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〈和歌山県の民俗〉紀州の押送船

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紀州の押送船

胡桃沢

  はじめに   本 稿 は 紀 州 の 押 送 船 に つ い て 述 べ る も の で あ る。 た だ、 か か る タ イ ト ル を 掲 げ る と、 ﹁ 紀 州 に 押 送 船?﹂ と、 首 を傾げる方が多いのではなかろうか。これは誠に尤もな反応で、自分自身、つい一年程前まで、紀州に押送船が存 在 し た こ と は、 知 ら な か っ た の で あ る。 こ れ ま で に、 ﹁ 渥 美 半 島 の 魚 交 易 伝 承 ︱ 三 河 湾 岸 の 押 送 船 を 中 心 に ︱ ︵1 ︶ ﹂・ ﹁ 東 海 の 押 送 船 ︵2 ︶ ﹂・ ﹁ 伊 豆 の 水 陸 連 携 魚 輸 送 ︱ 馬 士 と 押 送 船 ︱ ︵3 ︶ ﹂ の、 三 本 の 押 送 船 報 告 を 書 い て き た 者 に と っ て も、 紀州での﹁押送船発見﹂は、正に新鮮な驚きであった。   押送船については、右掲拙稿にも挙げた、桜田勝 徳 ︵4 ︶ ・荒居英 次 ︵5 ︶ ・石井謙 治 ︵6 ︶ ・川名 登 ︵7 ︶ 等々、多くの先学が、質量共 に優れた研究を著している。これらから学んだ﹁押送船像﹂は、近世、房総・相模・伊豆の漁村から、江戸へ魚を 運 ん だ 快 速 船、 と い う も の で あ っ た。 ﹁ 関 東 地 方 に 存 在 す る ﹂ が、 学 界 の 大 勢 な の だ が、 前 掲 拙 稿 は、 押 送 船 の 分 布 は、 近 世 に 遡 っ て、 東 海 地 方 に ま で 及 ぶ こ と を、 論 証 し た も の な の で あ る。 反 省 す る べ き は、 一 連 の 作 業 の 際、 天保年間に、御前崎の押送船が摂津御影まで行ったのを示す史料を見ていなが ら ︵8 ︶ 、桜田の﹁押送りの名称は、関東 か ら 東 海 に 普 及 し て い た が、 関 西 方 面 で は 使 用 さ れ な か っ た。 ﹂ と の 推 定 ︵9 ︶ を 鵜 呑 み に し、 東 海 以 西 の 分 布 に つ い て

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検証を怠ってきたことだろう。ここへ来て、決め込んだ怠慢のツケが廻ってきたと言えようが、紀州の押送船に取 り組む気になったのは、単に自省の念にのみ由来するものではない。   菱 垣 廻 船 は、 元 和 五 年、 堺 の 商 人 が、 紀 伊 富 田 浦 の 二 五 〇 石 積 の 廻 船 を 借 り 受 け、 大 坂 か ら 江 戸 へ 荷 物 を 運 ん だ の に 始 ま る と さ れ る ︶10 ︵ の に 象 徴 さ れ る と お り、 近 世 の 紀 州 は 海 運 の 盛 ん な 国 で あ っ た。 上 村 雅 洋 の 研 究 ︶11 ︵ を 知 る 者 な ら ば、 海 運 史 研 究 が 盛 ん な 土 地 柄 で あ る か ら と、 押 送 船 に つ い て も 研 究 の 盛 行 を 予 想 し た い と こ ろ だ ろ う。 と こ ろ が、 管 見 の 限 り、 紀 州 の 押 送 船 を 検 討 し て い る の は、 笠 原 正 夫、 只 一 人 な の で あ る ︶12 ︵ 。 取 り 上 げ ら れ る 場 面 が 限 ら れ る の は、 廻 船 に 比 べ、 史 料 が 少 な い か ら だ と 察 せ ら れ る が、 だ か ら と 言 っ て、 交 通 史 専 攻 者 の 誰 も が 目 を 向 け な け れ ば、 紀 州 の 押 送 船 は、 存 在 を 認 識 さ れ な い ま ま、 沈 没 し て し ま う か も し れ な い。 今 大 切 な の は、 ﹁ 紀 州 に 押 送 船 が 存 在 し た ﹂ 史 実 を、 学 界 に 向 け て 発 信 す る こ と な の で あ る。 既 述 の と お り、 押 送 船 は、 和 船 の な か で は 海 外 で 一 番 知 ら れ た 存 在 だ と、 言 っ て 良 い ︶13 ︵ 。 こ の 名 の 船 の 分 布 を、 関 東 地 方 と 決 め 込 む の で は な く、 よ り 詳 し く 知 ろ う と す る 作 業 に は 意 義 が 有 る。 笠 原 の 仕 事 に 学 び つ つ、 自 身 の 史 料 分 析 を 加 え て、 ﹁ 紀 州 の 写真 1 紀伊富田浦

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押送船﹂を浮上させることを、目指したい。   一   先行研究から見る紀州   1   近世史概観   紀州の押送船を知る前提として、まずはこの地の近世史を概観しておこう。   ⑴   領主の変遷   天正十三年三月、紀州は、秀吉に平定され、豊臣政権下では、秀長、およびその養子秀保の領国として支配され る。 和 歌 山 等 の 重 要 拠 点 に 秀 長 の 家 臣 が 配 さ れ る が、 政 権 期 後 半 に は 和 歌 山・ 田 辺・ 新 宮 の 三 城 体 制 が 形 成 さ れ た ︶14 ︵ 。   関が原戦の一ヵ月後、慶長五年十月、浅野幸長が甲斐から紀州へ入国する。翌年確定した領知高は三七万四千石 で、高野山寺領を除く紀州一国が幸長の支配下となる ︶15 ︵ 。幸長は、自身が和歌山に入ると、直ちに、知行高三万石の 家老浅野左衛門介を田辺に、同じく二万八千石の浅野忠吉を新宮に、それぞれ配置した ︶16 ︵ 。幸長時代に、旧土豪の召 し 抱 え、 城 郭 と 城 下 町 の 形 成、 検 地 の 実 施 な ど、 近 世 的 支 配 の 基 礎 が 形 作 ら れ る が ︶17 ︵ 、 幸 長 は 慶 長 十 八 年 に 他 界 す る ︶18 ︵ 。弟の長晟が跡を継ぐが、元和五年七月、広島への転封が沙汰されて、浅野氏は紀州を去って行った ︶19 ︵ 。   元和五年八月、浅野氏に替わって、紀州に入国したのが徳川頼宣である ︶20 ︵ 。頼宣は、慶長七年、家康の十男として 生まれるが、翌八年には水戸二十万石の大名となった ︶21 ︵ 。水戸へは一度も行かず、家康のもとで成長するが、慶長十 四年、水戸に変えて、駿河・遠江・東三河で五十万石が与えられる ︶22 ︵ 。その後、紀州へ移ることとなるが、和歌山藩

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は、 紀 伊・ 伊 勢・ 大 和 で、 合 計 五 五 万 五 千 石 で あ っ た ︶23 ︵ 。 三 城 体 制 が 継 続 さ れ て、 和 歌 山 を 藩 庁 と し な が ら も、 田 辺 三 万 八 八 〇 〇 石 は 付 家 老 直 次 を 祖 と す る 安 藤 氏 が、 新 宮 三 万 五 千 石 は 同 じ く 重 仲 を 祖 と す る 水 野 氏 が、 そ れ ぞ れ 知 行 地 支 配 を 行 っ て ゆ く。 以 後 幕 末 に 至 る ま で、 こ れ を基とする枠組みが維持されたのである ︶24 ︵ 。   ⑵   村と浦   天 正 十 六 年、 秀吉 は、 ﹁ 海 賊 停 止 令 ﹂ に よ っ て 諸 国 の 海 村 を 調 査・ 掌 握 し、 文 禄・ 慶 長 の 役 で は、 熊 野 の 民 を 水 軍 に 動 員 し た ︶25 ︵ 。 海 上 公 務 や 軍 事 上 の 必 要 で、 紀 州 の 海 民 に 課 せ ら れ る 夫 役 は、 浅 野 氏 時 代 に 加 子 役 と 呼 ば れ る よ う に な る ︶26 ︵ 。 浅 野 氏 は、 慶 長 十 六 年 ま で に は、加子役を、労力賦課から米による代納=加子米に、切り換えている ︶27 ︵ 。加子米は、軍役に起源を持つものである ことから、和歌山藩時代には、これを、藩庁が独占し、田辺・新宮は持つことが無かった ︶28 ︵ 。   紀 州 の 村 々 は、 慶 長 六 年 の 検 地 で 村 高 が 確 定 す る が、 こ の 時 点 で は、 ﹁ 村 ﹂ と﹁ 浦 ﹂ の 区 別 が、 明 確 に は な さ れ て い な い ︶29 ︵ 。 や が て 両 者 は 区 分 さ れ る が、 そ の 目 安 は 加 子 米 で、 同 じ く 海 村 で も、 こ れ が 課 さ れ る 所 は﹁ 浦 ﹂、 課 さ れない所は農村同様﹁村﹂と、それぞれ公称されるようになる。その時期は、慶安以降、寛文期頃にかけてと、丁 度幕藩体制が確立される頃である ︶30 ︵ 。浦は、加子米を負担する代わりに、地先海面での漁業権が認められた ︶31 ︵ 。村・浦 写真 2 徳川頼宣の墓

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は、 代 表 者 は 庄 屋 だ が、 二 十 ∼ 三 十 か 村、 平 均 石 高 九 千 石 程 度 を 一 纏 ま り と し て、 組 を 形 成 し、 大 庄 屋 が 管 轄 し た。郡は、名称・エリアは前代からの継続だが、行政区画としての組が幾つか存在する形となり、各郡配置の郡奉 行・ 代 官 が、 大 庄 屋・ 庄 屋 を 通 し て 統 治 を 行 っ た。 村・ 浦 は、 在 方 も し く は 地 方 と 呼 ば れ、 郡 奉 行・ 代 官 を 指 揮 す る、 藩の奉行が支配を統括したのである ︶32 ︵ 。   和 歌 山 藩 は、 キ リ シ タ ン 禁 制・ 治 安 維 持 対 策 と 共 に、 海 難 救 助 を 課 す る 形 で、 海 村 を 治 め て い た ︶33 ︵ 。 海 難 救 助 は、 豊 臣 時 代 に 負 担 が 海 村 に 義 務 化 さ れ、 浅 野 氏 が 徹 底 化 を 図 っ て い る ︶34 ︵ 。 藩 政 下 で 救 助 を 担 っ た の は、 寛 永 年 間 の 成 立 と 伝 え ら れ る 浦 組 で あ る。 浦 組 は、 島 原 の 乱 を 受 け て 創 設 さ れ、 元 来 の 任 務 は、 不 審 船 発 見 時 の 注 進 = キ リ シ タ ン 船 渡 来 阻 止 で あ っ た。 呼 称 は 浦 組 だ が、 浦 の み で な く、 村 を も 組 み 込 む 形 で 編 成 さ れ て い る。 農 漁 民 で 構 成 さ れ て い な が ら、 軍 事 的 色 彩 の 濃 い 組 織 で、 領 民 統 制 の 側 面 を 有 し て い た。 そ れ が、 村・ 浦 は、 江 戸 ︱ 大 坂 航 路 の 沿 岸 で あ る こ と か ら、 幕 藩 体 制 の 安 定 と 共 に 増 加 す る 廻 船 の、 難 船 救 助 へ と、 性 格 を 転 換 し て い っ た の で あ る ︶35 ︵ 。 浦 組 は、 当 初 軍 役 で あ っ た こ と か ら、 藩 庁 の 管 轄 下 に あ っ て、 田 辺・ 新 宮 も 含 ん で 組 織 さ れ て い た ︶36 ︵ 。 加 子 米・ 浦 組 が、 揃 っ て 中 央 集 権 下 に 置 か 写真 3 田辺=会津川河口

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れていたことに、注目しておきたい。   2   押送船の活動形態   関東の押送船は、房州で貞享年中の存在が確認されていて ︶37 ︵ 、活動は比較的自由だったが、浦賀番所が開設された 享保六年以降は、番所改めを請け負った、江戸魚問屋の差配下に置かれることとなる ︶38 ︵ 。魚問屋が、幕府の厚い庇護 を受けていたのは確かだが ︶39 ︵ 、彼らは商人であるから、その下で動いた押送船は、民間営業者であったと見なされよ う。これは、東海地方も同じで、従来﹁押送船は民間﹂を疑う余地は無かったのである。ところが、何と、紀州の 押送船は﹁御用﹂なのであった。存在確認のみならず、活動形態を知って、関東との相違に再度驚かされたが、先 行研究から教わる概要は次のとおりである。   慶長十五年六月、浅野幸長は、木本浦の船頭加子中に対し、和歌山から熊野筋伊勢境までの、上下の押送船︵海 の伝馬︶の許可を与え、紀州海村掌握の一環とした ︶40 ︵ 。徳川氏は、これを受け継ぎ、和歌山と熊野・伊勢三領との間 において、御用荷物等を送るため、沿岸各所から押送船を出させては、浦継ぎで輸送をさせたのである ︶41 ︵ 。さながら ﹁ 海 上 伝 馬 役 ﹂ と 言 え る の か も し れ な い が、 具 体 相 は 笠 原 の 研 究 に 詳 述 さ れ て い て ︶42 ︵ 、 押 送 船 を 賦 課 さ れ た の は 浦 だ が、全ての浦が舟を動員していたわけではない。ただ、舟を提供しない浦も、経費負担は伸しかかってくる。加え て、単に物資輸送を行うのみでなく、情報伝達の役目も課される時が有った。紀州の人々は、自らの必要で、押送 船 を 操 船 し て い た わ け で は な い の で あ る。 ち な み に、 先 行 研 究 か ら は、 ﹁ 魚 を 運 ん だ ﹂ と の 記 述 を、 見 出 す こ と は 出来なかった。

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  二   史料に見る押送船   活動のあり方が、関東のそれとは違うのを認識したところで、紀州の押送船の史料と向き合う作業に取り掛かろ う。   1   藩法の規定   仕事は御用だったのだから、まずは、どのような決まり事が前提とされていたのかを知るために、ここは藩法か ら始めるのが手順である。   ⑴   紀藩御法度書   掲 げ る の は 正 保 二 年 九 月 の﹁ 定 ﹂ の 中 の 一 箇 条 だ が、 ﹁ 定 ﹂ は、 計 二 九 箇 条 の 郷 村 取 締 規 定 等 で、 代 官 郡 奉 行 取 締の事項である ︶43 ︵ 。 史料1 ︶44 ︵ 一浦々おし送船 3 3 3 3 之儀、先年如御定舟数日帳 ニ其断を付置、毎年一年切 ニ組中寄合遂勘定、   加子米高 ニ割符可仕候、組中之内何之浦々手寄におひておし送仕、所々 ニ日帳に断を付置   打合入用可仕勘定事︵傍点胡桃沢︶   こ の 条 文 は、 ﹃ 万 代 記 ﹄ 参・ 六 に も 記 載 さ れ て い る ︶45 ︵ 。 参 は 正 保 二 年 九 月 ︶46 ︵ 、 六 は 天 和 元 年 十 月 だ が ︶47 ︵ 、 用 字 等 に 僅 か な違いは有るものの、全く同じ内容である。参には﹁定﹂二九箇条が記載されていることから、藩当局が、広く在 方へ向けて法令遵守を図っていたのが、伺われる。

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  この史料で、まず注目するべきは年代の早さである。 ﹁正保二年﹂は確定として、 ﹁先年如御定﹂と書かれている ことは、これ以前に押送船についての規定が存在していたのを暗示する。それが直前の寛永年間で、仮に関東の押 送船の史料初見が貞享であるならば、両者の開きは半世紀ということになる。前述の、慶長十五年の木本浦につい て の 史 料 を、 見 る こ と は 出 来 て い な い が、 そ こ ま で 遡 ら ず と も、 関 東 で 十 七 世 紀 前 半 の 史 料 が 確 認 さ れ な い 限 り、 ﹁ 押 送 船 ﹂ の 呼 称 の 使 用 は、 紀 州 の 方 が 早 い 時 代 か ら だ と い う こ と に な る。 こ の 呼 称 は、 実 は 紀 州 生 ま れ だ っ た の かもしれないのである。   前述のとおり、村と浦が区分されたのは、慶安以降寛文期頃にかけてと、推定されている。この史料は、それ以 前 の も の で は あ る が、 ﹁ 加 子 米 高 ニ割 符 可 仕 候 ﹂ と 書 か れ、 押 送 船 お よ び そ の 経 費 を 負 担 す る の は、 加 子 米 納 入 を し て い る 所 で あ る の を、 明 言 し て い る。 加 子 米 納 入 を し て い る 所 は、 遡 れ ば 加 子 役 を 課 さ れ て い た。 先 行 研 究 が ﹁ 慶 長 十 六 年 ま で に 加 子 役 は 加 子 米 に 切 り 換 え ら れ た ﹂ と 述 べ て い る の は 見 た と お り だ が、 史 料 か ら は、 押 送 船 は ﹁労力賦課+経費負担﹂であったのを、読み取ることが出来る。となれば、 ﹁切り換え﹂は完全に行われたとは言い 得 な い、 と い う こ と に な る の で は な か ろ う か。 史 料 は、 ﹁ 一 年 間 に、 何 処 が ど れ く ら い 負 担 し た か を 算 出 し、 加 子 米 高 に 応 じ て 経 費 を 出 し 合 う よ う。 ﹂、 定 め て い る。 か か る 場 合、 負 担 の あ り 方 は、 ﹁ ⅰ 労 力 の み   ⅱ 労 力 + 経 費   ⅲ経費のみ﹂の、三様が想定されようが、皆がⅲを選択したら、舟が出せなくなってしまうから、労力賦課が消え て無くなることは有りえない。加子米を負担割合の基準としているのを踏まえるならば、加子役から加子米への切 り換えは、単に労力負担を米納へ変更したのに留まらず、海上労力徴発のありかたを、一律に縛る方式=労力賦課 から、選択の余地が有る方式=労力賦課+経費負担へと、変換したのを意味しているのではなかろうか。この負担 を 課 す 所 を﹁ 浦 ﹂ と し た の だ ろ う が、 ﹁ 浦 々﹂ と﹁ 加 子 米 ﹂ が 共 に 書 か れ る 正 保 二 年 の 史 料 の 存 在 は、 こ の 時 期、 浦の枠組み設定が、既に相当程度進んでいたのを、示しているのかもしれない。浦が在っての押送船ということに

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なるが、この賦課形態は、荒居が水主役を大別して言うところの夫役形態と米・銀納形態の ︶48 ︵ 、中間的な形に見えて くる。紀州の押送船は、軍役の延長線上のシステムに基づき、運航されていたのである。   経費負担の割当は組中寄合で決めるよう、指示されている。この組が、行政区画としての組なのか、海難救助組 織としての浦組なのかは不明だが、笠原の﹁正保期には浦組は正式名称になっていない﹂との指摘 ︶49 ︵ を念頭に置くな らば、藩の﹁定﹂に書かれるのは行政区画としての組ではなかろうか。組の原形成立は延宝頃だというが ︶50 ︵ 、正保に は既に一定の機能を果たしていた。しかし、区画等の具体的様相については、知ることが出来ないのである。   ⑵   紀伊御法度集   これは、吉宗が藩主の時に編集が開始され、次の宗直に替わる享保元年に完成した ︶51 ︵ 。冒頭の﹁目録﹂には計四十 の項目が挙げられているが、その中から、ここに掲げるのは﹁伝馬継村継浦々押送之事﹂である。 史料2 ︶52 ︵       浦々押送 一熊野田辺領迄御用荷物之内伝馬継に 而 難遣ものハ、奉行所 浦継押送 3 3 3 3 之証文ヲ出、船 3 ニ而   浦継 ニ遣し申候、但浦継証文出ス儀希成儀御座候 一右之所々 和歌山 江 之荷物有之節者、其所々郡奉行証文 ニ而 和歌山迄御用荷物浦継 ニ参申候 一浦方役人ハ勿論何役人 ニ而 も伝馬証文ヲ以浦々通候節者右浦継之船 ニ而 通 リ申候、奉行所ヨリ浦継之証文者   出不申候得共歩行路不自由之所々之分者右之通 ニ船 ニ乗申候、尤伝馬之替と相聞申候 一右浦継之儀奉行所 証文出分も船賃渡し不来候分も船賃出し不申候、右船賃之儀浦々組合有之、   毎年浦々立合右船賃者勿論浦方割 ニ可入物ヲ取集、組合之浦々へ割賦仕候、是 ヲ浦方割と申候、

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  但所々 浦々立合 ニ不及一浦之入用 ニ仕所 茂 御座候   ︵傍点胡桃沢︶   一つ書きの第一は、押送船を仕立てる目的を示したもので、藩庁から田辺・新宮へ御用荷物を送る際、伝馬継で 運 ぶ の が 難 し い 場 合 は、 船 に 積 ん で 浦 か ら 浦 へ と リ レ ー 輸 送 を 行 い、 目 的 地 へ 届 け る よ う、 定 め て い る。 正 に、 先 行 研 究 が 述 べ る、 紀 州 の 押 送 船 の 在 り 方 の 基 本 を 示 す 一 文 と、 位 置 づ け ら れ る だ ろ う。 史 料 1 と 併 せ 読 む な ら ば、 紀 州 の 押 送 船 は、 藩 政 成 立 期 か ら 御 用 船 と し て 存 在 し て い た こ と を、 確 信 出 来 る の で あ る。 押 送 船 を 仕 立 て る の は、 陸 上 送 付 が 難 し い 荷 物 だ と い う が、 陸 路 の 様 相 を﹃ 和 歌 山 県 史   近 世 ﹄ 五 六 〇 頁 の﹁ 図 27   紀 伊 国 内 の 伝 馬 所 ﹂ で 見 る と、 和 歌 山 か ら 田 辺・ 新 宮 へ 向 か う の は 熊 野 街 道 で あ る。 熊 野 街 道 は、 田 辺 ま で は 所 々 に 伝 馬 所 が 在 る が、 田 辺 で 大 辺 路 と 中 辺 路 に 別 れ る と、 海 岸 沿 い を 行 く 大 辺 路 に は 伝 馬 所 が 設 け ら れ て い な い。 中 辺 路 に は 伝 馬 所 が 置 か れ て い る が、 こ の 道 は 山 中 を 通 過 す る た め、 重 量 が 嵩 む 物 の 運 搬 は 不 可 能 だ。 文 字 通 り、 前 近 代 物 資 輸 送 の セ オ リ ー が 当 て は ま り、 と り わ け 新 宮 へ の 送 付 に は 海 路 が 選 ば れ、 押 送 船 が 動 員 さ れ た と、 考 え ら れ る。 押 送 船 の 使 用 に は、 奉 行 所 で 交 付 す る﹁ 浦 継 押 送 之 証 文 ﹂ が 必 要 と 書 か れ て い る が、 証 文 が ど 写真 4 熊野街道富田坂

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のようなものであるのかは、先行研究には触れられておらず、筆者も実見していない。記載内容を知ることは出来 ないのだが、史料1に﹁日帳に断を付置﹂と二回記されているのを併せ考えると、証文には押送船を動員する理由 等が記され、浦継の際には庄屋などへの提示義務が課されて、浦々はこれを控えるよう、指示されていたのではな いかと、推定されるのである。なお、証文発行が稀な場合が有るのを断っているが、これが具体的にどのようなこ とであるのかは、分からない。   第二は、田辺・新宮等から和歌山へ送る荷物が有る時は、最寄りの郡奉行から証文の交付を受ければ、御用荷物 と し て 浦 継 で 運 べ る こ と を、 定 め た も の で あ る。 こ こ に は、 藩 庁 が、 発 送 者 で あ る 時 に 限 ら ず、 受 取 者 と な る 際 も、御用荷物とされる場合の有ることが、示されている。留意すべきは、証文の交付権限が郡奉行に与えられてい ることで、浦継を認めて良いかどうかは、藩庁直属の者のみが判断出来たのである。加子米を藩庁が独占していた のは前述のとおりだが、これが押送船を負担する基準とされていたわけだから、海上労役の賦課権限は中央集権下 に置かれている者のみにしか有り得ない。藩法が、証文は郡奉行が交付するよう定めているのは、かかる論理に則 したものと見なされる。押送船を動員出来るのは藩庁の特権だったのが知られるが、史料1から読み取れる﹁紀州 の押送船は軍役﹂は、法規の中で一貫しているらしいのである。   第 三 で は、 浦 方 役 人 を 含 む 諸 役 人 が 浦 々 を 通 行 す る 際 は、 浦 継 之 船 の 利 用 を 認 め る こ と が、 申 し 渡 さ れ て い る。 そ の 際 は、 浦 継 之 証 文 が 無 く と も、 伝 馬 証 文 が 有 れ ば 良 い こ と と さ れ て い た。 ﹃ 紀 伊 御 法 度 集 ﹄ で は、 こ の﹁ 浦 々 押 送 ﹂ の 直 前 に﹁ 伝 馬 継 村 継 ﹂ が 掲 げ ら れ ︶53 ︵ 、 そ の 第 一 に﹁ 在 々 御 用 ニ参 候 役 人 伝 馬 渡 方 例 法、 奉 行 所 ニ而 遂 吟 味 証 文 出 し、 ︵ 中 略 ︶ 継 々 伝 馬 所 ニ而 荷 馬 相 立 申 候 ﹂ と、 書 か れ て い る。 出 張 す る 役 人 は、 伝 馬 証 文 の 交 付 を 必 ず 受 け ていたが、実は、これは押送船への便乗をも認めるものだったのである。そもそも第一・二に記される証文は、御 用荷物、すなわち物資運搬に際し交付されるものであって、人の移動を目的として船に乗るのを認めているわけで

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はない。第三の文中に﹁奉行所ヨリ浦継之証文者出不申候得共﹂と有るのを踏まえると、人そのものに対する浦継 証文は、交付された例が無いのではないかと思われる。一方、伝馬証文は旅客となるのを前提とするものだが、こ れ が、 和 歌 山 藩 で は、 浦 継 便 乗 を も 認 め る 内 容 を、 併 せ 有 す る 存 在 と な っ て い た。 押 送 船 へ の 便 乗 を 認 め た の は、 紀 州 の 海 岸 地 帯 に は、 ﹁ 歩 行 路 不 自 由 之 所 ﹂ が 多 く 在 っ た か ら だ ろ う。 紀 勢 本 線 の 列 車 に 乗 る と、 海 沿 い を 走 行 し ているにもかかわらず、トンネル通過が頻繁なのを実感する。山が海の近くまで迫っているからだが、近代的交通 機関導入以前においては、このような所の道は整備が行き届かず、移動の際は、むしろ海上を舟で行くほうが便利 で あ っ た。 伝 馬 証 文 を 水 陸 両 用 と し た の は、 奉 行 所 が、 領 内 の 地 形 条 件 を 熟 知 し て い た こ と の、 証 と 言 え よ う か。 末尾に﹁伝馬之替﹂と記されているのが、紀州の押送船の立ち位置を物語る。   第四は文意が分かりにくいが、浦継証文・伝馬証文に基づく押送船の利用に、船賃は不要であるのが示されてい ると、受け取れば良いのだろうか。であれば、押送船の航行は、浦々にとって﹁負担﹂であったのを、改めて認識 させられるのである。負担のあり方の内容は、史料1で見たところだが、これが重ねて記されている。ただ、文体 は、史料1が命令調であるのに対し、第四は様相を確認する淡々としたもので、書き方が異なっている。負担のあ り方は﹁浦方割﹂と呼ばれているが、穏やかな文体と固有名詞の出現は、正保二年から享保元年までの七十年の間 に、この決まり事が浦方に定着したのを、物語っているのかもしれない。負担は、組の浦々へ割賦するのが基本だ が、 例 外 も 存 在 し た。 浦 々 が 協 議 し て 割 り 当 て る こ と を せ ず、 一 ケ が 全 て を 賄 う 組 が 複 数 以 上 在 る と い う の だ が、言えば、これは、お上からの指示を違えた﹁実態﹂である。しかし、それを咎めるどころか、藩法に書き込ん でいるのは、当局が﹁実態﹂を追認しているのを表している。遵法精神よりも搾取出来ればそれで良いとの、支配 者側の身勝手が滲み出ていると言えるだろう。何れにせよ、この形が、正保期から有ったのか、享保期に見られる ようになったものなのかを含め、具体的な事は何も分からないのである。

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  2   浦継の実態   押送船は浦継で運航するよう定められていた。1で見たとおり、その活動に関わって、史料1では負担する者に 対して、史料2では享受する者に対して、藩から、それぞれ決まり事が示されている。これを基に、実際の航行が どのようなものであったのかを見てゆくのが、次に行うべき作業となる。事例は、和歌山から菱垣廻船の発祥地と さ れ る 富 田 浦 ま で に つ い て で、 掲 げ る 史 料 は、 ﹃ 万 代 記 ﹄ 十 五 に 掲 載 さ れ る、 享 保 十 二 年 の﹁ 熊 野 御 修 覆 荷 物 浦 送   同船賃里数書上﹂である。 史料3 ︶54 ︵ 一   熊野三山修覆方御用之荷物浦継押送 3 3 3 3 ニて新宮へ遣候義有之節、浦継一ケノ所々之雑用    入用銀別紙之通書付出候様、新宮迄之浦々大庄屋中へ相通書付新宮へ相達候ハヾ新宮    大庄屋 我等方へ伝馬継便ニ指越可申候間、可被申遣候以上     十月廿七日        笠原忠左衛門        川瀬重左衛門殿         覚    雑賀崎 大崎浦迄海上貳里半程 一   御用荷物船壱艘   但五拾石積     此船賃米壱斗貳升      水主賃米三斗六升    右御用荷物雑賀崎浦 押送 3 3 候、五拾石積之船当浦ニ無御座候ニ付、五拾石目之御荷物    大概六艘ニ積分押送 3 3 申積之船賃水主賃大様如此御座候、御荷物之品ニ 船数増減難斗

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   奉存候ニ付、決定ハ難申上御座候以上     未十月廿九日        海士郡雑賀崎浦庄屋         弥兵衛        川端重左衛門殿 ︶55 ︵    大崎浦 有田郡北湊浦迄海上貳里半程 ︵中略︶    南部浦 芳養浦迄海上壱里半 一   御用荷物船壱艘    但五拾石積     此船ちん三匁五分      水主ちん拾貳匁    はや浦 江川浦迄海上五拾丁 一   御用荷物船壱艘    但五拾石積     此船ちん弐匁五分      水主ちん八匁    江川浦 富田中村川口迄海上三里半程 一   御用荷物船壱艘    但五拾石積     此船賃銀拾匁      水主賃三拾目    右御用御荷物江川敷浦 富田中村川口迄押送 3 3 候、五拾石積之船当浦ニハ無御座候ニ付、

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   五拾石目之御荷物順々之通五艘ニ積分、押送 3 3 申積之船賃水主賃大様如此ニ御座候、    尤御荷物之品ニ 船数之義難斗奉存候         牟婁郡田辺敷浦庄屋     未十一月八日        清太夫         同江川浦庄屋        次郎兵衛        岩本八郎左衛門殿         ︵傍点胡桃沢︶   ⑴   通達と﹁覚﹂   こ の 史 料 は、 一 つ 書 き の 第 一 は 藩 庁 か ら の 通 達、 こ れ に 続 く﹁ 覚 ﹂ 以 下 は 現 地 か ら の 報 告 で あ る。 通 達 の 発 信 者・受信者は、共に名字が書かれていること、大庄屋に対して指図する立場に在ると読み取れることから、二人と も 藩 士 と 考 え ら れ る。 受 信 者 が 初 め て 読 ん だ の で は な く、 田 辺 大 庄 屋 が 控 を 残 し て い る こ と、 ﹁ 新 宮 迄 之 浦 々 大 庄 屋 中 へ 相 通 書 付 ﹂ と あ る こ と か ら、 御 用 荷 物 と 併 せ 運 ば れ て 引 き 継 が れ、 浦 々 の 大 庄 屋・ 庄 屋 等 が 順 に 回 覧 し て は、最終的に新宮の川瀬重左衛門へ届けられたと、判断される。 ﹁覚﹂は浦々が認めた報告の控だが、中継地では、 前の中継地から束になって来る各所の報告に、自分の所のものを加えては、一括して次の目的地へ送付していたの が 分 か る。 田 辺 大 庄 屋 は、 発 送 地 の 雑 賀 崎 か ら 自 ら が 管 轄 す る 富 田 の 報 告 を、 纏 め て 控 え、 ﹁ 覚 ﹂ と し て 遺 し た の である。報告の現物は、富田の先々で更に数を重ねては、新宮を目指したのだろう。ただ、田辺の者には、現物の その後については知る術が無い。よって、富田から先、新宮までは、何処を中継地としていたのか書くのは不可能 で、読み解く我々も地名を知ることが出来ない。かかる状況と、史料1で﹁組中之内何之浦々手寄におひておし送

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仕﹂ったのかを、報告するよう求めているのを併せ考えると、御用荷物送付が生じた場合、何処を浦継の場所とす る か は、 予 め 指 定 さ れ て い た の で は な く、 そ の 都 度 可 能 な 所 が 引 き 受 け る と の 形 が 採 ら れ て い た と、 推 定 さ れ る。 伝馬継が決まった伝馬所でなされたのに対し、浦継を行う所は不定と、押送船運航は流動性の高いものだったと見 なされるのである。   通達には、熊野三山の修復にあたり、和歌山から現地へ届ける御用荷物を、新宮までは海上を浦継によって送る と、押送船を仕立てる目的が記されている。中継地となる各浦に対し、一か所ごとに経費を書いた報告を差し出す よ う 指 示 し て い る が、 こ れ は 書 式 が 決 め ら れ て い た。 ﹁ 別 紙 ﹂ が 添 付 さ れ、 見 本 に 従 い 記 述 す る よ う、 求 め る の で ある。こうして作成された報告の控が﹁覚﹂であるのは前述のとおりだが、細かな物言いに、押送船の運航が権力 の統制の下で行われていたのを改めて認識させられる。浦々の庄屋等が通達を回覧したのも既述のところだが、最 終目的地の新宮の大庄屋に対しては、これを受け取ったら藩庁へ報告するよう、申し渡してほしいと、発信者から 受信者へ依頼がなされていた。御用荷物が確かに目的地に着いたかどうかの確認が、厳密に行われていたのを知る ことが出来る。確認の便りは伝馬継で送るよう、指図されていた。和歌山藩は、書状は伝馬継で送付しており ︶56 ︵ 、浦 継で送った荷物であっても、これに関わる通信には、陸運を使っていたのである ︶57 ︵ 。   ⑵   浦のすがた   ﹁ 覚 ﹂ に は、 浦 継 場 と さ れ た 地 名 が 列 挙 さ れ て い る。 こ れ ら の 中 か ら、 今 回 は、 雑 賀 崎・ 大 崎 浦︵ 加 茂 谷 三 カ 浦︶ ・江川浦・富田浦の、四か所を訪れた。

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  ①   雑賀崎   ﹁ 覚 ﹂ の 最 初 に 記 さ れ る 雑 賀 崎 は、 紀 ノ 川 河 口 の 南 方、 直 線 距 離 一 里 程 の 所 に 位 置 す る 岬 で あ る。 西 端 部 の 番 所 の 鼻 に は、 藩 政 時 代、 遠 見 番 所 や 幕 末 期 の 台 場 が 置 か れ、 海 の 守 り の 要 と な っ て い た ︶58 ︵ 。 浦 は 南 向 き で、 背 後 は 丘 陵 地 帯 で あ る か ら、 前 近 代 的 交 通 機 関 の 時 代、 外 部 と の 往 来 は 海 路 が 中 心 だ っ た と 思 わ れ る。 高 台 に は 衣 美 須 神 社 が 鎮 座 す る が、 常 夜 灯 に は﹁ 文 政 七 年 ﹂ と 刻 ま れ て い た。 御 用 荷 物 は、 和 歌 山 城 下 か ら 舟 で 雑 賀 崎 ま で 運 ば れ、 押 送 船 に 引 き 継 が れ た の だ ろ う。 雑 賀 崎 は、 浅 野 氏 時 代 か ら 加 子 役 負 担 村 に な っ て お り ︶59 ︵ 、 押 送 船 を 担 う 前 提 を 課 さ れ て い た。 城 下 至 近 の 良 港 と の 立 地 条 件 と 併 せ、 押 送 船 の 始 終 点 を 担 う 所であったと、考えられるのである。   史 料 3 の﹁ 雑 賀 崎 ﹂ に よ れ ば、 こ の 地 の 役 目 は、 海 上 を 二 里 半 程 南 下 し た 大 崎 浦 ま で 御 用 荷 物 を 運 び、 引 き 渡 す こ と で あ っ た。 藩 か ら 浦 へ の 指 令 は、 荷 物 は 五 十 石 で、 こ れ を 積 め る 船 を 一 艘 用 意 す る よ う に と い う も の で あ る。 こ れ に 対 し、 雑 賀 崎 浦 庄 屋 の 弥 兵 衛 は、 通 達 の 受 信 者 で あ る 新 宮 の 川 瀬 重 左 衛 門 宛 に、 指 定 さ れ た 報 告 と 共 に 添 状 を 送 り、 浦 の 現 状 を 訴 え て い る。 伝 言 は、 雑 賀 崎 に は 五 十 石 積 の 船 写真 5 雑賀崎番所の鼻

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が無いから、荷物を六艘の船に分けて積み、押送るつもりだが、荷物の内容によって船の数は増減するので、現時 点 で 必 要 数 を 計 上 す る の は 叶 わ な い、 よ っ て、 報 告 の 内 容 を 決 定 し た も の と す る こ と は 出 来 な い、 と い う も の で あった。報告を求められている経費については、船賃・水主賃を示しながらも、仮に六艘で運んだ場合の概算であ るのを、断っている。   報告の意外な記述は、雑賀崎だけが、経費の額を米で示していることだろう。後を引き継ぐ他の浦は、全て銀で 表しているのである。この状況は、銀で表示するのが一般的だったと解釈出来るが、そのなかで、雑賀崎が敢えて 米を目安にした理由は分からない。住民は、賃金を、食料現物支給で受け取ることを、望んだのだろうか ︶60 ︵ 。添状で 注 目 す べ き は、 船 そ の も の と 荷 物 の 内 容 で あ る。 ま ず 船 だ が、 前 述 の と お り、 藩 当 局 は、 五 十 石 積 一 艘 と 指 定 し た。ところが、雑賀崎には、該当する船が存在しないというのである。無いのは、それまで必要とされたことが無 く、 五 十 石 は 過 去 に 例 が 無 い 大 容 量 の 荷 物 だ っ た か ら だ と、 思 わ れ る。 熊 野 三 山 修 復 用 と い う こ と で、 建 築 資 材 だったのだろうが、浦側の対応策は、数艘に分けて積むというものであった。仮に六艘でとするならば、九石以上 の船が使用可能となるから、紀州の押送船は九石前後だったということになるのである。次に荷物の内容だが、品 質の高低によって、船の数は増減すると述べている。現代も、貴重品の輸送は梱包が厳重になされて容積が嵩張る が、近世においても、これは同じであったろう。熊野三山用品ともなれば、取り扱いには厳重注意が求められたに 相違ない。弥兵衛は、容積増量に伴う船数増加を想定しつつも、なお必要数が読めないことから、慎重な姿勢を示 したのではなかろうか。   ②   大崎浦︵加茂谷三 カ浦︶   大 崎 浦 は 、 雑 賀 崎 の 南 西 に 在 っ て 、 地 理 的 に 加 茂 谷 と 概 称 さ れ る 一 帯 の 、 岬 の 西 端 部 に 位 置 し て い る 。 加 茂 谷

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は 、 中 世 末 に は 今 の 集 落 が 成 立 し て お り 、 慶 長 検 地 時 に は 、 大 崎 浦 を 含 む 二 四 カ村 が 在 っ た ︶61 ︵ 。 加 茂 谷 中 部 の 上 村 か ら 小 畑 村 へ の 道 筋 に は 、 天 台 宗 長 保 寺 の 伽 藍 が 展 開 し 、 紀 州 徳 川 家 の 菩 提 寺 と な っ て い る 。 宝 暦 三 年 の ﹁ 加 茂 組 書 上 ﹂ に は 、 塩 津 ・ 下 津 ・ 大 崎 の み が ﹁ 浦 ﹂、 他 は ﹁ 村 ﹂ と 、 書 か れ て い る が 、 三 カ浦 は 、 他 の 村 々 に 比 べ 、 石 高 に 対 す る 戸 口 が 多 く 、 漁 業 や 廻 船 業 に よ っ た 所 で あ る の が 示 さ れ て い る ︶62 ︵ 。 大 崎 浦 は 、 雑 賀 崎 に 同 じ く 、 浅 野 氏 時 代 か ら 加 子 役 負 担 村 と さ れ て い て ︶63 ︵ 、 押 送 船 を 担 う 前 提 が 課 さ れ て い た 。 高 台 に は 稲 荷 神 社 が 鎮 座 す る が 、 鳥 居 に は ﹁ 元 禄 十 二 年 ﹂ と 刻 ま れ て い る 。 そ の 至 近 に 、 井 戸 の 跡 が 在 る の が 、 目 を 引 い た 。 大 崎 浦 と 下 津 浦 の 間 の 海 岸 道 路 沿 い に は 、﹁ 紀 文 船 出 の 地 ﹂ の 碑 が 立 て ら れ て お り 、 付 近 一 帯 が 海 路 の 要 の 地 で あ っ た の を 、 今 に 伝 え て い る の で あ る 。   三 カ浦 の 背 後 は 何 れ も 丘 陵 地 帯 で、 岬 の、 北 の 付 け 根︵ 塩 津 ︶、 南 の 付 け 根︵ 下 津 ︶、 西 端︵ 大 崎 ︶ に 在 っ て、 そ れぞれ海に面している。浦の向きは、塩津=北、下津=西、大崎=南と、異なっているが、違いを生かし、加茂谷 の 湊 に 寄 港 す る 船 は、 風 向 き や 潮 の 流 れ に よ っ て、 そ の 時 一 番 安 全 な 所 を 選 ん で い た の か も し れ な い。 と い う の も、 三 カ浦 の 中 で 雑 賀 崎 に 一 番 近 い の は、 塩 津 で あ る に も か か わ ら ず、 史 料 3 に は 大 崎 の 名 が 挙 げ ら れ て い る か ら な の で あ る。 熊 野 三 山 宛 の 浦 継 が 行 わ れ た﹁ 月 ﹂ は 十・ 十 一 月 だ か ら、 季 節 は 冬 で、 北 西 の 風 が 吹 き つ け る 頃 で あった。かかる条件下で、浦への出入りが最も安全と見なされたのは、南向きの大崎だったろう。ここは、入船の 際は、向かい風にはなるが、山に遮られて風力は弱く、出船の時は追い風となって、速やかに、次の目的地である 北湊浦を目指すのを可能にしていたと、考えられるのである。   浦継を担う浦々は、当然押送船を有していたはずだが、今回の訪問地のなかで、これを浦からの﹁差出﹂で確認 出来たのは、やはり浅野氏時代から加子役負担村とされている塩津 ︶64 ︵ 、ただ一か所のみであった。史料は、天保十三 年 に 写 さ れ た﹃ 御 当 家 御 入 国 以 来 塩 津 浦 家 数 人 別 帳 ﹄ の、 元 禄 九 年 の﹁ 差 出 し ﹂ で、 ﹁ 船 数   百 八 十 七 艘    百 十

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五艘   漁舟    十壱艘   廻船    四十一艘   いさば    弐十艘   押送り﹂と、記載されている ︶65 ︵ 。また、版籍奉還期 の も の で は あ る が、 明 治 二 年 四 月 の﹁ 塩 津 浦 大 指 出 し 帳 控 ﹂ に は、 ﹁ 船 数   九 拾 六 艘    三 十 艘   い さ ば    弐 拾 三 艘   小 廻 船    七 艘   押 送 り    弐 拾 九 艘   漁 船    七 艘   手 繰 船 ﹂ と、 書 か れ て い る の で あ る ︶66 ︵ 。 塩 津 の 押 送 船 の 数 は、 元 禄 期 に は 二 桁 に 及 ん で い た の が 知 ら れ る が、 他 の 浦 と 比 べ、 多 い か 少 な い か は、 比 較 で き る 史 料 が 見 出 せ て い な い た め、 分 か ら な い。 便 法 と し て 加 子 役 負 担 を 目 安 に す る と、 塩 津 は 領 内 で は 負 担 が 大 き な 所 だ っ た か ら ︶67 ︵ 、 こ れ に 比 例 す る と な れ ば、 船 や 浦 人 は 頻 繁 に 動 員 さ れ て い た こ と に な る。 対 応 す る に は、 相 当 数 の 船 数 が 必 要 だ っ た と 予 想 さ れ、 多 く を 持 つ 浦 と 位 置 づ け ら れ て い た の で は な か ろ うか。   唯 一 存 在 確 認 が 出 来 る、 塩 津 の 押 送 船 の 用 途 は﹁ 御 用 ﹂ と、 明 記 し た 史 料 が 遺 さ れ て い る。 個 人 所 蔵 の た め 孫 引 き と な る が、 延 宝 七 年 の﹁ 当 浦 網 屋 町 と 出 入 諸 色 扣 ﹂ に は、 ﹁ 一 浦 次 ニ押 送 リ 之 御 用 参 候 節 者 船 加 子 出 し 相 勤 申 候 御 事 ﹂ と 記 さ れ て い て ︶68 ︵ 、 史 料 1 に 見 ら れ る 指 示 に、 応 ず る 活 動 を し て い た の を、 知 る こ と が 出 来 る の で あ る。 船 の 形 状・ 性 能 等 は 不 明 だ が、 リ レ ー 輸 送 に 従 事 し た の と、 関 東 の 押 送 写真 6 蛭子神社の石柱

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船 が 快 速 船 だ っ た の を 併 せ 考 え れ ば、 速 力 重 視 の 船 体 だ っ た 可 能 性 は 高 い だ ろ う。 な お、 ﹃ 御 当 家 御 入 国 以 来 塩 津 浦家数人別帳﹄の所蔵者が、塩津の頭立衆の九鬼家であるのは ︶69 ︵ 、興味深い。ここの産土社は蛭子神社だが、社の正 面 の 寄 進 石 柱 に 氏 名 が 刻 ま れ、 土 地 の 有 力 者 で あ る の を 物 語 っ て い る。 蛭 子 神 社 の 享 保 五 年 の 常 夜 灯 か ら は、 ﹁ 回 船安全﹂の文字を読み取ることが出来て、廻船業が盛んであった往時 ︶70 ︵ を偲ばせているのである。   ③   江川浦   大崎浦を出た熊野三山御用荷物は、北湊浦・衣奈浦・比井浦・薗浦・印南浦・南部浦・芳養浦を経て、田辺の江 川浦に達している。   江川浦は、会津川河口の右岸に在って、今は漁師町だが、豊臣政権期には、田辺城下町の中核となっていた。天 正十三年、秀吉の家臣、杉若越後守は、在地勢力を滅ぼすと、芳養泊城に入城する。同十八年、杉若氏が城を上野 山に移すと、その南に広がる会津川右岸一帯が、城下町として形成されたのである ︶71 ︵ 。田辺は、浅野氏時代、前述の とおり浅野左衛門佐の支配下となるが、慶長十一年に左衛門佐が城を会津川左岸に移したため、右岸は城下町とし ての立場を失った ︶72 ︵ 。移された城は、会津川を挟んだ江川浦の対岸に建てられ、今も水門跡を見ることが出来る。城 が去った後、河口右岸は漁師町として今日に続くが、元和九年の史料には﹁江川浦﹂と表記されている ︶73 ︵ 。景観︵写 真3︶からは、典型的な河口湊であった所と、判断されるのである。   史料3の﹁江川浦﹂によれば、この地の役目は、芳養浦の押送船が積んで来る御用荷物を受け継ぎ、富田中村川 口まで運んで、引き渡すことであった。雑賀崎で見たのと同じ指令が藩から浦へ来ていて、ここでも、庄屋が、指 定された報告と共に添状を送り、浦の現状を訴えているが、発信者と受信者の在り方には違いが見出される。まず 発 信 者 は、 雑 賀 崎 で は 一 人 だ っ た が、 こ こ で は、 江 川 浦 と 敷 浦 の 二 人 と な っ て い る。 何 故 か と い う こ と に な る が、

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これを教えてくれるのは次の史料である。 史料4 ︶74 ︵ 一︵前略︶御用之船役之義ハ若山 熊野迄、押送 3 3 ハ江川浦 富田浦迄、熊野 若山迄押送リハ       富田浦 江川浦迄、先規 勤来候ハ浦継押迄ニ瀬戸村と申義無御座候御事   ︵中略︶        江川浦庄屋   次郎兵衛          貞享貳年丑九月         同   年寄    吉兵衛        同       六郎兵衛        敷浦庄屋    嘉兵衛        同   肝煎    清右衛門        両浦中     荻原杢右衛門様         ︵傍点胡桃沢︶   ︵後略︶   右 の 史 料 で 注 視 す べ き は 、 江 川 ・ 敷 両 浦 の 役 人 の 連 名 で 、 文 書 が 発 給 さ れ て い る こ と で あ る 。 こ れ は 、 貞 享 年 間 に お い て 、 浦 継 の 区 間 が 江 川 浦 ︱ 富 田 浦 で あ り 、 運 航 さ れ る 押 送 船 は 、 江 川 ・ 敷 の 両 浦 で 務 め る の が 習 い で あ っ た の を 、 示 し て い る 。 と い う こ と は 、 熊 野 三 山 宛 輸 送 に お い て も 、 こ の 間 は 江 川 ・ 敷 両 浦 の 共 同 運 航 で あ っ た と 考 え れ ば 、 発 信 者 が 二 人 の 連 名 に な っ て い る の は 、 言 わ ば 当 然 な の で あ る 。 共 同 運 航 は 、 更 に 遡 っ て 、 史 料 1 と 同 年 の 、 正 保 二 年 に 既 に 行 わ れ て い た ︶75 ︵ 。 次 は 受 信 者 だ が 、 川 瀬 重 左 衛 門 で は な く 、 岩 本 八 郎 左 衛 門 と な っ て い る 。 岩 本 は 、 名 字 が 書 か れ て い る こ と か ら 藩 士 で あ っ て 、 富 田 浦 よ り 新 宮 寄 り に 居 た の だ ろ う が 、 そ れ 以 上 の

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こ と は 分 か ら な い 。 添 状 の 内 容 は 、 基 本 的 に 雑 賀 崎 と 同 じ だ が 、 荷 物 を 分 け 積 み す る の に 必 要 な 押 送 船 が 五 艘 と 、 雑 賀 崎 よ り 一 艘 少 な く な っ て い る 。 す な わ ち 、 江 川 ・ 敷 両 浦 の 船 は 、 十 石 積 み 以 上 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 押 送 船 の 大 き さ は 、 浦 に よ っ て 異 な っ た の が 、 伺 わ れ る の で あ る 。   ④   富田浦   白 浜 の 千 畳 敷 の 南 西 に 在 る 瀬 戸 崎 か ら、 南 方 三 里 の 市 江 崎 に 至 る 沿 岸 地 帯 が、 富 田 浦 で あ る ︶76 ︵ 。 元 和 六 年 十 二 月 の 史 料 に よ れ ば、 富 田 中 村・ 芝 村・ 高 瀬 村・ 朝 来 帰 村 の 四 か 村 の総称が富田浦中で、加子役負担を課されていた ︶77 ︵ 。   史 料 3 に よ れ ば、 江 川 浦 を 出 た 押 送 船 の 役 目 は、 富 田 中 村 川 口 ま で 荷 物 を 運 び、 引 き 渡 す こ と で あ る。 川 口 は 高 瀬 川 左 岸 の 河 口 に 位 置 す る が、 高 瀬 川 の 北 に は 富 田 川 が 流 れ、 二 本 の 川 は 河 口 で 合 流 し て、 熊 野 灘 へ 流 れ 込 ん で ゆ く。 川 口 を 訪 ね る と、 近 代 以 降 の 建 設 と 思 し き 舟 着 場 が 在 っ て、 小 舟 が 繋 留 さ れ て い た。 前 近 代 の 遺 構 ら し き も の は 見 出 せ て い な い が、 舟 着 場 付 近 か ら 河 口 ま で は、 川 幅 が 広 く、 水 量 も 豊 か だ か ら、 前 近 代 に お い て、 十 石 規 模 の 舟 の 往 来 は 可 能 だ っ た と 思 わ れ る。 川 名 に よ れ ば、 関 東 の 押 送 船 は、 写真 7 川口の舟着場

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江 戸 湾 か ら 江 戸 内 川 へ 乗 り 入 れ て い た ︶78 ︵ 。 紀 州 の 押 送 船 も、 富 田 浦 で は、 多 少 河 口 か ら 遡 っ て い た の か も し れ な い。 江 川 浦 か ら 荷 物 を 受 け 継 ぎ、 次 の 押 送 船 を 仕 立 て る の は、 加 子 役 負 担 を 負 っ た 富 田 浦 中 の 役 目 で あ っ た ろ う。 た 写真 8 金比羅神社の狛犬

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だ、これに関わる史料を見つけ出すことは出来ていない。江川浦・敷浦に同じく、共同運航したのかどうか、次は どこの浦まで行ったのか等々、具体的なことは何も分からないのである。   前述のとおり、富田浦は菱垣廻船の発祥地とされる所だが、当時の船は﹁板子一枚下は地獄﹂だから、人々の航 海安全を祈る気持ちは強かった。中村の西北の丘の上に、金比羅神社が鎮座するのは、これを我々に伝えるもので ある。社へは、今は村から車道が通じているが、浜の大間磯と直結する道も在って、階段が設けられていることか ら、かつては、こちらがメインだったのかもしれない。拝殿の前には、寄進の狛犬が祀られ、向かって左には摂州 大坂の、右には今津の、商人が連名で、それぞれ台座に刻まれている。天下の台所からの安全祈願は、この地が幹 線航路の要所だった歴史を明示する。加うるに、中村村内に鹿島神社が鎮座して、文政二年の常夜灯に﹁金比羅大 権現﹂と刻まれるのは、海の安全が強い願いだったのを、語り伝えているのである。   以上を以て浦継の事例検討とするが、塩津で、明治期に至るまで押送船が存在したのを確認しえたのは、成果の 一つと言って良い。紀州では、近世を通じ、この船が航行していたのである。   3   鮮魚輸送   ﹁一の2﹂で述べたとおり、先行研究中から、 ﹁紀州の押送船は魚を運んだ﹂との記述を読み取ることは、出来て いない。ところが、史実は、どうやら﹁運んでいた﹂らしいのである。まずは根拠を掲げよう。 史料5 ︶79 ︵   此度諸人初浦々諸廻船 并 ニ諸向 江 通船等、向後無鑑札 ニ而 他出不相成との御儀、御布告之御趣奉畏、 村中 江 屹度申付候処、一同奉拝承居候、当浦 ニ者 廻船等無御座候得共、此節鰯漁順 ニ趣候得共、

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餌サ無之候 而者 、持網職休業 ニ相成候付、右餌サ買積 ニ備前表 江 罷出度筋も有之、 付 而者 生魚買積押送り 3 3 3 3 3 3 3 等渡世 ニ致居候者も有之、差当り甚難義迷惑之趣歎出⋮ ︵中略︶      未   五月十二日         加太浦庄屋   幸前庄左衛門   ㊞        松本弥四郎殿        ︵他五名︶ ︵後略︶         ︵傍点胡桃沢︶   こ の 史 料 は 廃 藩 置 県 期 の も の で は あ る が 、﹁ 生 魚 買 積 押 送 り 等 渡 世 ニ致 居 候 者 も 有 之 ﹂ は 、 藩 政 時 代 か ら の こ と と 考 え て 良 い だ ろ う 。 紀 州 の 押 送 船 に は 、 関 東 の そ れ と 同 じ く 、 鮮 魚 輸 送 に 従 事 し た も の が 有 っ た の で あ る 。   該 当 の 押 送 船 が 居 た 加 太 浦 は 、 紀 ノ 川 河 口 の 西 北 、 直 線 距 離 八 キ ロ 程 の 所 に 位 置 し て い る 。 中 世 以 来 、 漁 業 を 生 業 と し て 、 十 八 世 紀 後 半 頃 ま で 、 湊 と し て の 整 備 は な さ れ ず 、 海 上 交 通 上 は 、 紀 淡 海 峡 を 乗 り 切 る 船 の 、 潮 待 ち の 場 所 で あ っ た ︶80 ︵ 。 湊 の 体 裁 を 整 え る の は 天 保 期 で 、 廻 船 も 入 津 す る よ う に な る ︶81 ︵ 。 た だ 、 史 料 5 に 有 る と お り 、 地 元 に 廻 船 業 者 は 居 ら ず 、 廻 船 拠 港 と し て の 地 位 は 高 く な い 。 漕 運 の 専 門 業 者 が 居 な い こ と か ら 、 物 資 写真 9 淡島神社の千度石

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輸 送 に は 、 漁 船 等 が 充 て ら れ て い る ︶82 ︵ 。 慶 長 十 六 年 の 加 子 役 浦 と さ れ て お り ︶83 ︵ 、 浦 継 押 送 船 負 担 の 前 提 を 課 さ れ て い た 。 加 太 に は 、 人 形 を 納 め る こ と で 知 ら れ る 、 淡 島 神 社 が 鎮 座 す る が 、 南 海 電 車 加 太 駅 か ら の 参 詣 道 の 途 中 で は 、 嘉 永 二 年 の 道 標 が 道 案 内 を し て く れ る 。 史 料 5 に ﹁ 諸 向 江 通 船 ﹂ と 見 え る と お り 、 こ こ は 、 か つ て 淡 路 島 や 四 国 へ 向 か う 人 々 の 乗 船 の 場 で あ っ た か ら 、 境 内 に は 、 文 政 十 三 年 に 堺 の 者 が 寄 進 し た 千 度 石 が 在 っ て 、﹁ 渡 海 安 穏 ﹂ と 刻 ま れ 、 往 時 の 船 旅 の 厳 し さ を 伝 え て い る の で あ る 。   紀 州 の 押 送 船 は 、 元 来 和 歌 山 と 南 紀 ・ 伊 勢 方 面 を 結 ぶ も の で あ っ た か ら 、 こ の 航 路 か ら 外 れ る 加 太 に 存 在 し て い た の は 意 外 で あ る 。 た だ 、 助 郷 負 担 の 掛 け 方 を 踏 ま え る な ら ば 、 雑 賀 浦 に 至 近 と 見 な さ れ 、 加 子 役 負 担 浦 で あ る の を 口 実 に 、﹁ お 手 伝 い ﹂ に 駆 り 出 さ れ る 場 面 が 有 っ た こ と は 、 想 定 し て お い て 良 い だ ろ う 。 重 要 な の は 、 そ の 船 が 、 本 来 業 務 か ら 転 じ 、 鮮 魚 輸 送 に 使 わ れ て い た 事 実 で あ る 。 背 景 は 、 和 歌 山 の 城 下 町 形 成 に 伴 い 、 鮮 魚 の 需 要 が 生 み 出 さ れ た こ と に ︶84 ︵ 、 求 め ら れ る と 推 定 さ れ る 。 需 要 は 幕 末 期 ま で 続 い た と い う が ︶85 ︵ 、 明 治 初 年 に な っ て も こ れ は 変 わ ら ず 、 史 料 5 の 記 述 に 繋 が っ た と 思 わ れ る 。 加 う る に 、 魚 の 発 送 ・ 送 付 地 は 、 加 太 ・ 和 歌 山 に 止 ま ら な い の で あ る 。 史料6 ︶86 ︵         本脇浦   善五郎印        三人乗   一私共作間稼 ニ生魚上方へ送り3 3 3 3 3 3 3 仕来リ候付、出船刻限難相計奉存候間、壱 ケ年限リ ニ    御鑑札御戴仕度奉存候間、何卒草々御聞済御座候様、宜奉願上候、以上      未五月         村役人衆中         ︵傍点胡桃沢︶

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  ︵後略︶   この史料に﹁押送り﹂の文言は見えないが、史料5とセットで伝えられており、押送船が使われていたのは確実 で あ る。 発 送 地 の 本 脇 浦 は、 加 太 か ら 和 歌 山 寄 り の 二 里 ケ浜 に 位 置 す る が、 注 目 す べ き は、 送 付 先 が、 ﹁ 生 魚 上 方 へ送り仕来リ候﹂と、明記されていることだ。これはすなわち、紀州の押送船のなかには、大坂へ鮮魚を運んだも のが有るのを、表している。和歌山周辺漁村の漁獲物を、上方方面へ送るのは嘉永頃からである ︶87 ︵ 。大坂へも押送船 に よ る 魚 輸 送 が 行 わ れ て い た こ と に、 驚 き を 禁 じ え な い が、 ﹁ 作 間 稼 ﹂ と 言 っ て い る か ら 副 業 で、 江 戸 を 目 指 し た 押送船と同列には見なせない。史料5・6による願い事は、船に対する鑑札交付である。鑑札は、伊豆で実見する こ と が 出 来 た が ︶88 ︵ 、 紀 州 で は 目 に し え て い な い。 史 料 5 か ら は、 そ れ 以 前、 無 鑑 札 の 者 が、 相 当 数 居 た の が 伺 わ れ る。押送船の余業使用は、その類だったのだろう。紀州の鮮魚輸送は、史料に遺りにくい形で行われていたと、考 えられるのである。   おわりに   今回の作業を通じて分かった最重要事項は、史料初見が正保二年だということである。前述のとおり、関東のそ れ が 貞 享 年 中 で あ る と す る な ら ば、 押 送 船 の 存 在 は、 紀 州 が よ り 早 い 時 代 か ら と い う こ と に な る。 関 東 の 押 送 船 は、実は紀州から伝えられたものである可能性が、浮上してきたのである。   仮にそうだとするならば、その前提は、荒居の指摘=近世初期において漁村・漁業が未発達だった関東への紀州 漁民の進出に ︶89 ︵ 、求められるだろう。注目すべきは、漁民と共に魚商も東へ赴き、江戸への魚流通の大半を担ったこ とである。例えば、伊豆網代の御木半右衛門家は、貞享年中に紀州から来て土着したが、享保年中には、押送船を

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三 艘 所 有 し て、 江 戸 へ 魚 を 出 荷 し て い た ︶90 ︵ 。 管 見 の 限 り、 網 代 の 押 送 船 の 史 料 初 見 は 宝 永 三 年 で、 ﹁ 押 送 船 八 艘 ﹂ と 記 さ れ て い る が ︶91 ︵ 、 宝 永 期 に、 伊 豆 で こ れ だ け 多 く の 押 送 船 を 所 持 し て い た 所 は、 網 代 以 外 に は 見 出 し え て い な い。 魚 商 = 押 送 船 の 集 結 地 だ っ た と 見 な さ れ る が、 か か る 史 実 を 目 前 に す る と、 ﹁ 押 送 船 は、 元 来、 御 木 半 右 衛 門 家 の ような紀州出身者によって、関東へ伝えられたのではなかろうか。 ﹂と、思いたくなるのである。   一般化をするならば、文化伝播の問題と位置づけられるが、これの検討が研究上の重要課題であるのは、交通史 学会大会でも説いたところである ︶92 ︵ 。押送船が、紀州から関東へ伝えられたものかどうかを検証する第一歩は、新宮 より東の紀伊半島東岸の調査ということになるだろう。もしも、ここから伊勢志摩にかけ、連続的に存在していた となるならば、渥美半島へ繋がって、東漸の可能性は一気に高くなるのである。 註 1﹃民俗文化﹄十五号   平成十五年三月 2﹃交通史研究﹄五九号   平成十八年四月 3﹃民俗文化﹄二六号   平成二六年七月 4﹁改訂船名集﹂ ﹃海事史研究﹄一∼七号   昭和三八年十二月∼四一年十月、 ﹃桜田勝徳著作集﹄第三巻に集録    昭和五五十月。 5﹃近世の漁村﹄   昭和四五年九月 6﹃和船﹄Ⅱ   一九九五年七月 7﹃近世日本の川船研究   上 ︱ 近世河川水運史 ︱ ﹄  二〇〇三年十二月 8﹃交通史研究﹄五九号十一頁

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9﹃桜田勝徳著作集﹄第三巻一六二頁 10﹃和歌山県史   近世﹄五三三頁   平成二年八月 11﹃近世日本海運史の研究﹄   平成六年四月 12   和歌山県内の自治体史では、押送船の解説の大半は、笠原が担当していると思われる。また、笠原の単著には ﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄︵平成五年二月︶が有る。 13﹃民俗文化﹄二六号五三頁 14   小山靖憲・笠原正夫編﹃街道の日本史 36   南紀と熊野古道﹄八五∼八六頁   二〇〇三年十月 15﹃和歌山県史   近世﹄十五∼十六頁 16   同右十七頁 17   同右二三頁 18   同右二九頁 19   同右二九・三六頁 20   同右五六頁 21   同右四七頁 22   同右四八頁 23   同右五五頁 24   同右五六∼五七頁 25﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄十七頁 26﹃和歌山県史   近世﹄二二八頁

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27   同右二二九頁 28﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄二三頁 29   同右十二頁 30   同右十五∼十七頁 31﹃和歌山県史   近世﹄二二九頁 32   同右一九五∼一九七頁 33﹃和歌山市史   第2巻   近世﹄一八三頁   平成元年三月 34﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄十八頁 35   同右第一章第四節 36   同右三〇七頁 37﹃近世の漁村﹄三二一頁 38   同右三二五∼三二六頁 39   同右三三六頁 40﹃街道の日本史 36   南紀と熊野古道﹄一一三頁 41﹃和歌山市史   第2巻   近世﹄六九九頁    ﹃和歌山県史   近世﹄五六一頁 42﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄第一章第四節 43﹃和歌山県史   近世史料   一﹄一一八三頁   昭和五二年三月 44   同右八〇七頁 45   安 藤 精 一 監 修﹃ 紀 州   田 辺 万 代 記   第 1 巻 ﹄︵ 一 九 九 一 年 十 一 月 ︶ 七 ∼ 十 頁 の、 雑 賀 貞 次 郎﹁ 万 代 記 及 御 用 留、

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田 辺 大 帳 の こ と ﹂ に よ れ ば、 ﹃ 万 代 記 ﹄ は、 田 辺 大 庄 屋 の 田 所 家 の 記 録 で、 文 明 三 年 か ら 天 保 十 年 に 亙 り、 現 存伝本は文化年間成立と推定される。 46﹃紀州   田辺万代記   第1巻﹄九一∼九二頁 47   同右二四二頁 48﹃近世の漁村﹄一八一頁 49﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄八三頁 50﹃和歌山県史   近世﹄一九七頁 51﹃和歌山県史   近世史料   一﹄一一八四頁 52   同右八三二頁 53   同右八三〇頁 54﹃紀州   田辺万代記   第2巻﹄四四四∼四四五頁   一九九一年十一月 55﹁川端﹂は﹁覚﹂の直前に記される﹁川瀬﹂と同一人物と思われるので、以下では﹁川瀬﹂に統一する。 56﹃和歌山県史   近世﹄五五九頁 57   笠原は﹁浦村からの注進は、海陸両面を利用しているが、伝馬継を重視した。 ﹂と述べている。 ﹃近世漁村の史 的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄八五頁 58   現在、番所跡は庭園として整備され、台場跡は県史跡となっていて、共に説明書が設置されている。 59﹃和歌山市史   第2巻   近世﹄六九九頁 60   鹿 児 島 藩 で は、 近 世 後 期 に お い て、 船 に は 運 賃 米 が 支 給 さ れ て い た。 拙 著﹃ 近 世 海 運 民 俗 史 研 究 ﹄ 二 一 四 頁   二〇一二年一月

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61﹃下津町史   通史編﹄一九四頁   昭和五一年三月 62   同右一九六∼一九七頁 63   社 団 法 人 和 歌 山 県 文 化 財 研 究 会 編﹃ 歴 史 の 道 調 査 報 告 書︵ Ⅶ ︶ ︱ 河 川 交 通 及 び 海 路 交 通 ︱ ﹄ 六 七 頁   昭 和 五 八年三月 64   同右六三頁 65﹃下津町史   史料編・下﹄四四六頁   昭和四九年七月 66﹃下津町史   史料編・上﹄六六七頁   昭和四九年三月 67﹃歴史の道調査報告書︵Ⅶ︶ ︱ 河川交通及び海路交通 ︱ ﹄六三頁 68   同右六四頁 69﹃下津町史   史料編・下﹄三六一頁 70﹃歴史の道調査報告書︵Ⅶ︶ ︱ 河川交通及び海路交通 ︱ ﹄六四頁 71﹃田辺市史   第二巻   通史編Ⅱ﹄四九∼五二頁   平成十五年一月 72   同右五二頁 73   同右五三∼五四頁 74﹁乍恐指上申返書﹂ ﹃万代記﹄六   ﹃紀州   田辺万代記   第1巻﹄二六七∼二六八頁 75﹃田辺市史   第二巻   通史編Ⅱ﹄一九四頁 76﹃白浜町誌   本編   上巻﹄三六二頁   昭和六一年三月 77﹃田辺市史   第二巻   通史編Ⅱ﹄一八九頁 78﹃近世日本の川船研究   上 ︱ 近世河川水運史 ︱ ﹄四二四頁

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79   明治四年﹁乍恐奉願上口上﹂ ﹁加太浦諸回船   通船御鑑札御下げ願﹂ ﹃和歌山市史   第6巻   近世史料Ⅱ﹄七六〇 頁   昭和五一年三月 80﹃歴史の道調査報告書︵Ⅶ︶ ︱ 河川交通及び海路交通 ︱ ﹄二九頁 81   同右三一頁 82   同右三五頁 83﹃近世漁村の史的研究 ︱ 紀州の漁村を素材として ︱ ﹄十九頁 84﹃和歌山市史   第2巻   近世﹄一八〇頁 85   同右六九六頁 86   明治四年﹁乍恐奉願上口上﹂ ﹁加太浦諸回船   通船御鑑札御下げ願﹂ ﹃和歌山市史   第6巻   近世史料Ⅱ﹄七六二 頁 87﹃和歌山市史   第2巻   近世﹄六九六頁 88﹃交通史研究﹄五九号十四頁 89﹃近世の漁村﹄三一九∼三二〇頁 90   同右三二二頁 91﹁網代村差出帳下書﹂ ﹃熱海市史資料編﹄四八四頁   昭和四七年三月 92   拙稿﹁越中ブリの製法と輸送﹂ ﹃交通史研究﹄八十九号三三頁   平成二八年十月 謝辞   現地調査に際しては、和歌山大学附属図書館・和歌山県立図書館・田辺市立図書館をはじめとする、関係各位か

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