31 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 31 田中耕一・荻野昌弘編,2007,『社会調査と権力――〈社会的なもの〉 の危機と社会学』世界思想社. 宇井純,1984,「絶対的無原罪の柔軟と再生」『エコノミスト』62(9): 94-97. 浦河べてるの家,2005,『べてるの家の「当事者研究」』医学書院. 山本崇記,2007,「差別/被差別関係の論争史――現代(反)差別論 を切り開く地点」『コア・エシックス』3:363-374. ――――,2009a,「社会運動研究の方法論的課題に関する一考察―― 『調査者 - 被調査者論争』が提起したもの」『現代社会学理論研究』3: 72-85. ――――,2009b,「『不法占拠地域』における住民運動の条件――京 都市東九条を事例に」『日本都市社会学会年報』27:61-76. 山内政夫,2010,「崇仁小学校の閉校、そしてまちづくり――柳原銀 行と明石民蔵の生き様に学ぶ」『部落解放』634:98-107. 山田富秋,2005,「第 1 次報告書の再検討と社会学的分析のめざすもの」 『HIV 感染問題調査 2 次報告』15-27. 好井裕明,2007,「人びとの“生”に埋め込まれた“公共的なるもの” を志向する倫理」『先端社会研究』6:65-85.
水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置
人文・社会科学研究の「共同行為」について 森下 直紀1. 本章の題材と課題
「不知火海総合学術調査団」は水俣病に関する人文 ・ 社会科学分野での最初 期の社会調査であった。この調査団は、「近代化論再検討研究会」の構成メン バーを中心に 1976 年に発足した。「近代化論再検討研究会」とは、社会学を学 んだ鶴見和子と哲学を専門とする市井三郎を中心として、科学史や政治学など の研究者が集う研究集団であり「不知火海総合学術調査団」はそうしたメンバ ーに生物学出身の最首悟や医学研究班を率いた原田正純医師を加え、学際的な 調査団として成立した。ただし、この調査団の団長であった色川大吉が明かす ように、調査団メンバーと医学者とのかかわりは原田正純個人を除いてほとん どなかった。その意味で、この調査団は人文 ・ 社会科学の総合研究という枠で 捉えられるべきものである(色川 1983a: 13)。この「不知火海総合学術調査団」 の報告書は、『水俣の啓示』(上・下)として 1983 年に刊行されているが、そ の上巻のなかで、市井三郎の論文とその反論にあたる最首悟の論文が両論併記 の形で掲載されている。これが所謂「市井-最首論争」である。一見して内部 不和とも取れるこの種のやり取りが、同一の報告書に収録されたことだけでも 注目をひくが、ここでは、この論争の背景に調査団メンバーたちの水俣病問題 への立ち位置の問題が潜んでいることを示す。 「市井-最首論争」が調査団のメンバーそれぞれの立場から生起してきたこ とは、論争に関して触れられた調査団メンバーの座談会から知ることができる。 第 2 章320 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 321 報告書の下巻に収録された座談会の記録では、民俗学者の桜井徳太郎がこの問 題への口火を切った。そして、報告書に「論争」が掲載されたことについて、 以下のように述べている。 〔不知火海総合学術〕調査団というのは一体どういうものなんだと。ここ〔「市 井-最首論争」〕で論じられたようなことをこそ結成の段階、あるいはその過程 ですでに解決しておるべき問題ではないかと。つまりそれをのりこえて調査を実 施するということこそ、実は調査団のあり方としてあるべきではないかと。そう いう批判が出るのではないかと思う (色川 1983b: 498) この桜井の指摘は、社会調査というものを研究者の集団が担う際に、その調 査集団の意見の方向性あるいは立場は調査開始以前の段階で確定しておくべ きではないかという問題提起である。「不知火海総合学術調査団」のメンバー たちは、水俣における調査開始時において、「近代化論再検討研究会」の問題 意識を継承し、水俣病問題においても近代社会批判を展開しようとしていた。 色川の述懐によれば、その構想は調査活動の最初期に頓挫したとある(色川 1983: 9-13)。しかし、「市井-最首論争」において、市井と菊地昌典が近代社会 の構造を問題にした一方で、他のメンバーは、近代社会そのものを問題とした。 「不知火海総合学術調査団」は、社会調査研究をおこなう研究者の立場性の違 いという問題を内包していたのである。この問題を、人文 ・ 社会科学研究の実 践性の問題として考察するべく、調査団と同時期に展開された社会科学分野の 所謂「似田貝-中野論争」を補助線として検討する。そのうえで、「不知火海 総合学術調査団」がその後の水俣病史の研究の方向性に、近代社会批判を内在 させる契機となったことを明らかにしたい。 1.1 水俣病問題の発端から、人文 ・ 社会科学調査の開始まで 2010 年 5 月 1 日、鳩山由紀夫首相(当時)は、熊本県水俣市でひらかれた 「水俣病犠牲者慰霊祭」に、日本の首相としてはじめて出席し、謝罪した。 政府を代表して、かつて公害防止の責任を十分に果たすことができず、水俣病 の被害の拡大を防止できなかった責任を認め、改めて衷心よりおわび申し上げま す。国として、責任を持って被害者の方々への償いを全うしなければならないと、 再度認識をいたしました。 (朝日新聞 2010 年 5 月 1 日付) 「防止できなかった責任」とはどのようなことをいうのか。鳩山首相の言葉 からは、政府が本来果たすべき公害防止の責任を果たせなかったことに対する 謝罪が述べられた。しかし、首相が述べたように、水俣病問題において政府が 果たした役割は、例えば薬害エイズと同様に、不作為の結果責任に留まるのだ ろうか。『水俣 50 年――ひろがる「水俣」の思い』において、最首悟は以下の ように政府の果たした役割を述べる。 1959 年 11 月 12 日は歴史的な日になりました。厚生省の食品衛生調査会の水 俣食中毒特別部会が日比谷の松本楼で開かれ、水俣病の原因は湾周辺の魚介類に 取り込まれたある種の有機水銀化合物44 4 44 4 4という中間答申をする。そしてこの部会は 即日解散。⋯⋯翌 11 月 13 日、閣議で池田勇人通産大臣が有機水銀の出所につい ては軽々に発言してはならない、と釘を刺す。⋯⋯1960 年 1 月サイクレーター 〔排水浄化装置〕の完成、社長はそのろ過水(実は水道水)をコップで飲む。も う大丈夫とメディアは書き立てた。幕引きの最後の儀式です。通産省と新日窒 (現チッソ)はそのサイクレーターがどんな機能しか果たせないかを、そもそも 有機水銀排水路がつながれていないことを知っていた。明白な犯罪です。⋯⋯当 時の技術水準は色と沈殿を取るだけで、有機水銀や重金属を取る技術はまったく なく、〔サイクレーターを受注した荏原インフィルコは〕当然そのような発注は 受けていないと言う。それほどまでして水俣病は終わらせなければ44 4 44 4 44いけなかった。 (最首 2007: 10-11) 通産省(現経済産業省)と新日本窒素株式会社(現チッソ株式会社、以下チッ ソ)による排水浄化装置の欺瞞をいまだに国が認めないのは、政府が、公害や 公害病を生み出したことへの反省のうえに立脚していないことの確かな証拠で
322 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 323 あると思われる。水俣公害問題の教訓が活かされる形で、行政のあり方が根本 から変化するまでは、公害行政を論じる際において、水俣公害事例を振り返る4 4 4 4 4 4 4 ことはできない。 1.1.1 水俣病問題の経緯 1956 年に、新日本窒素株式会社水俣工場付属病院(のちのチッソ付属病院、 1969 年閉鎖)の小児科を受診した少女が現れて以降、次々と脳障害と見られる 患者が現れた。その後、同様の症状を示す患者が多数確認され、同病院細川一 院長(当時)は、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と 報告した(原田 1972: 2)。これを水俣病の公式確認と呼ぶ。最首の言う 1960 年 の水俣病事件の幕引きは、水俣病の公式確認と呼ばれる出来事から 3 年余とい う迅速さで展開したのであった。 水俣病患者の発見直後の 1956 年 5 月に発足した水俣医師会、保健所、チッ ソ付属病院、市立病院、市役所の五者による企業対策委員会は、患者の掘り起 こしとともに、8 月から熊本大学医学部が疾患の原因の解明のための研究を開 始している。そして、その年の 10 月には、この疾患が伝染病ではないとする 中間報告が出されている。さらに、疾患の原因は何らかの中毒によるものであ るとの見方が強まり、海中生物の毒性が強いことが明らかとなった1)。それは、 水俣における水俣病患者の発見から 1 年足らずのことであった。この時点で食 品衛生法の適応により、魚介類の採取の禁止をすれば被害の拡大を防ぐことが 出来たにもかかわらず、熊本県および厚生省(現厚生労働省)はこれをおこな わなかった(津田 2004: 46-71)。貧しい漁民たちは、最も危険とされた海域を除 いて漁業を続けざるをえなかったが、水俣で揚がった魚介類はほとんど売れな かったという(緒方 2001: 33)。当時の水俣病患者に生活保護を受ける者が多か ったというのは、そのことと無縁なことではなかった(原田 1972: 20-21)。 国や県、そしてチッソは、水俣病患者を事実上放置し、工場も操業を続けた。 1959 年 11 月に水俣を訪れた国会調査団への陳情のあと、工場でデモ活動に向 かった漁民たちはそのまま正門を破って構内に突入し、事務所などを打ち壊し、 工員(工場長含む)と漁民の双方に負傷者を出した。この事件をきっかけにし て、チッソの労働組合を中心として工場を守れという動きが高まり、市議会を はじめ諸団体がその動きに同調した(宮澤 1997: 255-257)。 水俣市や市議会の動きは二つに集約できる。県議会で見え始めた、操業停止を 命じる県条例制定の動きを牽制すること、食品衛生調査会の答申が操業停止につ ながらないように働きかけること、だった。あれほど原因究明を急げと言い続け4 4 44 4 44 4 44 4 44 4 44 ていた水俣市が4 44 4 44 4、百八十度姿勢をかえた4 4 44 4 44 4 44のである。その動きに反対を表明したの は、被害者たち・水俣病患者家庭互助会だけだった。(宮澤 1997: 25 傍点筆者) このことがきっかけとなって、国・県・市そして被害者とその家族を除く水 俣市民までもが水俣病問題の早期収束を望むようになっていった。そして、排 水を真の意味で浄化することのないサイクレーターなる排水浄化装置の完成と、 水俣病被害者への差別の高まりから水俣病であることが公にされなくなること で、水俣病患者の新規発生が表面上沈静化し、水俣病は過去のもの4 4 4 4 4という認識 が広がった。 1.1.2 社会問題としての水俣病への関心 水俣病への関心が再び高まるのは、1964 年に新潟水俣病が確認されてから のことであったが、熊本水俣病に対する一般の関心が低下してからも、むし ろ関心が低下したからこそ、積極的に水俣病問題に関わろうとする人たちが存 在した。まず、1959 年ごろから水俣病にかかわる詩歌を積極的に発表しはじ めた石牟礼道子は、現在に至るまで一貫した水俣とのかかわりがある。他にも、 1961 年から水俣の調査を開始した宇井純と行動を共にした写真家の桑原史成 が、後に写真集『水俣病』(三一書房)となる取材を 1962 年におこない(宮澤 1997:357)、映画監督の土本典昭が 1965 年ごろから水俣病問題にかかわるド キュメンタリー映画を制作し始めている。 学問分野について、医学分野以外で水俣の調査を開始した研究者では、宇井 をまず挙げねばならないだろう。宇井は、1956 年に東京大学で応用化学・化 学工学を学び、日本ゼオンに就職したが、約 3 年後に、プラスチック加工の研
324 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 32 究を目的としてふたたび東京大学に戻った。しかし、その頃接した水俣におけ る「奇病」の報道に関心をよせ、以後、水俣病を始めとした公害現場の調査を 開始していった(宇井 1971: 12-13)。宇井をその行動に向かわせた要因としては、 宇井が化学の現場にいたことから、水俣の奇病報道と工場の廃液との何らか の因果関係を理解できる立場にいたことを挙げることができる(宇井 1971: 13)。 水俣病に関する社会学的な研究は門外漢の宇井によって開始されたが、宇井自 身も彼自身を水俣に引きつけたものの正体について、はっきりと語らなかった。 同様に多くの人文 ・ 社会科学者にとって、水俣病問題は発生から 20 年ほどの 間、研究活動を開始する対象とはならなかったのである。 多くの人文 ・ 社会科学分野の研究者による現地調査が開始されるのは、本章 が取り扱う「不知火海総合学術調査団」が 1976 年に結成されて以降のことで あった。 1.2 「不知火海総合学術調査団」発足の経緯 1976 年から 7 年間にわたっておこなわれた「不知火海総合学術調査」は2)、 「総合」と謳われているとおり、社会学・政治学・生物学・医学・哲学の専門 家からなる調査団によっておこなわれた。これらの異分野の研究者からなる集 団は、アメリカ合衆国において社会学を学んだ鶴見和子と哲学を専門とする市 井を中心とする「近代化論再検討研究会」のメンバーが基礎となった。第一次 調査団を率いた色川は、1972 年からこの研究会に参加していた。色川の述懐 によると、この研究会のメンバーは、「欧米の近代化論の普遍性に疑問を抱き、 それぞれが第三世界や日本の固有な発展の道を模索することを共通の課題とし ていた」という(色川 1983a: 7)。1974 年 8 月に筑摩書房から刊行された、この 研究会の報告論集『思想の冒険――社会と変化の新しいパラダイム』の「反モ ダニズム的な試みは、当時の学界主流の批判と反発によって迎えられた」とい う(色川 1983a: 7)。しかし、「近代化論再検討研究会」のメンバーたちは、自 説を譲らず、彼らの理論を実地にどこかの地域で検証してみたいと考えていた (色川 1983a: 7-8)。そんな折、色川が水俣を訪れた際に石牟礼から直接依頼を 受け、1975 年末頃に研究会のメンバーに石牟礼の意図を伝えた結果、1976 年 春からの「不知火海総合学術調査団」の結成という運びとなったのである(色 川 1983a: 8)。このような背景から、調査団発足時は研究会のメンバーからなる、 社会科学班としてスタートしたのであった3)。 1.3 石牟礼道子の問題意識 「不知火海総合学術調査団」の結成を色川に要請した石牟礼は、熊本県葦北 郡水俣町(現水俣市)栄町出身の詩歌人である4)。水俣病問題にはやくからか かわり、1968 年 1 月に「水俣病対策市民会議」を結成し、69 年 4 月に熊本市 の知人・友人らと共に、「水俣病を告発する会」を結成、水俣病患者支援の中 心的活動家となっていく(石牟礼 2004: 244-5)。石牟礼の水俣病問題への関心は、 1959 年頃には鮮明となっている。「海と空のあいだに」の一首にそれを示す詩 がある。 不治疾のゆふやけ抱けば母たちの海ねむることなくしづけし(石牟礼 2004: 26) 「水俣病対策市民会議」や「水俣病を告発する会」といった政治的な動きに 連動するように、1959 年以降、「奇病」(『苦海浄土』)、「水俣病」、「水俣病・そ のわざわいに泣く少女たち」、「わが不知火」などを発表した。また、1970 年 5 月に「水俣病を告発する会」による厚生省占拠行動から盛り上がる全国的な支 援運動の高まりとともに、石牟礼は、「亡国のうた」、「死民の故郷から」、「晴 れの日の紅をさして」などを新聞・雑誌に発表し、直接的な抗議行動への理解 を求めた。その他、テレビなどのメディアにも露出し、水俣病問題の記録映画 を数多く残した映画監督の土本とも、交流している。 石牟礼のように、政治キャンペーンの担い手が、文学や芸術の分野に表現の 場を見出すことは、過去にもあった。例えば、アメリカ合衆国カリフォルニア 州のシエラ・ネヴァダ山脈の保護を求めて多くの文学的作品を残し、自然随筆 という分野を確立した、自然保護団体シエラ・クラブの創設者ジョン・ミュー アはその好例である5)。そこには、文学やメディアを通じた表象を用いて、一 般の人々の関心を呼び込むという意図があった。ミューアのこの戦略は、一定
32 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 32 以上の成功を収めた。19 世紀末から 20 世紀初頭のアメリカでは、西部開拓の 影響による自然景観の損失を快く思わない裕福な人たちが増加していた。自然 随筆は、そうした人たちに受入れられた。そして、シエラ・クラブや後のオー デュボン協会などの全米各地で誕生した自然愛好団体のメンバーも裕福で、社 会的地位の高い人たちが多かった。彼らの関心を得ることは、自然保護運動の 成功にとって必要不可欠なことだったのである。 しかし、石牟礼の試みは失敗した。当時の日本は、「東洋の奇跡」とまで言 われた経済成長の真っ只中であり、その旗手たちに、「奇跡」がもつ負の側面 に目を向けさせることは容易ではなかった。石牟礼が色川に調査団の結成を依 頼した 1975 年は、水俣病被害者たちが熊本県庁に陳情に訪れた際に発生した 騒動によって、被害者の一人が逮捕されるという事件が発生した年でもある。 石牟礼は、詩作でも直接行動でもなく、学界の協力を必要としたのである。 石牟礼は、色川に依頼した「不知火海総合学術調査団」の目的を以下のよう に述べている。 不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、取り出しうる限りの復元図を、目に見える 形でのこしておかねばならぬ⋯⋯せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地 域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつ にいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、こ の沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、 歴史学、政治経済学、文化人類学、あらゆる学問の網の目にかけて4 4 44 4 44 4 44 4 44 4おかねばなら ない(石牟礼 2004: 174-5 傍点筆者) このように、「あらゆる学問の網の目」によって、不知火海沿岸一帯の過去 と現在とをつまびらかにして欲しいと、石牟礼は望んでいた。しかし、その一 方で、悔しさもにじませる。 そのような状態を表現するには学問でなくとも、ひょっとして文学、あるいは 深い芸術が生まれうるならば⋯⋯、より望ましいのであるが。(石牟礼 2004: 176) とはいえ、石牟礼は加害企業のチッソにしろ、行政にしろ、科学を成り立た せているものに、少なからずの不信感を感じながらも、科学的客観性を無視で きないと考えたのではないだろうか。 〔あらゆる学問の〕網の目にかけるということは、逆にまた、現地にひとびと4 4 4 4 4 4 4 の目の網4 44 4に、学術調査なるものがかかるということでもあります。(石牟礼 2004: 174-5 傍点筆者) 水俣の公害被害者たちと彼らを支えた人たちは、医学者たちが科学の名にお いて何をしてきたか、知っていたのである(宮澤 1997: 442-443)。石牟礼が求め た調査団の目的に、医学が含まれていなかったことは、公害被害者たちと彼ら を支える人たちの強い批判があらわれている。
2.比較の目を持つ来訪者──「不知火海総合学術調査団」
石牟礼道子が色川大吉に調査団の結成を要請し、「近代化論再検討研究会」 を母体とした「不知火総合学術調査団」が結成された。『水俣の啓示――不 知火海総合調査報告(上)』の冒頭、色川は、石牟礼からの調査依頼の経緯や、 調査団の構成、調査内容、調査費の出所について述べている。その中で、石牟 礼の調査への厳しい注文が紹介されている。 第一期のメド十年間。死ぬときは代わりの人を見つけて死んで下さい。(色川 1983a: 11) この石牟礼の気迫に接し、この調査団の目的を、「近代化論再検討研究会」 の実績を否定した「机上の近代主義者や御用学者たちにたいする挑戦であり、 現代を根源から問いただす科学的実践という調子のよい声を発する者はいなく なった」(色川 1983a: 10)という。32 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 32 2.1 「不知火海総合学術調査団」の経費 石牟礼のこの言葉を受けてのものかどうか、「不知火総合学術調査団」は、 比較的長期に渡って調査活動を継続した。色川によると、調査団は 1976 年 3 月に発足し、以来調査費用は以下のように調達された。 調査費用については、第一年目と第五年目はまったくの個人負担でおこない、中 間の三年間はトヨタ財団から自然環境部門の研究助成をうけることができた。そ の助成額は総額で 1007 万円である。(色川 1983a: 14)6) その後、1981 年から 3 年間、原田正純を研究代表者として、同じトヨタ財 団から研究費を獲得し、第 2 次「不知火海総合学術調査団」の資金となってい る。1981 年度の助成概要では、当時の原田の所属は「熊本大学体質医学研究 所」であるが、2 年目の 1982 年度では、「不知火海総合学術調査団(熊本大学 体質医学研究所)」となっている。3 年目の 1983 年度は、研究代表者の所属欄 は空白になっているが、その助成内容は「不知火海域における生物学的・医学 的・社会学的な環境変化に関する実証的研究(出版)(シンポジウムの開催)」と なっている。また、トヨタ財団からの助成額は、1 年目 480 万円、2 年目 670 万円、3 年目はシンポジウム開催および出版費の 152 万円の助成額となり、総 額 1302 万円の助成となっている。石牟礼の注文したとおり、長期間にわたっ て継続的に調査活動がおこなわれたことは確かである。 しかし、「不知火海総合学術調査団」の調査費にトヨタ財団からの助成を当 てたことには、賛否両論あったという(宇井 1984: 96)。否定的な見解は、この 調査研究を近代社会の批判として捉える側から発せられたものだろう。トヨタ グループもまた近代社会の一翼を担う大企業であったからである。 2.2 石牟礼道子の求めた水俣調査 石牟礼が「不知火海総合学術調査団」に求めたものは、色川たちにとって、 「私たち調査団への夢のような期待、できることなら果たしたい遙かなる理 想」(色川 1983a: 11)であった。 不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、とり出しうる限りの復元図を⋯⋯生物学、民 俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、歴史経済学、文化人類学等、あらゆる学問 の網目にかけておかねばならぬ⋯⋯出来上がった立体的なサンプルは、わが列島 のどの部分をも計れる目盛りになるでしょう⋯⋯不知火海沿岸一帯そのものが、 まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり⋯⋯幾層にも幾色にも、 多面的にも原理的にも、この中にある内部の声を聞くことが出来れば、それが尺 度になりうるのではあるまいか。(石牟礼 2004: 174-5) 色川たちは、この石牟礼の求めに対する率直な反応を示した。 そのようなことは私たちにはとうていできない。どんなにすぐれた学問をもって しても、旅人の目や一時滞在者の目で捉え得るものには限度がある。その土地 の、その民の、最深の心意現象は、定住者にしか感得することはできない。水俣 にとって私たちは、風のような一介の旅人、たかだか比較の目を持つ来訪者にす ぎず、それも大きなドラマが終焉したあとの、落ち穂拾い屋に似た調査者にすぎ ないとか、「それには文学による表現こそが最もふさわしい」と反論したりした (色川 1983a: 11-2) 文学による表現、そしてそれにより運動の支援活動を長年に渡って試みてき た石牟礼に、この反論はあまりにも陳腐だった。そして、事態の重さを理解し、 萎縮した調査者たちに、石牟礼は、「けれども、外在する目たちがいまひとつ なければ、球体の向こう側が視えてこない。内側からと、外側からと、これを とらえねば」(色川 1983a: 12)、という旨のことを色川たちに語り、「比較の目 を持つ来訪者」たちの意義を強調したのであった。 石牟礼の説得に応じた調査団のメンバーは、春と夏の休み期間を利用して水 俣に入り、調査活動を開始した。調査の内容について、2 年目から獲得したト ヨタ財団の助成概要から、研究活動の方向性を見ていく。研究課題は、「不知 火海環境汚染に関する学際的総合調査――近代化と水俣病問題による生活・自
330 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 331 然環境の変化の追究」となっている。以下はトヨタ財団ホームページに記録さ れている助成概要である。 一定地域の急速な都市化・工業化が周辺の地域社会に決定的な変化を与え、自 然環境や人命にも致命的な影響を与えるという事態が 20 世紀後半に至って世界 各地に現れるようになった。不知火海と水俣に現れた現象は、そのもっとも悲惨 な問題であり、人類の未来に対して警告的な極限状態を示したものと言える。 本研究は、この状態を生み出した社会的な背景の調査と、それが及ぼした海中 生物・周辺沿岸生物の生態系の変化、及び沿岸住民の再生産構造、地域生活環境、 伝統的文化や民俗慣行、人間関係、住民意識に与えた影響についての調査を総合 的におこない、記録にとどめ、後世に残そうとするものである。 水俣の問題に関しては、医学的・生物学的側面についての部分的な解明や、マ スコミ報道による社会的理解がなされつつあるものの、不知火海汚染をもたら した社会的要因や、それのもたらす社会的インパクトの実態に関する総合的な 調査は未だおこなわれていないのが実情である。(トヨタ財団:http://www. toyotafound.or.jp/) 1983 年に刊行された「不知火海総合学術調査団」の調査報告書『水俣の啓 示』(上・下巻)は、1995 年に上下巻を統合する形で、新編が同じ筑摩書房か ら刊行されている。統合された新たな『新編 水俣の啓示』は、論争の的とな った「市井-最首論争」を構成する市井・最首それぞれの論文や座談会、そし て事務局を勤めた羽賀しげ子の「調査団日誌」が削除された。これらは、調査 団やそのメンバーたちの被調査者たちとの関係を知る重要な手がかりであるば かりではなく、調査団の内実を知るうえでもかかせないものである。色川が新 編を手がけるにあたって、なぜこれらの内容を不要だと考えたのだろうか。そ れが、石牟礼が望んだものであったのだろうか。
3.「不知火海総合学術調査」の意義
すでに述べたように、「不知火海総合学術調査」は水俣病問題における最初 期の人文 ・ 社会科学研究であった。そこでは、調査がおこなわれる時期までの 民衆史や漁民たちに向けられた差別の目、そしてそうしたなかでの漁民たちの 暮らしなどが、細やかに描きだされた。しかし、それらの報告のなかで、異彩 を放つ 2 つの論考がある。哲学の市井三郎と生物学出身の最首悟の一連の論文 である。 3.1 「市井-最首論争」──調査団の内的論争 『水俣の啓示』の上巻の最後に掲載された最首論文の市井論文を批判する厳 しい論調にまず読者は驚かされる。この中で最首は、市井論文を水俣病被害者 にとって「加害的」とまで表現するのである。そう断言された論文が報告書に は掲載された。調査団の内実を知る上で、この 2 つの論文を検討しておかなけ ればならないだろう。 「市井-最首論争」を論じたものの一つとして、2008 年 6 月に刊行された 『岩波講座哲学 第 1 巻=いま〈哲学する〉ことへ』に上梓された川本隆史の 「“不条理な苦痛”と『水俣の痛み』――市井三郎と最首悟の〈衝突〉・覚書」 がある。その冒頭、川本は、「哲学と現場のつながり(にくさ)を点検」する という目的を掲げている(川本 2008: 277)。この論考は、1996 年 4 月 28 日に日 本青年館で開催された『思想の科学』創刊 50 周年記念講演会における、川本 の報告「『思想の科学』の哲学は有効性を取戻しえたか――社会倫理の観点か ら」が元になっている。この報告において、川本は「哲学が現代社会において 生きた意味をもつ」ための評価軸として、鶴見俊輔の『哲学の反省』に依拠し た。 哲学は次の三条の道に従って把握される場合、現代の社会においても生きた 意味をもつことが出来る。第一に思索の方法の綜合的批判として把握される場合、332 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 333 第二に個人生活及び社会生活の指導原理探求として把握される場合、第三に人々 の世界への同情として把握される場合、即ちこれである(川本 2008: 278 重引) そして、川本はこの評価軸にそった哲学の現状に対して以下のように総括し ている。 最初の「思想の方法の綜合的批判」は論理学・記号論やコミュニケーション 理論として展開され、最後の「人々の世界への同情」は「庶民列伝」や『現代人 の生態』のような調査、大衆芸術や「転向」の共同研究として結実している。こ の二方面の成果を評価するのに、私はやぶさかでない。だが二番目の「生活の指 導原理探求」については、『ひとびとの哲学叢書』や「身の上相談の論理」とい う方向で個人レベルの究明はなされたものの、「社会生活の指導原理」(=社会倫 理)の探求はほとんど手つかずのまま終わっている。(川本 2008: 278) 「思想の科学」グループの手つかずの分野として挙げた社会倫理の分野のほ とんど唯一の例外として、「規範倫理学の原理を案出しようとした市井三郎の 努力が際立っている」と評価している(川本 2008: 279-280)。 川本にとって、「カントの『根本悪』を修士論文で取り上げて以降、善や正 義ではなく悪や不正義から社会倫理学を説き起こしたいものだと考えてきた。 その私〔川本〕にとって、〔市井の言うように〕『快』の増大ではなく『苦』の減 少をめざすという路線〔ポパーの「消極的功利主義」〕は、それなりにしっくり くるものだった」という(川本 2008: 287)。しかし、『水俣の啓示』に掲載され た市井の論文については、市井の「苦」の取り扱いかたに問題があったと川本 はみなした。 “不条理な苦痛”と一括された「苦しみ」だが、この集計概念をもういちど個々 のケース(=苦しみが発生した〈現場〉)に即してバラしてみる作業(「脱集計 化」(disaggregation)(峯 1999)を欠かしてはなるまい。市井はこれをしないで 「苦痛」をひとかたまりで捉えるものだから、自らが否定しようとする優生学的 発想に足もとをすくわれたのではなかろうか。(川本 2008: 287)7) 川本の採用した市井論文への評価は、基本的に最首が「市井論文への反論」 として『水俣の啓示』上に上梓したものと同様であった。最首による、市井論 文への批判点は、第 1 に、公害を疫病や自然災害と同一カテゴリーとして捉え、 第 2 に、単純な水俣病像により被害者の実態を不可視化したことにあった。 3.1.1 「人間淘汰」の衝撃 最首による市井論文への最大の批判点は、「人間淘汰」という市井の造語に ついてであった。この用語により最首は、市井が水俣病を疫病や自然災害と同 列に扱ったと判断している。最首は、市井のこの「人間淘汰」をショッキング であるとして、まず淘汰という概念について生物学的な文脈から解説をおこな っている。 淘汰とは、セレクションすなわち選別、選択の訳語である⋯⋯生物進化論的に 適者生存という意味をこめて使われることももちろん多い。ただこの場合、適者 とは、人間が生物の歴史をふりかえり、結果として生き残った種や個体をさして いるにすぎず、そして何故生き残ったかの特徴を部分的には指摘できるけれども、 現在のどの生物、どの個体が未来において適者かは決していえない、ということ が閑却されがちなのは残念なことである。(最首 1983a: 418) この淘汰の意味を踏まえ、「人間淘汰」を字義通り捉えるとどのような意味 が想起されるのか。最首は続ける。 人間淘汰となると様相は一変する。もともとダーウィンは人為淘汰から自然 淘汰の着想を得たとはいえ、人為淘汰は人間の目的が介在することによって、自 然淘汰とは全く異なる。⋯⋯たとえば生き残ってきた生物をみて、卵を多く産む という属性があったからという説明はできても、その逆の、卵を多く産むからこ の生物(種)は存続反映するだろうとは決していえないのである。進化の歴史は、
334 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 33 少数仔、少数卵への移行の歴史でもあるからである⋯⋯この若干の説明で、「人 間淘汰」という概念がなぜショッキングか、わかってもらえると思う。人間とい う生物に及ぼしている自然の淘汰圧の影響を、その進行形において人間は測るこ とができないので、その意味するところは、人為淘汰による「人間淘汰」以外は ないからである。(最首 1983a: 418-419) すなわち、最首の議論によれば、市井の「人間淘汰」は従来の意味の人為4 4淘 汰であった。しかも、市井は社会生物学の分野において、この「人間淘汰」 の言説が強化されていると論じる一方で、その社会生物学に対する批判を徹底 しておこなっていない。ここに、「市井氏は優生学的社会生物学的新マルサス 的主張を公害についておこなうための、ある詐術的な論文を書いたのではない か」という最首の疑念を呼び起こす元になった(最首 1983a: 425)。 さらに、市井が淘汰という用語にこだわったために、淘汰が起こる自然災害 や疫病と、公害とを同列に扱うという効果をもってしまった。自然災害や疫病 などと公害は決して同列に扱えるものではないが、最首による市井の「人間淘 汰」=人為淘汰という解釈が適応されると、本来同列に扱われることのない自 然災害や疫病と公害が淘汰という言葉によって接続される。しかし、市井は淘 汰という言葉を使用しながらも、「人間淘汰」を本来の淘汰の意味から切り離 して使用しているのであった。 いっきょに成員数が減少するか否か、また天災であるかを問わず、人間が自 然死にいたるサイクル以外の理由で、滅んでゆくことを、ここで人間淘汰と呼ぶ (市井 1983: 392) ここでは、それぞれの時代・地域において、統計的平均寿命あたりで死亡する のを、「自然死」と呼ぶ(市井 1983: 411) すべての人々が平均寿命で死ぬわけではない。平均寿命を仮に 80 歳とすれ ば、100 歳で死ぬ人もいればそれよりも早く死ぬ人も当然いるわけである。平 均寿命よりも早く死ぬことが「人間淘汰」なのであるから、その「人間淘汰」 の理由については、市井論文では取り扱われない。市井が価値中立的な用語と してこの言葉を使用しているのはこのためである。つまり、「人間淘汰」自体 は、自然災害や疫病、そして公害などが当該地域に発生していなくても、存 在する。問題となるのは、「人間淘汰」が当該地域において高い頻度で発生し、 その地域の平均寿命を低下させるような場合に、当該地域においては重篤な生 存問題が発生していることだと言える。 また、その「人間淘汰」が全体の平均寿命を下げるほどの量的効果を持って いなくても、特定の地域や特定の年代に「人間淘汰」が集中すれば、そこに は社会的な要因を含む何らかの問題を想起しなくてはならないだろう。しか し、市井論文では「人間淘汰」という概念の精緻化による議論がおこなわれず、 「人間淘汰思想の批判」として、「人間淘汰」という概念がすでに確立してい るかのごとく論を進めている(市井 1983: 405)。市井自らが定義したきわめて 単純な「人間淘汰」という概念に、思想的な基盤を求めるのは酷というものだ ろう。 しかし、市井が、水俣における具体的な問題を分析し、公害の一端を「人間 淘汰」という新概念とともに明らかにしたのであれば、水俣公害病問題から得 られた学問上の知見であるだけでなく、他の問題への応用が期待できることか ら、市井論文が他の調査団のメンバーや、水俣病被害者たちに受け入れられる 可能性もあったのではないだろうか。 3.1.2 水俣病は「必要悪」か 市井の「人間淘汰」に向けられた最首の第 2 の批判点は、市井が「人間淘 汰」という概念を公害の実態を明らかにする分析概念として発展させなかっ たことにある。それゆえ、最首や川本は、「人間淘汰」という新概念によって、 公害被害の実態を一元的にとらえ、個々の人たちの苦しみを不可視化させる役 割を市井が担ったとして批判した。この批判は、市井が調査団に参加する以前 から主張していた「不条理な苦痛」と「人間淘汰」の質的な差異を明らかに することで展開された。市井の「不条理な苦痛」にかかわる文章として、1974
33 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 33 年の『思想の冒険』に上梓された市井の文章を引用する。 人間社会の成員はすべて、自らの責任を問われる必要のないことから、多大の 苦痛を蒙っている。その種の苦痛(これをわたしは、不条理の苦痛44 4 44 4と呼ぶ)は減 らさねばならないと。⋯⋯第一に、わたしの価値理念の定式化には、「責任を問 われる必要のない」といった表現がある。その場合の”責任”とは何なのか、と いう問題である。わたしがそこでいう”責任”とは、科学的因果関係において、 原因連鎖の決定的一環をなすかなさないか、という事実認定の意味に限っている。 たとえば水俣病という公害発生においては、水俣湾沿岸の人々が従来どおりその 湾の魚類を喰った、という事実よりも、当の魚類に従来はなかった有機水銀が (一般に知らされることなく)著増した、という事実が原因連鎖の決定的一環を なすわけである。したがって水俣病にかかった人々は、まさに自らの「責任を問 われる必要のない」不条理な苦痛を負わされたことになる。(市井 1974: 46 傍点 筆者) すなわち、市井の言う「不条理な苦痛」とは、社会の一員として生活する 我々一人一人が多少なりとも蒙っているもので、その極例が水俣病の被害者た ちであるという。このことは、我々の誰しもが社会という枠組みの存在を無視 して存在し得ないことを強く意識させる。それは、水俣公害病の被害者たちに とっても、である。 しかし、市井が批判しようとしたことは、「不条理な苦痛」が存在してしま うことではなく、その苦痛の存在を積極的に認めてしまう思想に対してであっ た。上記の引用にもあるとおり、市井は「不条理な苦痛」を減らさなくてはな らないと考えていたが、一部そうした「不条理な苦痛」の存在を「必要悪」 としても捉えていたため、他の調査団のメンバーから批判を受けることにな った。その端的な例は、市井論文から最終的に削除されたが、1980 年 6 月の 「不知火海総合学術調査団」の合宿研究会において示された論点であった。そ れは、原子力発電所を必要悪と論じている部分があり、原子力発電所が必要悪 であるならば、(例えば、日本の産業発展のためという理由で)水俣病もまた必要 悪となるのではないか、という批判が市井の論文に向けられた。色川の述懐に よると、「市井が『原発を必要悪として是認する』といったのは、10 年くらい 後に、ほとんど無公害の水素燃料が実用化される見通しがあるので、それまで の 10 年ほどのあいだは必要悪として仕方がないという意味であったというが、 周囲は納得しなかった」(色川 1983a: 29)という。 ここで市井が主張したのは、おそらく核融合炉のことを指すのであろうが、 従来の(そして現在の)原子力発電所はウランの核分裂反応を利用する一方で、 核融合では水素をヘリウムに融合する反応からエネルギーを取り出そうとする ものである。同じ核の反応でも両者のエネルギー抽出方法に技術論的な連続性 はない。仮に、両者が連続性のある技術であり、核分裂反応の技術開発が核融 合にとって不可欠なものであるならば、市井の言うように従来の原子力発電は 必要悪ということにならないだろうか。実際はそうではなく、市井が自然科学 分野の知識に欠けていたことは明らかなのであるが、ここでの市井の必要悪と いう主張そのものについては、問題はない。そして、調査団のメンバーのなか で必要悪という考えを認める立場をとったのは、批判された市井と菊地昌典の 2 人であった(色川 1983a: 29)。 このやり取りから看取されるのは、調査団のメンバーの誰が水俣病を必要悪 としていたかということよりも、それは近代工業社会や国家の発展といった枠 組みを容認するかどうか、という前提であった。市井と菊地が他の調査団のメ ンバーと異なった主張をおこなったのは、近代工業社会や国家といったものを 議論の前提においていたからであった。調査団のメンバーたちが「原子力発電 所が必要悪であるならば、水俣病もまた必要悪となるのではないか」と主張す る根底には、彼らが共通して近代工業社会批判を水俣において展開しようとし ていたことの確かな証拠である。調査団のメンバーたちにとって、「日本の産 業発展のため」という目的が掲げられると、水俣病は必要悪として是認される。 必要悪を認めないのは、水俣で活動をおこなう研究者たちの立場性を如実に現 していた。
33 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 33 3.2 社会調査研究が立つ位置 『水俣の啓示』(下)に掲載された、調査団メンバーを中心とした座談会にお いて 5 年間におよぶ調査の内容とその成果について議論の場がもたれているが、 その席上、「市井-最首論争」について、鶴見和子は以下のように述べている。 わたしはいろんな方の〔両論文が掲載された上巻の〕反応を聞いているので すけど、大変不思議な本の読み方がなされているということに気がついたのです。 それはこの本の最後の論文(最首さんの論文)だけ読んで、この本がどういう本 であるかということを判断するということです。わたくしにとっては非常に不幸 だと考える読み方がされているということを聞きました。(色川 1983b: 499) 本章の冒頭でも述べたように、社会調査をおこなう際に、その調査団に通底 するものの考え方あるいは立場というものが存在すべきかどうかは、とりわけ 「市井-最首論争」を通して浮き彫りにされる問題である。鶴見は、市井論文 を引き合いにだして改めて水俣病問題を近代化という視点で論じている。 わたしは市井論文がああいうふうな〔否定的な〕反応をひきおこしたというの は、(淘汰ということばを使う必要があったかどうか、そこは一つ問題ですが) やはり現代の文明が進行していく中で、一番弱いものが切り棄てられるという 問題があるということ、そういう問題だと思うんです。⋯⋯それが近代工業文 明だと思うんです。一番弱いところが最も強い犠牲を強いられる。(色川 1983b: 500) 鶴見は、そのような状況において、被害者たちが「この本を読んでいると出 口なしになっちゃう」と述べ(色川 1983b: 501)、自分たちの報告が近代工業文 明の持つ負の側面を明らかにしたに過ぎないことを課題として受け止める。そ の一方で石牟礼の文章には、その「出口なし」の状況に「どんでんがえし」が あるとする。そして、自分たちの報告も、そのようであるべきだ、と考えた。 しかし、市井は、近代工業文明の負の側面を認めつつ、その漸進的改善のため の議論を試みたものと思われる。この負の側面を認めるか否かが、「市井-最 首論争」の決定的な分かれ目であった。 社会調査における、調査者と被調査者の関係において、鶴見に代表されるよ うな被調査者たちの立場に寄り添う形が正しいのか、それとも市井のように、 被調査者たちの意見に阿ることなく論を展開すべきなのだろうか。この問いは、 この調査者のもつ立場にかかわる問題として、同時期に展開された「似田貝- 中野論争」で争われた「共同行為」をめぐる論争を想起させる。 3.2.1 「不知火海総合学術調査」は社会調査を通じた「共同行為」たりえたか 今日の社会学の研究手段として必要不可欠なものとして社会調査があるが、 「不知火海総合学術調査」が開始される 1970 年代中頃を中心にして、社会調 査・社会学的研究のあり方をめぐる論争が展開されていた。所謂「似田貝-中 野論争」がそのひとつであるが、いまなお社会学の主要な検討課題である8)。 「似田貝-中野論争」は、似田貝香門が創刊間もない東京大学出版会刊行の 『UP』に、「社会調査の曲り角――住民運動調査後の覚書」という論文を掲載 したことに端を発する。似田貝は、東京大学大学院社会学研究科博士課程を 1973 年 3 月に単位取得退学し、翌 4 月から山梨大学教育学部の専任講師とし て赴任する。新たな生活環境のもとで、その年の末から開始した社会調査に関 連した文章がそれである。似田貝の論文は、「新全国総合開発」に対して反対 運動をおこなっている地域における、開発政策と住民運動という問題関心から おこなわれた社会調査の後に著されたものであった(似田貝 1974: 1)。この社 会調査において似田貝が抱えていたもう一つの課題は、「60 ~ 70 年にかけて の地域社会の変動によって、従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的で はなくなってきていることから、これまでの『地域調査法』を再検討」するこ とにあった。『UP』に上梓された論文は、似田貝の第二の課題に対応するもの であった(似田貝 1974: 1)。 似田貝の言う、「従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくな っ」(似田貝 1974: 1)たというのは、どのようなことを具体的に示しているの だろうか。似田貝が抽出したのは、第 1 に、住民運動参加者による、研究者へ
340 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 341 の強い不信、第 2 に、研究者の調査対象に対するかかわり方に対する関心、第 3 に、研究者から住民運動参加者への情報・知識の提供要求、以上の 3 点であ る(似田貝 1974: 1)。 似田貝の上記の問題意識を演繹的に捉えれば、似田貝の導きだそうとする新 たな社会調査方法論上の課題とは、第 1 に、研究者が住民運動参加者に(少な くとも)不信感を抱かれないように、第 2 に、研究者は調査対象に対するかか わり方を明確にする必要がある。そして、その場合、研究者は調査対象のその 後に対して無関心であるということは許されないだろう。したがって、第 3 に、 研究者は住民運動参加者に対して、戦略的な情報・知識の提供をおこなう。似 田貝は、この結論を一言で「調査者-被調査者との〈共同行為〉」と表現する のである(似田貝 1974: 7)。 似田貝の言う「共同行為」以前の社会調査において、「被調査者の調査者へ の執拗な質問や疑念は、かつての調査であれば、調査者が被調査者への、いわ ば制度化された前口上でことたりた」(似田貝 1974: 2)と、福武直の『社会調 査の方法』を引き合いに出している。そして、これまでの社会調査について、 似田貝のスタンスは手厳しい。 被調査者の調査者への先のような質問や疑念や不信は、調査技法によるラポー ト関係や客観的調査を行おうとする調査主体の客体へのみせかけの人間関係4 4 44 4 44 4 4(調 査者-被調査者関係)への鋭い問題提起なのである。(似田貝 1974: 2) この似田貝の従来の社会調査へのまなざしは、社会調査を擁する社会科学そ のものへの疑念へと展開する。 こうした社会調査の集積によって整理された社会科学の知識体型の専門性とは 一体何なのか。⋯⋯人々の、〈専門性〉や〈共同行為〉への疑念や不満は、より 根源的には、今日の社会科学における問いのたて方、実証の仕方、あるいは、社 会科学者の存在の仕方についての根本的な反省と結びつかざるをえないだろう。 (似田貝 1974: 2) 似田貝は、社会科学の科学としての存在意義に踏み込んでいく。その背景に は、「住民運動の担い手達が調査そのものに“いらだち”を感じ、他方で、近 代技術や科学によって武装された行政計画者(プランナー)に対抗・対峙して いくという運動状況」があった(似田貝 1974: 6)。さらに、似田貝は、科学的 根拠のもとにおこなわれる調査結果の「利用や情報公開を含めた処理が、権力 の側にからめとられていく」ということと(似田貝 1974: 3)、「調査による数値 は、現実の不確定要素を切り捨てた水準で成立している」ということを指摘し (似田貝 1974: 3)、研究者の科学的知見は、被調査対象者たちにとっての「リ アリティ」を失っていくとする。そのうえで、似田貝は、調査者たる研究者が 立脚するふたつの立場を明らかにする。 人々は専門研究者が、科学と政治過程(政策)との間で、二重状況に置かれ ていることを周知している。つまり、研究者が科学のもつ客観的自立性そのもの へ自己撞着するか、あるいは、住民の側のリアリティを抄うことによって既存 知識体系そのものへの対抗者になるか、さらには、科学的調査が〔ママ〕政策そ のものになんらかの意味で適合化させていくか、それとも、リアリティを抄うこ とによって政策の「非合理性」への対抗者となりうるか、という二重状況である。 (似田貝 1974: 5) 一方、似田貝の提案した「共同行為」に対して迅速に反論を提起したのが、 中野卓であった。彼は、翌年の『UP』に「社会学的調査と「共同行為」── 水島工業地帯に包み込まれた村々で」という論文を掲載し、似田貝を批判した。 中野の似田貝批判は、非常に単刀直入である。 調査地区の住民たちに、もし我々が「共同行為」などという言葉を使ったとし たら──、もし、市役所の人々に対して「彼ら」と呼び、その住民たちと我々調 査者が、あたかも共に歩む者でもあるかのように「我々は」などと呼びかけたと すれば、彼ら公害地区住民は我々をはねつけたろう。甘ったれるな。あるいは丁 重にこう言ったかもしれない。思い上がらないで下さい、と。(中野 1975: 5)
342 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 343 中野は、似田貝の共同行為を調査者・被調査者の認識上の問題として捉え、 これを批判した。すなわち、当時には「当事者研究」という研究スタイルは無 いものの、中野が理解した似田貝の「共同行為」への理解は、当事者研究をお こなう人たちが唯一架橋できる、調査者=被調査者といった認識であった。確 かにそれは無理であるだろう。しかし、似田貝は、中野が批判するような意 味で「共同行為」という言葉を使用したわけではない9)。似田貝にしてみれば、 中野の批判に対する再反論は、すでに 1974 年の論文の中に存在しているので あろう。 人々は、私達が専門の研究者であることを十分に承知しており、しかも、当面、 調査-被調査という関係の枠組みそのものを取り払うことを要求しているのでも ない。(似田貝 1974: 2) この争点は、「不知火海総合学術調査」 において、一層明確になる。調査団 を構成する調査者たちは、フェリーで九州に到着して以来、石牟礼を中心とし た「魂入れの儀式」によって、使徒として遇された10)。被調査者と使徒とし ての調査者たちの立場には明らかな距離があった。 また、似田貝と中野をともに批判した安田三郎は、似田貝や中野の調査者- 被調査者関係における、調査者を調査技術者と調査研究者のふたつに分解し、 一方の調査技術者は状況に応じて被調査者との共同行為を採用することがあり 得るとした(安田 1975: 491-492)。1974 年の自らの「共同行為」概念について、 似田貝は、1996 年の『環境社会学研究』に投稿した論文「再び『共同行為』 へ──阪神大震災の調査」において再度取り上げ、その概念的精緻化を試みて いる(似田貝 1996)。 似田貝は、阪神大震災における社会学の位置について、「残念ながら社会学 は、震災に関する自然科学的専門性を持ち合わせておらず、また不動産学、建 築学、街づくりプランナー、弁護士、医療関係者、福祉関係者等のように、被 災者の生活復旧への支援に関する専門的知識・技術を持ち合わせない学問であ る」と前置きしたうえで、「現実科学としての社会学」の実践を考察する(似 田貝 1996: 52)。そこには、似田貝が大学に所属する研究者として、調査研究を 始めたばかりの 1974 年ごろから一貫して抱き続けた問題意識があった。 学会の動向は、現実を言説分析として把握することに関心が集中し、現実問 題の構造やその解決へ向けての経験的で実践的な専門家を育てることを明らかに 怠ってきた。(似田貝 1996: 52) この教訓に対して、似田貝たちが、震災現場の調査において明らかにしたこ とは、第 1 に、行政の対応に、緊急事態の際のマニュアルが存在せず、いつま でも初動的状況にあったことであった(似田貝 1996: 54-55)。第 2 に、海外では さかんな社会開発学なる学問分野が日本では未発達であることにより、NGO などのボランティア組織が育たないということであった(似田貝 1996: 55)。 似田貝たちの社会調査によって明らかとなった以上の課題に対して、似田貝 の調査者と被調査者との「共同行為」、調査をおこなう研究者と被調査者との 「共同行為」とは何であるといえるか。それは、第 1 に、緊急状況にあっても 「シビル・ソサイアティ」がきちんと機能するべく具体的問題の経験を生かし た理論構築をおこない、それらを学界や官界において定式化しておくこと、第 2 に、社会開発論においてボランティアの組織論を構築すること、であった。 3.2.2 『水俣の啓示』と「共同行為」 「不知火海総合学術調査」において、調査者と被調査者との「共同行為」と はいかなることを言うのであろうか。石牟礼の要請に応えているか、というの が可能的回答のひとつであろう。調査報告書のタイトルに「啓示」という言葉 が使用されている。広辞苑によると、啓示とは宗教用語で、あらわし示すこ と。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽い を除いてあらわし示すこと、とある。「水俣の啓示」という報告書名は、調査 団のメンバーが神ならずとも使徒として遇されてきたことと無縁ではないだろ う。『水俣の啓示』(下)の最後の部分に色川は、調査団が成しえたことを簡潔 に述べている。
344 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 34 私たちの仕事は力不足で、未完のものでした。しかし、私はこうも思い直す のです。専門や立場を異にしたこれほど多様な研究者が、ほぼ一つの志をもっ て、七年という長い間、苦労してきたことは決して無駄ではなかった。今まで光 をあてられたことのない水俣のいくつかの深い部分に光があてられ、一つの地域 が、一つの事件が、細やかに全体的に、その姿を描き出された。水俣の「啓示」 はそれぞれに汲みとられた、そういう意味で、この仕事は歴史に残るものになろ う、と。(色川 1983: 502-503) 水俣の研究史という観点から見て、この調査研究が有意義であったかどうか については、後の第 4 次まで続いたとされる「不知火海総合学術調査」に、こ の研究がどのように継承されていったのか、あるいはそれ以外の研究にどの程 度参考とされたのか、これがひとつの判断基準となる。これについては、水俣 病問題に関する研究史を詳細に明らかにしなければ、確たることを示すことは できない。今後の課題である。しかし、「不知火海総合学術調査」が水俣病被 害を明らかにした最初期の人文 ・ 社会科学研究である以上、その近代工業社会 への批判は、その後の研究活動に強い影響を与えたと考えられる。その後の水 俣研究が、国家や近代社会といったフレームに対置する形で論じられ、そうし た論を受けて、被害者もまたその社会に内在する存在であるということから、 水俣病被害者でありながら、被害者認定の申し立てを取り下げる緒方正人のよ うな人物を生み出すことにもなった。そして、「不知火海総合学術調査」が水 俣病被害者たちの運動を調査対象として取り扱わなかったのは、調査団のメン バーが上記のような国家や近代社会といった大きなフレームで水俣を観察し、 そのフレームに抗する被害者たちとして、彼らの活動を一元的に認識していた ことと無縁ではないだろう11)。 本章の 1 節で取り上げた桜井の言及のように、調査団という名目上、立場的 には多様なメンバーから成っていても、対外的には共通の目的の下に調査研究 を遂行しなければならない。したがって、市井論文のような内部不和に対して は、組織の面目上、両論併記の形で批判しておかなければならない。さもなけ れば、市井論文を許容する集団であるとして、調査団全体が批判にさらされか ねなかった。しかし、学問上の議論であれば、市井論文のような議論が存在す ること、それ自体は問題であるとはみなされないが、調査団の共通見解として 水俣病被害者に寄り添った結果、最首論文の登場となり、「市井 ‐ 最首論争」 が報告書において現出したのである。その意味で、水俣における人文 ・ 社会科 学研究の試みは、近代工業文明をその批判の中心にすえながらも、研究という 営みが抱える近代性を拭いきれないという限定を露呈した。それは、石牟礼が 念頭に置いていたように、学問が「現地のひとびとの目の網」にとらわれるこ とを意味した。再編された『新編 水俣の啓示』に収録されなかった旧編の内 容こそ、第 1 次「不知火海総合学術調査団」自体への肯定的な評価とは裏腹の 「成果」を残したといえるのでないだろうか。 [注] 1)この段落の内容は、原田(1972: 15-29)の内容を要約したものである。 2)実際に現地調査がおこなわれたのは、1976 年からの 5 年間である。 3)色川大吉は社会科学班と呼称したが、民衆史家の色川本人や、調 査団結成時のメンバーではないものの、のちに調査団に合流する哲 学者市井三郎など、人文科学的要素も含まれていた。 4)一般に知られる経歴では、石牟礼道子は、熊本県天草郡宮野河内(現 天草市)の出身となっている。しかし、祖父と父親が営んでいた建 設事業の関係で、家族が一時的に滞在していただけで、自宅は、葦 北郡水俣町(現水俣市)栄町にある。1927 年 3 月 11 日に宮野河内 で出生後、3 ヶ月経つ頃には自宅に移り住んでいるので、栄町を石 牟礼の出身とした(石牟礼 2004: 241)。 5)環境思想史における 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての代表的 な思想家・活動家で、特に国有林・国立公園の成立に大きな影響を 与えた。彼が仲間と共に設立し、初代代表を務めたシエラ・クラブは、 現代アメリカ合衆国を代表する環境保護団体となっている。サンフ ランシスコ市の水源としてカリフォルニア州ヨセミテ国立公園の水 源開発にかかわる全米を巻き込んだ論争にも深く関与した(Jones 1965; 森下 2010)
34 第 2 部 社会調査の実践的課題 第 2 章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 34 6)色川の説明によると、トヨタ財団からの 3 年間の助成額は、総額 1007 万円となっているが、トヨタ財団の記録によれば、助成額は、 76 年度が 300 万円、77 年度が 384 万円、78 年度が 310 万円であり、 総額 994 万円となっている(トヨタ財団 2006: 7, 9, 10)。 7)「脱集計化とは、概念というよりも問題にアプローチする際の構え 方である。〔アマルティア〕センによれば、これまでの開発経済学は、 富と貧困の指標として、国民生産や総所得、総供給といった集計化 されたデータに関心を集中しすぎる傾向があった⋯⋯究極的に重要 なのは、具体的な顔をもつ個人の福祉の増進である。しかし、そこ まで一挙に脱集計化を進めると経済分析としては意味をなさない。 そこでセンは、個人と国家のあいだのさまざまな中間項に注目する。 すなわち、一国の経済が困難に直面する場合、それが地域、所得階層、 職業集団、性別、年齢の違いに応じて人々に不均等に打撃を与えて いくプロセスを、できる限り丁寧に検証しようとするのである。」(峯 1999: 15-16) 8)2001 年 11 月に一橋大学で開催された第 74 回日本社会学会大会で は、社会学の社会調査をめぐっての議論が展開された。「似田貝- 中野論争」は、こうした議論の際の基本的な論点を提出してきた。 9)「似田貝-中野論争」を検討した井腰圭介の社会学史研究に拠ると、 似田貝の「共同行為」に対する中野の誤解をいち早く指摘したのは、 安田三郎であった。安田は、似田貝や中野の論じる調査者-被調査 者の関係には、実は権力という第三極が存在し、その第三極と調査 者・被調査者という三者関係においては、時として調査者と被調査 者は共同行為を採用することもあるとした(安田 1975: 491-492; 井 腰 2003: 36)。 10)調査団団長の色川は、この「魂入れの儀式」を当初「最高級の歓迎、 一種の余興」と受け止めていたが、この魂入れの儀式によって、「神 さまに「使者」を派遣して下さいと願かけた人は、ひきかえに自分 の命をさしだしていた」ということに後に気がついたという(色川 1983a; 9)。 11)『水俣の啓示』下巻の座談会の記録では、調査団メンバーたちと 水俣の人たちを架橋した土本が、調査団がなぜ水俣病被害者たちの 運動を取り扱わなかったのか、という率直な疑問を投げかけている (色川 1983b: 473-474)。 [文献] 原田正純,1972,『水俣病』岩波書店. 市井三郎,1974,「『近代化』と価値の問題」鶴見和子・市井三郎編,『思 想の冒険──社会と変化の新しいパラダイム』筑摩書房 : pp.27-55. ────,1983,「哲学的省察・公害と文明の逆──水俣の経験に 照らして」『水俣の啓示:不知火海総合調査報告(上)』筑摩書房: 391-412. 井腰圭介,2003,「社会調査に対する戦後日本社会学の認識転換── 『似田貝─中野論争』再考」『年報社会科学基礎論研究』2:26-43. 色川大吉編,1983a,『水俣の啓示:不知火海総合調査報告(上)』筑 摩書房. ────,1983b,『水俣の啓示:不知火海総合調査報告(下)』筑摩書房. 石牟礼道子,2004,『妣たちの国:石牟礼道子詩歌文集』講談社. Jones, R. Holway, 1965 John Muir and the Sierra Club: The Battle for
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