段階での生産 活 動 は 生 計 を 維 持 す る た め の 経 済 活 動 だ と し て 生 業 経 済 と 呼 ん で い る( 市 川 一 九 九 七 )。 生 業 経 済 の 幅 は、 自 分 た 七   例 え ば、 福 眞 は 一 三 一 八 年 二 月 二 九 日 付 け「 定 辯 挙 状 案 」 か ら、 宛 名 の 二 位 僧 都 御 房 は 当 時 の 無 動 寺 別 当 だ っ た 左 衛 門 督 法 玄 勝 と 違 う 点、 差 出 人 の 権 大 僧 都 定 辯 が 個 人 名 で 挙 状 を 執 筆 し て い る 点 か ら、 二 位 僧 都 御 房 は 青 蓮 院 祇 候 の 行 者、 権 大 僧 都 定辯を無動寺の行者として、青蓮院系統の無動寺別当を介さない奏上ルートが形成されていたとしている(福眞 一九九九) 。

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出し、その数も行者が看過できないほどになっていた。公事としての木炭を重視する青蓮院の坊官たちと、葛川で の修行を重視する行者の間でガバナンスをめぐる競合が生まれた。 行者にとって住人と浪人から構成される住民は物質的にも修行を下支えする存在だった。また、住民にとって行 者は自らの交渉力を補強する存在となった。住民の要求が行者の人的ネットワークを通して青蓮院に届けられるこ とになったからである 七 。こうして十四世紀初頭には住民の交渉力が強化されることになった。 ここまでは「支配」という言葉を「ガバナンス」に置き換えることで、住民は一方的に支配されるような存在で はなく、本来的に交渉力を有していた点を論じた。ただ住民の交渉力が強く現れるのか、弱く現れるのかは、時と 場合による。十三世紀中頃から十四世紀初頭の葛川では、ガバナンスおける意思決定プロセスが青蓮院系統と無動 寺系統に二分化し競合するようになった。これが住民の交渉力を強化した一つの要因であった。そして、もう一つ が浪人という移住者の増加だった。そこで以下では浪人の増加と生産活動の実態について考える。 第二章二節   葛川の浪人と生業 生業とは人々が自身の生活のために自然環境の一部を資源として利用する経済活動を意味する。狩猟採集であれ ば、森林の中から一部の動植物を採集することで採集者自身の生存を維持する。農業では自然の再生産能力の一部 を人間が人工的に作り出し、そこから得られる作物を消費することで生存を維持する。市川は、この段階での生産 活 動 は 生 計 を 維 持 す る た め の 経 済 活 動 だ と し て 生 業 経 済 と 呼 ん で い る( 市 川 一 九 九 七 )。 生 業 経 済 の 幅 は、 自 分 た 七   例 え ば、 福 眞 は 一 三 一 八 年 二 月 二 九 日 付 け「 定 辯 挙 状 案 」 か ら、 宛 名 の 二 位 僧 都 御 房 は 当 時 の 無 動 寺 別 当 だ っ た 左 衛 門 督 法 玄 勝 と 違 う 点、 差 出 人 の 権 大 僧 都 定 辯 が 個 人 名 で 挙 状 を 執 筆 し て い る 点 か ら、 二 位 僧 都 御 房 は 青 蓮 院 祇 候 の 行 者、 権 大 僧 都 定辯を無動寺の行者として、青蓮院系統の無動寺別当を介さない奏上ルートが形成されていたとしている(福眞 一九九九) 。

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