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「文革」中の沈従文の小説 :「来的是誰?」

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(1)文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 「文革」中の沈従文の小説. 2 0 0 9 .9. 「来的是誰 ?J 福家道信. 1.沈従文と文学の機縁 2007年 1月「吉首大学学報(社会科学版 H 第 2 8巻に、沈従文 0902 1 9 8 8 ) が「文革」期の 1 9 7 1年に書いていた小説「来的是誰 ?J が発表され た。これは沈従文の甥で著名な美術家、黄永王 0924-) の家系に関して 構想された長編小説の官頭部分であって、字数にして 8千字余り、沈従文の 生前には発表されることのなかった手稿の活字化である 1110 沈従文は長らく、 1 9 4 9年の建国時を境として、小説創作を放棄したと考 えられてきた。従って、沈従文の読者にとって、とりわけ彼の小説の読者に とって、今回の発表は興味深いものがある O もっとも、「沈従文全集」を見れば 2 7巻「集外文存」に収録された『忘履. 9 5 0年より 1 9 8 2年までの聞に書かれた彼の小説草稿 5編、散文 集』には、 1 I編、創作計画 2編が収録されている比つまり、沈従文は建国後も小説創 作を完全に放棄していたのではないのであって、『全集(以ドこのように記. J のこの「忘履集』冒頭の評語には「本人は、もともと道を歩けるもの す) なら、たとえ何かの理由でそれが不都合であろうと、夢の中や日常生活の中 で、常に往年の空を飛ぶような健脚ぶりを思い出し、新たな努力の中で本来. 9 4 9年以後、 の自分を取り戻すことを試みる Jとの沈従文の言葉を引用し、 1 彼は執筆能力を回復するために、何度も手探りの努力を行い、いくつかの、 発表するまでには至らなかった文学作品を書いていたと記している注. o. 確かに、建国期前後から以降の沈従文と文学との機縁は、近年公表された 年譜の面からも確認できる。以下、この側面について確認してみよう。. 7巻のほかに、文物考古に関する「物質文化史 J5巻 文学創作と書信等 2 2巻が出版されたのは 2 0 0 2年末だったが、その 5ヶ月後 を含めて『全集J3 1 5 4. (4 1).

(2) 「文革J中の沈従文の小説. 「米的是誰 ?J 福家. に「全集』の附巻として「資料・検索』巻が出版された注. o. そこに収録さ. れた「沈従文年表簡編」を見れば、 1949年 1月上旬、郭沫若の「斥反動文 芸」全文が北京大学に張り出され、これに引き続き脅迫状を受け取るなどの 出米事があって、強度の精神失調をきたした沈{注文は、同年 3月 28日に自 殺未遂を行い、精神病院に入院した。 4月に彼が退院した時には、すでに北 京大学国文系での沈従文の講義はなく、沈従文は病身のまま、同大博物館移 転に伴う磁器、漆器、織物、苗族刺繍等の展示準備に尽力している注 5。つ まり、この時期が沈従文にとって、文学者から文物考古の研究者へと切り替 わる正に分水嶺に相当する時期だった。ただ、病中にあった沈従文は、同年 譜によれば同じ年の 4月 5月の聞に新詩を書いている。一方、 6月には往年 の親友、了玲と会い、丁玲はその後も何其芳を伴って沈従文を訪問し「自分 の過去を捨てるのは早ければ早いほど良 L、」と言っている注. o. 「新中国」へと時代が移り変わる状況の中で、沈従文の前には、小説家と して再起を図るか、文物考古研究者として新社会のために残りの人生を奉げ るか、二つの選択肢があった。魂の深奥から間断なく湧いてくる文学への思 い、その断ち切りがたい内面からの声に従うなら、選びたいのは小説家の道 であったかもしれな L、。だが、それは新しい社会の政治の表舞台で生きるこ とを意味した。一方、沈従文が自らの興味と独自の学習によって蓄積してき た絵画、書道、民間手 : r 芸等の文化財に関する知識と素養は、 1949年の時 点で、すでに専著の論文が書けるほどのものになっていた。 1 9 5 0年以降、 1 0年ほどの問、年令でいうと 48才から 60才すぎまで、沈. 従文は文学創作に対する執着と政治への距離感とのあいだで揺れ動いてい た。政治の側からの誘いは、沈従文にとって時に悩ましいものであったかも しれない。 1 9 5 0年 3月、沈従文は華北大学に入り、続いて華北人民革命大学に移り、. 革命大学の食堂の調理師と知り合いになり、やがて、この人物について短編. 7巻に収められてい 小説「老同志」の執筆を試みるが失敗に終る。『全集J2 (4 2). 1 5 3.

(3) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. るのはこの作品を書き直した第 3稿である注. o. 2 0 0 9 .9. 1 9 5 2年の前半には、前年 1 0. 月から四川省に赴き参加した農村地下改革の体験をもとに、「中隊部一川南 土改雑記ー」を執筆している注目。 1953年秋に開催された第 2次全国文学芸術工作者代表大会に工芸美術界. 代表として出席した沈従文は、会議の開催期間中に毛沢東との接見を受け、 毛沢東から「もう何年か小説を書いてはどうだ」と激励をされている O これ との関連であろう O 相前後して、胡喬木、周揚、厳文井らから沈従文は、文 学創作の現場にもどり、専業の小説家となることを勧められている O しかし、 結局、彼はこれらの誘いを謝辞して、 1949年 8月以来籍を置く、中国歴史 博物館で働き続けることにする注. o. ちなみに、 1953年は開明書自が、沈従文の作品の印刷済み、及び未印刷 の原稿と紙型について、時代遅れという理由により、すべて焼却すると彼に 通知した年であり、台湾においても、政治的理由により沈従文の一切の作品 が出版禁止となった年である注 100 1 9 5 5年には、上記「中隊部. 川南土改雑記ー」同様に、土地改革に参加. した見聞に基づくと思われる小説「財主宋人瑞和他的児子」の執筆にとりか かり、この年は完成せず、 1958年 2月に完成するものの、「全集』に収録さ れるまで発表されることはなかった注 110 I 老同志JI 中隊部. 川南土改雑記. 財主宋人瑞和他的児子」は、いずれも「人民文学』に掲載されても恐 ー JI らくさほど違和感のなさそうな内容の作品である。沈従文は 1952年に丁玲 に書簡とともに「老同志」の第 3稿を送り、彼女に意見を求め、発表先の斡 旋も依頼しているが、後にこの作品は彼に送り返された注 120 1 9 5 6年 1月、沈従文は全国政治協商会議特別招待委員に選出され、同会. 議の席上、過去の政治的態度を自己批判し、是非とも「荒廃して久しい筆を 執り、新時代を謡歌賛美しなければならない」と発言した注九以上のよう な一連の動きは、文学創作への復帰に傾く沈従文の足跡の揺れと見て取るこ とができょう。 1 5 2. (4 3).

(4) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福 家. 1 9 5 7年、沈従文 5 5才の年、彼は最高国務会議に出席し、そこで、毛沢東 の講和「関於正確処理人民内部矛盾問題」を聞く. O. この頃、周揚は前年に打. ち出された「百花斉放、百家争鳴」の方針を貫くべく、『人民文学』主編の 厳聞井に「君たちは沈従文に会いに行くべきだ。彼が出て来るなら、君たち の編集にとって一つの勝利となる」と話した注 140 沈従文は、この年『人民 文学Jl 7月号に京劇に関する雑文「胞龍套」を、また 8月号に雑文「一点目 憶、一点感想」等を書いているが、小説を発表したわけではな L、。彼は 8月 に青島へ行き休養した際、知識分子がポーカーに興じることを批評した短編. 0月に人民 小説を書こうとして、不成功に終っている注 15。そして、この年 1 文学出版社より「沈従文小説選集」が出版される。建国以来 8年目にして出 た旧作のアンソロジーである。 ついで、翌年、 1 9 5 8年、反右派闘争収束後の文芸界のある会合の席上、 周揚は、北京市文聯主席の職を、老舎から沈従文に引き継ぐことを提案する が、沈従文はその場で辞退している注 160 こうしてみると、沈従文は必ずしも文学創作から完全に縁を切ったわけで はなく、むしろ、創作活動への復帰まで、ほんの一歩手前という位地に身を 置いていたように推察される。 実際、 1 9 5 9年 1月、沈従文が兄、沈雲麓に当てた手紙の中では、文物考 古の研究が、はかばかしくは進まないので、「専業作家」になったほうが すっきりするとの旨を書いているほどである柁 170. 1 9 6 0年には、年頭に提出した計画書において、 1年間の休暇を要請し、 妻、張兆和の一族の革命烈士、張鼎和に関する長編伝記小説の執筆を構想、 し、年内にできれば 2 5万字の初稿を完成する積りでいた。この小説の第 l 章が同年 9月に完成した「死者長己失、存者且像生. ! J であり、『全集Jl 2 7. 巻に収められている仕 18。この作品が書き継がれず、長編小説の構想が未完 成に終ったのは、 1 9 5 9年 7月頃より興味を持つようになっていた「中国服 飾史』執筆の着想がふくらみ、 1 9 6 0年にはそれの目録作成等に没頭するよ. (4 4). 1 5 1.

(5) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. うになり、二つの仕事のかけもちのため、冬に入り血圧が上昇して体調不良 をきたしたことと関係が有るだろう注 190 後に『中国古代服飾研究」として出版される大著のプロジェク卜が周思来 の指示によって正式にスタートしたのは 1963年末のことで、翌 1964年末に は最初の試行本が作成される予定であったが、政治状況の緊迫化によって見 送られた注 200 以上、 1949年、沈従文 47才の年より彼が 62才を迎える 1964年まで、 1 5 年ほどの歳月を、近年の年譜資料によって振り返ると、彼と文学創作との機 縁は、考古文物の研究という表看板の後で脈々と息づいていたことが確認で きる。. 2 .I 来的是誰 ?J 「来的是誰 ?J は、沈従文が生前に手がけて未発表のままに終った作品の. r. 一つであり、作品資料としては、『全集Jl 27巻『集外文存Jl 忘履集』所収 の同種類の資料 5点に付け加えるべきものであろう。新出資料として、この 作品のもつ価値はどれほどのものがあるのか。『吉首大学学報』に掲載され た黄永玉の劉ー友宛手紙には、これを「解放後唯一のー編の小説」と記して あり、この作品の稀有な価値を強調しているかのように思えるが、これは黄 永玉なりの判断なり、何らかの意味をこめてのことだろう注 21。年譜資料と 『全集』を見る限り、中華人民共和国建国後、沈従文が執筆を試みた小説は この 1編だけではない。そして、これを 1編の作品と呼ぶにしても、実は未 完の長編のほんの出だしの部分に過ぎな L、。その点では、『忘履集』所収の 「死者長己失、存者且像生!J と同様であり沌 22、同じ未完の長編作品にして も『長河』の豊かな分量と内容には遥かに及ばない。 しかし、小説の構想が全的に開花しきれないのは、それなりに、作者が所 与の人生において遭遇し、時代状況の中で担わざるを得なかった事情という ものがあるであろう。そして、わずかな芽生えしかわれわれには観察できぬ 1 5 0. (4 5).

(6) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. としても、芽生えの背後に秘められたエネルギーや全体性への志向を感じ取 るなり、ある程度まで想像することは可能であろう。 「来的是誰 ?J から受ける印象は、『忘履集』所収の 5編の作品と較べた場 合、確かにはっきり違うものがある。『宏、履集」の「老同志 Ji 中隊部一川 財主宋人瑞和他的児子」の 3作品は、 1 9 5 0年代前半での自 南土改雑記ー Ji 己批判と思想学習の成果を反映すべく、土地改革運動での見聞をもとに書か れたものである注お。一方、『忘履集」の「死者長巳失、存者且俄生!Jは 、 すでにふれたように、沈従文夫人である張兆和の一族の、革命烈士、張鼎和 について構想された長編小説の冒頭部分であって注 24、情熱に燃え、若くし て死亡した知人や友人の生命を描くことは、沈従文にとって作品創作の重要 な一角を形成していた。 「来的是誰 ?J は、黄永玉の家族の歴史に関する長編小説の冒頭部分とは いえ、作中に登場する正体不明の老人は、「文革」中、農村に下放された沈 従文その人のようでもあり、あるいはすでに冥界の人となった沈従文の霊の ようでもある O いずれにせよ、この老人には沈従文の影があり、その影の出 所とは、 1 9 4 9年の自殺未遂事件以来、中国社会の激動を潜り抜け、人生の. 0才を目前にしてさらに「文革」の嵐に翻弄され、日々、 生き直しを図り、 7 生存の不安に脅かされている沈従文の日常なのである。. 9 5 0年代におけるような、新し つまり、この作品にうかがわれるのは、 1 い社会状況に適応しようと、それなりに必死に努力している作家のイメージ でもなければ、往年の小説の作風とテーマを、比較的忠実に復活させようと した印象のものでもな L、。歴史的状況を見ても、個人の生活状況からして も、まったく袋小路に行き着いたかの観のある老人が、人生の粁余曲折の果 てに発する、暖昧で複雑微妙なメッセージの集合. そのようなものが、. この作品から感じ取れるのではないか。およそ、このような読後感からして も、この作品は一見の価値があるのではないかと思われるのである。 さて、「来的是誰 ?J の原稿は 1 9 7 1年 5月、当時、湖北省戚寧の文化部 (4 6). 1 4 9.

(7) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. 五七幹部学校に下放され、双渓の農村で生活していた沈従文によって起草さ れ 、 6月 1日に完成した後、沈従文によって州北省磁県の中央美術学院五七 幹部学校に下放中の黄永玉のもとに送られた注ヘ 時間的に相前後するが、 1 9 6 6年、沈従文は「文革」の開始直後より「反 動的学術権威」として批判対象とされ、給与の大幅な減給、合計 8回にわた る家宅捜査、東堂子胡同の家屋の 3部屋のうち 2部屋の没収、蔵書の廃棄、 合計 6 0数回に及ぶ査問等の迫害を受け、 1 9 6 9年 6月にようやく「解放」さ れた注 260 ついで、同年、五七幹部学校の開設とともに、張兆和夫人が湖北 省成寧の文化部五七幹部学校に下放されることになり、沈従文は最高血圧が 2 1 5に達する体調不良のために夫人を見送りにゆくこともかなわなかっ たれ7。そして、同じく 1 9 6 9年の 1 1月 30日に、沈従文も長男沈龍朱に付き 添われて、湖北省戚寧に下放されるが、現地では受け入れ人員の名簿に彼の 名前はなく、進退窮まった末に、 4 5 2高地の宿舎で仮住まいをする O これ以 降 、 1 9 7 2年に周思来総理宛てに直訴の手紙を書いて北京に帰るまで、約 2 年 3 ヶ月の問、双渓の劣悪な生活環境下で、転居を繰り返しながら生活し、 血圧がひどい時は 250-150、常時で 220-120という高血圧、心臓病の悪 化、関節痛などの体調不良に苦しみ孤独な日々を過ごす 11280 この期間中の沈従文の日常生活の心境は『沈従文家書. 上・下』の『那行. 書簡』に収録された沈従文本人と張兆和夫人、沈龍朱、沈虎雛ら家族の手紙 を通して推察できる注 29。今、ここでそれを詳述するのは差し控えるが、沈 従文の手紙に繰り返し書かれているのは、単調な日常生活の喧事を除けば、 日々の体調不良の問題、北京に戻り治療を受けたいが、申請しても受け入れ られそうにないこと、そして、文物考古の領域での人事関係の不合理と、自 身の開拓蓄積した研究領域について、十数項目にわたって論文を執筆したい こと等である。また、これらに加え、家族や親族への思いやり、とりわけ孫 の世代についての関心、そして、日常生活のなか、身辺で見かける家畜や家 禽の可愛らしさ、村民男友の労働風景などが挙げられよう。一々の手紙の字 1 4 8. (4 7).

(8) 「文革J中の沈従文の小説. 「来的是誰 ? J 福家. 数は、年令と体調を想像すれば驚くほどに多く、内容は濃密であって、知的 エネルギーの旺盛さを思わせる。その一方で、彼は家族と離れ、仕事の資料 来 とも隔離され、農民とも隔たりがあり、強烈な孤独感に襲われている o I 的 是 誰 ?J が生み出されたのは、およそこうした生活状況の中からなのであ る 。 ゐは「来的是誰 ?J の原稿が届いた当時を振り返って次のように書い 黄永二F ている。 …・・・空けてみると、何とそれは、わが黄家の家系に関する長編小説の 模子の部分で、情調は哀切にして、幻想的神話的な意味に富むものであっ た。労働から帰り、夜、寝床について、あのような場所、あのような時、 あのような条件のもとで、にわかに老人が真正面から本格的に執筆に取り 組み、蝿頭行草の字体でもって、あれほどまで悠々とした小説を書き出し たことを思った。石頭記の書き出しも仙人と禅僧が出てくるが、今は解放 後の世の中であり、彼はいまだかつてこんなやり方で頭を働かせたことは なかった。老人が北京を離れ湖北に出発する前、思い立って訣別の場を もったことがあり、彼は手元の限りのある現金を下の世代の者に分け、私 の家も分配に与ったのであって、これを限りに、生きて帰れぬ覚悟を決め 1覚悟」というとあまり文学的でないが)。その後、政治状況は変 ていた (. 転を極め、さまざまな現象が現れては消え、老人は時と場所の体験からし て、ふと悟るところがあり、身も心も孤独につまされた彼は、情感面て、回 憶によって慰め安らぎを求めるほかなく、その最も深層にあった、これま で未発掘の幼少期の宝が曇の湧き出るように表面に浮かび、それらは大い に書く価値があり、書くと取りざたされるというほどのこともないので、 一気に 8千数百字を書いたのだ注却。 黄永玉の子紙は、いかにも彼らしい、聞達で、一種の激情を行聞に秘めた 文章で書かれていて、作品を手にした当時の彼の驚きと喜びの大きさを感じ させる。同時にこの手紙には、沈従文の原稿の特質1こついての批評と指摘が. (4 8). 1 4 7.

(9) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. 含まれており、「来的是誰 ?J の性格を把握するうえで注目しておくべきだ ろう。引用した個所についていえば、(1) I 情調は哀切にして、幻想的神話. )I 石頭記の書き出しも仙人と衛僧が出て 的な意味に富む」という部分、(2 くるが、今は解放後の世の中であり、彼はいまだかつてこんなやり方で頭を. )I その最も深層にあった、これ 働かせたことはなかった Jという部分、(3 まで未発掘の幼少期の宝が曇の湧き出るように表面に浮かび」などがそうで ある。 「来的是誰 ?J の文体表現の特徴については拙論の後半で触れる積りだが、 論述が相前後することを恐れずにいうと、(1)に関する限り、この作品を 読んだ限りでは、ここに書かれであるのは、情調の哀切さ、幻想的神話的な 意昧といった言葉で表現するよりも、いま少し地昧で淡白であり、内容的に は、日常的な印象の漂うもののように思われる。(2)に関して、黄永玉は この作品から『石頭記』つまり、曹雪芹の『紅楼夢』を連想しているわけだ が、「来的是誰 ?J の末尾のあとがきには「引子」という表現が見えるし、 作品の終わり方は実際、旧小説ふうの常套的表現を踏襲しているうえ、ここ に登場する老人が黄家の娘に突きつける言説は、「紅楼夢』の目頭をも想起 させるものであって、黄永玉の指摘は傾聴に値する O とりわけ、いまだかつ てこんなやり方で頭を働かせたことはなかった、という指摘は重要だろう O. (3)については、これまで、創作のうえで未開拓のままであった沈従文の 幼少期に関する記憶が、そこまで多く現れているのかどうか。黄永一五の家系 では、家の苗字に関する奇妙な伝承があり、黄家は本来、苗字は張であった が、訳があって黄姓を名乗っているのであって、家族が死んで埋葬される時 には姓を張にもどし、先祖との繋がりを保つという。「来的是誰 ?J では黄 永玉の家系のこのような習俗が題材に取り入れられていて、黄永王の門前に 現れた老人は、応対に出た娘に対して、この家は張水玉の家に違いないと言 い張り、娘と家族に一種の疑念を残す。確かに、この素材を取り上げるのは 沈従文としては初めてのことであるかもしれな L、。だが、それより広い範囲 1 4 6. (4 9).

(10) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ? J 福家. で幼年時代の記憶が作中に語られているようには思えない。 叔父に劣らぬ芸術家である黄永五の指摘には、極めて鋭利なものが感じら れる。ただ、彼が見て取ろうとしているものは、恐らく、沈従文の抱いた構 想全体にかかわるものであろう。 黄永玉の手紙に関して、もう一つ興味深く思える点を付け加えたし、。「来 的是誰 ?J の原稿は、 1 9 7 1年 l こ叔父から彼の子元に送られてきた後、しば らく黄永玉の子元にあったが、突然、行方不明になる。下放先から北京の纏 児胡同の自宅に帰った黄永二五は、大の親友である芸術家黄苗子 0913-) の来訪を受け、沈従文の小説執筆に興奮して原稿を黄由子に見せたところ、 黄苗子は原稿をポケットにしまって持ち帰り、そのこと自体を失念したとい. 0年余りの歳月が経過し、ごく最近になって突然、封 うのである。以後、 3 筒に「原壁帰超」の 4文字を上書きして黄永玉に送ってきた注九黄苗子の 記した 4文字はいうまでもなく、戦国時代、越の蘭相如の「完壁」の故事に 基つ、くものだが、一方、『紅楼夢』の骨子になっている数奇な運命を辿る玉 の故事というモチーフも連想させる。いずれにせよ、この作品原稿の辿った 履歴は、時代の変転の大きさを紡併とさせるものがある。. 3 .I 来的是誰 ?J の内容 「来的是誰 ?J 冒頭に書かれているのは、 1 9 7x年 1 1月のある日の夕方 6 時頃、その日の午後、西北寒気回の突然の来襲を受け、気温が一挙に零下. 1 0度前後まで下がった北京の駅の改札出口前。南方から到着したばかりの 列車から出て来た旅客の群れの中に、一人の老人の姿があり、姿恰好からす ると、その人物は南方出身のようでもあるが、北京に住み慣れた人物のよう でもある。老人は雑踏の人の流れに押し流されるようにして駅前の通りに出 た後、やがて「見覚えのある」横丁の一角にたどり着き、一軒の家の門を叩 く。その家は、黄永玉一家が住む家なのだが、応対に出て来た蝿掘と、老人 との問で交される対話は、奇妙なもので、老人は思わせぶりな沈黙の後、 (5 0). 1 4 5.

(11) 文学・芸術・文化. 2 1巻 I号. 2 0 0 9 .9. 「張」永玉はいないか、と尋ね、次に「張」黒蛮はいないか、と尋ね、さら に「張」黒掘はし、な L、かと質問する。確かに、永玉はこの家の主人、黒蛮は 永玉の息子、黒姫は永玉の娘で、対応に出ている「娠掘」本人である。しか し、彼らの苗字は「張」ではなく、黄なのだ。ただ、確か張梅渓とかいう者 もいたはずだ、と老人が付け加えたのだけは正しく、張梅渓とは黒娠の母親 なのである。それにしても、姓名の姓は違っても、名の部分に関する限り、 この人物は不思議なほどこと細かく家族の名前を知っている。この人物は いったい誰なのか。 怪しいと感じた黒姫は、心中、ムッとしながらも慎重に対応を続ける。老 人の口調は断固としているが、あやふやなところもあって、黒娠が来訪の要 件を確かめると、「別に用事はない」と言う。だが直後に「用事はある」と も言う。「この家は間違いなく張家で、表札に黄の文字が書いであるなら、 そちらが間違っているのだ、早く門を空けろ J. どこまでも自説を主張. し続ける老人を、黒姫は門の内側に入れな L、。老人は、聞こえよがしに「本 当に張の家でないというなら、汽車で帰るしかあるまい」と自問自答した 末、「文革」時、紅衛兵らが家宅捜査を行った際、対象となる家の入り口で 常用した言葉を吐き捨てて、その場を立ち去る。. I お前は誰だ、名前を. l. 。 ﹂. ぇ ,. 口 一. 謎の老人の来訪は夕食時の黄家の団繁に不可解な疑問符となって影を落と し、黒据と黄永玉は老人の姿を求めて北京駅構内を駆け巡り、正に、たった 今動き始めた南方行き列車の最後尾車輔の窓内に、黒掘はそれらしい老人の 姿を認め、老人が何か彼女に語りかけたかのように感じるが、それも一瞬の ことで、列車は行ってしまう。老人の正体について穿撃しながら、雪が降り 始めた道を歩いて帰宅した父娘は、郵便受けの中に「張永玉同志」宛てに出 された封書を見つけ、白紙の束からなる手紙に、家族らの疑問は更に深ま る。およその年齢からすると、老人は黒蛮や黒娠の祖父ぐらいの年かさだし、 家族の構成について奇妙に詳しい。或はこの老人は彼らの祖父なのであろ 1 4 4. (5 1).

(12) 「文革J中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. うか。 彼らの祖父は雲南省の農村で一人、暮らしていて、数年前に死亡した。と いっても、「文革J という国中が大混乱に陥った時世のことゆえ、祖父の言卜 報は、彼らが直接それに接したわけではな L、。最近解禁されて出版された 『柳斎志異」序文で彼らはそれを知ったのである。祖父は『柳斎志異」に注 釈を付ける作業を行っていて、序文には、祖父が死んだ後、友人が注釈原稿 を見出し、出版の運びになったという O ひょっとして祖父の霊があらわれた のだろうか。それとも、祖父が死んだというのは何かの間違いで、実際には 祖父は生きていて、わざと正体不明のふりをして孫娘をからかったのか。老 人が投函したらしい手紙の便筆には、最後の一枚に、実は次のような一文が 書いてあった。 張永玉、お前は頭が良い人間のはずなのに、「矛盾論」を読みすぎて頭の 働きが鈍り、逆効果になったみたいだ。今の今まで自分の苗字が本当は何 と言うのか、妻も子供たちも自分の苗字が何なのか知らぬではないか。世 界のどこに、頭の良い人間でこんな奴がいるものか。なぜしっかりと調査 研究をするなり、関係のある人たちに聞かないのだ。お前が帰省して墓参 りする時、墓石に何と書いてあるのか、なぜよく見ないのだ。 手紙にここまで書かれていることからして、黄永玉は手紙の主は黒蛮黒娠 らの祖父に違いなく、祖父はやはり生きていたのだろうと判断する O しかし それならば『脚斎志異』の序文に記されたことは出たらめであったのか。い かに『柳斎志異』が怪奇な幽霊や狐などの物語を収録した志怪小説であると はいえ、正式に出版された本の序文で、誤認によるものにせよ、悪ふざけに よるものにせよ、活きている人聞を、死んだと記してしまうことがありうる. のか注 320 この作品のあらすじを要約すると、以上のような内容になる。黄永玉の家 に現れた得体の知れぬ老人については、その正体が明かされぬままで終わり となる。. (5 2). 1 4 3.

(13) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. すでにふれたが、興味深いことに、作品の最後の一段落では、沈従文にし ては全く珍しいことに、次のような章回小説の語り口調が採用されている。 この一家の苗字が千字文の第 I句「天地玄黄」の「黄」なのか、百家姓 の第 6句「何呂史張」の張なのか。こんな問いが突然出て来るとは、まる で予想もしなかったことで、この一家の家族のみならず、読者とて果たし ていかなることなのか、事情をしかと知りたいところ。苗字は本をただせ ば一つの符号、ならば黄ともなろうし、張にもなりましょうが、言い出し たらきりがなく、この後 L、かにと知りたければ、まずは次回をお楽しみに。 諺にも奇遇がないことには物語もできずとやら、本物の偶然はなおこの後 にございまして、詩にも書かれています。 眼前の事を知らんとすれば、内情に通じた人に聞くべし さもなければそれこそ間抜け、うすぼんやりのまま一生の終り 世の中は万事何事も学問、子の上け、方、足の置き所にも作法あり ここに並べたるは本物の二十四史、じっくり一々講釈致しましょう注 33 (下線部は筆者による。以下同じ。) 下線を付した部分、及び最後に詩を付け加えるスタイルは『三国志通俗演. r. r. 技 J 水論伝J 西遊記」などの各回の終りに通有の常套的表現であり、起源 的には、これらの旧白話小説が書物として成立する以前、説書人と言われる 寄席芸人らが聴衆を前に上演していた当時の口調を、版本段階に至っても、 往年の語りの痕跡として留めたものと考えられる O 一家の百字に疑問を投げかけた不思議な老人の出現といい、「祖父Jの生 死に関する問題といし¥小説家としては近代的な合理性を踏まえて人間の行 き方を追求した往年の沈従文の書き方からすると、この作品は、作中に『柳 斎志異』の名前を出していることからも感じられるように、非合理なもの、 小説史でいう志怪的なものへと、あたかも、身の大部分を乗り出すかのよう にして書かれている。この点は旧小説風の語り口とともに、この作品の新し い特徴と見てよいだろう。 1 4 2-. (5 3).

(14) 「文革」中の沈従文の小説一一一「来的是誰 ?J 福家. 4 . 往年の作風との比較 この作品の質と評価に関して、先に黄永玉の手紙に注意すべき指摘が含ま れていることにふれた。ここでは、虚心にこの作品を繰り返し読み返した場 合、どこに沈従文らしい特徴が表れているのか。逆に、どこに、これまで見 られなかった特長が指摘できるのか。こうした点を、テキスト本文に即して、 文体表現のレベルで述べてみたい。 劉一友はこの作品の特徴について「内容には何割か怪奇なものがあり、文. 0 0ノf一セント備えた小説」と評している注泊。確かに小説の詩 体の特徴を 1 的語法という点では沈従文の特徴が随所に見られる。 第 1に注目したいのは、この作品の書き出し部分の北京駅改札口付近につ. いての描写である。沈従文の中長編小説は『辺城』も『長河』も、作品冒頭 部分には、物語の背景をなす土地についての地誌的記述が配置されていた。 地誌的記述の背後にあるのは、その土地についてのもろもろの出来事への興 味であり、人間の営みを生み出してきた大地に対する深い関心ということに なろう。土地と人間についての興味関心と洞察を、比較的長い作品のスペー スの中で展開することは、初期の頃から沈従文の頭の中で考えられていたと 思われ、成熟期を迎えて以降の彼の創作においては、顕著な志向性として現 れる。こうしたことを念頭にこの小説を読むと、官頭部分での、北京駅出口 付近に溢れ出た、大勢の群集に対する、比較的長い描写の性格も理解しやす いであろう O すなわち、前章の作品梗概において説明したように、作品の時間の設定. 9 7x年の 1 1月のある日、それも午後になり突如、西北寒気回の接近 は 、 1 があった日の 6時頃である。西北寒気団の接近とあるのは、要するにこの日 の午後の時点を境として北京の気候が劇的に冬型に切り替わったことを意味 する。そのような状況の中、長江以南から北上してきた列車が駅に到着し、 広東、広西、雲南、湖南の方言をしゃべる人々の混じった旅客らが、氷点下. 1 0度という寒気の出迎えを受ける O これによって、南方的なものと北方的 (54 ). ー. 1 4 1.

(15) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. なものとがぶつかり合い、北京独特の北方的な性格が際立ったものとなる。 それを群集のなかの様々な人々の動きや姿態の描写によって描く。おそらく 作者の脳裏にあったのはこのような着想だったかと推察される。 ここで、いかにも沈従文らしいと思われるのは、改札口から出てきた群集 がやがて乗物に乗る者、出迎えを受ける者、期待した出迎えの人物が見当た らず、苛立つ者など、幾つかのパターンに分化するのを、手馴れた筆致で描出 するのはもとより、以下のような観察の細やかな描写もある点だ。 …・中には母親の懐に抱かれた幼い子供もいて、南方の習慣のまま左右 の素足を外に出しているが、これで大人の気が付くのが遅れたら一大事。 よほどの幸運でもない限り、小さな両足が凍傷になりかねな L、。だが、こ ういう細かな事は、なかなか誰も気が付かな L、。それと言うのも、どの人 もみな目的があって、先を急がねばならないし、行き先に着いてしまえば もう安心なのだ。 このような場面を描く作家の筆遣いには暖かさが感じられる。さらに付け 加えると、この場面は、黄永玉の「太陽下的風景」の読者には見覚えのある 描写であって、実はこれは、 1953年、沈従文の勧めもあって、香港より妻 の張梅渓と生後 7ヶ月の息子、黒蛮を伴って北京に移住して来た黄永玉らの 姿、そのままなのである注 350 ところで¥この引用文の後半からも推察されるが、駅に到着したばかりの 旅客たちは、取り合えず先を急がねばならない。この点、では、どの人物もみ な没思想的であり、日常性そのものを露呈した姿となる。この小説は時期の 設定が「文革」の期間中であるにもかかわらず、革命の熱狂的なもの、激情 的な要素はほとんど見当たらなし、。むしろ日常的なものが作品の基調をなし ていて、その基調のなかで先に紹介したような正体不明の老人の出現という 不可解な出来事が起きる。小説が時代と社会の精神性に対して、何らかの意 味で、対崎するものとして書かれるのであるとするなら、沈従文はこの小説 をどういう積りで書いたのか。北京駅前の群衆の描写にはこのように日常性 1 4 0. (5 5).

(16) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰ワ」. 福家. が強く感じられ、作者の執筆意図について、様々な推察を誘う雰囲気がある ように,臣、う。 陳 学 瑛 の 指 摘 に よ る と 「 来 的 是 誰 ?J 冒 頭 の 描 写 は ア ン ト ニ オ ー ニ が. 1 9 7 2年に撮影した映両『中国』の北京駅前風景と似ているという注話。アン トニオーニは彼を招待した中国政府の期待に反して、「革命的情熱J に燃え た局面の撮影ではなく、生身の中国大衆の日常にレンズの焦点を集中し、中 国政府の不興をかった。沈従文が描いた駅前風景も、実際、当時はこのよう なものであったということであろうか。 今ひとつ指摘したいのは群衆の中に描かれた「鶏」である O 沈従文は、駅 前で出迎えを待つ人と迎えに来た人物が、それぞれ喜びを表して意気揚々と 接近する有様を「まるで雄鶏のよう」と書き「もしも出迎えた相手が、妻か 妻候補なら、もっと雄鶏に似てくる」と書いている。これは彼の軽いユーモ アであるが、次の例では「鶏」を使った記述がさらに拡大している。 ……南方の地ノヴの町から親戚に会いに来た人の場合は、竹篭から大きな 雄鶏が顔を出していることもあり、雄鶏の鶏冠は赤く、目はぎょろりとし て、辺りを見渡しており、どうやら言いたいことがあるらし L、。 I~ 、ったい ここは何がいいというのだ。道はつるつるで何もない。大勢の人がごった 返して、縁日に行くのでも務所入りするのでもあるまいし、何の積りだ。 ーバッタ一匹、ミミズ一匹も見当たらない」こうした印象と感想はごく まともで実際的だし、思うままをストレートに述べたものと言うべきだろ うO 何故ならこいつは外省から来た「雄鶏一羽」だからだ。雄鶏というの は大体において倣慢で、かなり主観的で、そんなに多くを期待しでも無理 だが、誰かがそいつに雌鳥で年間 300個も卵を産むのがいると教えてやれ ば、そいつは半信半疑で「そこまで頑張れるものかね」と思うだろう。と いうのも、多くの土地での経験や常識からすると、通年卵を 100個も生め はじゅうぶんなのであって、別の土地で何と雌鳥がコケッツとも鳴かずに 毎日卵を一個す、つ生んで平気な顔をしているなど、そいつには見当がつか. (5 6). 1 3 9.

(17) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. ないからである。 王捜」などで鶏の雛や雄鶏の姿をストーリー 沈従文は短編小説「会明 JI に巧妙に取り入れ、或いは日常生活中の景物としてユーモアと親しみをこめ て描いた。また、彼は同じく短編小説「牛」では農民にとって家族も同然の 牛を擬人化して、この場面と同じように、牛の気持ちを心理描写として書い たこともあった。一方、この作品を執筆した当時の書簡資料には、湖北省双 渓の生活で日常的に鶏を日にしていたことが一再ならず書かれている O 人民 文学の書き手で農村ものを描いた小説家は数え切れないほどいるであろう し 、 1980年代以降の新時期の小説家で短編小説に秀でた人物も多々いるが、 沈従文のようにユーモアと親愛感をこめて鶏を小説に書いた例は他にどれほ どあるであろうか。「鶏Jを描くということはし、かにも彼らしいと感じられる。. 次に、特徴の第 2点として取り上げたいのは、駅前の旅客の混雑の中から 現れる老人の描写であって、ここには「双関語」、つまり、二重性の意味表 出機能を付帯させた独特の表現が使用されている O この個所は作品構成のう えでは、中心人物である老人の人物像を、その外観の印象や風貌の側面から 最初に描出し、人物像の肉付け彩色に相当する作業を瞬時に行い、読者に老 人のイメージを紹介する場面である o I 来的是誰 ?J という題名からしても、 また、すでに紹介した作品の粗筋からしてもおよその見当がつくように、老 人の正体についての謎かけと謎解きがこの作品のモチーフであるとすれば、 この部分は、読者としてもやや注意深く読む必要がある。 まさにこのように例によって、普通の、毎日朝晩どの時刻にも反復され ている混雑した情景の中、午後 6時に到着した列車の特等寝台車に、これ といって目立つ所のな L、小柄な老人がいた。体つきからすれば南方の人間 のようだが、服装からすると「北京子 Jのようでもあり、人の流れのまま 駅の出口から外に押し出された時には、どことなく特別で孤独な感じがし た。この印象は多分、着古した皮襟付きの外套と、しみの入った│日式の耳. 1 3 8. (5 7).

(18) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. 覆い付き防寒帽のせいであったかもしれない。肩には一昔前のプリント地 布で結いとげた、小さく古いが相当重そうな風呂敷包みを背負っていたが、 中にはどんな「宝物」が包んであるのか、誰にも見当がつきそうがない。 そもそも、彼自身よく分かっているかどうかも怪しい。大体、この人物は もう相当な年で、動作は富市 L、し歩くのもぎこちなく、周りの人と歩調が合 わないので、前の人にぶつかったり、後の人に押されたりを繰り返す有様 である O しかし、彼は一向にそんなことは気にも留めず、全体の流れにつ いて歩いて行く注 37 ここに描写された老人の身なり格好と印象から、作者本人、つまり沈従文 のイメージを連想する人は多いであろう。比較的小柄な南方系の体格、しか し長年北京に住み慣れた人物特有の印象、そして耳覆いつきの防寒帽一 この種類の帽子を被った姿の沈従文は彼の著書の掲載写真では馴染みのもの である. これらの特徴のうえに、あと眼鏡を付け加えれば、当時の作者. の姿そのものである。さらに語りの口調に注目すると,この人物は他の旅客 のなかでは「どことなく特殊で孤独な感じ」を漂わせていて、背中に担いだ 風日敷包みには、世間一般の人に見当のつかぬ特別な物が入っていそうであ ると続く。その後の下線を付した部分「周りの人と歩調が合わないので、前 の人にぶつかったり、後の人に押されたりを繰り返す」まで読めば、作者の 筆遣いが眼前の人物の動作を表現しながらも、同時並行的に恐らくは沈従文 の経歴を暗示するように書かれているのでは、と表現の裏側の意図を推測し たくなるのは自然なことで、このような推測は深読みというには当たらな い。沈従文の個性と文壇の人々との関係は、概ねこのように総括することが 司能だからである。引用した最後の l節の原文は「随大流!Jであり、文化 大革命中に常用された政治用語をひねって使用しである。 もっとも、ここまで紹介した老人についての描写は、沈従文本人を街仰と させる要素があるとはいえ、この程度であれば「双関語」として取り上げる ほどのこともないとする見方もあろう。しかし、上記引用文にみえる一種灰 (5 8). 1 3 7.

(19) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. めかしを感じさせる書き方は、さらに以下のようなかたちで引き続き展開さ れる O かなりの数の人が一斉に近くの道路脇の地下鉄入り口に向うので、その 近くの道端に立ち止まって、しばらくの間面白そうに見入っていた。そう こうするうちに 3 0歳ほどの若者が電車に乗り遅れまいと、先を急ぐのに夢 中で左右のことなど目に入らず、大きな旅行カバンを提げたままいきなり 彼にぶつかった。老人は不意打ちを食らわされて前に三四歩つんのめり、 ぐっと身体を持ちこたえながら、自分の立っていた場所がまずい場所で若 者の通り道の邪魔をしていたことに気付いた。すぐさま道を聞け北京の昔 ながらの礼儀に則り「これは申し訳ない」と繰り返し謝った。もともと悪 いのは若者のほうなのに、彼は公務で上京し、あれこれ土産物を携えて やっと到着したばかりとあって、威勢は良いが、鼻持ちならない「役所風」 の自惚れもあり、詫びを言うどころか「糞爺」と言わんばかりに脱み付け、 北京よりもっと北方の説りで「フン、何が申し訳ないだ Jと言い返すなり、 人を人とも思わぬ様子で地下鉄の方向に立ち去った。老人はずいぶん世の 中の事どもを見てきたので、このような今どきの作風も全く何とも思わな い。この人物は多分「係長」か「主任 J クラスだろう。少し遠くの省や市 の機関ではこの種の人聞は通例、かなり仕事をするだろうし幅を利かして もいよう。上京して会議の一つにも参加したとなれば、さぞかし輸をかけ て立派になるだろう。その肩幅の広い後姿を老人は眺め続けた。 「前途有為の若者、当たって砕けろ、というところかな」 褒める気持ちと隠す気持ちと、二重の意味をこめ、総括するかのように その一言を言った後、好意にみちた顔でにっこり笑い、老人は先に進ん > " ' 1 1 3 8. 括弧内の下線部の原文は「少年有為撞勤足」であり、それに続く下線部の 原文は「語意双関、有褒有庇」である。両者をあわせ読めば、老人の言った 言 葉 7文 字 の う ち の 、 後 半 3文 字 「 撞 勤 足 」 の 意 味 す る 所 が 、 将 来 有 望 で 挑. 1 3 6. (5 9).

(20) 「文革J中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. 戦してゆく力に充ちているという意味と、老人にぶつかった際の当たり具合 いの強さという、二重の意味が込められているのは明らかであろう。そして、 ここまで読めば、作者の脳裏にもともと「双関語」の使用という着想のあっ たことが明らかである。 「双関語」は沈従文の代表作『辺城」において老船頭と孫娘翠翠との対話 の中に見受けられた。このような要素を作中に取り入れる発想、は淵源を辿る ならば沈従文の出身地、湖南西部の少数民族の歌話に一つの出所を見出せる のであって、苗族の山歌の数々は概ね二重の意味が込められているので、多 くの場合、漢語に翻訳しようにも原意を忠実に翻訳するのが難しいという。 苗族の民謡は沈従文の鳳嵐県の実家では、弟の乳母として苗族の女性が雇わ れるなど、沈従文がもの心ついた時から聞き慣れ、意識の深部に染み付いて いたものと想像される。そうした要素が「辺城Jのような、郷里への強い想 いを胸に執筆された作品の中に取り入れられるのも、また、この作品でのよ うに、歳月を経て創作の筆を執った時に、一つの趣向として、彼の脳裏に思 い浮かぶというのも読者にとって納得しやすいことでないだろうか。. 5 . 往年の作風との比較・続 往年の沈従文にまつわるエピソードを再び振り返ることになるが、 1 9 3 4 年当初、沈従文は小説家としての実績と力量にすでに強い自信を持ってい た。この年の初め、北京から郷里湖南省鳳風県に彼は母親の病気見舞いのた めに帰省した。前後 1か月に及んだこの旅行で彼は張兆和宛に多量の手紙を 書いたが、それらの子紙の中でこのようなことを書いている。 ごく公平に言って私の創作は同時代の誰と較べても突出しています注調。 彼は独力で小説を書き始め、小説作品そのものを読むことで感覚と洞察力 によって文学を学び、当時、すでに 4 0冊に達する作品を持っていた。これ らの作品の創作体験を彼は「学習」と呼び、失敗しでもくじけず、成功した からといって、そこにあぐらをかくことをせず、五回新文学の伝統のもと (6 0). 1 3 5.

(21) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. 「一兵卒」として 1 0年 2 0年と創作実験を繰り返し、中国への近代小説移入 のために実作でもってその実験の成果を提供し、「知恵」を深めること、そ のような実践に自己の生命を奉け、る覚悟をもっていた。 引用した言葉は、沈従文が独自の実績と思考をもち、打ち明ける相手が妻 の張兆和であるから言えたことであり、当時の文壇と出版界の状況からすれ ば、公表すれば倣慢極まりないうぬぼれとみなされ、攻撃対象にされたにち がし、あるまい。 しかし、彼の作品を読むと上記引用の言葉にも首肯したくなるような表現 に出会うことが確かにある O 例えば、『辺城」での少女翠翠の内面に、語り の中心点を巧みに移動する感覚心理描写がそうである。 翠翠が茶山岡の青年、傑送二老と初めて出会う際の甘美な印象、また、二年 後に再会した時の懐かしい感じ、そして、端午の節句の当日、龍船競漕の船 上に立つ灘送二老が吊脚楼内部と周辺の水辺に集まった観衆の注目の的に なっているのを人知れず眺める時、彼女の内部では、その時々に反発、怒 り、後悔、喜び、期待、基恥、悲しみなど、様々な感情が生起しては消え る。彼女の内面は生命現象が起き続ける神秘な生の空間そのもののようで あって、こうした印象を読者の脳裏にうまく生じさせることに「辺城』は成 功しているのである。 注目すべきは、『辺城』中のこのような特徴的な場面では、往々にして語 りの視点が、翠翠の視点そのものに移行していることであり、読者は瞬間的 に彼女と視線を共有することによって、微妙に変化し続ける彼女の感情の動 きを非常に親密かっ自然なものに感じてしまうと考えられる。 論者は『辺城』のこのような表現上の方法について、不十分ながら分析を 試みたことがあるが注 40、「来的是誰 ?J を通読した場合『辺城」のように顕 著なかたちではないが、老人の描写に関して、ごく控え目にではあるけれど も、視点の切り替えと移行が行われているように思う。. 1 国を追って辿れば、. 初めの、北京駅前の旅客の群れから老人が現れた場面では、老人はあたかも 1 3 4. (6 1).

(22) 「文革J中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. 読者にその風貌印象を紹介するかのように、外側から描かれているわけだ が、老人がある路地の一角に着いた場面まで読み進むと語り口調が若干変っ てくる。 ほどなく、彼は見渡したところ、もともと熟知しているにもかかわらず、 久しぶりで初めて見るような感じのする、こざっぱりした横丁の角にやっ て来て、小さな古びた門のそばに件み、新しく取り付けられた表札の形を 少し眺め、それから門を叩いたが、内側では人の動く気配はなく、誰かが うっとりと歌を歌うのが聞こえるようだった。慌てず急がずもう 1 0回ほど 叩き続けると、少し間をおいて歌声が止み、誰かが奥の中庭を通り抜けて 出て来る音が聞こえ、年頃の娘が歯切れのよい声で聞いた「どなた」。老人 はわざと答えなかった。それで、内側からまた聞いた「どなた。誰に御用 ですか J この声の調子は彼にはかなり馴染み深いものだった。 「張さんはいるかな」 「張って、どの張さんかしら」 「張永玉」 内側では疑念を感じたらしく「そんな人聞はいませんがJ 「では張黒蛮」 「うちには張黒蛮も李黒蛮もいません、ここは… J 「では張黒娠に会いたい」 娠婦は、おかしい、私のことだわ、なんで張黒娠なんて呼ぶのかしら。 馬偏に扇(筆者注:編り)じゃないかしら。……用心しなければ。 「ここに住んでいるのは張ではなくて、あの. 家を間違っています. よ注叫」. やや説明的な訳語になった部分があるが、引用個所の「久しぶりで初めて. )、「誰かがうっとりと歌を歌うの 見るような感じのする J(原文「久己陪生J が聞こえるようだった J(原文「像是聴到有人自得其楽在唱歌J )、「この声の. (6 2). 1 3 3ー.

(23) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. 調子は彼にはかなり馴染み深いものだった J( 1這個声音他像是相当熟悉 J ) 等の表現は、語り手がいつの聞にか老人の中に入り込んで、彼に成り代わっ て街路の眺めや、歌声についての印象を描写のなかに織り交ぜているのであ るO もっとも、これは微小な文字遣いの変化であって、さほど取り立ててい うほどのこともないといえばそれまでかもしれない。だが、老人と娘との会 話のやり取りが進み、老人が「では張黒娠に会いたい」と、言葉を発した後 を見れば、描写の視線は黒掘の内部に移行している O 作品中では、これ以 降、老人が立ち去ってしまうまで、彼は黒掘に向かつて門の外側から数セン テンスの発話でもって話しかけはするが、語りの文中に上記のような彼の内 的印象が取り入れられることは無い。この場面で老人が立ち去ってしまうと、 老人は文字どおり謎の存在になる O. 6 . 謎解き 段落構成 この小説の段落構成は以下の 6段に分けるのが内容把握のうえで便利であ ろう。 場所. 人物. 第 l段 落 北 尽 駅 前 の 風 景. 北尽駅前. 群集. 第 2段 落 老 人 の 登 場. 北示駅前. 老人青年. 第 3段 落 老 人 と 黒 娠 と の 会 話. 黄永玉家の前. 老人黄黒娠. 第 4段 落 黄 家 の 家 族 の 会 話. 黄永玉家内部. 黄永玉張梅渓. 段落. 内容. 黄黒蛮黄黒焼 第 5段落. 北京駅構内で父娘が老人を探す場面 北京駅帰途路上黄永玉黄黒姫. 第 6段 落 再 び 黄 家 の 家 族 の 会 話. 黄永王家の内部. 黄永玉張梅渓 黄黒蛮黄黒姫. この分段はさらに第 l段落から第 3段落までを小説の前半、第 4段落以降. 。 白 つδ. (6 3).

(24) l 文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. を小説の後、 1 < .として把握することができる。前半までは正体不明の老人が現 れて黄永主家に疑問を投げかけ立ち去るまでの過程、後半はその老人の正体 についての謎解きの過程と考えてよい。 前章まで、の分析て、小説前半の内容を紹介することができたかと思う O 後半の内容の基本的特徴は、老人が誰なのかという問題についての推理の 過程が主たる内容である。この過程のなかで、黄黒娠、黄永玉、張梅渓、黄 黒蛮ら家族の成員はそれぞれ謎に対する推測を述べ、時に意見を戦わせる。 それと同時にまたこの過程のなかで事態に反応し、思考することによって、 家族それぞれの人物像が浮かび上がってくる。 まず老人と直接応対した黒姫は、自分の家の苗字を突然否定されたことに より、警戒し、立腹し、疑い、心細くもなって、最終的には老人を追い返し たものの、一種の後味の悪さが胸中に残っていた。それで、彼女は家族の帰 宅後、老人の来訪のあったことを家族に述べ、父親に命ぜられて駅まで出か ける。プラットフォームで速度を上げて進む列車の車窓内に老人らしい姿を 認め、まるで「張黒婦、さようなら」と別れを告げられたかのように感じた 彼女は、感極まって泣き出してしまう。帰り道で彼女を慰める父親の言葉遣 いから判断すると、恐らく彼女は、老人が本当は「爺爺」であったのだと考 え、祖父を追い返してしまったことに深い後悔を感じたのである O 帰宅後、 父が最終的に、老人は実は「爺爺Jに違いなく、わざと黒娠をからかったの であって、今夜か明日にも再び現れるだろうと結論付けると、彼女は母親と ともに安心し喜ぶものの、なお疑念の消えやらず心細さも残る。老人が本当 に「爺爺」であって、悪ふざけをしたのかどうか、この作品では種明かしが されていな L、。いずれにせよ、老人の来訪によって被った影響が誰より大で あったのは{皮女である。 黒娠に較べれば、兄妹とは L、ぇ、兄の黒蛮は感情のうえではこの出来事の 影響はほとんど受けていなし、。彼は囲碁に興味があって、古い文献を読み、 理屈っぽく、家に届いた謎の手紙を観察する様は「シャーロックホームズ」. (6 4). 1 3 1.

(25) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. ばりであり、「小さな諸葛孔明」のあだ名もある。この事件に関する限り、 彼はこれを学校の腕白仲間らがたくらんだ悪ふざけに違いないと考える O 彼 の頭の中にはすでに豊富な知識と理知による認識方法や思考力ができあかつ ているかのようで、何事もクールに受け止めるのかもしれない。 また母親の張梅渓は、死亡したはずの「爺爺」の亡霊が出てきたのではな いかと黒蛮が言い出しそうになるのを機敏に制し、「爺爺」の死亡の消息や 『柳斎志異』などの話題から軽微な恐怖を感じるなど、確かに神経質な一面 カ三ある。 このように振り返ると、やはり作品の語り手が投げかける視線は、多くの 場合、黒娠に集中している O 黒娠に対する沈従文の温かい眼差しは次のよう な書き方にも感じ取れるのではないだろうか。. 7歳になり、普段はもともと控えめで、聡明さを表に山した 彼女は今年 1 りしな L、。親友に対しては打ち解けて親しみやすく、同級生に何か身構え たり、警戒したりするということはない。長近演劇をやるようになり、ま た新旧の小説をあれこれ読むようになって「階級闘争」の複雑さに関しで も、新しく認識と理解を得るところが多少あったらし L、。そういったこと が今日のような問題に影響し、警戒心が必要以ト今に強くなり、本来ならご く普通の出来事も複雑なように思えてくる。事態の進展が急なので、思考. 九 のハンドルがうまく切れず、保守的になったようだ t十 沈従文は黒娠の人格の中に天性の純真さを認めているのであろう。彼女の ような孫の世代の人格の、素地の部分に入り込み、影響を及ぼす体制的教育 と、本来的に備わった人間性とのバランスや統合に、沈従文は注視し続けて いたのではないか。 このことは沈従文の家族宛の書簡資料からもうかがえるが、この作品で は、現代革命京劇「沙家浜」の女性主人公、阿慶娘の役柄を黒姫が学校での 上演において演じていることと、彼女の人格との関連性において描かれてい る。老人が門の外で「では張黒掘はいるか」と尋ねた時に彼女の胸にすくさ. 1 3 0. (6 5).

(26) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. ま思い浮かんだのは「まさかこれは馬偏に扇(編り)ではあるまいか、警戒 しなくては j という考えであった。次に老人が「ここに住んでいるのが張家 でないなどと言うのか。張梅渓とか言う者までいたはずではないか。お前た ちは一家ではないのか」と尋ねたのに対して、彼女は「阿慶捜と同じよう これは何とも不思議な一致だ。一体誰なのだ。どんな悪巧みを考えて にJI いるのだ」と考えて、円の隙間から外の様子を慎重に伺い見る。彼女は老人 をペテン師か、さもなくば患者と考え、「人民に奉仕する」という言葉を想 起するものの、断固として門を聞けず、父母も兄も外出した留守中の家を単 独で守るかたちとなる。結果的には、このために老人は本当にあきらめて黄 家の前から姿を消し、その正体が余計に謎めいたものになる。 さて、以上のようにこの作品中で、一つの作品構成を肉付けする道具立て として使われた現代革命京劇「沙家浜」だが、この作品は当時、全国規模で 繰り返し上演された数種の革命模範劇のなかでも、やや特殊なものとされ、 脚本を書いた任曽棋は、西南聯合大学での沈従文の学生であり、小説家とし ても沈従文の弟子を自認した人物である。この人物が黄黒娠らの「沙家浜」 の公演の監督を行い、上演に際しては、黄永玉たち家族が揃って会場に出向 き、最前列に坐って鑑賞するという構図は、何とも興味深い。 また、小説の場面で、老人が黄家の門前に立った時、家の奥から聞こえて きた黒婦の歌は恐らく「沙家浜」の中の阿慶捜が歌う歌の一節であったろ う。とすれば、老人と黒蝦の出会いと対話は「沙家浜Jで始まり、この革命 模範劇の舞台を喚起するかたちで二人の対話が進行し、上記引用のように、 黒掘と「沙家浜」との結び、っきに関するコメントで場面が一段落するという 形態が採られていることになる。このほか、帰宅した黄永玉は、黒娠が作っ たシチューの昧見をしながら「弓徳一」の口調を真似て「し、やはやご立派」 とその出来ばえを褒めるが、「弓徳一」もまた「沙家浜」に登場する人物で、 阿慶捜の敵役である。また、老人を探すべく北京構内のプラットホームに黒 姫と父が、階段を三段飛ばしで駆け上がる際には、黄永玉の口から「箭歩」 (6 6). 1 2 9.

(27) 文学・芸術・文化. 2 1巻 l号. 2 0 0 9 .9. という言葉が発されるが、これはもう一つの現代革命京劇「智取威虎山」に 出てくる独特の舞台用の用語である。このようにして確認すると、この作品 がかなりの程度まで現代革命京劇的なものに浸されていることが明らかであ ろう。. 7 . 謎解き(続) この作品が執筆された状況を振り返ると、もともとこれは遠隔地の、生活 環境の劣悪な農村で、沈従文が一種の極限状況に陥って、甥の黄永玉に宛て て書いた小説なのである。その意昧で、小説中の黄永玉の描写には、沈従文 の心の深部から発するメッセージがこめられていると考えられよう。 作品中の黄永玉に関する描写のうち、老人が「張永玉同志」宛てとしてし たためた手紙に対する彼の反応は重要であろう。黄永玉はどのようにして推 理の結論を出しているのか、その描写は注意して読む必要があろう。 家族全員がこの新たな事態の出現に呆然となった。なんとも事は複雑に なるばかりではないか。詐欺師にしては意外に頭が良い。まったく大した 奴だ。 手紙のせいで父親たる黄永玉は、異常なほど冷静になっていた。弓矢で 一撃されたものの、傷がどこなのか分からない、そんな感じだった。指先 で幾度も、その最後の 1枚の原稿用紙の、文字の列を撫でながら吟味を繰 り返した。「言われてみれば確かに白分は人に聞いてみようとしいたことは なし、。自分の父親の一生がどうであったのか、それすらろくに分っていな いのだ。墓参りにしても、墓石にどのようなことが刻まれていたのか、見 ていないのだ。知っていることと言えば、何世代か前に黄河清という人物 がいて、その人は読書人で、科挙の抜貢に選ばれて孔子廟の守りを勤めて いたが、かなり貧乏だったらし L、。家には香椿の大木があって三四人でも 抱えきれぬほどで「古椿書屋」と呼んだそうだ。これ以外は白紙一枚、何 も知らない。親父の姉妹が何人いたのか、上と下に何人の兄弟があったの. 1 2 8. (6 7).

(28) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. か、それも知らない。 J(下線は筆者による) かなり経って「日出嵯のひらめき」があったのか、両手をたたき大声で笑 い出した。秘密か真理に気付いたようである。「はは、分ったぞ、うまく考 えたものだ。この謎は解けたぞ。これは冗談なのだが、実は冗談でもない のだ。どう説明したらよいかな。 lが分かれて 2になると言う。泥娠に対 してはからかっているのだが、私に対してはそうではない。爺さんが北京 にいた当時、家のことはいろいろあるはずなのに、質問しようとしたこと もなかった。田舎に帰って墓参りに行っても、墓石にどんなことが書いで 。 、 あるのか、まるで考えたことがな L. 爺さんは確かにまだ生きている. んだ。これは爺さんが書いたのだ。雲南から帰って来て、汽車を降りてす ぐわれわれに会いに着たんだ。家に舵娠しかいないので、わざと彼女をか らかつて、とぼけたふりをし、まるで話がかみ合わないよう仕組んだのだ。 娼婦が門を聞けさえしたら、全部パレたはずなんだ。娘舵は慎重すぎて、 まんまとしてやられたし、われわれも巻き添えをくった。今日来ないなら 明日朝には来るだろう。歓迎の準備をしよう。間違いない削30J われわれ読み手は、作者沈従文が考え出した、作品の内部世界と外部世界 が交錯する、一つの複合としての小説の仕組みを、いま一度反省してみる必 要があるだろう。作品の外側には、作者沈従文と黄永玉との関係性がある。 そして、作品の内部には、作者沈従文を投影したかに見える一家の「爺爺」 と、黄永玉一家との関係性がある。作中の老人は、黄一家の死んだとされる 「爺爺」の亡霊かもしれず、或いは「爺爺」その人であるかもしれない。 l が分かれて. 2になるとは、当時標梼された言葉だが沌 44、ここでは、 1つの. 人物イメージから、死者と生者という、 2つの人物イメージが生まれること をも連想させる O 作 品 に 書 か れ て い る 「 爺 爺 」 は 、 雲 南 省 の 農 村 で 3年前、. 1 1 9 7x年」に. 死んだとされる。ところで、じつは「爺爺」が生きているなら、死亡したと いう情報は誤りであったことになる O その情報は「爺爺Jが書いた「柳斎志. (6 8). 1 2 7.

(29) 2 1巻 l号. 文学・芸術・文化. 2 0 0 9 .9. 異』注釈原稿を「爺爺」の死後に整理し、出版した人物の序文に書いである わけであるから、序文そのものが嘘っぱちであったということになる O 序文ということでいえば、ちなみに、沈従文は文化大革命開始直後、一度 は没収された『中国古代服飾研究」稿の完成度を高めるべく、湖北省にいた 当時、全く記憶に頼りながら必要な補充原稿の追加執筆を続けていた。 1981 年にこの大著は出版されるわけだが、持ち重りのする本の冒頭に収録された 序文は、中国社会科学院長、郭沫若の手によるものである。かつて沈従文を 自殺に追い込んだ人物が、後に沈従文の後半生を記念する著作の序文献呈者 となるという事実は、いかにも皮肉な出来事のように思われる。 ともかく、「爺爺」死亡の根拠が、書物の序文に書かれであることのみと いうのは、論拠自体としては脆弱であろう。あらゆる出来事が起きた文化大 革命中のことゆえと大目に見て考えるにしても、である。 さて、筆者はここで、上記引用文中の「原稿用紙」、及び、下線を付けた 「白紙一枚」という字句に注目した L 。 、 黄永玉の実家では、先に引用した彼の手紙の文面にもあるように、確かに 家族の成員が死亡したときには、なぜか黄姓と墓碑に書かず、張姓と刻して いたという。このような埋葬習慣は劉一友の「孤寂中的思親奏鳴. 読《来. 的 是 誰 ?))によれば、湖南西部において他にも見出せるとし寸。 また、黄永玉の手紙には、この小説は黄永玉一家の家系について書こうと した長編小説の「模子」であると書かれていた。張姓か黄姓かという問題を 突き詰めてゆけば、当然この家族の淵源まで遡ることになるであろう。それ は、なぜ郷里の土地に、そのように生存中は苗字を偽り続けて暮さねばなら ない一族の人々が住むのか、郷里の土地そのものの歴史を検証してゆくこと にも繋がるであろう。この作品はそのような、より大きな物語を語り出すた めの「模子」なのであり、物語本体の誘い水にすぎな L、。黄永玉一家に起き 許伝などの旧小説の通例にもあ た正体不明の老人の訪問という出来事は、水i るように、「模子」にふさわしいー悶着、一場の波乱を準備するためである O 1 2 6. (6 9).

(30) 「文革」中の沈従文の小説. 「来的是誰 ?J 福家. 黄永玉の家の歴史は、作品の引用文中に書かれてあるように「白紙一枚」、 つまりほとんど何も語り継がれていない状況であり、この「襖子」に続く次 の章から新たに本体の物語が語りだされるのである。そして本文を振り返る. 2 0枚の白紙の原稿 と、「張永玉同志」宛てに来た手紙は、開封してみると 1 用紙Jだったのであり、黄黒蛮がなにかボロはないかと「シャーロックホー ムズ Jばりに観察して、最後の一枚に文面が書いてあったわけである O. 作品に記されたこの事実について、仮に「原稿用紙 J1枚が今後展開する. 0章の章固 小説の各 l章ぷんに相当すると仮定すれは‘どうであろうか。全 2. r. 体の長編小説の構想が想定できる。もっとも、『水詩伝 J 三国志通俗演義』. 0 0章に達するわけで、 2 0章は章数としては不足 「西遊記」などはいずれも 1 0歳に近い年齢で健康状態からすれば、一度何 といえるかもしれないが、 7. 0章でも十分立派なも らかの発作が起きれば、明日をも知れぬ身である。 2 のではないか。 作品の外側にいる沈従文はもとより、生きていてこの作品を執筆してい る。作中に書かれる「爺爺Jの孤独な晩年と、家族に看取られることもなく 死亡するという設定は、現に起こりうることである。そうした状況の想定に は、一種痛切な印象を伴うが、これは、一つの「お話」なのであり、それも 自分の生命の最後について、日常的に考えることを繰り返して老人が、ごく 親しい親戚宛てに書いて送った物語なのである。作品中の黄永玉の結論で は、この出来事は「据掘に対しては」生きて北京に帰ってきた「爺爺」が日出 嵯に思いついたいたずらである。「爺爺」の死亡に関する『柳斎志異』序文 中の消息記事は、間違いだったということになる O だが、この一家にとって 「爺爺」が生きて北京に帰ってきたのであれば、これに勝る喜びはないであ ろう。唯一の、長老格の老人の生還と、家族の再会という筋立ては、この作 品を文字による一種の民族手工芸品と考えれば、「吉祥」紋様と同様の縁起 をかついだものとみなすことができょう。一方、今回の出来事は、黄永玉に 対しては、家系の歴史に対して注目を促す契機なのであり、家の歴史はまさ (7 0). -1 2 5.

参照

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