運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言
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(2) 156. 小. 野. 三. 嗣. あると仮定しても,美化された教育目的が,果して原始的生命体としての人体の構造機能 を,どの程度変容せしめることが可能であるか否かについての洞察を持たずして,教育の あり方を論じることは出来ないと考えているo到達することが好ましいということと,到. 達し得るということは自ら別問題である。有史以来,多くの叡智ある人類が,人間社会の 福祉安寧のため血みどろの努力をつづけて来たと考えられほするが,そして少くとも文明 開化の水準が飛躍的に増大したという事実も明らかでほあるが,人間の本質が,構造機能 が,如何なる変革を遂げて釆たかを考えるとき,思い半ばにすぎるものがある。. 医学ほ,その進歩によって,逐次人体のしくみを明らかにし,疾病,不調の原因を明ら かにすることによって,病苦を予防し治療することに偉大なる貢献をしたが,人体そのも のを変えたわけではない。 スポ-ツが,その経験を基にし,或いほ科学的研究の結果を考慮して,トレーニング方. 法や生活を改良することによって,年々世界記録を更新して来たという事実を証拠として, 人体の構造機能を改良してきたと自負することほ許されない。 生命体に及ぼす環境作用,生命体が持っている環境形成作用のはか,無生物界に流れて とどまることを知らない物質の経年変化などの影響の大きさに比較すれば,たとえ我々人 類が,その努力によって幾らか我々自身を変化させてきたと認めたとしても,微々たる存 在にすぎない。 栄養法の改善が体格体型に影響を与え,薬物が疾病要因を除去する功績を樹立し,複雑 な人間関係が,或いは政治,宗教,教育,経済というような働きかけを通して,人間の思 想や思考形態を変貌させはしたかもしれないが,人間の本質的な生理機能や解剖形態ほ, 微動だにしていないと言った方が正しいようである。 我々教育にたづさわるものが,人間の教育のあり方を考えるとき,現在おかれている社 会的背景のみに目を奪われ,社会的要望に人間を適合させて行くという目的に急なるあま り,人間を社会に隷属させようとする愚を犯していることに気付かないとすれば,教育そ のものが根底から混乱してしまうと信じている。. 人間の生命現象の本態が,多くの偉大なる医学者,生物学老,哲学者,心理学者などの 積年の努力によって,少しずつわかりかけてきている今日,人体そのものが我々に教えて いる教育のあり方を,考えなおしてみる必要があるように感じられる。. 著者の専門とする運動生理学,その基礎となる一般生理学の知見を,担当する保健・体 育の領域を通して,教育全体のあり方にふれてみることにする。 まず保健・体育講座と称せられる概念についてであるが,必ずしも釈然としていない。. 保健学の主体が,学校保健,個人及び公衆衛生学,救急看護学,細菌免疫学或いは病理学 などによってしめられると考えれば,確かにそこにほ体育学と区別できる何かがあるよう. に感じられる。即ち疾病予防という消極的な面に力点を置いた学問であるという印象をあ たえるからである。. これに対する体育ほ,人体の動きを通して行なう教育であるという考え方から,積極的 に,身心両面の枚能を開発することを使命と心得ており一見異質であるように感じられ.
(3) 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 157. る。. 運動生理学ほ,運動が身体発育に如何なる影響を与え,身体機能をどう変化させるかと. いうことなギを知ることによって,体育の方法論が左右される可能性を持つという意味で, 明らかに体育学の一分野である。しかし一方においてほ運動生理学的知見が,時には運動 が疾病状態をひきおこしたり,或いほ逆に恢復を助長したりする働きを持っていることを 証明することになったりするという意味でほ,狭義の保健学の一分野でもあり得るわけで ある。. このように,元来運動生理学ほ,保健及び体育の両領域にまたがった,基礎的知識を与 えるものであるという考え方には殆んど異論の余地が無い。それにもかかわらず,敢えて 保健・体育における運動生理学の意義ということについて論じようとしたのは,運動生理. 学の新たな使命の翠明が告げられようとしているからなのである。 運動が,我々の寿命とどのように関連し,知能発達,人格形成に如何なる影響を与え, 精神構造にどんな投影をおこなうかということほ,すでに保健・体育の範噂をこえて,教 育全体の問題として研究されなければならない命題となってしまっている。教育生理学の Ratbkeに代表される17 分化が運動生理学を母体として胞芽を形成しはじめている今日, 世紀的教育の方法論にうき身をやつしているような印象をぬく小えない人々,或いほ純粋な 科学的立場を標模しながら,実は社会学的立場にふりまわされているような印象を与える, piaget的考え方に対するZaporojetz等の反論に興味を感じる人々に対して,再び人間性 の探究に目を転ぜよいと言いたいのである。. 我々にとって最も素朴な概念である健康ということでさえ,健康に度合のちがいがあり, それを評価する尺度があるかと問いかけられても,即答ほ出来ない。健康度という見方が, 果してすでに概念として妥当なものであるか否かという問題まで含めて,人間が示す生命 現象を直視しなおしてみる必要があると感じている。 著者は実験結果ならびに内外の諸文献を参照して,これらの諸点に言及しながら,運動 生理学的立場からみた教育のあり方について,若干の見解を披渡することにした。. ⅠⅠ.本. 論. 1)形態と機能とに関連して. 身体を構成する細胞には,容積と数との関係において2種額が存在すると考えられる。 1つほ容積が変化しても数の変化しないものである。その代表的なものは神経細胞と筋細 胞である。 Economo及びKoskinasは我々の大脳に存在する細胞ほ約140億であり,坐 涯を通じてその数は変化しないと言っている。即ち脳重量が400gから1400gになっても, その中に存在する細胞はその数を変化させることほ無いと言うのである。筋細胞ほ一般に 節線維と呼ばれるが,発育やトレーニングによって筋が強力になって行くのは筋線維の数 が増加することによるのでなく,一本一本の筋線維の太さが増大することによるものであ ると言うのは,. Petren,. Sj6strand等の報告によっても立証されており,先ず定説と考え.
(4) 158. 小. 野. 三. 嗣. てよいようである。. これに対して血液細胞のようなものほ明らかに対鋲的である。全体重に対する血液量の 割合ほ,少くとも同一年令では一定しており,血液の単位容積あたりに含まれる細胞数が 一定であるという知見ほ疑う余地が少い。たとえば成人男子の赤血球はその直径がクミク ロンで血液1mm3あたりの数ほ約500万であるとされている以上,身休の大きさに比例 して,その総数が変化していると言うことになる。 我々の身体の健康度を考える場合,医学的検査で疾病状態でないと言う判定を下す一つ の根拠として,たとえば血液中の細胞数が生理的範囲を保っており,生物物理化学的性状 が一定であることを挙げる。そして動物性官能の働きが望ましい状態にあるか否かを判定 することによって,健康的にすく、、れた状態にあるか否かを判断するということが普遍化さ れている。. しかし,この異質の二者における,それぞれの望ましい状態には本質的な差が認められ る。発育によって数を変化させない神経や筋の働きを,たとえば全身反応時間というテス トで把握してみるとき,. 0.5秒よりは0.4秒の方がよく,さらに0.3秒の方がより望まし. いという形になっている。生物体としての制約から,そこにほ限界が存在するものの,少 くとも望ましいという方向は一方向である。常に少い方がよいという原則には変りがな い。しかし一方たとえば単位容積の血液中に含まれる白血球数というものをとり上げてみ た場合,少なすぎるのも多すぎるのも好ましい状態ではなく,そこにほ好ましい範囲が存 在するだけである。. 1分間あたりの脈持数,呼吸数ということを考えてみるとき,前2例のいずれの範時に 属するかということを決定するのほ必ずしも容易でほない。スポーツ選手の平常脈が一般 人よりも少いというだけでほ,脈が少い方が健康的にすく小れているというわけにほいかな い。運動適応の状態があらわれているということを意味しているにすぎないからである。 脈持数は血球数と同じように,好ましい範囲を考えるのか,或いほ全身反応時間のように, 生物的限界に近づくという形で,より少い方が好ましいと言ってよいのかということにな ると,根拠となる生理学的立証が乏しいことを認めざるを得ない。. スポーツ心臓という概念はRouxの第一法則の動作性肥大にあてはまると考えられ,拷 久的運動を継続することによる必然的結果であるとする傾向が強いが,少くともBockが. 報告したClarence. De. Marの心臓所見は,我々にこの問題を再検討する必要があること. を感じさせる。 Baetbnerはスポーツ選手が肺炎をおこした場合,心臓死を生じ易いことについて,免 疫体を生産する結合組織が不足しているからであるという見解を発表しているが,少くと もスポーツ心臓そのものに大きな弱点があることもいなめない。心臓肥大と安静時心血流. の不一致が,心筋代謝の混乱をひきおこす可能性が推定できるからである。そうなれば少 くとも,いわゆるスポーツ心臓ほ,スポーツをするということに対する一つの適応の形と. して存在することは事実としても,人間が何時,如何なる状態で,どんな侵襲を蒙るかも しれないとき,これに対応する能力に致命的欠陥を伴っていることを意味するわけで,健.
(5) 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 159. 康的に好ましい状態であるということにほならない。 De. Marの心臓所見ほ,我々に高度の持久的運動の反復が,心臓肥大という反応の形で. なく,冠血流の改善という形で生ぜしめられるということを示唆している。これこそ健康 的立場からほ,極めて好ましい状態であると言えるのであって,いわゆる筋肥大の意味に. ついて,あらためて考えなおしてみる必要が生じてくるわけである。 T.. 四肢の筋力について,. Hettingerは生理学的横断面積1cm2あたりの力ほ4kgで,. 老若男女にかかわらず一定していると述べている。言いかえれば,節線維の太さだけが, その力の大小を決定しているのであって,質的差違ほ問題にならないという見解である。 四肢筋力の増大ほ,その肥大によってもたらされ,心筋作業能力は,同じように心筋肥 大によって達成されるのがスポーツの必然的産物であるという一脈相通じる見解が,少く とも過去におけるスポーツ界でほ常識であり,多くの運動生理学老は,それを当然とする 方向で所論を展開してきている。 しかし,実はそこにこそ,運動が必ずしも保健的に好ましいものでほないといわれる弱 点を内蔵していたのであるo筋運動量の変化が筋の量的変化と直線的に結びつくものでは なく,質的変化によっても対応しているという立証の不足が,運動処方の与え方を誤らせ, 効果判定を混乱させ,ついには運動の本質的な意味までも誤解させるに至ったのである。 握力と前腕囲との間にほ相当高度の正相関があるという報告に対して,筆者ほ最近20 -70才の女子450名について検査し,次のような結果を得た。 附表 年. 令. 右前 右. 腕 握. 囲 力. 右上腕皮脂厚. 女子の年令別前腕囲, 握力・上腕皮脂厚の関係 30′- 39. 40.ー49. 50ー59. 60-69. 23.1. 22.4. 22.3. 22.3. 22.3. 29.2. 26.6. 24.1. 22.5. 20.0. 20.8. 20.8. 20.4. 21.0. 17.8. 20-29. …≡)弓…287:.4:. 70以上. 表によって明かなように,女子でほ加令にともなって握力が低下して行くが,前腕囲, 皮脂厚に変化がなかったことを示している。即ち,おそらく筋線維の太さそのものにほ, 殆んど変化があらわれていないのに,筋力は逐次低下して行くということであり,先ず節 線維の質的変化が推定されるのである。 そもそも筋線維が,その梯能を高めるのに,線維肥大という方法でしか行なわれないと すれば,線維が血液或いは組織間液との問の物質交換という方法によって,代謝され,機 能が発揮されているものである以上,肥大にともなってその効率が低下するものと考えら れ. 比較的早く限界に到達することになり不合理であるともいえる。 しかし一方,動物界の原始的世界において,弱肉強食が鉄則であり,より速く,より強. いことが自己の生命を保存し,発展させる唯一の途であったという歴史的考察から,我々 の筋や神経を*・[Jとして営まれる運動能力の水準が高度になるはど有利であると,結論づ けるのも性急に過ぎる。運動が単に食物を得るための手段であり,また外敵から逃避する に必要なために備わった能力であるとしか考えなければ上述の見解も正当性をおびてく.
(6) 160. 小. 野. 三. 嗣. る。しかし,これらの諸問題は少くとも人間世界においては,人間の叡智の産物たる文明 開化によって,その必要性が極めて微々たる存在になりほてている。ほげしく動きまわら. なくても,食物ほ容易に摂取することが出来,自己の生命の安全性ほ,運動能力と無関係 な形で保障されている。 それにもかかわらず,多くの識者達によって運動の必要性が強調されるのは,疾病予防 という立場からの最小運動量という考え方,大脳皮質賦括系として筋緊張の役割,大脳皮 質の局在する話中枢の相互影響という立場からの人格形成-の参加,というような研究を 通して,運動は,実は個体保存の本能の一部となっていると信じられているからである0 運動が,元来は生物学的意味においての本質的生命現象であり,本能的なものであると するならば,より強く,より速く動くようになることは必ずしも運動本来の主旨ではなく, 言いかえれば筋線維の必要な太さに,比較的低い水準が用意されていたとしても不思議で はないことになる.即ち古代ギ1)シャにおける二大国たるスパルタ,アテネの身体鍛練目 的の対立において既にその原型がみられるのである。. 運動が人間性を完成するためのものであり,他の生命活動と最もよく調和されている姿 が理想的なものであるとする考え方をアテネ水準とし,より強くたくましくなることが健 康そのものの水準も高めることであり,生命現象の発展という意味からも正しく,その方 法にさえ誤りが無ければ,可能性の限界を追求することが理想であるとする思想をスパル タ水準としよう。そのいずれをとるかによって,我々ほ,おそらく筋線維の発達という問 題についても,相対立した見解を打出さざるを得ないと思われる。トレーニングによって 節線維が肥大し,その肥大に比例した筋力の増加が見られる形が,丁度小児のそれが発達 して行く経過に相似しているとき,言いかえれば形態と機能が相伴っていて,質的変化を 要lない範囲の変化がアテネ水準に対応するものであると考える。その上に更にトレーニ ングをつみ重ねて,筋線維の質的変化をよびおこすことによって筋力をたかめるという段 階をスパルタ水準とするわけである。 人間をスパルタ水準に到達させることによって,運動能力や競技能力を高めることが可 能であるという理由だけでは,それが人間性の完成という点で,より好ましい状態であり,. 健康度がすぐれているというわ桝こほいかない。そのような高度のトレーニングに堪えな ければ人間本来の生命活動が理想の型に入り得ないとする証拠は無いように思われるので ある。体重の40%を筋肉がしめているより,. 45%をしめている方がよく,さらにに50. %なった方がはるかに好ましいと考えるより,筋占有率には適当な比率が存在すると考え た方が合理的であると同じように,節線維が血管からの栄養補給の限度にまで肥大した状 態で,その形態的発達をとどめる方が,生理的であるとした方が考えやすいように感じら れるのである。. その筋線維肥大の生理的限界点にまで達した時の代謝関係を,長期間にわたって不変に 保つことが,筋線維の若さを維持するための必要条件であり,方法としては必要運動量 の確保という唯一のものがあると考えたい。この最小運動量が確保されない場合,実は Rouxの第二法則において強調されたような,形態的な不動作性萎縮という形より先に,.
(7) 161. 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 形態的なものほ維持されながら,節線維の質的変化を惹起させることによって,その磯能 のあらわれである筋力の低下がおきてくると思われるのである。即ち一般の老化のあらわ れほ,形態的よりほ,むしろ棟能的なものが先行しており,形態的なものだけでも維持し ておこうとする組織細胞の努力が,老化に対する一つの抵抗の表現であると考えたいので ある。. 一方トレーニングによって筋線維肥大が生じる場合,必ずしも生理的限界点にとどまら ず,いわば病理的状態にまで大きくなる(以下そのような状態を拡大とよんで,生理的肥 大と区別することにする。即ち内容のともなわない形の上でだけで大きくなることであ. る)可能性について考えておく必要があるo安静時血流から酸素や栄養素が何等かの方法 で充分に到達できる範囲をこえて,筋線維が拡大されて行くとき,そこには検能のともな ゎない形態の増大が観察される。充分にトレーニングされた重量挙選手で・皮脂厚や骨直 径の修正を行なった推定筋断面積と筋力の相関関係がそれほど高度でないのは,神経筋協 応能の差違のほかでは,この-んにも一つの原因がひそんでいる可能性があるo. 少くとも心筋線維の場合は,既に述べたように,過度の不合理なトレーニングが,病理 的な拡大をおこす危険性があると考えられ,理想的なトレーニングがなされた場合は,坐 理的肥大の範囲にとどまっていると見られるように感じられるo. 以上述べたように人体を構成する組織細胞ほ,刺激に対して,その数を変化し,形を変 化し或いほ質的変化をとげることによって,これに適応して行くというちがいがあること が考えられる。もちろんこの三種の変化が時には2つ或いほ3つが相伴なっている場合も ぁり得る。そして数の変化が中心となっている組織についてほ従来から多くの知見が得ら れている。これらに対して,運動機能を司る神経,筋については比較的,知られているこ とが少い。ただ神経ほ骨格で保護されているという所在の関係から,形態的変化があった としても少く,おそらく働きを質的に変化させるという方法で適応性変化をとげているに 違いないとほ推定されている。 そして筋でほ,前述したように形の変化と質の変化の両者があるが,それぞれ異質の生 理学的意味を持っていると考えたいのである。. 骨格筋は心筋よりも,ほるかに速く,強い収縮を行なわなければならないという使命の 相違のために,骨格筋線維の生理的肥大の限度ほJL筋のそれよりもはるかに高いというこ とほ考えられるが,一定の生理的範囲をこえたトレ-ニソグ刺激が加えられた場合,筋線 維の周囲の条件を変化させて,筋線維そのものは生理的限界状態に保とうとする働きが生 じるが,これらのしくみに破綻が生じると病的拡大がおきると考えることができるように 思われる。. そして筋線維の環鏡条件が高度に変化させられると,線推そのものの内容としての質的 変化をひきおこし,一般に到達できないような高度の能力を備えることが可能となるoた だし,このような,生体組織ができるだけ多く筋線維の能力を高めるための方向に動員さ れてくるという状態が,果して保健的立場で,より望ましい姿であると決定するためにほ, 我々ほ更に多くの研究を積み重ねる必要がある。.
(8) 162. 小. 野. 三. 嗣. それと同時に,機能が形に応じる条件を決定する大きな要素として,その組織の素質を 問題にするという立場が存在するo身体全体の体型として頻用されるローレル指数に従っ て,運動能力,保健指数をあげてみる場合,望ましい範囲が存在することが確認されたか らと言って,すべての人間が,そのローレル指数範囲に集中しなければならないとほ言え ない。範囲から逸脱した指数を示す個人にとって,それが好ましくないと判定してよい確 率が高いと言うことほ出来ても,安易な断定を下すことほ,角を矯めて牛を殺す危険性が あることを示唆している。現在の医学界における未解決の分野の一つである体質という問 題は,統計処割こよって得られた資料を利用して個人を指導することに,無視し得ない制 約があることを示している。. 形態が機能と必ずしも対応しないということのほかに,形態が健康という概念に関連し て持ち得る意義について,画一性を排する資料を得て行くことが,今後の運動生理学に課 せられた重要な宿題の一つである。 2)随意機能の生理学的二重構造について 心臓に対して交感神経はその活動を促進するように働き,副交感神経は全く反対の作用 をあらわすことについては古くから知られているo胃腸,厨朕,体性血管,心冠状動脈, 瞳孔など,いわゆる不随意器官と称せられるこれらの器官系統においては,交感,副交感 のいずれが促進的,いずれが抑制的であるかの違いはとにかくとして,自律神経の相反す. る二重支配を受けているという事実は,心臓におけると同様である。 このような植物性官能における,不随意的二重構造は,生命が動的平衡状態(Ⅲomeostasis)の上に完了されているという恒常状態を理解するのには極めて首肯し易い概念であ るo外的環境の変動に対して,内部環境を不変に保とうとする仕組みほ二方向の調節系に よる方が有利と考えられるからである。体温を一定に保とうとする時,熱放散系は一定に. Lておいて,熱産生だけを調節するよりは,両者を同時に調節した方が,恒常状態に一定 の幅をもたせるのに好都合であることほ自ら明らかである。 しかし,これが随意運動系における仕組みということになると,必ずしもその理解ほ容. 易でほない。速く歩こうとする時,体内でほ遅く歩かせようとする仕組みが関与し,強い 力を出そうとするとき,その力を弱めようとする働きが共存していると言っても,にわか 身こほ信じ難いからである。. 肘関節で前腕を屈曲させようとする時,大脳皮質運動嶺の当該中枢の興奮が,遠L催伝 導路を通り,運動終掛こおける刺激伝達を通じて上腕二頭筋に収縮を起させようとする働 きだけでは,合目的な運動が生じないというのである。上腕二頭筋中にある感覚終末であ る筋紡趣から,求心性経路を通って中枢に伝えられる感覚路を切断してやることによって, 全く無傷な効果器-の情報が混乱するという事実ほ,後根を切断された犬の下肢筋におい て実験的に立証されている。 Pavlovの条件反射学的知見によって得られた大脳における促進と抑制というしくみが, 汎化及び分化という,一見相反する現象を,たくみに調和させる基本的な形であることが 判明してから既に久しい。そしてこのような現象には,少くともグルタミン酸系の物質と.
(9) 163. 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 考えられるマイナス物質とプラス物質の量的関係が何等かの形で関係しているに違いない という見方が林等によってなされている。 しかもこのような促進と抑制というような現象は,人間において特に発達していると見. られている新皮質など,いわゆる高等な精神機能がやどっているところに特有な現象でほ なく,ノイロンの接合部であるシナプスー般にみられることであることほLloyd. (1945). 以来の研究によって明らかにされている。. 最大筋力の何%かに相当する強さに,力を調節して出すというような場合,この両面の 調節性が関与するだけならば,比較的理解が容易であるが,最大努力の時,全力を集中し なければならない時においても,このしくみが必要であるという点が,運動生理学の範噂 を超越し,教育の本質にふれる問題として取り上げなければならない重要性が内在してい るのである。. 著者ほ先に聴覚連続反応時の実験を行ない,強化された特定周波数に対してほ,反応暗 が明らかに短縮されるのに,周辺周波数に対してほ,全く影響を与えないか,時にはかえ って反応時を延長させるような方向に働くことを報告している。しかもこの効果ほ,刺激 が与えられる時間が長ければ長いほど持続することが認められた。このような事実は flartline. (1957)によって,カブトガニの網膜で最初に発見された側方抑制と対応してい. る。いずれもノイロソ間の抑制的干渉作用により,感覚を鋭くするのに役立っていると考 えられている。このように聴角系,視覚系などの感覚系で発見された相互抑制が,体制感 覚系にもみられるに及んで,今でほ先ず全感覚系に同様なメカニズムが存在しているもの と信じられるようになった。皮膚の1点からインプルスを受ける皮質ノイロンなどが,そ の周辺の皮膚から抑制的影響を受けるという意味でよばれる周辺抑制という概念は,感覚 系の相互干渉作用を一般的に説明するのに好都合である。 ここで著者は,この周辺抑制という概念が,同一感覚系内に生じるだけでなく,異種の 感覚にも類似の現象がみられることと関連づけて考えてみたい。即ちPe6n等が実験した, 注意を集中するというような精神活動にもみられるという事実である。ネコの聴覚神経路 である嫡牛核からの誘発電位が,音を聞かせるという連続刺激の最中に,ネズミに視覚的 注意を集中させるという手続をとるだけで消失してしまうという結果ほ,このような抑制 現象の広範囲のひろがりを推定させる手がかりになる。 脊髄反射が上位脳の働きによって抑えられているということを立証した除脳固縮,錐体 外路運動系の障害の1つとしてあらわれる,高運動具緊吏症の塑である舞踏病などは,戟 々の随意運動系もそれぞれ独立した系でほなく,相互に影響されあうノイロンの干渉作用 に強く支配されていることを証明するものである。 そしてさらに感覚刺激から運動へという反射,反応は確かに生得のステレオタイプのも のがあるほかに,条件づけの行ない方如何によって,本来全く無関係であったもの同志さ え,強固な因果関係として結び付けることが可能であることが見出された。 またこのような一連の基礎科学的知見を離れた,現実の人間観察結果の種々相ほ,我々 が教育を生理学的に考えようとするとき,さらに決定的な具体的資料を提出してくれる。.
(10) 164. 小. 野. 三. 嗣. 日夜運動だけしか行なわず,運動に関係する諸中枢を活発に活動させるということに専念 し,記憶,理解,判断などに関する中枢を殆んど刺激しないような生活を,長期にわたり. 反復継続した場合,大脳活動に回復不能の偏りが生じると考えてよい症例が少くないので ある。この際の記憶,判断等の能力低下を,単なる不使用,即ち廃用性萎縮という概念で 理解しようとすることには反対である。むしろ積極的な周辺抑制的な作用が働いた結果で あると考えたい。そして,ここで最も重要なる点は,抑制がある限界をこえた長時間連続 的に作用した場合,その抑制効果が永続するが,抑制の作用時間が生理的限界内にとどま. った場合ほ,抑制解除後かえって著しい棟能克進をおこすと見られることである。 このような考え方を提唱する根拠として,先ず著者等の行なった二つの実験事実につい てふれてみたい。一つほ前述した聴覚連続反応時の実験で得られた知見である。 150サイ クルの音を連続的に聞かせておいて,. 150サイクルの信号音に対する連続反応時を検査し. てみると,反応時間が逐次延長して行った。この際60分ほどで反応時間ほ延長しなくな りプラトーを形成した。そこでそのまま120分まで10分毎に検査を反復したが,さらUこ 延長したり,快復しようとしたりする所見があらわれなかった。ところが,ここで500サ イクル音を聞かせることを中止し,同じように150サイクル音に対する反応時の消失を換 査して行なったところ逐次恢復する症候があらわれ, 20分後にほかえって実験開始時の 反応時より短い反応時が得られるに至ったのである。. もう一方の事実ほ,筋力トレーニングの際にみられた。いわゆるス-/i-コンペンセイ ショソ効果である。背筋力のトレーニング実験で, 3週間のトレーニング期間終了後の1 週間目の筋力測定の結果は,トレーニング期間中の筋力最高値よりも,明らかに大きな値 を示したのである。このスーパーコンペソセイション効果が生じる本態についてほ殆んど. 明らかにされていないが,現象的にみた急速に強度のトレーニングを反復する場合に生じ 易いということ,動的よりも静的なトレーニングの場合に生じ易いことがあきらかにされ ている。. 対象が感覚能であるか筋収縮力であるかのちがいほ存在するが,反復刺激に対する慣れ, 或いほ疲労現象の見られたその後,インタクトの状態に放置しておくと,恢復課程が開始 され,一見しで院復しすぎたという感じを与える結果となっている点,共通する過程が内 在していると考えてよいような気がする。 抑制解除後の機能克進を最高度に利用するという原理が,合理的にスケジュ-ルされた 「良く遊び,良く学べ+理論であると言えそうである。遊びに関係ある諸中枢の促進的に 働いている場合,その周辺に存在する学びに関係ある諸中枢ほ抑制的影響を受けていると 考えられる。それが遊びのプログラムから学びのプログラムに切り換えられることによっ て,学び自体の克進過程の開始という方向の上に,この抑制後効果としての反動的克進が. 加わることによって克進度が倍加することになると推定されるのである。 このような生理的棟能を逆説的にみれば,人体を構成する諸組織細胞ほ,適当な抑制が. 加えられることによって,それが本来持っている能力を最高度に発揮することができると 言える。即ちその細胞が全く自由な状態に放置された場合,抑制を受けることのみによっ.
(11) 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 王65. て引き出されてくる機能が開花されずに終ってしまうと言いたいのである。 一個の細胞についても,このような抑制的刺激が,その細胞の機能を克進させるた捌こ. 必要であることをのベたのであるが,これが人体という有機体全体のまとまりの中の1個 の細胞となると,さらに異った観点が必要となってくる。. 4個の部屋をもっている心臓が, 洞結節というペースメーカーのもとで,健全なる刺激伝達系を介する適正なリズミカルな 刺激を受けることによって,ほじめて血液を全身に循環させるというJL、臓本来の使命を全. うすることができる。心室自体ほ洞結節の持っているリズムとほ異った固有リズムを持っ ているのであるが,もし心室が刺激伝達系の命令を拒否し,おのれが所有するリズムを固 執して活動したと俊足すると(Adamstokesの疾病症状として実際におこり得る),血液 を円滑に循環させるという心臓本来の使命は達成できなくなり,生命が危胎に頻すること になる。. 随意運動である我々の歩行ほ,いっ如何なる時点でも,自由な意志に従って行動できる と言えそうな気がするが,神経系の統合作用の一つである相反性支配のしくみによって, ある筋群が収縮する場合,これと括抗する筋群は充分に緩解していることが必要である。 また血流の円滑な補給という条件がみたされない限り,如何に強烈な欲求があったとして ち,早晩歩行が不可能となってしまう。. また一つの細胞の機能として考える場合にはその高まりがさらに高度の水準に達するこ とができるという細胞でも,人体を構成する細胞という条件が附与されると,その水準に まで機能を高めることが許されないということがある。人体の中で,その細胞が占有し得 る場が,その細胞自体の発達の可能性の中に比較的水準の低い状態に,とどまることを要 求されることが珍らしくないo. 1個の細胞の自己主張が過度になると,人体全体としてほ. 疾病状態になることほ,多くの病理学的研究によってうらづけられている。多くの人々を. 恐怖におとし入れ,必ずしも有効適切な対抗手段が見出されていない癌腫もその例であ る。そもそも癌の細胞の1個1個についてみれば,もともとその部位に存在する上皮細胞 であり,特に異質のものであるわけでほないと言われている。それが何等かの原因によっ て(現在でほ充分には証明されていない),発達力の旺盛な若々しい形になる。この幼君型 の細胞ほ,元来おのれの仲間が占めてきた生理的存在領域にとどまっていることが出来な. い性質を持っているo存在すべく許された空間に限りがあるにもかかわらず,自己と同様 な未熟な細胞をどんどんつくり出す。そしてもともとは同族である成熟細胞を押し除仇 さらに他人が占めている領域までも容赦なく侵入し,時にほ,淋巴などを通して遠くの地 点へまで自己の勢力範囲を拡大して行くoところが,元来が自己主張だけが強い細胞で, 他の組織との共存共栄を考えようとしない細胞群であるので,結局ほ自分自身を生存させ るための血流などの応援を求めることが出来ず,せまいところであまりにも多くの細胞が ひしめきあうためついには自壌作用をおこしてしまう。毒素を産生し,全体としてまとま. つた働きをしめさなければ生きて行くことの出来ない人体そのものの生命を奪い,己もと もに死滅する運命に立至るわけである。. ここで観点を変えて,精神異常者の発生ということを考えてみたい。三木等の調査によ.
(12) 166. 小. 野. 三. 嗣. れば,精神薄弱児は小学校4.53%,中学校7・2%であり,塙界線児ほ小学校8・9%。中 学校11.4%であったという。小学校よりも中学校に行くに従って増加するように見られ. る傾向,しかも中学校でほ20%近くの生徒が精神薄弱児であるという事実を直視する必 要がある。その原因を考察するためにほ,実態を更に分析的に見なければならないという Minkowskiほ精神分裂病の各型を追究して,外見上全然 意見もあり得ると思われるが, 相異なる種々の臨床型があっても,それは根底に構わる同一の病的過程の偶然的表現に過 ぎないという見解もあり,本質的な重要性ほ無いと考えられる。それよりも著者が重大な 関心を寄せざるを得ないのほ, Zilboorgが歴史的事実として精神病の増加傾向を指摘し, その原因として「なぜならば人間の心理生活ほ最大限にひろがり,社会的統一体の活動的 なメy/ミーとしてのそのあらゆる知的な潜在能力を発揮するようになるからである+とい うFreudの意見に同意していることである。そして彼等は「これらの疾病は,人間がそ. の力の絶頂に達し,やがて人生の循環に従って幼年時代の弱さにつれ戻されない限り減ら ない+と喝破している。. しかL少くとも現実の教育者である我々にとってほ,このように運命論的に達観し,症 して大河の流れを見過しているわ桝こはいかない。. 本来抑制されなければならない潜在能力のすベてが,生理的限界をこえて引き出される ことが精神病をひきおこす誘因となるという意見は,極めて説得力がある。すべての組織 細胞は,己が所属する有検体の中で,共存するための調和がほかられることなくして,坐. 理的状態を保つことが出来ないとした,癌の病理的観察結果がここでも適用されるのであ る。克進と抑制との両面を持つことが,教育方法の原型であることを強調しておく。 3)プラクティス効果及びトレーニンゲ効果を中心とLて 本論文でほプラクティス効果を神経機能を中心としてあらわれる学習効果,トレーニソ. グ効果とほ筋肉を主たる効果器としてあらわれてくる練習効果のことであるとしておく。 中枢神経系の形態学的所見から生理学的早産であると言われる人間の場合,ノイロンの. 結び付く/くタ-ソがほぼ成人のそれに近付くのほ生後3年であり,その後の7年で構造形 態的発達のほぼ・90%を完成してしまうと信じられているのほScamonの発達曲線など で示されている通りである。. 棟能的な発達という面でも,ほぼ同傾向の成績が得られており;例えば我々ほ光単純視 覚反応時を検査して11才から16才頃までの間にほぼ最小の値に達してしまう指数函数 的発達曲線を知っている。. このような事実を背景として,最近の体育関係者の間には,プラクティス効果に主焦点 を合わせる早教育を奨励する声が@,済として高まりつつある。勿論10才以前の幼若期に プおいてほ,著者等の研究によっても,四肢筋力が極めて劣弱であり,. 13-14才弓削こなっ. て始めて急速な発達を示すものである以上,早教育にトレーニング効果を期待するのほ危 険であるとする見解には一理がある。また幼児にトレーニング効果を期待してほならない. という意見として,筋肉を強化すると,骨の発育に悪影響を与えるという意見も一般に支 持されている。しかしHettinger等の研究から,著者としてほ,トレーニングされない.
(13) 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 167. 方が好ましい年令でほ,被トレーニング性そのものが少いため,相当高度のトレーニング を行なったとしても,骨の発育を阻害するほどに筋が発達する可能性ほ無いと考えてい る。. 従って幼若者の体育プログラムを立案する場合,特にトレーニング刺激にならないよう にと配慮する必要はないと言いたい。健康な正常小児では,加えられた運動性疲労の快復 能を含めて,彼等が自発的に欲する運動を充分に与えることによって,彼等自身の生命現. 象の発展を阻害しないような能力が備わっていると思われるのである0 但しこのような神経麟能の形態発育の過程を,プラクティス効果が各ノイロンの樹状突 起の発育,ノイロン問のシナプス形成,或いほノブにおけるRNAの蓄積というような量 的過程や,神経細胞を栄養する豚細胞の発達などと関連づけてプラクティス効果を直接的 に説明することには些かの抵抗を感ぜざるを得ない。. いわゆる記憶力は神経組織の形態的発育が盛んな時期に最も旺盛であり,構造的に完成 してしまった成人期以降においてほ逐次低下して行くものであるという考え方は,たとえ ばRNAの蓄積というような物質変化が,記憶のしくみと直接的に対応しているという見 解などに符合するかもしれない。しかし最近ほ,記憶力自体が成人期以降に特.に低下す るという意見に批判が向けられている。筋力においてnormal. strengtbの状態の方が の状態よりもトレーニング効果が出やすいと同じように,知識欲の旺 盛な未熟な大脳の方がプラクティス効果が大きいとしても異とするにはあたらない。しか trained. strength. し,だからと言って成人期以降において記憶力が低下するという積極的証拠とほなり得な い。筋がEnd. kraftに到達するよりも,はるかに高い水準に知識を高め得るという事実. のほかに,成人期でほ記憶に力を集中する時間が足りないた捌こ,一見してその機能が低 下したように見えるだけであるという意見がある。即ちその置かれた生活環境が記憶のた. 捌こ力を集中することができるように整えられていさえすれば,相当の高年令着でも,強 い記憶力を発揮することができるというのである。 これらの見解ほ,著者をして,. 「特に記憶力を必要とするものは幼君期に集中しなけれ. ばならない+という意見に批判の目を向けさせるのに充分である。しかしながら一方,現. に行なわれている,考える力,批判する力も幼君期から養成しなければならないとする。 教育にほ賛成できない。即ち小児が大人の原型であるような意見に基く教育が行なわれて いることに賛成出来ないのである。小児の生理現象は大人とほ全く異質のものであるだけ でなく,同じように幼児と言っても,. 1年の年令差も,ゆるがせにすることの出来ない差 違を生じるものであることほ,多くの生理学老,小児科学者によって既に証明されてい る。. 考えたり,判断したりする資料が乏しい小児の頭脳に,思考や創造の訓練を施してやり さえすれば,成人になってから思考したり創造したりする能力が高まると考えるごときほ, 最大力の60%の重量を持ち上げるトレーニングをすると,. 技能が高まると考えるようなものでナンセンスである。. 100%重量を持ち上げる時の. 60%の重量の時の筋放電′くターン. と100%重量の時のそれとは全く異っているので,技術的なトレーニングとして殆んど無.
(14) 168. 小. 野. 三. 嗣. 意味であることについては,既に著者が重量挙選手で証明してあるo それどころか,乏しい資料で無理に考えたり,批判したりさせると,貧弱な′くターシが 形成されてしまい,成長するにともなって得られた豊富な資料を縦横に駆使しようとする 際の障碍になる可能性さえ感じられるのほ,低重量の反復トレーニングが筋運動の労働化 をおこし,能力の発達を阻害する様子に似ている。 それと同時に発育の子供達の示す知能の発達度を・常に与えた教育によるものであ・り,. プラクティス効果によるものであると考えることの誤りを考える必要があるo. Cruzeが行. ・なった,にわとりのひなのついばみの学習効果と成熟効果の異同についての実験は,発育 途中の練習による成果ほ,成熟効果にカバーされてしまうことがあることを立証したo生 後第1日目から7日目まで毎日試行錯誤をくりかえしながら到達し得た練習効果で考えら れた事実が,実は全く練習させない生後7日目のひなの能力と大差が無いことが確認され たわけである。勿論このような成熟効果が学習効果よりも強いという働きほ,動物が下等 なほど強いとされているので,このような形が,そのまま人間にあてほまると考えている わけではない。. しかしながら,何んな教育も,一日も早く開始した方が有利であり,スタートの遅れを とりもどすことほ出来ないと考える傾向を持つ人々に対して,反省をもとめる資料とほな り得ると思われるo神経系の成熟が,学習を受け入れ易い状態にするという意味を持って いる以上,早ければ早いほど良いということにはならないはずであるo成熟の過程で行な. ゎれる初期学習は試行錯誤や条件反射的反復によってなされる性質が強く・成熟が完成し てから行なわれる後期学習とほ異質のものであるということで早教育を重要視するという 考え方にも賛成することは出来ないo少なくとも人間の初期学習には,いわゆる後期学習 の特徴と言われる吉葉や概念によるものも少なからず含まれているからであるoただ条件. 反射的なものと,疲念的なものとの量的割合が異っているにすぎないと思われるoしかも この初期学習過程と後期学習過程が・脳そのものの形態的発育過程或いは擁能的発達過程 †に対応して,継時的な区切りを持ち得るような見方には全く同意し得ないのであるo ただ筋系を中心とするトレーニング効果が13才頃から急速に増加してくるのは,第2 次性徴開始にともなうホルモン効果,たとえば蛋白同化作用の強いテストステロソなどの 影響によることは明らかであるので,その結果による継時的な質転換を考えることは容易 である。従って神経機台巨を中心とするプラクティス効果が,たとえば初期学習と後期学習 というような質的変化をとげなければならないとすれば,神経機能は筋と密接不可分の関 係を持っているという事実を中心として考えてみる必要がある。 Magounの脳幹網様体から大脳新皮質-向う意識の水準を高めるための賦活系にしろ, 或いほGellhornの視床下部から旧皮質,古皮質に影響を与えて行くと考えられる賦活系 にしろ,骨格筋の緊張と無縁でほないからである。 すべての筋緊張を緩解するときに睡眠を誘発し,筋の緊張をたかめることによって目ざ めさせることが出来るという事実を,新皮質,大脳辺縁系の記憶の座と考えられる側頭葉, 海馬の活動と対応させて考察するとき,筋の発達程度の記憶の座の活動に関係を持つと考.
(15) 169. 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言 えることが許されるはずである。 未成熟な幼児ほど睡眠時間が長いが,脳の発育が旺盛な時期には睡眠時問を長くしなけ ればならないのだと考えることにほ異論がないはずである。そうするとできるだけ睡眠時. 間をながくした方がよい時に,脳を目ざめた状態において置くのに必要な筋肉が発達しす ぎることほ,脳の発育を阻害する可能性があるという推論もあり得ることになる。筋肉が 強くないということは,筋緊張を長時間にわたって持続できないということであり,同じ 仕事量に対する筋疲労度が強く,短時間,こまぎれの緊張,援解を反復しなければならな いことを意味しているからである。. こう考えてくると,思春期を一つの階段とする大脳活動様式の変化を推定することを,. ぁながち強牽附会の所論であるとほ言えないはずであるo初期学習的しくみ力強春期以前 に特に強く,後期学習的しくみが思春期以降急速に発達しなければならないと考えたらど うであろう。そしてこの後期学習をささえる,吉葉或いほ概念による教育が,同時に判断, 理解というしくみの発動を強化し,推理,独創というふうに発展させられるのが正常のパ ターンであると考えたい。その方が現におこりつつある現象を理解し易いのである. ただし著者は初期学習と後期学習を対立した形で論じるのでほなく,後期学習は初期学 習が積みあげられて生じてくるものであると考えている。成熟を完了したから試行錯誤や 条件反射的反復が行なわれ難くなるのでなく,知識が豊富になったという事実と,連合領 が発達し,神経系の統合作用が完成してきたことによって知識の中の差違や矛盾を感じる 土とが多くなり判断や思考が複雑になると考えたい。 即ち豊富な知識内容が試行錯誤をためらわせ,無意味な条件反射的反復を拒否するよう にさせると言うことを想定するのである。即ち前述したことに関連してくるが,脳が解剖 学的な発育をと晩成熱をとげたと思われる年令に達したとしても,記憶のセンタ-を働 かせ,集中したり,反復したりすることが可能な状態におかれている限り初期学習の能力 が旺盛な形で保存されると考えている。勿論現実の問題として,外国語や舞踊を覚えると いう言語や運動技能の学習ほ幼児期の方が遥かに容易である以上,初期学習に最適な年令 が幼君着であるということを否定しようとするものではない。ただ後期学習と言われる言. 葉や概念による学習が成熟後であって,幼児期にほ存在しないというようなイメージを与 える用語,或いはそのような用語が発想された背景を問題にしているのである。初期とか 後期ではなく,併行的に発達ほするが量的な割合に変化がある,二学習過程としておきた い。そしてこの二過程いずれの方法にせよ,記憶された知識の量が豊富になればなるほど. (質的な容量に対して) 新しい記銘が減少し,忘却が増大すると考えられるょ しかしいずれにせよ,. この学習のしくみそのものについて論じること自体ほ,必ずしも. 本論文の主旨でほない。. 学習が可能であるからという理由だけで,いくら学習させてもか. まわないという考え方,. できるだけ早期に多くの学習をさせた方がよいという思潮を生む. に至ったことに通じると考えたため,敢えて学習の過程のとらえ方を強調したのである。 学習するというしくみ,記憶,理解,判断ということに関係するセンターのしくみだけ に焦点をあわせた研究が,健全な人間,健康な大脳の発達ということに誤りをおかさせる.
(16) 170. 小. 野. 三. 嗣. 危険が無かったかと考えたいのである。記憶するというしくみの中に,記憶のしかたを抑. 制して質的変化をおこさせるというしか伽ミ内在しているという考え方を,前項で述べた 中枢神経系内部の促通,抑制ということに関連づけて考えたいのである。 記憶力のすぐれたものという言葉の中にほ知識が豊富であるということと殆んど同意語 であり,忘却度が少いということも含んでいると考えられる。即ち初期学習的な能力を意 味しているo入学試験ほ結果的に,大部分記憶力テストとなっている今日,入学試験の勝 者とほ,他の一切の能力を犠牲にしても,記憶力を高めたものという見方も成り立つ。記 憶の中枢だけが強化され,他の中枢が反比例的に抑制されたものと言いかえることができ. るo即ち他の中枢の活動をおさえることによって,記憶の中枢だけを活発にさせ,その機 能的容量を拡大することによって初期学習能力を,大学入試の年令にまで持たせることに 成功したものが,入試の最終的勝者であるとするのであるo初期学習的な効果には忘却の. 比率が少いということほ,その知識が記銘されることを意味すると同時に,容易に出入す. ることによって記憶の頃跡だけを,しかもかすかにしか残して行かないような後期学習的 な内容の入りこむ余地を少くさせていると言えるのではないだろうか。通りすぎて,何が しかの効果しか残して行かないような学習が制限されることによって,特定内容の知識だ. けが記銘された脳でほ,思考の範囲が自ら限定されてくると考えるのを不穏当と言えるで あろうか。入試のように記憶された知識の量にたよるような競争でほ,逆向抑制の影響を 受け易い後期学習の型によるよりも,忘却することが少く,記憶の変容を受桝こくい初期 学習的効果に期待した方がよいと考えられるではないか。. 特に初期学習の優越が未成熟な脳の学習の型であり,後期学習的パターンが形成される のが成熟脳における正常型であるとするなら,脳の解剖的成熟が完了に近づきつつある大 学入試時まで未熟型脳における学習を温存するのに成功した老が,大量に入学することが 予想され,大学ほ異常型未熟脳所有者の氾濫を迎えることほ必至である。 シナプスにおける刺激伝達に強縮刺激後増強がみられることから,使用,不使用に,よる 伝達能の変容が証明されることなどにより,未熟な単純な閑回路しか使用しない脳では, 思考の限界が極めてせまいものになるであろうことは想像に難くない。. 人間の脳が,成熟の経過に応じて,各中枢部位が必要にして充分なだけの刺激を受仇 興奮させられない限り,脳の円満な発達は期し得べくもなく,性格,知能を含めた人間ら しい人間の完成をのぞみ得るほずがない。. 各発育年令に応じて体育的運動刺激の,どの程度が必要刺激であり,記憶力向上刺激と 判断理解力の開発刺激がどの程度であるか,或いほ創造性の引き出しの望ましい範囲ほ如 何,というような課題に対して,我々教育関係者ほ,各方面から幾多の試行錯誤を行なっ てきた。しかしこれらのいずれもが,教育の成果の判定を成人以降の人間性にもとめるこ とにおかず,極めて近視眼的な大学入試に焦点をあわせてきたのではないだろうか。その. ような教育の誤りが,頭脳構造が単純であるという批判を受けなければならないような大 学生をつくり出し,社会適応性が乏しく,反省によって自己を向上させて行く力の無い多 くの学生を輩出させたとみたいのである。.
(17) 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言. 171. 年令に応じた各種刺激の適正必要量について,それを決定する資料が不充分である今日 ではあるが,少くとも知育のみ或いは体育のみに重点をおかれた教育ほ,大きな誤りをお かすであろうことほ疑う余地が無い。. 本項の結論として著者ほ次のように考えているo即ち思春期以前の体育刺激は,充分す ぎると思われる程度にあたえても,被トレ-エソグ性が極めて弱いために,殆んどプラク. ティス効果だけしかあらわれていないoこの時期の知育ほ,もっぱら初期学習的パターン によって行なわれるべきであり,掛こ推理,判断などに重点を置くことなく,これらは自 然に放置されるか,場合によってほ抑制して行くくらいの方が望れいo判断したり,推 理したりするために時間を浪費させるよりは,その時間を記銘そのもののために割けと言 いたいのである。. そして思春期以降の教育でほ,筋肉に対するトレーニング効果が期待されるので,先ず 筋肉を強化することによって,大脳の賦清水準を高めるための努力をしなければならな い。より広汎なる知識を獲得させるためには,出来るだけ大脳が賦括されていなければな らず,豊富な知識を求めようとする場合は,大脳の機能的容量が大きくされなければなら ないからである。記憶の保持のしくみが,インプルスが絶えず閑回路をまわっていること によってなされていると考えるより,きまったパターンの閑回路を,いつでもインパルス. が廻り得る状態になっていることだとする今日的な解釈の方が,いわゆる記銘についての 椀能的容量が大きいと見ることができるが,それでも,すべての知識が初期学習的記銘の みによって行なわれたとすれば早く限界に達すると思われるoしかもその知識及びそれに. ともなう判断や理解はステレオタイプとなり易い。従-て思春期以降の学習ほ,できるだ け後期学習的なパターンによるように配慮し,単に知識を豊富にするというよりほ,大脳 のすべての中枢が,そして連合領が,いかにしたら偏りなく発達させることが出来るかに. 鳳Llすべきである。 教育者が,いかに大脳の機台洞在の普偏的発達を企図しても,被教育者の個々に内在し ている遺伝的素因その他の相違により,感応の仕方が異ってくるのは当然である。それが. 個性の発露であり,適性の発達であるo教育が教育する側から一方的に与えられるもので はなく,被教育者側の応答との間に形成される場によってなされるものである以上,高校 大学となるに従って専門化する傾向-めしたり,学校や,その他の環境によって特色あ る教育の場に発展して行くのほ当然である。 しかしそれが当然であるからと言って,教育のおこなわれる本質までは変容されるべき 性質のものでほない。社会適応能力を持った人間の成熟が得られるまでは,頭脳構造の単 純化をさけるための人間教育が行なわれなければならないと信じているo. っいで誤れる教育の梯会均等主義に反論するが,その個人にとって必要にして充分なだ け教育を受けさせるという意味を忘れた,徒らなる機会的均等論が,却って多くの青少年 を不幸に陥らしめる結果となることを危供する必要があるo 生物界に厳として存在する正規分布或いほその他の分散の法則性は,個人が教育によっ て正常に開発される可台地についても,大きな異同が存在することを示唆している。教育.
(18) 172. 小. 野. 三. 嗣. ほ如何なる程度に行なわれても,その人間の正常性をそこなうことが無いと考えるのは教 育者の思い上りである。. 思春期をこえて間もなく,その個人の脳が成熟型となり,それが正常発達の限度である 可能性を考えるのであるoその場合,ひきつづいて加えられる教育刺激は,異常脳の発達 を促すと考えてみたいo生理学的,病理学的事実としての確実な科学的根拠ほ無いが,現 実の教育社会においてほ,このように解釈した方が理解しやすいように感じられる。 また20世紀の現行公教育法ほ社会法の一環として,社会権たる「教育をうける権利+ を陳障し,社会的弱者の生存権を保障する任務をもつ社会法のなかでも,とくにその文化 的生活面に関するより高次の社会法であると評価されていること自体に問題があると考え ているo. 「教育をうける権利+を法で規定したことから「教育は購い得る商品である+とい. うイメージが発展し,多く受けるほど良いという観念が生じたと言いたいのである。. 猫に小判という比愉の場合ほ,価値のわからぬものには役立たぬと考えてお桝f良いが, 不適当な教育ほ,時に受けたものを,かえって蛮毒することさえあると考える。公的な, ある程度画一的な,専門家による教育の普及度が高いことが,その国の文化水準を示す尺 度として評価されていることが,果して特定の1個人に対して,如何なる意味を持ったか ということまでも考えたいo少くとも自画自讃だ桝ましたくないのである。. ⅠⅠⅠ・結. 論. 教育の実態の原型を生理学的にみれば,教育者の有する効果器(主として骨格筋)から の発信を,被教育者の受容器(感覚器)が受信する形となっているoしかし教育者側の発 信状況ほ被教育者側の応答によって影響されるので,両者の有する効果器及び受容器並び にこの閑回路を含んでいる場の状態で,そこに生じる教育成果ほ大いなる変容を遂げるこ とになる。. 勿論教育が生理学的な見方だけで解決されると言っているのでほない。哲学的,心理学 的或いは社会学的観点からの教育論に対して,生理学的にほこのような見方もすることが 出来るという見解を開陳したまでである。 本論文において最も強調したかった点をまとめてみると次のようになる。 1)人体を構成する組織細胞は,環鏡変化に適応する場合,その数,形,質の3老のい ずれかを変化させるが,たとえ同種の組織であっても,その反応性に明かな個体差があ る。これをSternが提唱した遺伝と環境の2要素の平行的な転換説を,さらに力動的な 関係でとらえたPiagetの同化調節の表裏一体過程で説明するのが正しいのか,それとも 先行経験の一切を含めた求心部門の創造性に焦点を集約したSechenovの流れを汲む心理,. 生理学者達の説明の方が真実なのかについて決定しなくても,教育の生理学的なあり方に ついては意見をのべることができる。. 個々の組織細胞の持つ解剖学的事実は,その生理的機能を一義的に決定することが出来 ず,個々の組織細胞の刺激に対する反応性が,人体の生命現象をまとまった形で生々発展.
(19) 173. 運動生理学的立場からみた教育のあり方に対する提言 させる方向に作用しているとは限らないということを知ることの方がより重大である。. 生理学的測定或いは観察によって得られた資料を,統計的に処理して求められた結果と しての事実が,必ずしも人間にとって望ましいことであるとは言えないことを知ることが 今日における教育の出発点でなければならない。. 健康であるということを,雑草のような生命力を持っていることだと表現した場合,逮 動能力の大小で評価できると考えるのほ誤りである。しかしそれほ運動不足に起因する在 険-の非難を軽減する理由にはならない。. 将来徐々に明らかにされて行くであろう,各個人固有の運動適応能力に対して,必要に して充分なだけの運動刺激を,計画的に配慮された全生涯的プログラムに従って与える.こ とにより,我々のすべての能力ほあらゆる可能性の限界にまで高めることができるはずで あり,それが教育であると考えている。. 2)大脳に随意運動の中枢が存在し,我々人間ほ何者の統制も受けずに,全く自由に行 動することが出来るという事実を知っているが,その随意運動の中枢ほ観念論的な神性を 持ったものでなく,先行経験のすべてを含んで,内的,外的のあらゆる存在と函数的関係 を持っているという意識がうすれると教育が混乱する。 そして最も重要なことは,一個だけの可能性が開発される限界ほ,他の個体を犠牲にし. て拡大されることを意味するため,有棟体全体の生命がおびやかされる。 生命現象の多様性を抑制と克進という二面から調整するということが教育の原型であ る。. そのいずれかに偏した教育ほすでに人間性の教育という本来の目的観念を失ったもので あり,教育とほ言えない。 以上の事柄は,同じ細胞組織についてだけでなく,同種或いほ異種,近接またほ遠隔の. 組織細胞相互間でも適用される原則であって,プラスの影響ほ同時的或いほ継時的にマイ ナスの効果となってあらわれる以上,過去から現在,そして未来へ向う時系列の中でも, 促進と抑制の動力学的バランスを見通した教育が行なわれなければならないものであるこ とを強調したい。. 3)発育にともなって与えられる教育は,質,量ともに変化しなければならないが,忠 春期以前の教育ほ,記憶の中枢に投げかける条件反射的,いわゆる初期学習的方法に徹す べきである。特に体育的刺激ほ必要にして充分なだけ与えるべきで,それが任意に与えら れたために過強にわたる危険は少いと考えている。最も警戒しなければならないのほ知育 偏重となって体育をおろそかにすることである。方法論的にみて初期学習的′くターンを強 調しているだけであって,早ければ早いほど良いとか,与える量が多ければ多いほど良い. とは考えていない。思春期前の教育で,判断,理解,思考を殊更に奨励することには賛成 できない。この点ほ自然発生的な姿のままで良いと思っている。. 思春期以降の教育でも体育刺激ほ重要である。特に筋群の発達刺激を重視したい。知育 的には後期学習的′くターンによるべきで,判断,理解,思考を第一義として,記憶的なも のほ,これと平行して必要な形ですすめるべきである。理解を無視した,単なる記憶中心.
(20) 174. 小. 三. 嗣. 主義の教育ほ,初期学習的能力が生理的限度をこえて温存されることになり,頭脳構造が 単純であると言われるようなパタ-ンを示し,人間性に偏りが生じる.. 筋に被トレーニング性あり,性,年令,個人等によって異るがごとく,中枢神経系を中 心にした学習能力における被教育性にも,当然大幅な変動を考えなければならない。教育. ほ誰にとっても常に有用なものであり,積み上げれば上げるほどよいと考えるのほ教育者 の思い上りである。筋肉のトレーニング方法を誤ることによって,その本来の機能を失わ しめる結果となることと同様と思われ,しかも両者に共通して,おそらく回復不能の影響. を受けると推定している。筋肉の廃用性萎縮というしくみがあり,中枢神経系に忘却とい う現象があるからと言って,白紙に還元されることを意味しているものではないはずであ る。始めから無かったことと,経験されたものが消えたということほ,生命現象が時と共. に流れたということをぬきにしても,旧に復したとするわ桝こほいかないo植物性の働き の一つである赤血球の破壊新生というような場合は,赤血球本来の機能を果すというよう な観点に立てば,一応ほ(厳密にほそうでないが)もとに戻ったとしてよいように感じら れる。しかし再生が殆んどあり得ないとされている筋,神経の細胞ほ,その経験を全生涯 を通じて積み上げていると考えられることを肝に銘ずべきではなかろうか。 著者ほ,教育の使命をより良き人間性の開発の中に見つめながら,これを書いたつもり である。社会の要請というようなものに向って,被教育者を誘導して行こうとする教育の 他の一面についてほふれるつもりがなかった。それが著者の偏見であれば幸であるが,著 者の眼にほ現在の教育ほ混乱していると映っている。. 最近の青少年が人間的に好ましい姿に成長しつつあると感じる人々にとってほ,本論文 ほ全く無用の長物に違いない。ただ著者は少くとも,戦後の混乱期に生を受けた最近の学 生達は,指導者層の自信喪失,戦時統制教育の反動として生じた自由放任という無責任教 育の犠牲者としての姿を露呈していると見ている。 数少い生理学的知見でほあるが,筋の緊張が脳幹網様体を通して大脳を賦活するという 事実や,皮質の一局所だけの刺激興奮が人格や行動を一変させるという確認された事実, 脳の正常な働きほ常に促進と抑制という相反する方向の統合調節によって営まれていると いうことを考えてみただけでも,教育のあり方について根本的な検討を加えてみなければ. ならない時期に来たと言いたいのである。 そして,さらに敷街すれば,人体の示す生命現象のすべてを生理学的手段によって解明. できると考えることが,或いほ不遜なのかもしれないと考えたことも,あえて生理学的分. 野をこえた論文とした理由の一つである。たと冬それが永遠の真理でほなくとも,今日た だ今,大勢の子弟を教育しなければならなろ責任ある立場に立たされたものとしては,無 為にして時を過すことほ許されない。学問は象牙の塔の中においても光りを放ち得るが, 教育は泥まみれの苦斗の中に一輪の花を咲かせることに価値があるのである。花がいかな る放転によって開くかを完全に理解しなくても花を開かせることができる。植物学の知識 が色づけや開花の時期や,変種をつくることに貢献をしたからと言って花のすべてを知っ.
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