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教材構成の“自己適用”から「学力」を考える

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Academic year: 2021

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(1)Title. 教材構成の“自己適用”から「学力」を考える. Author(s). 倉賀野, 志郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 44(2): 15-28. Issue Date. 1994-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5324. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部 C) 第44巻 第2号. 平成6年3月. 2 1 Sec i 44 i i &iucat t do Un iver lof Hokka i ty of] on( onIC) VO s Jomna ‐ ‐ ,No. Ddarch ,1994. 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. 倉賀野. はじめに. 志. 郎. 教材構成から考える. 北海道教育大学釧路校・教育方法学研究室でここ数年, 蓄積してきた教材を整理することを試み. ている‐ そこでは, “なぜにこだわる” を整理の枠組みとして大きく次の5つに分けて, 自然科学 1 ) 領域に限定 して個々の教材を紹介する形をとっ ている( . ① “納得” へのこだわりから教材を構想する ②量の表現にこ だわる ⑧実体的イメー ジにこだわる: “納得” の背後 を探る ④見方・考え方にこだわる ⑤こだわること, それ自体に “こだわる” この教材構成の背後の問題意識の広がりは, 大きく3領域にまたがっ ている‐ (a) 教材への具体化. (b) 教材構成の背後の考え (c) 全体に対する見方・考え方の基礎 個々の教材の展開を具体化 (a) とするならば, その背後にある考えも合わ せて整理することを 試みたのが本稿にあたる‐. [1] 学力を教育内容・教材構成から考える ( 1 )“新学力” をめぐって 今,学習指導要領とりわけ指導要録の改定にともない, “新学力” が強調されている‐ そこでは, ① 「学力 を単なる知識や技能の量の問題としてとらえるのではなく, 生徒が自ら考え主体的に判 断し行動するた め に…新しい学力観への転換 が強く要請」 されている‐ ②この背景にあるのは, 「これまでの学校教育は, 一定の知識や技能を子どもに教え込み, それ を共通的に身をつ ける知識伝達主義の教育に偏っ ていた」 との総括からで, ここでは 「知識伝達主 2 ) 義の教育から自己教育力育成の教育への転換」 が強調されている( . ③ しかし, 「知識や技能を軽視 したわけでは決してない」 のだが, 「教育の画一性, 硬直化を招 き, その共通の内容の徹底が教え込みとなり, 生徒自身の学習要求や論理を閉じ込めがち」 になる のである. ここでの 「新 しい学力観の特色 は変化へ主体的に対応できる自己教育力の育成」 にあ ) 3 る( .. ④このためには個性を生かす教育が必要 (中学校・選択履修の幅の拡大) であり, また, そのた 15.

(3) . 倉賀野 志 郎. めに 「各教科の観点別学習状況の評価」 に 「絶対評価」 を行うとし, 観点別評価では 「関心・意欲 2 ) ・態度」 が全面に出され 「知識・理解」 は後にまわされることとなる( . 学習指導要領そのものの検討を意図するもの ではないので, 学習指導要領の立場を教師自らに適 用すべき であろう という本稿にかかわる問題意識だけを記 しておく‐ “生き て働く力として主体的に対応できる人間” の育成をめざすならば その問題意識は教師自 , らにまずは課されるべき であろう し, また, それを可能にする研修内容を含めての体制が実現され るべきであろう. 学習指導要領で 「関心・態度・意欲」 の項目が重要視されているが, 態度などと いうよりも, まず確かな科学・法則をという批判的な考えもありうるだろう. そのような科学・法 則の裏付けのない “関心・態度” の強調にも問題はあろうが, 教師自らに適用されていない 「関心 ・態度・意欲」 にも問題があると思われる. 自分は “高み” にいて, 子 どもだけに 「関心・意欲・ 態度」 を迫っ ても, 「主体的に対応 できる人間」 の育成にはならないだろう. 教材構成に限定して みるならば, まずは 「教科書をどう教えるかという ことの研究になりがちであっ た」 ことを反省し て, 教師自らの 「新しい学力観にたつ教材研究の中心は・ ・ ↑子 どものもつ力 が存分に発揮 できる教材 の開発に置かれることになる」ことを期待したい. 「すでに当該の学習内容につ いて理解してしま っ た教師は, 自分がはじめてそれを学んだときのことは忘れ, きちんと整理された, 合理的な道筋で 4 ) 子どもに理解させようとしがちである.」{ また, 教え込みの質的内容を吟味することなく, 教え込みとの対比において主体性が強調される 危恨がある. 従前の指導の弱点・問題点の吟味が不十分な上 で, 自己教育が強調されると, 教え込 み以上に悪くなり, 教え込みの方がまだま しになるという可能性も有り得る だろう. 果たして 「知 ′たの、 識偏重」 と呼ばれる程の状態 であっ だろうか‐ まずは 「受験体制偏重」 をこそ是正すべき であ ろう. 他方, 必然的に, やはり基礎的なことは “教え込み” が必要 であるという ”知識・理解よりも関 心・意欲・態度”, “内容よりも方法” という対立図式も不毛 であろう‐ 「知識・理解を捨てて, 関心・意欲・態度を全面的に出したというもんきり型の批判 では…現場の教師にも積極的な問題提 起にもなり得ない‐ 関心・意欲・態度はす ごく重視しており, それが知識理解との関係はどうか… 5 ) 「固定観念にとらわれずに 子 ども自 な どを積極的に論 じていかなければな らない」 だろう( . , らが対象に問いかけ,調査観察などをとおして何らかの発見を実現するという本来の学 習を…組織」 することと 「本質的な知識や理解を土台に, もの ごとにたいするまっ とうな関心や好奇心, 学習す 6 ) ることへの意欲・態度などがおのずから形成されるように配慮すること」 も必要であろう( . ( 2 ) 教育内容・教材と結びつけた形 で学力を考える 学習指導要領における “新学力観” に機械的に対応することは生産的ではないのだが, 同様に知 識伝達主義の学力観に対して態度を対応させる学力など, 歴史的にはいわゆる 『学力論争』 (鈴木 , 7 ) 秀一・藤岡信勝/坂元忠芳) があっ たが, 態度評価の学力に戻ることも生産的ではないだろう( . 「学力論争」 では, 「計測できない態度などの要素を学力規定から排除し, 教材づくりや授業研 究の科学性を高めようとする立場」 と, 他方, 「学力をもっ と広い意味でとらえ, 後天的な学習に よっ て獲得された能力で生活のなかで生きて働く力の総体とする考え方」 が争点と評価されること. もある{7)‐ 態度につ いては 「“結果・産物” の評価という観点から…1 945年以後, …能力の形成過程, 認識 過程の構造 (各段階) に対応しての学力概念が構成されたこと, その確認と理論的表現を広岡亮蔵 8 ) 態度評価の学力論が そのあいまいさ故に批判されたが が5 2年段階で与えた」 ものである{ ‐ , , 16.

(4) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. そもそも学ぶ力なるものの多様性を, 学力への接近戦略として操作的に規定 し, 限定して議論して いる時に, 無限定的質的多様性を対置 しあっ ても論争そのものが擦れ違うこととなる‐ 議論が成立 するためには, 少なく ともいずれかの土 俵設定を一致させなけれ ばな らない. “見える学力” に対 して “見えない学力” を含ませたり, 種々の学力を規定しても視点が明確でなければ生産的なもの とはならない. そもそも論争の出発段階から 『計測可能性』 に限定したのも 「学力論そのものの止 9 )といえよう 揚を含む学力論」 (藤岡信勝) { ‐ この点では「これまでの論争を見ても,具体的な教育内容・教材, 教育方法と切り離さない形で, 学力概念が究明されないと, 何が生み出されたのかもあいまいなままで終わっ て しま っ ているから 8 )少なく とも 勝田守一氏の 「認識の能力を主軸としてとらえる」 ( )という学力観を lo である.」( , 継承発展させることは重要で, 学力を①再現・伝達可能性としてとらえること, ②適切な教育内容 IQ )を考えることは今でも変わら ・教材を構成すること, ③学力を発達という視点でとらえること( な い も の を も っ て い る‐. 小林洋文氏は鈴木・藤岡両氏の 「学力研究の方法は, 学力規定の研究と教育内容の研究とを相即 不離なものとして位置 づ け…教育実践上きわめて生産的なものであり,高く評価することかできる」 と しながらも, 「学力研究を結局教育内容 研究に解消させて しま う誤 っ た見地である」 と してい 7 ) しか し 研究方法論としての学力規定を 「誤 っ た見地」 とする必要はなく それによっ て る( . , , 何を明らかにしようするかの規定を述べるべきであろう. 学力を様々な局面で論ずる事ができるであろうが, ここでは, 教育内容・教材の構成上の側面に 限定して考察する. (以降, 限定をつけて 「学力」 と表記) 教材構成という視点に限定しての考 察であるが, 学習集団・学習者論という視点からの学力考察もありうるだろう‐. [2]. 学力を “自己適用” から考える. ( 1 ) “自己を自己に埋める” という視点 文化遺産を学ぶということに限定 しても 「学力の構造を層構造とみる見方は, 対象に対する認識 8 )が その構造を内容に即 して 学力を豊か の深まりの過程についての考え方を根拠としている」( , , にとらえていく必要があると考える‐ ここでは, この構造を ”自己を自己に埋める” という ”自己適用” から考えてみたい‐ 自己を, 自己そのものに適用するとパラ ドックスが生ずることがある. 命題の証明可能・証明不 可能という レベ ルで考えると数学の基礎もゆ らいでくる (K.ゲーデル) し, 同様な自己適用の パ ラ ドックスは, コン ピュ ーターにも生 じて来る (A-チュ ーリ ング) こととなる‐ 自己適用の パラ ドックスは数学のみな らず, 自然科学の分野にも存在している. 例えば電荷1が電荷2 に作用 し, 電荷2が電荷1に作用 し, 自己には作用 しない, というのは常 識的な物理の考え方である‐ これに類する相互作用は山ほどある. 自分は“棚にあげて“他人に働き かける, というのは普通の思考パターンでもあろう‐ 同様なものとして時間概念もある‐ 宇宙創成 期に時間が同時に出来たのか, それ以前からずっ とあっ たのかはニュー トン・ライ プニッ ツの時か ら論争されている. 以前からあった, という考えは, 結局外から存在するものを持ち込むことにな り, それがある理由は説明できなくなる. とすれば, 宇宙が出来る時に時間も創られたことしか考 え られない‐ 時間がないのに時間の中で時間を創るという パラ ドックスに陥ることになる‐ 最近の 宇宙論の分野では, 時間を含めて最初に何々ありきとするのではなく, それがその中で一緒に創ら 17.

(5) . 倉賀野 志 郎. れた, とする物理理論でなければイ ンチキであることが話題ともされている‐ この自己適用, ちょっ と考え始めると, そうではないと設定する方がおかしいという見方はでき ID ここにも自分と ないだろうか. 人間が物を見ることが出来る, 宇宙を認識することが出来る( , 他が厳然と分かれているように見えるが本当だろうか. 物を見ることが出来るのは人間が物からで きていることの証である し, この宇宙の中で人間が生まれたのであるから, “星のかけら (人間) 12 ) この自己適用を 教条的に機械 が, 星をみる” ところにも自己適用が存在しているのである( , . 的に適用 してみる と舞台裏が見えてくることがある. 教え・学ぶもよくよく考えてみると, ある “自己” の “分裂” された姿, と見れないだろうか. その “分裂” の克服過程として, 位置 づ けなおすと, 教材・教育内容・授業・教育方法も, その一 面の現れた姿として見れないだろうか‐ こ れ は 《How: 教育技術》 でもなく, 《Wha t:教育内容・教材》 でもない, 《Why: 根底を問. う》 を課題としてみる ということとつ ながっ ていると考えている‐ そもそも宇宙から発生・発展 した脳髄が, 宇宙そのものを認識 しようとする行為は自己言及であ ろう. 素粒子からつく られている我々が素粒子につ いて語ることに代表されるように, そもそも自 然科学は自己言及を含んでいる‐ すべての宇宙において派生 したものを対象とする科学は自己言及 と な っ て い る‐. 認識論も, 対象を認識する行為そのものを, 宇宙においては派生した物質の有する機能として科 学の対象とする時, “科学についての認識” が科学の対象となり, 自己言及となる. 以上のような自己言及に基 づく, 科学に対する認識・教育という行為そのものをより広義な意味 における “科学” の対象とする分野が生成しつつ あると考えたい. 科学についての教育が, “科学” の対象となる時, 教育を巡る 《サイクル》 が閉じることとなる. (ここでいう科学教育につ いての 科学は, 教育の客観化という地平からははるかに隔たっ た所に存在していることになる.) 教育・ 認識を含むすべての “科学” が 《サイクル》 として閉じていることが予想される. この分野のこと ) 13 を, 『数学基礎論』 からの転用として科学教育の 『基礎論』 と名 づ けている( . 2 ( ) 「学力」 の質的区分を教育内容・教材構成から考える 「学力」を前述の自己適用/自己への埋め込みという視点からの教育内容・教材構成に基づいて,. 次のような様相を区分する. (自然科学教材を例示として) (α) 教材構成の 《群構造》(成果:積分規定としての教材) (β) “構成行為“ そのものの教材への自己適用 (微分規定) (γ) “教材の構成” そのものを自然史に中に埋め込む (α:以降では [3] に対応) 自然像は教材の 《群構造》(後述) ととして現れる‐ “自己” に引き付けた形で述べると 自己のわかり方そのものへの問い直しを媒介として 自然 , , そのものの構造の反映としての自然像・体系が教材の構造として現れるということになろう‐ ここ では, 自分から見ると他者として自然の考察となり, 体系構成の視点として自然観が貫かれること になる. この教材の 《群構造》 は, 解釈・説明体系という意味をもつ が, 体系の不備への予測可能 性も生じる. この教材の 《群構造》 の事例としては 《層子と相互作用, 階層間移行》(この中には自己場から みた 「力」 についての論理構造や, 層子・相互作用からみた圧力なとが位置づけられる) や, 3つ 18.

(6) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. の系列の累層構造的見方がある (無機・有機・社会を系列として累層的な構造を有するもとして課 題を考察する). (β: [4] に対応) 教材への問い直し過 程そのもの, 研究過程そのものの教材構成への投影としての自己適用を異な る様相として位置 づ ける.ここでは科学の論理構造への《反作用》 (後述) が重要 であると考える‐ 科学の ”科学する” 行為の科学への “埋め込み” で, “科学する” を含み こんだところに広義の 1 4 ) こだわりへの “こだわり” においては 意味が問い 直されると 意味での “科学” が存在する( . , いう形で自然観が現れる. “自己” に基 づくならば, 自己の “他者への認識過程” そのものの他者 への埋め込みということになろう. (γ: [5] に対応) 教材の上に構成しようとしている対象 (ここでは歴史を有する自然の総体) そのものの内に, 構 成という行為そのものを自 己適用する様相も考える. 認識行為そのものの自然史的意昧や自 己認識としての目的論, 教育行為そのものの自然史的意 味 という課題があり, 自然観は, この自己への埋め込みにおいてまとめられる. αの段階の否定として, β を対置するという発想には問題がある‐ α とβとは, 本来の人間の科 学としては一体のものである‐ その分離的な現れとしてβを考えべきであろう‐ 分離されたα も, β も無内容である‐ また, γが欠けているところに学力論の問題点があると考える. 積極的には語られなかっ た 「社 会観・自然観」 こそ, 問われなければならないことがある‐ このためには目的論を含めた自然史へ の自己適用が必要 であると考える‐ 各々の様相につ いて, 補足的に説明を加えておく.. [3]. 教材構成の 《群構造》 に現れる自然観. ( 1 ) 科学教育における統ー的自然像・自然観 「観」 ・ 「像」 という言葉は様々な文脈 で使われているが 岩崎允胤・宮原将 平の両氏は自然像 , ないし世 界像を 「われわれは与えられた歴史的段階における自然ないし その主要な諸領域につ い , 15 ) ての科学的知識の総体によっ て得られる, ある統一的な形 像」 として理解 している( ‐ 「像」 というような体系的構成 は 「当該の対象領域に関する先行する科学的研究による一定の達 成を前提」 としており, 「人間の科学的認識の体系性が成立 する」 のは 「認識の対象領域のそれぞ れの統一性」 に根拠 づ けられている. それに対して 「自然についての一定の形像 (自然像) をも- - 含める自然についての見方, とらえ 方を意味するものとして・・自然観を考え る.」 ここでは 「自然 科学の発展は, それに則 した世界像 (自然像) の展開というかたちをとおして 世界観の豊富化を , 促 してきた」 し, 「科学的世界観は, 自然像をとおして自然科学的認識の発展のために 方法とし , 15 } て導きの糸としての役割を果たす」 ことになる( ‐ 科学教育にかかわ らせて 「観」 を組織していくことの重要性を論じたのは遠山啓氏で 「学問の発 展は単に知識の量的な増大だ けを意味す るのではない」 として, 「知識の広大な領域を一望のもと に見渡すことのできる高い視点が絶えず探求されている」 ことを強調 した. 遠山氏は 各個別科学 , 19.

(7) . 倉賀野 志 郎. ) 16 の内容に相当する 「学」 を学んだ後に 「観」 の領域を構想 したが, 具体化はさ れなかった( 田中一氏は遠山氏の構 想の具体的な展開として自然観に 「累層性と歴史性」 を, 「世界観と して の人類の可能性と真理論を教育内容に加え, これらと個々の教科内容 とが自然な流れの構成するこ とを示すこと」 を実践的に検討している‐ 「個別自然科学の学習の後に自然観という順序を通 った ) 17 クシ刺し方式ではなく, ほとんど同時に両者を要求するという事実」 もでてきている( . 本稿でも様相区分の最後 として位置づけるのではなく, 個々の様相における役割の異なる自然観 を評価したい. また, 田中一氏は 「統一的な自然の教育, 自然観に位置付けられた各学科の教育こ 17 )と提起しているが 統一的自然像 自然観 そが・ ・系統学習を完結させるのではないだろうか」( , , をつ ちかう教育内容・教材を組んでいく必要がある と思われる. 2 ( ) 「学力の実体」 の教材の 《群構造》 と しての現れ どのような統一的自然像・自然観を提出していくか, ということはカリキュラムの体系的構成の うちに具体化される. 統一的自然像・観を考えていく場合, 次の5つのレベ ルを区分することにな る.. ①客観的実在としての自然の 「統一性」 ②ある歴史的段階における人類の 「客体」 としての自然の 「統一性」 ) ③各個別自然科学の論理構造の 「体系的構成」 (諸科学の 「統一性」 ④教育内容構成における 「統一性」 (カリキュラムの全体構成) ⑤各々の単元の教材化・ 「授業書」 化, その 《群構造》 としての現れ ②~⑤のレベルは, ①の 「統一性」 に客観的根拠をもっ ている. また④・⑤で提出される 「統一 性」 は, ②・③によっ て歴史的限界性を有する. ④のレベ ルを問うことは, 自然像を媒介として, いかなる自然観を構成 しようとするのかを問うこととつながっ ており, ⑤はその④に規定されてお り, ④の具体化としての 意味をもっ ている‐ 最終的には⑤の レベ ルで実現されなければ科学教育学 としては机上の空論にすぎなくなる. 各々の教材のまとまりを懇意的に構想する ならば, 現象的・表面 的な特徴のみでまとめられるこ ととなる. 教材等の 《群構造》 が, あらたな教材を構想する視点となり, 教材の生産性を獲得する ことまで考えるとするならば, 少なくとも次の4つの条件 を有するものであると考える二 ①自然の構造が, 教材の 《群構造》 の内に反映されていること. ・. ②自然への設定視角が明確であり, より広範囲な現象を体系的・統一的に整理するこ と. ③その反映として教材等が全体 として群をなし, 中核に位置づく教材が明確である.. ④自然の群視点への繰り込み領域が設定され, 他分野・他領域の教材構成に対する仮説的だが生 産的視点を提供する. (教材の生産性) 鈴木秀一氏は 「学力のおおもとの尺度 となる科学的な教育内容体系構築の試み」 の 「動きは, 学 力論から言え ば, 学力の実体を明らかにする努力・追及であ ったと言い得る」 し, 「主要概念の論 理構造がはっ きりと順序 づ けられた教育内容体系とな ってい れば, それは学力の到達の程度 をみる 8 )と述べている おおもととの尺度と成り得る」 ( . これは 「学力の実体」 論段階とも言い得るものであろう. (学力の実体規定 を位置づけるな らば 8 )の段階も考えられる が省略する ) 基礎学力等の現象規定( ‐ 他方, 佐伯群氏は既存の体系の教授: 「これらすべて “学力” は誰かが “作り上げるもの” 」 に 20.

(8) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. 由来する考え方で, 「結局の所, 学校側で設定した知識や技能をうまく注入することにすべてを注 18 )と して い る い で き た の で あ る」( .. しかし, 教授内容の体系の伝承・発展を ”注 入” として否定的に考察するならば, 人類の今ま で の獲得してきた知識・技能を分析する視点を失う こととなる. 既存体系との切り結ぶことによっ て しか, 学ぶべき教育内容・教材へと結実して行くことはない. また, 教材の 《群構造》 に自然観を 読み取ったように, その知識への問い直しを内包しているのである‐ 個々の教材に限定されてのこ とではあるが, 自然像を介しての自然観そのものが問われていることともなる. ( } 教材の 《群構造》 の一例 3 教材の 《群構造》 の具体例をいく つ か列記しておこう. 詳しく は他で参照されたい‐ ①力学・電磁気学・熱力学の3つ の領域の教材を, 《層子・相互作用の質的発展と階層間の相互 移行》として統一的に把握したものを挙げることができる(層子とは, 階層を代表する粒子一般)‐. 力学・電磁気学・熱力学の物理三領域の 「授業書」 化を北海道大学・教育学部の高村泰雄氏を中 心としてグループとして手がけ, その教材化の過程の中で, それらの三領域を上述の観点で構造的 19 ) この3領域の 「授業書」 は 『物理教授法の研究』 (高村 に整理できそうなことが見えてきた( ‐ 泰雄編著. 北大図書刊行会 1987年) として出版されている. 例えば, 電流の三大作用 といわれている発熱作用, 化学作用 (電気分解) , 磁気作用について, こ の 《層子・相互作用論と階層間移行》 という 視点から分析すると次のようになる‐. 電磁的相互作用 は, まず相互作用一般とのかかわりをもっ ている. その力学一般とのかかわりが エネルギーを媒介して, 熱として現れたものが発熱作用であると捉えることができる. 次の磁気作 用 は電磁的相互作用そのものの特質でもあり, その相対論効果としての現れである‐ また, この電 18 ) 磁的相互作用 は,そのより複雑な発現形態である化学結合とも関係 しているということになる( ‐ 「自然の歴史性と階層性を統一するという立場」 からの主系列 (無機的自然) の累層全体の特質 を 《相互作用の質的発展と階層性の相互移行》 という 視点でとらえることができるとすれば,「高等 19 ) 学校物理教育の体系をなす授業書群もこの視点 で構造化する必要があろう.」( ②池内了氏は自然の階層構造に基づいて「私たちが知っ ている安定な物質階層の数は有限である」 20 ) として, とりわけ密度に着目して 『3つの構造系列』 に整理 している( . r 今までの 「層子・相互作用」 に対応させるならば, 「層子」 に対応する 「層密度」 が存在するわ けである‐ 3つ だけに限定されるかどうかは不明である. また, 操作的に密度を規定するの ではな く層子と隙間という考え に基 づくべきで, さらに原子核密度と隙間に着目すると統一的に把握 して いくこともできる. ③同様にして圧力の一般化もまた可能であると考える.圧力は,この 「層子」 間の相互作用によっ てつくり出されているもの であり, その変動の伝播は “圧力波” とな っ て伝わる‐ 「層子」 の圧力 として一般化すると, 圧力にも階層性があることがわかる. この場合, その 「層子」 間相互作用の 発現形態によっ て圧力の現れ方が異なることにもなる. この典型教材として仮説実験授業研究会の 21 ) このように考えていくと 気圧・水圧・電圧・ 授業書 《ばねと力》 をあげることができよう( ‐ , 物体の弾性等は「層子/相互作用」によっ て生じる圧力として統一的に考察していくことができる‐ ④また3つの系列の累層構造的見方に位置づ けられるものとしては 「人間と自然との 社会的物質 代謝』 の現段階にかかわる 「生」 と 「性」 の課題とをあげることが できる. 人間としての “生” が社会的であることは当然であるとしても, その “生” が他方 でヒト・生物 進化の産物 (2次系列) である ばかり でなく, 物質代謝そのものの化学的基礎のみならず非線形非 21.

(9) . 倉賀野 志 郎. 平衡熱力学に基礎 が存在 している。 また, 人間の構成原子・分子そのものが宇宙の歴史の反映で も あ る.. .. 人間と自然との社会的物質代謝の分析を行う場合, 3つの累層構造を踏まえたうえで, どの累層 ・局面に基 づいて考察しているのかの限定が必要であろう. いわゆる “環境教育ヤ についても, こ ) 22 の視点から考察する必要がある( . ⑤ 「性」 についても同様に累層構造的に考察する必要がある と考えている. 現行の 「性教育」 は 性情報の氾濫の中での対応に局限されていないだろうか. 「生」 と同様に 「性」 についても, 生物 としてのヒト, 情報としての 「性」 という視点も有り得るし, その累層構造を反映した 上 で “人間 の性” が構成されている‐ 遣伝情報・分子生物学的な 「性」 , 生物個体としての 「性」 の営み・戦 略, 人間にかかわ っ てはとりわけ社会的な 「性」 , これらの累層構造の中でひとりの 人間・ヒトの “ ” 「性」 が, 今の 我々 の中に重層的に含まれているわけである‐ 累層構造から考察 した 「性」 につ いての教育は, さ らに情報の自然史 (無機的自然段階, 無機から有機への質的転化, コミ ュニケ- ショ ンの意味) へともつながる課題を有しているだろう. この視点は, 生殖とは切り離してそもそ も 「性」 が何故に一見不合理とも思えるにもかからわず獲得したのかという課題にもつながっ てい ) 23 く こ と と 思 わ れ る( .. [4]. こ だわ る こ と そ の も の へ の “こ だ わ り”. 1 ( ) 構成を組み込んだ教材を科学への ”反作用” から考える 鈴木氏は 「教える内容になんらかの体系性, 系統性を持た せるためには, その内容の構造と, そ の内容に働きかける学習主体の働きかけ方を分析的に明らかにする分析概念がなければならない」 として, 歴史教育に限定してのことではあるが, 「形成される学力に, 情報・知識 だけでなく, 情 7 ) 報や知識を獲得・構成・表現する方法・技能を含めて考えるべき である」 ことを強調 している( . また, 「一定の…事実に関する情報から, それらをつ らぬいて働いている因果関係や…諸事象の相 互関係, それを通して窺 (うかが) い知られる法則性を研究的に, つまり研究方法を用いて追及す るような授業, 生徒にとっ ても教師にとっ ても “研究” であるような授業をつくり だすことが, 現 8 )ともしている 在の…授業づくりの課題なのである」( . ここでは従前の学力論に新 たな位相を含む授業づくりの課題が存在していることとなる. 佐伯氏も 「私たちが無意識の内にとりこにな っ てしまっ ている… “隠れた前提” を掘り起こし, …教師側のひとりよがりな “学校” という特殊な文化の枠組みに閉じこもったものであっ たかを徹 18 ) 底的に反省しておくことこそ, 今日最も必要なことではない だろうか.」 と提起している( 鈴木氏は 「学力という一括した言い方を止めて, ①テス ト学力, ②協力学力, ③探求学力 と学力 を3つに分けて」 上で, とりわけ 「自分で問題を発見し, その解決 に情報を集め, 解決へのアイ デ アやひらめきをあたため, 確かめ, 仮説に練り上げ, やっ てみては仮説を修正し, 工夫を重ねて課 題解決にまで至り, さらに新しい問題を発見する, というように探求が続くこと」 を含む 「探求学 24 ) 力」 の重要性を指摘 している( . しかし, 俗に言う, 追及の科学, なぜを問い続ける, 論理性を探求する, 必然性を模索するとい う形で納得の背後を探るという形で, こだわることそのものへ “こだわる” ためには, ①教材の論理そのものに対する《反作用》を含んでいない過程の重視は本物にはならないと考える‐ ②また, ここでは可能的に 《反作用》 (その現実化は別として) を内包する視点として自然観が問 22.

(10) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. 25 ) われ, その教材としての展開が問われてこそ意味を有するものであると考え る( . 科学の論理構造の吟味からはじま っ て教育内容構成, 教材・授業書構成, 授業実践へ進むという. 流れは一方的なもの ではなく授業実践にかけることによっ て, 再び 「授業書」 から教育内容, 科学 / そのものの再吟味へとフィ ー ド・バックする 《サイクル》 としても見 ていく ことができる‐ こ の 《サイクル》 は基本として, 科学教育の目標にかかわる 「すべての子 どもに 質の高い科学 , 26 )を作成していく ことに主 的認識を, ベテラ ンの教師でなくても理解させられるような授業書」 〔 眼があることは当然である. しかし, このような 《サイクル》 は, 科学論および認識過程論そのも のの科学教育を媒介とする実践的検討とも考えていくことができる‐ この両者の連関の必然性を措 定していく ことを考えるためには, “科学十教育” の “+” という論理そのものが検討されなけれ ばな らないと考える. “+” という論理におい てしめされる科学も教育も相互に外在的なものとし て設定されており, しかる後に合わせる, というものになっ ている‐ 「教育内容の構造は, 現代科学の構造を “すべての子どもに理解可能な順序” という原理で再構 成したもの」 で, そこで叙述される科学の構造は 「子 どもの認識過 程の法則性をくくりぬけ」 てい 25 ) 全 過 程 を 《サイクル》 として見る時 この “く ぐりぬけ” は 《反作用》 として 「現代科学 る( ‐ , 26 ) の構造をとらえなおす新しい視点を与える」 という一面をもっている( ‐ この《反作用》を含んだ過 程は, 科学そのものの定立におい て含まれるものだが, この過程を 「科 学教育」 の前述の 《サイクル》 と重ね合わせていく‐ このような視点からみるならば 《サイクル》 は, 科学そのものがもつ 過程の ”位相” をずらした ものと考え ていけるのではないだろうか. “位相” のずれは, 科学そのものが内的にもつ過程 が ,. 他者を媒介 (教授客体の認識をくくりぬける教授という行為) とすることによっ て外的に展開され て い る こ と に よ っ て 生 じる こ と に な る. こ の よ う に 考 え る と “科 学 十 教 育” の “+” は, 本 来 ひ と. つの内 的な過程があっ たものが外的に展 開されることによっ て生じるたもの であると見ていくこと ができる. 科学教育学の最終目標は, 外的に展開されたものを媒介としつつ も, 教授客体に内化された過程 の育成を目ざしているもの であり, 矛盾した性格をそこではもっ ている‐ 鈴木秀一・太田邦郎の両 氏は 「すべての子どもの理解 可能な順序構造で教育内容を構成し, カリキュラムとして仕上げるこ とは, 科学の体系的構成の叙述のひとつ のあり方とさえ, 考えてもよいかも知れない」 と述べてい 27 ) るが, このようなことも今までの文脈でとらえ ていくことができよう( ‐ 《反作用》 は現実的に起きるかどうかは別として, それを可能的に内包しているかどうかが重要 であると考える. 個別科学者においては対象への働きかけとして現れるが, 教授においては他者の 納得・不納得を媒介するという教授行為による 《反作用》 の可能性が重要となる‐ 科学的概念等の再検討は, 個別の専門研究に委ね られることであろうが, “研究的” でもある教 材構成を背景とする ことによっ て “研究的” でもある学力形成の土壌を形成するのであっ て さも , なければ形式的な自己に反作用することのない 「研究」 を強いるにす ぎなくなる K‐Marxは 『経 ‐ 済学・哲学手稿』 の “貨幣” において 「もし君が他の人間たちのうえ に影響を及ぼそうと思う のな ら, 君は他の人間たちのうえ に本当に刺激的促進的に働きかけるような人間であらねばな らない」 という部分がある‐ 《反作用》 は, その担い手としての現れ において 教授者と学習者として現れ , るのであるが, その一体性は, この側面においても現れている. 教師自らの “手” の中で, 教材の論理構造そのもの不問に付した形 で, 誤謬としての子 どもの認. 識過程を配慮したり, 分かりやすく実験・教具等を配慮したり, 考慮することは, 結果として教材 を研究的に進めることそのものを含み込んだ形 での教材を生み出すことはできないと考える . 23.

(11) . 倉賀野 志 郎. 「 “学校” での教師の “問い” というのは, 教師がほんとうに “わからない” ので問うているの ではないということは子どもの目からも見え透いている‐つまり,教師はその “答え” を実は “知っ )ということに象徴 18 ている“ のに, あえて知らないかのような振りをして問うているのである」 ( されるように, 自己の知識を前提と しての, こどもへの “問い” の強制という黍離 を生み出すこと になる‐佐伯氏は「納得による, 文化的実践への参加」 を提起して, 「納得」 の プロセ スには, 「納 得しない」 ということを含んでおり 「人が “納得した” と思っ ているこ とこそ疑問視 して, 批判 し 18 ) て, 再吟味していくのが “知の営み” ではないか」 としている( ‐ “ 大 田 亮 氏 は Senseof Wonder (レイ チェ ル・カーソン) を大事に, として 「子ともの自我か ら発せ られる不思議がる感覚, 問い, “なぜ” かという こと, そのことが生きていないと, じつ は 分かち伝えはたちまちつ めこ みに転化する」 としているが, 「なぜこうなんだと, どういう関係で こうなん だと, こう問いかけ, 好奇心を深めていく と, これが知性と して, 社会科学や自然科学の 28 } 方 につ な が っ て い く」 こ と と も な る( .. 可能的に 《反作用》 を内包 した教材が, 現実化する と体系性としての 《群構造》 の一部に組み込 まれていくこことなる. ( 2 ) 探求過程そのものの組み込んだ教材 佐伯氏は 「教材」 の 「人工性」 を指摘 しているが, その人工性なるが故の問題ではなく, その教 材への問いを含む人工の配置形態上の問題 として設定すべきであろう. 教材構成の検討過程をも含み込んだ “研究” でもあるような教育内容・教材の事例は, 社会科領 域よりも, 自然科学領域の方が多いと考えている. 成果として形成された教材そのものに基づいて 授業を構成することも可能であうが, その形成過程そのもの を教材として組み込むことは, より広 義な意味での科学そのものの営みを組み込んでの教材構成となること となる. これは教材の対象 と している事例へのこだわりそのものへの “こだわり” を含む教材という言い方ができる. いく つ かの事例をあげておこう.. ①矛盾点・問題点より探る (現代科学の課題) 例え ば, 今はやりの性教育を例にとっ て考察 してみよう. 性教育元年 と叫ばれている中で, 学校教育に限られての性教育は性器教育 (とりわ け外性器) , 性交を扱うかいなかをめぐっ ての論議に終始さ れがちではないだろうか. 大人は知っ ている上で, どこまで教えるべきかの性教育観では, そこまで教えなくても週刊 誌等で自然と分かって行く とい う常識的観念に対抗する ことはできない. ここで前提とされていることは, 大人は既知の上での 教 育観である‐ しかし, 性を扱う進化生態学の分野でも, 生物が何故にも 「性」 を獲得しているのか, その存在 の必然性がよく分かっ ておらず, おそらく性と進化とが深い関係があることは予測はされるものの その根幹にあたる部分は不明なのである. このことを前提 とした上での 『性教育』 (既存 と区分す る意味で自然史から見た性教育としている) を構想するならば, その教材としての展開は大きく異 な っていく こととなる. 別の機会に論じたいが, 生物の ”カオス的進イビ という視点からすると, 性はカオス (その本質は自己適用) と密接に関係 しており, オスはメ スの “ゲーデル的鏡” として 29 ) このような視点から見た 環境探査という機能を有しているのではないかとも予測している( , . 例え ばオ スと, その役割を探求する教材では多くの事例にあたりながら, 必然性を探るという性格 をもつこ とになる. ②必然性の “納得” より探る (より深いレベルでの “不納得” につながる: 認識論の課題) 24.

(12) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考える. 釧路校の教育方 法学研究室で作成してきた教材の中では, 植物が緑色である必然性 を問うという 形での教材構成もある. もともとは, この課題に “解答” を求めるために検討していたものである が, その過程そのものを教材へと投影したものである‐ 葉緑素があるからという “解答” は, その 必然性を “納得“ させるものではない. 何故に植物は緑なのか?その過程ではいろいろな仮説も設定 してみた. 例えば [不必要説] :太 陽光線には,そもそも緑がなかっ た.もしく は少なくとも緑 がない環境状態であった(海の中など) , [積極的排除説] : いや, その反対に緑は環境に多すぎ, それはカッ トした方がよかっ た. [消極 的不要説] :いや, あるのな らば使 っ てもよ かっ たのだが使いようにも使えず器官が発達しなかっ た, [惰性説] : その昔はその状態にあったが今は必要はないが惰性で行っ ている‐ もしくは今で も積極的な意味がある, 等々‐ いろいろと検討したが最終的な決め手となるものは不明である‐ し かし, その検討過程は, 海草にこそ緑への道のヒントがあるだろうでもすまず生命の起源にまでい ) 1 かなければならなくなることを含んでいる( ‐. ⑧進化等を創造 (想像?) してみる (自然進化史の課題:過去のみならず未来も含む) C 血液循環の歴史を扱うi ・臓につ いての教材は, その中でもうまくいっ た方といえる{D. い ろ い ろと考えて, 魚が陸にあがり進化する となれば肺はどのように接続していけば合理的なのかと考え て構想し, 専門書にあた っ て見る と, 意外にもほぼ妥当していたことに驚きと共に, 生物進化の合 理性を再認識 したことがある. 教材では, “魚類のエラ・心臓 を前提として, 陸にあがりもっ と効率よく血管をつな ぎ変えて行 くと” という発想から考えていくという教材構 成をとっ ている‐ 教材上の 《発問》 では両生類の血 液循環を予想してみよう, として 「心臓をもっ と強くすればいいようですが, あまり強くすると心 臓を動かすだけで疲れてしまい, 動くことができなく なります‐ また, 肺では血管は大変細い毛細 血管に分かれているため, 血液は通りにくく, 循環の大きな “さまたげ” なのです‐ さて, あなた 1 ) な らどう しますか. 」 という展開となっ ている( - その結果と事実との差異は,細かく は資料等で扱われていけばすむことだろうが,ここでは, “も しやっ てみよう” として考えること自体を目的としたものである‐ そのステ ッ プを抜かした形 で知 識としての資料だけが与えられてしまうの だとしたら, その場限りでは知識が得られても, すぐに 剥落してしまうのではないかと考えている. ④科学史上の “誤謬” に学ぶ 教師自らが課題意識を有して, それを見直さなければ, 課題の引き回 しにすぎない. 大人は知っ たつもりでいる分野の法則等の教材としての展開は, 多くの分野に存在 している. 一例だが, 小学. 校・高学年段階で電流の磁気作用を中心とする教材が教科書で組まれているが, 電気と磁気との相 互転化という不思議さそのものが, まずは課題にするべきであると考えている. このような場合, 実験結果としては ”成功” せずとも, M‐Faradayがかつ て予測 したような電気・重力の相互転 化を模索する教材等が早い段階で組まれるべきであろう. 各々の力の相互転化と, 統一性の模索す ることの方が, 電気・磁気の関係の法則としての “知識” よりもはるかに重要な課題を内包してい 30 ) る は ず で あ る( .. [5]. 教材を構成する行為そのものを自然史に中に埋め込む. まず最初に 「基本的な内容と方法を獲得 していくなかで, 子どもたちは自らの歴史像・自然像を 25.

(13) . 倉賀野 志 郎. 形成 し, 統一的な “観” を形成しうる道をつくり出すことが研究と実践のもっ とも重要な課題とし 8 )ことを再確認したい てある」 ( . “ 前述の こだわり” にかかわれば, こだわりに “こだわる” という教材展開に加えて, その構成 そのものの意味にもこだわりたいというのが, ここでの問題意 識である. これは [2] での 『基礎 論』 と称しての問題意識とつながっ ている. 像に対する世界観 (自然観, 社会観を含む) 教育という問題も目的論同様に世界像にたいして懇 意的に論議しても, いかほどの “観念” をも対置させることかできる. このような窓意性故に, そ もそもそのような “観念” そのものの教授を放棄すべきという議論 もありえようが, 問題は不問に 付すことによっ てはなくな らない.その問題を論議すべき手だてがなくなるにすきず,結果的に”観” そのものが意識化されず, あいまいなまま で混入することとなる‐ ①まず, 科学教育目的論の場合には, 目的設定そのものも自然の構造に基づく, 自然進化史上に おける 課題に即 して吟味されるべきと考える. ②その上で「系列」 (無機:主系列・生物:2次系列・社会 :3次としている) の “生成の課題” を提起したことがある. 目的論を, 全自然の構造をそのものを空 間的・時間的に論じていくことか ら考察する. いわゆる環境教育も自然進化史から考察していく必要があるだろう. 田中一氏は生物 社会が数十億年にわたっ て維持され続けた “秘密” として物質循環が考察され, 無機ではなく, 有. 機的な物質循環に基づく文明を確立する必要性が, 現在の課題を解決する一つの方法として提起し ている. このような課題は生命の起源と様相を 同じく していると考えられる‐ 人間の歴史が “自己 の生成課題” を問いつつ あるとするならば, “環境問題” は, 人間と自然との社会的物質 代謝コン ) (高村泰雄1 31 トロールという他者問題 ではなく, 本当は 『自己認識問題』 { 989年) であろう. ③また 「認識」 そのものの自然史的背景を問う必 要もあると考える‐ 『認識形成論』 は, 認識行 為成立の根拠の自然史的意味を 問う. 自然から生成されたものが, 自然そのものを認識するという. 意味におい て, 認識行為は自己反省ともいえ る. ④さ らに科学教育の自然史的意 味を考える課題もある. 自己認識に基づいて, 認識内容/認識行 為と教育行為との関連を考察するならば, それらの相互外在性は克服されるべき課題となろう‐ こ こにはただ “一つ の科学” しか存在しないこととなる. “科学” に対する認識・教育という行為そ のものを “科学” の対象とする分野が生成しつつある と考えたい. “科学” についての教育が “科 学” の対象となり, その教育を内包する “科学” についての教育を語る時, 教育/科学を巡る 《サ イクル》 は閉じることとなる‐ ⑤認識の自然史における 形成や自己認識を前提とするならば, 教育行為は自己認識に基づく認識 内容による自己進化方向選択行 為としての意味をもつ. 自己認識する生命体は, 自己の進化方向の 意識的にコ ントロールすることを課題としつつ ある‐ このためには当面, 人間と自然との社会的物 質代謝の安定的生成という課題を克 服しておかなければならない. この場合, 安定的生成と, 発展 点展開とは質的に区分される. 科学教育における ”観” の問題を論議するためには, 教材の構成に限定しても, その構成行為そ のものの意味を, 対象としている自然史そのものの内に一旦 “埋め込んで” 考察する必要があるの ではないだろう か.科学教育という行為そのものを認識内容としての“科学” の内に “埋め込み”, その “科学” につ いての教育を語ることは, 自己自身の課題を自らの内包することとな る. このよ うに “埋め込まれた” 自己そのものの教育を語る時, はじめて科学教育における ”観” の問題が論 議しうる土台を獲得するのではないだろうか. 学力を論ずる場合, ややもすれば “何を” に対応しやすいのであるが, ー般的に解決すべき課題 26.

(14) . 教材構成の “自己適用” から 「学力」 を考えろ. を設定するのみならず, “何故に (必然性)”, “どこに向かっ て (未来の開拓)” を前述のよう に “埋め込ん だ” 形で論ずる時期が来ているように思われる‐ 「科学」 そのものの人間にとっ ての 意味が問われるつつ ある今, 一方で非科学・超能力があつ かわれるメ ディ アと学校 “理禾字 が矛盾 なく共存している現状からして, 教材の構成という限定された分野からではあるが, 「新学力」 を 含めて, 学ぶ力のありかた を豊かにと らえる ため には, 原点 にま で戻 っ て考察する必要があろ ) 27 う( .. 《註》 ( 1 ) 倉賀野志郎編 『 “なぜ” にこだわる, おもしろ理科教材60』 ) 児島邦広 他 『新しい学力観と選択履修幅の拡大の実際』 2 ( ( 3 ) 有園格 “いまなぜ新しい学力観力 『新しい学力観 読本』. 3年 学事出版 199 教育出版 1992年. 3年 教育開発研究所 199 “ ” 993年 ) 平野朝久 教材研究のあり方とポイ ント 『新しい学力観 読本』 教育開発研究所 1 ( 4 ” “ 『 教育』 (特集 : 新学力観) 国土社 座談会:新学力のねらいと本質 ) 佐々木勝男 他 ( 5. 19 93年6月号 p.26 ) 三上勝夫 「新学力と教育実践のあり方」 ( 6. 北海道民間教育研究団体連絡協議会. 『民教』. 1993年 p.97. ) いわゆる藤岡信勝・鈴木秀一の両氏 と, 坂本忠芳氏との, いわゆる 「学力論争」 の資料として ( 7 は小林洋文氏の 『学力格差 :学力論工』 (白文社 1985年) にまとめて掲載してある. 『現代教育科学』 明治図書 19 91 ) 鈴木秀一 「学力 づくりと学力論の諸問題」 (1~12 ( 8 ) 99 2年3月 年4月 ~i ) 藤岡信勝 「 “わかる力” は学力か: 学力論をめ ぐる態度主義批判」 『現代教育科学』 ( 9 書 1 975年8月号 “学力とはなにか” 『能力と発達と学習 教育学入門1』 :. qの 勝田守-. 明治図. 国土社 1964年 P.72. ~73. 回. 菅野礼司. 「自然科学の完全性と不完全性」. 『日本の科学者: 宇宙と人間』 水曜社 1 993年. 6月 号 『みんな “星のかけら” なんだ』 日本書籍 i991年 991年 鰐 ) 倉賀野志郎 「科学教育の “基礎” を問う」 北海道大学教育学部紀要56号 1 『授業 づくりネ ッ トワーク』 回 二杉孝司 「 “文学する” ・ “科学する” (その4) 」 団. 佐治晴夫. 学事. 9 3年6月 号 出版 19 鰯 回. 岩崎允胤・宮原将平 「世界観・世界像 (自然像) と科学的認識の形成・発展におけるその役 『科学的認識の理論』 大月 書店 197 割」 6年 『教育』 197 遠山啓 「能力主義の克服をめざして」 277国土社 2年 6月 号 No .. 櫛. 「科学教育と世界観の教育」 2年 木書店 198. 側. 佐伯群. ◎. 高村泰雄. 田中-. 「学びの場としとの学校」 学出版会 1 992年. α の 池内了. 『講座. 現代教育学の理論』 2. 民主教育の課題. 『学校の再生をめざして』 (2 :教室の改革). 青. 東京大. 『物理教授法の探求』 北海道大学図書刊行会 1987年 『宇宙進化の構図』 (“自然界のなりたち” ) 大月 書店 1 989年 27.

(15) . 倉賀野. 郎. 「原子論ノー ト (下) 」 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第40巻 19 91年3月 「高等学校における環境教育の体系化に関する基本的枠組みの考察」 『教授学の探 求』 第8号 1990年. 例. 倉賀野志郎. 鑓. 丸山博. 岡 倉賀野志郎 帥. 志. 「自然史的視点から見た 《性》 教育構想」. 川 島書店 19 93年 “態度評価の学力論” どこが問題か』 『 鈴木秀一. 奥山例編. 『創る. 発達と教育』. 明治図書 1 993年. 「態度形成を最終的な教育目標にする考え方は知識内容を軽んずる態度主義になる(大槻健)」 と 「知識の獲得と態度形成を切り離せない」 (上田蕪) との見解の対立は 「虚構の対立なので はないでしょうか」. それぞれは 「科学の成果に立っ て一定の立場のイ デオ ロ ギーを批判する. ㈱. 態度を積極的 に形成すること」 と, 「知識の固定化や教える内容がまずありきとすることへの 批判があるだけ」 となる. 《反作用》 を内包しない構成は不十分さを免れえないでるあう. 認識という レベ ルに投影され た限りでの “構成” は “子ども達の自然認識” に対する知見を深めるが, 《反作用》 に対する 視点の有無に対応 して処理方法に差が現れる.・例え ばR.オ ズボーン 『子とも達はいかに科学 理論を構成するか』 (東洋館出版 1988年) 丸山博 「構成主義に基 づく科学的概念形成論 『教授学の探求』 第1 批判的検討:熱と温度の概念を中心 に」 0号 1 99 2年 “ ” “ また, そこまで含んでいないが, 追求 (例えば有田和正氏の 追求の鬼” ) を手法とし て活用する方法はありうるだろうが, その場合, 内容に対する 《反作用》 に弱点があることを の. 筋. 自覚しておく必要があろう. 「教授過程の基礎理論」. 高村泰雄. 『講座: 日本の教育6. 教育の過程と方法』. 新日本出. 版社 197 6年 師. 「現代教授学研究の課題」 1 「教育内容, 教材を決める具体的な観点 とはなにか」, 「カリキ ュラム論と教科教育論」 『現代教育科学』 19 82年1 1月 ~1 983年1 月号 鈴木秀一・太田邦郎. 「The Sense of Wonder(感応力) を大事に」 『子 どもと教育 : 特集 学力と授 業を問いなおす』1 992年7月号 あゆみ出版 『偶然とカオス』 岩波書店/ S A カウ フマン 「ダー 吃 の D.ルエール ”性の本当の意味” . ‐ “ ” 『日経サイ エンス』 1 ウィ ンを越える カオス進化論 」 991年1 0月号 筋 大野陽朗編 “重力と電気は統一される:フ ァラ ディ の重力・電気転換実験” 『異端の科学 回. 大田尭. 鋤. 史』 北海道大学図書刊行会 1979年 「環境科学とは, 人間生活圏の自然と人間・社会との相互作用における人間の自己認識の科学 である」 高村泰雄 「地球環境問題の本質と環境科学の課題」 5号 1993年札幌自然科学教育研究会編. 『札幌の自然科学教育』 第 (本 学 教 授. 28. 釧 路 校).

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基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として各時間帯別

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。